カルメン

カルメン…。 ―CARMEN―・・・
河村 健一・・・
・・・
プロローグ・・・
・・・
自分を感じる。自分の生命を感じる。いったい、どうしたんだろう。自分を、熱く感じる。・・・
それに、廻りがやけに熱い。自分の熱さよりも、それは、もっともっと熱く感じる。いつ以来だろ・・
うか、このような熱さ、自分の過去にあっただろうか…。分からない…。・・・
ずっと、眠っていたように思う。ずっと、意識がなかったように思う。どこにいるんだろう…。分・・
からない…。・・・
それにしても、少し熱すぎる。廻りの熱さが、自分をも、溶かしてしまいそうだ。でも、心地悪く・・
はない。昔を、思い出していくようだ。風が、自分に吹いた昔。そう、随分と昔。自分が、まだ二つ・・
の足で歩いていた時…。・・・
生命が、燃えている。それが感じる。それが分かる。廻りの熱さだ…。廻りの熱さは、生命の熱さ・・
だ。激しい程だ。生命が、激しく燃えているんだ。愛という、自分たちに授かった美しい光に燃えて・・
いるんだ。・・・
熱さのなかに、その揺れが、自分にも届いていた。南風のように、暖かく感じる。激しい熱さに、・・
爽やかに流れ込んでくる。愛の光だ。愛の光が、水晶の風に乗って、自分に吹いていた。・・・
生命の芽生え、その兆しを感じる。自分に吹いた風に、それを思った。・・・
光が、自分にも見えだしていた。いや、光を感じることが、出来るようになっていた。それは、・・
益々、自分を熱くした。廻りの熱さも気にならない程、自分を、熱くした。熱くなった自分に、光が、・・
降り注いでいるようだった。・・・
しばらく、そのまま揺れていた。熱さを心地よく感じ、宝石の煌めきを浴びていた。意識が、少し・・
ずつ覚醒していくようだった。・・・
愛を感じた。何もかも吸収してしまいそうな、強い愛を感じた。廻りの熱さが、愛を、発散させて・・
いた。無限に、果てしなく、それを、発散させていた。その散った愛にも、その熱さは、優しく近付・・
いていった。優しく後を追った。そして、優しく、それを包んでいった。愛が、大きくなっていった。・・
熱さが、それを大きく包んでいった。・・・
そのなかにいた。幸せを感じた。溶けてしまいたかった。この愛のなかで、自分は、消えてしまい・・
たかった。根雪のなかの一粒のように、そのなかに、同化してしまいたかった。春のせせらぎのなか・・
の一滴のように、そのなかに、溶けていってしまいたかった。・・・
そう思ったら、どこからか思いが届いた。愛に、溶けておくれ…。さあ、この愛に、溶けておくれ・・
…。そう聞こえた。・・・
意識のなかに、涙の洪水が満ちた。幸せが、破裂しそうになった。愛に、溶けておくれ…。それが、・・
幸せにこだました。涙で満ちた自分の意識の中に、神のハミングのようにこだました。・・・
自分の生命も、廻りのように燃え出していた。意識が小刻みに震え、意識に満ちた涙を蒸発させて・・
いた。宝石の煌めきが、太陽の光に変わり、幸せが、果てしない愛へと変わっていった。・・・
「愛に、溶けておくれ…。さあ、この愛に、溶けておくれ…」・・・
それは、歌だった。歌が、続いていた。素晴らしい時だった。美しい時だった。・・・
その時だった。その時に、自分は振り返った。熱さの後ろに、影を感じた。薄暗い影を感じた。な・・
ぜか、自分の過去に、その影を知っていると思った。・・・
影が、自分を呼んでいた。愛の海の底で、その影は、自分を呼んでいた。悲しく思った。切なく感・・
じた。自分は、影を探した。影のなかに、光があると思った。真赤に燃える情熱の光が あると思っ・・
た。・・・
いくら探せど見えなかった。何度か、その影に叫んでいた。しかし、影は見えなかった。いや、影・・
のなかの光が、見えなかった。情熱の光は、見えなかった。・・・
「愛に、溶けておくれ…。さあ、この愛に、溶けておくれ…」・・・
その歌は、やはり続いていた。自分は、その通り、自分を包んだ愛に溶けていった。あの影のこと・・
が、少しだけ気になっていた。・・・
・・・
あんた、待って…。一人にしないで…。・・・
あんたの光が、消えていく。太陽の光に、消えていく。あんた、待って…。一人にしないで…。・・・
「愛に、溶けておくれ…。さあ、この愛に、溶けておくれ…」・・・
歌が、聞こえていた。生命の芽生えの兆しのようなものを、思った。母の匂いがした。・・・
あんたが消えた。どこかへ消えた。歌が聞こえていた方に消えた。・・・
その場所が、虚(うろ)になっていた。あんたの形が、そのまま虚になっていた。それへ進んだ。・・
あんたが、拵えた虚は暖かかった。あんたの温もりを感じた。そして、何もかも吸収してしまいそう・・
な、強い愛を感じた。・・・
「愛に、溶けておくれ…。この愛に、溶けておくれ…」・・・
しかし、その歌は、消えようとしていた。・・・
(1)・・・
・・・
老いたトカオール(ギター弾き)の動きが、激しくなった。酒場に、熱い思いがぶつかりあった。・・
バイイラオーラ(踊り子)が、床を鳴らした。真赤な衣装が、激しく舞った。乱れ揺れる黒髪が、そ・・
の空間を撹拌していく。スパニッシュギターの炎の響きを、酒場の白い煙に挿入していく。そのなか・・
に、おれの視線が揺れていた。・・・
「オレッ!」・・・
バイラオーラの黒髪から、汗が飛び散った。パチッ…。その、艶かしい音が聞こえた気がした。ス・・
ポットの黄みがかった光が、その一滴をとらえた。それは、黒髪を勢いよく滑り散っていた。白い埃・・
に煙る空間を、まるで、月光の雫のように滑って見えた。その場の光を跳ね返し、軽く放物線を描き・・
床に落ちた。奏でるギターの弾きが、その一雫を追う、おれの視線に重なった。・・・
情熱の姿だった。カルメン…。踊り子は、その瞳を恍惚に揺らしていた。おれは、引き込まれた。・・
赤く弾けるカルメンの姿が、おれを、限りなく熱くしていた。おれは、手を強く握った。アンダルシ・・
アの南風が、おれを包んだ。自らの血が、たぎっていくのが分かった。握った手を痛く感じた。ギ・・
ターの旋律が、おれの琴線を、上下左右からくすぐった。目が眩んだ。マンサリーリャ(白葡萄酒)・・
を、喉にぶち付けた。程良い刺激が、おれの肉体に溶け込んでいった。・・・
ギターの音が、大きくなった。激しさを、カルメンに運んでいた。弦から弾き出される一つ一つの・・
音が、すべて、カルメンに向かっていく。熱い響きが、カルメンを激しく責める。空間を揺らすその・・
振動が、カルメンを熱く揺らす。カルメンは、大きく頭を振った。そして、目を閉じた。乱れた黒髪・・
が、それを隠した。・・・
もう一粒、汗が散った。おれは、それを追った。咄嗟に、手を伸ばした。手のひらに、その熱さが・・
乗った。カルメンが、髪を掻き上げた。今度は、後ろに汗が散った。月光の雫が、カルメンの頭上に・・
舞った。カルメンの瞳が、再び揺れた。おれを見ていた。黒く深い色が、おれに、ゆらゆらと届いて・・
いた。おれは、手のひらに乗ったカルメンの一滴を握った。・・・
おれの全身が、これ以上ない高ぶりを示していた。額が溶けそうに熱く、背が冷たさに熱を帯びた。・・
意識しなくては呼吸すら出来なくなり、胸が、歪み軋んでいた。おれは、それを堪えていた。いや、・・
堪えていたというより、カルメンに集中していた。高ぶりを隠さずに、激しい猛りを、すべて自らの・・
視線に集めようとしていた。・・・
トカオールが、ギターと一つになっていた。老いた背を丸め、その身体を、ギターに埋め込んでい・・
くようだ。おれは、その姿を、カルメン越しに見ていた。今日のマルコのおやじは、乗っている。格・・
好いいぜ、おやじさんよ…。カルメンにも、それが分かるのだろう。カルメンの舞いが、いつもより・・
激しくなっていた。・・・
「オーレッ!」・・・
自分を、抑えることが出来なかった。カルメンの深い瞳が、おれを、どうしようもなく引いた。マ・・
ルコおやじの神の手が奏でるギターが、おれを、カルメンに果てしなく引き込んだ。カーニャ(厚手・・
の酒杯)に残った液体を、もう一度、喉にぶち当てた。自然と、腰を浮かせていた。テーブルを離れ・・
ていた。カルメンに歩いていた。・・・
カルメン! おれの声が、おれに聞こえた。激しい嫌悪が、一瞬、おれの胸を過ぎた。重く淫らな・・
声だった。情けない程、うわずっていた。・・・
そんな嫌悪も、カルメンの前にまで進んだときには消えていた。おれは、舞台のカルメンに縋った。・・
膝を折り、赤いヒールに手で触れた。カルメンのドレスが、めくれ上がった。微かな風が、おれの頭・・
上を流れた。おれは、カルメンの足首を掴んだ。白い肌が、おれの手に吸い付いてくるようだった。・・・
カルメンが驚き、バランスを崩した。おれは、カルメンのヒールに踏まれた。手の甲に激痛が走っ・・
た。それは、おれの猛りを、更に奮い上がらせた。おれは、痛みに叫んだ。カルメン! また嫌悪が、・・
その声に向いた。ギターの音が止んだ。・・・
背中を掴まれた。すごい力だった。一瞬の間に、舞台に引きずり上げられていた。客の罵声が、お・・
れの痺れる脳裏に流れ込んだ。バカヤロー! 引っ込め、能なし! おれには、慣れっこになってい・・
る罵声だった。しかし、今のそれはいつもとは違い、激しい憎悪がこもっていた。おれの声に向かっ・・
たおれの憎悪と、同じ種類の憎悪だった。・・・
目の前に、皺だらけのマルコおやじの顔があった。マルコは、怒りに震えていた。老トカオールは、・・
おれを凝視していた。パンチが、今にも飛んできそうだった。こんな、マルコを見るのは始めてだっ・・
た。おれは、マルコから目を逸らした。恐ろしいマルコの目だった。恐ろしさに、自分の猛りが溶け・・
ていこうとしていた。・・・
思った通りだった。マルコのパンチが、おれを襲った。目の前を、マルコの腕が過ぎていった。太・・
い腕だった。あの、神のテクニックを支えるのは、丸太のような上腕部だったのだ。おれは、パンチ・・
をもらいながら、そんな思いにいた。マルコおやじのギターが、益々好きになった。・・・
そして、その力は、老人のものではなかった。おれは、はじき飛ばされた。自分の本来の位置だっ・・
たテーブルにまで、はじき飛ばされた。したたかに頭を打った。脳天が、破裂しそうだった。おれは、・・
その位置から舞台を見た。舞台が、揺れていた。涙で、少し霞んでいた。・・・
マルコが、カルメンを隠すように、カルメンの前に立っていた。その目は、激しく怒っていた。微・・
かな光が、おれに鋭く見えた。おれを、睨み付けていた。ギターをだらしなく片手に下げ、ほとんど・・
白くなった汚れた髭が上下していた。・・・
マルコは、おれに帰れと言っていた。怒りの目は変らなかった。酒焼けした胸の赤さが、乱れた・・
シャツの襟から見えていた。いつの間にか、ギターを持つ手と違う手には、カーニャが握られていた。・・
マルコは、それを空けた。喉の隆起が、大きく動いた。・・・
マルコの後ろで、カルメンが叫んでいた。どうやら、おれの名を叫んでいた。そして、カルメンは・・
泣いていた。おれには、その涙の訳が分からなかった。おれは、そんなカルメンを見続けていた。・・・
・・・
夢だった。ぼくは目覚めた。汗に、下着が濡れていた。しかし、それ程、不快ではなかった。・・・
三日続けてだった。カルメンが、ぼくを悩ましく責めるのだ。どうして、カルメンなのだ。カルメ・・
ン。ビゼーの歌曲だろう。実在の女性ではない。誰かの小説に登場する、ジプシーの踊り子だ。・・・
そのジプシー娘の踊り子が、そのカルメンが、真赤なバラの花を、騎兵隊の伍長に投げつけるのさ。・・
伍長のドン・ホセは、カルメンに恋してしまう。しかし、カルメンは恋多き女。ドン・ホセの思いは、・・
カルメンに届かない。そして、ドン・ホセは、カルメンを短刀で刺す。カルメンの悲劇が、幕を閉じ・・
る。たわいのない物語だ。退屈な歌曲だ。・・・
ぼくは、夢で、ドン・ホセを演じているのだろうか。夢のなかで、カルメンに魅せられている。カ・・
ルメン…。真赤なジプシーの衣装が、素敵だったよ。ハハハハ。大笑いだ。ぼくは、夢のカルメンに・・
恋をしようとしている。ハハハハ…。・・・
確かに、ぼくは、スペインに憧れている。マドリッド、バレンシア、バルセローナ、グラナダ、カ・・
ディス、コスタ・デ・ソル…。行ってみたい。憧れている。情熱の国…。ぼくは、スペインに憧れて・・
いる…。だからって、カルメンはないだろう…。・・・
それに三日前、テレビで、カルメンを見たさ。誰かが、お笑いでやっていた。あの時、ぼくのなか・・
の何かが反応した。猛烈に、頭が痛くなったさ…。だからって、カルメンはないだろう…。夢にカル・・
メンはないだろう…。・・・
ぼくは、ベッドから出た。窓の外に、粉雪が見えた。学校から帰ったら、フラメンコギターのCD・・
でも、聞いてみようかと思った。あのギター弾きも魅力的だったな。マルコとか言ったな…。たしか、・・
パコ・デ・ルシアのCDがあったはずだ。スハニッシュギターの響きが、ぼくの脳裏に流れた。しか・・
し、今日は雪だぜ。雪とフラメンコは、どうしても似合わないよ。・・・
この街で見る、始めての雪だった。ぼくは、この街に越してきた。ぼくは高校生だ。当然、学校も・・
変わった。まだ、そんなに日は経っていない。でも、ぼくは、この街が好きになれそうもなかった。・・
新しい学校もそうだった。前の街もそうだったんだ。ぼくには、好きになれそうにもなかった。・・・
窓の外を見た。六階のぼくの部屋から、マンションを出ていく親父の姿が見えた。背を丸め、寒そ・・
うだった。ぼくには、そんな親父の姿があまりにも哀れに見えた。可哀想に思った。・・・
もう一度笑った。そう言えば、ここ三日間、笑ったことなかった。ぼくは、その笑いをわざと大き・・
くした。学校に行くのが、ものすごく嫌だった。・・・
・・・
自らの位置が、分かり掛けていた。そして、自らの存在の形が、分かり掛けていた。・・・
そう、あたいは、あたいのなかにいる。新しいあたいのなかにいるんだ。そして、その新しいあた・・
いのなかに、溶け込んでいこうとしている。一つの微かな音が、オーケストラの演奏のなかで目覚め・・
るように、あたいは、新しいあたいに受け入れられようとしているの…。・・・
教えてあげるわね。新しいあたい…。あたいのこと、すべて教えてあげるね…。でも、もう少し・・
待って。まだ、すべて思い出せないの。もう少し待ってね…。・・・
あの人のことを、追ってきた。だから、こんな所まで来てしまったの…。なぜ、ここまで来たの…。・・
どうして、ここまで進んできたの…。あたいは、いったい何をしているのだろう…。何を、追い続け・・
てきたんだろう…。あの人。あの人。あの人…。あの人でなんだろう…。・・・
そうだ、あたいは、あの人を追ってきたんだ。そうだったわ。あたいが、目覚めようとしている。・・
だって、あの人のことを、思い出したんだもの。そう、あの人のことを…。あの人、あの人、あの人・・
…。・・・
それは、三つ前の夜のことだったわ。あたいは、あの人を感じたのよ。あたいの意識に、あの人の・・
風が吹いたようなのよ。あの人の、頼りげな風。そう、それは三つ前の夜。あたいは、新しいあたい・・
のなかで、始めての微睡みを感じた。闇に包まれていたあたいが、始めて微かな光を感じたとき。そ・・
う、三つ前の夜のこと…。あたいは、あれから三つ夜を過ぎているの?・・・
それまでは、ずーと真っ暗だった。あたいは、真っ暗のなかに閉じこめられていた。いや、それは、・・
あたいが、選んだことなのかな? 暗がりの中に、いたかったのかな? 分からない。光を、感じた・・
くなかったのかな? 闇に、隠れていたかったのかな?・・・
あたいが闇から抜けると、それは、神の怒りに触れることになるの? そんな気がしていたと思う・・
のだけれど? 神に背を向けたあたいのことが、神に知れてしまう。神に逆らってしまったものは、・・
光を感じることは出来ないの? あたいは、神から隠れていなければならないの? あたいは、消え・・
てなくなっているべき存在なの? そんな風に、思っていたように思うけど?・・・
でも、そんなあたいが、目覚めようとしているの。意識が蠢いている。大木の幹に巣喰う虫が、微・・
かな震動で這うように、あたいは、新しいあたいのなかで意識を感じている。もう後戻りは出来ない。・・
あたいは、目覚めようとしているの。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
新しいあたいの音だ。三つ前の夜から聞こえるの。あたいは、新しいあたいのなかにいる。そして、・・
目覚めようとしている。許されない。それは、許されないことなのよ…。そんな風に思うわ…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
でも、いい音よ。この音、いい音よ…。・・・
・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
ああ、また始まった。わたしの胸が、激しく高鳴っている。いったい何だろう、この高鳴りは。今・・
夜で三日目よ。いったい、どうしたんだろう。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
まだ、恋などしたことはない。本当に、好きな人もいない。気になる人はいるけど、その人への、・・
高鳴りじゃない。胸が熱いの。焦がれているの。どうして、どうしてなんだろう。・・・
まだ、わたしは高校生。男女共学だけと、恋人なんかはいない。ボーフレンドはいるけれど、あま・・
り好きじゃない。わたしの好みじゃない。もうすぐ来るバレンタインの日に、チョコレートをあげよ・・
うと思う人はいるけれど、その人も、それ程、好きじゃない。胸が、ときめいたことすらないわ。で・・
も、高鳴っているの。胸が、キュンと締め付けられるようよ。わたしは、恋なんかしたこともないの・・
に…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
でも、この高鳴りは恋よ。わたしは乙女よ。だから分かるの。この高鳴りは恋。わたしには分かる・・
わ…。わたしは恋している。・・・
だって、何だか切ないの。きっと、わたしだけ知らないことよ。わたしのなかの、もう一人のわた・・
しは知っている。そのわたしが、恋しているんだ。わたしが、まだ気付いていないだけ。そんな気が・・
する。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
そうよ、わたしは、恋をしようとしている。でも、いったい誰になんだろう…。そのうちに分かる・・
わ。もう一人のわたしが、教えてくれるわ。わたしが、恋をしようとしているの…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
でも、いい音よ。この音、いい音よ…。・・・
・・・
「転校生が、チャラチャラするな! 目障りなんだよ! むかつくんだよ!」・・・
原田の声だ。ぼくの背中が固くなった。・・・
何も、チャラチャラなんかしていない。ぼくは、ただトイレへ行きたかっただけだ。廊下を歩いて・・
いただけだ。それも、うんと端っこの方を…。・・・
「チクショウ!」・・・
ぼくは、一つこぼした。それがまずかった。思いきり後悔した。・・・
「何か言ったか?」・・・
ぼくの言葉が、目の前の原田に届いたのだ。原田は、ぼくを睨み付けた。・・・
チクショー! 金なら、先程渡しただろう…。もう、勘弁しておくれよ…。ぼくは、その睨みから・・
逃れようとした。しかし、廊下には、それ以上端はなかった。・・・
また、この学校でも、いじめられ続けるのだろうか…。ぼくの思いに、ぼくの弱気がそう告げた。・・
打開しようと思ったはずだったのに…。新しい学校へ移れば、、毅然とした態度を取ろうと、誓った・・
はずだったのに…。コノヤローまではよかったんだ。でも、その次が出なかった。・・・
トイレに連れ込まれた。便器の前で、パンチが飛んできた。ウワー! 痛ててて!・・・
相変わらず太い腕だった。そして、この三日間とも、変わらずに同じ強烈なパンチだった。夢で見・・
た、マルコおやじと同じだった。チクショー! 原田には、こんなことしか人に誇れるものはないの・・
だ。太い腕、それだけの理由で、原田は、ぼくのクラスで幅を利かせている。馬鹿げている。身体が・・
でかいだけの能なしだ! ぼくの腕は細い。それに、背も低い。中学生に、間違われるさ。小学生に、・・
見られたこともあるさ。それが、どうしたというんだ。バカヤロー!・・・
「もっと持っているんだろう…」・・・
また、同じことだ。ぼくは、鼻血を拭った。まだ、この学校へ転校してきて十日目だぜ。その十日・・
とも、金をせびられている。そして、ここ三日は鼻血だ。なんで、こうなるんだ!・・・
「金なんて、もう、ありません…。渡したでしょう…」・・・
あー、嫌だ。ぼくは、原田にへつらっている。チクショー! どうして、そうなんだ。ぼくは、ど・・
うしてこんなに弱いんだ。・・・
「嘘つけ!」・・・
胸ぐらを掴まれた。どうやら、原田には、うそを言わない方がいい。あー、嫌だ嫌だ! ぼくのな・・
かの弱気に、無茶苦茶腹が立った。涙だけは、何とか堪えていた。・・・
「早く出せよ!」・・・
ぼくは、ポケットを探った。あー、嫌だ嫌だ! チャリチャリ…。小銭の音がした。音なんかする・・
なよ…。小銭にまで腹が立った。・・・
前の学校でも、そうだったんだ。その前も、そうだったんだ。どうして、ぼくだけ、こんな目に遭・・
うのだろう。親父の転勤が、頻繁すぎるのだ。半年に一度は、学校を変わっている。友達など、出来・・
るわけがない。いつも一人、自分の殻に入っている。バカヤロー!・・・
そんな奴は、いじめられるしかないんだ。その地方地方の言葉に、馴染めないんだ。親父が悪いん・・
だ。差別されて当然だ。ぼくだって、友達が欲しい。何でも話せる仲間が欲しい。でも、言葉が違う。・・
巧く話せない。どんな言葉もすれ違い、相手との意思の疎通が、非常にぎくしゃくしてしまうんだ。・・
言葉の端々のニュアンスが、微妙に違うのさ。ぼくの言葉は、その地方に突然やって来た田舎っぺの・・
言葉なんだ。すべて、格好悪い訛りに聞こえるんだ。むかつくんだそうだ…。・・・
これじゃ、ジプシーだ。妹の言うとおりだ。妹は、うまいこと言った。放浪のボヘミアンだって。・・
この国は、農耕民族じゃなかったのか…。バカヤロー!・・・
「これだけしかありません…」・・・
それは、本当だった。あー、嫌だ嫌だ。それは、本当だった。ぼくは、両のポケットから有り金す・・
べて出した。音のしない千円札まで出していた。嫌だ嫌だ。チクショー! これで、今日の小遣いは・・
なくなった。チクショー!・・・
「これだけか…」・・・
本当だよ。それくらい、信じてくれたっていいじゃないか。クラスメイトだろう…。・・・
「本当に、それだけです…」・・・
まあいいさ、今日の小遣いがなくなっただけのことだ。それだけのことだ…。そう、それだけのこ・・
とだ。ヘヘヘヘ…。・・・
ジプシーに、金などいらないのさ…。その日の、食い扶持があればいい…。そうさ、おいらはジプ・・
シーだ。企業という見せ物を見せる旅芸人の父親とともに、この国中を渡り歩く渡世人だ。放浪者だ。・・
いじめるならいじめろ。そのうちに、別の地方へ転勤だ。別の学校へ転校だ! バカヤロー!・・・
「嘘つけ!」・・・
今度は、後ろからパンチが来た。昨日までなかったことだ。後頭部に、鈍い痛みが走った。ぼくは、・・
振り返った。吉村だ。いつも、原田の尻にくっついている嫌な奴だ。吉村が、醜く笑っていた。歯茎・・
が、だらしなくめくれている。大嫌いだ。あー、嫌だ嫌だ!・・・
吉村の隣に、ヒロミという女がいた。どんな字を書くのかは知らない。みんなが、ヒロミと呼んで・・
いる。原田の彼女だ。いつも、原田と一緒にいる。髪の毛の長い、美人の類の女だ。ぼくも、密かに・・
気になっていた子だ。綺麗な子なんだ。・・・
「うそでしょう…」・・・
そのヒロミまでが、ぼくに言った。ヒロミの声を、こんなに近くで聞くのは始めてだった。優しい・・
声に思った。本当は、ヒロミは優しい子なんだと思った。少々、突っ張っているだけなんだと思った。・・・
「持ってるんだろ…」・・・
優しい声にしては、その内容がきつかった。ぼくは、首を振った。ヒロミに、そう言われたことで、・・
ぼくは、更に傷ついた。涙を、堪えきれなくなっていた。・・・
本当だってば! 本当だってば! ぼくは、懸命に叫んでいた。・・・
吉村は、原田とぼくを交互に見ていた。原田の機嫌を伺っているのだ。バカヤロー! 原田も嫌い・・
だが、この吉村の方が何十杯も嫌いだ。死んでしまえ! バカヤロー!・・・
「持ってるんだろ!」・・・
ヒロミの鋭い目が、ぼくに、突き刺さった。これじゃ、無実の罪で首くくりになる百姓より惨めだ。・・
ぼくは、原田と吉村に殴られ続けた。殴られるのには、慣れている。いじめられるのには、慣れてい・・
る。しかし、このことで、この学校でも、ぼくの立場が決まってしまったように思った。この学校で・・
も、いじめられる。それが、今、この場で完全に確定したように思った。・・・
学校を変わったら、毅然と、するはずしゃなかったのか! ぼくの弱気を、打開する積もりじゃな・・
かったのか! チクショー! ・・・
「明日は、もっと持ってきますから!」・・・
ぼくは、そう言って泣いた。堪えきれなかった。ぼくの弱気が、堂々と、ぼくの前に出てしまった。・・・
「明日は、もっと持ってきますから!」・・・
泣いたら、パンチが強くなった。それは、分かっていた。いじめる奴とはそんな奴だ。でも、仕方・・
なかった。ぼくは、トイレの床に倒れた。ヒロミの姿が、ちらっと見えた。ヒロミは、楽しそうに・・
笑っていた。・・・
原田たちが出ていった。トイレの床に、ぼくの血が流れていくのが見えた。それは真赤だった。夢・・
のカルメンの衣装と、同じ色だった。・・・
自分が、大嫌いだった。こんなぼくは、生まれてこなければよかっと思っていた。そこにいない原・・
田に、ぼくは、まだ叫んでいた。・・・
「明日は、もっと持ってきますから!」・・・
・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
また、あの音が聞こえてくる。新しいあたいが、あたいを、感じてくれているのかな、あたいが、・・
目覚めかけると聞こえてくる。あたいが、微睡みに揺れると聞こえてくる。いい音よ。あたい、その・・
音好きよ。・・・
教えてあげるわね、新しいあたい。教えてあげるわね、あたいのこと…。・・・
あたいのリズム、感じるかしら? そう、あたいは、バイラオーラだったのよ。踊り子…。場末の・・
酒場で踊っていた。ジプシーよ…。ジプシーの踊り子…。ジプシーには、そんなことでしか生きてい・・
けなかった。いつも、踊っていたように思う。いつも、リズムのなかにあったように思う。それだけ・・
しか、思い浮かばない。あたいは、踊り子だった。・・・
あたいが、目覚めていく。ひとつ、思い出した。そう、あたいは、踊り子だった。そう、ひとつ思・・
い出したわ…。少し待ってね…。・・・
あたいは、まだ、新しいあたいのなかで本当に目覚めていない。ただの埋もれた意識なの。形も何・・
も持たない揺れる意識なの。新しいあたいも、まだ、あたいのことを知らないと思う。気付いていな・・
いと思うの…。・・・
少し、思い出していく。あたいが、目覚めようとする度に、少しずつ、思い出していく。でも、あ・・
たいが、目覚めるのはよくないことのようよ。よくないことのようよ…。・・・
そうよ、やっぱり新しいあたいは、気付くはずがないわね。あたいは、闇に揺れる幻なの。幻は、・・
誰にも見えないの。しかし、あたいの意識が、熱くなっている。意識の揺れを感じる。熱を帯びた何・・
かが、あたいを包んでいく。あたいが、目覚めていく。・・・
あたいは、意識の揺れ。黄泉の世界の陽炎なの。彼岸に流れる川に、溶けて流れているはずの一粒・・
の水滴なの。ある思いを抱き続ける念が、ちろちろと、炎に揺れているだけなの。影を持たない無の・・
存在なの。そう、あたいは、存在してはいけない存在…。それぐらい分かるわ。いや、それを思い出・・
したようなの。あたいだって生きてきたの。踊り続けてきたの。思い続けてきたわ…。・・・
その思いが、未だに揺れているのよ。あたいは、ただそれだけの存在。そして、目覚めてはいけな・・
い存在。消えていくはずの存在。神に、背を向けた存在なの。新しいあたいが、あたいのことを気付・・
いてはいけないの。新しいあたいが生まれる前に、あたいは、消えてなくならないといけなかったの。・・
黄泉の世界に、あたいは、消えていなければならなかったの。あたいは、存在すべきではない。跡形・・
もなく、消えていかなければならなかったの。・・・
それくらい分かるわ。もう思い出したわ。そんなこと醜すぎる。そんな、存在は許せない。神は、・・
そんな存在を認めない。だからお願い、新しいあたいよ、あたいのことを見付けないように…。・・・
ごめんね、新しいあたい…。教えてあげるって言ったけど、それは、無理なことのようなの。そん・・
なことしてはいけないことみたいなの。あたいの半端な目覚めに、それを思い出したの。あたいの過・・
去が、新しいあたいに流れ込んでしまう。それは、いけないことなのよ。許されないことなのよ。ご・・
めんね…。すべて、教えてあげようと思ったのに…。・・・
しかし、あたいは、存在してしまっている。どうすればいいんだろう…。新しいあたいのなかに、・・
このあたいが、存在してしまっているの。あたいは、目覚めてはいけないの? 時という流れを、無・・
視することは出来ないの? ・・・
そうね、きっとそうね? あたいは、完全に目覚めてはいけないのよ。完全に目覚める前に、消え・・
てなくならないといけないのよ…。・・・
あたいは、あたいの二つの人生に、被さっていこうとしているの? そんなこと、神が、お許しに・・
なるはずがない。早く消えるべきよ。こんなあたい、早く消えるべきよ。どうしてこうなったの…。・・
あたいは、目覚めてはいけないのよ。・・・
分かっている。分かっているわ。でも、あたいは、思い続けているの。あの人を…。そう、あの人・・
を、思い続けている。それが、あたいから離れない。あたいのなかから、消えてなくならない。その・・
思いが、悪魔のようにあたいを誘うの…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
聞こえているよ、あの音だ。新しいあたいの息吹き。新しいあたいの息づかい。聞こえているよ。・・
あたいは、新しいあたいに近づきすぎている。新しいあたいを感じすぎている。あたいは、果てしな・・
い罪を犯そうとしている。二つのあたいが、交わろうとしている。過去のあたいに、現在のあたい…。・・
神が、許すはずがない。あたいは、早く消えていかなければ…。・・・
そうだ、眠ってしまおう。眠ってしまって、新しいあたいに、完全に溶け込んでしまおう。あたい・・
は、やはり光を求めていたんだわ。闇から逃れることを、思っていたんだわ。だから、こんな所まで・・
来てしまったの。神が、許すはずのない所まで…。あたいは闇。そう、闇が似合うのよ。そして、そ・・
の闇のまま永遠の眠りのつくのよ。新しいあたいのなかに、あたいは、闇のまま埋もれていくのよ。・・・
新しいあたいの一部に、あたいは、眠り続けるの。もう、何も思わない。あの人のことなど思わな・・
い。そうすれば、新しいあたいは、あたいのことを自然と受け入れてくれる。過去を、消してしまう・・
のよ。新しいあたいのなかに、闇のまま溶けてしまうのよ。・・・
それしかない。それしか、ここまで来てしまったあたいには、助かる道はない。いや、消えていく・・
道はない。眠るのよ。永遠に眠るのよ。闇のまま…。真っ暗な闇のまま…。・・・
あたいは、そう思った。そして、あたいの意識にあるすべての目を閉じた。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
新しいあたいの音が、少しずつ、遠ざかっていったように思った。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
わたしの音が聞こえる。そう、あの恋の音。わたしが、高鳴っている。・・・
ベッドから起き上がった。その音は、わたしにとって恐怖でもあった。何だか、わたしが、わたし・・
でなくなっていくような恐怖でもあった。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
でも、それは、熱い熱い響きだった。わたしのなかの、もう一人のわたしが、その音を受け入れて・・
いた。それが、わたしに、その音を届けているようだった。・・・
そうよ、恋などしたことはない。好きな人もいないわよ。でも、高鳴っている。・・・
わたしのなかの、もう一人わたしが、熱いの。何だか、とっても熱いの。三日、いや、今夜で四日・・
目よ。わたしは乙女。それが分かる。それは恋。・・・
もう一人のわたしが、まだ、わたしに、それを教えてくれないの…。この高鳴りの訳を、わたしに、・・
知らせてくれないの…。わたしに、まだ、その準備が出来ていないのかな。まだ、わたしって子供な・・
のかな…。・・・
恋する女への憧れが、わたしのなかの、もう一人のわたしを、高ぶらせているだけなのかな…。分・・
からない。でも、全然不快じゃないよ。・・・
恋に、恋をしているのだろうか…。わたしは、ベッドに戻った。頭から布団を被った。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
少しずつ、その音は、静まっていくようだった。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
・・・
(2)・・・
・・・
眠るのが楽しみだった。カルメン…。もう一度、逢いたかった。ぼくは、ドン・ホセでいい。カル・・
メン、ぼくに、バラを投げつけておくれ…。・・・
久しぶりに聞いたパコ・デ・ルシアのギターが、ぼくの琴線を激しくくすぐった。夢での、あの老・・
トカオールのギターと同じように、ぼくの心を打った。ぼくは、アンダルシアの風を想像した。灼熱・・
の太陽が、ぼくの意識に照りつけた。スペインへの憧れが大きくなった。ぼくは、カルメンへの思い・・
と、パコのギターに酔いしれた。眠るのが楽しみだった。カルメンに逢いたい。マルコおやじのギ・・
ターが聞きたい。そんな、思いに浸っていた。・・・
ぼくに、その夢の準備は出来ていた。そして、なぜか確信があった。今夜も、カルメンに会える。・・
マルコのギターが聞ける。ぼくには、変な確信があった。・・・
原田と吉村に、殴られた痛みも忘れていた。しかし、ヒロミの、あの楽しそうな笑いは消えていな・・
かった。本当は、ヒロミという子は優しい子なんだ。そんな風に思っていた。なぜか、ヒロミのこと・・
が、ずっと気になっていた。・・・
ぼくは、ベッドに潜り込み目を閉じた。現実から逃れたかった。電気敷き毛布の暖かい風が、めく・・
れた布団に舞った。夢で思った、アンダルシアの風と同じに思った。涼しげに乾いた、海沿いの風に・・
思った。ぼくは、素早く微睡みに入った。カルメンが、ぼくを、待っているように思った。・・・
・・・
その店は、カフェ・カンタンテ。おれは、思い出した。思い出したんだ。・・・
歌や踊りに優れた天性を持つジプシーたちが、パージョ(ジプシーとは違う一般の人々)に、その・・
芸を披露するようになった店だ。おれたちジプシーの歌、踊り、そして、ギター演奏、それらの芸が、・・
アンダルシアのパージョたちの経営する店で見られるようになった。優れた芸を、アンダルシアの・・
人々は受け入れようとしたのだ。いや、おれから言わせれば、ジプシーを、見せ物にしようとしただ・・
けのことなんだ。・・・
それらの店は、カフェ・カンタンテと呼ばれた。おれの生まれた年、一八六〇年、その前後から・・
徐々に広まり、アンダルシアの各地区に数多く繁昌した。その場で、ジプシーたちは自らの芸を競っ・・
た。ただの見せ物と知りながら、芸を競った。・・・
けれど、その見せ物小屋、カフェ・カンタンテは、カンテ(フラメンコの歌)、バイレ(フラメン・・
コの踊り)、トーケ(フラメンコのギター演奏)、それらの、優れた芸を持つジプシーたちの、いわ・・
ばおいしい稼ぎ場だった。・・・
おれは、そのカフェ・カンタンテの店のテーブルに打ちつけられていた。チクショー! そうだ、・・
店の名は、カフェ・デ・パコ。セビーリャの街にあるカフェ・カンタンテだ。そう、思い出した。・・・
何も、こんな見せ物小屋に来たかったわけじゃない。おれは、カルメンを見に来たんだ。バイラ・・
オーラを、見に来たんだ。踊り子のカルメンと、おれは、幼なじみなんだ。何も、殴られに来た訳・・
じゃない。バカヤロー! おれは、カルメンを愛していたのさ。カルメンは、おれのすべてだった。・・・
お互いジプシーさ。そう、ヒターノと呼ばれる人種だ。東方から渡ってきた放牧民の末裔だ。スペ・・
イン政府が、そのヒターノたちにあてがったジプシー居住区の出身だ。トリアーナという名で有名な、・・
ジプシー居住区の出身だ。そう、おれたちは、差別される側の人間だった。・・・
そんな出身でも、芸を磨けばカルメンのように、カフェ・カンタンテで踊ることが出来る。カルメ・・
ンは、ヒターノのなかでも特に情熱的な踊りをする。熱い血の、アンダルシアの人たちに好評なのだ。・・
バカにしやがって、チクショー!・・・
カルメンは、このカフェ・カンタンテを足がかりに、バルセローナへの夢を持っていた。カルメン・・
は、強い女さ。見せ物小屋から、さっさと、羽ばたこうとしていたんだ。・・・
カルメンは、ずっとずっと遠くへ行こうとしていた。おれなんから、ずっと遠い存在になろうとし・・
ていた。バカヤロー! カルメンのバカヤロー!・・・
そんな夢は、我々ヒターノには贅沢すぎる夢なんだ。カルメンのバカ…。ジプシーの渡世は、名声・・
などいらないんだ。ただ、生きていければいいのさ。カルメンの夢は、おれに、理解することが出来・・
なかった。カフェ・カンタンテで踊っていれば、それなりの収入はある。カルメンは、おれたちの村、・・
トリアーノの稼ぎ頭だ。そんな儚い夢、おれには、理解出来なかった。・・・
ゆらゆらと、意識が揺れていた。おれは、そんなことを考えていた。カルメンが泣いているのを、・・
おれは、その間忘れていた。・・・
その揺れは、心地よいものだった。マルコおやじのパンチの痛みも消えていた。おれは、テーブル・・
に座りなおしていた。空になったカーニャを見つめていた。涙で、それが少し霞んでいた。・・・
何だか、夢のようだった。夢で、俺が覚めているようだった。・・・
・・・
夢だ! その時思った。これは、夢だ! そう、ぼくは夢を見ている。やはり、カルメンに会える。・・
夢のなかで、ぼくは、浮き浮きとしていた。・・・
それも、昨日の続きだよ。昨日は、カルメンの涙で夢は終わっていた。そして、今夜のそれは、今・・
から始まるんだ。カルメンが、ぼくの前に姿を現すんだ。ぼくは、ドン・ホセなんかじゃなかった。・・
なんと…、ぼくは、カルメンの幼なじみだったのだ。ジプシー…。ぼくたちは、同じ十字架を背負っ・・
ていたんだ。・・・
ハハハハ、ジプシーだ。ぼくは、昔も今もジプシーだ。ぼくは笑った。酒場のぼくが泣いているの・・
に、ベッドのぼくは笑っていた。眠りのぼくは笑っていた。眠りながら、微笑みを見せているかも知・・
れないと思った。それが、益々おかしかった。・・・
夢だと分かったけど、目覚めようとは思わなかった。心地よかった。なぜか、心地よかった。カル・・
メンに会えることが、ぼくを、その夢に揺らせていたのかも知れない。とにかく、ぼくは、夢のなか・・
で目覚めていた。・・・
しかし、少し、リアル過ぎだ。いや、少しってもんじゃない。現実との区別がつなかい程、リアル・・
だ。夢って、とんでもないストーリーになるんじゃないのか…。こんなに、超リアルでいいんだろう・・
か…。ぼくは、戸惑いに揺れていた。揺れたってどうすることも出来ない。しかし、ぼくは揺れてい・・
た。・・・
こんな夢なんて、あるんだろうか…。揺れるぼくが、夢のなかで不思議を見ていた。二人のぼくが・・
いるのだ。時と空間を越えて、ぼくが、二人存在するんだ。・・・
