カゼの方舟

カゼの方舟・・・
・・
河村 健一・・

第一章・・・
・・・
(1)・・・
・・・
「アキ…。じゃ、ぼく、先帰るから…」・・・
東村が、いつものように、少し低い声で言った。亜紀子は、背を・・
向けたまま、振り返らなかった。涙を見られたくなかった。東村が、・・
軽く亜紀子の髪に触れる。その手だけを、亜紀子は握り返した。つ・・
い先程まで強く抱かれていた東村のその手は、亜紀子の邪推か、少・・
し冷たくなっていた。・・・
「じゃ、また…」・・・
亜紀子は、ベッドに潜った。重く閉まるドアの音が、冷たい風と・・
共に、亜紀子にまで届く。すきま風が、亜紀子を素早く現実に戻し・・
た。悲しみが胸に蘇る。・・・
シャワーを浴びた。堪えていたものを、熱いめのお湯と一気に流・・
した。狭いバスルームの天井を眺めたまま、亜紀子は、ゆっくりと・・
秋子へと戻った。東村への思いが、視界に揺れる湯気に霞んでいく。・・
いつものことだった。秋子に、二週間に一度の黄金の時が、終わり・・
を告げた。熱いものが、秋子から陽炎のように去った。瞳が、透明・・
に霞んで揺れた。・・・
着替えを済ませ化粧を直す、秋子のいつもの連続の動作が途切れ・・
がちになる。秋子は、鏡の前で思いに沈んだ。今夜も、東村に、秋・・
子という名を打ち明けられなかった。なぜか、今夜は、そのことが・・
特別に悲しかった。東村の愛が、日を追う毎に、秋子に負担となっ・・
ていた。・・・
秋子という名は、父が付けた。厳格な父は、太陽のたぎりの過ぎ・・
た秋が好きだった。夏の光より、秋の木漏れ日を好んだ。しかし、・・
その父は、自らの人生の秋を見ることなく、秋を過ぎてしまった。・・
今は、冬の日溜まりに包まれ、自らの過去と揺れていた。激しい夏・・
のたぎりを胸に残し、今夜も窓の外に舞う粉雪のように、儚く消え・・
ていく思いと共に、緩く過ぎていく日々を送っていた。・・・
東村と会うと、いつも父のことを思う。企業の犠牲になり、自ら・・
の美しい秋の時を失なった父と、今まさに、男の夏を迎えようとし・・
ている東村と重なる。企業のために尽くし、企業に放り出された父・・
は、東村のように一途な男だった。・・・
似ているのだ。そんな父が、東村が似ているのだ。だから、秋子・・
は、東村に惹かれたのかも知れない。東村は実直だった。秋子を愛・・
してくれていた。しかし、それは秋子でなく、お店の源氏名の亜紀・・
子の方だった。・・・
秋子は、東村に対して、冷めた演技を続けていた。娼婦を演じ続・・
けていた。その方法しか、秋子には、東村との関係を維持していく・・
方法が思いつかなかった。秋子は亜紀子を演じ、東村の思いを、亜・・
紀子として受けとめていた。・・・
東村は、秋子に何度も言った。あなたに、お店勤めは似合わない・・
…。そして、自分の元へ来い…。・・・
東村は、秋子と最初に会った時から感づいていたのかも知れない。・・
秋子が、何らかの事情を持つ女だと…。東村には、秋子の暗い影が・・
見えていたのだろう…。東村は、何度も言った。ぼくにできること・・
はないか…。似ていた。そんな東村は、若かりし日の父に似ていた。・・・
「高志さん…」・・・
鏡のなかの自分に呟いていた。秋子は、ルージュを引く手を止め・・
た。やはり、今夜も打ち明けられなかった。恐れていた。それを話・・
すことによって、東村が、自分から去っていく。やはり、今夜も恐・・
れていた。東村の瞳の奥の光が、別なる色に暗くなるのを恐れてい・・
た、・・・
秋子が結婚したことを、東村は知っている。子があることも知っ・・
ている。そして、秋子が、お店勤めをするひとつの理由である、父・・
の借金のことも知っている。そこまでは、東村に打ち明けた。しか・・
し、それ以上、どうしても言えないことがあった。東村の思いに、・・
確実に影を落とすことが…。・・・
東村も、そんな秋子を理解してくれていた。亜紀子を演じる秋子・・
を、優しく見守ってくれていた。暗い影を知りつつ、その影をも、・・
東村は、何も言わずに愛してくれていた。そして、秋子も、そんな・・
東村を心から愛していた。・・・
こんな関係になるとは、思わなかった。再び、男を愛するなんて、・・
思わなかった。・・・
風(カゼ)…。カゼと名付けた秋子の子は、ダウン症、知恵遅れ・・
だった。そのことが、秋子に重くのし掛かっていた。東村に、これ・・
以上近づけない理由だった。・・・
会う度に、思い切ろうとした。本当のことを言おうとした。しか・・
し、打ち明ける勇気がなかった。打ち明ければ、東村は去っていく。・・
それを話せば、秋子から遠くへと消えていく。男は、そんなお荷物・・
のある女を思い続けることなんかできない。秋子は、そう思ってい・・
た。そのことが恐怖だった。東村といられるなら、娼婦のままでい・・
い…。東村と同じ時を過ごせるなら、亜紀子のままでいい…。秋子・・
の悲しい理解だった。・・・
秋子は、ホテルを出た。お店に戻ろうかと思ったが、止めた。今・・
夜は、そんな気になれなかった。秋子は、思いを切り替えた。カゼ・・
のことを頭に浮かべた。寝ているだろうか…。最近よく起こる、発・・
作は起きなかっただろうか…。秋子の歩く足が、少し速くなる。時・・
計を見た。終電に余裕がある。秋子は、駅に向かった。・・・
その時、後ろに東村の影が揺れていたことを、秋子は知らなかっ・・
た。・・・
・・・
・・・
駅に着いた時も、粉雪は、降り続いていた。秋子は、コートの襟・・
を立て、帰路を急いだ。嫌な予感がしていた。痴呆症の母が、秋子・・
の出掛けに、やけにはしゃいでいたことを思い出していた。母が、・・
カゼと遊ぶのはいい。それは、母のせいじゃないのも分かっている。・・
しかし、母は、時折激しくなりすぎる。カゼの思いを理解している・・
とはいえない。秋子の予感が、不安へとすり替わっていく。秋子は、・・
歩を早くした。・・・
カゼの誕生は、秋子の周りに起こった不幸と前後する時期だった。・・
父が、会社から追い出され、父の人生は大きく挫折した。母は、そ・・
のショックで病気になった。軽い老人性痴呆症。そして、秋子は、・・
愛する人を事故で失った。カゼの父は、突然この世から消えた。・・・
秋子は、カゼと二人実家に帰った。秋子の幸せだったはずの未来・・
が、たった二年で崩れさった。秋子に、重い悲しみだけが残った。・・・
そんな悲しみも、時と共に移り変わっていった。悲しみは形を変・・
え、秋子の周りを漂った。秋子は強くなった。悲しみを、徐々に過・・
ぎる風に流していった。カゼへの思いが、秋子に、再び未来への歩・・
みへの力をもたらすこととなった。・・・
秋子だけが頼りだった。父の、起死回生の事業も失敗した。親戚・・
からの借金だけが残った。父は、抜け殻のようになった。生活は、・・
厳しくなっていった。・・・
しかし、秋子にはカゼがいた。カゼがいたから、秋子は強く生き・・
ていけた。カゼへの思いが、秋子を力強く支えた。秋子から、悲し・・
みの涙が消えようとしていた。父の借金を返し、痴呆症の母と、知・・
恵遅れの息子を抱え、秋子の歩みは、前に向かっていった。・・・
そんな生活も、秋子は慣れた。昼は、コンピュータープログラム・・
の仕事をこなし、夜には、お店に出ていた。そして、東村と出会っ・・
た。秋子は、秋子のオアシスを、東村に見い出していった。・・・
ヒールの音を静かに、秋子は、公団住宅の階段を上がった。この・・
時間だと、部屋の明かりは消えている方が多い。コンクリートに囲・・
まれた階段には、ヒールの音は、遠くの木霊のように響き渡る。秋・・
子は、エレベーターのない五階までの階段を、いつもそのようにし・・
て上る。しかし、今夜は、その音が少々漏れ気味だった。秋子の不・・
安が大きくなっていた。・・・
「ただいま」・・・
不安を打ち消すように、いつもの言葉でドアを開けた。いつもな・・
ら、父、武雄が台所で酒を呑んでいる。・・・
「おかえり」・・・
やはり、武雄は、冷や酒を呑み、テーブルに置いた小型のテレビ・・
を見ていた。秋子を見ずに、武雄は、軽く頷いた。・・・
少し安堵した。ここまでは、いつもと一緒だった。この後、武雄・・
が、カゼは寝ている…、と、ひとこと言う。そして、秋子は寝顔の・・
カゼを見に行く。しばらくカゼの頭を撫で、再び台所へ戻り、父の・・
前に座るのだ。・・・
「カゼは」・・・
しかし、今夜は違った。父は、別のことを言った。外だ…。・・・
「外ですって!」・・・
秋子の不安は当たった。奥の部屋に入ると、カゼが暴れた跡が・・
あった。カゼに、発作が襲ったのだ。・・・
「おかあさん…」・・・
母の千恵子が、カゼのちらけた部屋の中央で、天井を睨み寝転・・
がっていた。・・・
「おかあさん!」・・・
母は、焦点の定まらない瞳を大きく開き、薄笑いを浮かべていた。・・
秋子は、慌てて外へ出た。粉雪が、階段にも舞っていた。カゼ…。・・
秋子は、階段を駆け下りた。・・・
・・・
・・・
東村は、亜紀子の後を尾けていた。亜紀子を思う東村に、それは、・・
どうしても抑えきれない衝動だった。今夜、秋子の涙が見えた。東・・
村は、耐えきれなかった。亜紀子を不憫に思った。足が独りでに、・・
亜紀子の後へと向いた。・・・
東村は、亜紀子を愛していた。自分の元へ来い…。何度も、亜紀・・
子に告げた。亜紀子は、どうしても首を縦に振らなかった。何かあ・・
る…。それは、分かっていた。しかし、どんなことがあっても、そ・・
れを乗り越えていく…。できないはずはない…。・・・
今まで、そうして生きてきた。それなりの自負がある。幾つかの・・
壁を乗り越えてきた。亜紀子に何かがあるのなら、その何かを、二・・
人して分かち合いたい…。二人して跳ね返したい…。東村は、そう・・
思っていた。困難に立ち向かう姿勢は、知っている。何度も、それ・・
を突き破ってきた。できないはずがない…。東村は、亜紀子を愛し・・
ていた。・・・
亜紀子の、自分への思いは感じている。亜紀子も、自分を愛して・・
くれている。しかし、二人の間は、それ以上に近くならない。亜紀・・
子は、亜紀子の何かに壁を作り、それ以上、心を開かない。頑なに、・・
その部分を、暗い襞で覆っている。それが、東村に痛いほど分かる。・・・
粉雪が一粒、東村の眉に絡んだ。寒さを感じた。東村は、コート・・
の襟を引き上げた。一番上のボタンをはめた。マフラーを口元に巻・・
いた。東村は、冷たい風を受けた。亜紀子の住む街の風を、始めて・・
身に受けた。胸を閉ざし続ける亜紀子を、風に、少しだけ身近に感・・
じた。・・・
亜紀子とは、店で出会った。長いストレートな髪が印象的だった。・・
黒く深い色だった。煌めきの黒い湖のようだった。薄暗い店内に、・・
亜紀子の髪だけが、艶を放っていた。美しい髪だった。・・・
亜紀子は、東村の座る斜め前のボックスに背を向け、水割り作っ・・
ていた。煌めきの髪を軽くかき分けた時に、目が合った。髪と同じ・・
色だった。いや、それよりも深く黒かった。東村の視線が、その瞳・・
に釘付けになった。亜紀子が微笑んだ。東村の眼差しに、戸惑いの・・
ようなものが、亜紀子の微笑みに揺れていた。・・・
どこか以前に会ったように思った。遥か遠くの記憶のような気が・・
した。東村の脳裏に、亜紀子の微笑みが貼りついた。黒く深い瞳が、・・
東村の意識を頻繁に刺激した。亜紀子は煌めいていた。・・・
その日は、話す機会がなかった。東村は、客との相手でその店を・・
出た。帰り際に、再び目が合った。その時の亜紀子の微笑みには、・・
先程の戸惑いらしきものは消えていた。東村の目を、一瞬、亜紀子・・
の瞳からの光が貫いた。暗い店の少ない光を、亜紀子の瞳は、精一・・
杯かき集めていた。闇夜の荒海に、遠くの微かな灯台の光を求める・・
船乗りを、東村は、なぜか思った。東村が、漁師町で育ったせいな・・
のかも知れない…。その船乗りに、思わず自分を重ねていた。亜紀・・
子を求めていた。・・・
そんな思いが、二人の二度目の出会いと繋がった。それは、あま・・
りにも偶然だった。二日後のことだった。東村が、得意先へ出向い・・
た時、亜紀子は、その事務所でディスプレイに向かっていた。・・・
お互いに、すぐに相手を認めた。軽い笑顔が、二人にしばらく重・・
なった。言葉はなかった。亜紀子の微笑みが、店の時より遥かに明・・
るかった。東村は、亜紀子の退社に時間を合わせ、その事務所の・・
入っているビルの前で待った。・・・
亜紀子は、別人のようだった。化粧は薄く、ルージュを軽く乗せ・・
ている程度だった。瞳に、店では見えなかった濡れた潤いが溢れ、・・
光をより吸収していた。鼻の線が薄化粧に優しく、頬の白さがやけ・・
に可憐に見えた。東村は、亜紀子の口元の小さなえくぼを発見した。・・
それが、信じられないほど、東村には新鮮に映った。亜紀子は、店・・
の時よりも遥かに清楚に見えた。美しい黒髪が風に揺れ、夕日に引・・
き立っていた。・・・
美しかった。亜紀子は、他の誰よりも輝いていた。すらりと背筋・・
を伸ばし、下を向いて歩く人たちをかき分けていた。タイトなス・・
カートより、引き締まった足首が覗き、それが、大きく躍動してい・・
た。ヒールではなく、パンプスを履いていた。しなやかで力強い歩・・
行の姿勢だった。・・・
濡れた亜紀子の潤いの瞳が、東村を認めた。東村は、ビルの前で・・
強引に亜紀子を食事に誘った。東村自身が驚いた行動だった。同じ・・
時を、少しでも一緒に過ごしたい…。その思いを、抑えることはで・・
きなかった。・・・
亜紀子は明るかった。精一杯に生きている女性の可憐さがあった。・・
東村が今まで知り合った女性にない、穏やかさがあった。芯の強さ・・
を思わせる知的さがあった。そして、美しく輝いていた。東村は、・・
その出会いを感謝した。・・・
どんどん、亜紀子に惹かれた。知的な微笑みが、東村を引きつけ・・
て離さなかった。一つひとつの仕草に、知的な力強さを感じた。亜・・
紀子には、艶美さと健気さが同居していた。亜紀子は、すべての物・・
事に感謝を忘れない女だった。精一杯に生きているという、自らの・・
強さの根拠を、亜紀子は理解していた。仕草の知的さは、亜紀子の・・
そんな部分から漏れていた。黒い瞳の光に、生命の偉大さが、東村・・
には見えてきそうだった。東村は、何度も亜紀子を食事に誘った。・・
亜紀子も、東村に心を開いていった。・・・
それは、二年ほど続いた。二人は、一緒になるものだと思ってい・・
た。亜紀子に、子があることも知った。それでもいいと思った。亜・・
紀子の子だ…。同じように愛せると思った。結婚を申し込んだ。話・・
し合った。その時、亜紀子の父の借金を聞いた。・・・
東村は、援助を申し出た。しかし、亜紀子が拒んだ。何度も、何・・
度も、話し合った。話し合う度に、亜紀子が、少しずつ東村を遠ざ・・
けていった。東村に、その理由が分からなかった。二人に、気怠い・・
時期が押し寄せた。その話を、徐々に避けるようになっていった。・・・
しかし、東村は、亜紀子を手放せなかった。亜紀子は、東村に・・
とって、何よりの心の安らぎの場になっていた。そのことを、東村・・
は、自らの思いのなかに受け入れた。だから、今夜は迫った。亜紀・・
子は答えなかった。・・・
どうしても、抑えられなかった。東村は、亜紀子がホテルから出・・
るのを、粉雪のなか待った。亜紀子の悲しさの意味を、知りたかっ・・
た。亜紀子の切なさの思いを、知りたかった。知らない部分の亜紀・・
子を、知りたかった。そして、亜紀子の暮らす街の風を、肌で、感・・
じてみたくなった。・・・
亜紀子は、公団住宅に消えていった。亜紀子の生活の一端を、東・・
村は知った。・・・
風が緩くなった。東村は迷っていた。公衆電話は近くにある。こ・・
こまで来たら、亜紀子の生活をもっと見てみたい…。東村は、電話・・
へ歩いた。粉雪が頬に滑った。雪は、少し大粒になっていた。東村・・
は、それをひとつ手に乗せた。その時、東村に激しい自己嫌悪が・・
襲った。女の後を尾ける男の惨めさが、東村に津波となって押し寄・・
せた。東村は、手で溶けていく粉雪に苦笑を落とした。背の冷たさ・・
が、幾分増していた。・・・
東村は、素早くきびすを返した。帰ることにした。亜紀子の暮ら・・
す街の風は感じた。今夜は、それだけでよかった。東村は、駅へと・・
歩き出した。・・・
「カゼ!」・・・
それは、風に聞こえた。亜紀子の声だった。東村は、それへ振り・・
返った。・・・
・・・
・・・
車が一台、どうにかすれ違うことのできるほどの細い道を、秋子・・
は急いだ。少し行けば、国道に出る。国道からの、大型車の行き交・・
う音が、秋子の意識の危険信号を、真っ赤に染める。夜空に響いて・・
いくけたたましいクラクションが、秋子の脳裏を、遠慮会釈なしに・・
激しく叩く。秋子は走った。国道は危険すぎる。カゼは、それを理・・
解していない。危険に対する対応の仕方を知らない。秋子は祈った。・・
カゼが、国道へ出ていないことを祈った。・・・
父と母に、激しい怒りを覚えた。どうして、カゼを、一人で外へ・・
出すの! あの子は、普通じゃないのよ! 頬がひきつった。胸の・・
鼓動が高くなった。最悪の結果が、秋子の思いに過ぎた。・・・
「カゼ!」・・・
怒りは、秋子のなかで、素早く悲しみへと変わった。どうして、・・
カゼだけが…。自分の子だけが…。無限ともいえるほど、考えた思・・
いだった。どうしてカゼだけが…。秋子は走った。涙が、木枯らし・・
に一粒散った。・・・
国道へ出た。秋子は、カゼを探した。カゼと叫んだ。狭い歩道に、・・
申し訳程度設置されている低い低いガードレールが、秋子には、果・・
てしなく恨めしかった。・・・
「カゼ!」・・・
大型車が、次々に過ぎていく。秋子が、我を失っていく。猛ス・・
ピードのトラックに、激しい怒りが向かう。路面に落ちた雪を蹴散・・
らす馬鹿でかいタイヤに、どうしようもない苛立ちを覚えた。カゼ・・
が、そのタイヤに巻き込まれていく姿が、一瞬、秋子に浮かぶ。黒・・
い恐怖が、秋子の脳裏を横切り、体内の血液が沸騰していく。・・・
秋子は必死に走った。恐怖を振り切るのには、それしかなかった。・・・
「カゼ!」・・・
トラックのヘッドライトに、何かが、秋子の視界を素早く過ぎた。・・
黒い影のようなものが、ムササビの如く、音もなく過ぎた。・・・
「が、あ、ざん…」・・・
声が聞こえたように思った。しかし、秋子は、それを走り過ごし・・
た。振り返る余裕なんかなかった。秋子の焦りは、堰を切って激し・・
くなっていた。・・・
・・・
・・・
-かあさん、まってくれよ…。ぼくは、ここにいるよ…。・・・
おかしいな、きこえないのかな…。まあいいや、こうえんへ、い・・
こう…。・・・
それにしても、とらっくの、ぶーぶーが、うるさいや…。このみ・・
ちは、きらいだ…。・・・
・・・
・・・
「が、あ、ざん…」・・・
影のようなものは、カゼだった。秋子に届かなかった声は、カゼ・・
の声だった。・・・
「があ、ざん、まっで、ぐれー」・・・
カゼは走った。足をもつれさせ、首を曲げ、腕をねじって走った。・・
歩道は、カゼの走りには狭すぎた。膝の上までしかないガードレー・・
ルが、カゼにとっては、果てしなく邪魔な障害物だった。カゼは、・・
それを跨いで車道を走った。その方が、少しだけ走りやすかった。・・・
「!!!!」・・・
大型車のけたたましいクラクションが、そんなカゼを、何度も諫・・
めた。・・・
・・・
・・・
秋子は、公園のブランコに走った。カゼの好きな場所だ。秋子の・・
休みの日は、いつも、それをカゼはねだる。後ろから秋子が押して・・
やれば、いつまでだって笑っている。秋子は、ブランコの鎖に手を・・
かけた。冷たさが、手のひらから胸にまで届く。・・・
「カゼ! どこなの!」・・・
叫びが、信じられないほど大きく聞こえた。もうすぐ真夜中にな・・
ろという時間なのだ。焦りが大きくなる。秋子は、額の汗を軽く拭・・
い公園の隅々まで走った。・・・
遠くに、救急車のサイレンが聞こえた。再び恐怖が、秋子のなか・・
を激しく暴れる。秋子は、もう一度、国道へ戻ろうと思った。サイ・・
レンが近くなってくる。カゼの身に何かあれば…。不安が、膨れ上・・
がっていく。・・・
「が、あ、ざ、ん!」・・・
振り返った秋子に、大きな影が迫っていた。カゼだった。カゼは、・・
懸命に走っていた。カゼの特徴である、深いえくぼが月明かりに見・・
え隠れしていた。秋子は、安堵に、その場に崩れそうになった。・・・
「カゼ!」・・・
安堵がしばらく揺れた。そして、その安堵のなかに、こちらへ・・
走ってくるカゼの大きく育った姿への、少なからずの驚きが揺れた。・・・
「カゼ!」・・・
秋子は、カゼを強く抱いた。寒くない…。秋子は、着ていたコー・・
トをカゼに掛けてやった。チョコレートの匂いが、カゼの口から秋・・
子に届いた。・・・
「が、あ、ざ、ん!」・・・
カゼの背丈は、自分の肩を越していた。秋子は、なぜか急に悲し・・
くなった。脳の発達は進まないのに、身体だけは、人並み以上に・・
育っていく。カゼは、近いうちに自分の身長を越える。胸も厚くな・・
り、髭だって伸びるだろう。そして、男の部分も目覚めて行くだろ・・
う。秋子は、カゼを抱きながら、やり切れない思いに沈んだ。悲し・・
みが、今夜は痛かった。・・・
カゼが、秋子の手を振り解いた。力も強くなっている。上腕部の・・
硬さで、秋子を軽く突き放した。・・・
「が、あ、ざ、ん、お、し、で…」・・・
カゼが、ブランコに乗った。いつものように、秋子にねだってい・・
る。足をばたつかせ、砂埃を上げている。カゼを不憫に思った。た・・
まらなく、カゼを愛しく思った。秋子に、涙が再び溢れた。・・・
「があざん、押しで…」・・・
粉雪は、いつの間にか止んでいた。救急車のサイレンも、もう聞・・
こえなくなっていた。秋子は、カゼに言った。涙を、カゼに見せな・・
かった。・・・
「カゼ…。一人で外に出たら、いけないって言っているでしょ!」・・・
いつものように、嬉しそうなカゼだった。秋子の押すブランコに、・・
懸命に身体を揺らし、しがみついている。ゴッ、ゴッ、ゴッ…。奇・・
声を上げ、口元を歪めている。楽しそうに笑っている。・・・
「が、あ、ざ、ん、ご、めん…」・・・
風に、そう聞こえた。カゼが、秋子に謝っている。カゼも、カゼ・・
なりに、自分のことを思ってくれている…。そう思うと、秋子に、・・
再び、熱いものがこみ上げた。・・・
「ご、め、ん…」・・・
カゼが振り返る。ブランコから、カゼの片手が離れた。バランス・・
が崩れた。カゼは、靴を地面にすり付け、ブランコを止めた。・・・
「カゼ。それ、おじいちゃんの靴…」・・・
カゼが履いていたのは、武雄の靴だった。踵を、踏みつぶして履・・
いている。カゼに、その靴は小さすぎた。・・・
「ぞ、う、だ…」・・・
カゼが、突然走った。滑り台へ急いでいく。ブランコの後は、滑・・
り台…。カゼのパターンだ。・・・
「カゼ、待ちなさい…」・・・
秋子が掛けてやったコートが、カゼの肩より、白く湿っている地・・
面にはらりと落ちた。・・・
「カゼ…」・・・
秋子は、一つ吐息をこぼした。今夜は、やけに、悲しみが痛く感・・
じた。やりきれなさが、秋子を襲う。悲しみの色が、闇夜に濃く・・
なっていく。・・・
東村への思いを、今夜も打ち切っていた…。すべて投げ出して、・・
東村の胸に縋りたい思いを、懸命に堪えた…。シャワーに、そんな・・
思いを捨ててきた…。しかし、いくら捨てても、それは、秋子から・・
去らない。東村への思いは、秋子から離れることはない。・・・
カゼさえいなければ…。許されない思いに、秋子は、何度も何度・・
も苦しめられていた。いや、カゼさえ、普通であれば…。そんな思・・
いが、悲しさが痛い秋子に渦巻いていた。・・・
「カゼ!」・・・
秋子は、滑り台のカゼへ歩いた。憎悪が、向かってはならない所・・
へ向いてしまっていた。・・・
「が、あ、ざ、ん、み、で、で…」・・・
カゼが、滑り台を滑った。外灯に、月明かりに、カゼの姿が大き・・
く映った。・・・
「カゼ!」・・・
秋子の右手が、秋子の意志に関係なく自然と動いていた。カゼは・・
笑っていた。・・・
「パシッ!」・・・
秋子の平手が、カゼを、いきなり襲った。秋子の憎悪が、悲しみ・・
のなかに、はっきりと形となってしまった。・・・
「一人で、外に出たら…」・・・
始めてだった。言葉が続かなかった。秋子は、カゼを見ることが・・
できなかった。カゼに、手を上げた…。自分でも、信じられないこ・・
とだった。・・・
「カゼ…」・・・
悲しさと、切なさと、そして、後悔が、秋子の脳裏に、洪水のよ・・
うに一瞬に荒れた。それらが、激しく攪拌された。溢れた秋子の涙・・
が、カゼの足元へ落ちる。カゼが、それを見ていた。・・・
「カゼ、ごめん…」・・・
秋子は、カゼを、抱きしめようと思った。カゼが悪いんじゃない・・
…。カゼに、誤ろうと思った。悪いのは私よ…。今夜は、どうかし・・
ているの…。・・・
カゼは驚いていた。秋子の差し出した腕を、カゼは拒んだ。今ま・・
で見たことのない目を、カゼが、秋子に向けていた。覚めた目だっ・・
た。瞳の光が、こちらへ向いていなかった。・・・
「グ、ブァ! ブ、ワー!」・・・
カゼが叫んだ。体内のたけりを、カゼは、懸命に外へと出してい・・
た。・・・
「グ、オ、アー! ブ、ワー!」・・・
カゼの目に、激しい怒りが浮かんでいく。それが、秋子に見えた。・・
秋子は、もう一度、カゼに腕を差し出した。・・・
「グ、オ、アー! ブ、ワー!」・・・
カゼが、秋子を強く押した。秋子が一歩退く。カゼが、秋子に、・・
怒りをぶつけていた。カゼは、秋子の胸を強く突いた。秋子の腕を・・
強く叩いた。・・・
「カゼ! どうしたの…」・・・
こんなことは、一度としてなかった。カゼが、秋子に怒りを見せ・・
たことなど、ただの一度もなかった。・・・
「ごめんなさい…。叩いたの、ごめんなさい…」・・・
カゼが走った。国道の方へ走った。秋子を、一度も振り返らな・・
かった。・・・
「待って! カゼ!」・・・
すぐに追えなかった。秋子は、カゼのその行動に、驚きと自分へ・・
の嫌悪でしか対応できなかった。カゼの姿が、公園から消えていく。・・・
「カゼ!」・・・
少しの間が、再び、秋子に恐怖をもたらした。カゼが国道へ…。・・
秋子は、カゼを追った。カゼが、公園を過ぎていった。・・・
「カゼ!」・・・
・・・
・・・
-かあさんが、たたいた。ばかだ、かあさんは…。いったい、ぼく・・
が、なにをしたんだよ…。・・・
いたかったよ。ものすごく、いたかったよ…。こんなの、はじめ・・
てだ。かなしいよ…。・・・
・・・
・・・
その時、空間に風が吹いた。その風は、空間に微かに揺れる一つ・・
光の目覚めを促した。光の意識は、微睡みのなかにあった。ゆらゆ・・
らと無の時を刻み続けていた。・・・
光は、自らの輝きを、自らから漏らさないようにしていた。空間・・
の闇に、光は身を隠し続けていた。どれほどの永い時だろう…。光・・
に、それは分かっていなかった。ただ、闇に漂っていた。・・・
そんな時のなかに、光は、風を感じた。光には、その風は、光の・・
なかにある遠い過去のひとときのなかの揺れと同じ感触だった。風・・
は、光の意識を誘っていた。闇に隠れる光に、徐々に色をつけて・・
いった。空間に、光の漏れが見え始めていた。・・・
-待って! カゼ!・・・
光は、風の音以外に、そんな叫びを聞いた。・・・
-グ、オ、アー! ブ、ワー!・・・
その意味は、光には分からなかった。しかし、光は、その叫びの・・
方へ向かった。なぜか、痛みを感じた。遠い過去のひとときにある・・
痛みに似ていた。光は、ゆっくりと微睡みを抜けた。永い永い眠り・・
だったように思う。目覚めに、光が一瞬煌めいた。光は、その自ら・・
の煌めきを、風に聞こえた叫びに届けようと思った。・・・
理由はなかった。いや、光は、それを、理解していなかった。・・・
-ごめんなさい…。叩いたの、ごめんなさい…。・・・
叫びが続いていた。光の記憶のなかにある声だと思った。声のな・・
かに暖かさを感じる。・・・
-カゼ!・・・
叫びが、光の揺れと重なっていく。それに合わすように、空間に・・
時の襞の歪みが、光に見える。光は思った。時の歪みに、もしかし・・
たら、この闇から逃れることができるかも知れない…。光は、もう・・
一度、空間に光を煌めかした。・・・
-グ、オ、アー! ブ、ワー!・・・
それは、一瞬のことだった。光に、その記憶は残らなかった。光・・
は、再び、闇に隠れた。・・・
・・・
・・・
「危ない!」・・・
黒いコートを着た男が、カゼを受け止めた。カゼは、ガードレー・・
ルを跨いでいた。・・・
「危ないだろう」・・・
男は、カゼの腕を取った。カゼが、低く呻いていた。クラクショ・・
ンの響きが、大きく夜空に跳ねた。・・・
「カゼ!」・・・
秋子はカゼに寄った。息を切らしながら、秋子は、男の取ったカ・・
ゼの腕を掴んだ。・・・
「カゼ、大丈夫!」・・・
カゼを、秋子は胸に引き寄せた。チョコレートの匂いに、身体全・・
体の力が抜けていく。・・・
「ありがとうございました…。危ないところを…、この子、普通・・
じゃ…」・・・
そこまで言った時、秋子は男を認めた。男の顔が、国道から流れ・・
るヘッドライトに白く浮かんだ。・・・
「高志さん…」・・・
東村だった。秋子はカゼを抱いた。カゼは、震え泣いていた。・・・
・・・
・・・
「いい名だね、カゼ」・・・
寒空から、再び、粉雪が落ちていた。風が、それを、優しく過ぎ・・
ていく。・・・
「いい名だ、カゼ…」・・・
秋子は、ブランコのカゼを見ていた。カゼの機嫌は直っていた。・・
東村が、カゼを、ブランコで遊んでくれたのだ。東村は、秋子のよ・・
うに、カゼの後ろからブランコを押してくれた。・・・
「アキを尾けてきた。アキの後を尾けてきた。すまない…」・・・
二人の気まずい間に、東村が、静かに入った。風が、急に強くな・・
る。粉雪の舞が激しくなる。・・・
秋子に、時が流れ行くのが遅かった。とうとう…。そんな思いに、・・
秋子は、揺れ続けていた。東村が去っていく。自分から遠ざかって・・
いく。何時間か前に抱かれた男への情が、激しすぎるほどの勢いで・・
揺れる。・・・
「が、あ、ざ、ん。ブ、ダ、ンコ、お、し、で…」・・・
カゼが、そんな秋子に振り返った。カゼの深いえくぼと、黒い瞳・・
が、秋子を誘っていた。・・・
「お、じ、ざ、ん、も、お、し、で…」・・・
東村が、秋子を見た。一瞬、二人の、作った笑みが重なった。・・・
「今日は帰る。カゼが、風邪を惹く…。明日、会おう」・・・
東村が、もう一度、笑みを作った。やはり、作った笑みに思えた。・・・
「カゼ、帰るよ…。早く寝ないと…」・・・
寒さは感じなかった。風の冷たさを感じなかった。秋子とカゼは、・・
東村と共に、国道の歩道を縦一列になって歩いた。歩道は、三人に・・
は狭すぎた。・・・
・・・
・・・
(2)・・・
・・・
次の日、秋子は、勤めを休んだ。昨夜の思いがけない出来事が、・・
秋子を、苦しめ続けていた。秋子にとって、素早く気持ちを切り替・・
えられるようなものではなかった。あの時、東村は、明日会おうと・・
言った。しかし、秋子には、別れに聞こえた。東村のいつもと違う・・
笑みに、冷めた思いを見たような気がした。・・・
カゼを学校へ送り、母の食事を作った。いつも、父がしてくれて・・
いることだ。秋子は、部屋を片づけ、一息付いていた。・・・
「秋子。東村さんから、電話があった」・・・
無表情に、父が言った。父は、いつもの癖で、秋子は留守だと・・
言ってしまっていた。別に、それを詫びたりしない。・・・
「ありがとう、父さん…」・・・
今の秋子には、その方が、ありがたかった。秋子は、父の前に・・
座った。・・・
「父さん、カゼのことなんだけど…」・・・
父は、炬燵に薄い碁盤を拡げ、詰め碁の最中だった。迷惑そうな・・
視線を、秋子に送る。・・・
「カゼ、今度中学でしょ…」・・・
そこまで言って、秋子は止めた。父の意識は、碁盤から離れそう・・
になかった。・・・
静かな午後が過ぎた。秋子にとって、その午後が、秋子自身の変・・
化を誘う昼下がりとなっていった。東村のこととは別に、カゼに手・・
を上げたことが、秋子を、激しく揺らしていた。・・・
秋子は、そのことを考え続けた。カゼは普通じゃない。カゼはダ・・
ウン症だ。少し知恵が遅れている。そのことで、カゼを、叱ったり・・
していないだろうか…。そのことで、カゼに、辛く当たっていない・・
だろうか…。・・・
甘やかすつもりはない。そして、必要以上に、厳しくするつもり・・
もない。普通に扱う…。秋子は、それでいいと思っていた。そのよ・・
うに、カゼを育ててきた。・・・
カゼに手を上げた。その感触は、秋子の手のひらにまだ残ってい・・
た。しかし、その感触は、ざらざらとしたものではなかった。カゼ・・
を普通に…。秋子の思いに重なるような、暖かさの混じった感触・・
だった。・・・
母として、当たり前のことをしたまでだ…。秋子に、小さな納得・・
がなった。そして、東村のことも、自然とその納得に流れていった。・・・
母として、そう、母として…。・・・
秋子は、何かを吹っ切ったように思った。母として…。それは、・・
今の秋子にとってすべてだった。・・・
ひとつ強くなったような気がしていた。目の前の見えない何かを・・
越えて、前を見ることができるような気になっていた。母として…。・・
もう、東村に隠すことなどない。今まで、そのこと東村に隠してき・・
たことが、カゼに、何だか悪いように思った。・・・
秋子は、受話器を取った。東村を呼んだ。また、雪が降りそうな・・
空が、窓の外に見えた。・・・
・・・
・・・
「高志さん。あの子、障害者なんです。ダウン症なんです。カゼは、・・
人より知能が劣っています。カゼは私の子です…」・・・
心の中から、支えていたものが、一気に流れていった。秋子は、・・
少し軽くなっていた。・・・
「高志さんに、このことが言えなかった。このことを、高志さんに・・
知られるのが、恐ろしかった…」・・・
東村が、軽くワインを干した。スープと一緒に、焼き立てのパン・・
が、テーブルに運ばれた。真っ白なテーブルクロスに、皿の置かれ・・
る静かな音がした。・・・
「カゼは、いい子だ。いい笑顔だった」・・・
何にを言うのよ…。止めて…。あなたには、関係ないことよ…。・・
秋子は、東村を作り笑顔で見た。不自然な笑みに、ふと、お店を思・・
い出した。お店も、もう止めよう…。・・・
「幾つだ」・・・
カゼのこと…。幾つでもいいじゃない…。あなたは、知らなくて・・
もいいことよ…。・・・
「今度、中学生。十二歳」・・・
パンの香ばしい匂いが、秋子には疎ましかった。秋子はスープを・・
吸った。ほうれん草の色が、銀のスプーンの輝きを、だらしなく緑・・
色に染めた。・・・
「もうじき、背を抜かれるな」・・・
東村が笑った。それは、作り笑顔ではなかった。いつもと同じ笑・・
顔だった。・・・
「身体だけが、大きくなって…」・・・
秋子は、その笑顔に戸惑った。高志さん、あなたは優しすぎるの・・
…。そんな笑顔は見せないで…。無理しなくていいの…。そんな言・・
葉が、秋子から漏れそうになる。・・・
「大変なのよ…。自分で、服も着れないの。前後ろは逆さま、ボタ・・
ンは入れ違い、靴下なんて、いつも裏向けなんだから…」・・・
秋子は続けた。東村の優しさの笑顔を、素早く消してしまいた・・
かった。・・・
「言葉が不自由だから、近所の小さな子供たちが、恐がって逃げて・・
いくの。いつも、ウーウー言っている変な奴だって…。フフフ」・・・
秋子は、知らぬ間に攻撃的になっていた。東村に対して、気づか・・
ぬ内に無防備になっていた。・・・
「おねしょなんか、未だにするのよ。公園で鳩を追い回すし、車が・・
通っても避けようとはしない。いつも、冷や冷やの連続…」・・・
東村の笑顔が消えた。東村の目が、秋子から逸れる。・・・
「この間なんて、学校の帰りに、犬と喧嘩したの。小さな犬に咬み・・
付いたんだって。顔に引っかき傷作って帰ってきた。それから…」・・・
「ももいい!」・・・
東村が、スプーンを置いた。そして、その手が、グラスへ伸びた。・・・
「アキ、ももいい…」・・・
ウエイターが、音を立てずに、二人の席の側に立っていた。・・・
・・・
・・・
「が、あ、ざ、ん、は?」・・・
カゼは、部屋のなかを見渡した。いつもなら、静かに食事をして・・
いる時間だ。祖父の前で、おとなしくしている。カゼは、祖父が恐・・
い。カゼにとって、武雄は、優しいとはいえなかった。・・・
「が、あ、ざ、ん、は?」・・・
今夜のカゼは、少し変だった。武雄の視線を、巧く交わしている。・・・
「カゼ、座りなさい」・・・
カゼが、部屋を歩き回る。食器棚の皿を揺らす。落ち着きがない。・・・
昨夜は、かくれんぼの続きだった。カゼの祖母の千恵子が、カゼ・・
が発作で暴れるのをきっかけに、久しぶりに機嫌良くなってしまっ・・
た。暴れるカゼをなだめて、千恵子は、カゼとかくれんぼをした。・・
二人とも、大いにはしゃいだ。そして、その挙げ句、カゼは外へ出・・
てしまったのだ。・・・
「カゼ、座りなさい」・・・
武雄は、カゼに言った。しかし、カゼは、言うことを聞かない。・・
いらいらと、何度もテーブルを廻る。カゼは、昨日の続きを待って・・
いるのか…。千恵子は、今夜は寝ている…。武雄は、カゼの苛立ち・・
を、妻のせいにした。あんなにはしゃぐからだ…。・・・
「カゼ! 今日は、かくれんぼなしだ!」・・・
昨夜は、きつく秋子に注意された。カゼを、一人で外へ出すな…。・・
武雄は、武雄なりに反省していた。・・・
「カゼ! 座るんだ!」・・・
昨夜の秋子の顔が浮かぶ。武雄は立ち上がり、カゼを掴んだ。・・・
「が、あ、ざ、ん、は…」・・・
カゼが笑った。武雄に叱られた時の、いつもの顔だ。えくぼだけ・・
で笑っていた。・・・
「かあさんは、お仕事だ…」・・・
カゼは、食事の続きに取りかかった。カゼの箸は、床に落ちてお・・
り、カゼは、武雄の箸を奪い取った。・・・
「う、ば、い、う、ま、い、ご、の、ご、ば、ん、う、ま、い…」・・・
カゼは、一気に食べた。武雄のコロッケまで、奪い取った。・・・
・・・
・・・
秋子は、すべてを打ち明けた。秋子の、東村に対する亜紀子の演・・
技は終わった。・・・
「アキ、君の思いはよく分かった。カゼ君のことだけが、引っかか・・
るのだな」・・・
東村が、ワインボトルに手を伸ばした。ボトルからの水滴が、透・・
明なワインクーラーへ滴り落ちる。仄かな水の匂いが、飛沫の音と・・
共に、テーブルに漂う。・・・
「高志さん。分かって下さい」・・・
メインの肉料理は下げられており、テーブルクロスの白さが蘇っ・・
ていた。ボリュームをしぼったBGMが、ゆるりと二人に落ちてい・・
た。・・・
「正直に言おう。昨夜、カゼ会った時、カゼの父親にはなれないと・・
思った…」・・・
東村の表情に、微かな苦悩の色が見える。思い過ごしだろうか、・・
東村の目が、潤んでいるようにも見える。秋子は、東村を見つめた。・・
東村が、グラスのワインを一気に空けた。・・・
「あれから考えた。結論はまだ出ない…」・・・
デザートが運ばれた。二人には、いい間だった。秋子は、運ばれ・・
た小さな銀のスプーンを眺めた。壁の間接照明が、そのなかで、微・・
かに揺れていた。・・・
「気持ちが揺れている。君と暮らしたい。しかし、ぼくは、カゼを、・・
拒んでいるのかも知れない」・・・
スプーンの光の揺れが大きくなった。秋子の焦点が、それから逸・・
れていく。・・・
「アキ。仮に、もしぼくが、いい加減な気持ちで、カゼのことを思・・
うんだったら、直ぐに君を引っ張っていく。君のすべてを受け入れ・・
ると言う。しかし、それはできない。ぼくは、これ以上、君を不幸・・
にしたくない」・・・
誠実な東村らしい言葉だった。東村の愛が、はっきりと秋子に届・・
いていた。・・・
「アキ。ぼくの故郷へ行かないか。カゼと三人で…」・・・
秋子は、面を上げた。一瞬、東村の言葉を疑った。信じられない・・
思いだった。故郷…。秋子のなかに、小さな風が吹いた。その風が、・・
秋子を不規則に揺らす。東村に、笑顔が戻っていた。・・・
「故郷へ行かないか。海はいいぞ…」・・・
意味が、すぐ理解できた。東村は、東村なりに納得を求めている。・・
東村は、徹底した男なのだ。いい加減な気持ちで言っているのでは・・
ない。これからの二人のことを、真剣に考えている。秋子には、そ・・
のことが分かった。カゼの父親に…。東村は、それに、思いを向け・・
ているのだ。秋子に吹く風が大きくなる。不規則な揺れが激しくな・・
る。秋子の目に、涙が昇った。目の前の東村が、霞んでいく。・・・
「高志さん…」・・・
この人に、すべて賭けたい…。秋子は、そう思った。東村の愛が、・・
秋子の心の奥にまで、じんわりと流れ込んでくる。秋子は、ハンカ・・
チで、そっと涙を拭った。・・・
「カゼに、海を見せてやろう…。海はいいぞ…」・・・
東村は、海に育った。大きな自然を見て育った。それは、東村か・・
ら聞いていた。海はいいぞ…。そう言った時の、東村の瞳は輝いて・・
いた。海…。秋子の脳裏に、紺碧が拡がっていく。海…。カゼに、・・
海を見せてやろう…。汐の香りが、秋子の意識を擽る。カゼに、海・・
を見せてやろう…。そう、カゼに、海を見せてやろう…。ありがと・・
う、高志さん…。・・・
そう言えば、カゼに、海を見せてやったような記憶はない。忙し・・
さに、そんなことしてやったことがないと思う。カゼは、海を知ら・・
ない。そう、カゼに、海を見せてやろう…。カゼが、波打ち際を走・・
る。水飛沫が、カゼの頭の上にまで上がる。その空に、白いカモメ・・
が、思い思いの弧を描いている。海…。秋子の思いのなかに、東村・・
の言った海が形となっていく。そして、そこにはカゼがいる。やは・・
り、秋子のなかに、カゼは、果てしなく大きな存在だった。それを、・・
秋子は改めて感じていた。・・・
「十日ほど、休みが貯まっている」・・・
東村の笑顔が嬉しかった。やはり、いつもの笑顔だった。秋子の・・
涙が止まらなくなった。熱い雫は、瞳を過ぎて、秋子の手の甲へ・・
次々に落ちた。・・・
「海に行こう…」・・・
今すぐ、東村の胸で、思い切り泣きたかった。秋子は、心の底か・・
らそう思った。・・・
・・・
・・・
-こうえんへ、いこう。きのうのひと、くろいふくきていた。くろ・・
おとこだ。くろおとこも、こうえんに、くるかもしれない…。・・・
じいちゃんは、こわい。きらいだ。でも、いま、といれへ、いっ・・
た。いまのうちだ…。・・・
あっ、てぶくろわすれた。まふらーもわすれた。しまった。し・・
まった。しまった…。・・・
ままいいや、かあさん、こうえんでは、やさしいから…。こうえ・・
んへ、いこう…。さむくないや…。・・・
・・・
・・・
今夜も、秋子は、走らなければならなかった。秋子は、昨夜のよ・・
うに、公団の階段を駆け下りた。公園に走った。昨日ほど寒くな・・
かった。雪も降ってはいなかった。・・・
カゼは、公園にいる。私を待っている。秋子は、そう思った。カ・・
ゼは、楽しかったことを繰り返す。嬉しかったことを、何度もせが・・
む。それは、カゼにとって、大切な出来事なのだ。重要な事柄なの・・
だ。カゼの生きていく糧でもあるのだ。秋子は、そのことを、よく・・
知っていた。カゼは、公園にいる。・・・
風邪を、惹くでしょう…。昨夜ほど、慌ててはいなかった。秋子・・
は、国道に出た。・・・
低いガードレールに、東村のことを思った。東村は、このレール・・
を跨いでいたカゼを止めてくれた。昨夜のことのようには思えない。・・
遥か昔の出来事のように思える。・・・
思った通り、公園に、カゼはいた。ブランコが、軋んだ音を立て・・
ていた。やはり、大きな安堵が、秋子を包んだ。秋子は、静かにカ・・
ゼに近づき、ブランコを、後ろから押してやった。・・・
「が、あ、ざ、ん…」・・・
寒さに、カゼが、鼻水を垂らしていた。カゼは、嬉しそうに笑っ・・
ていた。・・・
「寒くない。カゼ…」・・・
手袋も、マフラーも、していない。秋子は、昨夜のように自分の・・
コートを、カゼに着せてやった。・・・
「お、じ、ざ、ん、ば?」・・・
カゼが、秋子に飛びついた。カゼの鼻水が、後ろに大きく散った。・・・
「おじさんって?」・・・
カゼの笑顔が、どことなく、照れくさそうだった。ほんの稀に見・・
せる、カゼの恥じらいが揺れている。・・・
「ぐ、ろ、お、ど、ご…」・・・
秋子は笑った。カゼは、東村のことを言っている。東村は、昨夜、・・
黒いコートを着ていた。カゼは、そのことを言っている。・・・
「ぐ、ろ、い、お、じ、ざ、ん…。ブ、ダ、ン、ゴ、お、し、だ・・
…」・・・
丸い月が、低くカゼを照らした。その影が、公園に大きく伸びる。・・
秋子は、そんなカゼを抱いた。今夜は、コロッケの匂いがした。・・・
「カゼ、あのおじさん好き?」・・・
カゼが、滑り台に走った。低い月に、走っていくように見えた。・・
秋子も走った。カゼが、滑り台から滑り降りるのを待った。・・・
カゼは、東村のことが気に入ったのだろうか…。秋子の淡い希望・・
が、少しだけ色を付けていく。二時間ほど前の東村の会話と併せて、・・
秋子の淡いものは、秋子のなかで小さな音を立てていた。・・・
「カゼ、海、見たい?」・・・
滑り台から、カゼが降りた。巧く立てなかった。その滑り台には、・・
大きすぎるカゼの膝が邪魔をした。カゼが、秋子の足元に倒れた。・・・
「カゼ、海、見たい?」・・・
カゼを立たせた。カゼが、ズボンの汚れを気にした。・・・
「帰って、一緒に、お風呂入ろう…」・・・
カゼが喜んで、秋子を引っ張った。カゼのズボンの尻が、泥だら・・
けになっていた。・・・
「お、ぶ、ろ、お、ぶ、ろ…」・・・
・・・
・・・
-そうか、きょうは、おじさんこない…。くろおとこ、こない…。・・・
まあ、いいや、おふろだ。おふろだ…。かあさんと、おふろだ…。・・・
・・・
・・・
(3)・・・
・・・
二月が終わり、三月に入った。今年は、寒い日が多く、積雪量も、・・
例年より多いようだ。秋子の暮らす公団住宅の近くの池にも、今年・・
は、何度か氷が張り、厳しい寒さを、秋子たちに感じさせていた。・・
例年なら、既に膨らみかけている梅の実が、今年は、身を固く閉じ・・
ていた。・・・
春には少し早すぎる季節、春を待つ風が吹く季節、この時期に、・・
カゼは生まれた。・・・
「あなたのお子さんは、ダウン氏症候群、ダウン症です」・・・
窓を眺めながら、秋子は、カゼの生まれた頃の思いに揺れていた。・・・
「ダウン症です。これからが大変です」・・・
カゼの発育が、当初から非常に遅いので、何軒か病院を変えた結・・
果の最終診断だった。十何年前のことだ。・・・
カゼは、二千五百グラムで生まれた。正常児と未熟児の境界と言・・
われた。しかし、カゼは、母乳を飲む力を授からなかったのか、カ・・
ゼは、それを吸い込む力を出そうとはしなかった。乳房を舐めるの・・
だが、生命の糧を、自らの力で、自らに呼び込もうとはしなかった。・・
しばらくは、保育器のなかに入れられ、注射で育った。いや、育っ・・
たと言うより、生命を、かろうじて維持していたに過ぎなかった。・・・
その年も、寒い冬だった。暦では、春にはいるのだが、一向に、・・
その兆しすらなかった。早春賦の如く、鳥たちは、時に在らずと眠・・
りを続け、春は名のみの木枯らしの吹く日々が続いていた。・・・
そんななか、カゼの体重は増加しなかった。骨と皮のまま、病院・・
を出た。・・・
ダウン氏症候群…。簡単に言うと、ダウン症…。秋子は、そんな・・
言葉すら聞いたこともなかった。・・・
「それは、一体何の病気ですか」・・・
総合病院での担当医は、目を伏せたまま、辛そうに言った。・・・
「あなたのお子さんは、知恵遅れです…」・・・
頭を、鈍器で殴られたような衝撃だった。秋子は、一瞬にして言・・
葉を失った。どうして、どうしてなの…。どうして、私の赤ちゃん・・
が…。・・・
「ダウン症のなかでも、あなたのお子さんの場合は、モザイク型の・・
染色体異常であります。モザイク型の染色体異常というのは、ダウ・・
ン症のなかでも、比較的、遅れの程度や身体的特徴が少ないのが、・・
そのモザイク型染色体異常です…」・・・
何が何だか分からなかった。秋子には、その担当医の言葉が、ど・・
うしても、どこか遠くの国の言葉としか聞こえなかった。・・・
その日、秋子はカゼを抱いて、寒空のなかを歩いた。あてもなく、・・
何時間と歩いた。・・・
ダウン症とは、一八八六年、イギリスの内科医ラングドン・ダウ・・
ンが、先天性精神薄弱児を『蒙古人様白痴』『蒙古症』と名づけた。・・
彼は、その子供たちの外観上の特徴が、蒙古人種に似た顔貎特徴で・・
あったので、そう名づけたという。・・・
蒙古人種に似た顔貎特徴とは、顔が平たく凸凹が少ない。頬が丸・・
く側方に張り出している。目は斜めにつり上がっており、唇が大き・・
く厚い。鼻が小さく、舌は長くざらざらとしている。等々である。・・・
その後の研究によって『蒙古人様白痴』『蒙古症』は、染色体異・・
常によるものであることが発見された。そこで、蒙古症などの呼び・・
方を改めて、蒙古症の名づけ親である、ダウン氏の名をとって『ダ・・
ウン症候群』と呼ばれるようになった。・・・
秋子は、専門書を読み、そのことを知った。更に、秋子は、ダウ・・
ン症についていろいろと調べた。・・・
ダウン症とは、ヒトの染色体異常の科学的名称である。遺伝子を・・
担う染色体の、配列や数が不正常になってしまうために、親である・・
人間の形質が、異常に子に伝わるのだ。つまり、生まれた子供の染・・
色体が異常であれば、その子は、知恵の遅れや、身体的な欠陥とい・・
う特徴を持つことになるのである。これは遺伝などではない。誰に・・
でも、その可能性はあり、確率は平等なのである。人種や、民族を、・・
選ばす、世界中に出現する。だいたい、新生児の六六〇人に一人と・・
いう程度の比率で発生するといわれる、新生児によく見られる深刻・・
な問題なのである。・・・
秋子の子、カゼの場合は、そのダウン症の内、もっとも少ないタ・・
イプで、モザイク型の染色体異常だった。モザイク型とは、その分・・
類が三通りに分けられるダウン症の、二パーセントから三パーセン・・
トを占める、一つのケースだった。・・・
モザイク型の症状の特徴は、その程度が、ダウン症のなかでも比・・
較的軽く、遅れの程度も、身体的欠陥も、他のダウン症の患者に比・・
べれば、比較的穏やかであるとのことだった。医者は、そのことを・・
慰めに言っていたのだ。・・・
ダウン症には、21トリソミーと呼ばれるものが最も多く、全体・・
の九四パーセントから九五パーセントを占める。他に、転座型と呼・・
ばれるものが、三パーセントから四パーセントの確率で発症する。・・・
ダウン症の原因は、21トリソミーの場合、二一番目のヒトの染・・
色体が、一つ多いことで、普通なら四六個であるヒトの染色体が、・・
四七個存在するのである。精子と卵子が結合する時、卵子あるいは・・
精子細胞の分裂の過程で起こる異常によって、余分な染色体が加わ・・
るものである。・・・
カゼの場合のモザイク型は、21トリソミーと異なり、それは、・・
授精後に起きる。授精後の細胞分裂の異常で発生するのである。し・・
たかって、カゼは、正常な細胞から出発した。しかし、正常な細胞・・
分裂の途中で、ある細胞に不分離が発生し、余分な二一番目の染色・・
体を持った細胞となってしまったのだ。そのために、モザイクとな・・
り、一人で、二種類の異なったタイプの染色体を持つことになって・・
しまった。一方は正常な細胞。そして、もう一方は、ダウン症を発・・
症させる細胞。カゼは、二つの染色体を、モザイクの形で持ってし・・
まったことになったのだ。・・・
秋子に、その内容は、よく分からなかった。しかし、カゼが、少・・
し育つに連れて、その現実を、無視することはできなくなっていっ・・
た。・・・
