ソウルスイッチマン

ソウルスイッチマン Ⅰ

(1)

「二丁目のリリーさんに聞いた。それと、ネオンの文字に惹かれた…」
リリーさんの店は二丁目、僕の店は三丁目。
ネオンの文字は、ピンクとプルーの二本のネオン管を、ただ斜めに並べた。店の名などない。
「久しぶりの雪だ」
雪は僕が降らせた。幻想の雪を…。僕のいる世界は全てが幻想だ。
「いらゃっしゃいませ…」
雪に幻想を感じる。ピンクとブルーのネオンが物悲しい。人は寂しくなる。悲しくなる。人恋しくなる。そして、僕の店に来る。魂をリセットに来る。
「ネオンの文字が読めない…」
夜もふけた頃、老紳士が入ってきた。どこかで見たことのなるような…。そんな思いが僕を揺らした。
「ただの模様です。店の名はありません」
老紳士が小さく笑みを作った。目じりにシワが集まり、両眼が柔らかくなる。いい笑みだった。
「魂をリセットしてほしい」
僕は老紳士を凝視した。中肉中背、白髪にグレーのダブルスーツ。ペーズリーのネクタイがお洒落だ。
「何を、飲まれますか…」
老紳士はスツールに腰を落とすと、店内を見渡した。僕を値踏みしているようだった。
「ジンをストレートで」
僕はルイ・アームストロングに針を落とした。「ばら色の人生」僕から紳士へのをプレゼントだ。
「ソウルスイッチを」
老紳士の前にビーフィーターのストレートを置いた。老紳士がもう一度微笑んだ。
「よろしく頼む」
紳士の笑みに惹かれていく。何故か、親近感のようなものが僕の意識に浮かび、背筋がむずむずと震えた。
「では、あなたの情報をここに…」
人生にはすれ違いが多くある。それは、魂のレベルでも起きてしまう。一つの言葉、一つの優しさ、一つの思いやり、それらがそのときにあれば、と思うことが誰にだってある。それを、僕たちソウルスイッチマンがリセットする。一つ、あるいは、いくつかの場面を、僕が愛に基づいて操作する。僕の仕事であるソウルスイッチとはそういうことだ。
一つのボタンのかけ違いで、その人生が大きく狂ってしまう。愛に包まれた人生が、一転して愛のないものになってしまう。それは、多かれ少なかれ誰にだってある。それを、僕たちがボタンを元へかけ直す手伝いをする。客は僕たちにソウルリセットを求め、ソウルスイッチマンは客に報酬を頂くのだ。
老紳士はたっぷりと15分使って、申し込みの資料を書いた。そこに、リセットしてほしい事柄が書かれている。老紳士の生き様を垣間見ることが出来る資料だ。僕はそれを丁寧に預かった。
「10日間、時間を下さい」
サッチモが終わりを告げた。老紳士と目が合った。瞳の奥に遠い光が見えた。
「分かった」
ジンストが空になっていた。僕はもう一杯勧めようと思って止めた。老紳士は既に腰を浮かしていた。
「では、よろしくお願いする」
老紳士は入ってきたときと同じくゆっくりと店を出て行った。僕の背中の微かな震えが大きくなっていた。