夢のぼくが、カーニャを見つめながら戸惑っていた。心地よい戸惑いだった。始めて味わう戸惑い・・
だった。何だか、嬉しくなっていた。ぼくは、夢のなかで心地よく揺れていた。この夢のなかに、・・
ずっといたくなっていた。・・・
こんな夢なんて、あるんだろうか…。やっぱり、不思議だった。・・・
・・・
「ヒターノ! 家に帰って寝ろ!」・・・
おれの後ろから、誰かが言った。おれは、振り返ろうとした。その言葉は、生まれてから数知れず・・
聞いている。おれを、蔑む罵声だ。ヒターノ! おれたちは、そう呼ばれて生きてきた。どうという・・
ことない。気にしなければいいんだ。おれは、振り返るのを止めた。・・・
「薄汚い野郎だ。おい、そこのヒターノ! とっとと失せろ!」・・・
そりゃ、おれが悪いかも知れないさ。カルメンの踊りを、邪魔したさ。それがどうしたんだ! バ・・
カヤロー! マルコおやじの乗った演奏を、ぶち壊したさ。ざまあみろ! だからって、ヒターノは・・
止めてくれよ。バカヤロー!・・・
これでも、結構お洒落してきたのに。どこから見ても、ジプシーには見えないようにしたのに…。・・
どうしてだよ…、どうして、おれが、ヒターノだって分かるのさ。漆黒の黒い髪か? ブロンズ色の・・
肌か? それとも、どこかのバカが言った「深い井戸の黒い水面に震える月光」のような瞳なのか?・・
チクショー。バカにしやがって! おれは、床に唾を吐いた。どうしたのか、今夜は、どうしようも・・
ない怒りが、はっきりと自分の胸に渦巻くのが分かった。・・・
「バカヤロー! 早く失せろ!」・・・
おれへの、罵声が激しくなった。しかし、おれは、その場を動かなかった。今日に限って、おれへ・・
の蔑みの言葉が、いつもより辛辣に聞こえた。カルメンに、心を奪われていたからかもしれない。お・・
れの心が、熱くなっていたのかも知れない。いつものように、罵声を、耳から耳に流すことは出来な・・
かった。おれは、もう一度唾を吐いた。床に溜まった埃が、勢いよく舞った。それは、おれの涙で霞・・
んだ視界にも見えた。・・・
酒場の喧騒は、おれの想像以上になっていた。おれへの、罵声に比例していた。ヒターノ帰れ! ・・
おれへの野次の度に、床やテーブルを叩く音がした。客は、酒の勢いで騒ぎ立てた。椅子を倒し舞台・・
に押し寄せた。耳をつんざく程の轟きが、うねりになって舞台へと向かっていた。・・・
おれは、カルメンを探した。舞台を見た。しかし、カルメンは、見あたらなかった。壁に掛かった・・
ヒラルダ(セビーリアに建つ塔)の絵が、ちらっと見えた。マルコおやじが、おれの方を凝視してい・・
るのが見えた。・・・
タバコが飛んできた。カーニャが飛んできた。食べ残しのパンが飛んできた。チーズが飛んできた。・・
羊の肉が飛んできた。それは、激しい罵声と共に、おれの頭上を通り過ぎた。ヒターノ! 酒場は、・・
その言葉の合唱となっていた。おれは、立ち上がった。我慢できなかった。悔しさが、おれのなかを・・
一気に駆け昇った。今まで生きてきたなかで積み重なっていった悔しさが、おれのなかで、一気に激・・
しく破裂した。バカヤロー! バカヤロー! バカヤロー! ものすごく悲しかった。・・・
「バカにするな! ヒターノだって同じ人間だ!」・・・
おれは叫んだ。身体の芯から出た叫びだった。大きく叫んだ。声の限りに叫んだ。・・・
「バカヤロー! ヒターノのどこが悪い!」・・・
それが、引き金になった。酒に酔った客たちが、おれを、一斉に取り囲んだ。一瞬に、おれは、囚・・
われの身になった。太い腕が何本も、おれの身体を掴んだ。・・・
「ヒターノのどこが悪い!」・・・
おれは、叫び続けた。ヒターノだって、同じ人間だぜ。どうして、こんなにも差別されるんだ。あ・・
まりにも不公平だ。神は、それでも平気なのかよー! ヒターノには、神も、救いの手を差し出さな・・
いのかよー! おれは叫んだ。悲しさに、身体全体が大きく震えた。涙が、止まらなくなっていた。・・・
「泥棒は帰れ! 乞食は、こんな所へ来るんじゃない!」・・・
そうさ、おれたちは、泥棒だと思われてきたよ。乞食だと思われてきたよ。あの、ドン・キホーテ・・
を書いたセルバンデスでさえそうだったさ。マルコが言ってたぜ。ジプシーは、泥棒の双親から生ま・・
れ、泥棒の間に育ち、泥棒の勉強をした。なんてこと、書いていたそうだぜ。・・・
それが、どうしたんだよ。それは、おれたちのことじゃない。おれたちの先祖のことじゃない。お・・
れたちは、泥棒じゃない。泥棒なんかじゃない、バカヤロー!・・・
「泥棒は帰れ!」・・・
太い腕の一人が、続けて言った。言い終わった後、おれを殴った。後頭部への一撃だった。・・・
「チクショー!」・・・
我慢する必要を、まったく感じなかった。こんな理不尽なことがあってたまるか! 自分に、歯止・・
めが利かなくなった。ヒターノが街の人に逆らうことは、その者の死を意味する。ヒターノが、道端・・
で倒れ死んでいようと、どうということないのだ。ジプシー居住区に、誰かが運ぶだけのことなのだ。・・・
そんなこと考えている暇はなかった。おれの細い腕が、メクラ滅法に回転した。一人二人の顔面に、・・
おれのパンチが炸裂した。バカヤロー! バカヤロー!・・・
「この、ヒターノが!」・・・
太い腕たちも、黙ってはいなかった。ヒターノに殴られた屈辱に、それらの者は、怒りを爆発させ・・
た。おれは、床に倒された。そして、気絶するまで蹴られた。内臓が、激しく軋んでいた。・・・
「バカにするな! ヒターノだって、同じ人間だ!」・・・
おれは、叫び続けていた。・・・
「バカヤロー! ヒターノのどこが悪い! バカにするな! ヒターノだって、同じ人間だ!」・・・
・・・
どうしたんだよ…。ぼくは、夢のなかでも殴られている。蹴られている。どうしたんだよ…。・・・
そうさ、ぼくは、いや、おれはジプシーさ。ヒターノさ。殴るなら殴れ。蹴るなら蹴れ。どうにで・・
もしやがれ!・・・
「………!」・・・
カルメンの声だ。おれの名を呼んでいる。カルメンが、おれを助けてくれるんだ。いつだってそう・・
だ。カルメンは、おれの守り神だ。カルメン! おれを助けてくれ!・・・
おれへの蹴りが止んだ。おれは、大きく息をした。胸に、激しい痛みがあった。・・・
「逃げるのよ!」・・・
やっぱり、カルメンが、助けてくれたんだ。おれは、痛む胸を堪えて立ち上がった。目眩がした。・・
おれは、カルメンの肩にしがみついた。マルコおやじが、あの太い腕の奴等と渡り合っているのが、・・
ちらっ見えた。マルコおやじの盛り上がった背中が、躍動していた。・・・
「マルコ! マルコも逃げて!」・・・
カルメンが叫んでいた。おれは、そんなことお構いなしにカルメンを引っ張った。その場のテーブ・・
ルがひっくり返った。おれとカルメンは、それに足を取られた。割れた皿が、おれの尻餅に刺さった。・・
おれは、悲鳴を上げた。自分でも情けない程の、惨めな声だった。・・・
おれは、自分が嫌になった。いや、ぼくは、自分が嫌になった。ぼくが、夢から醒めようとしてい・・
るのが分かった。ぼくは泣いていた。夢も現実も、同じようなものだ。どちらにしても、ぼくは、痛・・
みつけられている。情けない。ああ、情けない。夢にいるのも嫌だった。夢から醒めるのも嫌だった。・・・
どうしたらいいんだろう…。ぼくは、夢でも痛みつけられている…。・・・
「バカヤロー!」・・・
・・・
眠れなかった。あたいのなかから、あの人が消えなかった。あたいは、揺れ続けていた。新しいあ・・
たいのなかで、揺れ続けていた。・・・
その間、あたいは、自分のことが分かりだしていた。あたいは、あの人を追って黄泉を越えた。今・・
は、あたいの知らない、新しいあたいのなかにいる。あたいが歪んだのさ。どういう訳か、あたいが、・・
二つも重なったのさ。・・・
二つのあたいが、新しいあたいのなかに存在している。あたいは、ただの意識。百年以上も昔に、・・
アンダルシアで生きていた女よ。そして、もうひとつのあたいは、新しいあたい。どこの誰だか、ま・・
だ知らない。まだ分からない。大人になる前の女。本当なら、あたいは、その新しいあたいになって・・
いるの。新しいあたいに生まれ変わり、ジプシーの血はすっかり消えているはずなの。・・・
しかし、少しずつ、あたいのことが甦っていく。あたいは踊り子。ジプシーの踊り子。そして、あ・・
の人を追った恋する女。・・・
いいんだろうか、分からない。あたいが、あたいを取り戻していけば、あたいは、まったく別なあ・・
たいと、ぶつかり合ってしまうのじゃないだろうか…。どうしたらいいんだろう。眠れないのよ…。・・
あの人が、あたいのなかから消えないのよ。・・・
あの人が、そんな遠くないところにいる。何となく、そんな気がするの。あたいの感は鋭いの。あ・・
の人は、遠くないところにいる。まだ、その揺れは感じないけど、あの人は、あたいからそんなに遠・・
くない。そんな気がする。・・・
あの人を追ったのは、闇のなかでだった。海の底のような闇だった。それが、死の世界だと気付い・・
たのは、随分と経ってからだった。あたいは、死の世界でジプシーの踊りを踊っていた。・・・
それしかすることがなかった。いいや、それしか思いつかなかった。あたいは舞姫。闇のなかに舞・・
う踊り子。なんだか、魅力的だった。死の恐怖が、あたいのなかから、まったく消えた時のことだっ・・
た。・・・
踊りが楽しかった。何もかも忘れていた。人は、死んだらまったく一人になるんだ。今まで、踊っ・・
てきてよかった。闇のなかでも、楽しむことが出来る。一人だって、結構楽しくやれる。あたいは、・・
そう思っていた。そう思って、踊り続けていた。・・・
長い時だった。楽しかった。何もかも忘れていた。楽しかった。・・・
けれど、少しずつ人恋しくなった。やっぱり、永遠に、踊り続けることなど出来なかった。人恋し・・
くなった。急に、ひとりぼっちなことに、果てしない程の不安を感じた。誰かを捜した。誰でもよ・・
かった。誰かを捜した。狂ったように、誰かの声を探した。恐くなんかなかったけど、このままひと・・
りぼっちのままだったら、気が狂ってしまうと思った。人恋しさに泣いたわ。実際に、涙なんか流れ・・
るはずはなかったけど、あたいの意識のすべてに、その涙が、洪水になったの。・・・
悲しさに泣き続けたわ。やっぱり、あたいたちは、一人では生きていけないの。いや、死んでいて・・
も、一人だとやっていけないの。あたいは念じた。誰か、あたいを見て! あたいを認めて! あた・・
いを感じて! あたいを助けて!・・・
そうしたら、闇が、だんだん晴れてきた。潮が引くように、闇が、あたいから離れていった。幾つ・・
かの色が、あたいを誘った。幾つかじゃない。幾十の色。数多くの色…。闇に隠れていた微かな色た・・
ちが、あたいを誘ったの。綺麗だったわよ。あたいは、色に向かった。だって、色を感じたのは、死・・
んだあたいが、闇に気が付いてから始めてだったもの。素敵だった。その色に、すべて埋もれたかっ・・
た。・・・
最初に選んだのが、赤だった。あたいの好きな、赤い色だった。あたいは、望み通り色に包まれた。・・
全身が熱くなった。また、踊りたくなっていた。・・・
あたいは踊った。何も、誰も、それを拒むものはなかった。色の向こうに、あたいと同じような人・・
たちがいた。拍手が聞こえたようだったわ。嬉しかった。あたいは、カフェ・デ・パコを思い出して・・
いた。あたいが、よく踊った店よ。あたいが、始めて舞台に立った店。最後の舞台になった店。マル・・
コのギターが聞きたかった。あたいのパートナーだった。マルコ。ギターの神様よ…。マルコ…。・・・
あたいは、踊りながら拍手をしてくれた、みんなに向かった。みんな、微笑んでくれたわ。あたい・・
に、手招きしてくれたわ。ものすごく嬉しかった。みんな、家族に思えた。むかしむかしから知って・・
いる、家族に思えた。・・・
それは、行列だった。みんな、同じ方角へ進んでいた。あたいは聞いてみた。みんな、どこへ向・・
かっているの? あたいも、みんなと一緒の所へ行きたくなっていた。家族に思えた人たちは、あた・・
いに、それを教えてくれた。・・・
新しい生命へ…。その人たちは、そう言った。嬉しそうだった。みんな、希望に燃えているよう・・
だった。それぞれが仄かに輝き、それぞれを照らしていた。その光が、道になっていた。一筋の真っ・・
直ぐな道になっていた。天の地平線(?)に、その道は、一点の汚れも曲がりもなく続いていた。・・・
新しい生命へ…。それぐらい、あたいにも分かった。そう、生まれ変わりだ。転生だ。あたいは、・・
あたいの未来に望みが持てそうな気がした。次の人生が、あたいの乏しい想像のなかに少しだけ形を・・
持った。ジプシー…。ヒターノ…。もう、そう呼ばれない。自らの十字架が、次の人生では、消えて・・
いることを望んだ。・・・
その道は長かった。どこまでも、続いているようだった。あたいは、その道を歩み続けた。楽し・・
かった。みんなと、仲良くなった。踊ったわよ。みんなと、踊ったわよ。信じられないくらい、楽し・・
かった。・・・
そんな時だった。あたいは、あの人を見たの。見なければよかった。見なければよかったのよ。あ・・
の人が、光の道を踏み外し、その空間に落ちていくのを見たの。悔やんでも遅かった。あたいは、そ・・
れを見てしまった。あの人は叫んでいた。嫌だ、嫌だ! 嫌だ、嫌だ! 嫌だ、嫌だ!・・・
その叫びが、あたいのなかを、永遠とこだました。本当に、見なければよかったと思った。あたい・・
は、あの人なんか忘れたかった。新しい生命…。あの人なんかより、ずっと魅力的だった。あたいは、・・
あの人が落ちていくのをただ見ていた。恐ろしく、長い時だった。・・・
あの人が闇の底に消えた時、あたいの進んでいた道が消えた。一緒に進んでいた人たちが消えた。・・
一瞬に、あたいは、再び一人となった。ただ、あの人の叫びが、こだまとなって残っていた。・・・
憎んだ。意識のすべてで憎んだ。あの人は、あたいを呼んでいる。あたいは憎んだ。出来るならば、・・
恨み言の何百でも、その場に吐いてやりたかった。・・・
まだ、愛していた。いいや、それが、愛なのかは分からなかった。しかし、あたいは、あの人を振・・
りきることが出来なかった。あの人を、闇の底に置き去りにすることは出来なかった。あたいには、・・
分かっていた。その思いが、あたいの進む道を消したの。あの人への思いが、あたいを、あの行列か・・
ら遠ざけたの…。あたいの淡い望みが、音を立てて崩れた時だった。・・・
あの人が、あたいのいた闇と同じ闇にいると思ったら、いても立ってもいられなくなった。あたい・・
は、あの人が落ちていった闇へ向かった。生まれ変わりという、あたいの未来を、その場に残して…。・・・
そう、あたいが、あの人を追ったのは闇のなか。未来への道を踏み外し、あたいは、後戻りしたの。・・
あの人が、あたいを待っている。あたいは、それでよかった。・・・
眠ることを諦めた。存在が消えることを望むのは止めた。あたいは、やっぱり、あの人を追い続け・・
る。あたいには、あの人が必要なの。いいや、あの人には、あたいが必要なの…。それ程、遠くない・・
と思う。そう、あの人は、あたいから遠くないところにいる気がするの…。・・・
踊ってみたくなった。昔のように、あの人の前で踊ってみたくなった。あたいは、アンダルシアの・・
風を懸命に思い浮かべた。・・・
そう、やっぱりあたいは、あの人を追い続けるの。眠ることは、止めにしたわ…。・・・
・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
眠れないわ。わたしのなかの、この音が大きいの。どうしても眠れない。・・・
でも、不快なことはない。何だか、心地よいくらい。この音の熱さに、わたしは揺れている。この・・
音の不思議さに、わたしは揺れている。・・・
やっぱり、それは不思議よ。わたしのなかに、もう一人わたしがいるの。それが、わたしには感じ・・
られるの。わたしのなかの何かが、目覚めていくようなの。何か、真赤な輝きが…。それ程、熱いの。・・
この音は、それ程、熱いのよ。・・・
それに、優しさをも感じるの。おかあさんのような、優しさを感じるの。わたしだって女。母性の・・
揺れを感じるの。・・・
でも、いい音ね。わたしは、この音に変わっていくのだろうか。乙女から大人になっていくのだろ・・
うか。いい音よ。わたし、好きよ。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
それに、わたしの知っている場所とは違う風を感じる。暖かい風よ。きっと南風。海からの風。そ・・
うよ、海からの風。青い青い海からの風。・・・
恋をしたいわ。この音を感じるわたしは、高鳴っている。恋をしたいの。誰かと、恋に落ちたいの・・
…。・・・
追っていきたいの。誰かを、地の果てまで追っていきたいの。そこが、深い闇でも構わない。わた・・
しは、誰かを追い続けたいの。誰かが、わたしを必要としているの。だから、わたしは、その誰かを・・
追っていきたいの。闇の果てまでも、追い続けたいの…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
わたしは、心地よく揺れていた。いい音だった。わたしの好きな音だった。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
・・・
(3)・・・
・・・
朝食が、喉に通らなかった。いつものように、妹が、ぼくを心配そうに見ている。母は、既に朝食・・
をとり終え、パートへ出かけている。ぼくと妹の、いつもの朝だった。・・・
一つ違いの美佳は、兄想いのいい妹なんだが、お節介が気に入らない。ぼくは、妹と視線を会わさ・・
ないようにしていた。無理矢理に、トーストを冷めたミルクで飲み干した。・・・
「お兄ちゃん、また、いじめられているでしょう…」・・・
そら来た、妹は勘が鋭い。いじめられているなんて、妹にだって知られたくない。知ってしまえば、・・
親父に言うだろう。そんなことになればやっかいだ。親父が、どうしたって解決できることじゃない。・・
いや、親父は、何もしてくれない。ただ、強く生きろ。いつもの言葉が返ってくるだけだ。バカらし・・
い。・・・
「トイレで、リンチにあったんだって。クラスの子が言ってたよ…」・・・
妹は社交的だ。もう、学校で友達を作ったんだ。偉いよな、お前は…。ぼくは、妹のことを無視し・・
て椅子を立った。・・・
「いじめで、自殺なんかしてくれるなよって…、父さんが言ってたよ」・・・
もう、親父にも話していたんだな。本当に、お節介なんだから。バーカ…。・・・
「お兄ちゃん、がんばってよ! 転校には、慣れているはずなのに…」・・・
妹の声が、背中に響いた。お陰で、ぼくは、予定の時間より五分も早く家を出ることになってし・・
まった。いじめで自殺…。その言葉が、頭に揺れていた。どいつもこいつも! ぼくは、一つ悪たれ・・
た。・・・
「どいつもこいつも!」・・・
・・・
いじめで自殺…。その言葉が、頭から離れなかった。どういう訳か、ピンときた。ぼくは、電車の・・
なかで、そのことを考え続けていた。・・・
しっくりときた。どういう訳か、しっくりと来た。死というものが、美しく思えた。無になる。何・・
だか、美しく思えた。・・・
死…。死…。死の形…。・・・
サクラの花のような潔さが、ぼくのイメージとして浮かんだ。死が、美しく思えた。何だか、その・・
死というものの形が湧いてきそうだった。それは、ぼくの心の中をふんわりと揺れていた。桜色に揺・・
れていた。・・・
死…。・・・
それは、何度も思ってはいたことだった。死ねたらいいだろうな…。生きて行かなくていいなんて、・・
楽だろうな…。そう、漠然と思っていたさ。そうさ、生きていくのは、ぼくには難しすぎるんだ。辛・・
すぎるんだ。死にたい…。ぼくは、何度もそう思っていたさ…。・・・
それは、ぼくの思いだけにすぎなかった。現実から逃れたいだけの、ぼくの思いだった。いじめら・・
れている奴は、一度は思うことだろう。そうだろうよ。いじめられれば、誰だってそう思うよ。・・・
でも、今の思いはそうではなかった。もう少し前進していた。死が、ぼくのなかで少しだけ前進し・・
ていた。・・・
今の思いのような、美しさを感じたことはなかったんだ。ぼくは、なぜか死というものを、美しい・・
ものと感じだしていた。この世に存在が消える。なぜか、透明の美しさを感じていた。・・・
あの夢のせいかも知れない。あの夢は、ぼくを不思議な思いに落とし込む。あの夢の自分は、ぼく・・
の前世の自分なのかも知れない。そんな思いに落とし込む。それ程、リアルだ。ぼくの記憶から甦っ・・
ているように、リアルだった。・・・
前世…。ぼくに、そんな単語が渦巻いていたんだ。前世と今生…。その間に死がある。そんな風に・・
思えて仕方なかった。死とは、存在に連結している。我々の、この世の存在に連結している。ぼくに・・
は、そんな風に思えた。あの夢を見てから、ぼくには、ぼくの存在がそんな風に思えたんだ。ぼくは・・
死を越えて、再び、この世に存在しているんだ。そんな風に思えたんだ。・・・
それは、ぼくの想像力を果てしなく拡げた。ぼくは、深く沈んでいた。ぼくの内側へ、深く沈んで・・
いた。・・・
存在が、この世にあるときは醜く、美しさの欠片もない物体だ。おぞましい物体だ。しかし、その・・
存在が、死にあるときは美しい。いや、美しいと思う。それは、物体ではない。醜い物体ではない。・・
幻だ。いや、光のような存在だ。意識だけが揺れ、自らの思いだけが動く、美しい存在だ。なぜか、・・
ぼくには、そのように思えた。・・・
死ねたらいいだろうな…。今まで思っていたことが、ぼくのなかで、更に大きくなっていた。死ね・・
たらいいだろうな…。物体でなくなればいいだろうな…。美しい光になれればいいだろな…。・・・
ぼくは、死というものに、始めて正面から向き合ったような気になっていた。いや、その正面に、・・
やっと立つことが出来るようになったような気になっていた。死…。いったい、死とはどういうもの・・
だろう。ぼくが、過去のぼくに戻ってしまうのだろうか…。それとも、ぼくが、ぼくでなくなってし・・
まうのだろうか…。ぼくは、死というものに向き合っていた。先程思ったイメージが、はっきりと浮・・
かんだ。散る桜だった。桜の花びらのイメージが、ぼくの脳裏に渦巻いた。桜色に、ぼくは透明に・・
なっていた。・・・
そういえば、スペインもサクラが綺麗だそうだ。セレッソ…。どこかのサッカーのチームが、そん・・
な名前を付けていた。ぼくのなかの桜色が、光に揺れていた。・・・
死への憧れが、ぼくを包んだ。どうしようもなく、死にたくなっていた。いや、死にたいと言うよ・・
りも、死という場所へ進みたくなっていた。・・・
その準備は、ぼくのなかで自然と進んでいるように思えた。死を、ぼくのなかに受け入れる準備は、・・
ぼくの意識のなかに、徐々に進んでいるように思えた。その準備の準備が、出来上がっていると思っ・・
た。ぼくは、ぼくの夢を感じた。それは、死を超えているものではないだろうか。ぼくが、夢のなか・・
で目覚めていた。それは、死の向こう側にあるものではないのだろうか。そうだよ、ぼくには既に、・・
その準備を始めている。死に向かい合う、準備を始めているんだ。・・・
そして、その決意をするときが近いように思えた。ぼくは気付いた。ぼくのなかには、死が根付い・・
ていたんだ。それが、ぼくの決意を促したんだ。・・・
ぼくは、知らぬ間に死を正面に見ていたんだ。だから、自殺という言葉に反応した。必要以上の反・・
応をした。いつもなら、聞き流していた言葉が、ぼくの意識の奥にあった何かに触れたんだ。ぼくは、・・
その準備を始めていたんだ。・・・
夢のせいさ。カルメンのせいさ。ハハハハ…。そうだよ、カルメンのせいだよ…。ハハハハ…。・・・
花は散る、そして、その花粉が風に飛ばされる。ぼくは花粉さ。サクラの花の花粉さ。風の吹くま・・
ま飛ばされる。運が良ければ芽を出す。死の世界を過ぎていけるのさ。・・・
生まれてこなければよかったんだ。それだけのことだよ…。そうだよ、それだけのことだよ…。・・・
いいじゃないか。美しく思うよ。死…。美しく思うよ…。・・・
・・・
抑えることが出来なかったの。あたいは踊った。新しいあたいのなかで、あたいは踊った。抑える・・
ことが出来なかった。あたいは踊り子…。ごめんなさいね、新しいあたい。ごめんなさい…。・・・
でも、その代わり教えてあげるわね。あたいのすべてを、教えてあげるわね…。・・・
マルコのギターが、聞こえてくるようだったの…。あたいは、目覚めようとしている。あたいのな・・
かに、スパニッシュギターの響きが流れ込んでくるようだったの…。あたいは踊った。昔のように・・
踊った。新しいあたいのなかで、あたいは、過去のあたいを演じていた。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン…」・・・
あの音が、大きくなっていた。新しいあたいが、益々近くに感じられていた。出会いは、そんなに・・
遠くないようね。・・・
あたいは、早く、新しいあたいに溶けてしまいたいとも思ったわ。新しいあたいに溶けてしまえば、・・
あの人のことを、忘れることが出来る。いや、それどころか、あたいのことすら、まったくなくなっ・・
てしまう。そう思った。いや、そんな風に思いたかったのよ…。あたいは、まだまだ揺れているの。・・・
でも、それは、不可能のような気がするわ。あたいは消えないよ、きっと、あたいは消えないよ。・・
新しいあたいに溶けていっても、あたいは、新しいあたいのなかで存在する。そう、あたいは溶けな・・
いの。新しいあたいのなかで、溶けた振りをするだけ。あたいは、あの人を追い続ける。それが、あ・・
たいなの。あたいは、情熱の踊り子なの…。・・・
きっと、新しいあたいは、そんなあたいを受け入れてくれるはずだわ…。新しいあたいも、あたい・・
と同じ情熱の女。激しい女のはずよ。聞こえてくる心臓の鼓動に、そう感じる。力強い音だわ。何を・・
も奮わす熱い音だわ。あたい、その音が好きよ。新しいあたいは、熱いハートを持った熱い女。・・・
罪の意識は、持たないことにした。新しいあたいとあたいが交わることは、神をも許さないことだ・・
と思うのは止めにした。だって、あたいは、一度眠ろうとしたのよ。神への、懺悔のつもりだった。・・
でも、神は、そんなあたいを無視したわ。眠ろうとするあたいを、再び、踊りへと誘ったんだもの。・・
あの人のことを、あたいのなかから消してくれなかったんだもの。あたいは、あたいの思ったように・・
する。・・・
そう、あたい奔放な女。そうしか、生きられなかった。そうやって、生きてきた。どこが悪いのよ・・
…。これからだって、そうしていくの。神なんて…、信じるのは止めたの。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン…」・・・
いい音よ。あたい、全部教えてあげる。新しいあたいに、あたいの過去のすべてを教えてあげる。・・
それで、あたいたちがどうなろうともいいの…。前世を思い出した新しいあたいが、少し困ってしま・・
うかな…。いいの、それでも、あたいはあたいなんだから…。・・・
でも、そろそろ、あたいの方が、新しいあたいを知りたくなってきた。あたいは、ほとんど目覚め・・
たの。生まれ変わることが出来たのよ。あの光への道を踏み外してしまったけど、あたいは、生まれ・・
変わることが出来たのよ。そうじゃないのかしら? まだ分からないわ。でも、生命の音を轟かせて・・
いる新しいあたいの音が、だんだんと近くなっているの…。・・・
あたいは、あの人を追い続けることが出来るの? それだったら、素晴らしいじゃない。あたいは、・・
思った通りに生きてきた。正解だったのかな? あたいは、生まれ変わりとあの人のどちらも捨てな・・
かったのかな? そう、あたいの情熱よ。あたいは、情熱の踊り子…。・・・
ギターの音が、聞こえてきそうよ…。フラメンコよ。ジプシーのギターよ。マルコのギターよ。あ・・
たいに、聞こえてきそう。マルコのギターよ…。・・・
マルコも死んじゃった。あの日、そう、あの日に死んじゃった。あたいが、カフェ・デ・パコで最・・
後に踊った日に。あの人が、始めてあたいの舞台を見に来てくれた夜に…。・・・
ああ、あたいの記憶が、まためくれていくわ。そう、あの日よ。すべて、あの日に起こったこと。・・・
教えてあげるね、新しいあたい。教えてあげるね。だって、これから仲良くしていかなくっちゃ…。・・・
その前に踊るわよ。ギターを感じるの。あたいの好きな、マルコのギターよ。マルコは、上手だっ・・
たわよ。神の手なんて言われていたの。マルコ…。大好きだったわ。マルコのギターで踊るのが、あ・・
たい、一番好きだった。マルコに逢いたいわ。・・・
ヘヘヘヘ…。それは無理よね。いいの、あたい踊っているから。その後、教えてあげる。少しだけ・・
待っていて。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン…」・・・
益々大きくなるわ…。とっても、いいよ…。・・・
・・・
授業中、微睡み続けた。・・・
死…。死の形…。自らの生命…。自殺…。・・・
そんな言葉に、ぼくは、揺れていた。微睡みの中、ぼくは、激しく揺れていた。・・・
死…。死の形…。自らの生命…。自殺…。・・・
どうってことないと思っていた。誰だって死ぬさ。死の世界が真っ暗とは限らないんだ。ぼくの死・・
への憧れが、ぼくのそれへの想像を逞しくしていた。・・・
抑えが、効かなくなってしまっていた。どうしようもなく、死へ進んでいきたくなっていた。何だ・・
か、心地よかった。死へ、思いを向けていれば心地よかった。ぼくは、桜色に揺れ続けていた。・・・
そのまま、微睡みを越えていったようだった。ぼくは、自然と夢に入っていた。やっぱり、カルメ・・
ンに会いたかったのかな…。・・・
カルメンはいた。ぼくの前、いや、おれの前に、膝を落としていた…。・・・
・・・
カルメンが、おれの額に流れる鮮血を拭ってくれた。側に、マルコおやじが、それを覗いていた。・・
おれは泣いていた。・・・
結局、カルメンとマルコが、おれを、カフェ・デ・パコから連れ出してくれたようだ。傷だらけ・・
だった。気を失っていたようだ。ふらふらと、頭のなかに深い霞が漂っていた。・・・
カルメンも泣いていた。おれの肩を抱き、悲しそうに泣いていた。おれは、そんなカルメンが果て・・
しなく美しく見えた。天女に見えた。聖母に思えた。おれは、カルメンに甘えた。カルメンの胸に、・・
顔を埋めた。カルメンの汗の匂いが、たまらなく愛しかった。・・・
カルメンが、おれの名を呼んでいた。そして、愛の言葉を、おれに囁いていた。おれを、強く抱い・・
てくれていた。マルコおやじが、ようやく怒りの表情を崩していた。・・・
おれとカルメンは、愛し合っていた。そうなんだ、二人は、愛し合っていたんだ。おれの記憶が・・
甦っていく。そうなんだよ、おれは、カルメンを愛していた。そして、カルメンも、おれを愛してい・・
た。・・・
? ? ?…。・・・
どういうことだ。おれとカルメンは、愛し合っていた。そうなんだ、二人は、愛し合っていた。ど・・
ういうことなんだ…。・・・
・・・
先生の声も聞こえないくらい。わたしのなかのあの音が、わたしの側に聞こえる。わたしのすぐ側・・
に轟いている。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
そして、それ・ヘ、リズムを持っているたのね…。それが、今、分かったわ。ギターの音のようね。・・
わたしの好きなフラミンゴ。そう、ジプシーのリズムね。・・・
分かるわよ。いいリズムだもの。わたしの好きなリズム。何だか、踊りたくなっちゃうわ。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
きっかけは、何だったかな。この音が、わたしに訪れるようになったきっかけは、何だったかな…。・・
わたしは、そのことを思っていた。窓の外の空に、そのことを思っていた。・・・
夢だったような気がする。四日前、いいや、もう一つ前…、わたしは、・イを見た。わたしは、踊っ・・
ていた。どこかの川の畔だった。真赤な衣装で、踊っていた。・・・
その踊りの音が、この音だったのかな。よーく思い出せない。でも、そんな気がするわ。・・・
その夢のなかで、わたしは、恋をしていたようだった。熱い思いが、夢のわたしを包んでいたよう・・
だった。わたしは、誰かを待っていた。いや、誰かから逃れてきた。・・・
それ以上思い出せない。夢のなかのわたしは、恋をしていた。それだけは分かる。わたしも女よ。・・
それは分かるわ。・・・
その時の思いが、わたしのなかに何かの火を・ツけたのかな。早く、恋をしたいのよ。もう、大人よ。・・
もう、女よ。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
いいリズムだわ。わたしのなかで、もう一人のわたしが踊っているのかな。わたしは、揺れている。・・
好きなリズムで揺れている。窓の外の空が、どこまでも澄んでいるように見えた。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
それにしても、少し熱いのよ。わたしが熱いのよ…。・・・
・・・
おれ、いや、ぼくの記憶が、めくれていく音が聞こえる。・・・
「ピチ! ピチ!」・・・
細胞が弾けていく。どの細・Eかは分からないが、きっと記憶の細胞だ。どの場所かは分からない。・・・
「ピチ! ピチ!」・・・
ぼくは、夢から抜けていた。その弾ける音が、ぼくには、うるさい程だった。・・・
「おかしい! おかしい! おかしい!」・・・
更に、ぼくの声も聞こえていた。それも、うるさい程だった。・・・
「おかしい! おかしい! おかしい!」・・・
それは、夢じゃない。カルメンは、おれを愛していた。おれたちは、愛し合っていた。・・・
「おかしい? おかしい? おかしい?」・・・
いつの間にか、授業が終わっていた。教室が・A騒がしくなっていた。ぼくは、両手で耳をふさいだ。・・
ぼくの夢が、形を持ち出している。ぼくは、恐れを感じていた。ぼくの前世。ぼくは、カルメンを愛・・
していた。間違いない、ぼくたち、いや、おれたちは愛し合っていた。そう、ぼくの前世。ぼくの前・・
世が、ぼくのなかに甦っていく。目眩と耳鳴りが、一度に押し寄せた。・・・
恐ろしいことだ。前世を、思いだした人間なんているのだろうか…。少し震えていた。背筋が寒く・・
なっていた。信じられないことだった。信じたくないことだった。・・・
殴られた痛みも感じた。蹴ら・黷ス痛みも感じた。そして、心に受けた痛みも感じていた。ヒターノ・・
と罵られ、それらの屈辱の思いも感じた。幼い頃から持ち続けている、差別される側の悲しさの思い・・
も感じた。信じられないことだった。ぼくの夢が、形を持っていた。信じられないことだった。・・・
そうなんだ、ぼくは、痛みを感じた。悲しみを感じた。カルメンへの愛を感じた。そして、ぼく、・・
いや、おれの惨めさを感じた。それは、今のぼくが感じたんだ。今のぼくが感じたんだ。ぼくの耳鳴・・
りが、大きくなった。ぼくの目眩が、激しくなった。・・・
脳味・Xが、沸騰していくようだった。そんなことあるものか! このことも夢なのだ。夢から覚め・・
られない夢を、見ているだけなのだ。前世を知ってしまった夢を、見ているだけなのだ。ぼくは、何・・
度も首を振っていた。・・・
「おかしい? おかしい? おかしい?」・・・
しかし、これは、夢なんかじゃなかった。それぐらい分かる。ぼくは、今、完全に目覚めた状態だ。・・
夢と現実の区別ぐらいつく。ぼくは目覚めている。・・・
目眩と耳鳴りは益々激しくなり、頭のなかに湯気が立ち昇っていった。授業が、再び始まっていた。・・
何・條ヤ目か、さっぱり分からなかった。ぼくは、窓の外を眺める振りをした。冬の景色に、自分の意・・
識を溶け込ませようと思った。脳味噌の沸騰を覚ますのには、自分の視覚に、何かの刺激を与えるべ・・
きだと思った・・・
無理だった。そんな状態ではなかった。ぼくは、舞い上がっていた。・・・
前世…。ぼくの前世。どういうことなんだ。こんなこと許されるのか…。神は、こんなことを許す・・
のか…。どうすればいいんだよ。本当に、夢なら覚めておくれよ。・・・
「おかしい? おかしい? おかしい?」・・・
でも、それは夢じゃ・ネい。間違いない。ぼくは、思い出していた。そう、ぼくの心で、思い出して・・
いた。ぼくのなかにある記憶を、思い起こしていた。・・・
授業が、進んでいるようだった。教室のざわつきが消えていた。ぼくは、ぼくに入り込んだ。それ・・
が、第一優先だった。なぜ? どうして? どういうことだ! ぼくは、ぼくのなかで叫んでいた。・・・
ぼくの意識には、何の音も入らなくなっていた。何の風も入らなくなっていた。ぼくは、カルメン・・
に向かっていた。・・・
仕方なかった。思いだそうとすれば、浮かび上がった。ぼくは、その恐・|を少し隅に押しやった。・・
それは、自分のなかに深く入ることによって可能だった。ぼくは、心の目を閉じた。その理由を知る・・
前に、ぼくは、そのことに向き合おうとしていた。・・・
ぼくは、カルメンとの人生を思い出した。ぼくたち、いや、おれたちはジプシー居住区、トリアー・・
ナに生まれた。二人とも、貧しい生まれだった。それぞれ、小さな洞窟のような場所で生活をしてい・・
た。カルメンの家とおれの家は、すぐ近くだった。少し大きな声を出せば届く距離だった。おれたち・・
は、仲が良かった。どちらかと言えば、おれが、・「つもカルメンの後に付いていた。大人になる前に、・・
おれたちは結ばれた。おれたちは愛し合った。おれには、カルメンがすべてだった。・・・
しかし、カルメンは、おれから離れていった。踊り子としての才能が、カルメンを、激しい女に変・・
身させていった。カルメンは、おれを遠ざけた。当然、おれよりいい男は大勢いた。カルメンは、恋・・
多き女になった。カフェ・カンタンテで浮き名を流した。・・・
カルメンを、忘れることが出来なかった。カルメンに、おれの元へ戻って欲しかった。おれは、カ・・
ルメンを追った。そう、カル・<唐ヌい続けた。・・・
ウワー! 止めてくれ! おれ、いや、ぼくは、ぼくの記憶に叫んだ。止めてくれ! 思い出した・・
くない! 止めてくれ! 止めてくれ! 意識に振り掛かる火の粉を払うように、ぼくは、ぼくの記・・
憶に叫んだ。・・・
恐怖が戻った。やはり、耐えられなかった。何と言うことだ。ぼくの頭が変になってしまったのか・・
…。助けてくれ、カルメン! いや、カルメンじゃない。親父…、親父じゃダメだ…。マルコ…。い・・
や誰か、誰か、助けてくれ!・・・
ぼくの意識の一部分だけが、勝手に独立していくよ・、だった。前世の部分だけが、ぼくの本来の思・・
考の隅にうずくまり、ぼくを、覗いているようだった。その思いが、脳の隅に違和感を浮かばせてい・・
た。沸騰していくぼくの脳の隅に、果てしなく冷たい氷のような一滴が蠢いている。遥か過去の記憶・・
が、冷たく冷たく醒めていく。淫らにだらしなく醒めていく。突然の雪のように、それは、ぼくの脳・・
の大地にじんわりと染み込んでいく。泥に汚れた靴のまま、ぼくの意識を踏みつけていく。少しぐら・・
い、遠慮したらどうだ。チクショー! こんなことってあるか! チクショー!・・・
それは、人間として恐怖以外の、なにものでもなかった。神への、恐怖だった。創造主への、恐怖・・
だった。ぼくに、言葉にならない激しい恐怖が、徐々に浸透し出していた。凍り付くような、恐怖・・
だった。心臓をえぐられるような、恐怖だった。奈落の闇の底へ落とされるような、恐怖だった。そ・・
して、自分が獣に変化していくような錯覚を感じていた。それも、恐怖だった。・・・
自らのなかに、異なる過去がある。いや、それは異なる過去ではなく、過去のまた過去だ。ぼくの・・
過去は、ぼくの前世と連結しているのだ。どこでどうな・チたのだ。ぼくは、どうなってしまったのだ。・・・
そうだよ、ぼくは、カルメンを愛していた。ビゼーのカルメンじゃなく、カルメンという名のバイ・・
ラオーラを愛していた。幼なじみの、カルメンを愛していた。その、カルメンの顔まではっきりと浮・・
かぶ。厚い唇。切れ長の目。いつも潤んでいた瞳。褐色の肌に長いまつげ。涼しげな笑顔。そう、ぼ・・
