RIKI リリー・マルレーンに花束を

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RIKI(リキ)・・・
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リリー・マルレーンに花束を…・・・
河村 健一・・・
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第一章 夜・・・
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(1)・・・
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―ガラス窓に灯がともり、今日も街に夜が来る…。・・・
いつもの酒場で、陽気に騒いでる…。・・・
・・・
クーの声が聞こえる。低く床を流れる。冬子は微睡みから戻った。ベッドの側の窓に今夜も粉雪が・・
見える。クーの悲しげな低い声が続く。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
リリー・マルレーン。クーの歌う曲の中で一番いい。だから契約した。不思議な歌手だ。この曲だ・・
けプロを感じる。店ではラストにこの曲を使う。クーの歌うこの歌の良さを分かるような客はいない・・
だろうが…。・・・
・・・
―男たちに囲まれて、熱い胸を踊らせる…。・・・
気ままな娘よ、みんなの憧れ…。・・・
・・・
この曲は、元々第一次大戦当時のドイツの流行歌だった。それが大戦中にドイツ軍捕虜から連合軍・・
兵士へと拡がった。世界大戦という激しい波をこの曲は戦乱の世界各地へ飛び回った。クーから聞い・・
た話だ。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
その曲をドイツ人のハリウッドスター、マレーネ・ディートリッヒが第二次大戦中に連合軍の兵士・・
から歌い受けた。マレーネ・ディートリッヒは大戦中にヨーロッパ、アフリカ戦線を兵士の慰問に積・・
極的に回っていた。その時に連合軍の兵士が口ずさんでいたのだ。彼女はそれを慰問各地での舞台に・・
披露したのだそうだ。クーに聞いた話だ。・・・
・・・
―お前の赤い唇に、男たちは夢を見た…。・・・
夜明けが来るまで、すべてを忘れて…。・・・
・・・
クーがベッドに近付いた。冬子はベッドに起きた。目を伏せたクーが微笑んでいるように見えた。・・
いつ以来だろう、クーの微笑みを見るなんて。冬子は立ち上がりいつものソファーに沈んだ。クーの・・
手からセーラムの箱が冬子に手渡された。えーと、この歌の訳詞は、確か加藤登紀子…。クーはそう・・
言っていた。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
クーもソファーに沈んだ。小柄なクーが冬子よりも深く沈んだ。冬子と同じショートヘヤーが軽く・・
靡いた。シャンプーの香りが部屋を仄かに色付けていく。微かな柑橘系の香りが揺れる。冬子の使っ・・
ているシャンプーだ。冬子は笑みをタバコの煙に隠した。少しずつクーが心を開いている。冬子は素・・
早く隠した微笑みをクーに転がした。・・・
・・・
―ガラス窓に日が昇り、男たちは戦に出る…。・・・
酒場の片隅、一人で眠っている…。・・・
・・・
リリー・マルレーンが更に低くなった。シュッ! 缶ビールの炭酸が弾ける音がした。シュッ! ・・
音は二度した。飲もう…。クーの沈んだ目が浮き上がる。クーの喉がビールによって潤った。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
クーが冬子を見て笑った。喉の潤ったリリー・マルレーンが自分らしくなかったのだろうか、少し・・
照れている。黒く深い瞳を冬子に途切れ途切れに向ける。あの日と同じ瞳だ。あの日は荒れていた。・・
しかし同じ瞳だった。光を内に隠した瞳だった。・・・
・・・
―月日は過ぎ人は去り、お前を愛した男たちは…。・・・
戦場の片隅、静かに眠ってる…。・・・
・・・
冬子もビールを飲んだ。クーの瞳に引き込まれていく。なぜ、こんなにも、この少女の気怠い歌に・・
心惹かれるのか…。少し傾いた少女に過ぎないのに…。僅かに歪んだ少女に過ぎないのに…。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
クー…。久美子だったか、久美だったか…。それとも、邦子だったか…。冬子にしては迂闊だった。・・
一度しかクーは名を名乗らなかった。自分の名が嫌いでたまらない…。少女の名より、その言葉の方・・
が冬子の記憶に留まった。冬子は少女をクーと呼んだ。名なんて、それ程意味を持つものではない。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
秋元冬子。自らの今の名も意味のないものだ。秋と冬が好きだった。だからそう名付けた。そう名・・
乗った。それまでのことだ。五年前のことだった。名なんて、ただの符号に過ぎない。クーもそう・・
思っているようだ。クーという新しい響きを気に入っている。一度こぼしていた。クー…。空という・・
字を充てようかな…。あたし、空を飛びたいんだ…。その時だけ黒い瞳が微かに色付いていた。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
もう一度クーの喉が隆起した。曲が終わった。クーの微笑みは続いていた。相変わらず悲しげな微・・
笑みだった。・・・
・・・
・・・
「ママ…」・・・
リリー・マルレーンの余韻が冬子に残るなか、クーがゆるりと言った。やはり少し照れている。リ・・
リー・マルレーンより心持ちオクターブが高い。・・・
「ママのこと聞かして…」・・・
そんなクーの声が今夜は心地よかった。どこか遠くから聞こえてくるようだった。この子の歌は物・・
になるかも知れない。そんなことを冬子は思った。いつの間にか、冬子の膝に半年程前に拾った白黒・・
の縞の子猫が丸くなっている。・・・
「クー。クーがそんなこと言うの珍しいね…」・・・
猫の背を撫でた。うっとりと猫が視線を冬子に上げる。眠たげな目が愛らしい。冬子は瞳を見比べ・・
た。クーの瞳も猫のように透き通っていた。クーの瞳は光を隠しているのではなかった。光が素早く・・
通り過ぎてしまうのだ。・・・
「いいじゃん…。あたし、ママ好きだよ…」・・・
不思議な関係だった。冬子はクーを膝の上の猫のように拾った。いや、クーが猫のように冬子に拾・・
われた。出会ったのは膝に乗る猫を拾ってから少し経った夜のことだった。クーは荒れていた。ス・・
テージは見られたものではなかった。しかし、ラストの曲が耳に残った。リリー…、リリー・マル・・
レーン…。・・・
「ママのこと聞かして…」・・・
クーがもう一度言った。声はやはり遠く感じた。・・・
「過去は海に流したの…」・・・
それは、クーの声より遥かに遠い声だった。冬子にはそれが分かった。優しさのない言葉だった。・・・
リリー・マルレーン…。その後、席に呼んだ。ラストの曲よかったわ…。そう言ってブランデーを・・
勧めた。クーは微笑んだ。拗ねた笑みだった。クーはブランデーを何杯も飲んだ。まさしく酔うため・・
に飲んでいた。猫の話をした。クーも最近生まれたての子猫を拾ったと言った。・・・
「過去は海に? かっこいい…」・・・
クーが目を逸らした。冬子も視線を落とした。少し二人に間が空いた。・・・
なぜか又会いたくなった。誰にも開いたことのない胸をクーには開けそうに思った。不思議だった。・・
ただの少女に心揺れる自分を戸惑った。クーは何もかも捨てていく。生まれたことさえ自分から捨て・・
ていく。そんな印象だった。過去の自分と同じだった。忘れ去りたいことを忘れるためにもがいてい・・
る。悲しそうだった。・・・
「だから、クーには話せない…。過去は海の果てよ…」・・・
拾った子猫と転がり込んできた。この猫、ミャーというの…。アパートでは飼えないらしいわ…。・・
あたし知らなかった。だから、ミャー…。ミャー、ミャーと呼んでも、どこかの野良猫を呼んでいる・・
みたいでしょ…。クーはそう言って悲しそうにうつむいた。冬子はそんなクーの肩を抱いた。うちの・・
猫はミミ。ミーミーと呼ぶのよ。マンションの人に怪しがられないようにね。考えることは一緒ね…。・・
猫も仲良くなれるわ…。・・・
「海の果てか、いいな…。あたしも海に流れていきたい…」・・・
悲しみがはっきりと冬子に見えた。その時、クーは既に店もやめアパートも引き払っていた。クー・・
にとって、クーという女をクーから限りなく近い位置からの視線で見られるのが初めてだったのだろ・・
う。悲しみというアングルで見付められたのが驚くほど新鮮なことだったのだろう。クーは冬子に・・
縋っていた。小さめのボストンがクーの荷物のすべてだった。白いシャムの掛かった子猫、ミャーと・・
いう猫もそのボストンのなかに丸くなっていた。・・・
「クーのこと聞かして…」・・・
クーの膝にそのミャーが乗っていた。澄んだ空の色の瞳が涼しげに転がる。・・・
「嫌だ。知られたくない…」・・・
クーがビールを飲み干した。機嫌が裏返った。白い子猫を抱いて冬子のベッドにクーが潜った。・・・
「今夜はここで寝かせて、ママ…」・・・
クーは布団に隠れた。猫の甘える声が微かに冬子に届く。冬子は立ち上がった。飲みかけのビール・・
を煽り膝の猫をクーの足下へ置いた。・・・
「側にいようか…。それとも、いない方がいい?」・・・
クーは返事を寄こさなかった。冬子は部屋を出た。どこからか冷たい風が冬子の耳元に絡んだ。・・・
・・・
・・・
―調査依頼のテナントについての報告書・・・
江藤探偵事務所、江藤栄一。・・・
店名 …クラブ、フォン・ロッシュ。・・・
職種 …会員制クラブ。・・・
所在 …新宿XXビル地階。・・・
経営者…秋元冬子。 ・・・
業務内容…俗に言う高級クラブ。二年前にオープン。フロアー面積、推定約100坪。   ・・
客席数、推定30。従業員数、推定20。完全会員制。会員と同行、あるい   は会員の・・
紹介でないと入場否。会員の職層は、推定Bレベル。あるいはAレ   ベル。・・・
その他 …客は政財界の大物も時折お忍び。VIPルームが3室。暴力団との関係は無。   ・・
売春も無。生演奏によるショーが毎夜三回行われる。有名歌手も出演するこ   と有り。・・
超辣腕の老マネージャー在。従業員の給与は他の二倍、あるいは三   倍。但し、秘密主義。・・
それについてかなり厳しいとのこと。(元従業員の女   性の証言、退店したものまで秘密・・
主義。女性の口固し)・・・
経営者について…・・・
年齢…不詳。・・・
出身…不詳。・・・
現住所…東京都世田谷区桜丘○丁目○○マンション1101号。・・・
その他…秋本冬子の姓名は偽名の可能性有り。引き続き調査続行中。中肉中   ・・
背。髪は短髪、栗毛色。うりざね型の極美形。未婚と思われる。男の影なし。・・・
補足事項…辣腕の老マネージャの存在について…・・・
氏名…不破(ふわ)仁吾(じんご)。・・・
年齢…不詳。推定、六十前後…。・・・
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江藤栄一は自らが作成した調査資料から目を切った。指先が小刻みに震える。江藤はその震えを収・・
めようとはしなかった。この調査が奴に行き着いた。江藤はコピー用紙を握りしめた。激しい思いが・・
掌に乗る。江藤は視線を別なるコピー用紙へと移した。・・・
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―昭和四十五年十二月十五日。毎朝新聞。夕刊。・・・
出産直前の女性浚われる! 身代金目的の誘拐か!・・・
今日午前三時頃、東京都足立区の田村産婦人科に強盗が押し入った。賊は裏口の鍵を強引にバール・・
のようなものでこじ開けた後、宿直の当病院副院長であり病院長田村啓介氏の長男明弘氏に刃物を突・・
きつけ入院中の江藤芳子さん(22才)の病室まで案内させた。犯人はその後明弘氏を空手技で気絶・・
させ(明弘氏の証言による)出産間近の芳子さんを浚って裏口より逃走。犯人の特徴は、身長百七十・・
五センチくらい。痩せ型。短髪。警察は付近を厳重警戒して犯人の行方を追っているが、今のところ・・
手掛かりは得られていない模様。付近は静かな住宅街であり、押し詰まった年の瀬に起きた凶悪な犯・・
罪に付近の住民たちは恐れ脅えている。早々の解決を望むものである。・・・
・・・
何百回と見た記事だ。この時、自分は手洗いへ行っていた。早産の危険性があった。非番だったこ・・
ともあり芳子の病室に泊まり込んでいた。犯人とは廊下ですれ違っているのだ。あの時、はっきりと・・
犯人の目を見た。すれ違った男が芳子を浚っていった。他の病室の患者が亭主に介護されているとば・・
かり思った。手洗いから戻ると病室の前に明弘氏が気絶していた。部屋には芳子はいなかった。・・・
何百回と繰り返し意識に浮かばせた瞬間だ。今でも色褪せたりはしていない。あの時の心臓の震え・・
も覚えている。胸が締め付けられるような怒りも覚えている。あの時、もう少し自分が注意深かった・・
ら…。何度思ったことだろう。江藤は別なる記事に目を走らせた。・・・
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―昭和四十五年十二月三十日。毎朝新聞。朝刊。浚われた女性保護!・・・
今月十五日に東京区足立区内の産婦人科から浚われた江藤芳子さん(22才)が埼玉県の県道で歩・・
いているところをパトロール中の警官に保護された。芳子さんに怪我はなかったがお腹の子は既に出・・
産した模様。犯人が産まれた子を奪ったのか死産だったのか詳しいことは分かっていない。芳子さん・・
はショック状態が続いており警察は芳子さん回復を待ち事情を聞くこととしている。・・・
・・・
指の震えが激しくなった。その激しさのまま、江藤はベッドに横たわる妻の手を握った。・・・
「芳子、奴を見た…」・・・
妻の手は冷たかった。江藤に悲しさが押し寄せる。妻の眠る姿に、長い年月を固まり続けた怒りが・・
新たに目を覚ます。・・・
「今日、奴を見た。あの目だ。間違いない…」・・・
芳子はあれから眠り続けている。そうなのだ、もう二十六年も眠っている。あの日、一度だけ芳子・・
はおれに呟いた。わたしの赤ちゃんは? おれは頷いてやった。大丈夫だ…。その嘘を芳子は信じ続・・
けているのだ。夢の中で自分の子と戯れているのだ。あの時の笑顔のまま…。おれの嘘に嬉しそうに・・
笑ったまま…。・・・
忘れようと勤めた。しかし無理なことだった。江藤はその後警察を辞職した。自分の妻を目の前で・・
凶悪犯に浚われた警察官など警察に所属し続けることなどできない。江藤は傷ついたままかけずり・・
廻った。死にものぐるいで見えぬ犯人を追った。復讐という二文字と、まだ見ぬ我が子への情熱で江・・
藤は犯人を目指した。・・・
影らしきものは何度も掴んだ。取り調べに当たっていた刑事も江藤には好意的だった。捜査の情報・・
を残らず知らせてくれた。犯人の残した遺留品等(裏口をこじ開けたバール、病室の前に落ちていた・・
犯人のものと思われる髪の毛、裏庭からの逃走経路に付いた靴痕)から犯人像が少し絞られていた。・・
暴力団の組員。薬の売人。売春婦のヒモ。妖しい影は入れ替わり浮かんだ。江藤はそれらを追った。・・
警察の捜査よりも先に掴んだ。しかし、それらはすべて空振りに終わった。・・・
時が経った。事件は徐々に風化していった。犯人を追いつめることはできなかった。・・・
しかし…。・・・
「間違いない、あの目だ…」・・・
奴の姿は変わっていた。当然だ。二十六年も前のことだ。しかし、あの目は変わっていなかった。・・
獣の目だ。暗い影に光を包んだ目だ。狂気の色が渦巻く目だ。間違えるはずがない。あの時すれ違っ・・
た時にそれは見ている。・・・
濃紺のスーツに身を包んだ奴は企業戦士を思わせた。遠目にもいいスーツだと分かった。大手の部・・
長クラスと言ってもおかしくない程の変貌ぶりだ。スーツの袖に煌めいた太い金のブレスレットが奴・・
の今の暮らしぶりを物語っていた。・・・
大型のメルセデスに乗り込むところだった。若い運転手が後部のドアを慇懃に開けていた。奴は運・・
転手とは別の男と話していた。男が大きく頷き奴が笑った。重い笑みだった。笑うことすら緊張の中・・
にある。そんな笑みだった。車に乗り込む時に奴はちらっと周囲を見渡した。耳の後ろから頬にかけ・・
て皮膚がひきつっていた。奴にすれば名誉の傷なのだろう、座席に消える瞬間、奴はその傷を軽くな・・
ぜていた。・・・
「芳子、敵を討ってやる…」・・・
江藤は眠る妻に涙した。軽い微笑みがいつものように妻に見える。拳を強く握った。微かな温もり・・
が妻の手から江藤の胸に染み込む。・・・
奴をその場で追えなかった。奴のメルセデスは江藤の側を過ぎていった。まったくの偶然だった。・・
江藤にその準備はできていなかった。・・・
「一人の闘いだ…。分かってくれ…」・・・
奴と話していた男は杉原と言う四十過ぎの強面で通用するような男だった。痩せていた。インテリ・・
やくざ風の男だった。金縁の眼鏡が印象的だった。・・・
一週間程前、あるテナントの調査を依頼してきた。新宿にあるナイトクラブの調査だった。クラブ・・
・フォン・ロッシュ。新宿XXビル地階。その店の内容を調べろと言う依頼だった。・・・
江藤探偵事務所…。あの事件よりの江藤の姿だ。始めての依頼主だった。杉原は江藤に幾日か調査・・
期限を切った。始めての客にしてはその態度が横柄すぎた。・・・
その調査が上がったのが今日だった。杉原が調査資料を持ち帰った。そのコピーが今江藤の手元に・・
あるものだ。杉原は少し慌てていた。車に人を待たしてあると言った。ばたばたと資料を掴み話を途・・
中で出ていってしまった。・・・
言い忘れたことがあった。江藤は杉原を追った。少し金を積めば、その店の女の子の一人がもっと・・
情報をくれる。江藤はどちらでもよかったが一応杉原に伝えようと思った。そのことが奴に行き着い・・
た。杉原が一つ目の角を曲がった時、そのメルセデスが止まっていた。・・・
「まったくの偶然だった。しかし、杉原という男を追えば奴に行き着く…」・・・
芳子のやつれた姿が痛々しかった。あなた、無理だけはなさらないで…。芳子が正常ならばそう言・・
うだろう。芳子は警察官という職業を理解していた。警察官を愛したことを芳子なりに悔いていた。・・
無理しないで…。芳子の口癖だった。・・・
「分かってくれ芳子。おれのなかにあの子はまだ生きているのだ」・・・
自らの心臓の音が耳にはっきりと聞こえてくる。江藤は思った。この音を持っていたのだ。そう、・・
あの子もこの生命の槌音を奏でていたのだ。自分はそれを聞いている。芳子の腹の中でそれを聞いて・・
いる。できるなら、今もあの音があの子を包み続けていることを望む。あの子の全身に果てしなく高・・
鳴っていることを望む。力強く、そして、限りない可能性を秘めて…。・・・
―生きていてくれ…。生きていてくれ…。・・・
強く思った。遥かな時を隔ていても、あの頃思った希望は捨てていない。生きていれば二十六だ。・・
生きていてくれ…。生きていてくれ…。芳子もそう思っているはずだ。・・・
―あの子はおれの胸の中にも生きているのだ…。芳子の中で芳子に戯れているように…。・・・
江藤は妻を抱いた。また少し痩せたのか…。艶のない髪の毛が江藤の襟元をくすぐる。涙が江藤の・・
頬を勢いよく滑った。握った拳で江藤はそれを激しく拭った。・・・
「生きていてくれ!」・・・
涙の目に窓の外の粉雪が見えた。あの年も雪の多い年だった。そして、あの日もこのような粉雪の・・
舞う夜だった。妻を抱く江藤の力が少しずつ増した。・・・
・・・
・・・
クーを起こさないようにドアを開けた。明かりは灯ったままだった。冬子は足を忍ばせソファーに・・
沈んだ。テーブルの灰皿がきれいになっていた。飲みかけだったビールの缶は消えていた。そして、・・
クーに漂っていた柑橘系の香りもどこにもなかった。・・・
心地よい疲れが冬子を覆っていた。優しげな酔いが全身に伝わる。セーラムを吸った。メンソール・・
の刺激が睡魔を少し遠くへ押しやった。・・・
「おかえり…」・・・
クーは起きていた。ベッドの隅に二匹の猫が仲良く寄り添って寝ている。・・・
「どこ行っていたの…」・・・
クーが起きあがる。恨めしげな目が冬子に届いた。側にいて欲しかったのに…。冬子にそう届いた。・・・
「ちょっとね…。少し酔ったわ」・・・
クーはベッドを出ようとはしなかった。悲しげな瞳をしばらく冬子に向けた後、背を向けくの字に・・
布団へ潜ってしまった。・・・
「マレーネ・ディートリッヒの本名知ってる?」・・・
冬子が着替えを済ませ部屋に戻った時だった。クーの低い声がベッドから漏れた。・・・
「知らない…」・・・
冬子は煩わしそうに答えた。いつもなら、そのニュアンスをクーは察知し口を閉ざすのだが、今夜・・
は余程話し相手が欲しいのだろう、クーは続けた。・・・
「マリー・フォン・ロッシュ…」・・・
クーは泣いているようだった。できる限り抑えた声だった。冬子はベッドに横になった。クーの背・・
が布団越しに少し震えている。・・・
「店の名…」・・・
フォン・ロッシュ。冬子の店の名だ。知らなかった。・・・
「ママ、知らなかったの。ヤーだ。店の名よ…」・・・
クーの背が動いた。無理に笑っているのだろう。冬子はクーの悲しみを溶かしてやりたいと思った。・・
抱きしめて胸で泣かせてやりたいと思った。・・・
「不破さんが付けてくれたのよ。そういえば、誰か有名な女優の本名だって言ってたっけ…」・・・
猫が一匹起きあがった。前足と後ろ足を思いきり伸ばしている。その姿が滑稽だった。老いて益々・・
元気な不破仁吾と少しだけ重なった。痩せた鋼のような不破がいなければ今のクラブ・フォン・ロッ・・
シュはあり得ない。・・・
「あたし、不破さん好き。だって、あたしのリリー・マルレーン、いつも微笑んで聞いてくれている・・
のよ…。どんな忙しい時だって、必ずスピーカーの側にいてくれているんだよ…」・・・
自分もそうだった。ある日突然、たまらなく人恋しい夜がくるのだ。世界中にたった独りぼっちに・・
なったような不安に陥ることがあるのだ。生きていることが何かまったく意味のないものに思える瞬・・
間があるのだ。冬子はクーの震える背に手をかけた。・・・
「不破さん、ディートリッヒのファンよ。リリー・マルレーンをドイツ語で歌ってたよ…」・・・
後ろからクーを抱いた。痩せていた。・・・
「ディートリッヒ、あたしのようにどさまわりをしていたのよ…」・・・
声が更に低くなる。嗚咽を懸命に堪えているのが分かる。クーの意地なんだろう。クーは強く生き・・
ているつもりなんだ。クーを抱いた手に力が入る。冬子はそんなクーを愛しいと思った。クーの涙は・・
見たくなかった。・・・
「ママ…」・・・
突然、クーの声の調子が変わった。押し寄せた悲しみの波を泳ぎ切ったようだ。背の震えが緩やか・・
になっていく。・・・
「ママのこと知りたい…」・・・
知らぬ間にもう一匹の猫も起きあがっていた。それぞれに主人のいないソファーに丸くなった。透・・
き通った瞳を眩しそうにベッドに向ける。・・・
「あたし、誰のことも知りたくない。知りたいと思った人なんていない。でも、ママは違うわ…」・・・
クーが身体を捻り冬子の胸に顔を埋めた。シャンプーの臭いがまだ微かに残っていた。冬子はある・・
男を思った。あの男の香りなのだ。柑橘系の香りがいつも男を包んでいた。その臭いの向こう側へは・・
自分は行けない。冬子はいつもそう思っていた。・・・
「あたし、ママのこと知りたい…」・・・
男のことを冬子は無理矢理脳裏から閉め出した。自らの中にある男への淡い思いと、その裏に潜む・・
男への憎しみとが、粉々になって窓の粉雪のようにどこまでも夜空に舞っていけばいいと思った。・・・
―ダメ…。わたしの過去は海に流したの…。・・・
それは声になったのか分からなかった。そんなことない…。自分は過去と向き合っている。自分の・・
中の怒りと憎しみ、そして、いい知れない悲しみ。それらに向き合っている。いや、それへと進もう・・
としている。海に流したなんて…。クー、ごめん…。・・・
「このまま、寝ちゃっていい…」・・・
声になっていたようだった。クーが寂しそうに頷いた後にそう言った。・・・
「側にいようか…。それとも、いない方がいい?」・・・
何時間か前と同じことを言った。あの時はクーは黙ったままだった。冬子はクーの返事を待った。・・・
「側にいて…」・・・
猫が再び二匹そろってベッドへ昇ってきた。白いミャーはクーの足下へ、白黒のミミが冬子の腰の・・
横へ、それぞれ同じ姿勢で丸くなった。・・・
・・・
・・・
「店じまいじゃないのか、もう夜が明けるぜ」・・・
カウンターに不破仁吾は肘を突いていた。いつものようにBGMはディートリッヒ。彼女の気怠い・・
歌声が狭い店に小さく流れる。店の名はマルレーネ。ディートリッヒのファーストネームの独語の発・・
音。酒場の気ままな娘、リリー・マルレーン。その二つの名はあまりにも似ている。この店の名付け・・
親も不破だった。・・・
「もうとっくに店は閉めているさ。不破さんとは営業時間外の付き合いだけですよ…」・・・
マルレーネのマスター竹中達彦が微笑む。竹中は不破の飲むハイボールを手に取った。この店に一・・
本だけあるサントリーホワイトのボトルを軽く振った。・・・
「もう一二杯付き合って下さいよ…」・・・
新しい大ぶり氷が不破のグラスを埋めていく。琥珀の液体がその氷の表面の霜を洗い流していく。・・・
「ストレートでいいや…」・・・
不破も笑った。目尻の皺が深く沈んだ。・・・
「不破さん。そろそろ引退じゃないんですか…」・・・
竹中も不破と同じものを作って飲んでいだ。二人の笑みはどことなく似ている。深い皺に男の生き・・
てきた激しさのようなものが浮かんでいる。・・・
「ハハハ、そんなに年寄り扱いしないでもらいたいね…」・・・
ディートリッヒの曲が変わった。リリー・マルレーン…。不破は耳を傾けた。いつ以来だろう、こ・・
んな静かな思いでリリー・マルレーンを聞くなんて…。カウンターに突いていた肘を元に戻した。竹・・
中の笑みを見ながらグラスを目の高さに上げた。・・・
「ディートリッヒに…」・・・
グラスを一気に干した。wie einst Lili Marleen…。・・・
「不破さん、今日はやけに嬉しそうだ…」・・・
竹中もグラスを上げた。wie einst Lili Marleen…。・・・
不破仁吾。今年で七十二になる。元気だ。とてもそのような歳には見えない。フォン・ロッシュの・・
冬子ですらその歳は知らない。せいぜい六十前半と思っている。不破はそれがおかしかった。神に感・・
謝することがあるとすれば、不破はこのことくらいしか思い浮かばない。若く見えるだけでその分長・・
生きするとは思っていない。人間定められた寿命というのがある。それ以上長生きしたいなど思わな・・
い。いや、もう随分と生きた。退屈しなかっただけだ。もういい…。・・・
「今日は特別な日だ…」・・・
青春は戦争という渦の中にあった。退屈はしなかった。本土に戻ってからも戦いの中にあった。退・・
屈はしなかった。ただ、それだけだったように思える。私にもお迎えが近くまで来ているようだ…。・・
不破は疲れていた。生きていくことがこの歳になって非常に難しいような気になっていた。・・・
「フォン・ロッシュも二年もった…」・・・
二周年記念などやらなくても客は来る。フォン・ロッシュはそんな店ではない。・・・
「たいしたものだ…」・・・
竹中が深く頷いていた。不破の目尻の皺が更に深くなる。ホワイトのストレート。二杯目が不破の・・
伏せた視線の前に置かれた。・・・
「リリー・マルレーンに…」・・・
二度目の乾杯は杯が合った。カチッ…。ガラスの触れる音がする。流れていたリリー・マルレーン・・
が終わった。・・・
二人の男にとっての安らぎの時だった。二人の間には多くの会話はない。お互いの存在に触れ合っ・・
ているだけで心が落ちつく。酒、二人にはそれだけがあればいい。・・・
静寂がディートリッヒと絡んでいた。いや、ディートリッヒでさえ二人の静寂の中に溶けてしまっ・・
ていた。窓の外に降る雪のようにゆらゆらと二人の肩に落ちては消えていた。・・・
「あの日から、五年経った…」・・・
冬子を追った。いや、あの時は冬子という名じゃなかった。冬子と、あの日彼女が自ら名乗った。・・
今夜のような雪の夜に…。・・・
「ちょうど五年だ…」・・・
冬子をどこまでも守ってやりたかった。それが自分の使命のような気がした。竹中もそのことを分・・
かってくれた。冬子と二人して逃れた。なぜ、その時まで逃げることを思いつかなかったのか。あの・・
日の夜、山の中を冬子と歩きながらそのことを二人して笑った。何かの弾けた瞬間だった。・・・
あれから五年の月日が流れた。それが長かったのか短かったのか不破には分からない。しかし、冬・・
子との約束だった。不破は今夜冬子にあることを打ち明けていた。・・・
「中原壮二郎、まだまだ元気だそうじゃないか…。何か噂でも聞くか…」・・・
二杯目のストレートが空になった。不破はロングピースを取り出した。竹中は知っている。不破が・・
ピースを吸うときには酒を置く時間なのだ。竹中は不破にミネラルを注いだ。・・・
「中原荘二郎は京都です。入院しているそうです」・・・
竹中の情報は正しい。不破は斜めの笑みで頷いた。ピースの煙がその笑みを少し隠した。・・・
「冬子も大したものだ。情報を小出しにしたり分解したりして遊んでいる。そして、客からの正確な・・
情報も引き出している。店の中で笑いながら情報のキャッチボールをしているさ。男たちへの魔球だ。・・
冬子は天性の魔女だ」・・・
竹中の情報は質が高い。竹中の情報はこの国を動かしている筋から流れてくる。竹中はその組織の・・
裏舞台にいる男なのだ。不破もその総帥を知っている。席に呼ばれたことがある。戦後のどさくさに。・・・
「不破さん。例のあのプロジェクトは、まだ三年は公表されない。情報を不破さんがどう使おうとお・・
好きなように…」・・・
クラブ・フォン・ロッシュ…。二年の間に急速なる成長を遂げていた。その訳がこの二人の会話の・・
中にあった。・・・
「冬子は、スティングのレッドフォードばりだ…。たいしたものさ、ハハハ…」・・・
竹中も煙をくゆらせた。紫の流れが幾つか店に流れる。ドアの隙間からほんの少しの朝の光がこち・・
ら側へこぼれそうになっていた。・・・
「じゃ、不破さんはニューマンか ハハハハ…」・・・
ある意味では竹中あってのクラブ・フォン・ロッシュなのである。竹中の情報の質の高さが男たち・・
をフォン・ロッシュへと足を運ばせるのだ。女だけ目当ての下司な客などはフォン・ロッシュにはい・・
らない。・・・
「冬子にお前さんの名を告げた。すまぬ…」・・・
ドアの隙間から漏れ入る朝の明かりが濃くなった。雪は止んだのだろうか…。不破はカウンターに・・
札を一枚置いた。・・・
「それも、五年前の約束だった」・・・
片目を瞑りピースの箱をポケットへしまった。竹中が軽く頭を下げた。・・・
「帰るとするか…。もう少し、老兵の出る幕があるようなんだ…」・・・
不破は腰を浮かした。ミネラルをグラスの半分まで飲み、丁寧に吸いかけのピースを灰皿に押しつ・・
ける。不破の細い指がしなやかに灰皿の上で揺れた。・・・
「不破さん。やはり、五年というのは長いよ。おれも潮時かも知れない…」・・・
珍しく竹中のしみじみとした口調だった。不破は軽く手を挙げカウンターを離れた。・・・
「お互い、もう無理することもなかろうて…」・・・
木製のドアが嫌に重たかった。不破は朝の漏れる路地に出た。雪は止んでいた。・・・
・・・
(2)・・・
・・・
奴への唯一の手掛かりである杉原を江藤は追った。杉原の調査は午前中に済ませた。杉原は執行猶・・
予中だった。知り合いの刑事に聞いた。杉原は中原興産グループの影に身を置く男だった。企業の汚・・
れた部分を任されているのだろう。その刑事は言った。中原グループにはそう言う輩が大勢いる。杉・・
原もその内の一人だ。杉原の住まいを聞いた。刑事の手帳にそれはあった。最近、新宿の幻神会と中・・
原興産グループとの間に何かのトラブルが起きていた。杉原はその件でマークの対象になっていた。・・・
杉原のマンションは、偶然にも辛い思いのあの田村病院とは通りを挟んで二百メートル程しか離れ・・
ていなかった。あの頃、何度、いや、何百と、この辺りを歩いた。抑えきれない怒りを背負い、奴の・・
情報を探し求めた。地理には詳しい。あの頃とは随分と様子は変わっているが、江藤には忘れられな・・
い土地だった。・・・
江藤は夜を待った。杉原のマンションに張り付いた。今夜も雪が降りそうだった。・・・
マンション周辺は幸い人気が少なかった。江藤はマンションから二十メートル程離れた路肩へコロ・・
ナを止めた。古い型のコロナだ。自分は高級車を乗るような人種じゃない。江藤はこの車を乗り換え・・
るつもりはなかった。自分に似合っている。そう思っていた。リクライニングを少し倒し江藤は杉原・・
を待った。・・・
コロナの側を黒いコートの男が過ぎた。杉原だった。午後10時34分。瞬間に江藤はちらっとデ・・
ジタルのその光を見た。右の拳にタオルを強く巻き付けた。周りに人気はない。助手席のドアを開け・・
る。エンジンを掛け江藤はコロナを出た。マンションに入られれば手間取ってしまう。・・・
「杉原さん…」・・・
左手で杉原の肩に軽く触れた。杉原が振り返る瞬間に前に廻る。みぞうちにブローを叩き込む。巻・・
いたタオルに衝撃の重さが伝わる。微かな呻きが杉原から漏れる。すかさず左を続けた。右の脇腹に・・
渾身のフック。杉原が膝を折った。金縁の眼鏡が大きく鼻をずれた。・・・
相手の息を詰めるのに一番有効な攻めだ。夜の住宅街に悲鳴は限りなく似つかわしくない。江藤は・・
うずくまる杉原の腕を掴んだ。肩にそれを掛けコロナに引きずる。開けておいた助手席のドアに杉原・・
をこじ入れる。痩せ型の杉原がやけに重く感じた。杉原はうずくまったままだった。必死に酸素だけ・・
を求めていた。・・・
その間に江藤もコロナに乗り込んだ。ポケットから手錠を出し杉原の両手を後ろへ回す。杉原のう・・
めき声が続く。江藤は周りを見た。人の動きは見えない。手錠をはめた。コロナのデジタルの明かり・・
が10時36分を示していた。・・・
「手荒なことをしてすまない。杉原さんよ…」・・・
コロナを出した。素早く大通りを渡る。杉原が暴れ出す前にコロナを人目に付かない場所へ移動さ・・
す。場所は決めていた。田村産婦人科の駐車場だ。面会時間は午後8時までだった。時間を過ぎると・・
駐車場は無人と化す。危険な尋問の場所にはもってこいのスペースだ。・・・
コロナをガレージに滑り込ませた。拳のタオルを杉原の首に巻き付け端を持つ。・・・
「聞きたいことがある」・・・
思った通り杉原は脅えていなかった。危険な目は何度もくぐり抜けてきたのだろう。乱れた息を整・・
えるのに専念している。目を鋭くこちらへ向けている。恐怖というものがまだはっきりと見えていな・・
い目だ。江藤は杉原の顔面に肘を叩き付けた。鼻先を激しく打撃した。・・・
「メルセデスの男の正体を聞きたい…」・・・
杉原は首を横に振った。知らない…。そう江藤に告げている。まだ恐怖が昇っていない。襲撃され・・
た男の目的を知って、かえって恐怖が引き潮のように引いていくのか、杉原に薄笑いが浮かんだ。・・・
予想していたことだ。杉原を吐かせるのには、やはり恐怖という黒い色を見せる必要があった。裏・・
の世界に身を置くものだ。簡単に話を引き出せるはずはなかった。江藤は再度杉原の顔面に肘をぶち・・
付けた。鈍い音が狭い車内に響いた。・・・
「そうか、言いたくないか…」・・・
ナイフを取り出した。どこにでも売っているアウトドアスポーツナイフだ。独り者の江藤には何か・・
と役に立つ代物だ。やはりそれが役に立つことになった。これは脅しではないのだ…。杉原に今の状・・
況を理解させてやる必要がある。きり先を杉原の股へ向けた。何も言わない。腕を伸ばした。ナイフ・・
がそのまま杉原の細身の股の外側に食い込んだ。・・・
「ウヲー!」・・・
高い叫びだった。杉原にようやく恐怖というものが見えたのだろう。叫びがそれを江藤に伝える。・・・
「メルセデスの男のことを聞きたい…」・・・
江藤はナイフを引き抜いた。鮮血が杉原のズボンを濡らす。激痛が杉原を責める。・・・
「ウオー! 何をする! ただで済むと思っているのか!」・・・
怒りと恐怖が杉原の中を交差している。江藤はかまわず杉原の髪を掴んだ。きれいに整ったウエー・・
ブが乱れる。整髪剤が江藤の手に粘る。・・・
「殺しはしない。素直に喋った方がいい。余計な血を見たくない」・・・
杉原は答えなかった。自らの中に沸き上がった思わぬ恐怖を懸命に押し殺している。怒りが杉原の・・
前に出ていた。・・・
「おれを誰だと思っている! 探偵ごときすぐにでも捻り潰してくれる!」・・・
後ろ手を固定されたまま杉原が暴れた。怒りの目が恐怖を杉原から隠していく。江藤はもう一度ナ・・
イフを持つ手を伸ばした。同じ箇所を再び突いた。・・・
「ウオー!」・・・
杉原の動きが止まる。目が江藤を逸れ今までの光が消える。・・・
「いくらでも時間はある。言わなければ身体中にナイフの穴が空くことになる」・・・
狭いコロナの車内に男二人の熱気が充満した。息苦しさを江藤は覚えた。もう一度杉原の髪を掴ん・・
だ。そのまま杉原の顔面を持ち上げる。ナイフを頬に押し付ける。死にたいのか…。空いた手で杉原・・
のテンプルにフックをかました。・・・
「誰に義理立てしている。奴のことはそれ程までに秘密扱いなのか。そんなはずはなかろう、えっ、・・
杉原さんよ…」・・・
江藤は杉原に冷静を促した。これ以上血を流したくない。・・・
「いくらでも責める手はある。お前さんも知っているだろう。拷問というものはどんな人間でもそれ・・
には屈する」・・・
杉原の荒い息が江藤を苛立ちに引き込んでいく。予想以上に杉原はタフなのか…。・・・
「場所を変えようか…。ここは息苦しい」・・・
小刻みな震えが杉原に昇る。杉原は理解への努力を開始したようだ。ナイフに刺された痛みが杉原・・
の怒りをひとまず遠ざけているようだ。杉原が江藤を見た。今までとは違う目の色だ。・・・
「分かった。言う」・・・
杉原の張りつめが微塵に消えた。江藤はナイフを収めた。コロナのエンジンを掛け窓を少し開けた。・・・
「箱崎和雄という…」・・・
杉原の低い声がコロナのエンジン音に聞こえた。二十六年前に出会った男の名を江藤は初めて耳に・・
した。江藤の胸に熱い怒りがこみ上げる。全身の血がその名に激しく反応していた。・・・
・・・
・・・
尋問は二十分ほど続いた。杉原は箱崎にいい印象を持っていないようだった。特別な義理立てなど・・
必要ないのだろう。杉原は早口で話した。箱崎のマンションまで江藤に話した。箱崎への怒りが杉原・・
の言葉の端々に見え隠れしていた。・・・
江藤は杉原をコロナから降ろした。手錠を外す時、杉原の怒りの表情がひきつっていた。明日の朝、・・
事務所へ乗り込んでくるだろう。杉原は黙って引くような輩ではない。それでよかった。・・・
「芳子、おれは復讐への道を歩みだした。分かってくれ…」・・・
賽は投げたのだ。後へは引けない。江藤は杉原をその場に放置することで自らの思いに太い楔を打・・
ち込んだ。江藤は病室の妻を思った。無理はなさらないで…。芳子の声が聞こえてきそうだった。・・・
江藤は再びコロナを出した。窓を全開にし外気を胸に吸い込んだ。・・・
中原興産会長、中原荘二郎…。事件は中原が絡んでいた。杉原は思いの外よく喋った。例の幻神会・・
とのトラブルを警戒していたようだ。江藤の質問にそれが見えないので少し安心したのか、事の大ま・・
かが江藤に見えてきそうだった。・・・
コロナは日光街道を南下した。深夜の東京は江藤のコロナの行く手をそれ程塞ぐことはなかった。・・
窓から入る風が心地よかった。熱い思いを溶かしていくようだった。江藤は杉原の話をもう一度頭に・・
浮かべた。・・・
―新宿のクラブ・フォン・ロッシュ。その調査を指示したのが中原荘二郎だ。江藤探偵事務所、江藤・・
栄一。その探偵に調査させろ。そして、上がった資料を箱崎へ渡せ…。・・・
杉原の低い声が江藤の脳裏にこだまする。中原とは一体何者なのだ…。・・・
―箱崎和雄は中原の裏舞台の頭だ。三十年以上箱崎はそれをこなしてきている。箱崎は中原を崇拝し・・
ている。既に生命を中原のために捧げている。中原のためなら何でもする男だ…。・・・
奴の目は忘れない。獣だ。獣が中原のために動いている。あの事件も中原の指示なのか…。・・・
―殺しも厭わないだろうよ。箱崎の動く理由はただ一つ、中原荘二郎だ。箱崎は中原にかなりの恩が・・
あるのだろう…。・・・
芳子を浚った。その狂気の理由が中原荘二郎。どういうことだ。一体どういうことだ…。・・・
―箱崎の頬の傷は中原を狙った刺客と渡り合ったときの傷らしい。中原の信頼は厚い。箱崎は二十日・・
前に娑婆に戻ったばかりだ。五年喰らっていた…。・・・
五年。おれは二十六年だ。二十六年もだ…。・・・
―ああ、あの事件は知らない。当時おれはまだ駆け出しだ。別の組にいた。しかし、聞いたことがあ・・
る。浚われた女は中原の関係者の娘だと…。・・・
江藤は唇を咬んだ。フロントガラスの闇に奴の目が浮かぶ。獣の目が黒く揺れる。・・・
―箱崎に聞いた。あれは中原の復讐だ。そう聞いたことがある…。・・・
江藤の目にガラス張りのビルが見えた。奴の獣の目が消えていく。江藤はコロナを停止した。・・・
―娘の父親への復讐だ。娘の腹の子を奪うのが目的だったとか…。・・・
中原興産ビル。江藤はそれを見上げた。どういうことだ。芳子の父親への復讐…。・・・
中原ビルの明かりは消えていた。江藤の意識の中にそのビルが果てしなく拡がっていく。闇に揺れ・・
る影のように江藤の脳裏の隅々にまで蠢いていく。・・・
―死んだのだろう。生かしていても仕方ないだろう…。復讐にならんだろう。死体でも送ったのじゃ・・
ないか…。・・・
生かしておいても仕方ない…。やはり、あの子は死んだのか…。いや、そんなことはない。生きて・・
いる。きっと生きている…。・・・
江藤はコロナを出た。ゆっくりと歩く。冷たい風が雪を呼んでいた。・・・
「我が子よ、生きていてくれ…」・・・
江藤はまだ名のない自らの分身に言った。芳子の顔がビルの上空の空に浮かんだ。笑っていた。若・・
き頃と同じ笑みで笑っていた。・・・
「芳子。あの子は生きている」・・・
雪が降ってきた。粉雪が江藤の目に何度も入った。江藤は浮かんだ妻の面影を無理に払った。頭に・・
乗った雪の粒がそれと同時に風に舞った。・・・
・・・
・・・
―お前の赤い唇に、男たちは夢を見た…。・・・
夜明けが来るまで、すべてを忘れて…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
クーは自らに沈んでいた。やはり、この曲は好きだった。気怠さが心地良さを伴ってクーの周りを・・
漂う。その空気に包まれてクーは更に深く沈んでいく。・・・
・・・
―ガラス窓に日が昇り、男たちは戦に出る…。・・・
酒場の片隅、一人で眠ってる…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
店の客が戦場へ向かった男たちと重なっていく。あんなに陽気に騒いだ男たちも朝が来ると鉄の雨・・
に撃たれ死んでいく。クーに悲しさが押し寄せる。男たちの哀れさがクーの涙を誘う。・・・
・・・
―月日は過ぎ人は去り、お前を愛した男たちは…。・・・
戦場の片隅、静かに眠ってる…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
眠りなさい。男たちよ…。静かに、安らかに、そして、永遠に…。クーの歌が終わる。クーは閉じ・・
ていた目を開けた。スポットの明かりが素早くクーを現実に帰す。静かにピアノの音が消えていく。・・・
クーはスピーカーの側に立つ不破に微笑みを送った。不破の小さな拍手が嬉しかった。自分でも少・・
し思った。リリー・マルレーンが自分のモノになりつつある。今夜の出来はよかった。自分に酔わず・・
自分の歌っている歌に酔えた。満足だった。・・・
・・・
・・・
クーはステージを離れた。不破の背中が前にあった。痩せてはいるが引き締まった背中に見える。・・
父が生きていればあれくらいだろうか、いや、そんなに歳をいっていないだろう…。分からない…。・・
クーは父親も母親も知らなかった。・・・
更衣室で着替え済ましタバコを買いに裏口を出た。グレーのコートが階段を上がるところだった。・・
不破さん…。厚いコートに包んでいても見慣れた背中で分かる。こんな早い時間にマネージャーが店・・
を後にすることはない。クーがフォン・ロッシュに来てからも始めてのことだった。クーは不破の後・・
を追った。不破は急いでいるようだった。・・・
不破は靖国通りを過ぎ花園神社を抜けゴールデン街へ向かった。粉雪と人混みを避けて歩く不破は・・
忍者のような速さだった。時折走らなければ見失ってしまいそうだった。クーは目に入る雪を手で掻・・
き分け不破を追った。・・・
バー・マルレーネ…。不破はその店に消えていった。細い路地の片隅の店だ。黒い板にゴールド文・・
字で店の名は書かれていた。下に同じくゴールドで小さく絵が描かれている。シガーをくすゆらせた・・
金髪の女性…。フリータッチのその絵はまさしく妖花ディートリッヒだった。シガーの煙の色だけく・・
すんだ金色だった。・・・
思わずドアに手を掛けた。いや、掛けようとした。しかし、ドアはクーの指先からするりと抜けた。・・
ドアは中から開いた。・・・
「仕方ない、クー…。飲もうか…」・・・
不破が笑っていた。クー好きな顔だ。クーも笑みを返した。不破が父親だったら…。クーは思った。・・
クーが見ても不破は若く見えた。・・・
「そこに掛けて…」・・・
不破の言われるままクーはカウンターの端に座った。客席は七席程しかなかった。クーは一番奥の・・
席を与えられた。・・・
「少し待ってくれ。マスターと内緒の話がある…」・・・
クーは店内を見渡した。不破はマスターと何やら小声で話している。クーは男の内緒話から目を遠・・
ざけた。みっともないよ…。男二人で…。クーの後ろの壁でディートリッヒが気怠い女を演じていた。・・
モロッコの歌姫アミイ・ジョリィだ。男装のシルクハットのディートリッヒが葉巻を吹かしていた。・・・
「クー、何を飲む」・・・
内緒話はすぐに終わった。不破の笑顔がクーに戻った。・・・
「不破さんと同じ物…」・・・
言い終わらない内にハイボールがマスターの手によってクーの前に置かれた。引き締まった逞しい・・
腕だった。・・・
「ディートリッヒに…」・・・
不破がクーに向かってグラスを上げた。・・・
「ディートリッヒに…」・・・
クーも真似した。壁の歌姫アミイ・ジョリィに杯を上げた。マスターの髪からだろう、ほんの微か・・
に柑橘系の臭いがした。いい香りだった。・・・
・・・
・・・
RIKI(リキ)は中原興産ビルの前に立った。黒いサングラスのままビルを見上げた。明かりは・・
ほとんど消えている。僅かに避難経路の非常灯の光がガラス張りのビルからゆらゆらと漏れる。漏れ・・
た光を、粉雪が柔らかく吸収させながらRIKIの足下へ落ちてきていた。・・・
中原グループの本拠だ。銀座外堀通り。中原興産ビルはその姿を誇るように天にそびえていた。建・・
設、土木、不動産を中心に幅広く勢力を拡大している中原グループ。創始者中原荘二郎の成し遂げた・・
快挙の形がこのビルなのだ。・・・
RIKIはとうとうここまで来た。自らのターゲットをようやく知った。RIKIはしばらくビル・・
を見上げていた。意識の奥の怒りの感情がRIKIの脳裏に昇る。激しい程の憤りがRIKIを包む。・・
RIKIは大きく息をした。猛る感情を素早く意識の裏に隠した。・・・
冷静…。それはRIKIに深く叩き込まれたものだった。どんな時でも冷静に。RIKIはその言・・
葉を無限とも思われる数聞いた。激しい訓練にそれはRIKIに根雪のように徐々に積もり重なって・・
いった。冷静なものがすべての勝利を掴む…。身体の芯にまで染み込んでいる思いだ。・・・
今、一瞬ともあれRIKIに憤怒が浮かんだ。同時に驚きと戸惑いが揺れた。それ程までに激しい・・
思いだった。RIKIはビルに背を向けた。自らを叱咤した。強すぎる思いがガラス張りのビルに一・・
瞬向いた。危険だ。どんな時にも冷静に…。RIKIは歩を緩く歩いた。粉雪に、熱い心に、静けさ・・
を運び込ませた。・・・
五年の月日を要した。時の流れが思いを風に飛ばすことはなかった。RIKIはこの地へ辿り着い・・
た。五年が長かったのか短かったのかは分からない。しかし、RIKIは自らの足でこの地へ立った。・・
本当の戦いへと踏み出したのだ。RIKIの脳裏に中原興産ビルの形が、その歩みの一歩ごとに深く・・
刻み込まれていく。・・・
雪は止みそうになかった。時折通り過ぎる車のライトがRIKIを追い越していく。RIKIは目・・
を閉じた。まだ少し興奮が残っている。閉じた瞼の裏に自らの幼さの残る過去の日々が浮かんだ。・・・
「立て! それぐらいでへたばってどうする! 立て! 立つんだ!」・・・
涙も涸れる程憎んでいた。全身が焦げる思いで恨んでいた。自分を闘う機械、サイボーグ化しよう・・
とした男の声だ。その男の声が真夜中の東京を歩くRIKIに聞こえる。・・・
「そうだ、こういう時は空手技だ! 相手の急所を狙え!」・・・
毎日が厳しい訓練だった。その意味などまったく理解していなかった。ただ、男への恐怖だった。・・
男への意地だった。へこたれてすらいられなかった。涙など忘れ去っていた。・・・
「必ずとどめは刺すのだ。無防備な相手にも油断してはいけない。相手を殺さないと自分が死ぬ! ・・
それを肝に銘じておけ!」・・・
確実に強くなっていた。男の連れてくる愚連隊のような者たちとの立会も負けなくなった。・・・
「よしRIKI! そこだ! そこで右ストレート!」・・・
ベッドギヤー越しに男の弾んだ叫びがRIKIの右ストレートに乗る。バシッ! 自分より二回り・・
程大きな男が目の前で倒れていく。・・・
「よし! RIKI! ととめだ!」・・・
倒れた相手のレバーに渾身の力を込めて膝を落とす。男のうめき声が口元から赤い鮮血と共に流れ・・
る。更に、側に転がる竹の棒を手に持つ。道具は何を使っても構わない。何でも武器となりうる…。・・
男の教えを守った。竹の棒を膝で折った。一方の尖った部分を倒れた男の喉元へ押しつける。・・・
「もういい! RIKI! それまでだ!」・・・
交差点で我に返った。点滅の信号が再度乱れたRIKIの意識に規則正しいリズムを送りつける。・・
しかし、RIKIはそれを無視した。・・・
「何がそれまでだ! 殺さなければ殺される!」・・・
あの時、RIKIは男の制止を振り切った。愚連隊風の男の喉を裂いた。十六の時だった。・・・
「殺さなければ、殺される!」・・・
RIKIに冷静が戻った。粉雪を一つ手に乗せた。笑みが頬に浮かぶ。・・・
―殺さなければ、殺される…。・・・
一度だけ振り返った。サングラス越しに中原ビルがやけに遠くに見えた。RIKIにはそれがこっ・・
けいなガラスのおもちゃに思えた。・・・
・・・
第二章 闘い・・・
・・・
(1)・・・
・・・
世田谷区桜丘○丁目、Pマンション。箱崎和雄はそのマンションから少し離れた位置にメルセデス・・
を停車させていた。仄かに睡魔が忍び寄る。一人だった。箱崎は時折頬の傷を指先でなぞっていた。・・
エンジンを切ったメルセデスは主人の睡魔を邪魔することなく静寂を保ったままだった。・・・
昨夜、杉原の調査のクラブを張った。RIKIを追う。それが出所した箱崎を待ち受けていた中原・・
興産会長中原荘二郎からの指示だった。箱崎はビルの陰に隠れてそのクラブの出入りを調べた。その・・
時、一瞬目が合った。黒の衣装のショートヘヤーの女。震い付きたくなるようないい女だった。・・・
RIKIの女だった。とびきり輝いていた。箱崎ですら目がくらむほどだった。クラブ・フォン・・・
ロッシュの経営者秋元冬子はRIKIの女だった。・・・
一度会っている。その時、RIKIはいなかった。RIKIを中原に会わす日だった。RIKIを・・
どこかへ連れていくと思ったのか、女は悲しそうな顔で自分に突っかかった。わたしのRIKIをど・・
うしようとするの…。・・・
あれからRIKIは姿を消したままだ。もう五年になる。自分が塀の中に閉じこめられる一月前の・・
話だ。古い話だ。女はあの時より数段艶っぽくなっていた。大いに磨きが掛かっていた。宝石のよう・・
だった。目が合った時、女の瞳に引き込まれそうになった。・・・
朝の光が強くなっていた。箱崎はラークを取り出した。メルセデスの車内にダンヒルのライターの・・
鋭い音が大きくする。重い手触りが箱崎の拳の中に収まる。・・・
それから箱崎は店を張り続けた。粉雪が箱崎の肩に積もっていった。・・・
午前0時を過ぎた時だった。店より出てきたのはRIKIの女でなく不破だった。意外なことでは・・
なかった。RIKIは不破が逃がしたのだ。・・・
不破を尾けた。女より不破の方がRIKIに近いと思われた。不破はあの頃と変わっていなかった。・・
相変わらず早い歩だった。不破にはどうしても適わなかった。鋼のような筋肉だった。何をやっても・・
三本に二本は取られた。憎々しい程いつも冷静だった。・・・
そんな不破を小娘が尾けていた。不破の歩く速度に娘は追い付けなかった。湿った地面に飛沫を上・・
げていた。小柄だがジーンズの尻が勢いよく上を向いていた。濃い目の化粧があまり似合っていない・・
ように見えた。猫のような目を不破の背に向けていた。・・・
昨夜はそれまでだった。人混みに不破を見失った。どうということなかった。明日店に乗り込んで・・
やる。そう思った。RIKIが箱崎に近く思えてきていた。・・・
箱崎は腕のローレックスに視線を走らせた。午前七時を少し過ぎたばかりだ。スズメだろうか鳥の・・
声が箱崎にも聞こえた。時折車が行き交う。箱崎はラークを忙しげに吹かした。紫の煙がフロントガ・・
ラスに吸い付いていくように揺れた。・・・
その時、マンションから女が出てきた。昨夜見たRIKIの女だ。黒いショートヘヤーが少年のよ・・
うに見えた。昨夜の妖艶な姿とはまったく異なっていた。白いベンチコートに身を包んでいる。遠く・・
からでも化粧気のない顔が見える。女が朝の光をすべて集めていくような錯覚が箱崎を包んだ。昨夜・・
同様、女はいい色に煌めいていた。・・・
その煌めきが近くなった。箱崎のメルセデスの方へと近くなってきた。箱崎の中に美しいものへの・・
嫉妬が浮かぶ。女をずたずたに切り刻みたい衝動が箱崎を襲う。箱崎の冷静さが女の煌めきに吸収さ・・
れていく。箱崎はメルセデスを出た。抑えが効かなかった。・・・
RIKIの居所を吐かせてやる。ベンツに連れ込み恐怖というものを教えてやる。箱崎の重い笑み・・
が女に向いた。箱崎は女の手を取った。みぞうちにブローを叩き付けようとした。拳を握った。タイ・・
ミングを計り腰を構えた。腕を降ろした。・・・
それが迂闊だった。それが軽率だった。その拳は空を切った。いや、何か別なものに当たった。い・・
や、何かに弾き飛ばされていた。箱崎…。低い声を聞いた。目の前に不破が立っていた。拳が弾き飛・・
ばされたのは不破の爪先によってのことだった。・・・
「久しぶりだな…」・・・
はめられた…。そう思った時は遅かった。女の持つ小型拳銃が箱崎の脇腹を強く押し付けていた。・・
甘く見すぎた。昨夜、一瞬女と目が合った。女は自分を覚えていたのだ。不破が自分に餌を投げた。・・
尾けられているのを知っていた。箱崎はほぞを噛んだ。同時に不破の蹴りが急所を激しく襲った。・・・
「ウッ!」・・・
不破の蹴りは正確だった。箱崎はその場にうずくまった。もう一発脇腹に蹴りが入る。口の中を・・
切った。赤い血がアスファルトの上に落ちる。・・・
「乗れ…」・・・
不破は冷静だった。蹴りが再度腹にめり込む。素早く持ち上げられた。メルセデスの後部ドアをR・・
IKIの女が開けている。メルセデスといえども車内は狭い。逆襲の芽を摘まれた。箱崎はメルセデ・・
スに転がった。・・・
女がエンジンを掛けた。低いうねりが素早く車内に響きわたる。斜めに見える窓からの朝の空が移・・
動していく。女がメルセデスを出した。・・・
「昔と同じだな、箱崎…」・・・
いつの間にか、両手を後ろに手錠ではめられていた。女の持っていた拳銃は既に不破の手に渡って・・
いる。箱崎は体勢を立て直した。ソファーに尻を沈めた。・・・
「周りが見えないのが、お前の欠点だ…」・・・
その通りだった。箱崎はもう一度ほぞを噛んだ。怒りが自分にも向いた。・・・
「箱崎さん。その節はどうも…」・・・
メルセデスの鼓動が高くなっていく。女の声に箱崎は目を閉じた。意識を空にし恐怖を全身から少・・
しずつ押し出す努力を開始した。・・・
・・・
・・・
何気なくクーはベランダから外を見ていた。冬子はジョギングに出かけた。いつもの朝だ。クーは・・
昨夜の冬子を思い浮かべていた。・・・
昨夜、冬子に抱かれたまま眠った。知らない母を夢に見ているようだった。冬子は優しかった。髪・・
を撫でてくれた。頬を撫でてくれた。言葉はなかった。ただ、それだけだった。・・・
冬子が起きあがった後、クーはシャワーを浴びた。昨夜の不破の言葉を思い出した。冬子のことは・・
聞かない方がいいよ。誰にも言えないことがあるんだよ…。不破はハイボールを二杯だけうまそうに・・
飲んだ。深い皺の笑いがクーにはとても魅力的だった。少し酔った勢いで不破に約束した。ママのこ・・
とはもう聞かないようにする…。その時はクーもそうしようと思っていた。・・・
しかし、冬子に抱かれた。母のように側に眠らせてくれた。クーは思った。やはり、ママのことを・・
