神樹

神 樹 -TREE OF HEAVEN-・・・
河村 健一・・・
・・・
「あの種子を植えてくれたのは、あなたですね…」・・・
男は、私の目を見ることもなくそう言った。伏せた目が、心なしか潤んでいるように見えた。咄嗟・・
には何のことか分からなかった。種子…。いったい種子がどうしたと言うんだ…。この男は、少し頭・・
がいかれているのか…。私は通勤の列を離れた。男も私に付いてきた。鮮やかな緑のジャケットが、・・
私の視線の隅にゆらゆら揺れた。どこかで見た色だ。私はその色を知ってる。そう思った。そして、・・
その影からは男の鋭い視線を感じた。私の目を見なかった男の鋭い視線が…。・・・
そんなバカな。あの種子のことを知っているのは自分だけだ。誰にも言ったことはない。老いた母・・
も、そのことは知らないはずだ。それなのになぜ、この男は…。人違いだろう。あれは、五十年も前・・
のことだ。知っている者がいるはずがない…。人違いだ…。私は知らぬ間に首を二度捻っていた。・・・
「あの種子は、立派に育ちました…」・・・
男が続けて言った。ジャケットの緑が、再び視線の中央に戻っていた。人の流れが、その色の向こ・・
うに移った。あでやかな緑が通勤の人たちのくすんだ色と対照的に、私の目の前を不思議な空間を・・
作っていた。男がモノトーンを背負い、古い映画の一場面を背負っていた。男だけが色を持ち、その・・
色が男の全体を隠していた。私は軽い目眩を覚えた。やはり、私は知っている。私はその緑を知って・・
いる。気のせいか、微かに樹皮の匂いがした。私が愛する、あの樹皮の匂いがした。・・・
そうだよ、あの種子は育ったよ…。私は、私のなかに話しかけていた。それは、私にとって唯一の・・
誇りだった。幼い頃の『あの日』よりただ生きているだけの私にとって、たった一つの生の証だった。・・
あの種子が育った。私はそれを支えに今まで生きている。『あの日』に消えてなくなっているはずの・・
私の生命は、そんなささやかな支えで十分なのだ。支えがある、私にはそれで十分なのだ。そうだよ、・・
あの種子は育ったよ…。・・・
駅のアナウンスが聞こえていた。広島駅は通勤の真っ直中なのだ。アナウンスも忙しげに響いてい・・
た。私の乗る快速が、駅に近づいているのだ。私は、そのアナウンスを聞きながら男の印象を追った。・・
私の誇りを思い続けているのには相応しくない場所だった。私は男を追った。意識のなかで緑のジャ・・
ケットを追った。その緑の色が、私の過去の記憶にあるはずだと思った。・・・
印象という欠片ひとつも、跡に残していかないような男に思えた。緑のジャケット以外は、男は影・・
のようだった。潤んでいた瞳も、既にその残像は消え去っていた。鋭い視線も形には見えない。男は、・・
その存在をあでやかなジャケットの色に恐縮しているようだった。広葉に隠れる日溜まりのようだっ・・
た。私は男の印象を追いながら、ふと、兄のことを考えていた。・・・
夜明け前に、珍しく死んだ兄の夢を見た。『あの日』に死んだ兄は、その夢のなかに空軍の軍服を・・
身に纏い現れた。私に軽く敬礼し微笑み続けていた。戦争は終わった。そう言って、微笑み続けてい・・
た。私は兄の所へ行きたかった。老いてその思いが増していた。私は死を憧れていたのだ。・・・
男の影が動いた。私は我に返った。私の平凡な朝が激しく軋んでいた。男の羽織った緑の広葉が、・・
私を覆い尽くしてしまいそうな思いに私は陥っていた。男の視線を感じ続けた。瞳の奥から小脳に続・・
く直線の、ちょうど中間あたりに熱い湯が注がれていくようだった。私のいつもの朝に突然現れた微・・
かな歪みが、私の脳裏に不規則な槌音を奏でていた。・・・
深い緑が視界に揺れた。男が私の目の前に立った。感じる視線の熱さが、脳天へと少しずつ移動し・・
た。それは、私の鼻先から旋毛の渦に沿って染み込んでいた。・・・
「一言、お礼が言いたくて…。あの種子は、立派に育ちました」・・・
その時、始めて男の声が私に感じられた。心持ち高い声だった。耳の上の方の鼓膜に優しく当たっ・・
た。声変わりする前の少年の響きだった。私に幼い頃の風が急に吹いた。子供の頃、自分もこんな声・・
をしていたと思う。その頃の自分の声を、その頃の自分の耳で聞いた声に似ていた。・・・
何と冷たい手なんだろう。男の手が異常に冷たく感じられた。私は『あの日』にもこのような冷た・・
い手を握ったことがある。氷のように冷たい手を…。・・・
「ありがとう…」・・・
男は私に右手を差し出した。私は男の出した手を握った。時の流れが前後を揺れていた。先に冷た・・
く感じた手が、今、私の手のなかにその感触を伝えた。私は、そのことを予知していたのだろうか…。・・
男の手の感触が私のなかを走った。背筋にその冷たさを届けた。・・・
「ありがとう…。この一言を言いたくて…」・・・
男は私に深く頭を下げた。その時、私の視界から男が消えた。手が放れたことすら、私は気付かな・・
かった。男はそのまま私の前から消えていた。男が背負っていたモノトーンと、古い映画の一場面だ・・
けがその場に残っていた。色あせた人の流れが私の意識に甦るまで、それほど時間は掛からなかった。・・
人の流れが、私の前をただ通り過ぎていた。あの樹皮の匂いはもうしなかった。・・・
・・・
それは、一分も経っていなかった。男が、私の時間を奪ったのは数十秒に過ぎなかった。その接触・・
は、私がいつもの快速に乗ることに何の影響も与えなかった。男は、私にいつもの快速に乗り遅れな・・
いように素早く消えたのだった。・・・
しかし、私は駅を走った。ホームを背に走った。男を追ったのだ。緑のジャケットを追ったのだ。・・
なぜか? よく分からなかった。ただ、男の言った種子のことが限りなく気になっていた。・・・
鮮やかなその色だけが、私に残った男の形だった。しかし、男の印象は私には幾つかあった。旋毛・・
に熱い視線。背負っていたモノトーン。少年の声。あの樹皮の匂い。冷たい手…。・・・
ふと、学校に電話を入れることを思った。私は郊外の高等学校の教師をしている。一時間目は自分・・
の授業はないのだが、早めに電話を入れておかないと…。少しだけ気になった。知らぬ間に、私は欠・・
勤の決意をしていた。・・・
男は駅を南に歩いていた。緑のジャケットが人の流れに逆らっていた。時折、男の肩が人混みに触・・
れるのか、男はよろけていた。その都度、私はひやりとした。なぜか、男があまりにも痩せて見えた。・・
緑のジャケットがよろける度に、男が冬枯れの細い樹に見えた。私には、男の羽織るジャケットが木・・
枯らしに枯れていく広葉を、夏の色のまま集めた上着のように思われてならなかった。限りなく人混・・
みに似つかわしくない姿だった。・・・
しかし、行き交う人たちは、その男の存在を認めていないようだった。あの鮮やかなジャケットも、・・
急ぐ歩みの目には留まらないようだった。私だけがその男を認めているような、不思議な思いだった。・・・
ありがとう…。あの種子は、立派に育ちました…。男の少年のような声が、私の意識のなかに何重・・
にも渦を巻いていた。私はそれを振り払おうとはしなかった。一歩進む度にその渦が波立った。私の・・
意識を無理矢理に過去へと誘った。あの種子へと誘った。・・・
不快ではなかった。いや、それどころかそれを楽しんでいる自分がいた。私は微笑んでいた。なぜ・・
か微笑んでいた。月に一度、あの種子を埋めた場所に行き微笑む笑みと、それは同じ笑みだった。月・・
に一度、必ず訪れる自分への誇りを人知れず微笑む笑みと同じ笑みだった。声が少し漏れたのかも知・・
れない。行き交う人が少し道を逸らした。一人で道を歩くにしては、その笑みは大きいのかも知れな・・
かった。私は隠した笑顔を道端に落とした。・・・
あの種子は、立派に育ちました…。そうだよ、私の種子は立派に育ったよ…。被爆した広島の街に、・・
私の種子は希望という光を育てたのだよ…。私の足どりは軽かった。自分の唯一の誇りが、私を今更・・
のように軽くしていた。私はその軽さに少し幼くなっていた。あの種子が芽を出した嬉しさの頃に、・・
私は戻っていた。・・・
しかし、なぜだろう…。幼さのなかに、その疑惑だけが私のなかから消えなかった。なぜ、あの種・・
子のことをあの男は知っているのだろうか…。あのことを知っているのは自分だけのはずなのに。私・・
は揺れていた。幼さと男への思いが交互に私を揺らしていた。なぜか心地よく、そして今まで感じた・・
ことのない戸惑いがあった。・・・
私のなかに何かが膨れていた。私の唯一の誇りである、私の種子が育ったということが私以外の者・・
に知られている。私の生きてきたなかで、ただ一つ、後へ残せるものが私以外の所で感謝されている。・・
しかも、その感謝が私に向かっている。種子が育ったことへの感謝の思いが、私の五十年も前の行い・・
に向かっていたのだ。希望の光を灯した種子を土に埋めたのは私なのだ。そして、あの種子は私の種・・
子だったのだ。私は、声に出してそう叫びたい衝動を堪えた。こんなこと、今まで一度としてなかっ・・
たことだった。・・・
私自身の存在の証が、人知れず喜ばれていた。そして、あの男はその原因が私にあると知っていた。・・
私は胸の高鳴りを感じた。微笑みに、もう一つ小さな微笑みが重なっていた。・・・
しかし、それは私の唯一の誇りを汚すものでもあった。私は、そのことを誰にも言わずにいた。そ・・
うしなければ、私の誇りが果てしなく色あせてしまう。あのことは、自分の胸にだけにあることなの・・
だ。そう、私の胸のなかの、『あの日』に死んでいった兄との思い出のなかにあるだけのことなのだ。・・
私は、重なっていく微笑みを無理矢理に口元へ押し込んだ。・・・
駅前大橋の上は風が強かった。十二月の広島の風は歩く人々の背を丸くしていた。猿猴川から吹き・・
上がる風が人々の歩みを早くしていた。人々はそんな風をすごしていく。すれ違う男女の息が白く私・・
の目に入る。その白さが、瞬間に柔い日差しに溶けていく。透明に一瞬だけ光り私の目を行きすぎた。・・・
男の歩みは変わらずに遅かった。この時間に、あの速度で歩くものはいない。私は男に近付きすぎ・・
てしまっていた。私自身、これ程ゆっくりと歩いたことが久しくなかった。いいものだった。・・・
橋を渡りきると男は立ち止まった。緑色のジャケットが日差しに更に鮮やかに見えた。やはり、広・・
葉の夏の色だった。幼い頃遊んだ比治山の色だった。私は男を急に身近に感じた。夏休みには森で昼・・
寝をした。あの男もそうなのだ。比治山で、あの男も昼寝をしたに違いない。どういう訳か、私はそ・・
う思った。ジャケットの色は、私に幼い頃の色だけを送り続けているような気がしてならなかった。・・・
男は振り返らなかった。しばらく、その場に佇み空を見上げていた。私のことなど、男の思いから・・
消えてしまっているのだろう。そう遠くない位置から私が男を眺め続けているのに、その気配すら背・・
中に感じていない様子だった。男の背中はすらっと伸びていた。空のどこか一点をじっと凝視してい・・
るようだった。・・・
それにしても不思議だった。私は、男の顔をまったくと言っていいほど憶えていなかった。顔を見・・
たのさえ定かでなかった。潤んだ瞳だけが、微かな記憶に仄かに揺れるだけだった。駅の色あせた人・・
の流れだけが脳裏に残り、その手前にいた男の姿がどうしても浮かび上がらない。男が、わざと私に・・
顔を記憶させなかったような気さえする。意図的に、男が私の思いのなかに入りたくなかったように・・
さえ思える。私は男の背を眺めながら、懸命にあの潤んだように見えた瞳の残り香を探した。・・・