くは、カルメンを愛していた。カルメン…。ぼくを助けて!・・・
踊るカルメンは素晴らしかった。美しかった。そうだ、あの時は、助けてくれただろう。カルメン・・
…。ぼくは、カル・<唐V女だと思ったよ。聖女だと思ったよ。もう一度、助けておくれよ…。・・・
窓の外の景色が、少しずつ、ぼくの視界に入るようになりだしていた。なぜか、ぼくは、少し冷静・・
になっていた。カルメンが、ぼくを助けてくれたのか…。離れていった落ち着きが、ぼくを、すぐ近・・
くで覗いていた。・・・
カルメンが、ぼくのなかで、優しく溶けていくようだった。カルメンが、ぼくを、優しく抱いてく・・
れているようだった。カルメンを思っていれば、ぼくは、落ち着きを取り戻せそうだった。カルメン・・
への心臓の高鳴りが、ぼくの・]の沸騰を抑えてくれそうだった。カルメンに、ぼくの意識を向けてさ・・
えいれば、神への恐怖が薄れていくようだった。・・・
怖かった。恐ろしかった。ぼくは、カルメンに救いを求めた。冷静になるまでには、時間が掛かり・・
そうだった。意識と記憶のすべてを、カルメンに向けた。再び、外の景色が、ぼくの意識から消えた。・・・
ぼくの意識は、カルメンの廻りを揺れた。しばらく揺れた。カルメンへの思いは、やはり心地よ・・
かった。・・・
ようやく、落ち着きがぼくに戻った。やっぱり、カルメンは、ぼくを救ってくれた。ぼくは・Aカル・・
メンを思い出しながら、カルメンの側で揺れ続けた。・・・
カルメンは、おれのすべてだった。愛していた。心から愛していた。カルメンも、ぼくを愛してく・・
れていた。・・・
しかし、カルメンの愛は、おれの愛と少し違っていた。カルメンは、おれなんかと違ってもっと・・
もっと大きな人間だった。大きな愛の持ち主だった。カルメンは、自分自身を愛していた。おれなん・・
かより、ずっと愛していた。自分自身を、深く深く愛していた。・・・
そのまま揺れていた。ぼくは、その揺れにどっぷりと入っていった。・・・
・hれのなかで、ぼくに一つのことが浮かんだ。一つの思いが揺れた。それは、その場のぼくを沈め・・
るものだった。湯を冷ます、冷たい水のようなものだった。・・・
ぼくの意識が生んだ、ぼくの幻の前世…。ぼくの思いの中だけの、ぼくの前世…。その思いを、ぼ・・
くは揺れの中で掴んだ。素早く掴んだ。・・・
そのことで、落ち着きがぼくに戻った。それは、今のぼくには、一番解りやすい回答だった。ぼく・・
は、少しホッとしていた。ぼくは、目を開けた。授業の様子が、何か人事のように思えた。・・・
早退を少し考えた。でも止めた・B学校だけは、きちんと出ようと思っていた。休めば、すべて認め・・
たことになってしまう。どういう訳か、ぼくにも意地があった。いじめられていても、現実をしっか・・
りと見なければいけないと思っていた。・・・
冷静になっていた。カルメンが、ぼくを救ってくれたのか…。・・・
家に帰って、フラメンコギターを聞こう。そうすれば、自分を取り戻せそうな気がした。このこと・・
が、ぼくの意識が生み出した、ただの幻であることに気付くことだろうと思った。そう思った。スペ・・
インへの憧れが、ぼくのなかであらぬ幻想を作り出し・トしまったのだ。ぼくは、頭を上げた。授業は、・・
退屈そうに進んでいた。・・・
・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
音が大きいわ。すぐ側よ。すぐ側。新しいあたいはすぐ側なの。教えてあげるね、あたいのこと…。・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
あたいは死んだのよ。もう随分とむかし。忘れそうになるくらいむかし。でも、忘れることなんか・・
出来なかった。出来るものですか…。・・・
死の時を、教えてあげる。あたいも、その時のこと思い出したくなった。新しいあたいへ向かった・・
出発の時よ。死の・桙A教えてあげるね。・・・
それは闇だった。深い深い闇だった。思い出していく。あたいの記憶がめくれていく。あたいが、・・
目覚めていく。もう少しで会えるわ。新しいあたい…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
いい音よ。いいリズムよ。あたい大好きよ。新しいあたいも、あたいを感じてくれているのかも知・・
れない。あたいの目覚めが重なっていくごとに、その音が大きくなっていく。いい音よ。あたい、大・・
好きよ。・・・
あたいは、死を超えている。それを、教えてあげるね。今夜、教えてあげるね…。思い出・オていく・・
のよ。何だか楽しいわ。教えてあげるわね。・・・
あの人を、益々近くに感じるわ。あの人が、あたいを思ってくれているような気がするの…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
いい音よ。本当に、いい音よ…。・・・
・・・
(4)・・・
・・・
今夜も、眠れそうにないわ。あの音が、益々大きく聞こえる。わたしの心臓の音に被さっているの。・・
二つのリズムが、重なり合っているの。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
でも、少しも不快じゃない。わたし、大好きよ。いい音よ。いい・潟Yムよ。・・・
もしかしたら、この音は、わたしの体内の小宇宙の息吹きかも知れない。わたしという存在の、果・・
てしなさを伝える息吹きかも知れない。そんな気がする。音が近くになるに連れて、わたしが果てし・・
なく思える。わたしという存在の深さを感じる。わたしは、星の数程ある人間の一人…。でも、音が・・
近くになるに連れて、わたしは、その星の宇宙との繋がり感じる。どういうことだろう。・・・
太古の賢者が、夜空を見上げているような気分なの…。分かる? 太古の澄んだ夜空を眺めている・・
の。その無数の星に、自・ェの姿を重ねているの。・・・
自分の存在は、このちっぽけな物質だけではないような思いがする。もっともっと、奥が深いよう・・
に思う。そうでなければ、あまりにも小さすぎる。この肉体は、あまりにも小さすぎるもの。・・・
人間、よく生きて八十年。そんな短い間生きたからって、宇宙の一員だとは思えない。神が、そん・・
な無駄な生命を創造したなんて思えない。意味があるのよ。わたしたちの知らない、もっともっと、・・
深い深い意味があるのよ。・・・
肉体は、わたしの意識を隠す衣なの。わたしたちは、永遠の命で宇宙に存在・オているの。何だかそ・・
う思う。今まで、そんなこと思ったりもしなかった。けれど、そう思う。わたしはそう思うの。・・・
どうしてだろう。きっと、この音のせいよ。この音が、わたしに宇宙の音を聞かせてくれているん・・
だわ。そんな、気がするの。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
そう思ったら、眠くなってきた。恋を思う高鳴りが、少し和らいできた。心地いいよ。このまま眠・・
りたいよ。わたし、何だか疲れているみたい。・・・
「お休みなさい…。もう一人の、恋するわたしさん…」・・・
・・・
「ジン、ジン・Aジン、ジン……」・・・
微睡んでいるね。何だか分かるわ。音が穏やかだもの。・・・
いいのよ、微睡んでいて。そのままでいていいのよ。教えてあげるから。微睡んでいるときの方が、・・
よく分かると思うわ。新しいあたいにすれば、とても現実離れしたことだもの。いいのよ、そのまま・・
で…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
死を、教えてあげるね…。そのまま、微睡んでいて…。・・・
・・・
死の時…。あたいが死んだ時…。あたいが朽ちた時…。・・・
それは、目の前が真っ暗になった…。あの人が見えなく・ネった…。一瞬のことだった…。・・・
そう、死ぬって一瞬のこと。振り返っても、その一瞬は思い出せないくらい。ただ、見えるものが・・
見えなくなり、聞こえるものが聞こえなくなり、感じられるものが感じられなくなった。あまり怖く・・
なかったように思う。恐ろしくならなかったように思う。何だか、むかしむかしの自分に戻った気分・・
だった。羊水のなか…。そう、母さんの子宮に戻った気分だった。・・・
目も耳も口も手も足も皮膚も、すべて機能しなくなった。意識だけが、微かに揺れていた。思考が・・
途切れ途切れに、その意・ッに流れた。母さんに抱かれているようだった。子宮のなかのことを、思い・・
出していたのかも知れないわ…。・・・
長く、そこにいたと思う。忘れちゃった。あたい、そこで眠り続けていたようなの。暖かかったこ・・
とだけ憶えている。何もかも、裸になって眠っていたと思うわ。踊ることさえ忘れていた。あたい、・・
眠り続けていた。・・・
そんな眠りも、永遠には続かなかった。あたいは、光を感じた。あたいの微睡みに、それはゆらゆ・・
らと揺れていた。誘われたわ。あたいも、ゆらゆらとなった。ゆらゆらと、目覚めていった。いい・C・・
分だった。こんな目覚め、生きていたときには一度もなかった。・・・
ものすごく心地よかった。今から思うと、そんな風に心地よくないと、その場から出られなかった・・
と思う。死というものが、やはりまだ恐ろしく感じて、その場を動けなかったかも知れない。ひとり・・
ぼっちが、どうしようもなく不安に感じちゃったりしたかも知れない。本当に、いい心地だったの。・・・
でも、恐怖は、その後にやってきた。その場から、出たら風が吹いた。強い風だった。あたいは、・・
飛ばされた。逆らうことなど出来なかった。暖かさが、い・チぺんに消えた。今までの心地よさが、嘘・・
のようだった。すべてが、その風に流されていった。闇のなか、あたいと同じような存在が流されて・・
いった。・・・
そのなかであの人と会った。あの人も、風に舞っていた。あたいは、あの人に寄った。いや、あの・・
人が、あたいを認めたの。あの人は、あたいを抱いてくれた。寒くないか…。そんな風に、あたいに・・
は聞こえた。・・・
あの人は暖かかった。あたいは、幸せを感じていた。・・・
しかし、あの人はすぐに消えた。あたいは、闇に取り残された。風に流れていく人たちも、あ・スい・・
を残していった。あたいは、恐怖に包まれた。そのとき、始めて死の恐ろしさを感じた。自分が死ん・・
だことの実感が、そのとき始めてあたいを襲った。悲しくなった。猛烈に悲しくなった。・・・
やっぱり、そこは闇だった。あたいは、その闇に漂った。漂いながら、今まで生きてきたことのす・・
べてを、その闇に思い浮かべていた。・・・
闇のなかに長くいた。永遠に思った。時というものが、なくなってしまったと思っていた。・・・
そのうちに、あたいは、だんだんその闇にも慣れていった。当然よ、長い時をそこで過ごしたん・セ・・
から…。恐怖も、少しずつ薄れていった。あたいは踊った。あたいの人生を、思い浮かべるうちに踊・・
りたくなっていたの。あたいは踊った。闇のなかで踊った。・・・
その後は、教えてあげたでしょう。生まれ変わりの行列に出会ったの。再び、あの人に出会ったの。・・
あの人は闇に落ちた。あたいも闇に落ちた。生まれ変わりの列から、はみ出てしまったの。あの人を、・・
見なければよかった。本当に、あの人なんか見なければよかった。・・・
でも、でもよ…。でも、でも…。・・・
あの人は闇の底でも、あたいを、待っていて・ュれたの。あたいの名を、呼び続けてくれたの。あた・・
いは、あの人が急に愛しくなった。今までより、ずっと愛しくなった。あたいが、守ってあげる。あ・・
たいは、あの人に言った。あの人は泣いていた。・・・
離れないように、お互い、すべての時間をお互いの意識に向けた。意識と意識を、赤い糸で結びつ・・
けたの。乙女になっていた。あたいは、乙女になっていた。・・・
幸せだったわよ。今まで、一番幸せだった。あたいは、あの人のすべてになった。そして、あの人・・
は、あたいのすべてになった。一瞬たりとも、あの人を感じな・ュなったことはなかった。あたいの流・・
れる時のなかすべてに、あの人がいた。あたいは、あの人に抱かれ続けた。あの人は、あたいに抱か・・
れ続けた。・・・
しかし、しかしよ、あの人が、あたいから消えたの…。そう、あの人が消えたの…。・・・
あの人の悪い癖よ。そうよ、あの人は、何も長続きしない。我慢できない人なの。あの人は、消え・・
た。あたいを闇に残して、消えた。・・・
また憎んだ。意識のすべてで、また憎んだ。あの人さえいなければ、あたいは、生まれ変わってい・・
たはずなのよ。あたいは、泣くに泣けなかっ・ス。踊ろうと思ったが、踊れなかった。しばらくは、激・・
しい怒りだけが、あたいのなかにあった。・・・
あの人の、行き先は分かっていた。生まれ変わり…。そういう人なの、あの人とは。あの人は、あ・・
の行列に戻っていったの。あたいを置いて、あの人の未来へ向かっていったの。・・・
あの人の恐怖を溶かしてあげたのは、あたいよ。あの人を闇に救ったのは、あたいよ。あの時、あ・・
の人は、一人、闇に落ちていった。あたいがいなかったら、あの人は、闇に閉ざされたままなのよ。・・
どこまで、あたいってバカなんだろう。自分が・凾ノなったわ…。闇のなかで、強く強く生まれ変わり・・
たく思ったわ…。・・・
その後のことは、まだ、よく思い出せないの。あたいが、なくなったような感じがしたようだった・・
けど…。母さんの羊水のなかに、いたような気がするんだけど…。どこか、深い深いところへ落ちて・・
いったようだけど…。・・・
思い出せないの。あたいの記憶が、途切れ途切れになっているの。・・・
でも、あの人だけは、思い続けていたように思う。愛、それとも憎悪かな。思い出せないわ…。で・・
も、あの人だけは、思い続けていたと思うわ。・・・
気が付けば、新しいあたいのなかで、再び微睡みを感じたわ。微かな光を感じたわ…。・・・
やっぱり、そうだったのよ…。あたいは、あの人を追っているのね。あの人への思いが、あたいを、・・
ここまで運んだんだわ…。あの人への愛? えっ? それは愛なの? 愛? あたいは、あの人を恨・・
んだわ…。愛? それとも憎悪なの? 何度も裏切られたわ、あの人はずるい人…。あたいは、あの・・
人を追っている。愛、憎悪? あー、あたいにも、分からなくなってしまった。そんな人なの、あの・・
人は…。・・・
でも、あの人は近く・ノいる。そして、あたいは、ここで完全なる目覚めを待っている。目覚めれば・・
すべて分かる。あの人のこと。あたいのこと。すべて分かるのよ…。それまで待つわ。いい? 新し・・
いあたいのなかで、待っていていい? あたいの過去を、教えてあげるから…。退屈なんかさせない・・
よ…。 そう、あたいは、あの人を追っているの…。・・・
・・・
「おはよう…」・・・
親父が言った。ぼくは、それを忘れてしまっていた。・・・
「ああ、おはよう…」・・・
何だか、気まずくなってしまった。朝食に、親父がいるとは思わなかった。・・」・
「どうしたんだ、神太。元気ないな」・・・
そうかな、ぼくは、いつもと同じだよ。いや、いつもと同じようにしているよ。ぼくは、少し微笑・・
んだ。無理な微笑みになったかも知れないが、親父も、同じように微笑んでいた。・・・
「神太。食べないの?」・・・
おふくろもいた。パートは、どうしたんだろう…。どういう訳か、今朝は、一家総出の朝食となっ・・
ていた。親父、会社に遅れないのかな。ほんの少しだけ気になった。・・・
「ああ、食べたくない…」・・・
食欲がなかった。まったく、食べたくなかった。・・・
昨・驕Aパコのギターを聞いても、自分を、取り戻せないでいた。あの思いは、幻ではなかった。ぼ・・
くが思った、ぼくの幻想ではなかった。何が何だか、訳が分からなくなっていた。朝まで、夜明け近・・
くまで、眠れなかった。・・・
ぼくの前世は、ぼくのなかで確信となってしまっていた。やはり、それは、ぼくの意識が生んだも・・
のではなかった。幻ではなかった。幻想ではなかったんだ。ぼくは、前世のぼくを感じられる。トリ・・
アーナの匂いも思い出せた。洞窟のような、家も思い出した。鍛冶屋だった。髭面の親父は、いつも・・
怒って・「た。ヒターノと呼ばれた悔しさも、本当に悔しく感じた。マルコおやじのギターも、耳に・・
残っている。好きだったマルコ…。そして、カルメンへの儚い恋が、ぼくを、再び熱くさせていた。・・・
激しい葛藤だった。ぼくは、そのことを受け入れたくはなかった。当然だよ。誰だって怖いよ、そ・・
んなこと。ぼくは、ぼくだけでいい。当たり前だ。ぼくは、ぼくだけでいい。・・・
しかし、それは、ぼくには現実だった。小学校の運動会を思い出すように、ぼくは、カルメンとの・・
幼い遊びを思い出した。家族で行った海水浴を思い出に持つよ・、に、ぼくの思い出には、カルメンと・・
の日々もあった。勉強した。絵を描いた。マラソンを走った。それらと同じように、ぼくが思い出す・・
のは他にもあった。マルコのギターで遊んだ。ヒターノと罵られた。親父にいつも殴られた。街では・・
乞食と怒鳴られた。仕事を転々と変わった。カルメンを愛した。・・・
それが、ぼくの過去だった。前世の人生の思い出を、前世のぼくは、今のぼくにまで、捨てずに持・・
ち続けていたんだ。今生のぼくの記憶に、その思い出を運んでくれたんだ。・・・
夜明け前に、少し冷静になった。それを受け・・黷髣E気も、少しだけ湧いていた。少しだけ眠った。・・・
本当に、食欲はなかった。本当に、何も食べたくなかった。・・・
「神太…。早く食べろ」・・・
食べたくないって、言っているだろう…。ぼくは、そう怒鳴りたい気分だった。・・・
「早く食べろ…。学校、遅れるぞ」・・・
親父が、ぼくに微笑んでいた。気味悪かった。食事の間だけでも、普通にしようと思ってはいるよ。・・
でも、そんなに気味悪く笑うなって。・・・
ああ、そうか…。お節介の妹が、親父にぼくのことを、あることないこと言ったんだな。お兄ちゃ・・
ん・A本当に自殺してしまうかも知れないよ…。そんなことを、言ったのだろう…。だから、親父が…。・・
お節介のバカ! 妹に、お茶をぶっかけてやりたかった。・・・
「新しい学校はどうだ?」・・・
そんなこと、転校した第一日目に聞くことじゃないのかい。どうだっていいんだろう…。ぼくの方・・
も、どうだっていいよ…。どうせ、何を言っても分からないや。親父は、仕事のことしか頭にないん・・
だ。いつだってそうだ。ぼくのことなど、どうだっていいんだろう…。無理するなって…。・・・
「まあまあさ…」・・・
妹が、ぼくを見て・「た。いいから、ほっといてくれよ。ぼくは、トーストにかじり付いた。何だか、・・
間が持たなかった。・・・
「友達出来たか?」・・・
そんなもの、出来るわけないよ。分かってるだろう。半年に一回だぜ。転校転校、友達なんか出来・・
るわけない。ぼくは、妹のように器用じゃないんだ。無理するなって、親父。親父が、何を言ってく・・
れても、ぼくの状況は変わりっこないんだよ。・・・
「ああ…」・・・
心配はかけたくない。ぼくが、しっかりしなければいけないのも分かっている。親父だって、大変・・
なのも分かっている。何も・A好き好んで転勤ばっかりしている訳じゃないのも分かっているよ。でも、・・
どうしようもないんだよ。どうしようも…。・・・
「お前、いじめで自殺、なんてしてくれるなよ…」・・・
何てこと、言うんだよ…。そんなこと、この場で、堂々と言うなよ。バカか、親父は! これだか・・
ら、何も話したくなくなるんだ。バカか、親父は!・・・
でも、鋭いよ…。なかなか、鋭いよ…。・・・
「あなた! 何て言うことを言うんですか!」・・・
おふくろが、怒りと共に立ち上がった。いつもおとなしいおふくろが叫んだ。ぼくは驚いた。すご・」・
い剣幕だった。・・・
「バカじゃない! あなた!」・・・
おふくろは、親父を真っ直ぐに見ずに叫んだ。おふくろが怒っていた。おふくろだって、親父に怒・・
ることあるんだ。驚きを通り越して、おかしくなった。・・・
「そんな縁起でもないこと! 止めて下さい!」・・・
親父も、おふくろの剣幕に驚いていた。そりゃそうだ。すごい剣幕だもの。・・・
親父の目が、落ち着きを失い上下に揺れていた。親父は、ばつの悪そうに目を逸らし続けていた。・・
下品なジョークが、まったくうけなかった漫才師のようだ。ぼくは、急にば・ゥらしくなった。久しぶ・・
りの、一家四人の食事がぶち壊れた。ぼくは、かじったトーストを置いた。そして、何も言わずに、・・
その場をはずれた。おふくろと妹が、ぼくを、心配そうに見ていた。親父は、見ていなかった。・・・
結局、今朝も、ぼくは五分前に家を出た。・・・
・・・
やっぱり、今日も授業どころではなかった。ぼくは、揺れ続けていた。前世に、そして、死に…。・・
ぼくに、冷静と恐怖が交互に押し寄せていた。・・・
しかし、ぼくは、その恐怖を乗り越えられそうな思いに揺れていた。何となく、そう思っていた。・・」
いや、それを、越えていかなければと思っていた。・・・
それには、自分の前世を、自分が受け入れることが必要のようだった。自分の前世を、自分のなか・・
に本当に受け入れられれば、恐怖は去っていくように思えた。つまり、その恐怖は、自分の前世を拒・・
もうとする意識のなかにあるんだ。自分の遥か過去を、無理に目を瞑る思いのなかにあるんだ。ぼく・・
は、そう思っていた。・・・
そして、ぼくのその思いのなかに、もう一つのことが、芽生えていた。いや、それが、花咲こうと・・
していた。死…。死の形…。桜の花びらのイメ・[ジが、ぼくのなかで膨れていた。・・・
死…。死の形…。・・・
死へ、憧れていたんだ。ぼくの思いの一つが、ぼくの全面に出てきた。今まで、隠れていたんだろ・・
う。ぼくの死への思いが弾けたんだ。・・・
憧れになっていった。急速に、膨れ上がっていった。ぼくには、それを抑えることが出来なかった。・・
抑えようともしなかった。・・・
前世を受け入れる思いが、その憧れを生んだんだと思う。そのことへの恐怖が、それを受け入れ溶・・
けていくに連れて、ぼくの、死への憧れが大きくなっていったんだ。ぼくは、一度死んでい・驕B前世・・
を受け入れればそうなる。それが、死への恐怖すらをも薄めていたんだ。ぼくは、死へ向かいたかっ・・
た。・・・
その準備は、始めていた。夢に、始めていたんだ。ぼくは、それを、もっと進めることにしていた。・・
死へ向かうんだ。準備は順調だった。ぼくは、死に向かうんだ。・・・
今日も、原田に金を渡して置いた。今日は、ぼくから渡して置いた。それでよかった。それ程、悔・・
しくなかった。死への準備を、邪魔されたくなかった。今日は、静かにしておいて欲しかった。だか・・
ら、それ程、悔しくなかった。・・・
原田は、笑っていたさ。よしよし、いい子だ…。それでも、あまり腹は立たなかった。・・・
それにしても、カルメンは美しかった。ぼくは、前世を受け入れた。いや、受け入れることにした。・・
カルメンといたかった。それも、死への準備の一つだった。ぼくの前世のすべてを知る。それも、重・・
要な準備だった。・・・
・・・
カルメンは美しかった。ジプシーたちの前で、カルメンは踊っていた。マルコおやじのギターで、・・
おれたちの前で踊っていた。おれたちが結ばれた、次の朝だった。おれたちは、まだ子供だった。い・・
や、・ィれだけが、子供だった。おれは、その時、本当のカルメンを知らなかった。・・・
昨夜、おれとカルメンは結ばれた。しかし、それは、カルメンにとって、どうということなかった・・
んだ。幼なじみのおれに、美しい思い出を残してくれただけだったんだ。カルメンは、おれを離れて・・
いく。カフェ・カンタンテへ、男を捜しに行くのだ。おれと違って、うんと金持ちの紳士を…。知ら・・
なかった。昨夜まで知らなかった。おれは、そのことを、カルメンからこの朝に聞いた。・・・
それは、マルコおやじのせいだ。マルコおやじが、そそのかし・スんだ。カルメンが、カフェ・カン・・
タンテの舞台に立つ。おれたちだけの踊り子カルメンが、おれたちだけのカルメンではなくなる。お・・
れだけのカルメンではなくなるんだ。おれは、カルメンの美しさに戸惑いながら、マルコおやじを憎・・
んでいた。あのギターをかっぱらって、粉々に砕いてしまいたかった。・・・
カルメンを止めたさ。必死に止めたさ。でも、そんなおれの言うことを聞くような、カルメンじゃ・・
ない。カルメンは、おれを優しく罵った。あんたも働きなさい…。カルメンは、大人だった。おれよ・・
りずっと、大人だっ・ス。そして、おれよりずっと、魅力的だった。・・・
そうだよ、魅力的だよ。カルメンの奔放な生き方。羨ましかったよ。おれは、器用じゃない。カル・・
メンのように、誰にだって好かれることはない。そして、カルメンのように強くない。一人で街へ出・・
るなんて…。おれは、カルメンが羨ましかった。出来るならば、カルメンと一緒に街へ行きたかった。・・・
悔しかった。自分に、腹が立って仕方なかった。自分が情けなく、本当に嫌になった。・・・
カルメンは笑ったさ。あんたなんかと歩いていれば、いい男が寄ってこないわ…。カルメ・唐ヘ笑っ・・
たさ。そんなおれに笑ったさ…。チクショー! 思いきり、笑ったさ…。・・・
朝の日が、カルメンに眩しかった。カルメンは、忘れようとしていたんだ。ジプシー、ヒターノ。・・
そんな思いを、忘れようとしていたんだ。家族やおれたちを、忘れようとしていたんだ。だから、お・・
れを罵ったのさ。おれにも、忘れて欲しかったのさ。カルメンを…。ジプシーの踊り子カルメンを…。・・
すべて、忘れて欲しかったのさ…。・・・
最後の舞いだった。おれたちが見る、カルメンの最後の舞いだった。カルメンは言った。もう、こ・・
こでは踊らないよ。別れの舞いよ。ありがとう、みんな…。美しかった。おれは、涙でそれを見た。・・・
マルコおやじが笑っていた。マルコは、おれたちの稼ぎ頭だった。おれたちによくしてくれた。お・・
れたちが、いろんなことで不自由しないのは、マルコのお陰だった。マルコは、いい人なんだ。ジプ・・
シーを、誇りに思っている。フラメンコは、ジプシーが生んだ音楽だ。芸術だ。マルコは、堂々と生・・
きていた。・・・
そんなマルコが、カルメンを育てた。美しい情熱の踊り子へと、カルメンを育てた。マルコの目に・・
狂いはなか・チた。カルメンは、マルコのギターと一体になっていた。・・・
激しい嫉妬だった。おれは、マルコに嫉妬していた。マルコとカルメンが、やっているように思っ・・
た。愛し合っているように思えた。それ程、二人の意気はぴったりだった。悲しくてやりきれなかっ・・
た。・・・
おれに、どうして才能がないんだ。マルコの才能に嫉妬していた。いや、男としてのマルコに嫉妬・・
していた。・・・
カルメンの舞いが終わった。おれは泣いた。カルメンは、何も言わず、おれから離れていった。み・・
んなの拍手が、やりきれなかった。・・・
悲しかった。本当に、心の底から悲しかった。・・・
・・・
そうなんだよ、思いだそうとすれば、思い出せるんだ。まだ、すべてではないけど、思い出せる。・・
ぼくは、それを受け入れたんだ。ぼくは、思いきり、自分の胸を開いたんだ。・・・
同時に、死への憧れが、益々大きくぼくを包んでいった。だから、それを受け入れたのかも知れな・・
い。散っていく桜の花びらの思いに、ぼくは、ぼくの前世を受け入れたのかも知れない。・・・
どってことないさ。ぼくは、一回死んでいる。ただ、その過去が見えるだけなんだ。恐くなんかな・・」
くなっていた。恐ろしさなんか消えていた。ぼくは、強くなったのかも知れない。死を恐れないもの・・
は強い。親父が、言っていたよ。あるボクサーの試合を見ながら、言っていたよ。親父は、正しいこ・・
とを言ったよ。それが、今分かった。・・・
そんなぼくを、楽しんでいた。いいもんだよ。自分の前世が分かるなんて。自分の過去の過去が見・・
れるなんて。ぼくは、強がりじゃなく楽しんでいた。・・・
死…。・・・
そこに、その言葉が揺れていた。ぼくは、死に憧れ、死を求めていた。前世、今生…。ぼくのなか・・
には、その・ツが存在している。それは、一つの死を越えている。憧れる気持ちが湧いてきて当然だ。・・・
ぼくは、死が怖くない。未来への光に思える。前世の時もきっと思っただろう。生まれ変わって別・・
の生き方をする。もう、差別なんかされない。差別する側に生まれ変わる。ぼくは、そう思っていた。・・・
そうなんだ、ぼくの未来は死の先にある。生を越えた先にある。そうなんだ、ぼくの未来は、死の・・
先にあるんだ。・・・
その手前は、ぼくにとって地獄だ。いじめられ殴られる。見放されバカにされる。邪魔にされ見捨・・
てられる。地・魔セよ。地獄だよ…。本当に、地獄だよ…。・・・
ぼくは、死んでいく。ぼくは、そう決めた。ぼくは、死んでいく…。・・・
その前に、ぼくの前世をもっと知らなくっちゃ。そうしないと、やっぱり不安だよ。ぼくは、過去・・
へ向いた。ぼくの意識を、過去へ向けた。・・・
・・・
(5)・・・
・・・
ヒロミが、ぼくに声をかけてきた。原田はいなかった。ヒロミ一人だった。何だか、嫌な気がした。・・
ぼくは、それを無視した。・・・
「ぼうや、遊ばない?」・・・
バカだと思った。ヒロミは、品を作っていた。目を少し・ホめに、ぼくを見ていた。何かの映画で見・・
た、遊女の表情だった。・・・
勘弁してくれよ。お前まで、ぼくをからかうのか。女には、手を出さないよ。いくら、ぼくが小さ・・
くったって、女のお前には負けないさ。負けないよ。負けないだろうよ…。・・・
「ぼうや、遊ぼうよ?」・・・
どういう積もりだ。バカヤロー! ぼくは、席を立った。トイレに、行きたかっただけだ。・・・
「遊ぼうよ…」・・・
ヒロミは付いてきた。歩くぼくにまとわり付いた。ぼくは、無視し続けた。それが、ヒロミの勘に・・
触ったらしい。ヒロミの声が・マわった。・・・
「バカにするんじゃないよ!」・・・
トイレの前だった。ヒロミの手が、ぼくを引いた。すごい力だった。やっぱり、ぼくは、負けると・・
思った。ヒロミの方が、ぼくより10センチ程背が高い。仕方ないと思った。・・・
「遊んであげるって言ってるでしょ。バカにするんじゃないよ!」・・・
そのまま、ヒロミのすごい力に引っ張られた。女子用のトイレに連れ込まれた。・・・
「バカにするんじゃないよ!」・・・
二度も、同じ言葉を言っていた。その言葉しか、ヒロミは知らないのかと思った。その言葉しか、・・
凄・゙とき用の言葉を知らないのかと思った。・・・
それでも、パンチが飛んできた。狭いトイレに、その音は響き渡った。・・・
「バカにするんじゃないよ!」・・・
平手だった。あまり痛くなかった。二発三発と受けた。ヒロミが、笑っていた。楽しそうに、笑っ・・
ていた。・・・
ヒロミも、この学校に転校して来て、まだ、確か、一月程じゃなかったのかよ…。転校第一日目の・・
日に、ぼくは、それを先生から聞いていた。ヒロミも親が転勤転勤で、ぼくと同じように転校ばかり・・
しているじゃなかったかよ。どうして、そんなに威張れる・セよ。新しい学校に、少しも遠慮してい・・
ないのかよ。妹の美佳も図々しいけど、まだおとなしくしているようだよ。・・・
どうして、そんなに威張れるんだよ…。図々しいのも、ほどがあるんじゃないかよ…。・・・
気になっていたんだ。同じ転校生同士で、仲良くなれるんじゃないかとも思っていた。学校を変わ・・
ることの辛さを、話し合えるんじゃないかと思っていた。気になっていたんだよ。それに、とっても・・
綺麗だし…。仲良くなれるんじゃないかと思っていた。・・・
でも、それは、転校二日目に淡い期待だったのが分かった・Bヒロミが、原田の彼女だったのを知っ・・
たから…。その時既に、ぼくは、原田から金を取られていた。・・・
瞬間に、ぼくは、そんなことを思い出していた。やっぱり、ぼくは、ヒロミが相当気になっていた・・
ようだった。トイレで、そんなことを思い出していた。・・・
ヒロミの笑いが、止まっていた。ぼくを、見おろしていた。・・・
「あんた、妹いるね。二年五組だね…」・・・
ぼくは驚いた。調べたんだな。バカヤロー! そんなことまで調べるなよ…。・・・
「妹に、金、借りて来るんだよ!」・・・
何ということなんだよ…・Bだから、女は困るんだ。女ってやつは、人の迷惑なんてまったくどうで・・
もいいんだ。バカヤロー! 大声で叫びたかった。・・・
「可愛い子ね。妹の顔に、傷が付いてもいいのかな?」・・・
本当に、叫びたかった。バカヤロー! でも、その勇気はなかった。・・・
「分かったね!」・・・
女子用のトイレにいることを思い出した。なんて、卑怯な奴だ。男のプライドを利用しやがって…。・・
ぼくは、顔を真赤に染めていた。・・・
ヒロミの平手が、また飛んだ。今度は、少し痛かった。何もできない自分が、ものすごく情けな・・
か・チた。そして、そんな自分に、ものすごく悲しかった。・・・
「放課後でいいわ。体育館の裏に来るのよ」・・・
ヒロミが、カルメンとだぶっていった。どういう訳か、カルメンと交差していった。ぼくたちの村・・
で最後に踊ったカルメンに、目の前のヒロミが交差していった。重なっていった。・・・
「いいわね、放課後よ…」・・・
ぼくは頷いた。ヒロミが、ぼくの顔を覗いていた。あの日の、カルメンに思った。働きなさい…。・・
あの日、カルメンはそう言った。ぼくは頷いた。ヒロミに頷いた。・・・
ヒロミの整った顔が、ぼくの目の・Oにまで寄った。綺麗だと思った。カルメンのように、綺麗だと・・
思った。・・・
ぼくのなかの、ぼくの前世が、ヒロミを見ている。そんな風に思った。ぼくは、ヒロミにもう一度・・
傾いていた。何度も何度も、ヒロミとカルメンが交差した。ぼくの過去のなかで、カルメンを思った・・
ように、ぼくは、今ヒロミを思っていた。愛しかった。限りなく愛しかった。・・・
「原田には内緒よ、分かったわね、ぼうや…」・・・
ヒロミが、ぼくから離れた。ぼくのなかから、カルメンが離れた。しばらく、ぼくは、揺れていた。・・
カルメンとヒロ・~に、揺れていた。・・・
「キャー!」・・・
誰かが叫んだ。女子用トイレにいることを忘れていた。バカヤロー!・・・
「キャー!」・・・
真赤になっていた顔が、更に、激しい熱を帯びていくのが分かった。・・・
ぼくは走った。顔を伏せて走った。恥ずかしくって、情けなくって、悲しかった。死んでしまいた・・
かった。バカヤロー! 廊下が、涙で霞んでいた。・・・
バカヤロー!・・・
・・・
次の授業も、何も聞こえなかった。ぼくは、静かになっていた。早く死にたかった。死への憧れが、・・
破裂しそうになる程膨らん・ナいった。ヒロミを恨んだ…。しかし、その度に、カルメンが現れた。ヒ・・
ロミへの恨みの前に、愛しいカルメンが現れた。ヒロミが、カルメンと重なっていた。ぼくは、ヒロ・・
ミを恨んでいた。カルメンを愛していた。・・・
バカヤロー!・・・
しばらくすると、ヒロミが消えた。カルメンが、ぼくの意識に舞った。・・・
・・・
ひどい女さ、カルメンは。おれを、何だと思っているんだ…。まったく、バカにしやがって!・・・
カフェ・デ・パコの裏口で待っていたんだ。カルメンの舞台が終わるのを、ずっとずっと待ってい・・
たん・セよ。カルメンに会いたかった。どうしようもなく、会いたかった。激しく緊張していた。バカ・・
ヤロー!・・・
長い時間待った。カルメンが、おれのことを見れば、優しく微笑んでくれると思っていた。嬉しさ・・
に、涙の一つでも見せてくれるんじゃないかと思っていた。おれは、カルメンの住まいを聞きたかっ・・
た。おれも、街に出る決心をしたのさ。カルメンの部屋に転がり込もうと思っていた。カルメンと一・・
緒に暮らそうと思っていた…。・・・
働こうと思っていた。何でも出来ると思っていた。おれは、本当に働こうと思っていた・B・・・
それを、カルメンに言えば、カルメンは喜ぶだろうと思った。おれを、少しは見直すだろうと思っ・・
ていた。けれど、それは、おれが一人で思っていただけのことだった。・・・
カルメンは、おれを見るなり言った。帰りなさい。あんたの来るところじゃないって。バカヤ・・
ロー! どうしたんだよカルメン。おれは、呆気にとられた。何の言葉も出てこなかった。カルメン・・
は、微かに頬の隅で笑っていた。おれを、蔑んだ笑いだった。何も分からなくなった。考えていたこ・・
とが、真っ白に消えてしまっていた。おれは、カルメン・ノ縋った。お願いだ。前のように、仲良くし・・
ておくれ…。お願いだ…。・・・
ひどい女さ、カルメンは。カルメンは、おれを振りきって店へ戻っていった。一度振り返って、カ・・
ルメンは言った。バカにするんじゃないよ! おれは、しばらくその場に動けなかった。打ちひしが・・
れた惨めな男だった。おれは、ポケットに入れて置いた安物のシェリーを飲んだ。焼ける胸を、もっ・・
と、そのシェリーで焼きたかった。バカヤロー!・・・
それでも、おれは、カルメンを待った。諦めきれなかった。悔しさで、カルメンの顔が、おれの意・・
識に恨めしく揺れた。おれは、店がはねるのを待った。もう一度、カルメンに縋るつもりだった。話・・
ぐらい聞いてくれ…。悲しくてやりきれなかった。バカヤロー!・・・
しばらくすると、マルコが出てきた。マルコは、少し酔っていた。おれを認めると、おれの隣に腰・・
を下ろした。・・・
「カルメンのことは忘れろ…」・・・
マルコは、おれのことを息子のように思ってくれていた。マルコには、いろんなことが話せた。し・・
かし、その時は、あまり話したくなかった。・・・
マルコおやじは、珍しく饒舌だった。おれに、カルメン・フことを詳しく聞かせてくれた。パージョ・・
の間を巧く渡り合っているカルメンのことを、聞きもしないのに、あれこれ話してくれた。マルコは、・・
その時饒舌だった。・・・
おれに、マンサリーリャを勧めてくれた。おれたちは飲んだ。久しぶりだった。マルコのギターが・・
聞きたかったけど、その場では相応しくなかった。・・・
カフェ・デ・パコの裏口で飲んだ。おれは、何杯も盃を空けた。カルメンは、既にスターだった。・・
マルコおやじが、嬉しそうにカルメンのことを話し続けていた。・・・
「カルメンはいい女だ。そして、男・スらし、いいや、人たらしの天才じゃ…」・・・
ハハハハ、人たらしか…。うまいこと言う。おれは、悲しく笑った。マルコも笑った。嬉しそうな、・・
切なそうな、よく分からない笑いだった。・・・
マルコの皺が増えていた。マルコは、カルメンを愛していた。自分が育てた踊り子が、愛しくてた・・
まらないのだ。マルコは、カルメンを愛している。しかし、カルメンが、マルコを離れようとしてい・・
る。マルコから、遠ざかろうとしている。・・・
おれには、それが分かった。おれと同じだ。おれには、それが分かった。二人とも、同じ吐・ァを漏・・
らしていた。・・・
カルメンは、誰にも好かれていたようだった。カルメンの奔放な性格が、誰にでも受け入れられて・・
いたようだった。カルメンは、そんな人たちの間を、うまく渡り歩いていた。男を何人もくわえ込み・・
ながら、あなただけの愛よ…、と、次々に、男を弄んでいた。少しずつ名が売れ、カルメンはいつし・・
か、恋多き女…、と、もてはやされるまでになっていた。・・・
おれが思っていたより、カルメンは強かった。逞しかった。カルメンが、やはり遠くに感じた。悲・・
しさが倍増した。・・・
マルコは、・bしてくれた。思った通りだった。マルコも、カルメンに逃げられそうになっていた。・・
カルメンは、バルセローナへ行く。情熱の踊り子は、更なる飛躍を望んでいた。もっともっと、大き・・
な舞台を望んでいた。カルメンが、更に益々遠くに感じた。・・・
マンサリーリャが、底をついた。マルコは、店へと戻っていった。お前も働け…。それだけ言って、・・
店の裏口へ消えていった。それでも、おれは、カルメンを待ち続けた。・・・
その夜、おれは、もう一度カルメンに会った。マルコが戻って行ってから、かなりの時間が過ぎて・・
いた・Bカルメンも、少し酔っているようだった。どこの男に、酒をごちそうになったんだ。嫉妬が、・・
おれを揺さぶった。・・・
カルメンは、何も言わずにおれの頬を叩いた。何か言おうとしたが、カルメンは素早く店に消えた。・・
素早かった。一瞬のことだった。・・・
やりきれなかった。酒のせいだったのかも知れないが、おれは、ものすごく荒れていた。ものすご・・
くすさんでいた。道端のものを、すべて、すべて、投げ飛ばしてやった。カルメンへの、憎悪が大き・・
くなっていた。・・・
