「精神猫」トラ

「精神猫」トラ 第一話

古代エジプトでは、猫を崇拝したという。
火事があれば、人々は真っ先に猫を救うことに努め、猫が死ねば、家人は眉毛をそり落とし、その死体をミイラとして手厚く葬った。人々は、どんな猫でも神のように敬い奉り、尊いものとして接してきた。
それは、猫の目が太陽の回転に従って変化し、夜は太陽が猫の目を通じて下界を見るためとされていた。つまり、猫は太陽神の化身であり、その目を通して、人間界のあらゆる事を監視し、精神の昇華を促す役目を司っていたという。
更に、猫は死後も、その精神は地上に残り、人々へ霊的な思念を送り続け、霊の世界と現世とを結び付ける役割もあったというのだ。
その猫たちの中でも際立った能力を持つもの達がいた。それが、「精神猫」と呼ばれる猫達だ。「精神猫」は、その役割において指導的な立場にいた。世の生あるものたちすべてに、慈悲の心と労りを、友愛と安ねんの思いを送り続けた。「精神猫」はその名のとおり、精神に特異性が見られ。肉体を持つ持たないを超越した霊的な存在だった。
そして、時代が大きく移り変わった現在も、その「精神猫」は存在している。太陽の色の毛で覆われた猫だ。目に太陽を持っている。それは、あらゆるところでその役目をまっとうするための努力を続けている。生あるものたちの精神の昇華、それらを包んでいる霊的な世界との扉、意識の奥底に隠された聖なる神の息吹、そういうものを人たちに見せてるのだ。生あるものたちに訴えているのだ。

小生は猫だ。名前はトラ。トラ猫の牡、太陽の色に覆われている。猫世界では貴重な「精神猫」だ。
これからの話は、小生の「精神猫」としての物語だ。まだまだ未熟な小生だが、こういった経験を積み重ねることによって、「精神猫」としての逞しさを身に着けて生きたいと思う。「精神猫」本来のこの世での役割をまっとうしていきたいと思っている。
どうぞ、よろしく…。

小生は、花街のど真ん中、小さなお寺の藪の中で生を受けた。その界隈は、朝から、白粉の匂いや醤油のこげる匂い、そして、残飯の芳しい香りが充満する非常に艶のある街だった。
小生を拾ってくれたのは、花街の料理屋「つきゆき」の一人息子、健之助だ。小生が生まれて間もないころだ。
健之助は典型的なガキ大将だった。近所の子供達の大将であって、頑固な一途ものだった。
そんな、健之助のおかげで、小生は、猫仲間たちに「精神猫」と認められるような猫になれたのだ。小生は生涯、いや、生命のある限り、健之助のことは忘れることはできない。
小生は、健之助の家ですくすくと育った。それは、何不自由ない生活だった。料理の余りもの夕げ、健之助の家族の人たちからの愛玩。健之助には本当に感謝している。
物心つくと、毎朝、健之助が小生の為に部屋の窓を少し開けていってくれた。一人で遊んでこい。健之助は、小生に細かな気を使ってくれた。とても優し心の持ち主だ。小生は花街を毎日のように徘徊するようになっていった。
そこで、知り合ったのがミーちゃんだ。健之助の同級生美知子さんの家の猫だ。小生は、その瞳にイチコロだった。尻尾の長い白猫だ。太陽の色の目を持っていた。
ミーちゃんに好かれるため、小生はその界隈のボスになった。ボスになったといっても、小生の父上タイガーが、その時まだ現役で、その界隈を仕切っていたのだ。小生はただ、その父上の跡を継いだに過ぎないのだが。
ミーちゃんと小生は仲良しになった。天気のいい日は、健之助の家の大屋根で、日永にお喋り。舞妓さんたちの三味線、お琴のお稽古の音、そのお師匠さんの声などが、どこからか自分たちのゆれる意識に届き、物売りの声で、突然、喧騒を思い出したりし、風の強弱で話の話題を変えたりした。小生とミーちゃんは、何でもないお喋りを毎日毎日楽しんだ。小生、信じられないほど幸せな時期だった。

さて、「精神猫」を語るのに、絶対に外せない猫がいる。その猫が玉やん。先ほどお話した小生のじいさんだ。
玉やんとの出会いが、小生の精神を思い切り昇華させたのだった。それが、小生の「精神猫」としての出発となった。
その玉やんとの出会いから話を進めていくことにする。

健之助のじいさん健三さんは、生前、「つきゆき」で猫を飼っていた。その猫が、小生のじいさんの玉やんだ。小生と同じトラ猫。玉やんは、恐ろしいほどデカイ金玉の持ち主だった。それが、名前の由来かどうかは知らないが、玉やんは、いつもその大きな金玉を誇らしげに、花街を闊歩していたという。

健三さんは逝く直前、玉やんを枕元に呼んだ。
「玉やん。わしゃ。もうあかん。生まれてくる孫を見ることができそうにないわ。ああ、あかん」
病床の健三さんは、生まれてくる自分の孫の顔が見れる日を、毎日毎日楽しみにしていた。今か今かと待ちわびていた。その予定日には、まだ二ヶ月ほどある。
「ああ、あかん、あかん、玉やん、助けて…」
しかし、病魔は健三さんを確実に死へといざなっていた。
「ああ、健之助、健之助」
健之助とは健三さんが勝手に名づけた。初孫は男と勝手に決めていたのだ。遺言にも、それは書いてある。
「ああ、健之助、健之助」
まだ見ぬ初孫が、健三さんを追いかけてくる。赤子の姿で、両腕両足をムチャクチャに動かしながら懸命に前へ進む。何かを叫び、何かを訴えている。健三さんは手を伸ばした。手を伸ばせば、届きそうな距離だ。
「健之助、健之助」
男の子だ。
「逞しく育て! 逞しく育て!」
ああ、届かない。健之助が光の中に落ちていく。
「逞しく育て! 逞しく育て!」
健三さんは声を限りに叫んだ。健之助が消えていった。叫びが闇に消えていった。
「ああ、健之助、わが孫よ」
涙が一粒、健三さんの頬に垂れた。その瞬間が、健三さんのこの世の生の終わりの時だった。
「健三はん…」
玉やんがその瞬間の健三さんに寄った。健三さんの顔は穏やかだった。
玉やんは健三さんが好きだった。人間でただ一人、尊敬と信頼を感じた人だった。
「健三はん、わしに任しとき」
今思えば、その瞬間の、その心意気が、「精神猫・玉やん」を生み出したのだろう。とにかく、玉やんは健三さんの為に、一肌、いや、一皮脱ぐこととしたのだ。
玉やんは健三さんの魂を奪った。一目散に寺の池へ走った。
「健三はん。あんたは生前、好きなことばっかりしてきなすった。しかし、あんたはんは、わしら 猫には好くしてもらった。わしら、本当に感謝していま」
玉やんは、健三さんを、かの世のテツばあさんに預けた。いくら、健三さんの頼みでも、玉やんにも段取りがある。それを実行するには、玉やんもこの世を去らなければならない。健三さんと同じ世界に身を置かなければならない。それに、まだ健三さんの孫は、かあさんのお腹の中にいる。
とりあえず、健三さんは、あの世とこの世の橋の袂で一休みすることになった。しかし、健三さんは、そこで大人しくしていなかった。玉やんを矢のように急かした。

ちょっと寄り道しますが…。

テツばあさんとは、それはそれは綺麗なミケだったそうだ。生前は、玉やんたちのボスで、若い猫たちの面倒をよく見たという。
そして、ミーちゃんは、そのテツばあさんの子孫に当たる猫だった。ひーひー孫だった。

いろいろと話を進めていくと、ミーちゃんのことを、小生は他人、他猫とは思えなくなってきた。と、言うのも、ミーちゃんは、小生のじいさん玉やんのことを知っていたのだ。ミーちゃんはテツばあさんから、玉やんのことをよく聞かされていたという。
テツばあさんによると、テツばあさんのいる「かの世」とは、幻の世界なのだそうだ。猫も人もうっすらと影を持ち、その者の魂が揺ら揺らと揺れ、色を持ち、空に浮いているのだ。この世の姿など徐々に忘れ去り、生きているものの本質である「愛」という輝きのみで、お互いのコミュニケーションをとる世界なのだそうだ。
「愛」とは、この世に思っていたものとは少々異なり、劇的に自分を変えていく。「愛」は「愛」を無条件に求め、理解を超え、ひとつに結びついていく。生きているものの至高な輝きがそこに存在し、この世界に生を受けた者の存在の意味と理由が、そこに見えてくるという。
ミーちゃんは、うっとりとした眼でそれを小生に美しく語ってくれた。そんな世界があるならば、 小生もいってみたいと思った。ミーちゃんと…。
そして、玉やんと健三さんの話。それがミーちゃんは忘れられないと言った。猫と人との友情物語だ。これぞ「精神猫」玉やんの面目躍如の物語だった。

健三さんは、えらくテツばあさんのことを気に入った。いつも、テツばあさんの側にくっつき、ああでもない、こうでもないと、いろんな話を繰り返した。玉やんはまだか? 玉やんはまだか? と、テツばあさんに食いつき、ひと時もテツばあさんの側を離れようとはしなかった。
テツばあさんはたまらずに玉やんを呼んだ。玉やんはまだこの世にいた。健三さんの部屋の隅で、健三さんの死を敬っていた。
「テツばあさん…」
しばらくして、玉やんがかの世へきた。あの文机に肉体だけを残して。健三さんが玉やんに飛びつく。
「玉やん。なんか虚しいんや、哀しいんや…」
健三さんは玉やんに訴えた。瞳から零れ落ちる涙に、玉やんは驚いた。
健三さんはテツばあさんの側で、本人の知らぬ間に、浄化が進んでいたのだ。生ある時の懺悔の思いが、かの世で積み重なり、魂の奥に眠っている聖なる愛が目覚め始めようとしていたのだ。
「悲しいんや、どうしらええ? 虚しいんや、どうしたらええ?」
玉やんは頭を巡らせた。健三さんは慈悲深くなったんや…。玉やんの目にも涙が光った。
「愛や。健三はん、愛や。愛が健三さんを包んでいるんや」
玉やんは、健三さんを懸命に元気付けようとした。
「愛や。だから、虚しいんや、哀しいんや…」
健三さんの眼の色が変わった。どんぐりがどんぐりを被ったような目になる。
「生あるものはもっともっと愛さなあかん。愛されなあかんのや…」
健三さんの眼の光が玉やんに大きくなる。どんぐり眼が飛び出していく。
「そうか。玉やん! そうか、愛さなあかんのか。愛されなあかんのか!」
健三さんが俄にオーラに包まれた。玉やんは驚き、その光に跪きそうになる。
「玉やん。ああ、そうか、玉やん!」
その時、テツばあさんが二人の間に入った。目が大きく見開いている。
「生まれた! 生まれたで!」
玉やんも健三さんも目が大きく開く。生まれた?
「生まれた! 男の子や!」
「そんなん、早すぎる。まだ八ヶ月や」
健三さんが心配げな顔を玉やんに向ける。頼りなさげな眼差しが玉やんを射る。
「よっしゃー! 行くで!」
玉やんが、健三さんの顎鬚を思い切り引っ張った。
「そや、行こ。そや、そや」
健三さんが何かに目覚めていく。光が健三さんを包む。
「行こ! 玉やん。行こ!」
健三さんのオーラが大きくなる。テツばあさんが優しい微笑を浮かべている。何もかも分かっているような瞳だ。
「行こ! 行こ! ウオオー!」
玉やんが叫んだ。健三さんと同じオーラが玉やんを包む。
「ウォー! ウォー!」
テツばあさんが玉やんを抱く。膨張した尻尾が更に腫れあがる。
「ウォー! ウォー!」
玉やんの両のまなこが、テツばあさんに向かって飛び出る。健三さんが泣いている。テツばあさんから玉やんを奪い取る。
「玉やん! 産まれよった。男の子や! 男の子や!」
健三さんが玉やんに叫ぶ。健三さんの眼から涙が玉やんの金玉に一粒落ちる。
「ウォー! ウォー!」
この瞬間が、玉やんのこの世での往生だった。玉やんの肉体は、生前健三さんがいつも座っていた文机の下にあった。健三さんの座布団の上にあった。午後の日がたっぷりの健三さんの部屋の片隅にあった。

それが、十五年前ことたった。健三さんがこの世を去って二日目。健之助がこの世に生をうけた日。この物語が始まった瞬間であった。

玉やんが健三さんとかの世を出た日から、十五年経った。健之助はもう十五歳になる。健之助の十五歳の夏、玉やんと小生が大活躍したその事件はおきた。
それはそれは、大変なことだった。二度とあんなにうまくいくとは思わない。あれは、奇跡だった。小生と玉やん、テツばあさんと健三さん、そして、健之助。それらがひとつになった結果だった。愛に包まれた結果だった。

その日、健之助が風邪をひいて臥せってしまった。小生は日課の散歩へ出かけたのだけれど、何だか、健之助のことが気になって途中で戻った。ミーちゃんには少し我慢してもらって…。
健之助は泥のように眠っていた。小生は久しぶりに健之助の布団に乗って、健之助の熱を感じながら、うとうととまどろみ始めた。その時だった。小生の背中に悪寒が走った。今まで感じたことのない奇妙な悪寒が。
「うっ…」
それは、強烈なものだった。小生のまどろみは、どこかへ吹っ飛んでいった。
「ウッ!」
背中から延髄へ、熱の塊が上がってくる。健之助の風邪がうつったのか。小生はふらふらと窓際へ寄った。障子の隙間からの風に頭を冷やそうとした。
「……」
何かが聞こえた。背中の熱が脳天まで上る。脳天に熱が渦巻く。身体が軽くなり、身体が消えていく。脳天だけが宙に浮かぶ。
「トラやん…」
誰かが小生を呼んでいる。意識がその声へ向かう。小生を呼んでいるのは誰だ。誰が小生を呼ぶ? 健之助か?
「トラやん…」
周りの景色も消えていった。もの凄いパワーに、小生の魂がすべて引き込まれていく。何も見えない。ただ、透き通った光だけを感じる。光に全てを包まれた。周りの静寂が、小生を徐々に落ち着かせていった。
「トラやん…」
小生は宙を浮いていた。ふわふわと光の海に泳いでたのだ。その時に見えた。それは、一瞬、目を疑った。自分のどこかへ消えていった身体が、目の前にあったのだ。光の中から、小生とそっくりな一匹のトラ猫が現れた。
「トラやん…」
そのトラ猫が小生を呼んだ。小生はふわふわと光の海の中、猫に近づいた。
「トラやん…」
猫がくるりときびすを返した。
…へえ、決して、怪しいもんじゃございまヘん…。
そんな調子で、その猫は小生に背を向けた。
…どうぞ…。
小生に尻の穴を臭げという。猫の挨拶だ。仁義をわきまえている。小生はその猫の尻に近づいた。
「ウエー!」
腰が抜けそうになった。そこには、恐ろしいほどデカイ金玉がドロロローーンどぶら下がっていた。
それが、小生のじいさん。伝説の「精神猫」玉やんだった。玉やんはゆっくりと小生を胸に抱いてくれた。