カゼは、染色体が一つ多いのだ…。よく分からないが、染色体が・・
異常なのだ…。それだけのことで、カゼの運命は、激しい波に巻き・・
込まれていくのだ。秋子は、その時、激しい憎悪を神に向けた。・・・
この季節になると、秋子は、その時のことを思い出す。辛い時・・
だった。辛い季節だった。秋子から、春が、遠くへ遠ざかっていっ・・
た季節だった。・・・
秋子は、窓を開けた。過去の思いは、秋子に、冬の風しか感じさ・・
せてくれなかった。・・・
「この子は、ダウン症なんです。知恵遅れなんです…」・・・
何度となく言った言葉だ。知人に会えば、言い訳のように言って・・
いた。秋子は、東村に同じ言葉を言った時、それも、言い訳だった・・
ことを悲しく思ったものだった。・・・
今日も、窓から入る風は冷たかった。しかし、あの頃、病院の窓・・
に吹いた風は、もっと寒かったように思う。心にまで染みる冷たさ・・
だったように思う。秋子は、側のカゼに振り返った。・・・
「カゼ、遊園地行こうか…」・・・
自分のなかに、何かが目覚めていく…。秋子は、それを感じてい・・
た。東村への思いだけではなく、心の奥から沸き上がってくる、熱・・
いたぎりのようなものが、秋子の思いを弾ませていた。秋子に、そ・・
れが分かる。それが、日に日に大きくなっていく。・・・
東村が、海に行こうと言った。カゼに、海を見せてやろうと言っ・・
た。東村の深い優しさに触れた。・・・
そのことが、秋子に、新しい風を送った。風は、過去の思いを溶・・
かし、カゼとの暮らしを大切にすることの意味を、伝えてきた。秋・・
子は、その風を、しっかりと受けようと思った。体中で、そして、・・
心のすべてで、その風を、受けようと思った。秋子には、その風は、・・
未来から吹く風に思えた。・・・
東村のことは、自然に任せようと思った。新しい風任せだ…。風・・
に従うまでだ…。しかし、東村は言った。カゼに、海を見せてやろ・・
う…。その言葉を、秋子は大切にした。カゼに海を…。それが、秋・・
子に吹く風を、更に後押ししていた。いや、東村への思いさえ、そ・・
の風は越えていく。未来から吹く風は、更なる未来へ吹いていた。・・
秋子の風は、遥かな風を創っていた。・・・
「カゼ、遊園地行こうか…」・・・
その風に、自分が変わっていくことを、秋子は理解していた。お・・
店も止めた。カゼとの時間を、できる限り多く取った。今まで見え・・
なかったものが、多く見えてくるようになった。・・・
父も、そんな秋子に気づいたのだろうか、警備会社の夜勤を始め・・
た。やはり、母親が、側に付いていなければ…。娘に対する後ろめ・・
たさだろうか、父独特の、照れ隠しの言葉を、秋子は嬉しさで聞い・・
た。・・・
店を止めたことで、家のなかが明るくなった。そして、秋子に、・・
いろんなことが重なった。カゼが、小学校を卒業する。母の飼って・・
いた文鳥の雛が孵った。母の笑顔が多くなった。父が酒を止めた。・・
父と母との会話が多くなった。春が近かった。秋子は、新しい風を・・
感じ続けた。・・・
「ゆうえんじ、行ぐー」・・・
積み木をしていたカゼが笑った。気のせいか、カゼの笑顔も、少・・
しずつ変わっていくようだ。何か、カゼにも、変化があったのかも・・
知れない。秋子は、そんなカゼの笑顔を嬉しく思った。・・・
「行こう、カゼ!」・・・
後ろから、カゼに抱きついた。カーテンが風に舞った。カゼが、・・
一つくしゃみをした。秋子は、慌てて窓を閉めた。・・・
「ハハハ、ハハハハ」・・・
秋子から、一つのことが消えていく。どうして、どうしてなの…。・・
どうして、私の赤ちゃんが…。何百回思ったそのことを、新しい風・・
が、秋子からどこかへ運んでいく。秋子は、カゼを抱いた。腕のな・・
かのカゼが、限りなく愛しく、果てしなく愛しかった。・・・
「カゼ。風邪ひくなよ!」・・・
・・・
・・・
楽しかった。遊園地で、カゼとの時間を思いきり楽しんだ。久し・・
ぶりに、心から楽しむことができた。カゼに、海を見せてやろう…。・・
その言葉が、遊園地の時のなかに、秋子自身の声で、何度も、何度・・
も、秋子の意識に木霊した。・・・
「カゼ! ジェットコースター乗るか!」・・・
カゼが、これ以上ない笑顔で振り返る。手首を曲げ、額に掛かる・・
髪の毛を、勢いよく掻き上げた。両方のえくぼが、春の日射しに明・・
るく映えた。・・・
「ジェ、ッド、ゴー、ズ、ダー!」・・・
カゼが、秋子に飛びついた。固い頭が、秋子の頬骨に当たった。・・・
カゼは、この日の楽しさを戸惑ったりはしていない。身体全体で、・・
嬉しさ、楽しさを、秋子に真っ直ぐ見せてくれている。カゼの無垢・・
で素直な興奮が、秋子に素早く伝わる。カゼは、笑いながら大きく・・
吠えていた。・・・
「ジェッ、ド、ゴー、ズ、ダー!」・・・
周りの親子連れが、少し避けながら、秋子たちを横目で眺めてい・・
た。カゼの大声に、小さな女の子が、驚いて半べそをかいている。・・
横目の母親と驚きの女の子をなだめていた父親にも、戸惑いと嫌悪・・
の影が浮かんでいく。いつも秋子が感じる影だった。・・・
「カゼ! 行くぞ! ヨーイドン!」・・・
そんな視線を気にせずに、秋子は、人混みに走った。人気の・・
ジェットコースターの乗り口は、その人混みのなかにあった。・・・
「早く、カゼ!」・・・
秋子とカゼは、親子連れの側を過ぎた。いつもの秋子なら、そん・・
なことはしなかっただろう。乾いた視線を感じ、伏し目がちに静か・・
に通り過ぎるだけだっただろう。しかし、秋子の新しい風は、秋子・・
から、そんな気持ちをも流してしまっていた。秋子は、その親子に・・
微笑んだ。・・・
「が、あ、ざ、ん!」・・・
その親子だけじゃなかった。障害者のこれ以上ない楽しそうなは・・
しゃぎぶりと、その母親の浮かれぶりを、人混みのそれぞれが、声・・
を立てずに見ていた。眉をひそめ、見てはいけないものを見るよう・・
な視線が、秋子たちにいくつも飛んだ。・・・
「カゼ! 早く!」・・・
激しい機械音が、秋子の頭上に響いた。定員をしっかりと乗せた・・
ジェットコースターが、一つ宙返りしていた。・・・
「ブ、ワー! ブー、エー ボーワー!」・・・
カゼが、それを見上げた。乗っている子供たちの悲鳴が、カゼに・・
も届いている。・・・
「ブ、ワー! ブ、ワー!」・・・
カゼが跳ねた。何度も跳ねた。両手で、ジェットコースターを捕・・
まえようとしている。・・・
「ブ、ワー、ワー! ブ、ワー!」・・・
人混みの視線が、遠慮がちにカゼに集まっていく。そして、その・・
視線は、カゼがその人混みに微笑むと、四方に散っていった。大勢・・
の視線が、カゼのダンスのせいで行き場を失っていった。重い空気・・
が、その場を漂った。・・・
「ジェッ、ド、ゴー、ズ、ダー!」・・・
秋子は止めなかった。カゼの好きなようにやらせてやりたかった。・・
今までなら、人の目を気にして、カゼを叱っていただろう。秋子は、・・
そんな自分の変化を、何よりも嬉しく感じた。探し続けていた大切・・
な何かを、その思いに見つけたような気分になっていた。飛び跳ね・・
るカゼが、頼もしく見えた。我が子を、誇りに思った。秋子は、思・・
いきり胸を張っていた。・・・
「カゼ! こっちお出で!」・・・
人混みの視線が、徐々に落ちついていった。行き場を失っていた・・
視線の多くが、再び、カゼに向かっていく。カゼと秋子の間を、交・・
互に揺れながら舞っていく。・・・
「が、あ、ざ、ん!」・・・
あの親子の嫌悪は消えていた。そして、この場から、先程の重い・・
空気が、ゆっくりと消えていくところだった。・・・
「すみません。この子が、はしゃきすぎちゃって…」・・・
自然な言葉だった。二人は、列に並んだ。秋子は、カゼの肩を抱・・
いた。・・・
「いいお名前ね…。カゼくん」・・・
大勢の視線の一つだった人が、秋子に言った。秋子は、嬉しさに・・
大きく微笑んだ。カゼも、嬉しそうに大きく飛び跳ねた。・・・
「が、あ、ざん、ジッ、ド、ゴーズ、ダー、の、どう!」・・・
人混みが少し流れた。順番が、もう直ぐになっていた。カゼは、・・
前方の階段をじっと眺めていた。・・・
「ジッド、ゴー、ズ、ダー、の、ど、う!」・・・
秋子から、いろんなものが、はがれ落ちていった。カゼと歩く時・・
の伏した目…。狭い歩幅…。少し曲がった背中…。眉間に浮かぶ恥・・
じらいのようなもの…。それらが、秋子から、知らぬ間に消えて・・
いった。カゼへの小言…。一人隠れた溜息…。耳の後ろの不快…。・・
そういうものを、秋子の風が、遠くへ運んでいった。・・・
カゼへの心遣いも、秋子本来の明るさで、カゼへ透き通っていっ・・
た。二人の間に、何も隔てるものはなくなっていくようだった。二・・
人の距離が、どんどんと縮まっていくようだった。・・・
ジェットコースターで、カゼは、泣き叫んだ。涙を散らし、狼の・・
ように遠吠えした。カゼの叫びは、自分のなかに溜まっているもの・・
を、すべて吐き出したような叫びだった。窮屈な座席で、カゼは激・・
しく暴れた。嬉しそうだった。楽しそうだった。秋子は、そんなカ・・
ゼを見続けた。・・・
「カゼ…。ごめんね…」・・・
ジェットコースターを降りた時、秋子は、カゼにひとことそう・・
言った。秋子は、今までの自分をカゼに詫びた。自分の狭い歩幅を・・
詫びた。自分の少し曲がった背中を詫びた。頼りなく思っていたカ・・
ゼに詫びた。逞しく育ったカゼに詫びた。カゼは、楽しく頷いた。・・・
「ゴー、ビー、ガッ、ブ、の、ろ、ブー」・・・
その日、秋子とカゼは、遊園地を走り廻った。園内に、蛍の光が・・
流れる頃には、二人に、心地よい疲れが襲いかかった。三月にして・・
は、少し温かい夕暮れだった。・・・
・・・
・・・
(4)・・・
・・・
ようやく、梅がほころび始めた。メジロが、秋子の住む団地の近・・
くにまで、春を探しに来ていた。風が、日に日に柔らかくなり、も・・
うすぐ、春が見つけられそうな日和が続いた。・・・
そんな日に、カゼが、無事、小学校を卒業した。秋子にとって、・・
嬉しい春が、一足先に訪れていた。・・・
カゼは、秋子の思いで、小学校は普通科に通わせていた。障害を・・
持つ子供にすれば、少々酷なことなのかも知れないが、秋子は、カ・・
ゼの頑張りに期待した。・・・
毎年、進級の時に、担任の先生が、特殊学級への編入を勧めに来・・
た。何とか、普通かでも付いていけるだけのものはあるのだが、カ・・
ゼにとって、その方が楽だろうと言うのだ。幸い特殊学級は、その・・
小学校のなかにあった。講堂の裏の、日の当たりにくい小さな教室・・
だった。しかし、秋子は、それを拒み続けた。少しでも、普通の所・・
で、カゼを大きくしてやりたかった。特殊に扱われるのが、カゼに・・
とって、よくないと思ってのことだった。・・・
カゼは頑張った。秋子の期待を、裏切ることはなかった。なんと・・
か、六年間を普通科で過ごした。成績はビリながら、図工などは三・・
をもらっていた。・・・
-大きくなったら、ぼくは、だいくさんになります。・・・
大きくなったら、ぼくは、コックさんになります。・・・
大きくなったら、ぼくは、かあさんに、大きないえをたてます。・・・
大きくなったら、ぼくは、かあさんに、おいしいコロッケをつく・・
ります。・・・
カゼが、卒業に残した旅立ちの詩だ。カゼの優しさがストレート・・
に届き、秋子は、嬉しさに涙した。秋子に、忘れられない詩となっ・・
た。・・・
そして、卒業式のカゼの姿に、秋子は、大粒の涙を堪えることは・・
できなかった。紺のブレザーを着たカゼに、秋子は、懸命に拍手を・・
送り続けた。カゼが、卒業証書をもらいに壇上に上がった時は、思・・
わず立ち上がっていた。一際高くなった拍手に、秋子は、心から礼・・
を言った。涙が、止めどもなく溢れ、壇上のカゼが霞んだ。校長先・・
生が、カゼの肩を抱き、カゼが、少しよろめいた。カゼが、笑顔で・・
振り返った時、秋子は、不覚にも大きく嗚咽を漏らしていた。カゼ・・
の立派な姿に、その場でカゼを抱きしめたかった。・・・
その日のことは忘れない。秋子はカゼを抱き、この日のために新・・
調した紺のブレザーを、涙で濡らした。それでも、秋子は、嬉しさ・・
に何度も泣いた。・・・
秋子は、そんな思いにとらわれながら、公団の階段を上がってい・・
た。店を止めてからヒールを履かなくなったので、足音を気にする・・
ことはない。父に、夜食の弁当を作り、カゼと夕食を過ごす。秋子・・
は、楽しさに足が軽くなっていた。今夜は、何を、カゼにこしらえ・・
てやるか…。秋子は、階段で少し微笑んだ。・・・
「ただいま!」・・・
秋子の帰宅の声が変わった。店を止めたのを、つくづくよかった・・
と思った。・・・
「が、あ、ざん…」・・・
また、カゼの背が、少し高くなっている。カゼが、秋子に体当た・・
りした。・・・
「お、が、え、り、が、あ、ざ、ん…」・・・
待ちくたびれていたカゼが、秋子にじゃれる。秋子は、そんなカ・・
ゼの脇腹をつつき、じゃれ返す。父が、側で仕事の支度をしていた。・・
母が、奥の襖の影から、笑顔を覗かせていた。・・・
「東村さんから、電話があった」・・・
そう言って、父が、出掛けていった。働きだした父は、少し元気・・
を取り戻していた。顔の艶がよくなり、気のせいか、目の力が蘇っ・・
ていた。そんな父を見て、母も元気になっていく。・・・
カゼとの食事は、できるだけ時間を長くとった。時には、カゼの・・
前で、母とビールなど飲んだ。秋子の楽しい時間が多くなっていた。・・・
「カゼ、今度、海に行こう。あのおじさんも、一緒でいい?」・・・
大喜びのカゼだった。はしゃぎ回るのを止めるのに、一苦労の秋・・
子だった。・・・
その夜も、少し飲んだ。カゼが眠ってから、秋子は、心地よい酔・・
いに揺れた。東村との電話越しの会話が、秋子のその揺れを大きく・・
した。・・・
「高志さん、ありがとう…」・・・
電話を切る前に、秋子は、そう言った。あなたがいたから、私が・・
変わっていく…。ありがとう、高志さん…。秋子は、酔いのなか、・・
東村に抱かれたかった。東村の胸で眠りたかった。・・・
「高志さん、ありがとう…。そして、カゼよ、ありがとう…」・・・
秋子は、カゼの頬にキスをして布団に入った。カゼの微かな鼾が、・・
秋子に、リズムよく聞こえた。・・・
第二章・・・
・・・
(1)・・・
・・・
-カゼ…。・・・
一体、何のことだろう…。・・・
光、再び目覚めた。光は、自らの光の揺れに気づいた。光は、薄・・
く白く揺れていた。・・・
-かあさん…。・・・
意味のあることように思える…。でも、分からない…。・・・
光は、空間を進んだ。目覚めは重かった。しかし、光は進んだ。・・
カゼ…。かあさん…。そんな思いが漏れてくる、闇の彼方へと進ん・・
だ。・・・
-かあさん…。・・・
感じたことのない風だった。光は、少し戸惑っていた。自らの光・・
に、今までの闇が、少しだけ遠ざかっていた。だから、感じたこと・・
のない風を受けたのだろうか…。光は、風に向かった。風の吹くと・・
ころが、この闇の終着地かも知れない…。・・・
-かあさん…。・・・
光は進んだ。意識の重さを、光は、自らの戸惑いでカバーした。・・
戸惑いなど、忘れ去っていたと思っていた…。・・・
-カゼ…。・・・
光は進んだ。風に向かった。それが、自分の使命のように思った。・・・
・・・
・・・
東村の故郷は、兵庫県の北端、竹野という小さな村だった。城崎・・
温泉より、海に向かう道を峠一つ越した海辺の村だった。夏は海水・・
浴で賑わい、冬はカニを求めて人々が集まる。小さな村ながら、旅・・
館や民宿が立ち並ぶ村だった。・・・
東村の実家も、民宿を営んでいた。東村の祖父に当たる松次郎が、・・
漁師をあっさり止め、自宅を改造し旅館を始めた。城崎温泉が、全・・
国的に知られだし、竹野の村にも、それらの人々が海を見にやって・・
来るようになった。そんな頃に開いた旅館だった。竹野の村では、・・
古い旅館であった。・・・
今も、東村の母妙子が、民宿として切り盛りしている。主に夏だ・・
けの営業だか、親切な妙子の性格が幸いして、たいそう繁盛してい・・
た。東村の一番上の姉が手伝い、料理は妙子が作る。かきいれ時は、・・
アルバイトの学生を遣い、何とかやっていた。・・・
東村は、そんな家の末弟として生まれた。六人兄弟。東村の上に、・・
姉が二人、兄が三人。男はみんな竹野を捨て、都会へ出ていた。村・・
には、二人の姉と、母、そして、あまり働かない父がいた。・・・
東村が竹野へ帰るのは、七年振りのことだった。直ぐ上の姉の結・・
婚以来、一度も帰っていない。兄たちを見習ったわけではないのだ・・
が、東京から山陰は、余りにも遠すぎた。・・・
父源助は、もう七十を迎えている。旅館の坊ちゃんだった父は、・・
定職に付かず、たまに家業の旅館を手伝うだけの怠け者だった。母・・
だけが、苦労したようだ。母は若い頃、経営が行き詰まった旅館を・・
民宿に変え、今までの客層をすっかりと変えてしまった。創業者で・・
ある義理の父松次郎の反対を振り切り、強引に思いを通した。村で・・
は、ちょっとした女傑で通っているほどだ。そのお陰で、兄弟たち・・
が育った。男の子たちは、大学まで行かせてもらい、今や、企業の・・
課長、部長クラスである。忙しさに、故郷へ帰る時間がないほどな・・
のだ。・・・
父も母も酒が好きで、酔うと異常に明るくなる。父は、怠け者・・
だったが、母のことだけは大切にした。怠けていることの償いのよ・・
うに、母妙子を大切にした。酔うと二人は、一緒に歌などを歌った。・・
仲の良い夫婦だった。東村は、そんな父を、憎めなかった。・・・
東村が、帰郷の電話を入れると、父が出た。声が潤んでいた。嫁・・
を連れてくるのか…。父らしい早とちりだった。・・・
春には少し遠いこの時期、民宿は、暇な時期である。父は、何日・・
でもゆっくりして行けと言った。久しぶりに戻るという我が子に、・・
喜びを隠しきれない様子だった。・・・
東村は、一瞬、東京を捨て、そんな村に帰りたくなった。民宿を・・
手伝い、魚釣りなどして暮らせればいい…。都会の煩わしさから解・・
放され、できれば静かに暮らしたいと思った。汐の香りなど、とう・・
に忘れてしまっていた。都会で暮らす者の宿命なのかも知れない…。・・・
東村は、都会の朝にそんなことを思っていた。もうすぐ、秋子た・・
ちが駅に来る。新幹線の切符売り場、東京駅八重洲口、緑の窓口に・・
七時。その約束まで、まだ三十分もあった。・・・
東村の頬は、大人げなくも弛んでいた。子供の頃に戻ったような、・・
浮き浮きとした気分だった。仕事は、どうにかひと段落付けてきた。・・
自分がいなくとも、スタッフが困ることはないだろう。毎日の見え・・
ない制約から振り解かれてみると、これほどまでに軽くなれるのだ・・
…。東村は、その不思議さを、大きく笑い飛ばしたい思いだった。・・・
駅構内の放送が、次々と、旅立ちの時を告げていく。東村は、タ・・
バコをゆっくりと吹かした。それは、ネクタイを締めていない喉元・・
を、信じられないほど軽く、そして美味しく通り過ぎた。・・・
・・・
・・・
秋子は、その時、カゼと話していた。カゼは、嬉しさに、落ち着・・
きを失っていた。・・・
「カゼ、新幹線に乗るのよ。始めてだね…」・・・
秋子の耳元にも、東村と同じ駅の構内放送が届いていた。秋子と・・
カゼは、緑の窓口の見える改札の付近にいた。・・・
「そこは、すごっーく遠いの。カゼ、海は、すごく遠いのよ…」・・・
喜びが抑えきれないのだ。カゼが、何度も飛び跳ねる。ぶ、み、・・
だ、う、み、だ…。笑顔が、はち切れそうだった。カゼが、完全に・・
浮かれていた。・・・
「おなか、空いてない」・・・
おなかが空くと、カゼの機嫌は裏返る。秋子は、パンでも買って・・
やろうかと思った。・・・
「えぎ、べん、だ、べ、る…」・・・
少々驚いた。カゼが、駅弁を知っているなんて…。でも、当たり・・
前ね。もう中学生だものね…。・・・
「そうだね、新幹線のなかで、駅弁食べようか…」・・・
秋子は、カゼと肩を組んだ。駅弁買おう…。二人は、駅弁の売場・・
の方へ歩いた。・・・
「え、ぎ、べん、だ、べ、る…」・・・
カゼの飛び跳ねるのが、止まらなかった。秋子も、そのリズムに・・
合わした。・・・
・・・
・・・
飛び跳ねるカゼを、東村が認めた。秋子まで、同じリズムで歩い・・
ている。一瞬、東村に在らぬ思いが走った。そんなところで飛び跳・・
ねたら、かっこ悪いじゃないか…。東村の眉間に、小さな皺が寄っ・・
た。・・・
「高志さん…」・・・
しかし、それは、一瞬のことだった。秋子の手を振る姿を見ると、・・
その思いは消えた。誰だって、旅行は浮かれるものだ…。東村は思・・
い直した。・・・
秋子は、つばの短いキャップを深く被り、レンズの丸いサングラ・・
スをしていた。鮮やかな黄色の、厚手の大きめのセーターが、周り・・
を圧倒していた。細いジーンズが踊るように、東村へ走り寄って来・・
る。後ろに束ねたキャップからはみ出た黒髪が、黄色いセーター越・・
しに見える。秋子は、子供のように、大きく手を振っている。・・・
「カゼが、駅弁を食べるんだって。駅弁を知っているの…」・・・
嬉しそうな笑顔だった。秋子の全体が、大きく弾んでいる。東村・・
も、負けじと笑顔を作った。・・・
「駅弁うまいぞ…」・・・
カゼが、東村に飛びついた。猿のように、東村の首に、腕を巻き・・
付いた。・・・
「海に行こう、カゼ!」・・・
・・・
・・・
幸い新幹線は空いていた。秋子たちは、座席を裏返しボックス一・・
つを占領した。・・・
始めての新幹線に、カゼは、過敏すぎるほどの反応を示した。猛・・
スピードで変わりゆく窓の外に、目を丸くして、驚きを、秋子や東・・
村に撒き散らした。駅弁を食べるのも忘れるほどの、興奮だった。・・
座席を立ち、座席を飛び、そして、座席を蹴った。周りの人たちに・・
迷惑だと、秋子が、何度も窘めていた。・・・
周りの人に迷惑だ…。それ以上に、側にいる自分が照れくさい。・・
そんな思いが、東村の脳裏を巡っていた。その思いは、そう考える・・
自分を恥じると共に、東村の意識から、すぐには離れなかった。カ・・
ゼは、何も、好き好んでああしている訳じゃない。カゼの喜びの表・・
現が、ただ、カゼなりに激しいだけのことなのだ。子供がはしゃぎ・・
すぎるのと、同じことなのだ。誰が、そのことを、諌めることがで・・
きるというのだ。東村は恥じていた。自分の歪んだ意識を恥じてい・・
た。・・・
さすがに、カゼは、秋子に時折咎められ、大きな声は出さなく・・
なっていた。しかし、その大きなアクションは、東村の背中を、何・・
度もくすぐった。急に両手を上げる。突然立ち上がる。そうかと思・・
うと、窓に顔を押し付ける。低い声で唸る。トンネルに入ると座席・・
に伏せる。上りの新幹線とすれ違うと、手を叩く。その度、東村は・・
寒さを感じた。在らぬ視線を、背に感じた。・・・
その程度のことは、秋子は注意しなかった。その通りだ。東村は・・
思った。この程度のカゼのアクションが、周りに迷惑になるのであ・・
れば、カゼは生きていけない。カゼの自然な表現なのだ。・・・
しかし、東村は、在らぬ視線を感じ続けた。冷たいひやりとした・・
視線を、背中の隅に感じ続けた。それは、東村の過敏すぎる思い・・
だったのかも知れないが、簡単に、背から消えるものではなかった。・・・
カゼは普通じゃない…。病気なのだ…。東村は、そのことを、何・・
度も自分に言い聞かせていた。・・・
「カゼ、あれが富士山よ…」・・・
新幹線からは、いつの間にか、富士山が見えていた。秋子の弾ん・・
だ声に、東村は、我に返った。・・・
「今日は、よく見えるな。空気が澄んでいる…」・・・
東村は、無笑みを秋子に送った。秋子の瞳が、いい色に輝いてい・・
た。いつもと違う、秋子の美しさを感じた。カゼのことを、少し考・・
えすぎていたようだった。富士山を見る秋子の横顔が、果てしなく・・
美しく見えた。楽しそうな秋子が、輝いていた。・・・
「アキ。楽しそうだね…」・・・
気になる背への視線が、その時、東村から遠のいた。東村は、秋・・
子の横顔を見つめ続けた。・・・
「ぶ、じ、ざ、ん、ぶ、じ、ざ、ん」・・・
カゼが、急に座席を立った。東村と秋子の目が合った。カゼのそ・・
の反応に、秋子は、深い笑みを東村に見せた。東村も、同じ笑みを・・
秋子に返した。・・・
「が、あ、さ、ん、ぶ、じ、ざ、ん。ぶ、じ、ざ、ん、だ!」・・・
・・・
・・・
(2)・・・
・・・
-かあさん…。ふじさん、ふじさんだ…。・・・
光の思った通りだった。風に向かっていく内に、闇が晴れだした。・・
空間に漏れる何かが、大きくなっていた。どんどんと近くなってい・・
た。・・・
-かあさん…。ふじさん、ふじさんだ…。・・・
それは、光の記憶にあった。その意味は分からない。その意味に、・・
記憶があるのではない。その漏れの向こう側に、確かな記憶がある。・・
漏れを生み出しているものに、記憶がある。光は、空間の漏れを掴・・
んだ。それを、光の懐へと引き込んだ。・・・
-カゼ…。おきるのよ…。・・・
光に、別なる目覚めが押し寄せた。闇が、更に遠くなる。どうや・・
ら、光は、闇の空間を出てしまったようだ。風が異なっていた。・・・
-かあさん、ねむいよ…。・・・
光は、記憶を辿った。遠い過去だろう…。いや、違う。分からな・・
い。・・・
-かあさん、ねむいよ…。・・・
光は、それへ入った。漏れを生み出しているものが、光を、素早・・
く受け入れた。光には、少し意外なことだった。・・・
-かあさん、ねむい…。・・・
光に、微睡みが押し寄せた。しかし、光は、それを無視した。自・・
らの記憶に掛かった紗を、光は、懸命に振り払った。・・・
・・・
・・・
新幹線は京都で降り、京都から、山陰線にて豊橋まで行く。そし・・
て、豊橋から、ローカル線に乗り換え、城崎を越えて竹野へと向か・・
う。東村は、そのようなルートで、故郷への帰路を考えていた。京・・
都から約三時間半。東京からだと、約六時間の旅だった。・・・
京都へ、新幹線が滑り込んだ。少し、気温が下がったようだ。京・・
都の初春の寒さは、東村も知っている。地面の底から冷える寒さな・・
のだ。学生時代を過ごした思い出の街は、東村にとって、優しい街・・
だった。そして、自由な街だった。・・・
アナウンスが、京都と告げていた。東村は、その響きに、若かり・・
し頃を思い浮かべていた。・・・
京都の人たちが、誰一人褒めないデザインの、京都タワーが見え・・
た。平べったい提灯が、尖った竿の先に突き刺さっている。・・・
「カゼ。あれが、京都タワーだ」・・・
カゼが、少し、眠そうな目をしている。無理もない、カゼにとっ・・
ては、始めての長旅だ。疲れても当然だろう。・・・
「ダワー?」・・・
乗り継ぎは、時間的に余裕がある。東村は、秋子に言った。・・・
「ぼくは、この街で四年間過ごした。四畳半のアパートで、青春を・・
謳歌した…」・・・
少しおどけた調子が、巧く秋子に伝わった。・・・
「せいしゅん? その頃の、高志さんに会ってみたい」・・・
「青臭いだけだ。ハハハハ…」・・・
窓の外に、駅のホームが進入してきた。カゼは、眠りに入ろうと・・
目を閉じている。・・・
「さあ、乗り換えだ。海は、まだまだ遠いぞ、カゼ…」・・・
カゼに、その声は聞こえなかったようだ。カゼは、既に、眠りへ・・
と向かっていた。・・・
・・・
・・・
「が、えっ、で、ぎ、だ!」・・・
カゼが、突然、大きく叫んだ。眠たい目を、大きく開いた。・・・
「カゼ、降りるわよ…」・・・
新幹線が京都に着いた。秋子は、カゼの手を引いた。カゼの瞳の・・
なかに、純白な光が揺れるのを、秋子はちらっと見た。・・・
「が、え、っで、ぎ、だ…」・・・
カゼのステップが、軽く弾んだ。三人は、次々にホームへ降り・・
立った。京都は寒かった。ホームにまで、粉雪が舞い込んでいた。・・
足の下から、冷たい風が、二重に吹いてくるようだった。・・・
「乗り換えだよ、カゼ…」・・・
ホームに降りて少し歩いた時、秋子は、軽いめまいを感じた。周・・
りの景色が真っ白になり、どういう訳か、カゼの姿だけが、別なる・・
純白に輝いていた。カゼの瞳に見えた光と、同じ色だった。・・・
カゼが、神のように微笑んでいた。眉が険しく、口元が閉まって・・
いた。いつものような、とぼけた表情はどこにも見えなく、気高い・・
姿を誇っていた。カゼは、大きく胸を張っていた。笑みは直ぐに消・・
えたが、いつものえくぼが、優しさを秋子の方へ向けていた。・・・
そして、瞳の煌めきが、秋子を圧倒した。カゼは、宝石より輝く・・
瞳で、秋子を見つめていた。優しさと力強さが重なった瞳だった。・・
その瞳は、秋子の心を、激しく打った。何かの絵で見たことのある、・・
神の目だった。・・・
カゼの光は、どこまでも輝いていた。秋子のめまいを覆う白い闇・・
を、カゼの光がどんどんと溶かしていった。秋子は、いい知れない・・
暖かさを感じた。カゼは輝いた。純白に美しく輝いた。・・・
一瞬のことだった。秋子のめまいが去ると共に、カゼの光は消え・・
ていった。しかし、秋子の脳裏には、その時のカゼの姿がくっきり・・
と刻まれることとなった。・・・
・・・
・・・
-かえってきた…。かえってきた…。だれだろう…。まあいいや、・・
かえってきた…。・・・
おかしいや、ぼくが、ひかっていた。まっしろだった。・・・
まあいいや、まぶしくないから…。それより、まだ、すこしねむ・・
たいや…。・・・
・・・
・・・
「高志!」・・・
秋子が我に返った時、こちらへ向かってくる一人の老人が見えた。・・
カゼの光を見た直後の秋子には、その白髪の老人が神の僕(しも・・
べ)に見えた。・・・
「高志!」・・・
老人にしては、大きすぎる声だった。どういう訳か、カゼが、そ・・
の老人に手を振った。・・・
「親父…」・・・
東村の横顔に、苦笑が素早く昇った。その老人は、東村源助、東・・
村の父だった。・・・
「高志!」・・・
源助が、嬉しそうに、東村の肩を叩いた。何か言おうとする東村・・
を制して、源助が続けた。・・・
「車を用意してきた。お前、運転しろ…」・・・
源助は、秋子から荷物を奪うと、すたすたと、出口の方へ向かっ・・
た。・・・
「早く来い、高志!」・・・
大きすぎる声が、ホームに遠慮なく流れた。東村が呆れていた。・・
照れ笑いを、秋子に見せていた。仕方なく、一行は、源助の後に続・・
いた。・・・
車は、小さめのワゴンだった。新車だった。白いボディーが、ぴ・・
かぴかに輝いていた。後ろの窓に「民宿松屋」と堂々と大きく書か・・
れている。金色の筆遣いで、窓いっぱいに書かれたその屋号は、ワ・・
ゴン車をはみ出さんばかりの勢いだった。カゼと源助が、素早く後・・
部座席に滑り込んでいた。秋子は、助手席に足を掛けた。座席には、・・
まだビニールのカバーがされたままだった。・・・
「綺麗な方じゃ。高志の嫁に来てくれるのかい…」・・・
電話では、親父の早とちりを修正する時間がなかった…、と、東・・
村が言っていた。。東村が、助手席の秋子を見て笑った。・・・
「親父、無理することなかったのに…。ここからだと、電車の方が・・
早いのに…」・・・
源助は聞いていない。さっさと、自分一人シートベルトをはめ、・・
東村を急かしていた。・・・
「道は分かってるな…」・・・
源助の皺だらけの顔が、カゼを見て嬉しそうに笑っていた。カゼ・・
を見る源助のその目を見て、秋子は、一瞬に源助のことが好きに・・
なった。優しい目だった。・・・
・・・
・・・
(3)・・・
・・・
「リン! もうすぐ、高志おじさんが来るから。おかたずけしなさ・・
い」・・・
高志の姉、真紀子の弾んだ声がする。真紀子は、ゴム鞠のような・・
頬を綻ばしていた。・・・
「リン…。今夜は、ごちそうだよ」・・・
前歯が一本抜けている少女が、嬉しそうに飛び上がった。・・・
「ヤッホー!」・・・
前歯の抜けている少女。リン…。そう呼ばれたのは、真紀子の一・・
人娘のリン。鈴と書いて、リンと読む。名前の通り、鈴のように笑・・
う無邪気な娘だ。・・・
「ごちそうだ! リンリンリン…」・・・
嬉しい時のリンの言葉だ。自分の名になぞっている。・・・
リンは、この春、小学校の三年生になる。おかっぱと大きな黒い・・
瞳が印象的な子だ。東村の両親、リンにとっては、祖父母に当たる・・
源助と妙子の真綿にくるまれて、リンは育った。・・・
リンに、父親はいなかった。リンが生まれてまもなく、リンの父・・
親は、リンの知らないところへ旅立ってしまった。母、真紀子は、・・
それから、リンと共に実家である民宿松屋へ戻った。リンは、民宿・・
松屋で、これまで大きくなった。・・・
リンは、三年生にしては、随分と小さい方だった。クラスでは一・・
番前。運動会などでの「マエニナラエ」で、両手を、前に差し出し・・
たことがない。「マエニナラエ」の前に人がいたことがない。しか・・
し、体は小さくても、その精神は、身体と反比例したかのように大・・
人びていた。何にも興味を持ち、何でも知りたがる。人見知りなど・・
したこともなく、誰にだって好きなことを言う。母、真紀子が困る・・
ほどのおませさんだった。・・・
「かあさん、リン、高志おじさんのこと、見たことないよ…」・・・
そんなリンが、母に言った。リンは、何でも知りたがるのだ。知・・
らなくてもいいことまで、知りたがる。しかし、今日のそれは当然・・
のことだった。・・・
それもそのはずなのである。東村は、竹野には七年戻っていない。・・
その頃、二歳だったリンに、東村を覚えているはずがない。・・・
「おじさんは、かあさんの弟なの。優しいわよ…」・・・
「かあさんに、似てる?」・・・
リンが、大きな目を転がすように喋る。好奇心が、リンのなかを・・
駆け巡っていく。・・・
「そりゃー、似ているわよ。姉弟なんだもの」・・・
真紀子の笑った顔が、リンの好奇心を、更に刺激した。リンが、・・
真紀子を覗き込む。・・・
「じぁー、ハンサム?」・・・
リンが笑った。大きな瞳が、ころころ転がる。瞳が、外へこぼれ・・
そうになる。・・・
「そうよ、かあさんに似ているもの…」・・・
「リンリンリン…」・・・
「何よ、その笑いは。こいつ!」・・・
真紀子が、リンの首を絞める。腕まくりして羽交い締めだ。女に・・
しては鋼のような腕だ。真紀子は民宿の女将修行中でもある。強く・・
なければならない。・・・
「かあさん、高志おじさんのお嫁さんて、どんな人だろう…」・・・
リンが、首を後ろに真紀子を見る。頭を母の腕に少し首を曲げ、・・
リンが甘えている。・・・
「さあ、どんな人でしょう。高志の選んだ人なんだから、きっと美・・
人でしょう」・・・
「リンリンリン…。かあさんより美人かな?」・・・
「そんな人、世の中にいないよ」・・・
真紀子も笑った。二人は、笑いながら同時に首を傾げた。・・・
・・・
・・・
どういう訳か、源助とカゼは、一瞬に気が合った。いや、気が・・
合ったというより、二人は、昔からの親友のように溶け合った。・・・
「何と、いい名じゃ…。カゼ、お前は、いい男になるぞ…」・・・
源助の、秋子への第一声だった。秋子は、その言葉に、涙が落ち・・
そうになった。何よりも嬉しい言葉だった。ますます、東村の父を・・
好きになった。・・・
東村の運転するワゴンは、国道九号線を、西へひた走っていた。・・
京都駅で見た雪は消え、春を真似たような日射しが、時折、車窓に・・
拡がる田園に落ちていた。・・・
「じゃんけんポン!」・・・
カゼと源助は、二人の世界からなかなか出ようとはしなかった。・・
次から次に、源助が、遊びをカゼに仕掛けた。・・・
「カゼ! お前からじゃ」・・・
次は、しりとりだった。カゼが、猛烈に嬉しそうだった。カゼは、・・
窓の外など見ていなかった。ただ、源助の顔を真っ直ぐに見ていた。・・・
「ぐ、る、ば!」・・・
「車? そう言ったのか、秋子さん?」・・・
「そうです。車です…」・・・
秋子も、大きく笑った。秋子も、窓の外など見ていなかった。・・・
源助も、楽しんでいるようだった。イメージにある、東村の父親・・
像とは、あまりにも隔たりが大きかった。秋子の笑みが、限りなく・・
拡がっていく。・・・
「ま、じゃな。ま…。ま、まー、まー」・・・
「ま、ど! ま、ど!」・・・
カゼが、源助の順番を抜かした。源助が叫んだ。・・・
「こらっ! カゼ! 今は、わしの番じゃ!」・・・
源助が、カゼに、軽くげんこつを落とした。カゼが笑った。・・・
「いでー! ジイジ、いでー。ジイジ、いでー」・・・
この時から、源助は、カゼに、ジイジと呼ばれることとなった。・・
カゼが、頭を一つ掻いた。・・・
「ジ、イ、ジ、ご、めん。じゅん、ば、ん、ぬ、が、じ、だ…」・・・
カゼの笑みは、秋子にも見せたことのないような爽やかな笑み・・
だった。秋子が、微かな嫉妬を感じるほどだった。・・・
「ジ、イ、ジ! ジ、イ、ジ、の、ば、ん、だ!」・・・
カゼが、座席を飛び上がった。小さなワゴンには、その衝撃は大・・
きかった。東村が、ハンドルを握り直していた。・・・
「まー、じゃなあー、まー、まー…」・・・
それにしても、信じられないほど似ていない親子だった。秋子は、・・
視線を東村へ移した。運転する東村の横顔を見ながら、秋子は言っ・・
た。・・・
「高志さんのお父さんって、素敵ね。子供みたいね…」・・・
東村が吹き出した。照れが、半分以上混じっている。・・・
「ハハハハ。その通り…。親父は、昔からああなのさ…」・・・
どちらかというと、ニヒルな東村の、別な一面を見たような気が・・
した。東村にも、このお父さんの血が流れているのだ。秋子には、・・
そのことが信じられない反面、東村の幼い時が、なぜか想像できた。・・
そして、その当時の源助も想像できた。末っ子の東村は、お父さ・・
んっ子だったのかも知れない…。そんな風に、秋子は思った。・・・
「まゆ毛! まゆ毛じゃ! わしのまゆ毛は、とびっきり長い・・
ぞ!」・・・
その通りだった。源助のまゆ毛は、異常なほど長かった。・・・
「カゼ! 次は、げーだ」・・・
カゼが考えた。答えは、すぐに出た。・・・
「げ、ん、ご、づ!」・・・
カゼがそう言って、源助の頭を叩いた。先程のお返しだった。・・・
「痛ててて!」・・・
源助が、頭を抱えた。顔を、皺だらけに笑っていた。・・・
「げ、ん、ご、づ!」・・・
カゼが、もう一度腕を上げた。車内に爆笑が響いた。カゼが、嬉・・
しそうに座席を飛び跳ねた。・・・
・・・
・・・
リンは、なぜか落ちつかなかった。高志おじさんの到着が、待ち・・
遠しくてたまらなかった。・・・
リンは小さい頃から、勘の鋭いところがある。雨の降る日を当て・・
てみたり、親戚の来訪をいち早く感じてみたり、民宿の予約客の・・
キャンセルを予言してみせたりする。トランプなどさせると、次の・・
手が分かっているようなことをする。リンは子供ながら、家のなか・・
では、一番鋭い勘の持ち主であった。・・・
そんなリンが、そわそわしている。何か、高志おじさんが来るこ・・
とによって、思いもよらぬ楽しいことが待ち受けているように思え・・
るのだ。何か、とっても、いいことがあるように思えてならないの・・
だ。・・・
リンは浜辺に出た。春には少し遠いが、柔らかい日射しが、リン・・
に心地よかった。・・・
-まだかな…。・・・
高志おじさんは、お嫁さんを連れてくるらしい。そして、そのお・・
嫁さんには、男の子供があって、その子供も、一緒に来る。リンは、・・
その子に興味があるのだ。少々おませなリンは、その子が、気に・・
なってしようがなかったのだ。・・・
-どんな子だろう。・・・
リンの想像が、脳裏を巡る。かあさんは、高志おじさんが選んだ・・
お嫁さんだから、そのお嫁さんは美人に違いないといった。それな・・
ら、その子供も、ブスじゃないだろう。リンは、子供らしい思いに・・
揺れていた。・・・
-どうして、その子のことが気になるのだろう…。・・・
リンは、砂の上に座った。細かい砂が、春を呼んでいる風に舞っ・・
た。・・・
-仲良くしてくれるかな…。・・・
なぜか、頬が弛んだ。都会の男の子…。リンにとっては、それは、・・
やはりいい響きだった。・・・
-仲良くなれるわ…。きっと、リンリンリン…。・・・
リンは、一人笑った。一人呟いた。浜は寒くなかった。凪の午後・・
だった。・・・
・・・
・・・
(4)・・・
・・・
「さあ、着いた。ここだ」・・・
東村の声が弾んた。久しぶりの生家だ。少々、東村も浮かれ気味・・
だった。・・・
「アキ、カゼ。降りるぞ」・・・
民宿松屋…。玄関に、大きすぎる木の看板にそう書かれていた。・・
墨が薄くなり、所々はげ落ちている。古びた看板だが、堂々と、玄・・
関に仁王立ちしている。逞しい一枚の板だ。・・・
玄関から、東村の母、妙子が顔を出した。源助より少しだけ皺の・・
少ない顔が、東村に笑っていた。・・・
「ただいま、おふくろ…」・・・
東村は、照れを隠していた。しかし、それは、すぐに表に現れた。・・
妙子が、東村に抱きついた。東村は、横目で秋子を見ていた。・・・
「ごめん…。長く帰れなかった」・・・
妙子と東村の瞳が、一瞬にして潤んでいった。秋子は、そんな後・・
ろから、妙子に頭を下げた。・・・
「う、み、だ! ぶ、み、だ!」・・・
その時、カゼが走った。松屋の玄関から、海が見えたのだ。・・・
「う、み、だ! ぶ、み、だ!」・・・
追おうとしたが、その前に、源助が走っていった。秋子は、カゼ・・
を源助に任し、もう一度、妙子に頭を下げた。・・・
「よく来てくれました…。秋子さん」・・・
妙子が、秋子に振り返った。おかしいほど、似た顔が二つ並んで・・
いた。その顔に、秋子は思った。東村は、お母さんっ子だったんだ。・・
先程の思いを訂正していた。秋子は、笑いを堪えるのが少々困難に・・
なっていた。・・・
・・・
・・・
「ぶ、み、だ! う、み、だ!」・・・
変な奴が走ってくる。リンは、その方を見た。・・・
「ブ、オー! バ、アー、オー!」・・・
どうしたら、あれほどの砂を蹴れるのか、変な奴の腰から下が、・・
舞う砂に隠れている。・・・
「ぶ、み、だ! ビ、ビエー!」・・・
リンは、立ち上がった。あいつだ…。都会の男の子は、変な奴・・
だったんだ…。・・・
「リンリンリン、おもしろくなってきた…」・・・
リンが叫んだ。身体のなかの何かが、リンの外へと弾き飛んでい・・
く。・・・
「変な奴。変な奴…。リンリンリン!」・・・
源助じいちゃんが、変な奴の後を追っている。間違いない。変な・・
奴が、都会の子だ…。・・・
「じいちゃん!」・・・
リンも走った。波打ち際へ走る、変な奴に走った。・・・
「ぶ、み、だ!  ブ、バー!」・・・
変な奴が、砂に転んだ。砂に、顔を埋めてしまった。それなのに、・・
足をばたばたさせている。・・・
「ハハハハハ!」・・・
リンは、変な奴をからかってやろうと思った。源助じいちゃんの・・
後ろに隠れて、砂を掛けてやろうと思った。・・・
「リンリンリン!」・・・
リンの楽しそうな声が、浜辺に流れた。凪が、静かに続いていた。・・・
・・・
・・・
-たいへんだ。まっくらだ…。はなが、きもちわるい…。すなだ。・・
すなが、はなに、はいった…。・・・
でも、びっくりした。うみは、おおきいな…。びっくりだ。かあ・・
さんが、いっていたとおりだ。あっ、せんせいも、そういってい・・
た? どうだったかなあ…。・・・
まあいいや、あのジイジのこえがする。あのジイジは、すきだ。・・
かあさんと、おなじだ。・・・
それより、うみだ。うみにいこう…。うみのにおいが、するよ…。・・
うみだ。うみにいこう…。・・・
・・・
・・・
-うみだ。うみにいこう…。・・・
知っているような気がする…。光の記憶が、光に微かに届くよう・・
になっていた。・・・
-うみのにおいが、するよ…。・・・
分からない…。でも、その匂いがするような気がする…。光は、・・
完全に闇を抜け出ていた。記憶に掛かる紗に、光は向かい続けてい・・
た。・・・
-うみだ。うみにいこう…。・・・
光は揺れた。純白の光に、自らが埋もれていった。微睡みが、再・・
び押し寄せていた。・・・
・・・
・・・
リンは、変な奴の背中に変なものを見た。それは、雲のように、・・
変な奴の背中に揺れていた。真っ白い光が、変な奴の背中から漏れ・・
ていた。・・・
「なんだ、あれ?」・・・
見たことのない光だった。リンは、首を捻った。そして、笑った。・・・
「本当に、変な奴だ…。リンリンリン…」・・・
白い光が、変な奴から離れようとしない。変な奴の背中に引っ付・・
いている。もしかしたら、変な奴が、光っているのかも知れない。・・
リンは、もう一度、首を捻った。・・・
「リンリンリン…」・・・
風が、急に強くなってきた。リンの頬に、少し冷たい風が心地よ・・
かった。リンは、変な奴に歩いた。源助が、リンに、手招きをして・・
くれていた。・・・
「リン! あいつはカゼ! 今度中学だ!」・・・
源助が、リンに近づいた。源助の息は、少し上がっていた。・・・
「カゼ? 変な名前…」・・・
リンという名前と似てなくもない…。リンは、そう思った。・・・
「でも、いい奴だ…。仲良くしろよ…」・・・
源助が、リンの頭を撫でた。変な奴が、その時、立ち上がった。・・
顔中を、砂まみれにしていた。・・・
「カゼ…、だね。リン、カゼと、仲良くするよ。じいちゃん…」・・・
リンは、立ち上がったカゼの側に寄った。カゼは、砂のなかに妙・・
な笑いを隠していた。リンは、なぜか、それを見て嬉しくなった。・・・
「リンリンリン!」・・・
変な奴が、再び走り出した。リンも、素早く、それを追った。・・・
・・・
・・・
秋子は、ひとまず、東村の家族への挨拶を済ませた。・・・
「あの子は、カゼといいます。ダウン症です。知恵遅れなんです・・
…」・・・
反応は、まちまちだった。しかし、秋子に不快なものはひとつも・・
なかった。・・・
東村の姉、真紀子は笑いながら言った。・・・
「知恵が遅れたかって、元気が一番。知恵遅れだっていいじゃない。・・
今の大人たちの方が、ずっと、知恵が遅れているわ…」・・・
ずけずけと、ものを言う。秋子は笑った。カゼに対しての言葉で・・
笑ったのは、これが始めてだった。・・・
東村の母、妙子の場合は、もう少し辛辣だった。妙子も、笑いな・・
がら言った。・・・
「カゼくんか、いい名前だね…。知恵遅れなんか、気にしなくって・・
いいよ。カゼくんは、ずっと子供でいられるんだ。羨ましいくらい・・
だわ…。秋子さんも、いつまでもママでいられるわね。女は、子供・・
の世話をするのが幸せなの。誰かさんみたいに、大きくなると親の・・
気も知らずに、さっとさっと出ていく息子もいるんだよ。秋子さん、・・
いいじゃない…」・・・
こんな考え方があるのかと、秋子は驚いた。しかし、それは、秋・・
子のなかへ優しく溶けていった。いつまでもママ…。秋子は、その・・
驚きを、果てしなく新鮮なものに感じた。・・・
東村は、母の嫌みにも、秋子の側で優しく笑っていた。東村に、・・
秋子に対する照れがゆらゆらと揺れているようだった。恥ずかしげ・・
に秋子を見、ぎこちなく笑っていた。・・・
荷物を降ろし、部屋に入った。秋子は、小さい頃両親に連れて・・
行ってもらった、伊豆の小さな民宿を思い出していた。汐の香りが、・・
耳元で舞っていた。いいものだった。・・・
八畳ほどの部屋に、秋子は、腰を下ろした。秋子たちに、あてが・・
われた部屋だった。・・・
東村は、妙子が掴んで離さない。久しぶりの息子に、いろいろと・・
聞きたいことがあるのだろう。妙子は、秋子に軽く目配せしながら、・・
東村を、秋子から奪っていった。当然だろう、七年も帰っていない・・
のだから…。秋子には、母妙子の気持ちが分かった。自分も、カゼ・・
とそれだけ離れれば、ああなるだろう。しかし、自分は、カゼと離・・
れることはないだろう…。・・・
-カゼくんは、ずっと子供でいられる…。・・・
秋子の思いが、再び、妙子の言った意味へ巡る。妙子の言葉が、・・
秋子に、いい響きをもたらしていた。・・・
-いつまでも、ママでいられる…。・・・
やはり、その言葉は、新鮮だった。秋子のなかに、乾いた風を起・・
こしていた。・・・
秋子は、目を閉じた。カゼの顔が浮かんだ。・・・
「いつまでもママか…」・・・
悲しいやら、嬉しいやら、秋子は立ち上がった。砂浜を走る、カ・・
ゼの姿を思った。・・・
-カゼ…。・・・
秋子は、浜へ向かった。秋子の意識に、カゼが、波打ち際を走る・・
姿が流れ込んでいた。・・・
・・・
・・・
「おじいちゃん…。カゼくんの背中の光、見える?」・・・
リンが、源助に聞いた。カゼは、波打ち際で、水と戯れている。・・
リンには、まだ見えていた。カゼの背が、白く光っている。・・・
「いいや、何も見えん…」・・・
よくあることだった。リンにたげ感じとれて、周りのものは、・・
まったく気も付かないことが…。勘の鋭いリンにしか、見えないも・・
のが…。・・・
「そう」・・・
そういうことに、リンは慣れていた。源助に軽く微笑むと、リン・・
は、カゼの方へ向かった。・・・
-変な奴を、何と呼んだらいいのだろう…。・・・
カゼの側で、リンは考えた。変な奴とは呼べない。・・・
-カゼくん…。カゼ…。カゼオ…。カゼのおにいちゃん…。そう、・・
それがいい、それがいい…。カゼのおにいちゃん…。・・・
「カゼの、おにいちゃん…」・・・
リンは、カゼをそう呼んだ。カゼが、怪訝そうに、リンを振り・・
返った。・・・
「あ、あ、ん?」・・・
カゼが、リンに首を傾げた。口を開けた。何の用だ…。そんな顔・・
だった。・・・
「わたし、リン…」・・・
リンは、カゼを、まじまじと覗いた。途方に暮れたような、カゼ・・
の顔が、そこに揺れていた。・・・
「わたし、リン…。よろしく」・・・
カゼが、笑ったように見えた。しかし、それは、すぐに消えた。・・
カゼが、ふらりと砂に膝を附いた。・・・
・・・
・・・
-また、あのひかりだ。こんどは、まぶしいや…。・・・
いったい、ひかりが、ぼくに、なんのようなんだろう…。ぼくに・・
は、ようじはないのに…。・・・
それより、リンちゃんか、いいなまえだね…。はが、ぬけている・・
…。・・・
それにしても、すこし、へんだ。めが、くらくらするよ…。ひか・・
りの、せいなのかな…。・・・
・・・
・・・
浜に出ると、風が心地よかった。秋子は、汐の風を思いきり吸っ・・
た。胸を拡げ、大きく吸った。・・・
波打ち際に、カゼがいる。源助と一緒だ。側に、女の子もいる。・・
東村の姪にあたる、リンちゃんだろう…。秋子は、ゆるりと歩を進・・
めた。・・・
リンが、カゼに、何かを話しかけている。もう、仲良くなったの・・
かな…。秋子の歩が、少し早くなる。カゼが笑った。そして、膝を・・
附いた。・・・
-どうしたのカゼ…。・・・
膝を附いたまま、カゼが、腕を大きく上けた。それから、曲がっ・・
た手首で、頭を抱えた。・・・
カゼの困った時の、おきまりのポーズだ。カゼが、何かに困って・・
いる。秋子は、足を更に早めた。・・・
「ウッ!」・・・
その時、秋子に、めまいが襲った。駅のホームでのめまいと、同・・
じだった。・・・
「カゼ!」・・・
波打ち際のカゼが光った。純白に光った。秋子は、霞む視界のな・・
かに浮かぶ、光のカゼを見た。膝を折ったカゼは、何かを、叫んで・・
いるようだ。・・・
秋子は、ふらつくまま走った。カゼの光が、秋子を誘った。・・・
「どうしたの、カゼ!」・・・
膝を折り、頭を抱えたカゼの背中から、輝きが漏れていく。カゼ・・
が、真っ白の光に包まれていく。秋子は、咄嗟に祈った。カゼの光・・
に、カゼの幸せを祈った。純白の光が、カゼの神のように思えた。・・・
秋子の意識に、波の音が入ってきた。秋子のめまいは、一瞬のこ・・
とだった。気が付けば、秋子は、カゼと同じ膝を折っていた。カゼ・・
の光は、跡形なく消え去っていた。・・・
我に返った秋子は、光に、カゼの未来を見たように思った。輝き・・
が果てしなかった。カゼの未来…。カゼの未来は、光のなかにある・・
…。秋子は、そう思いたかった。・・・
第三章・・・
・・・
(1)・・・
・・・