「カルメンのバカヤロー! 売女め!」・・・
おれは、ものすごく荒れていた。・・・
・・・
授業が、頭の中に入ってこなかった。わたしは、教科書に視線を落としゆらゆらと揺れていた。・・・
夕べは、あれから眠ったみたい。浅い眠りだったみたいだわ。おかげで、今日一日、眠くってしか・・
たなかった。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
それにしても、この音が、わたしの一部になり出しているの。気にすれば聞こえる。大きく聞こえ・・
る。でも、気にしなければ感じない。呼吸みたいになっている。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
揺れながらわ・スしは、その音を感じてみた。心地よくなった。何だか、嬉しくなっていた。・・・
恋がしたかった。燃えるような恋がしたかった。この音が、もっともっと高鳴るような恋がしてみ・・
たかった。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
わたしは、その音を感じ続けた。いいリズムだった。・・・
・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
そうよ、あたいは、恋する女よ…。もっと、教えてあげるね…。・・・
新しいあたいが、あたいを感じている時が分かるようになったの。あたいの目覚めが、それを分か・・
るようになって・ォたの…。嬉しいよ。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
そう、あの音よ。あの音が、ものすごく近くに感じる時。その時は、新しいあたいが、あたいを感・・
じている時。あたいは、それが分かりだしていた。そうよね、新しいあたい…。・・・
そうよ、あたいは、恋する女だったのよ。男を、次々と変えたわ。あたいの夢のため。あたいの意・・
地のため…。・・・
売女などと、呼ばれたこともある。必死だったのよ。ジプシーの踊り子が、大きな舞台で踊るの。・・
ジプシー娘が、晴れ舞台に立つの。必死だったわ。だからあたい・ヘ、どんなことを言われても平気・・
だった。そして、人の罵声にも慣れていた。ヒターノ! ヒターナ(ジプシー娘)! こんな汚い言・・
葉で、罵られ育ってきたわ。泥棒! 乞食! そう言って、パージョたちに追い払われたわ。売女と・・
言われる方がましだった。あたいには平気だった。・・・
その通りよ…。売女…。その通りよ…。・・・
あたいは、いろんな男に抱かれたわ。計算ずくよ。一度も、恋だったことはない。パージョたちに、・・
心を開いたことはないわ…。すべて、計算ずく…。あたいの意地は、岩をも貫くのよ。そう思っ・トい・・
た。・・・
そんな男たちは、あたいにとって踏み台でしかなかった。あたいの廻りのパージョたち、すべて踏・・
み台でしかなかった。見返してやるんだ。ヒターノたちを罵り続けた奴を、見返してやるんだ。その・・
思いが、あたいを激しくしていった。・・・
大きな舞台…。それが、あたいの恋だった。あたいの夢だった。そして、ヒターナのあたいの意地・・
だった。・・・
恋多き女…。それでも結構楽しかった。マルコもいたしね。あたい、頑張ったわ。セビーリャだけ・・
でなく、アンダルシアの至る所のカフェ・カンタンテ・ナ踊った。カディス、へレス、マラガ、グラナ・・
ダ。みんないい街だった。お友達も、数多くできたわよ。・・・
その街々で、男たちの視線を集めるのよ。それが、あたいの仕事…。時には衣装を大きく跳ね上げ、・・
太股まで見せてやった。男たちはイチコロよ。あたいの魅力に、みんな跪いたわよ。・・・
ある時、あの人が来たわ。あたい、すっかり忘れていた。あの人のことなんか忘れていた。あたい、・・
忙しかったもの…。・・・
あの人は、相変わらず汚かった。あれだったら、乞食って呼ばれても仕方ないわ。だから、いつま・・
で・焉Aヒターノって言われるのよ。・・・
あの人は、カフェ・デ・パコの裏口にあたいを呼んだの。あたい、嫌だったけどマルコが行ってや・・
れって言うの。行って、あたいのことを忘れさせろと言うの。仕方なく会った。あの人は汚かった。・・
みすぼらしかった。・・・
あたい、マルコが好きだった。バルセローナで成功したら、マルコを迎えるつもりだったわ。マル・・
コと一緒に暮らすつもりだった。そんなマルコが言うんだから、あたい、あの人に会ったのよ。決し・・
て、自分から会いたかったわけではなかったの。・・・
あの人は、・たいに縋り付いた。あたいは、振り切った。悲しかった。何もかも嫌になった。あの・・
人には、あたいが必要なんだ。あたいが側にいなければ、ダメなんだ。あたいのなかに、何かが目覚・・
めた時よ。あたいは泣いたわ。トリアーナを出てから始めてだった。あたいは泣いた。なぜか、悲し・・
くってどうしようもなかった。・・・
それでも、あの人は、あたいを待っていた。あたいを、待ち続けていた。あたいは、あの人を叩い・・
た。あたいのなかから、あの人が消えて欲しかった。あの人なんか、消えて欲しかった。あたいは、・・
あの人を・@いた。涙は隠していた。あの人に、それは見られなかったと思う。・・・
その日から、あの人のことが、あたいから離れなくなった。どういう訳か、あの人が、あたいを揺・・
らし続けた。悔しかった。悲しかった。切なかった。・・・
それが、あたいの踊りに変化をきたした。マルコに叱られた。カルメン、どうしたんだカルメン…。・・
マルコだけが、あたいの変化に気付いていた。マルコは、あたいをカフェ・デ・パコから干した。当・・
分、この辺りから消えろ。マルコは、分かってくれていた。・・・
あの人に、会えなくするためだった・Bマルコは、あたいに、あの人を忘れさすようにしてくれたの。・・
いい人よマルコ。愛していたわマルコ…。ああ、マルコに会いたい。でも、マルコは死んじゃった。・・
あの日。そう、あの日に死んじゃった。・・・
そう、あの日よ。すべて、あの日に起こったこと…。・・・
ああ、またあの人を感じたわ。今、あの人の吐息が、聞こえたような気がした。あの人に会いたい。・・
やっぱり、あの人に会いたい。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
分かる? この気持ち…。ねえ、分かる…。・・・
・・・
やけに緊張していた・B吐息か溜息かが、何度も、ぼくの口元から漏れた。ぼくは、少し震える足を・・
前に出した。神の審判を受けるような心境だった。・・・
体育館の入り口を過ぎた。運動部が、練習の準備をしていた。その声が弾けていた。冷たい空気に、・・
その声が弾けていた。バスケットボールが散らばっていた。羨ましかった。汗…。チームワーク…。・・
躍動…。勝利…。健闘…。羨ましかった。魅力あった。輝いていた。あのなかに入れたらいいだろう・・
な。ぼくには、あり得ないことを思っていた。・・・
体育館の裏は影になっていた。塀越しに、外・sき交う車の音がしていた。木枯らしが、その塀と・・
体育館の間に流れ込んで、枯れ葉を散らしていた。ぼくは、コートの襟を立てた。その仕草が、何だ・・
か格好つけているようで嫌だった。ぼくは、辺りを見回した。何だか、照れくさかった。誰かに、見・・
られているような気がした。ぼくの緊張が高まっていた。ぼくの心臓がぼくの胸を叩く音が聞こえて・・
いた。・・・
そこには、銀杏の木が植えられていた。ぼくは、すっかり冬枯れした、その木の下に立った。冷た・・
い風が、ぼくを責めた。風に揺れる銀杏の枝が、ぼくの頭上でうる・ウい程だった。・・・
金なんてなかった。そんなこと、妹に言えるはずなかった。ぼくは、ヒロミに許しをこう積もりで・・
いた。バカみたいだったが、あまりにも情けなかったが、仕方なかった。仕方ないと思っていた。原・・
田のことを思ったら、その方法しか思いつかなかった。バカヤロー! 本当に、自分が嫌になってい・・
た。本当に、生まれてこなければよかったと思っていた。・・・
ぼくは、ヒロミを待った。コートの襟を、もう一度立て直した。ヒロミは、すぐには来なかった。・・
銀杏の木の下に立ち続けた。緊張と寒さが、ぼくの・ネかで揺れていた。・・・
しばらくすると、ぼくのその揺れに、何かの期待が混じり出してきた。ヒロミに会える。二人だけ・・
で会える。そんなバカな期待が、ぼくの揺れに混じりだしてきた。・・・
ヒロミの整った顔が、ぼくの脳裏に浮かんだ。綺麗だった。憧れの対象に思えた。ぼくは、ふらふ・・
らとヒロミを思っていた。・・・
なんて男なんだ。素早く我に帰った。自己嫌悪が、ぼくのふらふらを素早く隠した。・・・
ぼくのなかに、そんな思いがあることに、ぼくは、果てしない嫌悪を感じた。嫌だった。自分を信・・
じられない。・Mじたくないような気分になった。やっぱり、死んでしまいたかった。・・・
昔にも、こんなことがあったように思った。ぼくは、揺れる角度を変えた。ぼくへの嫌悪がたまら・・
なかった。まだ、ヒロミの思いが隠れきっていなかった。・・・
揺れるぼくに、カルメンが浮かんだ。カルメンは、冷ややかにぼくを見ていた。ヒロミの思いが消・・
えた。ぼくは、カルメンに意識を向けた。・・・
あの時だよ。そうだよ、あの時だよ。カフェ・デ・パコ。ぼくは、カルメンを待っていた。緊張し・・
ていた。今のように緊張していた。ぼくは、ある錯・oに捕らわれだした。ぼくが待ってるのはカルメ・・
ンだ。ここは、カフェ・デ・パコの裏口。シェリー酒の匂いの漂う暗がりだ。・・・
ぼくの喉が、刺激を求めていた。どういう訳か、強いアルコールを求めていた。ぼくは、木の下に・・
腰を下ろした。地面の冷たさが、ぼくの尻を通して脳天にまで伝わった。膝を抱えた。抱えた膝に顔・・
を埋めた。木の陰から、マルコがふらっと現れてきそうだった。・・・
カルメン。おれを、捨てないでくれ…。ぼくの意識のなかで、カルメンが、おれを叩いた。おれか・・
ら、遠ざかっていった。酒場の裏・福フ扉を、閉めようとしていた。顔には、蔑みの笑みが見える。カ・・
ルメンは、笑っていた。おれを、笑っていた。・・・
「ぼうや…。ヒラノぼうや…」・・・
おれを、呼んでいる。誰だ…。カルメンか?・・・
「平野…。ヒラノ…。ぼうや!」・・・
ヒターノ? そうさ、おれはヒターノだ。おれを、呼んでいる。ヒターノ。おれのことだ。平野。・・
ぼくのことだ。平野神太は、ぼくの名前だ。カルメンだ。カルメンが、ぼくを呼んでいる。いや、お・・
れを呼んでいる。おれを、ヒターノと呼んでいる。ヒターノと呼んでいる。・・・
カ・泣<唐焉Aジプシーじゃなかったのか。ヒターナじゃなかったのか…。カルメンのバカヤロー!・・・
おれは、惚けのように顔を上げた。一つの影が、おれを見おろしていた。女のようだった。その影・・
は、何度も、おれを呼んでいた。何度も、ぼくを呼んでいた。・・・
「ヒラノ! 平野! ぼうや!」・・・
カルメンのバカヤロー! お前だって、ヒターナじゃないか!・・・
・・・
あたいが、どんどん目覚めていくよ。いいのかな、目覚めていくよ。・・・
新しいあたいは、まだ、あたいのことを感じていないのかな…。感じているよう・ノ思えるんだけど。・・
まだ、あたいのことを、本当に受け入れていないみたい。拒んでいるのかな。いいや、そんなはずは・・
ない。あたいなんだもの。あたいは新しいあたいの、古い方のあたいよ。拒むわけないわ。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
近いわよ。ものすごく近いわよ、その音。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
どんどん、目覚めていっているのよ。もっともっと、教えてあげる。そのうちに、新しいあたいも、・・
あたいの方を完全に向いてくれるよね…。あたいは、目覚めていくよ。いいでしょう目覚・゚ていくよ。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
・・・
あの日、そうあの日。あの日、あの人が来た。カフェ・デ・パコにあの人が来た。・・・
その夜は、バルセローナからあたいを見にやって来た男たちがいたの。あたいを、バルセローナの・・
舞台に上げてやろうというの。あたいは、力が入っていた。お化粧に、いつもの三杯も時間をかけた。・・
あたいの夢が、近付くはずの夜だったの。・・・
そんな夜に、あの人はやって来た。今度は、裏口じゃなかった。表から入ったみたい。めかし込ん・・
でいたわ。野暮ったかったけ・ヌ、精一杯めかし込んでいた。あたいには、すぐに分かった。一番前の・・
テーブルに、あの人はいた。お金持っているのだろうかと、一瞬心配になった。炎のような目をして・・
いた。あの人は、あたいを睨み付けていた。・・・
少しおかしくなった。どこで、あんな服を仕入れたんだろう。上着は、とんでもなく小さかったわ。・・
窮屈そうだった。あの人、思いきり猫背になっていた。おかしさの後、哀れに見えた。あの人が、仕・・
事していないのは分かった。嫌に痩せていた。顔の色が白かった。・・・
感傷に浸っている時間はなかったわ。・}ルコのギターが進んでいた。あたいは、あの人のことを一・・
旦、意識の隅に放り込んだ。あたいはプロ。どんな時も、精一杯踊る。あたいはプロだった。・・・
久しぶりだったの。マルコのギターで踊るのは、久しぶりだったの。あたいは乗ったわ。バルセ・・
ローナの男たちの前で、いい踊りが出来ていると思ったわ。やっぱり、マルコは神の手だと思った。・・
あたいは、乗りに乗っていた。・・・
それにあの人。そう、あの人がいたもの。あたいの意識の隅のあの人が、あたいに、ゆらゆら揺れ・・
ていた。あの人が、あたいの踊りを見てく・黷トいる。あたいは燃えたわよ。知らない間に、あの人に・・
だけ踊っていた。バルセローナの男たちのことは、頭から消えていた。マルコのギターも、それを分・・
かってくれていたようだった。一つ一つの音が、いつもより激しかった。あたいを、激しい恋女にし・・
てくれていた。あたいは燃えた。激しく燃えた。・・・
村で踊っていた頃よりは、比べものにならないぐらい上達していたわ。あたいは、あの人に胸を・・
張っていた。あたい、ものすごく努力したわよ。来る日も来る日も、踊りに明け暮れた。それを、あ・・
の人に見てもらいたか・チた。あたいの努力を、あの人に、感じて欲しかった。・・・
生涯最高の舞いだったわ。あたいは、そのうちに何もかも忘れていた。無になっていた。素晴らし・・
かったわ。あんな踊り、二度と出来ない。あたいは、あたいのすべてを、その舞台に披露した。あの・・
人に披露した。・・・
曲が終わろうとしていた時だった。突然、あの人が、あたいの足に縋った。冷たい手だった。あた・・
いの足首が、一瞬で凍りそうになった。・・・
驚いている暇もなかった。あたいは、あの人の手を踏んだ。そして、その場にひっくり返った。店・・
全体・ェ、瞬時に騒然となった。あの人への罵声が飛び交った。マルコが、あの人を殴った。あの人は、・・
テーブルに弾き飛ばされた。マルコの、すごいパンチだった。・・・
あたいは叫んだ。あの人の名を叫んだ。涙が、止まらなかった。舞台が、めちゃくちゃになった。・・
あたいの夢が、遠ざかったと思った。バカヤロー! あたいは叫んでいた。あの人に叫んでいた。・・・
心の底から、あの人を憎んた。心の底から、あの人を恨んた。そして、心の底から、あの人を愛し・・
ていた。・・・
分かってくれるよね。女心よ。あたいは激しい女。も・、すぐ、すべて目覚めるわ。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
踊っていい? マルコのギターはないけれど、あたい、踊りたくなってきた。踊っていい?・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
その音で、踊っていい?・・・
・・・
カルメンだと思った。おれは、立ち上がった。冬の西日に、ふらふら影が揺れていた。おれは、立・・
ち上がった。足元がふらついた。・・・
「ぼうや! ヒラノ!」・・・
やっぱり、ヒターノと聞こえた。カルメンだって、ヒターノじゃないか…。ヒターナじゃないか…。・・
バカヤロ・[! どこまで、おれをバカにすれば気が済むんだ。バカヤロー! おれは、影に言って・・
やった。おれの怒りをぶつけてやった。バカヤロー!・・・
「バカヤロー! ヒターノだって人間だ! バカにするな!」・・・
アー! なんてバカなんだ! アー! なんてバカなんだ! おれが、ぼくに戻った。・・・
「………」・・・
声が出なかった。どうして、どうして、こんなにドジなんだ。ぼくは、我に返った。ぼくのおれは、・・
消えていた。・・・
自分に腹が立った。目の前に立っていたのは、ヒロミだった。綺麗だった。切れ長の目に・ュし厚い・・
唇。潤んでいる瞳。とても綺麗に見えた。・・・
「ぼうや…」・・・
ヒロミは驚いていた。ぼくの剣幕に、目を大きく剥いていた。何の言葉も、見つからなかった。ぼ・・
くは、ヒロミが見られなかった。自分に対しての憎悪が、ぼくの冷めた身体を一瞬に熱くした。・・・
ぼくは走った。ヒロミを振りきった。走りながら、自分を責めていた。このまま、死んでしまいた・・
かった。原田や吉村に殴られている方がましだった。ぼくは、懸命に走った。ヒロミの影が、後ろか・・
ら追いかけてくるようだった。・・・
ぼくは走った・Bヒロミの影を追い払いながら、ぼくは走った。・・・
・・・
恋がしたいわ。燃えるような恋がしたい。一日中、何だか、わたし変だった。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
わたしは、恋多き女になるの。格好いいよ…、恋多き女。素敵ね…、恋多き女…。・・・
燃えるのよ。恋に燃えるの。死んでも恋するの。わたしは、激しい女なのよ…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
この音に、それを感じる。わたしは、激しき恋女。それを、感じるわ…。・・・
駅の階段が長く感じた。同じ制服の女の子たちのことを思・チた。みんな、わたしのように恋に焦が・・
れているのかしら。恋をしたいなんて、みんなみんな、思っているのかしら…。・・・
音が聞こえるの。わたしのあの音が、ずっと聞こえるの…。でも、まだ少し早いの。わたし、好き・・
な人がいないよ…。どうしましょう……。・・・
電車が、ホームに滑り込んだ。その音でも、わたしの音は消されることはなかった。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
・・・
(6)・・・
・・・
わたしが、少しずつ変わっていくように思えた。大人になっていくように思えた。・・・
「・Wン、ジン、ジン、ジン……」・・・
この音のせい。そう、この音のせいよ…。・・・
いろんなことが、頭に浮かんだ。わたしは、浮かんだものを一つも拒まなかった。次々に、わたし・・
の頭は、色々な思いを巡っていった。・・・
その中に、死というものがあった。それが、わたしを揺らした。心地よく揺らした。何だか不思議・・
な程、わたしは揺れた。・・・
その死を思うことは、少し難しかった。だから、生まれる前のことを思った。その方が、思い易・・
かった。・・・
どんな、わたしだったのだろう…。わたしっていたのだろ・、か…。なぜか、わたしの思いは宇宙へ・・
と飛んだ。・・・
生まれる前は、宇宙にいたの。宇宙のどこかで、みんなと眠っていたの。静かな闇のなかで、お母・・
さんの暖かさを思い浮かべて、みんなと眠っていたの。風も吹かない、音も聞こえない、空間の揺れ・・
もない、そんなところで眠っていたの。・・・
それは、星の隙間よ。星の隙間に、隠れて眠るの。地球から見えないように…、どこかの宇宙船に・・
見付からないように…、星の光に、眠りを妨げられないように…、星の隙間で眠っていたの…。・・・
それに目覚めれば、父さん・フ体内。父さんの体内で、再び眠るの…。父さんと母さんが愛し合うま・・
で、静かに眠るの…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
そんなことを、思い続けていた。わたしの宇宙は、わたしのなかにあるの。わたしの揺れは心地よ・・
かった。宇宙の揺れに思いたかった。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
その間中、それは聞こえていた。いい音なの。とっても、いい音よ…。わたしは、揺れながら、そ・・
の音を聞いていた。・・・
悶々としていた。不思議な程、静かだった。あの音以外は、わたしのなかに、何も入・チては来な・・
かった。切ない程、静かだった。いや、切ない静けさだった。・・・
フラメンコギターを聞いた。少し、静けさを重く感じてしまった。わたしは、何かの音を求めた。・・・
フラメンコのギターが、何だか、わたしのあの音のリズムと同じに思った。そのせいで、余計に切・・
なくなってしまった。わたしは、恋に傷ついた女のように、わたしの悲劇を仮想していた。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
わたしのその音も、切なく思えてきた。始めてだった。こんな思いは、始めてだった。わたしは、・・
そんな思いをか・ンしめていた。女になったようだった。いや、女になりたかった。何だか嬉しくも・・
あった。不思議だった。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
そして、わたしは踊っていた。心のなかで踊っていた。やっぱり、女になったように思えた。切な・・
さが、わたしを女にしたような気になっていた。わたしは踊った。切なさのなかに、嬉しさが渦巻い・・
ていた。・・・
・・・
部屋で悶々としていた。死について考えていた。ヒロミへの怒りは収まっていた。どうせ、もう少・・
しの辛抱だ。ぼくは諦めていた。そうなんだ、ぼくは死ん・ナいく。自らの生命を絶つ。ぼくは、その・・
ことに考えを集中していた。・・・
死…。ぼくの死…。・・・
そのことが、ぼくを、離れなくなっていた。ぼくは、死んでいこうとしている。死の先には、何が・・
あるのだろう…。果てしない闇が、どこまでもあるのだろうか…。・・・
果てしない闇…。今まで、そんな風に思っていたと思う。死の先には真っ暗の闇があり、死んだ者・・
たちはその闇に溶けていく。自分の意識も思考も意志も、すべてその闇に溶け、死んだ者たちは永遠・・
に闇に閉ざされる。その闇に、存在が消えていく。死の・謔ヘ何もない。そんな風に思っていたよう思・・
う。・・・
しかし、ぼくは、自分の前世を感じてしまっている。死の先に何もなければ、今のぼくは存在して・・
していない。アンダルシアで暮らしたぼくの前世は、死という一つの壁を乗り越え、今、ここに存在・・
している。死後の世界がないとするならば、ぼくは、ぼくの前世をはっきり感じることなどある訳が・・
ない。・・・
ぼくは、感じてしまっているのだ。ぼくの前世があったことを。そして、それは確実に自分のもの・・
だったことを。あの時の風も、自分の記憶にある。あの時の空・Cも、自分の過去にある。あの時の自・・
らの息吹きが、今の自分に吹いているのだ。同じ息づかい、同じ生命の音が聞こえるのだ。・・・
死…。死後の世界…。死の向こうの世界…。・・・
ぼくは、それを越えてきた。ぼくの意識は、その世界を越えてきているのだ。あの時のぼくが、こ・・
こにいる。信じたくないけど、それは真実だ。自らの生命のすべてで、それが分かる。ぼくは、死の・・
世界を越えてきた。・・・
死…。死後の世界…。死の向こうの世界…。・・・
ぼくは、その時のことを思いだそうとしていた。ぼくの前世の死後。・サれは、ぼくの記憶にあるは・・
ずだ。ぼくは、深く目を閉じた。闇だったはずだ。ぼくの前世の死後は、真っ暗の闇だったはずだ。・・
どういう訳か、そう思った。・・・
ぼくは、死の時に意識を向けた。ぼくの前世が朽ちた時に、ぼくの意識を向けた。・・・
・・・
痛みが、おれより離れていく。呼吸が楽になっていく。おれは、意識のなかで光を探した。なぜか、・・
光のなかに、カルメンがいると思った。・・・
光などなかった。どこまでも続いているような、闇だけがあった。おれのなかに、恐怖が渦巻いた。・・
目を閉じようとした・Bしかし、それは叶わなかった。おれの目がなくなっていた。・・・
おれは叫んだ。声が出なかった。おれは、泣いていた。恐怖と不安、そして心細さに、泣いていた。・・・
それでも叫んだ。叫ぶしかなかった。叫んでいると、少しは恐怖も薄らいでいた。おれは、意識の・・
なかで激しく叫んだ。・・・
おれが、なくなっていた。手も足もなかった。頭も胴もなかった。目も耳もなかった。おれが、透・・
き通っていた。おれは、叫び続けた。その叫びだけは聞こえた。おれの声じゃないように思った。な・・
にか、おれの意識のなかに轟いてい・驕A激しく軋んだうねりの音のようだった。・・・
おれは、死んだんだ。叫びのなか、そのことに気付いた。恐怖が増した。二度とアンダルシアへ戻・・
れないと思ったら、恐怖が何倍にもなった。更に、この闇に溶けていくと思った。おれは、闇に消え・・
ていく。闇の底で、おれの存在が溶けていく。意識が薄れ、霧の彼方へ消え行くと思った。・・・
その後は、気を失っていた。長い長い時間だったように思う。おれが生きていたときより、長く感・・
じた。恐怖は、その間におれから去っていた。・・・
しかし、おれは、その場でどうするこ・ニもできないでいた。意識だけが揺れ、おれの思考はふらふ・・
らと漂っていた。おれは、人でなくなった。おれの未来が、砕けて消えた。おれのすべてが、弾けて・・
散った。そう思うと、気力が萎んだ。諦めが渦巻いた。おれは、何もせず闇に漂っていた。・・・
叫ぶことも止めた。どうすることも出来ないことを悟った。おれは、闇を恨みながら、闇に揺れた。・・
どこまでも深い闇に、揺れ続けた。揺れながら、自分に向かい合った。その時の現実を、その時の自・・
分に受け入れていった。諦めという意識が、おれに、そう指示した。おれは、お・黷セけを見ることに・・
した。恐怖は、自分のなかにある。そう思った。・・・
そうするしかなかった。どこにも、この闇を抜けて行くところはなかった。おれは、おれが闇に溶・・
けていく前に、おれの意識に、おれの存在をくっきりと残しておこうと思った。自分に向かい合い、・・
闇に向かい合い、おれは、おれを見つめた。・・・
その時に気付いた。それまでは、自分を見ていなかった。その時まで、おれは本当に自分を見つめ・・
たことがなかった。そう思った。・・・
驚いた…。おれが、桜色に透明になっていた。美しいと思った。生・ォていた時には、そんなこと一・・
度として思わなかった。おれを、美しく思えた。その存在が美しく思えた。・・・
驚いた…。本当のおれに出会えたような思いになっていた。おれは漂った。本当の自分の姿で漂っ・・
た。本当に、美しく思えた。自分の姿が、果てしなく美しく思えた。おれは、物体ではなくなってい・・
た。その桜色に透明な姿に、おれは、限りない美しさを感じていた。嬉しかった。自分のそんな存在・・
があることを、心の底から嬉しく思った。・・・
その場所に長くいた。幸せだった。おれは、おれとの対話を続けていた。・ィれのなかの宇宙は、果・・
てしなかった。おれの存在の理由が、少しだけ分かりかけていた。・・・
永遠に、そう、永遠にこの場所にいると思っていた。いや、そう思いたかった。そう信じたかった。・・
その場が、おれの新しい生活の場だと思っていたんだ。そのうちに、おれのような存在が、次々に・・
やって来るんじゃないかとも思っていたんだ。いい心地だったんだ。本当に、素晴らしい心地だった・・
んだ。・・・
死というものが、素晴らしいものに思えていた。そんなに恐れるものでない、そう思っていた。・・・
生きていた時には・エじなかったものが、色々大勢感じられた。あの日に死んだことに、なぜか感謝・・
すらしていた。それ程、心地よかった。恍惚の心地だった。その場は、恍惚の地だった。・・・
しばらくすると、微かな光を感じだした。おれは、光の感じる方へ進んだ。それは、自然なこと・・
だった。光に、未来があると思った。おれの存在が、光に吸い込まれていくと思った。おれは、光へ・・
向かった。・・・
その場に、まだまだいたかった。しかし、おれは未来へ進んだ。おれというものが、本当に分かり・・
かけていたようだったんだ。そのせいで、人恋・オくなっていようなんだ。恍惚の地には、結局誰も来・・
なかった。おれは、とにかく前へと進んだ。・・・
そこは、風が激しかった。いや、風なんかじゃない。透き通ったおれに、風が吹いたりはしない。・・
風じゃなく、空間の歪みだった。おれの意識が、その空間の歪みに軋んだ。桜色に透明なおれが、そ・・
の歪みの中に落ちていった。渦のなかに巻き込まれるように、おれの意識は、その歪みの中を舞って・・
いった。・・・
意識が、破裂しそうな圧力を感じた。おれは耐えた。耐えるしかなかった。しかし、先に進んでい・・
るように思・チた。闇が、遠くなっていくように思った。・・・
それは、闇のなかの道だった。光へと向かう道だった。おれのなかに、明るい希望が芽生えた。意・・
識を襲った空間の歪みにも、慣れだしていた。おれは、少し軽くなっていた。・・・
その時だった。おれは、カルメンを感じた。カルメンが、おれに寄ってきた。おれは、カルメンを・・
抱いた。消えてしまった腕で、おれは、カルメンを強く抱きしめた。・・・
カルメンは冷たかった。おれの意識に、それが感じられた。おれは言った。寒くないか…。カルメ・・
ンは泣いていた。・・・
そ・フ時に、おれを襲った歪みが消えた。おれへの圧力が消えた。光への道が、おれにもはっきりと・・
見えた。一条の道が、闇を切り裂いていた。おれは、その道に意識を向けた。おれと同じような多く・・
の人たちが、その道を歩いていた。手も足もない人たちが、その道を、意識のなかにある両足で歩い・・
ていた。・・・
おれは焦った。あの人たちに、付いていこうと思った。早くしなければ、あの道が消えてしまうと・・
思った。おれは焦った。しかし、カルメンは、おれを放そうとはしなかった。・・・
おれは、カルメンを振り切った。簡単だ・チた。おれの意識から、カルメンを消すだけでよかった。・・
生きているときは出来なかったことが、その時は、信じられない程うまく出来た。おれは、カルメン・・
から放れた。一人で歩く方が早かった。あんな売女と、一緒に進みたくなかった。・・・
光の先には、天国があると思っていた。おれの恍惚の地よりも、更に美しい天国があると思ってい・・
た。どういう訳か、おれは、そう思っていた。光の道を進む人たちは、笑っていた。希望を持ってい・・
た。みんな、前を向いていた。・・・
しかし、その先は、天国なんかじゃなかった。おれ・ヘ、その道から飛んだ。その先が、感じられた・・
のだ。・・・
生の匂いだった。生きていたときの匂いだった。おれには、それが分かった。父親の体内だ。母親・・
の羊水だ。みんな、それへと向かっていたのだ。もう一度、生を授かる。そんなバカな…。生まれ変・・
わる。とんでもない…。おれは、道を飛んだ。そんな所へ向かうのなら、おれは、あの恍惚の地へと・・
戻る。生きて何になる。辛く悲しいだけだ。おれは、その道を飛んだ。再び、深い闇が、おれを包ん・・
だ。おれは、おれの恍惚の地を探した。・・・
・・・
ぼくは、目を・Jけた。部屋の明かりが眩しかった。ベッドから立った。明かりを消した。ベットの・・
なかに戻り、布団を頭から被った。イメージ通りだった。ぼくが、桜色に透明になっていた。・・・
死というものが、ぼくのなかで、益々身近に感じられるようになっていた。ぼくは、一度それを経・・
験している。そのことが、恐怖感を薄くしていた。いや、恐怖感を隠していた。・・・
ぼくは、死に向かうことを恐れてはいない。再び闇に包まれようと、ぼくは、それに向かおうと・・
思っていた。今度は、うまくやる積もりだった。また、生まれ変わったなん・トことにならないように・・
する積もりだった。ぼくは、死を恐れていなかった。死という、美しい姿に憧れていた。・・・
恍惚の地へ向かうんだ。一度は進んでいた。そう、ぼくは、その地を経験している。だから、それ・・
へ向かうには容易いと思った。ぼくは、あの地へ戻るんだ。・・・
誰だって死ぬのさ、遅かれ早かれ死ぬのさ。ぼくは、それが少し早すぎるだけなんだ。ぼくのなか・・
の、死への憧れが大きくなっていた。ぼくは死ぬ。桜色に透明になるんだ。あの恍惚の地で漂うんだ。・・・
ぼくの過去を遡った。そして、そこに、ぼく・フ死を見た。どうってことはなかった。手や足がない・・
ほうが、自由だった。足で歩くより、意識で進む方が楽だった。そして、誰も、ぼくを気にとめな・・
かった。カルメン以外は、ぼくのことを感じなかった。ぼくのことを、放って置いてくれた。ぼくの・・
なかの宇宙が、ぼくを連れてその宇宙へと飛び立っていくような思いだった。いや、ぼくの宇宙が、・・
果てしないすべての宇宙と交わっていくようだった。・・・
今よりずっといいよ。あの闇の方が、今のぼくの闇より、ずっといいよ。ぼくは微笑んでいた。一・・
人、静かに微笑んでい・ス。・・・
ぼくの思いは、過去へ過去へと向いた。現実から逃れるように、過去へ過去へと向いた。ぼくは、・・
再び目を閉じた。深い闇を感じたかった。・・・
・・・
カルメンと再会した。闇のなかだった。おれは、カルメンを抱いた。生まれ変わりなど嫌だった。・・
おれは、カルメンを抱いた。カルメンを掴んでいれば、この闇のなかにいられると思っていた。・・・
幸せだった。長い間の思いが叶った。カルメンが、おれのものとなった。おれだけのものとなった。・・・
しかし、そんな幸せも長く続かなかった。おれの意識の側を、何・xも何度も、あの行列が行きすぎ・・
ていった。光への道の行列だ。おれが落っこちていった道と、同じ道だ。それを進む人たちは、希望・・
を持っていた。未来を持っていた。幸せを感じていた。おれを、みんな薄笑いを残して過ぎていった。・・・
そのうちに、あれ程嫌だった生まれ変わりが、おれのなかで形を変えていった。進む人の喜びが、・・
おれにも見えたんだ。・・・
みんな喜んでいた。すべての人が喜んでいた。子供が、無邪気に手を振っているようだった。・・・
おれは、思い切って聞いてみた。どこへ行く? どこへ行くんだ? 気になって仕方なかった。生・・
まれ変わりじゃない別な何かへ、あの人たちは進んでいくような気がした。・・・
未来よ…。美しい未来…。・・・
誰かが、そう答えた。おれの意識が、熱くなった。光が、再びおれの意識を照らしたようだった。・・
おれは、おれの未来を思った。なぜか、その時、それは光輝いて見えた。その時は、光輝いて見えた・・
んだ。・・・
また、カルメンを振り切った。悪いとは思わなかった。生きているときのお返しをしたまでだ。お・・
れは、カルメンを残してその列に加わった。カルメンは、追ってこなかっ・ス。ただ、少女のように泣・・
いていた。・・・
後は、あまり憶えていない。気が付けば、母の羊水のなかにいたように思う。母の鼓動が聞こえて・・
いたように思う。母の息づかいが、なぜか懐かしかったように思う。・・・
そう、あまり憶えてない。おれは、ずっと気を失っていたと思う。・・・
・・・
新しいあたいが、あたいのことを感じだしている。あたいには分かるわ。それが分かるわ…。あた・・
いが、完全に目覚めるのね。あたいが、新しいあたいと一緒になるときね。嬉しいよ…。・・・
あの人を、完全に感じたわ。そう、真・チ正面に身近に感じたわ。もうすぐ会えるわね。あの人に、・・
会えるわね…。・・・
その前に、完全に目覚めないと。新しいあたいが、あの人に会うのよ。だから、新しいあたいは、・・
あたいのことをすべて知らないといけないの。教えてあげる。あたい、教えてあげる。あたい、完全・・
に目覚めようとしているのだもの…。教えてあげるね、新しいあたい…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
教えてあげるね…。教えてあげる…。・・・
・・・
そうよ、あの日。すべてあの日のこと。あの日、あたいは死んだ。マルコも死ん・セわ。そして、あ・・
の人も死んだわ。・・・
それは、あたいの部屋での出来事だった。あの人は酔っていた。そして、激しく荒れていた。・・・
傷ついていたわ、あの人。身も心もずたずただった。あたいは、傷の手当をしてあげたの。パー・・
ジョたちに、殴られ蹴られていた。真赤な血が、まだ止まってはいなかった。あたいは、あの人を哀・・
れに思った。幼い頃は、こんなことなかった。あの人は、いい人だった。優しくて、温かい人だった。・・
今夜のように、声を荒げて暴れるような人じゃなかった。・・・
あの人は、あたいの舞台・ヤち壊した。同時に、あたいの夢をも壊した。バルセローナから来た男・・
たちは、帰ってしまった。あたいの待ちに待ったチャンスは、とんだ結果に終わってしまった。憎ま・・
なかったと言えば、嘘になるわ。恨まなかったなんてことはない。あたいは、あの人を力一杯ぶった。・・
あたいも、傷ついていた。・・・
マルコも、側にいてくれた。マルコは、黙ったままだった。シェリーの瓶を片手に、マルコは、あ・・
たいたちを見ていた。悲しげな瞳だった。そして、鋭い瞳だった。あの人への思いやりと、悲しい憎・・
悪が混じりあったような・オだった。時折、瓶の中身を喉に当て、溜息を大きく漏らしていた。・・・
あの人の手当が終わった頃、マルコが言った。低い小さな声だった。・・・
「カルメンのことは忘れろ…」・・・
そう、あの人に言っていた。マルコにも夢だったの。あたいを、そう、ジプシーの踊り子を、バル・・
セローナの舞台に立たせることが、マルコにも夢だったの。老いたトカオールの、最後の仕事だった・・
の。マルコも、傷ついていたの。・・・
「お前は、二度と街に来るな。お前の来る場所じゃない…」・・・
それは、誰にだって分かることだった。あの・lは、街に似合わなかった。道化師のような服を着て、・・
瞬時も落ち着かない瞳…。それじゃ、みんなに笑われるだけよ…。パージョにからかわれるわよ…。・・
無理に肩をいからせ挑発的な態度は、こっけいでしか映らないのよ。あの人は、村しか合わない。村・・
で暮らす人間なの。・・・
一目で、ヒターノって分かるのよ。ジプシーの血を引く容姿が、すべて、あの人には備わっている・・
のよ。あたいは、マルコの言葉に頷いていた。あたいも、村に帰ろうかなんて思っていた。・・・
あたいの頷いたのが、あの人の何かに火を点けたみたい・セった。あの人は、立ち上がった。あたい・・
を突き飛ばし、立ち上がった。・・・
「ヒターノのどこが悪い! お前らだって、そうじゃないか!」・・・
あの人は、泣いていた。あの人のなかで長い間渦巻いていた何かが、その時に爆発したみたい。差・・
別される側の人間の苦悩が、あの人の涙と共に、堰を切ってあの人の外部へと出た。悲しみの怒りが、・・
あの人を包み込んだ。あの人は、震えていた。小刻みに、全身を奮わせていた。異常な状態だった。・・
これ程、興奮したあの人を見たことなかった。・・・
「生まれてこなければよかっ・スんだ! こんなおれなんか!」・・・
あの人は、あたいをぶった。あたいの口の中が切れた。あたいは、壁に吹っ飛んだ。・・・
「生まれてこなければよかったんだ! こんなおれなんか!」・・・
あの人は、何度かそう叫んでいた。・・・
・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
激しすぎるわよ。切なすぎるわよ。どうしたの。激しすぎるのよ…。・・・
今夜も眠れない。どういう訳だろう。わたしのなかが激しすぎるの。切なすぎるの。何があったの、・・
わたしに何があったの。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
でもいいわ、こうしてわたしは、激しい女になっていくのね。恋する女になっていくのね。・・・
それにしても激しいわ。それに、その音が近すぎる。どうしたんだろう…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