玉やんの腕の中は暖かかった。小生は夢心地でゆらゆらと揺れ続けた。
「トラやん…。ちょっと、頼みがあるんやけど」
どれくらい時間が経ったのだろうか、小生の夢心地のなか、玉やんが遠慮がちに言った。
「なに、じいちゃん…」
小生は幼子のようにじいさんに甘えていた。胸に顔をうずめておっぱいをモミモミしていた。
「じいちゃんは、いやや。玉やんでええ…」
「うん…。玉やん…」
どこからか線香のにおいが届く。風がゆるりと頬を過ぎる。
「あのなトラやん。健之助に会いたいという人がおるねん。力貸してくれへんか…」
何のことか分からなかった。健之助に会いたい?
「お前もこの家のもんやったら、健三はんのことは聞いてるやろ。その健三はんが、下の仏壇の裏の暗がりで待ってはんねん…」
そういえば、今日は、その健三さんの小月命日だった。さっきの線香のにおいはそれでだ。そろそろ、坊さんのお経が聞こえるころだ。
「健三さんのためや…。健三さんとわしは、ここまで来るのに15年かかった。健之助が生まれた年から、あっちこっち彷徨って、あの世やこの世やかの世、その世を行ったりきたりしたんや…。あっちの世界は時間がむちゃくちゃなんや。何年たったか、何回、春が来たか、まったく分からへん。なかなかこの世の浮世にまでは来れんうちに、気がついたら、こっちの世界は十五年もの月日が流れてしまってた。あんまり早いんで、びっくりしたわ…」
玉やん声が、夢心地の小生には、子守唄のように聞こえていた。ゆらゆらと小生の意識が揺れる。
「ほんで、やっとや、やっとの思いで、こまでたどり着いた。あと少しなんや。あと少しで健三はんの思いは遂げられるんや…」
玉やんがしんみりとなる。で、一体なんで、玉やんがそこまで、健三さんの為に
「健三さんは、自分の初孫の生まれる二日前にぽっくりと死なはった。二日後に、まさか孫が母親から出てくるとは健三さんも知らんかったんやど。でも、あと少し、あと少しやったんや…」
玉やんは、訥々と健三さんとの話を続けた。玉やんの健三さんへの愛が、小生にも痛いほど伝わった。健三さんの我が侭を、玉やんが聞いてやっている。生前のお礼だと、玉やんの全てをかけて、健三さんに尽くしている。玉やんは「天晴れ」猫の鏡だった。世の中、いや、玉やんの言うあの世やかの世の猫たちに、玉やんの爪の垢を煎じて飲ましてやりたい。
「頼むわ、トラやん。健三はんと健之助を会わしてやってくれな…。な…」
どうしたらいいのか分からないまま、小生は玉やんに頷いていた。
「今日を逃したら、また、一年伸びるんや…。な…。な…」
なんで、一年伸びるのかは分からないが、もう一度、小生は玉やんに頷いていた。玉やんの心意気に胸が熱くなっていた。

「南無阿弥陀仏…」
予想通り、下の仏間から坊さんのお経が聞こえてきた。低く重低音が健之助の部屋に轟く。
「とにかく、トラやん。健三はんと会うてやってくれ。今、仏壇の裏にいはるんや…」
玉やんは、勝手知ったる我が家を、とことこと幻の姿で進む。襖を素通り、ガラス障子を素通り。
「玉やん。待って」
不思議なことに、玉やんの通ったあとを小生も通り抜けれた。やはり、小生は精神猫なのだ。
仏間に行く前に、玉やんは元健三さんの部屋に寄った。15年経っても、その部屋は当時のままに置かれていた。
「この世の浮世はええな…。さっき三味線の音してたやろ…。ええな。ええなー」
玉やんは、健三さんの文机の下に潜った。生前の玉やんのお決まりの定位置だ。
「浮世はええな…。お経もええけど、三味線ええなー。ええな。ええなー」
玉やんはうっとりと微笑んでいた。健三さんの部屋で、玉やんは生前の日永の昼下がりを思いだしているようだった。微笑みの瞳に涙がいっぱいにたまっていた。

玉やんは小生を結構急かせたくせに、健三さんの文机の下でとろとろと眠りに入ろうとしていた。
「玉やん…」
小生もその机に潜った。そこは、玉やんの寝息が漂い暖かさが溢れていた。
「トラやん。心を澄ますんや」
それは、どこか遠くから消えた。玉やんの夢から聞こえた。小生は玉やんの顔を覗き込んだ。暖かい寝息が小生の頬を過ぎた。
「トラやん。おいで…」
玉やんは、玉やんの夢の中から小生を呼んだ。
「トラやん。おいで…」
小生は玉やんに意識を集中した。
「玉やん…。あたたかい」
猫は、常に夢と戯れている。日々の、あれだけの睡眠時間は伊達じゃない。夢は、猫たちのパラダイスであり、夢の中での出来事が、猫格を神聖へと形成していく。現実だけが、猫の現実ではないのだ。夢は、猫にとって、現実と同じリアルな世界であり、常に、その中で意識が覚醒している。夢にこそ、猫の未来があり、夢の先に、あの世やかの世やその世、そして、更にすばらしい光の世界があるに違いないのだ。夢に、猫の次の世が創造されていき、猫の進化はそれへと向かう。
「トラやん。心を澄まして…」
玉やんは風に乗っていた。夢の未来から吹く風に乗っていた。
「玉やん…。どこへ行くの…」
風が心地よい。涼しげに、小生たちに未来の春を呼んでくれている。
「テツばあさんが呼んどるんや。この風の向こうや…」
玉やんは風を進んだ。訳の分からないまま、小生もあとに続いた。玉やんのデカイ金玉を見ながら、必死に風をつかんでいた。

健之助は夢にうなされていた。風邪だった。
「じいさん。じいちゃん!」
どういう訳か、見たことのない自分のじいさんに、健之助は大声で怒鳴っている。
「行くな! そっちへ行くな!」
風の向こうから、自分のじいさんが手招きしている。
「行くな! そっちへ行くな!」
また、おんなじ夢や…。いつもや、熱が出ると、この夢にうなされる…。
夢の出口に、健之助は近づいていた。このあと、健之助はじいさんの手を握る。その手の冷たさに、驚いて目覚める。いつもの夢だ。
「じいさん。じいちゃん!」
健之助に風が遠くなる。目覚めが近い。
「南無阿弥陀仏…。南無阿弥陀仏…」
どこからか、お経が聞こえる。低くいい声だ。
「あれれ、いつもと違う。お経なんていつもはあらへん…」
健之助は、夢から出るのを少し待った。お経はいいリズムだった。
「南阿弥陀仏! ナムアミダー♪」

どこかから、お経が聞こえる。玉やんがくすっと笑った。
「トラやん。急げ…」
小生は風に慣れ、玉やんのスピードにも慣れ、時空の隙間の冒険に心がうきうきしていた。
「うん、玉やん」
玉やんと一緒なら、怖い事など少しもなかった。今から、何が起こるのか、楽しい気分になっていた。
「ナム~~ ア~~♪ ミ~~♪ ダ~~♪」
お経の声が近くなる。風の向こうに少しだけ光が影を持ち始めていた。
「あっちや…」
玉やんはその影に進む。影にうっすらと坊さんの姿が見える。
「ナム~~ ア~~♪ ミ~~♪ ダ~~♪」
お経の声はいつもと同じ低く重い。しかしながら、その中身は聞いたことのないものだった。
玉やんは坊さんに近づいた。坊さんは眠りの中にあった。それならば、このお経は?
「デタラメや…。テツばあさんが、この坊主に乗り移ってんのや…」
玉やんは坊さんの眉間を三度ノックした。
「待ってたで…」
中からお経にまじって猫の声。
「はよ、入り」
「おじゃましま…」
玉やんは坊さんに合掌。その瞬間、坊さんの眉間に風の渦が舞う。
「イヌ、サル、サンネン,ネンネン♪♪  ネコ~~♪ ハ~チ~ネンネン♪♪ イエー♪♪」
デタラメお経が続く。リズムもテンポも速くなる。エイトビートにシャウトしている。
「ナム ア♪ ミ~ダ♪ ダダダダダ♪♪ ネコ、ネコ、フンジャッタタタタ♪♪」
「トラやん。おいで…」
トラやんは、坊さんの眉間の風に紛れていく。
「うん。玉やん…」
小生も玉やんに習い、坊さんの眉間を三回ノックした。
「おじゃまします…」
坊さんは完全にどっかへ行っている。熟睡だ。
「ネコ、ネコ、フンジャッタタタタ♪♪♪  フンジャッタラララララ♪♪♪」
シャウトが、シェケナベイビー♪♪ ロックになっていく。風が坊さんの眉間に消えていく。玉やんが風に消えていく。
「トラやん。はよう」
とっさに玉やんの金玉をつかんだ。この一物は非常に掴まりやすい。
「フンジャッタラ♪♪♪ フンジャッタラ♪♪♪ フンジャッタラ♪♪♪」
回転しながら玉やんと風に入った。ぐるぐるぐるぐる回転が速くなる。線香の匂いが近くなる。
「フンジャッタラ♪♪♪ フンジャッタラ♪♪♪ イタイワヨ♪♪」
デタラメが輪をかけていた。ネコ、踏んじゃったら、痛いわよ…。そんなお経、この世にもあの世にもあるわけない。
「トラやん…。大丈夫か」
坊さんの中に入った。中は、ロックンロールと三毛猫が占領していた。
「ゴクロウサ~~~♪♪ ンンンン♪♪」
出迎えてくれたのは、テツばあさんだった。ミーちゃんそっくりの涼しい眼だった。
「イエー!」

小生は、今、玉やんの夢の中にいる。そして、玉やんは、夢とこの世を結び付けようとしている。それは理解していた。
「ゴクロウサ~~~♪♪ ンンンン♪♪」
玉やんのような「精神猫」は、それくらいの芸当は出来る。夢は、この世やあの世と四次元に複雑に絡み合っている。今生に生きるだけが、猫たちの生涯ではない。猫は時空を越え、この世界を飛び回る。
つまり、小生は、今、四次元の世界にいる。玉やんの夢に入り、玉やんの時空をつかみ。そして、玉やんと結びついていく。
「ナム ア♪ ミ~ダ♪」
小生は、テツばあさんに頭を下げた。
「トラと申します…」
テツばあさんが目を閉じた。
「トラ。ご苦労さん…」
暖かい意識が、テツばあさんから流れ来る。
「トラ。よお来たな… ヨ~♪ キ~~♪♪ タ~~♪」

「猫の寿命がこの世で10年余り。たったそれだけの月日が、うちらの時間であるはずがない。この世界が生まれた永遠の時のなかに、猫は生きてきたんや。その中で、うちら、何世も何世も転生を繰り返し進化してきたや…」
テツばあさんが、何や難しい事を話し始める。こんな、てんやわんやの時に、大丈夫かな…。
「トラ。今、ここ時間が止まっとるわ。焦るな…、アホ…」
さすが、テツばあさん。小生の案じを察し、それを瞬時に消してくれた。
「人間からは、猫は神秘に見られる。猫に取り憑かれるとか、化けて出るとかな…。それは、猫が、 この世界のことを、しっかりと的確に理解しており、そこでの生き方を確実に把握しているからなんや…。猫はなぁー、この世と夢とを行ったり来たりして、更に、かの世やその世やへの世、おの世を夢に結び付けていくんや…」
テツばあさんが瞳を開ける。透き通った水晶玉が二つ、小生の目の前に揺れる。
「生命とは永遠なんや…。分かるか、トラ…」
水晶玉に光が生まれる。その光に、小生のすべてが吸い込まれていく。
「愛の存在なんや…。うちらは、愛の存在なんや…。分かるやろ、トラ…」
分かります…。分かります…。小生は水晶玉に頷いた。水晶の光が色を持ち始める。
「猫は、人間たちより、その愛を深く知っている。そやから、人間たちのように、あんなアホな殺し合いなんかせえへん…」
水晶の色が、見たことのない輝きを見せる。この世にない色だ。小生の理解が進んでいた。水晶の色が、それを教えてくれている。
「なんで、なんで、もっと、人間は、自分たちの愛を見ようとせえへんのやろ…」
水晶が潤んでいく。一瞬、以前テレビで見た戦争の映像がそれを過ぎる。
「人間も猫も今生を越えたら、未来世へいくんや…。未来世はこの世のすぐ側にある。そこへは、愛があったら、誰でもすぐに行き来することが出来るんや。アホでもボケでもみんなみんなオーケーや…」
水晶の色が濃くなる。小生の魂が激しく震えだす。
「未来世を、人間たちが見たら、瞬間に戦争など終結するわ…。未来世を、もっと感じなあかん…。未来世を、もっと、信じなあかん…」
水晶が色を凝縮していく。光を漏らさずに、光をこぼさずに。
「なんで、なんで、人間たちは、この世で生き急ぐんやろ…」
テツばあさんが後ろを向いた。それでも、愛の水晶は目の前から消えない。
「分かったか、トラ…」
水晶は揺れ続けた。小生の魂も揺れ続けた。
「トラも今日から精神猫の仲間入りや…。トラ、愛してるで…」
水晶が小生の中に入ってきた。小生の魂に暖かく、眩しく、そして、軽やかに。
「ト~ララ~♪♪  ア~~~イシテ~~ル~~♪♪♪」
時が動き始めた。デタラメお経が、再び低く響き始めた。

「ナム ア♪ ミ~ダ♪」
テツばあさんはお経を続けながら、小生に意識を飛ばし続けた。
「トラ。これから言うことをよく聞くんや。ええか」
小生は大きく頷いた。テツばあさんから貰った二つの水晶が、胸の中で熱く燃え上がる。
「ネコハ、シンデモ~~♪、ソノカワ、ノ~~コ~~ス~~~♪」
小生も「精神猫」仲間入りを果たした。今、胸の中に輝く水晶がその証だ。
「トラ。うちは、このお経を続けんといかん。この家の嫁に当分居眠りをしていてもらわんとあかんし…」
見ると、健之助のお母さんが、坊さんから離れた柱にもたれて、気持ちよさそうに舟を漕いでいる。坊さんへの茶菓子が側に置かれている。
「ナム ア♪ ミ~ダ♪」
小生に緊張が走る。精神猫として最初の大仕事だ。
「もうすぐ、この坊さんは目覚めはる。目覚めたら、坊さんを健之助の部屋へ連れていくんや。玉やんが健三さんと一緒に坊さんの中へ入りよるし…」
えっ、どういうこと? 坊さんを健之助の部屋へ連れて行く? 坊さんに、玉やんと健三さんが入って?