春が、すぐそこにまで来ていた。竹野の街にも、ぽつぽつと、観・・
光の人たちが見えるようになってきた。近くの城崎温泉からだろう、・・
海を見に、人々が静かな街までやって来ていた。・・・
民宿松屋にも、客が来ていた。釣り客だった。長い冬を越し、民・・
宿松屋にも、少しは活気が蘇っていた。・・・
秋子は、東村と共に、あまりにも緩く流れる時を楽しんでいた。・・
都会の喧噪から逃れてみると、そこは別世界のように静かだった。・・
変化の少ない静寂が、都会の風に染み込んだ二人の意識を安定へ運・・
ぶ。肩の力が二度と入らないのではないかと思われるほど、東村の・・
故郷は静かだった。・・・
それでも、もう三日になる。秋子は、時に戸惑っていた。遅く流・・
れる時も、既に、三日過ぎていた。時の悪戯が、秋子には見えるは・・
ずもなかった。・・・
三日の間に、カゼが、随分と成長したように思えた。秋子は、カ・・
ゼと走った。波飛沫を蹴った。思い切り海の風を受けた。カゼと二・・
人、海の果てしない大きさに包まれた。カゼの成長を感じた。・・・
カゼは、変わっていった。海という大きな存在が、カゼを、成長・・
へと誘った。カゼのなかに、海からの風が吹き荒れたのだろう…。・・
カゼの何かが、変化のさざ波に引き込まれていったのだろう…。秋・・
子には、嬉しいことだった。・・・
カゼは、リンと仲良くなった。二人は、朝から晩まで一緒にいた。・・
秋子が、少し嫉妬するくらいだった。・・・
源助も、一緒の時が多かった。カゼは、源助をインジ、ジイシと・・
呼び、旧知の友のようになついた。源助も、カゼとの時間を、多く・・
割いてくれた。カゼを、浜の端から端まで走らせてくれた。そのお・・
陰で、恐がりのカゼが、波を恐がらなくなり、浅瀬を腰まで濡らし・・
て走り回った。リンと、源助と、カゼの歓声が、浜に毎日大きく流・・
れた。・・・
秋子と東村は、そんななか、十分に自分たちの時間が取った。二・・
人は、取り留めのない話をした。恋人たちが寄り添うように、二人・・
は静けさのなか寄り添った。秋子は、幸せに溶けていきそうだった。・・
緩やかな時も、気がつけば、秋子を素早く過ぎていた。・・・
遅い朝食を、秋子は済ました。カゼは、既に、リンと浜へ行った。・・
昨日の朝も思ったことだが、特にすることのない朝が、これほど静・・
かなものだとは、想像することすらできなかった。秋子は、熱いお・・
茶をゆっくりと楽しんだ。妙子の煎れた、お茶は美味しかった。・・・
秋子の脳裏に、ちらっと、カゼの光の姿が浮かんだ。駅で見たカ・・
ゼ…。浜に光るカゼ…。カゼは、あの光に、見守られているのだろ・・
うか…。あの光は、カゼの守護神なのか。カゼの足りない部分が、・・
あの光によって、カゼのなかに、また別な何かを目覚めさせてくれ・・
るのだろうか…。秋子は、あの純白の光に、カゼの希望を見ていた。・・
カゼの未来を照らす、一筋の光にと祈っていた。・・・
ここ三日、カゼは、軽くなっている。全身に汐風を受け、軽く波・・
に遊び、都会より数段近くに春の太陽を受け、素足で砂を蹴り、青・・
く透き通った空気を、胸一杯に吸う。カゼは、軽くなっていた。秋・・
子には、それがよく分かった。・・・
そして、東村と秋子の距離が、急速に近づいた。来てよかったと・・
思っていた。秋子は、東村に素直に甘えられるようになっていた。・・
いつでも、東村の腕が側にあった。・・・
昨夜は東村に抱かれた。幸せな秋子に、もう一つ幸せが重なった。・・
夢なら、覚めて欲しくなかった。・・・
秋子は、東村に、どうしても受け入れられたいと思った。東村の・・
思いのなかに、どこまでも落ちていきたいと思った。強く、強く、・・
そう思った。・・・
今までなら、そこまで思わなかった。無理しないで…。そう思っ・・
ていた自分が、徐々に彼方へ遠ざかっていきそうだった。それを確・・
かめるために、東村は、自分を誘ったのだ。秋子は、東村に抱かれ・・
ながら、自分の祈りに酔っていた。幸せだった。・・・
秋子は、東村の前で、亜紀子という源氏名を捨てた時の喜びを、・・
大切にし続けてきた。あの時、自分に吹いた風を、意識して受け続・・
けてきた。あの時の風の、涼しい清々しさを忘れたりしなかった。・・・
その風は、今も、秋子に吹き続けている。秋子は、小さな湯呑み・・
から上がる白い湯気に、その涼しい風が見えるかも知れないと、小・・
さく首を捻った。・・・
風が見えたのか、湯気の向こうに、東村の声がした。隣の部屋か・・
らだった。秋子は、一人微笑んだ。・・・
・・・
・・・
「おふくろ…。実は、自分も悩んでいる」・・・
部屋には、東村と、妙子に、真紀子。そして、隅の方に源助がい・・
た。・・・
「よりによって、どうして…」・・・
それは、母が息子を思う、自然な気持ちだった。妙子の語尾は詰・・
まったが、それは、言わなくても分かる。東村の眉が曇った。・・・
「まだ、迷っている」・・・
カゼを、愛せるだろうか…。東村には、そのことの自信が、どう・・
しても沸いてこなかった。カゼを嫌いではない。普通じゃないが、・・
嫌いではない。カゼは素直だ。汚れていない。自分にも、親しみを・・
覚えてくれている。・・・
そう、カゼはいい子なのだ。聞き分けもある。そして、何よりも、・・
秋子を信じ、秋子を愛している。それは、普通の子供以上かも知れ・・
ない。・・・
あの独特な仕草も、それを、自分に受け入れれば、それほど、気・・
になるものでもなかった。周りの者が、色の付いた眼鏡越しに見て・・
いるだけのことなのである。カゼが、その者たちに、迷惑を掛けて・・
いる訳でもないのだ。その点で言えば、下品な大人たちの方が、・・
よっぽど、周りに迷惑を掛けている。一部の、心ない大人たちの方・・
が、迷惑という意味を理解していない。・・・
そうなのだ…。色の付いた眼鏡を外すと、カゼはいい子なのだ。・・
最も子供らしい子供なのだ。・・・
カゼの体格は大きくなっていく。今後益々、身体の成長ともに、・・
精神とのバランスは崩れていくだろう。いや、崩れたように見えて・・
いく。カゼは、それを、崩れているとは思わない。思うのは、外か・・
ら見た他人だけだ。・・・
カゼのような子供たちは、街でよく見かける。しかし、それは、・・
カゼくらいの年齢までの子供たちだ。青春を迎えようとしている障・・
害者たち、あるいは、青春のなか、青春を過ぎた障害者たちは、多・・
くが無理矢理に、それらの施設に入れられているのだ。自分の意志・・
に関係なく、彼らには、施設しか生きていく場所がないのだ。帰る・・
ところは、施設だけなのだ。街で、そういう風な大人たちをあまり・・
見かけないのは、そのせいなのだ。それは、秋子から聞いた。障害・・
者たちは、身を狭く生きていくしかないのだ。・・・
しかし、そんな世の中、変わっていかなければならい。障害を・・
持っていたって、同じ人間なのだ。仕方がない…、ではない。一人・・
一人が、彼らの身になって、同じ道を歩けるようにしていかなけれ・・
ばならない。一人ひとりが、助け合わなければならない。そうしな・・
ければ、彼らの明日は、拓けては来ないのだ。・・・
そこまでは、東村の理解のなかにあることだった。しかし、その・・
ことを、我が身に当てはめてみると、東村の理解の枠を越えてしま・・
う。思いを、はみ出してしまうのだ。・・・
東村は、そのことを恥じていた。自分自身に対しての嫌悪が、激・・
しく揺れていた。・・・
「まだ、迷っている」・・・
東村は、母に打ち明けた。迷う自分に、怒りが向いていた。・・・
しかし、東村は、答えを、早急に出すものではないと思っていた。・・
それは、東村だけの問題ではないのだ。秋子や、カゼの未来なのだ。・・
特に、秋子には、これ以上の苦しみをもたらしてはならない。・・・
カゼを本当に愛せなければ、秋子を裏切ることになる。秋子は、・・
自分へ、庇護を求めている訳ではない。カゼの父親を求めている訳・・
ではない。ただ、自分を愛してくれている。強く求めているのは、・・
自分の方なのだ。・・・
離れていても、愛し合うことはできる。しかし、東村は、秋子に、・・
それ以上のものを求めている。側にいて欲しい…。いや、側にいた・・
い…。・・・
「よりによって、どうして…」・・・
母は言った。その通りだ。よりによって…。その言葉は、東村の・・
思いと重なっていた。・・・
「秋子さんは、いつまでたっても、カゼくんのママなの…。カゼく・・
んは、いつまでたっても、秋子さんの幼子なの…」・・・
母は、末息子の目をしっかりと見ていた。七年振りに帰ったと・・
思ったら、難しい問題を引き連れて帰ってきた…。息子は、いつま・・
でたっても息子だ…。そんな思いが、東村には見える。・・・
「いいかい、高志…。母性というのは、弱いものに向くの。本能的・・
に、哀れなものの側へと寄っていくの。女の愛のなかには、激しい・・
ほどの母性が含まれているの。それがないと、愛とはいえない…」・・・
確かに、母の母性は激しいものだった。東村は、幼い頃を思い浮・・
かべた。・・・
「秋子さんは、あなたを愛しているかも知れない。しかし、秋子さ・・
んは、カゼくんのママなの。カゼくんのママなのよ…。私の言う意・・
味が分かる?」・・・
分からなかった。東村は、何も言わず、ひとつ首を捻った。・・・
「いい、高志。つまり、秋子さんの愛は、あなたには向かない…。・・
秋子さんの本当の愛は、カゼくんにしか向かない…。いつまでも子・・
供のカゼくんにしか向かないの…。分かる?」・・・
まだ分からない。母は、何を言いたいのだ…。東村は、もう一度、・・
首を捻った。・・・
「カゼくんは弱いわ。そして、哀れだわ。普通じゃないのだから・・
…」・・・
妙子が、ここでいったん詰まった。視線を、畳に落としていた。・・
目を、閉じているようだった。・・・
東村は、そんな母を見つめた。七年前に比べて、皺の数は変わっ・・
ていない。逆に、少し若くなったような気もする。涼しい目元が、・・
何やら、以前より鋭くなっているようにも思えた。・・・
母は、当時には珍しく女学校を出ている。文学クラブに所属して・・
いたそうだ。その頃、恋愛小説を読みすぎたのか、あるいは、その・・
頃を、思い出して熱くなっているのか、東村には、母の言いたいこ・・
とが分からなかった。・・・
風の音がした。それだけが、部屋のなかを動いた。妙子の間は長・・
かった。誰も、その間に入り込もうとはしない。風の音だけが、部・・
屋の静寂を揺らしていた。・・・
「秋子さんの本当の愛は、高志には向かない。高志には見えない。・・
高志には感じられない…」・・・
静けさを、妙子が破った。風の音が強くなっていた。窓を叩く風・・
は、冷たさを含んでいた。微かなすきま風が、東村の心のなかにま・・
で吹く。・・・
「それは、あなただけに分かってくることなの。秋子さんの本当の・・
愛が見えてこないのが分かるのは、高志、あなただけなの…」・・・
このように、母と、愛について語るとは、夢にも思わなかった。・・
母は、今、真剣に、それを語っている。女学生の頃に戻っているの・・
かも知れない…。語る口調の熱さが、東村に届く。こんな母を見る・・
のは、始めてのことだった。東村は、照れのなかに戸惑いを感じて・・
いた。戸惑いが、母の言葉に増長していく。・・・
「普通の子供なら、強くなっていくわ。いつかは、幼さ故の哀れさ・・
は消えていくわ…。しかし、カゼくんの場合そうじゃない。カゼく・・
んは、いつまでたっても強くならない。幼さと、哀れさは、消えて・・
いかないのよ…」・・・
母が、懸命に何かを訴えている。東村に、その激しい思いだけは、・・
確実に感じ取れていた。・・・
「秋子さんは、そのことを知っている。カゼくんのことを、誰より・・
も知っている。強くならないことも、哀れなままであることも、す・・
べて、カゼくんのことは知っている」・・・
妙子の声が、少し高くなった。高ぶっていく感情が、妙子の意識・・
のコントロールから、外へ漏れていく。・・・
「だから、秋子さんの母性は、高志に向くことはない…。カゼくん・・
の未来にまで、秋子さんの母性は向いていく…。とても、高志には・・
向かない。向く余裕なんかない…。高志、あなたに向くのは、母性・・
という女の性のない愛…。つまり、本当の愛ではない、虚ろな愛・・
…」・・・
やはり、母の思いは、女学生の頃に戻っている。昔、読んだ本に、・・
そのような場面があったのだろうか…。虚ろな愛…。東村には、分・・
からなかった。東村は、目を閉じた。・・・
「虚ろな愛…。母性を含まない愛は、そのなかが空洞なの…。ぼん・・
やりとしたものなの…。秋子さんの愛のほとんどが、カゼくんに向・・
かう。大地なる母と言うけれど、母は、それほど大きくない。無限・・
な愛など、母は持っていない…」・・・
少しだけ、分かり始めた。息子を思うあまりの、母の思いやりの・・
言い回しなのか…。母は、自らと秋子を重ねている。言葉のなかに・・
は嘘はない。そして、恥じらいや、遠慮のようなものもない。母の・・
真実な思いだ。東村は、それが分かった。・・・
「高志。よく考えろ…」・・・
妙子はそう言って、部屋を出た。涙を、息子に見られたくなかっ・・
たのか…。妙子は、東村を見ずに、部屋を出ていった。襖の閉まる・・
音が、東村には、やけに大きく聞こえた。・・・
・・・
・・・
隣の部屋から、声が聞かれなくなった。虚ろな愛…。秋子に、そ・・
の言葉が木霊していた。・・・
-本当の愛ではない…。虚ろな愛…。・・・
妙子の話が、秋子に理解できていた。不思議だった。激しいほど・・
の驚きだった。・・・
-母性は、弱いものに向く…。哀れなものに向く…。・・・
自分のカゼへの愛は、そのようなものなのか。それは、違う。し・・
かし…。・・・
-女の愛のなかには、激しい母性が含まれている…。母性を含まな・・
い愛は、なかが空洞…。・・・
そうかも知れない…。思いたくないことだか、秋子には、それが・・
理解できた。確かに、自分のなかには、激しい母性は存在している。・・
カゼへの思いのなかは、激しい母性で、埋め尽くされている。・・・
-無限な愛など、母は持っていない…。・・・
カゼへの愛と、同じものを、東村へは向けていない。異なった愛・・
だ。虚ろな愛…。そう、虚ろな愛かも知れない…。・・・
-ぼやりとしたものなの…。・・・
東村を愛している。それは、疑ったことなどなかった。ぼんやり・・
などしていない。強く深い愛だと思っている。それは、カゼへの愛・・
とは異なる。当然のことだ。・・・
-高志には見えない。高志には感じられないの…。・・・
カゼへの愛と、東村への愛は異なる。それは、当然だ。しかし、・・
妙子の思いは違った。愛というものは、どこに向こうが同じもので・・
ある…。妙子は、そう言いたかったのだ。・・・
-虚ろな愛…。・・・
それは、幻だ。そこには、女が男に対する一種の激しい情のみが・・
あって、本当の愛ではない。母性を含まないのだ。虚ろな愛なのだ。・・
愛という幻想を抱えた女の激しい情だけが、愛という言葉を借りて・・
いるにすぎない…。妙子は、そう言いたかったのだろう。秋子には・・
分かる。秋子も、妙子も、母なのだ。それが分かる。・・・
-母性を含まない…。虚ろな愛…。・・・
秋子は、窓を開けた。冷たい風が、秋子の心を叩いた。風を、こ・・
んなに冷たく感じたのは、ここ竹野へ来てから始めてのことだった。・・・
-虚ろな愛…。・・・
秋子は、浜へ向かった。妙子の言葉が、限りなく秋子のなかに渦・・
巻いていた。・・・
・・・
・・・
母の言葉を、東村は、よく理解することができなかった。女の愛・・
…。母性…。男の東村には、分かるはずもないことだった。・・・
男と女が愛し合うのに、母の言ったような理屈はいらない。愛と・・
は、純粋であるべきだ。ただ、その人を好きになる。いつも側にい・・
たい。それだけで、十分ではないのか…。・・・
母は、母性を訴えていた。女の愛には、激しい母性が含まれる。・・
そう言った。・・・
母性を含まない愛は、いつか崩れるというのか…。女は、男に幼・・
さを見ることがある。愛する男に、母の言った母性を向けることが・・
ある。そこまでは、何とか分かる。世間の夫婦がそうであるように、・・
妻は、夫に、何かと手を焼きたがる。・・・
秋子に、それが欠けるというのか…。秋子の母性は、カゼ一人に・・
向き、自分には向かないと言うのか…。・・・
カゼは普通じゃない。カゼは弱い。哀れでさえある。そうすると、・・
秋子の母性は、カゼで精一杯になるというのか…。女の愛のなかに・・
必ず含まれている母性を、カゼ一人がすべて食いつくし、自分には・・
回ってこないというのか…。・・・
子は成長して、親から離れていく。しかし、カゼは、それができ・・
ない。秋子から離れることはない。いや、ないだろう…。秋子は、・・
いつまでも、ママであり続ける。普通じゃない子のママなのだ。激・・
しすぎる母性を、いつまでも、秋子は、カゼに向け続ける。永遠に・・
…。・・・
「なんじゃか、よく分からんが…。カゼとお前の、秋子さん争奪戦・・
か…」・・・
部屋の静寂に、源助が、ずかずかと入った。・・・
「ハハハハ、止めとけ。高志…。この争奪戦に、お前の勝ち目はな・・
い…」・・・
父らしい言い方だった。東村の頬が緩んだ。・・・
「まあ、あまり深く考えるな…。カゼはいい子だ。高志、お前も好・・
きになれ。それで丸く収まる!」・・・
源助は、そう言って部屋を出た。東村を見て、皺を深く笑ってい・・
た。・・・
「高志…。父さんの言った通りよ…。かあさんの言ったことは、気・・
にしないようにね…」・・・
真紀子が小さく言った。東村は、その優しさの姉に微笑んだ。真・・
紀子の目に、光るものが見えた。姉は、涙を精一杯堪えていた。・・・
・・・
・・・
(2)・・・
・・・
-すなはまを、はしるのが、うまくなった。でも、リンには、まけ・・
る。リンは、あしがはやい…。・・・
ちくしょー! どうして、リンのように、はしれないんだ…。・・
よーし、こんどは、まけない。・・・
あっ、またリンが、ぼくを、ぬかしていく。ちくしょー! ちく・・
しょ!・・・
でも、すなはまを、はしるのが、うまくなったよ…。・・・
・・・
・・・
-ちくしょー! ちくしょー!・・・
光に、更なる目覚めが訪れていた。光は、砂浜を走るカゼの側で、・・
長い微睡みを抜け出していた。光の思いが、激しく揺れた。・・・
-ちくしょー! ちくしょー!・・・
あの子に追いつけない。リンという子だ。可愛い子だ…。でも、・・
どうしても追いつけない…。光は苛立った。なぜ、あの子のように・・
走れない。いや、走らない。どうして、お前は走らない…。光は、・・
苛立ちを、カゼに向けていた。・・・
-でも、すなはまを、はしるのが、うまくなったよ…。・・・
そうだ、確かにうまくなった。でも、それじゃ、まだまだ、リン・・
には追いつけない…。光は感じていた。カゼ…。そう、カゼと光が・・
同化していく…。がんばれ! 走るんだ! がんばるんだ!・・・
・・・
・・・
-がんばるぞ! いつもなら、あたまをかかえている。それが、ぼ・・
くのくせだ…。・・・
でも、きょうは、ちがう。がんばるぞ! リンに、おいつくぞ。・・・
すなが、おもい。あしが、もつれる。うでが、うまくふれない。・・・
リンが、よんでいる。かわいいこだ。ぼくを、ばかにしないもの・・
…。・・・
でも、まけない。まけたくない…。リンに、ばかにされるの、い・・
やだ…。・・・
・・・
・・・
-でも、まけないぞ。まけたくない…。・・・
そうだ、がんばれ! あの子に追いつくんだ! 光は、カゼのな・・
かで叫んだ。光の理解が進んでいた。光は、カゼのなかへと向かっ・・
ている。それは、光にとって不思議なことではなかった。いや、不・・
思議でないことが不思議だった。光は、受け入れていた。自らの今・・
の位置を、当然のことと受け止めていた。・・・
がんばれ! カゼ! 走るんだ!・・・
・・・
・・・
-だれかが、ぼくに、さけんでいる。かあさんかな…。ちがう。こ・・
えがちがう。・・・
いや、こえじゃない。でも、だれかが、ぼくにさけんでいる。・・・
がんばれ、っていっている。そう、ぼくは、かんばっている。・・・
へんなやつだ。ぼくは、がんばっているのに…。・・・
でも、あしがおもいよ…。ころびそうだ…。・・・
・・・
・・・
「どうしたの、カゼのおにいちゃん…」・・・
リンが、カゼを覗き込んだ。カゼは、砂浜に大の字になって倒れ・・
たていた。今日のカゼは、いつもより走りが激しかった。何とか、・・
リンに追いつこうと、砂を、無茶苦茶に蹴り上げていた。それが、・・
リンには、少し不思議なことだった。今までは、リンに追い抜かさ・・
れても、カゼは、笑っているだけだった。・・・
「カゼのおにいちゃん…」・・・
カゼは、苦しそうに眉間にしわを寄せて、焦点の定まらない目を・・
天に向けている。リンは、カゼの側に腰を下ろした。・・・
「おにいちゃん、走るの早くなったね」・・・
リンは微笑んだ。歯のない隙間から、風が入ってきた。涼しくて・・
さわやかな風だった。・・・
「気持ちいい。リンリンリン…」・・・
リンは、空を見上げた。春の日が、リンの瞳を、オレンジに照ら・・
した。・・・
やっぱり、変な奴だ…。リンは思った。あんなに、激しく走らな・・
くてもいいのに…。あんな、曲がった走り方では、そんなに早く走・・
れっこないのに…。リンには、訳の分からない行動だった。でも、・・
いいや。もう、慣れっこだ…。リンは、もう一度、歯のない隙間か・・
ら風を引き入れた。・・・
-リンちゃんに、追いつけなかった…。・・・
リンに、それが、風のように届いた。それは、声ではなかった。・・
リンの意識に、柔らかく直接流れ込んだ。リンの意識が、何やら、・・
くすぐったくなった。・・・
「カゼのおにいちゃん、何か言った?」・・・
カゼは、相変わらず、焦点の定まらない目で空を見上げていた。・・
息は静かになっていた。・・・
「空耳かな…」・・・
リンも、カゼと並んで大の字になった。白いカモメが、空を楽し・・
げに舞っている。カーブを大きく、沖に向かっていく。・・・
-リンちゃん、走るの早いね…。・・・
再び、リンの意識に風が舞い込んできた。今度も、何やらくす・・
ぐったかった。・・・
「うん、学校ではいつも一等賞よ…」・・・
リンは、空を見上げたまま答えた。先程のカモメが、リンの視界・・
に戻ってくる。小さな弧を描き、砂浜に降り立った。リンの視線が、・・
それへを追う。大の字のカゼを、リンの視線が大きく跨いだ。・・・
-リンちゃん、すごいね…。・・・
リンの視界が、光るものを捉えた。カゼだった。砂に降りたカモ・・
メの手前で、カゼの額が、白く仄かに光っていた。カゼは、眠った・・
ように目を閉じていた。・・・
「また、光ってるよ。カゼのおにいちゃんのおでこ…。おでこが、・・
電気みたいに光ってるよ…」・・・
勘の鋭いリンのことだ。リンの意識に吹いた風のことを、リンは・・
考えていた。くすぐったさに、幼い好奇心が走っていた。リンは、・・
その理由を、カゼの額の光に探していた。・・・
-リンちゃんに、この光が見えるの…。・・・
思った通りだった。変な風は、カゼのおでこの光から吹いていた。・・
リンは、その光を見入った。・・・
「リンリンリン…。よく見えるよ…。変な光。神様のわっかみたい・・
…」・・・
カゼは、目を閉じたままだった。眠ってしまったようだ。リンの・・
幼さに、不思議が、更に駆けめぐった。肉声でないカゼの言葉は、・・
リンにとっては、脅威でも恐怖でもなく、ただ、幼さの好奇心を激・・
しく揺らしただけだった。カゼのお兄ちゃんは寝ているのに、どう・・
して、リンに話しかけれるのだろう…。リンの好奇心が、小さく破・・
裂する。リンは続けた。・・・
「カゼのおにいちゃん…。リンに、話しかけているは、カゼのおに・・
いちゃんなの?」・・・
カゼの光が揺れた。浜の風は静かだった。光は、微かに揺れただ・・
けだった。・・・
-どうして、そんなこと聞くの?・・・
何て、おもしろいことなの…。リンは、いったい誰と喋っている・・
のかしら…。カゼのおにいちゃんではないわ…。だって、言葉が普・・
通だもの…。カゼのおにいちゃんって、神様なの? それとも幽霊・・
なの? リンは、カゼを覗き込んだ。光が、もう一度揺れた。・・・
「だって、カゼのおにいちゃんの言葉、普通になっている。バーと・・
か、ブーとか、言ってない」・・・
カゼが、目を開けた。変わらずに、視線は宙を浮いたままだ。・・・
「リンリンリン…」・・・
どこまで、変な奴なんだろう…。かあさんに言ったら、何て言う・・
だろう…。リンの笑みが拡がっていく。歯の隙間から、風が少し強・・
く流れ込む。・・・
「どうして、普通に喋れるようになったの。カゼのおにいちゃん・・
…」・・・
カゼの瞳の奥に、カゼの額に揺れている光と同じ色の光が見えた。・・
リンは、その光に話しかけていた。なぜか、その光が、リンに話し・・
かけているように思った。・・・
-どうしてだろう…。ぼくにも分からないや。・・・
「変なの…。リンリンリン…」・・・
その光は美しかった。純白だった。リンは、少しカゼを羨ましく・・
思っていた。・・・
・・・
・・・
-リンに、話しかけているは、カゼのおにいちゃんなの?・・・
そのような気もした。違うような気もした。光は、その質問に、・・
すぐ答えることができなかった。・・・
どうして、そんなこと聞くの…。光は、リンに思いを送った。不・・
思議だった。リンに、光の思いが届いていく。なんて、可愛い子な・・
んだ。光は、意識を、真っ直ぐにリンに向けていた。・・・
-変なの…。リンリンリン…。・・・
本当に変だね…。どうしてだろう…。光の理解が、徐々に進んで・・
いた。光は、リンの言葉に、自らを振り返った。変なの、リンリン・・
リン…。なぜか、光に、自らの過去が見えてきそうだった。・・・
・・・
・・・
-ねていたのかな…。なんだか、ゆめを、みていたようだよ…。ゆ・・
めは、わすれちゃった。・・・
そうだ、ぼくは、りんに、おいつけなかったんだ。だから、たお・・
れたんだ。・・・
リン! もういっかい、はしろうよ…。こんどこそ、まけない…。・・・
・・・
・・・
(3)・・・
・・・
カゼが、リンと一緒に、波打ち際を走っている。風が、少し強い・・
のだろう、リンの黒い髪が、激しく靡いている。カゼが、懸命に、・・
リンを追いかけている。・・・
「カゼ!」・・・
秋子も走った。自分のなかに目覚めた、東村への揺らぎを振り払・・
うように、秋子は走った。・・・
「が、あ、ざ、ん!」・・・
カゼが、秋子を認めた。大きく手を振り、平べったい笑顔を、秋・・
子に届ける。・・・
「カゼ…」・・・
妙子の言った言葉が、その時、秋子にの激しく揺れた。母性は、・・
弱いものに向く…。カゼへの思いが、東村への揺らぎを、跡形もな・・
く消した。秋子は、走る速度を上げた。・・・
カゼが呼んでいる…。いつだってそうだ。カゼは、秋子の心を揺・・
らす。自分がいないと、生きていけないカゼ…。カゼには、自分が・・
必要なのだ。自分しか、カゼの思いを受け取ってやる者はいないの・・
だ。これが、母性というものなのか…。秋子の脳裏に、カゼの姿が、・・
幾重にも重なる。笑っているカゼ…。泣いているカゼ…。走るカゼ・・
…。眠るカゼ…。・・・
確かに、カゼは、少しずつ逞しくなった。今度、中学になる。背・・
丈は、秋子を近いうちに確実に抜く。髭も生え、幼さの表情も、・・
徐々に消えていく。そして、カゼのなかに、自分は普通じゃない…、・・
自分は変だ…、という思いも大きく膨れていくだろう…。・・・
カゼは、自分が普通じゃないことを知っている。しかし、それは、・・
カゼの心の中でだけの理解であり、その思いは、カゼの内側におと・・
なしく納められている。今まで、それは、カゼの外側へ出ることは・・
なかった。カゼのその思いは、カゼの心だけのものだった。言い換・・
えれば、カゼは、そのことについて、大人のような理解はしていな・・
い。秋子には、それが分かる。・・・
自分は普通じゃない…。このことに、カゼは、まだ深く傷ついた・・
りしていない。いや、傷つくことを、カゼは抑えている。知らぬ間・・
に、心の中に厚いバリヤーを張り巡らせ、自分を守っているのだ。・・
自分は普通じゃない…。その思いは、カゼにとって理解の外にある。・・
当然、カゼは、自分を普通だと思っている。その思いからはみ出る・・
ことを、カゼは、自らのなかへ受け入れようとはしないのだ。分厚・・
いバリヤーで、カゼは、カゼの心を守っている。・・・
そのバリヤーは、ダウン症故の、知能の低さ、理解力のなさ、人・・
間として生きていくうえの力の乏しさ…、それらのもので築かれた・・
ものではない。それらのものでは、自分を守ることなどできるはず・・
がない。・・・
幼い子供たちは、自分たちの尺度で世界を見る。見たもの、感じ・・
たもの、それらは、子供たちの心のなかへ、そのままの姿で入る。・・
世間の常識や、習慣に、汚されることなく、ストレートな形で、子・・
供たちの意識のなかに入る。大人が、側でいらぬ説明さえしなけれ・・
ば、子供たちは、それぞれ汚れのない目で、ものを感じ取ることが・・
できる。大人たちのフィルターを通さずに見る世界は、幼い子供た・・
ちには、すべてのものが輝きを持っていることだろう。・・・
カゼは、その大人たちのフィルターを拒否しているだけにすぎな・・
いのだ。カゼのバリヤーのなかには、幼い子供の目がある。幼い子・・
供の耳がある。そして、汚れのない、カゼの尺度があるのだ。・・・
それが、今まで、カゼを、守り通してきた。いろいろなものを、・・
カゼは、なんとか自らの尺度に納めてきた。汚れのない目を通し、・・
カゼは、ものを見続けてきた。知能の低さではない。理解力の乏し・・
さではない。それは、カゼが見る世界に、カゼは、輝きを見続けた・・
かったからなのだ。幼い純白なる心で、カゼは育ってきた。・・・
しかし、これから先、そのバリヤーが、いつまでも堅固であると・・
は限らない。いつかは、カゼの築いたバリヤーに、数々の隙間がで・・
きていく。カゼが拒否し続けている大人たちのフィルターが、カゼ・・
のバリヤーを、激しくつつくこととなる。・・・
大人たち、あるいは世間は、カゼのような障害者を、施設に入れ・・
ようとする。それらの者を、自分たちの周りに置いておきたくない・・
思いを、誰もが、心のどこかの奥底で持っている。普通じゃない者・・
は、今まで人類が築いてきた習慣、常識、あるいは、行いを逸脱し・・
てしまう。そして、それが過ぎると、普通の者に対しての迷惑とな・・
る。福祉、障害者対策、あるいは、保護という名目だ。大人たちは、・・
障害者を、世間から隔離しようとする。普通でない者を、はっきり・・
と、世間から区別しようとする。・・・
その区別が、カゼのバリヤーを蝕んでいく。大人たちが、カゼを、・・
激しく攻撃する。守り通してきた、カゼの純白なる輝きが褪せてい・・
く。幼さが、形を変えていく。・・・
カゼは、中学生になる。大人たちのフィルターを、徐々に、感じ・・
ていくことになる。いや、カゼの心に入ってくるものが、既に、そ・・
のフィルターを通ったものとなっていく。カゼは、中学生なのだ。・・
この春から、カゼの環境が変わるのだ。カゼは、確実に傷ついてい・・
く。バリヤーが、所々が綻び裂けていく。いや、木っ端微塵に砕か・・
れていく。・・・
カゼは、ここ三日で、確かに成長した。カゼの理解は、少しずつ・・
だか、これからも増していく。秋子には、嬉しいことだ。そのこと・・
で、カゼは、苦しみを味わうことになる。自分は普通じゃない…。・・
その意味が、少しずつ変化を持つようになっていく。大人のフィル・・
ター濾しの思いを、カゼが、どう受け止めていくかなのだ。カゼを、・・
施設に入れてしまえば、そのことからは、カゼを守れるかも知れな・・
いのだが…。・・・
カゼを、施設になど入れない。秋子は、そう思っていた。・・・
カゼのバリヤーは、やはり、もう限界なのかも知れない…。カゼ・・
は、それでも成長していく。逞しくなっていく。それは、カゼに・・
とって、悲しみへの道となる。カゼは、徐々に傷ついていく。普通・・
でないということに、悲しみを見る。悔しさを見る。哀れを見る。・・・
しかし、カゼを、施設になど入れない。カゼは、自分の元で育て・・
る。自分のすべてで、カゼを守ってみせる。秋子の、激しい思い・・
だった。・・・
「カゼ! がんばれ!」・・・
そんな思いが、やはり、現実となっていく。カゼが、必死に走っ・・
ている。リンに追いつこうと、足を絡め、砂を激しく蹴っていく。・・
表情が歪み、その歪みに、カゼの悔しさが見える。・・・
「カゼ! がんばれ!」・・・
秋子は、そっと、涙を拭った。カゼの成長なのだ。今までなら、・・
カゼは、あんなに激しく走らなかった。追い越されたものに、追い・・
つこうなどとはしなかった。カゼは、諦めたままだった。・・・
明らかに、カゼが悔しがっている。砂に転んでも、すぐに立ち上・・
がっていく。カゼの顔が、更に歪んでいく。足が上がらなくなって・・
いく。・・・
「慌てるなカゼ! 焦るな!」・・・
複雑すぎる思いだった。カゼが、ひとつ砂を蹴る度に、秋子が、・・
激しく揺れた。力強く見えた。成長が見えた。そして、悲しみの始・・
まりが、カゼに訪れていくのが見えた。なぜ、走るのよ! なぜ、・・
そんなに慌てて走るのよ! カゼ、やめて! でも、がんばれ! ・・
秋子は、声にならない叫びを上げた。カゼを、今すぐ、抱きしめて・・
やりたかった。・・・
秋子が、カゼに追いついた。その時、カゼが、力尽き砂に倒れた。・・
秋子は、カゼの手を握りしめた。・・・
・・・
・・・
-どうして、こんなにはしったのだろう…。こんなに、はしったの・・
は、はじめてだ。・・・
リンに、おいつけなかった。ものすごく、くやしいや。・・・
リンは、ぼくより、ずっとちいさいのに。・・・
いきが、くるしいや…。でも、かあさんのて、あたたかいや。・・・
・・・
・・・
-どうして、こんなにはしったのだろう…。・・・
悔しかったから…。光は、その理由を感じていた。光は、自らの・・
過去に振り返り、少しずつ我を取り戻していた。そう、悔しかった・・
からさ…。・・・
-かあさんのて、あたたかいや…。・・・
暖かい…。本当の暖かい…。光にも、それは伝わっていた。暖か・・
さが、光を包み込んでいた。いつ以来か分からない。遠い遠い過去・・
に、それは、あったように思う。かあさん…。そう、それは、遠い・・
遠い過去だ。いや、分からない…。光は揺れた。暖かさに、心地よ・・
く揺れた。・・・
-雨が降るよ…。・・・
それは、リンの呼びかけだった。光は頷いた。かあさん? の暖・・
かさのなかで…。・・・
・・・
・・・
「雨が降るよ」・・・
秋子の側で、リンが、断定するように言った。リンの勘は当たる。・・
秋子は、宿に戻ろうと思った。・・・
「おばさん…」・・・
リンが、カゼと秋子を交互に見ながら言った。好奇心が膨らんで・・
いる。・・・
「おばさん、凪って知ってる」・・・
リン、おばさん好きよ…。リンも、大きくなったら、おばさんの・・
ように、大きめのセーターを、何気なく着るの…。スリムなジーン・・
ズにスニーカーがかっこいい…。時々はめている丸いサングラスに・・
も憧れちゃう…。リン、大きくなったら絶対に都会へ行くの…。夕・・
べの食事に、リンが言ったことを、秋子は思いだしていた。秋子も、・・
リンが好きだった。カゼと仲良くなってくれて、感謝していた。・・・
「ねえ、ナギって知ってる?」・・・
そんな無邪気なリンの声が、重くなっていく砂浜の空気に混じる。・・
その場だけ、重さを消すような明るい声が、秋子に届く。・・・
「風が、ひと休みするのね。ナギって」・・・
リンの声に、秋子まで、少し軽くなった。どういう訳か、リンは、・・
場を明るくする。不思議な魅力のある少女だ。明るさが、どんな時・・
にも透明に見える。・・・
「今、カゼのおにいちゃん、ひと休みしているから、ナギのおにい・・
ちゃんだね。リンリンリン…」・・・
秋子は笑った。リンの頬を、軽く撫でた。・・・
「カゼのおにいちゃん、光るの知ってる?」・・・
カゼの光が、リンにも見えたのだ…。秋子は、リンの目を見た。・・
リンも、秋子を、真っ直ぐ見ていた。・・・
「知ってるよ。リンちゃんにも、あの光が、見えるんだね…」・・・
カゼが悔しがった…。そのことが、リンとの会話のなか、秋子の・・
意識に、再び浮かんだ。あの光と、カゼの悔しがったこと…。その・・
二つは、何かの関連があるのだろうか…。秋子は、一瞬、そんな思・・
いに流れた。・・・
「あの光、ナギのおにいちゃんかも、知れないね…」・・・
すぐに、理解できなかった。光とナギ…。秋子に、それが、すぐ・・
に結びつかなかった。・・・
「だって、あの光、カゼのおにいちゃんが、一休みしている時に、・・
よく見えるもの…」・・・
なるほど…。そういえば、そうかも知れない…。秋子は、側のカ・・
ゼを見た。カゼは、眠っているのか、目を閉じたまま息を整えてい・・
る。・・・
「リン、その光と、お話ししたの…」・・・
それも、すぐに、理解できなかった。光と話…。どういうことな・・
の…。秋子は、リンに無理に笑った。・・・
「ブーとか、バーとか、言っていなかった。カゼのおにいちゃん、・・
いや、ナギのおにいちゃん、普通に喋っていたよ…」・・・
秋子に、嫉妬に似た感情が走る。カゼのことなのよ、リンちゃん・・
…。カゼのことなのよ…。カゼのことなら、自分が、一番よく知っ・・
ているのよ。秋子は、少し焦った。どういうことなの…。リンちゃ・・
ん、カゼのことなのよ、だから、だから、分かるように話して…。・・・
「いいや、耳で聞こえたんじゃない…。どう言ったらいいのかな・・
…」・・・
秋子は、リンの肩を軽く揺すった。焦りが、リンに向いていた。・・・
「どう言ったらいいのかな…」・・・
カゼのことなのよ…。秋子の軽い嫉妬が、リンに届いていく。そ・・
れでも、秋子は、リンが肩を揺らし続けた。秋子の戸惑いが、大き・・
く膨れていた。・・・
「いやだ、おばさん…。それって、やきもち?」・・・
何でも、ズバリ言う子だ。しかし、不快じゃない。幼い少女から・・
出た言葉は、時には真実を鋭く突くものだ。リンの明るさに、嫌な・・
思いもすぐに消える。子供らしい、無邪気な好奇心だけが感じられ・・
る。リンは、そんな独特な能力を持っていた。リンは、不思議な子・・
だった。・・・
リンの肩に置いた腕に、力が入りすぎていた。秋子は笑った。素・・
早く、我に帰る。膨れた戸惑いが、急に萎んでいく。秋子は、リン・・
の言葉を正直に認めた。・・・
「ごめん、リンちゃん。肩、痛かった? おばさん、やきもち焼い・・
ちゃったみたいね…」・・・
更に、リンのことを好きになった。カゼに、こんな妹がいれば…。・・
秋子は、心の底からそう思った。・・・
「リンちゃん、今の話、おばさんに分かるように言って…」・・・
「いいよ、カゼのおばさん…。リンリンリン…」・・・
リンの明るさに、浜に入る雨が躊躇していた。それでも、風は強・・
くなっていた。・・・
「カゼのおにいちゃんの光、とってもきれいな光でしょう。リン、・・
あの光を見ると嬉しくなってきちゃう…」・・・
嬉しいこと言ってくれるね…。そうよ、その通りよ…。きれいな・・
光よね…。私も、嬉しくなっちゃうわ、リンちゃん…。・・・
「カゼのおにいちゃん、リンに、かけっこを負けないように、思い・・
切り走ったの。でも、リンの方が早かった。だって、リン、かけっ・・
こで負けたことないもん…。あんな変な走り方のカゼのおにいちゃ・・
んに、負けるわけないわ…」・・・
憎たらしいことも、ズバリ言うのね…。でもいいわ、リンちゃん・・
なら許してあげる。本当のことだもんね…。秋子は笑った。リンと・・
目が合った。リンの笑みも重なった。・・・
「カゼのおにいちゃん、悔しがっていた。ぢぐじょう…、ぢぐじょ・・
う…、て言ってた」・・・
カゼが悔しがっていた。ちくしょうて言っていた。やはり、秋子・・
の思いの通りだった。・・・
「カゼのおにいちゃんて、いつも、あんなふうに悔しがるの…。リ・・
ン、少し、かわいそうになっちゃった…」・・・
リンが、カゼの成長を促してくれている。カゼが悔しがったのだ。・・
それが、カゼの成長なのだ…。秋子は、リンに笑みを続けた。・・・
「ううん。カゼは、あまり悔しがらない。負けるとか、勝つとか、・・
カゼには、よく分かっていないの。いいや、よく分かっていなかっ・・
たの…」・・・
リンには、正直になれた。リンは、自分に、心を開いてくれてい・・
る。だから、秋子も、心を大きく開こうと思った。・・・
「へえー、そうなの。でも、カゼのおにいちゃん、悔しがったよ・・
…」・・・
カゼ自身が、幼さのバリヤーをつついているのかも知れない…。・・
カゼは、激しい変化を向かえているのだ…。悔しがるカゼ。今まで・・
なかったカゼの姿だ。・・・
「その時、カゼのおにいちゃんのおでこが、真っ白に光ったの。い・・
つもだったら、背中に見える光なのに…」・・・
リンの言った光は、自分が見た光とは、少し違った。秋子は、カ・・
ゼの額の光を、まだ見ていない。再び、秋子に、軽い嫉妬が襲った。・・・
「カゼのおにいちゃん、砂浜に転がった。その時に言ったの、カゼ・・
のおにいちゃん、いいや、ナギのおにいちゃん…。だって、カゼの・・
おにいちゃん、その時、ひと休み中だったもの…」・・・
リンの言おうとしていることが、秋子には、徐々に見え始めてい・・
た。しかし、とうてい信じられる話ではなかった。・・・
「ナギのおにいちゃん、リンに言ったわ。リン、走るの早いねって・・
…。普通だったよ。カゼのおにいちゃんのように、ボーとか、ブー・・
とか、言わなかったよ…。普通だったよ。えーと、どう言ったらい・・
いのかな…。耳で聞いたんじゃないの…。えーと、えーと…」・・・
信じられないと思う反面、秋子は、その話を信じたかった。すべ・・
ての大人がそうであるように、リンの途轍もない話を、ただ、聞き・・
流すだけにはしたくなかった。秋子は、その思いで、リンを促した。・・・
「それって、テレパシー?」・・・
やはり、自然と、秋子は引き込まれていた。カゼの光に、カゼの・・
未来への希望を懸命に探していた。・・・
「テレパシー。さすが、おばさん。そう、テレパシーよ。リンリン・・
リン…」・・・
話を信じたい思いが、秋子の前面へと出ていく。リンの話に、カ・・
ゼの未来が見えるのだ。普通に喋った…。ナギのおにいちゃん…。・・
リンの話に、カゼの希望が見えるのだ。・・・
「リンの、頭かな? 心かな? 分からないけど、スーという感じ・・
で届いたよ…。リン、走るの早いねって…」・・・
秋子は、リンにしっかり頷いた。リンも、信じてもらえないと・・
思っていたのだろう…。秋子の頷きに、リンの笑顔が輝いた。嬉し・・
そうに、砂を一握り投げた。・・・
「えーと、それから、リンに、この光見えるのと聞いてきた。リン・・
は、見えると答えた」・・・
リンの話に嘘はない。秋子は、リンを信じた。信じることができ・・
た。・・・
「リン、聞いたの。リンに、話しかけたのは、カゼのおにいちゃん・・
なのって…」・・・
冷たい雨が、秋子の頬に落ちてきた。浜の暗さが増していた。・・・
「どうしてだろう…。ほくには、分からないや…。そう言ったよ」・・・
もう一粒、雨が落ちた。少し、寒さを感じた。・・・
「それだけ、その時、カゼのおにいちゃんが、立ち上がったの」・・・
ありがとう、リンちゃん…。よく話してくれたね…。・・・
「やっぱり、雨だ。リン、雨嫌い」・・・
雨が、静かに、三人の間に入った。カゼが、ゆっくりと立ち上・・
がった。・・・
「リンちゃん、ありがとう…。おばさん、リンちゃんのこと大好き・・
よ」・・・
秋子は、リンの頬にキスした。リンが、笑いながら驚いた。・・・
「リンちゃん、大好き」・・・
カゼも笑いながら、それを、少し恨めしそうに見ていた。雨が、・・
強くなり始めていた。・・・
・・・
・・・
(4)・・・
・・・
光は、自らの過去に馳せた。カゼに話しかけるように、光は、自・・
らの深く沈んでいた。・・・
-暗い闇だったよ。知っているだろう…。暗い暗い底のない闇…。・・・
先程の暖かさが、光に微かに残った。それが、光を、過去へと・・
誘っていた。過去への思いに、拍車を掛けていた。光は、暖かさを、・・
しっかりと抱き続けていた。・・・
-覚えているだろう。暗闇の世界だよ。暗闇の海に、ぼくは、消え・・
ていったんだ。覚えているだろ…。・・・
光の過去にも、やはり、暖かさはあった。光を、それを探してい・・
た。少しずつめくれ来る過去のどこかに、それはあるはずだった。・・・
-海だよ、海…。ぼくの小舟は、暗闇の海に沈んだんだ…。・・・
呟きに、返事が返ってくるなど思っていなかった。しかし、光は・・
続けた。それが、唯一、今の光にできることだった。・・・
・・・
・・・
-ナギのおにいちゃん…。・・・
リンは、そう言った。カゼのなかに、もう一つのカゼが、目覚め・・
ようとしている。秋子には、そんな気がした。自分が見た純白の光・・
…。リンの話…。秋子は、それらについて考えていた。・・・
カゼの可能性の扉が、開かれていくのかも知れない…。それなら・・
ば、秋子にとって、それ以上の喜びはない。秋子は、自分の思いが・・
正しいことを祈った。・・・
-カゼのおにいちゃん、悔しがっていた…。・・・
今までなかったことだ。カゼは、人より劣ることに、カゼなりの・・
抵抗を見せたのだ。・・・
カゼは走った。砂浜の重い砂を蹴り、懸命に走った。リンの素早・・
い走りが、カゼの先を行く。もどかしかったことだろう…。思うよ・・
うにならない自分の走りに、苛付いたことだろう…。しかし、カゼ・・
は走った。リンに追いつこうと、力の限り、足を上げ、腕を振り、・・
砂を蹴ったのだ。・・・
走りながら、カゼは、自分を呪ったかも知れない。ポンコツの走・・
りを、恨んだかも知れない。・・・
カゼは、自らで、幼さのバリヤーをつついた。自分のポンコツの・・
走りに、カゼが気づいた。今までなら、転んだらそれまでだった。・・
しかし、リンに追いつけない悔しさに、カゼは、ポンコツ走りを、・・
何度も、何度も、繰り返した。始めて、ポンコツの全力を使った。・・
それが、カゼの何かに、変化をもたらした。・・・
カゼのバリヤーが、綻びかけている。カゼは、真っ白な幼さのバ・・
リヤーから、幼さの目、幼さの耳、幼さの思いを、ほんの少しだけ・・
放棄したのだ。カゼは悔しがった。リンに適わなかった。それが、・・
カゼの魂を揺らした。・・・
幼さのなかにある、カゼ独特の尺度が、思いの形を変えた。魂の・・
揺れが、カゼを、激しく変化へと誘った。カゼは、成長のなかにあ・・
る。・・・
-その時、カゼのおにいちゃんのおでこが、真っ白に光ったの…。・・・
それが、カゼの魂の揺れなのかも知れない…。その光が、カゼの・・
成長に、輝きの光を見せているのかも知れない…。・・・
秋子は、カゼの光を思った。京都の駅で始めて見た、美しく輝い・・
たカゼを思った。・・・
あの時、カゼは、神のように微笑んでいた。神の目で、秋子を見・・
つめていた。一つ足りない、いや、一つが正常に分離しなかった染・・
色体…。モザイクになっている原因の、一つの染色体…。あの時か・・
ら、カゼに、正常な染色体が、戻って来ているのかも知れない…。・・
あの時のカゼの姿は、正常だった。いや、正常という言葉は当ては・・
まらない。煌めきの光に、カゼはあった。・・・
そういえば、京都の駅に降りる前、カゼが、かえってきた…、か・・
えってきた…、と呟いていたように思う。記憶は、定かではないが・・
…。・・・
そして、リンは言った。カゼのおでこが、真っ白に光ったと…。・・・
秋子には、まだ見ぬ光だ。光が、カゼのなかに入ったのか…。駅・・
で見た光も、浜で見た光も、カゼのなかには入っていなかった。カ・・
ゼを、包むように、庇うように、カゼの側で揺れていた。・・・
光は、カゼが、光を受け入れるのを待っていたのではないか…。・・
カゼの可能性の扉の前で、光は、揺れていたのではないか…。・・・
-ナギのおにいちゃん、ボーとかブーとか言わなかったよ…。・・・
リンに伝わった言葉は、正常だったのだ。カゼが、普通の言葉で、・・
リンに思いを届けたのだ。秋子は、そう信じた。信じたかった。・・・
純白なる光は、カゼの掴み損なった正常な染色体の一つ…。そう・・
なのかも知れない…。モザイクの形の染色体の起因である、不分離・・
の染色体が、正常に分離した。それが、あの真っ白な光なのかも知・・
れない…。医学的なことは、秋子には分からない。しかし、秋子は、・・
光に、希望を重ねていた。・・・
-あんな変な走り方のカゼのおにいちゃんに、負けるわけないわ…。・・・
そして、カゼは気づいた。何度も転んでは、その都度、立ち上・・
がった。そして、思った。自分は普通じゃない…。・・・
顔が、歪んだだろう…。唇を、強く噛んだだろう…。悔しさに、・・
涙がこぼれただろう…。思うように動かない自分の身体を、恨んだ・・
ことだろう…。・・・
-ぢぐじょう、ぢくじょうって言ってた…。・・・
それでいいのだ…。そのことで、秋子は、カゼを哀れんだりしな・・
かった。カゼは、成長を向かえている。激しい変化を向かえている。・・
哀れむ必要などない。カゼが、前に歩き出したのだ。自分の力で、・・
自らの殻を破り、まだ見ぬ未来へ、進み始めたのだ。・・・
駅での、カゼの光る姿は、それを、秋子に、見せるためだったの・・
だ。カゼが、神のように見えた。神は、前に進む者しか手を差し伸・・
べない。だから、カゼが光ったのだ。・・・
光は、カゼに入った。だから、カゼの額が白く光った。カゼと光・・
が、溶け合ったのだ。・・・
「光が、帰ってきたね。カゼ…」・・・
秋子は、降り出した雨のなか、それを、小さくカゼに言った。分・・
かったのか、カゼが、小さく頷いた。・・・
「ド、ラ、ン、ブ、じ、よ、う…」・・・
カゼが、リンの手を取った。リンが、それを引っ張った。・・・
「リンリンリン…」・・・
二人は、素早く、秋子の前を走りすぎていった。・・・
・・・
・・・
-トランプしよう。トランプだ。リンと、トランプだ…。・・・
でも、かあさん、へんなこといっていた。ひかりが、かえってき・・
たね…。・・・
どういうことなんだう…。・・・
まあ、いいや、トランプ。トランプ…。・・・
・・・
・・・
カゼとリンは、リンの部屋に消えていった。秋子は、仕方なく、・・
一人で部屋に戻った。・・・
部屋には東村がいた。窓の側に立ち、強くなっていく雨を眺めて・・
いた。・・・
「高志さん…」・・・
後ろ姿が、いつもとは違うように思えた。振り返った東村に、何・・
か、暗い影が見えた。・・・
「アキ…」・・・
東村は、秋子の帰りを待っていたようだ。作った笑みが、秋子に・・
重く届く。・・・
「どうしたの…。何か、疲れているみたいね…」・・・
秋子は、床に腰を下ろした。東村も、座るものだと思っていた。・・・
「雨か…」・・・
東村は、再び、窓に目をやった。濃紺のセーターが、少し濡れて・・
いる。秋子は、その水滴を見て、東村は、浜に座る自分たちを、玄・・
関先で見ていたのだと思った。・・・
「強くなりそうね…」・・・
不安が、秋子を、風のように掠めた。東村との別れが、秋子の脳・・
裏をよぎった。・・・
「そうだな、強くなりそうだ…」・・・
昨夜は、激しく抱かれた。秋子は、東村の愛を確信した。どうし・・
ても、東村に受け入れられたいと思った。そして、祈った。しかし、・・
今朝、妙子の話を聞いた。カゼの光のことを、リンに聞いた。秋子・・
の、東村への思いが揺らいでいた。私ならいいのよ、もういいのよ・・
…。無理しなくても…。そんな思いが、秋子のなかに大きくなって・・
いた。・・・
秋子は、ポットの湯を急須に注いだ。白い湯気が、窓際の東村を・・
隠す。秋子は、湯気に隠れ、軽く微笑んだ。諦めが、そんな笑みを・・