知りたい。不破さんとの約束を反故にしてしまいそうだ…。生まれて始めて他人のことをとことんま・・
で知りたくなった。自分でも不思議なくらいに冬子に惹かれている。シャワーを浴びながらクーは一・・
人微笑んだ。冬子のシャンプーを今日も借用していた。・・・
クーは両親を知らず育った。物心付くまでは祖母に育てられた。祖母は好きだった。優しかったこ・・
とを覚えている。祖母が死んでからはしばらく祖父と暮らした。しかし、祖父には少し荷が重かった・・
ようだ。仕事一筋の祖父には孫を可愛がる余裕などないようだった。・・・
祖父の指示で親戚の家をたらい回しにされた。覚えているだけで親戚と称する家を五度変わった。・・
どこへ行ってもしっくりとこなかった。何かクーをお荷物のように親戚たちは扱った。後で知ったこ・・
とだがそれはかなり遠い親戚だったようだ。クーは突然涌いて出たやっかいなものだったようだ。・・・
経済的には困ることはなかった。十五を過ぎた日から毎月祖父からの仕送りが銀行口座に振り込ま・・
れるようになった。今もそれは続いている。毎月三十万。クーはそのことを誰にも隠した。親戚たち・・
がそのことを知ったら手のひらを返してくるのが分かっていた。それを悲しくも思わなかった。十六・・
になった日に家を出た。送られてくる金で好き放題に遊んだ。楽しかったが虚しい日々だった。誰に・・
も心を開くことができなかった。・・・
初めてだった。冬子のように自分を大切にしてくれる他人は初めてだった。猫と一緒にこのマン・・
ションへ転がり込んだ時、冬子は言った。きれいな猫ね…。うちの猫と仲良くなれるわ…。何も聞か・・
なかった。ただ、ベッドは自分で買ってね。部屋は空いているよ…。信じられなかった。自分の親戚・・
たちのことが恥ずかしかった。・・・
あの時、冬子に拾ってもらえなかったら自分はどうしていただろう。街を出ていっただろうか。祖・・
父の所へ舞い戻っただろうか。少なくともフォン・ロッシュでは歌っていないのではないか。いや、・・
そうじゃない。自分は冬子を追い続けただろう。冬子の、時折見せる煌めきの少年の目を追い続けた・・
だろう。・・・
冬子を最初に見たのは別の店でだった。不破と一緒だった。自分をスカウトするためのようだった。・・
きれいだった。すぐに目に付いた。そして、似ていた。恐ろしい程似ていた。あたしの中のあの人…。・・
少女だった昔、密かに思い続けた少年に似ていた。だから、冬子のためだけに歌った。でも、酒が入・・
りすぎていたからうまく歌えなかった。嫌な客が罵声を浴びせていた。・・・
リリー・マルレーンを誉めてくれた。嬉しかった。店を止めようと思っていた時だった。死んでし・・
まおうかなんて思っていた頃だった。冬子と猫の話をした。自分の中のあの少年と会話しているよう・・
だった。その日はそれだけだった。・・・
しかし、冬子を追ってここまで来た。冬子にあの頃の少年の面影を重ね続けていた。あの日から冬・・
子のことが脳裏より離れなくなってしまった。冬子にだけは自分の心のすべてが開けそうに思った。・・
だから知りたい。ママの過去を知りたい。不破は言った。冬子には誰にも言えないことがあるんだよ・・
…。あたしはそれを知りたい。冬子の少年のような目の訳を知りたい。・・・
ベランダに風が吹き込んだ。クーは寒さを感じた。肩を怒らせ何気なく通りを見下ろした。・・・
冬子だった。冬子がメルセデスに乗る。その後ろで不破が倒れている見知らぬ男を車に押し込んで・・
いる。クーの面に脅えが浮かぶ。冬子の過去の一端がクーの視界の中で繰り広げられている。クーも・・
似たような世界に身を置いていたことがある。祖父の周りの世界だ。クーは昔を思った。祖父の所に・・
はいろいろな出入りがあった。男たちの争いの場だった。・・・
クーは遠ざかるメルセデスを恐れと共に見た。朝の日を浴びたメルセデスがゆっくりと視界から消・・
えていく。寒さが背筋だけに少しだけ残った。クーは部屋に戻った。やはり冬子は闇の世界に生きて・・
いる…。冬子への謎が大きくなる。クーは冬子の猫を膝に抱いた。・・・
「あなたのママ、危険なことをしているよ…。死んだりしないよね…」・・・
分かるはずもない猫が一つ鳴いた。その声を聞きクーの不安が激しく高鳴った。・・・
・・・
・・・
「いつ出てきた…」・・・
箱崎に落ち着きが戻っていた。不破が何事もないように箱崎へ話しかけている。冬子はアクセルを・・
緩めた。車の流れが徐々に増え始めている。今日も東京は長い一日を迎える。昨日までの雪は見られ・・
なかった。・・・
「二十日程前だ…」・・・
冬子に箱崎への怒りが昇っていた。メルセデスを路肩へと止めた。冬子は振り返った。箱崎と目が・・
合った。冷たい氷のような目だった。・・・
「まだ、我々に用があるのか…」・・・
不破の低い声にも怒りがこもっている。エアコンを絞った。不破の額に汗が微かに滲んでいた。・・・
「当たり前だ。中原を舐めるんじゃない…」・・・
箱崎は目を冬子から逸らさなかった。冬子は一度箱崎と会ったことがある。その時は不破と一芝居・・
うった。あの時と箱崎は変わっていなかった。獣のような目が冬子を射る。・・・
「そうか。中原とすれば当然のことということだな…」・・・
裏切り…。当然かも知れない。しかし、冬子にも不破にも正当なる理由がある。いや、正当という・・
言葉など何の意味もない。すべてが力関係だ。強い者が弱い者を喰らう。冬子の生きてきた世界の不・・
文律だ。箱崎の目が果てしなく醜いものに見えた。人を喰らうためだけに生きている。箱崎は獣その・・
ものの目を持っていた。瞳の奥の暗い影が冬子にははっきりと見えた。・・・
「冬子さん。どうしましょう、この男…」・・・
不破が冬子に問うた。不破はあくまでも脇役に徹している。その思いが冬子には嬉しかった。冬子・・
は不破をバックミラーに見た。箱崎とはまったく違う目の色だ。・・・
「中原さんへのメッセンジャーです…」・・・
冬子の狙いは中原だった。冬子は中原に大切なものを奪われた。不破しか知らない冬子の過去だ。・・・
「箱崎さん…」・・・
冬子の浮かんだ怒りは失せていた。冬子は箱崎に言った。感情を制御し静かに言った。・・・
「RIKIを捜せと言う指令が出ているのでしょう。そのことはとやかく言いません。しかし、その・・
必要はもうありません。RIKIが中原へ向かっていきます…」・・・
箱崎の目が上がる。暗い影に光を帯びていく。冬子は続けた。箱崎の目を無視した。・・・
「復讐です。いや、報復です。中原に伝えて下さい。あなたに恐怖を見せてあげると…」・・・
冬子が不破に笑みを送った。不破が一つ頷いた。・・・
「そう伝えなさい。RIKIからのメッセージです…」・・・
不破が箱崎の手錠を外しドアを開ける。・・・
「もう、会わないことをお互いに祈りましょう…」・・・
冬子がメルセデスを出る。箱崎の恨めしそうな目が冬子の背に鋭く突き刺さる。不破が箱崎に小さ・・
く漏らしていた。・・・
「お前さんも相変わらずだ」・・・
ドアの閉まる音は静かだった。朝が始まった東京の喧噪にそれはかき消されていた。・・・
・・・
・・・
「長いジョギングだったね…」・・・
意外なことにクーが起きていた。リビングのソファーにあぐらをかいていた。冬子はベンチコート・・
を脱いだ。コートの中にこもった暖が部屋に散っていく。素早くエアコンの風と消えていく。・・・
ベランダから見ていたんだ…。クーの表情がいつもと違いほんの少し固くなっている。見たのなら・・
仕方ない。クーにまで危険が及ぶことはないだろう…。・・・
冬子は台所へ廻った。冷蔵庫のミネラルを少しだけコップに飲んだ。・・・
「コーヒー飲む?」・・・
クーはいらないと言った。冬子も止めた。代わりにオレンジジュースをリビングへ運んだ。二匹の・・
猫がどこからか二人に寄ってくる。忍び足でリビングを歩いている。・・・
「見たよ。ママ」・・・
やはり見ていた。冬子はクーに微笑んだ。自分にもお荷物があった。守ってやらなけばならないも・・
のがあった。この猫のように自分には責任をとらなければならないものがあったのだ。そのことを冬・・
子は、今はっきりと理解した。・・・
「そうか、見ちゃったか…」・・・
冬子は揺れた。クーにすべてを話してしまおうか…。一瞬だが確実にそう揺れた。冬子自身意外・・
だった。戸惑いが微かに浮かぶ。クーの猫の方が冬子の足にすり寄る。冬子はその猫を膝に抱いた。・・
ミャー…。お腹すいたの…。・・・
「あいつ誰?」・・・
意識を猫にごまかそうとしていた。不思議だった。クーには聞いてもらいたかった。自分の闘いを・・
理解してもらいたかった。冬子は揺れ続けた。膝の猫をいつの間にか離していた。ごまかすものが膝・・
の上からなくなった。・・・
「悪い奴…」・・・
今度は言葉でごまかした。冬子の思いは巡った。クーに話したとてどうなるものでもない。クーは・・
知らない方がいいの…。しかし、冬子の中に微かに芽生え始めている小さな泡のようなものが膨らん・・
でいく。愛…。何かの映画に聞いたことがある。愛とは、相手を知りたいと思った時に始まる…。相・・
手に自分を知ってもらいたいと思った時に始まる…。冬子の膨らんでいく泡は冬子を戸惑いへ深く引・・
き込む。愛…。見たいとも思わなかったものが冬子の脳裏に影となって揺れる。・・・
「お店のお金を払わないの。だから不破さんに頼んで少々脅してもらったの」・・・
そんな嘘が通用するとは思っていなかった。冬子はクーの視線を逸らした。悲しかった。クーは自・・
分に心を精一杯開こうとしている。しかし、自分はそれを正面から受け取ってやることはできない。・・
心開いていくものに対していつまでも胸を隠している。惨めな思いだ。・・・
「嘘…」・・・
クーも悲しそうだった。心開いたことを悔いているのではないだろうか。冬子は無理に笑った。・・
クーの側に腰掛けた。猫を踏みそうになった。クーも無理に笑っていた。・・・
―嘘よ。あの人に伝えたの。あの人のボスを恐怖に落とし込んでやるって…。・・・
思わずそう漏れかけた。初めてだね、ママが嘘を付いたの…。クーの言葉にそれは押し留まった。・・・
「クーは知らないでいいの…」・・・
そう言った時、冬子ははっきり気付いた。知らないでいいの…。何と悲しい言葉だろう。悲しすぎ・・
る。自分もクーのことを知りたがっているのに…。そして、冬子という女をクーに知って欲しがって・・
いるのに…。・・・
クーが心を一つ一つ開いていく度に喜びを感じているではないか。前の店ではロバータ・フラック・・
の『やさしく歌って』なんかも歌ったよ…。越路吹雪の『サントゥワマミー』だって結構うまく歌え・・
たよ…。クーのそんなたわいのない話でも、クーの知らない部分を知り得た思いに喜んでいたではな・・
いか。恋人はいるの…。大切な人はいるの…。何度かクーに言っていたではないか。・・・
知らなくてもいい…。優しさの欠片もない言葉だ。それを、自分は何度もクーに言っている。ママ・・
のこと知りたい…。クーがそういう度にそう言っていたではないか。過去は海の果てよ…。クーの心・・
を傷つけていたのだ。悲しみをクーに流していたのだ。冬子は外した視線を真っ直ぐにクーに戻した。・・
クーは下を向いていた。・・・
自分は愛を知らない。愛というものを受け取ったことはない。似た者同士なのだ。クーと自分はそ・・
の点で瓜二つなのだ。だからお互い惹かれ合う。まだ知らぬ愛というものをお互いで手探りしている・・
のだ。なぜか心を開きたい。なぜか相手のことを知りたい。それが愛というものかも知れない。幼子・・
があれ程心地よさそうに眠るのは母の愛だ。心を開かないと静かに眠れない。相手のことを知らない・・
と心安らかに眠れない。・・・
気付いていく。クーとの関係を冬子は気付いていく。母を知らない。父を知らない。そんな生き方・・
をしてきた者は極僅かであろう。そんな二人が巡り会ったのだ。寂しさを常に懐へ携えた者同士が巡・・
り会った。同じ悲しみの色を浮かべ生きてきた二人が寄り添った。愛を知らない寂しい心がお互いに・・
見えたのだ。広い東京での奇跡だ。いや、自らでお互いを引き付け合っていたのだ。・・・
「クー、今は話せない。でも、きっと話す。あることが終わったらきっと話す…。ごめん、クー…」・・・
クーが自分の部屋に戻っていく。いいよ無理しなくたって…。そんな風な言葉がクーから漏れてい・・
た。クーには悲しいことだろう。仕方なかった。・・・
「ママ…」・・・
ドアの所でクーが振り返った。相変わらず視線は冬子の足下にあった。・・・
「死んだりしないよね。ママ…」・・・
やはり似ていると思った。死んだりしないよね…。そんな言葉がクーから出たのが不思議ではな・・
かった。自分でもそう言ったかも知れない。冬子への危険がはっきりとクーには見えている。冬子は・・
何気なくそう思った。・・・
「殺されたりしないよね…」・・・
ドアは静かに閉まった。クーは冬子の返事を待っていなかった。・・・
・・・
・・・
箱崎の怒りは自らの脳裏を破裂しそうになっていた。不破は言った。お前は周りが見えていない…。・・
その通りだった。あの女の煌めきが自分から冷静さを奪った。悔いの思いも素早く怒りに吸収されて・・
いく。冬子という女を自分と同じ目に遭わしてやる。後ろ手に手錠をはめ、いたぶり尽くしてやる。・・
箱崎の目は怒りに色付いたままだった。・・・
中原ビルのエントランスホールを横切った。受付と書かれたテーブルに足を運ぶ。箱崎はその場に・・
唾を吐きたい思いを堪えた。怒りが巡り巡って再び自分へと向く。・・・
「会長室は何階だ…」・・・
受付の女すら冬子とだぶる。短めの髪が流行っているのか…。バカタレが…。箱崎の横柄な態度に・・
驚いている受付にまで腹が立つ。・・・
「会長室は何階だ! そう言っているんだ!」・・・
受付嬢が慌てて受話器を持ち上げる。泣きそうな顔を下へ向けている。・・・
「もういい! 自分で調べる!」・・・
箱崎はエレベーターへ向かった。このビルに足を踏み入れるのは初めてのことだった。中原荘二郎・・
にきつく言われていた。お前の出入りする場所じゃない…。箱崎はそれを守ってきた。しかし、今日・・
は違った。中原荘二郎は京都だ。不在の会長室に箱崎を待っているのは別の男だった。男は幻神会と・・
のトラブルの解決を中原会長より依頼されていた。その件で箱崎は呼ばれていた。・・・
外回りの社員が社を出ていく時間と重なったらしい。一階に停止したエレベーターから紺の背広の・・
軍団が弾き出された。箱崎はそれらの波に揉まれた。一歩身を交わしたときに後ろから肩を叩くもの・・
があった。・・・
「箱崎…。久しぶりだな。何年ぶりだ」・・・
日に焼けた顔が涼しげな大城大介だった。大介は箱崎を笑みで見下ろしていた。百八十八センチ。・・
その数字は知っている。九十キロ。胸囲百五センチ…。今もそれは変わっていないようだ。箱崎は大・・
介の笑みにつられた。・・・
「坊ちゃん!」・・・
大城大介は中原荘二郎ゆかりの恩人の息子と言うことだった。中原でさえ坊ちゃんと呼んでいる。・・・
「五年ぶりになります…。坊ちゃんもお元気そうで…」・・・
大介はジーンズにジャンバーの軽いスタイルだった。中原のエントランスホールには甚だ似つかわ・・
しくない。二人は自然とホールを離れた。大介の鍛え上げられ引き締まった全身が軽装の上にバラン・・
スよく浮かび上がっている。真っ白な歯と長い足が清潔な印象をその場に流す。この男こそ箱崎を呼・・
びだした本人だった。・・・
「お勤めご苦労だったな…」・・・
似合わない二人だった。同じ世界に身を置く者同士とは思えない。しかし、中原の闇を二人は駆け・・
抜けている。そろそろ三十に手が届く頃だ。箱崎は五年ぶりに見る大介に嬉しさを隠しきれなかった。・・
先程までの怒りが嘘のように引いていく。・・・
「RIKIは見つかったか?」・・・
大介のいいところだ。相手の感情などまったく無視なのだ。大介は自分が鍛えた中でピカ一だった。・・
精神力だ。大介は人にはない精神力の持ち主だった。中原から大介を預かった時、箱崎は大介の目に・・
野獣の目を見た。モノになる。瞬間に思った。大介が十二才の時だった。・・・
「RIKIの女。そして、不破をあぶり出しました」・・・
箱崎は大介を徹底的に鍛えた。大介はすべてを吸収していった。箱崎の一番輝いていた時期だ。箱・・
崎の唯一楽しい時期だった。・・・
「親父さん、また入院だ。肝臓だ…」・・・
そろそろ中原も最期かも知れない。箱崎の不安が素早く形になる。・・・
「京都はいいぞ。静かだ…」・・・
外回りへ向かう社員の流れが一段落した。二人はエレベーターに乗った。・・・
エレベーターは音を静かに中原のビルを掛け昇った。その間、大介は何度も箱崎の肩を叩いた。箱・・
崎。まだまだ元気そうだ…。箱崎も素直に頷いていた。・・・
「RIKIの女っていい女か…」・・・
大介は今だ独身を通していた。女など性欲を満足するためだけのものでそれ以外の用事はない。大・・
介はよくそう言っていた。箱崎と同じ思いだった。・・・
「いい女ですよ。坊ちゃんが見たら震い付きたくなるかも知れませんぜ…」・・・
エレベーターが最上階に着いた。大介がもう一度箱崎の肩を叩いた。・・・
「例のトラブルはおれが解決する。箱崎、今日はもういいや…。杉原も帰した…」・・・
こんな所も大介のいいところだった。大介は気まぐれだった。・・・
「それより、今夜、京都へ来い。箱崎、久しぶりに飲もう…」・・・
そう言って大介はその主のいない会長室の方へ消えていった。箱崎は大介の後ろ姿を廊下の端まで・・
見続けた。奴は完成品だ。このおれまで見下してやがる。奴なら、おれの頭を何の感情もなしにぶち・・
抜くだろう。箱崎は満足だった。しばらくエレベーターの中で立ち尽くしていた。・・・
・・・
(2)・・・
・・・
部屋に戻って着替えをした。映画でも観に行こう。クーは冬子の言葉を忘れようとした。知らない・・
でいいの…。やはり悲しかった。この世で唯一知りたいと思う相手から出た言葉だ。クーは涙を堪え・・
ていた。・・・
冬子に知られないようにマンションを出た。ドアを閉める時、微かに猫の声が聞こえたように思っ・・
た。クーはその声を聞き少し安心した。自分はやはり今日もこの部屋に戻る。ミャーを置いてどこへ・・
も行かないよ…。クーは駅へ向かった。いい天気だった。小春日和。そんな言葉を思い出した。通勤・・
時間を過ぎていた。人通りは多くなかった。・・・
冬子のことを思った。冬子は何かに向かっている。それは冬子の過去に関係があることだ。冬子は・・
誰にも自分の昔のことを話したりしていない。不破を例外として店の従業員も誰一人知る者はいない。・・
ひたすら隠している…。そんな感じではない。過去を消してしまった。いや、過去がない。今の冬子・・
しか冬子はない。冬子は突然、今に生まれてきたような雰囲気を創り出している。・・・
少年のような目がいつも輝いている。その目は前しか見えない。振り返ったりしない。クーはいつ・・
も冬子の目をそのように見てきた。猫が瞳に光を集めるように、冬子は少年の瞳に未来を集めている。・・
いや、未来ではない。流れの時だ。現在を流れる矢のような時だ。冬子には未来さえいらないように・・
見える。・・・
クーが最も惹かれるところだ。似ているのだ。あの少年も同じような瞳をしていた。京都にある祖・・
父の別荘の離れで見た少年だ。いや、正確には青年だった。歳は上だった。クーが十二才の時だった。・・
夏の盛りの暑い日だった。青年は日に焼けていた。細身の身体から淡い光が発しているように見えた。・・
風に短い髪が揺れ涼しげに空を見上げていた。きれいな目だった。透き通っていた。まさしく少年の・・
目だった。・・・
クーは思い続けた。青年の少年の目を思い続けた。夢に見た。夢の中で青年はいつも少年に戻って・・
いた。紛れもない初恋だった。クーは夢中になった。いつもいつも少年のことを思った。夢の少年が・・
あの青年の過去の姿に思った。いや、青年が成長した姿に思った。・・・
忘れることができなかった。少年はそれから祖父の別荘へは来なくなっていた。祖父に聞けども要・・
領を得る答えはもらえなかった。祖父の別荘には客が多すぎた。いちいち祖父は覚えていなかった。・・
出会いはそれだけに思えた。・・・
しかし、ある冬の夜クーは少年を見た。京都駅の新幹線ホームに一人で立っていた。クーの思いが・・
通じたのだ。クーと少年を繋ぐ地は京都しかなかった。クーは少年の思いを胸に時折京都へ寄ってい・・
た。逢えるとは思わなかった。ただ、少年との出会いの地で少年の思いに浸りたかったのだ。クーは・・
一人で立つ少年に近付いた。少年は少し変わっていた。あの夏の日の青年がクーの夢に見た少年へと・・
成長していた。駅に立つ少年はクーの夢の中に現れる少年とまったく同じだった。少年はホームの先・・
に見える寒空をただ見上げていた。・・・
新幹線が来た。クーは少年から離れて座った。どうしても声が掛けられなかった。せめて名前でも・・
聞きたかったがそれも叶わなかった。・・・
少年は東京で降りた。それから地下鉄で新宿に出た。少年は新宿には似合っていなかった。時折立・・
ち止まり夜空を見上げていた。そんな人間新宿にはいない。クーは少年が空を見上げる度、あの目を・・
思った。少年の透き通った目…。夢に見た少年の目…。クーも空を見上げた。少年の目に宿っていた・・
光を空に探した。・・・
何度目か空を見上げた時に少年を見失った。少年は新宿の喧噪に消えてしまった。・・・
時が過ぎた。クーの思いに少年は消えなかった。だからクーは新宿にいる。いつまでも少年を追い・・
続けていた。・・・
しかし、冬子にその目を見た。同じ輝きだった。少年への思いが急速に冬子に傾いた。夏の日の少・・
年の目が冬子の目とだぶった。クーの中で少年と冬子が入り乱れた。クーは冬子を追った。冬子に拾・・
われた。クーから少年の面影が消えようとしている。冬子への切ない思いがあの夏の日を遠ざけよう・・
としている。クーはいい知れない悲しさに包まれていた。・・・
駅が近くなった。クーはタバコの自動販売機の前に立った。セーラム…。冬子のマンションに転が・・
り込んでから変えたタバコだ。冬子が吸っている。ただそれだけのことでタバコを変えた。・・・
刺激が欲しかった。喉にメンソールを思いきり流したかった。小銭を販売機に入れようとした時・・
だった。背を叩かれた。振り返らすためだけにしてはその手は少し強く感じた。・・・
「RIKIという人が、あっちの角で待っているよ」・・・
女子高生のようだった。その女の子はクーの通ってきた道を指さし、駅への道へ素早く走って行っ・・
た。・・・
人違いだろう。クーは笑いを抑えた。セーラムを販売機から取り出した。素早く封を開け一本吸っ・・
た。メンソールが心地いい。・・・
「ごめん、ごめん、間違えちやった…」・・・
道路の溝にセーラムを捨てようとした時、先程の女の子が戻って来た。・・・
「ごめんなさい。不破だ。不破という人があの角で待ってるよ」・・・
何の屈託もない笑顔だった。再びその子は駅へと消えて行った。・・・
「不破さん?」・・・
不思議だった。クーは思いを巡らせた。不破があの角で待っている…。なぜ、あんな女の子をメッ・・
センジャーなんかに…。今朝のことを思った。何かある。あのメルセデスに関係したことだ。不破は・・
用心しているのだ。あたしに何かを告げたい。しかし、この場へ来れない何かの理由がある。あるい・・
は冬子も一緒かも知れない。・・・
クーはゆっくりと女子高生の指さした曲がり角へ向かった。思いは急いだが余り目立ってはいけな・・
い。クーの歩みは少々ぎこちないものとなっていた。・・・
角を曲がった。不破はいなかった。冬子もいなかった。クーは辺りを見渡した。不法駐車ばかり目・・
立った。クーは車の列に不破のRVを探した。冬子のBMWを探した。・・・
・・・
・・・
江藤は中原ビルから出る箱崎を尾けた。アルバイトの運転手にコロナのハンドルを任す。箱崎はタ・・
クシーに乗った。メルセデスは中原ビルのガレージに放置したようだ。タクシーの車内から箱崎は長・・
い電話をしていた。それが江藤のコロナから見えていた。・・・
箱崎を乗せたタクシーは世田谷の方へ向かった。桜丘○丁目。例の調査のマンションの近くで箱崎・・
はタクシー降りた。側に黒いメルセデスが見える。タクシーの中で電話をしていた相手たちだろう。・・
若い者が三人、箱崎にそろって頭を下げていた。・・・
江藤はその様子をコロナから降り少し離れたところから見た。箱崎に江藤の顔は割れていない。江・・
藤は大胆に箱崎へと歩を進めた。箱崎の声が断片的に聞こえた。ショートヘヤーの女だ…。初老の男・・
だ…。そんな声が聞こえた。箱崎の頬の傷がやけに目立った。日の光がそれへ集まっているようだっ・・
た。・・・
そんな箱崎の側を小柄な女が行き過ぎた。箱崎はその女に反応した。若い者に女の背を指さし自ら・・
も大きく頷いた。あの女でいい…。あの女を…。箱崎は若い者に細かい指示を与えた。細かな内容は・・
聞き取れなかった。・・・
箱崎は待たしてあったタクシーに乗り込んだ。江藤もコロナに戻った。アルバイトを呼んで正解・・
だった。箱崎は八重洲口で降りた。そのまま新幹線ホームへと進んだ。江藤もコロナを運転手に預け・・
箱崎を追った。そして、箱崎と同じ新幹線へ乗り込んだ。新大阪行きだった。行き先は京都だろう。・・・
江藤は箱崎の座席の二つ後ろに気付かれないように座った。のぞみは空いていた。・・・
下鴨中原御殿。中原を知る者は京都の中原の別荘をそう呼ぶそうだ。昨夜あれから江藤は知り合い・・
の建設業の社長に中原のことを聞いた。その会社は偶然中原建設の仕事を請け負っていた。社長は中・・
原のことを思いの外知っていた。少し長電話となったが、社長はいつも饒舌な男で有名な程だった。・・・
―京都下鴨、鴨川の畔に目立たぬようにそれは建っているのだか、建った当時は余りにも訪れる者が・・
多すぎてかえって目立つ結果となってしまったそうだ…。老舗の旅館を買収した代物さ。旅館の女将・・
が中原に騙されたと大騒ぎになったという噂を聞いたことがあるぜ…。今は人の出入りが少なくなっ・・
たように聞いている…。何でも、中原は最近別荘に入り浸りで東京へはほとんど戻ってないそうだ…。・・
中原の妻は早くに亡くなり、初代下鴨夫人も二代目の下鴨夫人も既に死んだ。最近になってようやく・・
三代目の下鴨夫人ができたそうだぜ…。それが中原を東京へ帰らさない原因だろうよ…。若い女のケ・・
ツを、あの親父は毎日撫でているのだろうよ。奴さん益々元気だぜ。噂じゃ肝臓が随分といかれてい・・
るらしいがな…。・・・
気のいい社長は知っていることをすべて話してくれた。あまり中原に悪い印象を持っていないよう・・
だった。儲けさせてもらっているのだろう。江藤は慇懃に礼を言った。電話を切ろうとした時、社長・・
は続けた。言い忘れたことがある…。・・・
―探偵さんよ。どうして中原なのか知らねえがよ、気を付けた方がいいぜ。最近になって中原の別荘・・
にはボディガードが二十四時間警戒しているそうだぜ。二ヶ月程前に新宿の幻神会といざこざかあっ・・
たそうなんだ…。まあ、気を付けるこった。・・・
今度一杯やろう…。それでようやく電話が切れた。江藤は自宅を出た。事務所へは寄らなかった。・・
杉原が襲ってくるかもかも知れない。江藤は少し眠り銀座へ向かった。杉原から聞きだしている。今・・
日の午前中に中原ビルで箱崎と会う…。まだ夜は明けていなかった。・・・
のぞみは早くも新横浜を過ぎた。車窓に真っ青な空が拡がる。江藤は忍び寄る睡魔を耐え自らの思・・
考に沈んでいった。・・・
芳子の父井ノ口晋太郎への復讐…。杉原はそう言った。どうして井ノ口なのだ。中原荘二郎。井ノ・・
口晋太郎。江藤は二人の関係について思いを巡らせた。・・・
井ノ口晋太郎。表向きは銀座で画廊を経営している。年齢七十三。謎の多い義理の父だ。子に恵ま・・
れなく一人娘の芳子以外は井ノ口の血の繋がる者はいなかった。戦後の東京で莫大な財産を築いたと・・
いう噂だがその真相は江藤も知らなかった。ただ、その顔は広く政財界に太いパイプを持っている。・・
変わり身が早く寝技の井ノ口と陰口を叩かれている。今も各方面で影響力を発揮しているようだ。・・・
選挙の度に、保守、革新、共に井ノ口の画廊を、議員あるいはそれらの秘書が入れ替わり押し寄せ・・
てくる。井ノ口は金でそれらの横っ面を張る。情報…。井ノ口はそれを見返りに政治家への資金を流・・
す。絵を買うのだ。評価の何十倍、何百倍という価格で買い取る。上乗せした評価が情報料。裏の金・・
で支払う。政治家にとって悪い話ではない。画廊の経営は世間体だけのものであり本質は闇の部分の・・
黒い資金の源だった。・・・
買い取った情報は井ノ口の思い一つでどんな形にも化けていく。財界、あるいは各企業にとって、・・
井ノ口は貴重な存在であり超上質の情報の出所である。井ノ口画廊はそんな男たちの出入りする場所・・
であった。画廊の奥にある応接室には常に各方面の大物が井ノ口との面談を待っているのだ。・・・
井ノ口はそれを楽しんでいた。自らが日本の一部を動かしている。そんな妄想が常に井ノ口を悦の・・
世界へといざなっていた。井ノ口の生きている証のようだった。・・・
その情報の最も有効な利用先を江藤に調査させるのだ。江藤は井ノ口の期待に応えていた。井ノ口・・
の果てしない妄想に一役買っていた。・・・
中原荘二郎。江藤の知る限りでは、その名は井ノ口の画廊の顧客にない。江藤への調査の依頼も中・・
原の関係したことは一度もなかった。井ノ口は情報を中原グループに売ったりしていない。今思える・・
ことだが、本当に井ノ口画廊に中原の名がないとしたならば、それは井ノ口が意図的に中原を避けて・・
いるとしか考えられない。井ノ口の情報は中原グループにとっても貴重な情報のはずだ。中原グルー・・
プが井ノ口に近付かないのが解せない。・・・
中原と井ノ口を並べて考えたことなどなかった。しかし、二人は近い世界にいる。いや、同じ世界・・
と言ってもおかしくない。政治の裏を二人とも渡り歩いているはずだ。情報の渦の中、質の高い情報・・
を独占しているはずだ。闇の大通りを大手を振って歩ける数少ない人種だ。・・・
井ノ口は中原を知っている。そして、避けている。いや、脅えている。江藤にはそう思えた。中原・・
荘二郎…。井ノ口晋太郎…。同年代のはずだ。共に銀座に本拠を構える。距離にして僅かだ。よく考・・
えれば関係がないほうがおかしい。・・・
井ノ口は何かを隠している。あの事件に関係あることか。江藤の思いは巡った。井ノ口と中原…。・・
江藤の脳裏の中にその二人が少しずつだぶり始めていた。・・・
眠っていたようだ。車内アナウンスに江藤は目覚めた。のぞみが京都に入っていた。スピードが緩・・
くなっていく。箱崎が座席を立った。江藤はそれを窓ガラスで確認した。箱崎はこちらを見なかった。・・
素早くドアの方へ遠ざかっていった。・・・
江藤は少し間を置き箱崎とは逆のドアへ向かった。ドアが開いた時、冷たい風が江藤の頬を過ぎた。・・
東京より随分と冷たい風に思えた。・・・
・・・
・・・
冬子も京都に飛んでいた。中原荘二郎…。不破の調べでは中原は入院中だという。どうやらそう長・・
くないようだ。冬子は少々焦っていた。恨みの対象が独りでに朽ちていく。それでは自らの思いが果・・
たせない。冬子は京都の風を受けていた。・・・
風が冷たかった。冬子はちらっとクーのことを思った。悲しい言葉をクーに言った。クーは悲しん・・
でいるだろう。休んでもいいよと電話でもしてあげようか…。流しのタクシーが冬子の視界に入った。・・
冬子はそれへ乗り込んだ。車内の暖房が暑すぎる程だった。・・・
京都…。思いがある男へ向く。京都…。そう、教官は京都に育ったと言った。それが本当かどうか・・
は分からない。教官は胸を一度も開かなかった。恨んだ。憎んだ。殺してやりたいと思い続けた。教・・
官への意地だった。強くなっていった。どんな鍛錬にも音を上げなかった。・・・
冬子に車窓を流れる景色が自然と流れ込む。教官が一度言っていた鴨川だろうか、美しい水面が冬・・
子に見えた。昨夜も京都は雪だったようだ。冬子が観光客に見えるのだろう。雪解けの水に今日の鴨・・
川は少し水嵩が高いですわ…。いいや、昔はもっと水量が多かったんやけど…。そんなことを運転手・・
が言っている。男への思いに沈む冬子には少し耳障りだった。・・・
タクシーは北へ向かった。鴨川を遡っていく。四条から御池へと川端通りを上る。車の量はそれほ・・
どでもなかった。冬の淡い日差しが鴨の水面に揺れる。きらきらと音が聞こえてきそうだ。白いユリ・・
カモメがその音と戯れている。・・・
教官、いや、竹中達彦…。・・・
更に冬子は思いに沈んだ。運転手の声も聞こえなくなった。あの日から五年経った…。・・・
教官、いやもう教官ではない。竹中達彦…。・・・
不破との約束だった。五年前の約束だった。その名を不破は冬子に告げた。二日前だ。二日前に初・・
めて冬子はその名を聞いた。・・・
冬子にとってただ一人忘れなれない男であった。冬子を夢中にさせた。男への恨み憎しみが幾重に・・
も冬子の中で複雑に姿を変えた。混沌なる思いが果てしなく積み重なった。冬子の中に陽炎のように・・
色を伴って揺れ、根雪のように音も静かに沈殿していった。・・・
ある時は女として抱かれた。燃えた。激しく燃えた。まだ少女の頃だった。冬子は竹中に好かれる・・
ためなら何でもした。辛く苦しいことも、竹中への激しい憎しみと乙女であるが故の儚い思いで乗り・・
越えることができた。・・・
教官、いや、竹中の計算だったことも知っている。竹中は完全なプロだった。冬子にあらゆる技を・・
仕込んだ。裏の世界で生きていく。強くなければ存在の意味がない。そんな世界なのだ。それを理解・・
しろ…。竹中はよくそう言った。冬子は竹中の思い通りに成長していった。・・・
名など聞かなければよかった。忘れたはずではなかったのか…。・・・
何度も何度も竹中に抱かれた。竹中は冬子を抱いていたときも冷静だった。冬子を貫きながら冬子・・
に技を仕込んだ。冷静に自分の上に乗っている男を見ろ…。ベッドでの男は隙だらけなのだ…。竹中・・
は一度も冬子の中で果てたことはなかった。恨んだ。激しく燃えたかった。冬子はその夜いつも泣い・・
た。死んでしまいたいと思って泣いた。・・・
今までその名すら知らなかった。教官…。男をそれ以外に呼んだことはなかった。教官の名は竹中・・
達彦…。なぜか悲しかった。名を知った瞬間に竹中への憎しみが冬子から消え去り始めた。あの頃、・・
恨み呪った男が名を帯びた途端にきれいな姿で冬子の脳裏を踊った。恨んでいたはずなのに。死ぬ程・・
憎んでいたはずなのに…。冬子は人知れず泣いた。男への思いが冬子の中に悲しみの形で大きくなっ・・
ていった。・・・
遠くのクラクションで冬子は我に返った。タクシーは信号待ちだった。鴨の水面の煌めきが視界に・・
戻った。冬子は素早くクーを思った。無理に脳裏にクーを昇らせた。竹中を忘れようとする冬子が前・・
に出た。悲しみをクーに重ねていた。・・・
少し窓を開けた。鴨の河原をアベックが肩を寄せ合って歩いている。冬子には遠すぎる世界だった。・・
視線をアベックから逸らした。白いユリカモメが煌めきの上に楽しそうに弧を描いていた。・・・
・・・
・・・
大城大介は幻神会の事務所に乗り込んだ。話は付いた。幻神会は今後中原に手出しはしない。見返・・
りに大介は一つの情報を握らせた。中原の指示だった。政府筋から漏れたある土木プロジェクトの情・・
報だ。それを餌にした。幻神会もバカではなかった。現在の情報の価値を理解していた。・・・
「それじゃ、おれは帰る。親分さん、今後もよろしく…」・・・
大介はソファーを立った。幻神会の会長、山岡修三が大介を見上げる。・・・
「若いのにいい度胸だぜ。中原さんも、いい若い衆を持っていらっしゃる…」・・・
老親分は羨ましげな目を大介に向けていた。幻神会をまとめる大親分にしては優しい目に思えた。・・
大介は一つ微笑んだ。小柄な山岡が更に霞んで見えた。・・・
「大介さんとやら、わしから一つお土産があるのじゃが…。もう五分程付き合ってくれんかの」・・・
山岡との話は中原が少々不利なものだった。従って山岡の機嫌がいいのだろう。大介にはどうでも・・
いいことだった。指示通り話を進めただけだ。大介は中原の事業にまったく関心がなかった。ただ、・・
幻神会とのコネは自らで抑えておきたい。わざわざここまで出向いた理由だった。・・・
名残惜しそうな山岡の目にソファーに座りなおした。山岡の顔の皺が幾つか増えた。・・・
「杉原が何者かに襲われたそうじゃないか…」・・・
知らなかった。杉原という男は痩せたインテリ風の男だ。確か箱崎の舎弟ではなかったか。その男・・
がなぜ襲われた。いったい誰に…。大介は笑みを自然に重ねた。目の前の老人のしゃべりに任せた。・・・
「うちの企業舎弟の辻という男から聞いた。辻は中原の土木の仕事を何度かこなしている。辻がうち・・
と繋がっていることはその世界でもあまり知られていない。だから、杉原は辻を訪ねてきた。杉原は・・
辻に若い者を貸してくれと言った。奴さん、余程頭に血が昇っておったそうじゃ」・・・
何が言いたのだ。大介は少しじれた。老人との話は苦手だ。中原の叔父貴と同じだ。大介はピース・・
を吹かした。チョコレートに似た甘い微かな香りが部屋に流れた。・・・
「辻は杉原の申し出を断った。そんな義理はない」・・・
長い話になりそうだった。大介はもう一度腰を浮かした。・・・
「慌てなさんな。すぐ終わる」・・・
山岡は笑みのまま大介を制した。その顔に微かながら山岡の生き様が見えた気がした。人を征する・・
者の深く重い笑みだった。笑みの奥に跳ね返すことのできない圧力を見た。大介は腰を落とした。今・・
までよりも深くソファーに沈んだ。・・・
「辻は若い者に杉原を監視させた。杉原を襲った相手を知る必要があった。相手を知った上で杉原に・・
人を貸してやろうと辻は思ったのだ。杉原に貸しを作るのも悪くない。杉原は一人若い者を連れて渋・・
谷へ向かった。あるマンションへ入った。そこには箱崎の手の者がいた」・・・
箱崎の名が出た。大介はようやく話の中身が分かり始めた。箱崎の言ったことが大介に浮かんだ。・・
箱崎はRIKIを追いつめている。・・・
「辻は何かの臭いを嗅ぎ付けたようなのだ。裏に生きる男の独特な勘じゃ。中原の弱みを握る。企業・・
舎弟の生きる道だ。辻は箱崎の若い者を締め上げた」・・・
箱崎の若い者…。どこから仕入れてきたのだ。大介は山岡の話に引き込まれていた。面白くなって・・
きたぜ…。で、若い者は吐いたんだろうな…。・・・
「女を一人かっ浚ったそうだ。若い者はそれ以上知らなかった。いい女だそうだぜ…」・・・
箱崎の動きが見えてきた。今夜、箱崎と飲む楽しみが増えた。大介はタバコをガラスの灰皿に捨て・・
た。山岡が頷いていた。話が終わったようだ。・・・
「山岡さん。おれからも一つ置き土産をしますよ…」・・・
大介は立ち上がった。山岡は制止しなかった。・・・
「中原の親父。もう長くない。癌だ。末期だ」・・・
山岡の目が一瞬光ったように見えた。大介はドアに歩いた。山岡の視線が背に熱かった。・・・
「お前さんが中原の跡を継いだら、幻神会は諸手を上げて助太刀するが…」・・・
ドアを開ける時、山岡からそう聞こえた。大介は振り返った。・・・
「組織は苦手だ。事業は退屈だ。おれは好きなようにやるよ…」・・・
大介は部屋を出た。山岡の笑みが大介の背に届いていた。・・・
・・・
・・・
クーの意識は恐怖に包まれていた。どこかのマンションのようだ。気が付いた時は一人だった。一・・
人フローリングの上に転んでいた。寒さは感じなかった。部屋はエアコンが効いていた。ブラウンの・・
カーテンから日が漏れている。その日が部屋の中を微かな埃と共に揺らめいている。・・・
身体を動かしてみた。どこも痛むところはなかった。着衣も乱れていない。しかし、後ろ手に手錠・・
をはめられていた。手を動かすと金属音が部屋に大きく響いた。・・・
不破と冬子の車を探したのまで覚えている。並ぶ車の側をゆっくりと歩いていたのまで覚えている。・・
いきなり目の前が真っ暗になった。身体への衝撃はなかったように思う。何か強烈な臭いが鼻を強く・・
刺激した。それまでしか思い出せない。・・・
隣の部屋から男の話し声が聞こえた。クーは身を固くした。なぜ、自分が浚われたりしたのだろう・・
…。不安が大きく鎌首を持ち上げた。恐怖に悲鳴を上げそうになった。クーは音を立てずに起きあ・・
がった。すり足でドアに寄った。隣の部屋の声がはっきりと聞き取れた。・・・
「小柄だがいい女だぜ。ジーンズの尻がはちきれそうだ」・・・
酒でも飲んでいるのだろうか隣室の男たちの笑いが大きい。クーはドアから離れた。・・・
すぐに襲っては来ないような気がした。襲うのであれば既に済ましているだろう。男たちは自分の・・
気が付くのを待っているのだ。クーは後ろ手を交差させた。それぞれの親指の間接を順に外す。手首・・
に掛かった手錠をゆっくりと外した間接の上を滑らせる。短い鎖が擦れ合う音が微かに隣接へのドア・・
へと流れていく。手錠は右手の輪から外れた。・・・
新宿に出てきた頃、友達に教えてもらった技だ。SMクラブに勤めている子だった。いつも手錠を・・
左手にはめていた。久美子の腕は細いね。それだったら手錠抜けは簡単だろうね…。友達はドラック・・
をやりながらクーにそれを仕込んだ。それが今役に立った。クーは外した手錠を後ろ手に隠した。・・・
その時もこのように監禁された。ドラック買う金ほしさに友達に売られたのだ。男三人だった。三・・
人の男に辱めを受けた。こんな感じのマンションの一室だった。同じ色のカーテンだったと思う。・・・
外は夕暮れを向かえていた。ベランダからは飛べそうにもなかった。遠くに見える瓦屋根がかなり・・
下方に見えた。・・・
「お目覚めだ」・・・
ドアが開いた。二人だった。一人は痩せていた。金縁の眼鏡がクーの恐怖を更にかき立てた。歩く・・
右足が不自由そうだった。もう一人は醜く笑っている。派手な柄のブルゾンが小太りの身体にまった・・
く似合っていない。・・・
こいつらではない…。クーは思った。自分を浚ったのはもっと若い男だったように思う。恐怖が・・
クーの全身を駆ける。黒い塊がクーを無秩序に責める。・・・
「あたしに何のようなの!」・・・
犯す目的だけではない。二人の男にクーはそう思った。やはり、今朝ベランダから見たことと関わ・・
りがある。男たちの狙いが黒い影としか見えない。クーの背が小刻みに震え始めた。・・・
「跳ね返りだな…。まだ、ネンネのようだが、いい女じゃないか」・・・
眼鏡の方がクーの肩に触れた。小太りの男が手に持っていたビールの缶を煽り床に投げた。・・・
「ねーさんよ、聞きたいことがあるんだ」・・・
殺されるかも知れない…。クーの背の震えが男にも見えてしまいそうになる。・・・
「おとなしく答えてもらったら、乱暴はしない。いいな…」・・・
眼鏡が低く言った。うっすらと笑みを浮かべている。・・・
「RIKIという男のことを知りたい。フォン・ロッシュの冬子の男だ」・・・
冬子の名が出たときにクーは一瞬目を閉じた。冬子の男…。激しい嫉妬がクーを襲った。・・・
「さあ、答えてもらおう…」・・・
小太りがクーの顎を掴んだ。親指と中指がクーの奥歯を下から突き上げる。・・・
「知っているんだろ。答えろ!」・・・
後ろ手の手錠を思いきり小太り男のこめかみへぶつけた。クーは走った。二人の男をすり抜けドア・・
に手を掛けた。・・・
「このアマ!」・・・
眼鏡がクーに襲いかかる。肩を掴まれバランスを崩した。平手がクーの頬に炸裂した。・・・
「舐めるんじゃねえ!」・・・
容赦などなかった。クーは再び床に転がされた。・・・
「答えられないんだったら、身体に聞くしかないんだよ!」・・・
蹴りが何発もクーの腹に入った。クーは耐えた。冬子への嫉妬がクーを強くする。・・・
冬子に男がいた。RIKI。いったい誰のことなのだ。クーは蹴られながら唇を噛んだ。男なんて・・
いらない…。いつか冬子が言っていた。クーの目から涙がこぼれた。蹴られる痛みより冬子への思い・・
への痛みの方がクーには辛かった。・・・
・・・
・・・
大介はその足で渋谷へ向かった。そのマンションは知っている。バブルの弾けた時に売り出した高・・
級マンションだ。バブルの遺産だ。ほとんど売れ残り虚空の担保価値だけと化した建設物である。そ・・
の何室かを中原グループが顧客用の売春宿として使っている。Xマンション1101号。最上階はV・・
IP専用の部屋だった。・・・
部屋の番号を押した。オートロックのエントランスで大介は部屋からの応答を待った。管理人が胡・・
散臭そうに大介を見る。大介が微笑むと管理人は裏へ引っ込んだ。・・・
部屋の受話器が上がる音がした。大介だ…。大介は低くホーンに告げた。坊ちゃん…。ホーンの向・・
こう側からそう聞こえオートロックが開いた。大介はエレベーターで部屋に向かった。・・・
1101号のドアは杉原が開けていた。杉原は上半身裸だった。にやり、杉原の肩を叩いた。中か・・
ら男のうめき声が聞こえていた。大介は杉原に促され部屋に入った。・・・
小太り男が大きな尻をむき出しに喘いでいた。荒い息が部屋の温度を何度か上げている。大介は堪・・
えきれなかった。大きく笑いを杉原に送った。・・・
「ウッハハハハ! 汚いケツだ! ハハハハハ!」・・・
小太りの動きが止まった。太った醜い身体を窮屈そうによじり大介の方を振り返った。汗が顔面を・・
滝のように滴り落ちている。・・・
「ぼ、ぼ、坊ちゃん!」・・・
慌てて小太りが立ち上がる。照れたような笑いと戸惑いの表情が入り交じる。目が点になっていた。・・
大介が服を脱ぐ。立ち上がった小太りの肩を軽く叩く。・・・
「代われ! おれのケツの方がきれいだ!」・・・
こいつらいい年こいでどこまでスケベなんだ…。中原の叔父貴と同じだ。いや、おれも人のこと言・・
えん…。大介は笑いを高く女に乗った。・・・
「RIKIのこと分かったか…」・・・
杉原が首を横に振った。大介は裸になった。床に転がる女の脅えた表情が大介の欲情を激しくかき・・
立てた。・・・
「それなら、おれが吐かせてやる! 見てろ、二人とも! ハハハハ!」・・・
大介は女を貫いた。悲鳴が大介の笑いとゆっくりと重なった。・・・
「どこかで見た女のようだな。ままいい。あの親分が言っていたとおりだ。なかなかいい女だ」・・・
動きを激しくした。女の悲鳴が激しくなる。大介は笑った。女の悲鳴に獣のように大きく叫んだ。・・・
「女、おれは大城大介という。恨むのならこの大城大介を恨め! ハハハハ!」・・・
・・・
・・・
箱崎は真っ直ぐに中原御殿へは寄らなかった。北山中原医院。箱崎は同じ鴨川沿いにある医院でタ・・
クシーを下りた。江藤はその医院を五十メートル過ぎた位置でタクシーを止めた。箱崎を降ろしたタ・・
クシーが消えるまでそこで待った。江藤は警戒を強くした。ここに来るまで二度タクシー同士が接近・・
しすぎていた。自分の存在を箱崎に知られているような気がしていた。江藤もタクシーを降りた。・・・
日は既に落ちていた。京都も二日続きの雪だったそうだ。タクシーのラジオで聴いた。狭い歩道の・・
隅にその名残が白く見える。雪解けの鴨川の瀬音が騒音に混じって微かに聞こえた。・・・
北山中原医院。中原に関係ある医院なのか…。江藤は二十分程医院の前で待った。箱崎は出てこな・・
かった。気温が低くなっていた。寒さが江藤にも感じられた。医院に入った。いい知れない焦りが江・・
藤の行動にまとわり付いていく。・・・
小さな医院だった。中原の身内が個人で経営している医院のようだ。中原建設のポスターが入り口・・
横の診察時間を示すパネルに並んで似つかわしくなく貼ってある。診察時間外のようだ。診察待ちの・・
患者はいない。受付の看護婦も江藤の姿を見て咎める様子はない。不特定多数の出入りの多い医院の・・
ようだ。入院患者の面会。江藤はそれを装った。・・・
階段の上がり口のソファーに男が二人新聞を読んでいた。エレベーターはその先にある。やはり…。・・
江藤は思った。中原がこの医院にいる。箱崎が何を置いてもここへ直行した。中原は入院しているの・・
か…。江藤は再び表へ出た。・・・
やはり鴨川の流れの音がした。行き交う車の音にもそれは江藤にまで届いた。江藤は物陰に沈む。・・
箱崎が出てくるところを襲う。幸い、目の前に鴨川の河原がある。日が暮れた河原には人気がない。・・
闇が厚く河原を覆っている。・・・
すべてを吐かせてやる。江藤を緊張が包む。とうとうここまで来た。あの時はいくらもがけど何も・・
掴めなかった。憎んだだけだった。影すらも見えない相手をただ憎み恨んだだけだった。しかし、今・・
は違う。憎み恨んだ相手を目の前にしている。あの時の思いも変わっていない。決して色褪せてはい・・
ない。思いの中で風化されたりしていない。江藤は拳を強く握った。闇が更に深くなっていた。・・・
物陰の向こうに人影が見えた。江藤は腰を構えた。箱崎だ! ・・・
「ウッ!」・・・
足を出そうとした時だった。江藤の後頭部に激しい打撃が加わった。迂闊だった。箱崎は一人では・・
なかった。先程、医院の階段前で男を二人見たはずではなかったか…。江藤は膝を折った。・・・
「おれを尾けてどうする」・・・
両腕を掴まれた。箱崎が江藤の目の前に現れた。・・・
「どういうつもりだ!」・・・
パンチがボディーに炸裂した。江藤の意識が薄れる程のパンチだ。箱崎はボクシングの心得がある。・・
箱崎の拳は的確に江藤のレバーにめり込んでいた。・・・
「なぜ、おれを狙う」・・・
今度は右ストレートだった。同じく的確に江藤のチンを打撃した。江藤は後ろへのけぞった。二人・・
の男の支えがなかったらテンカウントのダウンだ。・・・
「何が目的か吐かせてやる…」・・・
最後は膝だった。江藤は男たちに引きずられた。流れの音はもう聞こえなかった。・・・
・・・
・・・
RIKIが階段を上る。ソファーに陣取っていた男たちはいなかった。RIKIは足音を立てずに・・
素早く階段を上がった。最上階だ。RIKIの勘だった。中原は最上階に入院している。特別室が最・・
上階にある。RIKIが階段を上りきる。思った通り、廊下に特別室とプレートに書かれていた。・・・
特別室は廊下の突き当たりだ。そこにも男が一人椅子に腰掛けている。RIKIは男の前に立った。・・
サングラス越しに男と目が合う。RIKIは微笑んだ。・・・
「郵便です…」・・・
甲高いRIKIの声が男を刺激した。男が読んでいた週刊誌を床に落とす。RIKIの微笑みが大・・
きくなる。男が立ち上がる。左手がRIKIの襟首に延びた。・・・
「ウッ!」・・・
膝を男の股間に刺した。男が膝を折る。後ろへ廻る。左手で男の胸を掴み右手で男の首を絞める。・・
男の首は太かった。RIKIの力が男の太い首へ集中する。・・・
「ウッ!」・・・
背広の襟が男の首を締め上げる。左手を頭に添え右手の攻撃を有効にする。男は吐息さえ自由に漏・・
らせない。右足で男の膝を引く。男が前のめりに崩れていく。両手が助けを求め痙攣を起こす。・・・
「ウッ…」・・・
それまでだった。RIKIは男の肩に催眠剤を注射した。これで二十四時間は眠ってくれる。RI・・
KIはこれからのことを誰にも邪魔されたくなかった。・・・
中原荘二郎…。特別室のドアにその名があった。RIKIは微笑みを納めた。サングラスの中のR・・
IKIの目が少しずつ険しくなっていった。・・・
・・・
第三章 怒り・・・
・・・
(1)・・・
・・・
クーは大介に貫かれ続けた。激しすぎた。意識が何度も離れそうになった。その都度、大介が動き・・
を止めた。大介は冷静だった。大介に激しい高ぶりは見られなかった。・・・
「本当に知らないようだな。ままいい。もっと叫べ。もっと泣け!」・・・
果てることを知らないようだった。大介は限りなくタフだった。クーは悲鳴さえも涸れようとして・・
いた。涙も後を伝わらなくなっていた。・・・
RIKIとはいったい誰のことなの…。クーは揺れる意識の中で繰り返しその言葉を言った。RI・・
KI…。冬子の男…。ママの男…。ママが抱かれた男…。クーはそれを思い大介の責めを耐えていた。・・
冬子への思い。それだけが今のクーに大切なことだった。今まで生きてきて何も失うものなどないと・・
思っていた。いや、すべてを忘れることができるなら死んでもいいとすら思っていた。しかし、大介・・
の攻めにクーは冬子を思い続けていた。・・・
冬子への嫉妬だけではない。自らへの怒りだ。心を開いてくれない冬子だけしかクーには思い浮か・・
べるものがなかった。悲しいことだった。大介に貫かれたまま死にたいと思った。死にたい…。そう・・
思う度、大介の責めに身体が反応を起こしそうになった。クーの女の部分が大介の荒々しい愛撫に向・・
かう。肉欲の喜びへと意識が靡いていく。クーはそれを悲鳴で繋ぎ止めた。クーのプライドがそれを・・
持ちこたえた。・・・
「どうした、もっと泣き叫べ! 助けてくれとわめけ!」・・・
クーは唇を噛んだ。強く噛んだ。意識が再び遠のく。冬子の顔が頭に浮かぶ。大介の動きが止まる。・・・
「どうした、もっとよがりなよ。いいんだろう。身体がそう言っているぜ。ハハハハハ!」・・・
意識が大介の声に戻る。大介への怒りがクーの意識を覚醒さす。大介が動きが再度早くなる。・・・
限界だった。クーのすべてが破壊されていく。死にたい…。このまま死にたい…。大介へ肉欲が向・・
く。クーのプライドが薄れていく。・・・
「アー!」・・・
クーから漏れた。それは悲鳴ではなかった。肉体の歓喜の叫びだった。・・・
「アー、アー、アー!」・・・
大介の動きに合わしクーの叫びが次々に漏れる。もう抑えが効かなかった。クーは大介の背に爪を・・
立てた。クーの身体が大介の動きに激しく反応していく。噛んだ唇から血が漏れた。RIKI…。・・
いったいRIKIとは誰のこと…。呻きを悲鳴に隠した。自分をかろうじて止めた。精一杯の抵抗・・
だった。微かに残っているプライドの欠片だった。・・・
「アー…」・・・
RIKI…。誰なの…。クーの脳裏にあの夏の少年が浮かぶ。夏の日差しに透き通った瞳がクーの・・
意識のなかを揺れる。・・・
「アー、アー…」・・・
RIKI…。夏の日の少年とだぶる。アー、RIKI…。冬子の男だ…。男はそう言っていた。R・・
IKI。冬子を愛したようにあたしを愛して…。冬子を抱いたようにあたしを抱いて…。・・・
「アー、アー!」・・・
クーの叫びが激しくなる。RIKIと夏の日の少年がクーの中で一つになる。アー、RIKI…。・・
もっと…。もっと愛して…。・・・
「そうだ、もっと叫べ! もっと泣け!」・・・
クーの変化に大介も高ぶりを見せ始めていた。大介の責めが激しくなる。・・・
「アー、アー!」・・・
涙が思い出したように流れた。クーは大介にしがみついた。RIKI。あたしのRIKI…。クー・・
は少年を思った。クーは少年に抱かれていた。思い続けた儚い夢の中の少年がクーを激しく責めてい・・
た。・・・
「アー! アー!」・・・
RIKI…。RIKI…。クーは意識の中で叫び続けた。RIKI! RIKI! 少年の名だっ・・
た。RIKIがクーの上で笑っている。RIKIの目がクーを飲み込んでいく。・・・
「アー、アー…」・・・
RIKIの目が水晶に光る。すべての光をその目が吸収していく。クーは溺れた。少年の目の中で・・
溺れた。RIKIの光の中で揺れた。・・・
「アー、アー!」・・・
光の中は暖かかった。光の中ででもRIKIの責めは続いた。クーの欲情が止めどもなく燃え上・・
がっていく。燃え盛った炎が光となってRIKIの目へ吸い込まれていく。クーも少年も激しく生命・・
の槌音を響かせていた。クーはRIKIを抱いた。RIKIがクーに言った。もっと強く…。・・・
「アー! アー!」・・・
クーは両腕に力を入れた。RIKIが笑った。RIKIの責めが更に激しくなる。クーの全身が痙・・
攣する。小刻みに電流が流れる。・・・
「アー…。アー…。アー!」 ・・・
もっと強く! RIKIがもう一度クーに言った。なぜか悲しそうに思えた。クーは力の限りRI・・
KIを抱いた。RIKIの目の奥にもう一つの目が煌めいた。透き通っていた。・・・
「アー! アー! アー!」・・・
クーはその目を凝視した。悲しそうな目だった。それは少年の目ではなかった。冬子の目だった。・・
冬子の目が悲しそうに煌めいていた。RIKIの光の中で冬子の目がクーを誘っていた。果てしなく・・
透明に輝いていた。引き込まれた。クーは冬子の目に向かった。・・・
「アー! アー! アー!」・・・
今度は冬子がクーを責めた。アー、ママ、もっと激しく! クーの意識が遠ざかっていく。冬子の・・
責めはRIKIより激しかった。クーは冬子にしがみついた。クー、悲しい? 冬子がクーに囁いた。・・・
「ママ! 助けてママ!」・・・
クーのプライドが微塵も残らず飛び散った。クーは冬子の胸に埋もれた。ママ、助けて!・・・
「アー、アー、アー!」・・・
冬子の腕がクーの首に絡まった。力が徐々に入っていく。クー、悲しい? だったら抱いてあげる。・・
強く強く抱いてあげる。クー、悲しい? 冬子の胸で死にたいと思った。このまま首を絞め続けて欲・・
しかった。ママ、あたしを殺して! あたしを殺して!・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
その時、大介が果てた。雄叫びがクーから一瞬にして冬子を遠ざけた。クーは意識を失った。・・・
・・・
・・・
RIKIが中原のベッドに近付いた。病室にはベッドの中原ただ一人だった。倒した男をドアの側・・
のトイレへ押し込んだ。そして、ナースコールとセキュリティーコールと思われるボタンを中原から・・
遠ざけた。これで当分邪魔は入らない。RIKIはベッドの中原を覗き込んだ。・・・
中原は眠っていた。不規則な寝息が中原の涸れた唇から漏れている。RIKIはそんな中原を黒い・・
グラスを外し見入った。そばかすが中原の顔を飛び石のように埋めている。RIKIの思いの中原と・・
は程遠かった。深い皺が無尽に延び、赤黒くだらしなく開いている唇へと集まっている。口元に唾液・・
が白くこびり付いている。・・・