僕は老紳士の魂のコピーを預かった。期限は10日。僕は老紳士の魂を持って町に出た。行き先はソウルスイッチマンの集まるバー。
「純ちゃん、ひさしぶり…」
思ったとおり、リリーさんたちはいた。リリーさんは僕の師匠である。今日も、あの老紳士の件で少し相談に乗ってもらおうと思っていた。
「純ちゃん。こっちへお出で」
リリーさんのいつもの席、窓際へと僕は歩を進めた。B・G・Mはいつものボブ・マーリー。
今夜のリリーさんはご機嫌だった。ワイングラスを僕に掲げ、天使の笑みを僕に向ける。
「純ちゃん、こっち、こっち」
リリーさんの隣に腰をおろした。ボックスにはリリーさんのほか、イチローとジローの双子の兄弟とトムおじさんが飲んでいる。みんな、どういうわけがご機嫌だ。
「よっ、純ちゃん。最近どうしていた。ご無沙汰じゃん」
アフロのイチローが僕の肩を叩いた。モヒカンのジローが僕の後ろに回って僕の首を絞めた。
「イチローもジローもよしてくれ」
僕はイチローの腹にパンチを入れた。ジローの顔面に肘撃ちをかました。
「ハハハハ…」
久しぶりの仲間に僕も少し浮かれていく。
一通りご無沙汰の挨拶が済んでから、僕はリリーさんに聞いた。みんなのご機嫌なわけは?
「へへへへ」
リリーさんは笑ったまま答えようとしない。イチローもジローも笑ったまま。
「ジローが、とうとう、ソウルスイッチに目覚めた」
トムおじさんがその答えをくれた。
「来月からソウルスイッチの店を始めるのさ…」
黒人のトムおじさんがしみじみという。
「ジローも、もう大人だよ…」
僕はトムおじさんに育てられた。三歳のときに僕は自動車事故で死んだ。闇の世界を恐怖に彷徨っている僕を、闇から救い出してくれたのがトムおじさんだ。トムおじさんの元で僕は大人になった。僕と同じ、孤児だったイチローとジローもそうだ。僕とイチロージローは兄弟のように育った。
僕は横目でジローを見た。ジローは相変わらず笑ったままだ。
「おめでとう、ジロー」
トムおじさんが立ち上がる。僕の分のワインとグラスを追加してくれている。
「純ちゃん、今日は飲もう…」
リリーさんが優しく僕を抱いてくれた。本人が言うシャネルの五番が僕をくすぐった。
「あっ」
その拍子に、風呂敷に包んでおいたあの老紳士の魂が、風呂敷を滑り出し、そのままじかの姿でテーブルにこぼれ落ちた。
「あららら」
リリーさんがそれを手に取る。イチローが大きく目をむく。
「あららら…」
トムおじさんが席に戻る。ジローがヒューと口笛を吹いた。
その魂は、やせていた。節制に節制を重ねた、かなり窮屈な魂だったのだ。老紳士は戦争の真っ只中に生きた人だった。禁欲に禁欲を重ね、老紳士の魂は随分とやせていた。

10日後、僕はピンクとブルーのネオンを店の前に置いた。雪を降らすのも忘れなかった。
「ネオンの文字に惹かれてね…」
10日前と同じ言葉で老紳士は僕の店の扉を押した。
「今日も雪だ」
老紳士はゆっくりとコートを脱いだ。僕もゆっくりとジンストをカウンターに置いた。B・G・Mはマイルスデービスを選んだ。
「娘と和解した。ありがとう」
僕は老紳士に預かった魂を返した。老紳士の笑みが大きくなったのが僕には嬉しかった。
老紳士はテーブルにお代を置いた。ロケットのネックレスだった。
「蓋を…」
僕が聞くと老紳士は頷いた。
「失礼…」
僕は恐る恐るロケットの蓋を開けた。かなり古いものらしく、それはぎこちなく開いた。
「妻だ。早くに死んだ」
ロケットの写真は若い女性が微笑んでいた。僕は蓋を閉めた。
「ありがとう」
老紳士は店を出る。僕の仕事が一つ終わった。