作り出していた。次の言葉を聞きたくない思いを、その笑みがごま・・
かしていた。・・・
雨の音が、部屋にまで入ってくる。風が、窓を強く叩く。東村が、・・
秋子の前に掛を降ろした。・・・
「このお茶、おいしいわ…」・・・
しばらく、二人で、お茶を飲んだ。言葉はなかった。重く静かな・・
時が、二人の間を流れた。・・・
「もう少し、考えたい…」・・・
東村が、ゆっくりと立ち上がった。秋子の煎れたお茶は、干して・・
いた。・・・
「アキ…。ごめん、もう少し、考えたい…」・・・
秋子には、それで十分だった。結論なんて、いらなかった。秋子・・
に、その場の安堵が揺れた。・・・
「ありがとう…。高志さん」・・・
東村が、小さく微笑んだ。作り笑顔ではなかった。秋子には、い・・
い笑顔に見えた。東村の、優しさが見えた。・・・
・・・
・・・
その日、雨は降り続いた。午後遅くには、気温がぐっと下がり、・・
雪になるかとさえ思われた。・・・
松屋には、客はいなかった。釣り客は、昼過ぎに帰り、妙子は、・・
暇な時間を持て余していた。・・・
「真紀子。コーヒーでも飲まない…」・・・
娘の真紀子が、ストーブの側でうとうととしている。剥いたミカ・・
ンが、そのまま炬燵の上に乗っており、部屋の暑さで白く乾燥して・・
いる。・・・
「そうね、かあさん」・・・
真紀子が立った。台所から、インスタントコーヒーの瓶と、砂糖、・・
ミルクを運び込んだ。それから、ストーブのやかんを、おもむろに・・
取り上げた。・・・
「お前は、いつもそうなんだから。コーヒーというのは、味だけで・・
なく、ひとときを楽しむものなのよ…」・・・
何だか、機嫌が悪い。自分でも、その理由がよく分からない。妙・・
子も、台所へ立った。白いコーヒーカップと、銀のスプーン、それ・・
から、お揃いの受け皿と、白いポットを、部屋に運んだ。・・・
「そんな、でかいやかんで注いだら、コーヒーも、ココアも、変わ・・
らなくなっちゃうでしょ…」・・・
妙子が、コーヒーを煎れた。香ばしい香りが、部屋のなかに充満・・
した。二人は、熱すぎるコーヒーを啜った。・・・
「かあさん、リンが、言ってんだけど。カゼくんて光るの?」・・・
妙子の目が大きく開く。妙子は、真紀子を見た。何を言ってるの・・
だ、人が光るわけがない…。・・・
「リンが見たんだって。カゼくんが、光っているのを…」・・・
このバカ! もう一度、妙子は、大きく目を開いた。・・・
「何を、訳の分からんことを言ってる。バカ!」・・・
妙子の機嫌は、今朝から悪かった。源助と、昨夜、大いにもめた・・
のだ。そして、源助は、朝食の後からいない。妙子と源助は、仲が・・
良すぎてよくもめる。しかし、機嫌が悪いのを、源助がいないせい・・
にしたくない。妙子は、黙ってコーヒーを楽しもうと思った。・・・
「父さん、どこ行ったの」・・・
しかし、それを、真紀子が許してくれなかった。・・・
「知らん」・・・
妙子は、吐き捨てるように言った。機嫌が、更に悪くなった。・・・
妙子の歳で、コーヒーを、一日に二杯も三杯も飲むのは珍しい。・・
夏場なら、海水浴客相手の喫茶店で、特別に本格的なコーヒーを煎・・
れてもらう。しかし、季節外れの今は、インスタントで我慢するし・・
かないのである。妙子曰く、女学生の頃の高貴な趣味が、今も抜け・・
ないのだ…。・・・
「パチンコでも、行ったのかな…。かあさん、本当に知らないの・・
…」・・・
バカ、そんな朝早くから、パチンコなんて開いてるか…。妙子は、・・
真紀子の質問に答えず、眉をひそめた。それで、真紀子がおとなし・・
くなった。・・・
妙子は、思いに沈んだ。末っ子の高志のことを思った。源助のこ・・
とを、頭から閉め出したかった。・・・
結婚には反対だった。よりによって、あんな子のいる女を…。妙・・
子は、そう思っていた。息子を思う母としては、当然のことだ。そ・・
れについて、妙子は、自らへの嫌悪感はなかった。障害児への偏見・・
だろうとも、息子を思う母としては、息子のことの方が大切に決・・
まっている。秋子さんには悪いけど、母とはそういうものだ。妙子・・
は、そのように思っていた。・・・
しかし、どういう訳か、源助が、秋子さんを気に入ってしまった。・・
高志の嫁にぴっりだと言い出した。二人は、言い争うこととなった。・・・
源助は、妙子を責めた。障害児だって、立派な人間だ。差別し・・
ちゃいかん…。・・・
そのことは、妙子にも分かっている。差別するつもりじゃない…。・・
しかし、高志のことを思うと…。結局、妙子の反論は、源助の正論・・
を、叩きのめすことができなかった。いつもの言い争いの攻守が、・・
逆転してしまった。・・・
機嫌の悪さは、そのせいなのだ。そして、源助が、朝からいない。・・
ああ、また思いが源助に向いてしまった…。妙子は、更に、眉をひ・・
そめた。・・・
カゼはいい子だ。妙子も、リンからいろいろと、カゼのことを聞・・
いていた。リンに意地悪などしない。普通じゃないのも、リンには、・・
あまり気にならないらしい。素直な子よ…。真紀子も、そう言って・・
いた。・・・
「カゼのおにいちゃんが光った。リンは、そう言ったけど…」・・・
真紀子が、再び、妙子に詰め寄った。真紀子は、眠る以外、おと・・
なしくするのが苦手な女だった。自分によく似ている。妙子は、苦・・
笑を浮かべた。・・・
リンは、何を見たのだろう…。やはり、妙子も、何となく気に・・
なってきた。リンは、嘘を言ったりしない。・・・
「人間が、光るわけがない…。熱ちちち!」・・・
妙子は、横を向いた。何だか、今日のコーヒーは特別熱かった。・・・
第四章・・・
・・・
(1)・・・
・・・
光が、自らに語った。そして、そのなかには、カゼがいるはず・・
だった。光の語りは、長いものとなった。・・・
-なぜ、ぼくは、小舟に乗っていたのだろう…。闘いの連続だった・・
ことは、覚えているよ。・・・
海に、小舟が沈んだ。ぼくを覆っていた闇が、更に深くなったん・・
だ。ぼくは、気を失った。それが、ぼくの死だった。ぼくの思って・・
いた死とは、随分と違っていたけど…。・・・
夢だと思ったさ。ぼくに、光が射していたんだ。遠くの仄かな光・・
だった。太陽が、果てしなく遠ざかったような光だったよ。・・・
そこに、ぼくに似た光たちがいたんだ。みんな、静かに、その空・・
間に浮いていた。何もない空間だった。ぼくは眠った。ものすごく・・
眠かった。周りの光たちも、眠っているようだった。・・・
目覚めた時、太陽は消えていた。月が、上空に揺れていた。それ・・
も、遠い遠い月だった。・・・
昼と夜だったんだ。ぼくは、その空間で、その空間の昼と夜を、・・
何度も越したよ。死の世界だと思っていた。静けさが、闘いに疲れ・・
たぼくには、とても心地よかったんだ。・・・
そのうちに、あちらこちらから、ぼくのような光たちからの意識・・
が、届くようになってきた。ぼくは、心地よさに、いつの間にか、・・
眠るのも忘れて踊っていたんだ。ぼくの変化を、感じ続けていたん・・
だよ。いい時だったよ…。・・・
届いてくる意識は、ぼくを誘っていた。ぼくを、ぼくの内側へと・・
誘っていた。届いた意識は、ぼくの意識の揺れだったんだ。同じよ・・
うに見えた光たちは、ぼくの内面の星だったんだ。ぼくは、ぼくの・・
宇宙を漂っていたんだよ。・・・
なぜ、ぼくは生きている…。その時、ぼくは思った。ぼくは、死・・
を越えたと理解していた。つまり、死んだと思っていた。でも、ま・・
だ、ぼくは生きていた。ぼくの意識、ぼくの思い、そして、ぼくの・・
光は、ぼくから消えていなかった。ぼくは、朽ちたりしていない。・・
ぼくの宇宙は、ぼくが感じ続けている。ぼくは生きている。そう・・
思った。・・・
それが、ぼくの内側の世界の入口だった。それを、理解しなけれ・・
ばならない。それが、ぼくの勤めだと思った。ぼくの宇宙に、もっ・・
と光を注がなければならない。それには、ぼくをもっと知る必要が・・
ある。そう思った。・・・
そう思うと、遠くの太陽が、少しずつ近くなってきたんだ。夜の・・
闇も、徐々に短くなっていった。そして、今まで見えなかった何か・・
が、ぼくに、見え始めてきた。・・・
それは、ぼくの光のなかに煌めく、純白なる光だった。ぼくに、・・
瞬時の理解がなった。その光は、ぼくの宇宙のなかで、果てしない・・
輝きを放っていた。ただ、ぼくの光が、今まで、それを隠してし・・
まっていたんだ。ぼくは、その光へ向かった。つまり、深く、深く、・・
ぼくのなかへ向かったんだ。・・・
その光を、ぼくは、大好きになった。ぼくのなかに、あんなにも・・
輝いた美しい光があるなんて…。ぼくは、嬉しくなった。・・・
ぼくは叫んだよ。ぼくが大好きだ! ぼくが大好きだ!・・・
すると、その光が揺れた。ぼくは、光に抱かれた。光を抱いた。・・・
愛…。そうだったんだ。ぼくは、愛の光だったんだ。ぼくは、本・・
当のぼくを見つけた思いになった。光は、暖かかった。・・・
そうだよ、今の、暖かさと同じだ。かあさんのてって、あたたか・・
いや…。その言葉を聞いた時の暖かさ…。そう、ぼくの宇宙の光の・・
暖かさと、それは一緒だよ…。覚えているだろう…。そうだろう、・・
覚えているだろう…。・・・
光は、ここで少し間を空けた。抱き続ける暖かさを、光は、意識・・
に引き寄せていた。・・・
・・・
・・・
-トランプ、おもしろい…。ものすごく、たのしい…。・・・
ぼくは、つよいぞ。なんども、リンに、かった。でも、こんどは、・・
まけた…。・・・
おぼえているだろう…? なんだ? だれかが、ぼくを、よんで・・
いる。・・・
まあ、いいや、リン、もういっかい…。でも、すこし、ねむたい・・
や…。・・・
・・・
・・・
「リンちゃん…」・・・
秋子は、何度も、リンの部屋の襖を叩いたが、何の応答なかった。・・
秋子は、ゆっくりと襖を開いた。・・・
「あら、こんな所で二人とも…」・・・
カゼとリンは、ピンクの花柄のホットカーペットで、昼寝中だっ・・
た。無邪気な寝顔が二つ、上を向いて転がっていた。・・・
「フフフ…」・・・
堪えようとしたが、それは、秋子の口元から少し漏れた。トラン・・
プが、二人の側に散らかっている。・・・
「風邪、惹かないかしら…」・・・
秋子は、カゼを覗き込んだ。少し、笑っているようだった。・・・
「ん…?」・・・
どことなく、いつものカゼの寝顔と、違って見えた。秋子は、カ・・
ゼの頬に手を当ててみた。・・・
「あら…」・・・
温かい。熱ではない。秋子にだけ分かる、カゼの小さな変化だ。・・・
カゼが安定している時は、このように頬が温かい。落ちついた精・・
神に包まれている時のカゼは、頬が温かくなるのだ。秋子は、カゼ・・
の安定を、素直に喜んだ。・・・
「カゼ…」・・・
しかし、少し違った。ほんの少し、その温かさの質が違うよう・・
だった。秋子は、自分の頬を、カゼの頬に当てた。・・・
「あの光…」・・・
なぜか、そう思った。小さな戸惑いが、秋子を、心地よく包む。・・・
「純白なる光…。カゼの希望の光…」・・・
秋子は、しばらく光を待った。リンの言う、カゼの額に光が揺れ・・
るのを待った。・・・
・・・
・・・
-ぼくは、ぼくの宇宙のすべての光を集めていった。すべての星を、・・
抱きたかったんだ。・・・
次々と、光の星を抱きしめていった。星は、やはり暖かかった。・・
ぼくは、夢見心地だった。恍惚というんだろうか…、そんな思いに、・・
揺れ続けた。幸せを感じていた。・・・
そのうちに、再び、周りが暗くなった。ぼくの宇宙の星たちが、・・
光を隠し始めた。驚いたよ。闇へ逆戻りしてしまう恐怖が、ぼくを・・
襲った。ぼくに、不安が押し寄せた。周りの闇が、素早く、黒く・・
なっていた。・・・
でも、ぼくには、どうすることもできなかった。闇のなか、ただ、・・
光を、探し続けていた。黒い恐怖が、少しずつ、ぼくを蝕んでいっ・・
た。・・・
闇にも見えたひとつの星を、ぼくは掴んだ。ぼくは、その星に、・・
流されていった。ぼくの恐怖も、道連れだった。・・・
・・・
・・・
カゼは、夢を見ていた。夢のなかで、カゼは、小舟に揺られてい・・
た。・・・
周りは、すべて闇だった。小舟は、激しく揺れていた。荒海のな・・
かだった。海が、怒りを含んでいるようだった。カゼは、小舟を・・
立った。波の上に、うまく立てた。いつものような、ポンコツの動・・
きではなかった。・・・
「かあさん!」・・・
闇に叫んだ。うまく叫べた。言葉が、詰まらなかった。・・・
「かあさん!」・・・
大きな波が、カゼの小舟を浚っていく。小舟の上に転んだ。激し・・
い飛沫が、カゼの顔面を、何度も叩いた。・・・
「かあさん!」・・・
何度も叫んだ。恐怖が、カゼを襲った。果てしなく暗い海が、目・・
の前に拡がっていた。・・・
・・・
・・・
-かあさん、こわいよ。ぼくのふねが、しずんだよ…。・・・
たすけてよ…。かあさん、たすけてよ…。ねえさん、たすけてよ・・
…。・・・
ねえさん? だれのことだったかな…。・・・
まあ、いいや、かあさん、たすけてよ…。・・・
・・・
・・・
秋子も、カゼの側で、うとうととしていた。カゼとリンの寝息が、・・
秋子には、たまらなく心地よかった。・・・
「が、あ、ざ、ん…」・・・
カゼの寝言が、秋子の微睡みに揺れる。夢のなかでも、カゼは、・・
自分を求めている。カゼへの愛しさが、秋子の心地よさに重なって・・
いく。・・・
「が、あ、ざ、ん…」・・・
秋子は、微睡みから抜けられずにいた。カゼの寝言が、何度も、・・
秋子に届いていた。・・・
・・・
・・・
(2)・・・
・・・
-ぼくの掴んだ、ぼくのひとつの星は、過去へ揺れていたんだ。ぼ・・
くは、恐怖を紛らわすために、その星に意識を埋めたよ。ぼくのこ・・
れまでの道が、その星のなかに見えていた。・・・
戦いの連続だった。ぼくは、その戦いのなかを、逃げ回ってばか・・
りいた。非常に弱い戦士だった。いや、戦士とすら言えない。ぼく・・
たちは、戦いを望んではいなかったんだ。・・・
蘇っていった。ぼくの過去が、鮮明に、ぼくの意識に浮かんだ。・・
ぼくは、その流れに埋もれた。死の恐怖が、徐々に去っていった。・・
いや、ぼくは、死というものに、正面から相対していたんだ。・・・
なぜ、人は殺し合う…。なぜ、闘う…。同じ人間が、なぜ、傷つ・・
け合う…。人は、死へ向かう。ぼくのように、死に逃げ込む。どう・・
して…。血と、悲しみが、ぼくたちの衣に染み込み、次々と、親し・・
い者たちが、ぼくたちの目の前から消えていく。死へ流されていく。・・・
ある者は、剣に貫かれたよ。また、ある者は、気が触れたよ。自・・
らを傷つけ、死んでいった。狂気が、渦巻いていたんだ。死への風・・
が、荒れ狂っていたんだ。・・・
懸命に逃げた。逃げるだけの人生だったんだ。逃げるために、生・・
まれてきたようなものだったよ。行き着くところが、死ということ・・
も知っていたさ。しかし、ぼくたちは、闘いに参加したりしなかっ・・
た。それが、ぼくたちの誇りだった。ぼくたちの生き方だった。・・・
神が、救ってくれるとは思わなかった。神は、側にはいないんだ。・・
神は、遥かに遠く、ぼくたちの知らないところにいる。神に祈るこ・・
となど、ぼくたちの誇りが許さなかったよ。・・・
ぼくたちは、特殊な能力を持っていた。それは、ぼくの生まれ・・
育った土地に、古くから培われたものだった。ぼくたちは、自らの・・
運命を探ることができた。何世代も続いたぼくたちの一族の能力・・
だった。ぼくたちは、まだ見ぬ神を信じるより、ぼくたちのなかに・・
ある光を信じて生きてきた。・・・
ぼくたちは、自らの胸の内に光を持っていた。純白なる光だよ。・・
その光は、ぼくたちを未来へと導いてくれるんだ。ぼくたちの未来・・
を、それぞれの胸の内に見せてくれるんだ。それは、生命の存在の・・
意味を、激しく探求することによって、得られる光だったよ。深く、・・
深く、自分を見つめ続ければ、得られる光だったよ。ぼくたちは、・・
古くから、光に、未来を見いだしていった一族だったんだ。・・・
覚えているだろう…。・・・
でも、それが、ぼくたちの悲劇となった。・・・
未来予知…。権力者たちが、ぼくたちの能力を利用しようとした・・
んだ。霊能者狩りと言って、ぼくたちの山を荒らした。ひた隠しに・・
していたことが、権力者の耳に入ってしまったのさ。・・・
ぼくたちは逃げた。新しい暮らしの場を求めて、戦場を走った。・・
ぼくたちの能力は、権力者に必要なものではない。その能力は、未・・
来だけを知らせるものなんだ。闘いのなかには、未来などなかった。・・・
ぼくたちは、ぼくたちの存在を、光だと考えていた。肉体は、光・・
を覆う衣に過ぎない。ぼくたちは、いつかその衣を脱ぎ去り、光の・・
存在となる。そして、光の姿となり、ぼくたちの本当に生まれた国・・
へと旅立つ。ぼくたちは、そう信じていた。ぼくたちは、死へと向・・
かっていった。死の先にしか、それが見えてこなかったから…。・・・
そう、ぼくたちは、光の存在なんだ…。それが、ぼくたちの未来・・
なんだ…。・・・
覚えているだろう…。・・・
ぼくは泣いていた。過去に揺れる星に抱かれて、悲しみに打ちひ・・
しがれていた。光が見えなかったんだ。ぼくたちの本当の姿である、・・
純白の光が、消えてしまっていたんだ。・・・
過去に揺れる星に、再び、闇が押し寄せた。ぼくに、恐怖が舞い・・
戻った。星が死んでいく。ぼくの星が死んでいく。ぼくは、気を・・
失ったよ。・・・
・・・
・・・
カゼの夢は続いていた。カゼは、真っ黒なマントを羽織っていた。・・
見たことのないマントだった。座るときに、非常に邪魔になった。・・
こんなもの着ていれば、きっと、かあさんは、怒るだろう…。カゼ・・
は、頭を抱えた。そして、かあさんを待った。・・・
かあさんは来なかった。カゼは、黒いマントを、ひらりと揺らし・・
てみた。少し風が舞った。周りが、すべてマントの色になった。・・・
星がひとつ見えた。きれいな星だった。理科室にある地球儀のよ・・
うだった。いつも見ている星とは違うと思った。カゼは、手を伸ば・・
した。手が、真っ直ぐに伸びた。どこまでも、伸びていくようだっ・・
た。カゼは、その星を掴んだ。・・・
掴んだ途端に、星が光を失った。カゼに伝わる暖かさも消えた。・・・
「星が、死んでいく!」・・・
カゼは叫んだ。やはり、言葉は、詰まらなかった。・・・
「星が、死んでいく!」・・・
カゼは、黒いマントを、再び靡かせた。カゼに、恐怖が襲った。・・
マントが、風に吹かれ飛んでいった。・・・
・・・
・・・
「ぼ、し、が、し、ん、で、い、ぐ…」・・・
カゼの額に、光が見える。夢だろうか…。秋子の意識は、虚ろに・・
揺れていた。・・・
リンの言っていた光だ。純白だ。美しい光だ。虚ろに、秋子は、・・
光を見入った。引き込まれてしまいそうだった。・・・
「ぼ、し、が、し、ん、で、い、ぐ…」・・・
カゼの寝言が、聞こえるような気がする。おかしいな、今日は、・・
よく寝言を言うのね、カゼ…。・・・
秋子の意識に、光が蠢いた。秋子は、手探りで、カゼの手を握っ・・
た。少し汗ばんだカゼの手は、いつもより温かかった。・・・
「カゼ…」・・・
秋子は、カゼとひとつになりたかった。カゼの手を、強く握った。・・・
・・・
・・・
-ほしが、しんでいく。ぼくの、ほしが、しんでいく。・・・
ああ、かあさんのてだ。あたたかいや…。・・・
かあさん、ぼくの、ほしが、しんでいく。たすけてあげて…。・・・
・・・
・・・
-そう、この暖かさだ。かあさんの手だ。温かいや…。この暖かさ・・
に、ぼくの星が蘇ったんだ…。・・・
何かを感じるよ…。愛? そんな気がするよ。いや、きっと、愛・・
に違いないよ…。・・・
光は、暖かさを、自らに引き込んでいった。かあさん? そんな・・
思いが、光の奥底へ、徐々に染み込んでいった。光は、語るのも忘・・
れて、暖かさに泣いた。伝わってくるものが、光には熱すぎた。・・・
・・・
・・・
(3)・・・
・・・
-星は、死んだりしなかった。ぼくが、それを理解するまで、どれ・・
くらいの時が流れたのか、短い時間だったのか、それとも、永遠と・・
も思われる時だったのか、それは、分からない。でも、ぼくの星は、・・
死んだりしなかったんだ。・・・
やっぱり、ぼくが、光を隠してしまっていたんだ。あの光、そう、・・
ぼくの存在の源の純白なる光を、ぼくが、知らぬ間に闇で包んでし・・
まっていたんだ。ぼくの宇宙を、ぼくは、闇に染めてしまっていた・・
んだ。だから、星が、消えていったんだ。輝きを、失っていたんだ。・・・
そう、ぼくの宇宙は、夜を迎えていたんだよ。純白なぼくの太陽・・
が、ぼくの宇宙の星たちに、光を届けられなかったんだ。ぼくは、・・
それに気づいた。だから、過去の星から出た。そして、ぼくの源の・・
光へと進んだ。もう一度、ぼくの、深く深くに沈んでいった。・・・
ぼくの太陽は、輝き続けていた。思った通りだった。ぼくに、理・・
解が駆けたさ。ぼくの宇宙は、ぼくだけのものだ。闇も、光も、ぼ・・
くが、すべて調整できることだった。ぼくは、再び、暖かさに包ま・・
れたんだ。・・・
それからは、落ち着いていたよ。ぼくは、過去の星へ戻った。も・・
う、闇は訪れなかった。ぼくは、光り続けていた。・・・
闘いの結果を、知りたかったんだ。ぼくたちは、逃げるだけだっ・・
た。荒海に、ぼくは死んだ。でも、その前に、何かあったはずだ。・・
ぼくは、それを知りたかったんだ。先へ進むのは、それからでいい・・
と思っていた。ぼくは、あの戦場へ思いを馳せた。そして、戦場の・・
ぼくを見つけた。敵兵の殺気が、ぼくから動きを奪ってしまってい・・
た。近くで、蝉が狂ったように鳴いていた。・・・
「こっちだ!」・・・
敵兵が叫んでいた。ぼくは、藪に身を隠していた。泥のなかに、・・
身体ごと埋めていた。敵兵は、ぼくを見逃したりしない。確実に、・・
ぼくは、敵兵に落ちる。ぼくのなかの恐怖が、止めどなく膨らんで・・
いた。・・・
ぼくは、至る所に傷を負っていた。鋭い痛みが、ぼくの全身を駆・・
け巡っていた。焼けるように痛かった。ぼくの意識は、痛みと、恐・・
怖に、包まれていた。・・・
「こっちだ!」・・・
草を、かき分ける音が、随分と近くに聞こえた。風はなかった、・・
でも、目の前の草が揺れた。・・・
敵兵の殺気に満ちた目が、ぼくに落ちた。ぼくの恐怖が破裂した。・・
ぼくは、そいつの持った剣で貫かれる。あー、何と言うことだ…。・・
なぜ、人々は戦う! ぼくは、思わず叫んでいた。・・・
黒い炎が、ぼくを包んだ。そのなかに、鋭い剣先が、金色に光る・・
のが見えたよ。・・・
「????」・・・
敵兵が、ぼくに何かを言った。ぼくの知らない言葉だった。蝉の・・
声に似ていた。・・・
「??!」・・・
ぼくを、激しく罵っていた。意味は分からなかったが、敵兵の怒・・
りが、ぼくを責めたよ。四人ほどが、ぼくを取り囲んだ。・・・
「??…!」・・・
殺気が、激しく、ぼくのなかに落ちた。雷より鋭い光が、ぼくを・・
貫いた。・・・
「助けてくれ! 殺される! ウワー!」・・・
恐怖と、狂気が、ぼくのなかで入り交じった。蝉の鳴き声が、一・・
瞬に遠ざかった。ぼくは、気を失いそうだった。・・・
・・・
・・・
-たすけてくれ! ぼくが、ころされる! ウワー!・・・
なにも、わるいことなんか、していないよ。・・・
かあさんも、いっていたよ。カゼは、えらいねって…。・・・
たすけてよ…。ころされる! かあさん! ぼくが、ころされ・・
る!・・・
・・・
・・・
「だ、ず、げ、で、ぐ、でー!」・・・
カゼが呼んでいる。夢にうなされている。秋子は、素早く微睡み・・
を抜けた。握ったカゼの手が、異常なほど熱くなっていた。・・・
「カゼ…」・・・
ひとつ叫んだ。側のリンが、少し動いた。カゼは動かない。秋子・・
は、カゼの肩を揺らした。・・・
「カゼ! 起きるのよ!」・・・
カゼより早く、リンが目を覚ました。目覚めの良い子だ。もう、・・
笑顔になっている。・・・
「どうしたの、おばさん」・・・
リンが、カゼを覗く。カゼが、うっすら目を開けた。涙が、一粒、・・
カゼの頬に滑った。・・・
「が、あ、ざ、ん!」・・・
カゼが、秋子に飛びついた。頬の涙が、床に散った。・・・
「ご、ろ、ざ、で、どぅ!」・・・
秋子は、カゼを抱いた。熱い…。カゼが、熱くなっている。顔を・・
歪め、何かに苦しがっている。・・・
「ご、ろ、ざ、で、どぅ!」・・・
カゼは、秋子の腕のなかで、子ウサギのようにうずくまった。脅・・
えている。カゼが、激しく脅えている。夢のせいなのか…。秋子に、・・
ちらっと、あの光が過ぎた。・・・
「カゼ! どうしたの!」・・・
カゼの背を、優しく撫でた。カゼの激しい震えが、秋子に届く。・・・
「グ、ワー、バー、ワー!」・・・
カゼが叫んだ。恐怖の叫びだ。明らかに、いつものカゼではない。・・
時折起きる発作とは違う。カゼは、恐怖に叫んでいる。恐れ脅えて・・
いる。・・・
「カゼ! どうしたの!」・・・
先程、秋子は、カゼとひとつになったように思った。眠るカゼの・・
手の熱さと、自分の胸の思いが、ひとつに結ばれたように思った。・・
今までのカゼと違う何かを感じ、秋子の胸も熱くなった。・・・
あの光が、カゼを何かに導いている。秋子は、その時、そう思っ・・
た。そして、今、カゼが脅えている。それも、光に関することなの・・
か…。秋子は、カゼを強く抱いた。・・・
「カゼ!」・・・
カゼの額に、光を探した。しかし、それは見えなかった。・・・
「ウオ…。アオ…」・・・
カゼの叫びが収まった。秋子にだけ届く小さな声で、カゼは、恐・・
怖を漏らし続ける。・・・
「が、あ、ざ、ん…」・・・
カゼと、目が合った。カゼの目が、一瞬に柔らかくなった。カゼ・・
を襲った恐怖が、静かに消えていく。・・・
「あー、が、あ、ざ、ん…」・・・
余程、ひどい夢だったのだ…。カゼの震えが収まらない。・・・
「が、あ、ざ、ん、こ、わ、がっ、た…」・・・
カゼは、秋子の瞳を見続けた。秋子は、笑顔を作った。カゼの頬・・
の涙を、ハンカチで拭ってやった。・・・
「どんな夢だったの…、カゼ。珍しいね、あんなに、うなされるの・・
…」・・・
優しく、カゼの視線を包んだ。カゼの息が整っていく。・・・
「へ、い、だ、い、ざ、ん、に、ご、ろ、ざ、れ、だ…」・・・
兵隊さんに、殺された…。どういうこと、カゼ…。この間、自分・・
が見ていた映画の印象が、カゼに残っているのだろうか…。秋子は、・・
軽く首を捻った。・・・
「ぼ、く、が、へ、い、だ、い、ざ、ん、に、ご、ろ、ざ、れ、だ・・
…」・・・
夢の欠片が、カゼに残っている。カゼは、秋子から目を逸らした。・・・
「へ、い、だ、い、ざ、ん、に、ご、ろ、ざ、れ、だ…」・・・
兵隊さんに、殺された…。カゼにしては、あまりにも、リアルな・・
言葉だ。夢のなかで、カゼは戦場にいたのだろうか…。・・・
「夢でよかったね…」・・・
どうして、そんな夢を、カゼが見たのだろう…。カゼは、戦場に・・
いたのだろうか…。それは、プラトーンや、ハンバーガーヒルのよ・・
うな乾いた土地なの…。それとも、スターウォーズ、エイリアンな・・
どの異空間なの…。・・・
「夢でよかったね…。カゼ…」・・・
その時、秋子に、一瞬、純白な光が過ぎた。カゼの額を、それは、・・
素早く煌めいては消えた。・・・
「ウッ!」・・・
秋子に、めまいが襲った。三度目のことだった。秋子は、カゼを・・
見た。あの時のように、カゼが、神の光に包まれているような気が・・
した。・・・
「ぐ、ざ、む、ら、に、い、た。ぜ、み、が、な、い、で、い、だ・・
…」・・・
カゼは、光に包まれたりしていなかった。カゼは、少し笑ってい・・
た。・・・
「ぜ、み、が、う、る、ざ、がっ、た…。べ、い、だ、い、ざ、ん、・・
よ、に、ん、い、た…」・・・
草むらにいたのね…。蝉が、うるさいほど鳴いていたのね…。そ・・
して、兵隊さんが、四人もいたのね…。秋子は、笑みのカゼの頬を・・
撫でた。不思議だった。秋子に、その光景が見えてきそうだった。・・・
秋子のめまいが激しくなった。秋子は、目を閉じた。瞼の裏に、・・
何かが揺れた。・・・
兵隊が四人いる。殺気が迸っている。兵隊が、カゼへと近づいて・・
くる。瞼の裏に、その場面が拡がっていく。不確かな思いが、秋子・・
に揺れる。・・・
「ご、わ、い、お、じ、ざ、ん、だっ、だ、ぼ、ぐ、を…。ぼ、ぐ、・・
を…」・・・
秋子は、頭を抱えた。意識に揺れる、四人の兵隊の内の一人が、・・
剣を高く上げた。鋭い剣が、太陽の光に、白く閃光を放っていた。・・・
「カゼ…。ごめんね…。変な夢を、思い出せちゃったね…」・・・
それだけ、言えた。秋子は、めまいに気が遠くなった。うるさい・・
ほどの蝉の声が、秋子の意識に轟いていた。・・・
・・・
・・・
-死は、その時、ぼくを襲わなかった。敵兵は、ぼくを、貫かな・・
かったんだ。・・・
敵兵は、そのなかの一人に、ぼくを預けた。ぼくには、一人で十・・
分と思ったのだろう。あるいは、兵も疲れ、死を見るのが辛くなっ・・
ていたのかも知れない。敵兵は、一人だけをぼくに残して、目の前・・
から消えていった。・・・
残った一人の兵は、泣いていた。闘いの醜さを、一人嘆いていた。・・
彼は、ぼくを逃してくれたんだ。ぼくの身体を、鋭い剣で貫かな・・
かったんだ。・・・
それで、どうこうなるものではなかったよ。ぼくは、もう逃げる・・
気力を失っていたよ。・・・
そこは、海の近くだった。蝉の声が、ぼくの側に激しかった。・・・
・・・
・・・
-そうだ、そのとき、ぼくは、ころされなかった。・・・
こわいおじさん、ぼくを、ころさなかった…。よかった。よかっ・・
た…。・・・
まあ、いいや、かあさん、だいてくれている。あたたかいや…。・・・
・・・
・・・
(4)・・・
・・・
次の日に、源助は戻った。ばたはだと、玄関を上がり、大きく叫・・
んだ。・・・
「高志、いるか!」・・・
源助の表情は、いつもとは違い硬かった。目が赤く、眉間の皺が・・
深くなっていた。・・・
「あんた! どこへ行ってたの!」・・・
妙子が、一番に、顔を出した。怒りと、安堵の色が、交差してい・・
た。・・・
「京都へ行ってた。それより、高志はどこじゃ…」・・・
源助は、妙子を押しのけ、奥へ進んだ。妙子の方を、源助は、見・・
ようとはしなかった。・・・
「ばか! 連絡ぐらいしたらどうなの!」・・・
妙子の怒りの声が、源助の背に届いた。源助は、それを無視した。・・・
「高志!」・・・
・・・
・・・
「あなたは、彼らのことを、障害者たちのことを、気の毒に思って・・
います。世間の皆さんがそうであるように、あなたも、彼らを理解・・
していない…」・・・
それは、昨日のことだった。源助は、京都にある障害児施設を訪・・
ねた。その時の、先生の話だ。先生は、若い女性だった。彼女は、・・
少し興奮気味に、源助に話した。・・・
「気の毒…。そうでしょう、彼らは、あなたたちから見れば、気の・・
毒にしか見えないかも知れません。可哀想に思うだけでしょう…」・・・
源助は戸惑った。若い女性が、自分に、怒りをぶつけている。怒・・
りを顕にしている。・・・
「そうでしょう。そう思っているだけでしょう…」・・・
源助には、答えられなかった。源助は、女先生から目を逸らした。・・
その目が、源助には熱すぎた。・・・
施設には、小さなグラウンドがあった。源助と女先生は、グラウ・・
ンドの端に置かれているベンチに腰掛けた。源助は、視線を、グラ・・
ウンドへ投げた。目の前で、女先生の言う彼らが、楽しそうにボー・・
ル遊びをしていた。寒い風など、まったく気にすることなく、思い・・
思いの格好で、ボールを追っていた。ルールは、彼ら自身だった。・・
ボールは、何の目的もなく、彼らの周りを行ったり来たりしていた。・・・
「そうなんでしょう…」・・・
意志の強そうな、切れ長の一重瞼だった。戻した源助の視界に、・・
それが、美しく見えた。・・・
ベンチに風が吹いた、彼女の細い指が、黒髪をかき上げた。・・・
「そのようですじゃ…」・・・
正直に答えた。源助は、首をすくめた。先生が笑った。その笑顔・・
も美しかった。・・・
「見て下さい。彼らの光を…。見えるでしょうか、彼らの光が…」・・・
彼女は、何かに取り憑かれたように、話を続けた。少し、頭がお・・
かしいのか…。時折、源助は思った。しかし、それは、美しい話・・
だった。源助は、その話に、引き込まれていった。・・・
「彼らは、私たちより輝いています。なぜなら、彼らは、それぞれ・・
に、美しい光を持っています。私たちが、争いや、闘いのなか、色・・
褪せていった美しい光を、彼らは、彼らなりに守り続けているので・・
す。私には、その光が見えます。私たちにない、素晴らしい光が見・・
えます。・・・
彼らは、障害を持っています。手足が、自由になりません。言葉・・
がつっかえ、スムーズに、思いを伝えることができません。彼らは、・・
遥かに、私たちより、この地球で生きて行くには不自由です。この・・
世界で暮らして行くには、非常なる困難です。彼らが選んだ道は、・・
彼らにとって、果てしなく険しい道だったのです。・・・
そうなのです。彼らは、困難を選んだのです。だから、気の毒な・・
どとは、言わないで下さい。可哀想だなんて、思わないで下さい。・・
彼らは、私たちよりも、強く生きています。私たちよりも、光り輝・・
いているのです…」・・・
熱い思いが、源助に届いていた。源助の胸も、熱くなっていた。・・・
「それでは、なぜ、彼らは、そんな困難を選んだのでしょう…」・・・
三度、源助は、その先生を美しいと思った。激しさのなかに、果・・
てしないほどの情が揺れていた。源助には、それが見えた。美しい・・
瞳の光に、それが揺れていた。・・・
「私たちは、何度か、この世に生まれ変わります。そう、転生を繰・・
り返すのです。なぜでしょう…。それは、私たちの成長なのです。・・
私たちは、その転生を繰り返し、果てしない成長を遂げていきます。・・
何度も、人間としての経験を積み、私たちの糧としていくのです。・・
そして、私たちは光になり、宇宙の彼方にいる私たちの仲間たちと、・・
再会をするのです。宇宙の仲間は、素晴らしく美しい光の姿で、私・・
たちを待っています。私たちが、光になって、光たちの美しい世界・・
へ到着する。仲間たちが、それを、今か、今か、と首を長くしてい・・
るのです…」・・・
源助は、目を閉じていた。彼女の言う、光が見えてきそうだった。・・
不思議な思いだった。・・・
「私たちは、元々光でした。そして、私たちは、その光へと戻って・・
いくのです。この地球という惑星で、遥かなる時を過ぎ、果てしな・・
い成長をした私たちは、光へと姿を変えていくのです。いや、光へ・・
と戻っていくのです…。・・・
しかし、その道は、限りなく険しいものとなってしまいました。・・
元々光だった私たちは、成長を繰り返すうちに、争いや、闘いさえ・・
も、吸収してしまいました。私たちの成長は、途轍もなくどん欲な・・
ものでした。狂気をも受け入れ、権力という悪魔の使いさえ、光は、・・
飲み込んでしまったのです。・・・
私たち光の成長の場である地球は、私たちが、自ら汚していきま・・
した。一部の権力者によるエゴによって、あるいは、それぞれの・・
個々の憎しみによって、私たちの地球は、闘いの場と化していきま・・
した。私たちは、長い歴史のなかで、それを、繰り返してきたので・・
す。世界中に、狂気が暴れました。・・・
闘いのなかに死んでいく。苦しさに傷ついていく。そして、悲し・・
みに朽ちていく。死んでいった者は、二度と、このような争いの星・・
へは、戻りたくない…。当然な思いです。この星は、狂気に犯され・・
てしまいました。・・・
しかし、私たちは、光へと戻る大きな目的があります。それには、・・
星から争いをなくし、人々の、苦しみ、悲しみを、遥か彼方へ葬り・・
去ることなのです。この星で暮らす私たちが、すべて平和に、そし・・
て、すべて同一の幸せを掴むことなのです。そうすると、私たちに、・・
光への世界から、光の方舟がやってくるのです。私たちを、光へと・・
再び導いてくれる、光の方舟が…」・・・
若い先生は、泣いているようだった。微かな嗚咽が、話のなかに・・
混じっていた。源助の熱さが、それを、受け止めていた。・・・
「話が、逸れてしまいました…。すみません…」・・・
風が、強くなっていた。グラウンドからの声が、それでも大きく・・
聞こえた。先生は続けた。・・・
「そうなのです…。彼らは、その道を選びました。障害という困難・・
を選んだのです。・・・
彼らは、私たちの光への道の、道標を探しているのです。彼らが、・・
困難を選んだのは、そのような理由があるのです。困難のなかの光・・
を、切望しているのです。困難のなかにこそ、輝きの光が大きくな・・
ります。彼らは、私たちすべての成長を望んでいます。彼らは、素・・
晴らしい有志です。美しく輝いているのです…。・・・
突拍子もない話だと、笑われるでしょう…。荒唐無稽と、思われ・・
るでしょう…。そして、私のことを、気が触れた女だと、気味悪く・・
思われるでしょう…。・・・
しかし、それでいいのです。私は、そのことを信じています…」・・・
彼女が、グラウンドに目を向けた。障害を持つ子供が走っている。・・
ボールを追い、それぞれに笑っている。カゼに似ていた。源助は、・・
思わず、そのなかにカゼを探していた。・・・
「あの子を見て下さい。無邪気に走っています。ボールを追って、・・
空に向かって笑っています。あれは、私の姉です。姉は、幼さを・・
持ったまま、大人になりました。もう、肉体も、知能も、成長する・・
ことはありません。姉は、あのまま老いていくのです。あのまま、・・
死の向こうへと、流されていくのです」・・・
先生の姉は、障害児だった。彼女の熱さの意味が、源助に少しだ・・
け分かった。・・・
その姉は、車椅子に乗りボールを追っていた。平べったい笑顔が、・・
源助に見えた。やはり、カゼに似ていた。・・・
「先程の話は、あの姉に知らされました。私は、姉の光と、意思を・・
通じさせることができます。私が、姉の知能を抜いた年に、姉の光・・
が、私のなかに入ったのです。私は、姉の光と、話すことができる・・
のです。美しい光です。純白なる光です。・・・
光の世界の話は、嘘ではないと思っています。姉の光は、私に、・・
私たちの光への道のステーションを見せてくれました。夢のように・・
リアルに、私に、その場所を感じさせてくれました。姉の光は、ど・・
こまでも輝いていました。そして、そのステーションも、私が見た・・
こともないような、限りない美しさで、光り輝いていました。・・・
私は、姉の光の思いを信じます。姉のような有志の光が、この世・・
に更に増えることを期待しています…。それを、毎夜、お祈りして・・
います…。・・・
私は、姉を誇りに思います。死の後は、姉と共に、光への道を進・・
んでいきたいと思っています。・・・
そうなのです…。彼らは、そのような困難を選びました。強い光・・
たちなのです。困難の未来に見えるものが、光への方舟なのです…。・・
彼らは、それを選んだのです…」・・・
話は、それで終わった。とうてい、源助の理解できるものではな・・
かった。しかし、源助に、何かが重く残った。熱い思いが、源助を、・・
激しく揺らした。・・・
・・・
・・・
「その先生は、障害児のことを、特別な目で見ないで欲しいと言っ・・
た。彼らは、同じ人間だ。少々知恵が劣っているだけで、彼らは、・・
我々と同じように歌い、踊り、感動する。彼らなりに、走り、飛び、・・
跳ねる。そう言った」・・・
源助は、やはり、熱くなっていた。胸に詰まった熱いものを、息・・
子に、すべてぶつけていた。・・・
「立派な先生じゃった。わしは、先生の言うことを信じた。いや、・・
理解していないが、信じたいと思った」・・・
源助は、お茶を啜った。あの先生の思いは、息子に伝えた。熱い・・
思いを伝えた。あとは、高志が、勝手に判断しろ…。源助は、少し・・
軽くなった。・・・
「カゼは、その施設のみんなからすれば、それは軽い方じゃ。あの・・
施設には、もっと重い子供たちが大勢いた。わしは、そんな子供た・・
ちを見て、気の毒に思った…」・・・
源助は続けた。それは、源助自身の思いだった。・・・
「そんなわしを、あの先生は叱咤した。わしは驚いた。そうじゃ、・・
心底驚いた」・・・
目が合った。息子は、少し笑っていた。源助も、それにつられた。・・・
「気の毒などと、思わないでほしい…。彼らは、彼らの人生を選ん・・
だ…。彼らは、辛さ苦しさを選んだ…。地上に生まれ変わるものは、・・
大変勇気のある者たちだそうだ。まして、障害を持つものに生まれ・・
るのは、生やさしい勇気ではないらしい。彼らは、素晴らしく立派・・
な存在だ。我々より、ずっと美しい存在だ…。先生は、そうわしに・・
言った」・・・
源助の思いが、語るに連れて、あの先生と重なっていく。それに、・・
源助は、違和感は感じなかった。不思議だった。源助の思いのなか・・
に、それを信じたい思いが、大きく位置を占め始めていた。・・・
「まあ、こんなところじゃ…」・・・
巧く話せたとは思わない。しかし、源助は、それで満足だった。・・・
・・・
・・・
どういう訳か、東村は、その話に興味を持った。東村のように、・・
現実に振り回されている企業人にとって、信じられるような話では・・
なかった。それでも、不思議なことに、その話に惹かれた。休暇を・・
もらって、牧歌的な気分に浸っていたせいかも知れない…。仕事を・・
忘れ、海の風を当たり過ぎたからなのかも知れない…。いや、そう・・
じゃないような気がする。その理由は、東村にも分からない。直感・・
的なものだった。・・・
東村の心は、未だに揺れていた。はたして、カゼを愛することが・・
できるのだろうか…。東村には、確たる自信はなかった。誠実な東・・
村の、確かな納得までには至らなかった。・・・
確かに、カゼは、障害児のなかでは、その症状は軽い方だろう。・・
親父の言ったように、もっと重い者たちが数多くいる。・・・
カゼはいい子だ。これから、大人へと歩み出す。幼さを抱えたま・・
ま、幼さを捨てることができずに、カゼは、大人へと歩む。それが、・・
どんなに残酷なことか…。どんなに悲しいことか…。東村は、正直・・
に思った。その残酷さ、悲しさを、目の前に見たくない。カゼが、・・
大人に交わろうとする。そして、大人から敬遠されていく。あるい・・
は、隔離されていく。それを、見たくない…。・・・
カゼの力に、なってやれそうにないのだ。息子の力になれない父・・
親…。まして、そこから、目を背けようとする父親…。東村に、自・・
分への嫌悪が膨れ上がっていた。・・・
そんな時に、この話だった。とても、信じられるものではない。・・
気が変だと言われても、おかしくない話だ。・・・
「親父、その人に会いたい…」・・・
しかし、東村は言った。もっと詳しく、その話を聞きたい…。そ・・
の女性の姉にも、会ってみたい…。そして、彼らの強さを知りたい・・
…。東村は、父の目を見て、そう言った。父は笑っていた。・・・
東村は、カゼのことを知ろうとした。東村は、東村なりに、カゼ・・
に対しての納得を求めた。自ら不幸を選んだ…。カゼを見ていて、・・
もしや、そうなのかとも思う。カゼのことを、もっと深く知らなけ・・
ればならない…。障害を持つ者たちのことを、もう少し、理解する・・
必要がある。カゼを愛する。それには、避けられないことなのだ。・・・
話は、デタラメでもよかった。しかし、東村にとって、その話は、・・
聞き流せるものではなかった。・・・
「光の方舟か…」・・・
なぜかその時、カゼを、愛せるような気がした。東村の脳裏に、・・
カゼの笑顔が、浮かんでは消えた。・・・
・・・
第五章・・・
・・・
(1)・・・
・・・
京都は雨だった。この季節の京都の雨は、特に冷たい。東村高志・・
と、東村源助の親子は、何も言わずに、窓越しに冷たい雨を見つめ・・
ていた。源助が、あの女先生を、施設の近くの喫茶店へ呼びだした・・
のだ。二人は、朝早くに竹野を出ていた。・・・
あれから、東村も、リンから、カゼの光のことを聞いた。これか・・
ら会う人がいなかったら、とても、最後までは聞けない内容の話・・
だった。東村は、何度も自分の耳を疑りながら、それを聞いた。・・・
二十分ほど待つと、彼女は現れた。女性にしては、上背のある方・・
だった。細いジーンズと、濃紺のスタジアムジャンバーに身を包み、・・
音を立てずに、店内へ入ってきた。長い髪を、無造作に後ろで束ね・・
ていた。銀色のピアスが、黒髪に隠れるように、暗い店内にキラキ・・
ラと光った。・・・
美人だと思った。東村は、その女性に、秋子にない美しさを感じ・・
た。・・・
切れ長の一重の目元が印象的だった。涼しげな目元は、少し鋭く・・
も映った。メリハリの強い作りだ。清楚という言葉が、東村の脳裏・・
に揺れた。真っ白なドレスが、似合いそうな女性だった。・・・
「お待たせして、済みません…」・・・
小さな声だった。少し高い声だった。・・・
「浅見薫と申します…」・・・
彼女は、二人の前に座った。慌てて出てきたのだろう、ジャン・・
バーの肩が、少し雨に濡れていた。・・・
「源助さん。お元気ですね…。竹野からは、電車で?」・・・
「そ、そうじゃ…。薫さん、す、すんませんなー。忙しいのに…」・・・
少し、源助があがっている。声が、やたらと大きい。薫の清楚な・・
雰囲気に飲まれているのが、年甲斐もなく…。東村は、少々おかし・・
くなった。・・・
「東村高志です。源助の息子です」・・・
東村の周りに、不思議な雰囲気が漂っていく。店内の暗さ、外の・・
雨曇り、壁から落ちてくるバロックのBGM、そして、今から異次・・
元なる話をしようとする浅見薫…。不思議を創り出すものが、東村・・
の周りに集まっていた。・・・
「お忙しいでしょうから、ぼくの方から、ぼくの思いを話します」・・・
東村が切り出した。小さく薫が頷いた。目は伏せていた。・・・
「カゼという名です…」・・・
東村は話した。なぜか、正直になれた。秋子への愛…。カゼへの・・
揺れる思い…。そして、自分に対する嫌悪感…。すべて、ありのま・・
まに話した。話しながら、徐々に、心が和んでいった。それも、不・・
思議に重なった。東村は、話しながら、自分の納得を探していた。・・
そして、目を伏せて話を聞き入る薫を、東村は、やはり美しいと・・
思っていた。・・・
薫の美しさは、内面からのものだ。何かの輝きを、薫は、内面に・・
強く抱いている。我々とは違うものを、薫という女性は持っている。・・
我々の知らない空気に包まれている。我々の知らない風を受けてい・・
る。東村は、そんな風に思った。感じたことのない、女性の美しさ・・
だった。・・・
「ぼくは、カゼを愛したい。あなたに、こんな話をして、変だと思・・
われるでしょうが…」・・・
東村は、一気に話した。自分のなかのものを、短い時間に、薫へ・・
と流した。・・・
この時、始めて、薫が口を挟んだ。・・・
「いいえ、そんなことございませんわ。私だって、源助さんに、・・
とっても、変なお話をしてしまいました。ホホ…」・・・
ホホ…。なぜか、薫のその笑いが、東村の心に染みた。・・・
「ご遠慮なさらないで下さいよ。ホホ…」・・・
小さな静寂があった。薫は、少し微笑んでいるようだった。伏し・・
た瞳が、微かに揺れているのが、東村には見えた。・・・
「カゼくん…。何と、いいお名前だこと…」・・・
薫の顔が上がった。大きな瞳だった。薫の注文したレモンティー・・
と、同じ色だった。・・・
「カゼくんの光、どんな色しているのかしら…」・・・
薫の瞳は、微かに揺れながら輝いていた。・・・
「見てみたい、カゼくん。ホホ…。」・・・
レモンティーを、薫が、一口飲んだ。瞳と同じ色の液体が、グラ・・
ス越しに見えた。・・・
「親父に話したことを、もう一度、話してくれませんか…」・・・
不思議さに、東村は、どんどん引き込まれていた。それを、不快・・
とは思わない。不思議だった。・・・
「ああ、そうじゃった。薫さん。頼みますわ!」・・・
源助も、薫の雰囲気に浮かれている。息子の後押しにしては、や・・
はり、大きすぎる声だった。・・・
「いいですよ…」・・・
話し始める前に、薫は、何秒が窓の外を見た。その横顔を、東村・・
は眺め続けた。・・・
・・・
・・・
カゼとリンは、今日も、トランプに夢中だった。竹野は、三日続・・
きの雨。春には、まだ少し時が掛かるようだった。冷たい雨が、汐・・
風に根気よく絡んでいく。風が、その冷たさだけを運んでいた。・・・
カゼとリンの笑い声が、秋子の側で聞こえていた。カゼは、あれ・・
から、あの夢のことは思い出さなかった。いつものカゼに、素早く・・
戻っていた。・・・
秋子には、することがなかった。秋子は、カゼとリンのトランプ・・
遊びから、はみ出されてしまっていた。大人が混じると、おもしろ・・
くないそうだ。リンが、そう言った。仕方なく、秋子は、それを側・・
で見ているだけたった。秋子は、雨の音を背中に聞きながら、退屈・・
な午後を、ぼんやりと静けさに包まれていた。・・・
昨夜、東村が、珍しく深く飲んだ。それにつられ、秋子も、深夜・・
まで飲んだ。酒に饒舌になった東村から、カゼに対する本心を聞い・・
た。もう少し、時間が欲しい…。そう言った。秋子は、それで満足・・
だった。・・・
東村は、何かを吹っ切っていたようだった。カゼを愛したい…。・・
何度も、そう言った。酒が東村をそうしたのか、東村は、秋子に対・・
して胸を開いていた。・・・
そんな思いに、睡魔が絡んでくる。心地よい気怠さが、秋子を・・
襲った。昨日と同じだった。秋子は、睡魔に引きずられていった。・・
学生時代の、退屈だった国語の授業を思いだしていた。・・・
うとうとと目を閉じた。瞳の裏に、何かが見えた。夢だろうか…。・・
秋子の微睡みの前に、影が浮かんで揺れた。一瞬だった。瞳の裏に、・・
どこかで見た女が見えた。・・・
その女は、船に乗っていた。秋子に、手招きをしていた。・・・
「ホホ…」・・・
そのように笑った。鳥のような声だった。透き通っていた。秋子・・
は、その女の手を掴んだ。驚くほど、温かい手だった。・・・
「ホホ…」・・・
その声は二度した。秋子は、女の船に乗った。波飛沫が、秋子の・・
頬に掛かった。蝉が、激しく鳴いていた。・・・
「が、あ、ざ、ん…」・・・
カゼが呼んでいる。秋子は、目を開けた。微睡みが乱れた。・・・
「が、あ、ざ、ん…。ぼ、ぐ、がっ、だ、よ…」・・・
目の前に、カゼの、のっぺらとした顔があった。秋子は、素早く・・
我に帰った。・・・
「カゼ…」・・・
ぼく、勝ったよ…、カゼが喜んでいた。いつものように、果てし・・
なく無邪気に笑っていた。・・・
・・・
・・・
-覚えているだろう…。・・・
光は、再び、語りを始めていた。光の思いは、まだ、カゼには届・・
いていなかった。それでも、光は、慌てたりしなかった。・・・
-それは、海の近くだった。波飛沫が、ぼくの頬を濡らしてた。蝉・・
が、相変わらずうるさかった。・・・
ぼくは、立ち上がった。泥が、ぼくの顔中を、黒く染めていた。・・
身体のあちこちが痛く、巧く立ち上がれなかった。・・・
「ホホ…」・・・
誰かが、ぼくに、微笑んでた。鳥のような声だったんだ。喧しい・・
蝉の声に、その声は、異常なほど透き通っていたんだ。・・・
ぼくは、その方を見た。小さな舟が、波打ち際にあった。ぼくは・・
走った。その舟に走った。・・・
舟から、誰かが手招きしていた。ぼくを、助けようとしていたん・・
だよ。ぼくのなかに、少しの希望が芽生えたよ。同時に、生への執・・
着が、ぼくを強く襲ったんだ。・・・
必死に走った。痛みも忘れていた。ぼくは走った。あの舟にさえ、・・
辿り着けば…。・・・
「ホホ…」・・・
声は二度した。やはり、透き通っていた。・・・
敵兵は、追ってこなかった。舟から漏れる声の主の微笑みで、そ・・
れが分かった。ぼくは助かった。そう思った。少し、身体から力が・・
抜けていった。・・・
その舟には、女が、二人乗っていた。ぼくの仲間たちだった。ぼ・・
