ホワイトアイランド

ホワイト・アイランド・・・
河村 :健一・・
序章・・・
・・・
ここ十日程、激しい頭痛が、不吉な予感の耳鳴りを伴って、皇帝ラ・ムーを襲い続けていた。・・・
「ムー帝国の将来と、国民の平安を守らせたまえ…」・・・
透明なる宮殿で膝を折り、ラ・ムーは、長い時を祈りに捧げた。・・・
繁栄の絶頂にある者の不安だった。奢りというものがこの国を包み込み、人々の欲望が神への祈り・・
を遠ざけていく。今の栄華は、神より授かったものなのだ。神の大恵をおろそかにしてはいけない…。・・・
頭痛は後頭部にまで拡がり、眉間の皺が増え、ラ・ムーの心は乱れ揺れた。・・・
青空には雲ひとつなかった。帝国の限りない繁栄を約束するかのように、どこまでも澄んでいる。・・
自らが纏う白い法衣にも、太陽の恵みが燦々と降り注ぐ。・・・
あー、神よ。この恵みを永久に…。ラ・ムーの身体は小刻みに震えた。・・・
「神の恩恵に慣れ、感謝を忘るるなかれ! 今の繁栄は、見せかけにすぎん…。皆が心から神に感謝・・
し、我と共に清らかな魂にて神に祈ってこそ、本当の繁栄が神によってもたらせられるのだ。国民よ、・・
奢ることなかれ!」・・・
ラ・ムーの叫びだ。しかし、叫びは皇帝だけのものだった。人々は私利私欲へと流されていく。き・・
らびやかな装飾品を飾り、色鮮やかな衣装を身に纏い、美しい数々の宝石を求め奪い合う。神への忠・・
誠をおろそかに、上辺だけの祈りを繰り返す。澄みきった青空も、眩いばかりの太陽の輝きも、紺碧・・
なる大洋も、そして、石造りのこの大都市ムー帝国も、すべて神の成し遂げられた偉業のひとつなの・・
だ。我々は単に、神の僕(しもべ)に過ぎない。・・・
「国民よ、奢ることなかれ!」・・・
頭痛と耳鳴りは止まない。眉間の皺が深くなる。訳の分からない不安が募る。・・・
うるさいほどのセミの声はどうしたのだ…。スズメたちの囀りも聞こえてこない…。いつもの朝と・・
違う…。祈りへの集中が散漫になる。神殿内が暗くなる。どこからか現れた黒い雲が上空を覆う。・・・
「神への感謝を…」・・・
スズメたちが、声もなしに空へと昇っていく。暗雲が宮殿に闇をもたらし、風が強くなっていく。・・・
「どうしたことなんだ…」・・・
不安の的中を思った。この時刻、聖なる祈りの時刻に、雲が宮殿を覆ったことはなかった。スズメ・・
たちが、空へ逃げていくことなどなかった。セミたちが、沈黙していることなどなかった。・・・
「どうしたことなんだ…」・・・
足音がこちらへと向かってくる。神聖なる時に宮殿に近づく者がいる。訳の分からない不安が、皇・・
帝の中に形取っていく。・・・
神よ…。余りにも唐突に…。背中に悪寒が走り、涙が一粒、ラ・ムーの頬を静かに伝わる。・・・
「申し上げます」・・・
戸口の向こうから、絞り出すような声が届いた。ラ・ムーは、視線を地面に落とした。・・・
「神よ! あなたは、我々に更生する機会も与え賜わんのか…。余りにも、唐突ではありませぬか…。・・
神よ! 偉大なる神よ、どうぞ、我々を救い賜え。このムー帝国を!」・・・
ラ・ムーは一心に祈った。それしか、皇帝には成す術がなかった。・・・
「申し上げます! 皇帝!」・・・
・・・
・・・
それは、地鳴りから始まった。地鳴りは、ムーの都市を恐怖へと落としこんだ。地面を強烈に震わ・・
せ、人々をパニックへ誘った。森林から大轟音と共に大火柱が噴き上がり、都市の大地が激しく躍り、・・
至るところに大きな口を開ける。地割れの底から熱泥が沸きだし、逃げまどう人々を飲み込んでいく。・・・
凄まじい雷が縦横無尽に暴れまくり、天の怒りを人々に見せる。突風に建物は次々と倒れ、砂塵を・・
巻き上げながら数多くの人間を下敷きにしていく。大地の亀裂から流れだした熱泥が、倒れた建物を・・
次々と飲み込む。大火柱が雷と争い、激しく稲妻に向かった。地上は硫黄のガスに覆われ、無数の人・・
間が倒れていった。地獄絵図がムー帝国に繰り広げられた。・・・
ラ・ムーは、荒れ狂う風の中、神殿の櫓の上に立ち片手を天に向けながら叫んだ。・・・
「最期の時が訪れたのだ。あー、皆のもの…。我は、このことのあるのを予言しなかったか!」・・・
人々も叫んだ。しかし、それはラ・ムーにまで届かない。・・・
「ラ・ムーよ、我等を救いたまえ!」・・・
櫓から見えた。異常に盛り上がった大山脈のような黒い影が。大津波だ。・・・
「神よ、偉大なる神よ! どうぞ、我等を救いたまえ!」・・・
・・・
・・・
太陽の帝国…。古代の大都市ムー帝国は最期を迎えた。皇帝ラ・ムーは、偉大なる神に祈りながら・・
透明なる神殿と共に大津波に飲み込まれていった。・・・
第一章・・・
・・・
(1)・・・
・・・
光の時…。瞼の裏の朧気な明かりを頼りに、ミルダは、僅かに残る生への執着に縋り付いている。・・
我々のすべてが光であり、愛の輝きに煌めき、至高の時を、自由を、おおらかに謳歌していた。それ・・
は、自らの遥か過去にあったはずである。・・・
光の時…。すべてを理解し合った者たちが、それぞれを、自らを、限りなく、欠片の偽りもなく深・・
く愛し、その波動が、我々の本来の存在の形である美しい光を、自我の懐より照れることなく表面へ・・
と押し出す。光が光を抱き、愛の鼓動のリズムがひとつになり、大きくその場に、存在という歓喜の・・
ハーモニーとなる。・・・
光の時…。自らが芽生えた光の母胎は、我々の光が寄り添った世界であり、その中で生命を育み、・・
愛としての存在を大きくする。そして、未来を光たちが創造し、理解を超えた光たちの愛が、純白の・・
帆を高らかに銀河を目指す。・・・
ミルダの意識は、自らにあったであろう光の世界に包まれていく。既に思考は、重く垂れ込めた暗・・
雲の中に泥状の湖を泳ぎ、闇への微睡みに徐々に落ちていた。意識の奥の幼さだけが、光の煌めきを・・
追いかけ、遠い過去にあったはずの光の時へ真っ直ぐ駆けていく。そして、それ以外のミルダは、彼・・
岸への淵で現実から逃避を願い、未知の恐怖の受け入れを頑なに拒んでいる。・・・
今朝、ミルダは知らぬ内に、強烈な毒と幻覚作用のある何かの実を食べてしまった。気をつけては・・
いたが、三日前からの激しい空腹につい迂闊になってしまっていた。・・・
それからミルダは鉛の海を泳ぎ続け、全身の重さと、時折の激痛との戦いの中、この森にたどり着・・
いた。無意識に、森での静かな死を望んだのかも知れない。・・・
ミルダの思考が、働きを完全に放棄していき、今まで培った明日への希望が、無塵に黒いインクへ・・
と色を失っていく。それとは対象に、ミルダの幼さの中の生への執着が、意識の光を誘い、そのオー・・
ケストラが音を高く、ミルダの原点の遥か過去のひとときへとピントを合わしていく。死と背中合わ・・
せの自らの光へ、意識が強く引き込まれていく。・・・
光…。それを求めた旅であった。しかし、ミルダには光は遠かった。ミルダは、幼さをなくしたこ・・
と、純白な胸の内を大人へと開いていったことを悔いた。故郷を思うときが増え、旅は厳しく辛いも・・
のとなった。・・・
光への道…。光に抱かれるためには、己自身が白く透明になり、純白な精神を育てなければいけな・・
い。ミルダは、そのために、人里離れ、山に籠もり、滝に打たれ、暴漢に身を任せ、獣と相対し、己・・
を信じ続け鍛練を重ねた。肉体の苦痛の極限での冷静な精神の構築。ミルダの熱い執念であった。・・・
光の創造…。それは我々のすべてが望み、我々の姿を、この宇宙に自由に表現し、我々の存在の形・・
の礎として生への息吹を追い求めた結果だった。未来への激しさが、自らへの愛を揺れ動かし、その・・
波動が銀河の光に届き、我々の宇宙に銀河の光を誘った。そして、宇宙の輝きが我々を照らし、目覚・・
めが、愛という我々の存在の意味の核へ触れた。そこで我々がハレーションを起こした。・・・
光の創造の瞬間…。どこまでも透き通った光の粒が、それぞれに組み合わさって幾つもの形を創り、・・
時空を越えたあらゆる瞬間の色となり、個々の存在の意味を揺さぶりながら、愛という唯一の未来へ・・
の道標を浮かび上がらせる。光たちがその道標に勇気を抱き、進む未来への理解を始め、大いなる門・・
出の湊へとそれぞれが純白の帆となり誇らしげに進む。・・・
創造の瞬間…。その道標が、空間に存在するすべての光に微笑みを投げかけた瞬間、我々の純白の・・
帆が一枚となり、遥かなる宇宙からの風を受ける。愛という存在の意味だけを乗せた一艘の輝ける方・・
舟が、純白な帆を天高く、未来への荒波へデビューを果たす。それまでの幻を光の表現に換え、光た・・
ちが新しい喜びを宇宙の果てにまで見せる。・・・
創造主の意図…。宇宙へのデビューは我々の第一歩であり、光としての認識を宇宙の創造主よりし・・
かと受け、愛の理解を更に深めるためのものであった。我々の創造主は我々であり、我々の未来は・・
我々で拓いていき、存在の意味である愛の飽くなき追求へと向かう。・・・
そのことの理解は、幼き日々の自らの中の光との出会いにより、ミルダには出来ている。それを求・・
め続けてきたのだ。ミルダは、その光に大きく頷き、正面に向き合おうとした。そして、光が消えな・・
いようにと急ぎ目を開けようとした瞬間、ミルダの思考が泥の水面から顔を出した。・・・
光に向き合おうとした瞬間の意識に、思わずミルダの死の淵の自我が揺れ、泥の思考が素早くそれ・・
に追い付いたのだ。己の自我のコントロールこそ、ミルダの執念であり、その目的に長く厳しい旅に・・
出たのであるのだが…。・・・
目を閉じて、ミルダは、自分に冷静になるようにと言い聞かすと同時に、どうすることもできない・・
という絶望の縁にもがき、苦境の時の自我を持て余す。今の状況を脱する術を探す自分と、それがも・・
う既に手の届かないところへ消えてしまっていることを知っている自分とが激しくぶつかり、どちら・・
の自分も知らない漆黒の深い闇への誘い、死への誘いが徐々に早急になってくる。・・・
死…。それが、ミルダに得体も知れない影として、その姿を朧気に揺らし始め、闇の湖に小さな波・・
紋を四方へ蛇行しながら拡げる。瞼の裏の微かに浮かぶ光の残像が、その波紋を別な色でミルダに知・・
らしめ、ミルダの意識に歪んだ楕円状に大きくなっていく。・・・
光に揺れている間に、腹部の鈍痛が背中にも拡がり、手足の先までが鉛の重さに沈み込んでいた。・・・
死…。それは突然降ってきたものではなく、ミルダにはすべてその準備、いや、それに常に相向・・
かっているはずのものであった。しかし、今、ミルダはそれを実際目の前にして何もできない自分、・・
そして、それに激しい恐怖に震えおののき始めている自分を諫めることすらできないいる。・・・
黒い波紋は、それぞれの渦を益々凝縮していき、ミルダの恐怖を増幅させ、形をくっきりと鋭く浮・・
かび上がらせていく。その姿は幼き頃、誰かに聞かされ、夜を恐れ怖がった悪魔の姿であり、闇夜の・・
亡霊の姿であり、光すら喰ってしまうという巨大な双頭の竜であった。・・・
死…。やはり、それが自らへ訪れるのはまだ若すぎると思っていたのだろうか、それへの無知故の・・
憧れが知らぬ間に、ミルダの意識にあらぬ思い、例えば、死の先の花畑、光の銀河、暖かさの母の腕・・
などを、受け入れていたのだろうか、ミルダの意識は漆黒の悪魔に誘われ、暗黒の亡霊に手を引かれ、・・
黒いインクで黒いキャンパスに描かれた巨大な竜へと落ちていく。・・・
その瞬間、ミルダにまったくの静寂が訪れ、大勢の微睡みの渦が押し寄せた。ミルダはそれに屈す・・
るほかなかった。薄れる意識に、もう一度、あの光が遥かな宇宙へ小さく煌めいたような気がした。・・・
・・・
・・・
森に目だたないように立っている小屋の中には、小さく油がちろちろと燃え、その揺れる光に人影・・
が薄く浮かび上がっている。キリコという老女が、日課である瞑想に耽っていた。・・・
キリコは、微かな呼吸を鼻から時折漏らすだけで、仄かに揺れるオレンジの光を皺だらけの眉間に・・
受け、長い時間を、姿勢を崩さず微動だにしないでいた。仏のように短い足を器用に折り畳み、両手・・
の親指と中指で優しく合わせた円を膝の上に浮かべ、座禅の姿勢で目を閉じていた。長い白髪を無造・・
作に束ねた背は、鋼鉄のように芯が通り真っ直ぐに伸びている。・・・
キリコの表面の意識は眠りにあり、それより深い自ら深くの意識が、透明に揺れる己の湖を泳いで・・
いた。湖には光が戯れ、星が青く煌めき、透き通った風がキリコを優しく包んでいた。・・・
透明の意識を自らの肉体から外出させ、気ままな時の散歩を楽しむ。森に暮らすキリコの日常の退・・
屈しのぎであり、老いていく自分へ奮起を促すひとつの形であった。キリコの湖が色を変え、煌めく・・
星がキリコを風の彼方の大海へと誘った。・・・
キリコの機嫌は、久々にすこぶる上々だった。年をとると精神の集中が怠慢になり、沈めようとす・・
る意識がすぐに拡散してしまう。己の湖に沈むことは容易いのだが、それから先を進むに連れて、戻・・
る道を忘れてしまうことが多くなっていった。いや、現実へと戻りたくないという思いが強く揺れ始・・
めていた。・・・
湖に光と共に揺れている時は、意識は自らの生を越えている。死へ向かうの橋のたもとに揺れてい・・
るようなものなのかも知れない。その揺れがたまらなく心地よく、帰りのことが頭から消え去ってい・・
く。つまり、その状態での集中が散漫になっていく。・・・
肉体へ戻れなくなると、肉体は朽ち果ててしまう。死は恐れてなどいなく、それへの憧れに似た思・・
いすらある。まして、この世になど未練はなく、悲しむものなどいない。己の湖の中でこのまま永遠・・
に眠れれば…。最近、キリコがよく思うことだった。・・・
しかし、今は、集中がすこぶる高く、いい離脱の状態にあった。己の湖に星が誘い、大海の上空に・・
は雲一つなかったのだ。・・・
キリコは青い空に永く佇み、大海の果てに現れた夕日が色を変え沈んでいく姿を眺め続けた。・・・
「帰るとするか。森に客が来たようじゃ…」・・・
沈む夕日にひとつ呟き、キリコは意識を我が森へ飛ばした。己の湖の水面に大きく波紋が広がり、・・
湖を照らす光がキリコを離れた。・・・
「いつ以来じゃ、森に人が来るなんて…」・・・
キリコは意識に己の肉体を感じさせた。心の音、胸の熱さ、そして、流れる血、満ちている気。小・・
屋に瞑想するキリコの目が薄く開く。・・・
「フッ…」・・・
小屋のキリコが小さな笑みを浮かべ、己の湖を意識の深くに大切に仕舞う。そして、ゆるりと目を・・
開き、そのまま意識を森へ飛ばす。・・・
「こんな森へ来るからじゃ…」・・・
若い男は、森の一番の大木の側に倒れていた。キリコは意識のまま男をのぞき見る。小屋のキリコ・・
が立ち上がり、キリコの意識へ静かに歩み寄る。・・・
「何かの毒にやられたのか…」・・・
若い男から生への輝きが失せているものの、まだ生きてはいるようだった。・・・
「旅のお方…」・・・
キリコが男の意識をもう少し覗こうと思った時、男から光が一条、森の闇に煌めきを放った。・・・
「何じゃ…」・・・
キリコは素早く光へ跳んだ。光はすぐには消えず、暮れていく森の中に溶けていくように静かに・・
漂った。・・・
・・・
・・・
「ぼくたちの光は、ぼくたちに見えるの?」・・・
死の淵で、人は過去のあらゆるものを垣間見という。ミルダにもその時が訪れているのか、懐かし・・
い紫の瞳が、穏和な暖かい光を添えてミルダを覗き込む。・・・
「ねえ、じいちゃん…」・・・
窓を叩く風の音が一定のリズムを刻み、遠くの獣の遠吠えが、時折、風のリズムからはみ出してい・・
く。ミルダは眠気眼を両手で擦り、祖父の微かなタバコの匂いを嗅ぎ、いつものように祖父の長い白・・
髭をくねくねといじる。・・・
「見える。その光は私たちの魂を照らしているんだ。だから、人は人を好きになれるんだ」・・・
祖父の話は、幼いミルダには理解を超えてしまっていたものだったが、祖父の低い声に、話がミル・・
ダの脳裏に絵模様となって浮かび上がり、ミルダはいい知れない幸せに浸るのだった。・・・
「愛…。分かるだろう、ミルダ。人は愛があるからこの世に生まれるんだよ。愛が私たち創り、私た・・
ちに生を授けてくれる。だから、私たちの光は、愛を持つものなら誰にも見えるんだ…」・・・
特に光の話は、ミルダの脳裏の絵模様に止めどないほどに色が溢れ、無限な光の煌めきが果てしな・・
く拡がるので、祖父の話の中でも最も好きな話だった。・・・
「私たちは私たちを創った。私たちは愛に結びついたひとつの光だったんだよ…」・・・
ミルダの幼さがあの頃に心地よく揺れ、祖父の話の理解が、不思議とその幼さ故に、あの頃とはま・・
た別なる理解を促していく。あの頃の脳裏の光模様が、先程の光の時へ包まれた意識とが重なりクロ・・
スしていく。あの頃の脳裏に感じた光は、祖父の話に自らが色を付けていったものであり、先程感じ・・
た光は、ミルダの魂の揺れに、光がその姿を見せてくれたものなのである。・・・
その二つはまったく異なることのない光であり、祖父の話の光であり、その話に拡がった脳裏の光・・