男が再び歩き出した。駅前通りを稲荷町の方へと下っていった。・・・
・・・
「芽が出ている…」・・・
私は思わず声を漏らしていた。まさかと思っていた。そう、まさかと思ってこの場所まで来ていた。・・
私は目を疑っていた。種子を地面に埋めただけで、こんな芽が本当に出てくるとは思わなかった。私・・
は兄を思った。兄が生きていたならば、すぐに知らせてやりたかった。不意に出た涙が止まらなかっ・・
た。幼かった私は、その芽を夕日が沈むまで見ていた。・・・
それは、昭和二十一年の春のことだった。その芽は、私に生きることの勇気を与えてくれた。焼け・・
土から新しい生命が、私に生という尊い行いの意味を少しだけ教えてくれた。木の芽だった。それは、・・
草の芽ではなかった。まさしく大木の息吹きを内に秘めた木の芽だった。私の種子だった。兄にも・・
らった私の種子だった。その種子が『あの日』の悲劇を乗り越えて、空を見上げていた。すべてが焼・・
かれたこの街の、小さな希望を含んでいた。・・・
私たちの広島は、世界初の原子力爆弾によって破壊された。私の兄は、その日のうちに黄泉へと旅・・
だった。空太(そらた)。空が好きだった兄の名だ。まだ、国民学校の六年生だった。何の罪もない・・
兄を、あの『ピカドン』は私たちから奪った。兄の好きな大空に、もう一つの太陽『ピカドン』が、・・
炸裂したのだった。好きだった。大好きだった。二つ上の兄と私はいつもいた。兄は私によくしてく・・
れた。金魚の糞のような私をひとりぼっちにはしなかった。そう『あの日』も一緒にいるはずだった。・・・
『あの日』母と私は、爆心地より離れた位置にいた。母の用事に、私が付いて行ったのだと思う。疎・・
開先が見つかったようなことを母が言っていた。あまり、それ以上は思い出したくなかった。私は・・
『あの日』の悪夢を頭から振り払った。そして、兄の面影が揺れる緑の芽を懸命に眺めた。・・・
「芽が出たんじゃけん…。ぼくの種子が、育つんじゃ…。芽が出たんじゃけん…」・・・
その日の涙は生涯忘れることはないだろうと、私は幼心に感じていた。力強い緑色が私の涙を爽や・・
かに通り過ぎ、瞳の奥へ暖かさを運んでくれていた。心が沸騰しそうになり、息苦しさに肩を大きく・・
揺らしていた。緑色が、こんなに素敵な色だとは思わなかった。『あの日』以来、色という色は私の・・
なかではモノクロでしかなかった。比治山の緑も色あせてしまっていた。遠くの黄金山も緑がくすん・・
でしまっていた。私は脳裏にその色を刻んだ。強く強く刻んだ。額が激しい熱を帯びるまで、私はそ・・
の色を刻み込んだ。・・・
それだけが生きる糧だった。その緑の成長が私の力となった。昭和二十一年、春。終戦から八ヶ月・・
が過ぎようとしていた頃だった。あの芽に教えられた。あの芽が私に生きろと叫んでいた。芽の奥か・・
ら、兄の声が聞こえてくるようだった。・・・
「空にいちゃん…」・・・
幼い私は、それから毎日のようにその芽に会いに行った。死んだ兄がその中にいるような気がした。・・・
・・・
物思いに沈みすぎていたようだった。男の後ろ姿がかなり遠くなっていた。私は慌てて過去から・・
戻った。寒さを急に感じ私は肩に力を入れた。・・・
過去の記憶が、どういう訳か鮮明に浮かんだ。半世紀も前のことが、私のなかで新たにめくれてい・・
くようだった。こんなこと何十年来なかった。私は、どちらかというと『ピカドン』のことを思い出・・
すことに臆病だった。大人になってからは、そのことを無理に自分から消そうとさえしていた。多く・・
の人がそうであるように、あのような経験は、思い出すだけでも涙が自然と流れ落ちてしまう。辛く・・
て悲しすぎるのだ。私はそんな思いから逃げていた。戦争の映画ですら、私にとって『あの日』を思・・
い出す忌々しいものに過ぎなかった。私の過去は、私自身でさえ覗きたくないのだ。必ず『あの日』・・
に辿り着いてしまうから…。・・・
しかし、今は違った。男を追いながら、私はその心境の変化に気が付いていた。いつものような・・
忌々しさが、私のめくれていく過去のなかに影を小さくしていた。驚きであった。私が進化していく・・
ような妙な戸惑いが、私を包んでいた。出来るならばその流れに逆らいたくない自分を、私が見てい・・
た。そして、それが更に私の戸惑いを増長していた。・・・
緑のジャケットは、相変わらず私の前方にいい色を見せてくれていた。夏の色だ。私も兄も好き・・
だった幼い夏の色だった。私は益々軽くなった。透き通った冬の空気に、男の緑は何よりも私に早く・・
届いていた。いい色だ。私は、あの緑にもっと日差しが集まればと思った。・・・
稲荷町まで行くと路面電車と交差する。アスファルトの上の線路が日差しを跳ね返していた。キラ・・
キラと、光の欠片をいくつかの色にこぼしていた。男との距離は二十メートルぐらいだった。私は男・・
の距離を詰めた。私は、私の過去を受け入れようとしている。そんな思いが、私の軽くなった足どり・・
に絡み付いていた。・・・
不思議が、幾重にも重なっていた。なぜなのだ…。私は、果てしない臆病さを守り通してきたので・・
はなかったのか。過去への思いは、あの種子の思いだけでよかったのではないのか。兄への思いが充・・
満している、あの種子のことだけでよかったのではないのか…。私はそんな戸惑いに心地よく揺れて・・
いた。拒絶の意志が溶けた時、我々は軽くなるのだろうか…。なぜか、男のジャケットの鮮やかさが、・・
私の意識に何の違和感なく優しく流れていた。・・・
・・・
『あの日』私は母と一緒に兄を捜した。昭和二十年八月六日。暑い日だった。『ピカドン』は、私た・・
ちの街、広島に炸裂した。ウラニウムだった。名を、リトルボーイ。五トンの原爆だった。・・・
それは、私と兄が通っていた国民学校より約三百メートルしか離れていない場所で爆発した。中心・・
温度、約一万一千度。表面温度、約七千度。その半径、約百五十メートル。『ピカドン』は、広島に・・
突然現れたもう一つの太陽だった。太陽の表面温度は五千七百度。まさしく、もう一つの太陽が広島・・
に落ちてきたのだ。・・・
その火球から放出された熱線は、爆発点直下の地表の温度を一瞬にして三千度から四千度にまで上・・
げた。鉄の溶けるのが、千五百度だ。すなわち、爆発点直下周辺にいた人たちは、一瞬にして灰に・・
なったのだ。いや、溶けてなくなったのだ。すさまじい熱線だった。・・・
爆心地から離れていても、その熱線は人々に致命的な火傷を負わせた。その熱線を遮る遮蔽物がな・・
く露出した部分の人々の皮膚は、すべて例外なく焼けただれた。幾万という人々が焼かれた。赤く黒・・
く焼かれた。火傷がケロイドになり人々は死んでいった。・・・
更に、激しい爆風だった。強烈な衝撃波は、人々を吹っ飛ばしその内臓を破壊した。家屋を倒壊さ・・
せ、人々をその下敷きにした。熱線が人々を焼き、家々を焼いた。爆風が、それらを激しく飛ばした。・・
広島は一瞬にして炎に包まれた。・・・
そんな街を私は歩いた。母の手にしがみつき、果てしないと思われるほどの死体を縫うように歩い・・
た。兄は学校にいるはずだ。空太! 空太! 母が狂ったように叫んでいた。私も母にならっていた。・・
空にいちゃん! 何か叫んでいないと、本当に気が狂うと思った。・・・
とても、学校まで行けるような状態じゃなかった。私たちは、比治山の方から相生通りに向かって・・
いた。京橋川に数多くの死体が流れていた。京橋川は潮が満ちていた。しかし、そこにはいつものよ・・
うな海の匂いはしなかった。人が焼け焦げた匂いだろうか、すすけた匂いが鋭く鼻を突いた。行き交・・
う人たちのほとんどが、髪を真っ黒に焦がしていた。目が血走り、至る所に転がる死体を跨ぎ泣いて・・
いた。ひたすら家族の名を叫び続けている者、気が狂ってしまった者、呆然と立ち尽くす者、その場・・
に死んでいく者、地獄の光景がそこにあった。・・・
私たちは『ピカドン』が破裂したとき、比治山の裏手の段原という所にいた。『ピカドン』の熱線・・
は比治山に遮られ、私たちは被爆しなくてすんでいた。母は泣いていた。勿論私も泣いていた。自分・・
たちの住んでいた町がすべて燃えていた。自分たちと同じ街で暮らした人たちが、無数と思われる程・・
死んでいた。母は地獄だと言った。私もそう思っていた。・・・
相生通りに出ることは出来なかった。いや、方角すら分からなくなっていた。激しい火災が私たち・・
の行く手を拒み、人々の叫びが私たちの涙を激しくさせた。空太! 空太! そのなかで母は叫び続・・
けていた。その叫びは虚しく喧騒に消えていた。私の叫びもそうだった。しかし、私たちは叫び続け・・
た。母は私の手を強く握り、こう言った。・・・
「海斗! 兄さんは絶対に生きているからね!」・・・
その母の声は、幼かった私にすら虚しく聞こえたものだった。後で知ったことだが、その場所は稲・・
荷町あたりだった。その時に黒い雨が降った。私たちは稲荷町で黒い雨を浴びた。・・・
・・・
稲荷町の交差点で男は一度振り向いた。私の存在は男の頭にないようだった。視界に入っているは・・
ずの私に気が付いていないようだった。・・・
稲荷町。私が被爆した街だ。『あの日』黒い雨を浴びたところだ。私は、自らの過去が一つめくれ・・
ていく度に、私自身の戸惑いが少しだけ和らいでいくのを感じていた。黒い雨のことなど、ここ何年・・
と思い出したことはなかった。思い出したくなかったのだ。今のように鮮明に私の意識に甦ることは・・
なかった。やはり私は、私の過去を受け入れようしている。それを、拒絶していなかった。年をとっ・・
たのかも知れない…。いや、その言葉は少し前に使う言葉だ。私は、十分に年をとっていた。・・・
そう、私は老いた。私はこの冬を越したら、自らの生命を絶ってしまおうなどと考えていた。私を・・
求める者はもういなくなっていた。妻は私を必要としなくなって久しい。娘は来春嫁いでいく。病院・・
の母も長くないだろう。私の人生を閉じるのに、もう、それを私自身が決定していい頃なのだ。私は、・・
兄の逝った所へ早く行きたくなっていた。・・・
男がきっかけとなっていた。あの種子への思いが、私の閉じ行く人生に過去帰りをさせているのか・・
も知れなかった。男が私に礼を言った。私のなかで、あの種子のことが更に大きくなっていた。それ・・
が私に、私の過去を受け入れる更なる力となっていたようだ。・・・
私の唯一の誇りであるあの種子のことが、五十年経っても私のなかで色あせていなかったのだ。私・・
は、その種子を植えたときのことをもっと鮮明に記憶から甦らせたくなっていた。今まで、それはう・・
る憶えに過ぎなかった。私のなかで、どうしても『あの日』の悲劇が種子を植えた時のことを遮って・・
しまっていた。その時のことだけ思い出したかったのだが、それ以前の地獄の風景が、その時にまで・・
私を運んでくれなかったのだ。・・・
しかし今、あの芽が出たときのことを、私ははっきりと思い出した。今まで、微かな記憶でしかな・・
かった思いが男の後を追って、いや、男の言葉によって、私のなかに鮮明な形となった。「芽が出た・・
んじゃけん…。ぼくの種子が、育つんじゃ…。芽が出たんじゃけん…」幼かった私の声まで、はっき・・
りと聞き取れた。そして、更に黒い雨を思い出している。稲荷町まで母と歩いたことを思い出してい・・
る。私の記憶が一つずつ弾けていた。私の記憶が、あの種子を植えたときに戻っていく。私の意識に、・・
幼さの期待が膨れていた。・・・
男は、稲荷町の交差点を過ぎ更に南へと歩を進めた。少し日差しが強くなっていた。温度も上がっ・・