くは、その一人の手を握った。驚くくらい、温かい手だったよ。・・・
ぼくは、舟に乗った。波は、それほど高くなかった。舟は岸を離・・
れた。岸に、敵兵は見えなかった。・・・
・・・
・・・
薫の瞳が、窓の外から、テーブルに戻った。薫の細い指に絡まる、・・
細いストローに戻った。・・・
「源助さんにも、お話ししましたが、私の姉は、ダウン症です」・・・
ダウン症…。秋子に聞いて、始めて知った言葉だ。東村は、あの・・
夜、始めて会った時のカゼの姿を思い出していた。・・・
「モザイク型です。施設にいる仲間たちのなかでは、軽い方です」・・・
カゼと、同じ程度なのか…。東村の思いのなかで、カゼが、不器・・
用に走った。あの夜の走りだった。低すぎるガードレールに、躓き・・
そうになりながら、カゼが走った。・・・
「私は、姉を誇りに思っています。きっと、カゼくんも、そうで・・
しょうが、私の姉は、美しい光を心に抱いています。私たちが、色・・
褪せさせてしまった透明な光を、姉は、心の奥にいつも輝かせてい・・
ます。美しい光です」・・・
伏していた薫の目が、心持ち上がっていた。薫は、少し間を置い・・
た。・・・
「若菜といいます。浅見若菜…。私の姉は、五月に生まれました」・・・
それならば、薫は、春薫る三月だろうか…。東村に、ふと、そん・・
な思いが浮かんだ。・・・
「幼い頃から、私は、姉が好きでした。いつも、姉の側にいました。・・
私は、姉がダウン症などということは知りませんでした。そんな、・・
言葉も知りませんでした」・・・
薫の口調が、徐々に、スムーズになっていく。薫の表情に、うっ・・
すらと、明かりが射していく。・・・
「それを知ったのは、姉が、中学に入る頃でした。私は、まだ、小・・
学校二年生でした」・・・
知らぬ間に、薫の瞳が、東村と源助の中央に揺れていた。少し首・・
を傾げ、薫は、その頃を思い出しているようだった。・・・
「姉は、特殊学校へ行くことになりました。幸い、それは、小学校・・
同様、自宅から、そう遠くないところにありました。その点は、運・・
が良かったのです。私たちは、離れずにすみました。普通の中学校・・
は、姉には無理だったのです。私は、なぜだか分からず、何度も泣・・
いて、親を困らせていたようです。・・・
それでも、姉は、変わらずに私に優しかったです。私も、少し、・・
姉の遅れを感じ出してはいましたが、姉がいつも側にいてくれれば、・・
私は、それでよかったのです。・・・
姉の光が見えたのは、私が、四年生になった頃でしょうか…。私・・
が、姉の背を抜かした頃でした。『カオルちゃん。ワカナの光、見・・
える…』・・・
姉は、その時、そう言いました。私は、姉を見ました。それは、・・
瞳の奥に輝いていました。真っ白く、どこまでも澄んでいる光でし・・
た。私は言いました。おねえちゃん、きれい…。姉は、それは、そ・・
れは、嬉しそうな顔をしました。・・・
その日から、私は、姉のことを可哀想に思うことを止めました。・・
幼心に、姉の素晴らしさが見えたのです。姉は、私たちより美しい。・・
私たちより光っている。子供だった私は、そんなことを、無条件で・・
思いました。それほど、姉の光は美しいものでした。今でも、その・・
光は、姉のなかに見えます。純白に、透明に、姉を包んでいます」・・・
薫の瞳が、少し、潤んでいるように見えた。東村は、その奥に揺・・
れる光を見ていた。・・・
「そのうちに、私たち姉妹は、言葉でなく、お互いの意志が通じ合・・
うようになっていきました。姉は、言葉が不自由です。自分の思い・・
を、巧く表現できません。不自由な言葉でのコミュニケーションを、・・
姉は、疎ましく思ったのでしょう。私に対してだけは、言葉を越え・・
たコンタクトを取るようになりました。私なら、それを、受け取っ・・
てくれると思ったのでしょう。・・・
姉が、もう一人いるようでした。私たちは、本当の意味での、心・・
の通じ合いを経験しました。そこには、普段の姉とは異なる、別な・・
姉がいました。素晴らしい愛に満ち満ちた、姉がいました。優しく・・
て思量深い、姉がいました。天使のように美しい、姉がいました。・・・
それが、姉の光です。姉の光は、姉のなかにしかありません。そ・・
れが、見える者は限られています。本当に、心を通じ合った者しか、・・
それは、見ることが叶いません。その者の存在の深くで結び合って・・
いる者同士しか、それを、感じることはできないのです。姉の光に、・・
私は、そのことを教わりました。人々は、心の奥深くで結びついて・・
いくものなのです。姉の光に、そう教えられました。・・・
私たちは、深く結び会っています。信じていただけないでしょう・・
が、いや、変に思われるでしょうが、私たちは、愛し合っています。・・
私は、姉を誇りに思っています…」・・・
ほんの少しの羞恥の表情が、薫の面に揺れている。薫は、しばら・・
く黙った。再び、目を伏せ、高ぶる気持ちを抑えている。・・・
「素敵な、ねえさんじゃ…」・・・
思わず源助が、そう漏らした。薫が、くすっと笑った。・・・
「お恥ずかしいです。ホホ…」・・・
源助も、つられ頬を弛ませた。源助の瞳も潤んでいた。・・・
「ホホ…。姉が、そう笑うのです。ホホ…。私も、いつの間にか、・・
つられちゃって…」・・・
小さな笑顔だ…。東村はそう思った。はにかみの笑みだった。・・・
「続けて下さい、薫さん」・・・
東村も、小さな笑みを添えて言った。しかし、その言葉に、薫の・・
小さな笑みが消えた。東村は、消えた笑みに、少し悪い気がした。・・・
「はい」・・・
薫は続けた。今度は、東村を、真っ直ぐに見ていた。・・・
・・・
・・・
「姉の光が、私のなかに入りました。いや、私が、姉の光のなかに・・
入ったのかも知れません…」・・・
薫の高ぶる気持ちは、抑えが効かなくなっていた。どうしても、・・
話に力が入ってしまう。やはり、話を信じて欲しいという思いが、・・
知らぬ間に、口調に滑り込んでいた。薫は、少し間を取った。そん・・
な思いを、知られたくなかった。・・・
氷の溶けたレモンティーを飲んだ。グラスを降ろした時、やけに・・
大きく音がした。・・・
信じてもらえるかも知れない…。薫のなかに、そんな思いが、揺・・
れ始めていた。溶けていく氷を眺めながら、薫は、やはり、高ぶり・・
を感じていた。・・・
誰にでも、こんな話をしていた訳じゃない。いや、こんな話を、・・
聞いてくれる人はいなかった。信じろと言う方が、おかしいのかも・・
知れない。それは、薫にも分かっていることだった。・・・
薫は、姉と共に生きてきた。父親は、早く死に、今は、障害を持・・
つ姉と、老いた母との暮らしだった。薫に、掛かる負担は大きなも・・
のだった。・・・
恋人もいない。恋をしたこともない。友達も少ない。話し合える・・
人もいない。他人からの言葉は、姉への同情や哀れみと、薫に対し・・
ての負担の重さを慰めるものばかりだった。しかし、薫は、それで・・
いいと思っていた。姉が、側にいてくれれば、それで満足だった。・・・
二日前だった。源助が来た。源助は、グラウンドのベンチで、姉・・
たちが遊ぶのを見ていた。その時、薫は、人恋しさに源助に寄った。・・
源助の、姉たちを見る目が、どことなく優しかった。・・・
源助は、いつまでも、姉たちの遊びを見ていた。そんな人は、薫・・
が、この施設に働きだしてから始めてのことだった。ふらふらと近・・
づいた。源助は、優しく微笑んでいた。・・・
「楽しそうじゃ…」・・・
笑顔が自然だった。姉たちへの哀れみの思いが、その時、源助に・・
は見えなかった。・・・
「そうですね…」・・・
やはり、人恋しかった。薫は、ベンチに腰掛けた。源助は、それ・・
でも、視線をグラウンドへ向けていた。・・・
「仲間に入りますか…」・・・
冗談のつもりだった。なぜか、人をからかってみたくなった。薫・・
のなかのストレスが、悪戯心に揺れていた。・・・
「いいのかい…」・・・
驚いたことに、源助が、立ち上がった。優しい笑みは、そのまま・・
だった。・・・
それから、薫は、源助と遊んだ。自分でも、驚くほどはしゃいだ。・・
ボールを追い、姉を追い、仲間たちを追った。楽しかった。忘れか・・
けていた楽しさだった。・・・
走りながら思った。この人に、聞いてもらおう…。信じてもらわ・・
なくたっていい…。とにかく、自分のなかに詰まっているものを、・・
吐き出してしまおう…。そう思うと、軽くなった。薫は、軽さに・・
走った。仲間たちへ飛んだ。ボールを、遠くへ蹴った。・・・
源助は、黙って聞いてくれた。この話を、黙って聞いてくれた人・・
は、源助が始めてだった。・・・
そして、今、同じように、黙って聞いてくれている人が目の前に・・
いる。薫は、どうしても、高ぶる気持ちを抑えきれない。薫は続け・・
た。間が、少し長くなっていた。・・・
「私と姉は、光のなかに入りました。何か、夢のなかにいるようで・・
した。でも、意識はしっかりしていました。眠りのなかではありま・・
せんでした…」・・・
また、少し間を空けた。やはり、高ぶりを、知られたくない。・・・
「姉は、言いました。いや、言葉でなく、私に伝えました。『ここ・・
が、光への道へ繋がるオアシス、光のステーションよ…』姉は、私・・
に、そう伝えました。・・・
そこは、風が薫っていました。春の香りです。私は、その風に揺・・
れていました。・・・
姉が、再び伝えました。『この香りは、ワカナの薫り…。ホホ・・
…』嬉しさに、全身が震えました。私は、飛び跳ねました。姉の光・・
と、一緒に踊りました。姉の風に、蝶々のように軽くなりました・・
…」・・・
聞いてくれている。二人とも、真剣に、耳を傾けてくれている。・・
薫の高ぶりのなかに、不思議な安らぎが交わってくる。・・・
「そこには、様々な光が、思い思いに佇んでいました。真っ赤に揺・・
れるもの…。帯状に転がるもの…。尖った立方体に飛び跳ねるもの・・
…。動物の姿で走るもの…。鳥のように翼を拡げるもの…。それぞ・・
れが、思うように、その空間を楽しんでいました。・・・
姉は、それらの光たちを、私たちの仲間だと言いました。姉と同・・
じように、苦悩を選んで、地上へ降り立った者だと言いました。困・・
難の向こう側の光を、目指す者だと言いました。・・・
私は、陽炎になっていました。自分の姿が透き通り、全身が、ゆ・・
らゆらと揺れているだけでした。透明人間になったようでした。た・・
だ、仄かな炎のように、揺れていました。・・・
何度となく、そのオアシスに、姉につれられました。そのうちに、・・
姉の仲間たちも、私を認め、私の陽炎の身体を、悪戯にすり抜けた・・
り、抱きついたりして、私に近づいてくれるようになりました。嬉・・
しかったです。姉と、更に、深く結びついたように思いました。・・・
オアシスは、暖かいところでした。そして、光たちの愛が、透き・・
通るように感じられるところでした。私は、喜びを、幸せを、ずっ・・
と噛みしめていました」・・・
薫は、高ぶりを抑える努力を放棄した。自らの話に酔う自分を、・・
そのままに、目の前の二人に表現していった。・・・
「姉の仲間たちの光は、それぞれに言いました。私たちは、苦悩を・・
選んだ…。困難を選んだ…。なぜ? 私は、問い返しました。姉た・・
ち光たちに、疑問を投げつけました」・・・
二人が、同時に、閉じていた目を開けた。よく似た瞳が、薫に届・・
いた。・・・
「仲間たちは、答えをくれました。そして、姉も、そう言っていま・・
した。それは、私たちすべてに関わりのあることなのです」・・・
勿体ぶった訳じゃない。薫に、激しい感情の揺れが押し寄せてい・・
た。薫は、間を空けた。声が、震えそうだった。・・・
「光の方舟…」・・・
目の前の一人が、そうこぼした。薫は、驚きに、ひとつ頷いた。・・・
「そうです。光の方舟です」・・・
薫は、しっかりとした声で言った。目の前の一人がこぼした言葉・・
は、薫の思いそのものだった。・・・
・・・
・・・
(2)・・・
・・・
カゼの夢…。そして、自分の微睡みでのなかに現れた、あの女…。・・
女の手の温かさ…。自分の乗った舟…。なぜか、どうしようもなく・・
気になった。ホホ…。鳥のような声…。透き通った声…。秋子は、・・
降り続ける雨を見ながら、その思いに入っていた。・・・
知っている…。なぜか、そう感じた。不思議でたまらなかった。・・
前に一度、夢で見ているのかも知れない…。あるいは、どこかの映・・
画館で見たのだろうか…。・・・
しかし、それは、知らなければいけないことのように思えた。カ・・
ゼの変化に関わりのあることだ…。秋子は、そう思った。自らのな・・
かの、遠い幻影を追った。・・・
カゼの夢と、自らが追う幻影が、秋子に重なっていく。どちらも、・・
リアルなのだ。カゼは言った。兵隊さんに、殺される。カゼは、夢・・
のなかで戦場にいた。戦いのなか、敵兵に囲まれていた。・・・
それが、あの女と、どう重なるのかは、秋子には分からなかった。・・
ただ、同じように、秋子も、あの女と共に、戦場にいたように思っ・・
た。幻影にしては、リアルすぎるような気がした。殺気すら、感じ・・
られたように思う。悲しみが、その場に漂っていたように思う。・・・
前世の記憶…。その言葉が、秋子を、揺らし始めた。秋子は、そ・・
れを否定した。・・・
デジャヴュ…。既視感…。確かに、その女を知っている。女と・・
乗った舟にも、強いデジャヴュを感じる。夢よ…。いつか夢で見た・・
のよ…。それが、一番現実的な回答であろう。しかし、秋子は、そ・・
う思えなかった。強すぎるデジャヴュが、秋子を苦しめていた。・・・
バカな、前世の記憶…。秋子は、窓の外から目を切った。トラン・・
プのカゼに振り返った。・・・
カゼの場合はどうだろう…。それは、ただの夢と思えばよいのだ・・
ろうか…。考え過ぎなんだ…。秋子は、首を大きく振った。頭のな・・
かにある、もやもやしたものを、振り払いたかった。・・・
しかし、秋子も見ていた。カゼが夢に覚めた時、秋子は、めまい・・
に襲われた。その時に見ている。敵兵が四人いた。殺気が迸ってい・・
た。兵の一人が、カゼに、高く剣を上げた。確かに見ている。それ・・
にも、強くデジャヴュを感じていた。敵の上げた剣が、太陽の光に、・・
白い閃光を放っていた。それすらも、既視感を覚えてしまっていた。・・・
もう一度、大きく頭を振った。頭のもやもやが、飛んでいかない。・・
秋子は、炬燵に座り直した。カゼとリンが、ちらっと、秋子の方を・・
見た。・・・
「あっ!」・・・
小さな声になってしまった。秋子の脳裏に、ひとつの閃きが走っ・・
た。・・・
蝉だ…。めまいの時、そして、微睡みの時、どちらも、蝉が鳴い・・
ていた。うるさいほどの、蝉の声を感じた。秋子の背に、微かな寒・・
さが走った。炬燵の布団を、膝の上に高く掛けた。・・・
二つの場面が繋がる。こんな不思議なことってあるのだろうか…。・・
しかし、あの蝉の声は、どちらも同じだった。それが、秋子には分・・
かる。・・・
前世の記憶…。その思いが、果てしなく拡がっていく。秋子は、・・
目を閉じた。蝉の声が、どこからか聞こえてくるような気になった。・・
秋子の意識を、不安がかき乱していた。理由のない不安だった。・・・
「が、あ、ざ、ん…」・・・
トランプに飽きたのか、カゼが、退屈そうに、秋子のセーターを・・
引っ張った。・・・
「おばさん、た、い、く、つー!」・・・
トランプは、リンの勝ちだったようだ。リンが、Vサインを高々・・
に上げていた。・・・
「ドライブ行こうか!」・・・
秋子は、重い不安から立ち上がった。雨の日といえど、家のなか・・
にずっといれば、やっぱり誰だって気が滅入る。秋子は、理由のな・・
い不安を無理に振り払った。・・・
「ヴ、オー! ど、だ、い、ぶ、だー!」・・・
カゼが、叫んで飛び上がった。秋子は、笑顔を作った。それは、・・
少し余裕のない作り笑顔になってしまっていた。・・・
「さん、せーい! リンリンリン!」・・・
リンも飛び上がる。秋子の背に飛びついた。・・・
「リンちゃん…。今日、おじいちゃん、いなかったね。おかあさん・・
に、巧く言って、おじいちゃんの車、借りてくれない…」・・・
カゼは、既に、部屋を出ていった後だった。不規則な足音が、大・・
きく廊下に音を立てていた。・・・
「よしきた、リンリンリン!」・・・
リンも、カゼに続いた。廊下の足音が、二つに、入り乱れた。・・・
「ど、だ、い、ぶ、だ、じん、じん、じん!」・・・
カゼの大声が、部屋の秋子にまで届いた。秋子は思った。このよ・・
うな時が、永遠に続けばいいと思った。いや、それを祈った。秋子・・
の不安は、微かな音を立て続けていた。・・・
・・・
・・・
-海の上は静かだった。今まで戦場にいたことが信じられないくら・・
い、海は静かだったよ。・・・
ぼくたちの舟は、小さな舟だった。その小舟に、三人乗っていた。・・
ぼくの家族だった。ぼくたちは、救われた生命を、みんなで喜んだ・・
んよ。・・・
でも、生きていても、どうなるものでもなかった。遠くに見える・・
岸には、火の手が上がり、空に掛かる夕日に絡もうとしていた。戦・・
いは、絶えることはない…。人々は、永遠に殺し合いを続ける…。・・
舟の上から見た火の手が、そのことを物語っていたよ。人々の悲し・・
みの声が、ぼくの乗る舟にまで、聞こえて来そうだったよ。海原に・・
まで、悲しみの歌が、流れてきそうだったよ。・・・
誰も、舟を漕いだりしなかった。戦いからの虚脱感が、ぼくたち・・
の舟を包み込んでしまっていた。舟は、波任せだった。そして、ぼ・・
くらも、波任せだった。・・・
疲れはてていたんだ。ぼくは眠った。波に揺られながら、星に照・・
らされながら、ぼくは眠ったんだ。・・・
夜明けに、目が覚めた。みんなも起きていた。・・・
「このまま、流され続けよう…」・・・
誰かが、そう言った。そして、みんな頷いた。・・・
風と、波は、沖へ、沖へと、ぼくたちの舟を運んでいった。もう、・・
戦いの火の手は見えなかった。もちろん、岸も見えなかったよ。・・・
故郷に戻ったようだったよ。海の上には、争いはなかったから。・・
殺気を含んだ土煙も、血の色をした泥の匂いも、兵士たちの恐怖の・・
叫びもなかった。ぼくたちの故郷も、そうだった。争いのなどない、・・
戦いなどない、平和で静かな故郷だった。・・・
故郷へ帰りたかった。舟の上の者は、みんな、その思いだったん・・
だ。・・・
その内に、ぼくたちは衰弱していった。当然だよね。戦いの極度・・
の疲労と、照りつける激しいほどの太陽。ぼくたちは、舟の上で、・・
一切、物を口にしていなかった。そう、生きていく希望さえ失って・・
いたんだ。・・・
このまま流されれば、故郷へと流れ着く。誰も言わなかったが、・・
みんな、そう思っていた。激しすぎる太陽だったけど、ぼくたちは、・・
その太陽を見上げていた。海の上では、唯一、故郷を思い出すこと・・
のできるものだったからね…。・・・
二日目の夜だったかな…、海が、急に時化りだした。舟が揺れた。・・
大きな波が、何度も舟を襲った。・・・
ぼくたちの小舟では、波を、跳ね返すことなどできない。ぼくた・・
ちは、ただ、星を見上げていた。・・・
脅威的な粘りだったよ…。おんぼろ舟は、ぼくたちを乗せて、懸・・
命に波と戦ったんだ。身を軋まして、波に打ち向かったんだ。・・・
ぼくたちは、何もしなかった。そんな時にも、舟任せだった。気・・
力がなかったよ。今、思うと、少し悔いが残っているけど…。もう・・
少し、あの舟に、力を貸してやればよかった…。・・・
どちらにしても、行き着くところは同じだったよ…。星の帰る頃・・
には、舟は、ぼくたちを乗せたまま沈んでいった。時化は激しくな・・
り、留まるところがないように暴れまくった。・・・
死を覚悟した…、というよりも、これで、永遠に、争いから逃れ・・
られると思った。死ぬことは恐かったが、そのことを思うと、少し・・
だけ嬉しくなった。・・・
ぼくたち家族は、お互いに、手を握り合った。一緒に故郷へ帰ろ・・
う…。みんなが、そう言った。その時の、お互いの手は、火のよう・・
に熱かったよ…。・・・
ぼくたちは、結ばれたと思った。夜明けの光に、それぞれが光っ・・
ていたんだ。・・・
覚えているだろう…。・・・
舟は、ぼくたちより離れた。そして、ぼくたちは、手を強く強く・・
握ったまま、波に飲み込まれていった。・・・
それから先のことは、少し話しただろう…。ぼくは、ぼくのなか・・
の、ぼくの宇宙を漂った。ぼくの太陽を見つけたんだ。・・・
覚えているだろ…。覚えているはずだね…。・・・
・・・
・・・
-どらいぶだ。どらいぶだ…。かあさんと、りんと、どらいぶだ…。・・・
また、だれかが、よんでいる。あいつだ、あのひかりだ。まっし・・
ろいひかりだ…。・・・
おぼえているだろう…。覚えているはずだね…。わからない。な・・
んのことだ…。・・・
まあ、いいや、どらいぶだ…。かあさんと、どらいぶだ…。・・・
・・・
・・・
「私たちは光でした。そして、私たちは、その光へと戻っていくの・・
です。宇宙の彼方に、私たちの仲間が待っています…」・・・
薫は興奮していた。高ぶりを、目の前の二人に見せていた。少し・・
早口に、薫は続けた。・・・
「私たちは、光の姿で、果てしない成長を掴んでいきます。成長こ・・
そ、私たちの光への道です。私たちの存在の理由です…」・・・
外の雨は、降り続いていた。午後を向かえようとしている京都の・・
空は、雨の止むことも拒むように暗かった。薫の視界の隅に、その・・
暗さが忍び寄る。・・・
「光への道の道標を、姉たちは探しています。そして、光の方舟を・・
求めています。・・・
姉たちは、人間の苦悩をも、それぞれの愛の光に変える術を知っ・・
ています。姉たちの光は、苦しみ、悲しみを、吸収し、そのなかか・・
ら、光のエネルギーを抽出しています」・・・
薫の思いは、止まらなくなっていた。自分の思いを、すべて吐き・・
出してしまいたかった。更に、口調が早くなっていく。・・・
「それが、愛なのです。お互いを、深く理解し合う心です。・・・
姉たちは、愛の力で、表面的な苦しみ、悲しみを、乗り越えてい・・
きます。姉たちは、その力の光を持っています。私たちが、争いや、・・
憎しみ合いで、失ってしまった光です。姉たちは、苦しみを乗り越・・
えて、私たちの本当の存在の姿である、心の深い部分の光で、苦し・・
み悲しみを消し去っていきます。それが、愛の光です。・・・
だから、姉たちは、障害を持つことを選びました。闇のなかに光・・
る光です。困難という闇を越えて、その光は、始めて見えてくるの・・
です。姉たちは、そう理解しています。今の世界に、本当の愛の光・・
は見えなくなりました。姉たちは、愛の光を強く求めたのです。た・・
とえ、その道が険しくとも…。・・・
辛いことです。その結果、姉は、障害を持ちました。しかし、姉・・
は、そのことにめげたりしていません。自らの足下を、しっかりと・・
見つめています。強い目的を持っています。心の奥の奥の光を、大・・
切に育てているのです。・・・
姉が、障害を選んだ理由はそれです。姉たちを、気の毒になど、・・
思わないで下さい。姉たちは、光の方舟を、漕ぎだそうとしている・・
のです…」・・・
目の前の二人が、理解への努力をしている。薫には、そんな風に・・
見える。二人とも、時折、首を上下させている。薫の淡い期待が、・・
膨れていく。・・・
「愛の力です。姉たちは、信じられないほど、自らを愛しています。・・
私たちとは、比べものになりません。光の心で、激しいほどに、自・・
らを愛しているのです。・・・
愛は、大きく強いものです。それは、どんなものでも砕いていき・・
ます。苦しみ、悲しみ、そして、恐怖、光の心から発する愛は、何・・
をも、恐れることはありません。それ以上に力強いものは、私たち・・
の世界には存在しません。たとえ、神がおわそうとも、その偉大さ・・
には、神が、その場にひれ伏すことでしょう…」・・・
少し、話が大きくなりすぎた。薫は頬を赤くした。しかし、薫は・・
懸命だった。姉が、自分に伝えてくれたことを、少しでも、正確に・・
伝えたかった。・・・
「愛は、どんな障害をも、乗り越えていくのです。自らを、心の底・・
から愛せるものは、他人であろうと誰だって愛せます。光の心から・・
の愛は、何も拒みはしません。大きく深い海のような愛です。なぜ・・
ならば、愛は、私たちが、すべて家族だということを知っているか・・
らです。私たちは、すべてが愛し合わないといけないのです。・・・
すべてを、理解し合うのです。いや、理解を超えて、愛し合うの・・
です。姉が言いました。理解を超えた愛は、何をも貫く…。それこ・・
そが、光への唯一の道だと…」・・・
薫は、肩を落とした。思いが、正確に話せたと思った。視界の隅・・
の暗い窓へ、目を向けた。雨が強くなっていた。・・・
「分かっていただけたでしょうか…。姉たち障害者は、自分たちの・・
選んだ道を歩いているのです。姉たちの苦しさは、表面では辛いこ・・
とです。しかし、そのことが、姉たちの成長なのです。姉たちは、・・
それを、自ら選んだのです。苦しさ、悲しさなどは、光の心にある・・
美しい愛が、それらを、溶かしていくのです…」・・・
瞳に、爽やかな潤いが浮かんだ。薫は、瞳を、二人に戻した。・・・
「すべて、姉から聞いたことです。しかし、私は信じています。そ・・
して、私は、姉を深く愛し、深く尊敬しています…」・・・
これ以上、話すことはなかった。すべて、話した。薫は微笑んだ。・・
柔らかい思いが、薫の全身をゆるりと舐めていた。・・・
「姉に、お会いになりますか…」・・・
薫は、微笑みを大きくした。二人が、それを、求めているように・・
思った。・・・
・・・
・・・
-ぼくは、ぼくの過去の星から離れた。ぼくの太陽が、ぼくを呼ん・・
でいたんだ。・・・
少し、疲れていた。ぼくは眠った。不安はなかった。ぼくの太陽・・
は、変わらずに暖かかった。ぼくの太陽のなかで、静かな時を貪っ・・
た。・・・
目覚めが、信じられないほど爽やかだったよ。すべて光に包まれ・・
ていた。ぼくは踊った。ぼくの宇宙を、どこまでも駆けた。未来が・・
見えてきそうだった。光の世界への道が、見えてきそうだった。・・・
かあさんがいた。姉さんがいた。覚えているだろう…。光に包ま・・
れて、三人で踊ったよ…。争いのない空間を、どこまでも駆けたよ・・
…。覚えているだろう…。・・・
ぼくの宇宙と、かあさんの宇宙、そして、姉さんの宇宙が重なっ・・
たんだ。太陽が三つ見えたよ。・・・
永遠の時に思えた。ぼくたちは、長く結びついたままだった。幸・・
せだった。暖かい愛を感じ続けた。三つの太陽が、ぼくたちを、区・・
別することなく照らした。それぞれの太陽が、それぞれの宇宙へ、・・
限りない愛を送り続けた。ぼくたちの宇宙は、徐々に、ひとつにな・・
ろうとしていた。光の舟になろうとしていた。純白な帆が、ぼくた・・
ちの三つの宇宙に見えていた。・・・
ひとつになって、未来へ向かう。ぼくたちは、当然、そう思って・・
いた。光の方舟…。ぼくたちの姿を想像した。純白な帆の、光の方・・
舟…。ぼくたちは、それを、漕ぎ出していくものだと思っていた。・・・
そんな舟、ぼくたちはを真似たんだ。ぼくたちは、光の舟になっ・・
た。一瞬、真っ赤な光に包まれた。ぼくたちの太陽が、炎のように、・・
一瞬燃え上がったよ。・・・
三つの太陽を胸の内に、ぼくたちは進んだ。遠くに光が見えてい・・
た。ぼくたちのような光が、数多く見えた。・・・
その空間に入ったんだ。光たちは、ぼくたちを、迎え入れてくれ・・
た。そこは、光のステーションだった。ぼくたちは、光たちと接触・・
していった。いろんなことを知った。光たちの思いが、痛いほど理・・
解できた。光は、未来を求めていた。争いなどない、輝いた未来を・・
目指していたんだよ。ぼくたちと、思いは同じだった。・・・
長くその空間にいた。光たちと、どんどん結ばれていった。光た・・
ちの愛は、ぼくたちの愛と同じだった。ぼくたちは、理解を超えた・・
結びつきを感じていた。ずっと、その場にいたかったね…。覚えて・・
いろよね…。・・・
でも、永遠の時も、過ぎようとしていたんだ。光たちの思いが、・・
ぼくたちを動かしたんだ。やはり、ぼくたちも、更なる成長を求め・・
たんだ。未来へと、思いを向けていたんだ。ぼくたちの三つの太陽・・
に、小さな影が、素早く走っていった。ぼくたちは、その影を追っ・・
た。光のステーションから飛んだ。・・・
美しかった。それは、青く輝いていた。ぼくたちの宇宙から、そ・・
れは、遥か遠くの空に輝いていた。・・・
地球だよ。ぼくたちの意識に、ぼくたちの育った星が、姿を見せ・・
たんだ。ぼくたちの太陽を過ぎていった影は、ぼくたちの思いのな・・
かの影だったんだ。・・・
そう、争いの影。人々は、なぜ争う。傷つけ合う。ぼくたちは、・・
青い星の上空に漂った。争いの色が、濃く見えたんだ。悲しみの詩・・
が、大きく聞こえたんだ。ぼくたちは、話し合った。あの星へ、美・・
しい光を…。光への理解を…。・・・
ひとつの光だって、何かできることはある…。あるはずだ…。ぼ・・
くたちは熱くなっていた。暗い影を、見ていられなかったんだ。悲・・
しみの詩を、聞きたくなかったんだ。分かるだろう…。いや、覚え・・
ているだろう…。・・・
光のステーションへ、引き返すこともできたよ。でも、ぼくたち・・
は、それをしなかった。ぼくたちは、困難を選んだ。ぼくたちの光・・
の未来へ、それは、重要なことだった。ぼくたちは、ぼくたちの本・・
当の光を知っていたから…。・・・
その時だよ、君がいなくなったのは…。・・・
ぼくは焦ったよ…。ぼくの太陽が、輝きを落としていった。そう、・・
だから、ぼくは、君を追い続けた。だめだった。ぼくは、闇から抜・・
け出せなかった。・・・
でも、ぼくはここにいるんだ…。とうとう、闇を、乗り越えてき・・
たんだ。ぼくたちは、再びひとつとなる。そして、ぼくたちの太陽・・
の輝きを、取り戻すんだよ…。・・・
ぼくたちは、分離した光なんだ。あやふやな光だよ。危険なんだ・・
よ…。・・・
ぼくたちは、長く離れすぎている…。そう、やっばり、危険だよ・・
…。・・・
ぼくは、光を抱いている。でも、君は、それが分かっていない。・・
ぼくと、離れてしまったから…。・・・
そうだよ、危険だよ…。君に、こうして、近づけたからそう思う。・・
君が、光を失ってしまう。そうなったら、ぼくの光も消えてしまう。・・
危険だよ…。君は、片肺のカラスなんだ…。・・・
危険だ…。どうしよう…。・・・
・・・
・・・
-かたはいの、からす…。なんだ?・・・
また、あいつだ。いったい、ぼくに、なんのようなんだろう…。・・・
うるさいんだよ、ぼくは、ねむたいんだよ…。・・・
どらいぶは、いつもそうなんだ。すぐに、ねむたくなる…。・・・
きけん…。なんのことだ。しりとりか…。いまは、しりとり、し・・
たくない…。・・・
・・・
・・・
それにしても、カゼはよく眠る。カゼが、助手席で、軽い鼾を立・・
て始めた。後部座席のリンも、それにつられていく。秋子は、暮れ・・
ていく海と、カゼと、リンを、交互に見ながら、軽く微笑んだ。そ・・
して、窓を少し開けた。・・・
海岸線は、曇っていても快適だった。海とは、こんなにも心を広・・
くさせるものなのか…。秋子は、一人、ドライブを楽しだ。ハンド・・
ルが軽かった。・・・
「おばさん、カゼのおにいちゃん、寝ちゃったの…」・・・
どうにか、リンは、睡魔に打ち勝ったようだ。リンが、ミラーを・・
覗いていた。・・・
「リンちゃんは、寝なかったのね…」・・・
運転席に、リンが顔を出した。まだ少し、眠そうな顔をしている。・・・
「そうみたいね…」・・・
道は、海沿いを、何度もカーブを切っていく。激しい波飛沫が、・・
そそり立った岸壁に打ち寄せ砕けていく。その激しさが、秋子の運・・
転を慎重にさせていく。・・・
「おばさん…。また来たの。テレパシー…」・・・
鋭いカーブを切り終わった時、リンがそう言った。秋子は、思わ・・
ず、ハンドルを切り損ねるところだった。・・・
「ちょっと待って。車、止めるから…」・・・
秋子は、少々慌てた。カゼのことなのに、なぜ、私に来ない…。・・
なぜ、リンに…。秋子は、ひとつカーブを切り、ベンチが一つ見え・・
る小さな展望台に、車を滑らせた。・・・
「リンちゃん、あのベンチ座ろう」・・・
雨は上がっていた。カゼの眠りを確認し、秋子は、リンに続いて・・
車を降りた。・・・
「明日は晴れる…。リンリンリン」・・・
リンが、空を見て言った。秋子も、そう思った。雲の流れが速く・・
なっていた。・・・
「おばさん、リンの言うこと信じてくれる?」・・・
秋子は、ベンチに、ハンカチを二つ置いた。何時間か前の、理由・・
のない不安が、駆け足で秋子に戻ってきていた。そして、それと、・・
比例するように、空が暮れ始めていた。・・・
「うん、信じる。いや、信じられると思う…」・・・
腰掛けたベンチに、足下の草の匂いが漂った。降り続いた雨に、・・
草の吐息が、多く漏れている。・・・
「リンちゃんが、本当のことを言ったのなら、信じられる…」・・・
リンは、嘘なんてつかない。素直な子だ。カゼと遊ぶリンを見て・・
いれば、それが、よく分かる。秋子は、リンの目を見た。それは、・・
遠い海に向いていた。・・・
「ナギのおにいちゃん…。変なこと言った…」・・・
カゼから、リンへの通信なのだ。いや、あの光だ。あの光が、カ・・
ゼを通して、リンにコンタクトしたのだ。理解できていた。しかし、・・
すぐに、信じられるような話ではない。・・・
「夢じゃなかったよ。わたし、起きていたもの。うとうとと、して・・
いただけ…」・・・
自分の話を信じてもらおうと、リンが、懸命になっている。秋子・・
に、それが健気に見える。・・・
「リンちゃん…」・・・
秋子は、リンの手を握った。健気なリンを、可愛く思った。・・・
「信じるよ。リンちゃん、信じるよ…」・・・
遠くを見ていたリンの目が、秋子に向いた。リンは、嬉しそうに・・
笑った。・・・
「おばちゃん」・・・
おばさんが、おばちゃんになった。秋子は、リンの話を信じよう・・
と思った。・・・
「おばちゃん、幽霊て信じる?」・・・
普段のリンに戻っていた。大きな目を、秋子に真っ直ぐに向けて・・
いる。その目のなかに、秋子への信頼が見える。・・・
「幽霊? そうね、信じたくないけど…。リンちゃんは?」・・・
大人の嫌なところだ…。自分の意見は隠して、相手を伺う…。秋・・
子に、軽い自己嫌悪が襲った。・・・
「わたし、信じる」・・・
子供はいい…。無邪気がいい…。素直がいい…。秋子は、リンが・・
羨ましくなった。自分には、それが消えてしまっている。子供に戻・・
りたい…。秋子は、ふと思った。・・・
「でも、ナギのおにいちゃんは、幽霊じゃない…。カゼのおにい・・
ちゃんのなかにいるの…」・・・
リンだけに、もう一つのカゼが感じられるのだ。秋子に嫉妬はな・・
かった。しかし、いい知れない不安が、秋子に大きくなっていた。・・・
「ナギのおにいちゃん。わたしの頭のなかに入ったの」・・・
リンは、言葉を選んでいた。リンにとっても、説明が困難なのだ・・
ろう。黒い瞳が、大きく揺れている。歯の抜けた前歯の隙間を、し・・
きりに舐めている。自分の知っている言葉を、リンは、すべて総動・・
員しようとしているのだ。秋子に、それが感じられる。・・・
「そしたら、自分の頭のなかに、声が聞こえたの。ううん、聞こえ・・
たじゃなくて、テレパシー。うーん…。どう言ったらいいの…。・・
うーん…」・・・
もどかしそうだった。リンが、首を捻っていた。秋子が、助け船・・
を出した。・・・
「声じゃなく、リンちゃんの頭に、言葉が流れ込んだ…。声に出さ・・
ない言葉ってあるものね…」・・・
リンの大きな目が、更に、大きく開かれた。歯の隙間を舐めるこ・・
とを、リンが止めた。・・・
「そう、流れ込んだ。そう、そう、そういう感じ…。リンリンリン・・
…。さすが、おばちゃん」・・・
嬉しそうなリンだった。リンが、秋子の握った手を強く握り返し・・
てきた。・・・
「だから、おばちゃん大好き…」・・・
ベンチに、風が強くなっていた。暮れていく空が、その速度を上・・
げていた。・・・
「ぼくに、早く気づいてほしい…。ナギのおにいちゃん、そう言っ・・
た。あいや、言ったんじゃなかった。えーと、えーと…」・・・
リンは続けた。リンの握るの手の温もりが、秋子に、心地よく届・・
く。・・・
「いいよ、聞こえたで…」・・・
秋子は微笑んだ。リンの話を、笑みで促した。・・・
「ぼくに、早く気づいてほしい…。三回、言った。いや、聞こえ・・
た。」・・・
周りが、薄闇に染まり始めた。リンが、ベンチを立った。・・・
「それだけ…。リンには、どういうことか分からない…。おばちゃ・・
ん、帰ろ…」・・・
秋子も、立ち上がった。遠くの灯台の灯が、先程より、明るく見・・
えた。風が、少し優しくなっていた。春が、その風に、微かに混・・
じっていた。・・・
「おしっこ…。もう少し、がまんするね」・・・
秋子とリンは、車に戻った。カゼは、まだ眠りのなかだった。・・・
・・・
・・・
(3)・・・
・・・
車に戻ると、違和感があった。秋子には、それが、何だか分から・・
なかったが、どこかが違っていた。先程、リンの話に車から降りた・・
時と、車のなかが、どこか違っていた。・・・
神経質になっている…。ここのところ、いろいろなことが起こっ・・
た。カゼの光…。カゼの夢…。自らのデジャヴゥ…。リンのテレパ・・
シーのこと…。秋子は、ひとつ深呼吸をした。車窓に拡がる、果て・・
しない海からの風を吸った。・・・
リンは、静かに、窓の外を見ていた。リンは、リンなりに、カゼ・・
のことを思ってくれている。秋子は、何だか寂しくなった。リンと・・
も、もう少しでお別れだ…。秋子は、そろそろ、東京へ帰ることを・・
考えていた。・・・
少しスピードを緩めた。やはり、どこかが違った。日が暮れたせ・・
いだけではない、秋子には、車内の色が違うように感じられた。・・・
海岸線が途切れた。民宿などが立ち並ぶ、狭い道に入った。民宿・・
松屋が見えてきた。・・・
「おしっこ!」・・・
我慢の限界だったようだ。車をガレージに滑らすと思ったら、リ・・
ンが、ドアを飛び出していった。・・・
「間にあった。リンリンリン!」・・・
車をガレージに入れた。やはり、激しい違和感があった。・・・
「カゼ。起きろ…」・・・
秋子は、車を降り、カゼの眠る助手席のドアを、外から開けた。・・
少し温い風が、秋子の背に寄った。・・・
「カゼ…」・・・
薄闇に、カゼが、ほんのりと光っていた。小さな光だった。先程・・
までの違和感は、そのせいだった。・・・
「カゼ…」・・・
秋子は、カゼの光を覗き込んだ。額に白く透明な光が揺れていた。・・
リンが見た光だ。自分も、一瞬だけだったが見ている。その光は、・・
カゼの平べったいおでこに、やんわりと、乗っているように見えた。・・
カゼの眉間の中央に、居心地良さそうに、座っているように見えた。・・・
京都の駅で見た光、そして、浜で見た光、それよりも、少し色濃・・
く見えた。カゼの白い顔が、余計に白く見える。平べったい顔が、・・
どうした訳か、更に平たく見える。・・・
秋子は、光を見入った。カゼは、この光に、どんな影響を受けて・・
いるのだろう…。この光に、何を感じているのだろう…。秋子は、・・
それを知りたかった。・・・
「カゼ、起きろ…」・・・
カゼの肩を揺らした。額の光が、それと一緒に揺れた。そして、・・
カゼの頬に、涙が一粒滑った。・・・
「あっ!」・・・
思わず声になった。鈍器で後頭部を叩かれたような、強い衝撃・・
だった。秋子は、猛烈な不安に襲われた。今までの不安が、形を変・・
えていた。黒い影を伴った、重く鈍い不安だった。・・・
「カゼ!」・・・
それは、たった一粒だった。その一粒を、秋子は手で拭った。カ・・
ゼの額の光が消えた。・・・
「おばちゃん!」・・・
その時、リンが、車に戻ってきた。トイレを済ましたのだろう。・・
爽やかに走ってきた。・・・
「おばちゃん…。おばあちゃんが、呼んでたよ…」・・・
カゼが、眠そうに起きあがった。車を降りて、一つ伸びをした。・・・
「ウエッ!」・・・
リンが、小さく叫んだ。首を傾げ、伸びをするカゼに寄る。・・・
「カゼのおにいちゃん、何だか薄くなっているよ…。あの光に、色・・
を取られちゃったの…」・・・
何気ない言葉だったが、リンの言葉は、的を得ていた。秋子を・・
襲った衝撃だ。カゼが薄くなっている…。秋子にも、そう見えたの・・
だ。光に色を取られちゃったの…。その通りかも知れない…。秋子・・
の衝撃が大きくなる。黒い不安が、秋子に押し寄せる。・・・
確かに、そう見える。カゼが、薄くなっている…。秋子は、妙子・・
の呼ぶことなど忘れ、カゼの側で、しばらく呆然と立ち尽くした。・・・
・・・
・・・
若菜の足は、不自由だった。細くやつれていた。若菜は、車椅子・・
でグラウンドに現れた。・・・
薫が、後ろから若菜を押していた。若菜は、時折、首を上け下げ・・
して、薫に、何やら話しかけていた。若菜の平べったい顔が、カゼ・・
に似ていた。東村は、腰掛けていたベンチを立った。寒さを、普通・・
以上に感じていた。コートの襟を両手で絞った。・・・
「お話しした、姉の若菜です」・・・
薫が、なぜか、先程より小さく見えた。車椅子の若菜の存在感の・・
方が、東村には、大きく感じた。似ていない姉妹が、ぎこちなく会・・
釈した。・・・
「ヨッ!」・・・
源助が、若菜に手を上げる。若菜が、嬉しそうに、顔をくしゃく・・
しゃにする。・・・
「日が暮れてしまってから、お呼びたてして、申し訳ありません。・・
東村高志です。源助の息子です」・・・
東村は、若菜の笑顔に、一瞬ひるんだ。自分の顔が、こわばって・・
いるように思った。・・・
「姉に、源助さんのこと話したら、飛び上がらんばかりに喜んでし・・
まいまして…」・・・
薫も嬉しそうだった。喫茶店での薫とは、どことなく違っていた。・・・
若菜は、東村には、やはり大きく見えた。人を圧倒するような、・・
何かを感じた。あんな話を聞いたからなのだろう…。若菜を、少し・・
過大に考えているだろう…。そうでないと、この威圧感は説明でき・・
ない。東村は、そう思った。いや、そう思うようにした。・・・
東村は、いつの間にか、若菜に光を探していた。薫の言った、白・・
く透明なる輝きを、知らない内に追っていた。・・・
「若菜さんも、薫さんと同じ色の目だ…」・・・
源助が言った。東村も、そう思った。姉妹の似ている部分は、そ・・
れだけだった。・・・
「ソ、ウ、カ、シ、ラ…」・・・
鳥のような声だった。朝一番の光を、喉にいっぱい受けたような・・
声だった。若菜は、目を丸くして、それだけ言った。・・・
若菜の光は見えなかった。東村は、コートを深く被りなおした。・・
寒さが、背に増していた。・・・
「姉が、話したいことがあるそうです。東村さんのことは、先程、・・
私から話しておきました。姉は、カゼくんに、非常に興味を持って・・
しまったようです…」・・・
カゼに興味を持った。どういうことなんだろう…。東村は、ベン・・
チに座り直した。車椅子の若菜の視線に、目の高さを合わせた。若・・
菜は、くしゃくしゃな笑みを続けている。・・・
「姉は、この通り、言葉が不自由です。巧く話すことができません。・・
従って、私が、姉を中継します。よろしいでしょうか…」・・・
異論などあるはずがない。こんな時間に、呼び出しているのだ。・・
東村は、何も言わず頷いた。・・・
「いいのかい、こんな遅くに…」・・・
源助が、若菜の肩を抱いた。源助らしい思いやりだった。・・・
「ヨ、ロ、シ、イ…。ホホ…」・・・
ホホ…。若菜のその声に、東村の意識の一部が、激しく蠢いた。・・
背に、脳裏に、戦慄のようなものが、一瞬走った。・・・
「ヨ、ル、ダ、イ、ジ、ョウ、ブ…。ホホ…」・・・
頭のなかが、真っ白になった。東村は、慌てて目を閉じた。自分・・
が、遠くなっていくのを感じた。・・・
・・・
・・・
-ホホ…。・・・
その響き、その声、そう、鳥のような声、朝日に澄んだ声…。・・・
ホホ…。・・・
恐怖だ。狂気だ。殺気だ。戦場だ。その声は、それらのなかで聞・・
いたのでなかったか…。・・・
ホホ…。・・・
それは、波の音と、一緒ではなかったか…。・・・
ホホ…。・・・
それは、セミの声に、混じっていたものではなかったか…。・・・
ホホ…。・・・
その時、草の匂いさえ、熱く感じた。・・・
ホホ…。・・・
その時、手が震えていた。恐ろしさに悶えていた。・・・
ホホ…。・・・
そうだ、鳥のような声…。朝一番の光を、喉にいっぱい受けたよ・・
うな声…。・・・
ホホ…。・・・
止めてくれ! 止めてくれ!・・・
ホホ…。ホホ…。ホホ…。・・・
止めてくれ! 止めてくれ!・・・
・・・
・・・
一瞬だった。東村の脳裏を、それは、素早く過ぎ去っていった。・・
東村は、もう寒さを感じなくなっていた。着ていたコートを、優し・・
く若菜に掛けてやった。・・・
遠くで、クラクションの音が響いていた。東村は、その音で、現・・
実に戻った。・・・
「ア、リ、ガ、ト、ウ…。ホホ…」・・・
それは、自分にだけ、届いたものだと思った。自分にだけ、聞こ・・
えた声だと思った。東村は、掛けたコートの上から、若菜の肩に手・・
を乗せた。・・・
「姉は、カゼくんに会いたいと言っています。何だか、他人とは思・・
えないと…」・・・
東村は、目を閉じていた。瞳の裏に、若菜の話が見えてくる。そ・・
んな思いが、東村を包んでいた。・・・
「姉は、その昔、戦場にいたと言っております。そして、戦いの醜・・
さ、そして、悲しさを、嫌と言うほど知ったそうです…」・・・
薫が続けた。いや、若菜が続けた。不思議なことに、東村には、・・
その話の続きが、ぼやけながらでも、見えてくるような気がした。・・
遠くのクラクションの音は、もう、東村には、流れ込まなくなって・・
いた。・・・
・・・
・・・
(4)・・・
・・・
食事を、子供たちと済ませた。カゼは、いつものようによく食べ・・
た。しかし、秋子から見て、カゼの気配…、のようなものが、確か・・
に薄くなっていた。あの光に、色を取られちゃったの…。リンの言・・
う通りなのだ。カゼが、色褪せて見える。瞳の光が遠いのだ。秋子・・
は、それが、果てしなく気になっていた。そんなカゼを見るのは始・・
めてだった。・・・
熱はなかった。ご飯は、二膳、お代わりした。元気がないという・・
訳ではない。やはり、神経質になりすぎている…。秋子は、自らを・・
諫めた。気にしすぎだ…。無理に、思いを胸に隠した。・・・
食事の後で…。秋子は、妙子の言葉を思い出した。カゼとリンを・・
部屋に残し、秋子は、気になることを意識に揺らせたまま、妙子の・・
部屋に入った。・・・
「秋子さん。ごめんなさいね、呼び出したりして」・・・
妙子は、秋子を待っていた。お茶を煎れながら、秋子を、上目に・・
見た。部屋のなかは、石油ストーブでむんむんとしている。妙子の・・
思いも、そのなかに漂っているかのように、暑い部屋は、息苦しい・・
ほどだった。・・・
秋子は、妙子の正面に、腰を下ろした。ストーブの上のやかんか・・
ら昇る湯気が、妙子の後ろを白く色づけていた。それが、秋子の思・・
いを、自然とカゼへと向けた。カゼが、薄くなっている…。そう、・・
あの湯気のように、カゼが、白く揺れている…。気になることが、・・
秋子のなかで、音を立て始めた。・・・
「高志のことなんだけど…」・・・
言いにくそうに、妙子が言った。しかし、秋子には、その言葉が、・・
胸にまで届かなかった。カゼが、薄くなっている…。秋子が、揺れ・・
続けていた。・・・
「秋子さんのことでもあるんだけど…」・・・
気持ちが、妙子に向かない。秋子は、耳元に妙子の声を流した。・・
それでも、秋子には、妙子の思いが伝わった。秋子も母だった。息・・
子を思う、母の気持ちは一緒なのだ。・・・
「分かるでしょう?」・・・
そう、分かるわよ…。でも、カゼが、薄くなっている…。秋子の・・
思いは、カゼから離れない。・・・
「えー、どう言ったらいいか…」・・・
随分、ストレートなやり方なのね…。秋子の意識が、妙子に、よ・・
うやく向いた。別れてくれ…。妙子の瞳に、暗い影が見えた。秋子・・
は、小さく頷いた。カゼへの思いが、それを後押ししていた。・・・
これでいい、自分には、カゼがいる…。小さな納得が、秋子のな・・
かに揺れた。・・・
「分かっています。おかあさん、もう、それ以上は、言わないで下・・
さい…」・・・
妙子が、瞳の奥で泣いていた。それは、秋子への同情の涙ではな・・
い。妙子は、自らを恥じている。そんな風な涙だ。それが、秋子に・・
感じられる。・・・
「そう、高志には負担なの…」・・・
それでも、妙子は、肝心なことは、はっきりと言った。息子を思・・
う母の気持ちが、真っ直ぐに、秋子に届く。かえって、不快ではな・・
かった。秋子は、すんなりと聞くことができた。・・・
「おかあさん…」・・・
秋子は、妙子が好きだった。秋子さんは、いつまでたっても、カ・・
ゼくんのママでいられるのね…。今でも、妙子のその言葉は、秋子・・
のなかで、新鮮さを失っていない。母としての大きな愛が見える。・・
そんなこと言えるのは、強い女でないと言えない。秋子は、妙子の・・
そんな強さを、見習いたいと思っていた。・・・
妙子の思いが、痛いほど分かる。自分も、強く生きてきたつもり・・
だ。だから、余計によく分かる。母は、息子を、守りたいだけなの・・
だ。・・・
妙子の目から、堪えていたものがこぼれ落ちた。妙子は、無理に・・
笑っていた。・・・
「高志さんとは、これっきりにします…」・・・
秋子は、言い切った。そして、妙子と同じような笑いを作った。・・
言葉の実感は、秋子には、まだ遠いものだった。その言葉の意味が、・・
秋子に、激しく押し寄せたりしなかった。諦めでない何かが、秋子・・
のなかに、重く揺れるだけだった。・・・
「飲もうか…」・・・
妙子が、ぽつんと言った。・・・
「お酒、飲もうか…。女同士で…」・・・
涙の目を、秋子に向けていた。作った笑みが、少しだけ綻んでい・・
る。・・・
「秋子さん、いい女だ…。私が惚れちゃいそう」・・・
作った笑みを、不器用に重ねていた。涙に歪んだ妙子の顔が、秋・・
子には、なぜか美しく見えた。母の思いの白さが見えた。・・・
「飲みましょう…」・・・
秋子に、悲しみは浮かばなかった。しかし、秋子の目も潤んだ。・・
歪む妙子の顔が、徐々に霞んでいった。・・・
・・・
・・・
妙子との酒の前に、秋子は、部屋に戻った。カゼが、薄くなって・・
いる…。やはり、それが気になった。秋子にも、妙子のように、母・・
の思いが強く揺れていた。・・・
「リンの番よ…」・・・
飽きもしないで、カゼとリンは、またトランプをしていた。新し・・
いゲームのようだ。リンが、カゼにいろいろと説明している。秋子・・
は、カゼを覗き込んだ。・・・
「こんどは、カゼのおにいちゃん」・・・
カゼは、いつもと同じに戻っていた。食事の時よりも、カゼの気・・
配…、というようなものが色濃く、普段通りに戻っていた。あの時・・
は、気のせいだったのか…。いや、リンにも、そう見えていた…。・・
確かに、あの時は、カゼの気配…、が、薄くなっていた。・・・
肩の力が、少し抜けた。とにかく、カゼが、普段に戻っている。・・
秋子は、カゼの肩に手を乗せた。カゼの平べったい顔が、秋子を見・・
て笑った。大きなえくぼが、いつもより大きく見えた。・・・
その時だった。秋子に、悲しみが、一気に押し寄せた。津波のよ・・
うな激しさが、秋子の胸を抉った。・・・
高志さんとは、これっきりにします…。妙子の前で言った言葉が、・・
秋子の悲しみに、残響を響かせた。秋子は、カゼに背を向け、部屋・・
を出た。カゼに、涙を見られたくなかった。・・・
秋子は走った。浜への道が、こんなにも遠いものだとは思わな・・
かった。秋子の嗚咽が、浜からの風に、一つひとつ千切られていっ・・
た。・・・
・・・
