アンパンさん

アンパンさん

(1)

その一球だけ、私は冷静な判断が出来なかった。投手の渾身のスナップから弾き出された純白の球は、大気を切り裂き、真空の針の穴を一直線に駆けた。それは、闇の中に現れた一条の光だった。刹那に咲く希望の煌きだった。光は私だけに激しすぎる滾りを見せつけた。
「……」
私は一瞬怯んだ。魂の一球に、私の中の熱いものがひれ伏した。私の右手が固まった。
「ボール!」
そのときはそう思えた。白球は微かに外角を外れていた。
打者がバットを置いた。いや、ストライク…。外角一杯…。七回裏ツーアウト満塁ツースリー。絵に書いたようなドラマのラスト。エースの今日一番のベストピッチだ…。魂の一球だ。
「ボール…」
二度目は力なく言った。自分の判定に自信を持てなかったのは、これが始めてだった。
「フォアボール…」
打者が喜び勇んで一塁へ走る。砂埃がその打者の背中を追いかける。
「ゲームセット」
三塁走者がホームベースを踏む。打者が一塁ベースを踏む。その二つの動作を確認して、私はそう宣言した。あの白球は、本当は外角の片隅を掠っていた…。そう、あれはストライク…。
後戻りなど出来ない。両チームがホームベースを中心に向かい合う。私は再び同じ宣言をした。
「ゲームセット」
右手をいつものように高く上げた。両軍の全選手が、私たちアンパイヤに礼を言う。
「ありがとうございました…」
これで、私の一日は終わるはずだった。ほんのり清清しい思いと、心地よい疲労と、多少の日焼けを、ボロアパートに持ち帰るだけだった。私は、選手の列が解けると、ひとり帰り支度を始めた。
桜の花びらが、ひとひら私の目のまえを過ぎた。その時、私の中であの一球が蘇った。激しさと儚さが、私に一度に押し寄せる。あの時、右手が固まった。渾身の直球の凛とした潔さに、私は思わず見惚れてしまっていたのだ。若人の未来への健やかな滾りが、あの一球に見えた。行き場のない猛る若さが、奇跡的にあの白球にひとつになったのだ。
そして、私といえば、あの白球に瞬時ひれ伏した。うねりを上げたあの白球は、私の魂を鷲掴みにした。間違いなくあの一球は、私の中でのベストピッチだった。ストライク、ボール、そんなことは私の中で超越しまっていた。
「あのー」
水場で顔を洗っているときだった。私の背を誰かが叩いた。
「アンパンさん…」
人を振り向かすだけにしては、それは少し強すぎた。私は慌てて振り向いた。水しぶきが胸に広く飛び散った。
「最後の球、あれはボールでしたか…」
それは、私のベストピッチ。あの一球を投げた投手、沢村弘樹だった。
「最後の球、あれはボールでしたか…」
弘樹は、それを二度繰り返した。声変わりした若者の勢いが、私を急かした。弘樹は熱かった。
「あれはベストピッチだった! 最高の一球だった!」
弘樹の熱さが、私に乗り移ったのか、私は、思わず叫んでいた。弘樹に握手を求めていた。
「素晴らしい一球だった! ベストピッチだった!」
沢村投手は私の握手を拒んだ。私より、弘樹のほうが冷静だった。
「アンパンさん…」
弘樹の瞳は悔しさに潤んでいた。私の瞳に真っ直ぐに、弘樹の涙が伝わって来る。あの一球に見えた、行き場のない猛る若さが、私を激しく責める。
弘樹の瞳から、大粒の涙がぽとりとこぼれた。弘樹は、それを隠すこともなく私に言った。
私は、その時、引退を決めた。アンパイヤはどんなときも冷静に…。私の先輩の言葉だ。試合の前も後も同じだ…。私は、弘樹に伸ばした手を引っ込めた。
もう、マスクをかぶることはない。私は懺悔の思いに揺れた。
再び、私の意識に、あの一球が浮かぶ。空気を切り裂き、真空を純白のビームが真っ直ぐに私に伸びる。
私の中のプライドというひとひらの花びらが散り行く。本当はストライクだった…。そう言ってやりたい。
私も泣いていた。穢れのない純白なひとつの野球のボールが、私のなんでもない人生に少しだけ色をつけてくれた。ストライク…。ボール…。その二つの選択だけ、堂々と、私には許されていた。
「すまない…」
あれはストライクだった…。なぜ、そう言えない。私に揺れる懺悔の思いが大きくなる。
ストライク…。ボール…。その選択を、私は、最後にして間違えた。
「……」
弘樹の熱さが退いていく。どんなときも、若者は潔い。弘樹の面に笑みが浮かぶ。
「アンパンさん…」
弘樹が、私に深く礼をした。散り行ったはずのプライドの欠片が、私を責める。
「ありがとうございました」
弘樹が去っていく。仲間たちの輪へ駆けていく。私も弘樹に言った。
「ありがとう…」
背番号1が恐ろしく大きく見えた。私は、もう一度言った。心の奥底から湧き上がった言葉だった。
「ありがとう…」
この瞬間、私の全身が、生涯感じたことのない何かに震えていた。ストライク…。ボール…。私に許されていたその二つの選択。少年たちの私への信頼。そして、それを成し遂げただろうとの清らかな思い。それらがすべて、仲間に駆けていく弘樹の背に浮かんで見えた。背番号1の少年が起こす風に揺れていた。
私だって必要としてくれる人がいる。いや、いた…。
弘樹に、私は信頼されていた。それだけで十分だった。私は満足に引退することができる。自分の中の納得という我儘で滑稽な虫が、何十年ぶりかで大人しく、この時だけは、私の思いを静かに受け取ってくれていた。
「ありがとう…」
私はもう一度弘樹にそう告げた。涙が一粒こぼれた。散り行く桜が滲んで見えた。