ているのだろう。男の足どりが心持ち早くなったように思えた。この辺りまで来ると、通勤の波はな・・
くなっていた。男は相変わらずふらふらとしていたが、それに当たる人はいなくなっていた。前方右・・
の京橋川の水面が、男越しにキラキラと私の視界をくすぐった。・・・
キラキラと光る水面が、その姿を大きくしていた。私は、男が駅前通りを比治山の方へ折れたのを・・
知った。水面の揺れに男が離れたのだ。水面の煌めきが大きくなったのは、男がその光景から左へと・・
はみ出たからだった。・・・
男が私の視界から離れたことで、私は改めて男を思った。身近に感じた男が更に近く思えていた。・・・
あの男も『あの日』を経験している。その時、私は漠然とそう思った。男の印象のなかには年齢を・・
思わせるようなものは一つも残っていなかったが、男のあの背は年老いたものだった。『あの日』を・・
経験していておかしくない背中だ。・・・
男の歩む足どりが心なしか重いのは、男も『あの日』のことを巡っているのではないのだろうか。・・
そう、私のように『あの日』を思い出しているのではないのだろうか。そして、男は『あの日』生き・・
ていたものを訊ねているのではないだろうか。この私も含め…。・・・
男と私を繋ぐものは、あの種子しかない。あの種子は育った。大木にと育った。男はそんな樹を見・・
るのではなかろうか。あの種子の樹と同じような、『あの日』を越え強く生きている樹に会いに行こ・・
うとしているのではないだろうか。私は、その思いが正しいような気がした。男の歩く先には被爆樹・・
があるのだ。『あの日』の生き証人がいるのだ。・・・
鶴見橋の麓には、被爆した柳がある。男は鶴見橋に歩いていた。被爆柳へと進んでいた。やはりそ・・
うなのだ。漠然と思ったことが、私のなかで形取ろうとしていた。男は『あの日』を巡りながら、被・・
爆樹の研究でもしているのかも知れない。・・・
被爆樹ではないけれど、私の種子も『あの日』を越えて大木と育っている。男が向かっていると私・・
が考える鶴見橋の柳のように、私の樹木も長い月日を乗り越え生きているのだ。男はそのことを知っ・・
ている。だから、私にあのような言葉を残したのだ。ありがとう…。私の種子に礼を言ったのだ。私・・
は男に視線を戻した。・・・
もう、あの鮮やかな緑のジャケットを遮るものはなくなっていた。人通りが途絶え、男の足どりが・・
更に少し早くなっていた。煌めく京橋川の水面も私の視界から消えていた。男の緑が私の意識を埋め・・
尽くし、背後のビルや空さえもモノクロと化していくようだった。吹く風にも慣れたのだろうか、男・・
はよろけることをしなくなっていた。鮮やかな緑が、私のなかで大きくなっていった。・・・
出来るならば、男に振り返って欲しいというような思いもあった。私は揺れていた。広島駅から、・・
私は揺れ続けていた。・・・
・・・
兄は簡単には見付けられなかった。紙屋町の辺りまで来たときには、もう日暮れが近くなっていた。・・
黒い雨はいつの間にか止んでいた。・・・
すべてのものが焼けていた。この辺りは爆心に近いことが、その時の私にも朧気に分かっていた。・・
木造の建物は一瞬で焼けたのだろう、既にその土地の地肌が私たちにも見えた。黒煙が視界のすべて・・
に重なり、燃えかすの瓦礫からオレンジ色の炎が果てしなく妖しく揺れていた。人々は、そんな黒と・・
赤の世界を前に後ろに歩いた。徐々にその黒と赤は色を濃くしていた。夜はこんな日でも訪れるのだ。・・
夜の訪れが恐ろしかった。恐怖に全身が小刻みに震えていた。国民学校が西に近くなっていた。・・・
「水を、水を下さい…」・・・
そんな時、女の人が私にそう言った。瓦礫に揺れるオレンジの炎からそう聞こえた。その人は瓦礫・・
にうつ伏せに倒れていた。懸命に頭を上げようとしていた。真っ黒に焦げた髪の毛がすべて逆立って・・
いた。その人は、幼い私に力の限り手を伸ばした。頭が上がり私を見た。焼けただれた顔は正視出来・・
なかった。それは、肉の塊だった。目の微かな光だけが嫌に白かった。・・・
「水を、水を下さい…」・・・
助からないことは私にも分かった。しかし、私はその人に水をあげたかった。どうせ死んでしまう・・
のだ。せめて水の一杯でも…。私はその人をただ見つめていた。・・・
私に流れる時が止まってしまったようだった。私は、その女の人をいつまでも見つめ続けていたよ・・
うに思う。着ていた服がすべて黒こげになっていた。火傷がその人の背中からお尻にまで達し、むき・・
出しの皮膚が腰の辺りで身より離れぶら下がっていた。・・・
「水を、水を下さい…。お願いします…」・・・
何と力のない声なんだろう…。私は、その人の出した手を握った。真っ白の目が、私を掴んで放さ・・
なかった。・・・
グシャ! 私の力でもそれは剥がれた。女の手が私の手から滑り落ちた。私は何かを掴んでいた。・・
それは、その人の皮膚だった。・・・
「ウワー!」・・・
私は叫んだ。恐怖にあらん限りの声で叫んだ。ゼリー状になった皮膚が、私の小さな手のひらにこ・・
びり付いていた。・・・
私は叫んだ。女の真っ白な目が、私の脳裏に突き刺さっていた。・・・
・・・
やはり、男は鶴見橋の柳の前に立った。柳の冬の色が男に覆い被さっている。男はその樹の側で動・・
かないでいた。時折、柳が風に揺れたが、男は足を地面に突っ張ったまま柳を見つめていた。・・・
老いた柳だった。男の背となぜかだぶった。私は男から少し離れて柳を見た。風に揺れる柳がどこ・・
となく哀れに思えた。私の記憶が正しければ、この柳はこんな姿をしていなかった。遠くからでも見・・
えたと思う。いや、目印になるほどの大木だったと思う。このような老いた柳ではなかったはずだ。・・
もっと力強く空へと伸びていたのではなかったか。私は記憶を手繰った。どこかで、この柳にまつわ・・
る話を聞いたことがあるように思った。・・・
その柳は、地上から一メートルほどの高さで九十度折れ曲がっていた。太い幹が若さの艶を失なっ・・
ていた。何カ所か、その幹を支えるポールがとりつけられており、杖を持った老女を思わせた。樹皮・・
が少し剥げていた。風に混じりその吐息が、溜息の枯れ葉の匂いを微かに京橋川の方へ運んでいるよ・・
うな気がした。樹は老いていた。・・・
男は、男の時が止まったようにいつまでもその場に突っ立ったままだった。小さく肩が上下し、老・・
いた柳の香りを自らに浴びているようだった。時折、頭がこくりと前に垂れた。男は柳に話しかけて・・
いるようだった。・・・
仄かな白い息が、冬の優しい日差しにまとわり付いていた。それは、男の耳元を白くかすめ乾いた・・
空気のなかに吸収されていた。どこかで雀が鳴いていた。少し耳に付いた。男の思考に邪魔にならな・・
ければよいが…。私は、そんな雀を疎ましく思った。・・・
この柳は、何年か前の夏の台風によってこのように曲がってしまったのだ。間違いない。被爆した・・
柳が台風にも耐えた…。そのようなニュースを思い出した。私はもう少しその柳に近付いた。男が感・・
じているだろうその柳の息吹きを、私も男と共に触れてみたくなった。私は意識を沈めた。風を香っ・・
た。樹を感じようとした。・・・
何カ所かのポールの支えが重そうだった。私もこのように支えが必要だった。この老いた柳が老い・・
る前に、私には既に支えが必要だった。そう、支えだ…。私には支えが必要だったのだ。『あの日』・・
から、私はその支えを杖に生きていた。小さな誇り。唯一の存在の証。生きていく上での糧。私には、・・
私の種子が育ったことが支えだった。・・・
哀れに見えた姿が自分と重なった。私も老いた。いったいどんな意味を持った人生だったのだろう・・
…。私は『あの日』を本当に乗り越えられたのだろうか…。私は、ただ生きていただけだったのだろ・・
うか…。おそらく、この柳は私より年老いている。しかし、この柳も『あの日』を乗り越えているの・・
だ。老いた柳が、私より遥かに力強く思えた。・・・
力無い者は朽ちていく。そう、朽ちていくのだ。私は朽ちていく。・・・
柳は朽ちてはいなかった。老いた姿ながら、その息吹きをこの空間に漂わせていた。存在の重さが・・
私にも伝わっていた。微かな樹皮の匂いが私に届いているのだ。老いた柳は、今も限りない力で生を・・
握りしめているのだ。腰が曲がろうが、樹皮が剥げようが、老いた柳は生きていた。風が冷たかろう・・
が、被爆した身や心が痛もうが、この柳は生きていた。・・・
私は、男のように動かなくなっていた。目を閉じていたのかも知れない。吹く風すら意識から消え・・
ていた。どれくらいの時間だっただろうか…。私は白くなっていた。白い状態になっていた。脳裏に・・
掛かる靄が、私の思考を完全に隠してくれていた。・・・
白い状態は、かなり長く続いたようだった。私に思考が戻ってきた。立ち続けていたので腰に少し・・
重さを感じたのだ。私に掛かる靄が晴れた。私は閉じていたのかも知れない目を開けた。同じ位置に・・
老いた柳があった。・・・
しかし、男は同じ位置にいなかった。男は折れ曲がった柳を、その先端へと移動していた。緑の・・
ジャケットが私を現実に素早く戻した。男は今までと同じ色を私に見せていた。・・・
男は柳の先で止まった。老いた柳は、その姿で遠くを指さしているようだった。先端が少しだけ上・・
に向き、老いてまだ、太陽の光りを求めているようだった。私はそれを目で追った。男はその先端を・・
しばらく見つめていた。・・・
男が、そのあと振り返るのが分かった。男と老いた柳との触れ合いが終了したのだ。男は、最後に・・
その柳の先端が指さす方角を見た。その方向の空を見て一人頷いた。そして、男もその方角を指さし・・
た。指さしながら、もう一度満足そうに大きく頷いた。何か小さく漏らしたようだった。微かに柔ら・・
かい声が聞こえたような気がした。・・・
私はきびすを返した。男の視線から隠れた。男はそのまま柳から離れていった。気付いているかも・・
知れないが、私の隠れた方へは一切視線を投げなかった。・・・
男が離れた。私もその場に立ってみた。その柳が指さす方を見てみた。男も指さした方を見てみた。・・・
「ウッ…」・・・
思わず声が漏れた。男が大きく頷いた理由が分かった。私も大きく頷いていた。・・・
老いた柳が指さしている方角は、まさしくあの『ピカドン』が瞬いた方角だった。私も指を指した。・・
そして、もう一度大きく頷いた。老いた柳が、風にゆるりと揺れていた。・・・
・・・
「この種子は、神樹という樹の種子なんじゃ。神様の樹なんじゃ。日赤病院の庭で拾ったけん、どっ・・
かに埋めるんじゃ…」・・・
不意に、兄の声が私の意識のなかに流れた。私は柳から離れた男を追い、そして、兄の声も追った。・・・
「海斗…。一つやるけん、お前も、どこかに植えろ…」・・・
兄の声が鮮明に甦っていた。嬉しくなった。懐かしさで一杯になっていた。涙が、私の単純な思考・・
回路にこぼれそうになっていた。海斗…。自分の名前がやけに新鮮に聞こえた。・・・
「海斗、その神樹ちゅう樹は、ものすげえ成長が早いんじゃ。神様のいる天にまで、こいつは駆け昇・・
るんそうじゃ…。おれはこの種子を学校に植えるんじゃ。おれが生きていた証じゃ」・・・
それは、小さな種子だった。深い緑にくすんだ茶色が混じっていた。一つ翼が付いていた。・・・
「こんな種子が、そんなになるの?」・・・
私の声まで聞こえた。私の思考回路は更に潤んだ。・・・
「おれは、名前が空太じゃけん、特効に入るんじゃ。アメリカのバカたれどもをやっつけちゃる。大・・
空を暴れまくってやるんじゃ…」・・・