であり、あの頃のミルダには既に知っていた光であり、そして、ミルダの死の淵に揺れた我々すべて・・
の魂を照らす愛の光なのである。・・・
「だから、ミルダにもその光は見える。いつかきっと見える…」・・・
祖父の言ったことは間違いなかったのだ。ミルダはそんな安堵に、あの頃のように、祖父の髭から・・
絡まった指をゆるりと滑らせ、眠りへ静かに落ちていった。・・・
・・・
・・・
「いつ以来じゃ…。人の姿を見るなんて」・・・
男より煌めいた光は、昔、キリコが死の淵で見た光と似ていた。キリコは闇の先の光に跳びながら、・・
旅の男のことを思った。どういう訳で、魔界と古くから人々に呼ばれるこんな深い森へ来たのだろう・・
か、道に迷ってしまったという訳でもなさそうある。若い男には自分も昔あったであろうものと同じ・・
影が見えた。死と背中合わせの、激しい何かが揺れていた。・・・
キリコは意識を男から切り離し、光へ集中した。永く暮らした森のことは、隅から隅まで知らない・・
ことはない。この様な光の進入は記憶にないし、オオカミたちが騒がないのも解せない。・・・
光は大きく純白の帆の残像を拡げ、キリコのことは眼中にないかのように悠然と森を漂う。日の光・・
でさえ拒む森の無限な広葉樹の葉を柔らかく揺らし、風を自らに受けている。・・・
キリコは、思いを遥かなる自らの過去へと馳せた。光の記憶へ意識を飛ばした。・・・
超自然力を生まれながら持っていたキリコは、小さな頃から勘が鋭く、その予言はことごとく的中・・
した。少女に育った頃には、村の人達の病気など次々に治療したり、作物の収穫ぐあいをぴたりと予・・
想し、村人に重宝がられ、占いや、お祓いも、頼まれば行った。・・・
それは、キリコが望んだことではなかったが、貧しい暮らしを支えていくのには、それが自分の勤・・
めだと思っていた。・・・
しかし、噂は当然魔女狩りの役人たちの耳に入る。・・・
「女は、その迷信、情欲、欺瞞、軽佻において男を凌駕し、肉体の力の弱さを悪魔との結託でおぎ・・
なって復讐をとげる。そして、妖術にすがって、執念深い淫奔な欲望を満足させようとする。サバト・・
を埋めつくしているのは魔女たちだ。魔女は、異端者であり、背教者である。彼女らは死に値する」・・・
『魔女の槌』という本の一節だ。『魔女の槌』は十五世紀後半に書かれた魔女狩りの基本的なマニュ・・
アル書である。・・・
魔女は悪魔と血の契約を交わす。そして、生涯、悪魔に仕えることを誓う代わりに、悪魔から呪わ・・
れた超自然力を授かる。その契約が成り立つと、魔女は自分の身体の一部、髪の毛や爪や血を悪魔に・・
プレゼントする。悪魔は魔女に金銀を与え生活を支える。・・・
彼女らは信仰の力も祈りの尊さも否定する。十字架を踏みつけ、夫婦に呪いをかけ離反させ、幼子・・
を窒息させる。家畜を呪い殺し、畑に雹を降らせ嵐をおこす。身体からひどい悪臭を発し周りの者を・・
無力にする。目から忌まわしい視線を投げ人を狂気に落とし入れる。・・・
教会はキリコを魔女として扱った。それは、都市のエリートである司法官、教会改革者の目で見る・・
と、超自然力を持つ彼女らの存在が、人々を迷わせ秩序を乱す不穏分子で厄介者に映るのだ。・・・
不穏分子とレッテルを貼られたキリコは、異端者、背教者と罵られ蔑みの目で見られた。生まれ・・
育った村、親切だった人たちからも、迫害を受け、村を追放された。魔女狩りの対象として、どこま・・
でも追われた。涙が涸れるほど泣いた。親さえも、教会の追求を恐れて、キリコが村を出ていくのを・・
止めなかった。・・・
それは、キリコが故郷を追われ、東への旅の途中のことであった。ある深い森へ入り、食を断ち、・・
死のうと思っていた時だった。キリコは、あの男のように死の淵を彷徨っていた。・・・
「目を閉じて、自分を見なさい…」・・・
山に暮らす仙人のような老人が、意識が死へ落ちていくキリコに小さく声を掛けた。・・・
「微かな光が見えるはずじゃ…」・・・
老人がなぜが救いの神のように思え、キリコは懸命に瞼の裏に光を探した。・・・
「見えるだろう」・・・
微かな光が、老人のその声によって徐々に拡がり始め、色すらも消す透明な光となって、キリコの・・
意識を暖かく包んでいった。・・・
「見える。透明な光が見える!」・・・
思わず、キリコは大きく叫びをあげ、目を閉じたまま老人の胸に飛び込んでいた。・・・
「光が見える!」・・・
生まれて始めて、自分を好きになった瞬間だった。このような美しい光が、自分の中にもあること・・
に信じられないほどの感銘を覚えた。・・・
「その光こそ、我々の本当の姿じゃ。我々は光じゃった。どこまでも透明に輝く光じゃ」・・・
それは、純白の帆を天に高らかにあげた一艘の光の舟に、キリコには見えた。キリコはその光に救・・
われた。死へ落ちていく未知への恐怖が嘘のように引き、それへ向き合った自らの変化が、生という・・
存在の理解の一端を掴んだように思った。・・・
「その光は、我々の宇宙の核の光じゃ…」・・・
老人の言葉に何度も頷いていた。その意味が、不思議と自分の中に何の違和感もなく、透き通った・・
理解となって染み込んだ。・・・
人はそれぞれに小さな宇宙を持ち、その宇宙と遥かなる大宇宙とは、親と子の関係のようなものが・・
存在する。子の宇宙に、時折、親の大宇宙が光を見せる。老人の言ったのは、まさにそのことであり、・・
大宇宙の光より生まれた我々は、その光の記憶を、それぞれの深い部分で抱き続けている。どこまで・・
も透明に輝く光とは、我々の魂のことであり、その魂には大宇宙の光が見えるのである。・・・
そして、魂の表現こそが光の輝きであり、我々の存在の意味なのである。即ち、我々は光であり、・・
輝きを永遠に止めることなどないのである。・・・
そのことを、老人は、死の淵にもがくキリコに見せてくれたのだ。死に揺れるキリコに、一条の希・・
望を、老人が与えてくれたのだ。・・・
「我々は光じゃった…」・・・
それから、キリコは老人について山で暮らした。キリコの超自然力が、老人のそれに相まって飛躍・・
的に伸びた。当然のように、キリコはもう死を思わなくなっていった。・・・
「あの時の光か…」・・・
キリコの記憶がゆるりとめくれていき、あの頃の老人の懐かしい顔が思いに浮かぶ。・・・
男に見えた自分と同じ影の意味が分かるような気がした。男は光を追い続け、光に抱かれようとし・・
たのだろう。男の瞳のあの闇は、それを掴んだ安堵と安らぎなのかも知れない。・・・
キリコは、光へと思考を静かに滑らせた。純白の帆の光が、キリコには懐かしくすら思えた。しか・・
し、それはあの男の光であって、キリコの光ではない。・・・
「この森に何の用じゃ…」・・・
答えなど、帰ってくるものとは思ってはいないものの、どこからか、光の意志のようなものが感じ・・
取れるような気がする。・・・
「……」・・・
光がキリコに風を運び、その風が、キリコの意識を優しく見つめている。キリコに、森の安らぎと・・
はまた異なった落ち着きと安堵が揺れ漂った。幼さが、自らの内から芽吹いていくように、少女の頃・・
のキリコが、その光の中に浮き上がっていく。・・・
「男のことは任せるがよい…」・・・
若い旅人を、光が優しさでくるんでやっているようにキリコには思えた。・・・
「任せるがよい…」・・・
光が、ゆっくりと山の頂へと消えてく。キリコは光を離れた。森に夜明けが訪れようとしていた。・・・
・・・
・・・
光は純白な帆を畳み、朝の月に寄り添うように風を受け、森を越え、黒い山の頂へと静かに揺れて・・
いた。・・・
光は意志を持っていた。ミルダに純白の帆を見せたように、光は、あらゆるものを受け入れる懐を・・
胸に抱き、あらゆるものとの接触を試みていた。未来への明かりを、未来へ向かう勇気ある旅人へ見・・
せようとしていた。・・・
光との接触によって、その者たちが本当の自分を見つめ直すことができるよう、光は光なりにいろ・・
いろな色を魅せる。それは、遥か太古から変わることがない。・・・
キリコの思ったように、光は大宇宙の光であり、それから旅だったすべての子の光へ愛を届けよう・・
としていた。遥か時の彼方よりの、光の変わることのない思いとその姿であった。・・・
光は、その接触を慌てたりしていない。いずれ、光との接触など必要でないことを、すべての光が・・
が気付いてくれるのだ。すべての光たちは、それぞれの心の奥に、大宇宙へと輝く時を待っているだ・・
けなのだ。この幾つかの光のアイランドで輝き、光の本来の姿である愛として煌めく。・・・
森に倒れた男に、それが感じられたであろうか…。・・・
光はひとつそんな疑問を残し、あの男との再びの出会いを楽しみに、色を少しずつ静かに落として・・
いった。黒い山の遥か上方には、雲ひとつなかった。・・・
・・・
・・・
それが、夢でないことを朧気に分かっているミルダは、それでも、側の祖父の息遣いにうとうとと・・
微睡みを揺れ続けていた。空間に流れる空気に魔力のようなものが存在し、背に寒さを実際に感じて・・
いた。・・・
森に入る風の方向が変わったのだ。風は、光が男より消えたのを確かめるように、重く冷たく森へ・・
流れ込んだ。・・・
「光は…」・・・
何故か、無理だと分かっていながらも、光の話の続きを祖父にせがんでみた。祖父は、深い紫の瞳・・
の光を微笑みに見せ、ミルダの肩を優しく叩く。・・・
「さあ、おやすみ…」・・・
先程の安堵感がまったく消え失せていき、ミルダの背に益々冷たい風が吹く。夢ではないはずの夢・・
から出られないでいるのか、それとも、夢を越えたところ、例えば、やはり死という未知への入口に・・
彷徨いているのか、ミルダに、再び闇への恐怖が浮かび上がる。・・・
全身に廻る毒すら、現実からかけ離れたところで蠢いているような気がし、死へ確実に向かってい・・
ることの理解がおぼつかない。ただ、それへの恐怖だけが、ミルダの中で大きく膨れ、時折、恐怖と・・
死が、薄れる意識に重なる瞬間、ミルダの全身に激痛が走る。・・・
しかし、ミルダには、その時折の激痛に意識を繋ぎ止めるしか術はなく、それを放棄する時が、自・・
らの死であることだけは分かっていた。ミルダは薄れる意識を、何とか夢の彼方の祖父へ向けようと・・
手を伸ばす。背に感じる冷たさが増し、子供の頃、恐れた悪魔や亡霊の姿が意識に揺れる。・・・
「この森で死んだの。まだ子供だったの…」・・・
祖父の後ろから、それは聞こえてきた。祖父の姿が黒く歪み、悪魔や魔女や亡霊やゾンビが祖父に・・
幾重にもまとわりついていく。・・・
「この森は魔界なの…」・・・
祖父の影に、まだ4、5歳位の幼い子の姿が見える。悪魔や亡霊を恐れることなく、その子は、暗・・
い目だけを真っ直ぐにミルダに向ける。・・・
「魔界は悪魔が支配するの…」・・・
夢でない空間から、ミルダが少しずつ現実の森へ戻り、恐怖を道連れに、魔の空間へ引き込まれて・・
いく。子供の声に聞こえる魔界という意味が、ミルダにも薄々分かり始める。・・・
「この森は、悪魔が支配する森なの…」・・・
魔界、この森には相応しい響きだった。ミルダは悪魔や亡霊を引き連れ、しばらく森を歩く。祖父・・
の姿はもう見えない。・・・
「魔界の森は、不思議な森…」・・・
歩くうちに恐怖に少しは馴れたのか、ミルダの理解が確実に進んだ。側の悪魔や亡霊たちが、その・・
理解に影を薄くしていく。今、魔界へと進んでいるのは、現実であり、毒故の、あるいは、恐怖から・・
の幻想ではない。死とは魔界を通り過ぎた所にあるのか、ミルダは己の意志で魔界を歩く。・・・
「不思議な森なの…」・・・
ミルダは魔界の森を、時折の全身の激痛に絶えながら、己の意志で歩き続けた。・・・
「この森は別世界だよ…」・・・
幼い子の言うとおり、この森は、捕らえどころのない何か不思議な力を宿していた。豊かな広葉樹・・
が、それぞれに寄り添いもたれ合い、そして、同じ思いに自分たちの世界を守っている。ブナ・カシ・・
・ナラ・カシワといった広葉樹たちの別世界であり、人などを容易に近づけない深い懐がある。・・・
「人は入れない森なの…」・・・
そこは、樹木たちの巨大な傘で覆われた異次元であり、大小様々な植物が寸土も余すことなく茂っ・・
た異空間である。そして、小さな動物や、鳥、虫たちが、この世を謳歌しながら舞い踊る。あらゆる・・
生命が深い懐の奥の奥まで飛び回り、それぞれの存在の意味を求める。・・・
「そうだよ、人は入れない…」・・・
森は広葉を精一杯に拡げ隙間を埋め尽くし、日の光、雨の恵みさえ、別世界からの侵入者として入・・
場を拒む。森は、木々やそこに生きる生物たちの独立した世界であり、他の助けなど求めない。森は・・
気高くその姿を地上に根付かし、そこに溶けうるものだけの、そこに理解されたものたちだけの世界・・
なのだ。森は深く、そして、果てしなく力強い巨大な生命のドームだ。・・・
「そして、この風は魔界からの風…」・・・
幼い子の声が幾つか重なり始め、ミルダの行く手を遮ろうとする意志が見える。・・・
それでも、ミルダは湿った土を踏みしめ進んだ。木の根がところどころに剥き出し、苔が無尽に生・・
えている。方向感覚がずれてしまったのか、何度も同じところを歩いているような気がする。・・・
「悪魔の森なんだよ…」・・・
ミルダの視界に、大木の幹に無造作に立てかけられてある小さな石像が突然入った。信仰か、呪い・・
か、あるいは、魔除けか、石に彫られた人の顔が、ミルダに揺れ続けた幼い子にだぶる。子たちの声・・
は、この石から聞こえるのか、ミルダの思いが、その石の表情に引き込まれ、幼い子たちへの哀れみ・・
がミルダに押し寄せる。・・・
「助けて…」・・・
その声の調子が、今までとは異なり始めた。・・・
「助けて…」・・・
石像からその声はする。悲しさを絞り出すような掠れた小さな声が、ミルダを現実へと呼び戻して・・
いく。覚めない夢の向こうから、それは聞こえるのか、それとも、森に棲む亡霊がミルダの中に蘇っ・・
ていくのか、ミルダは、その声に正面に向き合った。・・・
「助けて…」・・・
森の中には、至る所に同じような小さな石の彫刻が置かれていた。乳飲み子ぐらいの大きさの石が、・・
どれも大木にもたれかかり、それぞれに、目、鼻、口と、思い思いに掘られ並んでいた。それは、か・・
なり古い物らしく、泥と苔をたっぷりと含み、ほとんど何カ所かがひび割れ欠けていた。・・・
「もう一度、死にたい…」・・・
石像からの悲しみがミルダに押し寄せる。もう一度死にたい…。何と悲しい言葉なのか。ミルダは、・・
何度も地に膝を附いた。石の表情は、みんな同じ悲しみを重く深く見せていた。それは、太陽から背・・
を向けられた者たちが、神に縋り、そして、その神に裏切られ、見捨てられ、更に、そんな悲しみま・・
でも、魔の色に染められた者たちの目だった。・・・
「助けて欲しい…」・・・
ミルダに、その悲しみが意識に蔓延し、所々にある石像からの悲壮な言葉が、後を絶たずにミルダ・・
を責め続ける。幼い子供たちの悲鳴が次々と、至る所の石像から聞こえる。・・・
「プィー、プィー…」・・・
更に、どこからか笛の音がする。悲しい調べだ。子供たちの悲鳴と、その笛の音が幾重にも重なっ・・
ていく。・・・
「プィー、プィー…」・・・
それは、悪魔の吹く笛なのか、その調べが余りにも子供たちの悲しみに相応しい。・・・
「お願い、助けて…」・・・
森に夜明けが近いのだろう、微かな薄明りが遠くに差し始め、辺りに白い蒸気を一斉に立ち昇らせ・・
る。霧が薄明かりを溶かし、再び闇を白く引き戻す。・・・
「助けて、お願い…」・・・
それは、もう声ではなく、ミルダの意識に、悲しみの笛の音と共に無意識に木霊していた。・・・
「プィー、プィー…」・・・
死の側に存在する魔界、あるいは、死そのものである魔界、ミルダは、その暗い闇からのメッセー・・
ジをひとつひとつ受け取り、自らにその悲しみを積み重ねていく。・・・
「もう一度死ねないのかな…」・・・
石からの子供たちの叫びは死を越えている。そこは、魔界であり、魔界に救いの神など現れるはず・・
もなく、子供たちは、果てしない悲しみを永遠に持ち続け、死よりも深い闇に身を悶えさせている。・・・
「もう一度、死にたい…」・・・
最後の石像に手を触れた時、その驚くほどの冷たさを手のひらに感じ、悲しみの渦が、怒りを含み・・
ミルダをはみ出しそうになった。ミルダは、その石像を腕に強く抱いた。石の冷たさを、自分の体熱・・
で少しでも和らげてやりたかった。・・・
「もう一度、死にたいよ…」・・・
ミルダは、しばらくその場に泣き崩れた。石の向こうの魔界の子供たちへの哀れみが、ミルダには・・
全身の激痛よりも遥かに重く痛く感じられた。・・・
「この世に、神はいないのか…」・・・
・・・
・・・
朝げの支度を終え、キリコは小屋を出、いつものように屋根に登った。昨夜の雨が、小屋の廻りの・・
温度を幾分上げている。キリコは、焼きたてのパンをかじりながら遠くを見、昨夜から行方の知れな・・
いオオカミ犬のノアの姿を探す。・・・
ノアは二年ほど前、黒く尖った山の麓で拾った。それ以来、なぜか気がよくあい、キリコはノアと・・