(2)

高校三年生の夏。私は灼熱を独り占めにしたようなマウンドにいた。陽炎が捕手までの距離で遊び、砂埃が強い陽射しにダイヤモンドダスト化していた。
夏の全国高校野球大会地区予選の準決勝。我が新興校は2点リードだった。相手は名門高校の四番打者。九回二死満塁。私は9回の裏からリリーフでマウンドにいた。セカンドゴロ、ライトフライの後、ヒット2本とフォアボール。調子は悪くなかった。
最後の打者になるはずだった。相手四番に、初球、二球目と得意のカーブでストライクを取った。
三球目、渾身のストレートを外角低目へ。私は勝利を確信した。白球は、一直線の軌道で捕手のミットへ。
「ボール…」
その後はあまり覚えていない。我が校は逆転負け。準決勝敗退だった。

「ボール!」
その声は、私の声か…。それとも、あの夏のあの声か…。
「ゲームセット!」
私の声だった。沢村弘樹の怪訝な顔が目の前に揺れる。
「ストライクだったよ。あの球は、ストライクだったよ…」
灼熱のマウンドから私は降りた。桜の花びらが陽炎と揺れている。
「アンパンさん。ありがとう…」
弘樹は笑っていた。笑顔が眩しかった。

久しぶりの夢だった。私は目覚めた。そのまま、闇の一点を見据えた。昼間の沢村弘樹の顔が浮かぶ。
「ストライクだ!」
私も、あの夏、そう叫んだ。叫んでどうなるものではなかった。その後、私は泣いた。
私は、弘樹の顔から逃れるように布団を出た。朝までは、まだ遠そうだ。玄関を出て、階段を下りる。ポロアパートの歪が悲鳴を上げる。遠くで夜行列車の音がした。
久しぶりに見た夢のせいか、昼間の熱さがまだ残っているのか、私は、ふらふらと夜行電車の音のほうへ歩いた。
私は高校を卒業と同時に、都会へ出た。野球を続けていたお陰で都会への就職が決まったのだ。しかし、私の胸の奥にはあの夏のあの一球の判定が燻っていた。人の判定に左右されることなく生きていこう。私には、特に未来の夢などなかった。他人を煩わすことなくひとりで生きる。それだけの思いで、とりあえず都会に出た。
都会での生活は、窮屈の一言だった。他人の判定だけで、自分の存在の価値が決まる。私は職を転々とした。私に対する人の判定は、すべてボールだった。私を、都会は受け入れなかった。当然のように、私は故郷へと戻った。
故郷は居心地が良かった。父は既に亡くなっており、母との二人暮しが長く続いた。不自由はなかった。母は、私をいつも正当に判定した。
婚期を逃した。そのうちに母が老いていった。私への判定を、母はしなくなっていった。
私は少し焦った。でも、焦ってもどうにかなるわけではなかった。このまま、私は世の中の渦、いや、渦にさえ巻き込まれない人生、世の中の片隅にじっと身を埋めたまま、母のように老いていく。父のように死んでいく。
しかし、どうすることも出来ない。私は、それでいいと思うようにした。そんな人間、世の中に五万といる。世間に不器用なものは私だけじゃない。
そんなある日、私は少年野球の試合と遭遇した。その当時、勤め始めた会社の近くに、いつも歓声が上がっていたのだ。
「ストライク!」
「ボール!」
その声に、私は、ふらふらと足を運んだ。それまで、私の中の奥深くに眠っていたものが、微かに蠢き始めていた。私はバックネットの裏に立った。腕や腰や足が、あの頃の力具合を思い出していく。
「そう、脇を絞めて…。そうそう、内股に力を入れて…」
私の独り言が少しずつ大きくなっていた。
「もっと大きく、もっと大きく腕を振るんだ。そうそう、肩の力を抜いて…」
そのグラウンドは、毎週土日になると少年たちの競う場になっていた。私は毎週足を運んだ。私の中の熱さが、それだけには反応してしまっていた。私は毎週バックネットに陣取った。
「ストライク!」
「ボール!」
半年もすると、私は、少年たちを指導する先生たちとも挨拶を交わすほどの仲にまでなっていた。あの選手はいい…。あの選手は伸びる…。そんな話までするようになっていた。
「ストライク!」
ある日、そう叫んだ審判が倒れてしまった。日射病だろうということで、その審判は木陰で休息することとなった。
「私が…」
その時、私自身が驚いていた。思えば、すべてを消極的な私だったが、あの頃、少年の頃、野球に対してだけは積極的だった。そんな思いが、私の中から飛び出したのだ。私は審判の代わりを務めた。でっかいプロテクターから、若き頃の熱き思いの匂いがした。
「ストライク!!」
恐ろしいほどの快感だった。自分がものごとを判定する。その判定を待って、その場の他の者が、次の動きに入る。
「ストライク!!」
その初体験は、今でも覚えている。全身に鳥肌が立ち、魂のレベルまで心が揺れた。私の判定に、みんなが従順に従う。そこには、信頼という絆がある。野球という歴史に息づいてきた重く深い結びつきがある。私は、思い切り心の中で叫んだ。
「私がアンパイアだ! 私がルールだ!」
あの夏の日が、私に再び訪れた気分だった。
「ストライク!!」
記念すべき私の最初の打者は、見事三球三振。すべて空振りの三振だった。