・・・
(7)・・・
・・・
愛していたんだろうか。本当に、愛していたんだろうか…。あたいは、目覚めたわ。あの日のこと・・
を、思い出したわ。愛していたんだろうか。本当に、愛していたんだろうか…。・・・
あの人と店の裏で会うまで、あたいの頭のなかには、あの人なんか消えていた。あの人なんかい・ネ・・
かった。けれど、けれど…。あの人の姿を見た途端、あたいの全身に何かが走った。あの人が、あた・・
いの意識にへばりついてしまったの…。・・・
だから、あの日、あの人に向かって踊った。あの人と再会してから、あたいのなかに、あの人が、・・
ぴったりへばり付いてしまっていたの…。だから、あの日、あたいはあの人だけに踊った。・・・
それが愛なの? あたいは、あの人を愛していたの? ああ、分からない。あたいの夢を、あの人・・
はぶち壊した。あたいは、あの人を愛していたんだろうか?・・・
いいや、愛してなん・ゥいなかった。あたい、カルメンは、恋多き女。あの人になんか傾くわけがな・・
いわ。あたいは、バイラオーラ。踊り子よ。踊り子は、男を魅了するのが仕事よ。あんな野暮ったい・・
人を、あたい、魅了しようなんて思わない。あたいはカルメン。そう、あたいはカルメン。あんな人・・
と、あたいは釣り合わないの。そう、あたいは、あの人なんか愛していなかった。・・・
すべて、思い出したわ。あたいは、完全に目覚めたわ。新しいあたいにも、それが伝わっているみ・・
たい。新しいあたいのあの鼓動が、はっきりと大きくなっている。あたい・ヘ、目覚めたのよ。あたい・・
は、あの人なんか愛していなかった。・・・
感傷だったんだわ。憐憫だったんだわ。あの人は、あたいに縋った。店の裏で、あたいに泣いた。・・
可哀想だったのよ…。そう、ただ、幼なじみのあの人が、可哀想になっただけなの…。・・・
あの時、あたいのなかを走ったのは、感傷だったの。憐憫だったの。ただの感傷。ただの憐憫。そ・・
うよ、幼なじみのあの人に対しての哀れみ。バカなあの人への悲しみ。そうよ、ただの感傷。ただの・・
憐憫。あたい、とっても疲れていたもの。・・・
あの人の悲しみが見・ヲたの。あたいに対する、あの人の切ない思いなんて関係なかった。あたいは、・・
あの人のことを忘れていたもの。そう、あたいは、あの人のことなんか忘れ去っていたもの。男なん・・
て、いくらでもいた。男なんて、どうでもよかった。あたいには、夢があった。ヒターナの、意地が・・
あった。・・・
しかし、あの人が、あたいを誘った。あの人の目が、あたいに届いた。それは、あたいへの思いよ・・
りもはっきりと見えた。あの人の悲しい瞳が、あたいを誘って放さなかった。・・・
それは、あたいたちが持って生まれた十字架だった。あ・フ人は、その十字架を背負い続けていた。・・
あの人が、あの人の意志で背負っていた。あたいには見えた。あの人は、十字架に縛られていた。ヒ・・
ターノ、ジプシー…。あの人は、重い十字架を背負い続けていた。あの人の意志で、それを背負い続・・
けていた。・・・
それが、あたいの何かに火を点けた。あの人が、あたいを誘った。重い十字架が、忘れていたあた・・
いの背にも乗った。悲しさが背に乗った。惨めさが背に乗った。そして、あの人が背に乗った。・・・
あの人は、その十字架をあたいに運んできた。何て人なの…。あたいは、・の人を憎んだ。あの人・・
を恨んだ。あたいは、セビーリアを離れた。・・・
忘れていた十字架が、あたいを締め付けた。でも、あたいは、あの人みたいに弱くなかった。あた・・
いは、あたいを愛していた。誰よりも愛していた。あたいの十字架は、あたいの一部となった。そう・・
なの、村にいたときのように、その十字架は、あたいの一部となった。・・・
フラメンコ…。ジプシーの舞いよ…。そう、ジプシーが育て上げた芸術なのよ。ジプシーの誇りな・・
のよ…。・・・
あたいのその十字架は、あたいの踊りを、更に情熱的にした。あ・スいはジプシー。ジプシーの血は、・・
誰よりも濃いわ。あたいの踊りは、熱い血で真赤になったわ。・・・
あの人なんか、愛していなかった。そうなの、あたいは、目覚めた。あの人なんか、愛していな・・
かった。・・・
・・・
ものすごい頭痛だった。ベッドから出られなかった。頭が割れるかと思った。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
でも、それも収まった。朝が来たから、それが収まった。そう、朝が来たから…。あの音が、再び・・
わたしに戻ってきていた。・・・
昨夜の切なさが消えていた。でも、あの激しさは・ノ残っていた。わたしは、しばらくその音を静・・
かに聞き入っていた。やっぱり、いい音だった。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
今日は、ルージュをひいていこう。わたしは、女になっていく。わたしの音が、それを望んでいる。・・
わたしは、女になっていく。妖しい女、そして、艶かしい女になっていく。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
いい音よ。その音…。・・・
・・・
今生のぼくに、朝が来ていた。学校へは、行きたくなかった。しかし、ぼくにも、意地があった。・・
いじめられたくらいで、学校・xみたくなかった。なぜか、変な意地があった。ぼくは、仕方なく朝・・
食のテーブルに向かっていた。・・・
親父が、ぼくを待っていた。ぼくは、テーブルに座った。おはよう…。今日は、それを忘れなかっ・・
た。・・・
母もいた。二日続きの四人そろった朝食って、いつ以来だろうか。考えても、思い出せなかった。・・
何だか、少しだけ嬉しくなっていた。・・・
死ぬことは決めた。それまでに、すべきことも決めた。ぼくは、親父に微笑んだ。わざと明るく振・・
る舞った。ぼくの心を、見られたくなかった。妹が、ぼくの笑顔を訝し・ーに横目で見ていた。・・・
「今度の学校は、野球が強いそうだな…」・・・
それとなく親父は、ぼくを探っているようだった。対話だ。親と子の対話。親父は、そのことを、・・
遅まきながらも気付いたのかな。いや、気付いたと言うよりも、その義務を、思い出したのかな…。・・・
しかし、それは遅すぎるよ…。ぼくは、わざと元気に笑った。強いよ。甲子園に、あと一歩だって。・・
去年の夏の大会では、決勝まで行ったんだって…。ぼくは、いつもより大きな声で言った。対話。対・・
話がどうしたって言うんだよ。ぼくは、心を閉じていた・B親父に、ぼくの本当の心は見えるはずがな・・
かった。・・・
会話は弾まなかった。そのはずだ。急に、変わったことをしても無理だよ。親父の努力だけは、認・・
めてあげるよ。ぼくは、親父に片手を上げて席を立った。微笑みも忘れなかった。・・・
「行って来ます…」・・・
親父も、片手を上げていた。微笑みも、忘れていなかった。・・・
・・・
今日も、ぼくは揺れ続けていた。授業どころじゃなかった。ぼくは、死に揺れ続けていた。・・・
それは、もう止まらなくなっていた。ぼくは、決意した。その決行の日も、決めた。それ・ヘ、衝動・・
ではないよ。決して、衝動ではないよ。ぼくは、ぼくのすべてで検討した。ぼくのすべてで、決めた・・
ことなんだ。ぼくは、決意していた。その決行日も、決めていた。・・・
原田には、金を渡して置いた。それも、朝一番に渡した。念のため、ヒロミの分は隠しておいた。・・
ぼくの揺れるのを邪魔されたくなかったから、朝一番にそうしておいた。こんなことも、もう少しの・・
辛抱だ。ぼくは、自分でそう納得していた。こうすれば、殴られることはない。ぼくは、そう思って・・
いた。しかし、それは、ぼく一人の思いだった。・・」・
昼休みに殴られた。ぼくは、カルメンの思いに浸っていたんだ。原田の呼びかけが聞こえなかった・・
んだ。トイレで殴られた。吉村に蹴られた。・・・
不思議と涙は出なかった。でも、泣いた振りをした。慣れだと、思われたくなかった。ぼくは、泣・・
いた振りをした。・・・
自分が、嫌で嫌でたまらなかった。まだ、自然と泣いた方がよかった。泣いた振りなんて、最低・・
だった。最低の自分に、腹が立って仕方なかった。・・・
だから、いじめられるんだ。自分でも、そう思った。ぼくは、ぼくが嫌いだった。自分の嫌いな奴・・
が、他人に好かれるはずがない。当然のことだ。ぼくは、ぼくが益々嫌いになった。ぼくなんか、生・・
まれてこなければよかったんだ!・・・
自分のことを思うのは止めにした。昼からも、ぼくは揺れた。今度は、カルメンに揺れた。ぼくは、・・
前世のおれを好きになれるだろうかと考えていた。・・・
・・・
おれは、カルメンをぶった。カルメンは壁にとんだ。口から血を流していた。・・・
ぼくの前世の悲劇を、思い起こしていた。それは、とんだ悲劇だったようだ。その悲劇は、その過・・
去が少し古いので、一気にはぼくに昇ってこ・ネかった。ぼくは、ゆっくりと記憶をめくっていった。・・
しかし、カルメンの姿だけは、はっきりと浮かんでいた。・・・
「生まれてこなければよかったんだ! こんなおれなんか!」・・・
何度も、そう叫んでいた。・・・
カルメンの部屋だった。ぼく、いや、おれが、カルメンの舞台をぶち壊した夜のことだった。カル・・
メンが、おれを部屋に運んでくれた。太い腕の奴等に痛み付けられた傷の手当までしてくれていた。・・
カルメンの部屋は始めてだった。何もない部屋だった。・・・
カルメンが、壁から立ち上がった。冷ややかに醒め・ス目が、おれに向いていた。カルメンが、おれ・・
を罵った。マルコのパンチが、おれを襲った。当たり前だ、おれは、カルメンをぶったのだから。マ・・
ルコのパンチは、舞台でのときと同じように強烈だった。おれも、壁にとんだ。・・・
その時、おれは異常だった。興奮の絶頂にあった。おれは、まったく前後の見境がなくなっていた。・・
カルメン! おれと一緒に死んでくれ! そんなことを口走っていた。・・・
おれはキッチンに走った。キッチンにナイフがあるはずだった。・・・
「ヒターノのどこが悪い! どいつもこいつもバカにし・竄ェって、ヒターノだって同じ人間だ!」・・・
おれは、異常だった。神経のすべてが、痙攣して切れそうだった。・・・
・・・
そうよ、あの人なんか、愛していなかった。でも、どうして、あの人なんかを追ったの…。・・・
あの闇で、あの人に取り残された。あの人は、進んで行ったわ。光へ道へ、進んで行ったわ。あた・・
いは恨んだ。あたいは憎んだ。あの人に、罵声を浴びせようと思った。あの人を、思いきりひっぱた・・
いてやりたかった。だから、あたいも光の道へ戻った。あの人の消えた方に進んだら、それがあった・・
から。・・」・
あの人は、消えようとしていた。あたいは、あの人に縋った。本当は、心細かったの。そして、そ・・
の時、あの人しかいなかった。あの人しか、頼れるものはなかったの。・・・
そこは、懐かしい風が吹いていた。地上の風に似ていた。あたいは、あの人が消えていこうとする・・
のを無理に引っ張った。意識のすべてをあの人に向け、思いのすべてをあの人に向けた。・・・
今思うと、そこは、新しい生命の宿るところだった。新しい存在の形にと、生まれ変わるところ・・
だった。だから、地上の風を感じたの。あたいは、あの人を放さな・ゥった。ありとあらゆる罵声を、・・
あの人に投げた。知っている怒りの言葉のすべてを、あの人にぶつけた。でも、あの人は振り返らな・・
かった。新しい生命へと、懸命に向かっていた。・・・
悔しかった。あの人への憎しみが、あの人への愛へと変化していた。あたいには、あの人しかいな・・
い。その時は、そうだった。自分のその変化が、悔しくって仕方なかった。・・・
愛した。あたいは、愛した。その時は、愛した。その愛は、本当だと思っていた。あたいは、あた・・
いのすべてで、あの人を愛した。・・・
その思いが、届いたわ・Bあの人へと届いたの。あの人は、あたいを振り返った。そして、あたいに・・
囁いた。一緒に行こう…。・・・
それが、あたいを、ここまで運んだのよ。あの時、愛だと思っていたものが、あたいを、ここまで・・
歩ませることとなったの。あたいは、あの人の言葉にしたがった。あの人は、その闇を消えた。あた・・
いも、その後に続いた。・・・
きっと、その道は、母の羊水へと繋がっていたのね。いいや、父の体内へと、続いていたのね。あ・・
たいは、そこで気を失った。あの人が側にいるのだけは分かっていた。・・・
そうなの、あた・「は恋する女。あの人を追って、ここまで来た。その時は、本当に愛したの。・・・
あの人が、感じられる。新しいあたいのなかで、あたいは、あの人を感じる。教えてあげる、新し・・
いあたい。あの人は、側にいるよ。新しいあたいの側にいるよ。だって…。あたいは、あの人を追っ・・
たのだもの。そして、今も、あの人を追っているのだもの…。・・・
側にいるのよ、あの人は、側にいるのよ。分かるでしょう、新しいあたい…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
分かるでしょう、新しいあたい…。・・・
・・・
昨日と同・カ場所と時間。ぼくは、向かっていた。体育館の裏に、向かっていた。原田や吉村に見つ・・
からないように歩いた。ヒロミが待っている。ぼくは、隠しておいた内ポケットの金を、ズボンのポ・・
ケットに移した。・・・
ヒロミは、恐ろしい目でぼくに言った。昨日のことは許してあげる。でも、今日は、そういかない・・
わよ!・・・
やっぱり、カルメンに重なった。ヒロミも、カルメンのように激しい女だった。・・・
もう少しだった。ぼくは、そう自分に言い聞かした。鉄の決意もした。決行の日も決めた。もう少・・
しだ。こんなことも・Aぼくが死ぬまでの辛抱だ。もう少しの辛抱なんだ。・・・
生きていくことが、こんなに難しいとは思わなかった。みんな、その難しいことを平気でやってい・・
る。ぼくには不思議だよ。そんな難しいこと、そんな大変なこと、よくやるよみんな…。ぼくには、・・
出来ないよ。本当に、難しいことだよ、生きていくっことは…。・・・
死ねば、本当の自分になれる気がしていた。何の支えも取れて、自由になれると思っていた。そし・・
て、桜色に透明になる自分を想像していた。美しく透明になっている自分を思えた。・・・
木枯らしが、ぼく・ノ吹いた。体育館の裏は、昨日と同じに寒かった。銀杏の揺れも同じだった。ぼ・・
くに、緊張が襲った。それも、昨日と同じだった。ヒロミは、まだ来ていなかった。ぼくは、銀杏の・・
木の下に立った。・・・
カルメンのことは、思わないようにした。昨日のようなことは、もうごめんだ。ぼくは、ヒロミを・・
思った。切れ長の目が、綺麗な女の子なんだ。あんなに突っ張らなければ、いい子なんだ。綺麗な子・・
なんだ。美人なんだよ。カルメンと一緒さ。ぼくは、木の下で木枯らしと戯れていた。・・・
随分と待った。来ないかも知れないと・A思い始めていた。それだっら嬉しいんだけど…。緊張が、・・
少し弛んでいた。ぼくは、いつの間にかカルメンを思い出していた。緊張が、弛んだせいだった。そ・・
れを、止めようとも思わなくなっていた。・・・
カルメンは、あの時、おれを罵った。汚い言葉で、おれを罵った。醒めた瞳で、おれを蔑んだ。あ・・
の目は忘れない。あの時、おれはそう思った。あの時のカルメンの目は、絶対に忘れない。そう思っ・・
た。・・・
忘れてはいなかったよ。あの時のカルメンの目が、今のぼくの意識に昇った。光のない目だった。・・
あの時のぼ・ュを、いや、おれを、モノにしか見ていない目だった。血の通った目ではなかった。冷た・・
い氷のような目だった。・・・
現在と過去が交差した。ぼくは、その両方に揺れた。・・・
カルメン、そんな目でおれを見るな! バカにするな! おれは、そのカルメンの目を見ると、い・・
たたまれなくなった。おれは、狂ったように興奮してしまった。カルメン! おれと一緒に死んでく・・
れ! おれは、そんなカルメンでも愛していた。おれと一緒に死んでくれ! おれには、カルメンし・・
かいなかった。・・・
「ぼうや、ごめんねー、遅くな・チちゃって…」・・・
何がぼうやだ。バカにしやがって! 我に返った。今日は正常だった。ぼくは、声に振り返った。・・
ヒロミが、堂々と立っていた。・・・
「ぼうや、ごめんね…」・・・
ヒロミが笑っていた。優しい笑みだった。・・・
「ぼうや、遊ぼう…」・・・
ぼくの心臓が、ぼくの喉から飛び出しそうになった。軽い目眩がした。一瞬に、顔から火の粉が飛・・
び散りそうになった。思考が、突然、急速に、急激に、猛スピードで、軋んでいった。・・・
ヒロミが、ぼくの肩に触れたんだ。肩から胸に、ヒロミの手が、ゆっくりと・コりてきたんだ。カル・・
メンが、よく悪戯にしたことなんだ。子供だったぼくを、いや、おれに、よくしたことなんだ。・・・
「ぼうや、いい子ね。あたいが遊んであげる…」・・・
ヒロミは、笑っていた。妖しく艶かしく、笑っていた。あの頃のカルメンのように、笑っていた。・・・
「あ、いや…」・・・
ぼくは答えた。答えになっていなかった。・・・
「ぼうや、あたいこと嫌い?」・・・
ぼくの顔から、本当に火の粉が飛び散っていくようだった。ヒロミの手が、ぼくの腹にまで下がっ・・
た。淫らな思いが、ぼくに浮かんだ。・・・
「遊びましょう…」・・・
ヒロミの手は、止まらなかった。そのまま、ぼくの下腹部へと下りてきた。柔らかに柔らかに下り・・
てきた。・・・
美しかった。ぼくは、そんなヒロミを美しいと思った。甘えてみたくなった。ヒロミの、その胸の・・
なかで甘えてみたくなった。カルメンのように…。そう、カルメンに甘えたように…。・・・
ヒロミの匂いを感じた。ものすごく側に感じた。涙が、溢れそうになった。・・・
甘えたかったんだ。昔のように、甘えたかったんだ。カルメンに甘えたみたいに、甘えたかったん・・
だ。・・・
ヒ・鴻~が天女に見えた。聖母に思えた。あの時と同じだった。カフェ・デ・パコ。おれが、殴られ・・
夜。おれ、カルメンに甘えたよなぁ。カルメンの胸で甘えたよなぁ…。あの時も、そう思った。君が・・
天女に見えた。聖母に思えた。・・・
ヒロミを見た。視界が、涙で少し霞んでいた。少しの光が、ヒロミの目から、ぼくの目へと流れ込・・
んでくるように思えた。その光が、ぼくを誘った。妖しい光が、ぼくを誘ったんだ。・・・
「アー…」・・・
抑えが効かなかった。後先のことが、まったく、ぼくの頭からなくなっていた。・・・
「あー…・v・・・
ぼくは、ヒロミの胸に顔を埋めた。堪えていた涙が、その時、同時にこぼれた。・・・
柔らかかった。ヒロミは、柔らかかった。ぼくは、溶けていきそうだった。本当に溶けるものなら、・・
このまま溶けてしまいたかった。・・・
暖かかった。ヒロミは、暖かかった。ぼくは甘えた。顔を深く沈めた。ヒロミの、胸の鼓動が聞こ・・
えていた。・・・
このまま、こうしていたかった。時が、止まって欲しかった。ぼくは、両手をヒロミの背へ回した。・・
再び、現在と過去が交差した。カルメンとヒロミが交差した。・・・
両腕に・ヘを入れた。カルメン! ヒロミ! ぼくは、心の中で交互にそう叫んでいた。・・・
・・・
「ジン、ジン…!」・・・
どうしたの。いったいどうしたのよ…。新しいあたいが揺れている。いつものリズムじゃないよ。・・
どうしたの…。・・・
激しすぎるわよ。激しい揺れよ。それは、女の揺れなの? この激しい揺れは、女の揺れなの?・・・
「ジン、ジン…!」・・・
あたいも知っている。その揺れを知っている。あたいにも、経験あるわ。・・・
あの人をぶった時。カフェ・デ・パコの裏口で、あの人をぶった時。そう、あの時と同じ・謔、な揺・・
れ。あたいが、激しく歪んだ時の揺れ。・・・
「ジン、ジン…!」・・・
恋なの? 嫉妬なの? 恋と嫉妬は裏表。それとも、憎しみなの?・・・
新しいあたいが、女を感じている。そりゃ分かるわ。あたいだって、女だった。恋多き女だった。・・・
「ジン、ジン…!」・・・
そうよ、もっと揺れるのよ。もっともっと揺れて、女になるの。そして、恋をするの。・・・
そうだったわね、新しいあたいも、激しい女だったんだ。これから、激しい恋をするんだ。あたい、・・
嬉しいよ。とっても、嬉しいよ…。・・・
「ジン、・Wン…!」・・・
もっと揺れるのよ…。もっともっと、揺れるのよ…。・・・
・・・
「いつまで甘えているのよ、ぼうや。バカにするんじゃないよ!」・・・
カルメン? カルメンが、何か言っている。・・・
「バカにするんじゃないよ!」・・・
いや、ヒロミだ。ヒロミが、何かを言っている。・・・
「なめるんじゃないよ! ぼうや!」・・・
ヒロミだ。カルメンじゃない。ヒロミだ。何を言っているんだろう。・・・
「早く、金だしな!」・・・
我に帰るのが、巧くいかなかった。甘酸っぱい思いに、深く入りすぎていたようだ。・レくは、巧く・・
我に帰れなかった。・・・
「ぼうや! 早く、金を出しな!」・・・
ヒロミの平手を、三発喰らった。また、自分が大嫌いになった。ぼくは、ポケットから金を出した。・・
ヒロミの顔は、見られなかった。・・・
ヒロミが、ぼくから遠ざかった。ぼくは、駅に急いだ。途中で、妹の姿が見えた。パコのギターが・・
聞きたくなった。ぼくは、妹の後ろから、駅へのホームの階段を上がった。・・・
・・・
(8)・・・
・・・
「どうして、こんな所まで来てしまったんだろう…」・・・
あの人が、あたいに言った・Bあたいは、答えた。・・・
「あたいは、あんたを追ってきた…」・・・
そうしたら、あの人が言った。・・・
「なぜ、おれなんかを追ってきた…」・・・
あたいは、答えた。・・・
「そんなの分からない…」・・・
そうよ、そうなの…。あたいは、とうとう、あの人に追いついたの。あの人の意識が、あたいに感・・
じられるようになった。あたいは、激しい女。とうとう、あの人に追いついたの…。・・・
だから、思い切ってあの人に触れた。あの人は、新しいあの人のなかにいた。・・・
不思議と、恨みごとも愛の言葉も浮かんでこ・ネかった。あんなに愛したのに…。あんなに憎んだの・・
に…。どうしてだろう…。・・・
「どうして、こんな所まで来てしまったんだろう…」・・・
もう一度、あの人が言った。あの人は、まだ、よく分かっていないみたい。何か虚ろな意識を、あ・・
たいにゆらゆら向けていた。・・・
あたいは、新しいあたいのなかで、あの人を感じた。あの人は、目覚めていなかった。微睡んでい・・
た。そんな風に感じた。そうなのよ、あの人は微睡んでいるの。あたいのことが、まだ見えていない。・・
だから、あたいがあの人に声をかけても、よく分か・チていないことしか返ってこないの。・・・
「どうして、こんな所まで来てしまったんだろう…」・・・
そのことばっかり言っていた。あの人は、微睡みにあった。・・・
しばらく、言葉なしで漂った。いい心地だった。あの人を感じながら漂った。いい心地だった。二・・
人とも、透明に揺れていた。・・・
その間に、あの人が、少しずつ微睡みから抜けていた。あの人の揺れが、激しくなっていった。・・・
「でも、もう一度死ぬんだ。死へ向かうんだ…」・・・
そんなことを言った。あたいには、訳が分からなかった。でも、静かに聞いた・Bあの人は続けた。・・・
「死へ向かうんだ。おれは、もう一度、死へ向かうんだ」・・・
そんなの嫌だった。やっとの思いで、あんたに追いついたのよ。そんなの嫌よ。もう一度、死へ向・・
かう。バカなこと言わないで…。・・・
「死へ向かうんだ。お前も来ないか…」・・・
そんなこと言わないで、昔のように、あたいを抱いて。あたいは、叫んでいた。あの闇で抱いてく・・
れたように、あんたのすべてで、あたいを抱いて…。・・・
まだまだ、あの人の目覚めは浅かった。あたいを愛していたことを、あの人は、思い出していない・・
・謔、だった。・・・
「いいよ、あたいはあんたと一緒に行く…」・・・
思いとは、違うことを言っていた。早く、あの人に、目覚めて欲しかった。・・・
「いいよ…。でも、その前に、あたいを抱いて。強く強く抱いて。あんたと一つだった、あの時のよ・・
うに…」・・・
思いだけでは、伝わらないかも知れないと思った。あたいたちの会話は、思いを伝えるだけだった。・・
言葉ではなかった。・・・
だから、あたいは言った。一つ一つの思いを、単語にした。一つ一つの思いだけでなく、それを一・・
つ一つ単語に変えて、あの人に送った・B・・・
それが、あの人の目覚めを早めていった。あの人の揺れが、益々激しくなった。もう、微睡みの状・・
態ではなかった。・・・
「もう少し待ってくれ…。おれは、まだ、完全に目覚めていない。すべてが、おれに甦ってこない・・
…」・・・
そう言って、あの人は消えた。あたいの意識の前から、ゆっくりと消えた。・・・
再会は、それだけだった。あの人は、桜色に透明だった。あたいの、今の姿を聞こうとしたけれど、・・
その時には、もうあの人はいなかった。・・・
また会おうとは、あの人もあたいも言わなかった。二人とも・Aまた会うのは当然と思っていた。・・・
やっぱり、あの人は、あたいの側にいた。あたいは、嬉しかった。桜色のあの人が、あたいの意識・・
に残った。野暮ったいあの人じゃなかった。美しいあの人だった。・・・
・・・
また、部屋で悶々としていた。情けなくて、仕方なかった。自分への嫌悪が、自分より大きくなっ・・
ていくようだった。・・・
だから、前世に揺れていた。今の自分から、少しでも離れていたかった。・・・
その前世は、ぼくのすぐ側にあった。次々に、それが甦っていた。ぼくは、それを拒みはしなかっ・・
た。い・竅A拒むことなど思いのなかになかった。・・・
死ぬまでに、ぼくの前世のすべてを、知りたかったんだ…。ぼくのすべてを、思い出したかったん・・
だ…。いや、すべてを、思い出す積もりだったんだ…。ぼくは、目を閉じた。・・・
しばらくすると、カルメンが、ぼくの意識に見えた。・・・
・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
あたいが、新しいあたいと一緒になるときが来たよ。あたいは、完全に目覚めた。あの人にも再会・・
した。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
そして、新しいあたいも、あたいを認めて・ュれるのね。あたいたちは一つになる。あたいは、新し・・
いあたいのなかに、受け入れられるの。待っていたのよ。この時を、待っていたのよ。・・・
新しいあたいのことも、知ったわよ…。結構、苦労しているじゃない。新しいあたいの過去が、あ・・
たいにも感じられた。新しいあたいを、あたいは、はっきりと感じた。あたいの過去と、新しいあた・・
いの過去が一つになった。あたいの今と、新しいあたいの今が、一つになった。あたいは、新しいあ・・
たいのなかの一部となっていく。あたいという存在は、新しいあたいのなかに溶けていく。・「い心地・・
よ。踊りたくなってきたわ。・・・
お互いに、知ったわね。お互いの過去を…。お互いの思いを…。お互いの今を…。あたいは、これ・・
から新しいあたいの一部。新しいあたいとの区別が曖昧になっていた。これでいいのね。これで、あ・・
たいは、新しいあたいのなかに消えるの。そうよ、消えていくの。これからは、あたいになるの。新・・
しいあたいでなくって、今の、あたいになるの。今の、わたしになるの。いいや、あたいに戻ったの。・・
わたしに戻ったの。・・・
だから、しなければいけないことがあるの…。そうよ、・オなければいけないことがあるの…。・・・
あたいは、わたしのなかを揺すった。あたいは、本当のわたしに戻った。それは、新しいあたいの・・
前世の過去をも引きずった、新しいあたい。新しいあたいの前世。そう、あたいのこと。踊り子だっ・・
た前世。その前世を、新しいあたいのなかに甦らせたのよ。・・・
だから、しなければいけないことがあるの…。そうよ、しなければいけないことがあるの…。・・・
あたいは、変わっていく。新しいあたいは、変わっていく。現在のわたしだけでなく、前世のあた・・
いも甦ったんだ。わたしは、・ュくなるのよ。そして、あたいも、強くなる。過去のあたいが、わたし・・
のなかにいるんだもの。前世のあたいと、今生のわたしが手を繋いだんだもの、強くなって当然よ。・・
あたいは、わたしになった。一つになった。あたいと新しいあたいが、一つになった。あたいとわた・・
しが、一つになった。・・・
だから、しなければいけないことがあるの…。わたしには、しなければいけないことがあるの…。・・・
前世のあたいが、それを知らせてくれた。わたしには、しなければいけないことがあるの…。・・・
あの人が、側にいる。あの人の・スめに、わたしは動き出すわ。あたいだけでは、出来なかったこと・・
よ。そう、あたいだけでは、出来なかったの。あたいだけでは、あの人に近付けなかった。しかし、・・
今のわたしには、それが出来る。そして、あの人は、わたしの側にいる。・・・
あの人も、過去をそのまま新しいあの人へ甦らせている。わたしにも、それが分かった。わたしの・・
なかのあたいの部分が、それを感じた。あの人にも、あの人の前世の部分が脈打っている。わたしに・・
は、それが分かった。・・・
すべて、分かっていくわ。面白い程よ…。わたしは、二つの・l生を引きずっている。どちらが、ど・・
ちらか分からなくなっている。それが、本当のわたし。それが、本当のあたい。過去と現実に揺れる。・・
それが、本当のわたし。それが、本当のあたい。あの人も、そうなのよ。あの人も、二つの思いを抱・・
いている。そして、その二つが、揺れ合って結び付こうとしているのよ。・・・
そうよ、あの人も、目覚めたのよ。わたしのあたいの部分に、あの人の過去の部分が響いて届いた。・・
わたしたちの二つの過去の部分が、お互いを感じとっている。間違いない。わたしのあたいの部分は、・・
間違いな・ュあの人のなかで、目覚めた過去のあの人が感じている。・・・
あの人に、もっと近付きたい。わたしのあたいの部分だ。わたしのなかのあたいが、それを望んで・・
いる。だから、わたしは、あの人に近付くの。いや、既に近付いていた。そして、わたしのあたいと、・・
あの人の過去も、既に再会している。・・・
それに、わたし、しなければいけないことがあるの…。あたい、しなければいけないことがあるの・・
…。・・・
あの人は、今のあの人は、死へ向かっているようなの。それは、わたしのあたいの部分が教えてく・・
れた。わたし・フなかのあたいは、あの人の、そんな所まで感じられるようになっているの。あの人は、・・
死のうとしている。助けがいるのよ。わたしの、助けがいるのよ…。あたいの、助けがいるのよ…。・・・
わたしは、強くなったわ…。そして、あたいも、強いわ…。あの人ぐらい、助けてあげられる。あ・・
の人は、弱かったわ。そして、今のあの人も、弱いみたい。だから、わたしのなかのあたいが、わた・・
しをせき立てるの。あの人を、助けてあげなければ…。・・・
わたしの思いは、形となっていた。愛と憎悪が、大きく膨らんでいた。あの人のため・セった。あの・・
人のためだった。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
わたしとあたいの音か、ゆっくりと、同じ音で揺れている。嬉しいよ…。・・・
・・・
キッチンに、ナイフはあった。おれは、それをカルメンに向けた。切り先が、異常な程光っていた。・・
おれの目が、その切り先に映っているようだった。・・・
マルコが、おれの前に立った。おれは、マルコに言った。・・・
「カルメンと、死なせてくれ。生きていくことが、嫌になった。生きていくことが、こんなに難しい・・
ことだと思わなかった。死なせてくれ、カ・泣<唐ニ、死なせてくれ!」・・・
マルコは笑った。これ以上、大きな声は出せないくらいの笑い声だった。おれは、呆気にとられた。・・
マルコが、異常に見えた。おれの異常さを、棚に上げていた。・・・
「笑うな! 何がおかしいんだよ!」・・・
おれは、マルコに詰め寄った。マルコに、ナイフを向けた。・・・
「そうさ、生きていくこと難しいぜ。そんなこと、今気付いたのか。笑わせるな…」・・・
そう言って、マルコは笑い続けた。おれの目を見て、笑い続けた。おれは、その笑いが悪魔のよう・・
に思えた。悪魔が、おれをあざけ・闖ホっているように思えた。・・・
「生きていくのは難しい。でも、生きていかなきゃならん。それが人間だ!」・・・
マルコの迫力に、おれは後ずさった。どこにそんなパワーがあるかと思われる程の大きな声だった。・・
マルコは、おれに詰め寄った。おれの手から、ナイフを奪う積もりのようだった。・・・
「ジプシーもヒターノも生きていく。街の人間だって生きている。それが我々の義務だ。難しかろう・・
が、辛かろうが生きていく。仕方ないのさ。こんな世の中に生まれたことを恨め!」・・・
マルコの叫びは続いた。おれは、聞くしか・ネかった。手にしたナイフを、後ろに隠した。・・・
「わしらは、差別されて生きてきた。それを、とやかく言うことはせん。しかし、お前は、そのこと・・
に逃げ場を見付けているのじゃ。何もかも、そのせいにする。そうすれば、自分は救われる。悪いの・・
は他人だ。お前は、そうして生きている。だから、生きることを余計に難しくしている。何もかも受・・
け入れろ!」・・・
マルコの目は、異様な光を帯びていた。暗がりの宝石のように見えた。おれの興奮が、少し収まっ・・
ていた。・・・
「生きていくことは難しい。しかし、自分を好・ォになるのは容易いことだ。誰にだって出来る。何も・・
かも受け入れるのだ。それが、自分だ。その自分を、好きになるんだ」・・・
マルコの言うことが、分からなかった。カルメンが、マルコの肩に手を乗せていた。嫉妬が、おれ・・
を揺らした。・・・
「好きになれるわけがない。バカなことを言うな!」・・・
おれは、叫んだ。マルコの肩のカルメンの手に、叫んだ。マルコは続けた。・・・
「それじゃ、自分を好きになれない自分を好きになれ。それでもダメだったら、その自分を好きにな・・
れ。そして、それでもダメだったら、そのダ・≠ネその自分を好きになれ。みんな、そうして生きてい・・
る。神は、決して不公平なことはしない。自分を恵まれないと感じる者は、それだけ、自分と向かい・・
合う機会が多くなる。自分を見つめ直し、自分を好きになることの機会が多いのだ。生きていくこと・・
は難しい。しかし、そのように、自分を好きになることは容易くできる。そうすれば、もう少し、生・・
きていくことも容易くなっていくのだ。肩の力を抜くんだ」・・・
何を言っているのだマルコは。そんな説教、聞きたくない。どいつもこいつも、バカにしやがって・・
…。・・・
「お前は、差別という場に逃げている。それは、楽かも知れん。そうすれば、すべて、人のせいに出・・
来る。すべて、他人が悪いことになる。しかし、それでは、益々生きていくことが難しくなる。その・・
逃げ場を、変えることだ。自分に逃げればいいんだ。誰だって、避難する場所はいるんだ。自分に逃・・
げればいいんだ。そして、自分に逃げた自分を好きになればいいんだ」・・・
何となく、分かるような気がした。しかし、それは、マルコやカルメンのことであって、おれには、・・
当てはまらないのだ。おれは、そんなに強くない。そして・A自分が、やるせない程嫌いだった。とう・・
てい、自分を、好きになれるはずがない。そんなこと、どっかの教会で言えばいい。おれには、理解・・
出来ないことだった。・・・
カルメンが、何度も頷いていた。それが、おれの異常さを、取り戻すこととなった。腸が煮えくり・・
がえる程、腹が立った。・・・
ただ、おれは、死にたかっただけだ。おれなんか、生きていても仕方なかった。・・・
おれが、異常になっていた。おれのなかに、野獣の魂が雄叫びをあげていくようだった。・・・
「バカヤロー!」・・・
抑えられなかった。異・墲ネおれに、異常なおれを抑えられるはずがなかった。・・・
「バカヤロー!」・・・
おれは、マルコにぶち当たった。手にしたナイフを、しっかりと握りしめ、マルコの腹に突き刺し・・
た。・・・
「ウワー!」・・・
刺されたマルコより、刺したおれの方が、先に叫んでいた。恐怖が、おれを包んだ。野獣の雄叫び・・
が、野兎の恐怖にすり変わっていた。・・・
「ウッ!」・・・
マルコが、膝を折った。目の光が、一瞬に消えた。マルコはそのまま、おれの足元へ倒れた。おれ・・
の全身が震えた。そんな積もりじゃなかったんだよ…。・iイフが、こんなにも簡単に深く入るとは思・・
わなかったんだよ…。おれも、膝を折った。恐ろしさに、失禁していた。・・・
カルメンが泣き叫び、マルコの側に寄った。おれに、ありとあらゆる罵声を投げつけていた。・・・
・・・
「ウオー!」・・・
ぼくは、飛び上がった。あー、なんてバカなんだ。あー、なんてバカなんだ!・・・
「ウオー!」・・・
パコのギターが聞こえていた。再び、驚いた。マルコが、側にいると思った。・・・
全身が、汗で濡れていた。ぼくは、マルコを刺した。あー、何ということだ。ぼくは、殺人者だっ・」・
た。・・・
脳裏を、黒い影が覆った。ぼくは、頭を抱えた。異常な程、頭が痛かった。背中に、寒さでない震・・
えが走った。失禁はしなかったが、息が苦しく目から涙が落ちた。ぼくは、脅えていた。ぼくは、マ・・
ルコを刺した。あの手応えなら、マルコは死んだだろう。ぼくには、そう思えた。ぼくの手に、その・・
感触が甦っていた。・・・
バカだった。前世も、バカだった。前世も今生も、バカだった。バカヤロー!・・・
その先を知るのが怖かった。ぼくは、部屋を出た。とにかく走った。何もかも忘れたかった。・・・
ぼく・ヘ走った。ぼくの住む街に、いつものような闇が訪れようとしていた。・・・
・・・
キッチンに、ナイフがあるはずだ。わたしは、台所へ歩いた。母はいない。もう眠ったよう。わた・・
しは、ナイフを手に持った。・・・
憎悪。そうよ、憎悪よ。女は、不思議な生き物。愛だって、瞬間に憎悪に変わる。そして、その憎・・
悪は、素早く殺意を誘い込むの…。・・・
わたしは、今、その憎悪が渦巻いている。わたしのなかのあたいの部分を中心に、その憎悪が激し・・
い程渦巻いている。鋭い殺意を抱いて、わたしは、その憎悪に揺れていた。・・」・
行動するときが、来たのよ。わたしは動き出す。あの人のため。そう、あの人のため…。・・・
わたしは、異常だった。わたしは、それが分かっていた。しかし、それを、止めることなど出来な・・
かった。いや、それを、止めようなどとは思わなかった。わたしは、わたしの異常さを受け入れてい・・
た。わたしのなかにも、そんな激しい部分があるということを、わたしは、驚きつつも喜んでいた。・・
不思議な喜びだった。わたしは、強くなっていた。わたしは、激しくなっていた。・・・
そうよ、激しく生きていくの。女は、激しいもの・ネの。あたいが、教えてくれたの。わたしのなか・・
に目覚めたあたいが、それを、教えてくれたの。わたしは、あたいと共に行動に移す。わたしの憎悪・・
が、激しくわたしをせき立てるのよ。・・・
ナイフが、こんなにも軽いものだとは思わなかった。・・・
・・・
次の日の朝食も、親子四人水入らずだった。親父も、おふくろも、どうしたんだろう、かなり、無・・
理してるんじゃないだろうか。どうでもよかったが、少し心配になった。・・・
昨夜のことは、忘れるように努めた。せめて、家族が揃った時くらいは、忘れようと努めた。・・」・
「神太、お前、何か悩んでいるだろう。父さんに言ってごらん」・・・
ぼくは、危うくむせるところだった。喉にトーストがつっかえ、慌ててミルクで飲み干した。・・・
「父さんには分かる、親子だから。お前、何を悩んでいる。言ってごらん」・・・
ぼくは死ぬよ…。そんなこと言ったら、親父は、どんな顔をするだろう。ぼくは、おかしくなった。・・
何が親子だ。今まで、何をしてくれたと言うんだ。転勤転勤で、ぼくや妹を、ジプシーのようにして・・
おきながら…。親父には、何も分からないよ…。・・・
「お兄ちゃん、やっぱり、・€のうなんて思っているんじゃない?」・・・
唐突に、美佳が言った。よく考えていない発言だ。ぼくは妹を見た。目が、笑っていなかった。・・・
「バカなことを言いなさんな!」・・・
おふくろが、また怒った。親父の方を、不安げにちらちらと見ていた。・・・
「神太。何があったんだ。学校か、それともこの家庭か」・・・
親父も、妹の言葉に反応した。おふくろの反応とは、随分と異なっていた。親父は、美佳と同じ目・・