二人、死ぬまで静かに暮らしたいと思っていた。・・・
小屋の同居者が、一晩帰ってこないことなど珍しくはなかったが、なぜか、キリコは胸騒ぎを覚え・・
た。勘の鋭いキリコのことだ、自らの思いは信ずるに値する。それに、あの若い男とあの光、何かの・・
出来事の前触れなのか、それとも、そろそろこの森も人間たちによって形を変えていく運命なのか。・・
キリコは、遠くを見る目を少しずつ細めた。・・・
「おお、ノアよ…」・・・
閉じた目で意識を森の隅まで飛ばし、ノアの姿を見付ける。・・・
「何か獲物か…」・・・
ノアは木の陰に隠れ、何かの様子をじっと伺っている。ノアのその視線の先には、あの若い男が石・・
像にうずくまっている。・・・
「あの男…。やはり、まだ生きておったか…」・・・
光に、男の事は任せろと言った。キリコは頬に小さな笑みを浮かべ、意識をその男へと集中させる。・・
キリコの好奇心が破裂しそうになるまで膨れる。・・・
「ノア、少し待て…」・・・
男は石像の前に跪き、悲しみに泣いていた。なぜ、あの男にあの悲しみが見えるのだ。石像は、わ・・
しがひとつひとつ丁寧に、あの子たちの冥福を祈って彫ったものだ。悪魔を呪い、魔界の風を恨み、・・
哀れな子供たちの悲しみを少しでも和らげてやろうと、この森に眠らせてやったものだ。・・・
「そういえば、このような朝じゃった…」・・・
そう、あの日も暗くじめついた朝だった。どういう訳か、その朝は、森に住むオオカミたちの遠吠・・
えが、いつもよりやけに大きく鋭く響いていた。それまでにない強い風が、キリコの小屋を何度も何・・
度も強く叩いた。嫌な予感を持ちながらキリコは小屋を出た。・・・
外に出ると、嫌な予感が当たったことを知った。それは、身を低くしてこちらへ向かってくるオオ・・
カミの群だった。オオカミは低く吠え、目を氷のように光らせ、鋭い殺気を全身に漲らせていた。赤・・
黒い舌をだらしなく長く垂らし、粘ったよだれがその舌を滑り落ちた。・・・
獲物は? ・・・
オオカミが、森の住人としてよく知っているキリコを襲うことはない。まして、オオカミたちは、・・
何度か惑わし痛い目に遇わしたてある。・・・
思いの通り、オオカミはキリコの小屋を静かに過ぎていく。キリコに獲物の権利を主張するかのよ・・
うに、ちらちらとキリコを横目で見ながら過ぎた。・・・
獲物?・・・
風に混じる血の匂いが、オオカミの消えた方からした。既に、オオカミたちが獲物を喰らったのだ・・
ろうか、キリコは素早く火を焚き、煙をそちらへ向ける。そうして、獲物の所有権をオオカミから剥・・
奪する。・・・
オオカミが消えた後、キリコは走った。・・・
「何という、酷いことを…」・・・
それは、まだ五、六歳の女の子だった。雨に打たれ、泥にまみれ、土の上に小さく遠慮がちに横た・・
わっていた。ドス黒くなった血が、その子の頬にへばりつき、毒の匂いがキリコの臭覚を激しく刺激・・
した。・・・
死んでから、そう時間は経っていなかった。キリコは、その子を後で荼毘に付するつもりで木の陰・・
に隠した。・・・
しかし、死んでいた子供は一人ではなかった。女の子を隠した木の元にも、同じような姿勢で倒れ・・
ている男の子がいた。・・・
「悪魔…」・・・
その子は、小さな声で懸命に最後の言葉を振り絞っていた。キリコがその子を抱き上げた時、その・・
子の生が遠くへ消えた。・・・
「悪魔…」・・・
キリコの脳裏に、男の子が最後に漏らした一言が何度も何度も大きく木霊した。・・・
「悪魔…」・・・
同じような子供が、森の中の至るところに悲しみの運命を辿って行き倒れていた。それは、まさし・・
く地獄の世界、悪魔の仕業、悪魔の描いた地獄絵図だった。・・・
結局、この森で倒れ死んでいった子供たちは、男の子も女の子も合わせ三十人いた。四、五歳位か・・
ら十歳位までの子供が、すべてこの森に死んでいった。・・・
「天国へ行くんだよ…」・・・
キリコは、その子たちを一人一人丁寧に森に埋めた。獣に喰われる前に、子供たちを土に隠してや・・
りたかった。キリコにとって、重い重い十字架を、更にもうひとつ背負うこととなった長い長い一日・・
だった。・・・
「天国へ行くんだよ…」・・・
それは、叶わないだろうと思っていた。その子たちは、黒く尖った山から降りてきた悪魔に、運命・・
をねじ曲げられた者たちだったのだ。・・・
「悪魔…」・・・
そして、今、旅の男が、あの日と同じ言葉を呟いているのだ。男には、やはりあの石像の悲しみが・・
読みとれるのだ。キリコは、驚きで男へ跳ぼうとした。その時、ノアが、木の影からゆるりと姿を現・・
した。・・・
「ノア。ほおっておけ。お前が適う相手ではなさそうじゃ…」・・・
キリコは残りのパンをほうばり、再び薄笑いを浮かべた。・・・
「ノア、そ奴を小屋へ連れておいで…」・・・
キリコは大きくあくびをした。ノアが、それにちらっと振り向いた。・・・
・・・
・・・
後ろから、何者かの気配が音を殺し近づいている。その殺気に、ミルダは素早く自らの気配を消し、・・
側の木に昇り息を潜めた。全身の激痛は随分と遠くなっていた。石像への悲しみと怒りが、ミルダに・・
何かの新しい力となっているようだった。・・・
血に飢えたオオカミだった。赤く充血した瞳を四方に向け、オオカミはミルダの佇んでいた廻りの・・
匂いを探る。長い舌をだらしなく垂らし、地を這うように、ミルダの登る木の下に寄る。・・・
オオカミ如きでは驚かない。オオカミもこの星に暮らすものだと、祖父がよく言っていた。オオカ・・
ミの敵意を交わすには、風と交われ…。オオカミは、風に怒りを向けたりしない…。ミルダは木の上・・
で森の風に意識を埋め、自らを沈めた。・・・
オオカミの怒りが風に過ぎ、その音がミルダに聞こえくる。ミルダは、獣の低い唸りを徐々に意識・・
から遠ざけ、その風だけを感じた。・・・
「ヒ、ヒ…。ヒ、ヒ…」・・・
風に聞いた音を、そのまま真似た。オオカミがミルダを認める。・・・
「ヒ、ヒ…。ヒ、ヒ…」・・・
母も父も知らないミルダは、白髪の背の高い祖父に育てられた。祖父と二人、森でのあらゆる獣と・・
の出会いはミルダを熱くしたものだった。祖父は、その都度、ミルダに様々な獣との対峙の仕方を教・・
えてくれた。どんな獣でも、危険な目にあったことなどなく、祖父は、獣と何やら言葉を交わしてい・・
るようだった。祖父の長い白髪が風に靡くのだけ、獣には見えているのだろうか…、そんなことを・・
思ったりしたものだった。・・・
「ヒ、ヒ…。ヒ、ヒ…」・・・
ミルダは、ゆっくりと木から降りた。祖父のしたように、短く口笛を吹きオオカミに敵意のないこ・・
とを伝え、意識の奥の微笑みをオオカミに向けた。・・・
「ヒ、ヒ…。ヒ、ヒ…」・・・
オオカミの尾が垂れる。赤い瞳からの鋭い殺意が薄れていく。・・・
「ヒ、ヒ…。ヒ、ヒ…」・・・
そして、オオカミは何事もなかったようにきびすを返し、現れた方角へ戻り始める。・・・
「待ってくれ…」・・・
なぜか、オオカミが自分を誘っているように思った。・・・
「待ってくれ…」・・・
ミルダはオオカミの後を追った。少しだけ、悲しみが色を変えていたのか、誰でもいい、オオカミ・・
でいい、側にいて欲しい。ミルダは切実に思っていた。・・・
・・・
・・・
「あの石像は、昔、この森で死んでいった者の墓じゃ…。黒く尖った山より下りてきた者たちを、わ・・
しが土に埋めてやった…」・・・
オオカミが喋っているのか、ミルダは懸命にオオカミの後を追った。・・・
「雨の激しい闇夜じゃった。すべて幼い子供じゃ。悪魔に毒を飲まされた。三十人もじゃ…」・・・
しばらく進むと、小さな小屋が見えた。オオカミが、その小屋へと猛然と走った。こんな森に人が・・
住んでいるのか…。ミルダも人恋しさに、その小屋へ走った。・・・
「ノア!」・・・
屋根に、その小屋の主は悠然と腰を下ろしていた。白い衣を羽織ったトカゲのような、よれよれの・・
老婆だった。・・・
「よいしょっと…」・・・
老婆はミルダを認めると、屋根から獣のような身のこなしで、音もなく地に立った。・・・
「人間の姿を拝むなんて、久になかったわい。何年ぶりじゃろう…」・・・
歯の隙間に何かが埋まっているのも気にもせず、老婆がそれを大きくむき出し微笑んだ。・・・
「ようこそ…」・・・
その瞬間、ミルダは自分の意識がどこかへ吹っ飛んだことを知った。老婆の何かしらの術に、瞬時・・
に落ちていったことを知った。・・・
「ど、どうも…」・・・
ミルダは、あの子供たちの悲しみから逃れるように、老婆の術に進んで入る。ミルダには、それが・・
救いのように感じられた。老婆の姿が、闇に白くくっきり浮かび上がる。・・・
「ようこそ…」・・・
老婆は、朝げの途中だったようだ。歯の隙間の詰まっているのはパンなのだ。小屋からは、煙が立・・
ち昇り、朝げの香りがミルダの鼻腔をくすぐる。ミルダの腹がひとつ大きく鳴った。・・・
「ど、とうも…」・・・
ミルダはそう言って、ふらふらと老婆の前に立った。・・・
「こ奴が、悪さでもせなんだか…」・・・
オオカミがミルダの足を舐める。老婆の歯の隙間のパンが消えていく。・・・
老婆は、パンをくれるのではなかったのか…。白い湯気が老婆の歯の隙間に浮かび、琥珀色したパ・・
ンが、次々にその隙間に焼き上がっていく。・・・
「あの光にたのまれてなあ…」・・・
老婆の言葉が聞き取れなくなり、意識が、泥にゆるりと引き込まれていく。・・・
「それに、人恋しくてなぁ…」・・・
焼き上がったパンを、白いトカゲが笑いながら喰らい始めた。ミルダがそれへ手を伸ばした瞬間、・・
白いトカゲが、驚いたように大きく飛び跳ねた。・・・
「わしの小屋で休んで行きなされ…」・・・
透き通った美しい声で、白いトカゲが耳に囁いてくる。ミルダは、その声に大きく頷いた。焼きた・・
てのパンをどうしても食いたい…。・・・
「旅のお方、わしは、キリコといいますじゃ。キリコといいますじゃ。キリコといいますじゃ…」・・・
トカゲが名乗ったので、慌ててミルダがは返した。トカゲの目が金色に光った。・・・
「おれはミルダ。ミルダ。ミルダ…」・・・
トカゲが消えた。代わりに、老婆がミルダの目の前に立っていた。・・・
「おばば…」・・・
老婆の笑みは、トカゲの笑みと同じだった。ミルダに、いい知れない安堵が揺れる。・・・
「さぁ、家に帰ろう。ミルダ、家に帰ろう、家に帰ろう」・・・
ミルダは、それが当然のように頷いた。安堵が更に拡がる。・・・
「さぁ、あったかいスープが待ってるよ。あったかいスープ、スープ、スープ」・・・
ミルダの腹が、もう一度大きく鳴った。その音は、虚ろに揺れるミルダも驚くほど大きな音だった。・・・
第一章(2)・・・
・・・
「昨日、久しぶりに夢を見たの…」・・・
天に憤怒を真っ直ぐに向けているような尖った山、それは、遥か昔から人里離れ、それへ近づくも・・
のなどいない。その姿は遠くから見ると、全体が黒光りし、闇の煙を噴火しているように見え、人々・・
が呼ぶ魔界という世界に相応しい山であった。・・・
その黒く尖った山の頂近くに、小さな洞穴があった。洞穴には、まだ幼さの残る子供たちが三人、・・
何かに脅えるように身を寄せ合っていた。側に火が炊かれており、その火が小さく揺れ、闇をオレン・・
ジに淡く染めている。・・・
「夢を見たのよ…」・・・
子供たちの中で、一番気丈そうなチェナという女の子が、頼りなげにうつむいている男の子に声を・・
掛ける。男の子は聞いているのか、チェナの話に何の反応も見せない。・・・
「ねえ、カッペ。聞いているの」・・・
黒い山に満月が昇り始め、洞穴にその光が薄く入り来る。チャナに呼ばれたカッペが、ブラウンの・・
瞳を少しあげ、背を曲げたまま暗い笑みを作った。・・・
「ごめん、聞いていなかった。昨日、見た夢のことを考えていた」・・・
カッペの沈んだ声が、洞穴に小さく木霊する。・・・
「えっ、おれも夢を見た…」・・・
チャナとカッペと少し離れ背を向けていたジーニョが、二人に戻り来る。二人より、ジーニョは随・・
分と背が高い。・・・
「ジーニョも…」・・・
チェナが、長い栗色の髪を大きく掻き上げ、驚きの目を二人に見せる。何か話そうとする二人を押・・
しのけるように、チェナが続けた。・・・
「あの森の夢。そうでしょ、二人とも、森の夢でしょ…」・・・
気の弱いカッペは、気の強いチェナが少し苦手だった。チェナの涼しげで鋭い瞳から、カッペは素・・
早く視線を外した。・・・
「そうだよ。あの森の夢…」・・・
久しぶりに見た夢は、あの呪われた森を彷徨うものであった。カッペは魔界の風を夢に感じながら、・・
その夢から逃れようともがき続けた。夢とは分かっていたが、それが、夢ではないのかも知れないと・・
思うもう一人の自分がいた。あの森で死んだ時も、そのような思いがあったことをも不思議な夢に思・・
い出し、何とも言えない居心地の悪さに、何度も嘔吐を森に繰り返していた。・・・
「若い男が行き倒れになっていたの…。わたしの方を見たような気もする。いいや、わたしがその人・・
を呼んだのかしら、男の人は悲しそうだった…」・・・
チェナと同じ夢なのか、カッペも、あの石像の廻りをうろうろしていた若い男を見ている。男はひ・・
とつひとつの石像に跪いて、それを覗き込んでいた。・・・
「わたし、その男の人に声を掛けたの」・・・
やはり同じ夢なのか、カッペもチェナのように男へ声を掛けた。居心地の悪さと、止まらない嘔吐・・
と、やり切れない悲しさを、その男へぶつけていたような気がする。・・・
チェナの夢が、自分の夢と同じだとしてももう驚かない。魔界で暮らすものは、時空というものを・・
越えてしまっており、夢とて、闇の狭間にあるものなのだ。カッペは、チェナの夢に耳を傾け続けた。・・
側のジーニョも同じ夢だったのだろう、何度もチェナの話に大きく頷いている。・・・
そんな夢を見る前兆は、三人にはあった。いつも、この三人の側についていたパジーという、まだ・・
五歳になりたての女の子が二日前の雨の夜、三人の前から忽然と姿を消した。まだ幼いパジーは、こ・・
の三人がいなければ何もできないはずなのに、その夜から姿が見えない。・・・
「パジーを探しに来たのかなと思ったの…」・・・
パジーの行き先は、仲間たち誰一人知らなかった。そして、みんなが一番気になる、どうやってこ・・
こを出ていったかも、当然知る者はいなかった。・・・
「助けて…。そう叫んだ。カッペも、ジーニョも、わたしの側で叫んでいたよ…」・・・
チェナの頭が垂れた。堪えていたものが、チェナの頬に一粒伝わる。・・・
「助けてって、叫んだの…、でも、それが無理なことくらい分かっていたわ…」・・・
カッペもジーニョも同じ気持ちに沈んでいく。子供たちの思いが、狭い洞窟にオレンジの火と共に・・
大きく揺れ続ける。・・・
自分たちも、パジーのように、この生活から逃れられる…。・・・
いや、そんなはずはない。魔界にいる者は、魔界を出られない…。・・・
そう、あの悪魔から逃げられない…。・・・
パジーは、地獄へ堕ちたのかも知れない…。・・・
いや、そうじゃない…。・・・
パジーは自分の意志で、この森を出ていった…。・・・
違う、違う…。・・・
この魔界から出られるなんて、そんなはずはない…。・・・
「パジーは、どこへ行っちゃったのだろうなあ…」・・・
気丈に、チェナが沈む空気を和ませようと頭を上げる。チェナの表情に、諦めの影が素早く過ぎる。・・・
「おれたち、一度、死んだんだよな…」・・・
カッペも頭を上げ、苦手なチェナの涼しげな瞳を覗く。ジーニョが、チェナの肩を優しく抱いてい・・
る。・・・
「そうだよな、一度、死んだんだよな…」・・・
それは、昨日のカッペの夢に、時空を越えた魔界の狭間に渦巻いた思いだった。死の先に自分がま・・
だ存在していることが、魔界の暮らしになれるまで激しい抵抗があった。それは、乗り越えたものな・・
どではなく、まだ理解の外にあるものであった。・・・
一度死んだ…。・・・
しかし、それは、日が経つにつれて、その意味の理解が曖昧になっていった。誰に聞くことも出来・・
ず、死の先に、まだ、自らの生、いや、自らの存在があったことの真実さえ、ひとごとのように思え、・・
覚めない夢に出られないだけのことだと、無理にそう思ったりしていた。・・・
一度死んだ…。・・・
自分は、死の中での暮らしにいるのか、それとも、死というものを越えた世界にいるのか、カッペ・・
は何度も何度も繰り返し思った。その思いが、昨夜の夢に久しぶりに激しく揺れた。パジーのことか・・
ら、カッペの思いはそれへと強く傾いていた。・・・
自分たちの存在は一体どういうものなのか、自分たちには、存在という形が本当にあるのか。それ・・
とも、長く覚めない夢の中にいるのか。・・・
それなら、パジーはどうして消えたのだ。もう一度、死んだのか、いや、また別な夢へと旅だった・・
のか。それとも、ただ、自分の夢から消えただけなのか。分からない…。・・・
「一度、死んだんだよな!」・・・
カッペは大きく叫び、怒りを含んだ唾をオレンジの火の中へ吐き出す。・・・
「そうだ、おれたち、一度死んだ…」・・・