真夜中の散歩から帰って、私は、寝付けない夜に悶々としていた。どうしても、あの弘樹の顔が浮かぶ。私の判定にくってかかったあの思いつめた若者の凛とした表情。目に一杯涙を溜めて、弘樹は自らのあの一球の思いを私にぶつけていた。出来ることならば、あの瞬間に戻りたかった。戻って、これ以上ない叫びで、ストライク! と言ってやりたかった。
沢村弘樹。私は、あの伝説の大投手と同じ姓を持った野球少年を、デビューの頃から注目していた。六年前、まだ弘樹は小学四年生だった。弘樹は、突然、私の前に現れた。たぶん、初登板だったと思う。私は目は彼に釘つげとなっていた。
当時、私は「アンパンさん」と呼ばれ始め、フリーの審判員を気取っていた。審判員といっても、正式なものではない。無報酬、手弁当の、ただ、単なるボランティア。少しでも、野球少年たちの役に立てればと思い、週末になれば、あちこちの野球場や運動公園へ出かけては、練習試合、紅白戦などのマスクをかぶっていた。それが、私の唯一の趣味っていうところだった。
試合前に、弘樹を見つけた。一塁側のブルペンでの投球練習に、私は魅了された。背は、そんなに高くなく随分痩せていた。ただ、投球フォームに全くの無駄がなく、鞭のようにしなる右腕が、すべての投球パワーを、まったく余すことなく白球へダイレクトに伝えていた。理に叶った投球フォームだったのだ。
その試合、弘樹は見事完封勝利を収めた。私は試合終了後、弘樹を讃えた。いい投手になるよ…。そういうと、弘樹は嬉しそうに満面に笑みを浮かべ照れた。私は思った。これぞ、スポーツの美しさだと。この笑顔こそ、人間の美だと。
弘樹は礼儀正しかった。別れ際、ちょこんと帽子を取り、深く私に礼をした。そんな嬉しいことはなかった。手弁当でやってきたボランティア審判が報われた瞬間だった。
それから、弘樹は順調に伸びた。私を見かけるたび、アンパンさんといって、挨拶にきてくれた。弘樹は身長が伸び、中学に入る頃にはチーム1の上背になっていた。
私は、弘樹を注目し続けた。嬉しいことに、弘樹は、私の思った以上にいい投手になっていった。下半身が安定し、しなやかな右腕が、更に大きく振れるようになっていた。コントロールも良くなり、速球に磨きが掛かっていった。このまま成長してくれれば、この夏くらいには県内の伝統校などから、いや、県外の甲子園常連校からも誘いがあるだろうと、私の楽しみはどんどんと膨らんでいた。
私は再び布団を出た。窓が少し白み始めていた。
あれから、弘樹はグラウンドに居残り、長く投球練習をしていた。悔しさを、一球ごどにぶつけているようだった。私は木陰からそれを見ていた。止めさせたかったが、私はそれを見続けた。私は審判だ。監督でもコーチでもない。私は、誤審のせめてもの償いで、弘樹の投球を見続けた。
いい投手になる。やっぱりそう思った。
練習が終わると、弘樹は、木陰の私に帽子をとって挨拶をした。陰で私が見ていることを知っていたのだ。
私も、弘樹に深く頭を下げた。弘樹の清らかな両眼からの光に、私は少し眩暈を覚えた。
いい投手になる。いい青年になる。そして、いい人間になる。そう確信した。
夜が明けた。私は再びアパートを出た。結局、一睡も出来ない夜となってしまった。
私は朝のジョギングに出かけた。顔なじみの牛乳配達の若者と、朝の挨拶をした。
「アンパンさん。おはようございます…」
「よっ、おはよう…」
私は引退した。遠ざかる若者の背中に、私は小さくそう告げた。