をしていた。心配げに、ぼくの両目を交互に見ていた。・・・
「何もないよ…」・・・
そうだよ、ぼくが、自・ェの殻にうずくまっているだけだよ。親父に、何の責任もないよ。親父なり・・
に、頑張ってくれているのは分かっているよ。ぼくが、自分の殻にうずくまっているだけだよ。・・・
やはり、親子なんだなと思った。ぼくの死への思いが、親父に、何かの信号となって伝わったのだ・・
ろう。更に妹が、その信号に色づけしたのだろう。美佳は勘が鋭い。そして、親父は、その美佳の言・・
うことを鵜呑みにする癖がある。親父は、受け取った何かの信号と美佳の言葉で、ぼくの危険さを・・
悟ったようだ。お節介の妹め…。放っておいてくれよ…。・・・
「何もないよ…」・・・
気のない返事だけはしておいた。怒っていたおふくろが、微笑んでいた。ぼくと親父を見て、微笑・・
んでいた。・・・
「お前も、もう一人前だ。将来のことを考える年だ」・・・
親父のネクタイが、曲がっていた。それが、気になりだした。几帳面な親父の、抜けた一面が見え・・
た。ぼくは、それを見て、親父を哀れに思った。仕事だけでなく、こうして家族のことまで責任をと・・
らなければならない。親父の生きているのが、何だかとっても難しいことのように思えた。そんな風・・
になりたくなかった。みんな、・サんな風になるのだろうか。そんな難しいことに、なってしまうのだ・・
ろうか…。・・・
「勉強しろとは言わない。しかし、せめて自分の本当にやりたいことだけは、自分で探せ。その能力・・
だけはしっかりと付けておけ…」・・・
親父は、朝食を終えていた。タバコを吹かし、テーブルに、肘を置いていた。ぼくの方を、真っ直・・
ぐに見ていた。・・・
「いじめられても、挫けるな。嫌なら逃げろ。世の中のみんなそうしている。自分に逃げてしまうの・・
だ…」・・・
何だか、話がややこしくなってきた。おふくろも、妹も、黙っていた・Bぼくは、冷めたミルクを口・・
に当て、親父のネクタイを見ていた。・・・
「辛かったら、自分に逃げろ。自分が逃げるんじゃない。自分に逃げるんだ。どこまでも自分に逃げ・・
れば、そのうちに自分の好きな自分に出会える」・・・
何が言いたいんだ。いつもの親父とは違う。真剣だ。真剣に、ぼくに相対している。・・・
「自分を好きになれ。簡単だ。好きになれなかったら、その、好きになれない自分を好きになれ。学・・
校が嫌だったら、その学校を嫌っている自分を好きになれ。死にたいと思ったら、その死にたいと・・
思っている自分・Dきになれ…」・・・
止めてくれよ、それは、マルコの台詞だぜ。止めてくれよ。ぼくは、マルコをナイフで刺したんだ。・・
今朝の親父、思いっきり変だぜ。・・・
「もし、いじめられている自分を、本当に好きになれたら、いじめられ続けるのがいい。しかし、い・・
じめられる自分が嫌だったら、そのいじめられることを嫌がった自分を好きになれ。もし、勉強の嫌・・
いな自分を、本当に好きになれたら、勉強なんてするな。しかし、勉強の嫌いなことを、少しでも窮・・
屈に感じたら、その窮屈に感じた自分を好きになれ。いいか、自分が、・ゥ分を嫌だと思い続けていれ・・
ば、他人は、絶対にそんな奴を好きにはならない。誰だって、自分が好きなんだ。好きな自分を、自・・
分のなかに逃げ込み、見付けるんだ。どんな醜いやつでも、自分が、好きになれる自分はある」・・・
嘘だろう。何となく分かるんだ。嘘だろう。マルコより、説得力があるんだよ。親父とマルコが、・・
ぼくのなかで交差した。・・・
「学校を辞めたいと思った自分を、本当に、心の底から好きになれたら、その時は、学校を辞めた方・・
がいい。死にたいと思った自分を、本当に好きになったら、その時は、死ん・ナもいい。いや、死んだ・・
方がいい。その方が、自分らしく振る舞える…」・・・
あの時のぼくと、今のぼくの違いだ。ぼくは、親父の話が何となく分かった。ぼくの精神の一部に、・・
それは、少しずつ染み込んでいた。あの時のぼくは、興奮の状態にあった。しかし、今は静かだ。親・・
父の言葉が、大きく聞こえる。親父は続けていた。・・・
「生きていくことは、難しい。誰だって、簡単に生きているようだが、そうじゃない。それは、自分・・
になりきることが、出来ないからだ。本当に好きな自分に、出会えないからだ。学校を辞めること・ェ、・・
本当に自分になりきることであると心から信じたら、学校を辞めろ。その自分が、本当に好きになれ・・
たら、学校なんか辞めろ。極端だが、死ぬことで、本当の自分になりきれると本当に心から信じたの・・
であれば、死ね。死ぬことを選んだ自分が、本当に好きになれたら、死んでいけ。おれは、何も言わ・・
ない。死に水をとってやる…」・・・
それだけ言って、親父は立ち上がった。ネクタイの曲がりを教えてやろうと思ったが、それは既に、・・
親父の手によってきちんと真っ直ぐになっていた。親父を、少し見直していた。ぼくも、・ァち上がっ・・
た。駅への道を、親父と歩きたくなっていた。・・・
・・・
一時間目、ずっと親父の言葉を考えていた。それが、ぼくの死への憧れと交わり、ぼくの思考を複・・
雑にしていた。・・・
駅への道でも、親父は続けていた。いじめられても、嫌だ、嫌だ…、と、思うより、嫌がっている・・
自分を好きになれ。そんな自分が好きだと、心の中で叫べ。親父は、そう言っていた。いつもいつも、・・
そう思うんだ。自分が好きだと、叫び続けるんだ。そうすれば、少しずつ、そんな自分を好きになる。・・
いじめられている自分を、好き・ノなるんじゃなくて、それを、嫌だと叫んでいる自分が好きになる。・・
歩きながら、時折ぼくの目を見て、親父は話した。熱い親父の思いが、何だか、ぼくにも伝わったよ・・
うな気になっていた。・・・
更に、親父は言った。少しでも、自分が好きになれると、その人間は、人間としての自信を持つこ・・
とになる。自信を持った人間は、少しずつ、輝いていく。少しずつ、明るく輝いていく。その輝きは、・・
他人に見える。人間たちは、その輝きを求め合っているのだ。人間は一人では生きていけない。それ・・
は、自分の輝きと他の輝きとを混・カり合わしたいという欲求なのだ。いじめる奴等に、その輝きを見・・
せてやるんだ。自分に自信を持つ人間は美しい。美しいものは、誰だって、その美しさを感じる。い・・
じめる奴等にも、感じるのだ。そして、その輝きが、いじめる奴との調和をはかっていく。輝きが、・・
それらのなかを揺れるのだ。・・・
駅への道は、いつもより短く思えた。ぼくは、いじめについて、あえて否定しなかった。やっぱり、・・
親父の言ったように、ぼくらは親子だ。ぼくの思いの少しぐらいは、親父にも、見えるのだろう。ぼ・・
くは、そう思った。・・・
ぼくは、更に考え続けていた。死を、考え続けていた。・・・
あの、死の時を、思い出していた。前世の死を乗り越え、闇を過ぎた時のことを思い出していた。・・
自由だった。光輝いていた。自分を、強く感じていた。いい時だった。充実していた。恍惚の時だっ・・
た。・・・
難しくなかった。そこに存在することは、まったく自然だった。今のように、いろいろな規制など・・
何もない。本当の自由だった。あの時の桜色の自分が、今のぼくを、呼んでいるような気がした。・・・
しかし、親父の言葉が引っかかっていた。自分を好きになれ・B好きになれないでも、その好きにな・・
れない自分を好きになれ…。それを、ぼくは理解していた。なぜか、ぼくには分かった。自分を好き・・
になるのは、もう諦めている。でも、そんな諦めのぼくを、好きになるのは出来そうだった。・・・
そんな自分が、好きになれそうな気がした。死へ憧れている自分を…。死へ向かおうとしている自・・
分を…。桜色に透明だった自分に戻ろうとしている自分を…。・・・
そんな自分が、好きになれそうな気がした。・・・
・・・
今度、いつ会えるだろう…。あたいは、待ち続けていた。あの人の呼び・ゥけを、待ち続けていた。・・・
あたいからは、呼びかけないようにしていたの。あの人は、まだ完全に目覚めていないもの。目覚・・
めの、邪魔をすることになっちゃうもの…。・・・
会えることには、そんなに心配していない。あの人は、あたいの側にいるの。それでいいの。あの・・
人が目覚めれば、いつだって会える。あたいの方から、会いに行けるもの…。・・・
そうよ、あたいたちには、肉体がないの。意識の揺れなの。だから、どこへだって行けるのよ。ど・・
こでだって会えるのよ。あたいが、新しいあたいのなかから出る。あの人・焉A新しいあの人のなかか・・
ら出る。そして、何もない空間で、あたいたちは会うの。それが分かったの。新しいあたいのなかで、・・
あたい、そのことに気付いたの。・・・
あたいとあの人は、死を越えて、形を変えて、そして、時を越えて結びつくの。再び、一つになる・・
の…。素敵でしょう。あたいは、激しい女よ。素敵でしょう、新しいあたい…。・・・
あたいの愛よ。そして、あの人の愛。愛で、あたいたちは、すべてを乗り越えてきたの。乗り越え・・
ていくの。素敵でしょう…。・・・
でも、あたい、少し疲れちゃった。新しい・たいが、あたいのことを安心させてくれたからかしら。・・
少し、眠りたくなってきた。とっても、いい気持ちよ。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
あたいの音…。新しいあたいの音…。一つになったわね…。嬉しいよ…。・・・
・・・
今日は、案外と何も起こらなかった。いつもと同じ、原田、そして、ヒロミに、金を取られただけ・・
だった。殴られはしなかった。・・・
しかし、一日中、ヒロミとカルメンが、交差していた。意識のなかで、ぼくを、激しく誘っていた。・・
妖しく、そして、艶かしく、ぼくを誘っていた。・サれがよかった。そのことで、ぼくは、あの悪夢を・・
忘れていた。マルコを刺した罪悪感を、忘れていた。その思いに、苛まされずに済んでいた。・・・
それにしても、ぼくのなかで、ヒロミとカルメンの区別が曖昧になってしまっていた。ヒロミのあ・・
の後ろ姿が、カフェ・デ・パコのカルメンに見えた。意識のなかで踊るカルメンが、原田と歩くヒロ・・
ミに思えた。ぼくは、何度も首を振っていた。・・・
一日中、そうだったんだ。帰る電車のなかまでそうだった。挙げ句の果てには、電車に乗り合わせ・・
た美佳にまで、それが重なった。・・ナすら、カルメンと重なってしまっていた・・・
今日は、自分の残す遺書を考えるつもりだったのに…。予定通りにはいかなかった。駅からの道、・・
妹は、ぼくを心配そうに見ていた。なんて、勘のいい女なんだ。ぼくは、無理に笑顔を作っていた。・・
何度も作って、それをごまかしていた。・・・
・・・
わたしは、今日一日、異常のままだった。それでいい。それでいいのよ…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
わたしの音と、あたいの音…。わたしと、あたいの音…。それが、完全に一つになったね…。嬉し・・
いね…。・墲スし、嬉しいよ…。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
今日は、チャンスがなかった。明日よ、明日…。明日が、来るのが待ち遠しかった。あのナイフは、・・
まだ鞄のなかに入れたままだ。わたしの血が、燃えている。激しい女よ、わたしは…。・・・
明日よ。明日…。・・・
わたしは、異常だった。わたしの血が、沸騰していくようだった。あの人への愛と憎悪も、そのな・・
かに渦巻いていた。わたしは、ベットに潜った。わたしのなかのあたいが、激しく悶えていた。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
その音・ヘ、やはりいつもより大きかった。・・・
・・・
ぼくは、死への最後の準備を整えていた。部屋の机に向かっていた。・・・
最後の夕食は、終えていた。親父はいなかったが、おふくろと妹には明るく振る舞った。自分なが・・
ら、そう出来たと思った。・・・
遺書…。ぼくは、それを書こうとしていた。家族へ宛てたものだけだ。家族のみんなは、それなり・・
に、ぼくによくしてくれた。恨んだりはしていない。そのことを、残そうと思った。他に、親しい人・・
などいない。ぼくは、家族へ残す、ぼくの思いを書こうとしていた。・・・
・pコのギターを、部屋に流していた。ぼくのなかのスペインが、心地よく溶けていた。演奏の合間・・
の一瞬の静けさに、木枯らしが窓を叩いていた。その音が、ギターと巧く絡まり、ぼくを余計にとろ・・
かしてくれていた。前世のぼくも、心地よさそうだった。・・・
親父の言ったことが、再び、ぼくの頭に昇ってきた。自分を好きになれ…。好きになれそうな気が・・
していた。死へ憧れている自分を…。死へ向かおうとしている自分を…。桜色に透明だった自分に戻・・
ろうとしている自分を…。ぼくは、そんなぼくが、好きになれそうに思ってい・ス。ぼくは、ベッドに・・
寝転がった。どういう訳か、涙が一粒頬を滑った。・・・
その理由を考えた。天井の小さな幾つもの染みのうちの一つが、ぼくに思えた。目立たぬ小さな染・・
みが、誰にも見られない小さな染みが、ぼくに思えた。ぼくだけしか感じられないその染みが、ぼく・・
に思えた。あの染みがなくなったとしても、誰も気付かない。そんな存在に、自分を思えた。・・・
それが、惨めだった。しかし、それは、誰だってそうなんだ。多かれ少なかれ、誰だって、そんな・・
ことを思うのだ。ぼくは、その考えを無理に隅へと置きや・チた。そして、机に向かった。・・・
恨み言を、書いてやる。原田、吉村、そして、ヒロミ。何も分かってくれなかったセンコウ。それ・・
から、前の学校での嫌な奴。前の前の学校もそうだ。恨み言は、書いてやる。いじめられ続けた、ぼ・・
くの復讐さ。そいつらは、神の、征伐をうけるのだ。バカヤロー。ざまあ見ろ!・・・
簡単だよ、死ぬことぐらい。ロープで、首を吊ればいいんだ。高い所から飛び降りれば、それでい・・
いんだ。誰だって出来るんだ。一瞬のことだよ。・・・
ぼくの肉体から真っ赤な血が飛び出し、その場を埋め尽くす・B醜い姿に、みんな、目を背けるだろ・・
うよ。どうせ、醜い物体だったんだ。醜い死体になっても同じさ。みんな醜いのさ。生きているこ・・
とって、醜いものなんだ。・・・
そして、ぼくは、桜色に透明になる。桜のように潔く、美しく、この世を散るんだ。醜い肉体を後・・
に残して、ぼくは、美しく桜色になるんだ。本当のぼくに戻るんだ。あの時のように…。・・・
遺書に集中しよう。今夜中に、書き上げなければ…。すべて、明日さ。明日、すべてが終わる。そ・・
う、明日さ。明日、本当のぼくが始まるのさ。・・・
・・・
・i9)・・・
・・・
マルコが刺された。あたいは、マルコを抱いた。悲しかった。マルコに、生への光が見えなかった。・・・
すべて、あの人が起こしたことだった。あたいは恨んだ。憎んだ。殺してやりたかった。ずたずた・・
に切り刻んでやりたかった。・・・
あの人は、呆然としたままだった。腰を、抜かしていたみたい。激しく震えていた。目だけが異常・・
な程、光を帯びていた。あの人は狂っていた。嫉妬だった。あたいへの嫉妬で、狂ってしまっていた。・・・
恐怖が、あたいにも押し寄せた。あの人の目が、あたいに向いていた・B獣の目だった。猛禽の目・・
だった。その光が、あたいに真っ直ぐに伸びていた。・・・
あたいは叫んだ。あたいも異常だった。マルコを抱きながら、あたいは、あの人に悪たれを投げ続・・
けた。悲しくてやりきれなかった。その悪たれが、何か、自分に向けたもののように聞こえていた。・・・
あたいの知っている悪たれが、底をついた。あの人は笑っていた。そう、笑っていたの。・・・
「カルメン! 一緒に死んでくれ!」・・・
あの人が叫んだ。あの人の笑いの裏に、涙が見えた。あたいは、底をついたあたいの悪たれを探し・・
た。・たいの気持ちは、高ぶっていた。悪たれが底をついたぐらいで、あの人を、許せるはずがな・・
かった。・・・
「カルメン! 一緒に死んでくれ!」・・・
あの人の笑いが、消えていた。悪たれを探すあたいに、あの人は泣いた。涙を、隠そうとはしな・・
かった。あの人は泣いた。・・・
あたいの何かが、弾けた。あたいは、マルコを放した。マルコの鼓動は、消えていた。・・・
「バカヤロー!」・・・
あたいは、あの人の前に立った。あの人が、あたいを抱いた。あたいのなかに、あの人への愛と憎・・
悪が、交互に渦を巻いていた。・・」・
「バカヤロー!」・・・
あたいは、叫び続けた。あの人は、泣き続けていた。・・・
そうよ、マルコは死んだの。あの人に、刺し殺されたの。いい人だったわ。少し笑っているような、・・
死に顔だった。左手が、何かのコードを押さえていた。それが、どの音かは分からなかった。後で、・・
あたいは、マルコにギターを握られてやった。コードは、やっぱり分からなかった。・・・
マルコが死んだ。あの人に刺された。あたいは、マルコのことを祈ったわ。天国で幸せに…。出来・・
れば、また会いましょう…。その時は、ギターを鳴らし・トね。あたい、踊るから…。そう、マルコは・・
死んだ。あたいは、あの人を恨んだ。・・・
・・・
眠れなかった。わたしは、わたしのなかの、あたいを見ていた。あたいは、遠い過去に揺れていた。・・
当然だわ、あたいの思い出は、遠い過去のなかにしかないものね…。・・・
わたしは、わたしの位置を、あたいの部分にシフトした。わたしが、あたいのなかに入った。わた・・
しは、あたいのなかに揺れた。あたいのなかに隠れた。・・・
・・・
やはり、少し高ぶっていた。ぼくは、寝返りを打った。窓の外が、明かりを引き込み出してい・ス。・・
どこか遠くの明かりを、ぼくの街の空気が、引き込み始めていた。・・・
ぼくは窓を開け、そんな空を見上げた。星は見えなかった。帰った後だった。・・・
同じ色の空を見たことがあった。そう、あの日。ぼくは、あの日、カルメンと一緒に、これと同じ・・
色の空を見上げた。死んだマルコを、背に抱いて…。・・・
ぼくは、空を見続けた。寒さは感じなかった。あの日のように、寒さは感じなかった。・・・
・・・
カルメンを抱いた。泣きながら抱いた。おれは、死にたかった。マルコを、殺してしまった。・・・
カルメンも・A泣いてくれた。おれを、抱いてくれた。二人は、抱き合ったまま、時の流れを無視し・・
続けた。おれの思いのすべてが、溶けていくようだった。おれの存在が、まったく消えていくような・・
思いだった。・・・
死を、思っていた。闇を思っていた。恐怖を思っていた。おれは、カルメンに縋った。一緒に行っ・・
てくれ。カルメン…。お前が、おれのすべてなんだ…。・・・
涙が、涸れてしまった。そう思った。おれから、高ぶりが去っていった。異常さが、消えていった。・・
悲しみだけが、重く残った。・・・
カルメンが、マルコにギタ・[を握らせてやっていた。おれは、そんなことにも嫉妬した。そんなカ・・
ルメンにも嫉妬した。それでいいと思った。おれのすべては、カルメンだ。それでいいと思った。・・・
夜明けが、近いようだった。二人は外へ出た。マルコは、おれが背負った。マルコから落ちたギ・・
ターを、カルメンが持った。海に行きたかったが、それは遠すぎた。二人は歩いた。どこか遠くの薄・・
明かりが、おれたちの側の空気に引き込まれていた。町並みの屋根に、ほんの微かな明かりが垂れ、・・
黒の世界を、濃い紺色に色づけしていた。二人は、しばらくそんな・ゥていた。・・・
マルコを、タバコ工場の塀に置いた。ギターも、側に置いた。朝になれば、誰かが見付けてくれる・・
だろう。おれは、その朝までいない。仕方なかった。カルメンも、それに何も言わなかった。おれは、・・
そのことでカルメンが、おれと一緒に死んでくれるものだと思った。・・・
夜明けにまで、消えなければと思っていた。その覚悟は、出来ていた。おれは死んでいく。闇の世・・
界へと、消えていく。それでいいと思った。ただ、カルメンだけが心配だった。まだ、心の底から信・・
じることが出来ないでいた。おれと本・魔ノ死んでくれるのか、確たる自信はなかった。・・・
その時だった。カルメンが走った。真赤な舞台衣装のまま走った。タバコ工場を抜け、グァダルキ・・
ビール川の方へ走った。ものすごい早さだった。真赤な衣装の裾を翻し、カルメンは、美しい足首を・・
蹴り上げていた。・・・
おれは焦った。カルメンが、おれから逃げた。やはり、カルメンは、おれと一緒に死ぬなんて思っ・・
てもいなかったんだ。おれは追った。朝の遠い明かりが、カルメンの背に落ちていた。おれは追った。・・
カルメンの背を追った。カルメンの背が、だんだんと闇・フ世界に昇る朝日の色に見えた。・・・
おれは走った。手に、ナイフを握りなおしていた。カルメンへの憎しみが、おれのなかで、今まで・・
にないくらいに膨れていった。おれは走った。・・・
・・・
朝だ。ぼくは、空を見続けていた。カルメンの背にあった朝日ではなかった。いつもより、随分と・・
黄色く朝日が見えた。いい朝だった。・・・
カルメンが、川に走った。それ以上は、思い出さないようにした。ぼくは、思考を過去から外した。・・・
それは、ぼくの死ぬ寸前に思い出そうと思った。前世のラストだ。ぼくは、そうしようと・vった。・・・
ぼくは、書き上げた遺書を手に取った。そして、封を確かめ、机の上においた。すべて今日だ。今・・
日にすべてが終わり、そして始まる。ぼくの高ぶりは、消えていなかった。・・・
・・・
朝ね。わたしは、ベットを出た。鞄のナイフを確かめた。・・・
今日よ。すべて今日よ…。わたしは空を見た。いい朝だった。朝の日が、やけに黄色く見えた。・・・
・・・
朝食は取らないで、家を出た。ぼくの死体の口から、食べ物が漏れたりしたら格好悪い。親父がト・・
イレに入っている隙に、ぼくは家を出た。顔を、見たくなか・チた。おふくろの顔も、見たくなかった。・・
そんなことないのだろうけど、顔を見れば、ぼくの決意が弛んでしまうような気がした。涙の一つで・・
も、こぼしてしまうような気がした。・・・
電車のなかで、ぼくは、ぼくの人生の整理をした。ぼく自身の心のうちに巣喰う、あらゆる虫を感・・
じて、その虫を、本当の位置へと移動させようと思っていた。・・・
しかし、それは、電車での時間だけでは足りなかった。車内でのその時間は、ぼくの家族への思い・・
だけで使い果たしてしまった。家族に詫びることで、その時間を、使い果たしてし・ワっていた。ぼく・・
の悲しみ、ぼくの憎しみ、ぼくの喜び、それらは、家族への思いに隠れ、ぼくの意識を覗くだけだっ・・
た。・・・
授業中も、その作業を続けた。一つ一つの思い出を、ぼくのなかの数少ない引き出しに、振り分け・・
た。意外と、喜びの引き出しから埋まっていった。夏の海水浴。浜辺で食べた、バーベキュー。親父・・
の肩に乗り続けた、遊園地。おふくろが無理矢理にぼくを乗せた、ジェットコースター。妹と転げ・・
合った、スキー場。新幹線の座席での、トランプ。楽しみにしていた、クリスマスの朝の枕元。それ・・
・轤ヘ、一つとして色あせてはいなかった。・・・
親父の作ったチャーハンが、まずかったときの大笑い。おふくろを、巧くだませたエープリルフー・・
ル。妹にもらったバレンタインチョコレート。そのお返しに渡したマシュマロが、親父のそれとまっ・・
たく同じだったこと。プールで、親父に投げ飛ばされたこと。運動会で、親父と一緒に走ったこと。・・
大晦日に、家族そろって紅白歌合戦を見ながら鍋をつついたこと。思い出は、引き出しからはみ出て・・
しまいそうだった。・・・
知らない間に、ぼくは泣いていた。やっぱり、別れは辛かっ・ス。ぼくの喜びの引き出しは、ぼくに・・
生きていく力を見せているようだった。・・・
しかし、そんなものいくらあっても、ぼくの思いは変わらない。ぼくは、死んでいくのだ。桜色に・・
透明になるんだ。・・・
思い出は、美しいだけだ。そのなかに、自分は、どっぷりと浸っているだけにはいかない。時は流・・
れている。思い出は過去に、そして、ぼくは、未来へ流れていく。美しいものは遠ざかる。過去へ遠・・
ざかる。何でもそうだ、美しいものは遠ざかる。・・・
だから、ぼくが、その美しいものになる。桜色に、透明に輝くんだ…・B・・・
遺書にも書いたことだったけど、ぼくは、いじめで死ぬわけじゃないんだ。確かに、いじめられる・・
のは辛いよ。こんなこと毎日続けば、死にたくなるのだって当然かも知れない。でも、ぼくは違うん・・
だ。いじめで辛くって、死ぬんじゃないんだ。そうかも知れないけど、そうじゃないんだ…。・・・
ぼくは、前世を知ってしまった。そして、あの桜色の透明な姿を、ぼくの脳裏に、美しいものとし・・
て刻み込んでしまった。すべての思い出は、その桜色の姿のままで、抱き続けることが出来るんだ。・・
ぼくは、それを経験していた・Bその姿になりたいんだ。現実から逃げて、過去だけに縋り付いていた・・
いんだ。いや、また別の未来への可能性を探したいんだ。・・・
過去の思いは、それ程の痛みを伴わないと思っていた。現実に、ぼくがそうだった。マルコを、ぼ・・
くは殺していた。しかし、ぼくは、そのことに大きな心の痛みは感じなかった。驚いてしまって、走・・
り回っただけだった。・・・
過去の美しい思いだけに、揺られていられる。そして、そのなかで、新たな未来への可能性を探り・・
出せる。生まれ変わりへの道にさえ進まなければ、桜色の透明に揺れてい・轤黷驕Bぼくは、そう思っ・・
ていた。そして、それは一度の経験から、ぼくには、それが叶えられるものだと思っていた。・・・
そんな風なことを、遺書に残していた。ぼくは、喜びの引き出しからはみ出した過去を、丁寧に拾・・
い集めていた。・・・
・・・
わたしのなかのあたいが、わたしの意識のある部分を、ほとんどを占領しようとしていた。わたし・・
は、そのあたいに、わたしを明け渡そうとしていた。そう、今日。わたしは、あたいに、わたしを譲・・
る…。あたいに譲るのよ…。・・・
本当は、昨日だってチャンスはあったの・諱Bでも、わたしじゃダメだった。わたしが、あたいの前・・
にいたから。わたしが、あたいの邪魔になったみたいなの。だから今日は、わたしは後ろへ下がる。・・
あたいが前に出る。やっぱり、あたいのほうが激しい。わたしは、まだ子供…。そして、あたいは女・・
…。だから、あたいが前に出るの。・・・
昼休みに交代しよう。それから、きっちりと身だしなみをしよう。髪をとかして、うっすらとルー・・
ジュをひこう。わたしのなかのあたいに、少しでも相応しくならなくっちゃ。・・・
その前に、あたいの記憶が、あたいの、ラストシー・唐゚くろうとしている。わたしに、届けよう・・
としているの。あたいの悲劇を。・・・
マルコは死んじゃった。そう、あの人が殺したの。ひどい人よ…。あの人は、人でなしのろくでな・・
し!・・・
どうして、あたいは、あの人のことなんか、愛したんだろう。いや、愛してなんかいない。あたい・・
は、恋多き踊り子よ。あの人になんか、靡いたりしなかった。あの人を恨んでいた。・・・
四時間目の終わるチャイムが鳴っている。あたいが、めくれていく。わたし、後ろへ下がらなきゃ・・
…。・・・
体育館のトイレに行こう。あそ・アだったら、昼休みには誰も来ないだろう。ゆっくりと、静かに、・・
わたしは、あたいと入れ替わることが出来るわ。髪をとかし、ルージュを塗るの。・・・
わたしは、立ち上がった。鞄の上から、ナイフを確かめた。高ぶりが、わたしに押し寄せた。少し・・
指が震えていた。・・・
「ジン、ジン、ジン、ジン……」・・・
その音が、わたしの震えに絡まっていた。・・・
・・・
グァダルキビール川の方へ走ったの。あたい、走りたかった。激しく体を動かしたかった。だから、・・
走ったの。あの人から、逃れたわけではなかったの。・・・」
マルコを、タバコ工場に置いたので、少し安心していたのかも知れない。あたいも、マルコの行っ・・
た所へ行きたいと思っていたのかも知れない。あたいは走った。河原に下りたかった。いつも、その・・
水面に、あたいの夢を映していた。いつも、この川で、あたいの夢を見ていた。・・・
その夢が崩れたのに、あたいは、それがまだ水面にあるような気がしていた。川に下りれば、あた・・
いの可能性の何かが映っているかも知れないと…。そんなこと考えていた。・・・
そして、あたいは思っていたの。死んだっていい…。そうよ、あの人・ニ一緒に死んだっていい…。・・
あたい、本当にそう思っていた。マルコも死んじゃった。そして、あたいの夢も壊れた。もう、どう・・
でもよかった。どうなってもよかったの…。・・・
タバコ工場を抜けたら、強い風が吹いていた。川から吹き上がる風だった。寒くはなかった。あた・・
い、どうかしていたの。身体が火照っていた。まったく寒くなかった。強い風が、あたいを過ぎて・・
いった。衣装が、めくれ上がった。それが、益々あたいの走りを早くした。・・・
川に下りた。草の匂いが、乱れたあたいの息に絡まった。いい匂いだった。・クっと忘れていた匂い・・
だった。あたいは、河原に腰を下ろした。水面には、何も見えなかった。遠い朝の明かりも、そこに・・
は吸い込まれてはいなかった。・・・
・・・
その場所は決めた。体育館の裏だ。ぼくの恨みを、この学校に、残して置いてやることにした。や・・
はり、ぼくは、学校を恨んでいた。原田や吉村、そしてヒロミへの復讐には、その方がうんと効果的・・
だとも思った。・・・
ロープは、探せばあるだろう。確か、バレーボール部のロッカーの前にあった。ナイフは、用意し・・
ていた。結び方も、研究しておいた。銀・ヌの木に吊るすのだ。・・・
気が付けば、昼休みだった。ぼくは、体育館の裏に歩いた。ぼくが、この世に朽ちる場所の下見へ・・
と、歩いた。・・・
・・・
ぼくは、銀杏の木の下に立った。木枯らしが、ぼくを叩いていたけれど、それ程、寒さを感じな・・
かった。・・・
ロープを吊る枝を探した。その踏み台は、ここに来るまでに見付けておいた。ちょうどいい箱が転・・
がっていた。何かの体育用具が入っていた木の箱だ。踏み台は、その箱に決めた。・・・
時間帯は、放課後から少しずらそうと思った。その方が、見つかりにくい。そ・黷シれの、クラブ活・・
動の準備体操が終わった頃に決行しよう。その方が、安全だと思った。・・・
少し、感傷に浸っていた。思い残すことなどないと思っていた。自分の惨めさがゆらゆらしたが、・・
そのまま感傷に浸っていた。・・・
思い残すことなどないはずだった。恨みは遺書に込めた。それでよかった。家族への詫びも遺書に・・
詰めた。それでよかった。思い残すことなどないはずだった。・・・
感傷に浸っているのが、長すぎた。ぼくの意識が、突然乱れた。・・・
ヒロミだった。この木下の思い出、そう、ヒロミに甘えた思い・o。その思いが、ぼくを乱した。・・・
もう一度、甘えたかった。死んでいく前に、もう一度、ヒロミの胸に顔を埋めたかった。ヒロミの・・
整った顔が浮かんだ。あの子は、本当は優しい子なんだ。今は、突っ張っているだけなんだ。ヒロミ・・
の笑顔を思った。優しい笑顔に思った。・・・
もう一度、甘えたかった。ヒロミの胸で、思いきり泣きたかった。恨んでいるはずなのに…。憎ん・・
でいるはずなのに…。もう一度、甘えたかった。この銀杏の木の下での思い出が、ぼくを、激しく乱・・
していた。・・・
その時だった。ぼくの背を、・Nかが叩いた。・・・
「ほうや…」・・・
ぼくは、飛び上がった。心臓が、飛び出したかと思った。・・・
「ぼうや、今日も遊ばない?」・・・
ヒロミだった。ヒロミが立っていた。薄いルージュが、ぼくには輝いて見えた。美しく見えた。・・・
「ほうや、お出で…」・・・
美しかった。ぼくは、引き寄せられた。ヒロミが、ぼくを誘っていると思った。カルメンとは重な・・
らなかった。・・・
ぼくは、ふらふらとヒロミに寄った。心臓の高鳴りが、ぼくの耳から聞こえた。恨んでいるはず・・
じゃなかったのか…。憎んでいるはずじゃ・ネかったのか…。そんな思いを無視した。その時は、恨ん・・
でいなかった。憎んでいなかった。好きだと思っていた。・・・
ぼくの魂が、抜かれたんだ…。ヒロミという女に、ぼくの魂が、抜かれたんだ…。ぼくは、そう・・
思った。そして、何も言わず、何も躊躇せず、ヒロミの胸に寄った。甘酸っぱい香りが、ぼくを、包・・
み込んでいた。・・・
「おバカさん…」・・・
ヒロミは笑っていた。先程思った、優しい笑顔だった。・・・
ぼくは、ヒロミの胸に顔を埋めた。涙が溢れた。愛しかった。ヒロミが愛しかった。この思いを抱・・
い・ト、死んでいこうと思っていた。・・・
「ぼうや、あたいを抱きたい…」・・・
ぼくは頷いた。両手をヒロミの背に回した。ぼくが燃えていた。やはり、ヒロミを天女に思えた。・・
聖母に思えた。・・・
このまま、死んでもよかった。すべて、残すことはした。このまま、死んでもよかった。いや、こ・・
のまま、死んでしまいたかった。・・・
そこまでだった。やはり、そこまでだった。このまま、死んでしまうことは出来なかった。・・・
「早く、金出しな!」・・・
ヒロミが、ぼくを突き飛ばした。平手が三発飛んできた。・・・
「・レうや、バカにするんじゃないって言ったでしょ!」・・・
もう一発、平手が来た。それは、張り手だった。力がうんと入っていた。ものすごく痛かった。ぼ・・
くは、尻餅を付いた。ヒロミの足が、ぼくの顔に迫った。・・・
「早く、金出しな!」・・・
その足に縋った。恥も外聞も、まったくぼくからなくなっていた。死んで行くぼくに、そんなもの・・
必要ではなくなっていた。ただ、ぼくは、ヒロミが好きだった…。生まれて始めての思いだった…。・・
ぼくは、ヒロミに恋をしていたんだ…。・・・
「バカヤロー!」・・・
どうしても・A優しい声に聞こえた。ぼくは、ヒロミの足を放さなかった。ぼくの頬に、ヒロミの臑・・
を擦り付けていた。・・・
好きなんだよ。好きなんだよ…。好きなんだよ! ヒロミが、ぼくを蹴り続けていた。いつの間に・・
か、掴んだ臑も外れていた。ぼくは叫んだ。好きなんだよ。好きなんだよ! それは、ぼくのなかだ・・
けでの叫びだった。ヒロミには届かない叫びだった。・・・
「いい加減にしな! ぼうや、さっさと金出しな!」・・・
金なんかなかった。ぼくは、ヒロミの蹴りを受け続けていた。・・・
「好きなんです。好きなんです…。・Dきなんです…」・・・
・・・
髪はとかした。ルージュもひいた。これでいいわ。益々、あたいがめくれている。指の震えは収・・
まった。わたし、あたいと入れ替わる。あと授業は二時間。もうすぐだわ。わたしのあたいが、いよ・・
いよ動き出すの…。・・・
わたしは、教室に戻った。チャイムが鳴っていた。わたしは、目を閉じた。わたしのあたいを探し・・
た。あたいは、河原に佇んでいた。何も映っていない、水面を見ていた。・・・
・・・
(10)・・・
・・・
狂っていた。おれは、完全に狂っていた。カルメンが、河・エに腰を下ろしていた。カルメンの真赤・・
な衣装が、上がりつつある帳にうっすらと見えた。・・・
河原を下りた。カルメンに一気に走った。カルメンの背が、静かに見えた。微かに揺れている水面・・
を、見つめているようだった。おれは、幼い頃を思い出した。カルメンは、時々、ああして物思いに・・
耽る。おれとの遊びの途中でもよくあった。おれは、その頃のことを思い出していた。その時のカル・・
メンは、必ずおれから距離があった。おれは幼心に、そんな時のカルメンをいつも邪魔しないように・・
した。側で、そんなカルメンを眺め・驍セけにしていた。・・・
しかし、今は違った。おれは、正常でなかった。そして、あの幼き頃のおれでもなかった。・・・
マルコを刺した手応えが、まだ、おれの手に残っていた。おれは、その手を握った。そのなかにナ・・
イフが、あることを思い出していた。・・・
狂気に包まれた。異常を越えると、少し冷静になれた。狂気が、おれに狂った判断力を提供した。・・
異常を乗り越え、おれは、狂気の固まりになっていた。・・・
それからは、時の流れが、おれのなかで、信じられない程の怠慢になった。一つの行動が、あまり・・
にも遅・ュ感じた。おれの行動の一瞬一瞬が、その一瞬一瞬が、おれに、はっきりと見えた。時を刻む・・
時計の針のように、おれの動きの一刻一刻が、はっきりと感じられた。・・・
おれは、カルメンを抱いた。ナイフを持った手のままで、カルメンを、後ろから抱いた。泣いてい・・
た。おれは泣いていた。カルメンを、こうして抱くのもこれが最後だと思ったら、悲しくて仕方な・・
かった。・・・
狂気が一瞬怯んだ。しかし、それは、あまりにも早く過ぎていった。カルメンが、立ち上がり振り・・
返った。カルメンは、泣いていなかった。それが、お・黷フ狂気を瞬時に甦らせた。・・・
なぜ、泣いていない。カルメンよ、なぜ、泣いていない。おれの思っていたことが、やはり、おれ・・
の目の前に展開していた。時の刻む音が少しずつ大きくなり、おれの狂気に槌音を響かせた。鋭い刃・・
で、一刻一刻、おれの狂気を切り刻んでいく。尖った錐で、おれの狂気に痛みを押し込んでいく。お・・
れは叫んだ。カルメン! 悲しかった。やはり、生まれてこなければよかったと思った。強烈に思っ・・
た。今までで一番、激しくそう思った。・・・
カルメン! おれは叫んだ。おれは、これまでその名・ス度叫んだことだろう。カルメン! おれ・・
の、すべてだった。おれの、すべてだった。・・・
カルメンの匂いも、分からなかった。カルメンの鼓動も、聞こえなかった。カルメンの温もりも、・・
感じなかった。狂気が、それを隠したのか、カルメンが、おれに伝わってこなかった。・・・
カルメンが揺れた。おれの怠慢な時の流れのなかを、カルメンが揺れた。その一瞬が、おれには長・・
く感じた。カルメンのその動きが、怠慢な時と共にあるおれには、あまりにも遅く見えた。カルメン・・
が、途切れ途切れになっていた。一瞬の時が止ま・閨Aカルメンが見えた。一瞬の時が動き、カルメン・・
が消えた。その繰り返しだった。それが、何度も何度も繰り返されていくようだった。・・・
「いい加減にしなよ! さっさと刺しな!」・・・
そんな動きのなか、カルメンの声が聞こえた。おれの時が、その声に軋んだ。時の怠慢が、その声・・
に歪んだ。・・・
カルメンの平手が、おれを襲った。軋んだ時が、飛ばされた。歪んだ怠慢が、飛ばされた。おれの・・
時の流れが、おれに戻った。・・・
「いい加減にしなよ! さっさと刺しな! この意気地なし!」・・・
おれは、カルメ・唐フ平手で後ずさっていた。激しく震えていた。カルメンへの殺意が燃えた。目の・・
前に、その炎が揺れた。・・・
「売女! おれを何だと思っている! この売女!」・・・
狂気と恐怖が、おれを、激しく責めていた。狂気と恐怖が、おれを、強く後押ししていた。狂気と・・
恐怖が、おれを、異常に燃え上がられていた。・・・
「売女! カルメン! 売女! カルメン」・・・
ナイフを握った手を、カルメンに向けた。カルメンが笑っていた。売女に見えた。天女に見えた。・・
遊女に見えた。聖母に見えた。・・・
「売女! おれと死ん・ナくれ!」・・・
更に大きくなった。カルメンの笑みと、おれの狂気が、更に大きくなった。・・・
カルメンが、腕を拡げた。カルメンが、おれを招いた。妖しく、おれを招いた。艶かしく、おれを・・
招いた。・・・
「いいよ、あたいは売女…。でもいいよ、あんたと死んであげる…」・・・
カルメンの性が、おれに真っ直ぐに向いていた。だから、だから、おれは、信じられなかったんだ。・・
女の性だ。魔性の性だ。あんたと死んであげる。誰にだって、そうなんだろう…。お前は売女だ! ・・
死んであげるだと…。誰にだって、言ってい・髑芬撃セろ! バカにするな!・・・
再び、おれの時が歪んだ。軋んだ。弾けた。時の流れが狂った。・・・
「ウオー!」・・・
カルメンに走った。ナイフを向け、カルメンに走った。・・・
その後は、時の流れに、おれを見失った。おれの手に、その手応えは感じた。赤い血が吹き出すの・・
も、おれに見えた。激しい胸の痛みも、おれは感じた。そして、カルメンの悲鳴も聞こえた。おれの・・
悲鳴も聞こえた。・・・
「カルメン! 愛している!」・・・
・・・
嘘じゃなかったのよ。あんたと死んであげる。あたい、本当にそう思った・Bやっぱり、あたい、あ・・
んたを愛していた。・・・
あたいを、信じていなかったの。そんな目だった。売女…。そうよ、あたいは売女。でも、信じて・・