過去はリセットできない。時の軸を動かすことは出来ない。しかし、思いは変えられる。魂のレベルで思いは変わる。愛がないと思っていたものが、愛に包まれていたと信じれる。それは、後になっても、魂にとっては重要なことなのだ。
老紳士は娘と和解したといった。僕は老紳士の魂を感じ、老紳士の娘を探した。老紳士の悩みは、その娘さんとの確執だった。
僕は老紳士が住んでいたという地方の町へ向かった。そこは、僕にも思い出のある都市だった。娘さんは既に亡くなっていた。僕はその娘さんのお墓へと向かった。その場所は、老紳士の魂の中にあった。僕は娘さんの今の居所をお墓の中から探した。思った通り、それは老紳士の今住む近くにいた。幻の中にいた。僕は冴えていた。
娘さんが幻の眠りにはいった頃を見計らって、僕はその魂にお邪魔した。それも、思ったとおり、その魂の中にしっかりと父親が胡座を欠いていた。娘さんの魂の中にある父親の姿とは、あの日以前のものだった。二人が知るあの日を境に、娘の魂の中の老紳士は年を重ねていなかった。
僕はその娘のソウルスイッチをリセットした。分かりやすかった。二人のあの日が、娘さんの魂に大きく揺れていたのだ。娘さんは無意識に父親を思い、その裏で意識的に父親を避けていた。
それから、娘さんは夢に入った。父親の笑みに少女となった娘さんがぶら下がっていた。
ただ、それだけだ。僕たちソウルスイッチマンは、他の者の魂が見えるのだ。どこでボタンの賭け違いが起きたことが分かる。10日あれば、原因を探し出し、ボタンの賭け直しが出来るのだ。
和解したと老紳士は言った。きっと二人は幻の中で再会したのだろう。ボタンの賭け直しは、娘さんの夢の中で行われたのだ。
そして、その報酬として、僕たちソウルスイッチマンは客の思い出の品を一つ頂く。それが僕たちソウルスイッチマンの糧となる。次へと進むステップとなる。
とにかく、一つの仕事が終わった。割とすんなりと片付いた。今回は仕事の中身より報酬のほうが大きかった。

(2)

「ネオンの文字に惹かれたの…」
今日は雪は降らしていない。そんな気分じゃなかった。
「なんと読むの…」
客はあの老紳士の娘さんだった。きっと、老紳士から僕の事を聞いたのだろう。真っ赤なワンピースが似合っていた。
「読めない…」
僕は質問に答えた。女性は納得した。
「少女Aて呼んで…」
女性は若い頃の姿だった。青春をまだ演じていた。僕はカンパリをロックでカウンターに置いた。
「ありがとう」
少女Aは、ゆっくりと椅子に腰掛けると、バックから何かを取り出した。
「純さんって、あなたよね…」
僕はターンテーブルにシンディー・ローパーを置いた。予備のマドンナは側に立てかけた。
「これ、あなたの報酬よ…」
少女Aは小さな紙袋をカウンターに置いた。カンパリのロックを煽る。
「報酬は仕事が終わってからで…」
僕の言葉は少女Aに届かない。少女Aは紙袋からそれを取り出した。
「私の彼。いいや、未来の主人…」
それは形を持っていなかった。幻想の世界にだけ見えるものだった。
「彼の真実よ。あたしに対する真実…」
少女Aの言うとおり、それには、愛が見て取れた。少女Aへのひたむきな思いが青く恥じらい揺れている。
「報酬はこれで十分でしょう」
呆気に撮られた僕を少女Aは面白がっている。
「この彼氏を探して。彼氏の名は少年A…」
冗談だと思った。しかし、少女Aは続けた。
「少年Aの真実がここにある。それは本当のこと。でも、もう一つ真実があるの、それを探して」
テーブルの上に置かれた形のないものが蠢いた。僕はそれを紙袋にしまった。報酬としては満足いくものだ。
「10日間で…」
僕はその仕事を引き受けた。少女Aが自分の魂のコピーをカウンターに置いた。ピンクのリボンが付いている。
「カンパリをもう一杯」
少女Aには、やはりシンディー・ローパーが似合っていた。雪をふらさなかって良かったと、僕はしみじみ思っていた。

報酬の真実を頼りに、僕は少年Aを追った。やはり、それは少女Aの住む幻の世界の中にいた。愛とか恋とかに引かれた者同士は、いつまでも同じ世界に住む。それは、ソウルスイッチマンは知っている。男女、あるいは、親子などの関係は仕事がしやすい。
少年Aはすぐに見つかった。いい男だった。僕たちはイチローの店で待ち合わすことにした。
「寒いね…」
イチローの店の周りは一年中雪だ。僕もそれを真似ているんだけど。
「僕の真実を返してください…」
少年Aは挨拶もそこそこにそう言った。少女Aがシンディー・ローパーなら、少年Aはリック・アストリーだった。
「だめだ、あれは僕が報酬としてもらったものだ…」
僕はその申し出をはねつけた。少年Aが肩を落とした。
「やっぱり、ダメですよね…」
僕と少年Aはカウンターに並んだ。イチローがリック・アストリーじゃなく、デビット・ボーイを店に流した。
それもありかな…。と思いながら、僕は少年Aに質問をした。
「ボタンをかけなおす気はあるの?」
少年Aはあいまいに笑った。どこかで見たことのある笑みだった。