「トラ。この作戦の成功の鍵はお前なんや。お前にかかってるんや…」
玉やんが小生の肩をたたく。優しい眼が小生に熱い。
「トラやん…。頼むで…」
「うん、玉やん…」
「ナム ア♪ ミ~ダ♪」

テツばあさんの言ったとおり、坊さんがうつらうつらと目を開けた。玉やんが再び坊さんの額をノックした。
「健三はん。今や…」
その声に、仏壇の裏から健三さんが顔を出した。
「トラやん。頼んまっさ…」
うそや! 小生は叫びそうになった。仏壇から覗いた顔は、なんと健之助と瓜二つ、そっくりそっくりの丸い顔だった。
「トラやん。頼むわな…」

健三さんは、小生に何度も頭を下げた。ゆらゆらと蜻蛉が飛ぶ様のように、健三さんは仏壇から部屋にて出来た。
「トラやん。頼むわな…」
人も見える人はいるけれど、ほとんどの猫が幽霊が見える。現に小生も裏の空き家で何度も出会っている。猫が、誰もいなく何もないところで尾を膨らませていたら、それは、幽霊と遭遇しているところだ。幽霊は、猫や人間にとって、まったく害のないものだけど、猫たちは幽霊に、自分の本来いるところへ戻れと、威嚇しているのだ。こちら側へ来るなと、注意し脅しているのだ。
健三さんは、小生に微笑むと、玉やんに習い、坊さんの眉間を三度ノックした。
玉やんと健三さんが、坊さんの眉間に消えていく。そこにだけ風が吹き、四次元空間がほころぶ。
「トラ~~♪ ガン~バ~レ♪♪」
テツばあさんのお経が応援歌になる。
「トラ~~♪ ガン~バ~レ♪♪」
小生は、坊さんの眉間に風が消えるのを見届け。坊さんの膝に乗った。
「ソウ~ヤ♪ ハ~ヨ~♪ ボウ~ サンヲ♪ ツレ~テ~♪ イ~ケー♪」
テツばあさんの応援に、小生が奮い立つ。精神猫として、最初の大仕事。何としてもやり遂げなければならない…。
「ミャー! ミャャャャャン~~!」
小生は坊さんに訴えた。精神猫として、己の全てで坊さんに訴えた。
「……」
坊さんは、焦点の定まらない瞳を小生に向けた。虚ろに、小生の目ん玉を覗き見る。
坊さんは、今、夢と現実の世界で揺れている。玉やんが坊さんの中で、坊さんの意識が覚醒しないよう、努力しているのだ。おそらく、玉やんは坊さんの中で、坊さんの過去を覗き、その過去を坊さんの意識に揺らしている。坊さんの青春の一コマ、比叡山のピクニックか、若狭の海水浴か…。そんなところか…。
玉やんも、必死に精神猫としての仕事を全うしているのだ。
「……」
坊さんが、夢かうつつが曖昧に微笑んだ。微笑みの向こうに青い海が広がっている。玉やんの覗いた坊さんの青春は、若狭の海だった。
「トラ…?」
小生と坊さんは、何度か顔を会わしている。でも、名前まで覚えていてくれたとは知らなかった。
「どうした、トラ…」
おそらく、三分、いゆ、五分。坊さんは、五分したら娑婆に戻る。いくら、玉やんでも、それ以上は無理だ。
「ナム ア♪ ミ~ダ♪ ナム ア♪ ミ~ダ♪」
テツばあさんが、玉やんの援護を。お経が大きくなる
「ナム ア♪ ミ~ダ♪ ナム ア♪ ミ~ダ♪ タマヤ~♪ トラヤ~♪」

「ミャャャャャン~~!」
小生は一世一代の演技をした。坊さんの膝から降りる。坊さん、坊さん、手のなるほうへ~♪
「ミャャャャャン~~! ミャャャャャン~~!」
坊さん、坊さん、手のなるほうへ~♪
坊さんが立ち上がる。屈み腰で小生を見る。
「ミャャャャャン~~! ミャャャャャン~~!」
「どうした、トラ…」
坊さんこちら、手のなるほうへ~♪
「どうした、トラ…」
「ミャャャャャン~~! ミャャャャャン~~!」
坊さんこちら、手のなるほうへ~♪
坊さんは屈んだままだった。なかなか意思が伝わらない。
「ミャャャャャン~~! ミャャャャャン~~!」
坊さんこちら、手のなるほうへ~♪
「なんや、トラ、なんかようか?」
「ミャャャャャン~~! ミャャャャャン~~!」
坊さんこちら、手のなるほうへ~♪
「ミャャャャャン~~! ミャャャャャン~~!」
坊さんこちら、
坊さん、坊 ぼう……。ボウ…。
「コラー!!!!!!! ボウス #★ ボウス#★!!」
こっちや! こっちへこんかい、どあほ!!

健之助は夢の続きにいた。訳の分からないお経が意識に揺れ続ける。
「ナム ア♪ ミ~ダ♪」
誰かが、健之助を呼んでいた。健之助は夢の中で腰を浮かした。
「ナム ア♪ ミ~ダ♪」
その時、風が吹いた。夢に揺れる健之助の眉間に涼しい風が吹いた。
「トラか…」
健之助は周りを見渡した。
「トラ…」
トラはいない。その代わり、何かが揺れている。
「なんじゃ、これゃ…」
それは、こぶし大の水晶だった。健之助は、その水晶を覗き込む。
「トラか…」
水晶の中に、一匹のトラ猫がこちらを見ている。
「トラか…」
よく見ると、その猫は健之助を手招きしている。起用に、お手てで「おいでおいで」している。
「ナム ア♪ ミ~ダ♪」
どういうわけか、健之助にすがすがしい気持ちが揺れる。猫の手招きに、心がウキウキとしてくる。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」
健之助からお経がもれる。慈悲の気持ちが健之助に溢れる。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」
健之助は水晶に跪いた。水晶の猫が微笑んだ。
「ミャャーン♪」
猫の後ろに、誰かが立っていた。丸い顔が、どういうわけが緊張に少々歪んでいた。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」

小生の剣幕に驚いたのか、坊さんの背が伸びる。
「ミャャャャャャー~~!」
坊さんのとろり目が、小生の声に反応する。
「トラ…。トラ…」
ふらふらと、小生の案内に坊さんが着いてくる。
「ミャャャャャャー~~!」
小生は襖の前で止まった。自分だけでは、玉やんみたいに襖抜けは出来そうにない。いや、出来たとしても坊さんが通れない。
「ミャャャャャャー~~!」
ここが正念場だった。何とか、坊さんに襖を開けてもらい、二階へ、健之助の部屋へ歩を進めてもらわないといけない。
「ミャャャャャャー~~!」
小生は、あらん限りの声を坊さんに送った。その時、坊さんが小さく頷いたように思った。

「玉やん、まだなんか…」
健三さんの情けない声が、玉やんに届く。
「健三はん、もうちいとや、もうちいと待ちなはれ…」
健三さんのもじもじが大きくなる。あまり、不安が大きくなると、健三さんは、この夢から漏れ落ちてしまう。
「健三はん。もうちょっとやで、もうちょっと…」
玉やんは、トラやんに意識を送った。
「がんばれ、トラやん…。健三はんが、もう限界や。トラやん、まだか…」
トラやんに意識は届かない。玉やんは待った。ひたすらトラやんを待った。
「トラやん、たのむで、トラやん…」

襖の向こうから、お経が聞こえる。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」
テツばあさんのでもない。坊さんの声でもない。音が少しずれている。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」
それは、上から降ってきていた。二階から? 健之助の部屋?
「ミャャャャーン~♪」
坊さんが襖に手をかけた。二階からのお経に反応している。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」
「ミャャャャーン~♪」
健之助がお経を…。あの健之助がお経を…。小生の胸は、猛烈に熱くなった。あの健之助が、仏さん事など、まったく関心のなかった健之助が…。仏壇に寝転んだ足を乗っけていた健之助がお経を唱えている。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」
ああ、健之助…。いま行くぞ。待っててくれ…。
「ミャャャャャーーン♪♪」
坊さんが襖を開けた。小生は一気に階段へ進む。
「ミャャャャャーーン♪♪」
坊さんのうつろな目に、少しの光が宿る。袈裟を掛け直し、背筋をいっぱいに伸ばす。
「南・無・阿・弥・陀・仏」
坊さんからもお経が漏れる。さすが坊主。素晴らしい声だ。
「ミャャャャャーーン♪♪」
坊さんと小生は、階段を上った。みしみしと音がする。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」
健之助の部屋からの下手なお経が近くなる。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」
お経のリズムで、坊さんが小生の名を呼ぶ。
「トラーよ! ああ、トラーよ!」
坊さんにオーラが浮かぶ。細面のいかつい顔に光が射す。
「トラよ。がんばれ♪」
階段を上りきる。健之助の部屋の前に立つ。
「南・無・阿・弥・陀・仏」
坊さんが、健之助の部屋の襖に手をかけた。中からのお経が大きくなる。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」

「トラ! よっしゃ」
坊さんが健之助の部屋に入った。
「健三さん、今や、今や!」
しかし、健三さんがもたついた。健三さんは夢とうつつがごちゃ混ぜになっていて、玉やんたちの意図することの理解ができていない。
「お上人」
健三さんと坊さんの視線が正面からぶつかる。
「お上人…」
ああああ…。あかん…。あかん…。玉やんが頭を抱えた。
「あかん、あかん、健三はん!」
玉やんは、思い切り健三さんを引っ張った。
「あかん、あかんて!」
坊さんと健三さんが、言葉を交わしてしまう。その瞬間が、健三さんのこの場から消えてしまう瞬間なのだ。あの世の夢の中にいる健三さんが、その夢から、零れ落ちてしまうのだ。この世の風に訳が変わらなくなってしまい、あの世の夢が色をなくしてしまうのだ。
「あかん。あかん」
「お上人…。ご無沙汰しております…」
うん…。坊さんが健三さんをぼんやり認める。坊さんのお経が一瞬止まる。
「あかん、あかん…」
玉やんが二人の中に入る。坊さんの口が再び開こうとする。

「ミャー、ミャー!」
声の限りに叫んだ。小生は泣いていた。何か心の奥底から、熱いたぎりが沸騰していた。小生は、それを抑えることは出来なかった。
「ミャー、ミャー!」
精神猫として、小生の魂は叫ぶことしかできなかった。
「ミャー、ミャー!」
時間が止まった。坊さんの開きそうになった口がゆっくりと閉じる。玉やんがどんぐり眼を小生に向ける。
「ミャー、ミャー!」
小生は叫び続けた。何故だか分からなかった。しかし、叫ぶことによって、ここにいるみんなの心がひとつになると思った。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ…」
止まった時を、ゆっくりと揺れ動かしたのは健之助だった。健之助は夢から出ようとしていた。いや、夢の中で目覚めようとしていた。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ…」
音の外れたお経が、小生には、それはそれは美しい調べで熱い魂に届く。熱さが癒されていく。
「ナム ア♪ ミ~ダ♪」
テツばあさんが部屋に入る。小生を潤んだ目で見ている。
「ミャー、ミャー!」
時の動きが加速する。テツばあさんが坊さんを促す。
「ナム ア♪ ミ~ダ♪ ミャャー♪」
坊さんが小さく頷き、健之助のほうへ歩を進める。
「南・阿・弥・陀・仏」
本家本元のお経が、みんなのお経に加わる。
「南・阿・弥・陀・仏! 南・無・阿・弥・陀ー!」
坊さんが小生を抱っこした。坊さんの目も潤んでいる。
「健三はん。こっちや…」
玉やんが健三さんの肩に乗る。
「健三はん。みんなの心がひとつになっているんや。それは、あんたの人柄や。ありがたいことや。ありがたいことや…」
玉やんの目まで潤んでいる。玉やんもお経を唱え始める。
「な・む・あ・み・さん…。な・む・あ・み・さん…」
健三さんが落ち着きを取り戻していく。
「おおきに、おおきに…。おおきにや…」
「な・む・あ・み・さん…。な・む・あ・み・さん…」
玉やんと健三さんが坊さんの後ろへ寄る。テツばあさんもそれに続く。

「南・無・阿・弥・陀・仏! 南・無・阿・弥・陀!」
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ。ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」
「ナム ア♪ ミ~ダ♪ ナム ア♪ ミ~ダ♪」
「ミャー、ミャー!」
「な・む・あ・み・さん…。な・む・あ・み・さん…」
「おおきに、おおきに…。おおきにや…」

部屋にお経の大合唱が轟き渡った。

「南・無・阿・弥・陀・仏! 南・無・阿・弥・陀!」
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ。ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」
「ナム ア♪ ミ~ダ♪ ナム ア♪ ミ~ダ♪」
「ミャー、ミャー!」
「な・む・あ・み・さん…。な・む・あ・み・さん…」
「おおきに、おおきに…。おおきにや…」

坊さんが健之助に近づく。健之助が立ち上がる。

「南・無・阿・弥・陀・仏! 南・無・阿・弥・陀!」
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ。ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」
「ナム ア♪ ミ~ダ♪ ナム ア♪ ミ~ダ♪」
「ミャー、ミャー!」
「な・む・あ・み・さん…。な・む・あ・み・さん…」
「おおきに、おおきに…。おおきにや…」

健之助が泣いていた…。あの健之助が泣いていた。それは、小生にとって始めてみる涙だった。美しいと思った。

さすが、仏の世界に身を置く人だった。坊さんが目を閉じた。そして、健三さんに自分の精神を開放した。健三さんが坊さんの意識に入る。
「どうぞ…」
時空を越えた者たちの一体感だった。坊さんが再びお経を唱える。この場に相応しく小さく低く。
「南・無・阿・弥・陀・仏! 南・無・阿・弥・陀!」
「健三はん。さあ…」
玉やんが健三さんを急かす。玉やんの顔に小さく安堵が浮かんでいる。
「おおきに…。おおきにや…」
健三さんが一歩前へ。
「ナム ア♪ ミ~ダ♪」
テツばあさんの声も聞こえる。健三さんは健之助の正面に立った。
「わが孫よ…」
健三さんの念願はかなった。あれから、15年。
「南・無・阿・弥・陀・仏! 南・無・阿・弥・陀!」
「な・む・あ・み・さん…。な・む・あ・み・さん…」
「ミャー、ミャー」
小生も玉やんも小さくお経を唱えていた。時空を越えたこの部屋は、理解しあった者同士が、熱い思いに結ばれていた。
「南・無・阿・弥・陀・仏! 南・無・阿・弥・陀!」
それは、愛だ。愛というものが、小生たちをひとつに結び付けていた。小生たちに何の隔たりもなかった。
小生は思った。この一体感は、我々、生命を持つものなら誰でも知っている。誰でも経験している。そう、小生の生まれる前、いや、もっと以前、玉やんの生まれる前、いや、もっともっと以前。もっともっともっともっともっともっと…。
「な・む・あ・み・さん…。な・む・あ・み・さん…」
玉やんのお経にその答えがあった。
-そうや、トラやん…。この世界に、争いごとなど何もなく。生命あるものがすべて理解しあえた時があったんや…。遥か太古や…。
「な・む・あ・み・さん…」
-うん、玉やん。生命が光だったころ…。
-そうや、トラやん…。生命が光やったころ…。
「ミャー、ミャー…」
「な・む・あ・み・さん…」
健之助の持つ水晶玉が、更なる光を放ち始める。夜空の星が爆ぜているように、その光は水晶からはみ出ていく。
「わが孫よ、健之助よ…」
健三さんは既に泣いていた。大粒のものが何粒も頬を滑っていく。
「な・む・あ・み・さん…」
「ナム ア♪ ミ~ダ♪」
「ミャー、ミャー…」
小生たちのお経にも熱が入る。健三さんが振り返る。感謝の気持ちが玉やんに伝わる。
「おおきに、おおきに…。おおきにや…」
健三さんが、健之助の持つ水晶に手を伸ばす。
「きれいやな…。きれいな玉やな…」
健三さんには、健之助が赤ん坊に見えていた。まだ、鼻の穴に産毛も生えていない、小さな小さな光に見えていた。