今まで黙っていたジーニョが一言呟き、足下の小石を拾い洞穴の奥へと投げ飛ばす。ジーニョにも・・
同じ思いが揺れている。・・・
「パジーは、もう一度死んだんだ…」・・・
自分たちも、パジーのように、この生活から逃れられる…。・・・
いや、そんなはずはない。魔界にいる者は、魔界を出られない…。・・・
そう、あの悪魔から逃げられない…。・・・
パジーは、地獄へ堕ちたのかも知れない…。・・・
いや、そうじゃない…。・・・
パジーは自分の意志で、この森を出ていった…。・・・
違う、違う…。・・・
この魔界から出られるなんて、そんなはずはない…。・・・
「パジーは、もう一度、死んだんだ!」・・・
カッペは再び叫び、思いを仲間にぶつけた。・・・
「そうよ、カッペの言うとおり、パジーは、もう一度死んでしまったのよ!」・・・
チェナの叫びに長い沈黙が訪れた。パジーは、もう一度死んだ…。カッペたちにとって、それは、・・
一番自然な答えだった。・・・
満月が益々高くなっていた。洞穴の火も消えようとしていた。・・・
「ぼくたちも、もう一度死ねないのかな…」・・・
ジーニョの呟きに、カッペもチェナも首を小さく傾げ、それぞれに腰を上げようとしていく。・・・
「そうだ。一度、リュリュねーさんに話してみよう…」・・・
一番に腰を上げたチェナが、みんなの悲しみを振りきるように言った。カッペとジーニョも腰を上・・
げた時、満月の宴の始まりを告げる笛の音が、洞窟の中に流れ込んだ。・・・
「プィー、プィー…」・・・
・・・
・・・
男が一人、黒く尖った山の頂きで満月を眺めている。男の横顔には、昔を懐かしんでいるような小・・
さく綻ぶ笑みと、微かに怒りを含む歪みの表情が重なり揺れている。男は、昔にどっぷりと浸かって・・
いた。・・・
男にとって、それは、満月の宴の前の儀式だった。意識を、昔のある時期へ焦点を合わす。そうし・・
て、自らの存在の理由である、怒りの根源を胸に思い起こす。憤怒のたぎる激しい渦を、自らの内側・・
に揺れ起こす。男は目を閉じた。瞼の残像に、あの大きな石の都市がゆっくりと浮かび上がっていた。・・・
・・・
赤いとんがり帽子をかぶり、狩人の格好をした名もない小柄な男が、恐ろしい顔をして、大きくく・・
ねる川に掛かる石橋を渡った。鼻の下には、長い黒髭がくるりと跳ね上がっており、一見、旅芸人の・・
ように見える。小脇には、大事そうに黒い笛を抱えている。・・・
男は家族もなく、土地も持てず、財産もなかった。人々からは冷たい目で見られ、時には人間とさ・・
え思われないその日暮らしの日陰者だった。夕べも、石橋の下を流れる川の畔で一夜を明かしていた。・・・
そんな男も、笛だけは自信を持っていた。男は笛吹きの道化師だった。男が木陰で笛を吹くと、小・・
鳥たちは側に来る。唯一、男が自分に素直になれる一時だった。・・・
ある日、男は教会の地下室で寝た。人生に背を向けた孤独な男には最も相応しい寝ぐらだった。闇・・
の中の地下室で男は笛を手にし、何かに引き込まれるように夢中で笛を吹いた。・・・
吹きながら鳥たちを探した。しかし、それは鳥たちではなく、恐ろしく暗い目を持ったネズミたち・・
だった。ネズミたちは、男の吹く笛に踊るような反応を見せた。・・・
その夜より、笛吹きはネズミ捕り男になった。ネズミは、みな自分の吹く笛に付いてくる。それで、・・
一儲けを企んだ。・・・
その頃の都市はネズミが大量にいた。笛吹きは各地を廻り、いくばくかのお金をもらいネズミを退・・
治した。・・・
ある日、笛吹きは白い石の都市に流れ着いた。石造りの建物が並び立つ大きな街だった。・・・
ネズミを残らず退治します…。・・・
この街から、ネズミを一掃してみせましょう…。・・・
と、いつものように街の人たちに吹きまくった。白い石の都市の人たちは、笛吹きの言うことを半・・
信半疑ながら信じ契約した。・・・
笛吹きは慣れた様子で笛を吹きながら、街の真ん中の広場より路へ出る。すると、家々からその音・・
を聞きつけたネズミたちが、チョロチョロと走り出して来ては笛吹きの周りに集まる。笛吹きは、そ・・
のまま街の入口の大きな川に向かい、服を着たまま川の中へ入る。それへネズミが続き、ネズミたち・・
はみな溺れ死んだ。・・・
街のネズミがみな死んでしまうと、人々は金を払うのが惜しくなった。そこで、いろいろと口実を・・
設け金を払わないようにした。笛吹きと街の人たちとの口論が始まった。街の人たちは、笛吹きを汚・・
いものでも見るような眼で罵声を浴びせた。笛吹きは懸命に食い下がった。・・・
否は我にない、契約もきちんとしたではないか。笛吹きは執拗に抗議した。しかし、それは街の人・・
たちには通じなく、強烈な蔑みの言葉が帰ってくるだけだった。・・・
怒りがこみ上げ肩が震えた。どこからか飛んでくる石礫が、次々と笛吹きを襲った。笛吹きは、笛・・
を懐に抱え長い時間をじっと耐えた。そして、石礫が止むのを待ち、傷だらけの身体を引きずり白い・・
石の都市を出ていった。・・・
時が経ち、笛吹きは再びその街へと舞い戻った。・・・
大きな川を渡ると、白い石造りの市門がある。白い石の都市だ。笛吹きは、広い十字路を左に曲が・・
りまっすぐ行き広場に出た。石造りの建物が並ぶ大きな街だ。・・・
広場の入口で、笛吹きは街中に轟くように笛を大きく吹き鳴らした。素早く、足元に小鳥たちが絡・・
まってきた。・・・
笛を鳴らしながら小鳥たちと路へ出た。角を曲がると、女の子が付いてきた。もうひとつ曲がると、・・
男の子が付いてきた。・・・
笛吹きは、一世一代の笛を自らの生命と引き替えに吹き鳴らした。美しく悲しい音色が、初夏の白・・
い石の都市に響き渡った。笛吹きは、白い石の都市を大股に歩いた。小鳥と町中の幼い子供たちと、・・
更に、復讐という思いを引き連れて…。・・・
そうして、笛吹きは、そのまま子供たちと二度と帰らぬ旅に出た。もう鳥やネズミたちは付いてこ・・
なった。・・・
子供たちは素直だった。悲しい笛の音に惑わされ続け、自分のことを、笛吹きのおじさん…、など・・
と優しく慕ってくれた。旅を続けるうちに、子供たちは白い石の都市を思い出すこともなく、笛吹き・・
のおじさんを騙した街の人たちのことをも忘れてしまっていた。・・・
生きていこうとは思わない…。・・・
生きていて何になる…。・・・
そして、悲しみの一行はこの呪いの黒森に辿り着いた。笛吹きの他、三十人ほどの子供が一緒だっ・・
た。他の子供たちは途中で息絶えていた。・・・
そこには、笛吹きがはっきりとそれが感じとれる別の世の入口のようなものがあった。己の分身と・・
もいえる黒い縦笛の中に満々と詰め込んであるものと同じ世界だった。その世界こそ、自分の最も相・・
応しいところだと思った。・・・
黒く尖った山の麓で、笛吹きは泣きながら笛を吹いた。白い石の都市を出て以来、始めて子供たち・・
も泣いた。その音色は、あまりにも悲しく、苦しく、哀れで、辛く、そして、切なかった。・・・
別の世界へ行こう…。・・・
みんなが、永遠に幸せになれる世界へ…。・・・
笛吹きと子供たちは、黒い山へ向かい山を越えた。遠い遠い昔のことだった。・・・
・・・
満月の宴の前には、必ずといっていいほどこのことを昨日のことのように思い出す。あれから、ど・・
れくらいの月日がたったのだろうか…。・・・
笛吹きはゆっくりと目を開けた。いつもなら、ここで悲しみの笛を吹くのだが、今夜は、ひとつの・・
気になることが笛吹きの脳裏の中央に大きく位置を占めていた。・・・
遠い目で長く満月を眺めながら、笛吹きの思いがゆるりとそのことへ傾いていく。・・・
パジー…。・・・
最近になって、子供たちのうちの一人、パジーという女の子が呪いの黒森から消えた。・・・
パジー…。目立たないが、おかっぱの可愛い子だ…。・・・
笛吹きも子供たちも、方々を探しまくったが、パジーは見付からなかった。パジーも、この森に着・・
いて以来、強く結びついた共同生活体の一員であるのだ。パジーか消えたことで、子供たちに動揺が・・
少し拡がっていた。・・・
だから、笛吹きは、今夜の夜宴を派手に執り行おうと思っていた。今夜は、いつもより幾分満月が・・
大きく見えていた。・・・
・・・
・・・
悪魔は、その昔から定期的に夜の宴を催した。そして、思いっきり大騒ぎをした。・・・
それは、真夜中の薄暗い月の光の下で開催された。サバト(悪魔の集会場)である、黒の森と呼ば・・
れるじめじめした森に、悪魔、魔女、妖術師、妖怪、動物などを集め、異常な程の生ぬるい空気に包・・
まれ、この世のものとは思えない美しく優雅なる幻想の世界の中で、悪魔的なミサが、彼らなりのや・・
り方で次々と進めらた。・・・
呪いの集いであった。それは、悪魔たちの神に対する侮辱の場であるとともに、異教徒たちの教会・・
への冒涜の歌の宴であったのだ。そこには、呪いの言葉を中心に、ありとあらゆる神への批判が、耳・・
をつんざく位に黒の森に木霊した。・・・
黒の森は、怒り、憎しみ、悲しみの渦に巻き込まれ、異常さを増していった。参加者はその黒い渦・・
の中で、歌い、踊り、大いに酔い、騒ぎ、世紀末の大破廉恥を繰り返す。その異常で奇妙とも思われ・・
る破廉恥どもの悪魔のミサ聖祭の騒音は、星が帰る夜明け近くまで続いた。・・・
そして、今もそれは行われていた。今夜は満月であり、呪いの森に宴が開かれる夜だった。・・・
呪いの黒森…。その森は、古くから土地の人にそう呼ばれ、悪魔が棲む森として恐れられてきた。・・
今でも、人魂が揺れ、コウモリ男や半獣の雄羊、角のある魔女、巨大なカエルなどが居ると信じられ、・・
誰一人として森へ近づく者はない。・・・
呪いの黒森は、昼間でも薄闇に包まれ黒い風が吹いている。まして、夜ともなると、深い闇が微か・・
な光さえも弾いてしまう。・・・
そんな呪いの黒森へ、リュリュという一人の美しい少女が、悪魔の夜宴へ赴くため身を飛ばしてい・・
た。リュリュの足取りは、常人では見えないほど素早い。地を蹴り、風に乗り、鳥を追い越していく。・・・
・・・
我が主、我が君、私はあなたを私の神として認め、生ある限りあなたに仕えることを約束する…。・・・
すべての神、天の精霊のすべて、すべての教会、それらが、私のために行うあらゆる代祷と祈祷を・・
否定する…。日々少なくとも三回は、あなたを讃え礼拝し、できうる限りの悪を為し、可能な限り、・・
人々を悪におびき寄せることを約束する…。心から聖油、洗礼、功徳のすべてを否定する…。・・・
私の体、私の魂、私の命を、あなたのものとして悔いることなく、あなたに永遠に捧げる…。・・・
・・・
リュリュが悪魔と交わした契りだ。生涯、永劫に、悪魔に使えることを誓った血の契約だ。・・・
十五の時、リュリュは、この呪いの黒森の悪魔に浚われた。彼女は自らの命と引換えに、永遠の若・・
さと怪しい魔術、そして、魔界への通行権を手に入れた。それ以来、リュリュは年を重ねなくなった。・・
契約により呪いの黒森の悪魔に従っていた。・・・
リュリュは、古来の魔女のように、現世に生きながら魔女になったのではなく、既に、一度死んだ・・
身であった。物質の肉体は脱ぎ捨てたものの死の壁は越えられず、この世とあの世の狭間にいるので・・
ある。悪魔が支配する幻想の世界、魔界と呼ばれる呪われた世界に暮らし、悪魔の側に身を置いてい・・
るのだった。・・・
魔女は、我が主の命令のない時は、自由、気儘に暮らせる。妖術、超自然力、呪い、偽りの祈祷、・・
詐欺など思いのままに、人と交わることもできる。ただ、人に心を見せること、感情を流れのままに・・
すること、涙を流すことは禁じられていた。・・・
飛ぶように走る足は、これでもそうとうに重い。夜宴の奇妙な食事、妖しい葡萄酒、そして、悪魔・・
の吹く笛、やはり気が進まない。特に、我が主の悪魔ご自慢の笛を思い出すと、更に足が重くなる。・・
それは、どうしようもなく悲しくて切なくなる調べなのだ。我が主は、夜宴にその笛を吹き続けリュ・・
リュの心を痛くする。幼かった頃を思い出してしまう。・・・
なぜ…。・・・
何度、そう思ったことだろう。悪魔の吹く笛に、どうしてもリュリュの幼さが揺れるのだ。悪魔が・・
悲しみをリュリュに押し付け、幼かった頃の思いを、悲しみの色にすべて染めていく。リュリュの心・・
の中に、悪魔が土足で進入し、大切に仕舞ってある幼さの光を鋭い爪で傷を付ける。・・・
なぜ…。・・・
心の底の美しいひとつの襞を、悪魔が鷲掴みにしてリュリュの表面へ押し上げる。幼さに隠した心・・
の奥の水晶の光を、悪魔の色でいつまでも弾く。悪魔が、リュリュの幼さのすべてをひとつひとつせ・・
せら笑う。・・・
なぜ…。・・・
魔女には、幼さの彩りなどいらないのだ。魔女の色は、悪魔の色とまったく同じでなければならな・・
いのだ。・・・
リュリュは走った。悪魔への思いを振り切り悪魔の元へと進む。リュリュは魔女だった。我が主の・・
機嫌を損ねる訳にはいかなかった。・・・
目の前の川を飛び越し、リュリュは幻の肉体の速度を上げた。悪魔の笛の音がリュリュに微かに届・・
き、悪魔の夜宴が始まろうとしていた。・・・
・・・
・・・
黒森の宴は、満月が特に明るいせいなのか、いつもより少し派手だった。そして、笛吹きが異常な・・
ほど、子供たちに優しく振る舞っていた。・・・
「パジーのことがあるからだよ…」・・・
ジーニョがカッペに小さく耳打ちした。カッペも思っていたことだった。・・・
「笛吹きのおっさんは、おっさんなりに、おれたちに気を使っているんだ」・・・
宴は、たけなわを迎えていた。大鍋から沸き立つ妖しい湯気と臭気が森にゆっくりと充満していき、・・
月明かりがそれを更に紫に彩っていく。遠くでカラスが不気味に鳴き、風の音がそれに低く絡み、森・・
に住む無数の小動物を揺り起こす。・・・
-パジーはどこへ行ったのだろう…。・・・
カッペは、やはりそのことを考え続けていた。結局、カッペとチェナとジーニョの三人だけが、そ・・
の意味を深く考えただけだった。パジーがいつもカッペたちの側にいたからなのかも知れないが、他・・
の子供たちはすぐに忘れてしまい、元の生活へ素早く戻っていた。カッペたち三人だけが何かに目覚・・
め、それぞれに、気が付かないうちに本当の自分を覗こうとし始めていた。・・・
「カッペ…。こっちへ来いよ。料理ができ上がるぞ…」・・・
一番年長のゲタンが、カッペを大声で呼ぶ。ゲタンの表情はいつもより明るい。笛吹きの異常な優・・
しさに、少し浮かれているようだ。・・・
「チェナもジーニョも、来いよ。今夜は、特別なご馳走だぜ…」・・・
チャナもジーニョも同じ沈んだ顔をしていた。遠くの笛吹きに目をやると、笛吹きはいつもより多・・
くのオオカミを引き連れて、ご満悦の様子だった。・・・
「もの凄く優しいぜ、笛吹きのおっさんよ…」・・・
ジーニョが無理に笑い、カッペへ泣きそうな顔を向ける。・・・
「バカじゃない。やっぱり、何かが違っているわ…」・・・
チェナが一人呟き、怒りをぶつけるところを探すように森の中を見回す。・・・
「料理が出来たぜ!」・・・
笛吹きは、大きな木の切り株に黒い獣の革の絨毯敷き、その上に優しい笑みで腰を下ろしていた。・・
オオカミが、四、五匹、側に大人しく従っている。・・・
「ほら見ろ。気色悪いたらないぜ…」・・・
ジーニョが言うように、今夜の笛吹きは、いつもの狩人の格好はしておらず真っ黒い法衣を纏って・・
いた。例の赤いとんがり帽子は横に置き、山羊の角の付いた黒く大きな帽子を被り、長い髭を自慢げ・・
に撫ぜ、胸を必要以上に前に出す。・・・
「バカじゃない。子供を相手に…」・・・
宴といっても、古来の悪魔たちの馬鹿騒ぎではなく、こじんまりとしている。参加者も、笛吹きに・・
白い石の都市から消えた子供たち、そして、魔女リュリュ。・・・
「嫌らしい奴…」・・・
臆することのないチャナの声が、少し大きく宴に流れていく。聞こえちゃうよ…。カッペはチャナ・・
の背を軽くつついた。・・・
「いいわよ、聞こえたって」・・・
笛吹きが立ち上がる。小さなファミリーの一員である子供たちに、精一杯の優しさを演じている。・・・
「それに、みんなどうにかしているわ。パジーがいなくなったことを、もう少し真剣に考えたらどう・・
なのよ…」・・・
大鍋のソースは、女の子が四、五人で作っていた。ヘビやカエル、ネズミなどの頭を切り落とし、・・
皮を剥ぎ、次々に大鍋へ放り込む。それを、何時間も液体が赤黒くどろどろになるまで煮る。それは、・・
特別な宴の夜でないと作らない。・・・
「さあ、ご馳走の時間だ…」・・・
笛吹きの前のばかでかいテーブルの上に、今夜の料理が所狭しと並べられいく。大きな皿に、羊や・・
カエル、ネズミ、ヘビ、コウモリなどの肉が山のように盛られていく。テーブルに、子供たちの列が・・
できる。子供たち持参の皿に、笛吹き自らが料理を丁寧に盛りつけている。・・・
「あの、おっさんですら、パジーのことを気にしているのよ…。みんなが、ここから逃げちゃったら、・・
あのおっさん困るものね…」・・・
料理の順番が、徐々にカッペたちへ廻ってくる。カッペは元々この料理が苦手で、いつも気づかれ・・