醜いただの老人だった。RIKIにとってまったくの意外であった。中原はRIKIにとって長い・・
時を過ぎようやく辿り着いた大きなものなのである。生きていることそのものを捧げた復讐の対象者・・
なのである。それが醜く涸れてしまっている。だらしなく病院のベッドで涎を白く浮かべている。R・・
IKIの中に別なる怒りが沸き上がった。RIKIは拳を強く握った。沸き上がる怒りを拳の力でか・・
ろうじて削いだ。・・・
「中原荘二郎…」・・・
RIKIの甲高い声が病室に響く。中原が少し動いた。首を微かにRIKIの方へ傾けた。その首・・
をナイフで裂いてしまいたい衝動がRIKIを襲う。中原の首は萎びていた。幾筋もの血管が隆起し、・・
たるんだ皮膚を引っ張り上げていた。・・・
「起きるんだ…」・・・
眉間にナイフで傷を付けた。うっすらと血が滲む。それでも中原は目覚めない。ナイフを持つ力を・・
増した。少しずつきり先を額の方へと滑らせた。・・・
「ウッ!」・・・
微睡みを抜けようとしている。滲んだ血が涸れた皮膚の上に現れる。・・・
「誰だ…」・・・
中原の目が開かれた。それは一瞬に変わった。眠る老人が瞬時に変身した。開いた目が今までの老・・
人の姿を完全に払拭していく。目に光が宿っていく。世間から怪物と言われた中原が目覚た。皮膚に・・
艶が走る。目に宿った光が中原の顔面の皮下に血液を素早く供給していく。唇に色が蘇っていく。・・・
「看護婦じゃなさそうだな…」・・・
枕元の眼鏡を中原は掛けた。そして、RIKIを凝視した。ナイフにはちらっと目を走らせただけ・・
だった。・・・
「RIKIか…」・・・
中原か微かに笑った。静かな笑みだった。怒りのRIKIにその笑みはゆっくり届いた。・・・
ナイフを引いた。自らの名を呼ばれてRIKIは戸惑った。中原の目がRIKIに吸い付いていく。・・
中原はベッドのリクライリングを上げた。額に乗ったままの一粒の血がゆっくりと中原の鼻筋から口・・
元へと流れた。・・・
「思ったよりお早いお出ましだ。さすがだ…。初めましてというべきかな…」・・・
中原の目がRIKIを圧倒していく。怪物たる所以の深い底なし沼のような瞳だ。RIKIが一歩・・
退く。中原の目がRIKIの中で大きくなっていく。・・・
「待っていたんだ、RIKI…」・・・
浴衣の襟を正していた。口元へ垂れた血を拭っていた。中原は何事もなかったように言葉を続けた。・・
しっかりとした低い声だ。・・・
「RIKI。よくここまで来てくれた…」・・・
ゆっくりと言った。変わらずに低いしっかりした声だ。・・・
「私はもう長くない。お前にこの場で殺されてもいい。いや、それを待っていたのかも知れない…」・・・
嘘だ! そう叫びそうになった。RIKIはかろうじて堪えた。・・・
時を稼いでいるのだ。この場で殺されてもいいだと…。中原とはそういう男ではないはずだ。階段・・
前で座っていた男たちが戻ってくる時間なのか、それとも箱崎が鍵の掛かった病室のドアを叩くこと・・
を待っているのか。殺されるのを待っていただと…。どうしたというんだ。どうして、中原はこれ程・・
までに冷静でいられるのだ…。・・・
「殺すなら殺せ。その理由はお前にはあるだろう…」・・・
そうだ、その理由はある…。当然のことだ…。RIKIは再びナイフを中原へ向けた。一息に中原・・
の額へそれを突き刺したかった。RIKIは耐えた。中原の表情に脅えがまったく見えない。RIK・・
Iへ向けた目に恐怖の色が微塵も見えない。・・・
中原は死を既に受け入れている。果てしない程の静かな表情だ。死に行く者にしか見えない真実の・・
表情だ。RIKIにはそう見えた。そう思えた。・・・
「RIKI。その通りだ。お前は今思った。私は死を既に受け入れていると…。死に行く者の真実の・・
表情だと…。その通りだ、RIKI…」・・・
思いを読み取っていた。RIKIの背に軽い震えが走った。中原が途轍もなく大きく見えた。死す・・
ることすら恐れていない。中原がRIKIに凄い圧力となった。中原が膨れ上がっていく。警戒が緩・・
んでいく。時を稼ぐ…。そんなこと思っているはずがない。RIKIが中原に引きずられていく。・・・
「お前の思いが見える。そうだ、時を稼いだりしていない。私はお前に刺されていいのだ。私への怒・・
りがはっきりと見える。RIKI…。今、この場で私をやるか? そのナイフで私の額を貫くか? ・・
それとも、私の話を聞いてからにするか? 私はどちらでもいい。あの世とやらへ早く生きたくなっ・・
ている。昔の仲間たちが多く待っている。私は疲れ切った。お前にやられるなら本望だ…」・・・
RIKIの怒りが肩すかしを喰らったように揺れた。怒りの対象を目の前にしてRIKIは怯んで・・
いた。どうしたというんだ。長い時を、そう、長い時を耐えたのではなかったのか…。この時のため・・
に…。この一瞬のために…。RIKIはほぞを噛んだ。ナイフを握った手に力が入る。・・・
「お前とは少し前に話し合うべきだった。いや、それは不可能だった。お前は私の前から消えた。私・・
とお前が始めて会うという日に」・・・
中原の声が更に静かになっていく。RIKIの背に走った震えが消えていく。中原の真実の話をR・・
IKIは受け入れようとしていた。それへの戸惑いが真実へ向いて徐々に姿を消していく。・・・
「RIKI。はっきり言っておく。私はお前にこの場で刺される。何度も言うがそれは本望なことだ。・・
そうしてくれ。しかし、お前はまだ本当のことをまだ知らない。私を殺しても本当にお前の復讐は・・
成ったとは言えない。私以外にも怒りの対象は他にある。いや、それこそが真の復讐への道だ…」・・・
RIKIの中で激しい葛藤が繰り返されていた。真実と嘘が頭の中で渦巻いていく。時を逃すな。・・
チャンスは何度も訪れない。今だ。中原をやるのは今しかないのだ。中原の話を受け入れようとする・・
RIKIはもがいていた。殺人兵器と仕込まれたRIKIの身体に染み込んだ教えがそれを邪魔する。・・
時を逃すな!・・・
「不破も竹中も知らないことがある…」・・・
中原がタバコを取り出した。うまそうに煙を吐いた。そんな中原の余裕が逆にRIKIにも落ち着・・
きを生ませた。時は逃げない。元々玉砕のつもりではなかったのか…。そうなのだ。生命は捨ててい・・
る。この距離なら時を逃がすことはない。・・・
そう、どんなときも冷静に…。叩き込まれた中で最も重要なことだ。冷静に…。そうなのだ。一瞬・・
の時さえあれば中原を仕留められる。瞬時に中原を殺せる位置にいる。RIKIが冷静さを取り戻し・・
ていく。RIKIは意識を中原の話に傾けた。中原から吐き出るタバコの煙がはっきりと見えた。・・・
「少し長くなるが真実を聞くか? それとも、そのナイフで私を貫くか?」・・・
外していた黒いグラスをRIKIは再び鼻の上に乗せた。そして、ゆっくりと手に持ったナイフを・・
ベッドの端に突き立てた。・・・
「聞こう…」・・・
RIKIは中原に軽く頷いた。RIKIの中で大きく見えていた中原が元の老人へと静かに戻って・・
いく。中原の額から二粒目の血がじわりと流れ始めていた。・・・
・・・
・・・
メルセデスの後部座席から男が引きずり降ろされていた。箱崎がそれを見下ろしている。竹中は記・・
憶を辿った。微かな月明かりに見えた男の表情が竹中の意識に触れた。見覚えがある。竹中は闇の中・・
で息を潜めた。・・・
中原御殿の駐車場だった。竹中は中原を探っていた。竹中が身を寄せている組織からの指令だ。中・・
原の死期が近い。組織はその情報を掴んだ。組織にとって中原の死はあることを意味する。事が動き・・
始める。竹中は京都へ飛んだ。中原御殿を張った。・・・
御殿の主人は留守のようだった。やはり入院している。竹中は北山中原医院に向かおうとしていた。・・
その時にメルセデスが戻った。・・・
箱崎が男を足蹴にした。既に男は抵抗する術を奪われているようだ。低いうめき声だけが聞こえる。・・
竹中は音を立てないように闇を移動した。昨日の雪が少し地面に残っている。雪にどこからかの光が・・
射し、竹中の足下を仄かに照らしている。それを頼りに駐車場の門へとゆっくりと滑った。竹中の成・・
すべきことは中原の調査だ。箱崎など関係ない。竹中は予定通り中原医院へ向かおうとした。・・・
叶わなかった。メルセデスの運転手らしき男が素早く駐車場の門を閉めた。竹中は足止めを喰らっ・・
た。門を越えることは可能だ。しかし、箱崎に感付かれてしまう。竹中は待った。箱崎がいつまでも・・
この場で大きな声を出し続けることはない。竹中は闇の中で一つ苦笑を漏らした。・・・
見覚えのある男のことが気に掛かっていたのだろう…。竹中は門の手前の木の陰に沈んだ。その位・・
置から男の姿が見えた。竹中は箱崎たちへ意識を集中させた。・・・
「探偵が、なぜ、おれを狙う。言え! 江藤!」・・・
周りの静けさにその声は竹中にもはっきり届いた。男は江藤という名のようだ。竹中は自らの記憶・・
にその名を探した。しかし、それはすぐには現れなかった。・・・
竹中の位置からはメルセデスのテールが見える。距離にして10メートル程だ。・・・
「言え!」・・・
箱崎が江藤の腹に膝を突き立てた。江藤が崩れる。・・・
「箱崎…。おれの顔を忘れたか…」・・・
江藤が体勢を立て直す。江藤は箱崎へ激しい憎悪を向けている。竹中の位置からでもその激しさが・・
見える。箱崎へ向けた目に鋭い程の怒りを感じる。江藤は続けた。絞り出す江藤の声は低く重かった。・・・
「忘れたとは言わさない…」・・・
江藤が箱崎に体を寄せた。江藤の腕は後ろ手に固定されている。肩を振り箱崎への対抗を試みてい・・
る。竹中の記憶がめくれていく。江藤…。江藤…。井ノ口晋太郎の娘婿もたしか…。竹中の脳裏に二・・
十数年の前のことが浮かぶ。江藤…。箱崎…。井ノ口…。そして、中原…。・・・
「二十六年前のことだ…」・・・
江藤の声に箱崎が攻撃の手を緩めた。二人の男が江藤の両肩を押さえる。箱崎が江藤の話に反応し・・
ていく。二十六年前…。竹中の記憶もその当時に焦点が合っていく。・・・
「おれの子をどうした!」・・・
江藤が再び膝を折った。箱崎の肘がその前に江藤の顔を通り過ぎていた。箱崎が二人の男を江藤か・・
ら遠ざけた。江藤の頭の上に箱崎の笑いが漏れる。ひきつった笑いが徐々に膨れる。・・・
「ハハハハ…。ハハハハ…。ハハハハハ…」・・・
意外な笑いだった。箱崎はこのような笑いを知らない男だった。竹中の知る限り、箱崎の笑いは箱・・
崎の体内から出ることはなかった。喉と目尻だけの笑いだった。箱崎は笑いさえ緊張をのなかに閉じ・・
こめていた男だ。竹中には意外だった。・・・
「ハハハ、ハハハ、ハハハハ!」・・・
笑いが大きくなっていく。竹中の脳裏にも、その笑いが激しい不快となって押し寄せる。竹中はそ・・
れから意識を外した。外した時に過去が弾けた。江藤の苦渋の表情に竹中の理解が電光となった。・・・
―RIKI!・・・
RIKIだ。竹中は江藤という名を思い出した。二十六年前のことだ。井ノ口の娘が奪われた。当・・
時、竹中はそれは中原が仕組んだことのような思いを持っていた。出産前の井ノ口の娘を奪い井ノ口・・
との取引を有利にする。中原の仕組みそうなことだ。腹の子は死産でもしたのだろう。竹中はそのよ・・
うに考えていた。その事件から井ノ口は中原の前に姿を見せなくなった。井ノ口が中原に屈したもの・・
だと思っていた。・・・
あの時の子が生きていたのだ。RIKIだ。RIKIがあの時の子なのだ。間違いない。江藤はR・・
IKIと同じ表情を見せている。苦渋に歪んだ江藤の顔はRIKIの怒りの表情と同じだ。RIKI・・
が自分に時折見せた憎悪のこもった目と同じなのだ。・・・
月明かりにどこかで見た顔だと思った。江藤の中にRIKIの面影があった。親子だ。間違いない。・・
RIKIは今の江藤と同じ目をしている。長くRIKIに関わった竹中には、それがはっきりと見え・・
る。あの時の子が生きていた。RIKI…。RIKIは江藤という男の子なのだ。・・・
「ハハハ、ハハハ、ハハハハ!」・・・
箱崎の笑いが続いていた。箱崎にもそのことが分かったのだろうか…。自分の奪った子の父親が自・・
分に復讐を企てている。箱崎には果てしなく愉快なことなのだろう。奴の血は赤い色をしていない…。・・
透明な液体だ…。中原が時折そう言っていた。竹中はそれを思い出した。・・・
江藤はRIKIの父親だ。箱崎が奪った井ノ口の娘が産み落としたのだ。その子がRIKIだった・・
のだ。竹中の背が微かに震えた。江藤の執念ともいえる箱崎への追跡に恐れすら感じた。江藤は二十・・
六年もの過去のことを風に流さずにいた。まだ見ぬ我が子を諦めてはいなかったのだ。・・・
「ハハハ…。ハハハ…」・・・
箱崎の笑いが収まろうとしていく。冷たい風が影に潜む竹中にまで吹いた。・・・
「RIKIの親父か…。あの時の間抜けな警察官か…」・・・
箱崎が江藤の髪の毛を掴む。竹中はRIKIを思った。竹中も不破もRIKIを愛した。RIKI・・
の思いを理解していた。RIKIを二人で逃がした。・・・
「お前の子は殺人者として育てられたのだ…。ハハハハ!」・・・
江藤がメルセデスから3メートル程飛んだ。箱崎の右ストレートが炸裂していた。・・・
「敵討ちか…。笑わせるな!」・・・
それからの行動は竹中自身にも説明の付かないことだった。竹中は無意識に闇を蹴った。・・・
「箱崎!」・・・
竹中はメルセデスを回り込み箱崎の喉に匕首を当てた。・・・
「乗るんだ!」・・・
江藤にメルセデスを促した。箱崎に当てた匕首に力を入れた。・・・
「早くしろ!」・・・
江藤が驚きの目を竹中に向ける。箱崎が反撃を伺っている。竹中は箱崎の喉を少し裂いた。・・・
「何じゃ、貴様! 何さらすんじゃ!」・・・
運転手が叫んだ。箱崎がそれを目で制した。箱崎は分かっていた。動かなかった。竹中…。小さく・・
竹中の名をこぼした。・・・
「早く車に乗れ! 死にたいのか!」・・・
今でもRIKIのことを理解している。RIKIを守ってやりたいと思っている。竹中は改めてそ・・
う思った。RIKIの父親が分かったのだ。RIKIに知らせてやりたい。竹中の心理が蠢いていた。・・
江藤がメルセデスに乗り込む。その姿がRIKIにだぶる。・・・
「門を開けろ!」・・・
竹中は箱崎の懐から拳銃を奪った。箱崎の呼吸が竹中に届く。・・・
「箱崎。この男は逃してやれ…。お前をやる程の腕はない…」・・・
メルセデスに乗る。拳銃を箱崎に向けアクセルに足をかける。江藤が助手席で荒い息をしている。・・・
「早く門を開けろ!」・・・
竹中は何かの激しい渦に巻き込まれていく自分を感じていた。その渦の中央にはRIKIがいる。・・
竹中は一つ微笑んだ。運転手が門をゆっくりと開けていた。・・・
・・・
(2)・・・
・・・
RIKIにとって真実は依然闇の中だった。中原の話は続いていた。それはRIKIにとってまっ・・
たく意外なものであった。不破の話とは違っていた。いや、不破の話より深い裏があった。・・・
中原はRIKIに恐れを見せていなかった。時折、RIKIは中原の喉へナイフを当てた。嘘を言・・
うな…。その都度、中原は小さな笑みを作った。嘘じゃない…。中原の自信げな笑みがRIKIを苛・・
立ちに誘った。RIKIは思いを巡らせた。中原の話に意識を傾けた。・・・
「大城憲一郎。奴こそが怪物だ。私は奴の手足に過ぎなかった」・・・
それは嘘ではない…。RIKIの意識の回路にそう流れる。嘘ではない…。中原の目がRIKIに・・
真っ直ぐ届く。RIKIの直感がそれをしっかりと掴む。嘘ではない…。中原は死を受け入れている。・・
死へ向かうただの老人になっている。・・・
「そうだRIKI。人間寿命というものがある。私は後一日二日だ。この瞬間も、癌細胞が私の身体・・
を粉々にしていくのが分かる。よく持って二日だ。私には分かる」・・・
中原は饒舌だった。生への最後の執着なのだろうか、何度もRIKIの手に触れようとしていた。・・・
「お前を待っていた。癌にやられるより、お前にやられたい。そう思った。そして、お前に託したい・・
ことがある」・・・
中原の姿が小さくなっていく。中原が目覚めた時のあの威圧感が薄れていく。中原が痩せていく。・・・
「お前の父親は江藤栄一という男だ。江藤もそれを知るだろう。私が餌を投げた。江藤は箱崎を追っ・・
ている。そして、母親は江藤芳子。旧姓井ノ口芳子。病院に眠ったままだ」・・・
父の名を生まれて始めて聞いた。母の名を生まれて始めて聞いた。RIKIの胸に乾いた風が吹き・・
抜けた。何の感情もなかった。RIKIは父というものを知らない。母の温もりを知らない。それは・・
ただの名だった。RIKIという名と同じ一つの符号に過ぎなかった。・・・
「お前の母親、芳子の父が井ノ口晋太郎…。つまりお前の祖父に当たる男だ。私とは戦後の混乱期に・・
知り合った…」・・・
祖父と言われて更に乾いた風がRIKIに吹いた。祖父が父母より遠いことがRIKIにも理解で・・
きた。強く苛立った。父母が祖父より近くに感じられたのだ。顔も声も何も知らない父母を、同じく・・
顔も声も何も知らない祖父より身近に感じたのだ。不思議な思いだった。感情の激しい変化がRIK・・
Iを襲い始めていた。・・・
「井ノ口は狡猾な男だった。私らの組織の中心メンバーだ。私とはよく対立した」・・・
RIKIは脳裏に霞む父母を無理に追い出そうとした。何が言いたいのだ中原は…。RIKIの苛・・
立ちが大きく揺れ続ける。・・・
「その頃の私らは、占領下の東京であらゆる諜報に関わっていた。スパイだ。地下に潜る旧軍閥や右・・
翼の系統。それに繋がる財閥。あるいは共産党。それらの国家主義の一掃に一役買ったのだ。私らは・・
GHQ、日本占領軍総司令部の旗の元で動いた。知っているだろう、GHQ。その長が、ダグラス・・・
マッカーサーだ…」・・・
RIKIの意識に父母が再び遠くなった。父母の代わりにコーン・パイプを手にしたマッカーサー・・
が飛行機のタラップから降りる姿が浮かんだ。レイバンのサングラスのマッカーサーが父母よりも確・・
実にはっきりと浮かんだ。RIKIは中原の話に引き込まれていく。まだ見ぬ父と母がその裏に揺れ・・
る。RIKIは口を挟まなかった。中原が続けた。・・・
「GHQのなかにG2、参謀部第二部・作戦部という諜報機関があった。米国CIAが我が国にやっ・・
てくる以前の話だ。私らはそのG2の指示の元で諜報活動を行った。戦前の秩序を新しい民主化とい・・
う言葉の元へと移行させる。米国占領下の日本で地下に沈んだ不穏分子を炙り出しだ。私らはあらゆ・・
る手を使い諜報活動を進めた。行動の中心になったのが、私と井ノ口、他二三人のメンバーだ。その・・
中に久保山剛蔵もいた。自由党の前の副総裁。今でも闇のキングメーカーと呼ばれている久保山剛蔵・・
だ」・・・
RIKIの脳裏からマッカーサーの姿が消えた。代わりに久保山剛蔵の亀のような顔が浮かんだ。・・
数年前、マスコミを賑わしたゼネコン疑惑の中心人物だ。目の前の中原に似てなくもない。・・・
「諜報活動の傍らで私らは金になることなら何でもした。バックにはGHQが付いている。恐いもの・・
などなかった。ほとんどの物資を動かした。知っているように戦後の物のない時代だ。私らは莫大な・・
金を掴んだ。GHQ、あるいはG2の名を利用すれば金など向こうから流れ込んできた。細かな内容・・
はいいだろう。お前には何の関係もないことだ」・・・
そうだ、何も関係ないことだ。話が見えてこない。RIKIは目で中原を急かした。苛立ちが自分・・
の中に止まらなくなるのを感じた。・・・
「私らの組織の長に立っていたのが大城だ。GHQとの橋も大城が築いた。大城がすべて私らの行動・・
を仕切った。大城の言う通りに動けば結果は思いのままだった。大城は魔術師だった。先を読む能力・・
が人より数十倍鋭かった。そして、大城という男は誰よりも激しいエゴの持ち主だった。欲望…。そ・・
れが大城の糧だった。大城は自分の欲するものは何でも手に入れた。私の女も奪われた。久保山の女・・
も井ノ口の女も奪われた。私らは大城にとってただの手足だった。大城に屈するしかなかった。大城・・
は怪物だ。誰も大城には適わなかった…」・・・
ここで中原は話を切った。目が遠くなっている。当時を思い浮かべているようだ。遠くなった目の・・
下に微かな笑みがRIKIには見えた。・・・
「私らは金を掴んだ。それぞれのメンバーたちは思い思いの行動をとり始めた。大城への恐れから大・・
城を徐々に避けていった。私は建設会社を設立した。しかし、大城の影に悩まされ続けた。大城が話・・
をでっち上げるだけで私らは闇に葬られてしまう。大城はG2の内部に入り込んでいた。G2が本気・・
で動けば私らなど一瞬にして踏みつぶされてしまう。大城は私らからも金を奪った。恐ろしい男なの・・
だ。大城は徐々に闇に君臨していった」・・・
中原が更に小さく見えた。大城…。この男が恐れた男…。男の影がRIKIに揺れた。闇に霞んだ・・
父母と同じように揺れた。・・・
「そんな大城にいつまでも縛られるのは、私らにとって耐えられないことだった。私の建設会社も軌・・
道に乗り出していた。井ノ口は井ノ口なりに自らの諜報のフィールドを拡げていた。そして、久保山・・
は選挙への準備で金をばらまいていた。私らにとって大切な時期だった。・・・
そんな時、大城は私の家に来た。有無を言わせない調子だった。私に拳銃を向け、私の目の前で私・・
の妻を襲った。私は催眠術でも掛かったように動けなかった。大城は妻の中で果てた。妻は大城の子・・
を身ごもった」・・・
中原が再び話を切った。間が先程よりは多く空いた。RIKIは待った。依然、話は見えないもの・・
の大城という男に興味を覚えた。あるいは、自分の目指すものは大城かも知れない。そんな思いがR・・
IKIの中でゆっくりと膨らみ始めていた。・・・
「大城を亡き者へ…。私は思い切って久保山と井ノ口に話をした。驚いたことに、二人共私と同じ思・・
いだった。大城への憎悪が三人の中で固まった。・・・
ある日、私らは大城を呼びだした。死んだ仲間の墓前へと誘った。不意打ちだ。墓前に立つ大城へ、・・
井ノ口が後ろから二発拳銃を放った。しかし、大城は立ったままだった。笑ったままだった」・・・
中原の目に変化が見られた。恐れらしき色が揺れている。RIKIはその意味を探った。それが真・・
実なのか…。RIKIは少し身を乗り出した。・・・
「あれ程、恐ろしかったことはない。私らは逃げた。転げるように墓地を駆けた」・・・
少し血圧が上がっているのだろう。中原の息が荒くなっている。肩の震えがRIKIにも見える。・・・
「大城が消えた。死んだのか分からなかった。井ノ口は言った。弾は心臓を貫通したはずだ…。私ら・・
から大城への恐れが遠ざかっていった。大城は現れなかった。やはり、死んだものと思っていた。・・・
しかし、大城は死んだりしていなかった。あの悪魔は銃弾にも倒れなかった。二年後に私の前に現・・
れた。やつれてはいたが、目だけが以前の輝きをそのままにしていた。再び私に苦悩の日々が訪れた。・・
大城は、久保山にも井ノ口にも自分が生きていることを絶対に明かすなと言った。私はそれに従った。・・
大城に嘘は通用しない。すべて大城は見抜いている。私は本当に大城を恐れていた…」・・・
大城…。それがいったい自分とどう関わりがあるのだ…。RIKIは中原から目を逸らした。自ら・・
の苛立ちをどうにかして消したい。・・・
「なぜ、私だけに…。そう思った。RIKI…。そのことがお前に関わっていたのだ…」・・・
どういうことだ…。苛立ちをそのままにした。消えていかなかった。RIKIは視線を中原へ戻し・・
た。中原の荒れた息が収まっていく。肩の震えが静かになっていく。・・・
「私の妻は大城の子を宿った。しかし、幸か不幸かその子は流れた。それを大城は知っていたのだ。・・
大城は言った。お前の所は流れたが、井ノ口と久保山の所は無事生まれたようだ。そして、二人とも・・
わしの子を自分の子と信じ育てるようだ…。なんと、大城は久保山の妻も井ノ口の妻も襲っていたの・・
だ。井ノ口も久保山もそのことは知らない…。お前の時のように目の前ではやらなかった…。大城が・・
本当の鬼に見えた時だった。・・・
私は背が冷たくなるのを覚えた。更に、大城は久保山や井ノ口の妻にも脅しをかけていた。おれの・・
子を生むのだ…。何喰わぬ顔で育てるのだ…。亭主に知らせれば亭主はその時から失速することにな・・
る。おれの恐ろしさは女のお前でも知っているはずだ…。鬼と悪魔が私の中で一つになっていた。女・・
たちは当然の選択をしたようだ…。大城は愉快そうに笑っていた」・・・
RIKIの思考回路の一つが高速に回転する。なぜ、そのことが自分に関わっているというのだ…。・・
何十年も昔の話ではないのか…。何かが回転する思考回路に引っかかる。苛立ちの中にそれは見えて・・
は来ない。中原が続けた。・・・
「大城はその子たちを見たという。自分に似ていた。井ノ口の子は女。芳子と呼んでいた。久保山の・・
子は男。竜太郎と呼んでいた。そう大城は言った」・・・
竜太郎…。久保山竜太郎のことか…。キングメーカーの息子。現在の自由党政調会長の久保山竜太・・
郎のことか。RIKIの記憶に竜太郎の名はあった。・・・
「それ故に、私の所へ大城は来たのだ。私の所に大城の子はいない。久保山と井ノ口への切り札は・・
取っておく。大城らしいやり方だ。大城は私に自分が生きていることを極秘にせよと言った。私は再・・
び大城への恐怖で金縛りになった。しかも、今度は私一人だった。久保山も井ノ口もにそのことは打・・
ち明けられなかった」・・・
中原がベッドに大きく身を乗り出した。RIKIを真っ直ぐに見た。RIKIに緊張が走る。中原・・
の次の言葉が今の話と自分との関わりを明らかにする。RIKIも中原を真っ直ぐに見た。・・・
「その目だ。RIKI…」・・・
中原がRIKIの目を指さした。小刻みに震える中原の指がRIKIの目の前に揺れる。・・・
「井ノ口の娘は江藤という男に嫁いだ。お前は江藤栄一の子だ。井ノ口芳子の子だ。やはり、大城の・・
言ったことは嘘ではなかった。お前を見て私は確信した…」・・・
どういうことだ…。RIKIの目の前に揺れる中原の指が中原の表情を隠してしまっていた。RI・・
KIはその指を払った。中原の表情に変化は見えない。・・・
「井ノ口芳子…。お前の母親は大城の子だ。井ノ口の妻を大城が犯してできた子だ…。RIKI…。・・
つまり、お前は大城憲一郎の孫にあたるのだ」・・・
中原の指がRIKIの前に戻った。RIKIはそれから視線を外した。激しく回転する思考回路に・・
軋みが感じられる。RIKIの表情が歪んでいく。・・・
「まさしく、その目だRIKI…。お前の目は、まさしくあの怪物、大城憲一郎の目だ!」・・・
大城憲一郎の目…。いったいどういうことだ…。RIKIの声にならない叫びが中原には聞こえて・・
いるようだった。中原の指の震えが大きくなっていた。・・・
・・・
・・・
「RIKIという。あなたの子の名だ…」・・・
江藤を乗せたメルセデスは竹中のハンドルのままに京都の夜を走り続けていた。・・・
「あなたは誰だ。どうして私を助けた…」・・・
江藤がしきりにその質問を発していた。まだ脇腹が痛むようだ。時折荒い息と共に身をくねらせて・・
いる。肋骨にヒビでも入っているのか、小さな呻きが微かに漏れる。・・・
「RIKIは生きている。あなたとは少し違う世界に生きている」・・・
江藤が竹中の方へ視線を移した。竹中にそれが分かった。竹中の言葉に江藤は鋭く反応している。・・
荒い息が徐々に収まっていく。・・・
「RIKIはあなたとは違う世界に生きている…」・・・
竹中は同じ意味の言葉を二度言った。危険な世界だ…。あなたの力ではどうすることもできない…。・・
竹中はそのことを江藤に伝えたかった。・・・
「RIKIはあなたのことを知らない。今更、報復してもどうなるものでもない…」・・・
そう、報復などどうなるものでない。ただ、自分への満足だけだ。竹中は今までの人生の中でそれ・・
を学んだ。・・・
そうなのだ…。報復という思いは果てしない時の流れの中に胸に抱け続けることなどできない。時・・
の無限な流れに必ず風化していく。抑えきれない憎悪の思いも時と共に吹く風に消えていく。竹中は・・
江藤に言葉を伝えながらそんな思いに引き込まれていた。・・・
「諦めるのだ…。忘れることも自分のためだ…」・・・
江藤が竹中の腕を取った。ハンドルがぶれる。江藤の目が竹中にへばりついていく。・・・
「無駄だ。あなたにはどうすることもできない…」・・・
江藤の目に激しい怒りの光が宿っている。長い時を越えた熱い執念を光に抱いている。それが竹中・・
には感じられた。若き頃の自分にもあった光だ。いや、あったはずの光だ。・・・
「どういう意味だ…」・・・
ハンドルがもう一度ぶれた。掴んだ腕を江藤が激しく引いた。・・・
「忘れることだ。あなたの子は生きている。それが分かっただけでいいではないか…」・・・
竹中に子などいない。江藤の執念とあの頃の自分の熱さとは質が違うのか…。竹中には理解できな・・
かった。子を思う親…。そんな思いは分からなかった。忘れることだ…。・・・
しかし、江藤の思いはそんな簡単な言葉では済まされないことのようだった。二十六年だ。あまり・・
にも長い年月だ。果てしない時と遥かな距離を持ってしても子を思う親の思いは届くのだろうか。い・・
や、違う世界に切り裂かれても親子の絆とは細い糸で繋がり続けているのだろうか。竹中は江藤の目・・
に宿る執念の光にそれを思った。・・・
「どういう意味だ…」・・・
江藤に少しの冷静が戻る。竹中の腕を放した。話に意識を向けている。・・・
「世界が違うのだ。忘れろ…」・・・
二十六年だ…。あまりにも長い。遥かに隔てた時間を江藤は消し去ってはいない。江藤の中にRI・・
KIは生き続けている。RIKIという名ではなく、江藤の思いの姿のままで江藤と共に時を流れて・・
きたのだ。世界が違う…。忘れろ…。自分の吐いた言葉が浮ついた軽い言葉に思えた。竹中はメルセ・・
デスを路肩に止めた。・・・
「RIKIはおれが仕込んだ。殺人兵器だ。裏の世界で生き抜くためのあらゆる術をRIKIに叩き・・
込んだ。RIKIはそれに耐え抜いた。RIKIならばこそ耐えられたのだ。生まれながら孤独なR・・
IKIでこそ耐えられたのだ。RIKIはオオカミに育てられた。戸籍はない。当然、学校へなどは・・
行かない。友達などいない。幼い遊びも知らない。いつも一人だ。孤独だけがRIKIの側にあった。・・
そんなRIKIだからこそ耐えられたのだ。RIKIの育った世界はまったくの闇の世界なのだ…」・・・
江藤が耐えていた。竹中の話に拳を強く握っていた。竹中は続けた。RIKIの父親へのせめても・・
の償いのつもりになっていたのかも知れない。竹中は珍しく饒舌になっていた。・・・
「RIKIはすべてを吸収していった。何も知らないRIKIは、時の流れの中で強くなることだけ・・
を考えていた。強さがすべてを制す…。RIKIはそう思っていた。RIKIは優れていた。殺人兵・・
器として、おれの思うように仕上がっていった」・・・
江藤の肩が震えだした。唇を強く噛んでいる。こめかみに細かい血管が浮き上がっていく。・・・
「しかし、RIKIはおれから離れていった。いや、我々の組織から逃げた。おれは追わなかった。・・
RIKIが自我というものを見付けたのかも知れない。RIKIに自由というものを見せてやりた・・
かった。RIKIは十分に苦しんだ。いや、果てしない程の悲しみを味わった。RIKIは逃げた。・・
自由へと駆けたのだ…」・・・
ドアのロックを外した。竹中は江藤を見た。江藤はフロントガラスの光を凝視している。・・・
「RIKIは、もう、あなたのいる世界へは戻ることのない人間なのだ。RIKIの自由は闇の中で・・
の自由なのだ」・・・
降りろ…。話は終わった…。竹中は江藤を振り切った。江藤がちらっと竹中を見た。・・・
「忘れることだ。それがRIKIにとってもいいことだ…」・・・
江藤がドアに手を掛けた。竹中を振り返る。目の光が竹中に揺れた。・・・
「おれの子の名はRIKIではない。あの子にはまだ名がない…」・・・
ドアが開いた。江藤の腰が浮く。・・・
「そして、忘れることなどできない…」・・・
ゆっくりとドアが閉まった。竹中はメルセデスを出した。揺れていた江藤の目の光の残像が、街の・・
光へと、江藤の背と共に消えていった。・・・
・・・
・・・
クーは大介に引きずられるように新幹線に乗った。グリーン車まで混んでいた。最終のようだ。ア・・
ナウンスの声がそれを告げている。・・・
大介はクーを窓際へ座らせた。車窓から恋人たちの別れを惜しむ姿が見えた。クーはそれから目を・・
逸らした。世界の異なる者たちが同じ箱に乗りこもうとしている。クーには叶うはずのない平穏を・・
持った者たちが同じ方向へと電車に乗る。なぜか驚きだっだ。・・・
何もかもなくした気になっていた。クーは窓に写る自分の顔を眺めた。悲しかった。窓に写る顔が・・
泣いているように見えた。泣くことによって自らの存在が溶けてしまったらいいと思った。涙が自ら・・
のすべてを流してくれればいいと思った。クーの悲しみは静かにクーの中を漂っていた。・・・
二度目の大介の責めにクーはすべてを話した。耐えきれなかった。女の喜びに全身が浸った。大介・・
の名を呼んだ。RIKIの名を呼んだ。クーの肉欲が激しい程大介に向いた。あの夏の少年に向いた。・・
そして、RIKIに向いた。・・・
貫かれながら少年のことを話した。話さなければ大介が動きを止めた。クーは泣いた。自らの中の・・
情欲を激しく恨んだ。大介の背に爪を立てた。話すから…。何でも知っていること話すから…。クー・・
は縋った。ただの雌猫になって大介を求めた。・・・
少年とRIKIがだぶっている。あの夏の日の少年が自分の中でRIKIという名になっている。・・
そして、今、激しくあたしを貫いている…。だから、もっと激しく…。それは悲鳴だった。RIKI。・・
RIKI…。繰り返しその名を呼んだ。・・・
少年とは祖父の別荘で会った…。京都よ、京都…。祖父はその少年を捜しているの…。少年は祖父・・
の元から消えたの? 知りたいことを悲鳴に乗せていた。クーは、もう少年とRIKIの重なりを不・・
思議とは思わなくなっていた。少年はRIKIだ。RIKIは祖父から去った。祖父の組織から去っ・・
た。そのことがたまらなく嬉しかった。上に乗る大介へ、いや、祖父の組織の者たちを大きく笑い飛・・
ばしてやりたかった。悲鳴が徐々に綻びていった。笑いが混じった叫声へと狂い始めていった。・・・
大介が果てた。大介は笑ったままだった。クーはその時の大介の笑いを忘れないだろうと思った。・・
恐ろしい笑いだった。目が底なしの暗闇を抱いていた。人としての精神が正常に機能していないよう・・
に見えた。大介なら平気で自分の母親でも犯すだろう。そんな笑いを大介は持っていた。・・・
祖父の話が出たので、大介がクーをマンションから連れ出した。じいちゃんに会いたいだろう…。・・
大介はクーを小太り男の運転するメルセデスに放り込んだ。・・・
事が繋がっていく。RIKIがあの少年だとすれば大介が祖父を知っているはずなのだ。大介はR・・
IKIを捜している。祖父の元にいた少年を捜しているのだ。大介と祖父の接点が見えた。・・・
それ程の驚きではなかった。クーは祖父の元から逃れたつもりだけだったのだ。祖父の元から逃れ・・
られるなど心の底では思っていなかったのだ。恐ろしい祖父…。いつかはこんな日が来ることを知っ・・
ていた。しかし、それがあの少年と関わりのあることとなるなんて思わなかった。・・・
クーは悲しさを振り切った。京都から新宿まで追った時の少年が脳裏に浮かんだ。・・・
最終の新幹線がホームを出た。京都へ向かうのだ。すべての始まりとなった京都だ。クーは大介を・・
見た。大介の鋭い視線を感じた。車の中では見せなかった表情だ。非情な笑いを押し殺しているよう・・
な面だった。ふと思った。祖父に似ている。同じような残忍な陰が瞳の中に揺れていた。・・・
「中原久美子…」・・・
大介がクーの名を呼んだ。クーの膝に手を乗せ表情を崩した。・・・
「まさか。まさか。まさかだ…。ハハハハ…」・・・
大介の崩れた表情がクーの悲しみを飛ばした。憎悪と憤怒が混じり合い大介へと向かった。・・・
「じいちゃんは死にかけているぜ…」・・・
平手を大介へ飛ばした。クーの怒りがその手に乗った。乾いた音が車内に弾けた。・・・
「ハハハ…。そう起こるなって。じいちゃんに会わせてやると言っているんだぜ…」・・・
もう一度手を振った。しかし、二度目のそれは空を切っただけだった。二人の間に沈黙が漂った。・・
長い沈黙だった。クーは無理に目を閉じた。時間の流れに微睡みがクーにも押し寄せてきていた。・・・
「少年のことだ…」・・・
沈黙は大介が破った。新幹線のスピードが上がっていた。それまで大介は沈黙の中、眠っていたよ・・
うだ。・・・
「少年のことをもう少し聞かしてもらおう…」・・・
突然、大介の目の奥の光がクーに向いた。大介の目覚めは素早かった。クーの背に冷たさ走った。・・・
「言え…」・・・
大介がクーの前で大きくなっていく。何時間の獣の姿へと戻っていく。阿修羅のような影がクーを・・
包んでいく。・・・
「あんたには関係ない…」・・・
大介が笑った。白い歯がやけに目立つ。大介がクーの手首を捻りあげた。・・・
「そう突っかかるな。お前の言っていた少年のことを知りたいのだ。言わなければいたい目に遭う。・・
分かったな」・・・
大介が手を離した。手首の激痛が去った。クーは頷いた。狂気への抵抗が見つからなかった。・・・
「分かった。言うよ…」・・・
自分の声が不思議に聞こえた。あまりにもスムーズに口元より流れ出た。驚きだった。クーは戸・・
惑った。意味もない不安が自らへ向く。自分の変化の渦の激しさに焦りを感じる。・・・
「あの人…、いや、あたしの中には少年。そして、今はRIKIという名を持った。そう、そのRI・・
KIとは夏の日に会った。暑い日だった。祖父の別荘。京都…」・・・
京都という言葉を使った時、自分はそれへと向かっていることを改めて思った。クーは窓の外を見・・
た。車窓に東京の夜が過ぎていく。あの日と逆だった。少年を追った日は東京の夜が近付いていた。・・・
「あたしがまだ中学のころ。少年は二十歳前くらいだったと思う。でも、あたしには少年に見えた。・・
目が空のように澄んでいた…」・・・
言葉が続く。自然に自分の言いたいことを話せる。クーの戸惑いが更に大きくなる。・・・
「きれいな目だった。目だけを見ていた。そう、少年の何も見ていない。澄んだ光が揺れていた目だ・・
けを見ていた…」・・・
戸惑いが愉快にすら思えてきた。言葉は止まることをしなかった。そして、澱むこともしなかった。・・・
「そうよ、目よ。あたしは惹かれた。宝石だった。輝きがあたしにだけ向いているようだった。信じ・・
られない思いだった。全身が震えたわ…。あたしの魂に、その輝きが灯を点したの。真っ赤な光。い・・
いや、透明な水晶の光…」・・・
初めてだった。少年の思いを人に言ったことなどなかった。クーは話しながら自らの本当の思いに・・
気付いていった。ただ、儚い思いだけの少年がクーの中ではっきりと蘇っていく。クーは喜びを感じ・・
た。話すことによって少年への鬱積した泥のような濁りが消えていく。自らの心の軋みが解消してい・・
く。クーは続けた。今、続けなければ少年がどこまでも遠ざかっていくような気がした。・・・
「顔なんて覚えていない…。そう顔なんて覚えていないわ…。・・・
それから、あたしの頭から少年は消えなくなった。夢に見たの。いつもいつも夢に見た。再会でき・・
るとも思わなかった。そんなこと、それ程望んだりしなかった。ただ、夢に現れてほしいだけだった。・・
夢の中だけで愛し合えたらそれでよかった」・・・
自分でも馬鹿なことを言っていると思った。しかも、憎悪を向けている相手に話している。信じら・・
れない。自分が自分でなくなっていく。クーは大介を見た。大介は目を瞑っていた。好きに話させて・・
いる。そんな大介だった。それすらも戸惑いに吸収された。クーは大介を意識から外した。窓に写る・・
自分の姿に向き直った。・・・
「二度目に会ったのも京都。駅だった。少年は更に逞しくなっていた。けれど目は一緒だった。嬉し・・
かった。その時もその目だけを見付めていた。夢で会う少年と寸分も違わなかった。目の輝きにすべ・・
て包まれていた…」・・・
窓の外の景色が変わっていく。街の灯りが遠ざかり田園らしき暗い地が拡がる。クーの心が落ち着・・
きを取り戻す。話す声が少しずつ低くなる。・・・
「新宿まで少年を追った。夜空を仰いでいた少年は、その場に限りなく似合わなかった。道に立ち止・・
まって空を見上げていたの。そんな人間、新宿にはいないもの…。でも、あたしその時に思った。少・・
年は新宿に暮らしている。少年の足取りでそう思った。少年は喧噪に溶けていったのよ。まったく似・・
合わない街に、音もなく消えていったの…」・・・
あの時、それ以上追わなかった。少年の暮らす街と同じ風に心が安らんだ。同じ風を受けているだ・・
けで満足だった。窓に写る自分の視線がなぜか熱かった。少年を見ていたあの時もこのような目をし・・
ていたのだろうか…。クーはそれから目を逸らした。・・・
「だから、あたしも新宿に暮らした。少年と同じ風を受け続けたかった。じいちゃんが探しているの・・
は知っていた。帰りたくなかった。あたし帰りたくなかった」・・・
今もそう思っている。帰りたくない。中原壮二郎…。祖父は嫌いだった。・・・
「ママに会ったのはそれから随分としてから。フォン・ロッシュの冬子ママよ…。同じ目だった。少・・
年と同じ目だった。少年と冬子ママがあたしの中で重なった。届かぬ少年への思いを、知らぬ間にマ・・
マに向けていた」・・・
冬子の名を出した時、大介が頭をこちらへ向けるのが窓に写った。クーはそれを無視した。大介が・・
聞いていようとどうでもよかった。・・・
「ママに憧れている。でも、ママはRIKIの女なの? あたしの少年の愛する人なの?」・・・
声が小さくなった。クーの思いが揺れた。・・・
「RIKIに会いたい。きっと、あの少年はあの時のままだわ。ママと同じ目をしてあたしを見るの。・・
いいの。ママだから…。同じ目を持った同士だから…」・・・
急に、胸が強く締め付けられた。重い息苦しさがクーを襲う。窓に写る自分の影に冬子が見えた。・・・
「二人は愛し合っているの? ねえ、二人は愛し合っているの?」・・・
冬子の影を払うようにクーは大介に向き直った。大介は笑っていた。天から神が民を見下ろすよう・・
に笑っていた。・・・
「二人は愛し合っているの…」・・・
クーは大介に問うた。今の自分の状況よりも、そのことの方がクーには知りたいことだった。・・・
「どうなの…」・・・
クーの頬に一粒の涙が流れようとしていた。クーは気付かなかった。頬に伝う熱いものを感じるこ・・
とはなかった。・・・
・・・
第四章 悶え・・・
・・・
(1)・・・
・・・
中原がベッドに起きあがる。小さな明かりを一つ灯した。見張りの者は帰した。トイレに眠る者の・・
ことは隠した。RIKIに作られた喉の傷を隠したように…。・・・
喉の傷…。RIKIは中原にそれだけを残して去っていった。痛みはない。皮膚のひきつった感じ・・
がするだけだ。血は既に止まっている。処置に巻いたタオルの表面が微かに赤く色付いている。・・・
「RIKI…」・・・
重い呟きが中原から漏れた。RIKIにはすべて話した。死に行く自分の努めのような気がした。・・・
「大城憲一郎…」・・・
呟きが続いた。大城憲一郎…。中原にとってそれは逃れられない悪霊だった。大城は怪物だった。・・
中原の相手ではなかった。・・・
「RIKIは大城の血を引いている」・・・
中原の脳裏に再び昔のことが掠め過ぎる。大城と共に暴れまくった戦後間なしの東京。焼け野原・・
だった街。破壊と暴力に明け暮れた日々。過ぎ去った激しい時期が静けさの中原に忍び寄る。怪物の・・
大城。元副総理にまでのし上がった久保山。そして、井ノ口。あの頃のそれぞれの若い顔が浮かぶ。・・
四人は志を持っていた。成り上がる。上へと成り上がる。・・・
金の力を信じた。それへ突っ走った。すべて金があれば手に入る。女も地位も名誉さえも。四人は・・
金になることなら何でもやった。国を売ることすら平気だった。理由のない殺しも厭うなかった。莫・・
大な金を掴んだ。・・・
「楽しい日々だった。唯一輝いていた頃だ…」・・・
低い声を絞り出していた。中原は泣いていた。自らの人生の終着に中原は大きな虚だけを感じた。・・
自分は何を掴んだというのだろう。実のあるものなど何一つない。すべて虚だ。虚の周りにもただの・・
空洞がある。自分という存在の軽さのみの漂う空洞だ。中原は疲れていた。握ぎる拳が微かに震える。・・・
「何も残すことはできなかった…」・・・
人間として、男として、中原はやり残したことがあった。意識の奥底へ埋めてしまっていたはずの・・
怒りが今の中原に芽吹き始めている。不思議だった。意識が死を受け入れた。死を美しいと思った。・・
そして、その怒りすらもなぜか美しく思えた。・・・
死…。それへ自分は向かう。しかし…。・・・
成すべき事がある。死の前に自分には成すべき何かがある…。遅すぎた気付きだったが、死に向か・・
い合ったことで中原の抱き続けていた思いが音を立てた。・・・
RIKIにすべて話した。RIKIは自分が思っていたより数段優れていた。あの大介にないもの・・
がある。RIKIなら適うかも知れない。本来なら自分が成すべき事だ。RIKIがそれを代わりに・・
成し遂げるかも知れない。・・・
大城に制裁を…。長年、無理矢理に意識の底へ眠らせてきた思いだった。大城という悪魔に神の鉄・・
拳を振り下ろす。中原が胸の奥へ大切に隠していた思いだった。中原は大城の手足に過ぎなかった。・・
しかし、その手足が朽ちようとしている今、主人への憎しみが枯れた手足に死の泉となって湧き出し・・
ている。・・・
「大城は自分の手で早くに葬るべきだったのだ。悪魔に言いなりなった自分が情けない…」・・・
幾度となく中原の人間としての怒りに浮かんだことだった。中原はそれを面へ出すことはなかった。・・
すべて心の沼の底へと沈めていた。しかし、死など恐れなくなった今、恐怖は中原の中に浮かんでこ・・
なかった。大城への脅えが嘘のように消えていく自分を感じていた。・・・
「RIKI。真実だ。話したことは真実なのだ…」・・・
残された時間は少ない。中原はその少ない時間に自分の本当の思いを探し始めた。自分は死んでい・・
く。その前に成すべき事がある。いや、あるはずだ。できるはずなのだ。・・・
中原は過去へ流れた。意識の中で自らの底へと進む。大城へと思いは馳せていく。・・・
「大城…」・・・
大城は久保山を呼んだ。大城が中原の前に奈落の底から突然現れて、更に二年経ったある日のこと・・
だった。二期目の選挙を無事通過した久保山は、蓄えた財力にモノを言わせて政界の基盤を固めてい・・
た時期だった。久保山は天地がひっくり変える程の驚きを見せた。大城は久保山を脅した。死んだは・・
ずの大城が現れたことによって久保山は境地に陥ったのだ。当然、久保山から中原へ相談があった。・・
驚きの久保山は狂ったように喚いていた。・・・
大城は怪物のままだった。久保山を震え上がらせた。久保山は、あの黒い瞳に見付めらるだけで大・・
城の言いなりになると言った。中原への圧力と同じだった。悪魔より恐ろしい目を大城は持ち続けて・・
いた。・・・
大城を抹殺…。それを思ったができなかった。見抜かれていた。怪物は二人を雁字搦めにした。 ・・・
久保山も大城の思い通りに動いた。大城は久保山に権力への思いを託した。久保山の参謀に大城が・・
徹した。久保山は政界をのし上がっていった。大城の後押しが功を奏した。久保山の敵は大城が次々・・
に倒した。事故死…。スキャンダル…。謎の自殺…。何でもありの大城だった。・・・
お互いにそれぞれ大城の利点を利用することにした。大城を抹殺できない我々にはその方法ぐらい・・
しか思い付かなかった。・・・
そうなのだ。大城を利用することくらいしか自分には思い付かなかったのだ。妻を目の前で奪った・・
男へ対して何もすることができなかったのだ。・・・
「奈津子…。すまない…」・・・
なぜ、大城に立ち向かわなかったのか。中原の涙が熱くなっていく。・・・
「奈津子…」・・・
大城が意識からどうしても去らなかったのだ。奈津子は大城に犯された。自分の目の前で。奈津子・・
は声を殺していた。しかし、自分は聞いた。女としての喜びの声を微かに聞いた。奈津子に罪はない。・・
罪があるのは自分の方だ。しかし、耐えられなかった。奈津子のあの時の声が耳から離れなかった。・・・
「すまない…」・・・
それへ向かうチャンスは何度もあった。しかし、できなかった。中原は大城への怒りを別なる怒り・・
に向けてしまった。そのことで、大城へ向く自らの思いを打ち消そうとした。井ノ口…。中原は井ノ・・
口に激しすぎる怒りを向けた。・・・
「そうなのだ、私は大城を恐れすぎていた…」・・・
井ノ口が自分たちの過去を暴き始めた。あまりにも久保山や自分の成長が早かった。当然だ。自分・・
たちには大城が付いていた。大城の言う通り動けば事は成った。井ノ口は焦ったのだ。井ノ口は自分・・
たちを脅した。もちろん、井ノ口は大城が生きていることなど知らなかった。井ノ口は自分たちと肩・・
を並べようとした。井ノ口は知らなかった。中原建設も久保山剛造も裏に大城憲一郎が付いているこ・・
とを…。・・・
「あの時の私は、井ノ口への怒りで、大城への恐れをひたすらごまかしていた…」・・・
情報屋としての井ノ口は優秀だった。中原、久保山をターゲットにあらゆる情報を流し始めた。自・・
分は井ノ口への怒りの日々を過ごした。久保山は井ノ口と和解したが、自分は井ノ口に立ち向かった。・・
大城に立ち向かえない自分は井ノ口へ当たった。・・・
井ノ口の子を奪った。大城の指示だったが自分も進んでそれを指揮した。大城は自分の孫を手に入・・
れるため…。自分は井ノ口への怒りの捌け口だ。それがRIKIなのだ。本当ならRIKIは平穏な・・
日々を過ごしていたはずなのだ。・・・
更に自分は大城の夢に乗った。大城の恐れを幻想と化すために…。・・・
大城は日本を制覇する妄想に取り憑かれていた。久保山が政界で力を付けていく。自分はかなりの・・
金を動かせるようになっていた。大城は二人のフィクサーだ。二人は大城の言いなりなのだ。大城は・・
自らの思いを二人に話した。大城の能力を引き継いだ者が次々と現れるだろう…。自らの血を有能な・・
女の中に数多く植え付けた。それが花咲くのだ…。つまり、大城は自らの血で日本を牛耳ろうとして・・
いたのだ。・・・
その夢に乗った。大城の妄想が自分にも乗り移ってしまった。大城の血ならば不可能ではないと思・・
えた。自分にとって大城の能力は神の力そのものだった。・・・
その血を受け継ぐ者が大城大介だ。久保山竜太郎だ。それだけではない。大城は各方面に血をばら・・
まいている。久保山がそうだったように…。井ノ口がそうだったように…。・・・
自分は、そのとんでもない夢を追った。いや、大城への恐れをひたすらそれに隠し続けていたのだ。・・・
RIKIを見た時、複雑な思いだった。真実を聞いて欲しかった。そして、RIKIの手で知らぬ・・
世界へ旅立たせて欲しかった。・・・
RIKIとは大城が命名した。すべてこの世は力だ…。大城らしい命名だった。RIKIは大城の・・
妄想のためにその運命を歪めてしまった。RIKIは大城の妄想の中では一人の殺人兵器に過ぎない。・・
血が繋がっているといえど大城はRIKIに一度として会わなかった。自分もRIKIを見たくな・・
かった。そこに、井ノ口の影が濃く揺れているように思えた。・・・
「RIKIは大城に向かった。私はそれを祈るしかできない…」・・・
RIKIの目が中原の意識に舞った。少年の目をRIKIは持っていた。大城とは違う目も持って・・
いた。中原は目を閉じた。・・・
「RIKI…。大城を…」・・・
今、大城は自分の血の繋がった者を新たに組織しようとしている。大城の妄想は果てしなく続いて・・
いる。久保山の息子竜太郎を大城は担いだ。大介を側へ置こうとしている。更に散らばっている大城・・
の血を一つにまとめようとしている。大城の血で固まった組織を旗揚げしようとしている。大城の妄・・
想は日に日に激しくなっている。・・・
激しい疲れが急に中原を襲った。睡魔が素早く中原を捕らえる。閉じた瞼に浮かぶRIKIの目が・・
徐々に中原から遠ざかっていく。中原はゆっくりと夢に落ちた。・・・
・・・
・・・
冬子は中原の別荘の前を過ぎた。それが見える木立の影に身を入れた。風が雪を起こしているよう・・
だった。冬子の意識を覆っている熱さに風が吹き抜けていた。・・・
懐の軽い振動を感じながら冬子は歩いた。懐の携帯電話だ。できるだけ中原御殿とは離れたかった。・・
相手が不破ならすぐに切るはずがない。よほど緊急のことなのだ。胸の不快感が膨れていく。電話を・・
購入したことを悔いていた。寒さがはっきりと身に応え始めていた。・・・
「はい…」・・・
冬子は鴨川の河原へと降りた。風の音に電話の向こうの声が掠れた。相手はやはり不破だった。不・・
破の低い声が冬子の耳に一瞬だけ乗り風に千切られていく。クーが…、いない。箱崎だろう…。不破・・
はゆっくりと言葉を繰り返していた。・・・
微かに恐れていたことだった。クーが部屋に転がり込んできた時から恐れていたことだった。不破・・
に言われた。あなたはには、守るものなどないほうがいい…。不破は正しかった。クーにはまったく・・
関係のないことだ。・・・
「昨夜、私と一緒でした。まさか箱崎がこんなにも早く…」・・・
不破にも関係ないことだ。クーの責任は自分にある。ただの気まぐれでクーを拾ったのではない。・・
自分という存在以外に守るものが欲しかったのかも知れないのだ。それまでの自分を変えようとして・・
いたのかも知れないのだ。クーは自分に責任がある。・・・
一人出ていったのかも知れない。クーは悲しみを抱えているのだ。自分に縋っているのだ。しかし、・・
自分はクーを突き放した。知らない方がいい…。そう、クーは一人出ていった。冬子はそう思いた・・
かった。いや、無理にそう思う自分を否定していた。・・・
「箱崎は京都にいる。中原の別荘」・・・
冬子のその言葉で不破が少し安心したようだ。携帯のちっぽけな機械の向こうの声が途切れる。・・・
「不破さん。これは私の問題。クーは私が守る」・・・
そうなのだ。クーは自分が守らなければならない。クーは生きていることをいつでも放棄すること・・
のできる女だ。今までそうして生きてきているはずだ。冬子にはそれが分かっていた。だからこそ・・
守ってやりたい。死へ向かいたいなら自分の足で進ませてやりたい。自分の意志でその先を見ること・・
を教えてやりたい。・・・
「クーはずたずたに傷ついて生きてきた。大丈夫よ。少し傷が増えるだけ…」・・・
正直な思いだとは思わない。しかし、それはそう遠くないと思った。冬子は続けた。・・・
「あの子は大丈夫…」・・・
クーが箱崎に犯されている絵が浮かんだ。箱崎が笑っていた。クーが唇を噛んでいた。・・・
「取り上げた札は、いくら何でも箱崎でも大切にするでしょう。クーは大丈夫よ…」・・・
ごめんクー…。冬子のそれは力無い思いだった。不破が返した。不破もそれくらいの読みはしてい・・
た。不破の声がさらに低くなる。・・・
「幻神会と中原に事が起こっています。杉原という男が何者かに襲われたようです。箱崎の動きを幻・・
神会に突っ付いてみた結果です。幻神会と中原が揉めているのなら、幻神会は箱崎をマークしている・・
はずだ。そう思って幻神会の山岡に会ってきました…」・・・
既に不破は手を打っていた。しかし、結果は思わしくなかったのだ。いつもなら事後の話だけだ。・・
事の経過を冬子に話すことなどない。不破の言葉が早くなる。・・・
「幻神会の若い者が杉原を張っていた。杉原は渋谷のマンションに入った。バブルが弾け売れ残った・・
代物です。若い者はそこで箱崎の手の者を見た」・・・
話が見えてきた。クーだ。クーはそのマンションに囲われている。無駄なことはいっさい喋らない・・
不破がわざわざ事の流れを話している。さすが不破だ。短い時間にクーに行き着いている。・・・
「女を一人連れ込んだ。幻神会が箱崎の手の者を締め上げて掴んだ情報です」・・・
いくら出したのだろう…。幻神会の山岡の口の重さを考えると二本程出したのだろう。冬子は不破・・
に感謝した。自分の連れ込んだお荷物の価値を不破だけが知ってくれている。冬子自身にとってだけ・・
価値あるものの重さを…。・・・
「箱崎の若い者を締め上げました。やはり、クーのようです…」・・・
それで電話が切れた。ツー、ツー、ツー…。音が風に舞う。風が勢いを増していた。・・・
クーが助けを求めている。冬子に激しい不安が押し寄せた。携帯電話を懐に戻した時、その不安は・・
渦状に冬子の背中にとぐろを巻いた。・・・
「クー…」・・・
やはり自分には守るものがある。冬子は歩を出した。風に向かって歩き始めた。・・・
・・・
・・・
名神高速に入った。平均140KM。冬子のBMWは心地よいうねりを上げ続けていた。運転して・・
いるのは不破だった。京都へとひた走る。フロントガラスに細かい雨が落ち始めていた。京都は雪か・・
も知れない。不破はアクセルペダルを踏み直した。スピードメーターのデジタルの数字が変わってい・・
く。160。冬子のBMWがその性能を遺憾なく発揮していた。・・・
京都へは後一時間程だろう。不破は焦る気持ちを抑えていた。渋谷のマンションに箱崎の若い者と・・
思われる人間がいた。不破はそいつを締め上げた。女は出ていった…。大介さんと京都へ行った…。・・
その男はあまりにも若すぎた。不破の脅しにあっっけない程すぐに口を割った。暴走族の走り使いの・・
方が似合っているような男だった。不破は男の言ったことを信じるしかなかった。情報を確認するよ・・
うな時間はなかった。・・・
薄暗いトンネルのような不安が不破の思いの中に揺れる。冬子の言ったようにクーは取り上げられ・・
た札だ。そう、箱崎にとってクーは一つの札に過ぎない。クーを切り捨てたりしていないだろう。・・・