「南・無・阿・弥・陀・仏! 南・無・阿・弥・陀!」
「ナム ア♪ ミ~ダ♪ ナム ア♪ ミ~ダ♪」
「ミャー、ミャー!」
「な・む・あ・み・さん…。な・む・あ・み・さん…」

健之助は、今まで経験したことのない安定のなかにいた。水晶の光が健之助を誘った。心の安定がその光と同化していく。
「おじいちゃん…」
光の向こうに丸い顔が見える。自分を呼んでいる。
「健之助…」
健之助はそれへ向かおうとした。足をばたつかせ、腕を大きく回した。先ほどの悲しみが、心の中に愛の波動となり、健之助の魂は震えていた。安定のなかで、健之助は恍惚に酔いしれていた。世の全ての生命との一体感が、健之助を包み。未来の輝きが、水晶の光と共に揺れる。
「おじいちゃん…」
健之助は生まれる前の赤子の姿だった。
「おじいちゃん…」
健之助は手を伸ばした。足を伸ばした。身体中をムチャクチャに動かした。これほど、自分のじいさんを愛しいと思ったことはなかった。じいさんに抱っこしてもらいたかった。じいさんの生命の息吹を肌で感じたかった。
「おじいちゃん…」

赤子の姿で、わが孫健之助が、両腕両足をムチャクチャに動かしている。懸命に前へ進む。何かを叫び、何かを訴えている。健三さんは手を伸ばした。手を伸ばせば、届きそうな距離だ。
「健之助、健之助」
男の子だ。
「逞しく育て! 逞しく育て!」
ああ、届かない。健之助が光の中に落ちていく。
「逞しく育て! 逞しく育て!」
健三さんは声を限りに叫んだ。健之助が消えていった。叫びが闇に消えていった。
「ああ、健之助、わが孫よ」

「おじいちゃん…。行ったらあかん…」
じいさんの意識が自分から遠ざかっていく。健之助は慌てた。じいさんが遠ざかる。
「あかん、逝ったらあかん。そっちは、この世やない。あの世や…」
じいさんがどこかの川を渡っていく。健之助はじいさんを追った。冷やりとした風が健之助を過ぎる。闇が健之助を包む。
「逝ったらあかん。そっちは、この世やない。あの世やで!」
健之助は、闇の中に見える微かな光を追った。それへじいさんが消えていった。
「おじいちゃん…。おじいちーやん!」
闇を抜け、光を浴びた。
「おじいちゃん…。オギャーー! オギャーー!」

あの日の再現だった。しかし、健三さんの意識はあの日とは違った。あの日と違い、健三さんは安定のなかにいた。世の全ての生命との一体感を、魂で感じていた。
「健之助…」
孫が光に落ちていった。それは、あの時、我が孫健之助が、道を踏み外さなかったということなのだ。
健三さんは、ゆらゆらと揺れる。目の前に立つ、大きくなった健之助を自らの胸ら抱いた。
「大きくなった。大きくなった」
健三さんは泣いた。魂の震えが健之助への愛となって思い切り爆ぜた。安定のなかに、美しい色を持つ愛の波動が激しく揺れた。
「ああー、健之助…」
時が止まる。健三さんと健之助は生命の抱擁を続けた。

「南無阿弥陀仏! 南阿弥陀!」
「南・無・阿・弥・陀! 南・無・阿・弥・陀・仏!」
「ナム ア♪ ミ~ダ♪ ナム ア♪ ミ~ダ♪」
「な・む・あ・み・さん…。な・む・あ・み・さん…」

「死んでいくわしを、お前は懸命に追いかけてきた。行くな、逝くなと言って…。ああ、あんなところまでわしを追っかけてくるとは思わなんだ。すまんかった。すまんかった」
健之助が、健三さんに手を差し出した。
「じいちゃん」
健三さんが微笑んだ。笑みが健之助に眩しい。
「大きくなった。大きくなった。逞しくなった」
健三さんも手を伸ばした。健之助が微笑んでいる。
「もう少しで、お前は、わしに追いつくとこやった。追いついてしもたら、お前もわしと一緒にあの世行きやったんや…。恐ろしい子やった。健之助。お前は恐ろしい子やった…」
二人の手がひとつに重なる。暖かさが二人を包む。
「それで、お前は、二ヶ月も早ようこの世に生まれたんや…。未熟児で死にそうになったんや…。すまんかった。すまんかったな」
健三さんの思いのひとつだった。健三さんはそのことを謝りたかったのだ。
「すまんかった」
健之助が健三さんの胸に顔を埋めた。健之助の涙がその上に落ちる。
「ああ、我が孫よ。我が孫、健之助よ」
「じいちゃん」
二人は強く強く抱き合った。健之助の持つ水晶から光が揺れた。宇宙の煌きで、二人だけをしばらく照らした。

「南・無・阿・弥・陀! 南・無・阿・弥・陀・仏!」

二人の涙が、宇宙の光に溶け合った。静寂の中に、坊さんの美しい言葉だけが部屋に響いていた。この世の時が静かに動き始めていた。

「南・無・阿・弥・陀! 南・無・阿・弥・陀・仏!」

「精神猫」トラ 第一話   完

    精神猫「トラ」 第二話

      1

 あれから、一ヶ月ほど過ぎた。健三さんと健之助の再会は短いものだったけど、二人にとっては貴重な時間となった。健之助は、自らの魂の奥深くに愛という生命の波動がしかと刻まれ、未来永劫に、それは健之助の意識の深層部分に輝き続けることになった。

 また、健三さんは、自分の思いが遂げられたせいか、あるいは、感情の激震に包まれたせいか、更に慈悲深くなり、聖人のような優しさを身に着けていくことになった。

 そして、小生も玉やんも、テツばあさんも、あの場に立ち会えたことの喜びが、それはそれは大きく胸の中に、あの美しい水晶の玉と一緒に揺れ続けることとなった。

 まあ、そんな訳で、小生の「精神猫」としてのデビューは、それなりの成果を挙げ、玉やんからもテツばあさんからもお褒めの言葉を授かった。そして、あの坊さんからも。

 今、思い返すと、やはり、我々の生命はとてつもなく偉大なものだと思える。愛というものは何をも貫いて、我々の生命に、その偉大さの輝きを消すことはない。生命というのは永遠であり、それを持つ我々は、未来へ歩む義務があり、すべてのものと結び合える至高なる光を既に心に持っている。そして、光に包まれた時が、全ての生命の究極の安らぎであり、次への進化の第一歩なのである。

 今朝の目覚めは快適だった。天気もよさそうだ。小生は健之助の布団を出て、雨戸の隙間から外を見た。

 いい天気だった。天晴れとはこういう日のことをいうのだろうか。朝の光が透き通った風と戯れていた。

 今日は、ミーちゃんと一日ひなたぼっこだ。

 しかし、そういうわけにはいかなかった。再び、物事が起きた。

 この日は秋分の日。お彼岸さんだった。

 猫は、お彼岸さんの七日間をあまり歓迎したがらない。結構忙しいのだ。それも中日となると、彼岸に旅立った人たちが、その日を狙ってこの娑婆へ降りてくるのだ。それは、残していった者たちへの未練なのか、それとも、彼岸の向こう側でもそういう習慣になっているのか、小生には分からない。ただ、その日は、人たちがご先祖様のお墓参りなど、仏事を行う。その人たちの念が、大勢で一気に遥か彼岸にも届くのだろう。ゆらゆらと、誘われるように、あの世から、大勢の霊がこの浮世になだれ込む。それが、猫たちが見えるのだ。お彼岸の期間は圧倒的にその数が多いのだ。

 小生は、いつものように砂利道の隅を、ミーちゃんとの待ち合わせのお寺へ向かっていた。

「トラやん…」

 お寺へ着く前にミーちゃんが小生を呼んだ。二匹して歩く秋の小道は、陽だまりが幾重にも重なり合っていた。

「トラやん…」

 ミーちゃんのお腹には、小生の子が宿ってた。お互いの愛の証明だ。ミーちゃんは少し膨らんだお腹を気遣いながら、お寺への道をゆっくりと歩いた。道には、彼岸花がぽつぽつ咲いている。

「彼岸花って、あの世の人には見えないんだって…」

 本堂の片隅の小さな陽だまりに、二匹して佇んだ。目の前の小池の淵にも、彼岸花が咲いていた。

「テツばあさんに聞いたの…。彼岸花は、死人花、捨て子花、幽霊花とも言うんだって」

 ミーちゃんの、ゆらゆらころころ、ゆっくりと鈴が転がるような声のリズムに、小生はうっとりと目を細めている。

「この世の悲しみを、彼岸花は、人に代わって受け入れているんだって…。だから、あの世の人はその花を見ない。見ないようにしているんだって…、いいや、見えないことにしているんだって。あたし、分かるような気がする…。なんだか、哀しい色よね…」

 小生は、花よりミーちゃんだった。ミーちゃんの瞳を小生は覗き込んだ。ミーちゃんもうっとりと目を細めていた。

 秋はもの悲しい。それは、人間も猫も一緒だった。ミーちゃんが、柔らかい哀愁に包まれている。

「そういえば、今日はお彼岸さんの中日ね…」

 寺には、お墓参りの人たちが、そろそろぱらぱらと見え始めていた。小生たちを遠目で見て、微笑みながら過ぎていく。

 小生たちの話題は他愛ないものだ。とりとめもない猫話は、それでも退屈などしない。

 そんな時だった。池の手前の彼岸花が、風もないのに揺れ始めた。

「ミー…」

 ミーちゃんを呼ぶ声。

「ミー…」

 彼岸花が大きく揺れる。風を誘っている。

「ミー。トラ…」

 えっ、小生の名も。

「ミー、トラ!」

 テツばあさんだった。テツばあさんが、彼岸花に紛れて現れた。花に風を起こしたのはテツばあさんだった。

「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ…」

 大慌てのテツばあさんがこちらへ走ってくる。テツばあさんの目が赤い。小生は身を乗り出した。一体何が起こったのか。

「どうしたの、おばあちゃん」

 ミーちゃんもビックリして立ち上がる。

「えらいこっちゃ…」

 テツばあさんが小生の前に立った。呼吸をひとつ整える。髭がビクビク大きく震える。

「玉やんが…。玉やんが…」

 テツばあさんが小生の肩をたたく。玉やんがどうしたの…。

「玉やんが、おらんようになった! 玉やん、行方不明や!」

 小生は耳を疑った。玉やんが…。

 見ると、死人花とも呼ばれる花は、テツばあさんとは違う風に気持ちよさそうに揺れていた。小生の嫌な予感が大きく広がった。

「玉やん、地獄へ行きよった!」

 テツばあさんの話によると…。

 あの日から、玉やんは物思いにふける時が多くなったそうだ。時折、悲しそうな顔を見せていたそうなのだ。

 それには理由があった。

 玉やんは、生前、小生を含め、多くの子孫を残した。玉やん曰く、周りのレディーたちが次々と自分に寄ってきたそうだ。その中に、スズちゃんという一匹のメス猫がいた。玉やんの最初の娘。白に黒の斑。かなりの美形だったそうだ。

 スズちゃんは、生まれながらの盲目だった。玉やんは、それはそれはスズちゃんを可愛がった。健三さんにも紹介し、健三さんが近所で里親を見つけてくれた。スズちゃんは親切な里親さんの家で暮らすことになった。

 里親の家も料理屋さんをしていた。健三さんがよく行くお店だった。

 健三さんは、盲目のスズちゃんに真っ赤な鈴をプレゼントした。スズちゃんが迷子にならないようにと、健三さんの心遣いだった。

 里親さんもスズちゃんを可愛がってくれた。その当時は、鼠が今より多かった。料理屋さんが猫を飼うのは、その鼠退治の為なのだ。しかし、その里親さんは鼠なんか捕れないスズちゃんを飼ってくれた。そして、異常なほど可愛がってくれた。

 そんなスズちゃん。やはり不幸な運命を背負っていた。スズちゃんがそろそろ大人になろうという時、里親さんの家が火災にあった。てんぷら油の不始末だった。料理屋さんは全焼。里親さんは命からから火の海から逃れた。

 その日から、スズちゃんの行方が分からない。里親さんは勿論、健三さん、玉やん、玉やんの仲間たち、それはそれは必死になってスズちゃんを探した。しかし、スズちゃんは見つからなかった。焼け跡にも周辺にもスズちゃんを見たものはいなかった。赤い鈴も見つからなかった。

 玉やんの落胆は普通じゃなかったそうだ。健三さんが驚くほど玉やんは痩せていった。

 そのスズちゃんを、玉やんはあの日に見たという。みんなでお経を唱えひとつになった時、玉やんはスズちゃんを見たという。空間のかなたに、スズちゃんは玉やンを呼んでいた。開かない目を一生懸命に開こうとしていた。その目から、一粒、涙が毀れそうになっていたそうだ。

 それは一瞬だった。玉やんは、その一瞬をしかと感じ、精神猫としての仕事を全うした。スズちゃんのことは、無理やりに意識から遠ざけたという。

「それは、健三さんから聞いた話や」

 テツばあさんが落ち着きを取り戻していく。荒い息が収まっていく。

「健三はんは、玉やんと一緒にスズちゃんを探しに出かけた。お彼岸さんの初日のことや」

 ミーちゃんが小生にもたれかかる。盲目のスズちゃん、火事で行方知れずのスズちゃん。ミーちゃんの瞳に涙が浮かぶ。

「けど、健三さんは、その途中で玉やんに撒かれたんや。健三さんまで巻き込みたくない玉やんの思いや」

 玉やんの思いが痛いほど分かった。小生の胸も熱くなる。

「スズは地獄におる。あの一瞬、スズの、光を浴びたことのない瞳から漏れた涙は、あの瞳から漏れた涙は、赤かった。真っ赤やった。真っ赤の真っ赤やったんや。そう、玉やんはゆうたんや…」