ないように残していた。今まで、それを言わなかっただけだ。・・・
「食欲がない…」・・・
皿を持ったチェナの手も、カッペのそれと同じように垂れ下がっていく。・・・
「あたし気付いたの。パジーのことを思って始めて気付いたの…。もう少し、物を考えないといけな・・
いって…。今までのように、おっさんの言いなりばっかりではいけないって…」・・・
もう一度、カッペがチェナの背をつっついた。聞こえるよ…。しかし、チェナには届かない。・・・
「あたし、あの料理いらない。どうして、今まで、あんな料理を好んで食べていたのか分からない。・・
何だか臭くない…」・・・
ソースの匂いが近くなっていた。カッペの順番が近くなっていた。・・・
「カッペ…。なにを、ぼんやりとしているんだ…」・・・
突然、いつになく優しい笛吹きの声が、カッペを一瞬に我に帰した。・・・
「あっ、いや別に…」・・・
優しい声とは裏腹に、笛吹きの目が不気味に光った。子供たちの恐れる心の奥にまで冷たい輝きが・・
届く目だ。・・・
「カッペ、お前この頃少し変だぞ…。何かあったのかい。悩みがあるのなら、言ってごらん…」・・・
笛吹きの不気味さが増し、冷たさの光る目だけが、どんどんとカッペに近づいてくる。・・・
「まぁ、いい。さぁ、皿をお出し…」・・・
差し出した皿に、笛吹きがゆっくりと料理を盛った。そして、皿の端に、何か小さな球のようなも・・
のを二つ乗せた。・・・
「カッペ、これを飲んでおくといい。元気のないときは、これが良く効く」・・・
赤い血管が四方に伸びているネズミの目玉だった。二つとも、怨ましげにカッペを見上げている。・・・
「ありがとう、おじさん……」・・・
胃液が上がってくるのと、涙がこぼれそうなのとを、カッペは同時に堪えた。・・・
「早く、元気をだすことだ。カッペ…」・・・
背中にそんな言葉が届いたが、カッペは何も聞こえないふりをした。一刻も早くその場から離れた・・
かった。・・・
「もう一度、死にたい…」・・・
カッペの独り言は、夜宴の歓声に素早くかき消されていた。・・・
・・・
・・・
森の中で、リュリュは長い黒髪を地面に一杯に拡げ、寝そべりながら星を見上げていた。銀色のく・・
すんだ雲が足早に流れていく。衣は側の木の枝に吊るし、リュリュは裸のまま風を受けていた。・・・
「あーあ…」・・・
大きく伸びをした。側に、鋭い目をしたオオカミが耳を立てる。・・・
「あーあ…」・・・
リュリュには、誰をもすぐに引きつける妖しい魅力があった。そして、それとは裏返しの底抜けの・・
明るさと美しさがあった。側のオオカミも、その魔力のような磁気に引きつけられていた。・・・
「おい、もっとこっちへおいで」・・・
ここは、呪いの黒森の中、黒い尖った山の麓だ。森から宴の歓声が微かに聞こえ、フクロウが低く・・
鳴いている。・・・
「はやく…」・・・
リュリュは、宴を抜けてからずーとこうしていた。・・・
「こっちへおいで」・・・
白い毛が一本もない真っ黒のオオカミだった。オオカミがリュリュの乳房を舐めにくる。・・・
「おばか、いいかげんにおし!」・・・
オオカミは尻尾を下げ、仕方なくリュリュの脇腹にもぐる。・・・
「そうそう、いい子ネ」・・・
オオカミの耳の後ろを撫ぜてやる。その都度、オオカミがリュリュの脇腹を激しく突く。・・・
「やめてったら、くすぐったい」・・・
オオカミが甘え鼻をならす。リュリュは立ち上がる。・・・
「あーあ…」・・・
リュリュは憂鬱だった。あの笛の音が再び心に凍み、耐えきれずに宴を抜け出してきた。・・・
「えい!」・・・
足を蹴上げ木に登り、次々に枝を渡る。・・・
「あーあ…」・・・
するするっと、いつの間にか、リュリュがオオカミの後ろに立ち、尻尾を掴み思いっきり後ろへ・・
引っ張る。・・・
「フフフフ…」・・・
その瞬間、オオカミが体を捻りリュリュに飛び掛かる。しかし、オオカミにリュリュは捕まえられ・・
ない。・・・
「フフフフ…」・・・
リュリュは、何度もそれを繰り返しやった。尻尾を引っ張り、耳を引っ張り、腹を蹴り上げ、鼻の・・
穴に泥を詰めた。・・・
「バゥ、グゥー、ボォン、グゥー」・・・
オオカミが音を上げたのを見届け、リュリュが静かに木を降りる。・・・
「あーあ、憂鬱だ…」・・・
もう一度、その場に寝転がろうとした時、後ろから声が聞こえた。・・・
「リュリュねーさん…」・・・
カッペの声だとすぐに分かる。カッペはいつまで経っても声変わりしなく、鳥の囀りのような声な・・
のだ。・・・
「カッペ! お前、また覗き見して、おばか…」・・・
素早くリュリュは衣を着、暗く沈んでいた今の思いを遠ざけた。・・・
「ああ、チェナもジーニョも一緒なんだ…。夜宴、抜けてきたんだな、みんな…」・・・
努めて明るく言った。子供たちに、暗い魔女の部分を見せたくない。・・・
「リュリュねーさん…。リュリュねーさんも、一度死んだんでしょう…」・・・
チェナがカッペを押し退ける。カッペが反動にしりもちを付く。・・・
「そうよ…」・・・
リュリュはそう言うと、黒いオオカミと再びじゃれた。いつもの子供たちと様子が違う…。戸惑が・・
リュリュに浮かぶ。・・・
「もう一度、死ねないの…」・・・
カッペの消えそうな声が、オオカミ越しにリュリュの耳に届いた。戸惑いが大きくなった。リュ・・
リュは、オオカミを跨いで木に登った。・・・
「リュリュねーさん!」・・・
チェナがリュリュに続き、軽い身のこなしでリュリュの乗った枝を追いかけて来る。・・・
「チェナ。あなた木登り上手ね…」・・・
カッペとジーニョも続いてくる。枝から枝へ、みんな身は軽い。・・・
「何か、難しいことを言っていないで…。そういう時は、思い切り身体を動かすことよ…。嫌なこと・・
なんて、忘れちゃうわよ…。さあ、来い!」・・・
リュリュが高い枝へと消え、子供たちが懸命に後を追ってくる。・・・
「ねぇ、リュリュねーさんは、どうして魔女なんかになったの?」・・・
一番高い木の上で、チェナがリュリュを捕まえた。リュリュは動きを止め、チェナの視線を自然に・・
交わし目を遠くした。・・・
「うーん、そうだなぁ…。貧乏だったから…。家を出たかったから…。格好良さそうだったから…。・・
友達が欲しかったから…。早く大人になりたかったから…。悪魔に会いたかったから…。いろんなと・・
ころへ行ってみたかったから…。いろんなものを見てみたかったから…。いろんな人と会ってみた・・
かったから…」・・・
リュリュには、この子たちが、今、何を言おうとしているのが分かっていた。自分たちの悲しみが、・・
分かりかけているんだ…。パジーがいなくなったという事実、それが、この子たちを変えようとして・・
いるのだ。・・・
子供たちは、自分自身で物を考え始めたのだ。この森をパジーが出た…。それが、子供たちの何か・・
に火を点け、それぞれに動揺が大きくなっている。・・・
「退屈だったから…。まぁ、そんなところかな?」・・・
子供たちのそんな姿に、リュリュは、最近知り合った魔女仲間の話を思い出した。・・・
それは、呪いの黒森へと向かう途中のことだった。リュリュは、ある街で他の魔女たちと知り会い、・・
魔界の話をいろいろと聞いた。その魔女たちは、リュリュとは違い現世を生きる少女だった。・・・
少女たちは、魔界は悪魔が支配する醜い世界だと言った。この世とあの世の境目にあり、物質的な・・
肉体を持つ世界から、物質を離れる世界への通過点であると言った。・・・
更に、あの世と言うところには、結構楽しいのだと続けた。醜い魔界より、ずーと素晴らしい世界・・
なんだってと笑った。・・・
リュリュは、そんな世界が本当にあるとは夢にも思わなかった。自分には、今、暮らしているこの・・
魔界がすべてだと思っていた。・・・
人間は必ず死を迎える。それは、肉体という衣を脱ぎ捨てるだけであり、その者の精神はその先も・・
生き続ける。そして、旅に出る。魂の旅に…。・・・
旅立った者は、時の壁を通り抜けて別の世界へと着く。しかし、悪魔に身を売った者や、浚われた・・
者、深い悲しみ、怒り、憎しみ、欲望、恐れ…など、黒くどろろしたものを、胸の中に満々と溢れん・・
ばりに持った者は、その時の壁をすり抜けることができない。・・・
なぜならば、その時の壁は魔界にも通じている。そのため、それらの哀れなる者は、別なる素晴ら・・
しい世界への道を踏み外し、魔界へと流されていく。それらの者は、魔界の住人に相応しい者たちな・・
のであり、悪魔の手が伸びる者たちなのだ。。・・・
魔界ではない別の世界は、とても素晴らしいところだそうだ。悲しみ、怒り、憎しみなど、どんど・・
ん溶けていき、人々は静かな安らぎの日々を迎える。そして、そこで暮らしていくうちに、必ず、そ・・
の者たちは、肉体の朽ちる前より幸福になり、お互いに、優しく、温かく、思いやりが深くなり、争・・
いごとなど起こらなくなる。・・・
そこには、美しい山や川もあり、草花は優美に咲き乱れ、鳥たちは幸せを歌う。空はどこまでも青・・
く澄み、いつも乾いた爽やかな風が吹いている。・・・
リュリュは、そんな美しい世界があるなら、行ってみたい、見てみたいと思った。しかし、魔女の・・
少女たちは、悪魔の支配する魔界からは別世界へ行くことは叶わない。魔界の者は、どこへも行けず・・
永劫に魔界に留まる。戻ることも進むこともできず、死ぬことも、朽ちることも、消え失せることも・・
ない…、と続けた。・・・
死を越えている本当の魔女は、永劫に魔界からは出られない。本当の魔女に死は永遠に訪れない。・・
しかし、現世を生きる魔女は、死によって魔界から出られる可能性がある。つまり、一度死んだ魔女・・
は、いつまでたっても魔女なのよ…。リュリュは魔界から出られないね…。現世に暮らす新しい友達・・
たちは、そう言った。リュリュは無理に笑った。・・・
リュリュは枝を飛び、永劫に出られないという魔界の森を大きく飛んだ。・・・
「どうして、魔女になったって…」・・・
魔界以外の世界のこと、それは子供の頃信じていた天国だ。魔女仲間たちは、私たち死んだら天国・・
へ行くと言っていた。それ程、悪いことはしていないよ…。現世の魔女たちには、リュリュにはない・・
希望という輝きがあった。・・・
「それは、やっぱ、退屈だったからね…。それより、あなたたちこそ、どうなのよ…。なぜ、あんな・・
おっさんに縛られてるの?」・・・
パジーの失踪に、この子たちも、今の自分と同じようなことを思っている。自分たちにはない希望・・
という輝きを、この森から消えていったパジーに重ねている。・・・
「みんな…。あたし、力になってあげるよ…」・・・
子供たちと木を下り、リュリュは三人を一度に抱いた。チェナもカッペもジーニョも、悲しげな目・・
に一杯の涙を溜めていた。・・・
「リュリュねーさん!」・・・
子供たちはリュリュに顔を埋め、見えそうになってきた自分たちの悲しみの激流を、リュリュに思・・
い切り吐き出している。リュリュには見えた、子供たちの激しい変化だった。・・・
「泣くだけ泣きなさい…」・・・
この子たちが、始めて自らの存在へと目を向けている。チェナの成長、カッペの進歩、ジーニョの・・
前進だ。リュリュの胸も熱くなり、心が大きく揺れた。・・・
「あたし、力になってあげるよ…。何でも、力になってあげるよ…」・・・
泣くだけ泣いたのだろうか、子供たちがリュリュから離れていく。・・・
「おっさんに叱られる…」・・・
宴の後片づけへ向かうのだ。それぞれが、一度だけ振り向いた。・・・
ありがとう…。そう聞こえた。・・・
夜が明けようとしていた。子供たちの無理に作った笑顔が、魔女リュリュにやり切れなく悲しく・・
映った。・・・
・・・
・・・
闇夜の色、それは、笛吹きがよく知っている色、どこまでも深い夜の天を包む色だ。笛吹きはその・・
色の中を漂い、いつもの曲を奏でていた。・・・
笛吹きは、闇の中に何かが揺れる風の方へ歩いた。闇の変化へ引きずられ、強い磁力が笛吹きには・・
感じられる。闇の中に二つの目が浮き上がる。・・・
「止めてくれ…」・・・
青く白く、二つの目が笛吹きを責める。ネズミが、自分を追いかけているのだ。・・・
「止めてくれ…」・・・
笛吹きの背に恐怖が昇る。いつの間にか、ネズミが無限とも思える数になっている。そのすべての・・
ネズミの視線が、笛吹きを真っ直ぐに貫く。背に蠢く恐怖を振り払おうと、笛吹きは無我夢中に走っ・・
た。・・・
「止めてくれ…」・・・
大量のネズミが、笛吹きの全身をかじり始めた。笛吹きは、狂気のネズミに懸命に媚びる。・・・
「許してくれ。オレは、ネズミ捕り男なんかじゃない。何かの間違いだ」・・・
ネズミの責めは止まることなく、無数の青い光が、笛吹きのすべてを蝕んでいく。・・・
「オレは、ネズミ捕り男じゃない!」・・・
笛吹きは縦笛を傍らへ放り出し、懸命に叫んだ。・・・
「止めてくれ! 許してくれ!」・・・
闇に横切る川へ笛吹きが走り、ネズミがそれへと追い立てる。・・・
「許してくれ!」・・・
ネズミたちが歯を鳴らしながら、笛吹きの入る川へと走る。ネズミたちの目が、青く白くひとつに・・
なり、笛吹きに覆い被さる。・・・
「たのむ、許してくれ!」・・・
流れの中にまで、ネズミたちの歯ぎしりが追いかけてくる。狂気の叫びは誰にも届かなく、笛吹き・・
の呼吸が困難になり意識が遠くなる。・・・
「ウオー!」・・・
あの白い石の都市を出て以来、幾度となく見るいつもの夢だった。狂った叫びで、何度も何度も叫・・
び、そして、その叫びでいつものように目覚める。・・・
「ウオー!」・・・
笛吹きは叫び続け、自らの目覚めを、その叫びに引き込もうとした。夢の出口が、夜明けの明かり・・
に見えてきそうだった。・・・
「待て…」・・・
その時、聞こえたのは低い声だった。それは、笛吹きの微睡みの明かりから落ちてきた。・・・
「哀れなる者よ…」・・・
廻りの闇が晴れていき、夢の出口がいつもとは異なっていることに笛吹きが気付く。笛吹きの先程・・
の恐怖が、背から徐々に剥がれていく。・・・
「森に住む者よ…」・・・
声のする方に、ネズミたちの目と同じ青い二つの光が見える。笛吹きは、なぜか、声に自分の笛を・・
聞かせようと笛を探す。・・・
「側に寄れ…」・・・
笛吹きは、笛を手に声に近づいた。青い光が空間のすべてを染めていき、影を持たない声が、その・・
中のどこかに揺れる。・・・
「笛を吹け…」・・・
青い光が形を変え、双頭の竜の姿で空間に浮かび上がる。笛吹きは、白い石の都市で吹いたネズミ・・
取りの歌を吹いた。それが、声のリクエストのように思った。・・・
「もういい、哀れなる者よ」・・・
笛吹きが目覚めた。遠い夜明けが、消えていく双頭の竜と入れ替わり、微かに笛吹きの側に忍び・・
寄っていた。全身に冷たい汗が噴き出しているのが、笛吹きにとってなぜか新鮮に思えた。・・・
「我が、神よ…」・・・
そうひとつ呟き、再び、笛吹きは素早く微睡みへと落ちていった。・・・

・・・
第一章(3)・・・
・・・
魔界とは、太古の時代から、徐々に形を整えていった。それは、地上より旅立った者たちの、悲し・・
さ、儚さ、苦しさ、醜さ、そして、地上への断ち切れない思い、切ないほどの未練、それらが、長い・・
時を経て積み重なった結果だった。・・・
死というものを越えていく過程に、人は自らとの深い対話を経験する。しかし、魔界へ流れ来る者・・
たちは、それに向き合うことなく闇に流され自らを見失う。地上への未練だけを強く抱き、死という・・
魔の恐怖にただ落ちていく。・・・
そこに、魔の波動が出来、闇に相応しい負の波長に人々が寄り添っていく。人々は、その闇で悶え・・
苦しみ、自らの未来が型を変えたことを知り、自らの過去のすべてもが色褪せていくのを見る。・・・
そして、闇が更に黒くなり、人々は恐怖から逃れないことを覚る。恐怖の波長が、悪魔の囁きを招・・
き入れ、黒い世界に狂った風が吹く。・・・
それは、悪魔の仕業でもなんでもない。地上を離れ、闇を彷徨う者たちの黒い思いが重なっていき、・・
そのことへのどうしようもできない、悲しみに苦しみ、苛立ちや焦り、そして、はち切れそうな未練・・
や後悔、それらが、猛烈な勢いでその空間に荒れ、狂気の波長のサイクルが激しさを増す。悲しみが・・
すべてを包み込み、黒い闇がそれを優しく包む。・・・
その狂ったパワーが集まり、激しい思いがひとつに凝縮し物凄いエネルギーが闇の空間を歪めてい・・
く。未来への道を完全に消し去り、邪悪な風が吹き荒び、魔の世界が出来上がっていくのだ。闇が時・・
に溶け、時が永遠と思われるほど悲しみを見せる。・・・
それが魔界であり、魔界は黒い感情が集積した空間であり、人々の負の思いが激しく揺れる場なの・・
である。・・・
・・・
キリコはそんな魔界の風に身を晒しながら、闇を歩いていた。・・・
あれから、ミルダを小屋へ連れていき、術を解き、スープを飲ませてやった。ミルダの意識には、・・
あの石像たちの悲しみが蔓延しており、激しい怒りが、キリコの術の向こう側に渦巻いていた。・・・
二日、三日と二人で過ごし、傷ついた身体を治療してやった。四日、五日、髭を剃り身体を洗って・・