兄はその種子を強く握っていた。戦火が広島にも押し寄せて来ていた。つい最近、呉に激しい爆撃・・
があったそうなのだ。兄は力んでいた。種子を握った手を振り上げていた。・・・
「いいか、海斗。その種子を植えろ。おれたちは、いつ死んでしまうか分からんけん、生きていたと・・
いう証に、その種子を植えろ…」・・・
いつもの兄と少し様子が違っていた。目が異常なほど光を帯びていた。兄は自分の生命の不安定さ・・
に、胸を高ぶらせていたのだった。私はそんな兄に恐れを感じていた。気の弱い私は、死ぬというこ・・
とが恐ろしくてたまらなかった。空襲があると、身体の震えが永遠に止まらないかと思われるほど震・・
えた。私は兄と違って果てしなく臆病だった。・・・
「海斗! お前は海軍に行け。戦艦で、アメリカを叩いちゃれ!」・・・
兄は両手を拡げた。翼が兄に生えた。私は果てしなく暗い気持ちに沈んだ。その時、警戒警報のサ・・
イレンが私たちの頭上に響きわたった。・・・
「アメリカを叩いちゃれ!」・・・
・・・
男は、相変わらず少しふらふらと歩いていた。その足どりは、平和大通りを西へ西へと向かってい・・
た。駅前通りを渡り、平和記念公園の方へと進んでいた。・・・
私はといえば、男との距離を保ちながら過去に揺れていた。どういう訳が、信じられないほど心地・・
よかった。拒み続けていた過去が私のかなに渦を描く度、私は白くなっていた。体が軽くなり、幼さ・・
を私の意識は本当に身近に感じていた。冷たい風すら、もっと私に吹けばよいとさえ思っていた。私・・
は私のなかに、私の過去が形を変えていなかったことを素直に喜んでいた。・・・
男の向かう場所が、再び予想出来た。男は、平和公園に向かうだろう…。公園には、三本の被爆ア・・
オギリが移植されている。たしか、当時の逓信局、今の中国郵政局に植わっていたはずのアオギリだ。・・
「廃虚から立ち直ったシンボル」として、広島に観光や修学旅行などで訪れる全国の人たちに見ても・・
らい、考えてもらうために移植したと聞いている。郵政局庁舎新築工事に伴う旧庁舎取り壊し工事の・・
ため、昭和四十八年に移植されているはずだ。私も当時、そんな話を学生に聞かせてやった。「廃虚・・
から立ち直ったシンボル」は、あの種子を植えた私にも思いの深い話だった。何度もその話を教室で・・
したのを憶えている。・・・
学校のことを、また一瞬だけ思い出した。私は、悪戯を見つかった子供のように肩をすくめた。通・・
りすがりの婦人が、それに振り向いていたようだった。・・・
男は、平和大橋を渡ろうとしていた。私はもう一度、男の素性を考えてみた。私の弾けていく過去・・
が、少し今は間をおいていた。・・・
男の素性を考える前に、私は、なぜその男がそんなに気になるのかを考えてみた。男を追う度に、・・
私の過去がめくれていくのだ。今まで固い殻を自ら被せていた私の過去が、あの男を追うことによっ・・
て次々と弾けていく。私はその理由を知りたくなっていた。・・・
その時、私の旋毛あたりに細かな電流が走った。駅で男の視線の熱さを感じたのと同じ位置だった。・・
私の脳裏に一つのことが浮かんだ。そんなはずはない…。私は、その思いを旋毛を振って消そうとし・・
た。・・・
兄が帰ってきたのではないか? あの男は? その思いは、すぐには消えなかった。私の過去がめ・・
くれていくのは、男に兄を感じていたのではないのだろうか…。私の閉じていた過去が一つずつ弾け・・
ていくのは、私があの男に感じる強い磁力のようなもののなかに、兄がいるのではないのだろうか…。・・
私は、思わぬ考えに少し立ち止まっていた。兄が帰ってきた…。それならば、駅からのことの辻褄が・・
合うように思った。・・・
そんなバカな。兄は死んだのだ。『あの日』に兄は死んだのだ。『ピカドン』に死んだのだ。私は、・・
私のなかに激しく揺れだした兄の面影を振り払おうとした。何度か首を振り頭のなかのものを混ぜた。・・・
男が平和大橋を渡りきったのが、私の乱れた意識に見えた。・・・
・・・
男の姿が見えなくなった。私は、兄の思いを一時放棄した。小走りに私も平和大橋を過ぎた。足下・・
の元安川は今日も静かな流れだった。水面の輝きだけを見れば、流れが止まっているように見えた。・・
少しだけ潮の匂いを感じた。いつもと同じ冬の一日だった。・・・
すぐに追いついた。男は、緑のジャケットを祈りの泉の手前に見せていた。私は少しほっとし、男・・
との距離を平和大通りを歩いていたときと同じに詰めた。慌てて詰めすぎないようにもした。なぜか、・・
男とのその隔たりが、私の心の落ち着かせる隔たりだった。・・・
祈りの泉の噴水が、男に細かな水滴を飛ばしていた。頬にでもそれが掛かったのか、男はポケット・・
からハンカチを取り出して拭いていた。そのハンカチは、遠目の私にも皺だらけに汚れているのが分・・
かった。男はそんなことお構いなしに頬をごしごしと拭っていた。・・・
また兄を思いだした。兄も、あの男と同じように手ぬぐいを丸めてポケットに入れていた。汚れて・・
いても全然平気だった。母によく叱られていた。私は、男の前方に走り出したい衝動を堪えていた。・・
男の顔を見てみたい。まさか、兄ではなかろうが、男の顔を見てみたかった。・・・
しかし、私は堪えた。正直に恐かった。私の心地よくめくれていく過去への揺れが、その男の顔を・・
見た途端にまったく消えてしまうと思った。せっかく私のなかで柔らかく溶け出している私の過去が、・・
再び今までのように、固い殻に覆われてしまうように思った。私は堪えた。葛藤というものが私にま・・
だあったことを知った。・・・
男が、平和記念資料館の渡り廊下の下を潜っていく。資料館には入らないようだ。男には必要ない・・
のだ。あの男も『あの日』を経験しているのだ。私は、自分自身の思いに納得していた。男が資料館・・
に寄らなかったことに、変な納得をしていた。雨の予想に傘を忘れなかったときのような、ほんの微・・
かな嬉しさがあった。・・・
汚れたハンカチは、ジャケットのポケットに収めたらしい。男の手に、それは見えなかった。男の・・
歩く頭上の渡り廊下が、男に影を落としていた。鮮やかな緑のジャケットが、その影のなかで始めて・・
くすんだ色で私に届いた。・・・
私は少し驚いた。男が小さく見えた。くすんだジャケットが、私にかえって男の大きさの判断を促・・
した。あの鮮やかなジャケットが、私に男を必要以上に大きく見せていたのだ。私は、男がその影を・・
通り過ぎるまで男の背を今までとは違う目で見た。やはり、男は先程よりも小さく見えた。あでやか・・
なジャケットの色が、私に変な色眼鏡を掛けさせていたことをその時知った。・・・
男のジャケットは、影を出てから素早く色を取り戻した。夏の広葉に男は再び包まれた。冬の日差・・
しが男に降り注いだ。・・・
私は今までの色眼鏡を外した。廻りがよく見えた。今まで男の背景はくすんでいた。私は男だけ見・・
ていたようだ。影で男の色が変わるまで、私は男の背だけを見ていたようだ。私は目を凝らした。男・・
の前方の空を見た。飛行機雲が一つ、その空を横切っていた。そのほかの雲は、男の果てには見えな・・
かった。空は深かった。・・・
いや、空だけではない。辺りの芝も生え茂っている樹木もはっきりと見えた。当たり前のことが、・・
ようやくのこと当たり前に見えた。私は、男の呪縛のようなものから抜けたようだ。相変わらずジャ・・
ケットの色は鮮やかだったが、私には少し別のように見えた。背景と妙に調和した緑が、更に鮮やか・・
に見えた。・・・
男は、峠三吉詩碑の方をちらっと見たようだった。にんげんをかえせ…。くずれぬへいわを、へい・・
わをかえせ…。原爆詩人の詩を、男は知っているのだろうか。私はそんな思いに捕らわれた。余計な・・
ことのようだった。男は、やはり被爆アオギリの前に立った。・・・
「おや…」・・・
私が、小さくこぼしたのだろうか、それとも男が…。私はその声を聞いた。男も私も、きっと首を・・
傾げていたに違いない。日溜まりをゆるりと歩いていた老人が、私たちの方へ寄ってきた。・・・
「一本は、病院に行っちょります…」・・・
老人はそれだけ言った。老人にしては艶のある大きな声だった。日差しが笑みに引き込まれそうな・・
深い皺だった。老人はそのまま何もなかったように私を過ぎていった。・・・
その時、男が微かにこちらを向いたのが見えた。男も聞いていた。小さな疑惑に答えてくれる老人・・
の声を聞いていた。わざとあの老人は、男にも聞こえるような大きな声で言ったのかも知れない。老・・
人は、男と私を連れに思ったのかも知れない。そんな気がした。・・・
被爆アオギリのことを思った。ここに植え替えられたアオギリは三本だったはずだ。今は二本しか・・
なかった。たぶん、後の一本は老人の言うように病院にいるのだろう。手当中なんだろう。私は「廃・・
虚から立ち直ったシンボル」の話を思った。・・・
被爆アオギリはこの場所に三本植え替えられた。中国郵政局には四本のアオギリが育っていたが、・・
そのうち一本は枯れてしまった。一緒に被爆したサクラ、カイズカイブキと共に枯れてしまったのだ。・・
樹々たちも『ピカドン』に生命を奪われたのだ。・・・
アオギリは、昭和八年郵政局落成時にその中庭に植えられた。サクラやカイズカイブキと共に植え・・
られた。そして、その十二年後に被爆した。『ピカドン』のすさまじいエネルギーに、爆心側の枝や・・
幹は瞬時に黒こげになったという。・・・
しかし、三本のアオギリは生き残った。力強く甦った。そして、昭和四十八年、今の位置に移植さ・・
れたのだ。広島の市民は、そのアオギリの姿にどれだけ勇気づけられたか分からない。被爆を乗り越・・
えて生き続けているアオギリに、市民たちは感激すら覚えた。私もその一人だ。私は、その話を聞い・・
たときすぐにそれを見に足を運んだ。アオギリの力強く踏ん張る姿に、私は涙を隠したものだった。・・・
男は、二本のそのアオギリの前に立ったままだった。それは、鶴見橋の柳の前と同じ姿だった。男・・
は、そのアオギリの息吹きを感じようとしているのだ。きっと、目を閉じているのではないだろうか。・・
私には、それが分かるような気がした。男の肩が微かに上下していた。・・・
そのアオギリにも、幾本かの丸太が支えとなって添えられていた。少し驚きだった。私の思いのな・・
かのアオギリには、このような人工的な支えはなかったはずなのだ。垂直に、斜めに、その丸太は、・・
アオギリをしかと支えていた。樹皮が所々剥げているようも見えた。老いていた。アオギリは老いて・・
いた。・・・
私には、そのアオギリが朽ちることを懸命に拒否しているかのように一瞬見えた。旺盛な生命力が、・・
その空間を私にまで届いたと思った。しかし、その思いはすぐに消えた。それは違うのだ。アオギリ・・
は朽ちる日を待っている。もう支えなどいらん…。そんな風に私に言っているようにも思えた。・・・
やはり、それは老いていた。私がこのアオギリを最後に見たのはいつだっただろうか。移植されて・・
から十数年は経っていただろう。あの時は、まだこの樹も若かったと思う。私が今感じたような老い・・
は、あの時感じなかったように思う。私が老いたのだろうか…。私はアオギリの老いを痛ましく感じ・・
ていた。支えというより、無理に立たせているような丸太の多さに余計哀れさを感じていた。・・・
私もこのように無理に立たされているのではないか。生きていくために、私は何かに無理矢理立た・・
されているのではないだろうか。私という存在の虚しさに、私は自分のなかに諦めが走るのを感じた。・・
私の人生が、この二本のアオギリに重なった。被爆し、生きている。死んでいるはずのものが、生き・・