「ボタンをかけ直したい」
少年が僕に言った。愛というものが少し少年に見え始めている。
イチローが軽く微笑んだ。デビット・ボーイが静かに終わる。
「分かった」
僕はもう一度、少年の魂をもぐった。あの少女Aがど真ん中にいた。目指すものはすぐに見つかった。

その日も雨だった。少女Aは少年のアパートの前にいた。少年が村を出てから三ヶ月が過ぎていた。
少女は迷っていた。そのドアを叩けば、運命が決まってしまう。激流に飲み込まれてしまう。少女は迷い迷っていた。
僕は、そこでスイッチを押した。少女の迷いなどは関係ない。少年Aに、そのとき少女がそこにいたことが分かればそれだけでいい。僕は少年の魂に少女Aの迷いを声を残した。
「あたし、愛がほしい…」
これで、今回の僕の仕事はほぼ終わった。僕はイチローにウォッカをストレートで頼んだ。何故か今夜は酔いたかった。。

(3)

年に1回、この世界にもクリスマスというものがある。それは、地上のそれとは違い、時空の壁にさえぎられ別れ別れになった者たちをしみじみと感じ思い出す特別な日なのだ。幻の中にでも、自らのルーツを再確認するという作業に、みんなが没頭する日だ。クリスマスの静かな日なのだ。
そんな静かな日が、僕たちソウルスイッチマン仲間の楽しみの日と成る。一年分の仕事の報酬を、みんなで寄って見せ合い、感じあい、分け合い、競い合い、大いに飲む日なのだ。今回は僕の店で行うこととなっている。
僕は少々うきうきしていた。前回はリリーさんの大勝利だったけど、今回の僕は少し自信があった。客は少なかったけど、報酬はいいものだった。かなりバラエティーに富んでいる。僕は店の周りに雨を降らした。本日は休業。
みんなが集まったのは、夜も更けてからだった。降らした雨が月明かりにいやに映えていた。魍魎たちが雨粒のすき間を闊歩しているようだった。僕は雨を時雨に変えた。魍魎たちがもっと増えたらいいのにと思った。
最後にリリーさんが現れ、僕たちのパーティーは始まった。まず、シャンパンをあけた。
「チェリオ!」
「チェリーオ!」
発表の順番は前回の優勝者からだ。一通りの挨拶が終わると、リリーさんがみんなの中央に出た。
「今回も凄いよ」
前回は元スターの睾丸だとか、元アイドルのへその緒だとか、霊能者の腐ったオーラだとか、それはそれはぶっち切りの大勝利だったリリーさんだった。
「まず、これ」
綿菓子のようなものがテーブルに置かれる。いっせいにみんなが覗き込む。
「スターカップの円陣の時に揺れた陽炎。選手全員の激しい念入りよ」
スターカップとは、地上で超人気のアメフトの世界一決定戦だ。その時の円陣の念だとは、やはり、リリーさんはすげえ物を持ってきた。
「その時の監督が大事に魂に仕舞っていたらしいの」
綿菓子のようなものが、僕たちの真ん中で形を変えていく。みんなに注目されてうごめき始めている。
「ウォー!」
店の中に恐ろしいほどの熱気が芽生える。みんなの耳に凄まじい歓声が聞こえてくる。
「ウォー!」
ボールが円陣の中にひとつ転がっていく。奴が叫んでいる。奴も叫んでいる。俺も叫んでいる。
「ウォー!」
この瞬間、その綿菓子のようなものが開放される。時の時空から零れ落ちるのだ。
「ウォー!」
それは、思い出という過去の鳥かごの中から、時を越え、未来へ羽ばたく。
「ウォー!」
僕の魂が震えていた。僕は今スターカップのど真ん中にいる。全身に鳥肌が立ち、その場に立っていられなくなる。リリーさんが拳を突き上げた。トムおじさんがそれに続く。イチローもジローも闘志の塊と化している。
「ウォー!」
そう、この瞬間こそが、僕たちソウルスイッチマンの至高なときなのだ。この瞬間の為にこの仕事をしているのだ。僕は感動で泣いていた。心の底からの激しすぎる激流を抑えることなど出来ないでいた。
一瞬、そう、一瞬でいい。僕たちはその激しさを糧にしている。他人の感動だろうが、それはどうでもいいことだ。とにかく何であれ擬似であれ感動する。感動した数が多ければ多いほど、感動した度合いが強ければ強いほど、僕たちは宇宙に近づける。僕たちはそうして生きてきた。