やった。キリコはミルダを帰したくなく、年甲斐もなく愛しいと思い出していた。・・・
六日、七日と愛しさは募り、羊の肉を食わしてやり、大事な大事な酒も飲ましてやった。ミルダは、・・
いろんな話をキリコに聞かせてくれた。故郷の話、祖父の事、そして、光への旅。似た過去を持つ二・・
人だった。・・・
光への旅に、ミルダはすべてを賭けていた。八日、九日と時は流れ、新しい衣を作ってやり着せて・・
やった。・・・
「お前の光は、あの黒い山の頂へと消えていった」・・・
九日目の夕餉の時、何気なく、キリコはミルダにそう言った。・・・
「わしはそれを見た。透明な光が、純白の帆を天に高く…」・・・
それを聞いた瞬間、ミルダは、何かに打たれたように突然席を立ち、キリコも驚くほどの大きな声・・
で叫んだ。・・・
「それだ! それだ! それが、おれが求めてきたものだ!」・・・
そして、キリコもその瞬間、ミルダの光の旅を理解し、自らが昔に見た宇宙の光が、あの時のまま・・
の輝きで脳裏に鮮明に浮かんだ。・・・
そして、十日、ミルダの体力は見違えるほど回復していった。光への旅を続けると言った。・・・
最後の夜、ミルダがキリコを森へ誘った。二人はキリコの創った石像の前に腰を下ろした。そして、・・
ミルダは胸に詰まっていたものを吐き出すように、キリコへ言った。・・・
「この子たちの供養を、これからも続けて欲しい…。この子たちがここへ帰ってきたら、光を見せて・・
やって欲しい」・・・
ミルダの言うことの理解が、キリコには不思議と出来た。ミルダの描く光と、キリコの見た光が、・・
キリコの中でひとつに重なっていく。・・・
「この石の子供たちは、死の先か、死の手前にある魔界にいる。あの黒く尖った山から、あの子たち・・
の声がする。悲しみが山からの風に乗ってくる。死んだもの魂は、あの山で光を失い、時の狭間を彷・・
徨っているた…」・・・
キリコにも、その昔なくした者はあった。この子たちのように森に葬ってある。キリコは、その魂・・
がミルダの言うように、あの山に彷徨っているなどと思ったことはなかった。・・・
「魔界には哀れな魂が揺れている。光を失っている…」・・・
その言葉に、キリコの中で小さな変化が起き、自らの深い部分に熱い思いが徐々に流れ始めた。・・・
「おれは、あの山へ行く。そして、この子たちの魂に出会ったら、この森へ帰れと伝える。この石に・・
眠れと伝える…」・・・
昔なくした大切な者のことは、キリコの中でひとつの処理を終えていた。人にはそれぞれ運命とい・・
うものがある。自分もそうだったように、その者も、悲しい不幸を背負った結果のことであり、それ・・
を、その者以外の者がどうすることなど出来ない。死の先に新たな悲しみがあるとしても、それは、・・
その者自らが乗り越えていかなければならない。・・・
死とは、時空を越えた空間への旅立ちであって、その世界は、例えば、キリコが行う霊体離脱のよ・・
うな夢の中に揺られているようなものではない。まして、魔界のそれは、漆黒の闇に包まれ、恐怖に・・
雁字搦めになっている。こちら側から持ち出した悲しみや苦しみのエキスを、永遠と胸に抱き、闇を・・
恨み、自らを怒り、そして、悲しみの運命に縛られ続けている。・・・
それから逃れるのは、その者の中にある汚れのない部分の魂が、それに打ち勝つ強さを掴まないと・・
いけない。自らの浄化により、魂の成長により、魔と戦う勇気が芽生える。他の者の救いなど届かな・・
く、それは、己だけの戦いであり、未来への思いの強さだけが、それへの第一歩なのである。・・・
「この石に眠れと伝える…」・・・
しかし、ミルダの言った事は、キリコにとって思いもしなかったことであった。昔、老人との出会・・
いに見た時の光が、再びキリコに大きく帆を拡げ果てしなく拡がった。・・・
すべての者が、その魂に、大宇宙の光を抱いている。それは、闇の中にあっても、変わることなど・・
ない。そうなのだ。ミルダの言うように、その者は、魔界に彷徨っていても、大宇宙の光を胸に抱い・・
ている。光あるところには、必ず未来があるのだ。・・・
なぜ、今までそう思わなかったのだろう…。そんな思いにキリコは揺れ続け、なくした大切な者へ・・
の情が、意識に再び激流となって渦巻いた。・・・
「この石に眠れ…。そうじゃ、あいつには、大宇宙の光が見えず、歩む道が分からないでいるのだ…。・・
そうじゃ、わしは墓守などしている場合でなかったのじゃ。そうじゃ、わしは行くぞ、待っていろよ、・・
待っていろよ…」・・・
次の朝、ミルダは再び光への旅へ立った。そして、キリコも止めるミルダを無視して後に続いた。・・・
・・・
黒く尖った山は、キリコも思った以上の物凄い圧力だった。真っ黒な岩肌を、ごつごつと四方へ剥・・
き出し、天に向かって聳え立つ。気高く優美な姿であり、果てしなく至高な影だった。・・・
山は幾つもの表情を持っていた。進めば進むほど、登れば登るほど、冷たく湿った妖気に包まれ、・・
黒い魔の風が吹き荒れていた。岩がどこかの光を弾き黒く煌めき怒りを天に見せ、息づく名もない草・・
が悲しみを風に誘い、聞こえる遠い鳥の声が、少女の悲鳴のように何度も木霊する。・・・
まさしく、それは、地上とは別の魔の世界であった。人は、この山を登るに必要な機能は持ち合わ・・
せていない。ここは、羽根のある鳥や、頑強な肉体を持つ野獣、軽業の小動物などの棲みかであり、・・
人などはお呼びでない。この山は、強く、そして永遠の長い時を自らで生きている。黒光りする巨体・・
がいつかむくっと動きそうに、キリコには思えた。・・・
「待っていろ、助けてやる。待っていろ…」・・・
しかし、キリコは老体にムチを打ち、己の使命のために山と戦い続けた。なくした大切な者への再・・
びの強い思い、そして、光へと旅を続けるミルダを山の獣から守ること。キリコの足取りは、ミルダ・・
のそれよりも数段軽くなっていた。・・・
・・・
・・・
呪いの黒森は、死の空間の向こう側にあり、悪魔が支配する世界であった。そこは古くから魔界と・・
呼ばれ、不幸な人々が、死後に必ず行き着くところと言われていた。・・・
魔界は物質的な世界ではなく、妖しい幻想の世界である。死後の霊魂が彷徨い、暗黒の幻が揺れる・・
闇の世界である。そして、魔界は地上の世界と重なり合っていることが多く、物質的なこの世と、幻・・
の魔界とが、空間の歪みを通して複雑に絡み合っているのである。・・・
したがって、現世の者が近づく地ではない。魔界の風と闇に包まれ、二度と引き返すことなどでき・・
ない地なのである。大昔の悪魔たちが残していった聖なる場所なのである。・・・
「下界の奴らめ…」・・・
そんな魔界に、若い男と老いた女が踏み込んでいる。笛吹きの怒りに火が点いていた。・・・
「許せない…」・・・
魔界には、深い悲しみ、怒り、憎しみ、エゴ、恐れなどが渦巻いている。魔界の者たちは、それら・・
を、永劫に満々と溢れんぐらい全身全霊でもって抱き続ける。それは、魔界の者たちが背負った宿命・・
であり、黒く縁取りされた運命の十字架であるのだ。・・・
「許せない。この黒く尖った山は、我々だけの世界だ。下界の者によって汚されてなるものか…」・・・
笛吹きは低く笛を吹き、魔女リュリュを呼んだ。なぜか、その瞬間、昨夜夢に見た双頭の竜が、笛・・
吹きの怒りに素早く振り向いたように思った。・・・
・・・
・・・
澄んだ銀色が、ミルダには眩しいほどだった。夜空にぽつりと浮かぶ月は、光を少しも揺らせるこ・・
ともなく、時をも止めているようだった。ミルダは月明かりから隠れるように、小さな岩影の隅に身・・
を寄せていた。・・・
「ミルダ、光への旅を続けろ…」・・・
森の老婆はミルダに優しかった。激減していた体力が老婆のお陰で回復し、毒も全身から消えた。・・
更には、これからも続くミルダの旅に、勇気とひとつのあるヒントを与えてくれた。・・・
「最初、お前を見た時、お前から、透明な光が、あの黒い山の頂へと消えていった。」・・・
九日目の夕餉の時、何気なく、キリコはミルダにそう言った。・・・
「わしはそれを見た。透明な光が、純白の帆を天に高く…」・・・
ミルダの中に、それは一瞬に大きく弾けた。ミルダの追い求めている光の世界は、闇の先にも必ず・・
見えてくる。いや、闇の先にこそ、その道は大きく拡がっている。キリコの言葉に、ミルダの魂が自・・
らを魔界へ向かわせる決心を促した。・・・
「死の先は闇だ。魔界には哀れな魂が揺れている。助けを求めている…」・・・
キリコも、ミルダのその言葉に何かを打たれたようだった。強く制止するのも聞かず、キリコは黒・・
く尖った山に入るミルダの後を付いてきた。・・・
「老いぼれの、好きにさせてくれ…」・・・
そう言われると、ミルダには、どうすることもできなかった。今も、岩影に休むミルダを残して、・・
ひとり廻りの獣の気配を探りに行っている。・・・
「お前さんより、魔界のことはワシの方が詳しい。ワシに任せておけ…」・・・
「ミルダ…」・・・
その時、ミルダの耳に幼き頃聞き慣れた低い声が聞こえた。・・・
「ミルダ…」・・・
それが、魔界がミルダを掴んだ瞬間だった。・・・
死…。それが、魔界への切符だったのだ。現世を放棄して始めて、人は魔界に受け入れられるもの・・
であり、それへ闘いを挑むのにはミルダはまだ未熟であったのだ。・・・
「眠るんだ、ミルダ…」・・・
キリコは、既に自分の中に死を受け入れている。死というもの理解が、ミルダより数段に進んでい・・
る。だから、魔界はミルダにだけ襲いかかった。魔界は、死をミルダの意識に見せた。・・・
「眠るんだ、ミルダ…」・・・
ミルダの意識のすべてを、銀色の月の光が包み込んでいく。故郷に見た月が、それと正確に重なっ・・
ていく。・・・
「眠るんだ、ミルダ…。この瞬間が、お前の死の時だ…」・・・
意識の月の光が揺れ始め、その距離が見る見る縮まっていく。声の主が、その月の前に姿を現す。・・・
「じいちゃん…」・・・
それは、すべてミルダの意識が生んだ幻想に他ならないものだが、ミルダはそのことに気付くこと・・
なく、それを誘発した魔界の風に身を晒し続けている。・・・
「眠るんだ、ミルダ…」・・・
山に風が強くなる。黒く厚い雲を風が遠くから運び、先程まで輝いた銀の月を覆い隠す。闇が辺り・・
を包み、月明かりから隠れていた獣たちが、ゆっくりとその身を動かし始める。・・・
「眠るんだ、ミルダ…」・・・
しかし、ミルダに見える幻の月は消えることなく、姿を更に大きくする。ミルダは、その光を掴も・・
うとしていた。幼き頃、祖父に聞いた月からの光の使者の話を思い出す。・・・
「月から来たのは、光と影だった。光と影は、月からこの星への使者だった」・・・
背の高い祖父の影が、月の光に、ミルダの意識の中に異常なほど長く伸びていく。祖父の真後ろの・・
巨大な月が、光をより濃くしていく。・・・
「光は愛を運んできた。そして…」・・・
掴もうとした光に手が届きそうになり、ミルダは思いきりその場を飛んだ。同時に、祖父の影がミ・・
ルダに絡みついた。・・・
「そして、影は死を運んだ…」・・・
絡みついた祖父の影に力が入る。ミルダの全身が歪み、激痛が背中を走る。・・・
「じいちゃん!」・・・
叫べど、祖父の影は力を緩めない。祖父の目に、異常な光が渦巻いている。・・・
「影は死を運んだ。ミルダも、死を運ぶんだ…」・・・
祖父が消え、影だけが残る。ミルダに絡みついた影が、更に続けた。・・・
「これが、死だ。魔界の死だ…」・・・
しかし、ミルダは、消えていった祖父を追った。・・・
「影は死を運んだが、光は愛を運んだ…」・・・
祖父の言葉は、幼き日のミルダに聖なる響きであった。光と影の話は、愛の物語だったのだ。・・・
「光は愛を運んだ…」・・・
風が更に強くなり、黒い山がまったく別の顔を見せる。獣の遠吠えに風の叫びが絡み、狂気を呼ぶ・・
木霊が遠くにまで轟く。・・・
「ウオー!」・・・
魔界で存在するには、魔界の負の波動を受け入れなければならない。しかし、負の波動はミルダに・・
はなく、それへの対抗の術もない。・・・
「ウオー!」・・・
光と影がまったく裏表であると同じく、魔界の波動と光の波動はお互いを受け入れない。ミルダに、・・
魔界の風が激しく吹き続く。・・・
「ウオー!」・・・
魔の波動が死の波動を引き込む。ミルダがそれに鋭く反応する。死の波動は必ずしも負の波動とは・・
限らないのだ。魔界はそれでミルダを誘った。・・・
「ウオー!」・・・
魔界の波動がミルダをゆっくり包み、魔界の死へミルダを落とし込んでいく。・・・
「ウオー!」・・・
ミルダはそれへ叫ぶしかなかった。闇に包まれていく自らの波動を、月からの光の使者へと思い切・・
り叫んだ。・・・
「ウオー!」・・・
その瞬間が、ミルダの死だった。ミルダの精神が、ミルダの肉体を離れた瞬間だった。・・・
「ウオー!」・・・
死…。ミルダは、魔界の波動を自らに受け入れた。光へ叫ぶ自分が、なぜか美しく思え、その叫び・・
が徐々に遠くへ消えていくのを悲しく思った。・・・
・・・
・・・
魔女が、横たわる若い男の姿を覗き込んだ。岩影の土の上に若者は倒れていた。・・・
死んで、そんなに時間は経っていない。男の薄く開いた目は、宙の彼方へ飛び光を失っている。顔・・
面からは血の気が引き、青白くなった肌が月明かりに映えていた。・・・
リュリュは、頬に薄笑いが浮かべ細い指で死んだ男の髪を撫ぜた。・・・
「ばかね…」・・・
笛吹きから聞いた男だろう。山へ登ってくるものがある…、男と老婆二人だ、叩き出せ…。笛吹き・・
の命に、リュリュはこの辺りを探っていた。・・・
「魔界になんか来るからよ…」・・・
若い男の死に顔は静かだった。既に、男は魔界の風になり、塵となり闇を彷徨っているだろう…。・・・
「シッ!」・・・
森で遊んだオオカミが、早くも死体に群がろうとしている。リュリュは男を哀れに思い、魔界の獣・・
たちを追い払った。・・・
「シッ! あっちへいきなさい!」・・・
リュリュは、そのまましばらく男の死体の側で佇み、自らの変化へ思いを向けた。・・・
何かが自分に起きようとしている…。それは、魔女の第六感であり、魔界で暮らす者の小さくない・・
変化の現れだ。あの子たちが何かに目覚めようとしているのと同じように、自分の中にも今までな・・
かった激しさの渦が、眠りから覚めていくような思いがある。・・・
あの街の魔女は、一度死んだ魔女はいつまで経っても魔女よ…。リュリュは魔界を出られないね…。・・
と言った。昨夜の子供たちの変化に、それを重ねるうちに、リュリュは自らの心の揺れをはっきりと・・
感じ取った。今まで当たり前と思っていたことが、自らの心の揺れが大きくなるにつれて、それらの・・
ことを受け流さず自らに考えるようになっていた。・・・
何かが起こる…。それは、リュリュの中では確信に近くなっていた。現に、下界の者がこの山に入・・
り死んだ。今までなかったことだ。・・・
「ばかね…。魔界になんか、来るからよ…」・・・
リュリュは、男の死体を獣に食われないように、更に奥の岩影に移してやった。そんな思いも、魔・・
女リュリュの今までにはなかったことだった。・・・
リュリュは、幻想の肉体を魔界の風に乗せた。リュリュの意識に、死んでいった若い男の姿が残像・・
となってしばらく留まった。・・・
・・・
・・・
永遠の時を闇に沈んでいたような気がしながらも、異常なほどの身の軽さに、ミルダは戸惑いを覚・・
えながら山を進み自らとの対話を続けていた。・・・
岩影に眠ってしまったはずだったが、その目覚めは仄かな光のなかだった。銀の月は消え、廻りの・・
すべてが闇にもかかわらず、ミルダだけが仄かに光っていた。幻のような自らの形が、ミルダの目覚・・
めに果てしない希望と勇気をもたらしていた。・・・
やはり、自分たちは光だった…。ミルダは肉体の死を超越し、己の未来へと確実に歩を進めていた・・
のだった。魔界の闇に落ちていくミルダの中には、ミルダの思い描いた未来の光が揺れていた。その・・
光の波動が、魔界の黒い波動に戦いを挑んだ。その戦いの姿こそが、仄かな光を抱いたミルダの姿で・・
あり、魔界に存在する光のひとつの形だったのだ。・・・
ミルダは、歩みを進める度に、別なる自分を感じていた。自らが放つ仄かな光が、先に進む毎に透・・
き通ったエネルギーと共に自らに帰り来る。自らの光への道は正しい…。そのことを、光がミルダに・・
見せてくれる。ミルダは進んだ。黒い山の頂はもうすくだった。・・・
「すべての生命が愛によって輝く。そして、その輝きがひとつになっていく。それが、我々が生まれ・・
た光の世界。我々は光だった。愛の光だった」・・・
それが、ミルダの光の記憶の言葉だ。夢でなく、幻でもなく、幼さのミルダにはよく見え、そして、・・
確実に理解できた光だった。・・・
「すべての光は、ひとつになる…」・・・
光がミルダの意識に大きく踊り、純白のミルダの空にその色を煌めかした。そして、そこに踊る光・・
のすべてがひとつなり、ミルダへ光の理解を見せてくれる。・・・
「すべては光だった。そして、再びすべてがひとつに戻る…」・・・