延び老いていく。ただ、運良く生を続けているだけだった。『あの日』出来るならば、私は兄と入れ・・
違えていればよかった。兄ならば、もっと充実した人生を送ることだろう。そうなのだ、兄ならば私・・
のように無気力ではなかったことだろう…。私は大きく溜息を落とした。・・・
ふと、男のことを思った。あの男も無理に立っているのだろうか。何かに無理に支えられているの・・
だろうか…。私は男を見た。緑のジャケットが先程より少し大きく上下していた。しかし、男の背は・・
静かだった。その空気に溶けてしまいそうな静けさが男にあった。陽炎が幻を抱いているようだった。・・・
雀が、またどこかで鳴いていた。私は再び雀を疎ましく思った。・・・
・・・
また白くなっていた。霞が私の意識に濃く揺れていた。兄を思っていた。男の背中に兄を思ってい・・
た。・・・
「空にいちゃん…」・・・
小さく呟いてしまった。男と兄が重なる。やはり、兄が帰ってきたのだ。私は男に後ろから抱きつ・・
きたい衝動を堪えていた。先程私に目覚めた葛藤が、再び私を包んだ。私は思いを馳せた。『あの・・
日』の真実へ私を馳せた。・・・
私のあの種子を植えたのは、私しか知らないことだ。母と兄が側にいた。しかし、私はそのことを・・
誰にも言わなかった。母は泣いていた。兄はそんな母の手のなかにいた。黒く焼けただれていた。そ・・
うなのだ、兄は焼けただれていた。種子のことを知るはずがない。・・・
そうなのだ、兄が種子のことを知っているはずがない。いや、それよりも兄が私の目の前にいる訳・・
がない。兄は『あの日』死んだ。『ピカドン』に死んだ。・・・
なぜ、あの男があの種子のことを知っているのだ。あの時、私のあの行為を見ていたのだろうか。・・
私は懸命にあの時の記憶を手繰った。・・・
あの時、母と兄しか側にいなかったように思う。その時の記憶は、私のなかで果てしなく遮が掛・・
かっていた。どうしても思い出せないでいたのだ。しかし、その時にあの種子を土に埋めたのは憶え・・
ている。それは、間違いない。私の生きてきたなかで、唯一の誇れる行為だ。あの土の匂いをも憶え・・
ている。それだけは憶えている。私は泣きながら、その種子を土に埋めたのだ。・・・
その私の唯一の誇れる行為をした時のことは、その行為だけが私の記憶のなかにあるだけだった。・・
土にあの種子を埋めたことだけ、私の記憶に甦っていた。その時のことは、それ以外に私の記憶に昇・・
るのを拒否していた。今までどうしても、それは思い出せなかった。その時のことだけ、思いだそう・・
としていたからかも知れない。『あの日』を思い出したくない私には、それだけを思い出すことは都・・
合よすぎるものだったのだろう。私には、今までその時の記憶がどうしてもはっきり甦らなかった。・・・
その記憶がめくれるような気になっていた。あの男が、あの時私の側にいたのか。私のその行為を・・
見ていたのだろうか。私は更に白くなっていった。雀の声は、もう聞こえなかった。・・・
・・・
私は走った。女の真っ白な目が、力無くその瞼に隠れていくのが見えた。私は、私の手のなかの女・・
の肉を払った。何度も何度も強く払った。私は走った。一刻も早く、その女から離れたかった。手に・・
付いた女の皮膚は、何度払えど消えないように思えた。自分の手にこびり付き、その細胞が根付いて・・
しまうように思えた。・・・
「水を…。水をくれ…」・・・
それも、あの女の声のように聞こえた。私の走る両側で、そんな力のない声が断続的に聞こえてい・・
た。女が、走る私を追ってきている。私は気が狂いそうになっていた。いや、狂ってしまいたかった。・・
幼さに、これは夢でないことぐらい知っていた。地獄…。そう、地獄にいることを知っていた。私は・・
泣いていた。・・・
「水を…。水をくれ…」・・・
私にまで縋る者がいるのだ。信じられなかった。信じたくなかった。私に縋るのは止めてくれ。私・・
は子供なんだ! 子供に何が出来るのだ! 記憶を巡る私が、記憶のなかで叫んでいた。・・・
闇の中に、変わらずにオレンジの炎が揺れていた。ゆらゆらと歩く傷ついた人たちが幽霊に見えた。・・
オレンジの炎が頬に背に照り、闇がそれを覆っていた。大人も子供もなかった。立って歩いている者・・
はすべて幽霊に見えた。目だけが嫌に白く、闇の中にその表情が吸い込まれていた。死に行く人たち・・
は水を求め、倒れ行く人たちは家族を求めていた。・・・
どれだけ走ったのだろう。恐怖の私にも激しい疲れが襲った。水の中にいるように、足が動かなく・・
なっていた。私は我に返った。身体の疲れが、一瞬だけ私のなかから恐怖を取り除いた。私はその場・・
に腰を落とした。オレンジの幽霊が、幾体かそんな私の前を通り過ぎた。・・・
息が上がっていた。私は渇きを覚えた。母を捜した。母が水を汲んでくれないかと思った。・・・
「ウワー!」・・・
隠れていた恐怖が、すべて私に戻った。母が側にいないことに気が付いた。私のすべてが闇に埋も・・
れていた。全身が激しく震えた。背中が凍ったように冷たくなった。腰から下が動かなかった。私は・・
失禁していた。・・・
「ウワー!」・・・
その叫びすら、闇を濃くしていくようだった。どこまでも深い闇が、そのどこまでも深いところへ・・
私を運んでしまうと思った。果てしない闇の沼へ、二度と出られない闇の底へ、私は落ちていくと・・
思った。恐ろしかった。そして、その思いも闇に溶けていくように思った。・・・
「ウワー!」・・・
それでも叫ぶしかなかった。闇が濃くなろうがかまわない。私は叫ぶしかなかった。声が私のなか・・
から外に出ているときだけは、微かに恐怖が私を責めるのを手加減してくれていた。私は叫び続けた。・・
しかし、それで何とかなるものではなかった。・・・
死んでしまいたいと思った。こんな深い闇に閉ざされるなら、いっそ死んでしまった方がいいと・・
思った。みんな死んでいっている。この街の人たちはみんな死んでいく。私は死を憧れた。幼かった・・
私にも、その憧れははっきりとしたものだった。空の果て、あるいは海の果て、風の果てに憧れるよ・・
うに、私は死に憧れた。未知の世界の不安より、現実の地獄の方が恐ろしかった。・・・
そう思い始めたら、次第に私のなかから恐怖が薄れていった。失禁したほどの思いが、私から少し・・
ずつ遠ざかっていった。死への思いは、私が微かに息を吹き返すのを促した。腰を上げるまでもう少・・
しだった。・・・
そんな時に、母が私に駆け寄ってくれた。母は、狂ったように走った私を追ってくれていた。私は・・
母を見た。母がオレンジに見えた。母の姿すら、やはり幽霊に見えた。私は立ち上がった。母の温か・・
い手があった。・・・
「海斗! しっかりしなさい!」・・・
母は鬼のような顔をしていた。あんな母を見たのは始めてだった。母も目だけやけに白かった。私・・
は母の手をしっかりと握り返した。母が少し微笑んだ。その微笑みを見るのは、いつ以来か思い出せ・・
なかった。なぜか、随分と久しいものだと思った。・・・
「海斗! しっかりしなさい!」・・・
・・・
雀の声が、私を我に返した。男はアオギリの前に立ち続けていた。それは、長い時間だったように・・
思う。私の腰がやはり重くなっていた。私は少し移動した。視線の隅に男を捕らえ、私は少し離れた・・
ベンチに腰掛けた。雀の音が少し大きくなっていた。・・・
男は、二本のアオギリを眺め続けていた。吐く息が男の耳元に漏れていた。男は動かなかった。私・・
は、同じ場所に立ち続ける男を不思議な思いで見つめた。やはり、どうしても男に兄を感じる自分に・・
戸惑った。私は、男に声を掛けたい思いを懸命に堪えていた。・・・
自分の記憶が一つ一つめくれていく。プチン…。その都度にそう聞こえるようだった。私の記憶を・・
抱えたいくつかの細胞が、一つ一つ音を立てて弾けていく。プチン…。いつ以来か、私の奥深くに埋・・
もれていた記憶に光が射していた。それは、過去を拒み続けた私に別の風を運んでくれていた。男を・・
追う度弾けていく過去が、私のなかで心地よく揺れていた。私は、その揺れを大切にしたかった。・・・
男に声を掛けてしまえば、その私の揺れは消えていく。男に私の存在を知らせれば、私の弾けてい・・
く過去が再び固い殻に戻っていく。別の風はもう吹かなくなる。それを、私は恐れていた。なぜか、・・
それを恐れていた。・・・
男は私にとって、私の過去への道しるべのようなものになっていたのだ。種子を植えてくれてあり・・
がとう…。男のその一言が、私の過去を揺り起こしたのだ。そして、その男を感じ続けることによっ・・
て、私の揺り起こされた過去が固い殻から目覚めようとしているのだ。・・・
それは、私のなかで形を持ってしまっていた。男を追うことによって確実に私の過去が弾ける。私・・
の過去が殻から出てくる。もう疑ってはいなかった。そして、それを待っている私を知っていた。・・・
更に男のジャケットの色が、私の過去のなかにもあることを強く感じていた。それは、駅でも感じ・・
たことだった。男の色は、私が過去に見ている。私を強烈に誘ったジャケットの緑は、私の過去にあ・・
る。私は目を閉じた。瞼の裏にその緑の残像が揺れた。・・・
それは無駄だった。私には思い出すことは出来なかった。私の思いなかの兄の部分の周辺を巡った・・
のだが、その緑に該当するようなものはなかった。私は目を開けた。冬の日差しよりも男の緑が先に・・
目に入った。私は再び立ち上がった。腰の重さが少しだけ柔らかくなっていた。・・・
男に動く気配はまったくなかった。二本のアオギリと同化しているようだった。私は視線を男から・・
空へと向けた。飛行機雲が消えていこうとしていた。私はぼんやりとしていた。私の視線がアオギリ・・
に戻るには少し時間が掛かった。・・・
その時に、男が歩き出した。男がちらっと私を見たように思った。私は咄嗟に後ろを向いた。悪戯・・
を見つかった子供のように、私は男の一瞬の視線を私の背で遮った。私は背中で男の気配を探した。・・・
男は、アオギリに一言何かを残しているようだった。甲高い声が少しだけ私に届いた。意味は分か・・
らなかった。雀の声にそれは消されていた。何か別れの言葉でも呟いていたように思えた。雀の声が・・
しばらく私の周りに続いた。私は男の方を向いた背に集中した。・・・
背中の気配が遠くなっていた。私は思い切って振り返った。男が私を見たら、私は男に声を掛ける・・
積もりだった。公園の掃除の男が私の前を横切った。作業着が男の緑とは対象だった。やけにくすん・・
で見えた。男は私を見ていなかった。そのままその場を遠ざかっていた。北東へと歩いていた。平和・・
の灯、原爆慰霊碑へと進んでいた。・・・
私は男を追った。それが、今の私には大切なことだった。私は、それが私の今生の任務のように足・・
を男へと向けていた。・・・
・・・
私は死に憧れた。それが、私を不思議と力づけた。おかしなものだ。人間というものは死を恐れる・・
くせに、それに憧れれば死は離れていく。私は、幼心にそんなことを考えていた。私は少し強くなっ・・
ていたのかも知れない。死に憧れた私は、闇の深さが何となく見えだしていた。オレンジの炎に、そ・・
れ程脅えを感じなくなっていた。強くなったのか、鈍くなったのか、私は闇をしっかりと見ることが・・
出来るようになっていた。・・・
国民学校が本川の先に見えていた。校舎は焼け果てていた。周辺のオレンジの炎が、その校舎の姿・・
を浮き彫りにしていた。鉄筋コンクリートの三階建ての校舎は、その外郭だけをかろうじて残すだけ・・