・・・
-危険だよ。やっぱり、危険だよ…。・・・
光が分離しているんだ。ぼくたちの太陽が、輝きを失ってしまう。・・
早く、ぼくを見つけるんだ…。・・・
ぼくの宇宙を、ぼくの一部が出ていった。それが君だよ。激しす・・
ぎる思いだったんだね…。ぼくの宇宙の外には、困難が待ち受けて・・
いた。それを、知った上で、君は出ていった。ぼくには、それが分・・
かる。当然だよ。それは、今でも、ぼくの一部だから…。・・・
青い星へ、光の方舟を…。ぼくたちは、その思いで熱くなった。・・
小さなひとつの光だって、できることはある…。光の姿で、星に潤・・
いを取り戻す。そう、その思いは激しかったよ。・・・
君は進んだ。ぼくの宇宙のなかの勇気をかき集め、未来への希望・・
を背に乗せて…。困難というものすら、君は、平気だったんだ。激・・
しい光の思いの方が、それらに打ち勝ったんだ。それを、ぼくが、・・
とやかく言うことはできない。それは、ぼくの宇宙のすべての輝き・・
の、ひとつの思いだったから…。・・・
辛さを、君は選んだんだ。障害を乗り越えていく勇気だ。光を理・・
解した自らへの強い愛だ。理解を超えた愛だ。知ってるよね、この・・
言葉。理解を超えた愛は、何をも貫く…。ぼくたちの故郷で聞いた、・・
美しい言葉だよ…。君は、その言葉を胸に、障害へ向かった。ぼく・・
の光を出ていったんだ。・・・
でも、少し長すぎるんだ。離れている時が、長すぎるんだ。ぼく・・
たちの光は、分離したままでは不安定すぎるんだ。輝きが失せてし・・
まう。光の方舟が、闇の荒波に引き込まれてしまうんだ。分かるだ・・
ろ…。だから、ぼくに、早く気づいておくれ…。ぼくを、早く受け・・
入れておくれ…。・・・
危険だよ…。やっぱり、危険だよ…。・・・
・・・
・・・
-ぼくを、うけいれておくれ…。きけんだよ…。なんだ?・・・
しりとりは、したくないんだよ。ぼくは、いま、とらんぷを、し・・
ているんだ。・・・
いったい、なんのようなんだ…。うるさいぞ。・・・
あっ、しまった…。まけちゃったじゃないか。・・・
むこうへ、いってくれ…。しまいに、おこるぞ…。・・・
第六章・・・
・・・
(1)・・・
・・・
妙子との酒は、味気ないものとなった。妙子は、無理に明るく、・・
次々に話題を変えた。しかし、秋子は、心から笑えなかった。堪え・・
ていたものへ、思いが大きく傾いていた。・・・
「明日、帰ります」・・・
最後に、それだけ言った。振り絞るように言った。妙子が、窮屈・・
な笑みで頷いたのが、秋子の意識の隅に浮かんでいた。・・・
部屋に戻ると、カゼは、もう寝ていた。いつものようにえくぼを・・
見せ、微笑むように眠っていた。秋子は一人、カゼの側に座った。・・・
涙は、もう出なかった。帳の降りた浜に、今夜の分だけは、捨て・・
てしまったようだった。秋子は、東村が、昨夜残したバーボンを探・・
した。それは、帰り支度の荷物の側に、無造作に置かれていた。・・・
今夜は、飲みたかった。そして、何もかも、忘れてしまいたかっ・・
た。・・・
「フー…」・・・
自分の溜息だけが、何度も聞こえる。その都度、秋子は、グラス・・
を持った。琥珀の液体を、喉に流し込んだ。自らの悲しみに、強い・・
刺激を与えた。・・・
「フー…」・・・
東村を、忘れることはできるだろう…。亜紀子だった頃の秋子の・・
思いだ。再び、人を愛するとは…。亜紀子になる前の思いだ。そし・・
て、悲しみは耐えられる…。自分にはカゼがいる…。秋子の、今の・・
思いだ。秋子は、それらを巡った。取り留めなく巡った。・・・
「夢だったのよ…」・・・
溜息に変わって、低く漏れた。そう思うことにした。それしか、・・
秋子には思いつかなかった。・・・
「ぶ、る。ざ、い…。じ、り、ど、り、は、あ、ど、だ…」・・・
カゼの寝言が、秋子の沈む思いに絡んだ。秋子は、カゼの額を軽・・
く撫でた。・・・
やはり、私は母…。いつまでたっても、ママ…。妙子の言葉が浮・・
かぶ。カゼくんの、ママ…。それでいい…。カゼの額から伝わる温・・
もりが、今の秋子の悲しみに優しい。悲しみを、カゼが、暖かさで・・
包んでくれている。・・・
「お、ご、る、ぞ…。お、ご、る、ぞ…」・・・
カゼが、夢に怒っている。怒るぞ…。怒るぞ…。よくあることだ。・・
秋子は、小さな笑みを浮かべた。カゼの寝顔に、秋子の涙腺が、再・・
び、緩み始めていた。・・・
母性は弱いものに向く…。哀れなものに向く…。妙子の言葉が、・・
秋子を揺らす。その通りなのかも知れない…。私は、カゼがいれば・・
それでいい…。カゼさえ側にいれば、それでいい…。・・・
カゼは、私を旅立てない。私を、越えていくことはない。私は、・・
カゼから離れられない。離れることはない。カゼの命のある限り、・・
そして、自分の生命がある限り、その関係は続いていく。・・・
それを、負担に思ったことはない。いや、少なくとも、それを、・・
放棄してしまおうなどと、考えたことはない。自らの運命だ。カゼ・・
というひとつの魂を、自分は選んだのだ…。カゼと共に、それは、・・
自らが選んだことなのだ…。・・・
選んだこと…。そう、私は、それを選んだ…。秋子は、何杯目か・・
のグラスを空けた。私は、ダウン症のカゼを選んだ…。秋子の思い・・
が、それへ集中していく。始めての思いだった。カゼを選んだ…。・・
なんとなく、しっくりときた。・・・
カゼのことは、自分で選んだ…。カゼとの運命を、自分は自分で・・
選択したのだ…。心での呟きが、徐々に大きくなっていく。やはり、・・
しっくりとくる。今まで、感じたことのない揺れだった。カゼを選・・
んだ…。秋子のなかで、その思いが、心地よく溶けていく。遠い風・・
が、急に近くへ吹くように、秋子のなかの風が、秋子の脳裏に吹き・・
込んでいた。・・・
「カゼを選んだ…」・・・
声に出した。それが、秋子の風を変えていく。亜紀子から秋子へ・・
と戻った時の風が、その思いに色を変えていく。秋子は、その思い・・
に酔った。その風に靡いた。・・・
「カゼを選んだ…」・・・
そう、すべてが、それから始まった。秋子は揺れた。自らの辻褄・・
を、一つひとつ、それへと重ねていく。東村とのこと…。妙子の言・・
葉…。カゼの成長…。カゼの光…。自分は、カゼを選んだ…。・・・
その時、玄関に音がした。東村が、源助と帰ってきた。秋子は、・・
グラスに残ったバーボンを一気に干そうとした。・・・
・・・
・・・
東村にも、新しい風が吹いていた。若菜…。旬芽の薫る風が、東・・
村に強くなっていた。・・・
途轍もなく、若菜に惹かれた。意識が溶けていくように、若菜の・・
話に惹かれた。東村は、我を忘れていた。めまいすら感じ、東村は、・・
若菜の話を聞いた。・・・
「ワ、タ、シ、タ、チ、ハ、ヒ、カ、リ、デ、ス…」・・・
若菜は、そう言った。それは、知っていた。そう、そのことは、・・
東村は知っていた。記憶の片隅に隠れていたものが、その言葉で、・・
東村に蘇った。・・・
「ヒ、カ、リ、ノ、ハ、コ、ブ、ネ…」・・・
若菜は、光の方舟を、漕ぎ出すと言った。その舟に乗りなさい…。・・
いや、すべての人が、その舟に乗るように祈っている…。若菜は、・・
東村にそう告げた。その時、東村に、思いもよらぬ感動が走った。・・
脳天に、激しい落雷が落ちたように、東村の意識は覚醒した。・・・
それからは、疑いの欠片すら持たなかった。薫が中継した言葉が、・・
若菜の声に聞こえていた。東村は、そのすべてを感じた。若菜の伝・・
えることを、東村は、一つひとつ理解していた。・・・
帰りの電車のなかで、東村は、一言も喋らなかった。ずっと、夢・・
にうなされているように、不思議が続いていた。源助も、窓ばかり・・
ボーと見ていた。二人は、結局、何も言わないまま、松屋の玄関で・・
別れた。・・・
飲みたかった。覚醒した意識を沈める術は、それしかないと思っ・・
た。東村は、秋子の部屋を開けた。秋子が、グラスを、テーブルに・・
降ろすところだった。・・・
・・・
・・・
「若菜は、前世の記憶を持っていた」・・・
カゼとは別の部屋で、東村と秋子は飲んだ。カゼが、目を覚ます・・
といけない…。秋子はそう思い、東村を、隣の空き部屋に促した。・・・
少し酔いが回っていた。東村の話に、秋子は、黙って耳を傾けて・・
いるだけではいかなくなっていた。秋子は、東村の言葉を遮るよう・・
に言った。・・・
「戦場での記憶…」・・・
秋子は、揶揄のつもりだった。カゼの夢、自らのデジャヴュ、秋・・
子は、それを、無意味に吐き出していた。・・・
「アキ、なぜ、知ってる?」・・・
秋子は続けた。グラスを空けた。秋子は、東村を見ていなかった。・・・
「兵士に、殺された…」・・・
カゼの夢を言った。揶揄が、なぜか楽しかった。酔いが、秋子に、・・
複雑に絡まっていた。・・・
「へいたいさん、こわい…」・・・
若菜、薫、一体誰なの…。そんな話なんて、今は、聞きたくない・・
の…。明日、私は帰るのよ…。秋子は、攻撃的になっていた。知ら・・
ず知らずの内に、悲しみが、東村へと向いていた。・・・
「蝉が、うるさいほど鳴いていた…」・・・
明日帰る…。別れを告げる…。秋子は、酔いの勢いを借りるつも・・
りだった。しかし、それはできなかった。へいたいさん、こわい…。・・
東村が、秋子を驚きで見ていた。蝉が鳴いていた…。比喩が、比喩・・
でなくなってしまっていた。・・・
「アキ、なぜ、知っている…。どうして、それを知っている…」・・・
東村の目が、少し血走った。グラスを持つ手が、微かに震えてい・・
た。・・・
「どうして、それを知っている…」・・・
・・・
・・・
カゼは、眠りにあった。夢のなかに揺れていた。・・・
戦場に、カゼはいた。草むらに倒れていた。敵兵の剣が、日に眩・・
しかった。・・・
「助けてくれー!」・・・
カゼは叫んだ。言葉は詰まらない。大きな叫びが、夢のカゼには・・
不思議だった。・・・
「????!」・・・
知らない言葉が、カゼに近づいた。カゼは、草むらに身を起こし・・
た。敵兵が、四、五人、こちらへ向かってくる。カゼは震えた。敵・・
兵の目が、恐怖に凍り付いたような光を、カゼに落としていた。・・・
昨日と同じ夢だ…。カゼは、夢のなかで、そう思った。しかし、・・
今日は、その続きがあった。・・・
「???…」・・・
敵兵たちは、カゼを、そのなかの一人に任せた。他の者は、カゼ・・
から去っていった。・・・
「???…」・・・
残った一人が、カゼの前に立った。そして、剣を振り上げた。・・・
「助けてくれー!」・・・
敵兵の剣が、カゼの頭上に被さった。逆光に、敵兵が、真っ黒に・・
見えた。・・・
「ウワー! ウワー! ウワー!」・・・
一太刀目は、どうにか交わした。敵兵の剣は、カゼの頬に、微か・・
な風を起こした。・・・
「ウワー! ウワー! ウワー!」・・・
しかし、二の太刀が来た。カゼは、目を大きく開けた。敵兵は泣・・
いていた。蝉の声に混じって、敵兵の低い唸りが、カゼには聞こえ・・
た。・・・
・・・
・・・
-そうだ、ここで目を閉じたんだ。敵兵の剣に、貫かれる自分を見・・
たくなかったんだ。・・・
でも、どうしたんだろう。敵兵が泣いている。そして、ぼくは、・・
目を閉じていない。どうしたんだろう…。ぼくは、恐怖に、目を閉・・
じていたはずだ。どうして、目を開けている…。・・・
敵兵の、二の太刀を交わした。覚えていない…。目を閉じていな・・
い。あの時、気がつけば、敵兵は、目の前から消えていた。二の太・・
刀など来なかったはずだ。あの時の恐怖だけが、思い出される。ど・・
うしてだ…。ぼくは、ずっと、目を閉じていたはずだ。・・・
敵兵と睨み合いが続く。ぼくは、怯んでいない。敵兵の目を、・・
真っ直ぐに見ている。背の震えが収まっている。覚えていない…。・・・
ぼくが、敵兵に寄っていく。道を空けてくれ…。そう言った。敵・・
兵から、殺意が消えた。ぼくの言葉に、その兵が頷いた。少し、微・・
笑んでいる。・・・
「戦いは、早く終わりにしよう」・・・
ぼくは、そう続けた。兵が、もう一度頷いた。笑みが、大きく・・
なった。・・・
どうしたというんだ…。ぼくは、そんなこと覚えていない。カゼ・・
…。君の夢に、君が想像したことが、ぼくに流れ込んでいるだけな・・
のか…。どうしたことなんだ…。・・・
ぼくが、その場を離れていく。後ろからは、誰も追ってこない。・・・
・・・
・・・
「ホホ…」・・・
誰かが、カゼを呼んでいた。誰だか、すくに分かった。カゼは、・・
その声の方へ進んだ。・・・
「ホホ…」・・・
声が近くなった。蝉の声が、カゼを、揺らし続けていた。・・・
・・・
・・・
-それは、ぼくの勇気の部分だ。ぼくは、敵兵にも怯んでいなかっ・・
た。その勇気が、今までの君を支えていたんだ。それが、今、分・・
かったよ。そうだったのか…。ぼくは、目を閉じていたと思ってい・・
た。でも、それは、違っていた。ぼくの勇気の部分が、その恐怖に、・・
打ち勝っていたんだ。・・・
そう、その部分を、君が独りでに、君と一緒に、ぼくの宇宙から・・
持ち出したんだ。困難へ立ち向かう勇気…。光の方舟への道標…。・・
そう、君は、それを、ぼくから持ち出したんだ。・・・
だから、ぼくに、その時の記憶がない。恐怖を越えた時の記憶が・・
ない。・・・
でも、その先は、やはり死だよ…。ぼくは、海原に死んだ。静か・・
だった。死は静かだった。・・・
でも、でも…。・・・
ダメだ! 危険だ! それ以上、死へ向かったらダメだ!・・・
ぼくは、今、光を理解している。そして、あの海での恐怖の記憶・・
はない。しかし、カゼ…。君は違うんだ。君は、まだ、光を理解し・・
ていない。ぼくの宇宙を、何も言わずに出ていったままなのだよ。・・
ぼくたちの本当の光の形を、君は、まったく分かっていないんだよ・・
…。・・・
更に、カゼ…。君は、死の瞬間の恐怖を覚えているはずだ。それ・・
を、乗り越えていこうと、恐怖に向かい合ったはずだ。ぼくの宇宙・・
から、勇気という光を持ち出したんだ。その勇気が、あの死の記憶・・
を抱いている。・・・
ダメだ! それ以上、この夢を続けるのは、ダメだ! 海の果て・・
に、ぼくたちの死があるんだ…。・・・
舟が沈んでいく。闇の海原に、ぼくは、沈んでいった。・・・
死…。それは、今のぼくには、静けさしか思い出せない。しかし、・・
死の瞬間、その短い苦しみの時は、永遠にも長く感じる。闇のなか・・
に、闇よりも深い恐怖が渦巻いている。・・・
ダメだ…。カゼ…。夢から、覚めるんだ…。・・・
カゼ…。君の夢のなかに、その恐怖が蘇れば、君が、ぼくの光か・・
ら抜け出して地上へ向かった時の勇気が、恐怖に挫けてしまう。ぼ・・
くの宇宙を飛び出した時の、あの激しい思いが、粉々に砕け散って・・
しまうんだ。果てしない恐怖と、止めどもない狂乱に陥ってしまう・・
んだ。・・・
カゼ…。君は、死を理解していない。光を理解していないから、・・
それは、当然だよ。ぼくたちは、分離した光なんだ。だから、夢で・・
あろうと、死を見てはいけない。死の闇の恐怖に、ぼくたちの光は、・・
一つに戻れなくなる。死を理解するまで、いや、少なくとも、死と・・
いうもの理解へ向かうまでは、死を見てはいけない。・・・
死というものは、ぼくたちの光の成長には、欠かせないものなん・・
だ。その瞬間に、激しいほどの生への執着が沸き上がるんだ。そし・・
て、その執着こそ、ぼくたちの成長に欠かせない糧になるのだ。闇・・
のなかにこそ、見える光なんだ。ぼくたちは、その闇のなかで自ら・・
の存在に気づく。存在の意味を、激しい生の執着に見いだすんだ。・・・
その時の光が、ぼくたちの未来への光なんだ。ぼくたちの光を、・・
再び、光の道へと向かわせるんだ。死を理解し、光を理解する。そ・・
して、自らを理解する。それが、ぼくらの進む道なんだ。・・・
でも、このままだと、カゼ…。君は、狂気に到ってしまう。君の・・
勇気が、死の闇に、跳ね返されてしまうよ。闇のなかの光は、君に・・
は見えないんだ。カゼ…。君は、片肺のカラスなんだよ…。・・・
夢から、覚めるんだ! そして、ぼくを、早く受け入れるんだ!・・・
・・・
・・・
(2)・・・
・・・
若菜は、その時、薫の運転する軽自動車に乗っていた。若菜の不・・
安が、激しく薫を急き立てていた。・・・
若菜は、カゼと会ったことはない。しかし、東村の話を聞いて、・・
カゼのことを知っているような気がした。カゼという光を、自らの・・
光の部分が、過去に感じているような気がした。・・・
「カ、オ、ル…。ワ、タ、シ、カ、ゼ、ヲ、シッ、テ、イ、ル…」・・・
若菜は、薫に、そう言った。カゼが、自らとは、異なる光に思え・・
た。リンという女の子の見た光は、淡く揺れていたという。瞳の奥・・
ではなく、額の表面に揺れていたという。・・・
自分たちのような光ではない。自分たちの光は、表面に揺れたり・・
しない。瞳の奥に、静かに、その姿を漂わせているだけなのだ。額・・
に揺れたり、背中に揺れたりしない。・・・
カゼは、本当の光を探しあぐねている…。若菜には、どうしても・・
そう思えた。そして、まだ見ぬカゼという光を、非常に身近に感じ・・
た。・・・
カゼは、分離した光だ…。自分も、そうであったように、カゼは、・・
激しい未来への思いに分離した光なのだ。自らの宇宙を飛び出した、・・
勇気の光なのだ。そして、未だに、ひとつへと戻ることができない・・
でいる。・・・
「カ、オ、ル。ワ、タ、シ、カ、ゼ、ニ、ア、ウ…」・・・
そう思うと、急に不安になった。若菜は、薫に伝えた。光の姿で、・・
薫に入った。・・・
「カゼくんのことが、何だか不安なの…。カゼくんを、私の光の部・・
分が知っている。私の過去と、カゼくんの過去は、きっと関係して・・
いる。そして、カゼくんは、分離した光のままよ。カゼくんに、危・・
険が押し寄せている。そんな気がするの…」・・・
薫は、それを、すぐに理解してくれた。若菜は続けた。不安が、・・
若菜のなかで大きかった。・・・
「薫、竹野って、遠いの…」・・・
・・・
・・・
薫の車は、豊橋を過ぎていた。風が、少し強くなっていた。・・・
若菜は眠っていた。無邪気な寝顔が、時折、すれ違うヘッドライ・・
トに、薫にまで浮き上がる。城崎温泉まで、あと三キロ…。そんな・・
看板が、道路沿いに見える。右手に、円山川の流れが薄闇に感じら・・
れる。薫の車は、その川沿いの道を、日本海へ向かっていた。・・・
若菜から、その話を聞いた時、薫には、それほどの驚きはなかっ・・
た。ただ、姉のただならぬ表情に、薫の気持ちも、自然にカゼとい・・
う障害児へ向いていた。・・・
姉が、必死に訴えた。カゼが、危険だと言った。だからこそ、竹・・
野へ向かった。あまり自信のない車の運転を、薫は引き受けた。・・・
姉が、カゼという少年を、身近に感じていることは分かっていた。・・
そして、二人が、いつか出会うのも分かっていた。しかし、姉は・・
焦っていた。今までないことだった。・・・
薫は、スピードを少し上げた。雨が、フロントガラスに、時折落・・
ち始めた。・・・
・・・
・・・
東村は、その話を、順を追って話してくれた。しかし、それは、・・
秋子まで、巧く届いてこなかった。信じられない話だった。・・・
「そうなんだ、戦場なんだ。若菜は、戦場を逃げ回ったそうだ…」・・・
それでも、東村の話が、徐々に、カゼの夢と重なっていった。東・・
村は、ゆっくりと続けた。秋子は、黙って聞いた。・・・
「若菜たちは、戦うことをしなかった。それは、若菜の育った土地・・
に長く培われた、その土地の者たちの生きる姿だっんだ…」・・・
東村が熱くなっていた。秋子にも、その熱さが、少しずつ届き始・・
めていた。・・・
「若菜たちは、戦場を逃げることしかしなかった。敵兵を、殺した・・
り、恨んだりしなかった。それが、若菜たちの誇りだったんだ。若・・
菜たち一族は、歴史のなかで、一度も争いを起こすことはなかった・・
のだそうだ…」・・・
いつもの東村とは、明らかに違っていた。秋子は、怪訝な表情を・・
東村に向けた。しかし、東村は、それを、素早く跳ね返した。・・・
「若菜たちは、自分たちを光だと言った。戦場で戦わなかったのは、・・
そのことを、自分たちの一族は、昔から知っていたからだと言った。・・
光であるものは、光であるものを、傷つけたりしてはいけない。若・・
菜は、そうはっきりと言った」・・・
光だった…。秋子の脳裏に、カゼの光が浮かんだ。秋子の思いが、・・
カゼの純白の光へと揺れる。・・・
「不思議と、ぼくも、そのことが分かった。いや、分かるような気・・
がした…」・・・
東村の熱さが増していく。何かに取り憑かれたような視線を、秋・・
子に、鋭く向けている。・・・
「若菜は、それから、自分の死を語った。それは、光に戻っていく・・
ことだと言った…」・・・
話が、秋子の理解を超えていく。秋子は、その真意を、東村の鋭・・
い視線に探したが、それは、見えてこなかった。・・・
「一族の一人が、敵兵に囲まれていた。敵兵は四人いた。若菜たち・・
は、逃げ切れないと悟った。草むらのなかに、その一人は倒れてい・・
た。蝉が、異常なほどの勢いで鳴いていた」・・・
蝉…。また、蝉だ…。秋子も、東村に引きずられていく。カゼの・・
夢…。自らのデジャヴュ…。何かが、その話に見えてくる。そんな・・
思いが、秋子の脳裏を横切る。・・・
「助けようとした。それは、一族の子だった。大切な、将来の宝・・
だった。しかし、どうすることもできなかった。敵兵の一人が、そ・・
の者の前に立った。敵兵の剣が、太陽に激しく輝いていた」・・・
草むら…。敵兵の剣…。太陽に輝いた剣…。重なっていく。すべ・・
てが、秋子のなかに重なっていく。秋子に、軽い戦慄が走った。背・・
に一筋の震えが、鋭く過ぎた。・・・
「兵の一太刀目を、その者は交わした。その者は、勇気ある者だっ・・
た。敵兵の剣にも、怯まなかった。敵兵と、その者の睨み合いは続・・
いた。二太刀目が、その者を襲った。それも交わした。敵兵が泣い・・
ていた。その者は、敵兵に、戦いは早く終わりにしよう…。そう・・
言った」・・・
見えてくる。あの時のデジャヴュが、秋子の意識にはっきりと浮・・
かぶ。・・・
「敵兵と、その者は、その場で別れた。敵兵は、追っては来なかっ・・
た。その者は、敵兵を振り返ったりしなかった」・・・
それは、知っている気がした。いや、記憶のどこかに埋もれてい・・
る気がした。そう、その時、私は舟に乗っていた。そんな気がする・・
…。秋子も、東村のように熱くなっていた。握るこぶしが、汗ばん・・
でいく。・・・
「若菜は、舟を出した。舟は、草むらの近くの岸辺に隠していた」・・・
舟…。やっぱり、私は、舟に乗っていた。舟…。そう、舟…。そ・・
して、その舟には、もう一人女が乗っていた。秋子のデジャヴュが、・・
東村の話の先を歩いていく。再び、秋子の背に震えが走る。・・・
「その者が、その舟に気付いた。若菜は、軽く微笑んだ…」・・・
ホホ…。鳥のような声…。蝉のなかに透き通った声…。まさか、・・
まさか…。秋子が我に戻る。そんなことがあるはずがない…。秋子・・
の震えが大きくなる。ホホ…。ホホ…。ホホ…。秋子は、声になら・・
ない叫びを上げていた。・・・
「ホホ…。そう笑った」・・・
秋子に、めまいが襲った。秋子は、その場に倒れ込んだ。薄れる・・
意識に、女が、秋子に手を伸ばしていた。・・・
・・・
・・・
「薫…」・・・
小雨の向こうに、城崎駅のホームの明かりが見えた時だった。若・・
菜の光が、薫のなかに入った。・・・
「カゼくんが、危険なの! カゼくんの光が、激しく揺れているの・・
…」・・・
若菜の叫びだった。若菜は、助手席で、眠りを貪っている訳では・・
なかった。既に、光の形で、若菜は、自らを飛び出していた。若菜・・
の光が、何かを見たのだろう…。薫は、目を閉じたままの若菜に頷・・
いた。・・・
「先に行っている…」・・・
姉は、そう告げた。姉の光が、薫から離れた。・・・
・・・
・・・
-そうだ、ふねだ。ぼくは、それから、ふねに、のったんだ…。・・・
カゼは、夢と現実に揺れていた。蝉の声が、カゼから消えた。・・・
-ふねだ。ぼくは、ふねに、のった。・・・
微睡みの状態で、カゼは布団を出た。秋子はいなかった。少し、・・
寂しいような気がした。・・・
-ふねに、のらなきゃ…。・・・
隣の部屋が明るい。かあさんは、まだ起きている…。カゼは、音・・
を立てないように、廊下へ続く襖を開けた。うまく腕が動いた。・・・
「ホホ…」・・・
-ぼくを、よんでいる。きこえるよ…。いま、いくから。もう、へ・・
いたいさん、いない…。・・・
カゼは、階段を下りた。誰も、気づかないようだ。カゼは、小さ・・
く微笑んだ。いつもより、少し動きがスムーズだった。・・・
「ホホ…」・・・
-とりのようなこえだよ。でも、せみのこえが、きこえないや…。・・・
汐の香りが、カゼを誘った。カゼは、玄関を出た。風が、うつつ・・
のカゼに心地よかった。・・・
「ホホ…」・・・
-そうだよ、ぼくは、ふねに、のるんだ…。・・・
やはり呼んでいた。声の方に行けば、舟がある。カゼは、そう・・
思った。カゼは、一人浜に向かった。・・・
雨が、強くなっていた。しかし、カゼは、そんな雨をも、感じる・・
ことはなかった。思いは、舟へとひたすらに向かっていた。・・・
カゼは走った。夢と現実の境目を走った。いや、その両方を走っ・・
た。おぼつかない足を、カゼは、懸命に蹴った。冷たい雨が、カゼ・・
の頬を叩き続けた。・・・
・・・
・・・
そこは、雲のなかのような空間だった。淡い光が、空間に数多く・・
見える。時が止まったように、空間の光たちは、身動きひとつしな・・
い。静寂だけが、微かに揺れる空間だった。・・・
若菜は、その空間にいた。若菜にも、経験のある場だ。・・・
分離した光…。空間は、それらの眠る場だった。若菜の光も、困・・
難を選んだ際に分離した。そして、この場に眠った。若菜は、カゼ・・
を、この空間に探していた。嫌な予感は大きくなっていた。意識の・・
隅に、分離した光が揺れるのが過ぎたのだ。それが、カゼの光のよ・・
うに思った。若菜は、カゼを知っている。それは、もう疑っていな・・
かった。そして、カゼの光は、分離したままなのだ。それが、若菜・・
には感じられた。意識に過ぎた光は、輝きが褪せていた。だから、・・
カゼが気になった。若菜は、光の姿で、カゼを追っていた。・・・
眠りの光は、揺れてはいけない。分離した光なのだ。いわば、こ・・
こに存在するのは、光の残像なのだ。残像は、揺れると消えてしま・・
う。分離したもう一方の光への道を、踏み外してしまう。分離した・・
光は、この空間で、本来向かうべき光が見えてくるのを待つ。元々、・・
ひとつだった光が、再び、ひとつに結びつく。その道が、この空間・・
に見えてくるのだ。・・・
だから、ここの光は揺れてはいない。ここに存在する光は、自ら・・
の光の意味を、正しく理解している。光たちは、その日が来るのを、・・
眠りのなかで待っているのだ。・・・
しかし、カゼの光の場合は違う。若菜には、それが分かる。カゼ・・
の背が光った…。カゼの額が光った…。それは、この空間の光が揺・・
れている証だ。どちらかが、本当の光の意味を理解していないのだ。・・
カゼの光は、本来の道を、踏み違えている。・・・
若菜は、空間を飛び回った。揺れている光…。それを、若菜は懸・・
命に探した。・・・
やはり、若菜の思いは正しかった。空間の下方に、一際揺れてい・・
る光が見えた。若菜は、それに向かった。白い光が、透明に激しく・・
揺れていた。・・・
若菜は、その光に入った。しかし、そこには、何もなかった。既・・
に、光は消えていた。残像だけが、激しく揺れているに過ぎなかっ・・
た。それでも、若菜は、その光の抜け殻に入った。残像の揺れを頼・・
りに、その光を追った。若菜は、光の残像をも越えた。遠くに、同・・
じ揺れの光が見えた。それは、浜辺にいた。薫の言った竹野の浜…。・・
若菜は、その浜へ飛んだ。・・・
・・・
・・・
光は、カゼを叩いた。カゼが、狂ったように走っていく。暗闇の・・
浜に、激しく砂を掻き上げていく。光は焦った。カゼに、夢と現実・・
の区別が付かなくなっている。光は叫んだ。カゼの意識に、大声で・・
叫んだ。・・・
-ダメだよ! カゼ…。戻るんだ! 夢から、抜け出るんだ!・・・
その先は、ぼくたちの死が待っているだけだよ。ぼくたちは、荒・・
海に死んだんだよ。覚えてるだろう…。光は、カゼの光を、懸命に・・
叩いた。カゼの光が、輝きを失いつつあった。・・・
その時、光の記憶のなかにある、別な光が、光を呼んだ。光は、・・
それへ振り返った。・・・
「私、若菜。カゼくんが、どうしたの…」・・・
瞬間に、二つの光に理解が走った。お互い、記憶に深い光同士・・
だった。・・・
「カゼが、ぼくを残したまま、光の理解のないまま、夢を通じて、・・
死へ向かっている。あの時、ぼくたちは、荒海に沈んだ。それへと、・・
カゼが向かっている。カゼを止めなければ…」・・・
光に懐かしい風が吹いた。しかし、それを、光は無視した。それ・・
どころではなかった。・・・
「誰かに、知らすのよ…」・・・
光の意識に、リンの顔が浮かんだ。前歯の抜けた、とぼけたリン・・
の笑みが、光に、素早く過ぎた。・・・
「分かった」・・・
光の思いが、若菜に届いた。光は、カゼを若菜に任せ、意識を、・・
リンに飛ばした。・・・
「私が、カゼくんを、叩き起こすから…」・・・
光の後ろから、そんな声が聞こえた。鳥の鳴くような声だった。・・・
・・・
・・・
カゼは走った。そして、舟を探した。・・・
-だれかが、よんでいる。あいつか…。いや、ちがう。とりのよう・・
なこえだ…。・・・
寒くはなかった。冷たい風が、カゼの背中を押していた。カゼは、・・
狂ったように走った。暗闇の浜に、少しだけ、遠くの灯台の光が出・・
入りしていた。カゼは、その明かりが来る方へ走った。・・・
-おきろ、おきろ、て、うるさいや。ぼくは、おきている。ふとん・・
から、でている…。・・・
それより、ぼくは、ふねに、のるんだ! そして、こきょうへ、・・
かえるんだ!・・・
故郷の意味が、カゼには分かっていた。戦いのない世界だ。静か・・
な山のなかだ。浜を走るカゼに、それが見えていた。手を伸ばせば、・・
届きそうだった星…。その手前には、少しも欠けることのない月が・・
揺れていた…。カゼの思いは、カゼの夢のなかの故郷へ飛んでいた。・・・
-ふねだ、ふねが、あった!・・・
浜の途切れる岩の影に、去年の夏の残り香のボートが見えた。カ・・
ゼは、それへと向かった。ホホ…。あの声が、微かにしたように・・
思った。・・・
-ふねだ、ふねが、あった!・・・
・・・
・・・
「大変だ! カゼくんが海に!」・・・
カゼが、岩影から、ボートを懸命に引きずり出している。雨の砂・・
が重いのだろう、カゼの逞しい筋肉が軋んでいる。・・・
「カゼくん! 起きるのよ! 夢から、覚めるのよ!」・・・
若菜は、懸命に叫んだ。それは、カゼにまで届かない。カゼの光・・
が、若菜を気づかない。・・・
「カゼくん! 起きるのよ!」・・・
カゼの腕の力が、雨の砂に打ち勝っていく。ボートが、徐々に、・・
カゼに引きずられていく。・・・
「カゼくん! 起きるのよ!」・・・
若菜は、カゼの光に入ろうとした。しかし、それは無理だった。・・
カゼは、意識を、貝のように閉じていた。頑なに、カゼは、自らの・・
夢を追い続けていた。・・・
波が、カゼの足に絡んていく。白い飛沫が、灯台の明かりに浮か・・
んだ。・・・
「起きるのよ!」・・・
若菜は吠えた。ボートの底を、波がさかんに舐めていた。・・・
・・・
・・・
気を失っていた分だけ遅れた。そうでなければ、隣の部屋の小さ・・
な音にも、秋子は、素早く反応しただろう。・・・
「アキ。大丈夫か…」・・・
東村が、覗き込んでいた。秋子の意識が戻った。しかし、すぐに・・
は立てなかった。カゼへの不安が、秋子のなかで、不協和な音を大・・
きくしていた。・・・
・・・
・・・
-リンちゃん!・・・
光は、強引に、リンを叩き起こそうと思った。リンの機嫌のこと・・
など、今は、考えてはいられなかった。光は、リンの夢のなかで悪・・
魔を演じた。・・・
-リンちゃん! 起きるんだ! カゼが、一人で浜にいる。誰かを、・・
起こすんだ!・・・
リンが、寝返りを打った。眠そうに目を開いた。・・・
「カゼのおにいちゃん…」・・・
リンが、ゆっくりと立ち上がった。・・・
・・・
・・・
それは、ほとんど同時だった。秋子と、リンが、カゼの眠ってい・・
るはずの部屋に雪崩れ込んだ。・・・
「カゼ!」・・・
秋子が、布団を覗いた。そこには、カゼはいなかった。・・・
「カゼ!」・・・
不安が的中した。秋子は、再び、気を失いそうになった。・・・
「おばちゃん! カゼのおにいちゃん、海に行ったんだって!」・・・
リンが、秋子に言った。どうして…。秋子は、リンを見た。・・・
「ナギのおにいちゃんが、リンに言った」・・・
リンの言葉を信じた。秋子は、襖に手を掛けた。・・・
「リンちゃん、このこと、高志おじさんに言っておいて!」・・・
秋子は、浜へ向かった。冷たい雨と風は、秋子をも、激しく襲っ・・
た。・・・
「カゼ!」・・・
・・・
・・・
腕が、ちぎれそうだった。重い砂は、カゼには、やはり厄介なも・・
のだった。・・・
-くそー、すなが、おもいや…。でも、もうすくだ…。ふねを、う・・
みに、うかべるんだ…。・・・
カゼは、ボートを波に付けた。雨と風が、益々強くなっていた。・・・
-よし、いいぞ。ふねを、うみに、うかべるんだ…。・・・
後は、楽だった。重い砂も、押し寄せてくる波が、それを軽くし・・
た。カゼは、最後の力を振り絞り、ボートを波に乗せた。・・・
-うみだ。ぼくは、こきょうへ、かえるんだ…。・・・
カゼは、ボートに乗った。オールなどなかった。・・・
-ふねだ、ぼくは、ふねにのったぞ!・・・
助かったと思った。海の上には、戦いはないと思った。カゼは、・・
一人小さく微笑んだ。あの鳥の声を真似てみた。・・・
「ボホ…」・・・
波が、カゼの舟を沖に浚っていく。灯台の光が、舟の上のカゼに・・
は、不思議なほど明るく見えていた。・・・
・・・
・・・
いくら呼べども、その叫びはカゼには届かなかった。カゼの舟が、・・
沖に流されていく。雨と、風に、晒されたまま、カゼが、沖に流さ・・
れていく。・・・
「カゼくん! 起きるのよ!」・・・
若菜は、舟のカゼを追った。追いながら、叫び続けた。・・・
「戻るのよ! 戻るのよ!」・・・
あの時、助けることができた。しかし、今は、その術がない…。・・・
「戻るのよ!」・・・
若菜は叫び続けた。若菜の光にも、カゼの舟を叩く風と、波が、・・
激しいことは分かっていた。・・・
・・・
・・・
(3)・・・
・・・
カゼが、ようやく、一人で歩けるようになった頃だった。カゼは、・・
秋子の目を離した隙に、玄関を出た。・・・
-ダウン症の子供さんは、普通の子供たちより、数段、危険が大き・・
いです。やはり、よく事故が起きます。気を付けて下さい…。・・・
お宅のお子さんは、普通じゃないのですから…。言い回しこそ違・・
え、カゼのことで、釘を差されていたことだった。秋子は、その時、・・
玄関を出ていったカゼを追った。・・・
それまでは、普通だと思っていた。いや、そう信じたかった。幼・・
い子供たちと、変わることないと思っていた。カゼは、少し遅いな・・
がら順調に育っていた。・・・
しかし、カゼはダウン症だった。カゼの平べったい顔は、祖父の・・
武雄に似たんだ…。トロンした瞳は、祖母千恵子譲りだ…。そして、・・
少しだけ内側に曲がっている左手の手首は、いつかは直るものなん・・
だ…。秋子は、無理にそう思っていた。・・・
-幼い頃は、普通の子供たちと、外見上、あまり変わりは見られな・・
いかも知れません。カゼくんは、それほど重度の障害ではありませ・・
んから。しかし、それは、幼い頃だけのものです…。・・・
医者は、秋子に希望を奪っていった。信じたい思いを、少しずつ・・
壊していった。・・・
「カゼ!」・・・
カゼが階段を下りた。カゼが、おぼつかない足を懸命に跳ね上が・・
ているのを、秋子は、その時、悲しみで見た。・・・
「カゼ!」・・・
その時は助かった。擦り傷だけだった。・・・
しかし…。今は違う…。・・・
カゼを、このように追うのは、始めてのような気がした。いや、・・
カゼをよく追った。カゼは、自分の思いと異なる行動をよくとる。・・
秋子は、カゼをよく追った。公園へ、国道へ、そして、学校へ…。・・・
しかし…。今のカゼは違う…。・・・
何かが、カゼを急き立てている。あの光に、カゼは、強く影響さ・・
れている。秋子は、その思いで、風と雨のなかを走った。・・・
「カゼ!」・・・
カゼのおにいちゃんは、海に行った…。リンは、そう言った。海・・
…。秋子に、その一瞬、自らのデジャヴュが揺れた。カゼが海に…。・・
そして、カゼが、舟に乗る。沖へ流されていく…。一体、何が、カ・・
ゼを、そこまで走らせるのだ。カゼに、何が起きているんだ…。・・・
カゼが、海に消えていく。カゼが、闇に消えていく。秋子にに、・・
激しいパニックが襲った。秋子は、微かに見える波打ち際へ走った。・・
どうしようもない思いを、走りと叫びに乗せた。・・・
「カゼ! どこにいるの!」・・・
闇に、風が舞っていた。冷たい雨が、闇を深く見せていた。風が、・・
カゼの悲鳴に聞こえる。砂が果てしなく重い。・・・
「カゼ!」・・・
闇が、どこまでも拡がっていく。それに逆らうように、秋子の視・・
界が、雨に遮られ、極端に狭まっていく。秋子は、砂に何度も転ん・・
だ。焦る思いが、秋子のなかで、激しく爆ぜていた。・・・
「カゼ! どこにいるの!」・・・
砂の重さに、自らの鈍い走りを恨んだ。カゼも、そう思ったに違・・
いない。秋子の脳裏に、カゼのもどかしい走りが揺れる。秋子は、・・
闇に叫んだ。・・・
「カゼ!」・・・
それは、カゼには届かない叫びだった。風が、秋子の悲鳴を、闇・・
に弾き飛ばした。・・・
・・・
・・・
-ふねだ、ふねだ。きもちいいや…。・・・
カゼの瞳に、安堵の色が浮かんだ。舟の上は静かだった。風の響・・
きも、波の音も、カゼには、まったく聞こえなかった。カゼは、そ・・
の舟に、大の字に寝ころんだ。・・・
-しずかだよ…。こきょうへ、かえるんだ…。・・・
カゼは、再び、夢へと向かっていった。思いに、やはり、自分の・・
故郷が見える。カゼは、故郷の風を探した。・・・
-せんそうは、きらいだ…。でも、うみのうえまで、へいたいさん、・・
こない。・・・
カゼの微睡みは、不規則に揺れた。意識に、夢と、過去、そして、・・
微かな現実が、入れ替わり押し寄せた。それでも、カゼの周りは静・・
かだった。夢に揺られる波の背が、カゼには、秋子の子守歌のよう・・
だった。・・・
心が軽くなった。カゼは、舟に、身を起こした。微睡みが、激し・・
く揺れた。・・・
-うえー、すごいなみだ…。まっくらだ…。すごいかぜだ…。すご・・
い、すごい。まっくらだ…。・・・
少しだけ怖かった。カゼは、舟に、先程のように寝ころがった。・・・
-なんだ。ゆめにいるほうが、ずっと、ずっと、しずかだ…。ゆめ・・
のほうが、いいや…。・・・
微睡みが、徐々に重くなっていく。カゼは、眠たさに、自分の目・・
を擦ろうとした。風を、少しだけ感じた。・・・
-あれれ…。ぼくの、めがないや…。・・・
仕方なく、頭に手を持っていった。舟の揺れを、少しだけ感じた。・・・
-あらら…。ぼくの、あたまがない…。・・・
何だか、おもしろくなった。カゼは、次々と、自分の身体に手を・・
回していった。周りの暗さが、少しだけ感じられた。・・・
-ひえー、あらら、だ…。ぼくの、からだがない。あの、ぽんこつ・・
の、からだがない…。こりゃ、いいや…。もう、だれにも、ばかに・・
されないぞ…。・・・
カゼは、意識のなかで、飛び跳ねた。そこには、カゼのポンコツ・・
でない身体があった。・・・
-ウッヒャー! たのしいや!・・・
カゼは楽しんだ。喜びが、カゼに駆け巡った。自由に動く身体に、・・
カゼの思いは、果てしなく拡がった。砂浜のリンを、走って抜かし・・
た。秋子に、押してもらっているブランコから、大きく飛び降りた。・・
学校の跳び箱の六段を、一気に、飛び越した。公園の鉄棒をしっか・・
りと握り、何とか、逆上がりができた。・・・
-いいぞ、いいぞ、ぼくは、ふつうだ…。やったぞ!・・・
カゼは、舟を立った。激しい波が、カゼの顔面を叩き付けた。・・・
-うえー! だめだったんだ…。ふねのうえは、こわいんだ…。・・・
素早く、カゼは、舟に身を沈めた。そして、自分の思いの続きに・・
向かった。・・・
カゼは、はしゃいだ。嬉しくて仕方なかった。自由に動く身体…。・・
カゼは、それを、嬉しさに感じ続けた。・・・
-もう、ぼくは、ぽんこつじゃない…。かあさんに、みせてあげる・・
んだ。かあさん、よろこぶかな…。・・・
カゼは、夢に落ちていった。夢のなかの舟も、少しずつ、強い波・・
風を受け始めていた。カゼは、夢のなかで、自由な身体ではしゃぎ・・
続けた。・・・
・・・
・・・
-カゼ! ぼくを見るんだ!・・・
光は、カゼの夢に入った。カゼが、光の理解を、少しだけ始めて・・
いる。光に、それが見える。カゼの思いに、小さな扉が見える。・・・
-カゼ! ぼくを見るんだ!・・・
光も走った。カゼの蹴り上げる、砂をかぶった。ブランコから飛・・
ぶカゼの風を、過ごした。・・・
-カゼ! ぼくを見るんだ!・・・
カゼが飛んだ。カゼが走った。自由に動き回った。それが、カゼ・・
の、光の理解の始まりだ。・・・
カゼに、幼さが、真っ白に戻ってきている。自由に動く身体…。・・
それは、今までの夢でも、少しはあった。しかし、それを、カゼが、・・
意識に受け止めたりしなかったのだ。意識の奥の幾つかの襞が、カ・・
ゼのその思いを、その都度弾いていたのだ。・・・
つまり、無意識のうちに、カゼは、それを信じていなかった。普・・
通じゃないことを、カゼは、カゼなりに受け止めていた。・・・
その受け止め方が、今までのカゼを、縛り付けてきた。負の思い・・
が、カゼの光を、色褪せさせていた。自分は普通じゃない…。それ・・
を、当然なものとして、カゼの光は、今まで受け止めてきた。・・・
しかし、今、カゼは、自らの可能性に、意識を向けている。砂浜・・
のリンを、追い越した。ブランコを、大きく飛んだ。カゼの意識の・・
なかで、その動きが、カゼの光に、色を見せ始めている。・・・
それが、カゼへの小さな扉だった。光は、その扉をこじ開けた。・・・
-ぼくを、見るんだ。カゼ!・・・
それでも、光は焦っていた。舟に眠るカゼの夢は、確実に、あの・・
時の死へと向かっている。夢の舟が、軋み始めている。そして、竹・・
野の海も、激しく荒れている。カゼのボートが沈んでいく。・・・
-カゼ! ぼくを見るんだ!・・・
光は、カゼの光に飛びついた。カゼが、一瞬、光へ振り返ったよ・・
うな気がした。・・・
・・・
・・・
「アキ!」・・・
東村が、秋子に寄った。そして、源助が、松屋のワゴン車を、浜・・
に入れた。ヘッドライトが、浜の闇を、切り裂いた。・・・
「カゼは!」・・・
後ろからの閃光が、秋子を、我に帰した。秋子は、東村の腕を、・・
強く掴んだ。・・・
源助が照らしたワゴンの明かりが、浜の顔を変えた。源助も、秋・・
子の側に寄った。リンも、妙子も、真紀子もいる。・・・
「リン! 本当に、カゼくんは海へ行ったのか!」・・・
妙子が、怒ったように、リンに言う。秋子は、リンへ振り返った。・・
間違いであってほしい…。秋子の思いが、リンに向いた。・・・
「そう言ったの! おばちゃん…、そう言ったのよ…」・・・
リンが、むきになっている。妙子に信じてもらえない苛立ちを、・・
秋子に飛ばしている。・・・
「おばあちゃんのバカ!」・・・
ヘッドライトだけでは、浜の闇が、すべて消え去っていくはずが・・
なかった。それでも、源助が、浜を走り出した。・・・
「とにかく、探すんじゃ!」・・・
その声に、リンと真紀子が続いた。秋子は、ライトの照らされた・・
先へ向かった。ここへ来る前に、買ってやった大人用のスニーカー。・・
秋子は、その足跡を、波打ち際近くに探した。・・・
雨が、勢いを少し沈めた。しかし、風は変わらない。秋子は、風・・
を斜めに受け、ライトの光を頼りに砂を這った。・・・
重い雨を含んだ砂に、秋子の探し物は、形の通りの姿を浮かばせ・・
ていた。カゼの足跡だった。月と星の模様が、足型のなかにひとつ・・
ずつ見えた。不規則に、その跡形が、波の方へと向かっている。・・・
「カゼの靴!」・・・
大きく見えた。それは、異常なほど大きく見えた。その大きさに、・・
秋子から、今までとは別の涙が溢れ出た。大きくて、当たり前なん・・
だ…。カゼは、もう中学生なんだ…。・・・
「高志さん!」・・・
叫びながら、秋子は、その足型を追った。途切れ、途切れに、や・・
はり、波に向かっていた。・・・
・・・
・・・
「薫、浜に向かって車を止めて。そして、岩場の方を、ライトで照・・
らして!」・・・
若菜は、薫に、そう告げた。薫の車は、竹野の浜沿いの道に、差・・
し掛かっていた。・・・
「カゼくんが、海へ出たの…」・・・
薫は頷いた。それを感じて、若菜は、再び、カゼの乗る舟へと、・・
思いを飛ばした。・・・
・・・
・・・
岩場が、別な光に明るくなった。どこからか、松屋のワゴンとは・・
違う車のライトが、それを照らした。秋子は、その光のなかに、カ・・
ゼの痕跡を見つけた。・・・
岩の影に、それはあった。何かが強く砂を削った跡が、波打ち際・・
へ消えていた。そして、その側に、月と星の模様が散らばっていた。・・・
「ボートの跡だ」・・・
後ろから、東村が、秋子に声を掛けた。後ろからのライトに、東・・
村の顔が白く見えた。・・・
「カゼが、ボートで沖に出た!」・・・
砂を削った跡は、深く掘られていた。カゼの力を、秋子は思った。・・
カゼの、逞しくなった胸の厚さを思った。太くなった腕を思った。・・・
「カゼが、ボートで沖に出た!」・・・
秋子は、狂ったように叫んだ。やはり、あの自らのデジャヴュが、・・
秋子に、激しく揺れた。カゼが海に…。そして、カゼが舟に…。不・・
安が形になっていく。カゼが、沖へ流されていく…。・・・
「そんなに、時間は経っていない!」・・・
東村の声が、秋子には、遠くに聞こえた。東村が、秋子の肩を抱・・
いた。・・・
「親父! 舟を出してくれ!」・・・
東村の叫びが、秋子を過ぎる風を越えて飛んだ。こちらへ走って・・
くる源助が、大きく手を上げた。少し離れた波止場に、民宿松屋の・・
釣り船がある。釣り客用の小さな舟だ。源助が、波止場へ向かった。・・・
「見えた! あそこ、あそこ!」・・・
東村の後ろで、リンが、大きく叫んだ。秋子は、その声に、素早・・
く反応した。リンには、カゼの光が見える。・・・
「見える! カゼのおにいちゃん、あそこ、あそこ!」・・・
リンは、闇の先を指差した。秋子も、その先を見た。・・・
「あそこ! 灯台の下、カゼのおにいちゃんの光が見える!」・・・
東村が、それを確認する。東村は、既に、上半身裸になっていた。・・
盛り上がった肩の筋肉が、後方からのライトに浮かび上がる。・・・
「リン、灯台の下だな!」・・・
東村は、スボンも脱いだ。靴も靴下も取り、素足で波に入る。・・・
「リンは、じいちゃんの舟に乗る! あの光は、じいちゃんに見え・・
ない!」・・・
リンが、源助の後を追った。二人とも、素早い動きだった。それ・・
ぞれに、的確な行動だった。・・・
「大丈夫だ、アキ! カゼは、ぼくが助けてみせる!」・・・
止めようとしたが、無理だった。東村が、一瞬に、荒れる波へと・・
消えた。遠い灯台の方へ、白い飛沫が進んでいった。・・・
「高志さん!」・・・
秋子も、行動を起こした。松屋のワゴンのライトを灯台へ…。秋・・
子も走った。風を逆らった。・・・
・・・
・・・
(4)・・・
・・・
-すこし、つかれたよ…。ちょっと、はしゃぎすぎたよ…。・・・
カゼは、自由に動くようになった腕と、足を、休めた。カゼの夢・・
を乗せる舟が、大きく揺れていた。・・・
-でも、なんか、へんだな…。ぼくが、すこし、ひかっている。・・
あっ、あいつかもしれない…。・・・
カゼの夢が、時を歪めていく。カゼに見えた光は、歪んでいく時・・
の向こう側にあった。・・・
-あいつ? あいつ? いったい、だれだ…。・・・
舟の揺れが激しくなる。波が、何度も、カゼの顔を叩く。・・・
-そうか、あいつか…。あのひかりは、ぼくなんだ…。・・・
光が近くになる。カゼは、その光に、手を伸ばした。手は、真っ・・
直ぐに伸びた。・・・
-かえってきた。あいつが、ぼくが、かえってきた…。・・・
カゼの手が、真っ直ぐに伸びた…。だから、その光を掴んだ。カ・・
ゼの光への扉は、カゼが、自らの力でこじ開けた。・・・
-かえってきた…。まっていたんだよ…。・・・
・・・
・・・
光が弾けた。純白に、光が、カゼの奥深くで閃光となった。・・・
-分離した光が、とうとう一つになった。・・・
白い閃光が、カゼのなかを駆けた。二つの光がひとつになった。・・
光の意識が、カゼに吸収されていく。・・・
-長かったよ。長かった…。・・・
光は、カゼのなかで眠った。安堵が、光を、心地よさへと誘って・・
いた。・・・
・・・
・・・
-まぶしいよ…。まっしろだ。まわりの、みんなが、まっしろだ…。・・・
カゼが掴んだ光が、カゼの思いを、すべて純白に包み込んだ。・・・
-あたたかいよ…。かあさんのひざと、いっしょだ…。・・・
カゼの夢は、覚めようとしていた。それが、カゼには、何となく・・
分かっていた。この夢の先には、荒海の闇が待っている。それを、・・
カゼは、不思議な思いで感じていた。・・・
-そうなんだ。このゆめのつづきは、おそろしいんだ…。あいつが、・・
いっていたよ。このゆめを、つづけては、いけない…。ちがったか・・
な…。・・・
カゼは、微睡みを遠ざける努力を開始した。耳に届く風の音を、・・
カゼは、意識で追いかけた。・・・
-まぶしいよ…。おもいだしたよ、この、まぶしさは…。・・・
カゼが目覚めていく。カゼの意識に届く、風の音が大きくなって・・
いく。・・・
-そう、あのときの、いろだ。そう、ぼくの、うちゅうの、ぼくの、・・
たいようだ…。・・・
舟が軋んだ。カゼが目覚めた。カゼの宇宙の太陽が、素早く姿を・・
消した。・・・
-うえー、すごいなみだ…。まっくらだ…。すごいかぜだ…。すご・・
い、すごい。まっくらだ…。・・・
カゼは、夢に戻ろうと思った。しかし、うまくいかなかった。周・・
りの闇に、カゼは、激しい恐怖に襲われていた。ボートの激しい揺・・
れを、カゼは、始めて感じた。・・・
「だ、ず、げ、で、ぐ、でー!」・・・
・・・
・・・
「薫さん!」・・・
源助は、驚きの声を上げた。波止場から、舟を出そうとした時・・
だった。薫の姿が、舟のライトに浮かび上がっていた。・・・
「源助さん!」・・・
薫は、雨と風をかき分け、源助の舟に乗った。乱れた髪が、頬に・・
貼り付いていた。・・・
「姉さんは、カゼくんの光が見えるの! カゼくんを、見つけられ・・
るわ!」・・・
薫の激しい思いが、源助にも伝わった。・・・
「じいちゃん、早く! あっちよ、灯台の少し左!」・・・
リンが舟先で、源助を急かしている。・・・
「そう、灯台の方。姉さんは、そう言っていた!」・・・
源助は、舟を出した。灯台なら、目を瞑っていてもいける。源助・・
の松屋丸が、激しく吠えた。・・・
「リンと、薫さん。それから、若菜さんがいれば、百人力じゃ!」・・・
源助も吠えた。松屋丸が、フル回転のエンジンに唸りを上げてい・・
た。・・・
「カゼ! 待っとれ!」・・・
・・・
・・・
秋子は、松屋のワゴンのライトをビームにしたまま、再び、波打・・
ち際に戻った。浜の端から、舟が一艘、灯台の方へ向かっていた。・・・
「カゼ!」・・・
秋子には、祈ることしかできなかった。東村、源助、そして、リ・・
ン…。それぞれが、カゼに向かってくれている。秋子は祈った。闇・・
の海に、カゼの姿を追い求めた。・・・