震えよ魂! 震えよ魂!

「どうだった」
至高なる一瞬が瞬間に過ぎた。しかし、心は熱いままだ。リリーさんの瞳も微かに潤んでいる。
「ズコーイジャン!」
イチローの目玉が飛び出ている。ジローが強くこぶしを握り締め泣いている。トムおじさんが高ぶりを懸命に抑えている。
「じゃ、次はイチロー」
リリーさんが二杯目のシャンパンを空けた。イチローの自身ありげな顔がその横にあった。

パーティーはどんどん進んだ。ソウルスイッチマンは至高の時を、激しすぎる感動の渦に溺れ、はちきれんばかりの魂の闘志と相対し、悲しすぎる場面を過ぎ、奇跡的な再会を演じ、愛する人の胸に抱かれた。それぞれの報酬の品はすごかった。リリーさんはスターカップの陽炎を筆頭に、影のない水晶、殺人鬼の乾いた涙、などなど。イチローは奇跡のメス、挫折の鏡、遥かなる時の剣、などなど。トムおじさんは焼け爛れた指輪、血塗られた片道切符、継ぎはぎだらけのレコード、などなど。そして、開店前の新人ジローは愛憎のダイヤ。それはそれは、どれも激しい感動物だった。
最後のとりは僕だった。僕はそれまでに青春の儚い欠片、純白のゆりの花、ゲイの真心などを発表していた。
僕はあの老紳士のロケットと少年Aの真実を取り出した。ふたつ一緒に出品する。それは、どういう訳かリリーさんの指示だった。
老紳士のロケット、少年Aの真実。僕は、その中にどんな物語が隠されているのか知らない。しかし、僕は何故か自身があった。リリーさんのスターカップにも、イチローの奇跡のメスにも、トムおじさんの血塗られた片道切符にも、ジローの愛憎のダイアにも、負けない自信があった。何故かは分からないが、それを見たあとのリリーさんの涙が、既にこのとき僕には見えていた。
「老紳士の思い出の品、そして、少年Aの真実」
僕は少年Aの真実をテーブルに置いた。その上に老紳士のロケットを静かに載せた。
「どうぞ」
ロケットの蓋が静かに開く。中の写真の若い女性が僕を見た。
「うっ!」
その瞬間だった。僕の脳裏を何かが鋭く過ぎていった。僕は気を失った。リリーさんの膝に倒れこんだようだった。

リリーさんが言った。少年Aの真実と老紳士のロケットをセットにして出品しろと…。僕に、今、その意味の理解がなった。
そうなんだ。今から、僕のリセットが始まるのだ。それが、僕にはおぼろげに分かり始めていた。

「ネオンの文字に惹かれてね…」
雪が降っていた。先ほどの魍魎たちはどこへ消えたのだろう…。
「ジンストを…」
カウンターの中にはあの老紳士がいた。小さな笑みを僕に向けている。僕はコートを脱いだ。窓の外は全くの無だ。僕は悲しい気分になった。空しくて人恋しくなっていた。
「ネオンの文字に惹かれたの…」
僕の後から、客が入ってきた。赤いワンピースの女性だ。僕より少し若いだろう。
「なんと読むの…」
女性が聞いた。名などない。僕はそれを知っている。
「読めないんです」
老紳士が丁寧に答えた。女性は納得していた。
僕の前にジンストが置かれる。女性の前にカンパリが置かれる。
「あたし、愛がほしい…」
僕は呟いた。ビンゴ・クロスビーがしばらくして静かに流れ始めた。