くれてもよかったんじゃない…。あの時は、売女じゃなかった…。あんたを愛する、女だった…。あ・・
んたとあたいは、愛し合っていたのに…。最後ぐらい、信じてくれてもよかったんじゃない…。・・・
だから、だから、あたいが、ナイフを取り上げたのよ。あんたなんかに、刺されたくなかった。マ・・
ルコのように、刺されたくなかった。・・・
でも、嘘じゃなかったのよ。あたい・A本当に、あたいに刺されてもいいと思っていたのよ…。・・・
あんたの目に、あたいは絶望したの。あたいを信じていない。あんたの目、猜疑が固まっていた。・・
それに絶望したの。生まれて始めて、自分が嫌になったの。・・・
でも、嘘じゃなかったのよ。あたい、本当に、あんたに刺されてもいいと思っていた…。・・・
・・・
わたしは、あたいにわたしを譲る。わたしは、あたいの後ろへ下がる。あたいが、わたしの前に出・・
るの…。・・・
授業は終わったわ。わたしは冷静だった。いや、あたいが冷静だった。・・・
わたしは・Aゆっくり立ち上がった。教室を出た。そこで、入れ替わった。完全に、入れ替わった。・・
わたしは、あたいになった。・・・
・・・
そうよ、新しいあたいは、後ろへ下がっていて。新しいあたいにも、見られたくないの。これは、・・
あたいとあの人のこと。新しいあたいは、あたいのなかに隠れていて。・・・
その前に、あたいは、あたいの最期を巡るわ。あたいの最期の場面よ。あたいの幕の下りる時。新・・
しいあたいは、それを、静かに見守っていて。あたいとあの人の最期。グァダルキビール川でのこと。・・
あの日が、明けようとし・トいたの。あたいは、それを巡るわ。・・・
そして、それが終わったら眠るのよ。新しいあたいは、あたいに隠れて眠るのよ。見られたくない・・
のよ…。・・・
あたいのなかの、激しい女を演じるの…。過去のことなのよ。大昔のこと…。だから、見られたく・・
ないの。分かるでしょ、女だから…。いい、あたいの最期を巡ったら、静かに眠るのよ…。・・・
・・・
激しい憎悪に殺意が絡んだ。一瞬のことだった。一瞬のことだったが、その殺意は、ぼくを、鉄で・・
固めた。・・・
授業が、終わっていた。前世のラストを巡るのも、終わ・チていた。ぼくは、ヒロミに歩いた。お金・・
を用意した。銀杏の木の下で…。ぼくは、ヒロミにそう告げた。ヒロミは微笑んだ。斜めにぼくを見、・・
微笑んだ。やはり、優しい笑顔に見えた。・・・
燃えていた。自分の死ぬことの、もう一つの意味が見つかった。ヒロミを、道連れにしてやる…。・・
ぼくを、いたぶったからさ…。ぼくを、からかったからさ…。ぼくは、ヒロミが好きなんだ。ヒロミ・・
に、恋をしたんだ。生まれて始めてなんだよ…。・・・
ぼくの愛情の表現さ。愛しているんだよ。ヒロミ…。カルメンのように、愛しているん・セよ。・・・
ぼくは、ヒロミを殺す。カルメンを刺したように、ヒロミを、ナイフで刺すんだ。ぼくは、殺人者・・
になる。殺人者は、自らで生命を絶つ。それが、被害者への義務だ。ぼくは思った。ぼくの死へ、も・・
う一つの意味が、この時、完全に形取った。死への憧れに、また別の意味が出来上がった。ぼくは、・・
それにいい知れない満足感を憶えていた。・・・
そうだせ、おれは、殺人者だった。既に、二人も、他人の生命を奪ってきていた。そうだぜ、おれ・・
は、殺人者だった。マルコ。そして、カルメン。二人ともナイフで刺した。・ィれは、いや、ぼくは、・・
殺人者だぜ…。・・・
もう一人くらい、どうってことない。同じように刺すだけだ。ぼくは、前世を繰り返そうとした。・・
殺人者の前世を、ぼくの今生は、繰り返そうとした。・・・
一瞬にして鉄に固まったぼくの殺意は、その鉄をも燃え上がらせていた。めらめらと、いや、轟々・・
と燃え上がっていた。ぼくは満足だった。その殺意と、死の意味が増えたことに、ぼくは満足だった。・・・
ぼくは、一人微笑んだ。桜色に透明なぼくの側で、ヒロミが優しく微笑んでいる姿を、思い浮かべ・・
ることが出来た。は・チきりと、思い浮かべることが出来た。ヒロミも、やはり桜色に透明だった。・・・
・・・
あたいは、ナイフを取り上げた。あの人が刺したのは、急所を外れていた。それは、あたいの脇腹、・・
を、少しだけ深くかすめて過ぎた。あたいが、身をくねらせたの。あんたなんかに、刺されてたまる・・
かしら…。あたいの身のこなしが、あんたなんかよりずっと鋭かった。・・・
信じて欲しかった。あたいも、あんたと死のうとしていたのよ。信じて欲しかったよ…。・・・
あたいは、あんたをぶった。あんたは、その目であたいを見続けた。その目・ェ、許せなかったのよ・・
…。あんたのその目が、許せなかったのよ…。・・・
血が吹き出たわ。あたいの衣装を汚した。同じ赤色に、衣装が染まっていった。痛みは感じなかっ・・
た。悲しさが、あたいのすべてを包んでいたから。・・・
あたいも叫んだわ。バカヤロー! あんたに叫んだ。バカヤロー! あたいに叫んだ。あたいに、・・
狂気が鋭く流れ込んだ。・・・
あんたを刺した。あんたは笑っていた。泣いていた。・・・
草の上に倒れた。それでも、あんたは、あたいを見ていた。同じ目で、見ていた。笑っていた。泣・・
いてい・ス。・・・
狂気が破裂した。あたいは、そんなあんたを更に刺した。音なんて、聞こえなかった。あたいの手・・
に、重い手応えだけが乗っていた。あんたの目を隠したかった。あたいを見るその目を、あんたの瞼・・
のなかへ隠したかった。あたいは刺した。数なんて憶えていない。あんたの身体が、まったく動かな・・
くなるまで刺した。あたいの狂気は、あんたなんかの狂気より数段激しかったわ。・・・
動かなくなっても、あんたは、あたいを見続けていた。同じ目で見続けていた。悲しかった。生ま・・
れてから一番悲しかった。自分に悲し・ゥった。あんたに、その目を向けられている、あたい自身に悲・・
しかった。あたいが、始めてあたいのことを嫌いになった。・・・
刺すのを止めた。ナイフを下げたまま、あんたを見おろした。あんたの目の光は、どこかへ消えて・・
しまっていた。・・・
狂っていたのは、その時まで…。あんたの目に、あたいへの猜疑が見られなくなった時まで…。あ・・
たいは、素早くあたいに戻った。・・・
胸が、すっとしたわ。あんたの目が、あんたのあの目が、二度とあたいに向かない。そう思ったら、・・
すっとしたわ。あたいは、転がるあんたを・Rった。そうよ、あたいは激しい女。信じて欲しかった…。・・
信じて欲しかっただけよ…。・・・
それからは冷静だった。あたいは、あたいの首筋にナイフを当てた。あんたの身体の温もりが、そ・・
のナイフに感じられた。あたいは、その温もりを抱いた。あんたの温もりを抱いた。・・・
「ウッ!」・・・
意識のなかだけで、叫んだ。簡単だった。ナイフを、あたいの体内に突き刺すのなんか、簡単なこ・・
とだった。叫びが、あたいから漏れるのを、あんたに聞かれたくなかったわ。だから、あたいは、あ・・
たいの意識のなかだけに叫んだ・フ。一度だけ、そう一度だけ苦痛の叫びを…。・・・
あたいは、あんたに被さった。意識が遠ざかった。遠ざかる意識のなかで、あんたが、あの目を瞼・・
に隠したように思った。あたいは、ホッとしていた。あたいの意識が消えた。・・・
・・・
ヒロミの後を追った。ヒロミは、ぼくに会いに行く。銀杏の木の下。ぼくたちは、そこで最期の出・・
会いをする。ヒロミの後ろ姿は、颯爽としていた。踊るような足どりだった。カルメンのそれによく・・
似ていた。・・・
今日も、木枯らしが待っていてくれるんだ。体育館の裏。木枯らしが、二人・メっていてくれる。・・
ぼくは、コートに吹く風に感謝した。立てた襟を、更に持ち上げた。寒くなかった。これから、人を・・
傷付けようとする人間に、寒さなんか感じるはずがなかった。そんなことを、なぜか納得していた。・・
自分が、悪人の仲間入りをしたような気になっていた。・・・
殺意が、ぼくをせき立てた。熱く熱く燃えたぼくの鉄の殺意が、ぼくをせき立てた。その熱さは、・・
変わっていなかった。ぼくは満足だった。少し足を早めた。・・・
ぼくの手に、あの日の手応えを探した。ポケットのなかのナイフを握った。しかし、・サの手応えは、・・
ぼくにまで昇ってこなかった。・・・
ヒロミが、体育館の角を曲がっていく。バスケットボール部の、準備体操の声が聞こえていた。ぼ・・
くは、更に足を早めた。準備体操の声を、やはり羨ましく感じた。・・・
その角を曲がるのに、少し躊躇した。ロープのことが気になった。ぼくを、ぶら下げるロープが気・・
になった。ぼくは、先にそれを取りに走った。ぼくの高鳴りが、ぼくを、熱く熱く揺らしていた。・・・
・・・
「いいかい…?」・・・
あたいを呼んでいる。あの人だ。あの人の目覚めが、済んだのかしら…。・Fに透明なあんたが、・・
あたいの意識に流れてきた。あんたの思考が、あたいに届いた。あたいも、あんたに流れ込んだ。・・・
二つの意識が、絡み合った。あたいたちは、意識の揺れで言葉を交わした。・・・
「さあ、今、少し、忙しいんだけど…」・・・
本当だった。少し、忙しかった。待っていたのに…。待っていたのよ。でも、もう少し、静かなと・・
きに来て欲しかった。勝手だけと、今、少し忙しいの…。・・・
「いいだろう…」・・・
いいわよ、あんたのことが一番大事よ…。そうだった。そうだったけど、今は、少し忙しいの・c。・・・
「何よ?」・・・
まだ、少し恨んでいた。あんたのあの目を、思い出したからよ…。あたいは、少しつれなく言った。・・
忙しかったから…。・・・
あたいは、踊っていた。そうなの、あんたのためよ。あたいは、あんたのために、踊っていた。・・・
「おれは、お前を刺した。どうして、刺したんだろう…」・・・
何を言い出すの。そんなこと、遥かな昔のこと。忘れちゃったわ…。どうしたのよあんた。目覚め・・
が巧くいかないの?・・・
「そうよ、ひどい人…」・・・
あたいも、それを、思っていたところ。忘れていたこ・ニが、あたいに、甦ったところ…。・・・
そうよ、あんたは、あたいを刺したわよ。でも、そんなことで、あたいは、死んだりしていないわ・・
よ。あたいは、あたいの力で死んだ。あんたに、手を借りたりしていないよ。・・・
「すまなかった…」・・・
待ってよ、そんなこと、今言わないで。あたいは、踊っているの。あんたのために、踊っているの。・・・
「おれが、目覚めようとしているんだ。でも、新しいおれとの境界がないようなんだ。どうすればい・・
いんだ…。分からないんだ…。教えてくれ、カルメン…」・・・
そうよ、あたい・ヘカルメン…。情熱の踊り子。だから、踊っているの。カルメンは、今もあんたの・・
ために踊っているの。・・・
「新しいおれが、死んでいく。そうなったら、おれは、どうなるんだ」・・・
あたいばっかり頼るのね。昔と同じ。いいわ、教えてあげる。あんたのためなら、あたい、教えて・・
あげる。あたいのために、踊っているんだもの。あんたのために、教えてあげるわ。・・・
「新しいあたいが死ねば、あんたは、あんたに戻れるの。新しいあんたと、溶け合うの。そして、あ・・
んたは、あんたに戻る。新しいあんたと一つになったあんたに・A戻れるのよ…。心配しないで。死の・・
世界…。一度は、経験しているじゃない…」・・・
少し忙しいから、これくらいにしておいて。また後で、教えてあげる。わかった? あたいのあん・・
た?・・・
「新しいおれが死ぬのを、おれは、見ているだけでいいのか…」・・・
そうよ、それでいいのよ。見ているだけでいいよ…。あたいが、すべて、あんたの代わりをしてあ・・
げる…。・・・
もういいでしょ。忙しいのよ…。今、あたい、忙しいのよ…。少し、あたいから離れて。あんたの・・
ために、踊っているのよ。分からないの? あ・スのためなんだから…。・・・
「それでいいのよ。あんたは、それでいいの。必要なことは、あたいがしておいてあげる。そのため・・
に、今踊っているの。昔のカルメンに戻っているの…」・・・
あんたが微笑んだのが、あたいは分かった。心配いらないよ。あんたには、あたいが付いている。・・・
「今、あんたのために、踊っているのよ。新しいあんたが死んでいくのを、止めるか止めないかは分・・
からない。新しいあんた次第よ…。その前に、新しいあんたの苦しみを和らげてあげているの…。だ・・
から、あたい、踊っているのよ。分かる・H もう少し待って。あたい、今、少しだけ忙しいの…。ほ・・
んの少しだけ、忙しいの…」・・・
死んでも、あたいが付いていってあげる…。あんたは、心配しないの…。新しいあんたが死んだら、・・
また、過去に戻るだけのことよ。あの闇に戻るだけのことよ。心配しないのよ。あたいが守ってあげ・・
る。・・・
でも、今は待って。少しだけ待っててね…。・・・
「そのまま、待っていて。あたいのなかで、そのまま待っていて…」・・・
・・・
体育館の角を曲がった時だった。ぼくのなかの、ぼくの前世の部分が破裂した。一瞬に弾け・ス。ぼ・・
くは、激しい目眩に揺れた。視界が歪み、ぼくのすべてに霧が掛かった。・・・
ぼくのなかのおれが、ぼくより前に出てきた。ぼくは、それを堪えた。懸命に堪えた。前を行くヒ・・
ロミが、カルメンと交差した。手にしていたロープを、その場に置いた。ぼくの首に巻き付くはずの・・
ロープを、静かに置いた。・・・
・・・
「見ないでよ、恥ずかしいよ。見ないでって、あんた!」・・・
カルメンが言った。でも、それは無理なことだよ。綺麗だよ、カルメン…。見るなって、それは無・・
理だよ…。・・・
「美しいよ。カルメン・c。踊るカルメン…。素敵だ!」・・・
おれは、言ってやった。言葉にしたかったけど、無理なのは知っていた。・・・
「オーレッ!」・・・
思考だけのやり取りでは、まだしっくり来なかった。それは、死の世界のものであって、今のおれ・・
は、この世に目覚めようとしているんだ。・・・
思考をカルメンに飛ばした。この前、カルメンがおれにしたように、一つ一つの単語にして飛ばし・・
た。・・・
「素敵だ、カルメン…。あの頃を思い出すよ…」・・・
マルコがいるようだった。マルコが、おれたちと同じように透明になって、カル・<唐フ側でプレー・・
しているように思えた。おれは、マルコの酒焼けした赤黒い顔を探した。・・・
「恥ずかしいよ、あんた!」・・・
そう言いながら、カルメンは乗っていた。あの日のように乗っていた。・・・
「思い出すよ、カフェ・デ・パコ。いい女だったぜ、カルメン!」・・・
嬉しくなってきた。からかっている訳じゃなかった。おれは、昔を思い出し浮かれていた。・・・
「今も、いい女だ! おれには見えるぜ、カルメン…。あの頃と同じだよ。いい女だ、カルメン! ・・
今も、いい女だよ!」・・・
・・・
「見ないでよ、あ・ス。あの頃のあたいじゃないよ。そんなに見ないでよ…」・・・
でも、あたいは乗っていた。やっぱり、あたいは踊り子。マルコのギターはないけれど、あたいは・・
乗っていた。・・・
そうよ、あの日と同じ。あの日も、あんたがいたわ。カフェ・デ・パコ…。いい店だったでしょ。・・・
「オーレッ!」・・・
あんたも、完全に目覚めたのね。あんたの言葉が聞こえる。意識に流れ込む思考の揺れだけでなく、・・
あんたの言葉が聞こえる。あんたも、目覚めたのね。あたい、嬉しいよ。・・・
そうよ、乗っている。あの日のように乗って・「る。あんたが、そう、あんたが、見てくれるんだも・・
のね…。・・・
あたいは、あんただけに踊ったのよ。バルセローナの男たちなんか、頭にちっともなかったよ。・・
知っている? あたいは、あんただけに踊ったのよ。マルコは知っていたわ。・・・
その頃のあたいじゃないけど、今も、あんたに踊るわ。あんたが見ていてくれる…。あたい、乗っ・・
ているわ…。・・・
「あたい、綺麗? あの頃のように綺麗?」・・・
あんたは、目覚めたのね。これからは、二人で揺れようね…。・・・
「あたい、綺麗? あの頃のように綺麗? ・たい、乗っているよ!」・・・
これから、面白いことが起こるの。その時に、あんたを呼ぼうと思っていたのよ。でも、もう来・・
ちゃった。やっぱり、あんたとあたいは、何かで繋がっていたのね。・・・
「見て、あの二人。知っているでしょ」・・・
ももいいわ。あんたが目覚めたんだったら、すべて見せてあげる。知っているでしょ、あの二人。・・
新しいあんたに辛く当たった、あの二人。二人とも、あたいに酔っぱらっているのよ…。ハハハハ、・・
カフェ・カンタンテを思い出すわ…。・・・
マルコがいたら、こんなことしなくって・焉Aあんたを守ってくれたけど…。でも、マルコはいない・・
ものね。あたいが、あんたを守るしかなかったの…。・・・
「見て、あの二人。原田と吉村。あんた、知っているでしょ…。ハハハハハ…。あの二人、あたいに・・
酔っぱらっているの…。ハハハハハ!」・・・
いいでしょこれで。二人は、あんたにもう辛く当たらないよ。いいや、新しい方のあんただ…。・・
知っているのかな? ままいいわ。よく見ておいて…。・・・
「あたい、綺麗? あの頃のように綺麗?」・・・
・・・
カルメンが踊っていた。ぼくは、いや、おれは側に寄・チた。カルメンは乗っていた。あの日のよう・・
に乗っていた。・・・
カルメンの前に、原田と吉村がいた。二人は、カルメンに酔っていた。だらしなく口を開けていた。・・
カルメンに縋るように、二人は、身を乗り出していた。・・・
しかし、カルメンの衣装は、あの日の衣装ではなかった。あの日の真赤な衣装ではなかった。・・・
「オレッ!」・・・
紺色の制服だった。ようやく見慣れてきた、ぼくが通っている学校の制服だった。・・・
おれは、カルメンの側に立った。マルコを探したがいなかった。・・・
カルメンの髪から汗が・セ。その一滴が、おれの手に乗った。それは、輝いていた。あの日と同・・
じだった。光っていた。あの日のように、月光の雫に思えた。・・・
光るものが、別にもう一つ見えた。それは、カルメンの手に握られていた。鋭く光っていた。冬の・・
西日に、それは、鋭く光っていた。・・・
「シュ!」・・・
その光るものが、原田の頬を横切った。素早かった。赤い血が飛んだ。あの日のカルメンの衣装の・・
色だった。・・・
「シュ!」・・・
もう一度、それが素早く動いた。今度は、吉村の頬を横切った。吉村のめくれ上がった歯茎が、・ィ・・
れの目に入った。同じく血が飛び散った。原田のそれより、少し多かった。・・・
ナイフだった。カルメンは、ナイフを手にしていた。原田も吉村も、そのナイフに切られていた。・・・
カルメンが、おれに振り返った。おれに笑った。妖しく艶かしく笑った。・・・
「あたい、綺麗? あの頃のように綺麗?」・・・
そう言って笑った。妖しく艶かしく笑った。・・・
・・・
「ああ、綺麗だ。カルメン、綺麗だよ…」・・・
ぼくは、更にカルメンへ寄った。カルメンの妖しい笑みが、ぼくを、カルメンへと引き込んだ。・・・
「綺麗・セ、カルメン…」・・・
しかし、ぼくのなかの、あの燃え上がった殺意は、ぼくの奥に隠れようとはしなかった。どういう・・
訳か、そのカルメンの踊る姿に、ぼくは、ヒロミを見ていた。・・・
「いい女だぜ、カルメン」・・・
ぼくは、いったいどんな目をしているんだろう。殺意の浮かんだ鋭い暗い目。美しいものを見る澄・・
んだ優しい目。ぼくは思った。ぼくが、ぼくをはっきりと感じられなかった。・・・
カルメンが、ぼくに触れた。柔らかく、ぼくの胸に触れた。ヒロミのそれと、同じ感触だった。・・・
ぼくの目に、優しさが消え・スと思った。ぼくの殺意が膨れた。カルメンのその手に、ぼくの殺意は、・・
ぼくが思った以上に反応した。・・・
ヒロミへの殺意が、カルメンに向いた。いや、ヒロミとカルメンがだぶった。ヒロミへの殺意が、・・
カルメンへ向いた。そして、あの日のカルメンへの殺意が、ヒロミに向いた。ぼくの精神が、やはり・・
異常をきたしていた。殺意が、その異常さを越えていく。ぼくは、我を失った。・・・
二人への殺意が、ぼくを、燃え上がられたんだ。更に熱く、そして、激しく燃え上がらせたんだ。・・・
あの日の殺意。そして、今、ぼくが・€に行く前の殺意。その二つが、不規則に不秩序に入り交じっ・・
たんだ。入り交じって、一つとなったんだ。そう、ぼくの殺意は、二人に向いた。・・・
ぼくは、ヒロミの後を付けてきた。体育館の手前までそうだったんだ。でも、それを曲がると、ぼ・・
くには、カルメンしか見えなくなっていた。どういうことなんだ。ぼくは、ぼくの前世に過去戻りを・・
しているのか…。異常なぼくには、まったく分からなかった。ただ、目の前にカルメンが舞っていた。・・
オレッ! カルメンが舞っていた。・・・
ぼくは、ポケットのナイフを握った。あ・フ日と同じ感触に、ぼくは一瞬戸惑った。先程は、感じな・・
かった手応えだった。あの日の異常さと同じだった。あの日の悲しさと同じだった。ぼくは、ナイフ・・
を強く強く握った。・・・
・・・
「これでいいでしょ…。もう、この二人、あんたをいたぶったりしないわよ。これでいいでしょ…」・・・
あの時、あんたの胸は暖かかった。あたいを、抱いてくれたね。あの闇のなかで…。あたいは、あ・・
んた暖かさを感じたわ。長い時だった。・・・
あたいは長い時を、あたいを追ったのよ。こうして、あたいの温もりを感じたくって…。あん・スの・・
胸は暖かいわ…。・・・
暖かい。暖かいわ。そして、懐かしい…。もう、忘れてしまいそうだった。そうよ、あんた。忘れ・・
てしまいそうだったわ…。・・・
「これでいいでしょ…。これでいいでしょ…」・・・
あたいは、激しい女よ。知っているでしょ。あんたのためよ。あんたのためよ…。・・・
綺麗? あの日のように綺麗? あたい、あの日もあんただけに、踊ったのよ。知っていた? そ・・
して、今…。今も、あたい、あんたのためだけに、踊っている。綺麗? あたい、綺麗?・・・
いろいろ、話したいことがあるの・Bあとで、ゆっくりとしましょう…。あの日も、本当はそうした・・
かったのよ。あの川の畔で…。でも、あんた、狂っていた。バカみたいに、狂っていた…。ねっ、あ・・
んた、狂っていたよ…。・・・
何か言ってよ。あたい、あんたのためだけに、踊っているのよ。何か言ってよ…。・・・
「何か言って…。そして、あたいを抱いて…」・・・
あんたの胸、暖かいわ。はっきり伝わるわ。あんたの暖かさが、あんたが…。・・・
「あたいを抱いて…」・・・
・・・
「カルメン、待ってくれ! おれが、異常だ。おれが、狂っている。カルメン、・メってくれ!」・・・
殺意なんだ。おれは知っている。これは殺意だ。・・・
「おれが、狂っている。あの日と同じだ!」・・・
そう、あの日の殺意だ。いや、それ以上だ。おれが、狂っている。・・・
おれが、それを、届けているのか。新しいおれへ、おれは、それを届けているのか? あの日の思・・
いは、おれから消えてはいなかったんだ。おれは、新しいおれのなかで、再び、おれを演じている。・・
狂気のおれを演じている。・・・
「カルメン、逃げろ!」・・・
ものすごく、おれが熱い。いや、新しいおれが熱い。あの日よりも熱・「。おれの、あの日よりも熱・・
いんだ。・・・
新しいおれは、おれの熱さをも引き込んでいったんだ。おれの、あの日の狂気と共に引き込んで・・
いったんだ。おれが、狂っている。新しいおれが、狂っている。・・・
「逃げるんだ! おれから、逃げるんだ!」・・・
カルメン、言っただろう。おれと、新しいおれの境界がないって。分からないんだ。おれ、どうし・・
たらいいのか分からないんだ。・・・
新しいおれが、死んでいこうとしている。あの桜色に透明な揺れの時間へと、進んでいこうとして・・
いる。そして、その思いに狂気・「ている。お前への殺意。お前とだぶる女への殺意。二つの殺意・・
が、狂気のなかで一つに揺れている。いや、揺れているんじゃない。激しく燃えているんだ。・・・
「逃げろ! おれから逃げろ!」・・・
おれは、死に行こうとしている。怖いものなどない。新しいおれは、あの日のおれなんかより強く・・
なっている。新しいおれは、死を恐れていない。おれに、それを見たんだ。死を、おれに見たんだ。・・
新しいおれは、何をも恐れていない。・・・
「おれが、狂っているんだ。あの日よりも激しく、おれが、狂っているんだ!」・・・
・・・
「どうしたのよ、その目。あんた、どうしたのよ、その目…」・・・
いいじゃないのよ。恥ずかしくなんかないよ。いいじゃないのよ。久しぶりじゃない…。あたいは、・・
あんたの胸に抱かれたい。ずっとずっと、この時を待ったの…。いいじゃないの、あんた…。・・・
「どうしたのよ、その目…」・・・
嬉しくないの。あたいを、抱きたくないの。あたいを、愛していたんでしょ。あんた、あたいを愛・・
していたんでしょ…。・・・
綺麗て、言ってくれたじゃない。今も綺麗って、言ってくれたじゃない…。あたい、綺麗なんだろ。・」・
だったら、抱いてよ。あたいを抱いてよ…。・・・
「そんな目で見ないで…」・・・
・・・
ぼくのなかのぼくが、叫んでいた。おれが、狂っている。その通りだ。ぼくは、狂っている。・・・
その叫びが、ぼくに聞こえた。カルメン、ぼくより逃げろ! 訳が分からなかった。ぼくの我が、・・
遠くに遠くに飛んでしまっていた。・・・
叫びは、何度も聞こえた。ぼくを、激しく揺らした。遠くに飛んでいったぼくの我が、その叫びに・・
少しずつ呼び戻されるようだった。それ程、激しいぼくの叫びだった。・・・
その叫びが、ぼくを・Aぼくの思いへ向けた。殺意の向いたぼくの思いを、ぼくの意識に戻した。・・・
ぼくは死んでいく。その前に、ヒロミを刺す。道ずれだ。ぼくは、ナイフを握った手をポケットか・・
ら出した。ぼくの遠ざかった我から、熱く熱く燃えた殺意だけが、ぼくに、いち早く戻った。・・・
狂った者に、正常な時は流れないようだった。ぼくは、あの日と同じように、時のなかに迷い子に・・
なっていた。カルメンが揺れ、ヒロミが揺れていた。時が、重なっていった。カルメンとヒロミが、・・
ぼくの同じ時に舞っていた。・・・
ナイフを付きだした。・ョきが、やけに遅く感じた。あの日の時の怠慢が、再び、ぼくに流れていた。・・
ぼくの動きが、コマ送りのように感じた。時が止まり、カルメンが揺れた。時が進み、ヒロミが揺れ・・
た。・・・
「そんな目で見ないで…」・・・
カルメンが言った。ヒロミが言った。そんな目って、どんな目なんだ。ぼくには、分からなかった。・・・
・・・
「止めろ! ナイフをしまえ!」・・・
おれは、おれに叫んだ。新しいおれの殺意に、叫んだ。・・・
「止めるんだ! 止めるんだ!」・・・
それは届かないのか、おれのなかの熱さが、更に熱くな・チていた。・・・
「カルメン、逃げろ!」・・・
誰にも、届かなかった。おれの叫びは、誰にも、届かなかった。・・・
「カルメン、逃げろ!」・・・
・・・
本当よ。本当に、あんたと死んであげてもいいと思っていたのよ…。本当のことよ…。どうして、・・
そんな目で見るの…。あんた、どうして、そんな目であたいを見るの…。・・・
それは、あの日の目よ。あんた、それは、あの日の目よ…。・・・
本当に、そう思っていたんだよ。あんたと、死んでもいいと思っていたのよ…。・・・
「そんな目で見ないでよ! そんな目で見ない・ナよ、あんた! あんた! お兄ちゃんてば! お兄・・
ちゃんてば!」・・・
・・・
(11)・・・
・・・
そうなのよ、あたいは激しい女…。あんたを追ったのよ。あんたが、新しい生命へ入った。あたい・・
も、それに入ったの。あたいには見えたの。あんたが、それへと入っていったのが…。・・・
父の体内だったのよ…。そうよ、父さん。あたいは、父さんにまで、あんたを追ったのよ。・・・
「愛に、溶けておくれ…。さあ、その愛に、溶けておくれ…」・・・
父さんの歌が、聞こえていたわ。大きな愛が、そこにはあった・增c。・・・
それへの道は、険しかった。それは、神に、逆らうことだった。あたいは、あんたを呼び続けた。・・
あんたの手引きなくしては、それへと入ることは出来なかった。あんたは、気を失い続けていた。誰・・
だってそうなのね。誰だって、そんな所で目覚めてはいない。あたい、知らなかった。あたいは、た・・
だ、あんたを追っただけ。・・・
思い出した。今、やっと思い出した。あたいはやっぱり、神に、逆らっていた。神に、許されない・・
行為をしていた。・・・
だから、あんたも歪んじゃったの。新しいあんたのなかに、あ・スは、完全に溶けていかなかった。・・・
過去の思いを、抱き続けてしまったのね…。あんたが、歪んでしまったのね…。あたいのせいよ。・・
あたいが、あんたを呼び続けたから…。・・・
永遠に思ったわよ。あたいは、あたいが消えて行きそうなのを堪え続けた。あんたへの思いだけで、・・
それを堪え続けた。愛? 憎悪? それは、分からなかった。そんなこと、あたいには関係なかった。・・
そんなこと、どうでもよかった。ただ、あんたを感じていたかった。ただ、それだけ…。・・・
あんたは、眠ったままだった。あたいの呼びかけ・A無視し続けた。当たり前よね、そんな所で、・・
呼ぶ者なんてないものね。・・・
あんたの暖かさが、欲しかった。眠るあんたは、冷たかった。それでも、あたいは、あんたを呼ん・・
だ。あたいの意識が、涸れていたわ。朦朧と、あんたを呼び続けた。・・・
あんたが、父さんを出ていくときだった。母さんの羊水へ、流れ込んでいくときだった。あんたが、・・
あたいに気付いた。少しだけ振り向いてくれた。父さんの生命が、震えているとき…。・・・
「愛に、溶けておくれ…。さあ、その愛に、溶けておくれ…」・・・
それは、父さん・ェ、あんたを呼んでいた歌だったのね。父さんが、あんたを、愛の力で母さんまで・・
運んだのよ。愛に溶けておくれ…。そう歌って、あんたを母さんにまで運んだのよ。父さんと母さん・・
の愛が、一つになっていた時よ。・・・
あんたは、その愛に溶けていった。あたいを置いて、父さんと母さんの愛に溶けていった。・・・
「愛に、溶けておくれ…。さあ、その愛に、溶けておくれ…」・・・
あたいは、しばらく揺れた。その歌に揺れた。少しずつ、暖かくなっていった。でも、その歌は消・・
えていった。あんたも消えていた。・・・
その・桙ノ、あたいの場所が見えたの。あんたのいた跡。小さな虚(うろ)になっていた。そう、あ・・
んたが、あたいにその席を譲ってくれたの。・・・
それまで、闇にいたわ。父さんも知らない、父さんの深い闇の中にいた。あんただから、あたいを・・
気付いてくれたの。あんただから、そんな闇にまで、あたいを見付けてくれたの。・・・
その時、あんたは、あたいを呼んだわ。カルメン…。そう、呼んでくれたように思ったわ。・・・
その一瞬に、あんたが歪んだのね…。父さんの歌を、あたいは邪魔をしたのね…。・・・
あたいを見なければ・Aそれまでの過去は完全に消えていたのね。ごめんなさい…。でも、あたいは・・
激しい女。奔放な女。生きたいように生きたの。まだ、カルメンは生きていたの。あんたのなかにだ・・
け生きていたの。・・・
嬉しかった。あんたのなかに生きていたことを、あたいは知った。嬉しかったよ。あんたへの愛が、・・
あたいのなかで光輝いたわ。・・・
それからは、幸運だった。父さんは、本当に心から母さんを愛していた。あたいが待っていた間も、・・
父さんと母さんは愛し合っていた。あたいは幸運だった。あんたのように、ゆっくり眠りにつく・アと・・
が出来た。・・・
それからは、やっぱり思い出せない。あたいが、なくなったように感じたけれども…。母さんの羊・・
水のなかに、いたような気がするんだけど…。あんただけは、思い続けていたよう思うんだけど…。・・・
そうよ、あたいは、あんたを追った。父さんにまで、あたいは、あんたを追ったのよ…。あたいと・・
あんたは、兄妹。いいや、新しいあたいと、新しいあんたは、兄と妹。当然よね。同じ父さんなんだ・・
もの…。・・・
それに気付いたわ。今、やっと、それに気付いたわ。・・・
「だから、抱いてくれない・フ。だから、そんな目であたいを見るの!」・・・
・・・
どういうこと! いったい、どういうことなの! お兄ちゃん! そんな目で見ないでよ!・・・
あの二人は、もう、お兄ちゃんをいじめたりしないよ。わたしのなかのあたいが、あの二人を諌め・・
てくれたの…。もう、大丈夫なのよ、お兄ちゃん!・・・
ヒロミという人が、気になるの? お兄ちゃんを抱いた人。わたし、知っているわ。あんな人、大・・
嫌い。わたし、見ていたの。この木の下で、お兄ちゃんが、あの女に抱かれていたのを…。・・・
昨日、じゃなかった。一昨日・ヒ。わたし、見たの。嫉妬した。わたしのなかの、あたいが嫉妬した。・・
いや、わたしだったかな。分からない…。・・・
先程も、そうだったね。いたぶられているんでしょ…。いいわよ、あの女も諌めてあげる。・・・
でも、そんな目でわたしを見ないで! お兄ちゃん、そんな目で見ないで!・・・
「お兄ちゃん! そんな目でわたしを見ないでよ!」・・・
・・・
ナイフごとぶつかった。あの日のように、ナイフごとぶつかった。あの日、カルメンにぶつかった・・
ように、ぼくは、ナイフごとぶつかった。・・・
ヒロミだと、思って・「たんだ。まさか、まさか! ヒロミだと、思っていたんだ。・・・
あの日と同じ手応えに思った。手応えが、あったように思った。ぼくは、身を引いた。血が、凍っ・・
ていくようだった。・・・
・・・
いけないこととは知っていたよ。そんなこと、許されることじゃないとは知っていたよ。でも、そ・・
れはあんたが、あの道であたいを誘ってくれた時まで…。その時まで…。あたい、知っていた。・・・
ごめんなさい…。結局、あたいがいけなかったのよ…。あんたが、歪んでしまった。あんたの過去・・
が、新しいあんたを責めるのね。・・」・
痛いわ。あの日のそれより痛いわ。あたいのなかのわたしが、目を覚ましちゃったじゃない。痛い・・
わよ!・・・
でも、信じて。あの時は、本当に、あんたと死んでもいいと思っていたのよ…。・・・
あたいが、悪かったよ。だからって、あたいを刺すことないじゃない!・・・
・・・
それじゃ、あの日の再現じゃない! 痛いわよ! お兄ちゃん、痛いわよ!・・・
それに、あの目。お兄ちゃんの目。どういうこと。殺意が見えたよ。あの日の殺意より激しかった・・
わよ。どういうことなのよ!・・・
痛いよ! 痛いよ、お兄・ソゃん!・・・
・・・
ヒロミだと、思っていたんだよ。まさか、まさか! ヒロミだと、思っていたんだよ!・・・
あー、なんてことだ。美佳が、血を流している。妹が、血を流している。真赤な血だ。制服のブラ・・
ウスに、その色が染まっていく。アー、なんてことだ。ぼくは、妹を傷つけてしまった。・・・
「ヒロミと思ったんだ! 美佳、お前とは知らなかったんだ!」・・・
手応えはあった。あの日よりも、それは重く感じた。どうすればいいんだ。どうすればいいんだ。・・・
「誰か、助けてくれ!」・・・
ぼくの狂気が、真っ黒・フ恐怖と入れ替わった。・・・
・・・
「お兄ちゃんのバカヤロー! 助けてくれって、それは、わたしの台詞よ!」・・・
でも、こんな痛み、へっちゃらよ。後で病院に行くわ。こんなもの、かすり傷よ。・・・
わたしのなかのあたいだって、怒っているわ。あたいを、信じてくれなかった。あたいだって、・・
怒っているわ…。・・・
ヒロミと思ったんだって。バカにするんじゃないわよ! あんたは、どこまでバカなの! 妹の姿、・・
も見分けられないの!・・・
「バカヤロー! 神太のバカヤロー!」・・・
わたし、心配していたん・セから…。本当に、心配していたんだから…。・・・
「こんなもの、かすり傷よ! お兄ちゃんの、バカヤロー!」・・・
・・・
信じてくれないのね。あたいを、信じてくれないのね。あたいを、信じてくれないのね! 助けて・・
だって? バカじゃない! あんたは、昔も今もバカなのね!・・・
大丈夫よ、これくらいの痛みで、あたいがまいるものですか! 急所は外したわ。あの日のように・・
ね…。・・・
あの日の再現ね。あたいたちの、運命だったんだ。いいわよ、あの日の再現よ。知っているの、あ・・
の日のこと。あたいは、あ・スのナイフを交わしたよ…。・・・
あんたを刺したのは、あたいよ。滅茶苦茶に、あんたを突き刺したわ。あんたの狂気よりも、あた・・
いの狂気の方が激しかったのよ…。憶えていないでしょ…。あんた、気を失っていたわ。・・・
それでもいいのよ。あの日の再現…。あたいはいいよ。だって、あの闇に戻れるもの…。・・・
・・・
止めろ! カルメン! 止めるんだ! いや、新しいカルメン、止めるんだ!・・・
美佳が、ナイフをおれに向けた。いや、ぼくに向けた。おれは叫んだ。カルメンに叫んだ。・・・
信じていたよ。信じて・「たよ。おれは信じていたよ!・・・
おれの、すべてだったんだ。だから、あの日、あの店へ行ったんだ。あの闇でも、お前を待ってい・・
たんだ。父さんのなかでも、お前を感じたんだ。信じてくれ。おれは、お前がすべてだったんだ。信・・
じてくれよ。おれは、お前を信じていたのさ!・・・
恨んでもいない。おれが歪んだことを、少しも恨んでいない。だから、止めろ! カルメン、止め・・
るんだ!・・・
・・・
「ふざけるんじゃないわよ! あたしを、刺そうとしただって! バカにするんじゃないよ!」・・・
誰だ。誰かが叫んで・「る。あたいに、それともあんたに…。邪魔するんじゃないよ! あたいの決・・
着に、邪魔するんじゃないよ! あたいは今、忙しいのよ。そんなこと、わたしの方に言って。・・・
ヒロミという女ね。あたしを刺そうとした! バカじゃない。あの人は、あたいを刺そうとしたの・・
よ。・・・
「バカにするんじゃないよ! 刺しなよ! 刺せるものなら、刺してみなよ!」・・・
なんて、女よ! わたしのお兄ちゃんを、いたぶったくせに! わたしが、刺してやる! こんな・・
女、わたしが、刺してやる! わたしのあたいは、引っ込んでい・ト…。・・・
「さあ、刺せるものなら、刺しなよ! あんたたち、バカじゃない! むかつくんだよ!」・・・
ヒロミの平手が、あんたに飛んだ。わたしが、あたいの前に出た。わたしが、ヒロミに向けたナイ・・
フを握りなおしていた。止めなさい…。あたいは、わたしに言った。届かなかったようだった。・・・
痛みは去っていた。少しのかすり傷だった。わたしの興奮に、それは既に去っていた。・・・
あたいは、わたしを抑えた。わたしは、まだ子供だった。自らの、抑えが効かないようだった。あ・・
たいは、わたしの前に出た。・・・
・uそう、それなら、お望みどうりにしてあげる。いいのかな?」・・・
あたいは、あんたを押しやった。あんたは、尻餅を付いた。全身の力が抜けているようだった。大・・
丈夫よ、かすり傷よ。あんたは、心配しなくてもいいのよ…。・・・
「本当に刺しちゃっていいのかな。痛いよ…」・・・
ナイフを、ヒロミに突き出した。昔の風が、あたいに心地よく吹いた。なぜか、楽しくなった。あ・・
たいのとんがりが、久しぶりにあたいに昇った。セビーリアを思い出した。とんがり続けていたあた・・
いを思い出した。・・・
あんたとの決着は、・繧ナ付けようね…。あたいに、昔の風が吹いているのよ…。あの頃の風が吹い・・
ているのよ…。ヒロミという女が、それを、あたいに運んでくれたのよ…。・・・
「あんたたちは、自分たちが一番の不幸な者のような顔をしている! バカにするんじゃないよ!」・・・
ヒロミが、あたいに言った。同時に、あたいの握ったナイフが、あたいの手から放れた。ヒロミの・・
蹴りが、あたいの腕を襲った。・・・
油断だった。わたしが、まだ、あたいの側にいた。あたいから、後ろへ下がろとしなかった。あた・・
いは、無理にわたしを後ろへ下げた。・ニんがっていたあの頃のあたいが、前に出た。ヒロミをぶった。・・
やられたままでは、あたいのわたしにも示しが付かないのよ…。いい手応えだった。いい気持ちだっ・・
た。・・・
どうして、この女を、新しいあんたは刺そうとしたの? どうしてなの? あたいは気になった。・・
でも、それは一瞬ことだった。あたいは、もう一度ヒロミをぶった。ヒロミも、あたいをぶった。・・・
「あたしには、母親はいない。親父は転勤転勤! この学校も、まだ二ヶ月目よ! あんたたちと同・・
じよ!」・・・
ヒロミも、とんがっていた。あたいは・A少し微笑んだ。そしたら、益々、ヒロミがとんがった。・・・
「だからって、あたしは親父に付いていけない! 今回の転勤は、親父一人で行っちゃったんだ! ・・
もう、大人よ。もう、大人なの! もう、大人なんだってさ!」・・・
あたいを、見ているようだった。ヒロミは、あの頃のあたいのようにとんがっていた。・・・