(3)

あれから、私は揺れ続けた。あの日、あの時、あの瞬間は黙っていた私の納得という虫が、時が経つに連れて、じわじわと私の中で再び暴れだしたのだ。
「ストライクだった…」
私の脳裏に、その言葉が、何度も何度も渦巻いた。私には、その間違えを正すチャンスがあった。あの時、弘樹が私に詰め寄ってきた時、なぜ、私は弘樹を突っぱねたのだ。なぜ、あれは、ストライクだったと言ってやれなかったのだ。
「ストライクだった…」
私は揺れ続けた。沢村弘樹の瞳が脳裏から離れなかった。
次の週末、私は弘樹に会いに出かけた。引退の事は関係者に伝えていた。私は手ぶらで出かけた。気が焦っていた。私の誤審を早く弘樹に伝えたかった。あれはストライクだった…。と。
野球場に、弘樹のチームは練習をしていた。しかし、弘樹はいなかった。私はグラウンドを一周した。外野にチームの監督がいた。
「沢村弘樹がチームを辞めました。学校もやめました」
最初、何のことか良く分からなかった。チームを辞めた? 学校も辞めた?
「家庭の事情だそうです」
監督の言葉に私は呆然とした。あの弘樹が野球を辞めるわけがない。嘘だ。監督は私に嘘を言っている。
「それ以上の事は分かりません。私は、弘樹と話していない」
どういうことだ。弘樹は、監督にも黙って野球を辞めてしまったのか。
「どういうことです」
私は、監督を問い詰めた。監督は何も分からないと繰り返し、その経緯を私に教えてくれた。
「水曜日の夜、突然、弘樹から電話がありました。野球を辞めます。そう言って、弘樹は一方的に電話を切りました。私は、びっくりして、弘樹の家に電話を掛け直しました。しかし、電話は誰も出なかった。家に行っても誰もいなかった。引っ越した後でした」
監督は肩を落としていた。弘樹のことを心から心配している。
「次の朝、学校に問い合わせました。すると、弘樹は、学校にも同じ電話を入れていたそうです。一方的に、学校を辞める。と」
どういうことだ。弘樹に、何があったのだ。私は、監督の話を食い入るように聞いた。監督は続けた。声が更に低くなる。
「弘樹は、お父さんと二人暮しです。兄弟はいない。恐らく、お父さんの、何かのトラブルでしょう、と、学校は言っていました。とにかく、弘樹はこの街からいなくなった。このチームからいなくなった」
弘樹がいなくなってしまった。弘樹が私の前から姿を消してしまった。信じられなかった。信じたくなかった。私は野球場を後にした。弘樹がいなくても、チームは存続する。少年たちの練習はいつもと同じに続いた。

次の週末も、その次の週末も、更に、その又次の週末も、私は弘樹を探した。県内、県外あらゆる野球場を探しまくった。あの弘樹が、野球を捨ててしまうはずがない。弘樹の家庭に何かあった。しかし、弘樹が、野球を辞めるわけがない。引越した先の、何処かの知らない野球場で、弘樹は活躍している。あの渾身の速球を投げ続けている。私は、すべての週末を、弘樹を探すことだけに費やした。
しかし、弘樹はいなかった。あの素晴らしい速球を投げる投手は、どこにもいなかった。諦める事は出来なかった。あれはストライクだった。せめて一言、それだけは伝えたかった。