 テツばあさんの背後で、彼岸花が真っ赤に揺れ続けている。彼岸花。人はそれを、死人花、捨て子花、幽霊花という。ミーちゃんのさっきの話が、色を変えていく。

「彼岸花の色やった。そう玉やんはゆうたそうや。玉やんは地獄へ行った。地獄へ行った…」

 真っ赤な彼岸花は、やはり悲しい色を見せている。悲しさが真っ赤に揺らいでいる。

「彼岸花。それは、捨て子花や…」

 捨て子花。捨て子。それが、盲目のスズちゃんに繋がっていく。

-捨て子やない。玉やんはスズちゃんを捨ててない…。

 ミーちゃんの目から涙が零れた。風が止まった。その瞬間、彼岸花の揺れもピタリと止まった。

-捨て子やない。玉やんはスズちゃんを捨ててない…。

 小生は、そう叫びそうになった。

 彼岸花の揺れは止まったままだった。小生の脳裏にミーちゃんの涙が浮かんでは消えた。

    2

 玉やんは、重苦しい喧騒の中を歩いていた。人はよれよれと道を歩き、うつろな目を忙しげに回す。人の身なりは薄汚く、酒の匂いが充満していた。

「ええ娘いるで…。どや、にいちゃん…」

「にいちゃん、金貸してくれ…」

 時折、玉やんにまで声をかけてくるものがいる。重苦しい空間を、玉やんは歩き続けていた。

「にいちゃん…。一杯、呑んでいき…」

 ここの人たちは、どこへ行くとかいうあてなどない。ただ、気の向くままに歩く。気の向くままに酒を飲む。そして、気の向くままに欲望を満たす。

「にいちゃん、酒飲むか…」

 玉やんは、ある猫を探していた。この世の生前に、少々世話を焼いてやった猫だ。玉やんと同じ花街の料理屋に飼われていた猫だ。

「銀ちゃん…」

 銀ちゃんは、玉やんたちの昔の仲間だ。スズちゃんとも面識がある。そして、恐ろしいほどの情報通だった。花街界隈のことなら銀ちゃんに聞け。それは、玉やんたち仲間の合言葉だった。

 玉やんは、スズちゃんへの何かの手がかりにと銀ちゃんを探し続けていた。

「銀ちゃん…」

 ここは、地獄門と呼ばれていた。あらゆる浮世の業が渦巻いていた。天国へも上れず、地獄へも堕ちず、そして、あの世の袂で道を踏み違えた者たちが集う。

「いらっしーあい!」

 人の業が賑やかく、欲望が形どって行ったのだ。この街は、人の悲しみが積み重なっていた。あらゆる店が所狭しと並び、浮世と同じ喧騒が留まらない。幻想に彩られた世界が、人たちの悲しみを、酒で紛らし、快楽で補っていく。

 自らの業に深く落ちていくもの、その手前で己を制御するもの、あるいは、この世の沙汰は金次第とでも言うように、金儲けに精を出し、あの世の道を金で買おうとするもの。それは、それは、色々だった。

 それは、すべて幻想だった。幻の酒にが正体をなくし、幻のもてなしに心を酔わせ、幻の笑みを無理やりに浮かべる。幻の街に住み続け、幻の未来を夢見る。幻の快楽が心に揺れ続け、無さえ、幻になっていく。

「にいちゃん、にいちゃん、呑んで行き」

 それは、悲しみの人たちが、この世を離れ、家族を離れ、そして、未来への道をも離れ、残った未練だけが重なり合っていった結果だったのだ。

 浮世と同じだった。この街の人は、浮世の娑婆を忘れられないいる。こうして、夜の街を形成していったのは、あの世の道から漏れた大勢の人たちなのだ。この街は、その人たちの幻想のオアシスなのだ。

 それは、夜だった。この街に朝日は昇らない。文字通り、地獄の入り口、地獄門だった。

 銀ちゃんは、「日の出屋」飲み屋にいた。

「銀ちゃん…」

 銀ちゃんは店の裏で一寝入り中だった。客用の椅子の上で真ん丸く丸まっていた。

「銀ちゃん…」

 玉やんは銀ちゃん起こした。銀ちゃんがむっくりと立ち上がる。

「玉やんか…。えらい、久しぶりです…」

 銀ちゃんは目を開かなかった。玉やんに小さく笑みだけを届けた。

「すんまへん…。わし、この方が楽なもんで」

 銀ちゃんは、自分の視力を放棄していた。瞼が重く垂れ下がっていた。

「この方が、この街では都合がええんです…」

 銀ちゃんが大きく笑った。それは、昔のあの頃よりも、少しばかり大きな笑みに、玉やんには思えた。

「トラ。行くで」

 テツばあさんが彼岸花に消えていく。小生はミーちゃんはを娑婆に残して、テツばあさんに続いた。ミーちゃんは身重だ。連れて行くわけには行かない。

「トラやん…」

 ミーちゃんは小生の身を案じてくれた。心配そうな瞳がうるうる揺れていた。

「玉やん…」

 小生の脳裏に、玉やんのことが幾度も通り過ぎていく。地獄でもだえる玉やんが浮かぶ。地獄で震えている玉やんが浮かぶ。

「健三はんが、この先で待ったはるんや」

 テツばあさんの歩みは速い。小生を急かすように何度も振り返る。風の川で二匹は風になっていた。

「おおきに、トラやん…」

 風を過ぎた陽だまりに健三さんはいた。丸い顔が振り返る。

「おおきに、トラやん…」

 健三さんとはあの日以来だ。いつものように気の弱そうな顔で小生を見る。

「玉やんに撒かれた場所まで」

 挨拶など抜きだった。テツばあさんが健三さんの脛を引っ張る。

「ほれっ」

 テツばあさんが再び風を起こした。瞬間、陽だまりが消え、梢の音が大きくなる。

「さあ」

 小生たちは風に乗った。闇が少しずつ大きくなっていた。

 銀ちゃんは開かない目を玉やんに向け続けていた。

「スズは地獄にいる。そう思う」

 玉やんは必死だった。スズちゃんの手掛かりをと銀ちゃんを問い詰めていた。

「この少し先に、真っ赤な鳥居がありますんや。恐ろしく悲しい色の鳥居です。それは地獄への道に繋がっているといいます。わしは、くぐったことありまへん」

 地獄への鳥居。悲しい色をした鳥居。それをくぐるスズちゃんの姿が玉やんに揺れる。

「さすがに、ここの者も、それはくぐろうとはしまヘん」

 それは、ここの人たちの業の深さによって出来上がったものだろう。幻想の世界で、悲しい赤色が形を成したのだ。精神猫である玉やんには、その理解はあった。

 幻の街の向こう側は地獄。スズはそこにいる。玉やんの思いは熱かった。

「すまんけど、銀ちゃん。その鳥居へ連れてってくれへんか…」

 玉やんは銀ちゃんに頭を下げた。

「やめておくなはれ、玉やん。そんなん、お安いごようで…」

 銀ちゃんが、すばやく椅子から飛び降りた。

「玉やん、目を閉じておいてくだはい。決して、赤い鳥居を見てはいけません。見てはいけまへん」

 銀ちゃんが、喧騒の中へ玉やんを案内する。玉やんはそれに続いた。

「もう一度言います。決して、赤い鳥居を見てはいけません。見てはいけまへん…」

 銀ちゃんは繰り返した。銀ちゃんの尾が異常に膨らみはじめていた。

「ここや…」

 健三さんが立ったのは、道端に無造作に置かれているお地蔵さんの前だった。汚れ煤けたお地蔵さんの前だった。昔は赤かったろう前掛けは破れ、泥だらけの小さな顔は泣いていた。

「ここで、玉やんは消えた」

 回りは薄暗かった。漆黒の闇を待っているようだった。

「トラ…」

 テツばあさんがお地蔵さんの裏に回った。そこには、いくつも彼岸花が咲いていた。

「この先は、おそらく地獄門や…」

 テツばあさんの言葉に小生は反応した。地獄門。それは、小生も知っていた。仲間から聞いたことがある。地獄より悲しいところだと。

「よっしゃ、行くで」

 テツばあさんの行動は早い。闇の彼方から先ほどの風が舞い戻る。

 小生たちはテツばあさんに続いた。チラッと振り向くと、お地蔵さんはやはり泣いていた。

 銀ちゃんの大きく膨れる尻尾を見ているうちに、玉やんの尻尾も同じように膨らみ始めた。

「玉やん、大丈夫でっか…」

 銀ちゃんが時折立ち止まり、玉やんを気遣う。

「大丈夫や、銀ちゃん、心配いらん…」

 地獄門と呼ばれる幻の街が遠ざかっていく。人たちの喧騒も消え、二匹は、更に深い闇に包まれ始めていた。

 玉やんの尾が更に膨らむ。はちきれそうな感覚が玉やんを襲う。

「もう少しです…」

 風が生ぬるかった。しかし、玉やんの身体は寒さに震えていた。冷たい邪気が玉やんを覆い。闇の重さが玉やんを苦しめていた。

「もう直ぐ、鳥居です。何回も言いますが、見ないでくだはい」

 銀ちゃんも寒さを絶えているようだった。膨らんだ尾が細かく震えている。

 このような闇に包まれたことはなかった。意識の底の魂までに、その寒さは届いている。玉やんはひとつ息を吐いた。ふわっと、赤い息が目の前に揺れる。

「スズ…」

 覚悟の上なのだ。スズを見つけ出す。玉やんはその思いだけで歩を進めていた。

「うっ!」

 その時だった。闇が色を変え始めた。玉やんに重くのしかかる邪気が形を変えた。

「うっ!」

 銀ちゃんがその場で倒れた。尾が縮んでいく。

 恐ろしいほどの重圧だった。闇が赤を引き込んで、玉やんの意識が淀んだ赤に堕ちていく。火の色にそれは燃え、血の色にそれは悶え、悲しみの色にそれは堕ちていく。赤が邪を引き込み、赤が地獄を垣間見せる。玉やんが赤に包まれ、邪が玉やんの意識を鷲づかみにする。心臓の音が高鳴る。息が出来なくなる。

「うっ、うっ!」

 玉やんは胸を掻きむしった。苦しさに意識が遠くなっていく。

 玉やんの全てが赤に染められ、魂の波動が玉やんを離れていく。赤い息を飲み込み、赤い息を吐く。邪が身体中を駆け巡り、赤に闇の色を上乗せする。幾度も幾度も赤い波が押し寄せ、赤い風と共に渦を作る。

 玉やんがその渦に引き込まれていく。どうすることも出来ない。

「玉やん。これが、地獄の入り口ですんや…」

 銀ちゃんの声が聞こえた。

「鳥居の色です。地獄の色です…」

 銀ちゃんの声すら、邪に思える。

「玉やん、しっかり!」

 急に風が止まった。玉やんは意識が遠ざかるのを懸命にこらえた。思いの中のスズちゃんも真っ赤に染まり、地獄へ落ちていく準備が整っていく。

「スズ!! スズ!!」

 玉やん叫んだ。スズちゃんの思いを叫びに乗せた。

「スズ!! スズ!!」

 玉やんは叫ぶことしか出来なかった。地獄の果てまで届けと、玉やんは叫び続けた。

「銀ちゃんは?」

 テツばあさんが、喧騒の中、どろどろと居眠りしている猫に聞いた。

「しらん…」

 眠たげに、その猫はテツばあさんに答えた。目は伏せたままだ。

「そうか、知らんか…」

 ここは地獄門と呼ばれる地獄の入り口だった。泣いていたお地蔵さんから、ここへ直行だった。そこには、闇の道が続いていた。それが、テツばあさんに見えたという。

「しゃあないな…」

 小生は震えていた。まったく、その準備が出来ていなかった。闇の邪気に心が凍り始めていた。

「ここの猫は、寝てばかりや…」

 これで何匹目だろう。玉やんが、健三さんに話した銀ちゃんという猫の行方がまったくつかめない。しかし、テツばあさんは慌ててはいなかった。玉やんの匂いが、ここにはある。玉やんの気配が、ここにある。そう、テツばあさんは宣言した。テツばあさんのことだ。それは、信じるに値する。

「ここは?」

 健三さんが、斜め向こうの暖簾を指差した。そこには、大きく「つきゆき」と書いてある。

「わしのやってた店と、同じ屋号や…」

 小生たち一行の中で、健三さんだけが邪気を受けていないようだった。胸ポケットに、お地蔵さんの裏に咲いていた彼岸花を。魔よけといってさりげなく挿している。

「銀ちゃんは?」

 健三さんが居酒屋を覗いた。そこの女将さんが振り向いた。

「しらん…」

 女将さんはまったく愛想がなかった。しかし、次の瞬間、健三さんを振り向いた。

「ええ、男やんか…。まあ、寄ってきや…」

 健三さんは娑婆ではよくもてたという。今日もダンディーに決めている。

「そうか…」

 健三さんが席に着く。熱燗が、即、健三さんの目の前に。

「銀はうちの猫や」

 健三さんの目が大きく開く。お猪口を女将さんに差出す。得意げに、小指をまっすぐ立てる。

「銀に、なにかご用か?」

 健三さんは頷いた。女将さんは綺麗な人だった。健三さんの目が垂れていた。

 この日は健三さんがしゃきっとしていた。

「お待たせ…」

 少し顔を赤く上気させた健三さんが店から出てきた。足取りはしっかりしている。

「この先に、真っ赤な鳥居があるそうや…」

 健三さんは一言言って、小生たちの先をすたすたと歩く。

「おそらく、玉やんはそっちのほうへ行った」

 健三さんの歩は早かった。あっという間に喧騒を抜け、地獄門の外れにまで来た。

「玉ー!」

 テツばあさんの言うとおり、そこには玉やんの通った気配があった。玉やんの臭いが微かにした。

「玉やんー!」

 小生は叫んだ。闇の中に懸命に叫んだ。

 玉やんは炎に包まれていた。真っ赤な大蛇が玉やんの全身を焼き尽くしていく。

「スズー! スズー!」

 叫ぶことしか出来ない。しかし、その叫びすら、真っ赤な大蛇が飲み込んでいく。

 玉やんの意識が遠ざかる。炎が玉やんのすべを焼く。

「スズ」

 玉やんは、自分が焼き尽くされたことを知った。己というものがなくなりすべてが灰になり、真っ赤な地獄へ堕ちていく。

「スズ」

 玉やんの存在が消えていく。痛みが遠のいていく。

「玉やん。玉やん…」

 その時、銀ちゃんが呼んた。玉やんにそれは聞こえた。

「玉やん…、あほやな…」

 銀ちゃんは笑っていた。口を大きく開けて笑っていた。玉やんの意識が、銀ちゃんに無理やりに引き戻される。炎が再び玉やんを責める。

「銀ちゃん…」

 玉やんは銀ちゃんに救いを求めた。銀ちゃんに手を伸ばした。

「玉やん、あほやな。あれほどゆうたのに…」

 銀ちゃんが、玉やんの伸ばした手を振り切る。よく見ると、銀ちゃんは真っ赤な大蛇の舌の上にいる。

「あほやな、あれほどゆうたのに…」

 銀ちゃんの開かないはずの瞼から、真っ赤な眼球が飛び出ている。

「あの鳥居を見たらあかんて…」

 玉やんの魂が破壊されようとしていた。玉やんは、それを耐えた。スズちゃんへの思いだけで、それを耐えていた。

「スズー! スズー!」

 凄まじいほどの邪気だった。小生の尻尾が大きく膨らむ。

「玉やん…」

 不安が小生の中を駆け巡る。見ると、テツばあさんの尾もはちきれそうになっている。

「玉やん…」

 健三さんが言った赤に染まる鳥居が近づいている。邪気が更に迫る。小生の意識を赤く染めていく。血の色を見せ始める。

 意識が萎えそうなのを、小生は懸命にこらえた。全身が震え、顔がこわばっていく。

「スズー!!」

 その時、邪気に混じって声がした。玉やんが叫んでいる。

「スズー!!」

 それは、今にも消え入りそうなものだった。叫びが邪気に吸い込まれていく。

「玉やん!」

 小生は声の方へ飛び出そうとした。震える足がもつれる。

「トラやん…」

 健三さんが小生の尾をつかんだ。一瞬、小生の時が止まった。

「トラやん…」

 健三さんは、胸ポケットの彼岸花を取り出した。

「トラやん。これを持っていくんや…」

 彼岸花が小生の口元に揺れた。香りは何もしない。

「魔除けや、トラやん…」

 それを喰わえた。そして、奥歯でしっかりと噛んだ。

「玉やんを頼むわ…」

 小生は飛んだ。玉やんの叫びにまっすぐに飛んだ。

 銀ちゃんは、玉やんが消えると、静かな眠りについていた。飛び出した眼球は元に収まり、異常に膨れた尻尾も元に戻っていた。

「玉やん…」

 あんなこと初めてだった。銀ちゃんは、ここ地獄門の猫たち、人たちに地獄を見せてきた。いや、地獄というイメージを幻想の影で見せてきた。それは、銀ちゃんがご先祖様から代々引き継いだ大切な仕事だった。銀ちゃんも、玉やんたちとは異なるけれど、まさしく「精神猫」の一員だった。