「カゼ!」・・・
灯台の灯が揺れている。その下に、秋子には見えないカゼの光が・・
浮かんでいるのだ。雨の向こうを、秋子は凝視した。灯台の灯が、・・
少しずつ大きくなっていく。・・・
「カゼ!」・・・
秋子は、その場に膝を附いた。意識が、秋子を、徐々に離れてい・・
く。夢へと引き込まれていくように、秋子は、めまいに落ちていっ・・
た。・・・
・・・
・・・
カゼが、手招きしている…。京都の駅での、あの光の姿だ…。・・
真っ白だ。秋子は、カゼに手を伸ばした。カゼが、真っ白に光って・・
いる…。秋子の手は、カゼには届かない。・・・
-かあさん、たすけてよ…。・・・
どうしたの、カゼ…。あなたは、今、神のような光を抱いている・・
のよ。大丈夫よ、カゼ…。秋子は、もう一度、カゼへ手を伸ばした。・・・
-ひかりが、もどってきたんだ。でも、まわりが、まっくらなんだ・・
…。だから、たすけてよ…。・・・
カゼの光が消えていく。秋子の手に、カゼの温もりが届かない。・・・
-かあさん、ぼく、しんじゃうよ…。・・・
秋子は、気を失った。灯台の灯が、秋子の意識に、微かな残像を・・
残した。・・・
・・・
・・・
カゼは、恐怖に、気を失いかけていた。激しい波風が、カゼの・・
ボートに遠慮などしない。・・・
-かあさん、ぼく、しんじゃうよ…。・・・
ボートが、沈み始めた。カゼの意識が、徐々に、遠くなっていっ・・
た。・・・
-かあさん、ぼく、しんじゃうよ…。・・・
・・・
・・・
東村は、闇を泳いだ。時折、顔を上げて、灯台の位置を確認した。・・・
不思議だった。東村は、何かの強い磁力に闇を進んでいた。自ら・・
の意志以外のものが、東村のなかに働いていた。・・・
しかし、東村は、その思いを振り切りながら進んだ。自分は、自・・
分の意志で闇を進んでいる。灯台に向かえば、カゼを見付けること・・
ができる。カゼを助けるのは、自分しかいない。東村は、そう思う・・
ことによって、自らを奮い立たせた。海の冷たさは感じなかった。・・
波は、思ったほど高くなかった。・・・
水泳は得意な方だった。学生時代には、水球部から、声が掛かっ・・
たほどだ。しかし、体力には限界があった。激しい波に、東村の手・・
足は、果てしなく重くなっていた。・・・
息子…。そんな言葉が、東村に、何度も浮かんだ。東村は、その・・
都度、カゼを愛することができると思った。秋子と三人で、暮らし・・
ていけると思った。そして、なぜか、今なら、カゼの光が見えると・・
思った。愛せる者の光が、はっきりと、闇のなかにでも見えると・・
思った。・・・
懸命に水を切った。カゼへの思いに、どこからか、新しい力が沸・・
いてくる。・・・
灯台の火は、まだ少し遠い。しかし、確実に、その距離は詰まっ・・
た。そろそろ、カゼのボート、あるいは、カゼの光が見えてくる。・・
東村は、水を切るのを止め、頭を高く、カゼの光を探した。・・・
それと同時だった。思いも寄らぬ高い波が、東村を飲み込んだ。・・
波は、気まぐれだった。一瞬にして、東村の視界のすべてを遮った。・・・
バランスが崩れた。水を飲んだ。東村は慌てた。体勢が、立て直・・
せない。・・・
波は、東村の下半身を執拗に責めてきた。水中で逆流を起こし、・・
東村の腰から下に絡まった。渦巻き状に、水中へと東村を誘う。黒・・
い怒りを含んだ、黒いうねりだ。・・・
東村は耐えた。自力では、這い出すことができなかった。波が沈・・
むのを、ただ待つだけだった。東村は、貝のように丸くなり耐えた。・・
波と喧嘩しても、絶対に勝ち目はない…。東村は、それを小さな頃・・
から知っていた。・・・
長い時間だった。気が遠くなり始めていた。勝ち目のない戦いを、・・
波に挑もうとした時、東村の視界が闇から逃れた。波のうねりが、・・
東村を滑っのだ。東村の下半身に、素早く自由が戻った。・・・
波の上に、顔を出した。締め付けられていた肺に、酸素を、大き・・
く詰め込んだ。遠くなっていた意識が、東村に、間髪入れずに蘇っ・・
た。・・・
東村を襲った波は、去っていった。東村は、動かなくなった腕を、・・
交互に揉んだ。・・・
激しい疲労が、全身に染み込んでいた。波のなかでの立ち泳ぎす・・
ら、東村には、辛く厳しくなっていた。東村は、灯台の火を探した。・・
それは、かなり遠ざかったように見えた。・・・
それでも、東村は進んだ。休んでいる間などなかった。重い疲れ・・
を振り切ろうと、懸命に水を蹴った。そして、カゼへの思いを、そ・・
の蹴りに乗せた。・・・
・・・
・・・
若菜の光は、カゼのボートへ向かう東村の側へ寄った。その時、・・
若菜にひとつの理解が走った。・・・
東村は疲れていた。それでも、東村は、波を切って進んでいた。・・
カゼのボートまで、もう少しのところだった。・・・
「カゼ…」・・・
東村は、そう叫んでいた。若菜に、東村の思いが感じられた。若・・
菜は、東村に近づいた。東村の遠くなろうとしている意識を、若菜・・
の光が、静かに掴んだ。・・・
-もう少しよ…。あの時とは、違うのよ。もう少しなのよ…。・・・
・・・
・・・
疲れは、極限になっていた。東村は、自らの気力が萎えていくの・・
を感じ始めた。波は、益々高くなり、今や、進む方向すら分からな・・
くなっていた。・・・
「カゼ…」・・・
霞む意識に、カゼが浮かんだ。東村は、闇のなかに、カゼの幻影・・
を見た。カゼは、草むらへ走っていた。側で、秋子が、黒髪を、風・・
に靡かせていた。・・・
カゼは、東村から逃げていた。カゼは、東村を、恐怖の目で見て・・
いた。・・・
「???…」・・・
知らない言葉を吐きながら、東村は、カゼを追った。自らの殺気・・
が、カゼへ激しく迸った。東村は、剣を持っていた。蝉が、うるさ・・
いほど鳴いていた。東村は、草むらに向かった。カゼに追いついた。・・・
「???!」・・・
仲間が、東村を離れていった。東村は、剣を振りかざした。カゼ・・
が、それを交わした。・・・
「???!」・・・
もう一度、剣を降ろした。また、カゼは交わした。・・・
「戦いは、早く終わりにしよう…」・・・
カゼが、東村に、そう言った。東村は怯んだ。カゼのその言葉に、・・
殺意が、雲のように風に散った。・・・
「……」・・・
何も言えなかった。カゼが、東村を、通り過ごした。カゼの向か・・
う先に、小さな舟があった。・・・
「ホホ…」・・・
舟から、そう聞こえた。鳥のような声だった。東村は、岩陰に隠・・
れ、それを聞いた。・・・
「アキ…」・・・
その舟には、秋子と、もう一人、女が乗っていた。東村は、その・・
舟を追った。舟は、沖へと流されていった。・・・
東村から、幻影が去った。東村は、我に返った。酸素を求めた。・・・
あの時の恐怖が、東村に戻った。若菜の話に引き込まれていった・・
時の、あの数瞬の恐怖が、東村の意識を、激しく責めた。・・・
「ウオー!」・・・
恐怖が、東村を救った。東村の薄れていた意識が、恐怖で蘇った。・・
東村は、波を蹴った。恐怖から逃れるために、波を蹴った。・・・
・・・
・・・
-あなたは、あの時の兵隊だった。無抵抗の人間に、剣を降ろした・・
…。・・・
疲労が、少しずつ去っていく。学生時代のパワーが、東村に蘇っ・・
ていく。・・・
-しかし、それは、外れた。手元が狂ったの?・・・
東村の意識に、別な意識が、流れ込んでいた。その意識が、東村・・
に、力を与えていた。・・・
-あなたは、二度も、剣を降ろした。そして、二度とも、それは外・・
れた…。・・・
自らの力とは、まったく別なる力が働いている。東村は、それに・・
気づいた。波の勢いに、東村の泳ぎが勝っていく。高まる波が、東・・
村を避けていく。波のうねりを跳ね返す力が、水を蹴る足に漲って・・
いく。・・・
-あなたの斬ろうとした男は、舟で逃れた。あなたは、舟を追った・・
…。・・・
灯台の灯が近い。東村は、カゼの光を探した。泳ぎは、別なる力・・
が、請け負ってくれていた。・・・
-そう、今のように、舟を追った…。・・・
疲労を感じない。それでも、確実に、前へ前へと進んでいく。波・・
も、それを、後押ししている。・・・
-そう、あなたは、舟の男に神を感じた…。・・・
灯台の灯に、何かが見えた。波の上を、それは、仄かに揺れてい・・
た。・・・
-だから、男の乗る舟を、どこまでも追った…。・・・
カゼの光だと分かった。東村は、仄かな光へ向かった。・・・
-あの時、あなたは、波任せの舟に追いつけなかった…。・・・
舟の明かりも、近く見えた。源助の出した舟だ。まっすぐに、こ・・
ちらの方へと向かっている。・・・
-でも、あの時とは違う。舟は、すぐそこよ…。・・・
揺れるボートが、東村の視界に入った。仄かな光が、灯台の灯と・・
重なっていた。・・・
第七章・・・
・・・
(1)・・・
・・・
その土地は、山のなかにあった。夜になると、東からの風に、汐・・
に香りが微かに混じった。その風は、遥かなる星へと向かった。そ・・
の土地に、優しさをこぼしていった。・・・
その夜は、特に、東からの風が心地よかった。汐の香りを、いつ・・
もより少し多く含んでいた。・・・
「こんなに、いい夜に…」・・・
誰かが言った。悲しげな声だった。・・・
星に、伸ばした手が届きそうな夜だった。そして、少しも欠ける・・
ことのない月が、星のまだ手前に揺れていた。・・・
聖なる夜なのだ。このように月が近い夜は、山深くのこの地です・・
ら、珍しいことだった。土地の者は、それぞれに、満月に酒を供え・・
た。・・・
「やはり、今夜にしよう。今夜、この山を発とう…」・・・
悲痛な響きが、風に流れた。思いは、風に消えなかった。・・・
「わしたちは、ここに残る…。この山で、死を迎えたい…」・・・
土地の者たちは、酒を交わした。それは、別れの夜となった。静・・
かな夜だった。・・・
・・・
・・・
戦いは、激しさを増していた。土地は荒れ、人々は、疲れ切って・・
いた。兵士たちにも、衰弱の色が濃くなり、冷静さを保っていられ・・
る者は、数少なくなっていた。・・・
終わりのない戦いだった。権力という悪魔は、次から次に、新し・・
い者を魅了していった。そして、その悪魔を引き込んだ者は、それ・・
を守るために、別なる悪魔を使った。しかし、悪魔は、気まぐれに・・
権力者の間を泳ぎ回るだけだった。悪魔が、悪魔を倒し、権力を・・
奪った。倒れた悪魔が、形を変えて蘇る。繰り返しだった。人々は、・・
その繰り返しのなかを巡るだけだった。・・・
何のための争いかは、悪魔たちしか理解していなかった。戦う兵・・
士たちは、数多く倒れていった。運良く生き残っている兵士たちも、・・
生きるためだけに戦う哀れなる戦士となっていった。敵を倒す、そ・・
うでなければ殺される。兵士たちは、死の恐怖を背に、激しく戦い・・
続けていた。・・・
そんななかを、聖なる夜に、山を発った者たちが、東へと逃避の・・
旅を続けていた。彼らには、戦う意志などなかった。太陽の昇る東・・
へと、彼らは、ただ歩み続けていた。それは、彼らの故郷への旅で・・
あった。太陽の昇る遥かな海は、彼らの母が住む地だった。果てし・・
ない海に、彼らの母は眠っているのだった。・・・
その旅は険しかった。激しい戦いのなか、彼らの家族は、その渦・・
に巻き込まれていった。恐怖に押しつぶされた雑兵の剣に、次々と、・・
彼らは貫かれた。雑兵たちは、敵や味方の区別すらついていなかっ・・
た。ただ、恐怖に剣を突き、狂気に剣を振り下ろしていた。・・・
そんな雑兵が、驚くほど多くいた。部隊などの観念は、その者た・・
ちには見られなかった。ただ、生き延びるためだけに、林に潜んで・・
いた。死の恐怖に震えながら、草むらに隠れていた。・・・
すべて不意のことだった。東へ旅だった者たちは、不意に死んで・・
いった。ほとんどが、雑兵たちの手によるものだった。・・・
男は、そんな戦場を逃れ続けた。男は、二人の女と薮にいた。大・・
勢いた土地の家族たちは、すべて息絶えていた。男は、それらの者・・
を、できるだけ川へと流してやった。川は、太陽の昇る海に続く。・・
自分たちの母なる海へと続く。男の涙は、涸れ果てようとしていた。・・・
海は、男のいる薮からは遠くなかった。汐の香りが、強く鼻を突・・
いていた。男の逃避も、もうすぐ終わりを迎えよとしていた。・・・
男は、側にいる女二人に言った。男は、自らの未来を見た。・・・
「白い光が見える…。遠い海の上だ…」・・・
女たちは、黙って聞いた。男にとって、未来を見ることは、自ら・・
を沈めるひとつの方法だった。男は、目を閉じた。女たちは、心静・・
かに、男の次の言葉を待った。・・・
「美しい光だ…。純白なる光だ…」・・・
蝉の声が激しかった。女たちは眠った。眠りに、男の言葉を、受・・
け入れていった。・・・
「舟だ…。光の舟。それは、光の方舟だ…」・・・
そう言って、男は、薮を出た。幾日か、何も口にしていなかった・・
のだ。男は、薮の外に、一握りの糧を求めた。・・・
男は歩いた。汐の香りへ歩いた。・・・
目眩がした。熱さに倒れた。それは、深い草むらだった。男は、・・
そのまま眠った。・・・
・・・
・・・
女たちも、薮を出た。男は、あれから戻っては来なかった。男と・・
同じように、汐の香りへ向かった。・・・
彼女たちも、自らの未来を見る能力を持っていた。男が、その能・・
力で見た白い光を、彼女たちも同じ時、意識の奥で見ていた。・・・
「光は、海の上よ…」・・・
女たちは、自分たちの見た光の先に、自分たちの故郷があると・・
思った。汐の香りが、強く女たちを誘った。蝉が、激しく鳴いてい・・
た。・・・
「光の舟…」・・・
それは、故郷への方舟なのだ…。その舟に乗って、遥か彼方の自・・
分たちが生まれた地へ向かう。光の舟が、自分たちを、それへと導・・
いていってくれる。・・・
「光の方舟…」・・・
女たちは、自らの故郷を、未知の世界へ求めた。少しの疑いもな・・
く、彼女たちは、それへと進んでいくことを信じていた。・・・
風が、向きを変えた。汐の香りが遠ざかった。二人は、草むらを・・
抜け出た。・・・
「海よ…」・・・
それは、どこまでも青く澄み切っていた。同じ色をした空へと、・・
曇りなく続いてた。女たちには、水平線の金色の光が、宝石に見え、・・
波の白さが、シルクに見えた。・・・
「海の上に、光の舟がある…」・・・
海へと走った。女たちには、戦いのことは頭になかった。ただ、・・
青い海に惹かれた。・・・
「方舟へ…」・・・
しかし、女たちに、海の向こうへ出る術はなかった。強い日差し・・
が、波打ち際を、キラキラと煌めかせていた。・・・
「舟よ…」・・・
煌めく光の隅に、その舟はあった。戦いの跡のひとつだった。漁・・
師の舟は、その姿を、激しい太陽に晒していた。海猫が、そのなか・・
で羽を休めていた。・・・
「舟を、海に出そう…」・・・
女たちの知っている舟とは、随分と形が違っていた。それは、底・・
が深く、幅か少し広かった。・・・
躊躇している間はなかった。女たちは、その舟に乗った。山に流・・
れる川の舟を思いだし、恐る恐る、その舟を水に降ろした。・・・
「あそこで待とう…」・・・
舟を、岩場に隠した。不慣れな櫓を、不器用に扱った。そして、・・
男を待った。・・・
・・・
・・・
兵士が、男を見おろした。女たちは、舟を出した。・・・
「ウッ」・・・
兵士の剣が、男に落ちた。男は交わした。一度、二度と交わした。・・
男と、兵士の睨み合いが続いた。・・・
「……」・・・
女たちは、それを、息を潜めて見た。舟は、男の近くまで寄せて・・
いた。・・・
「戦いは、早く終わりにしよう…」・・・
男から、そう聞こえた。男は、兵士を振りきり、女たちの舟に歩・・
み寄った。・・・
「ホホ…」・・・
女の一人が微笑んだ。男の勇敢さに、鳥のような声で微笑んだ。・・・
「さあ…」・・・
もう一人女が、男に、手を差し伸べた。手の温もりが、男に、確・・
実に届いた。女は、そう感じた。・・・
「故郷へ帰ろう…」・・・
男は、そう言い、舟に乗った。悲しみが、瞳に揺れていた。・・・
「ホホ…」・・・
鳥の声が、もう一度した。舟は、そのまま沖へと流された。波任・・
せの舟の進む先には、純白なる光が、彼らを待っているはずだった。・・・
・・・
・・・
どれくらい、波に揺られただろうか、太陽が沈んでから、かなり・・
時間が経っていた。舟は、沖へと流され続けた。闇は深くなり、舟・・
に乗る者たちに、静けさだけを与えていた。・・・
そこには、争いはなかった。殺気を含んだ土煙も、血の付いた泥・・
の匂いもなかった。まして、兵士の恐怖の叫び声などなかった。・・・
このまま流されたい…。そうすれば、故郷へ帰れる。舟の者は、・・
そう思っていた。・・・
再び日が昇り、日が沈んだ。昨夜とは違う、深い闇が訪れた。・・・
海が、時化り出したのだ。昨夜の静けさは、闇の彼方に消え、波・・
のうねりが、激しく彼らの耳を叩いた。・・・
舟の者は、衰弱していた。更に、生きていくことを放棄していた。・・
薄れる意識に、白い光を探し続けるだけだった。・・・
「白い光に向かおう…」・・・
男が、そう言った。限界だった。舟が、軋んで沈み始めた。・・・
「光の方舟へ…」・・・
互いに、手を取り合った。彼らの手は、それぞれが、火のように・・
熱かった。・・・
「光の方舟へ…」・・・
それが、最後だった。舟は、大きな波に飲まれた。・・・
・・・
・・・
秋子の意識に、それが、鮮明に蘇っていた。強いデジャヴュも、・・
当然のことだった。秋子は、あの戦場にいた。・・・
秋子は、意識の奥深くに揺れていた。あの時、乗った舟へと、秋・・
子の時は歪んでいた。過去の遠い記憶が、秋子の無意識の襞を掻き・・
分け、秋子の眠りへと昇っていた。・・・
「光の方舟…」・・・
それを、秋子は知っていた。光の方舟…。それは、波の向こう側・・
にあった。・・・
・・・
・・・
私たちの舟は沈んだ。闇が形を変え、重く、重く、私たちにのし・・
掛かった。苦痛は、一瞬のことだった。私たちは、闇に、飲み込ま・・
れた。・・・
それから、私たちは、それぞれ個々の宇宙を見た。自らの光が、・・
自らの宇宙の太陽となって、そこに漂う自らの数々の星を照らして・・
いた。それぞれが、その個々の宇宙で、自らに沈んでいった。自ら・・
と、深い対話を続けた。私たちに、光の存在の意味が、徐々に見え・・
始めていた。光への理解へ、私たちは、それぞれに歩みだしていた。・・・
私たちの太陽は、どこまでも輝いているように思えた。それぞれ・・
の宇宙を、その煌めきは越えていった。私たちの太陽の光が、徐々・・
に、クロスしていった。その時、私は、故郷に古くからの言い伝え・・
を思い出していた。理解を超えた愛は、何をも貫く…。・・・
その通りだった。私たちは、私たちの太陽に、底知れない愛を感・・
じた。自らへの、深い、深い、愛だ。そして、それが、私たちの光・・
の理解だった。・・・
その愛が、クロスしていった。理解を超えた、私たちの太陽の光・・
が、私たちの宇宙をも越えたのだ。理解を超えた愛は、何をも貫く・・
…。その通りだった。私たちの愛は、闇を貫いた。・・・
私たちは、光の姿で寄り添った。互いの存在を喜び、互いの光の・・
美しさに身を震わせた。果てしない至高の時を、私たち揺れた。喜・・
びだけがあった。暖かさだけがあった。幸せだけがあった。私たち・・
は踊った。光のダンスは、私たちの歓喜の舞だった。私たちの愛が、・・
更に深まった。信じられない思いだった。それぞれが、互いのこと・・
を、自分のことのように理解していていた。・・・
クロスした光は、徐々に、重なり合っていった。やはり、信じら・・
れない思いだった。私たちの光が、ひとつになっていった。三つの・・
太陽が、ひとつの輝ける星となっていった。光の方舟だった。光の・・
方舟…。それは、やはり、荒波の彼方にあった。・・・
私たちは、それぞれに、思い思いの舟を想像した。楽しい作業・・
だった。どこまでも純白な光が、私たちのすべてを覆った。私たち・・
は、風を創った。そして、その風を、純白なる光へと流した。私た・・
ちの光の方舟が、その風を受けて未来へと漕ぎ出した。そう、光の・・
方舟は、私たち自身の光だった。・・・
光の方舟は進んだ。私たちの未来へと、次々と、空間を越えて・・
いった。私たちと同じような光たちと、数々の出会いをした。光の・・
ステーションに、それらの光は集った。私たちは、長い時を、その・・
空間で過ごした。恍惚の時が、私たちを、更に、透明に染めていっ・・
た。・・・
・・・
・・・
若菜にも、秋子と同じ過去が、鮮明に蘇っていた。若菜は、秋子・・
の揺れの側にいた。・・・
光の方舟…。そうだった。光の方舟は、私たち自身の光だった…。・・・
あの時の光の理解が、今の若菜にも、大きな揺れとなって、押し・・
寄せていた。・・・
光の方舟…。それは、激しく求めていた。光への道標…。若菜は、・・
それを求めていた。・・・
そうじゃなかった。光の方舟は、私たち自身だった。私たちの未・・
来は、私たち自らの力で切り開いていくことだった…。・・・
光の方舟は、いつまで待っても見えてこなかった。当然だった。・・
自らの光で、自らの方舟に、未来へ向かう風を送らなければならな・・
かったのだ。若菜の蘇った理解が、更に、新たなる思いを含んでい・・
く。若菜に、あの時と同じ熱いものが、こみ上げていた。・・・
-未来へ、漕ぎ出そう…。・・・
それは、どんなに小さくてもいい。光の方舟を、未来へ漕ぎ出す・・
のだ。一つひとつの光が、それぞれに未来へと漕ぎ出す。道は、そ・・
の光たちが拓いていく。未来への道で、光たちの舟が結びついてい・・
く。互いの愛で、光を誘い合っていく。光たちの舟が、少しずつ大・・
きくなっていく。すべての家族を、次々と、その舟に乗せていく。・・・
-光の方舟を、さあ、漕ぎ出そう…。・・・
それは、純白の舟だ。あの時のように、どこまでも透明な光なの・・
だ。それは、愛の光。結びついてくのは、理解を超えた愛…。そう、・・
理解を超えた愛は、何をも貫く…。そう、光は、闇を越えていく。・・・
愛の力で、光が、ひとつになっていく。光の方舟が、帆を、大き・・
く張っていく。険しい海原も、茨の荒野も、そして、争いの狂気の・・
渦をも、その方舟は越えていく。すべての舟と、すべての光と、そ・・
して、すべての家族とが、その方舟の櫓となり、遥かなる未来へ漕・・
ぎ出していく。・・・
-未来への方舟を、漕ぎ出そう…。・・・
若菜は、カゼの舟へと戻った。激しい波が、徐々に、優しさを取・・
り戻し始めていた。・・・
・・・
・・・
しかし…。・・・
私たちは、再び、それぞれへと戻った。激しい思いが、私たちを・・
襲ったのだった。私たちの太陽に影が走った。青い星が、私たちの・・
光を、悲しみの色で過ぎていった。・・・
そう、その時に、私たちの太陽が、それぞれに、輝きを落として・・
いった。私たちの光の方舟は、その瞬間に形を変えた。私たちは、・・
それぞれに、困難を選んだ。悲しみの星に、光を…。熱い思いを、・・
抑えることができなかった。私たちの未来は、まだ、遥かなるもの・・
だった。・・・
・・・
・・・
その時の、熱い思いすら、秋子に、確実に蘇っていた。秋子は、・・
遠い自らの意識を、懸命に引き寄せていた。遥かなる過去の揺れに、・・
竹野の浜の強い風を、感じようとしていた。・・・
光の方舟が、形を変えた…。それぞれの太陽が、輝きを落として・・
いった…。私たちは、困難を選んだ…。そう、その時よ…。カゼ…。・・
あなたは、いなくなった。私から、消えてしまった…。・・・
カゼ…。秋子は、自らへ戻りつつあった。カゼ…。その思いが、・・
秋子を、強く叩き始めていた。・・・
・・・
・・・
(2)・・・
・・・
東村は、ボートの端を掴んだ。源助の舟が、速度を落とした。松・・
屋丸のライトが、カゼのボートを照らした。ボートは、海水で、そ・・
の大半を満たしていた。・・・
カゼは眠っていた。ボートの海水に、身を委ね眠っていた。えく・・
ぼを浅く、少し照れたような微笑みが、浮かび上がっていた。・・・
「カゼ!」・・・
東村は、カゼの腕を掴んだ。沈みかけのボートが、大きく揺れた。・・・
「高志! カゼは生きてるか!」・・・
源助が呼んだ。東村は、ボートを片手で掴んだまま、源助に、大・・
きく手を振った。・・・
「無事だ! 生きている!」・・・
松屋丸が、静かに寄った。波は緩くなっていた。そのまま、東村・・
は、源助と二人で、松屋丸にカゼを移した。カゼは重かった。海水・・
が鉛となり、カゼの全身に染み込んでいるようだった。・・・
「よかった。寝ているだけか…」・・・
源助が、そう言った時、カゼの額に、純白の光が揺れた。東村は、・・
それを見た。軽いめまいが、東村を襲った。カゼの乗っていたボー・・
トが、闇に消えていった。・・・
「大丈夫…」・・・
薫がいた。薫の紅茶色の瞳が、暗い明かりのなかで、沈んでいる・・
ように見えた。・・・
「薫さんが、カゼの光を見た。だから、まっすぐにここまで来れ・・
た」・・・
東村は、全身の力が抜けていくのを感じた。自分の役目は、どう・・
にか果たせたと思った。・・・
「眠っているだけだ。大丈夫だ…」・・・
秋子の安堵の顔が、東村の脳裏に浮かんだ。カゼの眠る姿に、幼・・
さが白く揺れていた。・・・
「心配かけやがって…」・・・
源助が、そんなカゼの鼻を軽くつつく。源助の瞳は、かなり潤ん・・
でいた。・・・
・・・
・・・
遠くの意識が、少しずつ、秋子に戻ってきていた。しかし、遥か・・
なる過去の揺れも、秋子から離れようとはしなかった。秋子は、微・・
かな目覚めを感じながら、引き続き、微睡みのなかに浮かんでいた。・・・
カゼ…。どうして、どうして、ボートに乗ったの…。・・・
その問い掛けが、秋子のなかに大きくなっていた。秋子は、何度・・
も、微睡みのなかに問うた。カゼへの思いが、目覚めに過ぎていく。・・・
「ねえさんが、鳥の声で笑っていた。かあさんが、手を握ってくれ・・
た…」・・・
問いが帰ってきた。秋子は、それへ、意識を向けた。・・・
「それから、ぼくたちの太陽が重なり合った。ぼくたちは、光の方・・
舟になった…」・・・
戦場に捨てられていた漁師の舟…。そして、純白な光の方舟…。・・
秋子の問に対する答えは、遥かなる過去のものだった。・・・
「ボートが、岩場にあったんだ。舟に乗れば、もう一度、光が見れ・・
ると思ったんだ…」・・・
過去だけではなかった。秋子は、流れ来る意識に深く相対した。・・
すべての思いを、それへ集中した。・・・
「かあさん、泣かないで…」・・・
カゼだった。カゼの思いが、秋子に届く。・・・
「心配かけて、ごめん…」・・・
秋子は、それを、しかと受け止めた。言葉ではなく、カゼの思い・・
を近くに感じた。・・・
「かあさんも、おいでよ…。ねえさんも、側にいるんだ。あの時の・・
ように、一緒に踊ろうよ…」・・・
カゼが、障害を乗り越えた。秋子の理解だった。カゼは、光を取・・
り戻した。光の理解を蘇らせたのだ。秋子の意識が、そのまま夢へ・・
と流れていく。秋子は、自らの夢に、自らの光を探した。・・・
「そうだね、カゼ…。一緒に、踊りたいね…」・・・
あの光…。カゼの額に、純白に揺れる光…。そう、カゼは、あの・・
光を受け入れたんだ。だから、光の理解が、カゼになった。・・・
「故郷は、あったね…。光の方舟になった時、青い星の、遥か遠く・・
に見えていたね…。だから、ぼくたちは、青い星を目指した。困難・・
を選んだんだね…。そう、未来は、光の世界だったね…」・・・
そんな記憶が、微かにあるように思う。しかし、それは、秋子の・・
夢にまで届かなかった。カゼを感じていることが、秋子には、自分・・
の故郷のように思えていた。・・・
「さあ、かあさん…。ぼくたちの光の方舟を、もう一度、漕ぎ出す・・
んだ…」・・・
カゼは踊っていた。純白に、透明に、そして、自由に踊っていた。・・・
「さあ、かあさん…。ねえさんも、一緒だよ。光の方舟を、ぼくた・・
ちの未来へ、漕ぎ出すんだ…」・・・
秋子に、形のない不安が押し寄せた。秋子は、カゼの光を掴もう・・
とした。カゼが、どこか彼方へ消えていく…。カゼが掴めない。・・・
「この時を、ぼくは、待っていたんだ。ぼくたちが、困難を選んだ・・
理由だよ…」・・・
それは、知っていた。秋子にも、その思いは蘇っている。しかし、・・
秋子は、カゼとは違う道を辿った。そんな気がする…。・・・
「この時を、ずっと待ったんだ。ぼくたちの方舟は、光の未来へ目・・
指すんだ…」・・・
カゼの光が、どうしても掴めなかった。秋子の不安が、形と、影・・
を、大きくしていく。カゼを、少しずつ、遠くに感じていく。・・・
「方舟に、ぼくたちの家族を乗せるんだ…。みんなで、光の櫓を漕・・
ぐんだ…」・・・
そうよ、カゼ…。光へ漕ぎ出すのよ…。秋子は泣いていた。カゼ・・
の思いが、秋子には、透き通るほど、よく見えた。・・・
「さあ、かあさんも、一緒だよ…。光へ漕ぎ出すんだ…」・・・
秋子の夢が、一瞬に遠ざかった。東村の腕が、秋子の肩に絡まっ・・
ていた。・・・
・・・
・・・
雨に湿った砂浜に、心配そうな顔が、幾つも並んでいた。雨は止・・
み、風も柔くなっていた。・・・
幾つも並んだ顔は、秋子の腕のなかのカゼに向いていた。秋子は、・・
啜り泣いていた。東村が、そんな秋子を支えるように、肩を優しく・・
抱いていた。源助と、妙子が、側に並んで、砂に腰を下ろしている。・・
リンは、真紀子の膝の上で、眠そうにしていた。・・・
更に、雨に濡れてしまった薫と、車椅子の若菜も、少し離れた位・・
置にいた。若菜の痩せ細った下半身を、薫の用意した毛布が隠して・・
いた。薫が、若菜の両腿を、丁寧に撫でてやっている。若菜には、・・
長時間のドライブが、少々、堪えたようだった。・・・
カゼは眠っていた。取り合えず、源助の用意した幾枚かの毛布に・・
包まれ、秋子の腕のなかで眠っていた。妙子が、医者の手配を済ま・・
せていた。それぞれに、カゼのことを思ってくれている。秋子の啜・・
り泣きは、止まろうとはしなかった。・・・
カゼは、大したことなさそうだった。水も飲んでおらず、熱もな・・
かった。顔の色も悪くなかった。・・・
しかし、秋子は、やはり不安だった。カゼは、光の意志で、秋子・・
に言った。光へ漕ぎ出すんだ…。光の未来を目指すんだ…。カゼが、・・
離れていくような気がする。自分は、光になどなれない。カゼとは、・・
異なる道を辿っている。・・・
「ご心配かけまして…」・・・
秋子は、それだけ、何とか言った。それぞれの愛を感じた。東村、・・
源助、リン、妙子、真紀子、そして、若菜、薫…。みんな、カゼの・・
ために、精一杯のことをしてくれた。自分は、何もできなかった。・・
みんなが、カゼの生命を救ってくれた。カゼを、荒波から引き上げ・・
てくれた。秋子のなかに、膨れていくカゼへの不安とは別に、感謝・・
の気持ちが溢れようとしていた。・・・
「ありがとう…、ございます…」・・・
掠れる声で、秋子は、一人ひとりに頭を下げた。涙で、言葉が続・・
かなかった。・・・
「秋子さん…」・・・
妙子と目が合った時、妙子も泣いた。秋子の手を取り、妙子は、・・
秋子に詫びた。・・・
「高志を…」・・・
妙子は、それだけ言った。妙子の涙の意味が、秋子に、朧気なが・・
ら見えた。・・・
秋子は、幸福に包まれた。みんなの思いが、痛いほど嬉しかった。・・・
・・・
・・・
カゼと、若菜には、時が止まっていた。二人は、眠りの彼方で、・・
再会を喜び合っていた。・・・
「ねえさん…。この時を、ぼくたちは、待ち続けたんだね…」・・・
カゼの光は、踊り続けていた。幼さが、カゼの光からはみ出して・・
いく。・・・
「そう、漕ぎ出すのよ…。光の方舟…。未来へ向かうのよ…」・・・
若菜の光も、カゼの踊りにつられた。二つの光が寄り添った。純・・
白な光が、透明に重なっていく。・・・
「あの時も、踊ったね…。ねえさんの光、あの時のように、温かい・・
ね…」・・・
二つの光が、風のリズムになる。風が、優しく光を過ぎていく。・・・
「いよいよね…。純白の帆をあげるのよ…」・・・
光のリズムは、時の止まった空間に続いた。木漏れ日に似た光が、・・
その空間から、微かに漏れようとしていた。・・・
「そう、舟を漕ぎ出そう…」・・・
・・・
・・・
かあさん…。カゼは、踊りながら秋子を呼んだ。かあさん、舟を・・
漕ぎ出すんだよ…。かあさん、早くおいでよ…。真っ白な光になっ・・
て、方舟になるんだよ…。カゼは、秋子を呼んだ。若菜に、微笑み・・
を続け、時の止まった空間を踊り続けた。・・・
かあさん、おいでよ…。ねえさんも、いるんだよ…。カゼは、軽・・
くなっていた。自由な光の姿を、カゼは、思いきり楽しんでいた。・・・
-どうしたの、かあさん…。早くおいでよ…。・・・
・・・
・・・
薫は泣いていた。いや、泣くのを堪えていた。薫は、心の底での・・
悲しみを、必死に絶えていた。・・・
愛する姉が、光へと、旅立とうとしている。それは、姉から聞い・・
ていた。その時は、さよならを言わないよ…。それは、姉に聞いて・・
いた。・・・
ねえさん…。誇りに思っている。姉を、心から尊敬している。愛・・
している。障害を持った姉は、その障害を、乗り越えていこうとし・・
ている。障害を、光の力に変え、光への糧にしていく。薫は、姉の・・
幸運だけを祈っていた。・・・
辛かっただろうと思う。しかし、姉は、そんな自分を深く愛して・・
いた。障害のことを、卑下したりしなかった。同じ人間よ…。人間・・
とは、光への道を学ぶことのできる素晴らしい生命なの…。姉は、・・
よく言っていた。闇のなかに見える光こそが、未来への道標なの…。・・
だから、私は、困難を選んだ…。障害を乗り越えていく力が、姉を、・・
強く強く支えていた。・・・
姉の輝ける時が来たのだ。薫は堪えていた。姉に、そのことを聞・・
いた時、自分は、絶対に涙を見せないと、姉に誓った。薫が、小学・・
校を卒業した時だった。笑顔で、見送ってあげる。少し、大人ぶっ・・
て、姉に約束した。・・・
しかし、薫には辛いことだった。姉との約束を、少し悔やんでい・・
た。約束を、反故にしてしまいそうだった。やはり、姉と別れるの・・
は、薫には、果てしなく辛いことだった。・・・
姉が、少し動いたように思った。眠る姉の目尻に、小さく光るも・・
のが見えた。・・・
-ねえさん…。・・・
薫は、堪えきれなかった。姉の一粒の涙に、薫の涙も瞳に昇った。・・・
-ねえさん…。・・・
薫は、それを隠した。そして、姉の胸に顔を埋めた。・・・
・・・
・・・
(3)・・・
・・・
-どうしたの、かあさん…。早くおいでよ…。・・・
カゼが揺れた。いくら、思いを飛ばそうが、それが、秋子にまで・・
届かない。カゼは、光の踊りを止めた。若菜が、カゼの光を支えた。・・・
-かあさん、覚えているだろう…。・・・
時は、止まったままだった。しかし、カゼは、その時を、無理に・・
こじ開けようとした。時の歪みが、カゼには見えていた。かあさん・・
に、思いが届かないのは、そのせいだ…。カゼの焦りは、空間に別・・
な風を起こしていた。・・・
-覚えているだろう…。かあさん、忘れちゃったの…。かあさん…。・・・
カゼに、悲しみがよぎる。カゼの光が、色を落としていく。・・・
-あの時、ぼくらの太陽は、ひとつつになったね…。それが、ぼく・・
たちの光の舟だったね…。忘れちゃったの、かあさん…。・・・
執拗に、秋子へ思いを飛ばした。よぎった悲しみが、元へ戻って・・
くる。・・・
-ねえさんと三人で、ぼくたちは、ぼくたちの故郷へ、ぼくたちの・・
未来へ、進んでいったじゃない…。忘れちゃったの…。・・・
カゼの揺れに、過去が、激しく絡む。母への愛が、激しく渦を描・・
く。・・・
-覚えているね、かあさん…。忘れたりしていないよね…。・・・
あの時のことが、カゼの心に浮かんだ。輝ける愛の世界だった。・・
そこで、三人は誓い合った。争いの人々に、光を見せよう…。悲し・・
みの人々に、美しい愛の光を見せよう…。そう誓い合った。・・・
-覚えているね、かあさん…。忘れたりしていないよね…。・・・
秋子からの反応がなかった。カゼは続けた。焦りの風が、カゼに・・
強く吹いた。・・・
-ぼくたちの方舟は、未来へ進むんだ…。光の姿で、争いの街を進・・
むんだ…。恐怖に包まれた暗い街に、少しでも明かりを灯すんだ…。・・
かあさん、そう誓ったじゃないか…。かあさん…。忘れてしまった・・
の…。・・・
・・・
・・・
秋子に、それは届いていた。しかし、秋子の理解は、光のカゼと・・
の隔たりは大きかった。秋子は耐えていた。カゼの思いの意味は分・・
かっていた。それ以前に、秋子は母だったのだ。光の理解よりも、・・
カゼの方が、秋子には遥かに大切なものだった。・・・
-カゼ…。ダメよ…。光になんてならないで…。・・・
確かに、秋子のなかにも、光の記憶は蘇っていた。さあ、漕ぎ出・・
すんだ…。熱い思いの、その訳も分かっている。それでも、秋子に・・
は、自らの光は見えてこなかった。カゼへの思いが、今の秋子には・・
すべてだった。・・・
-そう、私は、母を選んだ。困難に立ち向かっていくカゼの、母を・・
選んだ…。・・・
カゼを選んだ…。妙子との酒の後、カゼの寝顔の側で、一人呟い・・
た言葉だ。秋子に吹く風に、秋子自身が色を付けた言葉だ。秋子の・・
脳裏に、その言葉の意味が見えてくる。カゼを選んだ…。母を選ん・・
だ…。秋子には、何よりも大切なことなのだ。・・・
-カゼの未来は、光なの…。よかったね、カゼ…。でも、今はダメ・・
よ…。今はダメ…。・・・
それを、カゼに言いたかった。秋子は、意識を、カゼの光へと向・・
けた。秋子の、今の思いを、母の思いを送った。・・・
-カゼ…。行かないで…。・・・
・・・
・・・
若菜の光は、旅立ちを、カゼの光の側で待っていた。カゼが、愛・・
する人との別れを迎えている。それは、若菜にとっても、やはり、・・
悲しみを誘うものだった。・・・
若菜は、自らの輝きを徐々に落としながら、その別れをじっと見・・
守っていた。そっとしてやりたかった。私は、既に、それを済まし・・
ている…。薫との別れは、既に済ましている…。薫は、分かってく・・
れている…。・・・
若菜の心に、今までの光の思い出が、次々に、浮かんでは消えた。・・
いつも、薫が側にいた。薫は、いつも、真っ直ぐに私を見ていた。・・
愛してくれていた。・・・
辛くなかったといえば、嘘になる。自ら選んだ道だったが、思っ・・
た以上に険しかった。悲しかった。信じられないほどの苦難だった。・・
耐えるしかなかった。・・・
しかし、いつも、側に薫がいた。だから、耐えられた。薫の眼差・・
しの奥に、私への愛が、いつも揺れていた。その光が、辛い時の私・・
を支えてきた。薫は、私に理解を超えた愛を捧げてくれた。その愛・・
は、自らを深く愛さないと見えてこない愛だ。薫は強い娘だ。自ら・・
を、深く理解している。・・・
薫と、光の結びつきをしたのは、もう随分と、むかしのことのよ・・
うに思える。あの時は、まだ、いろんなことが分かっていなかった。・・
自分の光は、幼年期だった。それでも、薫は信じてくれた。それが、・・
光への理解を早めた。薫への愛が、自分にも、はっきりと感じられ・・
た。何よりも大切な薫が、どんなときにも、私の心のなかにいた。・・・
薫は、よく尽くしてくれた。自らをも顧みずに、献身的にしてく・・
れた。薫の愛が、若菜には誇りだった。薫の愛があればこそ、こう・・
して成長できた。光への道へ向かっていけるほどの、輝けきを手に・・
入れた。薫の愛があればこそ、光になれたのだ…。・・・
薫なら、分かってくれる。すべて、思いを理解してくれる。薫と・・
は、遠くない未来に再会を果たす。その時までの別れだ。しばしの・・
間だ。私たちの光は、永遠に進み続ける。薫とは、再び、光の姿で・・
結ばれる…。その時に、詫びればいいだろう。わがままな、ねえさ・・
んだったね…。薫には、その時に…。・・・
若菜も辛かった。やはり、別れは辛かった。ごめんね…。わがま・・
まなねえさんだったね…。若菜は、光に涙した。眠りの若菜に胸に・・
顔を埋めている薫を、若菜の光は、その光を脱いでしまってでも、・・
強く、強く、抱きしめたかった。・・・
・・・
・・・
東村の時も、止まっていた。東村は、あの戦場に馳せていた。・・・
-あの剣は、わざと外した…。・・・
夢のように、揺れ続けていた。限りなく爽やかな風が、東村に吹・・
いていた。・・・
-自分は、人を殺したりしていない。剣を持ち、ただ、戦場を果て・・
しなくさまよっていたに過ぎない。そうしないと、あの戦場では、・・
生きていけなかった…。・・・
戦場での思いが、揺れる東村に、鮮明に蘇っていく。爽やかな風・・
が、それを、後押ししている。・・・
-あれから、あの舟を追った。舟は波任せだった。どこまでも続く・・
海を、自分は追い続けた。海の上には、争いはなかった。・・・
深く青い海が、東村に見えた。波任せの小舟が、ゆらゆらと、沖・・
へ流されていく。・・・
-自分は、カゼを追った…。草むらに倒れていた男は、純白に輝い・・
ていた。カゼだ…。カゼの光だ…。ボートから、カゼを引き上げた・・
時、カゼの額に見えた光だ…。同じ光だ…。・・・
東村の時が、動きを再開していく。カゼの額に見えた光が、東村・・
の意識を埋めていく。・・・
-自分は、その光を追ったのだ…。果てしない海に、純白なる神の・・
輝きを追ったのだ…。・・・
我に帰っていく。意識を埋めた光が、東村の目覚めを促す。・・・
-カゼを愛せる…。自分は、あの光を、どこまでも追い続けてきた・・
のだ…。カゼを愛せる!・・・
その叫びが、東村の意識に、大きく轟いた。東村の時が、しっか・・
りと動きを開始した。・・・
その時、東村に、ひとつの思いが走った。カゼが、再び、光へと・・
旅立ってしまう…。東村は、秋子の肩を大きく揺らした。・・・
・・・
・・・
「カゼが、光になってどこか遠くへ行ってしまう…」・・・
秋子も我に戻った。秋子の時も、東村と同時に動き始めた。・・・
「カゼが、消えていってしまう…」・・・
秋子は叫んだ。東村と目が合った。東村が、力強く頷いていた。・・
カゼに父親がほしい…。秋子は、この瞬間、激しくそう思った。・・・
・・・
・・・
「カゼ! 起きろ! 眠るんじゃない!」・・・
カゼを、眠らせてはいけない。カゼが、光になってどこかへ行っ・・
てしまう…。秋子の言葉が、東村を掠めた思いと重なった。東村は、・・
秋子の思いを理解した。・・・
カゼが、光の方舟に乗ろうとしている。きっと、薫の側に眠る若・・
菜も一緒だろう…。東村は、そう思った。光になって、カゼが、あ・・
の時のように海へ消えていく。カゼの眠りの向こうには、荒波を越・・
えていく光の方舟があるのだ。・・・
それが、カゼや、若菜が、困難を選んだ理由なのだ。カゼや、若・・
菜は、自分の信じる道へ進もうとしているのだ…。東村には、その・・
ことの理解があった。・・・
カゼは光なのだ…。純白に輝く光なのだ…。カゼの肉体が、その・・
光を包んでいる。障害を持ったカゼの肉体は、カゼの光を覆ってい・・
る衣なのだ。カゼは、その衣に困難を選んだ。それほどにまで、カ・・
ゼの思いは激しい。光への道は、困難の先にこそあるものなのか…。・・・
カゼの光が、どこへ進んでいくのは分からない。しかし、カゼを、・・
その舟に乗せてはいけない。カゼが、それに乗ることは、カゼが、・・
秋子から去ることになる。秋子の悲しみが増えるだけなのだ…。・・・
東村は、カゼを揺すった。カゼの平べったい顔が、東村に大きく・・
見えた。・・・
「カゼ! 起きろ! 眠るんじゃない!」・・・
カゼを、追い続けてきた。カゼの光を、追い続けてきた。戦場の・・
あの海で、そして、この竹野の海で…。自分にとって、カゼは、掛・・
け替えのない大切なものなのだ。カゼを愛せる。いや、カゼを愛し・・
ている…。だから、カゼを眠らせてはいけない。カゼを、光へと、・・
旅立たせてはいけない…。・・・
「カゼ! 起きろ!」・・・
東村の手が飛んだ。カゼの平べったい顔が歪んだ。・・・
・・・
・・・
「高志さん!」・・・
秋子が驚いた。カゼの頬を叩いた東村は、泣いているようだった。・・・
「カゼ!」・・・
カゼが動いた。目を閉じたまま、秋子の胸に身を起こした。・・・
「が、あ、ざ、ん…」・・・
寝ぼけた声が、ぼやけた目と一緒に、秋子の方へ向いた。・・・
・・・
・・・
-いたいよ…。くろおとこが、ぼくを、たたいた…。・・・
ぼくを、たたいたよ。かあさんでない、ほかのひとが、ぼくを、・・
たたいたよ…。・・・
いたかったよ。かあさん、いたかったよ…。・・・
くろおとこ、ぶらんこ、おしてくれたのに…。・・・
でも、ねむたいよ…。ものすごく、ねむたいよ…。・・・
・・・
・・・
それでも、カゼは目覚めなかった。再び、秋子の膝に、頭を落と・・
した。・・・
「カゼ! 起きるんだ!」・・・
東村が、秋子の腕を取った。カゼを、無理矢理に立たせた。・・・
「カゼ!」・・・
やはり、東村は泣いていた。息子に手を上げる、親の、厳しくて・・
悲しい顔がそこにあった。・・・
「カゼ! 起きろ!」・・・
東村は、左手でカゼを支え、右手でカゼの頬を強く弾いた。その・・
瞬間、東村の涙が散った。カゼの目が、ゆるりと開いた。・・・
・・・
・・・
-いたいよ。くろおとこ、いたいよ…。・・・
ばかやろー! くろおとこの、ばかやろー!・・・
ものすごく、いたいよ…。かあさん、たすけれおくれよ…。・・・
うおおー! うおおー!・・・
・・・
・・・
「ヴ、ウ、オー! ブ、ヴ、オー!」・・・
カゼが、突然叫んだ。その目は、激しい怒りを含んでいた。・・・
「ぐ、ど、お、ど、ご! ば、が、や、ど、う!」・・・
カゼが、東村に体当たりした。体中のすべての力を、東村にぶつ・・
けた。・・・
「ば、が、や、ど、う!」・・・
東村が仰け反った。カゼか爆発していた。喉が裂けるような声が、・・
カゼから、何度も破裂した。・・・
「が、あ、ざ、ん、も、ば、が、や、ど、う、だ!」・・・
カゼが走った。制止する秋子を振り切り、大きく叫びながら、波・・
打ち際へ走った。・・・
「ぐ、ど、お、ど、ご! ば、が、や、ど、う!」・・・
・・・
・・・
(4)・・・
・・・
カゼが走った。自分でも分からない、黒い怒りを破裂させながら、・・
浜を走った。・・・
「ヴ、オー! ヴ、オー!」・・・
黒い怒りは、秋子と東村を越え、カゼ自らに向かっていた。カゼ・・
は走った。雨に重くなった砂を、狂ったように蹴上げた。・・・
-どうして、ぼくの、あしは、うまく、うごかないんだ! どうし・・
て、ひだりのあしが、そとがわへ、むくんだ! どうして、ぼくだ・・
けが!」・・・
左の足が、どうしても、外側へ逸れてしまう。いつものことだ。・・
カゼの怒りが、そのことへ向かっていく。思うままにならない自分・・
の肉体に、カゼの怒りが爆ぜる。・・・
-うまく、はしれない! あしが、へんだ! ぼくの、あしが、へ・・
んだ!・・・
砂で転んだ。砂が重かった。立ち上がり、それを蹴った時、足が・・
もつれた。また転んだ。カゼは泣いていた。怒りが、悲しみを含ん・・
でいく。黒い怒りが、色を濃くしていく。・・・
-あしが、へんだ! ても、へんだ! ちくしょー!・・・
左の手首が、内側に曲がったままなのだ。どうしても、真っ直ぐ・・
にならない。そのことは、知っていた。それでも、今は、それが変・・
に思えた。自分のすべてが、カゼには、変に思えた。・・・
恨んだ。激しく恨んだ。恨む相手を、懸命に探しながら恨んだ。・・
カゼは泣いた。泣きながら、声の限り叫んだ。・・・
「ヴ、オー! ヴ、オー!」・・・
また、足を取られた。その勢いで、カゼは、顔から砂に倒れた。・・・
「ヴ、オー! ヴ、オー!」・・・
少しは、そう思っていた。しかし、これほど変だとは思っていな・・
かった。始めてだった。こんなに、悲しい気持ちになるのは、始め・・
てだった。・・・
-ぼくは、どじだ! ばかだ! うすのろだ! ぽんこつだ!・・・
自分しか、恨む相手が見つからなかった。抑えることはできな・・
かった。カゼは、自分を恨んだ。憎んだ。そして、哀れんだ。始め・・
てだった。あまりにも、自分が醜かった。・・・
-ぼくは、どじだ! ばかだ!・・・
自分は普通じゃない。人より劣っている。カゼに、その程度の理・・
解はあった。学校に、毎日行っていれば、それくらいのことは誰・・
だって分かる。自分は、ダウン症という病気なんだ…。だから、頭・・
が少し悪いんだ…。病気だから、体育はダメなんだ…。カゼは、そ・・
う理解していた。・・・
-ぼくは、うすのろだ! ぽんこつだ!・・・
悔しくなんかなかった。病気なんだ。仕方ないんだ。誰も悪くな・・
いんだ。ぼくも悪くない。悔しくなんかなかった。それで、泣いた・・
ことなどなかった…、と思う。そのことで、今のように、悲しんだ・・
ことはなかった…、と思う。・・・
-ぼくが、へんだ! ものすごく、へんだ!・・・
そうじゃない。そうじゃなかった。本当は、悔しかったんだ…。・・
悲しかったんだ…。・・・
-ぼくは、くやしかったんだ。かなしかったんだ!・・・
激しく激しく泣いた。砂が、鼻に入り、口に入った。それでも、・・
カゼは泣いた。声の限りに、激しく泣いた。生まれて始めての悲し・・
さだった。ダウン症…。その悲しさが、カゼを、狂気のように鋭く・・
責めた。・・・
「ば、が、や、ど、う!」・・・
・・・
・・・
カゼが悲しんでいる。苦しんでいる。そして、自分を恨んでいる。・・・
砂に悶えるカゼの側に、秋子が、静かに寄った。震えるカゼの肩・・
を、優しく抱いた。・・・
「ば、が、や、ど、う!」・・・
それは、砂のなかに消えていく。カゼは、砂に叫んでいた。激し・・
く泣いている。こんなカゼを見るのは、始めてだった。秋子に、恐・・
怖が昇った。背に、冷たさが走る。・・・
「カゼ…」・・・
カゼが、とうとう気づいたのだ。自分が普通じゃない。カゼは、・・
気づいたんだ。・・・
悶えている。泣いている。悲しんでいる。秋子は、このことが、・・
カゼの人生のなかで最後まで起こらないことを望んでいた。カゼが、・・
自分の劣等に気づく。カゼの悲しみが、秋子には痛すぎる。・・・
いずれ、気づくことなのだ。遅かれ早かれ、その日は、確実に、・・
カゼと秋子の前にやってくる。秋子の悲しい理解が、今、現実と・・
なっていた。・・・
「カゼ…」・・・
しかし、秋子には、そのなかにでも、小さな希望は見えていた。・・
カゼは、自らで、自分のなかのバリヤーを破いたのだ。人が破いた・・
のではない。カゼは、自ら、それを破り去った。・・・
光へ向かうためには、そんなバリヤーなど、突き抜けていかなけ・・
ればならない。幼さのバリヤーは、カゼには、もう不要なものなの・・
だ。幼さは、光が抱いている。純白の輝きそのものだ。カゼは、分・・
厚い殻を破った。・・・
「カゼ…」・・・
悲しいだろう…。苦しいだろう…。でも、それは、カゼ自らが選・・
んだのだ。カゼ…。男だろ…。それを乗り越えるのよ…。秋子は、・・
カゼを、強く抱いた。やはり、秋子は、カゼの母だった。愛する者・・
の支えになる。秋子も、何かの殻を破ったような気になっていた。・・・
・・・
・・・
若菜にも、その悲しみの経験があった。カゼが、自分を恨んでい・・
る。自分を哀れんでいる。自分を呪っている。若菜にも、それは、・・
経験のあることだった。・・・
バカだ。ドジだ。ウスノロだ。ポンコツだ。それは、底のない悲・・
しさなのだ。足が動かない。巧く走れない。手が自由にならない。・・
自分だけ変だ…。それに、気がつくことが恐怖だ。カゼは、分から・・
ない振りをしていたんだ。知らない振りをしていたんだ。・・・
カゼが、その恐怖と、全身で戦っている。悲しみを振り払おうと、・・
必死に叫んでいる。若菜には、カゼの思いが分かる。・・・
-カゼ! 負けるな! ・・・
若菜は、光を通じて、カゼに、その思いを届けた。・・・
若菜が、それを知ったのは、まだ、カゼより随分幼い頃だった。・・
幼さが、光を信じていた。純粋な幼さが、光の未来を、朧気ながら・・
覚えていた。・・・