クーにそれが耐えられるかだ。クーはずたずたに傷ついている…。冬子の言葉が不破を掠める。あ・・
の子は大丈夫よ…。不破もそう思った。しかし、相手は箱崎だ。何をするか分からない。・・・
クーを思った。クーのリリー・マルレーンが不破の脳裏に流れた。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
悲しみのリリー・マルレーン…。不破はクーの歌うリリー・マルレーンが好きだった。・・・
・・・
―男たちに囲まれて、熱い胸を躍らせる…。・・・
気ままな娘よ、みんなの憧れ…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
クーのマルレーンは悲しみが落ち葉のように揺れている。日本語で歌うせいもあるのだろうが、マ・・
ルレーンの悲しみが断続的なのだ。陽気を気取りながら男たちの悲しさを受け止めていく。そんな哀・・
れなマルレーンがクーの中に見えるのだ。死へ向かう老人のような悲しさだ。瞼に憩う過去を持て余・・
している。そんな思いをクーが醸し出しているのだ。・・・
・・・
―ガラス窓に日が昇り、男たちは戦に出る…。・・・
酒場の片隅、一人で眠っている…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
この歌詞は知らなかった。クーの歌に初めて聞いた。いい訳詞だと思った。たしか、加藤登紀子…。・・
クーの悲しげな声に似合っていると思った。クーはマルレーンに自分を見たがっている。その歌詞に・・
そう思った。誰にも愛されたことのないクー。クーはマルレーンのように愛を求めている。戦場に鉄・・
の雨を受けていく男たちに愛を求めている。不破はこの歌詞をすぐに覚えた。・・・
・・・
―月日は過ぎ人は去り、お前を愛した男たちは…。・・・
戦場の片隅、静かに眠っている…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
冬子にもクーのマルレーンが見えている。だから冬子はクーに惹かれている。そして、クーも冬子・・
に何かを見ている。冬子としての冬子以外に、クーは何か別なものを見ている。不破はそれに気付い・・
ていた。自分と同じなのだ。自分も冬子に冬子以外のものを見ている。あの目だ。少年のように澄ん・・
だ目だ。・・・
意識の中のリリー・マルレーンが終わった。不破は我に返った。フロントを叩く雨が少し大粒に・・
なっていた。不破はスピードを緩めた。自らの焦りに危険を感じた。そうなのだ、クーはずたずたに・・
傷ついている。その傷は癒されることはない。少なくとも、冬子がクーを強く胸に抱き留めるまで…。・・
焦ったとて仕方ない。クーはすでに相手に落ちている。・・・
焦ったとて仕方ない…。その思いが不破を過去へ運んだ。不破はアクセルを踏む力を更に緩めた。・・
焦りを自分の中から消した。過去へ誘われる自分をその流れの中に置いた。クーのリリー・マルレー・・
ンがディートリッヒのリリー・マルレーンにすり替わっていた。・・・
・・・
―Wie einst Lili Marleen…。・・・
Wie einst Lili Marleen…。・・・
・・・
「不破。子を一人預かってくれ…」・・・
誰にも言わずにこの会場へ来ていた。マレーネ・ディートリッヒ大阪公演。不破はそこで意外な人・・
物と会った。1970年。昭和45年の九月。日本で初めて開催された万国博覧会。その催しの最後・・
をディートリッヒが飾る。不破はその切符を懐へ持っていた。・・・
「中原さん…」・・・
あまりにも相応しくない取り合わせだった。中原にディートリッヒ…。どうしても不破にはピンと・・
こなかった。・・・
「子を一人預かってくれ…」・・・
中原は笑っていた。不破を威圧する自信の漲った笑みだった。・・・
「どういうことです…」・・・
中原とは戦後のどさくさに知り合った。お互いに夢を語った。中原は不破を引き付けた。中原の住・・
む世界こそが自分の生きる世界だと思った。不破は中原の仕事を手伝った。騙し合いだった。人間の・・
醜さの戦いだった。醜い方が勝利を収めた。醜さがつばぜり合いを繰り広げていた。・・・
中原の組織はその世界にのし上がった。すべて思いのままだった。GHQ、G2の後ろ盾に刃向か・・
う者などなかった。不破は中原に取り付いた。仕事は山のようにあった。脅し、人浚い、殺し…。何・・
でもやった。中原たちがこの国を征するのを真剣に夢描いた。・・・
事実、中原はそう言った。我々は国を制す。裏からこの国を動かしてやる。それは中原の組織の妄・・
想でよかった。不破はその妄想に引き込まれていた。・・・
「その子は将来の我々兵器だ。戸籍など作らない。殺人兵器として育てて欲しい」・・・
ディートリッヒの講演の時間が迫っていた。しかし、不破はそのことを中原の話に忘れ去っていた。・・
中原の思いが見えた。中原たちの妄想が形を取り始めていると知った。・・・
「その子は我々の予備軍だ」・・・
自分もそのように育てられた。大日本帝国の殺人兵器だ。強い者がすべてを制す。不破は中原を意・・
を読み取った。・・・
「我々の組織は力を付けていった。この日本に我々の力を示す時が来たのだ」・・・
中原の目は輝いていた。不破はその輝きを信じた。中原の妄想に不破は既にどっぷりと浸かってい・・
た。中原荘二郎。久保山剛造。その他の顔ぶれはすべて知っていた。GHQ、G2の残党たちも彼ら・・
の妄想に力を貸しているという。CIAとも繋がっているということも聞いたことがある。可能だと・・
思えた。中原たちの力は果てしなく大きいものだった。・・・
「分かりました…」・・・
不破は頷いた。中原は続けた。・・・
「その子はまだ女の腹の中だ…。今年の冬に生まれる。女は箱崎が浚ってくる。それを女の腹から取・・
り上げて育てて欲しい…。名はRIKIという。アルファベットでR、I、K、I。生まれながらに・・
してこの国に背を向けている子だ」・・・
驚きはしなかった。それくらいの仕事に驚いたりしては醜さの世界に生きていけなかった。・・・
「不破。お前の腕が必要だ。我々に力を貸して欲しい…」・・・
結局、マレーネ・ディートリッヒの講演は見そびれた。・・・
・・・
RIKI…。自分がRIKIを母親から取り出したのだ。お前がこの世に生を受けた時に目の前に・・
いたのがこの自分なのだ…。不破は再びアクセルを強く踏んだ。雨が更に大粒になりフロントガラス・・
を強く叩いていた。・・・
・・・
(2)・・・
・・・
懐かしい臭いだ。鴨川からの風が湿った空気を舞い上げている。二年振りになる。クーは大介と共・・
に中原の別荘の門をくぐった。玄関まで続く飛び石に、降り始めた雪が落ちては溶けていくのが見え・・
た。昨夜の東京の雪とは色が違っていた。昨夜の雪のようにネオンの色が写ったりしていなかった。・・
白く美しい雪だった。・・・
大きすぎる格子戸を大介が目一杯に開いた。中に祖父の妾が深く頭を垂れている。床に額をこすり・・
付けているようにすら見える。異常な程の諂いの姿勢だ。祖父を出迎える時よりも慇懃な態度なので・・
はないだろうか。クーは目を逸らした。祖父も嫌いだったがこの女はもっと嫌いだった。もっとも、・・
一度しか会ったことはないが…。クーは大介と同じように女を無視して玄関を過ぎた。焚いた香の香・・
りがクーの鼻孔を軽く刺激した。・・・
奥の間へと大介が勝手知ったる足を運んでいく。祖父のセンスの日本画が廊下の壁にいくつか垂れ・・
ている。すべて女性が描かれている。視線を下に落としたしとやかな女性の絵だ。クーはその絵を見・・
るといつも祖母を思った。顔すら忘れ去ってしまった優しかった祖母…。今もそうだった。祖母を・・
思っていた。・・・
「箱崎、遅くなった。珍しい客を連れてきた…」・・・
奥の間の襖に大介は大きく叫んだ。香はその部屋で焚かれているようだ。香の香りが高くなる。・・・
「嫌な臭いだ、箱崎」・・・
大介が襖を開く。酒の用意が調っている。箱崎と呼ばれた男が頭を低くしていた。・・・
「坊ちゃん、どうぞ…」・・・
部屋はエアコンが効きすぎていた。慌てて用意したのか分かった。クーは大介の座った後ろに立っ・・
た。大介、箱崎、もう一つの席が空いていた。・・・
「お客人もどうぞ…」・・・
箱崎が頭を上げた。クーと目が合った。・・・
「坊ちゃん!」・・・
箱崎が低く叫んだ。箱崎は驚きの目を見せた。クーを射るように見た。・・・
「箱崎…。このお嬢さんをかっ浚ったそうだな。いい度胸だぜ。笑ったぜ…」・・・
呆気にとられた箱崎が大介に視線を流した。耳の後ろから頬へかけての傷がクーに見えた。蛇が・・
這った後のように不気味な模様が薄く色付いている。・・・
「お前もやったか…。おれは二回やった。ハハハハ!」・・・
おれは二回やった。バカかこの男は…。しかし、不思議なことに、それ程不快感はなかった。クー・・
は大介に靡いている自分を感じ始めていた。RIKI、いや、少年のことを初めて話した相手に心許・・
しているのか…。それとも、激しく抱かれた男に心傾いているのか…。クーはそれをあえて打ち消そ・・
うとしなかった。もうどうでもいい…。大介がクーを席に引いた。柔らかい座布団の上にクーは乗っ・・
た。・・・
「この女…」・・・
箱崎の粘ついた視線がクーに戻った。事の理解を箱崎は始めている。笑みが微かに浮かび上がろう・・
としている。・・・
「箱崎。香を下げろ」・・・
箱崎が香を下げた。すぐに臭いは消えるものではなかったが、部屋の中の微かな風を感じられるよ・・
うになった。酒が運ばれた。大介がクーにビールを注ぐ。クーがそれを飲み干した。大介も独酌でそ・・
れを干した。・・・
「箱崎。この女は中原の叔父貴の孫に当たる」・・・
その意味を計りかねている箱崎だった。先程、微かに浮かんだ笑みが一瞬に跡形もなく消えた。・・・
「坊ちゃん…」・・・
大介が笑った。箱崎を上目に噛み殺すように笑った。箱崎の驚きを笑いの先にじっくりと見ている。・・・
「それは、本当のことで? 坊ちゃん。それじゃ、中原の親父さんが探しているお嬢さんとは、この・・
娘のことですか?」・・・
箱崎の視線がクーに痛かった。狂気だ。大介と同じものを持っている。クーは心底恐ろしくなった。・・
同質な狂気の目を持つ者が二人も側にいる。祖父を思った。祖父も思えば同じ目を時々見せていた。・・
少女だったクーの視界の隅っこに時折見えた。祖父はクーにとって恐ろしい人間だった。・・・
「本当だ。中原久美子。ひょっとすれば、おれの妹だ…」・・・
今度はクーが驚く番だった。妹…。どういうこと…。クーは両親を知らない。そのうちのどちらか・・
が大介の親と同一人物ということか…。同じ血が流れているのというのか…。・・・
「おれの親父はあちらこちらに子を作った。中原の叔父貴が、それを何人か預かった。この女もその・・
内の一人かも知れない。どことなく親父に似ているような気がする…」・・・
クーの視線が箱崎と合った。驚きを箱崎は隠している。自分と同じ思いだ。驚き…。この部屋で大・・
介が一人それを楽しんでいる。クーと箱崎を交互に見て笑いを少し大きくしている。・・・
「バカなことを言わないで。それに、祖父はあたしなんか探していないわ…」・・・
クーが言った。何か話すことで自らの驚きを意識の裏へ隠したかった。祖父が自分を捜していたの・・
は知っている。しかし、クーはそう言った。箱崎がクーを見続けていたから…。大介が静かな笑みを・・
向け続けていたから…。クーは二杯目のビールを干した。暑すぎる部屋に冷たいビールが喉に浸みた。・・・
「いや、親父さんはあなたを捜していらした。心配していられた」・・・
箱崎がクーから視線を外した。驚きを踏みつぶしたようだ。グラスを持つ手が柔らかくなっている。・・・
「坊ちゃんの妹に当たるので?」・・・
箱崎もクーの驚きを見抜いていた。こいつらは何もかも面白がっている。クーは腹が立った。兄だ・・
と…。妹だと…。そんなことは知らない。こいつらにとやかく言われる筋はない。・・・
「ひょっとしたらだ。どうでもいいことだが。ハハハ…」・・・
大介が声を出して笑った。クーは少しだけほっとした。大介の静かな笑みが消えていくと思った。・・・
「おれはもうこの女をやっちまった。妹だったら近親相姦になるのか。えっ、箱崎? ハハハハ…」・・・
この無神経な大介の妹…。大介が兄に当たる…。そんなばかな。クーの脳裏に妹という四文字が絡・・
み付く。兄と妹…。兄と妹が獣になった。・・・
「おれたちは獣になった。ハハハ。兄と妹だったら、まさしくそういうことになるな。箱崎…」・・・
大介の恐ろしさ思った。不安と恐怖がクーに激しい渦となり舞い戻ってきた。・・・
「飲め。可愛い妹よ…」・・・
大介がビール瓶をクーに差し出す。クーはその杯を受け取らなかった。大介への恐ろしさがクーの・・
心を乱した。心を許し始めていた者への激しい脅えがクーを無秩序に責めた。・・・
「飲めないか、ハハハハ…。身体に飲ましてやろうか。ハハハ…」・・・
大介の笑いがクーには本当の獣に聞こえた。しばらくクーの脳裏をその笑いがこだました。・・・
・・・
・・・
クーは自分の世界に閉じこもった。大介と箱崎のげすな話が続いている。クーはそれから耳を逸ら・・
した。リリー・マルレーンに意識を乗せた。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
リリー・マルレーン…。その場所がクーにとって何よりも居心地のよい場所だった。何もかも忘れ・・
ていられる唯一の場所だった。クーには母親の揺りかごだった。・・・
悲しみをいつもこの歌に乗せている。悲しみがこのメロディには似合っている。いや、悲しみしか・・
似合わない。だからこの歌が好きだ。リリー・マルレーンが好きだ。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
自らに積み重なっていった悲しみはとうとう癒されなかったと思った。微かな明かりを冬子に見た・・
のだが冬子は自分を突き放した。リリー・マルレーンのように酒場に一人置き去りにした。・・・
死…。クーにはそれが揺れていた。どうということない。自分が消えるだけのことなのだ。クーは・・
それを悲しみとは思わなかった。生きていることの方がずっと悲しいことだった。・・・
意識の中に流れる涙が冬子への恨みに向かう。それがメロディを止めた。やりきれない悲しさが・・
クーを包み込んだ。・・・
クーは立ち上がった。ふらふらとおぼつかない足で襖に寄った。・・・
「どこへ行く…」・・・
大介がクーに振り返った。箱崎が軽く腰を浮かせた。・・・
「トイレよ…」・・・
大介が笑った。了解と言うことだろう。クーは箱崎に向いた。バカ…。目で箱崎を卑下した。・・・
トイレに入り小さな窓を開けた。不思議と逃げようとは思わなかった。いや、不思議でも何でもな・・
い。この家は祖父の家なのだ。逃げるという言葉そのものが当てはまっていない。大介はそれを見透・・
かしている。それが悔しかった。・・・
・・・
―ガラス窓に日が昇り、男たちは戦に出る…。・・・
酒場の片隅、一人で眠ってる…。・・・
・・・
窓から入る冷たい風が心地よかった。クーはマルレーンを小さく歌った。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
その時だった。窓の向こうに微かな声がしたように思った。気のせいか…。窓を閉めようと思った。・・
風に雪が混じっていた。・・・
「リリー、リリー・マルレーン…」・・・
それはクーから漏れたものではなかった。閉めようとした窓の外から聞こえた。・・・
「リリー、リリー・マルレーン…」・・・
冬子だった。冬子のリリー・マルレーンだった。クーは窓から顔を出した。黒いジャンパーの冬子・・
が木立を背に立っていた。・・・
「ママ…」・・・
窓を突き破り冬子に縋りたい衝動が襲った。嬉しかった。冬子がここまで追ってきてくれた。無性・・
に嬉しかった。意識にだけ流れていた涙が瞼からもこぼれた。・・・
「待ってママ。そこに行く…」・・・
冬子は頷いた。クーはトイレを出た。勝手口から駐車場へ出た。そこに箱崎がいた。箱崎が醜く・・
笑っていた。・・・
・・・
・・・
冬子は草を蹴った。箱崎の拳が空を切った。素早く箱崎の後ろへ回った。懐から拳銃を出した。箱・・
崎の後頭部へそれを押しつけた。・・・
「その子をこちらへ渡してもらうわ…」・・・
箱崎の動きが止まった。クーが箱崎をすり抜け冬子に寄った。・・・
「ママ…」・・・
クーが作った笑顔を冬子に見せた。冬子もそれに合わせた。・・・
「このアマ…。ただて済むと思っているのか…」・・・
冬子の方が数段動きが早かった。冬子はクーの手を取った。ゆっくりと箱崎より後ずさる。クーの・・
手が異常な程冷たい。・・・
「ハハハハ! ハハハハ! あんたが冬子さんか! 箱崎から聞いているよ…」・・・
それは、地鳴りのような声だった。遠くから聞こえる雷鳴のようだった。・・・
「ウッ!」・・・
同時だった。駐車場の隅に置かれていたメルセデスのヘッドライトが瞬いた。冬子の視界が一瞬・・
真っ白になった。箱崎の姿が消えた。・・・
「冬子さんよ…。そんな物騒な物はしまってもらおう…。あんたに似合わないぜ!」・・・
それも一瞬だった。冬子の腕に激痛が走った。拳銃が地に落ちた。・・・
「大城大介だ。その女を二度犯した。ハハハハ!」・・・
冬子は箱崎に後ろ手にされた。大介の笑いがメルセデスのライトの中で輝く。・・・
「冬子さんよ。ビールでも飲むか。ハハハハ! ハハハハ!」・・・
クーが大介の尻を何度も蹴り上げる。大介はそれを無視し冬子に続けて言った。・・・
「いい女だ。RIKIよりおれに乗り換えないか。RIKIよりもいい思いをさせてやるぜ…」・・・
クーの手が冬子より離れた。箱崎の拳が冬子を襲った。今度は空を切らなかった。・・・
「べっぴんさんが台無しになるぜ。ハハハハハ!」・・・
後ろから光を浴びた大介が冬子には神のように見えた。すべてを破壊する破壊の鬼神に見えた。箱・・
崎の拳がもう一度冬子を襲った。破壊の神がその後ろで高笑いする姿が光の中で揺れていた。・・・
・・・
・・・
RIKI…。その姿を追い求めた。RIKI…。RIKIがこちらへと歩いてくる。あどけない瞳・・
がこちらへまっすぐに向かっている。透き通っている。水晶のようだ。RIKIの側に鳩が何羽か・・
踊っている。RIKIの歩みにリズムを合わせて踊っている。・・・
RIKI…。何度も呼んだ。こっちへおいで…。腕に抱いてあげる。RIKI…。芳子もいるよ。・・
お前のかあさんだ。かあさんに抱いてもらいなさい…。・・・
側の鳩の方がリズムが早くなった。RIKIを追い越しこちらへ飛んだ。RIKI…。RIKIの・・
足が止まった。その場で空を見上げている。RIKI…。なぜかRIKIが悲しそうだ。何かを空に・・
探している。RIKI…。こっちへおいで…。・・・
足を出そうとした。RIKI…。こっちへおいで…。しかし、その足は前へ出なかった。RIKI・・
が芳子を見た。RIKI…。足が動かない。代わりに芳子がRIKIへと歩いた。男の子? 女の・・
子? 何グラムだった? 芳子は一度振り返った。百五十グラム。そう答えた。それが間違いである・・
ことを知りながらそう答えた。・・・
RIKIが芳子の腕に乗った。悲しそうな表情は変わっていない。鳩が芳子の肩に乗った。RIK・・
Iがその鳩を捕まえた。小さな手が驚く程素早く動いていた。・・・
RIKI…。何をするんだ。芳子! 止めさせるんだ。RIKI。RIKIが鳩を握りつぶしてし・・
まう! 芳子は笑っていた。RIKIの頭を軽く撫でていた。・・・
やめろRIKI! 鳩が死んじゃうだろう! RIKIも笑っていた。芳子の笑みと同じに揺れて・・
いる。RIKI! やめるんだ!・・・
鳩の目が助けを求めこちらへ向いている。鳩の目の光が消えていく。RIKI。やめるんだ。芳・・
子! RIKIをやめさせるんだ!・・・
光を失った鳩の目が大きくなっていく。こちらへ迫ってくる。・・・
「ウオー!」・・・
死んだ魚の目だ。光が見えない。闇が深く見える。RIKI…。やめるんだ!・・・
「やめろ! RIKI! やめるんだ!」・・・
・・・
体中が汗でべたついていた。江藤はベッドを離れた。シャワーを捻り少し熱い目の湯を頭からか・・
ぶった。鳩の死んだ目が脳裏に渦巻いたままだった。バスルームを出てタオルを腰に巻いた。どこか・・
遠くで救急車の音が響く。その音に意識を集中する。鳩の死んだ目が遠ざかった。・・・
ビジネスホテルの一室だ。江藤は何度も夢にうなされていた。RIKIを夢に呼んでいた。RIK・・
I…。その名を何度も繰り返し呼んでいた。・・・
江藤はベッドに戻った。シャワーに温もった身体の芯から熱い塊が脳裏に突き上げていく。RIK・・
Iなどではない。あの子にはまだ名がない。必死で打ち消していた。夢であろうと自分はあの子をR・・
IKIと呼んだ。悲しい思いが全身を舐め回していく。RIKIなどではない。あの子にはまだ…。・・・
そんな時に携帯電話が鳴った。薄っぺらい呼び出し音に江藤は驚いた。背が一瞬震えた。・・・
「井ノ口だ。こんな遅くに済まない…」・・・
沈んだ声だった。少し酔っているのかも知れない。江藤はキャメルに火を点けた。・・・
「いいえ、まだ起きていました。眠れませんでした…」・・・
煩わしかった。井ノ口の調査は必ず素早い報告を入れていた江藤だったが、この件に関してはどう・・
しても義父井ノ口に話したくない自分を感じていた。井ノ口は二十六年の年月に事を風化させている。・・
江藤の偽らざる思いだった。・・・
しかし、江藤は事の真相を井ノ口に知らせる義務があった。井ノ口は芳子の父親なのだ。江藤は二・・
時間ほど前に報告を入れていた。あの子は生きているようです…。中原興産中原荘二郎が操っていま・・
す…。江藤は細かな報告を入れていた。井ノ口の驚きが電話越しに伝わっていた。・・・
「江藤君。君に聞いて欲しいことがある」・・・
やはり井ノ口は酔っていた。呂律が微かに怪しくなっている。・・・
「君は芳子を愛してくれた。そして、私によく尽くしてくれた。感謝している」・・・
酔いだけではないようだ。井ノ口の口調に鈍い響きが感じられる。いつもの井ノ口とは違う。江藤・・
はキャメルの煙を眺めていた。薄暗い部屋にそれは行き場のない煙だった。・・・
「中原荘二郎…。奴は私を目の敵にした。私が奴をはめようとした。昔のことだ」・・・
井ノ口の喉の隆起が受話器越しに伝わってきた。グラスが何かに当たったのだろう、軽いガラスの・・
弾く音が聞こえた。井ノ口は飲んでいる。・・・
「中原が私の娘を奪った。芳子を浚った。やはりそうだった…」・・・
何が言いたいのだ。江藤は苛立った。親指を携帯電話のOFFの上に軽く乗せた。・・・
「聞いてくれ。私の戯言を聞いてくれ。私は中原など恐れていない。恐れてなどいない…」・・・
思わず親指に力が入りそうになった。それを堪えるのにかなりの努力がいった。電話を持つ手を左・・
右入れ替えた。・・・
「中原の後ろに怪物がいる。怪物は生きていた。そうとしか考えられない…。だからあの子は生きて・・
いたのだ…」・・・
混乱している。井ノ口にしては珍しい。怪物…。何のことだ。だからあの子は生きていた…。いっ・・
たいどういうことなのだ。・・・
「大城憲一郎。怪物の名だ。中原など恐れてはいない。しかし、私は大城を恐れている…」・・・
江藤も混乱した。井ノ口の言う戯言を聞くに耐えられなくなっていた。江藤は井ノ口の話を制した。・・
訳の分からない怒りをそれに乗せた。・・・
「私には関わりのない話のようですね…」・・・
先程とは逆の親指に力を入れた。江藤君…。それまで聞こえた。井ノ口は叫んでいるようだった。・・・
江藤はもう一度バスルームへ歩いた。今度は冷たい水を頭からかぶった。・・・
・・・
・・・
井ノ口は強く握った受話器を置いた。なぜ生きていた…。井ノ口は激しく酔っていた。見えない恐・・
怖を酔いにごまかしていた。・・・
あの子は消えていなければならない子だ…。中原の手に落ちたのだ…。生きているはずがない…。・・
復讐だ。単なる復讐のはずだ…。江藤の報告が信じがたかった。そんなはずはない…。井ノ口は意識・・
に何度もそれを繰り返していた。そんなはずはない…。中原があの子を生かしておくはずがない。・・・
忘れようと努めた。娘を愛していなかったわけではなかった。娘が眠ったままになったことで中原・・
の復讐の完了を祈った。孫が奪われたことで中原に屈した。時がそれを徐々に風化させていった。・・・
しかし、あの子が生きている…。そんなはずがない…。・・・
井ノ口はブランデーを立て続けに煽った。胃の焼ける感触が全身に熱さを運ぶ。井ノ口は目を閉じ・・
た。閉じた瞼に一人の男の影が浮かぶ。その影は井ノ口に何十年と消えてなくならない影だった。・・・
大城憲一郎。奴が生きている…。・・・
影が井ノ口の中で激しく音を立てて暴れ始める。井ノ口の意識が固る。暴れる影が井ノ口に鋭い恐・・
怖を押し付ける。・・・
もう一杯ブランデーを喉へ叩き付けた。井ノ口はその影に脅え続けていたのだ。四十数年もの時を・・
越えても、井ノ口に本当の静けさは訪れはしなかった。奴の影だ。大城…。大城憲一郎…。・・・
「大城!」・・・
井ノ口の固まった意識が今度は瞬間に溶け始めた。大城…。その名を口にした瞬間に井ノ口の思い・・
が無秩序に果てしなく揺れ始めた。・・・
「大城憲一郎! 奴が生きている!」・・・
あの子が生きている。大城だ…。すべて大城が仕組んだことだ!・・・
井ノ口は目を開けた。大城の影が井ノ口の中でどこまでも拡がった。黒くすべてを色付けていく。・・
井ノ口は叫んだ。大城! 中原に頼まれただけだ! 中原がお前を殺せと言ったのだ! 激しく鈍い・・
恐怖だった。井ノ口にあの時の大城の顔が浮かぶ。銃弾に仁王立ちの大城が浮かぶ。・・・
「ウオー!」・・・
手にしたグラスが床へ転ぶ。どこからか幻聴がする。井ノ口…。きさま…、大城の声が流れる。・・・
「死んだはずだ! 死んだはずだ!」・・・
久保山も言っていたではないか。あれで生きていられるはずはない。生きていたとすれば怪物だ…。・・・
「バカヤロー!」・・・
しかし、大城は怪物なのだ。悪魔だ。紛れもない恐ろしい怪物なのだ。悪魔なのだ。・・・
「助けてくれ!」・・・
恐怖が裂けた。井ノ口は床に身を伏せた。大城の前で身を縮めていた時が井ノ口に時を越え蘇る。・・
そう、このような格好で大城に跪いていた。そうなのだ、大城は自分の王だった。神だった。全能な・・
る鬼神だった。・・・
「助けてくれ!」・・・
井ノ口の悲鳴がその部屋に轟いた。床に転がるグラスが井ノ口の肘に弾き飛ばされていた。・・・
・・・
・・・
「後はRIKIだ。冬子さんよ取引だ。この女とRIKIを交換だ」・・・
部屋に戻った大介の第一声だった。大介は元に位置に座り直した。クーの位置に冬子を座らせ箱崎・・
がクーを側に置いた。二人ずつ向かい合う位置となった。・・・
「RIKIを呼び出せ」・・・
箱崎がクーに匕首を突き付けた。その切り先でクーを切り刻みたいのを堪えいる。クーが悲鳴を上・・
げる。・・・
「不破に手配させろ…」・・・
大介の平手が冬子に飛んだ。クーの悲鳴が高くなる。・・・
「いいからRIKIを呼べ!」・・・
冬子の口の中が切れた。唇の端から鮮血が一筋垂れる。冬子は座り直した。ペッ! 血が混じった・・
唾を大介へ飛ばした。・・・
「ハハハハ! 惚れ惚れするくらいいい女だ。RIKIが羨ましいぜ…」・・・
頬に掛かった冬子の唾を大介がゆっくり手で拭った。大介はしばらくそれを眺めた。異様な光が大・・
介の目に浮かぶ。・・・
「もう一度言うが、おれの女にならないか。RIKIよりいい思いをさせてやるぜ。ハハハハ!」・・・
手に付いた粘りの液体を大介が舐めた。冬子の目をまっすぐに見ながら舐めた。・・・
「冬子さんよ。知っていたんだろう…」・・・
大介が視線を冬子に戻す。ビールをうまそうに一口煽る。・・・
「この女は、この家のお嬢さんだ。ハハハハ…。知っていたんだろう。えっ、冬子さんよ…」・・・
クーが腰を浮かした。箱崎がそれを制す。クーの目に激しい怒りが上る。・・・
「中原久美子…。似合っているよ、その名前。ハハハハ…」・・・
大介が怒りのクーをからかうように言った。クーが叫んだ。部屋の空気をクーの悲鳴が鋭く切り裂・・
いた。・・・
「やめてー! やめてー!」・・・
箱崎の匕首がクーの頬に踊った。悲鳴が大きくなる。・・・
「やめてー! そんなこと何の関係もないでしょ! やめてー!」・・・
狂った叫びだった。箱崎がクーを羽交い締めにした。クーが箱崎の腕の中で激しく暴れた。狂った・・
ように髪を振り乱し叫び続けた。・・・
「やめてー! 関係ないでしょ! バカヤロー!」・・・
悲鳴に涙が散っていく。クーは泣いていた。冬子に狂った涙を向けていた。・・・
「やめてー! ママに関係ないことよ! やめて、バカヤロー!」・・・
・・・
・・・
「中原久美子。知っていたんだろう…」・・・
まさか…。思わず冬子もそう叫ぶところだった。信じられない。どういうことなのだ。冬子は驚き・・
でクーを見た。クーが異常な程慌てている。・・・
「知っている上で女を利用した。違うのかい? 冬子さんよ…」・・・
大介の視線が冬子に突き刺さる。クーの悲鳴がそれと絡む。・・・
「やめてー! ママに関係ないことよ! やめて、バカヤロー!」・・・
中原久美子。まさか…。クーは自分を騙していたのか。自分は既に中原の監視の元にあったのか…。・・
中原がクーを自分に当て付けたのか…。そんな思いが冬子に浮かんだ。しかし、それは風のように過・・
ぎた。クーの異常さに素早く過ぎた。・・・
「そんなことどうでもいいことよ! バカヤロー! お前たち全員死んでしまえ! バカヤロー!」・・・
箱崎の何度もの平手にもクーは怯んでいなかった。狂気の悲鳴を上げ続けていた。・・・
「バカヤロー! 死んでしまえ!」・・・
クーにとってはもっとも知られたくないことのようだ。激しく取り乱している。冬子はそんなクー・・
に哀れを感じた。悲しみの儚さが異常なクーに覆い被さっている。・・・
「この女を利用しようとした。RIKIの復習のため。女は中原への繋ぎだ」・・・
大介の笑みが更に醜いものに映った。大介は楽しんでいる。大介が悪魔に思えた。真綿でクーの意・・
識を締め上げている。クーの精神を醜い笑みで引き千切っていく。・・・
「しかし、女が我々の手に落ちた…」・・・
クーの悲鳴が止んだ。箱崎の平手にクーは虚ろな目を天井に向けた。・・・
「どちらでもいいことだ。どちらにしても、我々はRIKIのお出ましを歓迎する…」・・・
そう、クーがいようといなくても同じだ。大介の言う通りだ。既に事は動いている。クーはそれに・・
巻き込まれただけなのだ。自分たちの争いの中に何も知らないままその渦に引き込まれたのだ。クー・・
には関係ないことだ。・・・
中原久美子…。それは偶然に過ぎない。自分と同じような悲しみを持った者が自分の側にいた。た・・
だ、それだけのことだ。ただそれだけで自分はクーを拾った。それだけなのだ。クーは自分にとって・・
大切なものの一つだ。ただ、それだけなのだ。心が通い合うと思える同じ質の悲しみを背負っている・・
者の一人なのだ。・・・
「この女は、ここで見たRIKIを追って東京まで行ったそうだ。儚い乙女の初恋だそうだ。・・・
冬子さんよ…。あんたの目がRIKIに似ているんだそうだぜ…。・・・
この女はおれによがったぜ。RIKIに抱かれている錯覚だ。おれの下でRIKIと叫んだぜ…」・・・
大介の楽しみが続いていく。クーは天井を見上げたまま涙の目を呆然と上に向けていた。冬子は激・・
しい怒りを大介に向けた。クーをこれ以上苦しめないで…。悲しかった。・・・
「おれの背に爪を立てた。RIKI…。そう叫んだぜ。ハハハハ…。可愛い女だ…」・・・
クーの涙が次々に畳へと落ちていた。クーがすべてを投げやりになっている。もうどうでももい…。・・
そんな思いがクーの涙に見える。涙だけがクーの思いとは裏腹に止まらなくなっている。・・・
「そうそう、それからあんたのことも言ってたぜ。ママー。そう言っておれの背に回す腕に力を入れ・・
ていたぜ。ハハハハ…」・・・
何という男なのだ。冬子は自らの全身が激しい憎悪で熱くなるのを感じた。・・・
「この女には、RIKIとあんたがダブっているようだ。ネンネの夢だ」・・・
なんということだ。クーがそんなことまで思っている。再び冬子は驚いた。それ程までクーは自分・・
たちに深く入ってしまっているのか…。・・・
「この女、あんたに惚れてるぜ」・・・
その時だった。クーが箱崎を振り切った。狂った目を一瞬冬子に投げた。・・・
「クー!」・・・
クーは襖を突き破った。箱崎の動きより素早かった。・・・
「待て、このアマ!」・・・
箱崎が追った。クーの叫びが聞こえた。冬子も立ち上がった。・・・
「バカヤロー!」・・・
クーの叫びが冬子には遠い遠いもののように聞こえた。冬子も廊下へ走った。・・・
・・・
・・・
クーは廊下を走った。この家の作りは知っている。クーは女が住む二階の部屋に向かった。・・・
「バカヤロー!」・・・
すべてを破壊してしまいたかった。果てしない程の悲しみがクーの異常さに拍車を掛けていた。・・
クーは狂気に包まれた。意識がすべて尖っていく。すべて憎しみが向いていく。自らの存在にすらそ・・
の思いが向かった。・・・
「バカヤロー! みんな、死んでしまえ!」・・・
女の部屋に入った。女は電話中だった。女にも激しい憎悪が向いた。クーは部屋の隅の石油ストー・・
ブに寄った。オレンジ色の火が鉄線に勢いよく絡んでいる。・・・
「バカヤロー! みんな、死んでしまえ!」・・・
クーの狂気が破裂しそうになった。それは、部屋に入った箱崎にも止めることはできない激しいも・・
のだった。クーは笑った。部屋の女に笑った。箱崎に笑った。女の側にあった新聞にストーブの火を・・
付けた。そして、冬子に笑った。・・・
「バカヤロー! みんな、みんな、死んでしまえ!」・・・

・・
第五章 猛り・・・
・・・
(1)・・・
・・・
「わしら朝鮮人には、ヤクザになる自由すらなかった…」・・・
少し甲高い声だ。大城憲一郎は誰にともなくそう言った。中原が目の前で眠っている。規則正しい・・
中原の寝息が大城にはなぜか心地よかった。・・・
「わしら朝鮮人は日本のために働いた。しかし、日本はわしらに何も報いんかった…」・・・
大城の目が険しくなっていく。大きな目だ。異様な光が顔面に二つ無造作に転がる。何もかも引き・・
付けてしまいそうな目だ。目尻の無数の皺が更にその目を面へと持ち上げている。猛禽の目だ。天空・・
から獲物を狙う鋭い光だ。・・・
「わしは自らを解放したまでじゃ。日本は戦争に負けた。けど、わしらは生きている。生きていかな・・
ならんかった…」・・・
背が少し曲がる。小柄な身体を少し前へと倒す。声が徐々に低くなる。・・・
「オモニが死んだ。栄養失調やった…」・・・
オモニ…。オモニが死んだ…。大城が二十歳の時だった。大城は長く使わなかった言葉を吐いた。・・
母の思いが大城の胸に過ぎる。・・・
「オモニは日本のために働いて、日本が戦争に負けた年に死んだんや…」・・・
大城の曲がった背に悲しみが揺れていた。肩が微かに震えている。大城は続けた。自らの中にある・・
怒りをゆっくりと口元へこぼす。・・・
「オモニはわしが焼いた。河原で焼いた。わしら河原者は昔からそうしてきたそうや…」・・・
大城にも思わぬことだった。このように自らの過去を話したりしたことはない。しかし、中原に死・・
が見えた。目の前の中原は死んでいく。大城の意識に微かな変化が起きた。脳裏に自らの過去が渦巻・・
く。被差別者だった。大城は差別されて育った。中原と同じだ。二人は檻の中で育った。日本という・・
巨大な鉄の檻の中で育った。同胞なのだ。大城にとって中原は自らを映し出す鏡でもあったのだ。・・・
「そのオモニが夢でわしに言いよった、もお、ええやろ。もお、ええやろ…。どういう意味なんやろ。・・
わしには、それがよう分からんのや」・・・
大城は目を窓の外へ向けた。心持ち鋭さが消える。大城は自らに沈んだ。深く暗い沼へと沈んだ。・・
そこに母がいるはずだった。・・・
・・・
・・・
「そこの茶色い犬つれてこい! 逃がすなよ!」・・・
もう、ええやろ…。眠たいんや…。大城憲一郎は一人ぐちた。いや、この時は大城憲一郎ではない。・・
大城憲一郎という名は後に名乗ることとなる。新井光男。朝鮮名、朴光男は小さくこぼした。・・・
「アホ! はよせんか!」・・・
オモニが唸っている。昨夜は寝ていない。もうこりごりや…。犬殺しは堪忍や…。光男は犬の血に・・
まみれた両の手のひらを見た。血が黒く変色している。そういえば昼から手も洗っていない。アンペ・・
ラ(ムシロ張り)小屋から一歩も出ていない。・・・
「もう嫌や! わし、身体洗ろうてくる。臭そーてたまらん!」・・・
光男は川へ走った。堤防の上に、バラック、アンペラ、掘立小屋がところ狭く立ち並んでいる。光・・
男はそれを掻き分けて走った。いつものことだった。涙はもう忘れてしまった。なんでや、なんで、・・
こんなことばっかり…。・・・
「ウオエー!」・・・
叫ぶしかなかった。なんでやね、毎日毎日おなじこと…。死にとなるわ…。アホー!・・・
「光ちゃん、そないに叫んだら、腹減るで…」・・・
長襦袢の裾を派手にたくし上げた女がからかう。隣のアンペラに住む同じ朝鮮の女だ。まだ若いが・・
ガリガリにやせ細っている。真っ赤な口紅が異常な程目立つ。女は光男にはお化けにしか見えない。・・・
「うるさいな、腐れ売女(バイタ)は黙っとけ…」・・・
光男は女に言った。女は光男に品を作る。襦袢をひらひらと陰毛まで見せる。・・・
「ガキのくせに、偉そうなこと言わんとき。それより、わてとええことしいひんか…」・・・
いつものことだ。光男は女を無視する。すると女は怒る。いつものことなのだ。・・・
「お前とこのおばはんかて、元は腐れバイタやったんや! 文句あるんか…。光ちゃん、誰の子か分・・
からんのやろ…。ヒヒヒヒ…」・・・
女の陰毛が光男の脳裏にひらひら揺れる。光男は川へ頭をつけた。冷たさが血の上った頭の隅々に・・
までに染みわたる。・・・
「もう、ええやろ! もう、ええやろ!」・・・
いつものことであった。光男、七歳のことであった。・・・
・・・
・・・
光男の母は朝鮮半島の済州島から『第一君が代丸』に乗って日本へ渡ってきた。朝鮮半島の済州島・・
の農業不況による出稼ぎである。『第一君が代丸』とは当時の済州島と大阪を結ぶ定期便。阪済航路・・
の花形船だった。・・・
日韓併合後、日本の朝鮮半島植民地政策に朝鮮農民の数多くが田畑を奪われた。朝鮮の農村は深刻・・
な過密人口化に陥った。光男の母は仕方なく日本へ出稼ぎに出た。家にいては飯が食えない。働き手・・
は父と母二人だけだった。弟妹たちは幼かった。光男の母は体よく家から追い出されたのだった。・・・
その後、博多へ流れた。炭坑飯場の飯炊き女…。そして大阪に舞い戻る。メリヤス工場の女給…。・・
更に、京都と移り住んだ。父とは博多の炭坑で知り合ったそうだ。あまりの厳しい労働に父は早くに・・
死んだ。二人して済州島へ戻ろうとしていた矢先だったそうだ。・・・
母は多くを語らなかった。しかし、京都へ流れてきた訳は聞いていた。この辺りを仕切る地回りの・・
親分に見初められた…。嘘か本当か分からなかったが母はそう言っていた。・・・
竹田の親分。河原のみんなはそう呼んでいた。光男も何度かその姿を見た。ダブダフのズボンに・・
真っ赤な半纏、髭面の恐ろしい顔をした親分だった。その親分の履いていた長靴の素材が光男の解体・・
した犬の革だった。母が自慢げに話していたのを光男は覚えていた。・・・
光男の家の生業は犬獲りだった。犬解体業…。犬殺しである。野良犬や飼い犬をどこからかかっ・・
浚ってくる。それを殺し肉を食用として売りさばく。革は靴屋、鞄屋に卸す。売り先はどちらも被差・・
別地区の生活に仕方なくしがみついている朝鮮人だ。朝鮮人は同じ地区に住む日本人被差別者からも・・
蔑視を受けていた。つまり、差別されていた。・・・
竹田の親分は被差別地区生活者であったが朝鮮人ではなかった。しかし、親分は朝鮮人も日本人の・・
区別しなかった。被差別地区に暮らす者たちの悲しみを理解していた。時には大年増の夜鷹を買った。・・
朝鮮人と酒を飲んだ。光男はそんな親分に憧れた。大きくなったらヤクザになる。当然の思いだった。・・・
そんな環境に光男は育った。アンペラの中は犬の血の臭いが充満していた。飛び散った血がムシロ・・
のどこにでもこびり付いている。光男はそれでも母との二人の生活を大切にした。犬をかっ浚ってく・・
るのが光男の仕事だった。光男は五歳の時から犬獲りをこなした。少し小さな犬なら子供の光男でも・・
捕らえることはできた。鉄のハンマーを後ろ手に隠し、犬の生肉を野良犬に差し出す。すると、必ず・・
と言っていい程、野良犬は光男の手に狙いを付けに来る。一撃なのだ。ハンマーを犬の目と目の間に・・
力の限り落とす。それだけのことだ。光男はその都度母に誉められた。それがたまらなく嬉しくて毎・・
日毎夜野良犬の後を追い回していた。・・・
野良犬がいないと飼い犬をかっ浚った。飼い犬の方が仕事は遥かにしやすかった。遠くまで出かけ・・
た。鴨川の流れを遡ったこともある。都だ。都人という人種が住んでいる。母がそう言っていた。自・・
分たちは絶対に行ってはならない場所だ。しかし、光男は時折北へと足を運んだ。丸々と太った犬が・・
多くいたせいもあったが、それよりも自分たちの周りにはない空気にふらふらと風のように流された。・・・
ある日、光男は町の人に追われた。犬を殺そうとしたのを見つかったのだ。光男は逃げた。運悪い・・
ことに見つかった場所が川上だった。母の言う都人に追われた。光男は必死に逃げた。都人は鬼のよ・・
うだった。同じ人間とは思えなかった。・・・
光男は男に捕まった。殴られた。蹴られた。半殺しだった。チョウセン! エッタ! その言葉が・・
蹴られる光男の脳裏に嵐のように渦巻いた。男は犬を襲ったことより光男の存在そのものに怒りをぶ・・
つけていた。光男が生きていることに激しい憎悪を向けていた。・・・
おれは生きていてはいけない。光男の理解だった。犬よりもおれたち朝鮮人は劣っているのか。子・・
供心にそんなことを思った。悲しみを感じた気がした。母がいつも泣いている訳が少しだけ分かった。・・・
なぜか母には黙った。母は気が狂ったように光男の怪我の理由を問いただした。しかし、光男はが・・
んとして喋らなかった。光男の中に激しく燃えるものがたぎっていた。自分を半殺しに合わせた男の・・
顔がその中に揺れた。母はその日朝まで泣いていた。・・・
次の日、光男は再び川を遡った。同じ犬を狙った。昨日の男を誘った。・・・
「こら! チョウセン!」・・・
男が光男の襟首を掴んだ。汚いものを掴む仕草だ。朝鮮人は都人に抵抗しないと思っているよう・・
だった。・・・
「朝鮮のどこが悪い!」・・・
犬の解体用の出刃包丁を男に突き刺した。呆気なかった。男は一声叫んだだけで地に伏した。光男・・
は逃げた。しかし、犬は忘れなかった。犬も出刃で刺した。犬の方が遥かに男より暴れた。・・・
「朝鮮のどこが悪い!」・・・
光男は泣いた。思えば自分の涙を意識した初めての瞬間だった。光男、十歳の時だった。・・・
・・・
・・・
「あの時の男の顔、今も覚えているわ。オモニが言った都人の顔を…」・・・
大城は目を閉じていた。死に行く中原がなぜか羨ましかった。・・・
「静かやなー…」・・・
大城は、中原にそう優しく呟いた。・・・
・・・
・・・
極貧が底を突いていた。母は毎日犬の血にまみれていた。しかし、光男が大きくなるに連れて野良・・
犬が光男を警戒するようになった。殺しすぎたのか犬の量が徐々に減り始めた。反して光男の食の量・・
も増える。母は光男に精一杯の栄養をつけようと必死だった。生命を維持する最低限の物しか母は口・・
にしなかった。犬解体の他に客があれば身体も売っていたようだ。光男は母に少しでも楽させてやろ・・
うと思った。たつきの道を求めた。犬獲り以外に光男は稼ぎを探した。探せばそれはあった。簡単に・・
金になることがあった。・・・
喝上げだった。自分たちを見下している奴らから金を奪う。同じ河原に住んでいる被差別者の日本・・
人たちとは違って、金を自らの力で奪うのだ。河原の日本人たちは金をせびっている。河原者を人間・・
とも思っていない奴らに諂い媚びている。光男はそんな日本人とは違う。おれは都人に媚びたりしな・・
い。光男は犬獲りに出かける時以外も出刃を放さなくなっていた。・・・
おもしろいように金が取れた。都の大人たちは異常な程光男を恐れた。生活は少しずつ楽になった。・・・
しかし、警察の存在を光男は忘れていた。光男の暮らす河原は一種の治外法権のような部分もあっ・・
たのだが、光男は派手にやりすぎた。光男は目を付けられた。警察を恐れ河原から出るのを徐々に控・・
えなければならなくなった。・・・
竹田の親分に身を預けることにした。十五歳になっていた。光男が憧れたヤクザの世界だ。竹田の・・
親分は受諾した。母も嬉しそうにしていた。・・・
その頃のヤクザになるものは理由があった。特に被差別者は自らの存在の儚さに身を狂おしい程悶・・
えさせた。闇夜の沼にもがき続けた。生きていることすら醜く思えた。その思いを解放するにはヤク・・
ザの世界しかなかった。闇夜に灯った微かな星の明かりなのだ。身一つ、度胸と力さえあれば非人間・・
的な生活から脱することができる。何も要らないのだ。身一つ。それは被差別者にとって無限の魅力・・
だった。ヤクザの世界にしか見えてこないものだった。・・・
これで、生きていることの意味が見えてくるかも知れない…。光男はそう思った。竹田の親分が首・・
を縦に振った時、光男は自らの幸運にその場で飛び跳ねたくなった。もう二度と都の人たちから金を・・
奪ったりしません。そう親分に誓った。朝鮮人の自分が日本人の竹田の親分に受け入れられたことが・・
信じられない程の驚きだった。・・・
しかし、事は光男の思うようにはいかなかった。大日本帝国は十五年戦争という渦のまっただ中に・・
あったのだ。・・・
・・・
・・・
「そうなんや、わしらはヤクザにもなれんかった…」・・・
大城が静かにこぼした。目は閉じたままだ。中原の寝息が大城に静けさだけを流している。・・・
「それにしても、静かやな…。荘ちゃん、死んでいくのやな」・・・
その声も静かだった。大城は過去に流れ続けた。・・・
・・・
・・・
光男は希望に燃えた。親分は母の面倒も引き受けてくれた。これからは男しての任侠を磨く。光男・・
の胸には明るい灯火が揺らいでいた。・・・
親分は笑っていた。光男の肩を抱いた。不覚にも光男の目から涙が溢れた。今まで生きてきたこと・・
を本当によかったと思った。この親分のためなら死んでも悔いはない。親分の力になる。それが大恩・・
人の竹田の親分への恩返しだ。光男は強く拳を握った。・・・
「光男、男を磨くんや…」・・・
母の顔が浮かんだ。笑っていた。見たこともないような涼しい笑顔だった。もう犬を殺したりしな・・
くていいんや…。身体を売ったりしなくていいんや…。オモニ…。オモニ…。涙が止まらなかった。・・・
その夜のことだった。親分が光男を呼んだ。親分は何かを包んだ新聞紙を握っていた。・・・
「光男、まずけじめは付けろ…。わしの身内になる前に臭い飯食ってこい…」・・・
警察との取引だった。光男を警察へ差し出す。警察は竹田の闇物資の取り締まりを緩める。警察と・・
竹田の間には既に話ができていた。・・・
「一、二年辛抱しろ…」・・・
竹田は本当にそう思っていたようだ。光男は後にそのことを知る。竹田は光男に喝上げのけじめを・・
とらせ娑婆に出てきた時に身内として迎える腹だったようだ。・・・
しかし、日本国の情勢がそれを許さなかった。光男は時の流れに流されてしまう。・・・
「おかはんに渡しておけ…」・・・
親分の握っていた新聞紙は金が入っていた。光男にもそれは分かった。・・・
「親分はん…。おれは、ブタ箱へ行くためにここへ来たんやない…」・・・
光男はそう言った。流れていた涙が恐ろしく惨めなものに思えた。竹田の親分が警察におれを売っ・・
た。いや、日本という国に朝鮮人のおれを売った。親分も日本人なのだ。光男の拳に力が入る。膝の・・
上に落ちた涙の後が真っ黒なシミに見えた。・・・
「おれを売った…」・・・
光男は立ち上がった。自分の中に流れる朝鮮の血をこの時程呪ったことはなかった。竹田の親分も・・
あの都人と変わりなかった。エッタ部落に住んでいようと日本人なのだ。朝鮮人の本当の思いなど理・・
解できるはずかない。光男は自分なりに世の中の仕組みを知った。最下層の生活者でもそのまた下の・・
者を踏みつける。平気なのだ。そうしなければ自分が踏みつけられる。・・・
「金はいらんわい…」・・・
情けなさに光男は握った拳を開いた。竹田の親分が光男を無表情な面で見つめていた。・・・
「オモニのこともほっといてくれ…」・・・
その時に警察が光男を捕らえた。竹田の親分は光男から目を逸らしていた。光男にとって、それは・・
ほんの少しの慰めになった。何かほんの少しだけ救われたような気になった。・・・
「光男、辛抱しろ…」・・・
親分のその言葉は光男には数多く殺した犬の声と同じだった。光男は笑みを浮かべた。警察の縄が・・
光男を幾重にも縛り付けていた。・・・
・・・
・・・
「そうなんや。わしら、ヤクザにもなれんかった…」・・・
大城の周りの時が先へ進むことを拒んでいるようだった。中原の寝息に変化はない。大城の意識に・・
巡る遥かな影も動きを緩めていた。・・・
・・・
・・・
光男はその後信州の山に送られた。長野県松代。巨大な地下壕の建設に連行される。大日本帝国大・・
本営の疎開先…。そんな噂を聞きながら、光男は連日、地獄のような労働に耐えなければならなかっ・・
た。光男は逃げることばかり考えていた。その思いが光男の生命を維持した。極なる過酷さだった。・・・
そこには数多くの朝鮮人がいた。光男のように日本の言葉を話せる者もいたが、大半が強制的に朝・・
鮮半島から連行されてきた朝鮮の農民たちだった。やはりここでも朝鮮人は人間として認められてい・・
なかった。光男たちは酷使された。日本兵のサーベルが数知れず朝鮮人たちの頭に振り下ろされた。・・
気が狂ったものも出た。日本兵に刃向かい足腰立たなくなったものもいた。・・・
口にできる物と言えばコーリャン、大豆の豆粒。慢性的な空腹、飢餓感だった。風呂にも入れない。・・
川の水で身体を洗う。作業服の替えなどない。シラミ、南京虫、ノミらがいつも服の表裏をはいずり・・
回っている。しけった煎餅布団にも虫が住み着く。とても人間の生活じゃなかった。・・・
光男はそれに耐えた。耐えるしかなかった。耐えざる者は死んで行くしかない。朝鮮人は使い捨て・・
だった。替わりはいくらでもある。怪我の手当など望めない。下痢、腹痛、不眠、それらは無視され・・
た。戦局がおもわしくなく監督の兵たちも苛立っていた。・・・
米軍の攻撃は日に日に激しさを増した。地下壕の建設も急ピッチになっていった。次々と新しい朝・・
鮮労働者が地下壕に入った。光男たちの労働も極限までの酷使に変わっていった。死んでいく者も増・・
えた。栄養失調からくる皮膚病も朝鮮人たちの飯場中に蔓延した。光男も激しい目眩に襲われ続けた。・・・
朝鮮の仲間と二人で逃げた。材木の切り出し作業中に山深くへと逃れた。文字通り生命掛けだった。・・
日本兵に見つかれば生命がない。必死だった。極限の体力低下を精神力だけでカバーした。幼い頃か・・
らの日本へ対する恨みが光男を支えていた。オモニを思った。都人に追われた日を思い出していた。・・
母にもう一度会いたかった。・・・
一緒に逃げた朝鮮人は山を越えられずに事切れた。光男はその男を土に埋めた。同胞の死体を日本・・
兵に晒したくなかった。そして、なぜか羨ましかった。朽ちていった男の顔が余りにも静かだった。・・
光男は長く男の死に顔を見つめた。男のように静かに眠りたかった。・・・
しかし、光男は山を進んだ。光男の血の中にある生命への果てしない執着だった。光男は挫けな・・
かった。生きてやる。生きることすら蔑ろにされている朝鮮人の意地を見せてやる…。ウサギやリス・・
などを食って体力の回復に努めた。ウサギやリスは野良犬を獲るのと同じだった。生命を維持するた・・
めにだけ仕方なく覚えた技が役に立った。死ぬ程憎んだ自らの生業が役に立った。光男は生命を維持・・
した。山を進み続けた。・・・
グラマン6F戦闘機がその山の上にまで轟音を轟かしていた。光男はその機の更に上空の澄んだ空・・
に祈った。日本が戦争に敗れることを祈った。死んでいった朝鮮の仲間たちの顔が次から次へと光男・・
の脳裏を掠め過ぎていった。・・・
・・・
・・・
「日本は戦争に負けた。わしの祈りが空に通じたんや…」・・・
大城は目を開けた。中原の寝顔があの時死んだ朝鮮の男とだぶる。大城は笑った。・・・
「静かやな、荘ちゃん…」・・・
やはり中原が羨ましかった。大城は先立とうとしている中原に激しい嫉妬を覚えていた。・・・
・・・
・・・
「お前、親か子はいるか?」・・・
光男は聞いた。光男と同じくらいの体型の男が光男の前に膝を折る。額からはおびただしい鮮血が・・
流れている。光男の持つ木刀にまでそれは飛び散っていた。・・・
「親か子はいるかと聞いてるんじゃ! どうなんじゃ!」・・・
男が目を上げた。恐怖にひきつった顔が光男に届く。光男が微かに笑った。その笑いを男は光男の・・
慈悲と受け取ったようだ。男が精一杯の笑みを返した。・・・
「子がいる。親は死んだ」・・・
男は自らの子へその場の逃げ場所を探した。光男にも子がいるのかも知れない。慈悲に自分を許し・・
てくれるかも知れない。男は懸命に光男に縋っていた。・・・
「娘はおれの帰りを待っている。まだ、三歳だ。この米を持って帰ってやるのだ」・・・
光男の笑みが大きくなる。男に小さな安堵が浮かぶ。・・・
「名前を言え…」・・・
男がゆっくりと立ち上がった。抵抗の姿勢はまったく見えない。安堵が男に大きくなる。・・・
「大城、大城憲一郎(おおしろけんいちろう)…」・・・
まあいい。悪くない名だ。どんな字を書く…。光男は聞いた。・・・
「大という字に城…。それから…」・・・
男が再び腰を下ろし地面にその字を書いた。光男はそれを眺めた。手に持つ木刀でその字をゆっく・・
りとなぞった。・・・
「日本人か?」・・・
光男はその字を読めなかった。しかし、大と一。二つの文字だけ知っていた。・・・
「日本人です」・・・
男が少し胸を張ったように見えた。その顔に、自分は三国人じゃない…。そんな思いが揺れていた。・・・
「荘ちゃん…。わしは今日から大城憲一郎じゃ!」・・・
光男がいきなり木刀を男の頭部へ落とした。大城と名乗った男が地に伏していく。・・・
「子は親がいなくても育つ…」・・・
男はしばらく全身を痙攣させた後、絶命した。光男はその様子を笑みのまま見ていた。大きく目を・・
開け鋭い光を男へ射続けていた。・・・
「荘ちゃん。こいつの身ぐるみ剥いてしまお。大城憲一郎が二人いたら困るがな…。ハハハハ!」・・・
光男は笑った。中原の驚きが光男にはおかしかった。光男にこれからを託す。光男の力になってこ・・
の東京で成り上がる。こっぴどく叩いてやった愚連隊の頭の中原荘二郎の言葉だった。しかし、中原・・
は性根が座っていた。光男と互角に立ち回った。思ったとおり中原も被差別地区の出身だった。母親・・
が朝鮮人だった。中原は徴兵を逃れ東京へと流れてきていた。・・・
「こんな世の中、誰が誰か分かるか!」・・・
光男は中原を引き込んだ。一緒に成り上がるんや…。二人はそれぞれに終戦直後の東京で暴れま・・
くっていた。その光男と中原が組んだ。光男にも一人では限界があった。二人ならもっとうまく立ち・・
回れる。光男の思いが中原と重なった。荘ちゃん…。光ちゃん…。二人はお互いをそう呼ぶ仲になっ・・
ていた。・・・
「男の顔を、後が残らんようにつぶしとけ。どっかで犬を殺して犬の血を塗りつけといたれ。そした・・
ら、わしが死んだと誰かが思うわ…。ハハハハハ!」・・・
光男の笑いが大きくなっていた。日本の名を手に入れて光男は得意げだった。これからは日本人と・・
して暴れてやる。大城憲一郎。新しい名だ。名乗り続けたら大城憲一郎になり切れる。誰が誰か分か・・
らい世の中だ。朝鮮人一人くらい日本の名を名乗ったとてばれるはずなどない。今日から日本国の国・・
民だ…。光男はドロドロとした喜びを中原に向けていた。・・・
「大城憲一郎…。わしに似合うか?」・・・
中原も光男の嬉しさにつられた。二人は死んだ男を河原へ運んだ。河原には男の顔をつぶすものな・・
ど無数にあった。おあつらいむけに痩せこけた犬も何匹かたむろしていた。・・・
「大城憲一郎。いい名前や。ハハハハ! 光ちゃんに似合っているよ…」・・・
光男と中原の夢がその河原に揺れていた。生命知らずに暴れる。光男は生まれてきたことの怒りを、・・
中原も同質な憤怒を、誰もいない河原へとぶつけていた。二人には自らの解放という心地よい風が吹・・
いていたのだった。・・・
「大城憲一郎…。わしは今日から、日本人の大城憲一郎じゃ!」・・・
・・・
・・・
「解放国民として処遇する」・・・
GHQが一九四五年十一月三日マッカーサー曰く第三国人、つまり在日朝鮮人、中国人(旧台湾省・・
民)に対する声明を発表した。その日から第三国人は日本政府の法統制を受けなくなった。日本国に・・
おいての朝鮮人、中国人の治外法権の確立である。解放国民…。それは何を意味するのか…。光男た・・
ちにすぐには理解することができなかった。・・・
終戦時、日本国には二三六万人強の朝鮮人がいたと言われている。中国人は約五万人だった。この・・
数字から、いかに朝鮮の人たちが数多く対馬海峡(朝鮮海峡)を渡ってきたことが分かる。・・・
朝鮮半島植民地下で職を求めて日本へ渡った者、あるいは日本の労働力確保に強制的に日本へ連行・・
された者たち。それらのほとんどが炭坑、鉱山、軍需工場などの労働者だった。光男、いや、大城が・・