 地獄などない。いや、誰も見たことはない。少なくとも、この地、地獄門にはない。しかし、地獄は、猫や人の意識の中に重く存在する。血の色、火の色、燃え盛る炎の色。猫も人も、多くはその色を地獄と重ねる。重ね恐怖を増長する。

 地獄の恐ろしさを猫や人に見せる。そして、その者は恐怖に凍りつき、幻の真っ赤な鳥居をくくろうとはしない。

 猫も人も地獄へ落ちたがる。地獄という空間が、生ある者にとっての長い旅の終着駅に思えるからだ。誰だって、自分の中に悪を持つ。その悪の清算へと地獄へ向かう。存在の儚さに思い苦しみ、自分たちは、地獄へ堕ちるのが相応しいと思い込み、希望を失っていく。

 そうした者たちが、次々と銀ちゃんに声をかける。地獄への道案内を…と。

 しかし、自らの悪を清算することなど出来ない。猫も人も、それを未来永劫に持ち続ける。己の中の悪を消すことなんか出来ない。つまり、この世も、あの世も、かの世も、そんなに甘くないのだ。

 そのことを、この地で銀ちゃんが教えるてやるのだ。

-そうでっせ、世の中、そんなに甘くないんやで…。

 存在しない赤い鳥居を見るなという。しかし、見るなといわれた者は、それを見てしまう。自分の意識の表面に無理やりに作りだす。それは、もう見たと同じだ。

 そして、その者たちは赤の恐怖に包まれる。地獄の色に染まってしまう。それを、銀ちゃんが演出する。その者の意識に赤い恐怖を流し込む。

「恐ろしや、玉やん…」

 しかし、玉やんはそれを知っていた。知っていた上で地獄へ向かおうとした。スズちゃんへの思いだけで、地獄門を越えていった。銀ちゃんの先祖たちも知らない世界へと進んでいった。

「恐ろしや、玉やん…」

 とにかく、銀ちゃんの仕事は終わった。これ以上、どうすることも出来ない。銀ちゃんは、玉やんの無事を祈った。とぼとぼと来た道を戻った。

「玉やん…。ご無事で…」

 それは、恐ろしい光景だった。真っ赤な大蛇が玉やんを飲み込もうとしていた。

「玉やん!」

 小生は大蛇に突進した。炎に燃える大蛇が小生を包んだ。

「ウォー!」

 炎の海が広がった。一瞬にして全身に火が回る。

「ウォー! ウワー!」

 これが、地獄が…。己の魂が地獄へ堕ちていく。全身の毛が皮膚が燃えていく。

「ウォー! ウワー!」

 それでも、小生は口に喰わえた彼岸花を離さなかった。健三さんの言葉を信じた。魔除けや…。

「ウォー! ウワー!」

 玉やんが悶え苦しんでいる。二つの目玉が玉やんから落ちそうになっている。

「トラやん…」

 その時、小生の口の中で何かが小さく動いた。奥歯の裏を、小さく叩いた。

「プチン…」

 それは、一瞬のことだった。奇跡が刹那の花を咲かせた。

「トラやん…」

 玉やんが、小生の腕に手を伸ばした。炎が玉やんから引いていく。

「玉やん…」

 それは、小生の口の中で咲いた。真っ赤な花のその中で、それは咲いた。

「玉やん…」

 彼岸花が色を変えていく。花の中に咲いたもうひとつの花は純白だった。純白が小生の口の中に広がっていく。

「玉やん…」

 炎が小生からも遠ざかる。真っ赤な大蛇が姿を消した。

「トラやん…」

 純白の花が、小生と玉やんを暖かく包み込む。奇跡が二匹を包み込む。

「トラやん…」

 そこまでだった。純白の花が姿を消した。風が空間に戻る。

「玉やん…」

 玉やんはその風に乗った。小生も慌てて玉やんに続いた。

「玉やん、待って…」

 風が誘っていた。玉やんが光に包まれた。

「玉やん、待って…」

 掴まるものなら、すぐ目の前にあった。玉やんのドでかい金玉が、ぶらぶらと白い風に揺れていた。

「トラやん。しっかり掴んどきや…」

「うん、玉やん…」

 奇跡が起こったのだ。白い花が咲いたのだ。

 玉やんは風を逆らっていた。玉やんには、もう既にスズちゃんの居所が分かっているようだった。

「スズは、この風の向こうや…」

 風が更に強くなった。純白の玉やんが泣いている。涙の雫が風に散っていく。

「スズは、この風の向こうや…」

 玉やんには見えていた。スズちゃんが叫んでいた地獄を。開かない瞳から流れ落ちた涙の色と同じ色が。

「玉やん…」

 小生の喰わえる彼岸花が、再び白い奇跡の花を咲かせようとしていた。

    3

 そこは、風のない空間だった。周りには誰もいない。スズちゃんは眠っていた。

「ありがとう…」

 それは、玉やんが里親さんを見つけてくれた日だった。スズちゃんは玉やんの胸に顔をうずめていた。

「よかったな、スズ」

 玉やんの嬉しそうな顔が浮かぶ。玉やんの仲間たちも微笑んでいる。

「よかったな、スズ」

 スズちゃんは泣いていた。開かぬ目に涙を一杯ためていた。

 嬉しくなんかなかった。里親さんなんか欲しくなかった。玉やんとずっとずっと一緒にいたかった。

「ありがとう、玉やん…」

 それでも、スズちゃんは気丈に振る舞った。目の見えない猫は、人に庇護を受けるしかすべはない。猫世界に暮らすことは出来ない。ただのお荷物なのだ。

 それは、スズちゃんの理解だった。玉やんや、その仲間たちに迷惑をかけてはいけない。

-スズはお荷物だから、これでよかったの。そう、これでよかったの…。

「ありがとう、玉やん…」

 心にもないことをスズちゃんは続けた。その涙の意味は分かってはもらえない。悲しさは耐えるしかない。スズちゃんの涙は溢れそうになっていた。

「これ…」

 誰かが、スズちゃんの首に鈴をつけた。コロコロといい音がする。

「よお、似合うわ…」

 玉やんがそう言った。スズちゃんは嬉しかった。玉やんとの思い出をその鈴に埋めておこうと思った。

 スズちゃんは、鈴の匂いを嗅いだ。玉やんの匂いはしなかった。人の匂いがした。ほんのりといい匂いだった。おしろいの匂いだった。

「達者で暮らすんやで…」

 玉やんはスズちゃんの頭を撫でた。里親さんがスズちゃんを抱っこする。

 本当に、里親さんなんか欲しくなかった。玉やんとずっとずっと一緒にいたかった。

「玉やん、ありがとう」

 里親さんなんか欲しくなかった。玉やんとずっとずっと一緒にいたかった…。

 玉やんとずっとずっと一緒にいたかった…。

 いつもと同じ夢だった。スズちゃんは目覚めた。微かな光を瞼の向こう側に感じる。

 あれから、どれくらい経ったのだろうか。スズちゃんは、この地で永遠の時を越えてきた。誰もいない。たった一人で、この地に暮らしてきた。

 風がないのは、スズちゃんにとって辛いことだった。風すら、スズを振り向いてくれない。スズちゃんの涙はとおの昔に枯れ果てていた。悲しみを形にすることも出来なくなっていた。

 いつものように、スズちゃんは散歩に出かける。唯一、スズちゃんに見える、遠い光を頼りに。

「玉やん…。おとうさん…」

 スズちゃんのたった一つの美しい時だ。スズちゃんは、その思い出だけで生命を維持している。いつか、玉やんに会える日だけを夢見ている。

 玉やんとは、あの火事の日以来、会っていない。スズちゃんは玉やんの面影を心に浮かべた。しかし、それはスズちゃんの脳裏には浮かばない。スズちゃんは玉やんを見た事がないのだ。

「おとうさん…」

 スズちゃんは、風のない林を歩き続けた。ところどころに彼岸花が咲いている。不思議なことに、スズちゃんにはその花が見える。その色が見えるのだ。

「捨て子花…」

 スズちゃんは、ひとつの彼岸花の側に寄った。血の色がスズちゃんの意識に届く。

「悲しい季節…」

 玉やんとの別れの日も、その花は咲いていた。、血の色を見せていた。

 スズちゃんは再び眠った。先ほどの夢がすばやくスズちゃんを包んだ。

「玉やん、ありがとう」

 でも、本当は、里親さんなんか欲しくなかった。玉やんとずっとずっと一緒にいたかった。玉やんとずっとずっと一緒にいたかった。

 テツばあさんの理解が進んでいた。銀ちゃんの話に、テツばあさんの脳裏にある幾つもの回路が鋭く反応した。

「銀…。もういっぺん、そこへ連れてってくれ。玉が消えていったところへ…」

「へい…」

 銀ちゃんが素早く腰を浮かす。

「テツばあさん…。玉やんはどこへ消えたんやろ…」

 テツばあさんが振り返る。その瞳が潤んでいる。

「玉は、風を追っかけていったんや。風のなくなるところまで、風を追っかけていったんや」

 テツばあさんは目を閉じていた。全神経でもって、玉やんの消えた先を感じ取っている。

「健三さん。すまんけど、その花、貸してんか…」

 健三さんが側による。胸ポケットの彼岸花を、一輪、テツばあさんに手渡す。

「この花に、玉はスズちゃんの居場所を見たんや。捨て子花。この悲しい名前の花。そこが、スズちゃんの居場所や…」

 血の色の花が、テツばあさんに渡る。テツばあさんか、それを奥歯でしっかりと喰わえる。

「こっちや!」

 テツばあさんが叫んだ。風の向こうへ大きく叫んだ。健三さんが、テツばあさんの尻尾を掴んだ。風がテツばあさんに集中する。

「銀ちゃんも掴まるんや!」

 風が渦を巻いていく。風の向こうに、銀ちゃんが言った真っ赤な鳥居が姿を現す。

「風よ吹け! 風よ吹け!」

 銀ちゃんも叫んでいた。銀ちゃんには見えていた。テツばあさんの喰わえた花が、白く咲こうとしているのを。

「風よ吹け! 風よ吹け!」

 鈴の音が消えていく。健三さんが彼岸花を風に晒した。闇の中、その花は、風をもろともしなかった。天に向かって、赤い色を突き立てていた。

「風よ吹け! 風よ吹け!」

 風がますます強くなる。二匹と一人は叫び続けた。スズちゃんへの思いを風に乗せた。玉やんへの思いを風に乗せた。

「風、吹け! もっともっと、吹け!」

 小生は玉やんを愛している。その思いが、玉やんと小生との隔たりを埋めている。

 玉やんも小生を愛している。その思いが、小生と玉やんの隔たりを埋めている。

 テツばあさんや健三さんたちも、玉やん、小生を愛している。

 その思いがみんなの隔たりを埋めていく。

 そして、スズちゃんを玉やんは愛している。玉やんの仲間のみんなが、スズちゃん愛している。

 だから、玉やんとスズちゃんの隔たりは埋まっていく。仲間とスズちゃんの隔たりを埋めていく。

 その力が「愛」なのだ。「愛」は生命の隔たりを埋めていく。理解をも貫いて、それぞれの光を結び付けていく。

「スズちゃん…」

 会ったことのないスズちゃんが、小生の胸の中で泣いている。玉やんの熱い思いが小生にも感じ取れる。

「スズちゃんが愛しい。スズちゃんに会いたい」

 小生の目に涙が浮かび上がる。スズちゃんへの思いが熱いものとなる。

「トラやん。もうじきや…」

 風が止まろうとしていた。

「玉!」

 その時、テツばあさんたちが合流した。小生の思ったとおり、テツばあさんたちも、玉やんを愛していた。小生の熱さが増していく。胸の中の水晶に炎が揺れる。

「玉やんー!」

 健三さんは、手に持つ彼岸花を玉やんの鼻先に掲げた。健三さんの目からも涙が溢れている。

「スズちゃん! 今、いくでー!」

 それが合図になったのか、小生の喰わえる彼岸花に光が浮かぶ。

「スズちゃん! 今、いくでー!」

 彼岸花がゆっくりと花を咲かせる。白く透明に空間を染めていく。

「スズ! スズ!」

 小生たちはひとつになっていた。零れる涙さえ、風の中でひとつになっていた。

「スズ! スズ!」

 そして、そのスズちゃんも、もう少しでみんなとひとつになる。そのことがみんなには見えていた。みんなの胸の中に、既にスズちゃんは笑っていた。

「スズちゃーん! スズちゃーん!」

 花が色づいていく。ほのかに白く光を見せている。スズちゃんにはそれが見える。瞼の向こう側で、光が揺れている。

 何かの予感がスズちゃんを包んでいた。こんなことはなかった。自分の身の回りに変化は起きたりしなかった。周りの花以外、スズちゃんの存在を認めるようなものはいなかった。