何故か涙が止まらない。魂のすべてが暖かさに包まれていく。ママ、パパ…。そんな言葉がぼくのなかに渦巻いていく。今まで感じたことのない何かが、僕に芽生えようとしている。涙が温もりの渦に落ちていく。心の湖に愛という未来の波紋が広がっていく。僕はリリーさんの膝の上で揺れ続けた。何かへの戸惑いと気恥ずかしさに揺れた。

「とうさんは自分のことだけで頭が一杯だと思っていた。母さんが死んだ後も、父さんが悲しんでいるとは思えなかった」
それは、愛がほしいといった少女Aと同じ声だ。赤いワンピースを着た女性だ。
「すまん、あの頃、私は正念場だった。会社の経営に行き詰っていた」
こちらは、あの老紳士の声。二人の声が何故か懐かしく感じる。
「もういいの。父さんも辛かったのね。それが分かってよかった」
僕はリリーさんの膝の上に揺れたままだ。リリーさんの柔らかい手が僕の頬を撫ぜてくれている。
「ありがとう、とうさん」
少女Aが老紳士に顔を埋めた。老紳士が微笑みながら頷いた。

揺れ激しくなっていく。少女Aと老紳士の和解の瞬間を、僕は垣間見ている。きっと、リリーさんがそれを僕の魂に流し込んでいるのだ。僕のリセットが進んでいるのだ。
僕は生前ママとパパに連れて行ってもらった遊園地を思い出していた。あの事故の日のことだ。楽しかった。今までで、一番楽しい日だった。
リリーさんの手が僕の頬から前髪の辺りに移る。それに会わし、僕の魂の回顧の場面も移っていく。

「信じてくれたの…」
ママの声だ。少女Aの声だ。
「ああ」
パパの声だ。少年Aの声だ。
「愛がほしかった。あの日、あなたのアパートへ行ったのは事実よ。あたし、愛がほしかったの」
すべてが繋がっていく。みんなリリーさんが仕組んだものだ。
「信じるよ。悪かった疑っていて…」
僕が覗いた少年Aの真実が明らかになった場面だ。少年Aと少女Aのボタンが掛け直された場面だ。
「ありがとう。信じてくれて、ありがとう…」

僕のリセットが終わろうとしている。僕は目覚めかけていた。
リリーさんが泣いていた。思ったとおりだった。しかし、僕も泣いている。今まで味わったことのない別な種類の深い感動を味わっている。僕は幼子のように意識を開放していた。
僕のママとパパが僕の側にいた。あの日、僕たち三人は事故で、地上から消えうせた。その後、僕はここでトムおじさんに育てられた。だから、僕は母親も父親もほとんど知らないといっていい。思い出すこともあまりなかった。
しかし、僕のママとパパは僕を探してくれていたのだ。それをリリーは知っていた。きっと、あの老紳士もリリーさんが探してくれたのだ。
すべて、リリーさんたち僕の仲間が、僕の為にとしてくれたことだった。僕をソウルリセットし酔うとしてしてくれたことだったのだ。
リリーさんに僕は魂を預けている。その僕の魂の中に、両親、家族への愛があったのだ。そういえば、イチローもジローもそうだ。二年前にイチローとジローは親との再会を果たしている。それも、リリーさんが手伝ったそうだ。そして、今回が僕。僕たちはリリーさんに頭が上がらない。今回のパーティーも優勝はリリーさんだ。