幼い頃のミルダは、光の記憶を欠片も疑うことなく、自分の光だと思っていた。幼さと純粋な理解・・
だったが、成長するにつれて、その意味を更に理解しようとした。その結果、ミルダは幼さを犠牲に・・
し、純粋な理解に別な色が交わり合ってしまったのだ。・・・
「すべての光は、ひとつになる…」・・・
しかし、今のミルダには、そのことがすべて理解できていた。自らの旅は間違いではなかった。ミ・・
ルダは、それを強く思った。自らに揺れる光に、幼さの透明さが見えるのだ。・・・
「自らへの愛を感じる。生命あるものが輝くのは愛の力だ」・・・
魔界の黒い波動が、ミルダを責め続けているのだろうか、黒く尖った山に再び風が吹く。ミルダは・・
その風すら心地よく感じた。幼き頃見た光が、自らのエネルギーとなって自分を守ってくれている。・・
ミルダはそう思っていた。・・・
・・・
・・・
「どういうことだ…」・・・
笛吹きは何度も首を捻った。若い男の背に仄かな光が揺れている。男は死を越えて進んでいる。幻・・
想の肉体が、男の光を包み込んでいる。・・・
「どういうことだ…」・・・
男は魔界の闇に落ちていったはずだ。永遠の闇の彼方に、露と消えていったはずなのだ。それなの・・
に、男は山の頂を目指している。・・・
「なぜだ…」・・・
魔界の風を過ごしたのか、いや、魔界とは別の異空間を進むのか、笛吹きは男に怒りを覚えた。な・・
ぜに、男は幻を羽織ってまで山に挑む。・・・
「なぜだ…」・・・
更に、その男の側を、よれよれの老女が魔界の風を巧みに交わし、獣のように山を登り来る。奴ら・・
は、死というものを、そして、この魔界を恐れていない。・・・
「奴らを叩き出せ…」・・・
笛吹きはリュリュに念を送った。怒りが、笛の音を微かに軋ませ黒い風に勢いをつける。・・・
「リュリュ! 奴らを叩き出せ! いや、魔界の恐ろしさを知らしめろ!」・・・
・・・
・・・
先を行くミルダの背に、月の雫より仄かな光が揺れている。岩影を出てからのミルダは、キリコも・・
驚くほどのエネルギーが漲っていた。キリコの歩みを一気に抜き去り、山の頂へ真っ直ぐに向かう。・・
闇に浮かぶミルダの仄かな光が、魔界の風と正面からぶち当たっている。・・・
ミルダは魔界の壁を越えたのか、ミルダの光が、キリコには魂の揺れに見えた。ミルダは魔界の死・・
を越え、自らの描く光の未来へと進んでいく。ミルダは魔界に朽ちることなく、自らの物質の肉体を・・
この山へ置き去りにしてまでも、魂に光を抱き、魂に自らの形を引き込み、魔界での存在の形で、未・・
来へ、魔界へと、必死になって戦っている。・・・
ミルダの進む姿は、死を越えた者の姿であり、幻であり、ミルダの思いの形が、その場に浮かび上・・
がっているだけのことなのだ。常人であれば、肉体から魂が離れ、その恐怖にそのまま闇へ落ちてい・・
く。自らの形は闇に溶け、魂に揺れる光はその影すら隠す。しかし、ミルダの光への激しい思いがそ・・
れを弾き、魔界の波動を突き破ったのだ。・・・
キリコの魔界の理解に、ミルダの姿の存在の形の理解がひとつ加わった。ミルダの光は魂の光であ・・
り、その光は、例え魔界の闇であろうが消えることなどない。思いの強さが、魔界の風すら受け入れ、・・
自らの未来への道への妨げになどならない。・・・
キリコにも、ミルダの激しさが伝わり、ミルダの光に自らを重ねていく。魔界への恐怖と戦う勇気・・
がキリコの中に大きく膨れ、自らの光が、魂を激しく揺らしているのを感じ始める。死を正面に見据・・
え、未来への戦い姿勢を正す。・・・
「ミルダ…。もう少しじゃ…」・・・
しかし、魔界がこのまま二人を黙って見逃すはずはない。キリコは、ミルダの新しい存在の形であ・・
る幻に話しかけた。幻が振り、その微笑みにも仄か光が浮かんでいる。・・・
「ミルダ、もう少しじゃ…」・・・
山の頂に立って何がある、そんなこと、二人ともまったく考えていなかった。ただ、魔界を越え、・・
この黒い山を越え、恐怖の闇を越える。そこには、光への未来がある。そして、昔なくした大切な者・・
が、その先に彷徨っている。・・・
「もうすぐ、頂じゃ…」・・・
キリコは自らを奮い立たせ、疲労の極限を激しい思いに遠ざけた。・・・
「もう少しで頂きじゃ…」・・・
キリコの視線の先の黒い岩が、果てようとしていた。厚い雲に覆われた空が、頂の上に徐々に見え・・
始めた。キリコは、急な斜面をバランスよく身を岩に寄せ、岩の間の道なき道を先に行くミルダの背・・
を追った。・・・
「静かに…」・・・
その時、キリコにしか見えない黒い風が吹いた。今までとはまったく異なる異質な魔が含まれてい・・
る。キリコは素早くミルダに追いつき、その歩みを止めた。・・・
「悪魔じゃ…」・・・
黒い雲が天に激しく滑り、闇を更に深くする。辺りの妖気が風を合図に、その場に激しく渦を巻い・・
ていく。・・・
「悪魔じゃ…」・・・
黒い妖気がミルダを責め、ミルダの光に闇が雪崩れ込む。・・・
「ミルダ! こっちじゃ!」・・・
ミルダの新しい形は、ミルダの完全な理解の上での姿ではない。仄かな光を、ミルダが魂に掴み続・・
けていないと光は消えてしまい、ミルダは魔界の闇に落ちていく。・・・
「こっちじゃ!」・・・
ミルダの光を、一瞬の灯火にしてしまってはならない。キリコは、ミルダを風下の岩影へ引きずっ・・
た。ミルダの微笑みが、素早くどこかへ消える。・・・
「どうした。おばば!」・・・
驚きの表情がミルダに浮かび、頂を目前に歩みを止めたキリコに戸惑いの色を見せる。・・・
「どうした、おばば!」・・・
ミルダの目が虚ろに揺れ始め、キリコへの戸惑いが膨れていく。魔界が、ミルダに新たなる魔を流・・
しているのだ。風に何かの毒気が含まれている。・・・
「ミルダ! 目をふさげ! 耳をふさげ!」・・・
キリコは、ミルダの手を強く握り大きく叫んだ。風の毒気に混じり、どこからか気怠い草笛の音が・・
する。・・・
「鼻もふさげ! 毒じゃ!」・・・
甘い香りが、既に二人を包んでいた。ミルダの虚ろな目が、更にどこかへ飛んでいく。・・・
「おばば、その手を放せ!」・・・
ミルダが、キリコの手を力づくで引いた。ミルダの新しい形が、徐々にほころびを見せていくのが・・
キリコに見える。・・・
「おばば!」・・・
すぐ先の洞穴へミルダを引き、少し時を稼ぐ。そんなキリコの思いが、ミルダには見えていない。・・
狂った微笑みのまま、ミルダの手に更に力が入る。・・・
「おばば、その手を放せ!」・・・
ミルダの手が、キリコからすり抜けた。ミルダが身を翻し、怒りの目を一瞬キリコに向けた。・・・
「待て! ミルダ!」・・・
キリコは、残っていた最後の力で闇を飛んだ。ミルダの前に立ち、両足を踏ん張った。・・・
「ばかもの!」・・・
平手を飛ばし、ミルダの狂った笑みを消した。我を取り戻せ…。彷徨うミルダの意識に、その思念・・
を強く流す。・・・
「バカモノ!」・・・
もう一度、平手を飛ばした。ミルダの光が、魔界の風へと消えようとしていく。・・・
「エーイ、面倒じゃ!」・・・
キリコは、力任せにミルダを洞穴へと引いた。残り僅かな力で、キリコの全身が激しく軋んだ。・・・
「こんなことで、挫けてどうする!」・・・
魔界への怒りがキリコに爆発した。キリコはミルダの頭を掴み、その頭を、思い切り側の岩にぶつ・・
けた。ミルダの瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれた。・・・
「ウワー!」・・・
ミルダの額が割れた。額から、鮮血が勢いよく吹き出す。・・・
「ウワー!」・・・
ミルダの新しい形から、真っ赤な血が流れていく。ミルダの意識に創った激痛が、その血を流して・・
いるのだ。ミルダの新しい形は、まだ魔界の波動に馴染んでいないのだ。・・・
「バカモノ!」・・・
そうなのだ、ミルダは、まだ今の姿を理解していないのだ。幻覚であるはずの激痛に、ミルダはそ・・
の身を大きく悶えさせている。・・・
「ウオー!」・・・
ミルダがキリコに襲いかかる。キリコはそれを交わし、もう一度、ミルダの頭を両手に掴んだ。ミ・・
ルダの額の鮮血が、闇の中、異常に赤く見えた。・・・
「悪魔よ! 出てこい!」・・・
最後の力だった。キリコは、ミルダを洞窟へと運び入れた。・・・
「わしも、まだ、死ねんのじゃ!」・・・
洞窟の中にも、魔の風は吹いていた。悪魔には、キリコの行動はお見通しなのか、限界に近いキリ・・
コに焦りが浮かぶ。・・・
「ウオー! わしは、まだ死ねんのじゃ!」・・・
キリコも自らの頭を、側の岩に三度激しく打ちつけた。ミルダのように、キリコの額も大きく割れ・・
た。・・・
「ウオー!」・・・
その瞬間に、キリコも魔界の死を受け入れた。ミルダの消えそうな仄かな光が、キリコの霞む視界・・
には少し眩しかった。・・・
・・・
・・・
「あーあー…」・・・
リュリュは、ゆっつくりと自らの術を収めた。その瞬間、厚い雲が勢いよく遠くへと流れていく。・・・
「あーあ…」・・・
隠れていた月が、雲の間に素早く顔を出していた。リュリュは、その場に寝ころび月を見上げ、何・・
度も溜息をこぼし続けた。銀の月の雫が、今夜のリュリュには眩しかった。・・・
「……」・・・
リュリュの使った妖術は、ただ毒草を燃やした単純なものだった。それを、魔界の風に乗せ、自ら・・
も風に混ざり、相手の意識にその香りを埋めていく。香りは、恐怖を十二分に含んだ優美に妖しいも・・
のだ。その香りを嗅ぎ、恐怖を意識に流し込めば、その者は、確実に魔界の塵となる。それは、魔女・・
になりたての頃、笛吹きから教わった技だ。・・・
男は、岩影に隠してやった男だった。幻想の姿で、ここまで登ってくるとは思わなかった。魔界の・・
闇へ、塵となって消えていったものだと思っていた。しかし、男は、仄かな光を背に抱いていた。・・・
そして、もう一人は老女だった。驚いたことに、その姿は幻ではなかった。醜く汚れた姿は、古代・・
の魔女のようだった。・・・
その老婆に、リュリュは何かを感じた。自らの遥か過去へ、リュリュは懸命に焦点を合わし、その・・
老婆との繋がりを探したが、掴めそうで掴めなかった。リュリュの意識の中に、まさか…、という思・・
いが、それを懸命に邪魔をし、それらしきものへ触れる度に、そんなはずはない…。と、それへ後ろ・・
向きになっていたリュリュが、意識の正面に出た。・・・
「どうして、闇に消えないんだろう?」・・・
あの二人は、この山から消えていくのを激しく拒否している。・・・
「どうしてなんだろう?」・・・
いつものリュリュであるならば、素早く次の手段を講じている。笛吹きの忠実な魔女を演じなけれ・・
ばならない。・・・
「あーあー…」・・・
しかし、溜息ばかり漏れ続ける今夜のリュリュは、笛吹きへの恐怖が、どういう訳が少し薄れてい・・
た。魔界へ入ったあの二人にも、なぜか普段のような激しい怒りなど浮かばなかった。・・・
やはり、リュリュの予感した通りに、何かが起ころうとしているのか。そして、自分も変わろうと・・
しているか…。・・・
「あーあー…」・・・
遠くに、笛吹きの吹く笛の音が聞こえる。それでも、リュリュの溜息は止まらない。・・・
「仕上げは、少し休憩してから…」・・・
月明かりが、リュリュを感傷的にしていた。リュリュの脳裏に、子供たちの言った言葉が鮮明に蘇・・
る。子供たちは、リュリュにその答えを求めた。・・・
「どうしたら、この森から出られるの…」・・・
子供たちは、そんな新しい苦しみをも受け入れていく。どうして、この森から出られない…。子供・・
たちが、森に棲んでから始めて思う思いだ。彼らの仲間のパジーが森から消えた。それが、子供たち・・
の何かに火を灯し、その火が大きくなっていく。子供たちの中に、今までとはまったく別なる色が浮・・
かび上っていく。・・・
「どうしたら、この森から出られるの…」・・・
リュリュも、また同じ思いに沈んでいく。どうして、魔界から出られない。一度死んだ魔女は、い・・
つまで経っても魔女なのよ…。魔女仲間の言葉が、リュリュの思いに低く混じり大きく揺れる。リュ・・
リュは、側の小石を手に握り締め、拳に力を入れた。・・・
「どうしたら、魔界から出られるの…」・・・
天に浮かぶ月は、そんなリュリュの思いを知ってか、リュリュにだけ美しい光を落としていた。・・
リュリュに、悲しさを誘い涙を誘っていた。・・・
しかし、リュリュは魔女だった。魔女は、涙を流すことができない。悲しさに、ただ沈んでいくこ・・
とはできない。・・・
「あーあー…」・・・
魔女になって後悔していないと言ったら、嘘になる。ただ、今まで、あまり深くその意味を考えた・・
ことなどなかっただけのことだった。・・・
死の恐怖の中での魔女への誘いに、リュリュは自然と従ったまでのことだった。あの時、死という・・
ものの恐ろしさから逃れるのには、それしか選択はなかったのだ。・・・
「ちぇっ…」・・・
リュリュは、手に持つ小石を投げた。笛吹きが、魔界の風に笛の音を乗せ魔女の仕事の仕上げを急・・
かしていた。・・・
「お仕事ね…」・・・
リュリュは立ち上がり、思いを下界の者が隠れた洞窟の前に飛ばした。その時、意識の揺れに微か・・
ながら幼かった頃のことが過ぎた。・・・
「まさか、まさか、まさかなの…」・・・
それは、幼かった頃、確かに嗅いだことのある匂いだった。懐かしい、そして、悲しい匂いだった。・・・
「まさか、まさか、まさかなの…」・・・
リュリュは、老婆に再び注目した。老婆は、男を小さな洞穴へと力の限り引きずっていた。リュ・・
リュは、大きく頭を左右に振った。老婆の匂いが、リュリュのすぐ側に既に漂っていた。・・・
「まさか…、なの…」・・・
・・・
・・・
誰かが呼んでいる。ミルダか…、ミルダは、闇に落ちていかなかったのか。・・・
「おばば…」・・・
立ち上がろうと身を起こすが、全身に力が入らない。自らの肉体への手応えのようなものが、まっ・・
たくない。血流や、手足、胸、背への熱さが感じられない。・・・
「おばば、起きるんだ…」・・・
キリコは目を閉じたまま、森での退屈しのびと同じように、己の身より意識を切り離した。・・・
「大丈夫だったか、ミルダ…」・・・
やはり、自分を呼ぶものはミルダだった。キリコに少しの安堵が拡がり、ミルダの無理に創った笑・・
みに同じような笑みを返した。・・・
「悪魔は…」・・・
そう言いながら、キリコは、自らの新しい形を意識の中に取り込んでいく。既に、自分は死んでお・・
り、その肉体は土へ帰る準備を整え終えている。・・・
肉体より離脱した状態と同じじゃ…。キリコは、無理にそう思うことにした。今、そんな事、とや・・
かく考えている暇などない。・・・
「まだ、諦めてはいない…」・・・
しかし、背に仄かな光が灯っているのが見えた。それは、ゆらゆらと自らの新しい存在の形を整え・・
てくれているように見える。・・・
考えている暇などない。その光を、キリコは素早く己のエネルギーへと変換した。・・・
「悪魔が、ここへ来る…」・・・
エネルギーの変換が巧くいったのか、先程、感じなかった全身の力が再びキリコの中に蘇る。キリ・・
コは、ミルダの手を押しのけ上半身を起こした。・・・
「気配が強い、ミルダ、気をつけろ…」・・・
ミルダの額を岩にぶつけたことの意味を、ミルダは既に理解してくれていた。ミルダの額の血は既・・
に引き、魔界での新しい姿がミルダに板に付きだしている。・・・
「悪魔じゃ…」・・・
洞穴の入口へとミルダが進むのを、キリコは止めた。もう既に、魔の手が手前にまで来ている。・・・
「残念ながら、悪魔ではないの…」・・・
立ち上がろうとしたキリコに見えたのは、真っ黒な衣だった。長い黒髪が、背からの月の光を受け・・
月よりも銀色に輝く。・・・
「誰だ!」・・・
ミルダが、キリコの前に出て大きく叫ぶ。・・・
「言ってるでしょ、わたしは、悪魔じゃないよ…」・・・
それじゃあ、魔女か…。そう言おうとしたキリコの意識の核へ、あらゆる刺激が一挙に押し掛けた。・・
まさか…。やはり…。そのことを、今までキリコは意識的に避け、自らの納得だけを過去に置き換え・・
ていた。しかし、それがミルダの言葉で、隠していたものがキリコの表に急速に昇り始め破裂したの・・
だ。キリコは、この瞬間のために、この山に入ったのだ。・・・
「悪魔でないなら、お前は魔女か…」・・・
やはり、魔女に…。これが、今まで隠していたキリコの思いの納得だった。・・・
「魔女か…」・・・
キリコは、その瞬間に、この山へ向かわせたミルダに深く感謝した。ミルダがいなかったら、こん・・
な納得はなかった。・・・
「魔女とは、悪魔の使い…」・・・
一度目は、この山の中腹で悪魔らしきものの影を見た。どうすることもできなかった。キリコに、・・
今ほどの強い思いがなかった。・・・
二度目も同じだった。ただ、探した者が見つからなかった、あいつはここには居なかった…、とい・・
う思いだけで、キリコは、自分の都合のよいように納得するようにした。・・・
悪魔などに浚われていない。あいつは、魔界の闇などに落ちていない。そう思い続け、キリコはそ・・
のことに正面から向き合う機会を、意識して少しずつ遠ざけていったのだ。・・・