「……」

 何かが、自分を呼んでいる。スズちゃんの意識に風が起きる。心に今まで感じたことのない涼しさが通り抜けていく。

「何かが起こるの…」

 スズちゃんは、目の前の彼岸花に話しかけた。微かに白く色づいていく花が、スズちゃんを誘っていた。

「スズちゃん…」

 花が答えをくれる。光がスズちゃんを包んでいく。

「スズちゃん。ありがとう…」

 林のところどころから、そう聞こえる。花たちが、スズちゃんに意識を届ける。

「スズちゃん、ありがとう…」

 仲間は花だけだった。でも、こんな風に、花が意識を届けてくれることはなかった。スズちゃんは戸惑っていた。自分に起きようとしている変化を疎ましく感じていた。

「どうして…。どうしてなの…」

 花たちの声が続く。スズちゃんの戸惑いが大きくなる。

「スズちゃん。今まで、本当にありがとう…」

「幸せにね、スズちゃん…」

 花たちの周りを何度も回った。すべての花がスズちゃんに微笑み、白い光が大きくなっていく。

「お友達になってくれて、ありがとう…」

「スズちゃん、優しくしてくれて、ありがとう…」

 何かの予感が形をとっていく。スズちゃんは一つ一つの花にキスをした。感謝の思いが、スズちゃんの唇から花たちの光へ届く。

「でも、どうして…。でも、どうして…」

 お別れなの…。そんな思いが、スズちゃんに揺れ始める。

「でも、どうして…」

 スズちゃんの瞳から涙が零れる。透き通った雫が白い光に消えていく。

「幸せにね…」

 ひとつの花がそう言った。スズちゃんの胸が熱くなる。幸せ…。

 幸せ…。そんなこと考えたこともなかった。そんな言葉、自分にはないと思っていた。あの火事で、火の海に包まれてから、一度として、そんな思いを抱いたことなどなかった。絶対に自分の周りには来るはずのないものだと思っていた。

「しあわせにね…」

 その理解は、今のスズちゃんには出来ない。戸惑いだけが揺れ続ける。

「どうして、どうして、しあわせ…」

 花たちの思いがひとつになっていく。スズちゃんへの思いがひとつになっていく。

「本当に、今まで、ありがとう…。スズちゃん…」

「幸せにね…。スズちゃん」

 花たちの優しさが、スズちゃんの心の奥にまで流れ込む。スズちゃんの涙が止まらなくなる。

「スズちゃん…。幸せにね…」

「優しくしてくれて、ありがとう…」

「スズちゃん。幸せにね…。本当にありがとう…」

 花たちの白い光が大きくなる。白く透明な光のうねりが林を覆い、遠くからの暖かい風が林を舞う。スズちゃんは歩き続けた。すべての花にキスをしようと思った。すべての花にありがとうと言おうと思った。

 お別れなの…。スズちゃんの理解が少しずつ進んでいく。

「どうして…。どうして…」

 この地を離れる時がきたの…。どうして…。スズちゃんの戸惑いが更に膨らむ。

「ありがとう、みんなありがとう…」

 でも、スズちゃんは、花たちとの会話を続けた。今、それをしないと、もう出来ないような気がしていた。

「ありがとう、みんなありがとう…」

 スズちゃんは泣いた。自分の未来よりも、この花たちの幸せを願った。

「ありがとう、みんな、ありがとう…。ありがとう…」

「スズちゃん…。優しくしてくれて、ありがとう…」

「スズちゃん。しあわせに、しあわせにね…」

「スズ!」

 玉やんは進んだ。強くなっていく風に向かって進んだ。

「スズ!」

 その瞬間に、風を抜けた。一瞬にして、真っ白な空間が小生たちを包んだ。

「スズや、スズや!」

 スズちゃんはいた。真っ白な空間に、スズちゃんがいた。

「スズー! スズー!」

 コロコロと、スズちゃんから鈴の音がする。スズちゃんは白い空間を歩いていた。

「スズー! スズー!」

 玉やんがそれへ向かう。玉やんとスズちゃんの隔たりがなくなろうとしている。

「スズー!」

 小生は泣いていた。こんなに泣く猫も珍しいだろうと思いながら、小生は思い切り泣いていた。

「玉やん…」

 その時、健三さんが玉やんを止めた。白い空間が少し揺れた。

 スズちゃんは、白い空間に咲く花との別れを惜しんでいる。スズちゃんにも分かっていたのだろうか、玉やんがスズちゃんを迎えに来ることを。

「ありがとう…」

 スズちゃんの声が聞こえた。鈴と同じコロコロとした声だ。

「ありがとう…」

 小生たち一行は、その場に留まった。白い空間に、更なる光が天から落ちてくる。小生たちの周りに陽だまりが出来る。

「スズちゃん…。しあわせにね…」

「優しくしてくれて、ありがとう…」

花たちの意識が小生たちにも届く。暖かい日差しともに、小生たちに届く。

「スズか、スズが…」

 玉やんも泣いていた。大粒の涙が日差しに眩しい。

「スズ。スズ。スズ。スズ」

 玉やんも小生と同じ泣き虫だ。泣き虫だ。泣き虫だ…。そう思ったら、小生は余計に泣けてきた。玉やんの嬉しさが、小生の心に優しさを届けていた。胸をかきむしりたいほど、玉やんが好きだ。スズちゃんが好きだ。みんなみんな大好きだ。

「スズちゃん…」

 スズちゃんが、ちらっとこちらを振り返った。開かない瞼を通して、スズちゃんはしっかりと玉やんを見ていた。

「スズ…」

「ありがとう、スズちゃん…」

「仲良くしてくれて…。ありがとう…」

 花たちに涙はなかった。心から、スズちゃんの幸せを祈ってくれていた。

「みんな、みんな、ありがとう…」

 スズちゃんは、この地の花のすべてにキスをした。心が振るえ、胸が締め付けられた。

 玉やんが来てくれるたのが分かった。あの丘に玉やんが待ってくれている。

「もう少しだけ待って、もう少しだけ待って、玉やん…」

 スズちゃんは陽だまりの中を歩き続けた。花にキスをし続けた。

「ありがとう、スズちゃん…」

「仲良くしてくれて…。ありがとう…」

「優しくしてくれて、ありがとう…」

 花たちは、精一杯、白い光をスズちゃんに見せていた。スズちゃんの未来が明るいようにと、遠くまで届く光を見せていた。

「ありがとう、みんな…」

-どんな顔したらええんやねろ…。どんな挨拶がええんやろ…。

 玉やんが戸惑っている。娘を目の前にして、極度の緊張が玉やんを包んでいる。

-どんな顔したらええんやねろ…。どんな挨拶がええんやろ…。

 スズちゃんは、時折玉やんに振り返る。コロコロと鈴の音が玉やんに届く。

「はよ、行ったれ…」

 テツばあさんが玉やんのお尻を押す。健三さんが玉やんの肩を押す。

「おおきに、おおきに、みんな…」

 玉やんが一歩前に出た。

「おおきに、おおきに…」

 玉やんが思い切り手を伸ばす。それへ、スズちゃんが寄ってくる。

「スズちゃん…。しあわせにね…」

「優しくしてくれて、ありがとう…」

花たちの言葉が、みんなにも聞こえている。

「スズ…」

 玉やんはスズちゃんを腕の中へ抱いた。鈴の音が心地よい。

「スズ…」

 スズちゃんの涙が次々と玉やんの胸に落ちる。玉やんはスズちゃんを持ち上げた。あの頃のように、両腕で大きく持ち上げた。

「スズ…」

「玉やんが見たい…。おとうさんを見たい…」

 スズちゃんが玉やんの腕で、小さく小さくつぶやいた。

「玉やんが見たい…」

 その時だった。一瞬にして、小生の全身が毛羽立った。

「おとうさんを見たい…」

 そのつぶやきに、小生の脳裏にある事が浮かんだのだ。信じられない思いが小生の脳天を突き抜けたのだ。

「スズちゃん…」

 スズちゃんへの哀れさが、もう、小生の中でどうしようもなくなっていた。小生の時間が止まった。

「おおきに、おおきにな…」

 玉やんが小生を振り向いた。スズちゃんが小生のほうを向いた。

 盲目のスズちゃん。スズちゃんは、それでもあの空間で健気に生きてきた。目の見えないことがどんなに辛いものか…。スズちゃんが愛しい。スズちゃんが愛しい。

 それでも、スズちゃんは、仲間たちを見つけた。仲間たちに優しくした。スズちゃんは天使だ。盲目の天使だ。

 スズちゃんの目を…。

 スズちゃんは言った。玉やんが見たいと…。

 ひとつだけ、その方法があるのだ。それが、小生の脳天を突き抜けたのだ。それが、小生を変えていく。スズちゃんへの思いに変化の渦が湧き上がる。

「スズちゃん…」

 それは、小生にしか出来ない。玉やんでも無理なのだ。この世の娑婆に身を置いている「精神猫」の小生にしか、その技は出来ないのだ。

 生命は、まず、この世に生まれる。物質の世界に生まれる。そして、その世界での肉体を授かる。光に包まれる。

 その光をスズちゃんは知らなければならない。そうすれば、スズちゃんの目は開く。スズちゃんを、この世へ運ぶのだ。今、スズちゃんと玉やんが長く触れ合ったら、スズちゃんは玉やんの波長に紛れ込んでいってしまう。それでは、あの目は閉じたままなのだ。スズちゃんは、自分の外を見たことがない。あの世とかの世ではそれは必要ない。幻をみんなが見ているだけだ。

 猫も人も、この世の肉体を離れない。この世に死に、そして、物質の肉体は土になっても、その肉体は、幻となってその者から離れない。この世の姿を、そのあとの未来も、ずつとずっと持ち続けることとなる。

 だから、スズちゃんをこの世へ運ぶ。スズちゃんの、この世の肉体を変えてしまうのだ。目の開いた猫へ、スズちゃんを変身させるのだ。

 だから、スズちゃんをこの世へ運ぶ。玉やんの波長とスズちゃんが結びつかないうちに。

 玉やんが小生に礼を言う。目が真っ赤に晴れ上がっている。

「おおきにな、トラやん…」

 そのことが、はたして正しいことなのか。それは分かるはずがなかった。しかし、それは、今。今しかチャンスはない。そして、一度しかない。

 白い空間が更に透き通っていく。玉やんがスズちゃんの胸に顔をうずめる。スズちゃんが一生懸命、玉やんを見ようとしている。開かない瞼が何度も何度もピクピクと動いている。

「ウォー!」

 小生は飛んだ。後先は考えない。小生の悪い癖だ。ミーちゃんによく叱られている。

「えーい、ままよ!」

 玉やんを押しのけた。玉やんが驚きの目で小生を見る。

「玉やん、スズちゃんを」

 言葉が続かなかった。説明は後だ…。

「トラ! 何を考えておる!」

 テツばあさんに、小生の思いが見えるのか。

「えーい、玉やんも喜んでくれる。そう、玉やんも喜んでくれる!」

 小生はスズちゃんを抱いた。玉やんがうつろな目を小生に向けた。。

「トラ!」

「トラやん!」

 スズちゃんは軽かった。小生の腕の中にすっぽりと納まった。小生は走った。光の先へ一目散に走った。

「トラ!」

「トラやん!」

 テツばあさんの声が背中に鋭い。玉やんの驚きの声を聞き流す。

-スズは、玉やんを見たい…おとうさんを見たい…。

「スズちゃん!」

 もう、何も考えなかった。スズちゃんからする鈴の音だけが聞こえていた。

    4

 小生とスズちゃんは、時空のすき間を歩き続けた。遠くに微かな光がゆらゆらと揺れる。

「スズちゃん、寒くない?」

 時折、ひんやりとした風か身に冷たい。

「うん、大丈夫…。トラやんは?」

 はたして、小生の進んでいる道は正しいのだろうか。スズちゃんの幸せの為と思ったこの行動は、本当に正しかったのだろうか…。小生の脳裏に、それらの疑問が浮かんでは消え、消えては浮かんでいた。

「少し休もうか…」

 スズちゃんは見えないで目で、頑張ってくれていた。玉やんとの再会を邪魔した小生に、愚痴や文句を言うことなく。ただ、小生の背を頼りに歩を進ませてくれている。

「うん、トラやん…」

 スズちゃんの一途さを思うと、この道は正しいと思える。その思いが少しずつ小生の中で大きくなっていた。

 そこは、闇が少しねじれて、小さな陽だまりになっていた。二匹は、その場に腰を下ろした。寒くはなかった。

「トラやん…。道は分かってるの?」

 スズちゃんが聞いた。小生は頷いた。

「大丈夫…」

 小生には見えていた。遠くの明かりの中に、微かに揺れる灯火が。ゆらゆらと揺れる蝋燭の火が。

 この地は、この世へ再び生を受けるための道なのだ。幻想の波動を脱ぎ、物質的な波動をまとうための道なのだ。猫も人もこの道を通る。未来の輝きをもつもの、悲しさを乗り越えたもの、そして、この世界の儚さを嘆き苦しんでいるもの。思いはそれぞれだ。しかし、それらのものすべてが、希望という明かりを持つ。未来の自分を信じ、この道が間違っていないことを信じる。

 そんな猫たちが、二匹を前を何匹も過ぎていく。難しい顔のもの、笑顔が大きいもの、泣いているもの、いろいろな顔が通り過ぎる。その道は幾多にも分かれているのだ。右に曲がるもの、左へ折れるもの、天へ上るもの。しかし、誰一人として、来た道を引き返すものはいない。すべてのものが前を向いている。未来を信じている。

 スズちゃんもそれを理解しているようだ。スズちゃんは自らでこの道を選んだのではない。それでも、スズちゃんは、この道が続いていく未来を信じている。希望の光を胸に抱いている。それが小生には分かる。小生を信じてくれていることが分かる。

 この道を行けば、玉やんが見れる。一度も見たことのない玉やんの顔が見れる。スズちゃんの希望はその思いなのだ。

「トラやん…。いい匂い。玉やんとおんなし匂い」

 スズちゃんが小生にもたれ掛かる。スズちゃんはあの彼岸花の匂いがする。

「どんな匂い?」

 少し照れくさそうに、スズちゃんは、ころころとのどを鳴らして笑った。

「うーんと…」

 ただずんでいる二匹に、陽だまりが少しだけ拡がっていく。この闇を越えると、スズちゃんの幸せが待っている。

「うーんと…。うーんと…」

 スズちゃんが何度ものどを鳴らす。首をひねり鼻をピクピクさせる。

「えっと、えっと、えっと…」

 小生は、またまた泣いていた。しかし、そんなスズちゃんを見て、小生の行いに間違いのないことを確信した。この道が、スズちゃんの幸せに、まっすぐに繋がっていることを確信した。

「何、なに、なに…」

 二匹は兄弟のように寄り添った。スズちゃんが小生のお腹へ顔を埋めてくる。

「えっとね…」

 スズちゃんは言った。スズちゃんは正しかった。小生よりも、自分の未来のことを知っていた。

「おかあさんの匂い…」

 小生は目を閉じた。鼻を、何度も大きく啜った。

 いつもの夢とはまったく異なっていた。ミーちゃんは深く深く自らの夢に落ちていく。意識の最深部でミーちゃんの心が目覚めていく。

「ミャー」

 ミーちゃんの心は震えていた。誰かがミーちゃんを呼んでいる。誰かをミーちゃんが呼んでいる。

「ミャー」

 ミーちゃんは辺りを見回した。闇に光の粒が散らばっていく。空間を銀河に染めていく。

「ミャー、ミャー」

 ミーちゃんは銀河を進んだ。どこからか、鈴の音が聞こえていた。透き通った音が銀河に調べを流していた。

 この世へ子孫を残す。それが、猫にとって至高なる喜びだ。ミーちゃんもその仲間入りをする。心が震えるのは、そのせいだ。母性としての喜びが、ミーちゃんを包む。お腹に宿る小さな小さな生命への愛が、ミーちゃんを激しく揺する。