となっていた。激しい爆風にやられたのだろう。壁は至る所が凹み、窓はすべて飛び散っていた。・・・
私は思わず目を逸らした。今まで通ってきた学校とは思えなかった。私は、学校が明日からどうな・・
るのかと思った。先生たち、友達、私は知らぬ間にそれらを探した。勿論、兄も…。・・・
兄は学校にいる。私は、母と共に兄の名を呼び学校へと急いだ。暖かい母の手は、私が引っ張って・・
いた。相生橋を渡り、それを南に下れば国民学校だ。二人はその橋の袂に少し足を止めた。相生橋が・・
いつもの橋ではなかった。・・・
相生橋の北側の歩道が異常なまで盛り上がっていた。鉄骨がむき出しになっており、コンクリート・・
の破片が橋の上を無数に散らばっていた。死体もその瓦礫に幾十とあった。・・・
私と母はその橋に乗った。死臭がした。私はそれが死臭と知っていた。ここまで歩いてきたなかで、・・
私は死臭を感じられるようになっていた。焦げた匂いのなかに、何か汗の乾いた匂いの混じったよう・・
な匂いなのだ。尿と体臭が焦げたような匂いなのだ。幼い私は死臭を知っていた。・・・
その橋の上のそれは、更に水の匂いが混じっていた。本川の水の匂いだ。いつもなら、少しだけ潮・・
の香りを含んでいる本川の匂いだ。しかし、今日の本川は潮の匂いはしなかった。死の匂いが水に混・・
じっていた。異様な匂いだった。それは、相生橋の下からの暖かい風と共に這いあがってきていた。・・
私と母は思わず川面に目を落とした。兄の姿を探したのだ。決して、その死臭の方を見たかったので・・
はない。・・・
驚きで声も出なかった。私は母の手を強く強く握った。見てはいけないものを見てしまったのだ。・・
私の脳裏に、その光景が一瞬に凍り付いてしまった。大脳にくっきりと刻み込まれた。私の胃が痙攣・・
を起こした。胃液が喉にまで戻り、私は大きくむせた。黄色い液体が私の口元に垂れた。・・・
無数の死体だった。それは、本川を流れていた。岸にその流れが所々で止まっていた。死体が水草・・
にでも掛かっているのだ。その流れの止まる場所に、次々と肉の塊となった人たちが押し寄せる。死・・
体が死体を受けとめていた。大海へと消えていきたくないのだろう。無数の死体は、その流れを遮る・・
ものに懸命に縋っているようだった。・・・
岸で生き残った人たちが、その死体を水から上げる作業をしていた。その人たちなかにも家族を捜・・
す人たちはいた。引き上げられる死体を一つ一つ覗き込んでいた。水に重くなった仏は川辺に積まれ・・
ていた。無造作に無秩序に積まれていた。・・・
私たちはそれを見ていただけだった。私たちに何も出来ることはなかった。母は私の強く握った手・・
を放し合掌をしていた。死んでいった人たちに、成仏を祈ることぐらいしか母も思いつかなかったの・・
だろう。母は涙の目を閉じ一心に手を合わせていた。私もそれにならった。・・・
私たちは相生橋を渡りきった。死臭が激しくなった。私は再び胃液を吐いた。目が涙で霞み、オレ・・
ンジの炎だけがどういう訳かはっきりと見えた。川沿いを学校の方へ向かった。橋の上から見た積み・・
上げられた死体の側を通り過ぎた。母がもう一度合掌していた。川の流れの音はまったく聞こえてこ・・
なかった。・・・
川沿いの道は、その上流へと逃れていく人たちが大勢いた。私たちはそれを逆らっていた。上へと・・
歩く人たちをかき分け、焼けた校舎が近くになっていた。母は焦る気持ちを私に見せた。私の手がい・・
きなり強く引かれた。私は鼻に衝撃を喰らった。行き交う人の肘にぶつかったようだ。私は鼻から、・・
赤い血が流れ落ちるのを手で拭った。その血は、私の手のひらの上で闇の一部となっていたオレンジ・・
の炎と交わっていた。私はそれを見て、自分はまだ生きていると改めて思った。生きている。何だか・・
不思議な気がした。・・・
とにかく、私たちは兄のいると思われる学校に辿り着いた。夜の帳が一番深くなる時刻だったよう・・
に思う。私たちは疲れ切っていた。急に激しい空腹にを感じていた。・・・
・・・
空腹じゃない。私はアルコールを求めていた。強い刺激が喉にぶち当たるのを求めていた。私は男・・
の緑のジャケットが、私のなかに激しい疲労を流し込んでくるのを感じていた。なぜか、男の存在が・・
私にとって急に重く思えた。『あの日』の闇を思い出してしまっていたかも知れない。重たい気怠さ・・
だった。自らの存在に向き直った時、私を襲うあの重たい気怠さと同じだった。・・・
なぜか悲しかった。私の意識に『あの日』が確実に甦っていた。悲しさは『あの日』とは形を変え・・
ていた。『あの日』死ななかった自分に、その悲しさが向いていた。『あの日』空腹を感じた私は、・・
時を隔てて刺激を求めている。何ということなのだろう。私は刺激を求めている。刺激だと!・・・
自らの存在は『あの日』に終わっている。私の生命は拾ったものだ。『あの日』拾ったのだ。私は、・・
そのように現実から隠れて生きた。それが一番楽だった。拾った生命には、それが最も相応しいと・・
思っていた。・・・
それを悲しんだりしたことはなかった。私の人生は意味のない人生でよかった。それを哀れんだり・・
しなかった。私はそうして老いていっていた。それで十分だった。諦めだった。いや、諦めというこ・・
とすら頭になかった。ただ『あの日』思ったように、死に憧れ続けていただけなのかも知れない。兄・・
の旅だった彼方へ、私も早く行きたかっただけなのかも知れない。・・・
私は自分の変化に気付いていた。それは、悲しくなかったはずではなかったのか。哀れに思ったこ・・
となどなかったはすではなかったか。私の生きてきた月日は、私自身が責任を取ればいいことだ。悲・・
しくなかったはずなのだ。哀れではなかったはずなのだ。私の人生は、私が既に納得していることで・・
はなかったのか。・・・
私の足は重くなっていた。男との距離が少し開いていた。私は頭を振った。こんなこと感じたこと・・
はなかった。どういう訳か、私は生を感じていた。私は生きている。当たり前のことが、変化に戸・・
惑っている私に意味ありげに押し寄せてきていた。『あの日』自分の手のひらに付いた血に、生きて・・
いることを改めて感じたように…。生きていることが不思議な気がしたように…。・・・
私はもう一度頭を振った。強く強く振った。生への思わぬ思いが、髪の乱れと共にどこかへ飛んで・・
いってくれればと思った。・・・
気が付くと、私は相生橋の上にいた。男が橋を西へ進んでいた。『あの日』とそれはだぶった。私・・
は思わず母を捜した。そして、改めて生きていることを不思議に感じた。妙に戸惑った。・・・
母はいなかった。当然だ。私は現実に戻った。そして、自分自身の妙な苛立ちと戸惑いをあの神樹・・
に隠そうとしていた。・・・
・・・
私の種子が育ったことだけが、私の喜びだったのだ。私は『あの日』、いや、正確には『あの日』・・
の次の日、つまり昭和二十年八月七日に、私はあの種子を土に埋めた。兄にもらったものだった。神・・
樹…。兄は、その樹が育つと神のいる天にまで昇ると言った。・・・
しかし、これ程立派に育ってくれるとは思わなかった。それは、学校の校庭の近くに育ってくれた。・・
埋めた場所が『あの日』のどさくさで少し校庭をはみ出していたようだった。しかし、その場所は後・・
に学校の敷地となった。結局、それは学校の校庭に育つことになった。・・・
私は、その成長に私自身を重ねていた。神樹が背が高くなるに連れて、私は少し大人になっていく・・
のを感じていた。いつも側にいたかった。休み時間には必ずその木陰に腰を下ろした。その神樹は、・・
私にとって唯一の誇りとなっていった。この樹は私のものだ。この種子は私の種子だったから…。私・・
は人知れず木陰で微笑んだものだ。・・・
正式にはニワウルシと言う。中国名、臭椿。英名、TREE OF HEAVEN。ニガキ科の落・・
葉広葉樹だ。非常に成長の早い樹だ。英名のそれは、天にも届く樹を意味する。従って、和訳が神樹・・
となった。・・・
神樹は、二十メートル以上の大木になることもあるらしい。兄が種子を拾ったと言っていた日赤病・・
院の神樹は、被爆した後、残念ながら枯れてしまった。その神樹の二世になるのだろうか、私の神樹・・
は、今後七十五年は草も育たないと言われた被爆地に堂々とその姿を大きくしていった。・・・
私は、その樹にいつも兄を思った。その側にいれば、何となく兄を感じることが出来た。樹が兄の・・
代わりに、がんばれと言ってくれているように思ったことも何度もあった。私は神樹にいつも元気付・・
けられていた。死を憧れた私が今まで生きて来れたのは、この樹のお陰なのだ。決して、それは大げ・・
さなことではないのだ。私はそう思っている。・・・
大人になっても、私はその誇りを抱き続けていた。密かな自分だけの優越感に揺れるのが好きだっ・・
た。妄想なのかも知れないが、やはりあの神樹は私がいないとこの世に存在することはなかったのだ。・・
私の樹なのだ。私が私のその種子を植えたればこそ、あの神樹に勇気づけられた人が数多くいるのだ。・・
感謝するのならば、この私に感謝すべきなのだ。私は、取り留めのない優越感に浸るのが好きだった。・・・
日曜日になると、今でもちょくちょくその神樹を見に行く。家の者には黙っておいた。どうせ、そ・・
んなこと言ってもバカにされるだけなのだ。私は家内と出かけるよりも、神樹に会いに行く方をいつ・・
も選んだ。神樹を見ながら、その謂れは自分だけの優越感に浸る。そして、自分の意味のない人生に、・・
少しだけの価値を自分に感じる。そんな時間が私は好きだった。・・・
今は、もう十五メートルくらいに育った。小学校のプールの側に、その姿を堂々と晒している。夏・・
には毎年、青々と葉を茂らせている。元気だ。被爆した土に、その神樹は根付いた。今も、その土か・・
ら栄養を吸い上げている。私の神樹は私にとって、兄が言っていた通り神の樹となっていた。・・・
私は自分の存在に暗くなったとき、神樹を思い浮かべることにしていた。私だけの思いに、存在の・・
儚さを隠すことにしていた。自分という存在を、たった一つの種子を植えたことに無理に押し込んで・・
きたのだ。神の樹は、唯一の私の存在の理由を受け入れてくれるものだった。そこに向かって妄想し・・
ていれば、私はそれでよかった。それで果てしなく居心地がよかった。・・・
私はそうして生きてきた。月に一度は神樹に会いに行った。私の生き甲斐だった。いや、生きてい・・
る理由のこじつけだった。・・・
そんな私が揺れていた。そして、いつものように、私自身の意識が居心地のよくなるのを待ってい・・
た。自分への苛立ちと戸惑いを、神樹の思いに埋めてしまおうと思っていたのだ。いつものように、・・
苛立ちと戸惑いを隠してしまおうと思っていたのだ。・・・
しかし、それは今までのものとは違ったものになっていた。それ程、居心地がいいとは言えなかっ・・
た。いつものように、気怠さを心地よい睡魔が引き継いでいくような感じがない。戸惑いがそのまま・・
揺れ、苛立ちといつまでも絡んでいた。・・・
私のなかから何かが剥がれていた。一つ一つめくれていく過去が私に悲しさを誘った。今まで感じ・・
なかった哀れさを私に見せた。それが、私を変えていた。私にも、変化という風が吹いていたのだ。・・
それは、私なりに気付いていた。しかし、私はそれを無視しようとしていた。・・・
だから私は、それでも神樹に隠れようとしていたのだ。向き直りたくない私の臆病さが、私を逃げ・・
の思いに誘っていた。居心地の悪いときには神樹の思いに浸るのだ。いつもの私の手だった。自分を・・