私は老いていった。定年を過ぎ、年金生活者となった。もう、アンパイアには戻れない。日々の生活すら徐々に面倒になり、このまま朽ちていく自分を、大切にしようとしなくなっていった。
しかし、私の脳裏には、弘樹のことがこびりついてしまっていた。もう一度、あの弘樹の球を見てみたい。捕手のすぐ後ろで、白球のうねる様を見てみたい。空気の切り裂く音を聞いてみたい。そんな思いが、私から離れなくなってしまっていた。それだけが、私の老後の支えだった。
もう一度、マスクをかぶってみたい。そんな空想が、私を少しだけ元気付けた。私は、来るはずのないその日の為に、道路工事のガードマンを始めた。屋外で立ちっぱなし。それは、アンパイアと同じだった。
弘樹は見つからなかった。あの素晴らしい投手は、私の前から消えてなくなった。思えば、私の人生に、弘樹はいい色をつけてくれた。しかし、私はそれを見誤った。裏切ることとなった。
三年ほどが素早く過ぎた。私は、私の人生を振り返ることが多くなった。思えば、何も残さない人生だった。何も変哲もない人生だった。そんな思いだけが、退屈な週末をうろうろと部屋中を埋め尽くしていた。そろそろお迎えが来てほしい。少し早いだろうが、私は、そう思っていた。私には、生きる値打ちというものがあったのだろうか…。神様の人選は、間違っていたのでは…。
しかし、弘樹は消えた。そう、それは、もう過ぎたことなのだ。私の人生に、いい色なんて存在していなかったのだ。それでいい。その方が、神さまも人選ミスを繰り返さずに済む。こんなつまらない人間を、再び世に出すことがなくなる。

その日は暑い日だった。私は、いつものようにアスファルトの上に立っていた。この日は、土木現場の交通整理だった。
ユニフォームが、汗でびしょびしょになっていた。風がなかった。私は、何度もの軽いめまいに耐えていた。これくらいの暑さは慣れている。アンパイヤも同じだ。暑さとの戦いだ。
その車、止まって。こっちの車、さあ進んで…。思えば、この仕事もアンパイヤの仕事とよく似ていた。ストライク。ボール。それに代わって、進め。止まれ。だ。私の進めで車が進む。私の止まれで車が止まる。
車の流れが落ち着き始めていた。もう少しすれば、昼休みに入る。私は背筋を伸ばし空を見上げた。真っ白い雲がが天の中央で気高く浮かんでいる。
「さあ、交代だ」
仲間のガードマンが私に声を掛けた。その時、空の雲が大きく揺れた。
「うっ!」
雲が私を包む。私の視界が真っ白になる。ガソリンの匂いが鼻先を過ぎていき、遠くのクラクションが大きく聞こえた。
「うっ!」
私は、そのままアスファルトに倒れこんだ。真っ白な雲が私の意識のすべてを包んだ。
「おっちゃん、大丈夫か?」
人の声が遠くに聞こえる。雲に落ちていく。底なしの雲に落ちていく。
「ああ…」
どこか、懐かしい景色だ。三途の川なのか…。桜が咲いている。菜の花が川辺を埋め尽くしている。
「おっちゃん、大丈夫か?」
母さんの顔が見える。父さんの顔も見える。私の意識がなくなった。母さんに、静かに抱かれたかった。

気が付いたのは、公園の木陰だった。母さんはいなかった。
工事現場側の運動公園に、私は運ばれていた。大きな木の幹に寄りかかっていた。私は周りを見渡した。誰もいなかった。どこからか、風が私に吹いていた。
私は、風の吹くほうへ歩いた。少年たちの歓声が聞こえた。そういえば、この先に野球場があった。私は風を逆らった。球を打つバットの音がする。応援の声が弾ける。
「まわれ、まわれ!」
私は、ふらふらとバックネットに近づいた。ランナーが三塁を回る。ライトからの返球をファーストが中継する。
「いけ、いけ!」
ランナーが、ホーム手前で滑り込む。返球のボールが捕手のミットに納まる。砂埃が、それらを一瞬に隠す。
「……」
アンパイヤが砂埃を覗き込む。白球は、捕手のミットに収まったままだ。
「アウト!」
アンパイヤの手が上がる。捕手が、ミットを高高と上げる。
「ゲームセット!」
アンパイヤが、両軍にそう宣言する。砂埃が風に消えていく。
「ゲームセット」
私もそう呟いた。アンパイヤの判定は正しかった。
「アンパンさん…」
その時、私の背を誰かが叩いた。どこかで聞いたことのある声だった。
「アンパンさん…」
まさか、まさかだった。私は急ぎ振り返った。
「……」
そこには、真っ黒に日焼けした沢村弘樹がいた。あの日と同じ、熱い瞳がそこにいた。