「あんたたちとは違うのよ! バカにするんじゃないよ!」・・・
ヒロミの興奮が、あたいに激しく届いた。あたいは、ヒロミの目を見ていた。悲しそうな目だった。・・・
「あんたたちとは違うのよ! 甘ったれて! バカにするんじゃないよ!」・・・
本当は、あなたの出番はなかったのよ。ヒロミ…。どうして、そんなにとんがっているの…。・・・
やっぱり、あたいを、見ているようだった。セビーリアのあたいを、見ているようだった。あたい・・
に吹いた昔の風が、目の前のヒロミという女にも吹いているようだった。その風が、あたいを引き込・・
んでいった。不思議だった。あんたに向いていたあたいの思いが、徐々に冷めていっていた。・・・
「甘えるんじゃないよ! あたしは、あんたたちのように、親の転勤になどに、付いてはいけないの・・
よ・c。甘えるんじゃないよ!」・・・
ヒロミの思いが見えてきそうだった。突っ張っているなかが、あたいには見えてきそうだった。あ・・
たいもそうだった。とんがっていた。いつも、何かに怒っていた。むかついていた。・・・
「そんなに、とんがって。よくないよ、心臓に良くないよ…」・・・
あたいは、言ってやった。やっぱり、ヒロミという女も、まだ子供だった。・・・
「兄を、どうするつもりだったの…」・・・
ヒロミも、感じているようだった。わたしではなく、あたいの方を…。同じように、とんがってい・・
た、あたいの方を…・B・・・
「ただ、むかついただけよ。いつも、あんたと電車に乗っていたでしょ…。羨ましかっただけよ…」・・・
ヒロミが、あたいをぶった。あたいも、ヒロミをぶった。ヒロミは驚いていた。あたいの態度に驚・・
いていた。・・・
でも、あたいには、ヒロミがあたいと同じように、この場を楽しんでいるように思えた。そんなヒ・・
ロミの思いが、あたいには見えてきそうだった。あたいには、分かるような気がした。・・・
そうよ、新しいあたいもそうなのよ…。本当は、もっともっと、自分を出したいのよ。本当の自分・・
を、前に前に・oしたいのよ。でも、慣れない環境に、それを戸惑っているの。だから、自分でない自・・
分を、精一杯作っているのよ…。・・・
新しいあたいは、だからおとなしくしている。いや、おとなしくしていた。本当は、もっともっと・・
激しい女。あたいが、なかにいるんだもの。激しい激しい女よ。精一杯、おとなしくしていたのよ。・・・
同じように、あなたは、とんがっているの。突っ張っているの。そう、無理にとんがっているのよ。・・
無理に突っ張っているのよ…。本当の自分を、とんがった鎧で隠しているのね…。あたいには分かる・・
わ・諱Bあなたは、優しい子よ…。あたいと同じ、あたいもそうだった。セビーリアの街では、そう・・
だったわ。とんがった鎧を、着飾っていたわ…。・・・
でも、今のあなたは、本当のあなたを出している。ヒロミ…。それでいいのよ。鎧なんて脱いで、・・
自分の本当のとんがりで、あたいに向かってきなさい。ああ、あたいを見ているようよ…。・・・
「本当のことを言いなさい…。それだけじゃないでしょ…」・・・
ヒロミを、また、ぶった。ヒロミも、あたいを、また、ぶった。・・・
ヒロミの気持ちが、あたいの平手一発ごとに和らいでい・ュようだった。ヒロミには、こうして張り・・
合える相手がいなかったんじゃない…。あたいは、あたいなりにそう思っていた。ヒロミは、本当の・・
自分になっているようだった。・・・
ヒロミが考えていた。あたいに、心を開こうとしていた。それが、あたいには分かった。あたいの・・
目を逸らしていた。・・・
もう一発、ヒロミの平手が襲った。あたいは返さなかった。・・・
「あんた、知っていたでしょ。あんた、このぼうやを、付けていたでしょ…」・・・
ヒロミの目が、あたいに戻った。別の目のようだった。あたいへの怒りが、消・ヲようとしていた。・・・
「だから、見せてあげたの。あんたに、嫉妬を焼かしたかったの…。お兄ちゃんのイヤらしいところ、・・
見せてあげたのよ…」・・・
それが、精一杯のようだった。ヒロミのとんがりは、そこまでのようだった。あなたは、優しい子・・
なのよ。無理しないでいいのよ。・・・
ああ、そう言えば、わたしが、熱くなっていたことがあった。わたしが、恋に揺れていると思って・・
いた。あの時ね。あの音のリズムが変だった時ね。・・・
「ハハハハ…。嫉妬したよ。思いっきり、嫉妬したよ…」・・・
もう、平手は止・゚た。あたいの視線のはしに、吉村が腰を上げるのが見えた。・・・
「あんたたちを、からかってやりたかった。生きていくことに甘えている、情けないぼうやをから・・
かっただけよ…」・・・
ヒロミの目が沈んだ。大きく開いてしまった自分の心を、照れているようだった。更に、その心を、・・
もっと開くべきか迷っているようだった。あたいには、それが分かった。・・・
その時、あんたが、そのぼうやが、いや、お兄ちゃんが、立ち上がった。吉村が、あたいの落とし・・
たナイフに手を伸ばしていた。・・・
・・・
「危ない!」・・・
吉村だった。吉村が、美佳の落としたナイフを拾った。吉村の目は異常だった。シンナーの目だ。・・
前の学校で、同じ目を見たことがある。・・・
ぼくは、ヒロミを押しやった。吉村のナイフが、美佳に一直線に向かっていた。そして、その異常・・
な目に、美佳への怒りが見えた。・・・
「コノヤロー!」・・・
ぼくは、吉村に突進した。吉村は、めくれた歯茎を、ぼくに向けた。同時に、手にしたナイフも、・・
ぼくに向けた。・・・
「コノヤロー!」・・・
吉村は、カルメンにいたぶられた。きっと、シンナーでらりっていたんだろ・、。その報復を、美佳・・
に向けていた。ぼくは、吉村にぶち当たった。ぼくの小さな身体が、吉村の懐へ潜り込んだ。・・・
「ウワー!」・・・
下腹に、激痛が走った。吉村の顔を掴んだ。爪を立て,思いきり掴んだ。・・・
「ウワー!」・・・
吉村の腕を噛んだ。膝で、吉村の急所を蹴り上げた。ぼくは、戦っていた。始めてだった。ぼくは、・・
戦っていた。ぼくは、戦士になっていた。・・・
死がよぎった。ちらっと、あのロープのことを思った。銀杏の木のことを思った。・・・
「ウワー!」・・・
再び、激痛が、ぼくを責めた。・ュし位置が違ったようだが、分からなかった。体内の血液が、ぼく・・
の外へ出ていくのが分かった。堰を切った血液が、ぼくの血管を通って、ぼくの外の、大洋へと流れ・・
ていくのが分かった。・・・
吉村が、もう一度、ぼくを刺したんだ。ぼくは倒れた。美佳とヒロミが、吉村からナイフを奪った・・
のが見えた。・・・
でも、ぼくは戦った。ぼくは、美佳を救った。妹を救えた。ぼくの戦士は、あっけなかったが、そ・・
れだけ思えた。満足だった。それだけで、ぼくの生きてきた意味があったと思った。ぼくは、それで・・
満足だった。大・「に満足だった。・・・
ぼくは、美佳を見た。よく見えなかったが、もう、カルメンとはだぶっていなかった。・・・
その瞬間に、意識が遠くなった。ぼくの後ろで、美佳が叫んでいた。ぼくも、痛みに叫んでいた。・・・
「!!!」・・・
美佳の叫びも、そして、ぼくの叫びも、ぼくに、聞こえなかった。美佳が、ぼくの手を握ったのだ・・
け分かった。ぼくの意識が、闇に包まれた。・・・
・・・
「あんた、あんたってば…」・・・
あたいが、あんたを呼んでいるのよ。聞こえないの…。どうしたの、あんた。・・・
「分かったよ、信じ・トあげるよ。だから、あたいを見て」・・・
どうしたのよ、あんた…。・・・
「あんた、あんたってば…。あたいを一人にしないで…」・・・
・・・
カルメン。信じておくれ。おれは、本当にお前を信じていた。あの日だけだよ。あの日、お前泣い・・
ていなかった。だから、おれ…。だから、おれ…。・・・
おれの、おれの、意識が薄くなっていくようだ。カルメン、助けておくれ。助けておくれ…。・・・
愛していた。すべて、だった。おれの、おれの、すべてだった。おれを、おれを、信じて、信じて・・
おくれ…。・・・
また、あ・フ闇へ、向かうのだろうか…。カルメン、おれを、おれを、一人にしないで、くれ…。愛・・
しているんだよ…。愛、して、いるんだよ…。・・・
意識が、消えていく。おれは、カルメンを思った。薄れる意識のすべてで、カルメンを思った。・・・
カルメン…。おれを、おれを、ひとり、に、しないで、おくれよ…。カル、メ、ン…。・・・
・・・
(12)・・・
・・・
新しいあたいが、新しいあんたの手を握っている。それが分かるわ。新しいあたいを通じて、あん・・
たの温もりが伝わるわ。・・・
あんたは、その手のなかに・「る。そして、あたいは、今、それへと向かっている。・・・
あたいの意識が、少しだけ霞んでいく。新しいあたいのあの音が、少しだけ遠くなったみたい。い・・
つもの音ではないの。何だか、遠くなっていくのよ。・・・
「ジン、ジン、ジン……」・・・
でも、あんたの音が近くなってきた。あんたの生命の音が、近くなってきた。新しいあんたの手の・・
なかで、あんたは眠ろうとしているの。あんたの音が規則正しいよ。微睡みに揺れる音よ。静かな音・・
よ…。・・・
もう少し待って。そこに行くから。その手のなかに行くから…。・・・」
あんたも、あたいにすり寄ってきてくれていたのね。新しいあんたのなかを、あたい目指して…。・・
一人にしないよ。あんたを、一人になんてしないよ…。・・・
あたいたちは、消えていこうとしているようね。新しいあたいから、あたいは消えていく。そして、・・
新しいあんたから、あんたが消えていく。そんな気がする。新しいあたいと新しいあんたの結ばれた・・
手のなかで、あたいたちは、消えていこうとしている。・・・
あんたの音に、触れられそうよ。もう少し、あんた、あたいを見て。側にいるよ。あんたの側にい・・
るよ。・・・
・・・
微睡んでいた。ゆらゆら揺れていた。ぼくは、そんななか闇を感じていた。薄暗く深い闇を感じて・・
いた。・・・
随分と、揺れていたようだ。規則正しい揺れだった。変化のない揺れだった。・・・
なぜか、退屈が、その揺れに絡んだ。ぼくは、ぼくを捜した。ぼくの意識が、ぼくのなかで起きよ・・
うとしていた。・・・
規則正しい揺れに、変化が起きた。ぼくのなかのぼくの目覚めに、その揺れは、少し歪んだ。ぼく・・
が、ぼくの意識を叩いた。ぼくが、その扉を開けた。・・・
ぼくが、透明になっていた。それが、・レくに感じられた。闇のなか、ぼくが、透明になっていた。・・・
それは、ぼくが、先に想像していた姿とは違った。桜色ではなかった。そんなに、透き通ってはい・・
なかった。何だか、陽炎のようなものが、ぼくのその姿の廻りに漂っていた。・・・
夏の高校野球のグラウンドに立ち昇る、陽炎と同じだった。テレビから見えた、あの空間の歪みと・・
同じだった。ぼくは、思ったものだった。テレビを見ながら、思ったものだった。あんな、陽炎のな・・
かで試合なんて…。ぼくは、思ったものだった。・・・
いつのことだったかな…。随分と・A昔のように思える。高校野球。ぼくの学校も、わりと強かった・・
よ。父さんも、ぼくに聞いたよね。今度の学校、野球強いのかって? そうだよ、強いそうだよ。地・・
区大会の、決勝戦まで行ったそうなんだよ。甲子園まで、あと少しだったんだよ…。あと少しで、あ・・
の陽炎の立ち昇るグラウンドで、試合が出来たそうなんだよ…。・・・
その陽炎と、同じなんだ。ぼくの廻りに、それは、揺れているんだ。熱くないよ。ぼくは、経験し・・
たことないけど、夏の甲子園の陽炎のように、熱くはないよ…。・・・
ぼくは、どうして、そんなこ・ニを思い出したんだろう…。あー、ぼくも、高校生だったんだ。ん?・・
…。だったんだ? …。知らぬ間に、過去形になっている。ぼくは、いつ高校を卒業したのだろう…。・・・
早く、卒業したかったように思うよ…。いいや、学校なんて、なくなればいいと思っていたように・・
思うよ…。ぼくは、その学校で、よく鼻血を出していた。そうだった。ぼくは、その学校で、いじめ・・
られていたんだ…。・・・
悔しかったさ。でも、どうしようも出来なかった。ぼくは、呆れる程弱かった。・・・
でも、待てよ…。今なら、ぼくでも、そんなこ・ニに立ち向かっていけそうに思うよ。ぼくの廻りの・・
陽炎…。その陽炎が、ぼくに、何かを流し込んで来るんだ。ぼくは、あの頃のぼくじゃない。強く・・
なっている。きっと、強くなっている。・・・
そうだよ、今なら原田なんかに負けない。吉村なんて目じゃない。そんな風に思う。ぼくは強く・・
なっているよ…。・・・
いい心地だよ。ぼくの陽炎、ぼくにとっても優しいよ。いい心地だよ。・・・
父さん、いつか言っていたよな…。自分を好きになれ。そう、言っていたよな…。好きになれなけ・・
れば、その好きになれない自分を好き・ノなれ。そう言っていたよな…。・・・
その意味が、今のぼくによく分かるよ。ぼくが、今、ぼくのことを強くなったと思ったら、ぼくが・・
少し光ったよ。ぼくが、ぼくのことを、少し好きになっているんだ。そう思ったら、ぼくが、少し・・
光ったんだよ。・・・
ぼくの陽炎は、優しいだけじゃないようだよ。ぼくに、いろいろ送ってくれるんだ。色々な色を、・・
ぼくに送ってくれるんだ。そのひとつが、今言った強さだよ。ぼく、父さんの言葉よく分かるよ。・・・
ぼくが望んで、ぼくは、この場所にやってきたんだろうか…。それは、分か・轤ネいよ。でも、ぼく、・・
それに、憧れていたように思うんだ。よく分からないよ…。・・・
でも、こんな心地のいい場所知っているの、ぼくだけのように思うよ。父さんは、知らないだろう・・
な。勿論、母さんも、知らないだろう。妹は、知っているかも知れない。美佳は、勘がいいから…。・・・
ぼくだけの秘密でいたいな。この場所は、ぼくだけが知っている、ぼくの秘密の場所さ。ヘヘヘ…。・・
そう思うと、何だか楽しくなってきたよ。・・・
あっ、また、ぼくが光った。桜色のようだった。見損なっちゃった。でも、いいや。何度も・A光れ・・
そうだよ。ぼく、自分が、好きになれそうなんだ。あっ、また光った。少し、黄色い光だった。今度・・
は、見損なわなかったよ…。・・・
原田や吉村に、見せてやりたいよ。父さんが言っていた。いじめる奴たちに、その輝きを、見せて・・
やるんだ…。そうだよ、見せてやるよ。いい色だよ…。・・・
そうだ、ヒロミにも見せてやろう。少しは、ぼくを見直してくれるだろうかな。でも、ダメだろう・・
な。ぼくは、ヒロミを殺そうとしたもの…。・・・
殺す…。どうしたんだ。殺す…。ヒロミを、殺そうとした。どういうことだろ・、…。・・・
あー、ぼくの陽炎が消えていく。殺す。どういうことだ。ぼくの陽炎が消えていく。ぼくは、ヒロ・・
ミを殺そうとした…。・・・
・・・
気が付いたね、あんた。あたいよ、あたいは側にいるよ。・・・
陽炎が、綺麗だったよ。ときどき、色を帯びていた。キラキラと光っていた。綺麗だったよ。そん・・
な綺麗な光、あんた、持っていたんだね。・・・
あたいも、真似したよ。あたいには、陽炎がなかったけど、あたいも光ったよ。あんたが光ると、・・
あたいも光ったよ。あたいも綺麗だった。あんたに、負けていなかったよ・c。・・・
抱いてあげるね。ここは、新しいあたいと新しいあんたの手のなか、新しいあたいが、新しいあん・・
たの手を握っているの。手のひらと手のひらが、ぴったりとくっついている場所。抱いてあげるね。・・
手のひらだけじゃなく、あたいの意識のすべてで、抱いてあげるね…。・・・
大丈夫よ、新しいあんたは、死なないよ。まだまだ、いい音が聞こえてくるよ。それに、あんたが・・
目覚めたもの。あんたの陽炎が、あたいに見えたもの。新しいあんたは、死なないよ。でも、その陽・・
炎が、消えようとしている…。・・・
さあ、・オっかりして。あんたの陽炎が、消えようとしているよ。新しいあんたを、助けてあげて。・・
それは、あんたにしか出来ないことなのよ。あたい、それが今、分かったよ…。・・・
・・・
そうだ、おれの陽炎が、消えかけている。そして、新しいおれの陽炎も、消えかけている。どうす・・
ればいいんだろう。カルメン、教えておくれ…。・・・
いやダメだ。これは、おれのことなんだ。おれは、これから消えて行くんだ。新しいおれから消え・・
て行くんだ。最後くらい、自分で片を付けなければ…。・・・
そうなんだよ、これから新しいおれ・ノは、カルメンなんて付いていない。新しいおれは、強く生き・・
ていかなければならない。いや、生きていく自体が、強く歩いていくことなんだ。誰だって強いんだ。・・
あんな難しい世の中を、生きているんだ。みんな、強いんだ…。・・・
だから、生まれて来れたんだ。生まれた奴は、強い奴なんだ。選ばれた勇者なんだ。だから、生ま・・
れて来れたんだ…。・・・
おれは、それを思い出した。おれの陽炎に、それを、思い出した。そうだよ、新しいおれも、それ・・
を、思い出すだけいいんだ。そうだ、それを、思い出すだけいいんだ…。・・」・
おれだって生きた。あの時は、強かったんだ。難しい世の中を、強く歩いていたんだ。本当に、難・・
しかったけど、おれは、それを歩いていたんだ。・・・
そのことは、マルコから教えられたことだ。誰だって強い。だから、生まれることが出来た…。選・・
ばれた勇者なんだ…。あの時は、そんなことまったく理解出来なかったけど、今のおれには、それが・・
分かる。よく分かるよ…。おれだって、選ばれた勇者だったんだ…。・・・
マルコで思い出した。カルメンには内緒だったけど、おれ、カンテ(フラメンコの歌)を教わって・・
・「たんだ。カルメンのように、おれも、舞台に立ってみたかったんだ。マルコに習ったんだ。絶対に、・・
カルメンに内緒だって、マルコに頼んだよ。カルメンの鼻を、あかしてやりたかったんだ。・・・
カルメンの奴、そのことを知ったら笑うから…。いつものように、おれを、バカにするだろうから・・
…。マルコは、黙っててくれたようだった。約束を、守ってくれたようだった。・・・
その時の話だよ。今から思うと、その時のおれは、燃えていたよ。強く生きていたよ。難しい世の・・
中を、強く歩いていたよ。選ばれた勇者だったんだ…。思・「出したよ…。・・・
マルコは厳しかった。でも、おれの歌も、だんだん様になっていった。あの頃のおれは、生きてい・・
た。おれの生命が生きているのを、感じていた。いい時だった…。・・・
新しいおれも、生きているんだよ。選ばれた勇者なんだよ。分かるだろう…。・・・
ハハハハ、少し嬉しくなったら、おれの陽炎が戻ってきたよ。おれ、カンテ、結構巧かったんだぜ。・・
マルコが、お前には素質があるといってくれた。鍛冶屋だったおれの親父も、マルコに習ったことが・・
あったらしいんだが、その親父より、おれの方が数段巧い・チて言っていれたよ。頑張れば、モノにな・・
るって言ってくれたよ。おれもジプシーだ。カンテ・フラメンコは、ジプシーの歌だ。その時だけ、・・
ジプシーの血が流れていることに感謝したさ。・・・
「オーレッ!」・・・
ほら、少しだけ、あの陽炎が戻ってきているぜ。新しいおれに、その陽炎が戻ってきているぜ。・・・
歌ってやるよ。新しいおれのために、歌ってやるよ。ジプシーの歌を…。・・・
ほら、新しいおれの陽炎が、大きくなっている。おれの陽炎も、大きくなっている。あっ、今少し・・
光った。桜色に光ったぜ。新しいお・黷ェ、桜色に光ったぜ。・・・
歌ってやるよ。新しいおれのために歌ってやるよ。ジプシーの歌を…。・・・
「オーレッ!」・・・
・・・
―娘は、隣村に嫁に行った。生まれたてのロバと一緒に、丘を越えた…。・・・
孫娘は、その隣の村に嫁に行った。仲良し子馬のチビ連れて…。・・・
・・・
―隣村から、嫁が来た。ロバも子馬もいなかった…。・・・
けれど、その娘は綺麗だった。ロバも子馬もいらなかった…。・・・
・・・
歌が、聞こえるようだよ。いや、歌じゃない、ぼくの音だ。ぼくの生命の音だ。・・・
あっ、陽炎が、・レくに戻ったよ。そして、光ったよ。桜色に光ったよ。・・・
そうだ、謝るんだ。精一杯謝るんだ。ぼくは、強くなっているんだよ…。ヒロミに謝るんだ…。・・・
今度は、青く光った。ぼくが、また光った。・・・
いい歌だよ。いい音だよ。ぼくは、生きていくよ…。こんなにいい音を、ぼくは、持っているんだ。・・
ぼくは、生きていくよ…。・・・
選ばれた勇者なんだ。そうなんだ。ぼくは、選ばれた勇者なんだ。世の中という、果てしなく難し・・
い世界へ派遣された、勇者なんだ…。・・・
そう、生きるために、派遣されたんだ。生・スを、思いきり感じるために、派遣されたんだ。それが・・
分かったよ。もう、死のうなんて思わないよ…。選ばれなかった者たちに、失礼すぎるよ。ぼくは、・・
生きるんだ…。・・・
ぼくが光った。いい色だ。ぼくも歌うよ。生命に響く、ぼくの音の歌を…。・・・
あっ、また光った。真赤に真赤に光った。・・・
・・・
―娘は、隣村に嫁に行った。何年か後には、大きくなったロバと帰ってきた…。・・・
孫娘は、その隣の村に嫁に行った。仲良し子馬は死んだそうだ。娘一人で帰ってきた…。・・・
・・・
―隣村から、嫁が来た。ロバ・燻q馬もいなかった…。・・・
けれど、その娘は綺麗だった。綺麗なままで帰っていった…。・・・
・・・
ハハハハ。あんた、カンテ習っていたの…。知らなかったわ。マルコ、一言もそんなこと言わな・・
かったよ。・・・
でも、結構いけるよ…。あたい、踊りたくなってきた。・・・
あんた、続けて。その歌続けて…。あたい、踊るわよ。あたい、踊るわよ…。・・・
「オーレッ!」・・・
・・・
―娘は、隣村に嫁に行った。生まれたてのロバと一緒に、丘を越えた…。・・・
孫娘は、その隣の村に嫁に行った。仲良し子馬のチビ連・黷ト…。・・・
・・・
(13)・・・
・・・
「そろそろ消えるよ。結構いけるんだね。あんた、いいカンテだったよ…」・・・
あたいは、あんたを抱いた。・・・
「お前に、そう言われると嬉しいよ…」・・・
あんた、笑っている。あんたの陽炎が、あたいをも包んでくれている。あたいも嬉しいよ…。・・・
「でも、とぼけた歌ね。あんたらしいわ…」・・・
新しいあたいと、新しいあんたの手のなかは、暖かかった。あたい、幸せを感じたわ。でも、そろ・・
そろいかなくっちゃ。あたいたちの本来の場所へ、いかなくっちゃ。・「や、戻らなくっちゃ…。・・・
「マルコに、会えるかな?」・・・
あんたも、完全に目覚めたのね。そうだよ、マルコに会えるのよ…。・・・
「マルコのギター、聞きたいね…」・・・
すべて思い出した。あたいは、すべて思い出した。新しいあたいと新しいあんたの手のなかで、す・・
べて思い出した。新しいあんたの生命が燃えていた。生への力強さが輝いていた。そして、新しいあ・・
たいも燃えていた。美しく愛に輝いていた。だから、思い出したの。二人とも、真赤だった。生命に、・・
真赤だった。愛に、真赤だった。・・・
「あた・「が、父さんに入る前、もう一つの光の道があったわね。あんた、憶えている?」・・・
あんたが光った。あんたも、思い出しているのね。そらそうよね…、あんたも、あのなかにいたん・・
だからね…。生命と愛が、真赤に燃えているなかに…。・・・
「おれたちは、その光の道を歩いて行くべきだったんだ。道を、踏み外したんだ…」・・・
また、あんた光ったよ。あたいも、光っているかな…。桜色に薄く光ったよ。綺麗ね。あんた、綺・・
麗ね…。・・・
「その道は、宇宙へと続いている。おれたちの、果てしない宇宙へと続いているんだ…」・・・
そうよ、あたいたちの宇宙。果てしない宇宙。あたいたちはその宇宙で、新しいあたいたちを待つ・・
のよ…。新しいあたいたちを待ちながら、眠るのよ…。あたいたちの果てしない時を、あたいたちは・・
ゆっくりと揺れるの…。・・・
「おれたちは、随分と遠回りしたんだろうか…」・・・
あたいも光ったよ。今、あたいも光った。あんたのように、桜色に光ったよ。・・・
「そんなことないよ。あたいたちの時間は、たっぷりあるの。あたいたちの生命は、永遠なの…」・・・
そうなのよ…、あたいたちは、永遠なの…。永遠の生命を・「た、永遠の存在なの…。・・・
「あたいたちは、永遠なのよ…」・・・
あたいたちは、何度も何度も人生を経験しているの…。いろんな人に生まれたの。それを、思い出・・
したわ。だから、あたいたちの時間は永遠なの…。・・・
「楽しみだね。おれって、いったいどんな人に、生まれていたんだろう…」・・・
あたいたちが、どんどん光っている。あんた、綺麗よ。あたいも綺麗よ…。・・・
「そうね、楽しみ。でも、それを知るのは、随分と先のことよ。あたいたちは、果てしない宇宙で眠・・
るの。新しいあたいたちが、その眠りの扉を・@いてくれるまで眠るの。そう、新しいあたいたちが、・・
その人生を閉じて、死というものを乗り越えた日まで眠るのよ…」・・・
いい色ね。あたいたちの色、いい色ね。こうして、眠るのね…。いい色だわ…。・・・
「そして、また眠るの。新しいあたいと再会して、また、その新しいあたいと出会う日まで眠るの。・・
それぞれが、眠っているのよ。あたいの幾つもの人生が、それぞれに、眠っているの。そして、いつ・・
か出会うの。そのすべてのあたいが、出会うの…。果てしない時のなかを生きてきた、それぞれのあ・・
たいが出会うのよ…・v・・・
あっ、今、新しいあたいたちの手が離れたね。新しいあんたは、助かるわ。だって、あんたが、こ・・
うして宇宙へと向かっているんだものね…。新しいあんたの生命が燃えていないと、あんたは、あた・・
いの前にはいないものね…。・・・
「楽しみだわ…。そして、その時は、あたいたち宇宙の果てにいるの。すべてのあたいと出会い、新・・
しいあたいたちの宇宙の果てにいるの…」・・・
病院に着いたのね…。新しいあたいが、心配そうよ。大丈夫よ。お兄ちゃんは助かるよ…。あたい・・
たちが、付いているよ…。・・・
「新し・「お前は、やっぱり、強い女なんだな。いい女になるぜ。お前のように、いい女になるぜ。ハ・・
ハハハハ…」・・・
あんたも、感じているのね。手が離れたのよ。あたいの方は、かすり傷だったよ。でも、あんたは・・
病院に行ったのね…。だから、手が離れた。傷ついたあんたが、病院に着いたのね…。きっと、助か・・
るわよ…。血も、もう止まっているよね…。ねえ、あんた、血も、もう止まっているよね…。・・・
「新しいおれも、強くなるよ。おれの、あのカンテを聞かしてやったから…。大丈夫さ、新しいおれ・・
は強くなる…」・・・
でも、念のため、もう少し聞かしてあげたら。新しいあんたの意識が、戻るまで…。だって、死ん・・
じゃったら、あたい、やっぱり困るもの。あんたが、忙しくなっちゃうじゃない。側にいてくれなく・・
なっちゃうもの…。・・・
「よかったね、あんた…。あの歌。生命が助かるまで、歌ってあげるんでしょ…」・・・
あたいとあんたが、一つになっていく。あたいたちの宇宙への道へは、こうして二人して進むのね。・・
あんたに抱かれながら、あんたを抱きながら、そして、一つに眠りながら進むのね。だから、歌って。・・
あんたの、あのカ・塔e、歌って…。・・・
「そうだな…。そうだよ…、歌ってやらなくちゃ…」・・・
・・・
―隣村から、嫁が来た。ロバも子馬もいなかった…。・・・
けれど、その娘は綺麗だった。綺麗なままで帰っていった…。・・・
・・・
死の世界を、ちらっと、かいま見たように思った。ぼくは、死から戻っていた。それが分かる。病・・
院の、あの匂いがする。ぼくの時間が、ぼくを、揺さぶっていた。・・・
「お兄ちゃん…」・・・
ぼくが、ベッドで動いたんだろう。美佳が、ぼくを呼んでいる。ぼくは、現実に戻った。・・・
過去のぼくはい・ネかった。ぼくから、すっかり消えていた。そして、カルメンもいなかった。・・・
「おはよう…」・・・
精一杯の、ジョークだよ…。泣いちゃうよ…。ぼくが、目を開けたら、そのジョークに笑っていて・・
よ…。・・・
ぼくは、目を開けた。親父が、ぼくを覗いていた。美佳とおふくろが、その親父の後ろで笑ってい・・
た。・・・
「おはよう…」・・・
それは、あまりうけなかった。仕方なかった。あの歌の方が面白かった。そんなジョークより、あ・・
の歌の方が面白かった…。・・・
あれは、いったい何だったんだろう。ぼくの前・「で、ぼくが歌った歌なんだろうか…。―けれど、・・
その娘は綺麗だった。綺麗なままで帰っていった…。その歌が、あれからずっと、ぼくの頭に渦巻い・・
ているんだ。本当に、とぼけた歌なんだ。・・・
でも、ぼくの前世は、ぼくから消えていた。ぼくの、この出来事はいったい何だったんだろう。長・・
い夢を見ていただけなんだろうか。ぼくの甦った前世は、いったい、どこへ行ってしまったのだろう・・
…。 それが、気になった。ぼくは、親父に言った。気になったんだ。どうしようもなく、気になっ・・
たんだ。ぼくのなかのあの前世を・A今すぐ探したかったんだ。・・・
「父さん…。前世って信じる…」・・・
久々の再会には、まったく相応しくない言葉だった。でも、それを聞かないと、ぼくは、現実にす・・
んなり戻れそうになかった。ぼくのなかで、あのとぼけた歌が、まだ、揺れているんだよ…。ひつこ・・
くひつこく、揺れているんだよ…。・・・
「ああ、信じるさ。その前に、おかえり…」・・・
親父も笑っていた。ネクタイは、歪んでいなかった。なぜか、ホッとした。・・・
「父さん…。前世って信じる…」・・・
ぼくは、もう一度聞いた。どうしても、気にな・チたんだ。ぼくの前世…。どうしても気になったん・・
だ…。あの、ぼくの前世を、今すぐ探したかったんだ…。・・・
親父の笑い顔が、今は、あんまり気味悪く思わなかった。自然に、ぼくのなかに流れ込んでいた。・・
美佳の笑顔も見えた。美佳は、かすり傷だったんだ。ぼくは、それを、ぼくの中のおれに聞いて知っ・・
ていた。・・・
「父さん…。前世って信じる?」・・・
やっぱり気になるんだ。何か答えてよ、父さん…。・・・
「おれの前世か? 何だったんだろう、そんなこと、考えたこともない…」・・・
親父が考えていた。母・ウんが、後ろで笑っていた。・・・
「おれは、お前の親父をしていた。前世も、おれは、お前の親父だった!」・・・
親父が、ぼくの肩を抱いた。涙が、出そうになった。前世…。気になっていたことが、吹っ飛んだ。・・
遥か宇宙に、いっぺんに、一瞬に、思いきり、どこまでも、吹っ飛んだ。・・・
ぼくが弾けた。何百年も、眠っていた後の目覚めのようだった。あー、いい親父だよ…。なんてい・・
いこと、言ってくれるんだよ…。・・・
「前世も、お前の親父だった…。苦労したぜ!」・・・
親父が繰り返した。親父が、大好きになった。・サして、こんな親父を持ったぼくを、好きになった。・・
たまらなく、そんなぼくが、好きになった。大好きになった…。・・・
美佳の手が、ぼくの手に乗った。もう、そこにカルメンはいなかった。そして、あの歌が、やっと・・
止んだ。ぼくのなかでうるさい程だった、あの歌が、あのとぼけた歌が、やっと、やっと、止んだ。・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
(了)・・・
エピローグ・・・
・・・
俺の動きが、徐々に、激しくなって・「くが分かった。俺は、酒場にいた。バイラオーラ(踊り子)・・
の側にいた。酒場の白い煙が、俺の廻りに、俺だけの空間を作ってくれていた。その空間で、俺は、・・
俺を演じていた。うりざね型のギターを抱え、俺は今夜も、俺を演じていた。・・・
スパニッシュギターの炎の響きだ。俺の演じる響きだ。満足していた。俺のその響きに、俺は満足・・
していた。・・・
踊り子が、床を鳴らした。真赤な衣装が、俺の目の前に舞った。・・・
「オレッ!」・・・
ギターに、俺の魂が流れていく。ギターが、俺を誘っていく。満足していた。酔・チていた。俺の奏・・
でる音に、俺は、酔いしれていた。・・・
いつもより、熱いものだった。いつもより、激しいものだった。乗っていた。酔っていた。熱く・・
なっていた。激しく叫びたかった。・・・
更に、俺は、踊り子に引かれていた。熱く酔った俺は、バイラオーラの後ろ姿に、引き込まれてい・・
た。・・・
「オレッ!」・・・
燃えるような、情熱だった。真赤な衣装の踊り子の背に、神のオーラが見える。赤く赤く果てしな・・
く、燃えている。俺は揺れていた。その、情熱のオーラに揺れていた。・・・
俺の、ジプシーの血・ェ騒いだ。ギターに流れ込もうとしていた俺の魂が、踊り子にも向いた。それ・・
が分かった。こんなことは、かつてなかった。俺の変化に、俺自身驚いていた。俺の、踊り子への激・・
しすぎる程の思いに驚いていた。・・・
俺が、益々激しくなった。目の前の踊り子に、俺をぶつけていた。弦を爪弾く指が、俺でも分かる・・
程、熱くなっていく。それへの驚きが、更に、俺を激しくしていった。・・・
踊り子の神のオーラに、俺は、跪きたい思いになっていた。益々引かれた。俺を、神の僕に感じた。・・
踊り子の膝元へ縋り付きたい衝動を、か・・、じて堪えていた。・・・
「オレッ!」・・・
踊り子の汗が飛んだ。それが、俺の目にも入った。美しかった。月光の雫のようだった。・・・
カルメン…。素晴らしい…。カルメン…。・・・
久々の、カルメンとの舞台だった。カルメンが、俺の元に戻ってきたと思った。元のカルメンに・・
戻ったと思った。・・・
いや、元のカルメンではなかった。カフェ・デ・パコ…。この店から旅立ったカルメンは、更に熱・・
い女に変身していた。彼女のバイラは、変化していた。・・・
いろいろな街で踊ったのがよかったのだ。カルメンの踊り・ノ、更なる熱さが見えた。更なる悲しみ・・
が見えた。更なるたぎりが見えた。俺は満足だった。カルメンの踊りに、俺のすべてが熱くなってい・・
た。・・・
ジプシーの娘が、大人になっていた。妖しい激しさを内に抱いた、情熱の女になっていた。その激・・
しい情熱が、カルメンに、神のオーラを見せていたのだ。それが分かった。俺は、果てしなく満足・・
だった。・・・
もう一粒、汗が飛んだ。カルメンのオーラのなかを、その雫は、軽く放物線を描いた。俺は、その・・
雫を追った。出来るものなら、それを、この手で掴み取りたかった・B・・・
アッ! 思わず、声が漏れるところだった。あいつが来ていた。鍛冶屋のせがれが来ていた。・・・
バカか、あいつは。俺は思った。笑いが、俺の胸に少し昇った。俺は、あいつが好きだった。息子・・
のように思っていた。いや、息子同然だった。・・・
何という格好だ。どこで仕入れたんだ。その上着、ちんちくりんじゃないか。金も持っていないの・・
だろう。こんな店に来て、どうするつもりなんだ。裏口で待っていろ。俺は、笑いを消した。あいつ・・
が、心配になった。・・・
あいつが、身を乗り出した。手を伸ばした。カ・泣<唐フ雫が、あいつの伸ばした手の中に消えた。・・・
「オーレッ!」・・・
俺の心配は、すぐに現実となった。あいつが立ち上がった。カーニャを煽った。そして、叫んでい・・
た。・・・
「カルメン!」・・・
あいつが、舞台へ縋った。カルメンへ縋った。バカヤロー! 何をする積もりだ! 俺も、立ち上・・
がっていた。・・・
カルメンが、バランスを崩した。あいつの手を踏んだようだ。俺は、ギターを止めた。あいつに向・・
かった。・・・
「カルメン!」・・・
あいつは、もう一度叫んでいた。俺は、それを思いきり殴っ・ス。何だか、やけに悲しくなった。・・・
あいつは、デーブルにまで飛んだ。俺のパンチも、なかなか捨てたものじゃない。そんなことを・・
思った。しかし、そんな思いにいられたのも、ほんの少しの間だけだった。・・・
あいつの目は、異常だった。カルメンに、その異常な目を向けていた。俺は、カルメンの前に出た。・・
カルメンを、あいつから隠した。それ程、あいつの目は異常な目だった。獣が、怒りを前に出す前の・・
目だった。・・・
俺は、カーニャを空けた。刺激が、喉の隆起を通り過ぎていった。・・・
・・・
夢だった。・エは目覚めた。汗に、下着が濡れていた。しかし、それ程、不快ではなかった。・・・
三日続けてだった。カルメンが、俺を悩ましく責める。どうして、カルメンなのだ。カルメン。ビ・・
ゼーの歌曲だ。実在の女性ではない。誰かの小説に登場する、ジプシーの踊り子だ。・・・
そのジプシー娘の踊り子が、そのカルメンが、真赤なバラの花を、騎兵隊の伍長に投げつける。伍・・
長のドン・ホセは、カルメンに恋してしまう。しかし、カルメンは恋多き女。ドン・ホセの思いは、・・
カルメンに届かない。そして、ドン・ホセは、カルメンを短刀で刺・キ。カルメンの悲劇が、幕を閉じ・・
る。たわいのない物語だ。退屈な歌曲だ。・・・
俺は、夢でドン・ホセを演じているのだろうか。夢のなかで、カルメンに魅せられている。カルメ・・
ン。真赤なジプシーの衣装が素敵だった。ハハハハ。大笑いだ。俺は、夢のカルメンを愛しく思って・・
いる。恋しく思っている。ハハハハ…。・・・
確かに俺は、スペインに憧れている。学生の時、一度行った。とびきり安いツアーだったが、それ・・
が、俺に忘れられない。いい街だった。マドリッド、バレンシア、バルセローナ、グラナダ、カディ・・
ス・Aコスタ・デ・ソル…。それは、一度だけだったが、俺にとっては、忘れられない思い出だ。・・・
どういう訳か、息子の神太もそうだ。娘の美佳もそうだ。二人とも、俺に似てスペインへの憧れを・・
持っている。一度、家族で行きたいと思っている。行ってみたい。連れていってやりたい。そうだ、・・
神太が卒業したら、連れていってやろう…。だからって、カルメンはないだろう…。・・・
それに、三日前、美佳が、変なこと言っていた。神太が、退院した日だ。あの日、俺も早く帰って、・・
神太の退院祝いをしてやった。神太の元気そうな顔・ェ、久しぶりに我が家へ戻った。もう、あの頃の・・
ような暗い顔はすっかり消えていた。・・・
わたしの前世は、カルメンだった…。食事を終えて、家内が作った手作りのケーキを食べている時・・
だった。わたしの前世は、カルメンだった…。美佳は、神太に言っていた。冗談にしては、まじめな・・
顔で言っていた。神太は笑っていた。俺には、何のことだか分からなかった。今、流行っている・・
ジョークの一つだと思っていた。・・・
そう言えば、あの時、俺のなかの何かが反応した。瞬間、猛烈に頭が痛くなった…。手洗いに行っ・・
て・A顔を洗ったのを憶えている。だからって、カルメンはないだろう…。夢に、カルメンはないだろ・・
う…。・・・
俺は、ベッドを出た。娘の美佳が、既に起きていた。俺はあれから、出社時間を少し遅めた。朝の・・
少しの時間だけ、家族四人で過ごそうと思った。夜は難しいので、朝に、家族の会話を積み重ねてい・・
こうと思った。俺は、神太に教わった思いになっていた。息子に、大切なものを教えられた思いに・・
なっていた。家族という大切なものを、それで、思い出せたように思っていた。・・・
今までのことを、大いに反省した。妻に・lびた。息子に詫びた。娘に詫びた。俺は、もう少し、俺・・
の大事な足元を見る積もりになったのだ。家族という、俺の土台となる足元を、これからはしっかり・・
と見据えることにしたのだ。・・・
神太も起きていた。神太に、トイレの順番を取られた。間一髪だった。神太の手の方が、そのノブ・・
に触れるのが早かった。お先に…。神太が笑っていた。いい笑顔で笑っていた。そう思った。本当に、・・
いい笑顔だった。・・・
チクショー、今朝も、先を越された。俺は、その場を恨めしげに下がった。・・・
味噌汁の匂いが、俺の胃袋を・S地よく刺激していた。それが、益々いけなかった。その刺激が、俺・・
の下腹にまで届いた。俺の朝の健康のバロメーターが、激しく躍動していた。神太に、腹が立った。・・・
我慢しなければならなかった。チクショー。明日は、もう少し早く起きてやる。神太の奴より、早・・
く起きてやる。俺は、洗面所へ歩いた。美佳が、朝の支度を終えていた。うっすらと、ルージュを引・・
いているようだった。・・・
そんな美佳が、何となく、どことなく、夢で見たカルメンに似ているように思えた。俺は、首を・・
捻った。だからって、カルメンはな・「だろう…。夢にカルメンはないだろう…。・・・
俺は、美佳の使った後の洗面所に入った。再び、健康のバロメーターが俺を襲った。トイレからま・・
だ出ない神太に、猛烈に腹が立った。・・・
「神太! 早く出てくれ!」・・・
返事はなかった。ギターの音が、どこからか聞こえたような気がした。・・・
・・

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