言った、朝鮮人はヤクザにもなれんかった…。その理由の一つだ。朝鮮人は強制労働、もしくは兵役・・
に固定づけられていたのだ。大日本帝国のために厳しい労働に耐えていた人々だった。日本に住む朝・・
鮮の人たちに自由という言葉を理解できるような時代ではなかった。・・・
しかし、大日本帝国が敗れた。時代の激流が自由を束縛された者たちにも押し寄せた。彼らは祖国・・
への帰路を急いだ。母に会える日を思い描いた。子を腕に抱く日を夢に見た。解放…。それは彼らに・・
とって微かな明かりに見えた。仄かに灯る祖国の灯台の光だった。・・・
時代はそんな彼らをあざ笑った。幸運にも祖国への帰路につけたものは、その年の内ではその六割・・
にも満たなかったと言われている。彼らはその場で放り出されたのだ。炭坑で何の保証もなく…。鉱・・
山で明日の糧もなく…。軍需工場で明日の希望もなく…。・・・
当然、祖国へ帰れなかった朝鮮の人たちの不満が爆発する。解放という名のもとに尖った分子が弾・・
けたのだ。日本の各都市でそれはアウトローの活躍を始めた。生きていく糧を求めた。彼らは組織を・・
作った。大都市にいくつもの朝鮮人たちの拠点ができた。GHQの解放国民声明。占領下の日本。敗・・
戦の痛手の大都市。第三国人のアウトローの舞台は整っていた。・・・
日本への報復だった。彼らの行動は素早かった。日本の朝鮮出兵が彼らの反面教師だった。ゲリラ・・
戦法だ。大都市やその周辺の倉庫や貨車から物資を奪う。それを焼け跡の露天へ並べる。ブラック・・
マーケットだ。・・・
ブラックマーケットは瞬く間に戦前からの伝統的な露天の経営者たち、つまりテキ屋の勢力をもぎ・・
始めた。勢力争いが各地で起こったのは当然のことだった。・・・
そんな渦に光男たちはいた。光男たちはヤクザではない。ヤクザになり損ねた朝鮮の暴れん坊だっ・・
た。日本人の最下層の者たち、被差別地区に生活する窮民たちにも選択可能な道を光男たちは閉ざさ・・
れていたのだ。光男たちは暴れまくった。ブラックマーケット、伝統的な露天、光男たちは己の力だ・・
けを信じそれらを破壊した。奪った物資の横取りだ。ルールなどなかった。いかに素早く、いかに度・・
胸よくするのが勝負だった。・・・
光男、いや、大城憲一郎のグループはいっぱしの新興組織となっていた。大城を隊長、中原を副隊・・
長に、生命知らずの若者たちが大城の周りに集まった。組織の名なんてない。拠点などもない。神出・・
鬼没、電光石火が売り物だった。・・・
大城は木刀一つ。中原は日本軍の拳銃。二人の歩くところに争いのない日はなかった。大城たちに・・
は破壊という魔物が棲みついていた。破壊することが大城たちの解放への道だった。深い意味など何・・
もない。ただ、破壊することによって生命の息吹を感じる。幼さの胸に巣作っていた真黒い悲しみの・・
星が僅かに色を異なり輝く。卑下され続けた自らの見えない翼が背に微かに見えてくる。そんな風に・・
思えた。・・・
それは大城にとっても不思議な思いだった。憎悪の対象だった日本国への思いが褪せてしまってい・・
た。憤怒が目の前のすべてのものに向いてしまっていたのだ。日本国への憎しみだけではなかった。・・
オモニを殺した日本への怒りだけではなかった。・・・
それを中原も理解していた。中原は大城に言った。おれたちはブラックマーケットの奴らとは違う。・・
奴らは日本への怒りを日本の地にぶつけているだけだ。負け犬の遠吠えに過ぎない。しかし、おれた・・
ちは違う。おれたちの怒りはおれたちを世に出した世の中への怒りだ。世の中すべてへの怒りだ。お・・
れはすべての人を見下してやる。おれを蔑視したように、すべての人間を差別してやる。あらゆるも・・
のを見下してやる…。・・・
大城と中原の思いは同じだった。二人は若かった。果てしない程の危険な剣の上に二人の友情は成・・
り立っていた。・・・
露天、マーケットは言うに及ばす、軍の貨車を破壊した。あらゆる倉庫を破壊した。略奪は二の次・・
だった。女郎屋を破壊した。賭場を破壊した。ゲリラ作戦だった。キャバレーを破壊した。ダンス・・
ホールを破壊した。無法のファイターだった。生命知らずのギャングだった。・・・
破壊することがすべてだった。破壊によって本当の解放が訪れると本当に信じていた。押し付けら・・
れていた翼が背に生え、鉄の檻が真っ赤な熱によって溶ける。閉ざされていた闇が遠くに去り、明る・・
さの星が手招きする。大城たちは大空へと飛び立つ。悲しみの黒い星が別の光を持って夜空に輝く。・・
そう信じた。それが死の先であろうと関係なかった。大城と中原は生命を燃やし続けた。若い猛りは・・
誰にも止めることなどできなかった。・・・
・・・
・・・
「静かやな、荘ちゃん…」・・・
ベッドの中原への嫉妬が果てしなく拡がっていく。大城は再び目を閉じた。・・・
「ほんまに、静かやな、荘ちゃん…」・・・
微睡みが大城を掠めた。しかし、大城の中の黒い渦がすぐにそれを打ち消した。大城は過去に揺れ・・
る自分を強く意識した。死に行く目の前の中原とは異なる若き日の中原が、大城の微睡みをゆっくり・・
と覆っていった。・・・
・・・
・・・
破壊は徐々に破滅へと向かうと思われた。しかし、大城たちは踏ん張った。どこまでも突っ走る思・・
いだった。大城の思う光が見えてくるまでは後ろをなど振り返らぬつもりだった。・・・
仲間が徐々に減っていった。大城たちの意味のない破壊に一人二人と去っていった。引き留めたり・・
しなかった。大城も中原もプライドは天より高かった。・・・
「荘ちゃん…。これでええんやろか…」・・・
中原と二人して酒を飲んだ時、一度だけ大城が酒に弱音を吐いた。大城らしくなかった。驚いた中・・
原が慌てて諫めた。・・・
「辛抱だ。光は見えてくるよ。やっぱり、日本人の憲ちゃんはだめだよ。朝鮮の光ちゃんに戻ったら・・
どうなんだよ…」・・・
中原にそれを言われるのが一番辛かった。大城は少し物を見えるようになっていた。破壊の連続の・・
日々が大城にいろいろなものの理解を高めていっていたのだ。・・・
「わしは日本人の大城憲一郎や…」・・・
この組織の長は朝鮮人では務まらない。闇に理解した大城の思いだった。大城は弱気の虫を酒に流・・
した。その夜だけだった。大城は二度と弱音を吐くことはなかった。大城たちは、その意味が分かっ・・
ていたつもりの破壊を続けた。その意味の理解までには至らなかった破壊を続けた。・・・
そんな大城たちのグループをGHQの下部組織G2が目を付けた。GHQにしてみても朝鮮人アウ・・
トローの存在は恐ろしいものだったのだ。占領下の日本が第三者の第三国人によって無法化してしま・・
う。各地での抗争がエスカート状態となっていた。GHQは解放声明を翌年に訂正し「帰国せず残留・・
する朝鮮人は日本国籍を保有することとし日本の法律に従うべきである」との見解を発表した。しか・・
し、それで事は収まるはずもなかった。治安の維持どころではなくなってしまっていた。・・・
GHQが他の方法での朝鮮アウトローの締め出しを企てたのだ。G2が大城たちの組織をダイナマ・・
イトの導火線に使った。破壊テロの大城たちはGHQに都合のいい組織だった。大城たちはヤクザで・・
も愚連隊でも朝鮮アウトローでもなかった。背景に何も見えない組織だったのだ。G2は大城たちを・・
煽った。意図的に朝鮮アウトローがそのダイナマイトの爆発の渦に巻き込まれていくように仕組んだ・・
のだ。敷いたレールから限りなくはみ出してしまった解放国民の無法ぶりにGHQが業を煮やした結・・
果だった。・・・
大城たちは騒ぎを大きくすればそれでよかった。破壊の際、大城と中原が朝鮮語で騒ぎ立てる。す・・
べての悪の根源を朝鮮アウトローへと向ければそれでよかった。大城たちに組織された朝鮮アウト・・
ローと戦う体力はない。G2の思いを大城は理解していた。・・・
抗争は地元のヤクザや無法者の集団愚連隊が引き継ぐ。ヤクザにしても愚連隊にしても第三国人に・・
激しい敵意を持っていた。縄張り争いよりも民族の争いだ。朝鮮アウトローに古くからある地場のヤ・・
クザたちが立ち上がった。ヤクザたちは強かった。彼らにとって最重要なもの、生命よりも重いメン・・
ツという男のプライドが彼らを鬼に変身させた。愚連隊たちとも場合によっては手を組んだ。敵対す・・
る組同士が同じ敵に向かった。果てしなく重いメンツのためならルールなど存在しなかった。・・・
その結果、地場の貸し元、テキ屋などと呼ばれる伝統的なヤクザたちが第三国人アウトローを徐々・・
に制圧していった。警察もヤクザたちを後押しした。神戸事件や浜松事件などに見られるように、治・・
安を維持するには警察も手段を選んでいる場合ではなかった。GHQの思いは形を整えていった。G・・
2は闇の部分で暗躍を続けた。・・・
そうして、大城たちの組織は徐々にG2との繋がりを深めていった。光男、いや、大城憲一郎、二・・
十代前半の頃だった。・・・
・・・
(2)・・・
・・・
「荘ちゃん…。これからは頭使わなあかんのとちゃうやろか…」・・・
中原には思わぬ言葉だった。大城の口から出た言葉には思えなかった。なぜか、大城が悪魔に見え・・
た。大城の目に黒い十字架が逆さまに映っているような錯覚を覚えた。中原は小さな目を無理矢理大・・
きく開いた。悪魔に化身してしまいそうな大城を見ていた。・・・
「そんなびっくりしんときな、わし、頭使こたら賢いやないかと思うんや…。どう思う。荘ちゃん」・・・
・・・
・・・
思えばその通りだった。大城は超人的な頭脳の持ち主だった。中原は病室のベットに微睡みを抜け・・
ていた。先程からの大城の独り言は聞こえていた。わしらはヤクザにもなれんかった…。静かな大城・・
だった。荘ちゃん、静かやな…。・・・
―そうだよ、光ちゃん。おれは静かだ。光ちゃんも静かだぜ…。・・・
中原は意識中で大城に、いや、光男に話しかけていた。・・・
―光ちゃん、静かだなあ…。・・・
中原の思いは大城と同じ時へ飛んでいた。破壊の結果、二人の得たものは何だったのだろう…。中・・
原には自らの脳裏に掛かる厚い膜が何十年の時を越えて、今静かに剥がれていくような気がしていた。・・・
―おれたちは、何も得ていない…。そうじゃないか? 光ちゃん…。・・・
中原がうっすらと目を開けた。大城の静けさがそこにあるだけだった。・・・
・・・
・・・
「頭使って、どうするというの。光ちゃん…」・・・
中原は大城に聞いた。大城の目に見えたはずの黒い十字架は消えていた。・・・
「モノを組み立てていくんや…」・・・
いったい何を言おうとしているのだ。誰の影響か。久保山か井ノ口か…。中原は首を捻った。G2・・
にもらったウイスキーを喉にぶつけた。・・・
「井ノ口は英語ができるんや…。わしの通訳や」・・・
それは中原も知っていた。井ノ口は比較的新しい仲間だった。久保山と一緒に大城たちに頼ってき・・
ていた。たしか、G2の声掛りだったと思う。井ノ口は中原と同じ大柄な男だった。長い戦地の経験・・
者だった。通訳の仕事をしていたと言っていた。本当かどうかは確かめようがない。中原は井ノ口の・・
陰険な暗い瞳を脳裏に浮かべた。中原は井ノ口という男が嫌いだった。中原を蔑んだ目で見ているよ・・
うで仕方なかった。生理的に受け付けにくい男だった。・・・
「スパイを頼まれた…」・・・
井ノ口と大城が今日G2へ出かけていったのだ。大城の微かな変化の理由が分かった。G2の話が・・
大城の琴線のどこかに触れたのだろう。権力という魅力に大城は引き込まれているのではないか。中・・
原にいい知れない不安が上った。大城との仲に見えないひびが入っていくような気がした。・・・
スパイ…。その言葉に大城は酔っているようだった。モノを組み立てていくんや…。対象者を罠に・・
陥れていくのだ。大城らしい言い方だ。頭使こたら賢いやないかと思うんや…。騙し合いっこや…。・・
大城は少年の頃を思い出しているようだった。一度言っていた。ヤクザの親分に警察に売られた…。・・
その時を思い浮かべているのだろうか、目が少年のように輝いていた。・・・
売った売られる…。それは中原の世界にも蔓延していた。周りにいる荒くれ者に他人を信じるもの・・
など皆無だった。すべて己の力だけを信じ突き進んでいた。頼りになるものは自らの熱い血だけなの・・
だ。人を踏みつぶしてでも前へ進む。中原の知る得る男たちの生き様だ。男たちは生きていくことに・・
果てしなくどん欲だった。・・・
諜報行為…。それは大城の中で果てしない輝きを持って拡がったのに違いない。荒くれの男たちの・・
中でも大城の力は抜きんでていた。大城に刃向かうものなどいなかった。しかし、大城はその力を変・・
化させようと考えたのだ。大城は男たちよりもずっと先を走っていた。破壊を続けていた中に何かを・・
確実に掴んでいたのだ。胸の中の深くにしまい込んでいた大鷹の翼を見付けたのだ。・・・
頭を使う…。それが大鷹の翼だ。大城はその翼によって中原より遥かなる空へと舞い上がっていく。・・
中原はそんな思いに捕らわれた。・・・
・・・
・・・
―光ちゃん。あんた怖かったぜ。鬼みたいだった…。・・・
静けさは相変わらずだった。中原は大城との最期を巡っていた。別れだ。果てしない安らぎがその・・
先にある。中原はそれがたまらなく嬉しかった。・・・
―先に行くよ、光ちゃん。おれは、あんたを潰したかったんだ。無理だった。あんたを恨み続けてき・・
たんだぜ…。・・・
しかし、おれは先に行く。光ちゃんに自らの儚さを自分の死によって見せてやる…。今の中原にで・・
きる唯一の大城への復讐だった。中原はそう思っていた。・・・
―先に行くよ光ちゃん…。・・・
中原に大城はあくまでも光男だった。光男との青春は楽しかった。破壊した物のすべてが今の静け・・
さに蘇ってくる。・・・
―あんたに適うものなどいなかった。しかし、今のおれにはそれが可能な気がする。光ちゃん、先に・・
行くぜ。先に逝くぜ…。おれの勝ちだ。ハハハハ…。・・・
それが、中原には本当の解放のように思えた。被差別地区に生まれ自らの存在の意味すら蔑ろに・・
育った。若さの猛りを破壊という行為にぶつけた。大城の果てしない夢に生命を賭けた。熱い血をひ・・
たすら燃やし続けた。しかし、意識の解放など訪れはしなかった。生まれ育った世界に染まった自ら・・
の色は輝きを増すことも褪せることもなかった。踏みつけられた惨めさが意識の中でいつまでも揺れ・・
続けた。・・・
―おれの勝ちだ…。先に逝くぜ…。ハハハハ…。・・・
そう、揺れ続けた。惨めさだ。人間として生きていくことを、おれたちはおれたち自らの手で掴ん・・
だ。生命だけが先に歩んでいくことを、自分たちで自分たちの元へ引き寄せたのだ。力だ。反発だ。・・
破壊だ。光男の言う河原者が都を覗こうとしたのだ。・・・
しかし、それまでだっだ。生きていくことの辛さを知りすぎていた。被差別者には優しさという風・・
が吹いたりしてくれなかった。こうして死を前にして初めてそう思う。・・・
―光ちゃん、おれたちには優しさの風なんか吹かなかったんだ…。・・・
生きていくことの辛さを知りすぎていたんだよ…。生命を維持することだけだったんだ…。知らぬ・・
間におれたちは人間としての優しさを捨てていたんだよ…。だから静けさの風が吹かなかったのさ…。・・・
―その風が今吹いている…。おれは勝ったぜ。光ちゃんに勝ったぜ…。・・・
静けさが心地よかった。中原はこのまま今吹いている風にどこまでも運ばれていきたかった。・・・
―いい風だよ、光ちゃん…。・・・
中原は風に吹かれ続けた。しかし、その風は過去からも吹いていた。・・・
・・・
・・・
やはり大城との仲にひびか入っていった。大城は変身していった。大城の目に逆さまに黒く輝く悪・・
魔の十字架は、その色を日に日に濃くしていった。中原に届かない何かに大城は突き進んだ。・・・
スパイがどんなものか中原は知らなかった。ただ、米軍の占領下にあるこの国で、体制に反発して・・
いる危険分子をGHQが叩く。その手足、あるいは見えない影となって動く。それが、中原たちが大・・
城から与えられるようになった仕事だった。大城は更に大きくなっていた。悪魔の目と少年の目が中・・
原を果てしなく包んでいった。中原は大城に恐れを抱くようになっていた。・・・
仕事はいくらでもあった。そして、その報酬が物資の利権だった。莫大な金になった。GHQの傘・・
の下にいれば怖いものなど何もなかった。・・・
「中原、今度の仕事は殺しだ。お前やれ!」・・・
大城は中原のことを、もう、荘ちゃんとは呼ばなくなっていた。大城は変わった。とんでもない妄・・
想が大城を包み込んでいた。河原者が天下を取る。太閤じゃ…。わしはこの東京を牛耳ってやる…。・・
大城は本気でそう思っていた。・・・
「殺しはしたくない!」・・・
そう言った時に大城に殴られた。拳の痛さはなかったが大城の目に宿る黒い光に脅えた。・・・
「アホ! 言うことを聞け!」・・・
大城が途轍もなく大きな姿に見えた。神だった。悪魔さえ跪かせる鬼神の姿だった。・・・
「わしの言う通りにしてれば、天下を取れる!」・・・
その言葉を信じてしまった。大城の妄想が中原にも乗り移ってしまったのだ。大城への脅えが中原・・
にあらぬ夢を意識に流した。破壊する度に思っていた思いが蘇った。すべての人を見下してやる…。・・
すべての人間を差別してやる…。中原には、その思いと大城への脅えとが交互に揺れるようになって・・
いった。・・・
「光ちゃんのためなら、おれ、殺しだってやるさ…。光ちゃん、天下を取ってくれ!」・・・
・・・
・・・
―ハハハハ。おれは勝ったぜ。光ちゃんに勝ったぜ…。・・・
中原の寝顔からそんな声が聞こえてきそうだった。・・・
―本当の解放さ…。エッタのおれたちはこうして解放されていくのさ…。・・・
笑っているようだった。誇っているようだった。そして、泣いているようだった。・・・
―ハハハハ、先に逝くぜ。でも、光ちゃんは行けないよ。光ちゃんはもうどこへも行けないよ…。神・・
も悪魔も光ちゃんを呼ばないぜ…。・・・
静けさに中原の思いが見えてきそうだった。大城は大きくため息をついた。中原への嫉妬が勢いを・・
増していく。中原から静けさの風が吹く。・・・
「死んでいくのが、そんなに嬉しいか。荘ちゃんよ…」・・・
中原からの風を大城は静かに受け止めた。死…。自分たちはそれへひた走ったのか…。生命など捨・・
てて走ってきた。それへ振り返ったりしなかった。しかし、中原の静けさが大城を果てしなく揺らす。・・
自らの静けさにそれは優しさとなって押し寄せる。大城は戸惑っていた。初めての風だった。こんな・・
優しさの風など受けたことはなかった。風はいつも荒れ放題だった。・・・
過去に揺れる自分と死へ揺れる自分が交差していく。死…。それは、大城にとっても安らぎを手に・・
入れられる唯一の揺りかごに思えていた。・・・
「羨ましいや。荘ちゃん…」・・・
死の先は真っ暗な海が拡がっている。何もない闇だ。光などない。音もない。風もない。すべて静・・
けさの闇だ。そこで眠る。深い深い眠りに陥る。自らが闇に溶けていく。そして、徐々に存在の意味・・
が闇に見えてくる。生きてきたことが夢と化すのだ。・・・
「そうや、夢やったんや…。みんな、みんな夢やったんや…」・・・
闇の夢から目覚める。その時に初めて自らの存在の意味が分かる。しかし、そこには何もない。闇・・
すらもどこかへ失せているのだ。・・・
「いったい、わしらは何やったんやろう…」・・・
大城は思った。闇も光もない世界。音も風もない。そして、自らの存在もない。・・・
「何もないんや…。何もなかったんや」・・・
大城は自らへ深く沈んでいった。中原への嫉妬がその後を追いかけていた。・・・
・・・
・・・
今まで生きてきた世界と変わりなかった。弱い者を踏みつけていく。踏みつけられた者は踏みつけ・・
られた者同士寄り添う。そして、その中から落ちていく者を踏みつける。這い上がろうとする者を引・・
きずり下ろす。大城の育った河原の世界と変わることはなかった。河原者は朽ちていく。河原の石と・・
なっていく。・・・
しかし、河原者の中でも都へと向かう者がいる。人を踏みつけていく者がいる。大城がそうだ。中・・
原がそうだ。河原の石になどなるものか。世の中の人間はそのどちらかだ。河原の石になる者、河原・・
から都へと向かう者。同じだった。今まで生きてきた世界と何の変わりはなかった。すべて己の力一・・
つなのだ。・・・
大城はその思いを引き連れて大きな力を付けていった。大城の力は特殊だった。どんなものでも大・・
城の前に膝を折った。不思議だった。大城には自らの思いを越えた力が内蔵されていた。・・・
それを大城は知った。それは光だった。自らの目から仄かな光が発するのだ。その光が相手を引き・・
込んでいく。魔法のようだった。相手はその光に何か別なる物を見ていた。神か悪魔か…。相手はそ・・
の光に屈していった。大城の思いが相手の口から吐き出るのだ。・・・
すべて大城の思い通りとなった。大城の前に立つ者はすべて大城に跪いていった。・・・
意識を金縛りにする。大城は自らの能力を感謝した。果てしない程の力が目に集まった。それを相・・
手に流す。相手は脅え震える。大城の大きすぎる目に引き込まれていく。悪魔の十字架が見えている・・
のかも知れない。中原が言っていた。逆さまにした黒い十字架が…。・・・
G2との付き合いに言葉はいらなかった。頷くだけでよかった。G2の担当者も大城の目に引き込・・
まれていく。アメリカ人には逆さまの十字架が金色に輝いているのかも知れない。どいつもこいつも・・
脅えと尊敬の混ざった眼を向けた。彼らのレベルで采配を振るえる物資をすべて大城に流してくれた。・・
言いなりだ。すべてが思いのままだった。・・・
中原も久保山も井ノ口も言いなりだった。その三人だけが大城の目の力の意味を知っていた。それ・・
を知った上で同じ舟に乗っていた。・・・
目に力を込めて相手を見る。それだけだった。それだけですべて手に入った。中原の女。久保山の・・
女。井ノ口の女。中原たちが恐れ脅えるのがたまらなく愉快だった。自らの力を誇示した。天下を取・・
る。中原も久保山も井ノ口もそれを信じた。奴らは女を奪われた男へ夢を託した。神の目に逆らうこ・・
となどできない。当然だ。自分は選ばれた者なのだ。・・・
神に選ばれたのか、悪魔に選ばれたのか、それはどちらでもよいことだった。・・・
G2もそんな大城を大いに利用した。米国式の民主主義からはみ出した不穏分子を次々に大城の前・・
に連行した。大城の前では嘘を付けない。黒い光に耐えられなくなり口を割る。魔術のようだった。・・
中国、ソ連の共産主義に繋がる者、極左勢力、またはアメリカ式のリベラリストなどから貴重な情報・・
をとった。占領下の日本で両者の利害が著しく一致した。G2も大城の特殊な能力を見抜いていた。・・
G2は上部組織のGHQへの献身ぶりを誇った。G2にとって大城はなくてはならない存在となって・・
いった。・・・
更に大城には破壊で培った超法規グループがある。殺しすら厭わないメンバーたちだ。G2、ある・・
いは、GHQは本国で適わなかった理想の民主主義を目指していた。占領下の日本を、世界に誇る民・・
主主義の理想郷としての形を整えようとしていたのだ。当然手荒なことを要す。いくつもの暗躍の事・・
件を組んだ。S事件、M事件、T事件などはその暗躍の臭いが色濃く漂っている。・・・
大城たちは闇に暴れまくった。それはもう破壊ではなかった。モノを組み立てていく…。大城の中・・
での大城の思いの礎が徐々にでき上がっていった。・・・
金は掴んだ。それをどう使うかだ。表の顔は中原でよい。中原建設。金を洗濯する企業だ。情報は・・
井ノ口がそつなくこなす。これも金のなる木だ。GHQの情報は値が張る。そして、久保山に権力を・・
手に入れてもらう。裏から操ってやる。闇から糸を引いてやる。・・・
すべて思うようになった。大城の力は得体の知れない強いものとなっていった。・・・
・・・
・・・
「それが、どうしたというんやろ…。みんな、夢やったんやろか…。なあ、荘ちゃん…」・・・
大城はその場に立った。相変わらず部屋は静かだった。中原の規則正しい寝息だけが部屋の時を緩・・
やかに刻んでいた。・・・
「死んでしまうのやな、荘ちゃん…」・・・
感傷の思いだった。中原へ向かっていた嫉妬が安っぽい感傷の思いへと変化していく。部屋に灯る・・
明かりがやけに眩しく感じる。大城は窓際へ歩いた。今夜も雪だ。白い雪が闇の空から舞い降りてき・・
ている。大城の感傷の思いに冷たく降り注いでいく。・・・
「わしは生きるで。夢はまだ捨ててへんで…。大介に託すんや」・・・
それは、中原へは届かない程の声で言った。バカな思いが思わず口から垂れた。大城は笑った。部・・
屋の静けさに低い笑いを流した。・・・
・・・
・・・
―ハハハハ。光ちゃんらしいぜ。光ちゃんは生きるよ。あんたは死なんよ…。・・・
中原が再び薄く目を開けた。大城の背が窓の側に見える。寂しそうな背だった。大城らしくない。・・・
―あの時の背中と似ている。光ちゃん、覚えているか。あの時のことを…。・・・
中原にそよいでいた風が少しだけ勢いを増した。中原は感じていた。この風が止んだ時に自分は闇・・
に溶けていく。静けさの闇に…。安らぎの闇に…。・・・
―もう迎えが来ている。別れだよ光ちゃん…。・・・
大城の背が少し動いた。振り返るのが分かった。中原は目を閉じた。意識に吹く風の勢いが心地よ・・
かった。・・・
・・・
・・・
「井ノ口! 今だ!」・・・
中原は叫んだ。井ノ口の手が微かに震えている。・・・
「今だ! 撃て!」・・・
中原は見ていた。大城の背が余りにも悲しそうなのを…。撃て! 大城よ、ゆっくり眠れ…。光・・
ちゃんよ、ゆっくり眠ってくれ…。・・・
銃声がした。限りなく渇いた音だった。大城の背が動いた。振り返るのが分かった。・・・
「光ちゃんよ、ゆっくりと眠ってくれ…」・・・
・・・
・・・
大城が振り返った。吹く風が急に嵐と化した。中原の意識が混乱する。おれじゃない。おれが撃っ・・
たんじゃない…。・・・
「荘ちゃん。ずるいや…。やっぱり、そりゃずるいで…」・・・
大城が元の位置へと戻る。今までと違う雰囲気が大城の歩みから感じられる。・・・
「ハハハハ…。わしらに安らぎは死んでもないんや…」・・・
殺気だ。大城の視線が熱い。あの光だ。黒い十字架を抱いた光だ。・・・
「荘ちゃん。地獄で会おう…」・・・
目を開けた瞬間、大城の目が中原のすべてを飲み込んだ。中原の意識が遠くなる。黒い光にどこま・・
でも落ちていく。・・・
「地獄へ堕ちろ! これでわしの勝ちや…」・・・
大城の叫びが中原にこだました。静けさの風が木っ端微塵に吹き飛んでいった。・・・
・・・
・・・
「血や。わしの血が日本を制すんや!」・・・
大城の目に光がなくなってから久しかった。それでも大城は自らの思いを捨てていない。・・・
「大介。お前が天下をとるんや…。久保山の息子も力を付けた。あれもわしの子や。わしに似て強欲・・
や。わしが出れば大介に跪く…」・・・
妄想だったのではなかったのか…。夢の一つの形に過ぎなかったのではなかったのか…。中原は大・・
城を驚きで見ていた。既にその思いを遂げたのではなかったのか。すべての者を自分の前に跪かせて・・
やる…。大城は思いを成し遂げたのではなかったのか。・・・
「京都のヤクザ、竹田組の三代目もわしの子や。初代の親分が、わしを警察へ売ったので娘を孕ませ・・
てやった。三代目もわしに似てる…」・・・
まだ不十分というのか。もう十分ではないか。中原は大城に寄った。大城の目が黒く澱んでいく。・・・
「血や。わしの血や。朝鮮の血や。わしの血が日本を牛耳るんじゃ!」・・・
復活の時だった。中原は大城の目に光が蘇っていくのを見た。黒く澱んだ瞳の奥にあの光が見えた。・・
悪魔の光が蠢いていた。・・・
「今売り出し中の総会屋の吉田。辣腕政治記者の安井。ルポライターの木下。幻神会の幹部の小松。・・
武道派浪速会の藤原。みんな、知ってるやろ大介。みんなわしの血を引いてる…」・・・
知らなかった。いや、信じられなかった。中原は大城の口から出た人物をすべて知っていた。そん・・
なバカな。似ているのだ。大城に似ているのだ。あの大きな目。猛禽のような目。似ている。・・・
「右翼にもいる。自衛隊にもいる。警察にもいる。みんなわしが洗脳した。大介が立つときには大介・・
に生命を捨てろと…」・・・
それが、ここ二十年程、大城の目の光が自分の前から消えていた理由なのか…。大城はそのことに・・
すべての勢力をつぎ込んでいたのか…。種を蒔いていたのだ。自分や久保山や井ノ口だけでなく、大・・
城はあらゆる方面の女を我が物にした。大城の悪魔の血を蒔いたのだ。あの黒い光に思いを乗せて・・
次々と女を奪っていったのだ。大城に適う者などいない。女も男も大城との関係を秤に掛けたのだろ・・
う。久保山と同じだ。大城の子を育てる代償に得るものはそれより大きく魅力あるものだったのだ。・・・
蒔いた種に水をやった。肥やしを与えた。その種が大きくなった。大城の悪魔の血が力を付けてい・・
く。大城の後添えがあったことだろう。しかし、大城の種は大きく育った。・・・
妄想だと思っていた。いや、妄想を夢と信じていた。しかし、大城は本気だった。それらの者たち・・
を洗脳した。大城の思いを植え込んだのだ。大城には可能だ。あの光に屈しない者はいない。悪魔の・・
光はすべてを飲み込んでしまうのだ。・・・
「それにRIKIがいる。破壊兵器や。RIKIはお前のために死ぬ」・・・
中原の背に冷たい震えが走った。低い悲鳴が中原から漏れる。大城への激しい脅えが中原を包む。・・・
「わしは、わしの血を拡げた。大介、お前はその者たちの長や。わしの血で天下を取れ。わしの血で・・
日本をいわしたれ!」・・・
大城の目が輝きを持った。あの光が大城に戻っている。逆さの十字架が黒く煌めいている。悪魔だ。・・
黒い悪魔だ。中原は大城の前に立ち尽くした。それ以上、大城へ寄れなかった。黒い光が果てしなく・・
恐ろしかった。・・・
「大介。お前は、今日でめでたく二十歳になった。これをやる」・・・
大城が懐から黒い小さな袋を取り出した。真っ赤な紐で口を結んである。大介がそれを手に乗せた。・・
大城が微笑んだ。黒い光が消えた。・・・
「オモニや。わしのオモニや…」・・・
大介も笑った。笑いながら赤い紐を解いた。袋の中には金色の箱が入っていた。・・・
「オモニの目の玉や。二つとも入ってる。わしのお守りや…」・・・
大介が金色の箱を開け無造作に中身を手のひらに出した。笑いは続いていた。大城と大介、同じ笑・・
みだった。・・・
「オモニの無念や…。オモニの哀れさや…。オモニの悲しさや…」・・・
二人の笑いが大きくなる。笑いが重なっていく。異常だ。悪魔の子はやはり悪魔なのか…。大介の・・
笑いは腹の底からの笑いだった。中原の背の冷たさが増す。氷が背骨に沿ってゆっくりと溶けていく。・・
耐えきれず目を閉じようとした。しかし、重い瞼が動かなかった。・・・
「オモニの悔しさを、わしは、その袋に握ったまま突っ走った。いつも、わしの側にはオモニがいた。・・
その二つの目で、わしを、いつも見守ってくれていた…」・・・
大介の手に乗る二つの目がころりと動いた。黒く萎びている。大介が軽くそれを握った。・・・
「お前の婆さんや…」・・・
大介の笑いが引いていく。二つの目玉を箱にしまう。黒い袋に金色の箱が消えた。・・・
「親父…」・・・
大介が大城を抱いた。大介に抱かれる大城を背中からナイフで突き刺したいと思った。中原の手は・・
震えていた。・・・
激しい怒りが中原を責めた。大城の肩越しに大介がこちらを見て笑っているのも見えなかった。・・・
・・・
・・・
「地獄へ堕ちろ!」・・・
笑っているのが見えなかった。中原の胸に熱い塊が瞬間に溶けて弾けた。・・・
「ウッ!」・・・
ただ熱かった。鉄の溶けたようなドロドロとしたものが中原の胸の内側を流れる。熱い。どうしよ・・
うもなく熱い。熱さだけに意識のすべてが向かう。こんなはずじゃない。死とはこんなものではな・・
い! 中原はそう叫んだ。胸に蠢く真っ赤な熱い塊へそれをぶつけた。・・・
「ハハハハハ! 荘ちゃん、お別れや…。わしの勝ちや…」・・・
一瞬だけ視界が拡がった。逆さの十字架が黒く輝いているのが見えた。・・・
「荘ちゃんに、安らぎなんか訪れるはずがないんや…」・・・
胸の熱さが全身に回っていた。全身が燃えていく。音を立てて自らの油が焦げていく。・・・
「ハハハハ…。花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生や…。さいなら…、荘ちゃん」・・・
逆さの十字架に銀色の光る物が突き刺さっていた。中原はその銀色の物へ手を伸ばした。・・・
「光ちゃん、それはナイフだぜ…。光ちゃんがおれを刺したのか…。おれの負けなのか…」・・・
中原は事切れた。その時、中原にあの安らぎの風は吹いていなかった。窓の外がゆっくりと白み始・・
めていた。・・・
第六章 乱れ・・・
・・・
(1)・・・
・・・
夜が明けていた。雪はいつの間にか止んでいた。鴨川の水嵩が少し増えている。河原を白く染めた・・
雪がクーには眩しすぎた。クーは歩いていた。遠くの比叡山を眺めていた。雪を頂いた比叡は果てし・・
ない程遠くに見えた。比叡まで歩いていきたかった。いや、どこでもよかった。あの山のような遥か・・
な所へ行きたかった。クーは泣いていた。涙に霞む視界に時折ユリカモメが過ぎた。白い羽がゆっく・・
りと弧を描いていた。・・・
寒さはそれ程感じなかった。鴨の流れからの風がジーンズの裾にほんの少し冷たく感じる程度だっ・・
た。朝靄がクーの曇った心と共に揺れた。空の色と同じクーの思いを引き連れて揺れた。・・・
あれから、クーは燃えさかる新聞の火をカーテンへ移した。箱崎が怒りに叫んでいた。冬子が悲し・・
そうに手をこちらへ伸ばしていた。・・・
狂気の中、女はどういう訳か電話に叫んでいた。大介さん! 大介さん! そんな風に叫んでいた。・・
その悲鳴が風の音のように聞こえた。クーは窓を飛んだ。そこに桜の木があることを知っていた。樹・・
齢百年以上…。祖父が自慢していた桜だ。幼い頃に何度かそれへ登って遊んだ記憶がある。クーは枝・・
を掴んだ。そして、勢いを殺し地に立った。一瞬振り返った窓に冬子が見えた。笑っていた。悲しそ・・
うな笑いに見えた。クーは走った。鴨の流れを遡った。・・・
箱崎らは追ってはこなかった。冬子さえいれば自分はどうでもよかったのかも知れない。RIKI・・
は冬子を奪い返しに来る。自分など関係ない。クーは走りを収めた。空がゆっくりと白み始めていた。・・・
冬子の悲しそうな笑いを思った。自分が中原の孫だったことを冬子はどう思っただろう。もう、冬・・
子とは会えないような気がした。冬子がRIKIと二人でどこか遠くへ去ってしまうような気がした。・・・
朝早い鴨川にそんな思いを流し続けた。比叡を眺めながら悲しみに沈んでいた。視界を舞うユリカ・・
モメになって南への風を一緒に探してみたいと思った。クーの歩みは遅いものだった。歩みへ意識が・・
向いていない歩みだった。・・・
「悲しそうやな…」・・・
それは、瀬音に聞こえたように思った。クーは流れに視線を落とした。・・・
「人間、誰しも悲しみを背負っているんや…。あんた一人が悲しんでいるわけじゃない…」・・・
鳥のような声だった。甲高く空に真っ直ぐ消えていくような声だった。・・・
「悲しみは悪いことやない。悲しみの中にこそ見えるものがある。そうなんやで…」・・・
小柄な老人がクーの後ろに立った。音もなくクーに近付いた。風の音が消えていた。・・・
「そうなんやで、久美子ちゃん…」・・・
老人は笑っていた。大きすぎる程の目がクーに一つの記憶を呼び起こす。懐かしさがクーの胸に沸・・
き上がる。・・・
「おっちゃん?」・・・
老人はクーの肩に手を乗せた。笑いが大きくなっている。皺だらけの顔がクーに優しさのような暖・・
かい何かを届けてくれる。・・・
「おっちゃん。懐かしいなー」・・・
祖父の別荘に出入りしていた植木屋のおっちゃん…。たまに遊んでもらった記憶がある。大きな目・・
が印象的だった。少々変わったおっちゃんだった。幼子のようにクーと一緒にはしゃいだ。幼い遊び・・
に大きな目をむいてムキになっていた。子供みたいなおっちゃんだった。・・・
「久しぶりやな、久美子ちゃん。大きなったなー…」・・・
おっちゃんはあの頃とは変わっていないように見えた。皺が少し増えた程度だ。すぐに思い出した。・・
そういえば、おっちゃんに雀の獲り方を教えてもらった。男の子に苛められない方法を教えてもらっ・・
た。おっちゃんといると楽しかった。逃れてきたあの桜の木に登らせてくれたのもおっちゃんだ。・・・
「おっちゃん、元気だった…」・・・
不思議とクーの中から悲しみが薄れていく。おっちゃんのあの頃の優しさがクーをやるせなさから・・
持ち上げてくれている。少女だった頃がクーに素直に流れる。・・・
「元気やったで。まだ、嫁はんが見付からんけど…。ハハハ…」・・・
笑い顔が魅力だった。深い皺の中に老いた男の生きてきたものが埋まっている。いい笑顔だった。・・・
「まだ探していたの…。おっちやんも諦めが悪いよ…。フフフフ…」・・・
二人は並んで歩いた。日が高くなっていく。ユリカモメの姿も多くなっていく。それぞれが朝の光・・
を身体中に受けている。・・・
「久美子ちゃん、着いて来るんや…。ええとこ連れてってやるわ」・・・
おっちゃんの目に何か黒い光が見えたような気がした。クーの意識に黒い光が影を流したように・・
思った。クーはなぜかその言葉に逆らえなかった。老人の歩みが早くなった。・・・
「遠いところ?」・・・
そう思った。比叡の山の果てか、鴨の流れの行き着く先か…。なぜかそう思った。・・・
「そうや、遠いところや」・・・
クーの手を老人が引いた。暖かさを感じた。父親の手とはこんな感じではないかと思った。不思議・・
な思いだった。・・・
「遠いで。久美子ちゃんなんかが、まったく知らん遠い遠い世界や…」・・・
黒い光が大きくなっていく。クーはその目を見入った。逆さまにした十字架が瞳にゆらりと揺れて・・
いるような目だった。・・・
「遠い遠い世界や…」・・・
おっちゃん…。クーは引き込まれていった。老いた男の澄んだ声が胸になぜか心地よかった。・・・
・・・
・・・
「親父さん!」・・・
中原がもがいた後が見える。箱崎がベッドに寄った。中原の息はない。・・・
「胸を刺されている。心臓を抉られている…」・・・
一瞬、箱崎はRIKIを思った。RIKIが中原を刺したのか…。いや、あの冬子という女か…。・・
迂闊だった。自分が付いていれば…。後悔が箱崎を包んだ。火事騒ぎで冬子を逃してしまったことを・・
悔いた。あの女の異常さを早く沈めるべきだった。まさか火を付けるなど思いも寄らなかった。・・・
「いったい誰が、こんなことを…」・・・
箱崎が大介を振り返る。大介は顔色一つ変えていない。箱崎の意識がさらに乱れた。自らの迂闊さ・・
を悔いる箱崎に大介の無表情が心に痛かった。・・・
「親父さん!」・・・
箱崎は中原を揺すった。中原は動くことをしない。目を開けようともしない。・・・
「死んだか…」・・・
大介が言った。それは遠からず訪れることとは思っていた。中原本人も言っていたことだ。慌てる・・
理由などない。しかし、その形が異常すぎた。心臓を抉られている。明日にも旅立とうとしている者・・
のとどめとすればあまりにも狂気の形である。・・・
「夜明け少し前でした…」・・・
白衣を血に染めていた。中原の最期を看取ったのだろう、当医院の医院長、中原の甥の俊郎が箱崎・・
と大介の中に入った。俊郎からの連絡が中原久美子の異常な行動の中に入っていたのだ。カーテンに・・
火の付いた瞬間には中原の死が伝えられていた。女の部屋の電話に俊郎の声が響いていたのだ。中原・・
久美子が窓を飛んだ。その時には女の叫び声は悲鳴に変わっていたのだ。・・・
「私がいながら…。叔父は警護の人を帰していました。いつものことです。叔父は言っていました。・・
明日にも死のうという者をわざわざ殺しに来る酔狂な奴はいない…。私もそう思っていました。それ・・
に、叔父に殺される理由はないはずです。叔父は優しい叔父でした。人に恨まれるようなことは私に・・
は考えられません…」・・・
俊郎も責任を感じている。警護を帰した。大介はそのことを知っているのだろうか。手薄な警護の・・
責任は大介にあるのだ。・・・
「分かった。ももうい…」・・・
大介が静かに言った。声に何の思いも感じられない。・・・
「どうせ、中原の叔父貴は死んでいた…」・・・
その通りだ…。その通りなのだ…。しかし、箱崎は大介に怒りを覚えた。長年中原に仕えた箱崎に・・
とって、やはり中原の死は衝撃だった。大介が中原の側にいるからこんなことにはならないと思って・・
いた。大介が中原に付いていてくれるから箱崎も安心して仕事を続けられたのだ。こんなことになる・・
のなら…。大介に向けた怒りが自らへ戻る。悔いの思いが箱崎の中で膨れ上がる。・・・
「あの人が来たんです。あの怪物が…」・・・
大介の表情が一瞬鋭くなる。俊郎の脅えが激しくなる。・・・
「怪物です。悪魔です…」・・・
俊郎の異常な震えが箱崎にも見える。怪物…。悪魔…。どういうことなのだ…。・・・
「悪魔の目に私は意識を失った。いや、恐ろしさに足が動かなかった。悪魔だ…」・・・
何かに取り憑かれたように、俊郎が恐れの思いを繰り返し話し始めた。箱崎はその中に中原を刺し・・
た者の影を探した。あの人の目には逆らえない…。いきなりやってきた…。私はあの人の目を見た…。・・
ただ、それだけだ…。大介も知っているだろう…。あの人の目を…。それは、箱崎の苛立ちを刺激す・・
るだけだった。俊郎の脅えだけが言葉に揺れているだけだった。・・・
「俊郎先生。落ち着くんだ。もう、脅えることはないではないか。おれがここにいる」・・・
大介がそれを制止した。俊郎の震えが止まる。・・・
「私が物音に駆けつけた時には、叔父の息はありませんでした。大きく目を開き、苦渋の表情に事切・・
れていました。私が叔父の目を閉じました。恐ろしい形相でした」・・・
そこまで俊郎は一気に話した。話し終え肩を落とした。この中で、俊郎たげが中原の死を心から悼・・
んでいる。そんな思いに箱崎は落ちていく。・・・
「話は後で聞く。それより、中原の叔父貴をこのままにはしておけない。警察へは届けるな」・・・
大介が言い放った。俊郎が主治医の顔へ戻っていく。・・・
「箱崎、応接で待っている」・・・
大介にまったく変化が見られなかった。箱崎は俊郎が医師の仕事を再開しだしたのを恨めしげに見・・
た。中原の哀れさと無念さが箱崎に改めて押し寄せてきていた。・・・
・・・
・・・
長い間、心に引っかかっていたことがようやくに取れた。クーは朝日に浮かれていた。鴨の河原の・・
流れ沿いを小柄な老人と歩き続けていた。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
「やっと思い出したの。この歌、おっちゃんがあたしに教えてくれたんだっけ…。あたしがまだ小学・・
生。おっちゃん英語で歌っていたから、この部分しか覚えられなかったけど…」・・・
クーの側をユリカモメが過ぎる。川の臭いをクーに運ぶ。クーは老人の優しさに惹かれていた。幼・・
い頃を次々と思いだしていた。・・・
「英語やない。ドイツ語や…」・・・
皺だらけの顔とどうしてもこの歌がフィットしない。クーは笑いを堪えた。先程までの出来事がな・・
んだか嘘のようだった。あの家は燃えてしまったのだろうか…。ふと思った。救急車の音は聞こえな・・
かったけど…。どうでもいいことだった。クーは徐々に軽くなった。河原を何度もステップで飛んだ。・・・
「へー、ドイツ語か。マレーネ・ディートリッヒだね…」・・・
老人が頷く。きっと、マレーネ・ディートリッヒのファンだったんだ。クーはもう一度ステップを・・
踏んだ。ユリカモメに飛んだ。・・・
「おっちゃんの名前聞いたことないね。いつも夏になるとあの別荘で遊んでくれたのに…。あたし、・・
おっちゃんのこと、なんて呼んでいたのかしら…」・・・
寒さが和らいでいた。朝の日が高くなっていた。老人もリリー・マルレーンを口ずさんでいた。・・・
「光男や。新井光男。つまらん名前や…」・・・
・・・
―wie einst Lili Marleen…。・・・
wie einst Lili Marleen…。・・・
・・・
「リリーという女がおった。わしが名付けた。ストリッパーや。わしはリリーに惚れた。ぞっこん・・
やった。ええ女やった…」・・・
おっちゃんの話は楽しかった。幼い頃の犬獲りの話。ヤクザの親分に売られたこと。強制労働の話。・・
戦時中の大暴れ。信じられない話だったが、おっちゃんは一つ一つ丁寧に話してくれた。クーが時折・・
質問を挟むと立ち止まり随分と考える。おっちゃんはできるだけクーに分かるように話を砕いてくれ・・
た。被差別地区の生活、在日朝鮮人の苦悩、占領下の東京などを理解することはクーには少々荷が重・・
かった・・・
「生涯一人だけや。わしか本気で惚れたんはリリーだけや…」・・・
・・・
―wie einst Lili Marleen…。・・・
wie einst Lili Marleen…。・・・
・・・
「この歌のような女やった。いつも、男たちに囲まれていた。みんな酒を飲んで騒いだ。みんなリ・・
リーのファンやった…」・・・
鴨川に汚れが目立つようになってきた。この辺りは観光コースから隔たっているのか、ゴミが少し・・
多くなっている。どことなく上流の雰囲気とは違う。何か都を離れた下町の臭いを感じる。どこかか・・
ら醤油の焦げる臭いがしてきそうな雰囲気だ。・・・
「リリーはこの辺で生まれたんや。わしと同じ朝鮮人や。リリーは気まぐれやった。自分も朝鮮のく・・
せして、わしのことチョウセン、チョウセンて呼びよった。まあ、リリーには腹立たんかったけどな。・・
もうすぐ行くと、わしの生まれた場所や。今は、えらいきれいになってもうたけどな…」・・・
・・・
―気ままな娘よ…。みんなの憧れ…。・・・
・・・
「いつやったか、マレーネ・ディートリッヒが大阪へ来たんや。万博の年やった。わしはリリーと観・・
に行った。久美子ちゃんのじいちゃんも一緒やったわ。マレーネ・ディートリッヒ。ええ女や…」・・・
祖父とディートリッヒの組み合わせもしっくりこない。クーは笑みを重ねた。口ずさむリリー・マ・・
ルレーンが風に揺られていく。・・・
・・・
―いつもの酒場で、陽気に騒いでる…。・・・
・・・
「リリーはわしの子を産んだ。そして、死んだ。哀れな女やった」・・・
リリー・マルレーンに子は似合わない。でも,死は似合うような気がした。クーは歌を止めた。リ・・
リーの哀れさがクーにも何となく分かった。・・・
「おっちゃん、その子供はどうしているの?」・・・
クーは聞いてみた。リリーの分までその子は幸せにならないといけないように思った。きっと、・・
おっちゃんが大切に育てたんだ…。きっと、幸せなんだ…。・・・
「久美子ちゃんのように別嬪さんになったわ。ちいさい頃、よう遊んだった。それだけや。父親らし・・
いことをしたのは…」・・・
おっちゃんが悲しそうに見えた。人間、誰しも悲しみを背負っている…。おっちゃんとの再会に・・
おっちゃんが言っていた言葉を思い出した。あんた一人が悲しんでいるわけじゃない…。そうなのだ。・・
おっちゃんも随分悲しい思いをしてきたんだ。・・・
「リリーが眠っているんや。その橋を越えたとこや。わしの母親と同じ場所に埋めたんや…」・・・
老人の歩みが早くなった。クーはその歩みに合わした。おっちゃんの悲しみがクーを責めていた。・・
老人の背が余りにも哀れすぎた。・・・
橋を過ぎるとおっちゃんが水辺に降りた。懐からタバコを取り出し火を付ける。・・・
「線香代わりや…」・・・
器用にタバコを逆さまに小石に挟んでいた。白い煙が朝に消えていく。腰を落とした老人が途方も・・
なく小さく見える。クーは手を合わした。目を閉じ、おっちゃんの周りの者たちのことを思った。・・・
「リリーは、あの世で今も踊っているそうや…。この世にいるときよりうまく踊れているそうや。わ・・
しを待ってるて。はようお出でて。ハハハハ…」・・・
本当であって欲しいと思った。リリーが今も踊っている。リリーは幸せを掴んだんだ。本当にそう・・
であって欲しいと思った。・・・
「おかあはんも待ってるて。わしの顔、忘れてしもたてゆうとった。お前が来るまで寝てるから、着・・
いたら起こしてやて。薄情なやっちゃ…。ハハハハ」・・・
おっちゃんは線香代わりにしたタバコを吸った。その煙が空へ上る。おっちゃんのお母さんや、お・・
つちゃんのリリーのいる空へ昇っていく。・・・
「久美子ちゃん。わしの家へ来るか? リリーの写真があるんや。見いひんか…」・・・
クーは頷いた。思いの中の、あの少年も、RIKIも、そして、冬子も遠ざかっていた。クーはリ・・
リーのように別な世界で踊りたくなっていた。雲の上、いいや、空の上…。クーにはおっちゃんのリ・・
リーが宇宙の遥かなる風に揺られているように思えた。何となく羨ましかった。・・・
「久美子ちゃん、Lili Marleenを、もういっぺんだけ、歌うてんか…。リリーに歌うて・・
やってんか…。頼むわ…」・・・
もう一度クーは頷いた。おっちゃんが嬉しそうに笑った。どこからか醤油の焦げた臭いがやっぱり・・
してきた。・・・
・・・
―お前の赤い唇に、男たちは夢を見た…。・・・
夜明けが来るまで、すべてを忘れて…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
・・・
「遺書らしきものがありました」・・・
俊郎が大介と箱崎に封書を手渡した。市販のどこにでもある封筒に二人の名が別々に書かれている。・・
箱崎はその一つを手に取った。中原の死を現実に受け止めた瞬間だった。・・・
大介が応接室のソファーに沈んだ。俊郎から目を逸らさずにテーブルに両足を組んだ。窓からの光・・
がテーブルに反射して大介の顔を照らしている。大介は相変わらず無表情だった。箱崎はその表情に・・
ふと思った。十年以上前だろうか、大介が誤ってスパーリングの相手を半殺しにしてしまったことが・・
あった。あの時、大介は何気なく言った。死んでないのか…。あの時の表情と同じだった。光を浴び・・
る大介が箱崎には大きく映っていた。箱崎は大介の斜めに腰を下ろした。・・・
「警護のみなさんは叔父が帰していました。大介さんもそれは知っていますよね」・・・
責任は我になし。それを俊郎は確認しているのだ。どうでもいいことだ。中原は殺されたのだ。・・・
「そんことはいい!」・・・
大きな声が箱崎から漏れた。箱崎はその場に立った。じっと座っていられる状況ではなかった。苛・・
立ちを押さえることがかなり困難になっていた。・・・
「怪物とは誰のことなのだ! 誰が親父を殺したのだ!」・・・
箱崎は俊郎の後ろに立った。大介を正面から見た。朝の光が大介に揺れる。中原を刺した者への怒・・
りが大きくなる。・・・
「箱崎。その怪物とはおれの親父だ」・・・
大介の無表情が微かに動いたように思った。大介が微かな笑みを浮かべたように見えた。箱崎は大・・
介に身を乗り出した。俊郎の頭越しに大介に寄った。・・・
「坊ちゃん…。どういうことです?」・・・
箱崎は焦っていた。怪物が大介の父親。中原が一度言っていた大城憲一郎のことか…。大城憲一郎・・
は既に死んでいるのではなかったのか…。話が見えない。箱崎の苛立ちが膨れ上がる。・・・
「大城憲一郎は生きている。おれの親父は生きている…」・・・
今度は大きく笑った。大介のその笑いが悪魔の嘲笑に見えた。箱崎に震えが襲った。大介の浴びる・・
光が自分にも覆い被さってくる。・・・
「箱崎。恨むのなら、おれの親父を恨め」・・・
大介の笑いは一瞬だけだった。箱崎は席に戻った。全身に震えが小刻みに回る。狂気の影が大介に・・
見える。自分にある黒い影さえ闇に引き込んでいくような影だ。箱崎は全身の力を抜いた。・・・
「親父らしい。あの悪魔の親父らしい! ハハハハ!」・・・
再び大介が笑った。弾けるようないつもの笑いだ。箱崎の震えが収まった。・・・
動き出すのだ。中原の仇討ちだ。悪魔だろうが怪物だろうが、それが自分に課せられたものなのだ。・・
中原の恨みを晴らしてやる。自分は中原に拾われた。最期を看取れなかった自分のせめてもの恩返し・・
だ。箱崎は大介に背を向けた。・・・
大城憲一郎…。箱崎はそれへ向かう。大介にもそれが見えているようだ。背の大介が頷いたように・・
思った。箱崎はドアを出た。熱い思いが箱崎の胸を渦巻くように静かに蠢き始めていた。・・・
・・・
(2)・・・
・・・
「おっちゃん。リリーさんのこともっと聞かせて…」・・・
おっちゃんの家はマンションの一室だった。最近建ったマンションのようだ。十一階建て。おっ・・
ちゃんの部屋はその最上階。一番広いタイプだそうだ。おっちゃんはその広いマンションで一人暮ら・・
していると言った。おっちゃんの生活の充実ぶりになぜかクーは胸を撫で下ろしていた。・・・
「ええ女やったで、リリーは…」・・・
リリーの写真は結局見付からなかった。おっちゃんはそれをどこにしまったか忘れてしまっていた。・・
マンションへの引っ越しの時にどこかへ紛れ込んでしまったようだ。おっちゃんは無念そうな顔を・・
クーに向けた。ない…。悲しそうな声だった。クーも落胆した。思いの中のリリーが、少し遠くへ・・
行ってしまった気になった。・・・
「リリーは足がきれいやった」・・・
リリーの話を続けてくれていた。おっちゃんは笑ったままだった。昔話が老人には似合っていた。・・・
「みんなリリーの足に憧れたわ…」・・・
一人暮らしなので、すべての部屋をリビングにぶち抜いたそうだ。毛足の長いモスグリーンの絨毯・・
が広すぎる部屋に落ち着きを醸し出している。白い壁にはゲーリー・クーパーと抱擁を交わすディー・・
トリッヒがいる。限りなくおっちゃんに似合わない部屋だった。・・・
「わしの足の倍や、長かったわ…」・・・
これくらいの生活はできるんや…。おっちゃんはそう言って笑った。中原の別荘での植木の手入れ・・
は趣味でやっていたんだそうだ。友人の中原に無理矢理やらしてもらっていたそうだ。それが、クー・・
に謎となった。何の仕事しているの? 聞けどもおっちゃんは笑っているだけだった。・・・
「踊りはしなやかやった。男を喜ばす術を知っとった。ゆで卵のような肌やった…」・・・
ソファーに足を伸ばすおっちゃんはまるで場違いの道化師のように見える。ソファーの方がおっ・・
ちゃんより遥かに大きい。伸ばす足がテーブルにかろうじて届いてる。その姿勢を無理に我慢してい・・
るのではないだろうか…。クーの笑みがどんどん拡がっていく。・・・
「リリーはわしらとは違う色の目をしとった。ほんの少しだけブルーがかかっていたんや。リリーは・・
戦場で生まれたそうや…。どこの戦場やったかは忘れてしもたわ…」・・・
おっちゃんが煎れたコーヒーが途轍もなくおいしかった。その香りがまだ部屋に残っている。クー・・
はセーラムを取り出した。おっちゃんがすかさず灰皿をクーの前に置く。おっちゃんも楽しそうだ。・・
自分の昔話に酔っている。・・・
「リリーは戦火のまっただ中に生まれたんや。父親が青い目を持っとったんやろ…。そんなことリ・・
リーは言っとった。悲しそうにゆうとった。」・・・
クーの中でリリーが形になっていく。青い目をした在日朝鮮人。美しい色をしたチョゴリと、青い・・
目をしたお人形のひらひらのドレスと、そして、きらびやかなステージ衣装が入り交じっていく。リ・・
リーがクーの中で踊っていた。きっと、BGMはリリー・マルレーンなんだ…。クーの意識の中に・・
ディートリッヒもお邪魔してきた。・・・
「舞台の後はわしらと呑むんや…。リリーはウイスキーしか呑まなんだ。ニッカや。知ってるやろ。・・
ハッカちゃうで…」・・・
セーラムの煙と掛けているらしい。なかなか若いね、おっちゃん…。クーはそれを誉めた。・・・
「似てるわ。リリーもそんな風にタバコを吸ってた。二本の指を真っ直ぐ立てて…」・・・
クーの中のリリーが笑っていた。笑顔がタバコの煙に少しだけ霞んでいた。タバコを挟む人差し指・・
と中指がおっちゃんの言うようにピンと立っていた。・・・
「酔っぱらうとよく歌ととった。Lili Marleenはリリーに教えてもらったんや…。だか・・
ら、わしはあいつをリリーと名付けた…。ピッタリやったわ。ほんまの名前、忘れてもうたわ…」・・・
リリーが椅子に足を組んでいる。ウエストまで切り込んだドレスから長い足がはみ出している。・・
クーの中のリリーがクーに身近に感じられた。気ままな娘よ…、みんなの憧れ…。そう、みんな憧れ・・
だったのよ、リリー…。・・・
「リリーはなかなか落ちんかった。リリーはみんなのものや。独り占めは暗黙のルール違反やった」・・・
いつもの酒場で陽気に呑んでいる、リリー…。ニッカとタバコを交互に口に運ぶ。時折、男たちの・・
前で踊る。舞台とは違った踊りを披露する。そして、男たちにしなる。ええ女やった…。おっちゃん・・
の言葉を理解していた。そう、いい女だったんだ、リリー…。・・・
「それでも、わしはリリーをものにした。力づくやった」・・・
おっちゃんとリリーが抱擁を交わしている。おっちゃんが若い逞しい肉体でリリーを抱き留めてい・・
る。盛り上がったおっちゃんの肩がリリーを押さえつけている。・・・
「リリーもわしの思いを分かってくれていた。リリーはわしの胸で泣きおった」・・・
リリーは、おっちゃんを愛していたのよ…。その涙は、おっちゃんを思い続けていたリリーの安堵・・
の涙よ…。いや、切なさの裏返し、嬉しさの涙よ…。そうじゃないのかな…。不思議だった。クーに・・
リリーの思いが限りなく近くに感じられた。・・・
「処女やった。びっくりしたわ。わしはとろけてしもた。メロメロや…」・・・
操を守り抜いたのだ。なんていい女なのリリー。男たちには希望だけを与え続けたのね。肌を男た・・
ちに晒し、男たちの輪の中に光を見せていたのね。リリーは立派な女だ。自分を大切にしていたんだ。・・
クーはリリーを羨ましく思った。リリーのような女になりたいと思った。・・・
「わしらは一緒になった。リリーは踊るのを止めた」・・・