「あれはストライクだった…」
その言葉を言う前に、弘樹は、私に礼を言った。
「あの日のアンパンさんの審判は正しかった。あれは、ボールだった」
いや、ストライクだ…。そう言おうとしたが、弘樹は続けた。
「そのお陰で、野球というものが、もっともっと楽しくなった。こうして、ここで、仲間たちと野球をしていることが、今の僕の存在理由なんだ。僕たちは、そんなことをこの世界で学ぶんだ」
涙で弘樹が見えなくなっていく。弘樹は成長した。私の思った以上に、いい青年になっている。
「心がはちきれそうにウキウキとなる。そんなことを、僕たちは学ぶんだ」
屈託など微塵もない弘樹だった。弘樹は真っ直ぐに私を見ていた。あの頃の熱さが色を替えていた。幾分柔らかくなっていた。
「アンパンさん。ありがとう…」
そう言って、弘樹は私にマスクを手渡した。信じられない思いだった。弘樹の球を見てみたい。私の支えが現実になる。
「さあ、アンパンさん…」
時がやけに急いでいた。気が付くと、弘樹がマウンドにいる。野手が定位置に散らばっている。
「アンパンさん。フレーボールだ」
誰かが、私を急かす。私は腰が降ろした。マスク越しに弘樹が見える。
「プレーボール!」
一球目はど真ん中の速球。矢のように、白球が捕手のミットに突き刺さる。
「ストライク!」
私は叫んだ。私が軽くなっていた。私がしっかりしていた。そして、私が熱くなっていた。

弘樹は成長していた。背も伸びていた。
「ストライク!」
速球が素晴らしく手元で伸びる。腰が大きくなった弘樹から弾かれる白球は、次々と打者をなぎ倒した。
「ストライク!」
私に恍惚の時が過ぎていた。弘樹の投球が、私を至高の喜びを与えてくれていた。弘樹はパーフェクトだった。外角低めの速球は、誰も掠ることすら出来なかった。
「ストライク! バッターアウト!」
私の中の若さが爆発していた。弘樹のストレートに、私は我を失った。
「ストライク。バッターアウト!」
私は、それを繰り返した。真っ青な青空に、私は何度も何度もそれを叫んだ。
三年、いや、四年ぶりが…。弘樹の成長は当然のことなのだ。弘樹の肩は、いかつく盛り上がり、あの頃のひ弱さは、どこにも見られなくなっていた。髪の毛も長くなり、流行なのだろう、ばざばさに茶色く染めている。
「ストライク!」
弘樹は上半身裸だった。あの少年の清清しさが、青年の逞しさに入れ替わり、激しさがはちきれる寸前に迸る火花が、幾重にも飛び散る。弘樹は大人へ変貌していた。
「ストライク!」
そう言えば、弘樹のチームは土木作業員たちのチームのようだ。泥だらけのニッカポッカがグラウンド狭しと駆け回る。どの顔もすばらしく輝いている。不思議ではない。ユニフォームがなくたって、野球は野球だ。誰もが出来るスポーツだ。
それぞれが本当にいい顔をしている。私は思った。これが本当の野球の姿だ。スポーツの原点だと。
弘樹が、ニッカポッカの片足を大きく上げる。地下足袋が、弘樹の顔辺りにまで上がる。
弘樹は一人で世の中の渦を越えてきたのだ。何かの事情が、弘樹を逞しく成長させた。弘樹は負けてはいなかった。野球にも人生にも、弘樹は逃げてはいなかったのだ。
「ストライク! バッターアウト!」
弘樹のチームメイトたちも、それぞれいろんな事情から逃げたりはしなかったのだろう。どの顔も煌いている。屈託という影は見えない。
「ストライク!」
私のテンションがますます高くなる。弘樹は狙いを外さなかった。すべての球が、捕手の構えたところにコントロールされていく。
「ストライク!」
ニッカポッカが躍動する。ばさばさの茶髪が風に舞う。私の思いは間違っていなかった。弘樹はいい投手になる。いい青年になる。
弘樹のこれまでの人生が見えてくる。少年野球のエースが、突然、激しすぎるほどの世の中の激流に巻き込まれた。弘樹は、潔くその流れに従った。いや、その流れを超えていくことを選んだ。
そこには、いくつかの選択はあっただろう。少年野球を続けていくことも出来ただろう。しかし、弘樹は、大人たちが考える以上に物事の大局を見ていた。弘樹は、野球という枠の中におさまることを拒んだのだ。私はそう思う。
「ストライク!」
だから、このような素晴らしい投球が出来るのだ。弘樹は人よりも、幾分早く世の中に漕ぎ出した。ただ、それだけのことだ。家庭の事情がなかろうとも、弘樹は、このように素晴らしい成長を遂げていたはずだ。野球への情熱が、弘樹の場合、人生への情熱へと色を変えた。野球に全力を傾けた。そう、何かに全力を傾けたという事実が、人生へ全力を傾けられた礎になったのだ。だからこそ、世の渦を越えてこれた。闇をも越えてこれた。
「ストライク! バッターアウト!」
もう一度、思い切り野球をやる。そんな思いが、弘樹を支えたのかもしれない。野球に教えてもらったことが、くじけそうになる弘樹を救ったのかもしれない。とにかく、弘樹は、若くして、人生を全力で生きることを実行した。全力ということが、いかに全力足るべきかを知った。
「ストライク!」
弘樹との距離が近づいていくのを、私は感じていた。一球投げるごとに、弘樹の思いが私の理解となっていく。先ほど、弘樹は言った。心がはちきれそうにウキウキとなる…。そんなことを、僕たちは学ぶんだ…。その意味が、私にしっかりと理解になっていく。そうなのだ、私たちは、心の奥深くまで光を持つ、その魂の光がはちきれそうになるまで輝いていく。それが、私たちの存在理由なのだ。この世界でそれを学ぶのだ。
弘樹が躍動する。あの姿こそが、私たちに与えられた究極の美しさだ。素晴らしい輝きなのだ。
「ストライク!」
私は気づいた。そうなのだ。弘樹は私よりも先にいるのだ。私は今から弘樹のいる世界へと進む。弘樹が私をいざなってくれているのだ。
「ストライク!」
時が少しずつ緩くなっていく。急ぐことはない…。急ぐことはない…。誰かが、私の耳元でそう呟いた。母の声だった。
「ストライク! バッターアウト!」
私もそう思った。急ぐことはない…。急ぐことはない…。もう少し、弘樹のアンパイアでいたい。急ぐことはない…。