隠すのには、その手が一番有効なのだ。私は神樹への思いを続けた。神樹のなかに、私の思考のすべ・・
てを隠してしまいたかった。・・・
私は生きている…。神樹への思いのなかに、それはゆらゆらと揺れていた。・・・
私の死への憧れは、老いと共に激しくなっていた。死への憧れは、私のなかで日に日に膨らんでい・・
た。しかし今、生を思っていた。神樹の思いのなかに、思わぬものを思っていた。私は、私の肉体が・・
生命の鎚音を響かせていることをはっきりと感じてしまっていた。心臓が高鳴っているのを知った。・・
全身の血が流れるのを、全身で気が付いた。・・・
生きている…。当たり前のことを何だか不思議に思った。朽ちてしまいたい私が、始めて自分の肉・・
体と対話しているようだった。私の生命の息吹きは、朽ちていくことを拒絶しているようだった。・・・
過去が弾けた。それに連れて私も弾けたのだ。自分自身との対話は、弾けた自分との対話であった。・・
そこには、私の過去があるように思った。いや、私の過去にその答えがあるように思った。私は過去・・
に再び揺れた。・・・
・・・
兄がいた。校庭の側の民家の庭に倒れていた。うつ伏せだったが、それはすぐに分かった。もう夜・・
明けを過ぎていた。朝の光が、こんな日にでもいつものように降り注いでいた。・・・
母は倒れている兄を抱いた。頭の毛は真っ黒に焦げ、首から背にかけて激しい火傷の痕が走ってい・・
た。着ていた服が燃えたのだろう、兄は裸に近かった。靴だけが燃えずに近くに落ちていた。・・・
私は、兄の無惨な姿を正視出来なかった。母の背だけを見つめ、兄が死んでいることを知った。朝・・
日に、母の背がどういう訳かやけに黄色く見えた。母の背は激しく上下していた。嗚咽が私にも聞こ・・
えてきた。・・・
母は兄に話しかけていた。痛かっただろう、苦しかっただろう。空太…。痛かったよね。もう大丈・・
夫よ。もう、寂しくないよ…。そして、兄の火傷の痕を優しくなぜているようだった。少しでも、兄・・
の痛みを和らげてやりたい。母は懸命に兄の首から背中をなぜていた。・・・
長い時間だった。母はその場から動こうとしなかった。そのうちに、私にも涙が溢れてきた。母の・・
声が私に流れ続けていた。痛かったよね、空太。もう大丈夫よ…。あんたの戦争は、もう終わったよ・・
…。・・・
母が振り返った。その瞬間に兄の顔が見えた。母の胸に兄の顔が見えた。・・・
兄は苦しみの表情のままだった。顔は焼けていなかった。頬が少しだけ煤で黒かった。兄は眉を寄・・
せていた。眉間に深い皺を見せていた。激しい苦悶の面だった。閉じられた目から涙が幾筋もこぼれ・・
たのだろう、その痕がはっきりと頬に滑っていた。煤に汚れた頬を、それは斜めに走っていた。私は・・
母にしがみついた。涙が堰を切った。母の背が涙で濡れた。コップの水をこぼしたように濡れた。・・・
母は私を抱いてくれた。海斗…。にいちゃんは、空へ行ったよ…。母は強く私を抱いた。私は、母・・
の胸で何度も何度もしゃくり上げた。・・・
朝の日が少し高くなっていた。私たちはその場を動くことが出来なくなっていた。昨夜幽霊に見え・・
た人々も、今朝はその日差しを受け少しは人間らしく見えた。行き交う人たちは、私たちをちらっと・・
見て過ぎていく。みんな肩を落としている。足取りが重そうだった。こんな辛い思いをしているのは・・
私たちだけではないと、その人たちを見て思った。・・・
あんたの戦争は、もう終わったのよ…。母が兄に言っていた言葉が、私のなかをこだましていた。・・
その通りだと思った。そして、少しだけ兄が羨ましくなった。・・・
母が私を放した。母の涙は少し収まっていた。私の視界に兄が入った。始めてその無惨な姿をはっ・・
きりと見た。ひどい姿だった。私は戦争を憎んだ。敵を憎んだ。人間を憎んだ。しばらく兄を見続け・・
てしまっていた。兄の姿を見るのは、これが最後だ。私は見たくなかった。見たくなかったが、兄と・・
の別れを呆然と続けていた。・・・
枯れ葉が数枚、兄の肩に乗っていた。それが私の目に揺れた。枯れ葉が兄を隠そうとしていた。私・・
の目の前を、それは大きく揺れていた。母が兄の火傷の上に乗せたものだった。兄の肩の火傷に並ん・・
で置かれていた。・・・
冬枯れに、それは色を失っているはずだった。しかし、私にはその枯れ葉が輝いて見えた。兄を見・・
たくない思いが枯れ葉に色を付けたのだろうか、私の見るその枯れ葉は色付いていた。輝いていた。・・・
鮮やかな緑色だった。その枯れ葉は夏の広葉の色で私に届いてた。強い夏の日差しを照り返す力強・・
い夏の葉だった。深い緑を幾重にも重ね、その上に日差しを強く差し込んだ緑だった。深い緑のなか・・
を、夏の日差しの金色と黄色がすり抜けていた。輝いた緑だった。・・・
その緑は、益々兄を隠していった。私は兄を捜した。緑越しに兄の手を握った。驚くほど冷たい手・・
だった。・・・
・・・
その色だ! その緑だ! 私は思わず叫びそうになった。男のジャケットだ。男の背中だ。その色・・
なのだ。兄の肩に乗せられていた枯れ葉は、その緑なのだ。あなたの着ているジャケットの色なのだ。・・
私は先を歩く男に叫びそうになった。・・・
やはり私は、自らの過去のなかでその色を見ていた。幼かった私が見た色だ。実際にはない色だ。・・
私のなかにだけ浮かんだ色なのだ。あの色は、私の意識のなかにだけ見えた色なのだ。・・・
間違いなかった。私ははっきりとその時の色を思い出していた。死んだ兄に母が乗せた枯れ葉が、・・
私の意識の奥にその色を留めていたのだ。まったく変わらずに、その色を私に見せてくれたのだ。間・・
違いない。あの色だ。まさしく、あの時の枯れ葉の色だ。・・・
しかし、なぜその色を男が持っているのだ。ただの偶然なのか。偶然…。私は、そう思いたくない・・
私を感じた。それは偶然などであって欲しくない。あの色は、兄だけが持っている色だ。男が完全に・・
兄と重なっていた。もう、疑ってはいなかった。兄は時空を越えて私の前に戻って来たのだ。私は嬉・・
しさに身体が震えた。空にいちゃん…。その叫びを、ようやくのことで堪えていた。・・・
兄があの樹へ向かっている。小学校の門を潜った。校庭には誰もいなかった。兄はまっすぐに神樹・・
へ歩いた。間違いない兄が帰ってきた。あの神樹の種子は、兄からもらったものだ。兄はそれを知っ・・
ている。だから兄はその神樹へ向かう。間違いない、空にいちゃんが帰ってきた。・・・
私は幼さに揺れていた。生きていることを強く感じていた。不思議だった。やはり、私のなかから・・
何かが剥がれ落ちていた。自らを悲しく思った。自らを哀れに思った。それが、私を変えていた。私・・
は、自分に向いた悲しみに心地よささえ感じていた。生きている…。生まれて始めてそのことを知っ・・
たように、私は密かに喜んでいた。・・・
緑のジャケットが、私の視界に果てしなく大きくなった。私の足が速くなった。軽くなった。あの・・
色が、私にも手が届きそうになった。目が潤んだ。それでも、その色ははっきりと見えていた。兄が・・
あの神樹の前に立った。鮮やかな緑だけが私を包んだ。私は泣いていた。頬をつたう涙を感じていた。・・・
私は後ろから兄の手を握った。空にいちゃん! そう叫んでいた。兄の手は驚くほど冷たかった。・・・
・・・
兄の手は冷たかった。甲は半分以上が焼けただれていた。私は兄の手を優しく包んだ。それは、強・・
く握りしめられていた。母の嗚咽が再び私に聞こえてきた。先程見えた枯れ葉の緑が、私から消えて・・
いた。冬枯れの色に戻っていた。・・・
どうしてだよ、空にいちゃん、どうして、緑の枯れ葉を脱いじゃったんだよ。いい色だったよ。に・・
いちゃんによく似合っていたのに。どうして、脱いじゃったんだよ…。・・・
冬枯れの枯れ葉が哀れだった。色を失っていた。兄のように色を失っていた。それは、乾ききって・・
いた。手に触れれば破れそうな枯れた葉だった。・・・
私は兄の無念を思った。空軍で暴れまくっちゃる。アメリカを叩いちゃる。兄のその思いは、この・・
場に朽ちてしまったのだ。無念だったことだろう。兄を哀れに思った。強く握りしめられた兄の手が、・・
その無念を物語っているようだった。アメリカを叩いちゃる。兄にもう一度、そう叫んで欲しかった。・・・
私は、しばらく兄との別れを続けていた。兄は冷たかった。兄の冷たい手を握り続けていた。・・・
ふと思いだした。兄はあの種子を植えただろうか…。昨日、いや、それは二日前になる、私は兄が・・
言っていたことを思い出した。おれたちは、いつ死んでしまうか分からんけん、生きとったという証・・
にその種子を植えろ…。兄はそれを植えたのだろうか…。神の樹だ。天に昇る樹だ。おれはこの種子・・
を学校に植えるんじゃ…。おれが生きとったという証じゃ…。・・・
私はポケットを探った。兄にもらった神樹の種子が入っているはずだ。大切に手拭いに包んでいた。・・
私はこの場に種子を植えようと思った。兄の朽ちた場所に、天にも昇る樹の種子を植えようとした。・・
私はポケットを探った。・・・
・・・
空にいちゃん、その手は冷たすぎるよ。駅でもそう思ったけど、その冷たさはいったい何なの…。・・
『あの日』、空にいちゃんが死んだ日もこんな冷たい手をしていたよ。空にいちゃん冷たすぎるよ。・・・
神樹の前に立った兄は、私を振り返ろうとはしなかった。私は、そんな兄の手を握り続けた。冷た・・
くて悲しくなった。・・・
軽い目眩が私を襲った。同時に、私を包んでいたあの緑が消えた。兄の背が一瞬に冬枯れの色に変・・
わった。緑のジャケットが突然に色あせてしまっていた。私は首を振った。嫌々をするように首を・・
振った。兄に甘えていた。空にいちゃん、どうして、あの色を脱いだの…。あの色を脱がないで…。・・
私はそのように兄に訴えていた。・・・
どうして、あの緑を脱いじゃったの。よく似合っていたのに…。あの時は、それが枯れ葉だった。・・
そして、今のそれはジャケットだった。私は不思議な思いに落ち込んでいた。過去と現在が、私の前・・
後を進んでは戻ってきていた。空にいちゃん、あの緑をもう一度見せておくれよ。いい色だったよ…。・・・
白日夢に揺れていた。意識が微睡みをうろうろしていた。私の視界には、見慣れた神樹だけがあっ・・
た。それ以外は、すべて霞が掛かっていた。白い陽炎のようだった。・・・
ぼくの種子が育ったんだよ。空にいちゃん、にいちゃんのくれた神樹の種子だよ。ぼく、その種子・・
を植えたんだ。空にいちゃんにもらった種子を、この場所に植えたんだ。私は兄に自慢していた。甘・・
酸っぱい思い出が、私をどこまでも幼くしていた。兄の手は冷たいままだったが、私はそんな兄に話・・
し続けた。甘え続けた。・・・
それが、こんなに立派に育ったんだ。見てくれた、空にいちゃん。ぼくが植えたんだ。ぼくの種子・・
なんだ…。にいちゃんにもらった種子だよ…。・・・
今まで誰にも言ったことのないその種の話を、私は兄に話し続けた。自慢だった。兄に褒めてもら・・
いたかった。よくやった、海斗…。私は兄のそんな言葉を待っていた。海斗、よくやった…。私はそ・・
れを待った。・・・
ぼくの種子だよ。空にいちゃん、ぼくの種子が育ったんだよ…。・・・
私は生きている。何だか、そのことがとても新鮮に思えた。死への憧れが、兄の冷たい手に溶けて・・
しまいそうだった。・・・
・・・
しまった! 私は、その瞬間兄に謝った。空にいちゃん、ごめん! あの種子がない!・・・
何とバカなんだろう…。私は、あの種子を手拭いに包んでいたのだ。手拭いに包んで後ろポケット・・
に入れておいたのだ。大切に入れておいたのだ。私は自分を責めていた。私はその手拭いを、私は腰・・