「あの日のことが、あたしにはずっとしこりだった。あたしは行った。あの日、あたしはあなたのアパートへ行ったのよ。でも、信じてもらえなかった。信じてもらえなかった…」
少女Aが少年Aに訴えている。少女Aが泣いている。
「お腹に赤ちゃんがいたのよ。あなたは知らなかったけど。だから、あたし、ひとりで産んだ。あなたを忘れようと必死だった」
少年Aも泣いている。潤んだ瞳が、まっすぐに少女Aに向いている。
「でも、でも、駄目だった。あたし、あなたを探した。三年。三年間、あたしはあなたを探した」
少年Aが、少女Aの肩を抱く。少女Aが、少年Aの肩に顔を埋める。
「あなたはあたしを待っててくれた。いつか、いつかと待っていてくれた。嬉しかった。死ぬほど、嬉しかった」
二人の間に静寂が佇んだ。しばらく、少女Aのすすり泣く声だけが、その場に流れた。
「二ヶ月ほどだったね。三人で暮らしたのは、たった、二ヶ月だけど、あたし、幸せだった」
静寂が破れる。少年Aの腕の力が強くなる。
「最後の日の遊園地、楽しかったね。淳ちゃんと三人で…」
あの事故から、二人は必死になってひとり息子を探していた。しかし、その子は見つからなかった。
「ごめんね、淳ちゃん。ごめんね、見つけられなくて」

「カンパリをもう一杯」
ママが言った。僕はリリーさんの膝から立ち上がった。
「僕はジンスト…」
僕の魂の回顧は巡り巡っていた。僕は僕の店で飲んでいる。バックにはマイルス・デービスが流れている。
「淳ちゃん…」
ママが僕に言った。パパがもう直ぐ来る。僕にはそれが分かっている。
ママの瞳には涙が溢れそうになっている。僕はポケットからハンカチを取り出した。
「ごめんね、ごめんね。純ちゃん…」
ジンストが僕の前に来た。僕はそれを一気に煽った。
「淳ちゃん、淳ちゃんなの」
カウンターの中から声がした。あのロケットの中の写真の女性だった。
「純ちゃんなの?」
ハンカチは僕の為に役立った。僕の瞳から大粒の涙が一粒零れるのが分かった。
「純ちゃん」
ママが僕を抱いてくれた。カウンターの中にあの老紳士、いや、僕のおじいちゃんと、あのロケットの写真のひと、いや、僕のおばあちゃんが優しさの笑みを見せてくれていた。
「純ちゃん」
ああ、僕のソウルリセットはうまく行ったのだ…。
「ママ」
おじいちゃんとおばあちゃんが僕を見ている。もうじき、僕のパパもやってくる。あのいい男が。
僕は子供に戻っていた。あの三歳の日に戻っていた。
「ママ…」
みんなには恥ずかしかったけど、僕の幼さが破裂していた。何度も何度もママを呼んだ。呼ぶたびに、ママが更に僕を強く抱いてくれた。暖かさが僕の全身を包み、涙で鼻が詰まった。
「ママ…」
僕はそのまま眠りに落ちていった。ママの腕の中で僕は幸せだった。パパはまだかなと、ふと思った。まあいいや、ママがいるから…。

僕のソウルリセットはうまくいったよ…。

(4)

今日はおばあちゃんの誕生日だった。外は相変わらず雪。僕は雪が好きだ。月明かりが綺麗な夜だった。
僕の店はすっかり変わった。ママがカウンターの中に、そして、おじいちゃんとおばあちゃんがいつも最初のお客だ。僕はレコード係とバーテンダー。
あれから、毎日思うんだけれど、事故で幼く死んだ僕みたいな魂だって、こんなに幸せになれるんだ。こんなに毎日が楽しく過ごせるんだって。僕は周りのみんなに感謝している。みんな、みんな、心から大好きだ。
「いらっしゃいませ」
リリーさんが天使の笑顔で、トムおじさんがおどけたウインクで、それぞれカウンターに座る。
「純ちゃん、元気」
リリーさんもこの店に来ると、いつも楽しそうだ。それが、ぼくにとってものすごく嬉しい。
ママが、トムおじさんに教えてもらったロールキャベツを煮ている。その匂いが店全体を包む。僕はカウンターを離れた。ガマンできなかった。知らぬ間に涙が頬を滑り始めていた。
「ありがとう」
僕は雪にそういった。雪の向こうから、イチローとジロー、そして僕のパパが歩いてくるのが見えた。アフロのイチローとモヒカンのジローが、あの日の魍魎に見えた。月明かりが大きくなっていた。

ソウル・スイッチマン    完

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