どうして…。どうして、リリーは踊るのを止めたの…。男たちに希望を与えるのよ。光を見せてあ・・
げるのよ。リリー、どうして…。・・・
「悲しそうやった。今になって思うけど、リリーを踊り続けさせてやったらよかった…」・・・
そうよおっちゃん。リリーは気ままな娘なのよ。やっぱり、おっちゃんが独り占めしたのがいけな・・
いのよ…。リリーは踊り続けたかったのよ…。・・・
「悲しそうやった…。なぜか、とびきり哀れに見えた。わしは、リリーを誰よりも幸せにしてやると・・
誓った。リリーはよう泣く女やった…」・・・
おかしいよ、おっちゃん…。リリーは強い女よ。そんなに泣く女じゃないよ…。おかしいよ、おっ・・
ちゃん…。クーにリリーの悲しみが朧気ながら揺れる。リリーは幸せじゃなかった。おっちゃんと一・・
緒になっても幸せを掴めなかった。やっぱり、踊り続けたかったんだ…。・・・
「リリーは死んだ。女の子を残して、そして、わしを残して…。わしはリリーを恨んだわ…」・・・
リリーは自ら生命を絶った。クーにはそんな気がした。リリーの幸せはどこにもなかったんだ。・・
クーは探した。クーの意識の中を踊るリリーの姿を探した。・・・
「アホや、リリーは…。わしを一人置いていきおった…」・・・
クーの中にリリーの姿が見えなくなっていた。美しいチョゴリも、お人形のドレスも、スパンコー・・
ルのステージ衣装も見付からなかった。どういう訳か急におっちゃんが憎くなった。・・・
・・・
・・・
『箱崎。RIKIが大城に向かっていく。手を貸してやって欲しい。大城とは新井光男のことだ』・・・
中原の残したものはそれ一行だった。いつもの中原の字とは少し違っていた。乱れのようなものが・・
文字に見える。ペンの走る跡の強弱の差がかなり激しい。・・・
「親父さん。どういうことなのです…」・・・
中原の意図が分からなかった。RIKIに手を貸せ…。どういうことなのだ。箱崎は、メルセデス・・
を運転しながら何度も唇をかんでいた。・・・
・・・
箱崎は中原に拾われた。箱崎は中学も出ずに国を出てきた。箱崎の育った海辺の村は箱崎にとって・・
何の魅力もないものだった。箱崎は破壊の日々を続けた。荒くれの箱崎に喧嘩で適う者など村にはい・・
なかった。幼い頃からの漁の手伝いで、体は大きく腕っ節は大人と変わらなくなっていた。何かの手・・
応えを求めたのだ。ぶつかる何かを求めたのだ。箱崎は村中から斜めの目を向けられるようになって・・
いた。次々と物を破壊した。学校、港、駅、ガラスの割れる音が箱崎にとって何かからの解放のよう・・
に思われた。・・・
東京…。ガラスの割れた跡にその言葉が揺れた。ガラスの落ちた窓にバカでかいビルが見えた。東・・
京…。箱崎は憧れた。学校を何度も停学になった。学校は箱崎の存在すら忌み嫌った。箱崎は思った。・・
そんな学校に自分の存在している理由はない。意味がない。自分の存在は東京で自分自身で確認して・・
やる…。そんな思いで箱崎は一人で汽車に乗った。・・・
甘くないとは知っていた。すぐに世間の役に立つなどとも考えていなかった。しかし、それを耐え・・
ることによって道は広くなっていくものだと信じた。我慢さえすれば東京の大人たちの仲間入りがで・・
きるものだと思った。幼い頃から無理矢理に漁の手伝いをさせられていた箱崎には、忍耐ということ・・
を自らの身で理解しているつもりだった。破壊の行動とそれを結びつけて考えてはいなかった。・・・
職は思ったよりすんなりと見付かった。世間は高度経済成長の真ん中だった。箱崎は電柱に貼り付・・
けてあった募集広告の一つが気に入った。学歴不問。その四文字に飛びついた。土木現場の作業員。・・
身体一つで飯場に潜り込んだ。中原建設が請け負っていた高速道路の現場だった。そこで覚えた。酒。・・
博打。女…。田舎とはまったく違う世界だった。・・・
女ができた。十七になっていた。飯場の仲間たちとよく行くトルコ風呂に勤めていた女だった。箱・・
崎はその女に入れ込んだ。ヤクザの紐が付いていることぐらい知っていた。女を逃がしヤクザを呼び・・
出した。女と手を切れ…。女のためなら怖いものなどなかった。体力と喧嘩には自信があった。ヤク・・
ザを半殺しにした。オトシマエなどクソ喰らえだった。・・・
それで終わる程ヤクザの世界も甘くない。次の日、逆に半殺しの目にあった。相手は五人。多勢に・・
無勢、適うはずなかった。しかし、女の居所は決して吐かなかった。箱崎の男としてのメンツが肉体・・
の痛みよりも勝った。多勢のヤクザの卑怯さを叫び続けた。・・・
怒りが収まらなかった。箱崎は怪我が治ると五人のヤクザを一人一人狙った。執念だった。根気よ・・
くそれらの者が一人になるのを待った。五人とも足腰立たなくしてやる。箱崎は木刀一つで次々と男・・
たちを伸していった。一対一だとたわいないものだった。・・・
事は当然大きくなる。ヤクザの組は箱崎が寝泊まりしている飯場を襲撃した。人夫たちの大勢がそ・・
れに巻き込まれた。箱崎はその時飯場にいなかった。逃がした女の所へしけ込んでいた。・・・
現場中の騒ぎになった。たまたま、中原建設社長中原荘二郎が現地視察に来ていた。ヤクザはそれ・・
を知っていたのだ。ヤクザたちは中原に詰め寄った。箱崎にやられたチンピラのオトシマエを取れ。・・
逃げた女の足抜け代を出せ。箱崎のガキをこちらへ渡せ。当然、金になると踏んだのだ。親分らしき・・
ものが中原を威嚇していた。応接の椅子に足を投げ出し日本刀をかざしていた。若い者が拳銃を中原・・
へ突きつけていた。・・・
その時に箱崎は飯場へ戻った。現場事務所の異様な雰囲気の中に飛び入った。その男が、中原荘二・・
郎とは箱崎は後で知った。男はヤクザの組長に低い声で何か言っていた。・・・
「箱崎は渡せない。お前らヤクザは人間のくずだ。その人間のくずを叩いた箱崎は私が守る。今時珍・・
しい度胸者だ。お前ら箱崎の爪の垢でも煎じておけ…」・・・
箱崎は驚いた。チンピラが差し出している拳銃が震えていた。男だった。箱崎が思い描いていた男・・
の姿だった。男は続けた。眉一つ動かさずに組長を凝視していた。・・・
「金も払わない。男の喧嘩だ。私に逆らうな。お前たちヤクザなど瞬間に捻り潰してやる」・・・
箱崎ですらその迫力に跪きそうになった。男の果てしない大きさが箱崎に押し寄せた。生命など捨・・
てていた。五人も叩きのめした。男としての男を全うしたまでだ。生命などくれてやる。そう思って・・
いた。しかし、目の前の大きな男に心が動いた。こんなの男のために死にたい。こんな大きな男のた・・
めに死にたい。箱崎の目に涙が溢れた。・・・
「用が済んだら帰れ。帰らないと私が叩き出してやる」・・・
男はチンピラの拳銃を何ともなしに奪った。チンピラは固まっていた。・・・
「さあ、帰ってもらおう」・・・
若い者の手前、その場で帰ったら示しが付かない。組長が立ち上がった。手にした日本刀を抜いた。・・
鞘が箱崎の目の前に転がった。・・・
「いい加減にしろ!」・・・
初めて男が声を荒げた。組長の日本刀が男の頭に振り下ろされた。・・・
「ウオー!」・・・
その瞬間、箱崎は飛んでいた。男の前に身を投げ出していた。・・・
「ウオー!」・・・
刀が空を切った。しかし、二の手が来た。箱崎は男に抱きついた。この人に指一本触れさせない。・・
その思いが箱崎を狂気の渦に巻き込んでいた。・・・
「バカ!」・・・
男の怒声が聞こえた。耳から頬に激痛が走った。箱崎の鮮血が男に掛かった。箱崎は一瞬、それを・・
拭うものを探していた。・・・
「帰らないなら死ね!」・・・
男が日本刀を組長から奪った。チンピラから拳銃を奪った時と同じだった。組長が固まった。・・・
「箱崎。私の代わりに臭い飯を食ってこい」・・・
そう言うと、男は組長を袈裟に掛けた。血飛沫が上がった。箱崎にもそれが飛んだ。・・・
「私は中原荘二郎。箱崎とやら、務所から出たら私を訪ねてきなさい」・・・
その言葉に箱崎は跪いた。組長の断末魔の叫びが現場事務所に響きわたっていた。・・・
・・・
信号が青になっていた。箱崎は後ろからのクラクションで我に返った。・・・
「親父さん…」・・・
あの新井光男が中原を殺したのか…。そんなバカな。奴はただの植木職人ではなかったのか。・・・
「親父さん。すべてを打ち明けてくれていたなら…」・・・
道は混んでいた。冷たい風が車の間を掠めていくのが分かる。箱崎は自分の思いの中に沈んだ。車・・
窓から見えるものがすべて同じ色に見えた。・・・
「親父さんのために死にたかった…」・・・
新井光男が大城憲一郎だと…。大城憲一郎は一体何者なのだ…。呟きが何度も箱崎から漏れる。新・・
井光男…。それへRIKIが向かっている。そして、そのRIKIを助けてやって欲しい…。親父さ・・
ん。一体どういうことなのだ…。・・・
「一体どういうことなのだ!」・・・
箱崎の怒りは複雑な波となっていた。ハンドルを握る手に徐々に力が入った。・・・
・・・
・・・
クーは逃れた。クーは中原の孫だった。それがどうしたというのだ。クーの悲しみを和らげてやり・・
たい。しかし、それは叶わなかった。クーの行方が知れない。・・・
RIKIをクーは追い続けていた。中原の孫なればあり得る話だ。RIKIに淡い恋心を抱いた。・・
乙女の思いを少年に乗せた。冬子はクーの哀れさを悲しく思った。クーが冬子を見る目の中に他の何・・
かがあることは知っていた。しかし、それがRIKIだったとは…。・・・
クーの手がかりは中原しかなかった。冬子は北山中原医院に足を向けていた。・・・
「乗って下さい…」・・・
その時に不破が冬子に声をかけた。冬子のBMWから聞こえた不破の声は幾分かすれていた。・・・
「クーは大丈夫。奴らから逃げた」・・・
関係のないクーが自分の戦いに巻き込まれている。クーだけは守りたかった。冬子は再びクーと二・・
人、猫を膝に乗せてビールを飲めることを祈った。クーのリリー・マルレーンが聞きたかった。・・・
BMWを医院より離れた場所に置いた。自分たちの存在は相手も分かっている。姿を隠す必要はな・・
いのだ。クーはこの車を知っている。クーにも分かる位置に停車した。・・・
不破と情報を交換した。不破まで巻き込みたくなかった。冬子は不破にそれを告げた。しかし、不・・
破は首を縦に振らなかった。とりあえず不破を助手席に仮眠させた。冬子が運転席に座った。・・・
待つしかなかった。何か動きがあるはずだ。中原と大介たちは合流するだろう。いや、もう大介は・・
医院の中にいるだろう。あの電話は中原の異常を伝えていた。箱崎と相対している時、あの女が叫ん・・
でいた。大介さん! 病院へ! ・・・
箱崎も冬子への攻撃を収めた。大介さん! 病院へ! 女の異常な悲鳴が部屋に轟いた。箱崎は大・・
介の後を追って行った。中原が朽ちた。中原が死んだのだ! あの時、咄嗟にそう思った。冬子も中・・
原の別荘から逃れた。そして、この医院に向かった。・・・
新たな動きがあったのは、それから一時間程してからだった。冬子はそれをBMWの中から見た。・・
やはり、中原が死んだのだ。医院から飛び出していく箱崎の顔にそれを読み取った。冬子はBMWを・・
出した。不破が目覚めた。その時に冬子はそれを見た。・・・
竹中達彦…。・・・
懐かしい背中だった。遠目にもよく分かった。竹中が中原医院を張っていた。木の陰に身を潜めて・・
いた。・・・
「箱崎を追いますか…」・・・
不破には竹中が見えていないようだった。メルセデスに乗り込む箱崎に目を向けている。・・・
冬子は迷った。箱崎の動きが気になった。中原が死んだとすれば真実を知っている数少ない男だ。・・
真実への道はやはり箱崎が握っている。・・・
「お願い、不破さん…」・・・
冬子はBMWを降りた。自分は中原医院を張る。竹中も気になる。いや、竹中が気になる。・・・
「気を付けて…」・・・
不破が言った。不破の心遣いが冬子に染みた。優しさのあふれた言葉だった。・・・
冬子はBMWを見送った。そして、思いを竹中に向けた。木の陰から微かに見える男の背へ向けた。・・
冬子は歩みを緩く医院に進む。箱崎のメルセデスが遠ざかった。竹中の潜む木立を風が叩いたのだろ・・
う、葉が強く揺れた。それと同時に竹中の背が小さく動いた。・・・
幾度あの背に縋りたい思いになったものか…。引き締まった広い肩。あの堅さを知っている。両の・・
肩胛骨周辺の筋肉の盛り上がり。あの柔らかさを知っている。脊柱を走る太い一筋の帯。あのしなや・・
かさを知っている。・・・
竹中達彦…。その名を知ることすら許されていなかった。・・・
あれから五年経った。冬子はそれまでの世界から逃れた。竹中を裏切ったのだ。いや、冬子の行動・・
を竹中は理解してくれていたはずだ。竹中は冬子を追わなかった。別れは言わなかっただけのことだ。・・・
木の陰に立つ竹中の背はあの頃と変わっていなかった。静止する時は必ず背は開けておけ…。竹中・・
の声が聞こえてきそうだ。突然の攻撃からの間の確保だ…。恨んだ。竹中は決して冬子を女として扱・・
わなかった。いや、女として見ることすらなかった。・・・
こんな場所で再会したくなかった。あれから竹中に何があったのだろう…。なぜ竹中がこんな場所・・
にいるのだ…。竹中の躍動する姿が脳裏に浮かぶ。あの頃の思いが激しく冬子に押し寄せる。抱かれ・・
たい。あの頃のように抱かれたい。それが、房中、閨中術の訓練でも構わない。今なら、あの背に鋭・・
く爪を立ててみせる。・・・
愛というものを知らなかった。愛というものは冬子を大きく迂回して過ぎていくものだった。だか・・
ら、憎悪に燃えた。女の情に悶えた。冬子はそうして女になった。そこには愛は存在しなかった。竹・・
中は冬子を受け入れたりしなかった。・・・
疑似なる愛を竹中に求めていたのかも知れない。愛というものも欠片を探していただけなのかも知・・
れない。しかし、竹中の名を知った。それが冬子の中で燃えていく。自分でも分からない何かが音を・・
立てていく。・・・
そんな思いが巡り巡る。冬子はそれを振り払った。・・・
中原が死んだのだ…。竹中への思い…。今はそんな思いすら持ってはならない。・・・
冬子は足を早めた。その時、医院から大城大介が顔を出した。大介は微かな笑みを作っていた。そ・・
の笑みが冬子にはやはり醜く映った。冬子の視線は大介に張り付いた。木立の竹中が動きを始めたの・・
が冬子には見えなかった。・・・
冬子は更に足を早めた。淡い冬の日差しが惜しみなく冬子に注がれていた。・・・
・・・
・・・
中原の死…。それが合図だった。大城の血が一つに集まる合図だ。大介の胸に熱いものが上がる。・・
いよいよなのだ。親父の道を引き継いでいく。すべての者が親父にひれ伏したように、今後は自分に・・
ひれ伏していく。大介の思いが形を整えていくのだ。親父の思いと結び付いていくのだ。大介はメル・・
セデスのアクセルを緩めた。メルセデスの静かなうねりが収まっていく。・・・
車窓を眺めた。美しい鴨の流れが通りに沿って見える。整備の整った河原に老人たちが散歩を楽し・・
んでいる。冬の静けさに舞うユリカモメと共に緩く流れる時間を創りだしている。学生たちのランニ・・
ングの声がそれを邪魔することなく別の空から聞こえる。鴨の流れは止まっているのか、車内からは・・
それが見えなかった。大介はさらにアクセルを緩めた。・・・
笑いが止まらなかった。親父が中原を殺した。放って置いても後一日二日の者の胸をナイフで抉っ・・
た。親父らしい。親父は中原のことに付いても自分でけりを付けたかったのだろう…。いや、自分の・・
血を持つ者への合図を自らの手で行いたかったのだろう…。すべて自らの思いのまま動く親父らしい。・・
大介の笑いは大きく拡がっていく。熱い胸に心地よく絡まっていく。・・・
親父を誇りに思っている。自分の中にも親父と同じ血が流れていることに限りない程の喜びがある。・・
親父は言った。わしの血が一番濃いのは大介だ…。大介こそ、わしの思いを引き継ぐ唯一の男だ…。・・
大介はその言葉に頷いた。もっともだと思った。自分こそ大城憲一郎の正当な流れの中の中心に位置・・
する。神に選ばれた者に選ばれた者だ。いや、親父こそ神だ。自分は神に選ばれた。・・・
特殊な能力を親父が持っていることも知っている。目の十字架が黒く光る時、すべての者が親父に・・
跪く。親父の言いなりになる。大介はその訳をも知っていた。親父はただ相手に恐怖を植え付けてい・・
るに過ぎない。目に十字架が光る訳などない。親父は相手の目を通して相手の心を睨み付けているだ・・
けなのだ。相手の中に棲む脅えの思いを鷲掴みにしているだけなのだ。・・・
それは親父の培ってきた精神にある。すべての激しい思いを目に集中させる。いわば念だ。限りな・・
い力を思念に乗せるのだ。サーカスの虎使いが虎に恐怖を植え付けていくようなものだ。修行者が木・・
の葉を宙に舞わすようなものだ。手品師が笑顔で相手を虚の世界へ陥れるようなものだ。・・・
それを、大介が引き継いでいくのだ。親父の血を一つに集結していくのだ。親父が戦後暴れまくっ・・
たように大介もその力を発揮していく。舞台は整っている。そして、それを演じる者たちが集まって・・
くる。大城の血族の旗揚げなのだ。・・・
中原の死…。それは親父の血を引く者たちに素早く伝えられる。それらの者が集結する。次々に京・・
都へとやってくる。あの河原だ。親父の母が眠る河原だ。親父の生まれた河原だ。都から果てしなく・・
遠い河原だ。・・・
元副総理久保山剛造も来る。自由党現政調会長久保山竜太郎も来る。・・・
総会屋の吉田。政治記者の安井。ライターの木下。みんな河原へと集まってくる。幻神会の小松。・・
浪速会の藤原。公安警察の土井。自衛隊特殊部隊の田中。すべて親父の血を引いている。大介の兄た・・
ちだ。これからの日本に幅を利かせていくメンバーだ。S銀行の若手取締役池田。中原建設の次期社・・
長大島。新宿マフィアの孫。すべて、中原の死に真っ先に河原へと向かってくる。いや、もうすでに・・
向かって来ているだろう。・・・
親父はこれらの者たちを大介に残した。果てしない程の執念だ。莫大な金。特殊な能力。長い時。・・
そして、熱い情熱。親父はそれらをすべて注ぎ込んだ。親父の生きている証だった。飴とムチ。親父・・
はそう言っていた。・・・
しかし、それがどんなに忍耐を要することか大介は理解していた。親父は気の遠くなることを一つ・・
一つ秘密裏に積み上げていった。妄想などじゃない。親父の頭の中には形ができ上がっている。不可・・
能じゃないのだ。親父は何をも可能にしてきた。どんなことも親父の思うままに作り上げてきた。・・・
その上で親父は言ったのだ。わしの跡を継ぐ者は大介しかいない…。わしの最も濃い血が流れてい・・
るのが大介や…。お前にしかわしの夢は手渡せん…。お前はわしよりも大きくなるはずや…。・・・
大介は懐から小さな箱を取り出した。二十歳になった日、親父からもらったものだ。大介はそれを・・
透明なガラスケースに移し替えていた。メルセデスのフロントに乗せる。原形をとどめていないそれ・・
は丸く萎びた石ころのようだった。・・・
日が高くなっていた。遅くとも明日までにはみんな集結するだろう。大介は鴨川から視線を外した。・・
学生のランニングの声はもう聞こえなくなっていた。目的地が近くなっていた。・・・
今夜は親父と呑もう…。大介の笑いは幾つもの形を帯びいていた。・・・
・・・
・・・
竹中は中原の死を聞いた。事が動く…。久保山剛造はそう言った。・・・
久保山剛造本人からの連絡だった。久保山が京都に来る。竜太郎と一緒だ。事が動く…。その深い・・
意味は竹中には知らされていない。しかし、中原の死は久保山にとっても最重要なことのようだ。事・・
が動く…。その動く何かの渦の中に自分は引き込まれていく。竹中はそう思った。・・・
大介の黒いメルセデスが鴨川に沿って走る。鴨の流れに沿う川端通りをゆっくり南下していく。急・・
いだりしていない。メルセデスは鴨の流れに歩を合わすように緩い流れで南へ進んでいく。大介はそ・・
の景色を眺めているのかも知れない。スピードが一向に上がっていかない。次々と後続の車が大介を・・
追い越していく。竹中はそんなメルセデスより少し距離を置き追走していた。車は久保山の後援会京・・
都事務所から借りたクラウンだ。緩やかなスピードにクラウンのハンドルは軽かった。竹中は鴨川の・・
景色を少しだけ楽しんでいた。・・・
散歩する者が多かった。老人も若者もゆっくりと河原を歩いている。自分にはない時の流れだ。あ・・
んなにゆるりと歩いたことなどなかった。竹中は苦笑を漏らした。何かの渦に巻き込まれていく自分・・
がひとときの心の和みを感じている。鴨の景色を楽しむ…。そんな思いが竹中に少しずつ大きくなる。・・
竹中は窓を開けた。散歩する者たちと同じ風を受けてみたくなった。・・・
四条通り、五条通り、七条通りと過ぎた。南へ下るにつれて散歩する者の数が減った。緩やかな流・・
れの時が失せていく。竹中は窓を閉めた。風が少し冷たくなっていた。・・・
鴨川に水が少なくなっていた。河原が川にせり出し雑草が州を作っている。心なしかユリカモメの・・
数も減ったように思った。竹中のイメージにある鴨川の形が崩れていく。中原の別荘の前を流れる鴨・・
川とは別の川のように思えた。植え込みなどなくゴミが所々に浮いている。ゴミが流れの藻に引っか・・
かっている。流れる水の色すら違うように見える。・・・
都の顔と違う鴨川だった。美しい川にもその裏がある。表の顔と裏の顔がある。そんな気がした。・・
竹中のつかの間の楽しみが終わった。景色に心奪われていた自分を少しだけ悔いた。・・・
塩小路通りの交差点でメルセデスは停車した。赤信号に引っかかったのだ。車線は一車線になって・・
おり大介のメルセデスは前方の車に鼻を突けるように止まった。やはり、慌てている様子は見られな・・
かった。メルセデスはウインカーを右に出していた。右手の先には京都駅の改装工事のクレーンが何・・
本も空へ鎌首を持ち上げているのが見えた。・・・
どこへ行くのだ…。竹中は大介を思い浮かべた。中原医院で見た大介の顔は無表情だった。中原の・・
死に動揺した面はなかった。冷静…。いや、冷徹だ…。大介は箱崎が仕込んだのだ。自分がRIKI・・
を仕上げたように、大介は箱崎によってあらゆる必殺の技を叩き込まれたのだ。RIKIよりも大介・・
は二周り程大きい。大介とRIKIが相対したら…。竹中の思いに二人の姿が並ぶ。・・・
大介のストレートがRIKIのテンプルにヒットする…。RIKIの返した左フックを大介が交わ・・
す…。大介の回し蹴りがRIKIのボディーに食い込む…。竹中は不思議な思いに引き込まれていた。・・
意識の中で二人の格闘が行われていた。そして、それが現実になっていくような気がしていた。・・・
信号が変わった。メルセデスが竹中の視界の右へゆっくりと流れた。竹中は現実に戻った。メルセ・・
デスのスピードがさらに緩くなっていた。目的地が近いのか…。竹中はその距離を少し詰めた。・・・
塩小路橋を渡るとメルセデスは左に折れた。その時、河原からその橋へ歩く者がいた。・・・
江藤だった。竹中は咄嗟にクラウンを路肩へ止めた。大介のメルセデスが遠ざかっていく。一瞬・・
迷った。しかし、竹中はそれを見送った。江藤の動きが気になった。江藤の歩みがルームミラーに少・・
しずつ大きくなっていた。・・・
・・・
・・・
リリーの哀れさがクーにはいたたまれなかった。何となくリリーの悲しさが分かるような気がした。・・
目の前の小柄な老人への憎しみがどういう訳か大きくなる。もうリリーのことは言わないで…。もっ・・
ともっと不幸なことがきっとある。この老人がリリーに対してした仕打ちを聞きたくなかった。リ・・
リーは悲しみを乗り越えて踊り続けている。そう思いたかった。・・・
「おっちゃん。リリーのことはもういいよ…」・・・
クーは言った。二人の間に少し間が空いた。クーは話題を切り替えた。・・・
「そうだ、おっちゃん…。あの別荘に来ていた少年のこと知っている? そうそう、おっちゃんのよ・・
うに子供の目をしていた少年…」・・・
少年と言ってもクーよりは年上だ。でも、クーにはそうとしか言いようがなかった。・・・
おっちゃんが知っているとは思わなかった。クーですらあの別荘では一度しか見たことがないのだ・・
から…。・・・
「ああ、知ってるわ。RIKIのことじゃな…」・・・
おっちゃんはあっさりと言った。知っていた。あの少年はやっぱりRIKIだった。・・・
それを聞いて意外な思いにはならなかった。クーの中には既に少年はRIKIと名乗っている。京・・
都の駅で星を見上げていたRIKI…。新宿の雑踏に夜空を見上げていたRIKI…。クーの思いに・・
RIKIという名はいつの間にか溶け込んでいる。・・・
「そう言えば、幼い子供のような目をしていたな。わしも一度ちらっと見ただけやけど。きれいな目・・
をしておった」・・・
おっちゃんがRIKIのことをあれこれ知っているかも知れない。聞いてみたい気がした。いや、・・
それも怖い気がした。それを聞くとRIKIまで自分から消えていくように思った。冬子が自分から・・
遠ざかってしまったように…。・・・
「RIKIは父親も母親も知らない」・・・
それも意外なことではなかった。あの目には孤独の色が揺れていた。幸の少ない翳りがあった。澄・・
んだ目に冬の空のような冷たさがあった。RIKIは孤独なのだ。・・・
「RIKIという名はわしが付けた。アルファベットで、R、I、K、I。日本国に対しての皮肉を・・
込めてな…」・・・
その意味がすぐに理解できなかった。わしが名付けた…。どう言うことなの…。おっちゃん、いい・・
かげんなことばっかり…。クーは笑った。そんなはずがない。・・・
「R。REVENGE…。報復や…。I。INDIGNOTION…。怒りや…。K。KAKOTO・・
PIA…。この日本という絶望郷への…。I。ILL BIOOD…。恨みや…。RIKI。ええ名・・
や。そして、力…。生きていくのに一番必要なことや…」・・・
嘘…。どうしておっちゃんが…。RIKI…。それは、力を意味する名なの。RIKIとは一体誰・・
なの…。・・・
「RIKIは兵器や。ただ、破壊の兵器として育てられたんや。この日本国は濁りきっている。絶望・・
卿や…。その濁りをRIKIは破壊していくんや」・・・
どうしたのおっちゃん…。おっちゃんの目が変になっていく。黒い影がおっちゃんの大きな目を包・・
んでいく。どうしたのおっちゃん。・・・
「破壊こそ解放に繋がるんや。占領下で暴れたわしはそう思ってた。解放や。鳥が大きな青い空へ羽・・
ばたくんや。すべての力が一つに集結するんや…」・・・
老人ではない。目が鋭くなっていく。クーに黒い恐怖が押し寄せる。おっちゃんが変身していく。・・
クーを見る目に力が入っていく。小柄なおっちゃんが大きくなっていく。・・・
「その力がわしに集まる。わしの血がわしに集まるのや」・・・
悪魔に見えた。クーの悲鳴がクーの中に轟いた。おっちゃんの目が異常だ。黒い影が光を飲み込ん・・
でいく。黒い十字架が浮かび上がる。・・・
「RIKIはわしの血を引いている。朝鮮の血や。犬殺しの血や…」・・・
RIKIがおっちゃんの血を引いている。どういうことなの…。クーの恐怖が音を立てる。老人の・・
狂気がクーを激しく責める。・・・
「リリーが生きていたら…」・・・
気が狂ったんだ。クーは立ち上がろうとした。これ以上この場にいたくなかった。クーの中を駆け・・
めぐる恐怖と狂気が何度もぶつかった。背が激しく震える。身体の芯からの脅えだ。・・・
「RIKIを引き取ろうと思った。産まれてくるリリーの子と一緒に育てようと思ったんや」・・・
完全に狂っている。おっちゃんに悪魔が乗り移っている。いや、悪魔がおっちゃんの中にいる。・・
クーは立ち上がることができなかった。老人の両の目からの黒い光がクーの前でクロスする。黒い十・・
字架がクーを押さえつける。闇の重さがクーを包み込む。・・・
「リリーが死んだ。そやから、RIKIを引き取ることができなんだ」・・・
悲鳴すら上げられない。狂気が意識を羽交い締めにする。逃れようとする思いが恐怖に引きずられ・・
ていく。クーはもがいた。意識の中で叫び続けた。背を激しく震わせた。・・・
「リリーが死んだ。リリーの産んだ子は女の子やった。リリーに似た可愛らしい娘やった」・・・
動けない。クーは金縛りにあった。狂った老人がクーを放さない。・・・
「可愛らしい女の子やった…」・・・
その時、老人の視線がクーより離れた。一瞬にクーから狂気が消えた。・・・
「リリーに似た可愛らしい娘やった…」・・・
老人が立ち上がった。クーに寄る。クーの意識が優しさに包まれる。恐怖と狂気が一瞬に去ってい・・
く。信じられない思いがクーに流れる。近づく老人の優しさが押し寄せる。・・・
「リリーの子や。やっぱり、リリーに似ているわ…」・・・
やめて! クーは叫んだ。声になったかどうかは分からなかった。クーに涙が流れた。それは、恐・・
怖からの涙ではなかった。狂気の荒れる涙ではなかった。縛り付けられた窮屈な涙ではなかった。・・・
「久美子ちゃん。よう似ているわ。リリーによう似ているわ…」・・・
それは、思わぬ優しさを感じた涙だった。クーの意識が遠くなった。涙がそれを追いかけるように・・
次々と流れた。父親というものに初めて触れた唐突な涙だった。・・・
「わしとリリーの娘や。久美子ちゃん。リリーによう似てるわ…」・・・
クーは気を失った。ちらっと、リリーの踊る姿がクーを過ぎ去っていった。・・・
第七章 思惑・・・
・・・
(1)・・・
・・・
久保山剛造は眉に深い皺を寄せて複雑な表情を久保山竜太郎へ向けていた。新幹線は名古屋を過ぎ・・
ていた。二人は眠れないでいた。リクライニングを下ろしたままタバコをくゆらせていた。・・・
まったくと言っていい程、似ていない親子だった。窓際の剛造の方は痩せていた。七十七歳という・・
齢を感じさせる口元の弛みがやけに目立つ。細い目が寄せた眉の皮膚に今にも隠れてしまいそうだ。・・
白く長い睫毛が両端から柳のように垂れている。・・・
「歯止めがなくなったのだ…」・・・
一方、竜太郎の方は剛造とは違い脂ぎっていた。四十六歳。大きく突きだした腹が貪欲な竜太郎に・・
似合っている。黒いエゴを隠しきれないでいる。大きく丸い目が忙しげに窓の外と剛造を行き来して・・
いる。身体の割に神経質に見える。表情が転がりやすそうな膨れた顎が重そうだった。・・・
「そう、中原という歯止めがなくなったのだ」・・・
剛造の複雑な面は今朝から続いていた。中原の死への感傷の面ではない。長い付き合いの友への別・・
れを惜しむ面でもない。微かな脅えを含んだ面だった。剛造は吸っていたタバコを灰皿にもみ消した。・・
口の中が渇いていた。舌の先が少し痺れているような感覚だった。・・・
「中原が死んだ…」・・・
それでも、やはり旧友の中原を思っていた。若かりし日々が剛造の脳裏を掠めては過ぎていく。嵐・・
のような日々だった。中原や大城との出会いが剛造の生き方を根底から覆した。二人とも個性の塊の・・
ような男だった。特に中原とは気が合った。何でも話す仲だった。・・・
その中原が死んだ。拳銃一つ手にぶら下げ破壊の現場を闊歩歩く中原の姿は、剛造が見ても惚れ惚・・
れする程のものがあった。怖いものなどない。中原の顔にはそう書いてあった。それだけで剛造たち・・
は安心した。中原さえ側にいれば、どんなことをも越えていけるような気になったものだった。・・・
最後に会ったのは二十日程前だった。その時は元気だった。顔の色も最近になく良いように見えて・・
いた。中原は笑っていた。お迎えが来る前に酒でも呑もう…。どことなく寂しそうだった。ただの老・・
人に見えた。お互い歳には勝てないよ…。笑い声が静かだった。・・・
荘ちゃん…。安らかに眠ってくれ…。解放だよ、荘ちゃん…。大城からの解放だよ…。剛造は唾を・・
飲み込んだ。隣の竜太郎の視線が気になった。・・・
「大城大介。奴はまだ三十歳になったばかりでは…」・・・
竜太郎が剛造に言った。大きな目の中に苛立ちが揺れている。竜太郎もタバコを灰皿に強くもみ消・・
していた。・・・
「そんな男に、なぜ私が…」・・・
剛造は思いを竜太郎へ向けた。若き日の中原の姿が剛造から消えた。・・・
「竜太郎…」・・・
竜太郎の思いが見える。同じ大城の子でも竜太郎の方は神経が細かい。大介のような奔放さを竜太・・
郎は持ち合わせていない。剛造にはそれが胸に引っかかっていた。・・・
「お前は大城の本当の恐ろしさを知らない…」・・・
竜太郎がもう少し図太ければ…。剛造はそれを思い続けてきた。大城の子であるといっても育て上・・
げたのは自分なのだ。大城への憎しみも、竜太郎が大きくなるに連れて胸の内から徐々に消えていっ・・
た。竜太郎は自分の子なのだ。血は繋がってなくとも我が息子なのだ。可愛くないと言ったら嘘にな・・
る。そう思って竜太郎を育てた。・・・
しかし、竜太郎は大城憲一郎の一部分だけを濃く育った。突きだした腹に見られる傲慢。二重の顎・・
に見えるエゴ。大きな目の奥にある猜疑。それらが竜太郎の人格を形成している。大城の程の度胸な・・
どない。鋭い頭脳もない。残忍な底の知れない狂気も持ち合わせていない。そして、大介のように輝・・
いたりしていない。人をぐいぐいと引きつける何かが見えない。男としての魅力に乏しい。・・・
それを、剛造は自分の責任のように感じていた。竜太郎より大介の方が遥かに大きい…。大城が剛・・
造にそう告げた時、剛造はただ頷くしかなかった。すべてのものを大介に残す。竜太郎は大介の袂へ・・
下れ…。大城にすれば当然だ。剛造から見ても大介は果てしなく大きく見えていた。同じ血を引く二・・
人の差は歴然としていた。竜太郎がここまで上り詰めたのは剛造と大城の力があったからこそだ。竜・・
太郎一人では何のこともできなかったであろう。竜太郎はそのことを分かっていない。・・・
大介の母親は娼婦だったそうだ。幸少ない女だったのだろう。自らの血すら大城の血に消えていっ・・
たのだ。大介は大城のすべてを受け継いでいる。とても、竜太郎が太刀打ちできるはずがない。剛造・・
の不安が大きくなっていた。中原なき後、大城の血が走り始める。大介が旗を高く揚げる。風をもろ・・
ともせず疾走していく。それに逆らえば竜太郎は取り残されていく。いや、失脚していく。剛造は渇・・
いた唇をしきりに噛んだ。・・・
「私は、大城大介の下には付かない。それは、当然でしょう。お父さん…」・・・
剛造の苛立ちが形になっていく。バカ! 剛造は窓の外に視線を移した。白く積もった雪がどこま・・
でも田園の向こうに延びていた。・・・
・・・
・・・
井ノ口晋太郎もその車中にあった。久保山剛造と同じ雪の続く田園を眺めていた。・・・
大城が生きていたのだ。そして、中原が死んだのだ。井ノ口は額に汗を浮かべていた。中原はわし・・
がやった…。次はお前だ…。悪魔の声だった。夜明けに井ノ口は大城憲一郎の電話を受けた。死んだ・・
はずの、いや、死んだと信じたかった大城が生きていた。・・・
京都へ来い…。中原はもういない…。お前さんともケリを付けたい…。大城はそう言った。怒りが・・
感じられた。昔と同じ口調だった。有無を言わせぬ重い声だった。井ノ口の背に一瞬冷たい電流が流・・
れた。大城は続けた。新井光男…。Kマンション1101号。鴨川の畔だ。そのマンションへ来い…。・・
井ノ口の背の冷たさが痛みを伴った。・・・
井ノ口は考え抜いた。そして、冷たい痛みの背のまま京都へと向かった。・・・
車窓の景色が変わった。田園を過ぎ街が見える。井ノ口は我に返った。脳裏に響く大城の声を振り・・
払う。異常な程の高ぶりが抑えきれない。膝が時折大きく震える。背の冷たさが胸にまで染みる。井・・
ノ口は思いを中原へ向けた。意識から大城を閉め出したかった。若き日の中原を脳裏に浮かべた。・・・
井ノ口! 撃て! あの時中原はそう叫んだ。なぜ? なぜ、自分があの時引き金を引く結果と・・
なったのか…。中原にはめられたのか…。渇いた銃声にそれを思った。大城の背に揺れた煙にそう・・
思った。しかし、その思いはすぐに消えた。大城が振り向いた。猛禽の目が自分に突き刺さった。・・・
気が狂ったように逃げた。あの日からなのだ。そう、あの日からなのだ…。・・・
脅え、恐れ。自分はそれに縛られ続けた。大城の呪縛だ。恐ろしい大城の影が毎夜頭に現れた。振・・
り切ることなどできなかった。自分は、既に大城に雁字搦めにされていた。そうなのだ。大城の前で・・
は自分はただ幼子だった。妻をも奪われた意気地なしの惨めな男だった。・・・
妻は自分に隠した。しかし、それを分からない程のバカではない。妻を叱咤した。妻は泣いていた。・・
あなたが守って下さらないから…。妻の悲鳴が虚ろに聞こえていた。もがけばもがく程、大城の影が・・
大きくなった。・・・
やはり意識は大城へ向いてしまっていた。背の冷たさが増していた。・・・
しかし、自分は大城へ向かう。中原が死んだ。次はお前だ…。中原は自分を庇っていてくれたのだ・・
ろうか…。電話での大城の話に一瞬そう思った。荘ちゃん…。荘ちゃんは大城から解放されたんだ…。・・
そう思った。・・・
死ぬことはそれ程の恐れはない。中原が羨ましいくらいだ。大城からの解放となる。解けぬ呪縛か・・
らの解放となる。そう、死をそれ程恐れてはいない。大城が生きていた。それを知った時、一瞬大城・・
への復習を思った。そして、その思いが、今、更に強くなっている。いや、それへと自分は進んでい・・
る。京都へと向かっている。・・・
江藤にすべて話した。江藤は今も芳子を愛し続けてくれている。江藤の一日は芳子の病院から始ま・・
る。朝の一時間、江藤は芳子と過ごしてくれている。あの日から一日たりとも欠かさずに。だから、・・
江藤には隠すことができなかった。大城が生きていると知った時、井ノ口の思いは固まっていた。・・・
芳子は大城の子だ…。電話越しに江藤の驚きが悲しかった。なぜ、もっと早くにそのことを江藤に・・
告げられなかったのか。悔やんでも遅かった。江藤にはもう会えない。今までのように芳子を愛し続・・
けてくれることを祈るしかない。・・・
屍は江藤が拾ってくれる。江藤も大城へ向かっている。長い話になった。江藤は泣いているよう・・
だった。江藤に大城のマンションを知らせた。踏み込むのは自分の後にして欲しい…。井ノ口は譲ら・・
なかった。井ノ口も泣いていた。・・・
新幹線のスピードが緩くなっていく。京都へ近付いている。井ノ口は拳を強く握った。爪が拳の内・・
側へめり込んでいく。井ノ口はその痛みに耐えた。徐々に背の冷たさが遠くなっていく。胸の微かな・・
る熱さを感じ始めた。・・・
そう、この熱さだ。熱くなれ。あの頃のように我が胸よ熱くなれ! 井ノ口は意識に叫んだ。戻っ・・
てきたように思った。破壊の連続の日々の熱い猛りが…。・・・
熱さに意識を集中させた。目を強く閉じた。膝の震えがぴたりと止まる。大城に立ち向かう。倒れ・・
てもいい。つぶれてもいい。死など恐れていない。死は自分を解放する。悪魔に向かう。男としての・・
思いをぶつける。中原もそうだったのだ。悪魔に砕けたのだ。中原…。荘ちゃん…。おれもお前さん・・
と同じだ…。・・・
今しかない。そう、今しかない。今、立たないと自分の解放は永遠に訪れない。死すら狂気の闇に・・
包まれてしまう。大城を乗り越えるのだ。大城を乗り越えてこそ安らかな死に向かうことができる。・・
いや、大城へ向かうのが死だ。その死は安らぎの中にある。そのために悪魔に立ち向かうのだ。・・・
熱さだ。自分はこの熱さと共に闇に砕けてやる。もう恐れない。それがせめてもの償いだ。芳子を・・
愛し続けてくれている江藤への償いだ。・・・
閉じた目を開けた。熱さが全身へと廻っていく。井ノ口の中にあの頃の猛りが蘇っていく。拳を握・・
る痛みすら感じない。意識の中で熱いものが固まっていく。大城への脅え恐れがその熱さに溶けてい・・
く。激しさが胸を叩いた。赤い血潮が全身を駆ける。井ノ口は弾けた。解放へと弾けた。熱さが井ノ・・
口に風を送っていた。若い力を破裂させていた時の風が…。・・・
「大城…」・・・
井ノ口は席を立った。激しい風が井ノ口を急き立てた。その場に座っていることすら困難になった。・・
井ノ口は通路を歩いた。拳は握ったままだった。・・・
その時、新幹線のアナウンスがまもなく京都と告げた。井ノ口はそのまま出口へ向かった。その足・・
取りは井ノ口にとって何十年来なかった力強いものとなっていた。・・・
・・・
・・・
その喫茶店は暖房が熱い程だった。竹中と江藤は向かい合わせに座った。冷めたコーヒーがテーブ・・
ルの上に二つ手つかずに乗っている。中央の灰皿だけに二人の手が時折伸びる。竹中は静かに話を続・・
けた。自分の思いは話の裏に隠した。自分の掴んだ真実への入り口の話だけを江藤に聞かせていた。・・・
塩小路橋を歩く江藤を竹中は運転するクラウンへ引きずり込んだ。自分自身でも思わぬ動きを二度・・
行った。その行動は竹中の本能の行動だった。どうやら、竹中は江藤という男の存在を自然と受け入・・
れていたようだ。RIKIの父親…。江藤を身近な男に思い始めていた。・・・
一度、江藤はそれを拒んだ。しかし、竹中は強引に江藤の手を取った。自分の知っていることをす・・
べて話してやる…。RIKI…、いや、あなたの子に関わりのあることだ…。新たに久保山から聞い・・
た話だ…。竹中は江藤に胸を開けていた。江藤の思いを後押ししてやりたく思っていた。・・・
大城憲一郎…。驚いたことに江藤はその名を知っていた。そして、新井光男…。Kマンション11・・
01号。江藤は怪物の別なる名もその所在も知っていた。井ノ口から聞いた…。江藤はそう言った。・・
井ノ口は大城へ向かった…。大城から直接電話があったそうだ…。井ノ口は死へ向かった…。江藤も・・
それへ向かうと竹中に告げた。熱い思いが竹中にはっきり見えた。なぜか、竹中を安堵させた。江藤・・
という男に共感を覚えていく自分を感じた。・・・
竹中も話した。真実かどうかは江藤自身が判断すればいい。事が動く…。久保山の話を江藤に話し・・
た。真実は自分にもはっきり見えたとは言えない。しかし、知りたいことがお互いの胸の中に形取っ・・
ていこうとしていた。・・・
「大城憲一郎が井ノ口の女を奪った…」・・・
竹中は続けた。江藤は黙って聞いた。時折、唇を噛むような仕草を見せた。江藤がもがいていた。・・・
「女は大城の子を孕んだ。女はその子を産んだ」・・・
その時に江藤が竹中を見た。嘘だ! そんな叫びが聞こえてきそうだった。・・・
「井ノ口芳子。産まれた子は女の子だった」・・・
竹中に一瞬張り付いた江藤の視線が素早く離れた。抑えている。おそらく江藤の中で何かが弾けて・・
いる。唇を噛む仕草が忙しくなる。何かの言葉を探しているようだ。嘘であって欲しい…。その言葉・・
を何度も飲み込んでいるようだ。・・・
「久保山剛造の息子、久保山竜太郎も同様に大城の血を分けた子だ」・・・
江藤の頬がひきつっていく。小刻みにこめかみが震える。口が渇くのだろう唇の潤いが消えている。・・・
「大城は、それらの血を分けた者たちを一つにまとめようとしている。息子である大城大介を頭に、・・
大城の血族を集結しようとしている。事が動く…。中原の死を合図に何かが動こうとしている」・・・
竹中は肩の力を少し抜いた。冷めたコーヒーを喉へ流した。・・・
「RIKIも、その何かに巻き込まれていく。おれはRIKIを守る」・・・
知る得ることのすべてを話し終えた。それだけで良かった。竹中は席を立とうとした。・・・
「あの子にはまだ名がない…」・・・
その時、江藤がそう言った。竹中は頷いた。江藤が微笑んでいた。・・・
「竹中さん。すまぬ…。礼を言う…。しかし、真実は自分で掴む…」・・・
その一言だけ江藤は竹中に告げた。江藤が先に席を立った。・・・
「大城憲一郎を舐めてかかったらだめだ。江藤さん。奴は怪物だ」・・・
江藤はもう一度微笑みを寄越した。それは竹中にまで真っ直ぐに届いた。竹中への信頼らしきもの・・
がその中に浮かんでいる。竹中にとって爽やかな笑みだった。不破の笑みに似ているように思った。・・・
「生命を無駄にするな。あなたはRIKIを抱きしめてやらなければならない…」・・・
竹中はそれを江藤の背に送った。RIKIを抱きしめて…。自分でも思わぬ言葉だった。・・・
江藤は振り返らなかった。しかし、竹中には江藤が軽く頷いているように見えた。あの微笑みをも・・
う一度こちらへ送っているような気がした。・・・
―江藤さん…。RIKIは大城の血よりもあなたの血の方が濃い…。RIKIは大城を乗り越えるは・・
ずだ。RIKIの力になってやってくれ…。・・・
竹中はクラウンへ戻った。そろそろ久保山親子が京都へ着く頃だ。竹中はクラウンのアクセルを強・・
く踏んだ。江藤の微笑みを思い出していた。RIKIの面影がそれに一緒に揺れた。・・・
・・・
・・・
「井ノ口だ…」・・・
インターホンにそう告げた。大城の指定したマンション。井ノ口はそのエントランスへ立った。・・・
膝の震えはなかった。口の渇きもそれ程感じない。心臓の高鳴りが熱い胸を叩き続けている。井ノ・・
口は満足だった。この場に立っていることが満足だった。解放へ自分は進んでいる。恐れ脅えを乗り・・
越えようとしている。井ノ口に若かりし日の力が蘇っていく。破壊を続けた日々のエネルギーが全身・・
を駆けていく。激しい猛りが井ノ口を包んでいく。・・・
「入れ…」・・・
インターホンからそう聞こえた。大城の声だった。聞き違えるはずかない。・・・
「ああ…」・・・
井ノ口はそれへ返した。その声に震えが襲ってこなかった。満足だ。脅えが嘘のように消えている。・・
あれ程恐れた大城の声。腹の底にまで響く声。それにいつも跪いていたのではなかったか…。井ノ口・・
は軽い微笑みを浮かべた。恐れの対象が遠のいていく。大城だって年老いたのだ。あの頃のような鋭・・
さが消えているのだ。井ノ口は自らの激しさを意識に強くした。・・・
オートロックが外れた。ガチャッ…。何かの落ちるような音がした。井ノ口はドアを開けた。エレ・・
ベーターが左手にあった。・・・
エレベーターの箱の中で井ノ口は強く拳を握った。やはり、あの頃の力を感じた。大城たちと破壊・・
へ向かった。井ノ口は鉄パイプを握っていた。その感触が蘇っていく。走りながら叫んだものだった。・・
生命など惜しくない! そう、生命など惜しくなかった。破壊が生きている証だった。・・・
井ノ口はそのまま過去へ流れた。エレベーターの機械音が井ノ口に心地よく流れ込む。握る拳が自・・
然と緩む。落ち着いた思いが過去とうまく絡み合った。・・・
井ノ口晋太郎は北陸の小さな街に生まれた。父は医師だった。街に一つしかない診療所を営んでい・・
た。母もその診療所で看護の仕事をしていた。晋太郎は父も母も好きだった。八歳まではどこにでも・・
いる普通の少年だった。・・・
しかし、晋太郎が八歳の冬、母は病を患った。母の外見が急変していった。眉が抜け髪が薄くなっ・・
ていった。父は母に付きっきりとなり診療所も休業することになった。・・・
恐ろしく母が変身していった。晋太郎は泣いた。母が母でなくなっていった。母の両手両足の先に・・
褐色の斑点が無数に拡がっていく。それが、次第に顔面までを蝕み母の顔は大きくむくれていった。・・
鼻がどんどん大きくなり唇が異常に厚くなった。母が化け物に見えた。側に寄るのも恐ろしい程の姿・・
になっていった。顔面の鉛色をしたブツブツが晋太郎の夢にまで追いかけてきた。・・・
癩(らい)病だった。ハンセン病。慢性の感染病だ。晋太郎が八歳になった年に母は癩を発病した。・・
昔の外来患者に癩菌の保有者がいた…。母はその菌に犯されてしまったのだ…。父はそう言って泣い・・
た。医師である父にもどうすることもできなかった。・・・
母は晋太郎の前にすら姿を見せなくなった。父も徐々に匙を投げた。・・・
隠し通せるものではない。井ノ口家は激しい迫害を受けることとなった。晋太郎は癩の子として街・・
の誰からも声すら掛けてもらえなくなった。学校にも来るなと言われる。側に寄ると癩がうつると言・・
われる。道も歩くなと言われる。石が飛んでくる。泥が掛けられる。唾を吐かれる。晋太郎は泣くだ・・
けだった。それらへの抵抗は思い付かなかった。・・・
晋太郎はそれらの人間を恨んだ。できるものならばすべての者を呪い殺してやりたかった。悲しみ・・
に涙も涸れ果ててしまった。父と共に荒んだ生活を続けた。・・・
父が酒浸りで死んだ。そんな父をも恨んだ。癩の母を一人にした父を激しく恨んだ。晋太郎も死を・・
考えた。しかし、できなかった。病の母をまったくの一人にはさせられなかった。お化けのような母・・
を晋太郎は一人守った。・・・
結局、晋太郎は母を黄泉に見送った。父が死んでからそれ程時を待たなかった。母の死に顔が晋太・・
郎に永遠に焼き付いた。眉のない哀れな顔だった。ブツブツの夏みかんのような顔だった。鉛色の醜・・
い化け物の顔だった。・・・
晋太郎は街を出た。幸か不幸か、日本は戦争という大事業のまっただ中へ突っ走っていた時期だっ・・
た。晋太郎はそのまま戦争というの渦に巻き込まれていった。晋太郎は空軍へ志願した。生きる道は・・
それしかないように思えた。戦争に自らの解放を目指した。癩の家族という悪魔のレッテルを戦争と・・
いう嵐に剥がそうとした。・・・
戦争はそれらのことをすべて吹き飛ばした。誰も彼も過去は関係のない世界だった。晋太郎は生ま・・
れ変わった。確実に自らの解放へ進んでいった。自分を蔑んだ奴の顔を思い敵兵に向かった。唾を吐・・
き掛けた奴を思い銃を撃った。石を投げた奴を思いどこまでも突っ走った。生命など二の次だった。・・
破壊…。それが、晋太郎に新たな息吹の風を吹かせた。嵐のなかの自らの解放だった。・・・
それが、大城たちとの出会いに繋がる。破壊という思いが晋太郎を大城らの世界へ導いていくこと・・
となった。みんな同じ思いに思えた。それぞれがそれぞれの解放を目指しているように思えた。籠か・・
ら放たれた鳥が大空をどこまで飛んでいくようだった。・・・
そんなことをエレベーターの中で思っていた。不思議だった。ここ何年と思い出したことのなかっ・・
たことが井ノ口に鮮明に蘇った。母の癩の醜い顔がはっきりと脳裏に浮かんだ。鉛色のブツブツが瞼・・
の裏にくっきりと見えた。・・・
現在ならプロミンという有効な治療薬が普及しているそうだ。癩病はほとんど完治する病気となっ・・
たのだ。あの時にその薬があったならば…。井ノ口がそのことを知ったのは、井ノ口も母の死んだ歳・・
になってからのことだった。しかし、それは井ノ口にとって慰めでも何でもなかった。ただ、時の悪・・
戯を感じただけだった。・・・
やはり、落ち着いていた。癩病の特効薬…。そんな、忘れ去ったようなことも思い出していた。井・・
ノ口は満足だった。思いに大城が浮かばなかった。母のあの時の顔の方が大城より醜かったのか…。・・
井ノ口は軽い微笑みをエレベーターの箱に一つ落とした。・・・
エレベーターが最上階に付いた。井ノ口は一つ大きく息をした。充実した何かが井ノ口の中に無限・・
に拡がっていた。・・・
・・・
・・・
ドアのロックは開いていた。井ノ口はそれを静かに開けた。大城は玄関にまで出迎えないつもりの・・
ようだ。井ノ口は置かれているスリッパに足を入れた。膝の震えは全くなかった。・・・
「井ノ口だ…」・・・
懐の匕首をジャケットの上から確かめた。盛り上がった手触りが井ノ口に届く。破壊の時に使って・・
いた匕首だ。思えば、大城からの呼び出しにこれを探し始めた。それが今に繋がっている。井ノ口は・・
一歩前に出た。広い廊下に大きな壺が置かれていた。あの当時のG2の部屋にあったものと似ている・・
と思った。井ノ口は落ち着いていた。そんな余裕に満足だった。・・・
「入れや…」・・・
格子のガラス戸の向こうから聞こえた。低い大城の声だ。井ノ口はもう一度匕首の感触を確かめた。・・
それによって熱い心を確認した。・・・
「久しぶりや…」・・・
井ノ口に背を向けていた。大きなソファーに大城は身を沈めていた。・・・
「ああ…。久しぶりだ…」・・・
井ノ口に何かが突き上げた。部屋に敷き詰められた緑の絨毯が井ノ口の視界を拡がっていく。・・・
大城が少し動いた。タバコの灰を灰皿へ落としている。逆の手にはブランデーが揺れている。井ノ・・
口はゆるりと大城に近付く。窓からの明かりが大城の足下にまで延びていた。・・・
「座れや…」・・・
大城は振り向きもしなかった。視界を拡がる緑の絨毯が井ノ口に激しく揺れる。座れや…。大城の・・
声が意識にこだまする。・・・
解放だ…。井ノ口は思った。自分は緑の絨毯に埋もれていく。とうとう、この時が来たのだ。大城・・
からの解放だ。果てしない長い時間を自分は大城の呪縛の中にあった。戦争で死んでいれば良かった。・・
何度そう思ったことだろうか…。戦争で死んでいれば大城になど巡り会うことなどなかった。井ノ口・・
には部屋の緑の絨毯が戦闘機の眼下に見えた果てしない海に見えた。生命など惜しくない。敵機を破・・
壊する。それが自らの解放だ…。・・・
「荘ちゃんは死んだ…」・・・
死…。そうなのだ、中原も死んだ。解放だ。中原の背に翼が生えたのだ。海の果てを飛ぶ大きな翼・・
が生えたのだ。中原は大城の檻を放った。遥かなる宇宙へ飛び立ったのだ。・・・
「ああ…」・・・
ああ、そうだ。大城よ。中原は死んだ。そして、自分も死んでいく。いや、自分も解放されていく。・・
迫害されて育った中原がとうとう本当の安らぎを手に入れたのだ。自分もそれへ向かうのだ。もう癩・・
の子として迫害などされない…。そして、大城よ、もう邪魔はさせない…。・・・
「井ノ口よ、飲まんか…。別れの杯や…」・・・
振り返るな! 井ノ口は意識の中で叫んだ。もう少し自分の殻の中にいたかった。・・・
「そうか、わしとは飲めんか…」・・・
匕首を取り出した。刃に光が帯びる。視界を拡がる緑の海の中にそれは鋭く煌めいた。・・・
「大城!」・・・
井ノ口は大城の前に廻った。匕首を大城に身体ごとぶつけた。・・・
「悪魔よ! 死ね!」・・・
母の顔が見えた。浮腫んでいた。眉のない瞼が赤く腫れ上がっていた。醜く垂れた唇が黒く潤んで・・
いた。母が笑っている。無数のブツブツがその笑みを隠す。目に涙がこぼれていた。一筋の滴がゆっ・・
くりと鉛の皮膚を舐めていく。凸凹の頬を滑り落ちていく。・・・
「母さん!」・・・
それは声になっていなかった。井ノ口は母を抱いた。・・・
その時、渇いた音がした。あの時と同じ音だった。大城を背中から撃った時と同じ音だった。・・・
「井ノ口。安らぎなど訪れるはずかないんや…。わしらに解放などありえん。苦しみは死の先にまで・・
付いて来るんや…」・・・
渇いた音は井ノ口を我に帰した。大城の放った弾丸が井ノ口の腹部に熱い塊を押し付けた。大城の・・
その言葉が神の声に聞こえた。・・・
「大城…。頼む…、おれを…、おれを…、解放して、やってくれ…」・・・
負けだった。大城の言った通りだ。解放など…。安らぎなど…。井ノ口は大城に跪いた。・・・
「頼む…、頼むから…、おれを…、解放、してやってくれ!」・・・
黒い十字架は井ノ口の背から落ちることはなかったのだ。癩という悪魔は井ノ口を苦しめ続けてい・・
た。井ノ口の、いや、少年だった頃の晋太郎の意識の襞に棲みついてしまっていたのだ。井ノ口には・・
分かった。それが、自らのその後の形を作っていったのだ。・・・
唾を吐かれた…。泥を浴びせられた…。石を投げられた…。それが井ノ口を縛り付けた。解放など・・
あり得なかった。苦しみは井ノ口の魂を蝕み続けた。死して尚、その魂は業を背負い続ける。真っ黒・・
な癩の沼に引きずられていく。・・・
大城などではなかった。今、自分は大城に向かったではないか…。匕首を大城に突き出したではな・・
いか…。その先には空の果てからの風が吹いてくるはずではなかったのか…。・・・
「大城…。頼む…」・・・
風が吹かないのだ…。大城。いや、大城さん…。風が吹かないんだよ…。・・・
「たのむ…」・・・
唾を吐かれた…。泥を浴びせられた…。石を投げられた…。井ノ口を苦しめ続けていたのは母の醜・・
い顔だったのだ。鉛色の凸凹な化け物の顔だったのだ。そのことを、今、井ノ口にははっきりと理解・・
した。大城などではなかった。重い瞼にあの時の母が浮かぶ。・・・
「井ノ口よ、別れや…。さいならや」・・・
大城が井ノ口を離れる。腹に食い込んだ熱い塊が無限に拡がっていく。視界を埋めていたはずの緑・・
の海が消えていく。匕首を再び握る力が失せていく。・・・
中原もそう思ったのだろうか…。大空からの風が吹かなかったと思ったのだろうか…。・・・
「母さん…」・・・
井ノ口は目を閉じた。母の微笑みが凸凹から少しだけ浮かんでくるように思えた。意識が井ノ口か・・
ら去った。母の微笑みが死に行く井ノ口にとって微かなる救いとなった。・・・
・・・
(2)・・・
・・・
微睡みが揺れる。光の中に女の踊りが見える。真っ赤なチョゴリの裾が風に靡く。青い目をした女・・
だった。微笑みがフランス人形のようだ。光が大きくなる。女の踊りが激しくなる。額から汗が飛び・・
散っている。女の微笑みが消えていく。・・・
リリー…。クーはその女に手を伸ばした。かあさん? クーの足が自然に女へ向かう。かあさん…。・・
女がクーを認めた。微笑みに優しさが混じる。クーに手を差し出す。リリー・マルレーンが聞こえて・・
いた。女が口ずさんでいた。・・・
「かあさん…」・・・
微睡みに光が覆い被さった。クーが目覚めた。ベランダからの光がクーを包みこんでいた。・・・
かあさん…。クーには初めての思いだった。今までにない妙な悲しみを感じた。目覚めにクーは引・・
き続き揺れる。不思議と暖かさを感じる。・・・
ベッドに寝かされていた。糊のしっかり利いたシーツだった。どれくらい眠ったのだろう、新井光・・
男の姿は見えない。クーは辺りを見渡した。小綺麗な空間だった。客用の寝室のようだ。白い壁にや・・
はりディートリッヒがいた。不破と行った店にもあった歌姫アミイ・ジョリイだ。・・・
クーは身を起こした。ベッドの枕元にクリスタルガラスの一輪挿しがぽつんと乗っているのが見え・・
た。ガラスの中に浅黄色の便箋が筒になって差されている。・・・
意識の揺れが消えていく。クーは便箋を手にした。仄かに柑橘系の臭いがした。・・・
『久美子ちゃん。堪忍やったで』・・・
驚く程の達筆でそれは書かれていた。おっちゃん…、いや、新井光男の文字と思われる。クーはそ・・