 鈴の音が近くなる。コロコロとミーちゃんの耳元に涼しさを届ける。

 星屑の幾つかが、ミーちゃんに鋭い光を届けた。その瞬間に、ミーちゃんも光を放った。

 星屑とミーちゃんの光が、ゆっくりと交わっていく。それぞれが、生まれたばかりの愛を見せている。生まれたばかりの愛を浮け取っていく。

「おかあさん…」

 光は寄り添うようにひとつになった。光が爆ぜ、輝きを凝縮していく。

「おかあさん…」

 ミーちゃんの心が更に震える。涙の粒が銀河に散る。静寂がその光を包む。

「おかあさん…」

 ただ、愛を感じる。ただ、愛を受け取る。そして、ただ、愛を信じる。

 ミーちゃんは恍惚に銀河を越えていく。お腹の子が中からミーちゃんを蹴った。

「いいよ、生まれておいで…」

 ミーちゃんは目覚めようとしていた。お腹の子が、もう一度ミーちゃんを蹴った。

「いいよ、生まれておいで…」

 ミーちゃんの陣痛が始まった。健三さんが、ミーちゃんの周りをそわそわと回る。テツばあさんがミーちゃんのお腹を撫でている。お寺の境内にある小さな池の側に、ミーちゃんは陣取っていた。

「トラやん…、まだか。玉やんも、まだか…」

 忙しげに、健三さんが何度も呟く。

「あー、トラやん。玉やん…」

 あれから、トラやんはスズちゃんとどこかへ行ったまま、玉やんも行方が分からない。健三さんは苛立っていた。

「ミーちゃん!」

 その時、トラやんの声がした。健三さんが慌ててそれへ振り返る。

「ミーちゃん!」

 トラやんが、池の辺の彼岸花から顔を出した。健三さんがトラやんを引っ張る。

「トラやん、こっちや…」

 トラやんがミーちゃんの側による。テツばあさんが小さく微笑んだ。

「トラ、間に合ったな」

 テツばあさんがトラやんの頭を突付く。トラやんとミーちゃんの目線が合う。

「ミーちゃん、良かった、間に合った」

「トラやん…」

 トラやんがミーちゃんの手を握った。それを待っていたかのように、ミーちゃんは下腹部へ力を入れた。

「トラやん…。ありがとう…」

 ミーちゃんは嬉しかった。立派なトラやんの子を生めることを誇りに思っていた。

「いいよ、生まれておいで…」

 ミーちゃんがお腹の子にそう告げた。

「いいよ、生まれておいで…」

 玉やんが現れない。小生は焦っていた。この場に、玉やんがいないとスズちゃんが悲しむ。

「玉やん…」

 叫んでみても、返事はない。小生は仕方なく気持ちを切り替えた。玉やんとスズちゃんの対面はあとのことだ。

「ミーちゃん」

 小生はミーちゃんに意識を集中した。その瞬間に、小生の魂が震えた。心が激しく震えた。小生は、ミーちゃんの手を強く握った。

「ミーちゃん、頑張れ」

 何をどうしていいのか分からない。

「ミーちゃん、頑張れ!」

 ミーちゃんは、小生の目をまっすぐ見たまま、おかあさんになろうとしている。ミーちゃんの瞳が微かに潤んでいる。

「ミーちゃん、頑張れ!」

 おかあさんになろうとしているミーちゃんは、美しすぎた。ミーちゃんの全身に母親のオーラが浮かんでいく。

「ミーちゃん」

 小生の涙腺がゆるくなっていく。ミーちゃんへの愛が膨れ上がっていく。

「トラやん…」

 ミーちゃんが小生の手を強く握り返した。今から、小生たちの愛の結晶が、この世に形となって現れる。小生の胸ははちきれそうになっていた。

「いいよ、生まれておいで…」

 鈴の音がしたように思った。あの銀色の音色が聞こえたように思った。

「生まれておいで…」

 ミーちゃんの顔が少し綻んだ。生まれようとしている。生命の奇跡がミーちゃんに起ころうとしている。小生の視界がゆるゆると揺れる。涙でミーちゃんの顔が霞んでいく。

「ミーちゃん」

 テツばあさんが、何やらこそこそと動いた。新しい生命が、ミーちゃんから零れ始めたようだ。

「ミーちゃん…」

 小生は祈った。祈ることしか出来ない。ミーちゃんがんばれ。スズちゃんがんばれ…。

「トラやん…」

 ミーちゃんが大きく微笑んだ。生まれたのだ。テツばあさんが、何度も一人で頷いている。

「トラやん…」

 ミーちゃんの瞳から、大粒の雫がひとつ滑り落ちた。

「スズちゃんよ、一番目は、スズちゃん」

 ミーちゃんを強く強く抱きしめたかった。ありがとう、ありがとう、ありがとう…。

 テツばあさんが、スズちゃんを取り上げている。テツばあさんの瞳にも一粒の涙が。

「スズちゃん…」

 小生は、テツばあさんの手の中の小さな生命を見た。くしゃくしゃな物体を見た。

「スズちゃん…」

 それは、まさしくスズちゃんだった。うっすらと、白黒の模様がその物体より浮かび上がっている。

「スズちゃん…」

 小生は、あわててスズちゃんの顔を覗き込む。スズちゃんの目は、スズちゃんの目は。

 テツばあさんが、スズちゃんを裏返す。小さな小さな生命が、モコモコと小さな動きを繰り返している。

「スズちゃん…」

 スズちゃんは笑っているようだった。瞼を懸命に開けようとしている。小生の涙腺がとうとう破裂した。ぼろぼろと涙が情けなく零れ落ちる。

「スズちゃん…」

 スズちゃんの瞼が、ゆっくりと開いていく。スズちゃんが必死になって、重たい瞼を上に上げていく。

 今まで、閉じたままだった瞼が、少しずつ少しずつ持ち上がっていく。スズちゃんが光を受け入れようとしている。光を見ようとしている。小生は涙をぬぐった。その瞬間が涙で見れなかったら、スズちゃんに申し訳ない。

 どこからか、玉やんの匂いがする。玉やんもスズちゃんに力を送っている。

「スズちゃん…、がんばれ!」

 ぬぐっても、ぬぐっても涙がどこから沸きあがる。

「スズちゃん!」

 光がスズちゃんに届く。スズちゃんの瞳が光を跳ね返す。

「スズちゃん…」

 二つの宝石だった。それは、どこまでも透き通った二つの宝石だった。どこまでも、どこまでも、輝く二つの宝石だった。小生はスズちゃんを腕に抱いた。二つの宝石が小生に近づいた。

「スズちゃん…」

 スズちゃんが笑った。二つの宝石がコロコロと笑った。

「おとうさん…」

 小生にはそう聞こえた。鈴のような声だった。

「おとうさん、ありがとう」

 二つの宝石から、二粒の水晶が流れ落ちた。微かな鈴の音と共に、その水晶は白く輝いた。あの奇跡の花の色に輝いた。

 涙が、今日ですべて枯れてしまうと思うほど勢いだった。感動の渦に小生泣き続けた。人目もはばからずに泣いた。テツばあさんが呆れていた。健三さんがもらい泣きしてくれていた。

「おかあさん…」

 スズちゃんがミーちゃんの胸に顔を埋めている。

-なんて、生命っていうのは美しいものなのか…。素晴らしいものなのか…。

 小生の琴線は表にむき出しになっていた。秋の風に無防備に晒されていた。

「トラやん…」

 そんな小生をミーちゃんが諌める。ミーちゃんは母親の優しさで小生に言った。

「ありがとう、トラやん…」

 それは、小生のむき出しの琴線には、刺激が強すぎた。

-あかん、あかん…。

 涙が洪水となる。鼻水がそれを追っかける。

「うん、ミーちゃん…」

 スズちゃんの次に生まれた子が、スズちゃんへよれよれと近づいた。

「次は、トラやんと同んなじトラ模様…」

 ミーちゃんが笑っている。ミーちゃんは母親が似合っている。

「この子、お腹の中ですごく元気だった…」

 その猫は、手足を思い切りばたつかせ、懸命にスズちゃんへ近づく。裏返った亀のように、全身伸ばせるところを全部伸ばしていく。

「その子は、いい子よ。優しい子よ…」

 既にミーちゃんは母親になっていた。聖母のような瞳でトラ猫を見ている。

「この子はいい子。物凄く、やんちゃ…」

 裏返った亀は必死になって、なぜか、スズちゃんへ向かっていく。うっすらと浮かび上がるトラ模様が、小生のそれとまったく同じだ。

「トラやん…。その子の名前をつけて」

 ミーちゃんの笑みが大きくなる。その笑みに何か含みがあるのだろうか、小生の身が引き締まった。父親としてての自覚が目覚めていく。

「名前をつけて…」

 泣いてばかりではいけない。大役が回ってきたのだ。それは、父親の責任だ。

「うん、えーとえーと…」

 本当は、玉やんにそれをお願いしたかった。でも、玉やんはいない。さっき、微かに匂いはしたのだけれど。

「えーと…」

 子猫が暴れる。スズちゃんへ手を伸ばす。スズちゃんのお尻を撫でる。

「えーと…」

 その時、玉やんの匂いが再びした。玉やんが来てくれたのか。

-玉やん…。

 小生は周りを見渡した。玉やんはいない。

「トラやん、トラやん…」

 玉やんが小生を呼んでいる。どこからか玉やんの声がする。

「トラやん…」

 それは、ミーちゃんにも聞こえていた。ミーちゃんの笑みが大きくなる。

「トラやん。ここや、ここや…」

 それは、ミーちゃんのお腹から聞こえた。スズちゃんのお尻から聞こえた。

「トラやん、ここや、ここや…」

 テツばあさんが飛び上がった。健三さんが腰を抜かした。

「トラやん…、ここや、ここや、ここや、ここや…」

 小生の目玉が飛び出た。飛び出た目玉から、涙が噴き出した。

「玉やん…。玉やん?」

-ほんまかいな?

 ミーちゃんだけが平然と笑顔だった。小生は気を失った。玉やんの上に倒れこんだ。

「ああ、玉やん…」

「スズ、スズ…」

 玉やんはスズちゃんのお尻に手をかけた。さらさらと産毛の感触が玉やんに届く。

「スズ、スズの目…」

 スズちゃんの目に光を…。玉やんはそれだけの思いでここまできた。己のことなど構わずにここまできた。スズちゃんの目さえ開いていれば、自分はどうなってもいい。玉やんの熱く悲壮な思いだった。

「スズの目…」

 身体が言うことを利かない。前に進めない。手足がばらばらに動く。

「スズ…」

 玉やんは慌てていた。

「トラやん…。ここや、ここや…」

 トラやんに助けを求めた。トラやんなら分かってくれる。精神猫としての生き方を理解してくれる。玉やんは叫んだ。声の限りに叫んだ。

「トラやん。ここや、ここや、ここや、ここや!」

 それがいけなかった。目玉の飛び出たトラやんが玉やんの上に落ちてきた。

「ウエー!」

 玉やんがトラやんの下敷きになる。トラやんは気を失っている。

「ウォー!」

 しかし、玉やんは諦めたりしなかった。トラやんの下から這い出す。全身伸びるところをすべて伸ばす。全身曲がるところをすべて曲げる。全身動くところをすべて動かす。玉やんは必死だった。

「ウォー!」

 トラやんを越えていく。全身を伸ばす。全身を曲げる。全身をとにかく思い切り動かす。玉やんの今の歩みはそれしかなかった。どういうわけか、それしか、前に進まない。それしか、スズちゃんに近づけない。

「ウォー! ウォー!」

 目よ開け、スズの目よ開け…。玉やんの思いはそれだけだった。

「ウオー!」

 トラやんを越えた。少しずつ、自分の身体の自由が利くようになっていく。デタラメの動きが早くなる。玉やんは何でもいいから身体を動かした。自分が亀のように見られているとは思いもせず、生まれたての生命で、生命の限りに動いた。

「スズ…。スズ…」

 スズちゃんはミーちゃんのおっぱいに顔を埋めていた。

「スズ、スズ、顔を見せておくれ…」

 玉やんがスズちゃんに馬乗りになる。ミーちゃんが玉やんを抱っこする。

「スズ、スズ…」

 全身の動きが止まる。玉やんの中から激しいものが遠ざかっていく。

「スズ………」

 暖かい何かが玉やんの意識を優しく撫でる。玉やんの意識がそれへと跪く。

「スズ…」

 その時、玉やんははっきりと見た。スズちゃんが振り返ったのだ。

「玉やん…」

 スズちゃんは笑った。大きな大きな二つの宝石が、玉やんのすべてを包んだ。

「スズ……」

 そこまでだった。玉やんの掟破りは、玉やんなりの成果を残した。

「おかあさん…」

 玉やんは落ちていく。大きな大きな宝石二つと共に落ちていく。

「おかあさん…」

 暖かさに包まれた。玉やんの今までの記憶が消えた。二つの宝石が色を変える。

「おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん…」

 玉やんが、再びムチャクチャに動き出す。ミーちゃんの腕から滑り落ち、スズちゃんを越えていく。

「おかあさん、おかあちゃん、おかあちゃん…」

 玉やんがつっ走る。激しさが玉やんに戻る。

「ウォー! ウォー!」

 玉やんは叫んだ。それは、先ほどまでの切ない叫びとは違う。

「ウォー! ウォー!」

 それは、愛にたっぷりと包まれた歓喜の叫びだった。

「おかあさん、おかあちゃん、おかあちゃん…」

 全身をデタラメにばらばらに、玉やんは懸命に動した。少しでも早くとバタバタを激しく激しく繰り返す。

「お、か、あ、ちゃーーーん!」

 玉やんの目の前に、またひとつ更なる宝石が輝いている。おいしそうにゆらゆらと玉やんを誘っている。

「お、か、あ、ちゃーーーん!」

 玉やんは、ミーちゃのおっぱいに思い切りかぶりついた。おかあさんのにおいがした。大きな大きな愛の匂いがした。

「お、か、あ、ちゃーーーん!」

 暖かい風が小生の髭をくすぐった。ミーちゃんとテツばあさんの笑い声が聞こえる。

 しかし、恐ろしきは玉やんだった。玉やんの執念に小生は心を打たれた。魂が破壊されるのではないかと思うくらい、小生は激しく震え泣いたた。

「トラやん…」

 ミーちゃんが呼んでいる。

「トラやん…」

 小生は気を失っているふりを続けた。起きるとまた大泣きしてまう。しまいにミーちゃんに嫌われてとしまう。

-ミーちゃん、ありがとう…。

 背に玉やんと思われる小さな塊が暴れている。鼻の先をスズちゃんと思われる小さな塊が動いている。

-ありがとう、みんな…。

 疲れが一気に出たようだ。小生はまどろみへ落ちていく。

「トラやん…」

 背中の玉やんが小生を呼んだ気がした。

「トラやん…」

 スズちゃんの声が聞こえたような気がした。ミーちゃんが小生を優しく抱いてくれた。涙が再びあふれ出た。

                              精神猫トラ 第二話     完

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