(5)

「最後の一球が、ストライクだったら、野球を続ける。ボールだったら、父親に付いて行く。沢村弘樹はそう決めていたんだ…」
目の前に母がいる。私の話を聞いてくれている。
「沢村弘樹という素晴らしいピッチャーがいたんだ」
私は、一生懸命に母に話した。夢だろうか…。母は若く美しかった。
「それは、凄い球を投げた」
父も側にいる。やはり、若く逞しい。
「私は、最後の一球をボールと判定した。外角低め、素晴らしい一球だった。私が見た中のベストピッチだった」
私は得意げだった。この話は、母にも父にもした事はない。沢村弘樹から直接に聞いた真実だ。
「私の誤審だった。しかし、弘樹はそれを受け入れた」
父が頷いた。なにやら、難しい顔をしている。
「そして、弘樹は野球から姿を消した。私の判定に従った。弘樹は潔かった」
やはり、夢だろうか…。私が軽くなっていく。
「弘樹の父親が事業に失敗した。借金が残り、善からぬ輩に追われた。弘樹は逃避行の父と行動を共にする。弘樹は父親を尊敬していた。父親が大好きだった」
ちらっと、父が私のほうを見たように思った。でも、今だったら言えるぜ、父さん大好きだよ…。
何故か、私の中の幼さが大人しくしていない。母の背、父の胸。そんなものが、心地よく甘ったるく私の中を揺れる。
「弘樹と父親は、弘樹の死んだ母親の故郷へ向かった。それが、あの街さ。私、いや、僕がガートーマンをしていた街さ」
私が僕になっていく。私ではなく、僕という自分が不思議ではない。私が子供に戻っていく。僕が僕に戻っていく。
「弘樹は父親を支えた。身元が知れないで働ける建設現場へ潜り込んだ」
そんなこと、あの頃の僕には出来なかったことだろう。弘樹は中学三年だったんだよ。僕には無理だっただろうな…。
「そんなことない。お前だって出来る」
突然、母さんが僕の話に割り込んだ。顔を真っ赤に、ムキになっている。
「そうだ、お前なら出来た」
父さんもムキになっている。僕にだって出来た…。なんだか、僕にもそう思えてきた。
「ありがとう。まあ、それはいいんだけど…」
父さんも母さんも頷いた。僕の幼さが、どんどんと膨れ上がっていく。回顧の奥底には、幼さが眠っていた。それが、今目覚めている。
「弘樹は一生懸命に働いた。そのうちに、弘樹の父親も元気になった。しかし…」
父さんと母さんが微笑んでいる。いつ以来だろう…。いつ以来だろう…。
だから、この夜は言わずにいた。弘樹が、交通事故で世を去ったことを…。僕より、先に逝ってしまっていたことを…。
「ある日、弘樹は一人の少女と出会う。弘樹は、その子の名をまだ知らない」
僕は、ゆっくりと先を続けた。僕の幼さが止まらなくなっていた。
「弘樹は恋をした。弘樹は大人になっていった」
父さんと母さんの微笑が大きくなる。僕は思っていた。この二人に生まれてきてよかった…。
「弘樹は言ったよ…。その球が、ストライクだったら、僕は、その子にプロポーズする。ボールだったら諦める。って…」
母さんが、僕を膝に抱いてくれた。父さんが、僕の頭を撫ぜてくれた。僕は幸せだった。