れを二つに裂いた。そして、一つ一つを丁寧に丸め一輪挿しに戻した。・・・
「どうして…」・・・
そう、すべてがクーにとって、どうして…、だった。信じられないことがクーの周りに続いている。・・
クーはベッドを立った。ふらふらとドアに寄った。・・・
新井への憎悪が再びクーを襲った。おっちゃん…、いや、新井は悪魔なのか。クーに新井の老いた・・
姿が醜く過ぎる。父…。新井が自分の父親…。信じられない。いや、どうしても信じたくない。嘘に・・
違いない…。クーはドアを出た。新井に気付かれないようにすり足で玄関を出た。・・・
マンションを出てそのまま河原へ向かった。リリーの眠る場所…。クーはリリーの思いに浸りた・・
かった。新井光男をリリーに隠してしまう。足が速くなる。かあさん? 暖かい何かがクーを後ろか・・
ら押す。目覚めた時の何かの温もりがクーに蘇る。風は冷たくない。ユリカモメが舞う。今朝思って・・
いた。ユリカモメと一緒に南への風を探したい…。そう、南の風が見付かれば、リリー、いや、かあ・・
さんに会える…。・・・
河原へ降りた。やはり、どこからか醤油の焦げる臭いがした。雪が溶けだしたのだろう、鴨川の水・・
嵩が今朝より高くなっている。流れの音が遠くの車の音と重なる。静かではなかった。京都駅の新装・・
工事の槌音もクーに届いていた。・・・
河原に腰を掛けた。懐からセーラムを一本取り出した。火を点け一口吸った。・・・
「リリー…」・・・
今朝、新井がしたのを真似ていた。小さな石を二つセーラムに挟んだ。セーラムの煙が紫に天に昇・・
る。人は故人との触れあいに線香を焚く。線香の煙は天にいる者たちへ地上の未練を思い出させるた・・
めのものなのだ…。宇宙の果てへ故人が流れていくのを阻止するためのものなのだ…。宇宙への遥か・・
な眠りを妨害するものなのだ…。昇る煙にクーはそんなことを考えていた。・・・
リリーは天にいる。リリー、そんな遠くへ行こうとしないでこっちを振り向いて…。人の身勝手さ・・
を思った。自分だったら振り向かして欲しくない…。声なんか掛けないで欲しい…。放って置いて欲・・
しい…。でも、リリーにはわがままを言いたかった。リリー、こっちを振り向いて…。感じ始めてい・・
た暖かい何かがクーをそんな気にさせていた。・・・
「かあさんなの?」・・・
クーはタバコの煙を見続けた。風は止まっていた。煙はゆらゆらと揺れながらではあったが着実に・・
天へと昇って行っていた。・・・
「リリー…」・・・
クーは目を閉じた。両手を胸の前で合わすと、リリーの踊りが再びクーの思いの中に揺れ始めた。・・
リリーが優しく微笑んでいた。・・・
・・・
・・・
「RIKIが中原の病院に来たらしい。若い者がトイレで眠っていた」・・・
大介は部屋に入るとそう言った。ソファーの大城が笑っていた。・・・
「気にするな。RIKIがお前に適うはずない…」・・・
大城の笑みが大きくなる。大介もソファーに沈んだ。・・・
「血の臭いがする」・・・
それは、大介の座るソファーの下からした。消臭剤の香りに混ざった微かな死の臭いが…。誰かこ・・
の部屋で死んだ…。そこは綺麗に清掃された跡だけが残っている。大介にもそれは気になることだっ・・
た。大介の頬に笑みが昇った。二人の目が合った。冷血なる笑いが重なった。・・・
「当ててみろ?」・・・
ブランデーのグラスが揺れている。大介のもテーブルに用意されていた。大介はそれを一口飲んだ。・・
心地よい刺激が喉を過ぎていく。・・・
「井ノ口晋太郎…」・・・
大城の笑みがさらに拡がった。大きな目が細くなる。・・・
「井ノ口がここに来たのか…」・・・
満足そうだった。大城はグラスを干した。少し顔が上気している。大介を見る目に光が帯びていく。・・
微かな揺れを伴って大城の目が潤んでいく。・・・
「わしを殺しに来た」・・・
二人に少しだけの沈黙が過ぎた。二人の視線はゆっくりと逸れていく。大介もグラスを干した。琥・・
珀色の液体が大介の思いを弾けさせた。・・・
「ハハハハ! ハハハハ!」・・・
沈黙を破ったのは大介の方だった。大きな笑いが部屋中に響きわたる。・・・
「バカか、あいつは! ハハハハ!」・・・
大介はブランデーを注ぎ足した。バカか、あいつは…。それを見て大城も大介を真似た。二人の杯・・
に再び芳醇な液体が満々と満たされた。・・・
「井ノ口に…」・・・
グラスが宙に浮いた。大介は片目を瞑り自らの笑いをねじ曲げた。・・・
「井ノ口晋太郎に…」・・・
二度言った。なぜか愉快だった。大介の声が弾む。・・・
「ハハハハ! 飛んで火に入る何とかだ。ハハハハ!」・・・
緑の絨毯に落ちる西からの光が影を長くしていた。それが大介の足下にまで届こうとしていた。大・・
介は長い夜を思った。久しぶりの親父との酒に心軽くなっていた。・・・
「井ノ口に…」・・・
大城が再びグラスを空けた。しかし、大介はそれを少し残した。残りの液体を自分の足下に流した。・・
ブランデーが緑の絨毯に染み込んでいく。・・・
「血の臭いは嫌いだ。ハハハハ!」・・・
大介が少し腰を浮かした。カチリ…。二つのグラスが狂気の中に少しだけ合わさった。・・・
「ハハハハ! さすがだ、親父! ハハハハ!」・・・
部屋に大介の高笑いがしばらく続いた。大城は笑ったままそれを眺め続けていた。・・・
・・・
・・・
「ひょっとしたら、あんた、久美子ちゃんと違うか?」・・・
嗄れた女の声がクーの背から聞こえた。クーはその声に振り返った。疲れた中年の女が立っていた。・・・
「そや、久美子ちゃんやろ…。リリーによう似てるわ…」・・・
線香の代わりのセーラムはとうに消えていた。風も少し強くなっていた。クーは涙を拭いた時だっ・・
た。リリーへの思いを振り切ろうとしていた時だった。・・・
「ほんま、よう似てるわ。いや、リリーよりずっと綺麗や…」・・・
女がクーの手を取った。ささくれだった分厚い手だ。・・・
「わては、リリーの姉や。久美子ちゃん。大きゅうなったなー」・・・
戸惑うクーに女は微笑みを送り続ける。優しい笑みだ。クーも笑みを返した。笑顔がうまく作れた。・・・
「新井は?」・・・
クーは首を振った。それで、女は確信していた。やっぱり久美子ちゃんや…。別嬪になったなあ…。・・
女は嬉しそうにクーを見つめた。・・・
「わて、栄子や。リリーより二つ上や…」・・・
クーは言葉を探した。やはり、リリーという女には久美子という子があったんだ…。自分はリリー・・
の子だったんだ…。・・・
「中原久美子です」・・・
出てきた言葉はそれだった。栄子が首を傾げた。よく見ると栄子は整った顔出ちをしている。切れ・・
長の綺麗な目、深くやや緑に見える美しい瞳、涼しげな口元、化粧でもするとかなり美人に見えるだ・・
ろう。特に口元の涼しさが印象的だった。リリーの姉…。姉もリリーと同じ綺麗だったんだ…。クー・・
の思いのリリーは崩れなかった。リリーはやっぱり綺麗な女だったんだ…。・・・
「新井やないの?」・・・
栄子の表情が曇っていく。驚きと戸惑いが揺れていく。・・・
「新井が久美子ちゃんを育てたんと違うの?」・・・
その意味がすぐには分からなかった。栄子の面の曇りが深くなっていく。クーの笑みも消えた。・・・
新井が育てた…。リリーたちはそう思っていたのだ。いや、リリーは死んだ。自分が死んだら久美・・
子は新井が育てる…。そんなことをリリーは言っていたのだろうか? 当然だね…。新井はリリーの・・
産んだ子の父親なんだものね…。母が死んだら父が子を育てる。当たり前のことよね…。・・・
「まあええわ、寒いやろ…。家へお出で。すぐそこや。仏さんのリリーに手を合わしてやってな…」・・・
仏さん…。見る見るうちに栄子の目に涙が溢れた。栄子はリリーを大切にしていたんだ…。妹を死・・
に追いやった新井を恨んでいるんだ…。クーはそう思った。栄子の涙に怒りが見えていた。・・・
「そこや、そこの掘っ立て小屋や…。リリーも暮らした家や。そうそう、久美子ちゃんも赤ん坊の時、・・
リリーが死ぬまで住んでいたんや。もう忘れてるやろけど…」・・・
河原の斜面にそれは建っているように見えた。雑木に隠れて建っている。人が住んでいるとは思え・・
ない建物だった。悲しかった。リリーの生活が見えた。被差別者の苦しみがクーに少しだけ感じられ・・
た。新井の言った河原者の話の理解が少しだけ進んた。・・・
「さあ、お出で…。暖かいお茶入れたげるわ…」・・・
栄子は先程の驚きを無理に消していた。不器用な笑いに変わっていた。・・・
「おばちゃん…。あたしの、おばちゃんになるのね…」・・・
クーは栄子の肘を掴んだ。硬い肘だった。男のような腕だった。・・・
・・・
・・・
「タバコを線香代わりにしとったやろ。そやから分かったんや…。そんなことするの新井くらいしか・・
おらへん…」・・・
栄子の煎れたお茶はおいしかった。冷たくなった身体が急速に暖まった。クーはリリーの仏壇に手・・
を合わした。狭く古い家には似つかわしくない立派な仏壇だった。クーの頬に涙が伝る。・・・
「新井もこの部落の出身や。そやけど、あいつはここを捨てよった。あんなマンションなんぞに住み・・
よって…。アホや、あいつは」・・・
家に着くまでの短い時間に、クーは自らの育ちを栄子に話した。中原という人の孫として育った。・・
父も母も知らない。新井のことを詳しく知ったのは今日のことよ…。リリーを不幸にしたのは新井な・・
の…。正直な思いが栄子に伝わっていった。・・・
「あいつは鬼や。自分さえよかったらそれでええんや…」・・・
栄子にもクーの思いが見えたようだ。クーの父親である新井への恨みを話し始めていた。激しく憎・・
んでいる。栄子の言葉にそれを思った。リリーの哀れさを今も悲しんでいる。・・・
「おばちゃん…。リリー、リリーでいいでしょ…。まだ信じられないの…。だから、母さんじゃなく、・・
リリーでいいでしょ…」・・・
クーは栄子の背に頬を付けた。この人と同じ血が流れている。クーにとって初めての思いだった。・・
栄子が果てしなく身近に感じられた。・・・
「おばちゃん。いいでしょ…」・・・
甘い感情がクーを包んだ。幼さがクーを覆う。頬を流れる涙が栄子の背に染み込んでいく。・・・
「いいよ、久美子ちゃん。リリーでいいよ…。リリーでいいよ…」・・・
栄子も泣いていた。幸少ない女なんだ…。リリーと一緒だね…。クーは栄子の肩を抱いた。痩せて・・
はいたが鋼の硬さを持つ背中だった。・・・
「久美子ちゃん。今夜、ここに泊まっていき。おばちゃんとリリーの話ししよ…」・・・
クーは頷いた。栄子の肩が激しく震え始めていた。・・・
・・・
・・・
部屋に外からの明かりが入らなくなっていた。長い夜が二人に続いていた。大城憲一郎。大城大介。・・
その親子にだけ静かな時間が少しずつ流れていた。・・・
「あとは久保山剛造や…。もう、奴だけや。寂しなったのう…」・・・
酒はだいぶんと進んでいた。大介の方もやや頬を上気させている。珍しいことだった。二人だけの・・
空間という意識が大介を少々憂かれ気分に引き込んでいた。・・・
「奴らは勘違いしておった。甚だしい勘違いや…」・・・
中原と井ノ口のことを言っている。大介には親父の笑みがどこか遠くへ向いているように見えた。・・
大介は空になった大城のグラスにブランデーを満たした。・・・
「解放だとぬかしておった。中原も井ノ口も…」・・・
さすがの親父も寂しさが滲んでいる。井ノ口は別としても、中原という長い友を失ったことに親父・・
も少なからずの心の揺れがあるようだ。笑みが少しずつ消えていく。・・・
「中原も井ノ口も迫害されて育った。激しい差別を受けて大きくなった。わしと似たりよったりや」・・・
長い一日だった。大介は心地よい疲れを感じていた。アルコールが血液の中に暖かさを運び込んで・・
くる。気怠さに親父の声が揺りかごのように揺れる。・・・
「そんな思いからの解放などあり得ん。奴らは勘違いしておった。アホや…」・・・
親父の言いたいことの理解はできていた。親父はある意味では中原のことを羨ましく思っているの・・
だ。迫害された幼い日の思い。それがその人間の核の部分まで蝕んだ。幼さの透明な魂が特異な色に・・
染まってしまったのだ。それを、中原は親父に言ったのだろう。その色が消えるのが死の時だ…。そ・・
んな風に言ったのだろう。・・・
「わしに縛られていると思っているようじゃった。ほんまにアホや…。中原は…」・・・
親父は否定したいのだ。幼さに棲みついた悪魔の囁きは消えることなどない。死して消えるもので・・
はない。悪魔は囁き続けてきた。その者の幼い日から…。静かに小さな声で…。そう、お前は生まれ・・
てくること自体が大きな罪だったのだ…。・・・
「アホや、ほんまにアホや…」・・・
その囁きは幼さを捨てさせる。そして、幼さを捨てる時、囁きが自分からも発せられるようになる。・・
自らの意志で同じ意味の呟きが漏れ始めるのだ。時折、悪魔ですらその言葉の聞き役に回る。満足の・・
笑みを浮かべ無限に頷きながら…。・・・
「死しても、わしらの思いは晴れん…。人はすべてが平等である。仏になればそれを理解できる。そ・・
んな生やさしいたるい話をしているんやない…」・・・
親父が悲しさを話している。珍しいことだ。親父の中の悪魔もそれを聞いているのだろうか…。大・・
介は愉快になっていた。先程の程良い気怠さが大介を離れていく。・・・
「死んだら終わりや。負けなんや…」・・・
悪魔の言葉は数多くのパターンを持つ。その者がバリエーションを限りなく増やしていく。同じく・・
小さな声で魂の隅々にまで拡がっていく。自分は悪魔に選ばれたものだ…。不幸を背負うために選ば・・
れたのだ…。神などいない。自分にあるのは悲しみの受け皿だけだ…。・・・
「解放やないんや。それを叩くのや…。足腰立たんようになるまで叩くんや…」・・・
そうなのだ。それが中原たちと親父の違いなのだ。悪魔を叩きつぶす。悲しみの囁きを続ける悪魔・・
を押さえ込むのだ。中原たちのように自ら悪魔に同調することなく、悪魔より鋭い狂気を育て悪魔を・・
正拳で弾くのだ。・・・
「差別の意識から解放などあり得ん。解放やない。解放とは逃げることや…」・・・
不条理という悪魔を叩く…。親父はそう言いたいのだ。解放などあり得ない。悪魔を倒す。そして、・・
自らを昇華させる。解放などではない。・・・
「瀬川丑松は逃げた。戒めを破り去るが、そこから逃げた。中原たちと同じや…」・・・
島崎藤村の『破戒』だ。主人公の瀬川丑松のことを言っている。丑松は穢多(エタ)、つまり新平・・
民の出だった。丑松は父からそのことを誰にも打ち明けるなとの戒めを受ける。しかし、教師になっ・・
た丑松は自らその素性を告白する。『隠せ』という戒めを破り去る。そして、その不条理に何の闘い・・
も挑むことなくテキサスという新天地を求めていく。丑松は逃げたのだ。中原と同じだ。親父はその・・
ことを言っている。・・・
「穢多からの解放はあり得ん。心が激しく震え続ける。当然や。それは自らが選んだ道や…」・・・
親父は激しすぎる思いで生きてきた。それが自ら選んだ道なのだ。穢多からの解放はない…。だか・・
ら心が震え続ける。親父はそれを選んだ。親父らしい言い方だ。朝鮮人の子として被差別地区に生ま・・
れる。阻害され心を震わす日々に育つ。親父はその激しさを選んだのだ。そして、それへの解放、い・・
や、それからの昇華が果てしない力を生む。すべて自らが選んだ道なのだ。・・・
大介にそんな思いはない。しかし、親父の思いにそれを理解することはできていた。鳥が鳥かごか・・
ら大空へ飛び立つのが解放ならば、大空の方を鳥かごへ引き寄せるのが昇華なのだ。いや、鳥かごを・・
大空より大きく拡げていくのが魂の浄化なのだ。そう、親父は空になろうとしている。・・・
「瀬川丑松はそのことの理解ができなかった。自らが選んだんや…。ケツを割ってどうするんじゃ…。・・
せっかく選んだ道を投げ捨てたんや。もったいないわ…」・・・
それは、親父のように悪魔に勝る狂気を育ててこそ可能になることなのかも知れない。大介はそん・・
な親父に畏怖を感じるのだ。驚異を思うのだ。いや、憧れるのだ。・・・
「そう言うわしも、その理解はなかなかできんかった。破壊を続けていた時は破壊に解放を望んだ。・・
それは違ってた。解放なんかなかったんや。そんな甘いもんやなかった…」・・・
やはり、自分の思いは親父の思いとの隔たりは少ないようだ。大介は再度グラスを空けた。親父の・・
それも既に空いていた。・・・
「中原は甘かった。それを気付かなんだ。井ノ口や久保山ならいざ知らず。あの中原まで気付かなん・・
だんや…。アホや、中原は…」・・・
中原はまだ鉄の檻の中にいるのだろうか…。死というものを越えても、まだその檻を破壊すること・・
ができないでいるのだろうか…。・・・
「死んだら負けや。負ける前に勝つんや。どんなことしても勝つんや…」・・・
被疎外者としての思いは、生まれたことすら跳ね返すことなのか…。負ける前に勝つ…。親父は生・・
きていることすら否定しようとしているのか…。・・・
「死んだら、生まれてきたことを肯定してしまう。否定なんや。死ぬまで否定し続けるんや。それが・・
勝利への道や。わしらの被疎外者の勝利や…」・・・
思いはやはり重なっていた。大介は少なからずの驚きの中にあった。大城憲一郎、いや、新井光男・・
という男の魂の一部が自分に乗り移ってきている…。そんな感じすらする。・・・
「わしらは生まれたんやないんや。世界がわしを産んだんや。つまり、鳥かごがわしらなんや。いや、・・
空がわしらなんや。世界が鳥かごの中の鳥なんや…」・・・
同じ比喩を使っていた。大介は微笑んだ。親父は自分自身へ語っている。自らに話すことで激しい・・
思いの整理している…。親父自身の本当の理解へも繋がる…。そんな話しぶりだ。・・・
「分かるように言うわ…。わしのなかに世界が生まれよったんや。いや、わしの意識がわしの中にそ・・
んな世界をこしらえよったんや。それで、わしはそれを選んだ。わしの産んだ世界はわしの本当の力・・
を発揮できる世界に…。それが、わしの位置を決めることになった。力を発揮できる位置…。それが・・
河原やったんや。朝鮮やったんや…」・・・
親父は目を閉じていた。グラスを持つ手をゆらゆらと揺らしていた。大介はそんな親父を見付めた。・・
親父の悲しみが見えてくるようだった。親父も人の子か…。大介の微笑みが元に戻った。・・・
「その思いを確実に掴まんと、死んだら負けになる。死は事の始まりなんや。勝利を掴んだ者でない・・
と、その、事の始まる場所へは立てへんのや…。心を激しく震わせ続け、生きていることを否定する。・・
それが勝利や。わしらの生きる世界はもっともっと高いところにあるんや。そうなんや、わしらは、・・
まだ生まれていないのや。今は生まれる前の世界なんや。今の世は、果てしない至高なる輝きの世界・・
への切符を掴むためだけの世界なんや。そこで勝たんと意味ない」・・・
悲しみなんかではなかった。さすが親父だった。親父は自分の思いの親父より遥かに大きかった。・・
やはり、親父は空になろうとしている。大介は素直に嬉しかった。・・・
「わしらは選ばれた者なんや。自らの選んだ道は間違っていない。わしらは神に誘われているんや。・・
いや、わしらこそが、事の始まる世界で神になるんや。もっともっと高いところの世界で神と敬いら・・
れるのや…」・・・
よく理解できていた。選ばれた者…。それが親父の血なのだ。被差別所の中から別なる至高な世界・・
の神が選ばれる。なぜならば、被差別者の者でないと生を否定することなどできない。阻害を受けた・・
者でないとそんな思いを抱くことができない。死は生から解放じゃない。新たな生への昇華なのだ。・・
いや、本当の生への事の始まりに立つことなのだ。よく理解できていた。大介は満足だった。・・・
親父は言いたいのだ。この世は篩(ふるい)なのだ。この世の者はただ篩に掛けられているだけな・・
のだ。目の粗い篩だ。困難という十字架を持った方が有利だ。その者は嵩が大きい。被阻害という黒・・
い荷物だ。嵩の大きい者がその目の上に残る。しかし、その困難に打ち勝たないと背の十字架が落ち・・
てしまう。困難という黒い十字架を最初から持たない者たちと同じように篩に落とされていく。・・・
死が困難からの解放などと思っている者たちは篩に落とされていくのだ。差別する側の者たちと同・・
じように粗い目から落ちていく。死することすらその篩には意味を持つ。困難の中にこそ真理がある。・・
その真理こそが篩に掛かる最も嵩の大きなものなのだ。もったいない…。親父は言った。そうだろう、・・
せっかく自らの選んだ困難な道を歩む者たちだ。その困難の意味を確実に理解しないと意味がない。・・・
「大介…。そう言うこっちゃ。わしはそう思うてる」・・・
自らの思いの整理が付いたのか、親父が目を開けた。・・・
「わしは負けん…。死んでも負けん…」・・・
親父が笑った。引き込まれるような笑みだ。大介はグラスを上げた。爪で軽くそれを弾いた。・・・
「おれも負けない…。負ける前に必ず勝つ…」・・・
チン…。ガラスの音は大介の声にかき消された。大介は限りなく満足だった。今の話に、親父と更・・
に深く結びついたような気になった。・・・
「明日が楽しみや…」・・・
大介がもう一本ボトルを取り出した。二人の夜はまだまだ続いた。・・・
・・・
・・・
RIKIにすべてが見え始めようとしていた。自分の掴んだ情報。そして、不破から聞いた話。そ・・
れらを合わしRIKIの脳裏にこれからの動きが固まっていく。・・・
大城憲一郎…。やはり、中原の話は嘘じゃなかった。不破の話にもそれを裏付けるものがあった。・・
裏付けるというのは正確じゃない。二人とも同等の話だった。不破の情報収集力にRIKIは改めて・・
その驚異さを思っていた。不破は竹中からも流れを聞いているようだった。・・・
RIKIは喧噪を歩いた。木屋町通りを四条から三条へ遡る。冬の短い日はとうに沈みきっていた。・・
早くも酒に酔った男たちの濁声が聞こえる。雪は降っていなかった。冷たい風が高瀬川をすり抜けて・・
いく。その風にも、小さな運河は流れを変えることなく静かに進む。大海への遠い道を知っているか・・
のように、音を静かに流れていく。・・・
RIKIはそんな高瀬川の流れを見ていた。流れに逆らって歩く自分に微かな嘲笑を浮かべていた。・・
すべて、流れに逆らってきた。いや、流れの中の逆流に押し込まれていた。波の引き返しのように、・・
あらゆるものの下を潜り歩いてきた。そんな風に思う。大海へ流れていくことなどあり得なかった。・・
ただ、激流に揉まれていただけだ。行き着く先があることすら思わなかった。大海があることすら知・・
らなかった。遠くなど見ようとしなかった。・・・
それは、RIKIの心の幾つかの襞のすべてに染み付いていった。幼さから積み重なっていった珊・・
瑚礁だ。何も知らない。知らなくていい。いや、知ってはならない。ただ、側に付いていた大人の言・・
うことを聞くだけだった。大人はRIKIに分厚いバリヤーを張り巡らせた。空にも届きそうな壁を・・
作り上げた。RIKIはそうして育った。閉ざされた檻の中で育った。・・・
自分の運命をただ受け入れていた。逆らうことは知らなかった。いや、思いつかなかったという方・・
が正しいかも知れない。RIKIは人間としての一番大切の時期、幼さの透明なる時期にその渦を・・
知った。それが悲しみの渦とだったとはその時思わなかった。RIKIは悲しみという色を誰にも教・・
わらなかった。・・・
悲しみを知ったのは不破との出会いからである。不破はRIKIの周りの大人たちとは少し違って・・
いた。RIKIをモノして見なかった。幼さにそれは何となく見えた。たしか十歳になった頃だった。・・
その頃には、自分の流れを完全に自分の中に受け入れていた。運命に潔く従っていた。他からの風が・・
吹くことを望まなくなっていた。・・・
不破にはわがままを言った。自分は神のために死ぬ…。強くなり神の人柱となる…。その思いの裏・・
返しだった。不破には無理を言った。側にいて欲しい。最大のわがままだった。・・・
不破はRIKIに少しずつ話をしてくれた。井戸の中の蛙が井戸の外に空が見えることを知った。・・
二人の中に二人にしか分からない微かな変化が芽生えようとしていた時期だった。・・・
ピンクサロンの呼び込みの声がRIKIの思いを弾いた。RIKIは我に返った。高瀬川の流れが・・
闇に消えていきそうに見えた。水面に映し出される色とりどりのネオンが醜く歪む。水が色を避けよ・・
うとしている。色のない闇へ流れていく。流れが心持ち速くなったように思った。RIKIは歩みを・・
緩くした。流れに逆らう自分も醜く思えていた。・・・
奥深い山の中だった…。谷の渓流の側に建てられた小屋だった…。・・・
再びRIKIは思いへ沈む。歩みが更に遅くなる。・・・
強くなればそれで良かった。意味など考えなくて良かった。大人たちが神というモノを神と思う。・・
そして、神のために死ぬ。死ぬために生きているのだ。RIKIの染まった色にはすべてその色素が・・
散りばめられていた。神…。まだ見ぬ神を信じた。神のために死す。RIKIには美しい輝きだった。・・・
死ぬことなど怖くはなかった。早く神の元に眠りたかった。RIKIの思いの神は空の果てにいた。・・
空の果てには光の国がある。神は光の国に選ばれた者たちを待っている。その者を膝に抱く日を待っ・・
ている。肩を叩くのを待っている。そう思った。神のために死す者こそ、その栄誉を身に受けること・・
ができる。それを信じた。・・・
しかし、不破の話にそれは徐々に霞んでいた。不破は側にいてくれた。物静かな男だった。不破と・・
は山に二年一緒に暮らした。決して不破はRIKIの思いを砕けさすような話はしなかった。ただ、・・
RIKIの問いに正確に答えてくれた。不破に質問を考えるのが果てしない楽しみになっていった。・・
不破はどんなことでも真剣に答えてくれた。・・・
二年というのはRIKIにとって長かったのか短かったのか分からない。しかし、RIKIはその・・
二年に変わった。変わってどうなることでもなかったが、確実にRIKIは変わった。人間として何・・
かを掴んだ。積み重なっていた灰色の珊瑚礁にもう一つ新たな層が張り付いた。幼さなりにそれは少・・
し色の異なった層だった。別の光がそれへ色を落とした。・・・
それからRIKIの闘いが始まった。不破が山を下りた。別なる大人と入れ替わった。そして、殺・・
人兵器としての訓練が始まったのだ。・・・
いつの間にか人が溢れていた。いつもの活気が今宵も木屋町に戻ってきているのだ。RIKIは三・・
条通りにまで来ていた。若者たちが大きく騒いでいる。それぞれの笑顔がRIKIには眩しかった。・・
顔を赤らめた者たちの笑顔は輝いていた。未来…。RIKIはその輝きが消えていかないことを望ん・・
だ。自分のように光を見失って欲しくなかった。・・・
RIKIはきびすを返した。今度は高瀬の流れに従う。足を再び四条へ向けた。RIKIは過去か・・
ら思いを飛ばした。流れを逆らわない。RIKIの意識は未来へ向いた。本当の解放への闘いへと向・・
いた。まだ見ぬ大城の姿を無意識に雑踏の中に探していた。・・・
大城が自らの血を集結しようとしている。不破に聞いた。久保山、竹中、そして、不破へとその情・・
報は流れていた。大城は一体何を行おうとしているのだ。明日の朝、それらの者が鴨の流れ沿いに集・・
まる。RIKIにはそれが何を意味するのかまったく分からない。・・・
大城の血…。それが、自分の中に流れているのかも知れない。自らにどんな血が流れていようと・・
知ったことではない。自分は自分の思いを進むだけだ。・・・
高瀬の水面にネオンが多くなった。この水はやがて鴨の流れに吸収されていく。RIKIは思った。・・
自分もこの水のように流れて行きたい…。この水は大海を知っている。遠く果てしない母なる海を・・
知っている。だから、ネオンの色を避け闇へと消えようとしている。・・・
風の冷たさを感じ始めていた。RIKIは空を見上げた。東京へ出た時、新宿の空を見上げ続けた。・・
あの頃を思い出していた。不破との逃亡だった。いや、RIKIの復讐の第一歩だった。あの時も風・・
が冷たく感じた。今よりも冷たい風のように思う。忘れてしまったが…。・・・
あれから、五年、RIKIは待った。RIKIは不破に新たなる力を叩き込まれた。不破はRIK・・
Iの思いを果てしなく理解してくれていた。・・・
追い抜いていく人たちに罵声を浴びせられた。寒空を見上げるRIKIの姿は喧噪の盛り場に限り・・
なく似つかわしくないものだった。・・・
・・・
第八章 解放・・・
・・・
(1)・・・
・・・
「篤志…。元気そうやな」・・・
夜明けだった。河原に大城憲一郎の声が響く。朝の静けさに少し大きすぎる声だ。大介は大きく息・・
をした。朝早い冷たい空気は澄んでいる。大介の肺に新鮮な気が満たされる。・・・
河原に男が何人か立っていた。男たちは寒さの中、一固まりになっていた。大城と大介の姿を認め・・
ると男たちの輪が割れた。男たちの笑顔が朝の光に輝いた。・・・
「邦雄もグレートも元気そうや…。人間、元気が一番やで…」・・・
大城の機嫌は良かった。側の大介にもそれが分かる。二人は輪の中に入った。輪が少し狭くなる。・・・
「親父さんも、坊ちゃんも元気そうで…」・・・
男たちが頭を下げる。大城と大介はそれに軽く返した。・・・
「挨拶は抜きや…。まず、篤志や。どうや、あの原稿仕上がったか?」・・・
大城がその中の一人に声を掛けた。輪の中で一番小柄な男が大城に一歩出た。男は嬉しそうに大城・・
の手を取る。大介にちらっと笑みを送る。・・・
「親父さん。ばっちり上がりましたよ…。後は、編集長のゴーを取り付け印刷に回す段取りです。任・・
せといて下さい…」・・・
木下篤志。大介よりも五つ上だ。大城の子だった。大城によく似た大きい目を綻ばしている。久し・・
ぶりの実の父に笑みが弾んでいる。・・・
「題名は何やったかいな?」・・・
淡い光が鴨川に光の彩りを落としていた。早々にユリカモメもその光と戯れている。どこからか鳥・・
の声がそれに紛れる。うっすらとした霜が消えていく。冷たい風に飛ばされていく。大介の中に嬉し・・
い思いが拡がっていた。兄弟たちなのだ。こうして会うのは久しぶりだ。いよいよ…。そんな思いが・・
大介を揺らしていた。・・・
「闇の怪物。驚異の種馬、大城憲一郎…。です…」・・・
大城が木下を覗き込む。木下の白い息が風に消えていく。たねうま…。大介は笑いを堪えた。同じ・・
ように親父も顔をしかめていた。・・・
「たねうま、か…。ヒッヒッヒッ!」・・・
大城が笑った。木下の肩を抱く。木下が子供のように大城の腕に絡まった。・・・
「種馬か! ヒッヒッヒッッヒ!」・・・
大介も吹き出した。種馬…。うまいこと言うぜ。篤志兄貴よ…。親父にピッタリだ…。・・・
「それはいい。いい題名だ。ハハハハ…」・・・
大城が闇から姿を出していくのだ。『驚異の種馬、大城憲一郎』はそれを世間に知らしめる出版物・・
なのだ。大城の何番目、十何番目かの子、木下篤志に大城自身が依頼した。・・・
「狂気の種馬に変更しましょうか…」・・・
木下の母親は娼婦だった。それは親父から聞いている。気のいい女だったそうだ。すべてをこの息・・
子、篤志に注ぎ込んで死んだ。昔風の女だったそうだ。・・・
「ハハハ、驚異でええわ…」・・・
大城の影なる後押しで、木下はルポライターとしての頭角を現し始めていた。やはり、大城の子は・・
優秀だった。木下は大城の期待に応えた。その上での執筆だ。木下は大城の思いを理解している。大・・
介たちと思いは同じだ。大城の思いの一員だ。大城の妄想を形にしていく貴重な戦力なのだ。・・・
「ええ男に書いたやろな…」・・・
親父の血がこの国を制していく。大城憲一郎…。その血は至る所に点在する。その血は果てしなく・・
優れている。大城という男がその頭脳と莫大な財を持ってそれを築いていった。木下の作は今まで闇・・
に隠れていた大城憲一郎という男を光に晒すためのものなのだ。世間への親父のメッセージなのだ。・・・
同時に木下篤志の名が売れる。戦力がアップする。大介の思い付きだった。事の始まりのセンセー・・
ショナルな花火だ。未来への一つのストーリーだ。・・・
中原の死をきっかけにそれを出版する。どういう訳か親父は中原を遠慮していた。中原が親父を引・・
き留めていたのかも知れない。親父は中原には弱いところがあった。しかし中原は死んだ。もう、誰・・
に遠慮することもなくなったのだ。大介は大きく笑った。・・・
「邦雄はどうや…。あの件は裏がとれたか…」・・・
男たちの輪が乱れた。木下篤志の影から安井邦雄が顔を出した。安井は痩せていた。吐く息が誰よ・・
り白く見える。背を丸め暗い表情の笑みを大城に送る。・・・
「はい、親父さん。驚きですよ。何もかもが、あの黒沢に繋がっていますよ」・・・
大城が別の微笑みを浮かべた。安井の肩を軽く二度叩く。・・・
「そうか、さすが大介や…」・・・
フリーの政治記者、安井邦雄がある汚職事件をすっぱ抜く。安井も大城の子だ。大介の兄だ。木下・・
と同じ娼婦の母を持つ男だ。例に漏れず安井邦雄も優秀だった。・・・
これも派手なスクープなのだ。記事を書いた安井の名は確実に上がる。駒の一つではあるが安井邦・・
雄という戦力の地位がしっかりと確保される。更にその記事は別の意味をも持つ。同じく大城の息子・・
久保山竜太郎のライバル黒沢三郎をけ落とすのだ。我々にとって一石二鳥なのだ。大介も安井の肩を・・
叩いた。邦雄兄貴、ご苦労さんだ…。・・・
「しかし、黒沢という男も、えらいえげつないですね…。つつくところ、つつくところ、埃だらけで・・
すよ。真っ黒な埃ですよ…」・・・
大城の勘だった。大介がそれを嗅ぎ回った。大介の嗅覚はそれを確実に捕らえた。・・・
「週刊誌か、新聞か…」・・・
売り先を訪ねているのだ。売るのは久保山剛増。久保山ならどこへでも売ってくる。・・・
「どちらでも、正確な情報での取材です。どこへ持っていっても大丈夫です」・・・
親父が満足そうに頷いた。安井邦雄…。何番目、十何番目かの息子の成長に目を細めている。親父・・
もやはり人の子だ。大介は愉快だった。・・・
「グレート。お前さんはどうだ…」・・・
次は阿修羅のような男だった。身を屈め安井邦雄を掻き分ける。スキンヘッドがてかる。顎の髭が・・
少し風に靡く。元プロレスラーのグレート権藤。権藤が子供のような笑みを親父に見せている。・・・
大介が権藤の分厚い胸に軽く正拳を当てた。権藤も大介を片手で軽くつついた。ウインクなのだろ・・
う。権藤は片目を強く閉じた。まったく似合っていない。大介は思わず笑いを声に出した。・・・
「グレート…。相変わらず、バカ面だ。今夜、祇園でも繰り出すか…」・・・
大介の言葉に権藤が頷いた。子供の笑みが果てしなく拡がっていく。・・・
「坊ちゃん、バカ面はないでしょう」・・・
いい男なのだ。権藤の母はどこかの医者の後家だったそうだ。それを親父が無理矢理犯した。権藤・・
は母を大切にした。母を守るために強くなった。心優しい大男なのだ。・・・
「親父さん…。久しぶりです…」・・・
権藤の母はまだ生きていた。親父のことをいつも誉めているそうだ。呑めばグレートは泣き上戸・・
だった。グレートを泣かすのが大介の楽しみの一つだった。・・・
「ボディーガードは任せといて下さい。おれは、親父さんのためにいつでも死にますぜ。それに、う・・
ちのジムの奴らは、火の中水の中、親父さんのためならどこにだって行きますぜ」・・・
親父の笑みが一番大きくなっていた。親父はこの大男を好きなのだ。グレート権藤…。泣き上戸の・・
スキンヘッドが可愛いのだ。細めた目をさらに細めている。・・・
「国籍のない奴。戸籍のない男。言葉を知らないバカ。よりどりみどりですよ。ハハハハ!」・・・
グレート権藤の大声に水辺に隠れていた雀たちが一斉に飛び立った。輪の男たちは笑った。寒さが・・
男たちから離れていく。・・・
「大介、いよいよや」・・・
その笑いに紛れて親父が小さく言った。大介にだけに届く声で静かに呟いた。・・・
「いよいよやで…」・・・
河原に吹く風が遠慮していた。男たちを遠回りするように空へ逃げていく。おもしろくなるぜ…。・・
大介の思いが熱くなる。輪の男たち、いや、兄貴たちを誇りに思う。・・・
「おやっさん!」・・・
その時、もう一人の男が河原へ降りて来た。黒い毛皮のロングコートに金縁のサングラス。オール・・
バックに頬に傷。絵に描いたようなヤクザスタイルの男が大介たちの輪の中に入った。・・・
「いよいよでんな!」・・・
グレート権藤よりも大きな声だ。男は輪の男たちに一人ずつ会釈する。関西ヤクザ武闘派の雄、浪・・
速会の大幹部、藤原哲太郎だった。・・・
「哲!」・・・
親父が珍しく大きく叫んだ。哲太郎の肩を抱いた。みんな集まって来てくれる。親父の喜びが大介・・
にも見えた。輪の兄弟たちにも見える。男たちの笑いが輪に弾ける。大介も哲太郎の肩を叩いた。テ・・
ツ兄貴、いつ見てもセンスが悪い…。減らず口も楽しいものだった。・・・
「ドンバチ、初めましたで。派手な戦争になりまっせ!」・・・
哲太郎の頬の傷がぴくぴく引きつっていた。哲太郎は浪速会と稲口組のドンバチのことを言ってい・・
る。関西浪速会が関東の大組織稲口組へ攻撃を掛けた。稲口組の大幹部の一人が何者かに射殺された。・・
大介もそのことは新聞で読んでいた。それが、親父が仕組んだことというのか…。哲太郎が仕掛けた・・
ことというのか…。大介は親父を見た。親父は愉快そうに大介を見ていた。・・・
「言うの、忘れとった。浪速会はこの哲が仕切るようになったらしいわ…」・・・
哲太郎が金縁のグラスを取った。目に涙が溜まっている。親父とよく似たドングリ目から涙が溢れ・・
そうになっている・・・
「おやっさん。わしは嬉しいわ。この日を待ってたんや!」・・・
哲太郎は親父の手を取って泣き始めた。思い出した…。思い出した…。哲太郎も泣き上戸だ。今夜・・
は祇園でグレートと哲太郎との泣き合戦だ。大介はもう一度哲太郎の肩を叩いた。・・・
「坊ちゃん! わしは嬉しいわ!」・・・
哲太郎の目から大粒の涙が次々にこぼれた。それを拭おうともせずに哲太郎は同じ言葉を繰り返し・・
た。大介は呆れるしかなかった。それも楽しいものだった。・・・
「わしは嬉しいわ! わしは嬉しいわ!」・・・
河原に少しずつ日が高くなる。ユリカモメの動きも忙しくなっていた。・・・
・・・
・・・
「おばちゃん、おはよう…」・・・
昨夜は遅くまで眠れなかった。リリーへの思いがクーに揺れ続けた。クーは栄子に知られないよう・・
に涙と長い夜を過ごした。・・・
「ああ、起きたか久美子ちゃん。ええ天気やで」・・・
栄子は既に着替えをすましていた。湯を沸かしている。部屋に一つしかないガラス窓が曇っている。・・
昨夜のような激しいすきま風は感じない。戸を叩く風の音が緩やかだ。・・・
貧困というものをクーは初めて感じた。栄子の家は驚く程狭かった。四畳半くらいだった。畳など・・
敷かれておらず毛足のない絨毯らしきものが二枚程重ねられていた。家具は、古いタンスと段ボール・・
の物入れ、故障している炬燵、小さなテレビくらいだった。そしてリリーの仏壇。仏壇が栄子の部屋・・
には一番大きなものだった。・・・
クーはそんな栄子の家でリリーの話を聞いた。栄子との酒は長い夜となった。二人共よく飲んだ。・・
栄子のリリーへ対する愛がクーにストレートに流れ込んだ。栄子の悲しみが理解できた。栄子を哀れ・・
に思った。リリーを哀れに思った。・・・
「おばちゃん。元気だね…」・・・
クーは布団から出た。曇りガラスを手で拭いた。昨日のようにユリカモメが水面に揺れている。・・・
「誰かいるよ…」・・・
河原に男たちがいる。顔までは見えないものの、何やら曰く付きの男たちのようだ。クーは栄子を・・
見た。栄子がお茶を煎れた。・・・
「知ってる。光男たちや」・・・
香ばしいお茶の香りがクーに届く。クーは自分の布団を上げた。壊れた炬燵をその上に置く。・・・
「飲み。おいしいで」・・・
湯飲みが二つクーの前に置かれた。栄子は笑っていた。仕事、今日休んだ…。久美子ちゃん、ゆっ・・
くりして行って…。栄子は笑顔のまま言った。昨夜の笑みと同じだった。クーが見たことのないよう・・
な笑み…。暖かく包まれていくような笑み…。同じ笑みだった。なぜか、ほっとした。・・・
「木屋町にな、ふぐ屋さんがあるんや。わて、そこのゴミも取ってるんや…」・・・
栄子の仕事はゴミ回収だった。ゴミ屋…。それは、栄子自身がそう言った。飲食店などの生ゴミを・・
処理するゴミ回収業だった。まだ食えるものを、ぎょうさん捨てよるわ…。もったいない…。栄子は・・
そう言って笑っていた。・・・
「そのふぐ屋さんから、ええもんもろといたんや…」・・・
栄子の笑いが少しずつ変わっていく。何が言いたいんだろう…。クーは栄子の目を見続けた。お茶・・
のおいしさも忘れていた。・・・
「光男はええかっこしいや。人が何人か側にいるときがチャンスなんや…」・・・
新井光男…。思った通り、栄子は新井を激しく恨んでいた。リリーが死んだのは新井のせいや…。・・
昨夜、酒に酔って何度も泣いた。その新井がどうしたの言うのだ。新井は今、河原にいる。・・・
「毒や。ふぐの毒や…」・・・
少し話が見えた。新井に毒を盛ろうというのか…。栄子に魔物が見えてくる。目に妖しい光が揺れ・・
始める。何かに取り憑かれたような熱い視線がクーをもろともせずに貫通していく。どうしたのおば・・
ちゃん…。どうしたのよ…。・・・
「今がチャンスや。久美子ちゃんが絶好のチャンスを、わてに持ってきてくれたんや…。おおきにや・・
で、久美子ちゃん…」・・・
栄子がお茶を飲み干した。目の光が輝きを増していた。・・・
「久美子ちゃん。ゆっくりしていってな。頼むさかい、ゆっくりしていってな…」・・・
光が潤んでいく。幸少ない栄子の目は涙が人より多い。昨夜思ったことを思い出していた。クーは・・
栄子に頷いた。ゆっくりしていくよ…。でも、おばちゃん。変なこと考えたらダメよ…。クーもお茶・・
を飲み干した。やはりおいしさは感じなかった。・・・
「ちょっと、光男に挨拶してくるわ。あのアホ、リリーの命日も忘れとるんや…」・・・
栄子が立ち上がった。リリーの名を言った時に栄子に一瞬悲しみが見えた。・・・
「命日?」・・・
クーは聞いた。話を続けたかった。そうしなければ、栄子までどこかへ行ってしまうように思った。・・
リリーのように遠い遠いところへ行ってしまうように思った。・・・
「そうや、リリーの命日は今日なんや…」・・・
栄子は台所から何かを掴んだ。そして、クーに振り返った。・・・
「ちょっと、出てくるわ。すぐ帰るから、ゆっくりしていってな…」・・・
引き留めたかったが無理だった。栄子にそれを許さない激しさがあった。怒りが栄子を包んでいた。・・
新井への憎悪だろう、引き留めようとするクーをその憎悪が弾き飛ばした。・・・
「おばちゃん…」・・・
栄子は出ていった。クーにやるせなさが漂う。・・・
「ゆっくりして行ってや! 帰ったらあかんで! すぐ戻るしな!」・・・
栄子は更に叫んでいた。クーのやるせなさが果てしなく膨れていく。クーは窓に寄った。栄子がこ・・
ちらを見ていた。・・・
「久美子ちゃん。帰ったらあかんで! 頼むさかい、帰らんといて!」・・・
栄子は泣いていた。悲しみが痛かった。哀れさが痛かった。クーは窓を開けた。そして栄子に大き・・
く頷いた。・・・
「おばちゃん、早く帰ってきてね…」・・・
・・・
・・・
足の震えが止まらない。寒うはない。寒うはないんや…。栄子は何度も自分に呟いた。その呟きも・・
激しい震えに巻き込まれていく。寒うはない。寒うはないんや…。・・・
手に持つ水筒を胸に抱いた。中に入っているのはふぐの毒の混じった熱いお茶だ。これで人が死ん・・
でしまうのかは分からない。ふぐの毒がどこまで人を苦しめるのかの知識はない。しかし、あの木屋・・
町のふぐ屋の下働きの女は言っていた。これ、食べると死んでしまう…。身体中をピクピクさせたま・・
ま、あの世行きや…。そう、このお茶で新井は死ぬ。リリーの恨みを晴らすんや…。・・・
またとない機会なのだ。新井は滅多に自分の前に姿を見せない。あの新井でもリリーの姉である自・・
分は煙たいようなのだ。たまに河原へ新井が来ても一人の時が多い。一人だと逃げていってしまう。・・
新井もリリーに対して悪いことをしたと思っているのだ。自分の顔を見ると泥棒猫のように消えてい・・
く。しかし、新井はプライドが高い。男たちがいる時は逃げないだろう。女から逃げるのはいい格好・・
なものではない。・・・
何を喋ったものでない…。新井は自分にそう思うだろう。リリーのことはもういいわ…。それより、・・
たまには線香の一本もあげてやってや…。そう言えば、新井もお茶の一杯くらい飲むだろう。笑顔の・・
一つくらい見せるだろう。・・・
胸に抱いた水筒の暖かさがようやく栄子に届いた。膝の震えが少しだけ収まっていく。そうなんや、・・
寒くないんや…。・・・
新井は他の男たちとは少し離れた位置に座っている。誰かが河原に捨てたぼろ椅子だ。新井に似・・
合っている。他の男たちは三つ程ある青いベンチにそれぞれ腰掛けている。どこかのバス停のベンチ・・
を持ってきたのだろう。男たちは新井を大きく囲むように座っていた。・・・
「光男はん…」・・・
男たちがちらっと栄子を見た。中の一人、一番若い男が大きく笑っていた。新井に似ていた。嫌ら・・
しい目の輝きが同じ色に見えた。・・・
「何してはるの、こんなところで…」・・・
あんたはここを出ていったんやろ…。用がないなら帰ってんか…。嫌みの二つ三つも口からこぼれ・・
そうになった。しかし、栄子はそれを堪えた。チャンスなんや…。久美子ちゃんがこしらえてくれた・・
チャンスなんや…。・・・
栄子はリリーを思った。膝の震えを収めるにはそれしかなかった。リリーは泣きながら死んでいっ・・
た。あの時のリリーの顔が栄子に浮かぶ。睡眠薬を大量に飲んだ。悲しみから一歩も出られないこと・・
を悟ったリリーは栄子の腕を噛んだ。力無く噛み続けた。・・・
「久しぶりやな…。寒いなー」・・・
栄子は新井の側に立った。新井が無理に笑顔を作っていた。思った通り栄子を逃げていかない。目・・
を逸らしてはいたが椅子を動こうとしない。・・・
そうなんや、リリーはわての腕を噛んだんや…。痛うなかった。ぜんぜん痛うなかった…。ぜんぶ、・・
この男が悪いんや…。新井光男…。死んだらええんや…。・・・
「リリーのことはもうええわ…。いっぺん、線香でもあげたって…」・・・
新井が少し驚いたように頷いた。栄子は笑みを新井に送った。昔、客をとっていた頃の斜めの笑み・・
を思い出しながら…。・・・
「温かいお茶あるで。飲むか…」・・・
返事を聞いていたのではアカンのや…。栄子は水筒の茶を蓋に入れた。白い湯気が勢いよく栄子の・・
視界を縦断していく。・・・
「はよ飲み。風邪ひくで」・・・
コップを新井に持たせた。栄子はとびきりの笑顔を作った。リリーの笑みも思い出していた。リ・・
リーの笑みは男を引き付ける笑みだった。それも自分の笑みに重ねた。これで、新井が茶を飲まん・・
かっらしゃあないわ…。栄子は腹を決めた。足の震えがぴたっと止まった。・・・
「栄子はんが、わしにそんな顔見せるのいつ以来やろ…。やつぱり、リリーに似てるなあ。別嬪さん・・
やな」・・・
そう言って新井が茶を飲んだ。栄子の顔をしみじみと見ながらゆっくり飲んだ。・・・
「ほんま、別嬪さんや…。ハハハハ…」・・・
新井が茶を飲み干した。ヨッシャ! 栄子の笑いが変わった。作った笑みが消え胸の底からの笑み・・
が栄子に突き上げた。・・・
「温まるわ。おおきに、栄子はん…」・・・
全部飲みよった…。毒ごと全部飲みよった…。アホタレが…。新井は水筒の蓋を栄子に返した。新・・
井の口元から温くなった吐息が白く風に絡んだ。・・・
「どうぞ…」・・・
栄子の用事は済んだ。新井の笑みをそれ以上見たくない。水筒の蓋を閉めた。新井に背を向けた。・・
アホタレが…。もう一度意識の中で毒ついた。栄子は足を早めた。・・・
「はよ、死にや…」・・・
それは新井にまで届かない。栄子は振り返らなかった。思いは果たした。後はどうにでもなれ…。・・
「あの世でリリーが待ってるわ。あんたの、首を絞めるのを楽しみに待っとるわ…」・・・
栄子に再び足の震えが戻った。揺れる視界に自分の家が見える。窓に久美子の姿が小さく見える。・・・
「おおきに、久美子ちゃん…」・・・
栄子の笑いが消えた。おおきに、久美子ちゃん…。ゆっくりしていってな…。笑いに涙が素早く入・・
れ替わっていた。・・・
・・・
・・・
親父の機嫌がすこぶるいい。大介は満足だった。親父の生まれた河原で兄弟たちが集まる。何年振・・
りだろうか、血の繋がりはいいものだ。冷たい風も気にならなかった。尻の下のクッションの全くな・・
い椅子にも腹が立たなかった。顔は綻びぱなしだ。声も弾む。笑いが大きくなる。・・・
哲太郎が若い衆に酒を運ばした。御神酒に『祝い』と記されている。それを一升瓶のまま回し飲み・・
した。結び付きが更に強くなる気がする。大城憲一郎という濃い血の熱さが男の輪に拡がっていく。・・
まさしく『祝い』だ。・・・
しかし、警戒は怠らなかった。RIKIが親父を狙っている。RIKIは中原をすでに越えている。・・
竹中も何かを嗅ぎ回っている。久保山から何かを聞いたのか…。元々、竹中は久保山剛造の手の者だ。・・
中原への長い奉公は久保山の指示だっのだ。中原なき今、竹中も何をしでかすか分からない。竹中は・・
手強い。そして、あれから箱崎が連絡を寄越さない。箱崎も中原の死に激しい怒りを見せていた。箱・・
崎も親父を狙っている。中原の仇だ。箱崎にすれば当然なことだろう。・・・
先程、薄汚れた女が親父に近付いた。RIKIか…。あるいは竹中か、箱崎か…。大介は一瞬思っ・・
た。変装などRIKIや竹中なら朝飯前だろう。箱崎にはそんな器用なことはできないが…。大介は・・
少し腰を浮かしていた。・・・
しかし、違っていた。女は親父の知り合いのようだった。女の差し出したお茶を親父はうまそうに・・
飲んでいた。あれが親父の言っていたリリーという女の身内か…。親父はリリーだけは愛していたよ・・
うだ。時折、リリーのことを話し懐かしがっている。・・・
思い過ごしだったようだ。少し意識過剰になっているのかも知れない。大介の警戒が少し綻びる。・・
酒を続けた。・・・
兄弟酒はとびきりうまかった。兄貴たちの笑顔が嬉しかった。坊ちゃん…。兄貴たちは自分にも親・・
父と同じ目を向けていた。グレートなどは手を何度も触りたがった。目に涙を溜めて尻に頬ずりでも・・
しないかの勢いだった。それを逃れるのに必死の大介だった。・・・
そろそろ久保山親子も来るはずだ。大介は一升瓶を片手に椅子を立った。浮かれてばかりいられな・・
い。バカ騒ぎは夜に取っておこう。久保山親子にはきつい楔を打ち込まなければならないのだ。その・・
世界で言う『かぎばり』だ。『くんろく』だ。竜太郎が少々図に乗っている。ここにいる兄貴たちと・・
は袂を分かちたがっている。・・・
バカだ竜太郎は。何も分かっちゃいない…。大介は眉をひそめた。その時に見えた。久保山親子が・・
河原へ降りてきていた。遠目に竜太郎の不機嫌そうな面が見える。大介の機嫌が裏返った。一升瓶に・・
口を付ける。急に酒が苦く感じた。・・・
・・・
・・・
おかしい…。何や、身体が痺れるわ…。大城は椅子を立ち上がろうとしていた。久保山親子が河原・・
へ降りてくるのが見える。剛造の息子竜太郎の手前、大城は久保山剛造に握手の一つでもしてやろう・・
と思っていた。座ったまま自由党の副総裁にまで登り詰めた男を迎える訳にはいかない。大城は大城・・
なりに気を使っていた。・・・
しかし、身体が動かなかった。全身のしびれが激しくなっていく。立ち上がらなければ…。立ち上・・
がるんや…。大城は懸命に足を動かそうとした。唇にまで震えが襲う。声が出ない。激しい頭痛が大・・
城を責める。脇の下に汗が流れていく。肩に不必要な力が集中していく。全身が固まっていく。・・・
どうしたんや…。えらいこっちゃ…。すぐに原因は分からなかった。夕べ、何か変なものでも喰っ・・
たかいな…。大城の考えが巡る。悪いものは喰っとらん…。食い物で当たるような腹はしとらん…。・・・
アカン! 震えが治まらん。どうした…。痺れる。ああ、痺れる…。・・・
「あっ!」・・・
痺れる口から漏れた。大城に先程飲んだ茶の味が蘇る。栄子の顔が浮かんだ。変な味やった。あの・・
女! 栄子や! くそー、茶に毒を盛ったな! 腐れ売女め!・・・
久保山剛造が軽く大城に手を上げた。いつものポーズだ。テレビでもおなじみのポーズだ。大城も・・
笑みを返そうとした。しかし、頬がひきつり笑みが歪んでしまっていた。・・・
アカン! えらいこっちゃ…。やられたわ…。リリーの恨みか…。腐れ売女が! クソー!・・・
大城は目を閉じた。意識の中で叫んだ。ウオオオオオー! ウオオオオオー! 自らの肉体に激し・・
い檄を飛ばす。ウオオオオオー! ウオオオオオー! ・・・
「よう来てくれた、久保山よ。事が始まるで…」・・・
久保山が近付いた。大城は椅子を立った。あんな女のためにくたばってたまるか! 全身の痺れが・・
少しだけ遠のいた。大城は鬼のような顔を久保山に向けた。・・・
・・・
(2)・・・
・・・
あれが大城憲一郎…。竹中はその姿を初めて目にした。思ったより小柄だった。背を少し曲げてい・・
る。老人の静けさと獣の激しさが同居しているように見える。異様な姿だ。微かに全身を震えさせて・・
いる。寒さに身を縮めているのだろうか大城は少し揺れていた。・・・
大城が久保山剛造に手を差し出した。やはり微かな震えが見える。面に笑みが見えない。歪んだ頬・・
が何かを堪えているように見える。おかしい…。大城とはいつもこのような雰囲気を持っているのか。・・
痛みに耐えている老人だ。老いた獣だ。・・・
握手はしなかった。大城は思い直したように久保山剛造の肩に手を乗せていた。側に大介が寄る。・・
竜太郎が大城に軽く頭を下げた。・・・
「……」・・・
大介が何か言った。竜太郎の胸を掴み青いベンチへ引きずっていく。逆に大城が剛造を川の流れの・・
際へ誘った。大城と剛造が水際に二人立つ。二人の背に警戒は見えない。大城の背だけが微かに震え・・
ている。・・・
今だ…。竹中は後ろ手を挙げた。江藤だ。竹中は江藤に手を挙げた。・・・
江藤が木の陰に潜んでいるのは知っていた。思い詰めた表情が一瞬見えた。江藤は機を伺っている・・
のだ。大城にぶちあたるつもりなのだ。・・・
「……!」・・・
大介の声が大きくなっていた。それは風に消された。竜太郎の脅えの表情が見える。竜太郎が大介・・
に適うはずがない。すべての要素が大介より劣っている。どうでもいいことだ。それよりも江藤だ。・・
やるなら今だ! 竹中は江藤の潜む木立に振り返った。もう一度手を後ろに挙げた。・・・
今だ! やるなら今しかない! 江藤の潜む木立が揺れた。目に異常な光を溜めた江藤が顔を出し・・
た。竹中の方をちらっと見ていた。・・・
「ウオオ! 死ね!」・・・
それは、江藤と目があった瞬間だった。江藤ではない。その叫びは江藤ではなかった。竹中は身を・・
翻した。久保山剛造に危険が及ぶ。竹中は剛造に向かった。それが竹中の任務だ。・・・
「死ね! 大城!」・・・
乾いた拳銃の音が一発響いた。ベンチに座る男たちが立ち上がった。標的は大城だ。久保山剛造が・・
大城を離れた。竹中は剛造へ真っ直ぐに走った。・・・
・・・
・・・
殺してやる! 大城憲一郎…。やはり、おれは中原の親父のために死ぬ!・・・
箱崎だった。箱崎の目は血走り怒りに表情が歪んでいる。肩を上下させ河原の石をもろともせず大・・
城へと走る。手にした拳銃を真っ直ぐに大城へと向けている。叫びが風を突き切り冷たさを弾き飛ば・・
していく。・・・
大城だ。大城憲一郎。新井光男じゃない。奴が大介の親父なのだ…。箱崎の怒りの中に中原が揺れ・・
ていた。自分を拾ってくれた中原。男だった。大きな男だった。自分は誓ったのだ。中原のために死・・
ぬ…。しかし、あの男が自分の思いを砕いた。中原を刺した。中原が自分より先に旅立ってしまった。・・・
死に場所がなくなった。いや、自分が中原の人柱になることができなくなった。思いの中の自らの・・
死が完全に色褪せてしまった。生命など既に捨てていた。そして、中原なき後、自分の存在の余りの・・
儚さに激しい怒りを覚えた。弾けたかった。破裂したかった。生命を燃やし砕けてしまいたかった。・・・
美しく思えた。男として散る。魅力だった。全身が熱くなった。死というものが自分の周りに漂っ・・
た。自分の生命の軽さを受け入れた。思いが固まった。新井光男。いや。大城憲一郎…。箱崎はそれ・・
へと向かった。・・・
「死ね! 大城!」・・・
もう一度、拳銃をぶっ放した。まだ少し距離があった。大城を外れていた。大介が大城に近付いて・・
いく。おれの闘いを邪魔するな! 大介へも怒りが向いた。・・・
「中原の仇だ!」・・・
大城がこちらを見た。黒のロングコートの男が前に出る。スキンヘッドの大男が何かを叫ぶ。・・・
「死ね!」・・・
狙いは外れていないはずだ。しかし、大城に銃弾が当たらない。どうしたことだ…。・・・
コートの男も拳銃を放った。弾が箱崎の耳元の風を切っていく。スキンヘッドが自分の身体を盾に・・
こちらへと走る。箱崎はもう一度引き金を引いた。狙いは外れていないはずだ…。・・・
その瞬間に大介が飛んだ。箱崎には見えなかった。スキンヘッドの巨体から大介は回り込んでいた。・・
箱崎の腕に激痛が走った。大介の蹴りに箱崎はのけぞった。・・・
「箱崎、バカなことはするな!」・・・
箱崎は体勢を整えた。坊ちゃん生命取りですぜ…。なぜ、銃で撃たなかった…。・・・
「中原の仇だ!」・・・
箱崎はスキンベッドの際をすり抜けた。巨人ののろい動きに身を大介から隠した。コートの男が二・・
発目をこちらへ放った。肩を掠める。身を倒した時に大介の拳が見えた。スキンベッドの巨体と共に・・
箱崎を襲った。・・・
再度引き金を絞った。今度は手応えがあった。スキンベッドだった。巨人が崩れていく。箱崎は大・・
城の姿を追った。大介の蹴りが再び箱崎を襲う。レバーにそれが食い込む。箱崎はそれを耐え水際の・・