若菜の場合は、カゼと違って、若菜の幼い頃に、分離した光がひ・・
とつになった。若菜の記憶に、分離した光のことはあまりない。離・・
れていた時期が、そんなに長くなかったように思う。しかし、カゼ・・
は違う。カゼは、今、分離した光と、再会を果たしたばかりだ。カ・・
ゼの幼さは、若菜のあの時の幼さとは色が違う。少し、カゼの幼さ・・
は色が薄くなっている。・・・
幼さ故、若菜は、あの時、光を信じられた。悲しみの恐怖がやっ・・
てきたのは、それから、随分と後のことだった。ひとつの光に戻っ・・
てから、かなり、光の理解が進んでいた時だった。・・・
自分も、カゼのように、バカ、ドジ、ポンコツと叫んだかも知れ・・
ない。自分を、激しく恨んだのかも知れない。でも、光の道を信じ・・
ていた。だから、耐えられた。・・・
辛いだろうカゼ…。苦しいだろうカゼ…。そして、限りなく悲し・・
いだろう…。・・・
「カゼ…。負けるな…。男だろ…」・・・
若菜は、カゼの痛みを思った。しかし、それは、若菜が、手助け・・
できるようなことではなかった。・・・
・・・
・・・
「ば、が、だ! ど、じ、だ! ま、ぬ、げ、だ!」・・・
突然、カゼが、秋子に顔を向けた。カゼの顔は、砂で汚れ、涙で・・
汚れていた。・・・
「ば、が、だ! ぼ、ん、ご、づ、だ!」・・・
カゼは、秋子を振り解き、砂に立った。虚ろな目を、秋子に向け・・
た。・・・
「ぼ、く、は、ば、が、だ!」・・・
歪んだ笑いが、浮かんでいる。秋子は、カゼの手を取った。熱い・・
手だった。・・・
「ば、が、や、ど、う!」・・・
カゼの瞳が、秋子を、するりと過ぎた。握った手も、同じく、す・・
るりと過ぎた。カゼは笑っていた。自らへの嘲笑だった。カゼの悲・・
しみが、少し形を変えていく。秋子には、それが見える。・・・
「ば、が、や、ど、う!」・・・
カゼが、自分の頭を叩く。腕を内側へ曲げ、両の拳で強く叩く。・・
狂ったように、何度も叩く。・・・
「ぼ、く、ば、う、す、の、ど、だ…」・・・
秋子を離れていく。頭を叩きながら、カゼは、ふらふらと遠くの・・
灯台の光へ向かった。・・・
「く、ろ、お、ど、ご、だ、だ、い、だ…」・・・
ちらっと、カゼが振り返った。東村も、カゼに寄った。・・・
「か、あ、ざ、ん、い、が、い、の、び、と、も、ぼ、く、を、た、・・
た、くんだ…」・・・
限界だった。秋子に、堪えていたものが破裂した。秋子の両目に、・・
大粒な涙が昇った。・・・
「ぼく、が、どじ、で、ば、が、だからだ…」・・・
秋子は、カゼの歩みを止めた。強く強く、後ろから抱きしめた。・・・
「か、あさ、ん、ぼく、どじ、だね…。ばが、だね…」・・・
秋子の涙が、カゼの肩に落ちていく。カゼも泣いていた。それが、・・
秋子から、すべての理性を一瞬に奪った。・・・
「カゼ! どこにも、いかないで! かあさんを、一人にしない・・
で!」・・・
悲しすぎた。耐えられなかった。秋子の悲鳴が、風に千切れた。・・・
「カゼ! どこにも、いかないで!」・・・
カゼが、秋子に振り返った。カゼの涙が、秋子には、純白に見え・・
た。どんな宝石よりも、遥かに美しく見えた。・・・
「カゼ! かあさんを、一人にしないで!」・・・
・・・
・・・
-かあさん、すきだよ…。だれよりも、だいすきだよ…。・・・
でも、かあさん、ちょっと、いたいよ…。つよく、だきすぎだよ・・
…。・・・
まあ、いいや、だいすきな、かあさんだから…。・・・
終章・・・
・・・
カゼの悶えの底に、カゼの光の部分はあった。カゼの光は、自分・・
のなかに吹く、激しすぎる風を感じていた。海のような、空のよう・・
な、果てしないほどの変化が、カゼの光を容赦なく襲っていた。・・・
それでも、カゼの光の部分は、母を、呼び続けていた。届かな・・
かった…。カゼの光の部分は、カゼの悶えの底で、揺れ続けていた。・・・
光は、その揺れを受け入れた。そして、自らに、話しかけるよう・・
に、光は呟きを始めた。勿論、それをも、母へ向かっていた。光に、・・
未来と過去が交差していった。光の時が止まった。・・・
-ぼくは、もうひとつの光と、再び結びついたんだ。それは、あの・・
ボートの上でのことだった。・・・
ぼくは、海に走った。ぼくのなかに眠っていた遥かな記憶が、ぼ・・
くに、突然蘇ったんだ。だから、ぼくは、ボートを出した。ボート・・
は、岩場に隠れていた。ものすごくく重かった。腕が痛くなった。・・
砂が邪魔をした…。・・・
ぼくは、舟に乗りたかったんだ。あの時、かあさんは舟にいただ・・
ろ…。ねえさんも側にいた。ぼくを呼んでいた。だから、ぼくは、・・
ボートを出した。あの時と同じだよ…。・・・
ボートの上で、ぼくは、もうひとつの光とひとつになった。ぼく・・
のなかに、あの時の太陽が見えた。眩しかったよ…。すっかり、忘・・
れてしまっていた光だった。・・・
ぼくは、流れのままにいたんだ。風も、雨も、感じなかったよ。・・
ぼくは、夢に入っていた。いや、夢かわからない。とにかく、ぼく・・
は自由だった。ポンコツの身体じゃなかった。嬉しくって、疲れて・・
しまうほどはしゃいだ。ブランコや、跳び箱もうまくできた。それ・・
を、かあさんに見てもらいたいと思っていた。・・・
それから、ぼくは、少し休んだ。その時に、ぼくの太陽が、ぼく・・
の宇宙に蘇った。それが、はっきりと分かった。温かかった。かあ・・
さんの膝の上と同じだった。・・・
だから、ボートの上では、恐くなんかなかった。ぼくは、恐くな・・
んかなかった…。・・・
ぼくは、光にないたいと思った。あの時のように、光の方舟にな・・
りたいと思った。ぼくの太陽に、ぼくは、それを思いだした。だか・・
ら、ボートの上で眠り続けた。あの時も、そうだったよね。ぼくと、・・
かあさんと、ねえさんは、舟の上で眠り続けたよね…。・・・
ぼくの太陽は、その他のことも、いろいろ思い出さしてくれた。・・
ものすごく嬉しかった。だって、ぼくのことを、ずっとずっと、よ・・
く知れるようになったから…。・・・
ぼくたちの光の方舟は、同じような光たちと、随分出会ったね…。・・
ぼくは、その時のことも思い出していた。幸せだった。もう一度、・・
あの時へ戻りたいね…。・・・
自分たちは、愛の光だと気づいたのも、あの時だったね…。光の・・
方舟を漕ぎ、ぼくたちは、ぼくたちの太陽にそのことを知った。幸・・
せだった。ずっと、そのまま、光でいたかった…。・・・
でも、ぼくたちは、未来へ向かった。光の方舟を、争いの渦巻く・・
青い星へ見せよう…。ぼくたちの太陽が、そう決めた。そして、ぼ・・
くたちは、困難を選んだ。光を見せるには、自分たちが、その場へ・・
向かわなければならなかったんだ。そう、ぼくたちは、地上へと進・・
んだ。再び、肉体を持つ地上へと進んだんだ…。・・・
かあさんと別れたのは、その後のことだったね…。かあさんは、・・
やっぱり、かあさんだった。光の未来への道は、かあさんにとって、・・
ぼくのそれとは少し違うものだったね…。かあさんは、偉いよ…。・・・
その道で、ぼくは、更なる困難を選んだんだ。姉さんもそうだっ・・
た。でも、かあさんは、別な道を進んだ。かあさんは、母を選んだ・・
んだ。三つの太陽は、それぞれに、道を違えていった。・・・
更なる困難を選んだものは、その道で、光を分離させるものが多・・
かった。激しい思いで、自らの光の成長を望んだ光の姿だったんだ。・・
光が分離するのは、その激しい思いがないと不可能だった。でも、・・
ぼくも、ねえさんも、それを越えた。ぼくの太陽は、熱すぎたんだ・・
…。・・・
それがいけなかった。ぼくは、光の分離の意味も知らないまま、・・
ぼくの太陽から飛び出してしまった。光の理解が、少々欠けていた・・
んだ。ぼくは、闇に落ちていった。・・・
闇は恐ろしかった。まったく光が見えなかった。ぼくは、叫び続・・
けていた。恐怖に、ぼくのすべてが消えてしまいそうだった。・・・
でも、そんなぼくを、かあさんが助けてくれた。闇に、光をあて・・
てくれた。ぼくの道を、かあさんが、切り開いてくれたんだ。ぼく・・
は、闇に微かに見える光を思って眠った。そして、気がついたら、・・
なんと、かあさんの羊水のなかにいた。かあさんの温もりが、ぼく・・
は、死ぬほど嬉しかった。・・・
かあさんのなかは、やはり、暖かかった。ぼくは、新しい生を授・・
かった。それが、困難なことを、ぼくは、その時知っていた。・・・
でも、ぼくの太陽は、輝きを落としたままだった。ぼくは、そん・・
なことまったく気づかなかった。ぼくのもうひとつの光は、まだ、・・
闇のなかにいたんだ。ぼくとは、別の闇にいたんだ。・・・
それを、ぼくに引き寄せてくれたのも、かあさんだった。ぼくは、・・
そのことを、ボートの上で知ったよ。あの時、そう、あの時、かあ・・
さん、滑り台から降りたぼくを叩いたね…。そう、あの時だよ。あ・・
の時、闇にいた光が目覚めたんだよ…。・・・
ひとつに戻ったぼくの光に、それが理解できた。かあさんの愛・・
だった。ぼくを叩いた時、かあさん、心の底で泣いたよね…。その・・
涙が、遥かな闇の光にまで届いたんだ。覚えているだろう、かあさ・・
ん…。あの土地の言い伝えを…。・・・
理解を超えた愛は、何をも貫く…。そうだよ、かあさんの愛は、・・
すべての闇を貫き、ぼくの太陽に届いたんだ。・・・
ぼくたちは、永遠の愛に包まれているんだ…。ぼくには、それが・・
はっきりと分かる。かあさんとぼくは、いつでもひとつなんだ…。・・・
そこで、光の呟きが途絶えた。時が、カゼの周りのそれぞれに動・・
き始めた。・・・
・・・
・・・
「が、あざん、い、だいよ…」・・・
カゼの顔が、歪んでいる。涙で歪んでいる。秋子は、更に、強く・・
カゼを抱いた。・・・
「が、あざん、あ、づいよ」・・・
カゼが、秋子を振り解く。力強いカゼの腕が、秋子の力に勝る。・・
カゼは立ち上がり、一、二歩、秋子から退いた。・・・
カゼが、頭を抱えた。何かを、秋子に訴えようとしている。カゼ・・
の涙の瞳が、抱えた腕に隠れて見える。・・・
「カゼ…。何か言いたいの…」・・・
いつものカゼだった。秋子を見る目が穏やかだった。カゼは、抱・・
えた腕のなかで微笑んでいた。・・・
「かあさん、ぼくだげ、べんだ…」・・・
ぼくだけ変だ…。ぼくだけ…。秋子も、微笑みを返した。カゼの、・・
そのことに対する理解が進んでいる。カゼの成長だ。秋子は、涙を・・
手のひらで拭った。成長の変化のカゼが、涙で霞んでしまってはい・・
けない…。・・・
「ぼぐは、ぞれを、えらんだの…」・・・
カゼの言葉が、カゼなりにスムーズになっていく。やはり、カゼ・・
は、光になってしまう…。悲しみが、秋子を去っていかない。カゼ・・
が、頭から手を降ろし、秋子の手を握った。・・・
「そうよ、カゼ。カゼは、それを選んだ…」・・・
痛かった。胸が、張り裂けるほど痛かった。秋子は、カゼの手を・・
強く握り返した。・・・
「どう、じでだろう。どうじ、で、ぼぐは、ぽ、んごつを、えらん・・
だんだ…」・・・
カゼは、苦しみを乗り越えた。カゼの幼さのバリヤーは、カゼに・・
よって、新たなる形を持った。カゼの光の理解が、カゼに、新しい・・
風を吹き込んだ。カゼが、今までよりずっと逞しく見えた。カゼの・・
変化が、秋子の悲しみを、少しだけ溶かしていく。・・・
「カゼ、偉いね…。カゼは、強いね…。カゼは、すごいよ…」・・・
そう、カゼの旅立ちなのだ。笑って送ってやらなければ…。秋子・・
の微笑みが、微かに拡がる。カゼが、それを見て、流れていた涙を・・
乱暴に拭った。・・・
「でも、ぼぐの、だい、ようが、もどっで、ぎだ…」・・・
カゼの太陽…。その光が、秋子に見えてくる。カゼの額に、うっ・・
すらと光が浮かび上がる。純白に、微かに色を付けていく。・・・
「そう、カゼは、偉いんだ…。カゼは、光なんだ…」・・・
カゼが、笑顔を、真っ直ぐに秋子に向けた。涙は乾いている。カ・・
ゼの理解が進んでいる。・・・
カゼは、光の存在を、受け入れようとしているのだ。額の光に、・・
カゼは、自らの思いを集めている。ひとつに戻ったカゼの太陽が、・・
カゼの宇宙で、今まさに、その輝きを開始しようとしている。秋子・・
には見える。揺るぎない光が、カゼを、強く包んでいく。・・・
「ぼぐは、ひがりだ…。があ、ざんも、ひがりだよ…」・・・
秋子にも、自らの太陽が見えた。カゼと同じ色で、それは、秋子・・
の胸に輝いていた。・・・
「そう、があざん、も、ひがりだよ…」・・・
カゼの手が放れた。その瞬間に、秋子の太陽と、カゼの太陽がク・・
ロスした。・・・
「ぼくと、があざんは、えいえんに、むすばれだ…」・・・
カゼが、光の思いを、秋子に向けている。それを、秋子は、心に・・
受け止めた。理解を超えていた。秋子の太陽が、カゼの太陽を抱き・・
しめる。カゼの太陽が、秋子の太陽を抱く。二つの太陽が、輝きを・・
増す。・・・
「りがいを、ごえだ、あいば、なにをも、つらぬく…。そうだよね、・・
があさん…」・・・
今が、その瞬間だった。カゼと秋子の光は、理解を超えていた。・・
困難へ向かったカゼ…。そして、その母を選んだ秋子…。二つの光・・
は、この瞬間の訪れを知っていた。永遠に一つになる瞬間だった。・・
理解を超えた二人の愛が、互いの太陽に、深く、深く、永久に刻ま・・
れていく。お互いの宇宙に、永遠に、色褪せることのない色を染め・・
ていく。・・・
「ぼくと、があざんは、えいえんに、むすばれだ…」・・・
そして、この瞬間が、カゼとの別れの時なのだ。秋子に、その思・・
いが拡がる。自らの太陽に刻まれたカゼが、光の未来へ進んでいく。・・
その道を、自分も進んでいく。カゼの太陽に刻まれた母の灯火とし・・
て、秋子は、その道を辿る。秋子には、限りない喜びなのだ。いや、・・
喜びのはずなのだ。・・・
「だがら、さよなら、じゃないね…」・・・
そう、さよならじゃない。それは、分かっていた。それは、分・・
かっていた。・・・
「があさんは、ぼくのなかにいる…」・・・
激しい思いが、秋子に戻り来る。秋子の葛藤に、風が吹き荒れる。・・
分かっていた。すべて、分かっていた。しかし…。・・・
秋子は、カゼから目を逸らした。ほんの一瞬でよかった。秋子は、・・
自らのけじめを探した。・・・
「そして、ぼくも、があさんのなかにいる。だから、おなじふねを・・
こぐんだ…」・・・
けじめよりも、母の思いが前に出た。秋子は、もう一度、カゼを・・
抱いた。カゼの額の光が、秋子のなかに、流れ込んでくる。・・・
「カゼ…。カゼは光よ…。透明に、純白な…。それは、それは、美・・
しい光よ…」・・・
秋子の思いが弾けた。言葉が続く。秋子のけじめが、その言葉を・・
追った。・・・
「カゼは、誰にも劣らないよ…。誰よりも、輝いているよ…」・・・
カゼの温もりが、秋子の涙を、秋子の底から汲み上げた。秋子の・・
太陽からの涙を汲み上げた。・・・
「カゼ…。カゼは偉いね…。光になって、未来へ進むんだ…」・・・
秋子の太陽も暖かかった。カゼの温もりと、それが、ひとつに・・
なっていく。秋子の額からも、光が漏れた。カゼと同じ色に、静か・・
に揺れた。・・・
「進むのよカゼ…。カゼは、そのことを、決めていたんだよ。光の・・
方舟は、カゼが創らないと…」・・・
悲しくなんかあるはずがない…。秋子は、自分自身に、何度も言・・
い聞かした。カゼを理解している。誰よりも理解している。そして、・・
愛している。だから、悲しくなんかあるはずがない…。・・・
「自分で決めた道よ、カゼ。さあ、カゼの方舟を、漕ぎ出すのよ・・
…」・・・
・・・
・・・
若菜の太陽も、薫の太陽とクロスしていた。互いの宇宙のなかで、・・
その輝きは重なり合っていた。・・・
-ありがとう、薫…。さよならは、言わないよ…。・・・
若菜と薫は、光を理解していた。そして、この瞬間が、永遠の結・・
びつきと知っていた。・・・
-しばしの別れよ…。でも、寂しくなんかないよ。薫は、私のなか・・
にいる…。・・・
そして、この瞬間が、別れだということも知っていた。結びつき・・
の揺れに、二つの光が大きく瞬いていた。・・・
-ありがとう…。迎えに来るわ、薫。迎えに来るから…。・・・
薫に、それは、確実に届いている。薫は、涙を堪えている。約束・・
だったよね、泣かないって…。約束だったよね…。・・・
-これからは、あなたの人生を歩くのよ。ねっ、薫。ごめんね、い・・
ろいろ、面倒かけちゃって…・・・
薫の光から、煌めきの涙が、薫の宇宙に散っていく。宝石を散り・・
ばめた欠片が、若菜に見える。・・・
-薫。これから、あなたは、恋をして、母になるのよ…。私には、・・
できなかったこと…。・・・
若菜の太陽からも、薫と同じ煌めきが散った。二つの宇宙に、光・・
の雫が滑った。・・・
-さよならは、言わないよ…。薫、愛している…。・・・
・・・
・・・
さよなら…。そう言おうとして、止めた。薫は、頬を落ちる一粒・・
に、その言葉を流した。・・・
永遠の結びつきを感じた。若菜の太陽が、薫に見えた。そして、・・
その煌めきが、薫の太陽に、深く刻まれた。永遠に…。暖かさが、・・
薫を、優しく包んでいた。・・・
それでも、涙が、後を絶たない。約束が守れない。薫は、若菜の・・
思いに隠れて、手のひらで、激しく涙を拭った。・・・
-ねえさん…。愛している。永遠に、愛している…。・・・
それだけを、若菜の光に伝えた。行かないで…。本当は、そう叫・・
びたかった。ねえさん、行かないで…。しかし、薫は、それを自ら・・
の太陽に仕舞った。それは、その太陽のなかに刻まれた、若菜の光・・
が、時間を掛けて、ゆっくりと溶かしてくれるものだと思った。・・・
・・・
・・・
「ぼぐ、がんばっだよ…。どじっだったけど、がんばっだよ…」・・・
秋子の腕のなかで、カゼが、自らの思いを吐き出していく。光へ・・
向かうカゼは、自らの選んだ困難を振り返っている。秋子には、そ・・
れが感じ取れた。・・・
「ほんどうは、づらかっだよ…。かなじがっだよ…」・・・
カゼの言葉は、更に、スムーズに流れていた。いつもより、少し・・
声が高くなっていく。・・・
「があさん、ぼくは、ほんとうは、かなしがっだんだ…」・・・
カゼは偉いよ…、秋子の意識に、その言葉が渦巻いていた。秋子・・
は、カゼの思いを黙って聞いた。カゼの声を、ひとつも聞き漏らさ・・
ないように…。・・・
「ぼぐば、だうんしょうという、ものをえらんだの?」・・・
そうよ、ダウン症…。聞かせてやったでしょ。小さい時に、ほん・・
の少しだけ…。秋子に、その時の思いが過ぎた。疾風のように、瞬・・
時に過ぎた。・・・
「ぼくは、だうんしょうだっだ。だから、うまく、はじれながっだ・・
…」・・・
カゼが、浜を歩いた。秋子から、少しだけ離れた。・・・
「ぐやじかっだよ。だれにも、かてなかっだ…」・・・
カゼが、波打ち際に座った。遠くの空が、少しだけ白み始めてい・・
る。風は止んでいた。・・・
「でも、ぼく、がんばっだよ…。ぞうだろう、かあざん…」・・・
秋子も、カゼの側に座った。遠い空からの光が、少しずつ浜に近・・
づく。さざ波が、薄く秋子の視界に揺れた。・・・
二人の間に、短い沈黙が流れた。沈黙が、二人に、夜明けを引き・・
込んでいく。秋子は、膝を抱えた。その間に顔を埋めた。狂ったよ・・
うに泣き叫んでしまいたかった。ジーンズの上から、膝小僧を強く・・
噛んだ。・・・
「カゼ…、がんばったね。カゼは偉いよ。かんばったね…」・・・
どうにか、それを絞り出した。沈黙の間に、カゼが消えてしまう・・
ような錯覚が、秋子を襲った。・・・
「カゼは偉いね…」・・・
秋子は、顔を上げた。カゼが、秋子を見ていた。・・・
「どうじで、ぼぐば、ばか、どじ、まぬけを、えらんだんだろう・・
…」・・・
カゼの言葉に、怒りは含まれていない。清々しさのようなものが、・・
カゼの口調に浮いている。・・・
「どぶしてだろう…」・・・
思えば、始めてのように感じる。カゼの言葉が、秋子に、真っ直・・
ぐに届いていた。今まで、カゼの言葉は、秋子の思いのなかで、秋・・
子が解釈していた。ダウン症故の言葉の障害に、秋子なりの聞き方・・
があった。しかし、今は違っていた。秋子の解釈など不要だった。・・
カゼの言葉が詰まっていない。秋子のフィルターを通さずに、秋子・・
に、直に届く。・・・
カゼの言葉を、そのままに聞く。思えば、始めてのように思う。・・
カゼの言葉を聞く…。そんな簡単なことが、始めてのように思える。・・・
カゼの口調の清々しさが、そのせいなのかも知れない。カゼも、・・
それに戸惑っているのだ。言葉が、自らの思いを素直に運んでいく。・・
カゼも、それに戸惑っている。だから、カゼの言葉が途切れがちに・・
なっている。秋子は、一言だけ、言葉を挟んだ。・・・
「カゼ、もっと、もっと、話を聞かせて。カゼの言葉で、カゼの話・・
を聞かせて…」・・・
カゼが笑った。いつもの笑みだ。・・・
「ぼくは、うまく、じゃべれながった…」・・・
更に、カゼのもう一つの戸惑いが、秋子に見えた。光の理解と、・・
自らの困難とが、カゼには別なる色に重なっている。幼さのバリ・・
ヤーを突き破ったカゼは、その先に見えた自らへの哀れみを、光の・・
カゼとして受け止められないでいる。本当は辛かった…。悲しかっ・・
た…。カゼは、そう言った。その言葉が、今のカゼの戸惑いを物・・
語っている。・・・
「うまく、はしれながった…」・・・
しかし、カゼは、それを乗り越えていく。自らが選んだ道を、カ・・
ゼは全うしていく。カゼの成長は、止まらなくなっている。秋子に・・
は、それが分かる。そのことに、いい知れない、喜びと、悲しみが、・・
秋子のなかを激しく交差する。・・・
「ぼくは、うすのろだった。ぽんこつだった…」・・・
カゼの変化だ。カゼの訴えは、自らに重なった光の理解と、困難・・
の意味とを、結びつけていく過程なのだ。カゼが、自らの言葉で話・・
すことが、カゼの、その思いの理解を深めていく。カゼは、自らの・・
光へ呼びかけている。光への旅立ちに、カゼは、今までの自分に・・
エールを送っている。・・・
「つらかった。かなじがった…。でも、ぼくは、がんばっだ…。ぼ・・
くは、がんばっだ…」・・・
カゼの光が、カゼの額に大きくなる。色が濃くなり、純白に、透・・
明度が増していく。秋子に、その熱さが届く。秋子は、カゼに、微・・
笑みを返した。そうよ、カゼは頑張った…。秋子は、カゼの話に引・・
き込まれた。秋子のなかに交差する悲しみの色を、秋子は、カゼの・・
話に消そうとした。・・・
・・・
・・・
「ぼく、うんどうがいでは、びりばっかりだっだ…。でも、せんせ・・
いは、ちっとも、おこらなかっだよ…」・・・
そうだったね。運動会は、ビリばっかりだったね…。でも、カゼ・・
は頑張った。・・・
「があざんば、ぼめでぐれだ…」・・・
そうよ、いつも、誉めてあげたね…。だって、カゼ、最後まで・・
走ったよ…。だから、お腹が空いたんだね。運動会のお弁当のハン・・
バーグ、いつも残さずに食べたね…。・・・
「えんそくも、いったよ。ものずごく、ながく、あるいたよ…」・・・
山歩きができたね。カゼが、山歩きできるとは思わなかった。ご・・
めんね、あらぬ心配して…。・・・
「すこしだけ、ぼくのために、みんなが、まってくれた。ぼくが、・・
のろかったから。でも、すこしだけだよ…。すこしだけ…」・・・
後で、先生に聞いたよ。クラスのお友達が声援をくれたんだった。・・
よかったね、カゼ…。カゼは、人気者なんだ…。・・・
「ぷーるは、さいしょ、こわかった。いきが、できなかった…」・・・
ちょっとだけ泣いたんだって、それも、先生に聞いたよ…。でも、・・
カゼ、黙っていたね。男だもんね。恥ずかしかったんだ…。・・・
「でも、やすまなかったよ。かお、つけられるようになったよ…」・・・
偉いよカゼ…。頑張ったんだ。学校のプール、楽しみにしていた・・
ね。一度も、休まなかったね…。・・・
「てつぼうも、とびばこも、にがてだった。よく、ころんだ…」・・・
怪我はよくしたね。何でも挑戦した結果だね。カゼの勲章だよ…。・・
いつも、そう言ってやったね…。・・・
「せんせい、すこし、こわかった…」・・・
かあさんよりは、うんと、ましだって言ってたよ…。・・・
「ずこうは、さんを、もらったよ。どうぶつえんにいった…」・・・
あの時も、お弁当、残さなかったね。カゼの好きなハンバーグ…。・・・
「ぞうさんのえ、うまくかけた…」・・・
どういう訳が、カゼは、ぞうさんばっかり描いていたね…。上手・・
だったよ。ピカソよりも…。・・・
「でも、べんきょう、きらいだった。あたまが、いたくなっだ…」・・・
頑張ったよ。カゼは、頑張ったよ…。・・・
「さんすうなんか、ぜんぜん、わからなかった。だから、ぼく、さ・・
んすうのとき、かあさんのことばかりかんがえていた…。ハハハ・・
…」・・・
そうなの…。そうなの…。そうだったの…。・・・
「ハハハ…。ハハハハ…」・・・
おかしいね、カゼ…。おかしいね、カゼ…。でも、カゼは頑張っ・・
た…。・・・
「さんすう、よりも、かあさんのほうが、ずっとずっと、いいよ…。・・
ハハハハ…」・・・
秋子は立ち上がった。どうしても、どうしても、堪えることがで・・
きなかった。秋子の涙が、風に散った。・・・
「おかしいね、カゼ…。ハハハハ…」・・・
カゼの笑いに、秋子も、声を大きくした。カゼも立ち上がり、秋・・
子の肩に手を乗せた。・・・
・・・
・・・
カゼが笑っている。秋子は、それを、泣き笑いで感じた。・・・
カゼが、光へ旅立つ。秋子は、カゼと共に、それを過去に選んだ。・・
しかし、やはり、別れは辛かった。秋子は、冷静を務めた。カゼと・・
の別れの時を、一刻一秒、感じ漏らすものか…、秋子は、そう思っ・・
ていた。・・・
そんな二人の時に、夜明けが躊躇していた。青く色を染めていく・・
分厚い雲が、名残惜しいのか、遠くの明かりに消えていかない。風・・
がないのだろう、雲が、二人を、近い夜明けから隠してくれている。・・
波の音だけが、二人の時のなかに流れ、浜の凪が、その音をも、静・・
けさに引き込んでいく。二人に流れる時は、歩みを拒んでいた。・・・
静けさに、秋子の脳裏に、カゼの思い出が駆け抜ける。運動会で、・・
カゼが走った。あの時、カゼばかり見ていた。カゼは、懸命に走っ・・
た。手首が曲がり、首が大きく振れた。左足が外へ流れ、何度も、・・
コースがはみ出そうになった。それでも、カゼは走った。必死に・・
走った。カゼは、いつも最後まで走った。順番など、どうでもいい・・
ことだった。・・・
遠足から帰ってきた時は、嬉しそうだった。自信に漲った顔して・・
いた。みんなに付いていける。カゼが、そう言った。いい顔だった。・・
えくぼが輝いていた。・・・
参観日には、いつも、少し照れたような顔をしていた。先生の質・・
問に答えられると、秋子の方を見て頭を掻いた。・・・
そんなカゼが、光へ進む。もう見られない…。そう、もう、カゼ・・
の顔が見られない…。・・・
やはり、秋子は叫んでいた。カゼに隠して、別れの悲しみを叫ん・・
でいた。カゼ、行かないで!・・・
しかし、それは、カゼに届いてはいけない叫びなのだ。カゼは頑・・
張った。そう、カゼは頑張ったんだ…。もういいじゃない…。カゼ・・
は、辛かったんだ。悲しかったんだ。・・・
さよならは、言わないよ…。だって、光の国で、すぐに会えるよ・・
ね…。あの時のように…。・・・
秋子は、悲しみを押さえ込んだ。カゼの旅立ちに、それは、必要・・
のないものだった。・・・
・・・
・・・
「ぼく、どじで、ばかだったけと、みんなのこと、すきだったよ…。・・
だれひとり、きらいなひとは、いなかったよ…」・・・
そうだね、カゼは偉いよ。カゼは、人を、嫌いにならないんだよ・・
ね…。かあさんにも、できないことだよ…。・・・
「てすとは、きらいだったけど、がっこうのみんな、すきだったよ・・
…」・・・
いいお友達もできたね。けんちゃんに、とおるくん。それから、・・
まーちゃんに、えりちゃん…。それから、えっーと…。・・・
「ぼくは、みんながすきだった。せんせいも、すきだった…」・・・
先生、誉めていたよ。カゼは、頑張り屋さんだって…。・・・
「さいしょは、ぼく、みんなから、きらわれていた。へんなやつ・・
だって、ばかに、されていた…」・・・
そうだったの。そんなこと、あまり、言わなかったじゃない…。・・
そうだったの?・・・
「でも、だんだん、ばかに、されなくなっていった。ぼくのこと、・・
きらわなくなったとおもう…」・・・
そうよ、カゼ…。嫌われたりしていないよ、カゼは、人を嫌わな・・
いもの。それが、みんなに、分かったんだ…。カゼの笑顔、素敵だ・・
もの…。みんな、それを、知ってるよ…。・・・
「ぼくのこと、みんな、すきになったのかもしれない…」・・・
カゼ、照れてるな…。もっと、はっきり言ったらどう?・・・
「かあさんが、ぼくをすきなように、みんな、ぼくのこと、すきに・・
なった…」・・・
それでいいのよ、カゼ。そうよ、かあさんが、カゼのことを好き・・
なように、みんな、みんな、カゼのこと好きなのよ。きっと、みん・・
なにも、カゼの光が、見えるのかも知れないね…。・・・
「りんも、ぼくのこと、すきだよ。じんじも、じんじのおばあちゃ・・
んも…」・・・
そう、みんな、みんな、カゼのこと好きなのよ…。よかったね、・・
カゼ…。・・・
「くろおとこは、どうだろう…」・・・
黒男て、東村のおじさんのこと?・・・
「くろおとこは、どうだろう…」・・・
勿論、カゼのこと好きよ…。だって、あんなに暗い海に、カゼを・・
探してくれたのよ…。・・・
「よかった。ぼく、きになっていたんだ。かあさんのすきなひとに、・・
ぼくが、きらわれたら、かあさん、かわいそうだもの…」・・・
何、言ってるのよ。かあさんの心配までしていたんだ…。カゼ、・・
優しいね…。・・・
「よかった。よかった…。ハハハハ…」・・・
夜明けが、二人に忍び寄った。浜の凪が、知らぬ間に姿を隠して・・
いた。風が、カゼの額の光を、ほんの少しだけ揺らした。・・・
・・・
・・・
「カゼ、あなたは心を選んだの。そして、心の大切さを知ろうとし・・
たの…」・・・
今度は、秋子が、思いを吐き出す番だった。秋子は、カゼのすべ・・
てを、秋子のすべてで感じながら、カゼのすべてを強く抱いた。・・・
「大切な心…。カゼは、それを知ろうとしたのよ…」・・・
深く、深く、刻印していく。カゼのすべてを、秋子のすべてに、・・
一つひとつ刻み込んでいく。別れじゃない。秋子は、そう思うこと・・
に努めた。・・・
「だから、カゼは、障害を選んだ…」・・・
もっと、もっと、カゼに、話すことがあるように思った。しかし、・・
秋子は、カゼとの別れを、胸の内に隠していた。だから、カゼに、・・
旅立ちの餞だけを伝えていた。悲しみを、カゼに見せたくなかった。・・・
「人は、形じゃないの…。姿じゃないの…。心なの…。カゼは、そ・・
れを知っているんだ…。そして、その心は、美しく輝く光なの…。・・
カゼ…。カゼは、それを知っているんだね…。偉いよ、カゼ…」・・・
カゼが、秋子の腕のなかで、小さく頷いた。カゼの光が、再び揺・・
れた。それは、風じゃなかった。秋子の思いに、カゼの光も頷いて・・
いた。・・・
「カゼ…。光は、みんなの心に灯るもの…。でも、誰にだって見え・・
るものではないの。そう、誰にだって見えるものではないの…」・・・
もう、見れない…。カゼの姿を、もう、見れない…。その思いが、・・
秋子を掠める。・・・
「心に灯る光が、私たちの本当の姿なのね…。カゼは、それを知っ・・
ている。偉いよ、カゼ…」・・・
もう、見れない…。カゼを見れない…。秋子に、それが重なって・・
いく。秋子は、それを押さえ込んだ。自らの懐深くへ、押し込んだ。・・・
「その光は、困難の向こう側からしか見えないのかも知れないね…。・・
だから、カゼは、困難を選んだんだ…」・・・
悲しみが、カゼに見えてしまう。秋子は耐えた。言葉を、素早く・・
続けた。・・・
「カゼには、見えるんだ…。みんなの光が見えるんだ。だから、カ・・
ゼは、人を嫌いにならない。どんな人の光だって、カゼには見える・・
んだ。人を嫌いにならないって、その人の光を、見てあげることな・・
んだね…。ひとつ、カゼに、教わったね…」・・・
もう見れない…。カゼの顔…。カゼのえくぼ…。カゼの瞳…。カ・・
ゼの胸…。カゼのおしり…。・・・
「偉いよ、カゼ…。カゼには、みんなの光が見えるんだ。かあさん・・
や、みんなの光が見えるんだ。学校のお友達のも見えるんだ。六年・・
ろ組のけんちゃん、とおるくん、まーちゃんに、えりちゃんのも見・・
えるんだ。六年い組の田中君も、あきらくんも、ゆかりちゃんも、・・
そうだね…。ああ、それから、団地のみきちゃんや、しょうたくん、・・
たかくんのも見えるんだ。だから、カゼは、仲良くできるんだ。み・・
んなの光が、見えるんだ。偉いよ、カゼ…」・・・
偉いよ、カゼ…。偉いよ、カゼ…。秋子は、それを心で続けた。・・
悲しみを隠すのには、最も適した思いだった。・・・
「そうね、カゼには、みんなの光が見えるんだ。光は、困難の向こ・・
う側からだったら、見えるんだ…。だから、カゼは、困難を選んだ・・
んだ…。カゼだったら、そんな困難、乗り越えていけるものね…。・・
カゼ。偉いよ…」・・・
カゼ、偉いよ…。カゼ、偉いよ…。しかし、その思いすら、悲し・・
みにはみ出していく。・・・
「大変だったよね。辛かったね。悲しかったよね…」・・・
もう、見れない…。カゼを、もう、見れない。秋子の胸の奥は、・・
もう、それを押し込む場所がなくなっていた。・・・
「カゼ、漕ぎ出すのよ…。カゼは、その瞬間を待っていたんでしょ。・・
困難を、選んだ理由よね…」・・・
カゼが、秋子の腕のなかで、ゆっくりと顔を上げた。カゼが、光・・
に包まれていた。カゼの、あの平べったい顔が、光に隠れていく。・・・
「カゼ…。今よ、今でないと、それはできないよ…。カゼは、その・・
資格を掴んだんだ。カゼは、頑張ったんだ。困難を乗り越えたんだ・・
…。だから、カゼを、その光が呼んでいるのよ…」・・・
もう見れない…。カゼの笑顔…。カゼの鼻…。カゼのおでこ…。・・
カゼの後ろ姿…。カゼの走り…。・・・
「さあ、漕ぎ出すのよ…。カゼは、偉いよ…。かあさんは、カゼを、・・
誇りに思うよ…」・・・
偉いよ、カゼ…。偉いよ、カゼ…。偉いよ、カゼ…。秋子の泉か・・
ら、熱いものがこぼれ始めた。それでも、秋子は続けた。言葉を切・・
りたくなかった。・・・
「カゼは、光の方舟を創るんだ…。その舟の意味を、悲しみの人た・・
ちに見せるんだ…。そして、その舟に、悲しみの人たちを誘うのよ・・
ね…」・・・
涙が、頬を伝わった。光に包まれていくカゼに、それが、ゆるり・・
と落ちていく。・・・
「光の方舟は、大きくなっていく。悲しみの人たちが、光の意味を・・
知っていくのね…」・・・
偉いよ、カゼ…。偉いよ、カゼ…。旅立ちの餞が、やはり、涙で・・
濡れてしまった。仕方なかった。涙が、止まらなくなっていた。・・・
「かあさんも、その舟に乗るね…。それまで、頑張れよ…。カゼ・・
…」・・・
カゼを、果てしなく誇りに思った。カゼを、眩しいと思った。そ・・
れでも、旅立ちが、やはり悲しかった。・・・
「それが、カゼの光の舟…。そう、カゼの方舟…」・・・
そこまでだった。秋子は、今まで堪えていた最後の言葉を、自ら・・
の奥へ飲み込んだ。・・・
-カゼ、行かないで…。・・・
それは、秋子のなかだけに、悲しみの悲鳴となって轟き渡った。・・・
「さよなら…。さよならは、言わないよ…。カゼは、偉いね。カゼ・・
の方舟を、漕ぎ出すのよ!」・・・
悲しみの悲鳴に変わり、秋子は、それをカゼに告げた。浜に、朝・・
の明かりが、ゆっくりと入ってきていた。カゼが、秋子の腕をすり・・
抜けた。カゼの光が、秋子に温かかった。・・・
・・・
・・・
-かあさん、ありがとう…。かあさん、ありがとう…。かあさん、・・
ありがとう…。・・・
でも、これが、ぼくの、しめいなんだ…。ぼくは、そのしめいを、・・
えらんだんだ…。・・・
だいすきだよ、かあさん…。かあさん、ありがとう…。だいすき・・
だよ、かあさん…。・・・
いまを、のがしたら、ぼくは、こんなんに、うちまけたことにな・・
るんだ。・・・
わかってくれるよね、かあさん…。ひかりのはこぶねで、むかえ・・
にくるよ…。・・・
だいすきだよ、かあさん…。だいすきだよ、かあさん…。・・・
・・・
・・・
それぞれの時が、素早く動き始めた。待ちきれない夜明けが、歪・・
んだ時を急かす。・・・
「カゼのおにいちゃんが変だ!」・・・
リンが、一番に飛び上がった。カゼが、光に包まれている。真っ・・
白な光が、波打ち際に揺れている。・・・
「高志! どういうこっちゃ!」・・・
源助が、それに続いた。白い光が、近くの夜明けよりも、浜に明・・
るい。カゼの光が、足下の波を受け、戻り来た風に揺れている。・・・
「カゼのおにいちゃんが、光になっている…」・・・
東村にも、リンの声が届いた。不思議な思いだった。夢を見てい・・
たのだろうか…。東村の記憶が、断片的になっていた。カゼに、手・・
を上げたのまでは覚えている。しかし、それ以降のことが、東村に・・
は雲のようだった。雲に揺られている夢のような思いしか、東村の・・
意識には昇ってこなかった。・・・
「高志! あれは、カゼの光と、若菜さんの光じゃ!」・・・
東村も、光の方へ寄った。光は、重なるように二つあった。青い・・
闇に、白い仄かな光が浮かび上がっている。・・・
「カゼのおにいちゃんが、笑っている…」・・・
それは、リンにだけ見えるのだろうか、東村には見えない。光が、・・
二つ、人型に揺れているだけだ。・・・
「カゼのおにいちゃんが、どこかへ、行ってしまう!」・・・
リンが言った。それは、叫びに近いものだった。・・・
光の方舟…。東村は、秋子の肩を抱いた。美しかった。秋子が聖・・
母に見えた。・・・
「アキ、カゼを行かせてはダメだ!」・・・
若菜の話は、やはり嘘ではなかった。カゼと若菜が、光の方舟を・・
漕ぎ出そうとしている。東村は、叫んだ。一歩、二人の光へ近づい・・
た。・・・
「ダメだ、それ以上、進んではいけない!」・・・
二つの光が、更に、重なっていく。それぞれの核の光が、少し色・・
づいていく。ほんの微かに、朱に燃える色を見せ始めていく。・・・
「高志さん…。あれが、カゼの太陽…」・・・
秋子が虚ろだった。聖母の美しさが、東村を振り返った。秋子は、・・
カゼの光に照らされて、聖なる微笑みを浮かべていた。信じられな・・
い美しさだった。カゼの光のように、東村には、秋子が透き通って・・
見えた。・・・
「カゼの太陽が、若菜さんの太陽と結びついていく…」・・・
秋子の美しさに、東村は、言葉すら発することができなかった。・・
アキ、カゼを止めないのか…。その思いが、声にならない。・・・
「少し、赤くなっている。あれが、炎に燃える時、カゼの方舟が、・・
大きく帆を上げるの…」・・・
二人の太陽が、寄り添うように重なる。光が、その太陽のなかで・・
弾けている。朱を、朱が爆ぜていく。小さな紅の破裂が、二人の太・・
陽を、少しずつはみ出していく。・・・
「ねえさんが、カゼくんの手を握った…」・・・
薫も、側に寄っていた。薫も美しかった。秋子のように、二人の・・
光を受け、薫が、透明に輝いている。二人とも、この世のものとは・・
思えない美しさを、東村に、虚ろに見せる。・・・
「カゼが、若菜さんに微笑んでいる…」・・・
朱が、光のなかに、色を濃くした。燃えていく…。光が燃えてい・・
く…。激しい何かが、光のなかを駆けていく。東村にも、それは見・・
えた。・・・
「ねえさんも、カゼくんに微笑んでいる…」・・・
薫が、秋子の手を握った。聖母に寄り添う天使だった。二人だけ・・
が、いや、更に、カゼと若菜、彼らだけが、異なった空間に存在し・・
ている。東村に、そんな思いが掠める。・・・
「カゼの太陽が、燃えていく…」・・・
朱が、色を弾いていく。カゼの太陽のなかに、若菜の太陽のなか・・
に、弾かれた色が重なっていく。純白な二人の光に、その赤が走る。・・
二つの太陽が、互いに引き合っていく。・・・
「ねえさんの太陽が、燃えている…」・・・
二つの太陽が、ひとつになる。純白の光が、太陽に隠れた。太陽・・
が、自らの光を凝縮していく。色を、激しい思いで燃やしていく。・・・
「カゼを止めないのか…」・・・
東村は、それだけを絞り出した。カゼと若菜の太陽からの、熱い・・
たぎりが、東村にも伝わる。赤い光が、夜明けの色に、彩りを添え・・
ていく。・・・
「カゼを止めないのか…」・・・
秋子に、それが届かない。虚ろのまま、秋子は、カゼを見つめて・・
いる。・・・
風が、強くなった。カゼと若菜が、風に靡く。白いさざ波が、仄・・
かに朱に染まる。夜明けが、それを、東村に妖しく見せた。・・・
「だめだ! 彼らを、行かせてはいけない!」・・・
東村は、秋子と薫の前に出た。カゼと若菜の光を掴もうと、波に・・
入った。自分は、あの光を追ってきた…。そう、自分は、カゼの光・・
を、あの戦場から追い続けてきた。東村にも、熱いものが、自らの・・
思いのなかに駆けだした。・・・
「行かせてあげて、カゼを、このまま、行かせてあげて…」・・・
東村より、それは素早かった。秋子が、東村の腕を取った。・・・
「カゼは、未来を掴んだの…。カゼの不自由な曲がった腕を、伸ば・・
せば、そこに、カゼの未来があったのよ…」・・・
秋子は泣いていた。東村は、これほど美しい涙を見たことがな・・
かった。秋子のなかの母性の光が、秋子の二つの瞳に、宝石よりも・・
勝る輝きを見せていた。・・・
「そうなのです。ねえさんも、車椅子を降りたのです。そして、踏・・
みしめた道が、ねえさんの未来だったのです…」・・・
薫の瞳も、秋子と同じ輝きだった。それは、母性の光などではな・・
い。それらをすべて越えた、真実の愛の光だった。東村には、それ・・
がはっきりと見えた。妙子の話の間違いに、東村は、はっきりと気・・
づいた。理解を超えた愛は、何をも貫く…。いつか、どこかで、聞・・
いたことのある言葉が、東村に心地よく流れ込んでいた。・・・
「高志さん…。カゼを行かせてあげて…。カゼは、この瞬間を、お・・
ぼつかない、心許ない、哀れですらある困難のなかで、待ち続けて・・
いたの…。カゼを、行かせてあげて…」・・・
東村は、膝を落とした。涙が、堰を切っていた。・・・
「ねえさんや、カゼくんは、この瞬間のために、困難を選んだので・・
す…。私からも、お願いします。東村さん…」・・・
薫も泣いていた。秋子と同じ、美しすぎる涙だった。・・・
「高志さん。カゼを行かせてあげて…」・・・
カゼを、果てしなく誇りに思った。そして、秋子を、心の底から・・
愛していると確信した。東村から、激しい嗚咽が漏れた。堪えきれ・・
なかった。東村は、砂を一握り、強く握り締めた。・・・
・・・
・・・
光が弾けた。真っ赤な太陽が、果てしない炎となって燃え上がっ・・
た。・・・
「カゼ!」・・・
それは、一瞬だった。燃え上がった炎は、秋子の視界を、真っ白・・
に染めた。・・・
舟が見えた。純白の舟だった。あの時の舟だ。秋子は、その舟に・・
手を伸ばした。伸ばした手の先に、カゼが笑っているように思った。・・・
「カゼ、元気でね…」・・・
悲しみが、秋子から去っていた。涙が、嬉しさに傾いていく。旅・・
立ちだね、カゼ…。伸ばした手を、大きく光の舟に振った。・・・
「カゼ、漕ぎ出す! カゼの方舟を、純白な未来へ、さあ、漕ぎ出・・
せ! カゼ!」・・・
舟が、帆を上げた。カゼの方舟が、純白の帆を上げた。透明の帆・・
を上げた。・・・
舟が、波を切った。飛沫が、秋子に微かに掛かる。波も純白だ。・・
汚れのない海原を、カゼの方舟が流れていく。・・・
「カゼ、風はあるよ…。そう、カゼの伸ばした手の先…。そう、そ・・
の風よ…」・・・
やはり、カゼが笑ったように思った。いつものえくぼが、秋子に、・・
見えた気がした。・・・
「その風は、未来に吹いていくの…。そう、その風よ…。あの時も、・・
その風が吹いていたね…」・・・
カゼが、風を見つけたんだ…。カゼの帆が、高く高く上がった。・・
いい風だったんだ…。やはり、カゼが笑っている。・・・
「カゼ、元気でね…。さよならは、言わないよ…」・・・
・・・
・・・
-大きくなったら、ぼくは、だいくさんになります…。・・・
旅立ちの詩だ。秋子に、それが聞こえた。秋子は、波に足を付け・・
た。波は暖かかった。・・・
-大きくなったら、ぼくは、コックさんになります…。・・・
夜明けの空に、カゼが見える。カゼが、旅立ちの詩を歌っている。・・
カゼの方舟の上で、大きく手を振っている。紺のブレザーに、蝶ネ・・
クタイ…。カゼが、精一杯のお洒落をしている。・・・
-大きくなったら、ぼくは、かあさんに、大きないえをたてます…。・・・
そうよ、大きな家を建ててね…。でも、カゼ、蝶ネクタイが、少・・
し曲がってるよ…。秋子は、空へ手を伸ばした。カゼの方舟の純白・・
な帆が、カゼの小学校の卒業証書に見えた。それが、誇らしげに、・・
風にはためく。カゼの笑顔が煌めいている。大きなえくぼが、白い・・
帆のなかに見える。・・・
-大きくなったら、ぼくは、かあさんに、おいしいコロッケをつく・・
ります…。・・・
そう、カゼの作ったコロッケ、美味しいだろうな…。楽しみにし・・
てるね…。・・・
舟が揺れた。カゼが蹌踉めいた。卒業式と一緒だ。カゼは、緊張・・
すると蹌踉めく…。カゼ、しっかりしなさい…。カゼが、また笑っ・・
た。カゼの紺のブレザーから、金ボタンが一つ取れた。それが、秋・・
子の足下の波に弾けた。・・・
「カゼー!」・・・
光が消えていった。カゼの方舟が、夜明けの空へ消えていった。・・
カゼの未来へ消えていった。・・・
「カゼー!」・・・
秋子は、足下の波をすくった。カゼの落としてくれた金ボタンを、・・
波に探した。・・・
「カゼー!」・・・
手のひらに、一粒、金色の小さな石が朝日に輝いた。波が白く、・・
秋子の足下を過ぎていった。・・・
・・・
・・・
・・
END・・・
エピローグ・・・
・・・
初夏の日射しが、秋子に眩しかった。時折、左手を横に出したが、・・
それを握る者はいない。・・・
「薫さん。上着、脱ごうか…」・・・
秋子は、来ていたジャケットを取った。ノースリーブの肩に、風・・
が、爽やかに吹いた。・・・
カゼは、光となって、未来へ向かった。もう、秋子の左手を握っ・・
たりしない。今頃、カゼは、若菜との方舟で、光を楽しんでいるだ・・
ろう…。秋子は、爽やかな風に、そう思った。・・・
すべてのことは済ませた。納骨もした。そして、秋子なりの別れ・・
も済ませた。・・・
「姉さんたち、何しているんだろう…」・・・
思いは、秋子と一緒だった。薫も、光のことを考えている。・・・
カゼは、あの時、秋子の膝で息を引き取った。静かな、静かな、・・
寝顔だった。さよならは、最後まで言わなかった。カゼは、案外強・・
情だった。・・・
「そうね、光に埋もれて、昼寝でもしているんじゃない…」・・・
薫が、秋子を訊ねてきた。秋子と薫は、新しい結びつきを感じて・・
いた。お互いに、光を見送っていた。思いは同じだった。・・・
「ハハハハ…」・・・
薫を誘って、遊園地に来た。秋子が、自らが変化を、最初に感じ・・
た場所だ。カゼと一緒に、ここで思いきりはしゃいだ。いい風が、・・
自分に吹き始めた時だ。・・・
「カゼくん、図工、三だったんですってね…」・・・
二人の悲しみは、形を変えていた。二人は、悲しみを分かち合っ・・
た。そして、光の意味を、それぞれに理解した。二人は、悲しみの・・
先に、少しだけ喜びが見えるようになっていた。・・・
「そうよ、ぞうさんの絵が得意だったの…」・・・
初夏の日射しは、そんな二人を、少しずつ軽くしていた。互いに、・・
歩く速度が、自然と速くなっていく。秋子は、あの時の金色の石を、・・
後ろ手にそっと握った。・・・
「カゼくん、立派だね…」・・・
ジェットコースターが、二人の頭の上を通り過ぎた。秋子は、咄・・
嗟に上を見上げた。カゼが、乗っているような気がした。・・・
「ジェットコースター、乗ろうか…」・・・
いつかと同じ言葉を言っていた。秋子は、更に軽くなった。・・・
「乗りましょう。楽しそう…。私、始めて」・・・
薫が微笑んだ。紅茶色の瞳が、日差しに輝いた。それは、秋子が・・
見ても、美しい瞳だった。・・・
-ジッド、ゴーズダー、のろぶ。ジッド、ゴーズダー!・・・
何かが、秋子の胸に聞こえた。えくぼが、一瞬、秋子の脳裏を過・・
ぎた。・・・
-があざん、ジッド、ゴーズダー、のろぶ、のろぶ!・・・
カゼが笑っていた。秋子の微笑みを待っていた。・・・
-若菜さんも一緒だよ…。いい天気だね…。・・・
秋子は、驚きと嬉しさに、微笑みをたっぷりこぼした。薫を見れ・・
ば、薫も、それをたっぷりと見せていた。・・・
-かあさん、ぼくは元気だよ。心配しないで…。カゼの方舟は、順・・
調だよ…。さよならを、言わないでよかったね…。・・・
日射しに、カゼが見えたようだった。いや、秋子の太陽の日射し・・
に、カゼが見えた。・・・
「薫さん、ジェットコースター乗ろう!」・・・
微笑みが重なった。二人は走った。ジェットコースターの乗り口・・
は、すぐ近くだった。・・・
「ねえさん、元気だった。昼寝なんかしていなかった…」・・・
小走りに、薫が言った。瞳が踊っている。微笑みが、秋子に眩し・・
い。・・・
「カゼも元気だった。さよならを、言わないでよかったねて言っ・・
た」・・・
秋子も返した。二人の足が、速度を上げた。ジェットコースター・・
の乗り口が見えてきた。・・・
その時、前方に、車椅子の女の子が見えた。女の子は、こちらを・・
見ていた。どことなく沈んでいた。カゼのように、手首が曲がり、・・
若菜のように、足がやつれていた。・・・
「薫さん…」・・・
「秋子さん…」・・・
二人の踊る瞳が、その瞬間にピタッと合った。二人は、その子に・・
寄った。合図も何もなかった。秋子と薫の思いを、それぞれに風が・・
伝えた。・・・
「がんばれ!」・・・
二人は、同時に、その子の肩を叩いた。椅子を押す母親が、目を、・・
大きく驚いた。咄嗟に、その女の子が手を上げた。恥じらいらしき・・
ものが、微かに浮かんだ。・・・
「がんばれ!」・・・
女の子の上げた手を、二人は、交互に叩いた。ホームランの後の・・
握手のように、少し強く叩いた。・・・
「ヤッホー!」・・・
女の子の顔が、スポットライトを浴びたように輝いた。驚きの母・・
親が、更に、目を丸くしている。・・・
「ヤッホー!」・・・
嬉しそうに、楽しそうに、女の子が笑った。顔をくしゃくしゃに・・
して、車椅子の上で笑った。・・・
「ヤッホー!」・・・
秋子も、薫も、叫んだ。そして、上げた手で、小さくガッツポー・・
ズを作り、笑顔で、女の子の側を過ぎた。女の子が、二人を、振り・・
返っていた。・・・
-ありがとう…。・・・
二人に、そう聞こえた。二人とも、その声に、女の子の光が見え・・
たように思った。・・・
「カゼも、がんばれ!」・・・
「姉さんも、がんばれ!」・・・
秋子と、薫は、もう一度、腕を高く上げた。小さくジャンプして、・・
互いの手を叩いた。・・・
「カゼも、がんばれ!」・・・
「姉さんも、がんばれ!」・・・
二人は、ジェットコースターへ向かった。同じリズムで、ジーン・・
ズのお尻を振った。カゼの光も、若菜の光も、二人の太陽の側に・・
あった。頭の上の激しい機械音が、秋子には、なぜか心地よかった。・・・
あの時の、ジェットコースターでのカゼの悲鳴を、秋子は、思い・・
出していた。頭上の音のなかに、もう一度、それが聞こえてくるの・・
を、秋子は、少しの間待った。・・・
爽やかな風が、秋子に吹き続いた。カゼからの風…。秋子は、そ・・
んなことを思った。薫と、笑顔が何度も重なった。・・・
・・・
・・・
・・
・05ャ01-・0CB!007304″!1・0CB”007304″!-・

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