「アンパンさん。この球だ!」
弘樹が叫んだ。私は、弘樹がインターバルに言ったことを思い出していた。最後の一球が、ストライクならプロポーズする。私は、ちらっと弘樹のチームのベンチを見た。歓声の隅っこに、あの娘の顔が見える。
「プレー再開!」
弘樹が大きく振りかぶった。ニッカポッカの裾が跳ね上がる。
「さあ、こい…」
私は心で叫んだ。意識のすべてを弘樹から弾ける白球に向ける。
しなやかに弘樹の腕がしなった。あの時と同じだ。弘樹の投げた白球が、一直線に大気を切り裂いた。
「……」
今度は怯まなかった。私もあの日より数段成長している。
「……」
息を飲んだ。弘樹の渾身の直球が、外角低め一杯に突き刺さる。ちらっと、あの娘の顔が浮かんだ。私は右手を強く強く握り締めた。
「ストライク!」
完璧なるストライクだった。あの日と同じ、弘樹のベストピッチだった。
「バッターアウト!」
私の右手が、これ以上ないほどに天に伸びた。弘樹がマウンドを降りる。満面の笑みだ。
「ゲームセット!」
私は幸せだった。私の黄泉への道に、弘樹たちが、いい色をつけてくれたのだ。
「ゲームセット!」
私という人生も、この瞬間がゲームセットだった。私は天に召されていく。何も変哲のない人生だったが、私は幸せだった。私を必要としてくれる人たちがいたのだ。それだけで、私の人生は少しだけ意味を持った。色を持った。
バックネットの裏の桜が風に散っていく。私の背にもそれが届く。
弘樹が、私に握手を求めてくれた。弘樹たちは知っている。私が、最後の旅立ちを迎えていることを。あの桜のように、凛々しく散っていくことを。
「素晴らしい球だった…」
私は言った。私の旅立ちにとって、これ以上ないほどのいい一言だった。
「アンパンさん、ありがとう…」
弘樹たちのチームのみんなが私を囲む。どの顔も真っ黒に日に焼けている。自己主張の激しそうな青年たちだが私を囲む。
「アンパンさん…」
みんな野球小僧だったのだ。ああ、なんて野球っていいものなんだ。チームメイトの汗がほとばしる。その汗が、この青年たちを支えてきた。それぞれ事情を乗り越えていく力を与えたのだ。
みんな、みんな、一人残らず、私たちアンパイアにはきちんと感謝してくれていたんだ。そんな思いが、どの顔にも見れる。
「アンパンさん!」
彼らもすべて私の先にいる。悲しみを乗り越え、未練を断ち切り、輝く未来へ帆を上げている。震える魂を、野球にひとつにし、それぞれの帆に風を起こしている。
そんな野球小僧たちが、私を持ち上げた。私の瞳から、大粒の涙がこぼれ始める。汗が散る、砂が舞う、そして、私が軽くなる。
「ありがとう…」
「アンパンさん…」
私が宙に舞った。野球小僧たちが、私を胴上げしてくれているのだ。こんな嬉しいことはない…。こんな嬉しいことはない…。
「アンパンさん」
「アンハンさん」
私は、5度、宙を舞った。その都度、私が涙が大きく散った。とめどなく散った。
「アンパンさん」
「アンハンさん」
桜も散る。涙も散る。そして、私も散り行く。
「アンパンさん、ありがとう…」
弘樹が私を抱いた。そこに、何度も何度も嗅いだことのある匂いがあった。
「アンパンさん、ありがとう…」
それは、野球の匂いだった。汗と砂と泥と、あらゆる野球油の入り混じった複雑な匂いだった。懐かしく、なぜか儚い匂いだった。

「それから、弘樹は、あの娘にプロポーズした。この世で出来なかったことを、弘樹は、あの世で行ったんだ」
眠くなっていく。私の旅は、母と父の胸にまで、ようやくたどり着いていた。
「返事はどうだったんだろう…」
弘樹が、私の旅に、天から下りてきて色をつけてくれたのか。いや、弘樹の世界に、私が、わざわざ寄り道するように仕向けてくれたのか。どちらにしても、私より先に逝った弘樹からのプレゼントだったのだ。長年、少年野球のお手伝いをしてきた私への、野球小僧たちからの素晴らしいプレゼントだったのだ。
「今夜は早く寝るね…」
僕は、父さんと母さんにそう言った。明日の朝は早いんだ。
「そうなんだ、明日は野球の試合なんだ。僕がアンパイアなんだ」
僕は目を閉じた。弘樹と弘樹の彼女が、僕を見て大きく微笑んでいるのが見えた。
「そうなんだ。僕がアンパイアなんだ。僕はアンパンさんなんだ…」

アンパンさん   完

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