大城へ飛んだ。まだ少し距離があった。しかし、大城の姿がなぜか大きく見えた。・・・
「大介。もういい…」・・・
そんな声が聞こえたように思った。大城からだ。大城が誘っている。大城が真っ黒に見えた。黒い・・
岩のように見えた。・・・
箱崎は走った。大介が追ってこないのを不思議に思った。コートの男からの銃撃もなかった。箱崎・・
の時がゆるりとその速度を落としていく。箱崎の走りが緩い時に絡まっていく。箱崎は叫んだ。ウオ・・
オオー! どうしたというのだ…。意識が縮まっていく。今まで一度として感じたことのない恐怖だ。・・
大城の黒い姿が大きくなる。自らが意識の中から離れていく。・・・
「アホか、お前は!」・・・
闇だった。一瞬に箱崎の視界が闇に包まれた。どこからかまったくの静けさが箱崎に押し寄せる。・・
意識が熱に溶かされていく。流れる時が箱崎に止まる。黒い風の流れが箱崎の意識に止まる。・・・
目だった。大城の目だった。それは、黒い十字架だった。箱崎は揺れた。黒い光に揺れた。すべて・・
が黒に覆われていく。戦いの意味が色褪せていく。箱崎は膝を折った。暖かい、いや、冷たすぎる何・・
かが箱崎の頬を刺激する。・・・
大城だ。大城が頬を撫でた。箱崎の恐怖に狂気が絡む。箱崎は引き金を絞った。手応えがなかった。・・
指の震えだけを感じた。・・・
「死ね!」・・・
それは大城まで届かない。いや、自らの中からそれは外へ出ない。止まる時が動かない。恐怖が箱・・
崎のすべてを飲み込んだ。大城の狂気が箱崎の意識を破壊した。思いの中の死よりも恐ろしい瞬間が・・
箱崎に訪れる。それが分かった。箱崎は闇に落ちていく。それが分かった。・・・
これが、大城憲一郎…。中原も恐れていた怪物か…。既に箱崎は大城に跪いていた。大城から逃れ・・
る場所はなかった。箱崎は黒い世界に中原を捜した。中原…。死…。その二つが箱崎の中に無限に重・・
なっていく。闇の彼方に風を求めた。死…。そうだ、死だ…。箱崎は死へ向かった。・・・
その時、箱崎の時が動いた。恐怖が瞬時に去った。しかし、箱崎はその時を掴まなかった。箱崎は・・
死を掴んでいた。・・・
美しく思えた。自らの存在の儚さの意味が理解できたように思った。すべてなくなる。闇の中にす・・
べてが消えていく。全身の冷たさに闇の魅力を感じた。散っていく。枯れ葉のように散っていく。い・・
や、生まれた時から散っていた。そう、すべてが無だ。何もかも無だったのだ。・・・
「箱崎…」・・・
大介が箱崎を覗き込んでた。拳銃が箱崎の手より大介へ渡った。そのまま大介が拳口を箱崎のこめ・・
かみに当てた。・・・
「坊ちゃん。坊ちゃんに撃たれるなら本望だ…」・・・
大介が引き金を引いた。箱崎の頭蓋骨が破裂した。再び箱崎の時はその場で止まった。・・・
・・・
・・・
あの男がRIKIの父親江藤栄一か…。不破は争いの中に突き進んでいく男に向かった。竹中の・・
言ったとおりだ。江藤と我々は住む世界が違う。大城たちに適うはずがない。・・・
江藤は死を選んだのか。竹中もどうかしている。なぜ止めなかった。・・・
江藤は真っ直ぐに大城へと向かっている。思い詰めた緊張の表情が不破にも見える。どうするつも・・
りなのだ。玉砕なのか。江藤は生命を捨てている。江藤の目にまったくの澱みが見えない。大城ただ・・
一人を見ている。・・・
不破は江藤の前に廻った。RIKIの援護に潜んでいた茂みから飛び出した。仕方なかった。不破・・
は何も言わずに江藤の肩に当たった。江藤が少しよろける。すかさず拳を江藤の後頭部へ叩き落とし・・
た。江藤の目が一瞬不破を見る。不破は更に膝を江藤のレバーにめり込ませた。・・・
「ウッ!」・・・
江藤がその場に崩れ落ちた。それで良かった。やはり、江藤は生きる世界が違う。不破は肩に江藤・・
を担いだ。その時に銃声がした。大介が箱崎を撃ち抜いた。不破がそれへ振り返る。どういう訳が、・・
水際で大城が激しい奇声を上げている。・・・
RIKI…。いまだ、RIKI…。不破は意識に叫んだ。RIKIが下流から大城を狙う。今だ。・・
時は今なのだ…。・・・
・・・
・・・
男たちの争いだった。恐怖がクーを包んでいた。スキンベッドが箱崎に倒された。そして、その箱・・
崎が大介に撃たれた。不破も闘いに身を投じている。クーは栄子の手を強く握った。栄子の震えが・・
クーに流れる。・・・
「怖い…」・・・
新井光男が毒を飲みよった…。栄子が恐怖の顔をクーに向けていた。新井が死ぬ…。堪忍な、久美・・
子ちゃん…。栄子はそう言って泣いた。どうして、栄子には悲しみばかり多いのだろう…。クーも泣・・
いた。栄子の胸で泣いた。・・・
「リリー、よう見るんや。新井が苦しんでるで…」・・・
栄子がクーの側で小さく言った。泣き腫らした目をまっすぐに河原の新井へと向けている。クーの・・
膝が激しく震えた。・・・
「おばちゃん、怖い…」・・・
新井が悶えている。時折、激しく奇声を上げている。獣の雄叫びがクーにまで轟く。雷鳴のような・・
激しさが大城から発せられる。・・・
その時、クーの前を何かが過ぎた。細いジーンズが疾走する。クーの視界に近い地面を激しく蹴る。・・
砂埃が舞う。雑草の靡きが乱れる。黒いサングラスがクーに見えた。・・・
「RIKI…」・・・
一瞬見えたのだ。いや、見えた気がした。サングラスの向こうにあの夏の日があった。少年のあの・・
目が見えた。・・・
「RIKI…」・・・
RIKIが男たちの闘いの中に走っていく。RIKIの背に激しい何かが渦巻いている。クーは窓・・
を出た。栄子のサンダルを突っかけた。RIKIを追いかけて行きたかった。RIKIの背に縋り付・・
きたかった。・・・
・・・
・・・
冬子は走った。すべての怒りを背負っていた。胸が焼けるように熱い。大城憲一郎が目の先に見え・・
る。獣のような叫びを続けている。どういうことなのだ。大城はどうしたというのだ…。・・・
死は恐れていなかった。それへの恐怖はなかった。しかし、意識の隅に悲しみを思った。怒りの中・・
に悲しみがちらっと揺れた。・・・
大城を殺して何になるのだ…。何十回と思ったことだった。自分の歪められたものは元へは戻って・・
こない。積み重なっていった悲しみが消えることはない。それでも冬子は大城に向かう。なぜだ…。・・
悲しくはないのか…。しかし、冬子はそれを振りきる。自らの思いの熱さに従う。・・・
男たちが入り乱れている。それぞれの怒りが河原の風に渦と舞う。冬子は銃を構えた。冬子もその・・
渦の中に巻き込まれていく。手にした銃を重く感じた。大城と目が合った。・・・
大城が叫びを収めた。醜く涎を流している。老人だ。ただの老人だ。冬子は大城に寄った。・・・
「大城…」・・・
とうとうここまで来た。冬子は怒りが自らより破裂していく思いに捕らわれた。長かった。やはり、・・
長かった。ここまでの道は果てしなかった。・・・
「冬子さんよ。お前さんも復讐とやらか…」・・・
大介が大城の前に出た。大介の銃口が冬子をまっすぐに射る。大介は引き金に手を掛けている。残・・
忍な笑みが頬に浮かんでいる。・・・
「あなたには用がない。あなたのお父様に話がある」・・・
冬子は時の流れの中で冷静だった。そう、どんな時にも冷静に…。身体に、精神に、叩き込まれた・・
ことだ。冷静さが時の流れを緩やかにしていく。冬子に男たちの動きが止まって見える。・・・
「いい女だぜ!」・・・
しかし、それは間違いだった。大城にも同じ時が流れていた。・・・
「ブシュ!」・・・
いきなり大介の銃が火を噴いた。冬子の右肩にそれは炸裂した。・・・
「ウッ!」・・・
右半身に重い衝撃が走った。身体のバランスが一瞬に傾いた。後ろへ弾かれた。急所は外れていた。・・
弾は骨までは達していない。身の一部をそいだ程度だ。赤い血が冬子のジャンバーを染める。冬子は・・
銃を左手に構えた。右手は使いものにならない。・・・
「いい女だぜ!」・・・
冬子は素早く逆に身を振った。大介の声が耳を過ぎていく。・・・
「ブシュ!」・・・
もう一度大介が撃った。弾は冬子の頬を掠めた。大介は楽しんでいる。冬子は動きを止めた。大介・・
の残忍が笑みが拡がる。恐怖が冬子に昇る。大介に異種の狂気が見える。・・・
「お坊ちゃまには関係ないことよ…」・・・
冬子も引き金を引いた。大介の耳を掠めたはずだ。両の手を利き腕のように使う…。厳しい訓練に・・
覚えたことだった。・・・
「中原にすべて聞いた。大城憲一郎…。あなたは私のすべてを奪った」・・・
大介の笑いが収まっていく。もう一度銃口を冬子に向けた。大介の狂気が跳ねる。今度は狙いを付・・
けていた。・・・
「ブシュ!」・・・
冬子が飛んだ。銃を持つ左手へ飛んだ。大介の放った弾が冬子を逸れた。冬子が体制を整える。撃・・
たれた右肩に激痛が走る。・・・
「勇ましいお嬢さんや…」・・・
大城が大介を押しのけ前に出た。銃は手にしていなかった。・・・
「今時、珍しいお転婆やな…」・・・
やはり、くたびれた老人だった。大城は窮屈そうに背を曲げ上目に冬子を見ていた。冬子は膝をつ・・
いたまま銃口を大城の胸へ向けた。・・・
・・・
・・・
「今だ! 時を逃すな!」・・・
竹中が叫んだ。そうだ、撃つのだ。トリガー(引き金)を絞るんだ。・・・
「思いを晴らせ! 今だ! 撃て!」・・・
竹中は走った。久保山親子は茂みに隠した。自分には守るものがある。それは、久保山ではない。・・
激しい思いが竹中を包んだ。何かが竹中の中で弾けた。熱い渦が真っ赤に竹中に流れた。・・・
「今だ! トリガーを引け!」・・・
・・・
・・・
「今だ! トリガーを引け!」・・・
教官、いや、竹中の声がしたように思った。大城が目の前に立っているのだ。恨み憎しんだものが・・
目の前にある。今だ! 思いを晴らすのだ!・・・
「別嬪さんやな…」・・・
そう、今だ! 冬子はトリガーに乗せた指に力を入れた。聞こえたと思った竹中の声に従った。・・・
「大城、死ね!」・・・
左腕だったせいではない。右肩を撃たれていたせいではない。まして、心の揺れではない。トリ・・
ガーが果てしなく重い。・・・
「死ね!」・・・
心が揺れているはずなどない。すべて、この瞬間のために自分はここまで走ったのだ。自らの解放・・
のために…。揺れる心など持っていない。・・・
「死ね!」・・・
引き金が絞れなかった。いや、力が指先にまで届かなかった。大城の目が冬子に熱のだ。黒い光が・・
意識に黒い影を流すのだ。恐怖の色を見せ付けているのだ。・・・
「大城…」・・・
時が止まった。冬子の視界に黒い光だけが揺れた。・・・
冬子の脳裏に闇が過ぎる。闇が揺れる。闇の中に黒い十字架がどろどろと溶けていく。鈍い光がそ・・
の十字架に絡む。重い風が闇に走る。冬子の意識が震える。黒い恐怖に引き込まれていく。・・・
「死ね…」・・・
声になっていない。時は止まったままだ。冬子に焦りが生じた。引き金が果てしなく重い。意識の・・
中にだけ銃声が響く。大城憲一郎…。黒い怪物だった。冬子の恐怖が拡がる。大城の狂気に冬子の意・・
識が凍てていく。・・・
揺れた。確実に冬子は揺れた。闇に溶けてしまいたかった。自らを包む狂気から逃げたい。黒い闇・・
に紛れたい。意識が離れていく。凍てついたままの意識が闇に落ちていく。冬子は堪えた。時が動か・・
ない。恐怖が拡がっていく。・・・
「ウオオオー! ウオオオー!」・・・
その時だった。野獣の叫びが黒い十字架から聞こえた。大城が大きく吠えた。・・・
「アカン、アカン! 身体が痺れる。オオオー!」・・・
異常な大城だった。冬子の目の前で大城が狂気を演じた。どうしたというのだ…。黒い十字架の光・・
が消えていく。冬子から闇が引いていく。冬子にへばりついた狂気が大城の狂気へ吸収されていく。・・・
「アカン! 寒いわ、違う、身体が痺れる。くそったれ! 腐れバイタめ! ウオオオー!」・・・
大城が悶え苦しんでいる。なぜだ…。黒い恐怖が冬子から離れていく。大城の震える身体が闇の中・・
に見える。醜く汚れている。冬子の時が動いた。狂気の渦が速度を上げた。・・・
冬子は震える手でかけていた黒いサングラスを取った。白いユリカモメが見えた。黒い十字架は見・・
えなかった。・・・
この時を待ったのだ。五年。やはり長かった。冬子は引き金をもう一度絞った。・・・
「死ね!」・・・
叫びが冬子に再び熱さを呼び戻した。拳銃の重さをしっかりと左の腕で受け止めた。・・・
・・・
・・・
RIKIがサングラスを取った。まさか…。クーの全身が熱くなる。まさか…。そんなことが…。・・
RIKI…。あなたはRIKIよね…。・・・
RIKIが外したグラスを投げた。クーは強く拳を握った。胸の鼓動が胸に破裂する。RIKI…。・・
いや、ママ…。冬子ママ…。死んだりしないよね…。・・・
・・・
・・・
トリガーは果てしなく重かった。しかし、RIKI、いや、冬子はそれを絞った。冬子の思いが大・・
城に打ち勝った。激しい衝撃がRIKIの腕から肩へと伝わった。・・・
「ウオー!」・・・
掠れた声だった。風の音と似ていた。大城の目が一瞬冬子に揺れた。黒い光が飛び散ったように見・・
えた。大城の身体が後ろへ弾けた。狙いは外さなかった。大城の倒れた後方に風が再び見えた。その・・
風は白く揺れていた。同じ色をしたユリカモメと戯れていた。・・・
・・・
・・・
撃った。RIKIが撃った。冬子が撃った。拳銃の轟きが河原を包んだ。クーは走った。抑えられ・・
なかった。思いの限りに叫んだ。・・・
「ママ! 冬子ママ!」・・・
RIKI、いや、冬子がクーを振り返った。笑っていた。悲しそうに笑っていた。・・・
第九章 真実・・・
・・・
(1)・・・
・・・
「そんなバカな! 親父が死んだ! ウオオー! 即死だ、即死だ!」・・・
大介の異常な叫びが轟く。河原を狂気に激しく切り裂く。大介が倒れた大城の肩を激しく揺らす。・・・
「ウオオオ! 親父が、親父が死んだ! 親父が息をしていない!」・・・
獣の咆哮だった。叫びが鋭く風を切る。大城が死んだ。大介が我を忘れている。・・・
「親父が死んだ! 親父が動かない! 親父が息をしていない!」・・・
久保山剛造は信じられない思いでその光景を見た。大介の叫びがまったく異常だ。別人だ。泣き叫・・
んでいる。大城が死んだのだ。あの大城憲一郎が死んだのだ。・・・
「アアー! 死んだ、死んだ、親父が死んだ!」・・・
頬に笑みが浮かびそうになった。剛造はそれを堪えた。側の竜太郎を見た。二人にしか分からない・・
笑みを送った。竜太郎が軽く頷いた。・・・
解放だ…。剛造は心の中に沸き上がっている暖かな風を感じた。とうとう解放だ。悪魔が自分の前・・
から失せた。何十年と苦しめられてきた。大城は怪物だった。自分にはどうする術もなかった。ただ、・・
悪魔の言いなりになっていた。・・・
しかし、その大城が死んだ。まさか、まさかだ…。これからは自らの思いを思いのまま果たしてい・・
ける。そうなのだ、解放だ。悪魔からの解放だ…。・・・
「ウオオオオオオー! ウオオオ! 親父が動かない!」・・・
大介の叫びは続いた。何もできない。大介など恐れていた自分を恥ずかしく思った。大城さえいな・・
ければ大介はただのガキだ。少々腕っ節だけが効く若造だ。竜太郎の敵ではない。・・・
剛造はそう思った。自らの残り少ない時に光が見えた。・・・
まだ自分のすべてを竜太郎に譲っていないのだ。大城にそれを隠し通してきた。それらは竜太郎へ・・
譲った瞬間に大城に奪われてしまう。だから竜太郎へはある程度の力添えしかできなかった。自らの・・
影響力のすべてを竜太郎に注ぎ込むことはできなかった。・・・
しかし、大城が死んだ。まだ自分の人生は続く。竜太郎だ。すべてを竜太郎に譲る時間はある。竜・・
太郎を権力の頂点へと昇らせてやる。自分はまだまだ健在なのだ。ラストスパートだ。竜太郎をどこ・・
までも昇らせてやる。・・・
「ウオオオオオオー! ウオオオ!」・・・
剛造はゆっくりと竜太郎の後ろへ回った。そして竜太郎の耳元で言った。・・・
「大介をお前に跪かせてやる…」・・・
剛造は背に羽が生えていくような錯覚を覚えた。その翼でどこまでも飛んでいきたいような思いに・・
なっていた。・・・
・・・
・・・
「親父が死んだ! 親父が動かない! 親父が息をしていない!」・・・
大介の激しい咆哮が竹中を過ぎる。絶叫が果てしなく遠くまで流れていく。大介は倒れる大城を抱・・
きかかえていた。側を過ぎる竹中にも大介は気付かない。こんな大介を見るのは初めてだ。・・・
「ウオオー! 親父が死んだ! 親父が死んだ!」・・・
泣いている。大介が泣いている。大城が死んだのだ。RIKIの銃弾に倒れたのだ。RIKIは機・・
を逃さなかった。大城憲一郎が死んだのだ。・・・
やはり大介も人の子なのか、泣き腫らしている。異常な程だ。大城の死がよほどの衝撃なのだ。大・・
介が泣いている。あの大介が泣いている。・・・
「親父が死んだ! ウオオー!」・・・
しかし、大介はそれで終わるような男じゃない。激しすぎるのだ。涙の後はRIKIに向かう。そ・・
んな甘い男じゃない。大介は超一級なのだ。父の死を悲しむのも超一級なのだ。RIKIは大介を倒・・
せない。大介はRIKIよりも数段強い。・・・
「RIKI!」・・・
竹中はRIKIに走った。RIKIが立ち尽くしている。男たちとの距離が近すぎる。RIKIを・・
守る…。大介の狂気がいつ蘇るか分からない。大介に冷静さが戻る。その時に、あの男たちが現実を・・
はっきり理解する。今は奴らの時が止まっているだけなのだ。逃げるのだ! RIKI!・・・
守るものがある…。なぜか果てしない程の喜びに思えた。その思いの意味が見えた。・・・
RIKIを愛している。いや、冬子を愛している…。・・・
「RIKI! もういい。逃げるんだ!」・・・
退去は一瞬たりとも迷うな! 生命取りになる! 何度も教えたではないか!・・・
「RIKI! 何をしている! 早く逃げるのだ!」・・・
竹中が飛んだ。コートの男がRIKIに振り返った。男たちの時間が再び動き始めた。・・・
「このアマ! ぶっ殺したる!」・・・
コートの男の銃が火を噴いた。男は咆哮の止まない大介を飛び越えた。・・・
「ウオー!」・・・
RIKIに飛んだ瞬間、背に受けた。RIKIを狙った二発目の弾だ。激痛が一瞬に竹中の全身を・・
駆け巡った。熱い固まりが心臓付近で溶ける。真っ赤な熱球が激しく背を暴れる。竹中は膝を折った。・・
意識が素早く白くなっていく。・・・
「教官!」・・・
誰かが肩を抱いた。RIKIだ。・・・
「RIKI…。よくやった…」・・・
それだけ言えた。白くなった意識が闇へ引き込まれていく。静かだ。闇は静かだ…。闇が呼んでい・・
る。誰かの手招きの影が見える。・・・
「竹中さん!」・・・
RIKIの声が遠くに聞こえた。RIKIは思いを果たした…。よかった…。闇の静けさへ早く行・・
きたい。意識が薄れていく。・・・
「教官!」・・・
RIKI、いや、冬子…。闇で待ってる…。・・・
冬子…。それは声にならなかった。竹中は闇に入った。意識がすべて白く包まれた。思いの通り、・・
そこにはまったくの静けさだけがあった。竹中は満足だった。・・・
死…。竹中はそれを受け入れた。RIKIの叫びも冬子の叫びも竹中にまで届かなかった。・・・
・・・
・・・
スキンベットが起きあがろうとしている。箱崎の弾は急所を外れていたようだ。不破がその側を過・・
ぎた。RIKI、いや、冬子はその光景を呆然と見ていた。竹中が闇に旅立った。冬子の中から何も・・
かもが剥げ落ちていく。全身の力が抜けていく。冬子は竹中を抱いたまま視線を大介へ移した。大介・・
の咆哮が続いている。大介の震える背が見える。雄叫びが大介を揺らしている。親父が死んだ! ・・・
不破の蹴りを大介はあっさりと受けた。大介が大城から離れる。コートの男が不破へ振り返る。大・・
城は動かない。何かの映画だろうか、冬子の脳裏に一瞬そんな思いが過ぎる。この場を離れる…。そ・・
の思いが遠くなる。遠くのパトカーのサイレンがやけに気怠く聞こえた。・・・
「この場は退け!」・・・
不破が倒れる大城を肩に担いだ。大介が虚ろな目を宙に投げた。不破が冬子をちらっと見た。・・・
「この場は退け! さもないと大城の亡骸が粉々になる!」・・・
不破が叫んだ。ダイナマイトだ。不破の腰にはダイナマイトが数本差されてある。・・・
「この場は退け! 哲太郎! 銃を収めろ!」・・・
不破の叫びが遠い叫びに聞こえる。冬子の全身の力が更に抜けている。大城を倒した銃は既に冬子・・
の手から滑り落ちていた。立っていることすら困難になる。・・・
「今時のヤクザでもそんな真似はせん! アホんだら! 親父を放せ!」・・・
コートの男が叫んだ。怒りが叫びに乗る。不破が少し微笑んだ。おれはヤクザじゃない…。そんな・・
顔だ。冬子はなぜか頷いた。そう、不破さんはヤクザじゃない…。・・・
「おとなしく退けば大城は返す。どうする?」・・・
すべてがスローモーションのようだった。目の前の男たちが自分を見失っている。不破へ怒りの目・・
を、そして、不破の肩に乗る大城へ戸惑いの視線を向けている。冬子の中にぽっかりと一つの穴が空・・
いた。大城憲一郎を倒した。大きな穴だった。何もかもその穴へ引きずられていく。・・・
「坊ちゃん!」・・・
やはり、スローモーションだった。コートの男が大介を肩に担いだ。大介に狂気の鋭さがどこにも・・
見えない。大介が不破を見る。定まりのない視線だ。・・・
「どうする。もうすぐ警察が来る。警察に大城を持っていかれるぞ…」・・・
不破の言葉に思った。そう言えばサイレンが近くなっている。冬子の中から緊張すらも離れていく。・・・
「分かった不破。ここは退く。しかし、親父は今返してくれ…」・・・
大介がコートの男を振り解いた。不破に寄る。サイレンが更に近くなる。・・・
「不破。今のおれに戦意はない。哲の兄貴もおれに従う。親父を返せ」・・・
冬子に空いた大きな穴に大介の力無い声が流れる。冬子はふらふらと大介に近付いた。不破の笑み・・
が冬子に届く。好きなように…。不破が小さく言った。・・・
「不破さん。もういいよ」・・・
一言で十分だった。不破の笑みが大きくなる。すまない…。不破が冬子に頭を下げた。そして、肩・・
に乗る大城を静かに地へ降ろした。・・・
「逃げろ ポリや! 親父を静かな場所へ」・・・
コートの男が叫んだ。パトカーのサイレンがけたたましい。スキンヘッドが大介の側へ寄った。・・・
「篤志! 邦雄! 久保山の叔父貴を頼むわ!」・・・
コートの男が動くことをしなくなった大城を腕に抱えた。軽いのだろうか…。男に涙が見える。・・・
「親父を静かな場所へ!」・・・
男たちが河原を上がっていく。どこからか大型のメルセデスが堤防の道に滑り込む。男たちが去っ・・
ていく。戦いの場から去っていく。・・・
「すまない…」・・・
不破がもう一度冬子に言った。悲しそうな不破だった。・・・
風が冬子に戻ってきていた。同時に背に暖かさを感じた。クーだった。クーが冬子の背で泣いてい・・
た。・・・
・・・
・・・
「ほんまやろか…。ほんまに光男は死んだんやろか…」・・・
栄子はそれを何度もこぼした。パトカーのサイレンが近い。男たち何人かが大きな車で去っていく。・・
後に残る者たちもそれぞれに引き上げていく。堤防の上の別な車へと走っていく。久美子もその者た・・
ちに引きずられていく。久美子は走りながら若い女に優しく抱かれている。・・・
「ごめんやで、久美子ちゃん…」・・・
栄子は遠くの久美子に言った。もうここへ戻ってくることはないだろう。一夜でも話をできて良・・
かった。空の上のリリーに少しは顔が立った。栄子は小さな笑みを見せた。無性に悲しかった。・・・
「ほんまやろか…。あのアホが死んだ」・・・
栄子は仏壇の前に座った。まだ、信じられなかった。新井光男が死んだ。わての盛った毒か? そ・・
れとも、あの若い女の撃った弾にか? どちらでも良かった。光男が死んだ。栄子はそれで良かった。・・・
「リリー。光男があんたの所へ行きよるで…。叩いたるんか? 蹴ったるんか? それとも、抱いた・・
るんか? 抱きしめてやるんか?」・・・
線香代わりに久美子の残したセーラムのタバコを逆さまに立てた。・・・
「よう臭いどきや…。あんたの久美子ちゃんが残していってくれたんや…」・・・
栄子は泣いた。涙の瞼に久美子の姿がいつまでも揺れた。・・・
「リリー、よう臭ぎや…。久美子ちゃんやで…」・・・
セーラムの煙は栄子の小さな家の隅々にまで漂った。栄子はその香りがリリーに届いてくれること・・
を祈った。そして、その煙と一緒にリリーの所へ行きたかった。・・・
・・・
(2)・・・
・・・
RIKIとして育った。それは、冬子にとっては名ではなかった。ただの符号だった。・・・
それから逃れた。不破に言った。逃げたい…。五年前だ。中原と会う日だった。箱崎が山の中にま・・
で迎えに来た。不破と一芝居うった。わたしのRIKIをどこへ連れていくの…。・・・
不破はRIKIを男して中原へ報告していた。中原、いや、大城だ。大城に女は必要ないものだっ・・
た。今にして分かる。女として生まれた自分は不必要な存在だったのだ。大城の夢には女の手などい・・
らない。だから、不破はRIKIを男として報告した。RIKIの生命を守るために…。・・・
その時、不破は笑った。行こう。山を越えよう。箱崎の目を盗んで山奥へと入った。竹中、いや、・・
教官も笑っていたように思う。男二人はRIKIの逃亡を予知していたようだ。不破と竹中は二人に・・
しか分からない笑みを作っていたように思う。・・・
それから五年。RIKIは冬子となった。RIKIが冬子と自ら名乗った。不破がいなければ冬子・・
は生きていけなかったかも知れない。不破は冬子に人間としてのあらゆることを教育した。いや、当・・
然なことを教えた。不破の買ってくる本のすべてを読んだ。街を歩き自らの考えを不破に判断しても・・
らった。不破は誠心誠意冬子に尽くしてくれた。・・・
寝る間も惜しんであらゆるものを吸収していった。冬子が変わっていった。・・・
二年前に店を出した。金は不破がすべて出してくれた。不破は言った。あなたを自分の娘のように・・
思う。老いぼれの最後の楽しみだ…。不破に甘えた。・・・
思えばその五年が一番楽しい時期だった。冬子は不破に父を見ていた。・・・
その不破が、今もすべての後処理を買って出てくれた。すまない…。不破が先程言った言葉の意味・・
を考えた。すまないのはこちらの方だった。不破がいてこその自分だった。・・・
車窓に鴨の流れが見える。BMWの車内だった。冬子たちはその流れを遡っていた。不破が冬子を、・・
そして、竹中を車まで運んでくれたのだ。竹中との別れを不破が冬子にもたらしてくれたのだ。やは・・
り、不破がいなければ何もできなかった。・・・
BMWはクーが運転している。それも不破の指示だ。不破はすべて思いを理解してくれている。冬・・
子にいい知れない思いが浮かんでいた。父親…。そんな思いが見えない影となって揺れていた。・・・
「クー…、ごめんね。怖かっただろ…」・・・
不破は冬子に一言言った。竹中から聞いている…。竹中もそれを伝えた方がいいと言った…。そう・・
前置きして言った。この男は江藤栄一という…。気を失った男を指さして言った。この男が、冬子、・・
君の父親だ…。何か言おうとする冬子を不破は振り切り、別な車にその男を放り込み車を出したの・・
だった。・・・
パトカーのサイレンはもう聞こえなくなっていた。冬子は思いを今に戻した。竹中が膝の上で眠っ・・
ている。・・・
「クー。騙していてごめん。いいや、隠していてごめん…」・・・
後部座席に竹中を抱いた。教官、いや、竹中が死んだ。やはりそれは現実だった。冬子はゆっくり・・
と竹中の顔を見た。静かだった。あまりにも静かな死に顔だった。・・・
「いいよ、ママ。死んだりしなかったね…」・・・
クーにも冬子の思いは見えているようだった。冬子は竹中に縋って泣いた。私を残して…。そう叫・・
んだ。クーもそれを側で見ていた。・・・
冬子はクーとの話を続けた。現実を直視したくない冬子の思いがクーへ向いた。・・・
「私はこの人に抱かれたわ。何度も何度も…」・・・
揺れていた。思いと言葉と現実が冬子に入り乱れた。冬子は続けた。・・・
「この人は教官だった。名も知らなかった…」・・・
自らの解放のはずだった。大城憲一郎…。その大きな影を倒した。思い思ったことを成し遂げた。・・
解放という翼を掴むはずだった。・・・
「それでも、この人は一度として私の中で果てたことはなかった…」・・・
何を掴んだというのだろう…。解放などありはしなかった。愛する、いや、愛していると思った人・・
を亡くした。腕に抱かれる…。女としての思いを捨て去った。悲しみだけが重なった。・・・
「すべて、訓練よ…。男を弄ぶのよ…」・・・
竹中の死の先には静けさがあるのだろう…。静けさの表情で眠っている。自分はこの人を失った。・・
それだけが残ったように思う。・・・
「背に爪を立てることすら許されなかった…」・・・
何のためにここまで来たのだろう。間違っていたのではないか…。一人の男を殺したとて何も変わ・・
らない。闘いという事実だけが残る。いや、それも時がすぐ風化させてしまう。事実は消えていって・・
も胸に積み重なった悲しみが消えていくことはない。・・・
「名前さえ知らなかった…」・・・
クーも泣いている。クーに聞いて欲しかった。この事を理解してくれるのはクーしかいない。クー・・
に話すことによって少しだけ軽くなれる。・・・
「クー。もう少し聞いてくれる…」・・・
クーが頷いた。鼻を啜る音が聞こえる。こめん、クー…。ごめんね…。冬子は目を閉じた。・・・
「愛というものを分からなかった。そんなもの知らずに育った」・・・
もう一度クーが頷いた。目を閉じていてもそれが分かる。鼻を啜る音が次々とクーから漏れる。・・・
「でも、それが自分の中にあった。信じられなかった」・・・
厳しさに恨んだ。教官…。冷たさに憎んだ。しかし、その中に愛があった。いや、愛らしきものが・・
揺れた。そう、それが自分の中にあることを知らなかった。・・・
「信じられなかった…」・・・
車内に短い沈黙が漂った。冬子の思いが激しく揺れた。愛…。その言葉が冬子を乱していた。・・・
「不破さんに聞いたの。私に父親がいたの」・・・
愛という言葉が冬子に父というものを引き寄せた。・・・
「おとうさんだって…」・・・
いつの間にか冬子は目を開けていた。膝に眠る竹中の温もりが消えていく。竹中に車窓からの光が・・
落ちていた。微かに微笑んでいるようにも見えた。・・・
「クー…。どんな顔をして会ったらいいと思う?」・・・
堪えていたものが堰を切った。冬子は涙に声を絡めた。嗚咽が竹中の上に垂れた。・・・
「ねえ、クー…。どんな顔したら…」・・・
クーが後ろを振り返った。クーは鼻を赤くしている。車を路肩へ停止した。・・・
「知ってるよ…」・・・
クーも堪えていた。涙に破裂しそうなクーの目だった。・・・
「教えて欲しい?」・・・
冬子は頷いた。無理に笑みを作ろうとしたがダメだった。・・・
「泣いてたらいいの…」・・・
クーが破裂した。冬子の手にクーの手が伸びた。しゃくり上げながらクーが続けた。・・・
「ママ。だいじょうぶよ。泣いたらいいの…。今のように、泣いたらいいの…」・・・
クーの手は暖かかった。それが冬子の心に緩やかに流れ込んでくる。・・・
「ありがとう、クー…」・・・
冬子もクーの手を強く握り返した。同じように暖かさがクーに伝わっていればいいと思った。・・・
「猫たち元気かな…」・・・
クーが思い切った。冬子の手を解き腕で涙を拭いた。・・・
「もう、泣かさないでよ。運転ができないから…」・・・
BMWが再び混雑の流れに乗った。冬子は竹中の額を優しく撫でた。・・・
・・・
・・・
芳子が笑っている。男の子? 女の子? 声が聞こえる。若い声だ。弾んでいる。嬉しさを堪えき・・
れないのか、芳子の笑みが拡がっていく。元気? 赤ちゃん元気だった? 何グラムだった?・・・
百五十グラム…。また嘘を言っていた。それでも芳子は笑っていた。そうなの、元気なの…。名前・・
を付けなくっちゃね…。よかった。元気でよかったね…。芳子の笑いがなぜか心に痛かった。息苦し・・
さがどこまでも拡がっていく。・・・
ああ、元気だった。あの子は元気だった。生きていた…。女の子だった…。女の子。自信があった。・・
嘘を言っていない。そう、嘘を言っていない…。・・・
芳子が消えた。江藤は我に返った。車の中だった。助手席で眠っていた。・・・
運転する者に大城憲一郎の死を聞いた。更に竹中の死を聞いた。箱崎の死を聞いた。それぞれの闘・・
いを聞いた。・・・
運転する者は不破と名乗った。RIKI、いや、あなたの子供をよく知る者です…。竹中という男・・
と同じような何かがあった。竹中には落ち葉を受け止める強さがあった。そして、不破というこの男・・
には自ら枯れていくような優しさがあった。江藤は不破の話を聞いた。・・・
不破は静かにあの子のことを話してくれた。少し低い静かな声だった。あの子に降りかかった不幸・・
を呪った。しかし、あの子はそれへと立ち向かった。江藤に熱いものが流れた。袖を涙で濡らした。・・・
竹中が言っていた。そして不破も同じことを言った。あなたの子はあなたとは別の世界に生きてい・・
る。もう、あなたのいる世界に戻ることはできない。いや、できないだろう…。不破も悲しそうだっ・・
た。不破のあの子へ対する思いが揺れていた。・・・
これからどうする…。不破は訪ねた。すぐには答えられなかった。どうする…。そんなこと考えて・・
いなかった。真実を掴む。その思いだけだった。・・・
あの子に会うべきなのだろうか…。江藤の思いは揺れ続けた。会ってどうするというのだ…。肩を・・
抱くとでも言うのか…。分かり合えることがあるのだろうか…。別の世界に住む者なのだ。それは理・・
解した。あの子は自分たちとは違う激しい闘いの中に身を置いている。自分たちとはまったく異なる・・
緊張の中に生きている。・・・
不破の言ったことが江藤の意識をしっかり掴んでいた。あなたたちは離れすぎてしまった…。そう、・・
そうなのだ。果てしない程の隔たりだ。遥かな風の更に向こうの風だ。江藤は涙を収めた。窓の外を・・
眺めた。芳子の姿を思い浮かべた。・・・
芳子に問いただしてみたかった。芳子が聞いたらどう言うだろう。やはり…。芳子は会うと言うだ・・
ろう…。・・・
「あの子と話をさせてもらえませんか…」・・・
江藤は静かに言った。不破が笑った。・・・
「それがいい。あなたの子もそれを望んでいるはずです…」・・・
車が目的地へ着いた。どこかの医院のようだ。不破がガレージに車を入れた。・・・
「江藤さん、どんな顔をします?」・・・
笑ったまま不破が続けた。どんな顔…。妙な質問に思えた。答えが浮かばなかった。・・・
「私も離れていた娘との再会の時、それを悩みました。どんな顔をしていいのか分からなかった」・・・
不破の笑みが大きくなる。深い皺の中から悲しさがにじみ出てくる。不破という男も業を背負って・・
いる。・・・
「どんな顔?」・・・
江藤は思いを巡らせた。浮かばなかった。思いがゆらゆら揺れるだけだった。・・・
「叱りなさい。尻をぶってやりなさい…。私はそうしました」・・・
不破が車を降りた。不破の嘘が江藤には嬉しかった。ゆらゆら揺れる思いが固まっていく。あの子・・
の顔がそれに浮かぶ。芳子が意識に囁きかける。泣いたっていいわよ…。あなたが涙もろいのは知っ・・
ているから…。江藤にはそれが正解のように思えた。江藤も車を降りた。後ろからもう一台の車がガ・・
レージに滑り込んでくるのが見えた。・・・
・・・
・・・
冬子は車から降りる江藤を見た。竹中を膝から下ろし冬子はドアを開けた。竹中を軽く感じた。静・・
けさは変わらなかった。・・・
父親…。それが、すぐに理解できるはずがなかった。しかし、父親がいた。自分をどこまでも追っ・・
てくれた。二十六年もの長い時をあの江藤という男は越えてきた。それが、どんな辛いことだったの・・
かは分からない。どれ程の強い思いだったのかは分からない。それでも冬子の胸は熱くなった。自分・・
を愛してくれている者がいた。まだ見ぬ者を、いや、まだ触れたことすらない者を…。・・・
クーに言った。愛というものを分からなかった。でも、それが自分の中にあった…。冬子の愛が微・・
かに鼓動を始めている。愛というものの形が少しは見えてくるかも知れない。それを受けていた自分・・
がいたのだ。父は自分を愛し続けてくれていたのだ。・・・
冬子に今までにない異質の思いが意識に芽生えていた。何か幼さの風が意識に吹く。冬子は戸惑っ・・
た。思いを竹中へ向けた。・・・
竹中が自分を銃弾から救ってくれた。竹中の愛が見えた。いや、それが愛なのかは分からない。し・・
かし何かか見えた。自分にだけ向いている何かが見えた。竹中は自分の前に生命を晒しだしてくれた。・・
その結果竹中が逝った。そこに見えたものを自分ははっきりと理解しなければいけない。そこに存在・・
したものをしっかりと自分のすべてで受け止めなければならない。そうでないと悲しすぎる。竹中も・・
自分も悲しすぎる。・・・
冬子はこちらへ歩み寄る男をしかと見た。そうしないと竹中に叱られそうに思った。竹中が悲しむ・・
かも知れないと思った。・・・
父。いや、江藤という男の姿がはっきり見えた。傷ついた男ではなかった。河原に倒れていた男と・・
は別人に見えた。江藤は真っ直ぐに冬子を見ている。目の光が透明に冬子を射る。・・・
いつか、テレビで見た…。草原を子供が走っていた。父親らしき男へ笑顔で走っていた。そんな一・・
場面が冬子に浮かんだ。江藤の視線が熱かった。思いがストレートに冬子に届いていた。冬子は側の・・
クーをちらっと見た。クーが笑っていた。冬子の戸惑いをからかうように笑っていた。・・・
江藤が冬子に近付いた。冬子の揺れる思いがじっとしない。男の歩みがじれったい程遅く感じる。・・
冬子の足が前に出る。父…。その言葉が意識にこだまする。・・・
目が合った。何かが見えた。透明の光が輝いている。・・・
「なんて呼んだらいいかな?」・・・
江藤が言った。透明の光が大きくなる。冬子の視界を埋めていく。それが陽炎のようにゆらゆらと・・
拡がる。木漏れ日に包まれていく。暖かさがどこからか流れる。・・・
「なんて呼んだらいいの?」・・・
冬子も言った。江藤の腕が冬子に伸びた。透き通った光にそれが見えた。暖かそうだった。・・・
「とうさんと呼ぶんだ…」・・・
伸びた手を握り返した。思った通り暖かかった。透明の光が涙で霞んだ。・・・
「そして、かあさんとも会ってやってくれ…。かあさんと呼んでやってくれ…」・・・
クーに教えてもらった通りの顔だった。冬子は泣いた。泣きながら透明の光に包まれていった。も・・
の凄く暖かかった。・・・
・・・
(3)・・・
・・・
不破が大城のマンションの前に立った。日が西へ傾こうとしていた。後の処理は済ました。すべて・・
が終わるはずだった。そう、これですべてが終わるはずだった。・・・
約束は守った。RIKIに対しての思いは果たした。RIKIは大城へ銃を放った。大城の心臓へ・・
真っ直ぐに撃った。そう、それですべて終わるはずだった。・・・
しかし、竹中が死んだ。予想もしなかった。不破に成すべき事が残った。・・・
不破は大きく息をした。RIKI、いや、冬子との別れは済ませた。不破は冬子を裏切った。自分・・
の思いの方を優先した。不破の脳裏にRIKIの幼い頃が浮かぶ。RIKIは自分が育てた。自分の・・
娘同様だった。不破の思いは過去へ飛んだ。RIKIとの生活の日々へと飛んだ。・・・
RIKIが自分の中に果てしなく大きなものとなってしまった。自分の娘が遠くへ去ってからだ。・・
不破はRIKIの前に再び姿を出した。山へ入った。RIKIは十歳になっていた。・・・
女だったら殺せ…。中原からの指示を不破は無視した。RIKIを男して報告していた。それを良・・
かったと思った。RIKIの成長を見て、そのことを本当に良かったと思った。RIKIといろいろ・・
な話をした。RIKIは果てしなく聡明だった。RIKIは汚れていなかった。真っ白だった。不破・・
はRIKIにのめり込んでいった。RIKIを限りなく愛していく自分を思った。・・・
RIKIの思いが見えた。自らの生を歪めた者への復讐だ。RIKIの発する質問にそれは鋭い光・・
となって不破に突き刺さった。RIKIを竹中に預けた。竹中も不破の思いを理解してくれた。RI・・
KIが強くなっていった。・・・
五年…。不破はその期限を切った。五年の間にRIKIを人間としての生活に戻してやろう思った。・・
普通の女に…。RIKIもそれを望んでいるとものだと思った。だから山を越えた。中原から逃れた。・・・
しかし、RIKIの思いは不破の思いより熱かった。RIKIはやはり復讐へと歩み始めた。当然・・
だった。RIKIの思いに不破も熱くなった。五年…。もう一度RIKIを鍛えた。中原へぶち当た・・
るのにはRIKIはまだまだ未熟だった。・・・
RIKIはそれらのすべてを越えていった。中原さえ越え自分の知らないその裏にまでRIKIは・・
飛んだ。満足だった。だから、RIKIを殺されたくなかった。男たちに殺されたくなかったのだ。・・・
すまない…。RIKIにそう言った。その言葉をRIKIは理解できないだろう。それでいい。い・・
や、それがいい。不破は懐の拳銃を手に持った。不破の最後の仕事だ。不破は微笑みをこぼした。大・・
城のマンションのエントランスへと向かった。既にオートロックは下りていた。・・・
・・・
・・・
河原に日が低くなった。今夜も雪が降るかも知れない。ユリカモメが水面の光を名残惜しそうに横・・
切っていく。風が冷たそうだ。水面が揺れている。・・・
クーは窓際からリリーの仏壇へと移動した。栄子の笑顔が近くにある。・・・
「ありがとう…。本当にありがとうな…」・・・
栄子が何度もクーに頭を下げた。クーは忘れてはいなかった。今日はリリーの命日なのだ。冬子が・・
ここまで送ってくれた。後のことはすべて不破に任したそうだ。ドンバチのことは忘れようね…。冬・・
子は笑っていた。・・・
冬子が花を買ってくれた。怖がらせたお詫びだって…。どんな顔であったらいい? その答えをく・・
れたお礼だって…。クーは両手に一杯のバラの花を抱えて栄子の家に戻った。・・・
「おおきに、久美子ちゃん、おおきに…」・・・
栄子に涙はもう見えなかった。何かを吹っ切ったような栄子の表情だった。クーはほっとした。栄・・
子の涙はクーにとって一番辛い涙だった。・・・
「おばちゃん…。これあたしのタバコ?」・・・
栄子は少し化粧をしていた。綺麗だった。昨日とは違う栄子だった。クーは栄子にリリーの面影を・・
探した。リリーは間違いなく綺麗だった。栄子にそう思った。・・・
「そうや、久美子ちゃんの臭いが空の上のリリーにまで届くようにや…」・・・
仏壇に線香代わりのセーラムの煙が紫に揺れていた。クーはそれを眺め続けた。栄子の暖かい自分・・
への思いを感じた。おばちゃんは長い間自分のことをずっと思っていてくれたんだ…。死んだリリー・・
と同じ気持ちで自分がこの家に来るのを待っていてくれたんだ…。クーはそんな風に思った。栄子の・・
暖かさがクーの胸をも熱くしていた。・・・
「リリーはあそこで死んだ。久美子ちゃんが手を合わしてくれていた場所で…」・・・
ガラスの先を栄子は指さした。クーはその先を見た。その手前に、クーの持ってきたバラの花と栄・・
子の用意した同じバラの花がきれいに並べられている。リリーはバラの花が好きだったそうだ。バラ・・
の香りが部屋中に漂っているのが見えてきそうだ。・・・
「リリーはあんたを膝に乗せて、静かに死んでいった」・・・
二人は窓際に立った。水面にユリカモメがまだ舞っている。・・・
「わてが、あそこまでリリーを運んでやった。軽かったわ。ものすご、痩せてたわ…」・・・
クーは自分の持ってきたバラの花束を両手に掴んだ。そして、栄子を見て笑った。・・・
「そうしてやって…」・・・
栄子にクーの思いは届いた。クーは窓を跨いだ。今朝と同じサンダルがあった。・・・
「おばちゃん。もう一回、サンダル借りるよ…」・・・
クーは水際へ歩いた。栄子を振り返る。栄子がもうちょっと右だと言う。声に従う。・・・
「リリー…。いや、かあさん…」・・・
クーはその位置にまで来た。思いのなかにリリーが見える。栄子によく似た顔で笑っている。綺麗・・
なドレスで笑っている。・・・
「かあさん…」・・・
冬子と江藤という男の手の触れた瞬間を思った。冬子の涙を思った。同じ思いだったのかも知れな・・
い。暖かい。もの凄く暖かい。クーの胸にその暖かさが拡がっていく。・・・
「かあさん…」・・・
いいものだった。水の流れに揺られているようだった。暖かい胸に思いが溢れていく。愛…。そん・・
な言葉がクーに溢れていく。・・・
「かあさんだね…。会いたかったよ…」・・・
リリーが踊った。クーの思いの中のリリーが踊った。・・・
「リリー。リリー…。気ままな娘よ…。みんなの憧れ…」・・・
クーにいつものメロディーが流れる。それに合わしてリリーが踊る。クーは手に持つ花束を解いた。・・
バラを一本ずつ取り出した。・・・
・・・
―男たちに囲まれて、熱い胸を躍らせる…。・・・
・・・
リリーが踊る。リリーの青い目が煌めく。スパンコールのドレスがひらめく。リリーは笑っている。・・
クーにこれ以上ない笑みを送ってくれている。クーの暖かさが増す。胸の鼓動が熱くなる。・・・
・・・
―気ままな娘よ、みんなの憧れ…。・・・
・・・
天の舞台には何もなかった。リリーの光だけがあった。クーはその光を追った。虹が見えてきそう・・
だった。リリーの衣装のきらびやかさが天に色を付けていく。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
クーも踊った。踊りながらバラの花を投げた。一本一本、リリーに赤いバラを静かに投げた。天に・・
流れる川がそれをリリーに流していく。バラはリリーに届く。リリーがそれを流れから取り出す。後・・
ろにいる誰かにリリーはそれを手渡している。リリーの友達だ。踊りの仲間だ。クーは嬉しくなった。・・
リリーに次々とバラを投げた。流れに花びらが散らないように静かに投げた。・・・
・・・
―お前の赤い唇に、男たちは夢を見た…。・・・
・・・
リリーは美しかった。天女のようだった。いや、聖母のようだった。クーはどこかで見たマリア様・・
の絵を思い出した。それが自分でもおかしかった。それが果てしなく嬉しかった。・・・
・・・
―夜明けが来るまで、すべてを忘れて…。・・・
・・・
クーは踊った。花を投げた。踊るリリーに抱かれたかった。踊るリリーの手に触れたかった。踊る・・
リリーの膝で眠りたかった。・・・
・・・
―リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
そして、踊るリリーの胸で泣きたかった。クーは泣いた。かあさん…。そんな暖かさの中で泣いた。・・・
・・・
・・・
冬子もその河原へ立った。クーの踊りを見ていた。話はクーから聞いた。クーと自分は同じ血を引・・
いている。あの大城憲一郎の血を引いている。そんなことどうでもいいことだった。冬子はそれを笑・・
い飛ばした。クーも笑って頷いた。でも、かあさんがいたの…。クーはそう言った。・・・
リリーだ。リリーなのだ…。クーはリリーのために踊っている。冬子にも嬉しさが揺れる。・・・
江藤との触れあいは少ない時間だった。しかし、手の温かさが冬子に残っていた。江藤はそれ以上・・
冬子に触れなかった。冬子もそれ以上江藤に寄らなかった。二人は再会だけを約束した。母…。なの・・
だろう…。江藤の妻が入院している病院…。そこでの再会だけを誓った。・・・
母…、は、眠り続けているらしい。冬子の存在もあやふやなままだそうだ。冬子は江藤に約束した。・・
必ず行く。二人の出会いはそれで終わった。・・・
クーの踊りが楽しそうだった。リリー・マルレーンを口ずさんでいる。それが風に乗って冬子にま・・
で届く。花を一つ一つ静かに流れに落としている。クーは大丈夫よ…。ここ二三日のうちに言った自・・
らの言葉を思い出した。クーを今すぐにでも抱きたかった。・・・
冬子は堤防を下りた。RIKI…。そう聞こえた。クーとは別の声だ。冬子はその声の方に歩いた。・・・
「迫真の演技だったわ…」・・・
大介だった。冬子は大介に静かに言った。・・・
「見事だったわ、オスカーものよ…」・・・
大介の姿を見て冬子の中の黒い固まりが弾けた。頭に引っかかっていたものがどこかへ飛んだ。・・・
「役者にでもなれば。サインくらいねだって上げるわよ…」・・・
すべてが見え始めた。大城大介、そして、大城憲一郎の恐ろしさを改めて感じた。大介が木立の影・・
から冬子に姿を見せた。不破の言った、すまない…。その意味が見えてくる。・・・
「やはり、分かっていたか…。さすが、RIKIだ。ハハハハ!」・・・
大介は笑った。愉快そうだ。冬子の言葉に何度も頷いた。・・・
「さすが、RIKIだ。親父の言った通りだ! ハハハハ! ハハハハハ!」・・・
余程おかしいのだろう。大介の笑いはしばらく続いた。冬子も徐々に微笑みを浮かべていた。不思・・
議と冬子に怒りの感情は昇っては来なかった。・・・
・・・
・・・
ドアが開いた。不破は一気にその中へ走った。拳銃の重さが不破に心地よい。弾けて散ってやる。・・
不破は笑みを浮かべていた。・・・
RIKIは守れた。不破は竹中の所へ向かっている。もう、自分のいる場所はなくなった。竹中の・・
店マルレーネももうない。RIKIは自分から離れていく。いや、自分はRIKIを裏切った。もう、・・
RIKIに会うこともない。・・・
銃声が二発した。自分の銃からと、マンションの中の部屋からと…。不破は膝を折った。自分の・・
撃った弾は外れたようだ。どうでもいいことだった。これで竹中に詫びることができる。竹中はまだ・・
三途の川にいるかも知れない。自分を待っているかも知れない。・・・
更にもう一度銃声がした。意識が遠くなる。不破は祈った。この事をRIKIに知られたくない。・・
ただ、それだけを祈った。・・・
男たちの声が聞こえる。笑っている。大介はいないのだろうか…。あの甲高い声が聞こえない。不・・
破は一度外した目の焦点を再び合わした。白い天井が見えた。笑う男たちは見えなかった。・・・
終わりだ。これですべてが終わった。不破は笑みを作った。うまく作れた。先立った娘の姿が揺れ・・
た。RIKIの姿が揺れた。薄れていく意識にそれが二つ重なっていく。不破は目を閉じた。白い天・・
井が黒い闇へとすり替わった。・・・
「RIKI…」・・・
声にならなかった。不破は手を伸ばそうとした。意識に揺れるRIKIに触れようとした。しかし、・・
無理だった。不破の意識が遠ざかった。闇が不破のすべてを包んだ。・・・
・・・
・・・
不破の言った、すまない…。その意味が大介の笑みにはっきりと見えた。・・・
「箱崎の死は余興だ。あんな場面はないはずだった」・・・
大介はいつもの笑いで冬子を見る。憔悴の欠片も見られない。・・・
「竹中の死も余分だった。あいつはお前を愛していた。そんなシナリオじゃなかった。そんな場面ど・・
こにもなかった。それが余分だった」・・・
大介なりに詫びている。それが驚きだった。自分もこの男と同じ血が流れている…。妙な戸惑いが・・
冬子の背に揺れる。・・・
「弾は、お前さんの左三十センチを通り抜けるはずだった」・・・
冬子は笑みを収めた。妙な戸惑いが煩わしい。・・・
「不破が来るそうだ。哲太郎が迎え撃つ…。不破は不破なりにケリを付けようとしている」・・・
ぼやけていたものがはっきりと形になる。哲太郎とはコートの男だろう。竹中を撃った男だ。不破・・
は死にたがってる。竹中の所へ行きたがっている。冬子はそう思った。・・・
不破ともう会うことはない。不破は死に場所を求めていた。竹中の死が羨ましいとさえ言った。そ・・
んな不破が駆けていく。不破は笑っているだろう。死に場所があったと喜んでいるだろう。・・・
「不破からの話だった」・・・
やはり…。大介の異常な咆哮の意味が分かった。不破の思いのすべてが冬子の理解となった。脳裏・・
に不破の笑顔が浮かんだ。二度と見られない笑顔だ。・・・
「お前さんを守りたい。不破からの話だった」・・・
大介が冬子を過ぎた。冬子はそれに歩を合わせた。・・・
「久保山剛造の最後の力を絞り出すためだ。我々の思いと不破の思いが一致した」・・・
二人に短い沈黙が過ぎた。冬子に大介たちのシナリオが組み合わされていく。大介たちは大城を殺・・
すことによって何かを得る。そして、不破はこの自分を守る。いや、RIKIだ…。RIKIを守り・・
RIKIの思いを遂げさせる。つまり大城を撃つ。それが結び付いた。RIKIはその狙撃者として・・
の役割に生命を助けられる。大城が死ぬことによって両者の思いが成る。・・・
「久保山剛造をとことんまで絞る。剛造は親父を恐れている。親父に何もかも取られないように、剛・・
造は何かを隠している。息子の竜太郎へも譲っていないものがある。それを我々が引き出す」・・・
なる程、久保山剛造の前から大城憲一郎を消すというのか…。・・・
「竜太郎はおれが仕切る。剛造は後二年しか生きない。二年後に親父が剛造を殺す」・・・
そうなのだ、大城憲一郎は死んでいない。あの悪魔は死んだりしていない。・・・
あの時、冬子の撃った銃弾は大城の心臓へまっすくに伸びた。しかし大城はその一瞬目を閉じてい・・
なかった。銃弾を受けたものの目ではなかった。大城は防弾チョッキを着ていたのだ。・・・
「久保山剛造と竜太郎だけに親父の死を見せたかった。その二人のための芝居だ」・・・
あの時、大介は肩を撃った。なぜ仕留めなかった。それが疑問だった。二発目も外した。わざと外・・
していた。・・・
すべて、辻褄が合っていく。自分、いや、RIKIは大城の心臓に狙いを付けなければならなかっ・・
た。RIKIが大城の顔面を撃ってはいけなかったのだ。だから、大介はRIKIの利き腕を撃った。・・
左腕での狙撃は的の大きい方を狙う。当然だ。外す確率が高くなっている。更にRIKIは地に膝を・・
ついた。大城の胸が目の高さにある。頭を狙う確率は果てしなく低い。RIKIは大城の胸を狙って・・
引き金を引く。当然だ。大介はそこまで読んでいたのだ…。・・・
「親父がお前さんによろしくと言っていた…」・・・
それならば、大城のあの震えは何だったのだろう。あの獣のような叫びは何だったのだろう…。そ・・
の理由だけは見えてこない。冬子は大介を見た。笑いが消えていた。・・・
「大城のあの震えは何だったの」・・・
済んだことだ…。もう一人の冬子が囁きかけてくる。もう一人の冬子…。それはRIKIなのか…。・・
冬子にも分からなかった。・・・
「親父がただ一人愛した女がいた。女は死んだ。その姉がまだ河原に住んでいる。その女が毒を盛っ・・
た。親父を憎んでいた。親父も罪作りだ…。しかし、あの男がふぐの毒くらいで死ぬはずがない」・・・
リリーだ。そして、栄子だ。クーを思った。河原にクーのリリー・マルレーンを探した。・・・
「大城の血はそんなものだ。大城の血はまだまだ先を目指す」・・・
恐ろしい親子だ。いや、悪魔の親子だ。冬子の背に軽い震えが走る。・・・
「一つだけ、お願いがある。あの子と、その毒を盛った女には言わないで。大城憲一郎が生きている・・
ことを言わないで欲しい…」・・・
心からそう願った。冬子は大介を離れた。そのことはなぜか大介が聞き入れてくれると思った。・・・
「分かった。約束する」・・・
大介もRIKIも器量を認めているのだ。それ故の快諾なのだ。冬子にその理解はあった。大介と・・
はまた会うことがあるかも知れない。先程の妙な戸惑いが冬子に戻ってきた。・・・
「一度、酒でも飲もう。RIKIよ…」・・・
大介が冬子から消えた。冬子はクーへ歩いた。クーの踊りは続いていた。・・・
・・・
・・・
―お前の赤い唇に、男たちは夢を見た…。・・・
夜明けが来るまで、すべてを忘れて…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
冬子の歌にクーが振り返った。クーは笑っていた。何かすがすがしい顔だった。・・・
「私も、バラを…。いい?」・・・
クーが頷いた。嬉しそうだ。笑顔が輝く。冬子は花束から一本バラを取り出した。・・・
心を開いていた。クーがいつもよりもっともっと近くにいた。冬子も踊った。クーとリズムを合わ・・
せた。二人の笑みが重なった。・・・
いつものクーではなかった。胸をいっぱいに拡げている。悲しみが踊りに色を消している。・・・
「リリーよ…。リリーが踊っているの…。見えるでしょ、空の上…」・・・
空は澄んでいた。薄い雲がいくつも流れていた。・・・
・・・
―ガラス窓に日が昇り、男たちは戦に出る…。・・・
酒場の片隅、一人で眠っている…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
クーから聞いた栄子だろう。女が一人こちらを見ている。冬子は栄子に軽く会釈をした。栄子が微・・
笑んだ。綺麗な笑みだった。クーが手に持つバラのようだった。笑顔がクーのように輝いていた。・・・
冬子はもう一本バラを流れに流した。静かな流れがそれをゆるりと運んでいく。・・・
「ママ、愛している…」・・・
クーが言った。自然な言葉に思えた。真っ直ぐに心に届いた。いい言葉だった。・・・
・・・
―月日は過ぎ人は去り、お前を愛した男たちは…。・・・
戦場の片隅、静かに眠っている…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
リリー、リリー・マルレーン…。・・・
・・・
「クー、愛している…」・・・
自然に口から出た。真っ直ぐにクーに言えた。やはりいい言葉だった。・・・
冬子はクーを抱いた。クーも冬子を抱いた。二人の時が止まった。・・・
「クー…。帰ろう。猫たちが待ってるよ…」・・・
二人の中に、もうRIKIはいなかった。足下の真っ赤なバラの花束が二人を見上げているたげ・・
だった。・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
(終わり) ・・


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