のズボンのゴムにぶら下げてしまっていた。その手拭いで汗を拭き、泥を拭き、そして煤を拭いたの・・
だ。黒い雨も染み込んでしまっていた。種子が、その手拭いのなかにあるはずがなかった。種子はど・・
こかに落ちたのだ。私は、私を強く責めていた。何とバカなんだ…。私は自分のバカさ加減に悲しく・・
なった。・・・
その時、兄の握りしめた手に白いものが見えた。何かの布のようだった。私は兄の手をゆっくりと・・
開いた。カシカシと皮膚か骨の軋む音がした。布きれが、その音を滑り地面に落ちた。・・・
兄の手拭いだった。手拭いの一部だった。半分ほどが焼けてなくなっていた。それは、いつものよ・・
うにくしゃくしゃの泥だらけだった。私はその手拭いを持ち上げた。兄の匂いがした。手拭いを鼻に・・
あてた。煤の匂いに混じってはいたが、確かに兄の匂いがした。・・・
その手拭いには何かが包まれていた。鼻にあてたそれに、何か固い物があった。私は手拭いを拡げ・・
た。小さな翼を持った小さな種子が落ちた。・・・
神樹の種子だった。兄が私にくれたものと同じだった。兄は、その種子を握りしめて死んでいたっ・・
のだ。兄は言っていた。あの種子を校庭に植えるんじゃ…。おれが生きていたという証じゃ…。私は・・
手拭いをポケットに仕舞い、その種子を手のひらに乗せた。兄の言っていた校庭はすぐそこだった。・・
兄はそれへと向かっていたのだろうか、私は種子から兄へと視線を移した。・・・
今まで見えなかったが、兄の倒れている頭上に小さな穴が掘られていた。それは、日差しに小さな・・
影を作っていた。私はすぐに分かった。穴は兄が掘ったものだ。この種子を埋める積もりだったのだ。・・
私は、兄のもう一方の手を見た。思った通りだった。兄のその手は、この場の土と同じ色をした土で・・
汚れていた。爪に土が入り込んでいた。・・・
「空にいちゃん!」・・・
私は大声で叫んでいた。悲しくてたまらなかった。兄は種子を埋めようとしたのだ。しかし、兄に・・
は出来なかった。兄は死んだ。その種子を握りしめて死んだ。悲しさに、私は気が狂いそうだった。・・・
私は、その種子をその穴に落とした。そして、丁寧に廻りの土をそれに乗せた。涙でそれが霞んで・・
いだ。・・・
「空にいちゃん! にいちゃんの種子、ここに埋めたよ!」・・・
私はこの時思った。死んでたまるか! 生きてやる! そして、アメリカを叩いちゃる!・・・
・・・
再び、目眩が襲った。今度は軽くなかった。私はパニックに陥った。足が震え前が見えなかった。・・
私は膝を折った。頭のなかに無数のガラスが割れる音が轟いた。息が出来なかった。気が遠くなって・・
いくのが分かった。何と言うことだ。あの種子は、私の物ではなかった。血が凍っていく。背が大き・・
く軋み全身が歪んでいくようだった。・・・
私は腰を落とした。胸が錐で揉まれていた。私は気を失った。白日夢の続きに入った。風の音が少・・
しだけした。・・・
・・・
「空にいちゃんの種子は、ここに埋めたよ!」・・・
私は叫んでいた。怒りに全身が震えていた。・・・
「アメリカを叩いちゃる!」・・・
私は生きようと思った。強くなった気がしていた。私は母の背に手を乗せた。生への果てしない力・・
が、私のなかを激しく沸いてくるのが分かった。私は母に言った。力強い声で言った。・・・
「母さん、生きるんだよ。これからは、空にいちゃんの分まで生きるんだよ!」・・・
私は母の手を握った。兄の手よりも随分と暖かかった。・・・
・・・
随分と気を失っていたようだ。私はすぐには立ち上がれなかった。先程聞いた風の音が少し大きく・・
なっていた。私は微睡みに揺れていた。頭のなかは静かになっていた。不思議と心地よかった。・・・
何と言うことだ。あの種子は、私の種子ではなかった。兄の種子だった。私の唯一の誇りであった・・
ものが、音を立てて崩れた。私のなかから、それは瞬間に溶けて流れた。それは、激しい音だった。・・
激しい流れだった。私は笑っていた。今までの私を笑っていた。・・・
何とバカだったのだろう。私は自分を罵った。バカだ、とんでもないバカだ…。私は、そんな自分・・
を笑った。思いきり笑った。連続の白日夢から醒めた私は狂ったように笑っていた。私は、神樹の下・・
に大の字になっていた。その姿にも笑った。自分のすべてを笑い飛ばしたかった。・・・
とんでもない誇りだった。呆れた支えだった。私は、そんなものに縋っていたのだ。何てバカなん・・
だ。笑いが大きくなっていた。止まらなくなっていた。・・・
何かの呪縛から抜けていくようだった。私のその笑いが、私を解放していくようだった。私は私の・・
唯一の誇りのなかから、私の本当の姿を冬の日に晒そうしていた。その誇りなどデタラメだったのだ。・・
そんなデタラメに縋っていた自分を笑った。なぜか、笑うことに喜びすら感じていた。・・・
私の呆れた支えが取れていくようだった。私は無理にそれをこじつけていたのだ。私には、今それ・・
がはっきりと分かった。私から支えが取れていく。心地よく私の意識から離れていく。・・・
支えなど必要なかったのだ。呆れた支えは、本当に私を支えたりしていなかったのだ。偽りの理由・・
を私に見せ、その支えは、私自身が私のために演技を続けるのを支えていただけなのだ。・・・
笑いは止まらなかった。私の笑いは、私を解放し続けた。そうなのだ、私の唯一の誇りは、私がこ・・
じつけたものだった。あの種子は、私の種子ではなかったのだ。こじつけたものは、限りなく勘違い・・
のなかにあった。なぜか、嬉しかった。私の生きてきた時間のなかで、その誇りは私の人格にまで及・・
んでいた。私の無理矢理こじつけた誇りが、私の歩む道を更に重いものとしていたのだ。それが分・・
かった。私は本当の過去を巡り、私の本当の息吹きを知った。そう、私の息吹きを知ったのだ。その・・
なかには、私の本当の姿があった。誇りなど必要としない私があった。支えなどいらない私があった。・・・
私の種子。私の種子が育った。街の人たちが、私の種子に力づけられた。それが、私には負担だっ・・
たのかも知れない。こじつけた誇りは、私を雁字搦めに縛り付けていたのかも知れない。解放されて・・
いく私には、それが感じられた。必要と思われたものが急に色あせる時に、私たちは本当の解放に出・・
会えるのではないか。私は解放へと向かっている。素直な自分が自分ではっきりと見えた時にこそ、・・
私たちは本当に必要なものを知るのではないか。私はそう思った。・・・
死への憧れは、その裏返しだったのだ。私は、必要なものを誇大に考えすぎていたのだ。自らの息・・
吹きだ。私に必要なものは、ただ自らの息吹きを感じることだったのだ。死への憧れは、その息吹き・・
を否定することであった。しかし、息吹きは色あせたりしない。本当の解放の時に、それは激しく脈・・
打つのだ。私は生きている。生きている限り、私の息吹きは脈打っているのだ。そうなのだ。あの時・・
も叫んだではないか、生きてやる! そして、アメリカを叩いちゃる!・・・
すべてが急速に見えだしていた。たった一つの誇りが、私の生きてきた道に果てしない壁を作り出・・
していたのだ。私はその誇りに縋って生きてきた。それを支えに生きてきた。とんでもない間違い・・
だったのだ。笑いが止まらないほどの、とんでもない思い違いだったのだ。私は笑い続けた。・・・
・・・
昭和二十年八月十五日、戦争が終わった。私と母は一緒に玉音を聞いた。母の肩が大きく垂れた。・・・
「空太、戦争は終わったよ。ゆっくりと眠るのよ…」・・・
その時、母は泣かなかった。兄の骨を抱いて、静かに目を閉じていた。・・・
「戦争が終わった。長い戦争が終わった…」・・・
母の声が、重く重く私に染み込んでいった。私もその時は泣かなかった。・・・
・・・
私はゆっくりと立ち上がろうとした。風を感じた。その音を感じた。そして、私のなかの生の音を・・
感じた。私の解放は、私にとって心地よいものだった。・・・
やはり、男は兄だったのだ。すべては、自分の意識のなかに起こったことだった。あのジャケット・・
は、あの時の枯れ葉だった。私の記憶が、私の意識のなかでの出来事に色づけしてくれたのだ。私の・・
記憶の兄が私の意識のなかに現れ、私を励ましてくれたのだ。私に、私の過去に正面から向き合う力・・
を与えてくれたのだ。死への憧れに、私の本当の息吹きを感じさせてくれたのだ。・・・
そう、すべて私の意識のなかでの出来事だ。兄は、私の死に行く心を諌めに来てくれたのだ。老い・・
た被爆樹を私に見せ、生の尊さを知らせてくれたのだ。そう、すべて私のなかでのことなのだ。・・・
死への憧れが、私のなかに果てしなく膨れ上がっていたときだった。私は、それをどうすることも・・
出来なくなっていたのだ。そんな時に兄の夢を見た。それが、私を激しく揺らしたのだ。私の細胞の・・
一部が弾けた。そして、私は兄の面影を追い続けていたのだ。・・・
夢の続きを追っていた。そうなのだ。私は夢の続きにいたかったのだ。私は、夢に現れた微笑みの・・
兄を追っていたのだ。戦争は終わった。そんな兄を追っていたのだ。だから、私は過去を受け入れた。・・
私の過去にしか私の兄はいない。私は、過去の夢から覚めることを拒否し続けていたのだ。・・・
男は幻だった。私のなかにある幻だった。私の意識にだけ見えた幻想だった。私は揺れ続けていた・・
のだ。幻に、妄想に、夢に、そして、過去に揺れ続けていたのだ。・・・
私は変わって行くだろう。少しは、生を楽しめるようになれるかも知れない。自らの息吹きを感じ・・
たのだ。もう、死のうなどとは、きっと思わない。熱い息吹きだった。アメリカを叩いちゃる! 生・・
への果てしない力だった。私は、私のその意気を思い出したのだ。生きてやる! あの時叫んだこと・・
を思い出したのだ。・・・
私は変わっていく。体内に、その思いが血液と共に巡った。嬉しさに熱くなっていた。私の血潮が、・・
何十年ぶりにたぎっていたのかも知れない。私は熱くなっていた。・・・
風がこれ程心地よいと思ったことはなかった。冷たい風だったが、私の熱くなっていた心に、それ・・
は爽やかだった。私の意識がそれに冷やされ、冷静さとたぎりをうまく調和させてくれていた。私の、・・
私に向いた笑いが徐々に収まり、私の解放が完了しようとしていた。・・・
私の解放はうまく進んた。私は本当の私を取り戻していく。今までの、偽りの誇りに支えられた私・・
ではない。私は生まれ変わったのだ。いや、私に戻ったのだ。兄と共に過ごした幼い日々を、私はこ・・
れから恐れることはなくなったのだ。過去を振り返ることが、もう恐怖でなくなったのだ。私の解放・・
だ。私は私に戻った。・・・
私の意識に起こった出来事が、今終わろうとしていた。兄はもういない。大空に帰ったのだろう。・・
兄は私に、本当の私を見せてくれた。空にいちゃん、ありがとう…。私は、心の底からそう思った。・・・
私は立ち上っていた。あの男の姿は、もうそこにないことは知っていた。あの緑は、そこにないこ・・
とを知っていた。私は神樹を見上げた。冬の日差しに、その樹は心地よさそうに小枝を揺らしていた。・・
雀の声に、もう疎ましさは感じなかった。・・・
私のなかの戦後のひとつが、その時終わった。神樹の前で、それは終わった。私は、その樹に優し・・
く触れた。樹皮の匂いが私をくすぐった。・・・
・・・
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(了)・・・
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