「魔女…」・・・
キリコは、ミルダを押しのけて魔女の前に出る。その瞬間、魔女がたじろぎ半歩退く。・・・
「魔女とは、悪魔の使いか…」・・・
魔女の言葉を、そのままにキリコは返した。・・・
「まさか…」・・・
驚きの表情が、魔女に浮かぶ。それと対象に、キリコの面に笑みが浮かぶ。・・・
「そうじゃ、まさかじゃ…」・・・
キリコが、突然、魔女の手を握る。驚きの魔女が、それを一度激しく振り解く。・・・
「その手を握らせてくれ…」・・・
細いキリコの手が、再び魔女の手に届く。キリコの瞳が潤み光を帯びる。その光と、魔女が放つ妖・・
しい光とが、ひとつに重なっていく。・・・
「魔女などに、育てた覚えはない…」・・・
キリコの目から、一粒の涙がゆっくりと零れた。・・・
「わしは、そんな覚えはない…」・・・
・・・
・・・
ミルダは、キリコと魔女を洞穴に残し、一人外に出た。・・・
星が降りそうな夜だった。辺りを、先程まで包んでいた妖気はすっかり消え、緩やかな風がミルダ・・
に心地よい。ミルダは、月光に自らの幻想の肉体を晒した。仄かな光が、誇らしげにミルダの廻りに・・
揺れている。・・・
心の安定が、ミルダを静かに包み込んでいく。今までの物質の枷から解放された今、自らの存在へ・・
の思いが無限大に拡がり、生命の奥深さ、偉大さ、喜びが、ミルダに新たなる勇気となり全身に力が・・
満ちていく。ミルダは目を閉じ、己との対話を続けた。・・・
生命とは、魂の揺れそのものであり、それを光が優しくくるみ我々の存在を形取っていく。光が、・・
我々の生命を表現し、魂の波動が光を力強く支え、光の波動を構築していく。魂の波動は、それが高・・
速であろうが、低速であろうが、その揺れを絶やすことなど永遠にない。たとえ、肉体がこの星の土・・
に帰り、希望や勇気、未来や喜びが闇に消えても、存在の奥深くにある魂の槌音は、それぞれが至高・・
なる光の姿を見いだせるまで止むことはない。・・・
魂の波動は、常に光を求め、存在の表現の器を求める。それが、我々の生命の形なのだ。生命の輝・・
きは、魂の波動から生まれるものであるが、輝きを失った光へも、魂の波動は、永遠に光を求める。・・
すべての生あるものは、魂の揺れに包まれており、光なきところにでも、我々の生命は光への道を歩・・
み続ける。・・・
なぜならば、我々の魂の波動は、大宇宙よりのエネルギーによって揺れているのである。それぞれ・・
の魂が、生命の根源である大宇宙の息吹と繋がりを持っているのである。・・・
「我々はひとつの光だった…」・・・
祖父が、よくそう言った。そうなのだ、大宇宙とは無限の光が集う場所であり、それに繋がった・・
我々は、同じ母を持ち、同じ父を持っているのだ。我々は、すべて無限の光の子であり、すべて同じ・・
故郷を持つ光の個性なのである。・・・
我々は、それぞれが自らで輝くひとつの星なのだ。その星たちは、ひとつの無限の光から旅だった・・
者たちだ。我々の星は、永遠の輝きを持っている。我々の母であり父である無限の光は、我々の光の・・
創造主であり、それぞれの個性が旅立つ前の我々の姿なのである。即ち、我々の創造主は我々であり、・・
我々は、再びそのひとつの光へと帰還する使命と運命とを、与え、そして、同時に与えられているの・・
である。・・・
「私たちは、愛に結びついたひとつの光だった…」・・・
祖父の言葉の理解が進む。ミルダは静かに目を開けた。先程よりも星が近くに見える。・・・
「すべての生命が愛によって輝く。そして、その輝きがひとつになっていく…」・・・
更に、岩影からの目覚めの時に、ミルダに揺れた言葉がそれへ重なる。・・・
「それが、我々が生まれた光の世界。我々は光だった。愛の光だった…」・・・
無限の光から届く我々へのエネルギーこそ、我々の愛なのである。我々は無限の光の中で、旅立つ・・
個性たちへ永遠の愛を与えた。すべての光が、すべての光へ、無限の愛を送った。・・・
「我々は光だった。愛の光だった…」・・・
大宇宙の無限の光と、我々すべて生ある者との繋がりこそが、愛なのである。遥か太古より培って・・
きた我々の宇宙の究極の形なのである。・・・
そして、我々は再びひとつの光へと形を戻していく。我々ひとつひとつの生命は、すべてそれぞれ・・
が強く繋がっている。それが、愛なのである。・・・
「すべての光がひとつになる…」・・・
それは、我々すべてで創造したことであり、無限の光たちがひとつになり、そのシステムを構築し・・
ていったものなのだ。・・・
そして、今、我々は、その光への帰還の旅の途中なのである。・・・
ミルダの光が、ゆっくりと黒く尖った山の頂へと登る。宇宙の星たちがミルダを呼んでいるのか、・・
ミルダが夜空に溶け込んでいこうとしている。・・・
時が歪んだ。ミルダの意識が宇宙の波動と同調していく。・・・
「ホワイトアイランド…」・・・
その呟きは、宇宙から聞こえた。いや、ミルダの中の深い部分から聞こえた。・・・
「それが、ホワイトアイランドです…」・・・
ミルダの意識に光が拡がる。幼き頃、祖父の語に出てくる、竜をも喰らうという神の時代の伝説の・・
大鳥、迦楼羅。その迦楼羅の姿が、ミルダの幼き頃の想像した通りの姿で、揺れるミルダに光を見せ・・
る。・・・
「光は愛です…」・・・
聖母の微笑みの迦楼羅が、ミルダに告げた。・・・
「光は愛です…」・・・
愛…。ミルダに、もうひとつの理解が重なった。生命の鼓動こそが愛であり、その愛こそが、我々・・
のエネルギーであり、存在の意味なのである。・・・
「我々は光です。そして、愛そのものです…」・・・
愛という至高な輝きと波動が、我々そのものであり、その輝きと波動が、魂そのものなのである。・・
愛の意識は魂と共に揺れ、それを、光が他の生命へ愛の表現を見せる。そうして、我々が、それぞれ・・
の光の愛と結びついていく。それが、我々の未来への旅の形なのである。・・・
「それが、ホワイトアイランドです…」・・・
ひとつだった我々は、愛の理解を更に進めようと遥かなる未来を目指した。我々の愛の表現を、大・・
宇宙の隅々まで拡げようとした。・・・
「それが、ホワイトアイランドです…」・・・
ミルダは、迦楼羅の光に自らの愛を送った。生命のすべてで抱きしめたい…。生命のすべてで抱き・・
しめられたい…。あなたの、愛を感じたい…。あなたに、愛を伝えたい…。あなたと、愛を分かちあ・・
いたい…。・・・
「我々は光です。そして、愛そのものです…」・・・
ミルダは、迦楼羅の胸に抱かれ、やわらかくゆらゆらと揺れ続けた。・・・
・・・
・・・
「リュリュ、お前は、死んで悪魔に身を売ったのか…」・・・
静けさをキリコが破る。娘との再会の場所は、やはり闇に包まれていた。・・・
「わしは、お前の死んだ時をはっきりと覚えておる。お前が十五、大人になった年じゃ。あの日は、・・
猛烈に熱い日じゃった。わしが、短い旅から帰ると、お前は泣いておった。訳を聞いても、お前は絶・・
対に言わなんだ。三日三晩、泣き続けじゃった。わしは祈った。ありとあらゆる術を使ってみた。し・・
かし、どれもこれも効果はなかった。お前は、どんどん痩せていく。目の輝きが失せていく。それで・・
も、泣き続けておった。壮絶な姿じゃった。生命をかけて、涙で何かを訴えているようじゃった…」・・・
リュリュの視線を一瞬も外すことなく、キリコは一気に言葉を吐きだした。長い年月に積もり積・・
もったものが、この瞬間に表へと吐き出さなければ、永遠にそれが心の隅のどこかに残るような気が・・
していた。キリコは、リュリュの手を強く握り締めたまま続けた。・・・
「悪魔じゃ。悪魔が、お前の中に、深く入り込んでしまっていたのじゃ。その時はもう遅かった。も・・
う、わしの力ではどうすることもできなんだ。お前は、涙が涸れるまで泣き続けた。そして、最後の・・
一滴が尽きると、魔女として生まれ変わる。あー、悪魔の仕業じゃった…。悪魔が、わしの一人娘を・・
奪っていく。わしは焦った。わしの身体がぼろぼろになるまで、祈り、念じ、祓い、術を試し、悪魔・・
と戦った。生命をかけて闘った。本当じゃ、生命をかけて戦った。しかし…」・・・
リュリュの暖かさがキリコに伝わる。魔女の涙が、その母であるキリコにだけ感じられる。・・・
「わしの力は及ばなんだ。娘のお前を、助けてやることができなんだ…。許してくれ。リュリュ…。・・
許してくれ…」・・・
キリコの手を、リュリュが強く握り返す。再び、二人の間に少しの沈黙が過ぎる。・・・
「かあさん…」・・・
リュリュがキリコの肩を抱いた。キリコに、あの頃のことが素早く通り、幼きリュリュの姿と目の・・
前の魔女との相違を自然と探す。・・・
「わしは、そのまま、お前を見捨てることはできんと思った。泣きつづけるお前を、悪魔だけには奪・・
われたくなかった。その時は、もう、わしの手を掴んだお前の手が力なく震えていた。涙も尽きると・・
ころじゃった…」・・・
あの時の無念さが、キリコに鮮明に蘇り、リュリュへの思いが激しく爆発する。キリコは耐えきれ・・
ず、リュリュの胸に顔を埋めた。・・・
「わしは決心した。辛いことじゃった。わしは、わしは…。悪魔に奪われ魔女になるくらいなら…、・・
この手で…。そう思った…」・・・
握り合った手をキリコが強引に離し、そのまま、リュリュの首に手を掛ける。・・・
「お前の首は、柔らかかった。細くやつれてはいたが真っ白じゃった…。わしは、お前の、白い首に・・
手をかけた…。そして、そして、力の限り、力の限り締めつけた…。あー、リュリュ…、お前は、わ・・
しを見て…、そうじゃ、わしの目を…、わしのこの目を見つめて、死んでいった…。澄んだ美しい瞳・・
じゃった…」・・・
首に絡んだキリコの手が、力無くリュリュの胸に落ちる。その手を、リュリュがもう一度握り直す。・・・
「お前を殺したのは、このわしじゃ…。恨むなら、わしを恨め…」・・・
抑えが効かなくなっていた。キリコは投げやりにそう言うと、リュリュの握る手を離し、ゆっくり・・
と熱い視線から自らを外した。・・・
「わしは、お前を悪魔にやるぐらいなら、その前にあの世とやらへ送ってやろうと思ったのじゃ…。・・
それが、あー、何ということじゃ…。リュリュ、恨むなら、ワシを恨め!」・・・
キリコが肩を落とし、無理に微笑んだ。キリコにとって、それは、あまりにも不器用な笑みになっ・・
てしまっていた。 ・・・
・・・
・・・
水に浮かぶ月のような仄かに淡い光が、黒く尖った山の頂に下りた。その光は白く揺れ、ゆらゆら・・
と山を探るように何度も旋回する。光が帯状に伸び、後方へ銀色の残光を置き去りにしていく。竜の・・
姿だった。頭を左右にくねらせている双頭の竜だった。・・・
竜の光が、ミルダの光に触れた。ミルダの意識を竜が感じたのだ。・・・
「ホワイトアイランド?」・・・
揺れるミルダに、竜が問う。・・・
「ホワイトアイランドとは?」・・・
竜にとって、なぜかそれは懐かしい響きだった。竜の双頭のそれぞれの瞳が、光の色を少し変える。・・
「……」・・・
答えのないミルダを、竜は何事もなかったように過ぎる。風を創り、何度も黒い山と空とを往復す・・
る。・・・
「ホワイトアイランド…」・・・
もう一度、竜から呟きが漏れた。しかし、それは、竜の光に創られた風がかき消していた。ミルダ・・
へ届くことなどなかった。・・・
風が強くなり、双頭の竜が速度を上げる。長く光の帯を後に残し、大きく口を開け、風をすべて集・・
めていく。・・・
双頭の竜は、しばらく黒く尖った頂を旋回した。空に爪痕を残すように、腕で何度も風を切った。・・
光の残像が、夜空の星の光と幾重にもクロスしていった。・・・
「ホワイトアイランド?」・・・
その答えが見つかったのか、竜は、徐々に黒い山を遠ざかっていった。緩やかに、優美に、そして、・・
その跡に異質な風を残して。その間、魔界は、それが消えるのをひたすら待っていた。・・・
(4)・・・
・・・
昨夜の夢が脳裏から離れなく、双頭の竜の息吹のような風の揺れを、笛吹きは感じ続けていた。夢・・
では、冷たい汗を吹きだしていたが、今は、竜の至高な姿への思いが、全身に熱い渦となって駆けめ・・
ぐっていた。・・・
「出てこい、リュリュ!」・・・
双頭の竜の姿は、笛吹きの中で少しずつ大きくなっていく。新たな力が、笛吹きの背を激しく押し・・
ている。・・・
「早く、仕上げをしないか!」・・・
怒りを表に出す度に、意識の中で竜の大きな咆哮が聞こえる。・・・
「下界の者を、闇に落とせ!」・・・
最近、笛吹きの廻りの平穏が少し歪み始めている。子供たちの一人のパジーが森から消えた。子供・・
たちの一部に動揺が見える。そして、魔女リュリュにも小さな変化が見える。西への旅で何かあった・・
のか、リュリュの自分を見る目が曇ってきている。更に、下界の者たちの魔界への進入だ。・・・
「早く出てこい、リュリュ!」・・・
昨夜の夢が、何かを自分に訴えている。双頭の竜が、自らの運命を変えていくのか、笛吹きも自ら・・
の変化が近いことを何となく感じていた。・・・
「くそっ! 魔女め!」・・・
笛吹きは、切り株を立ち上がりお気に入りの雌のオオカミを呼ぶ。オオカミが膝に絡みと、小脇に・・
抱えた黒い縦笛を口元へ運んだ。・・・
「……」・・・
その時、リュリュが入った洞窟から光が漏れ始めた。笛吹きには見たこともない色の光が、魔界の・・
風を逆らって遥かな空へと揺れている。・・・
「……」・・・
その意味を探るように、笛吹きは口元の笛に息を吹きかけた。それは、あの白い石の都市で吹いた・・
曲である。昨夜の双頭の竜のリクエストだ。・・・
「プィー、プィー…」・・・
洞窟から漏れた光が、笛吹きの笛に鋭く反応した。揺れていた光が動きを止め、笛の音源へ振り向・・
いた。・・・
「プィー、プィー…」・・・
ネズミ取りの歌を、笛吹きは大きく吹き鳴らす。双頭の竜が、その曲の旋律のひとつひとつに魔界・・
の黒い力を与えてくれている。自らにはない力が、笛吹きの中で激しく蠢いていくのが分かる。・・・
「プィー、プィー…」・・・
それは、怒りから発している。怒りこそ、笛吹きの存在理由であり、それ以外のことに意味など求・・
めていない。あの白い都市での怒りが、笛吹きをここまで育てた。意識のすべてが黒い闇に沈み、そ・・
こからの脱出の手段は、激しすぎるほどの怒りでなければならなかった。闇の中で光を探すのではな・・
く、闇の中に更に深い闇を求めた。それが怒りだった。・・・
その闇に、笛吹きは素早く馴染み、先が徐々に見え始めたのだった。同じような怒りを持つ者たち・・
と、少しずつ闇の出口へ向かった。光など求めていないことが、それへの道を近くした。笛吹きは闇・・
を出、あの白い石の都市へ舞い戻った。自らの中に、溢れるくらいの闇を抱えたまま。・・・
「プィー、プィー…」・・・
しかし、笛吹きの見た双頭の竜は、それらの闇とは質の違った闇を持っていた。怒りだけの感情の・・
みならず、すべての負の思いが凝縮された闇。・・・
そうなのだ、あの竜は自らの神なのだ…。・・・
笛吹きは、ネズミ取りの歌を吹きながら、急速に竜へ傾いていく自分を心地よく感じていた。下界・・
の者への怒りが激しくなり、その怒りに、竜の闇が後押ししてくれている。・・・
「おれは強くなっていく。悪魔に相応しい力が付いていく…」・・・
怒りの中、すべてを笑い飛ばしたい気分だった。笛吹きは、リュリュに念を飛ばした。何故か、洞・・
窟の外に揺れる光に激しい嫉妬が瞬間に浮かんだ。・・・
・・・
・・・
「そうじゃ、わしを殺せ!」・・・
あの時とは逆に、リュリュがキリコの首に両手をかけた。・・・
「そうじゃ、わしを恨め!」・・・
リュリュの手に力が入っていく。キリコは目を閉じ、リュリュの魔の影の中に入る。別れ以来、我・・
が娘がどんな道を歩んだのか、母として知っておきたい。・・・
「リュリュ…。わしを恨め…」・・・
リュリュの意識は大きく揺れていた。何かから逃れる術を探しているのか、自らの中の何かを破裂・・
させようとしているのか、リュリュに激しい葛藤が渦巻いている。・・・
「リュリュ…」・・・
悪魔に身を売った魔女の運命がどんなものかは、キリコは知っている。魔と負の感情を、意識のあ・・
らゆる襞に染み込ませ悪魔への脅えを隠す。そして、徐々に、魔の世界の色が似合うようになり、歪・・
んだ強さを自らに正当化していく。悪魔の影を自らが演じ、魔の風に馴染んでいく。・・・
それが、悪魔への脅えの裏返しであることを気付かないまま、魔女は悪魔との関係にそれなりの納・・
得を掴み、魔の世界の生活に、自らの位置をしかと確保する。そして、悪魔への諂いを覚え、悪魔へ・・
の服従の裏に諦めを隠す。・・・
「わしを恨め…。リュリュ…」・・・
しかし、今、そんな魔女のリュリュが激しく揺れている。悪魔への脅えが揺れるのか、その裏の諦・・
めに亀裂が入ったのか、魔女が揺れている。・・・
「リュリュ。もっと強く絞めろ…」・・・
それでも、キリコはリュリュの母だった。娘に首を絞められ、キリコは束の間の幸せを感じていた。・・
娘との再会は、まだもっと先のことだと思っていた。どんな形であれ、それは永遠の時の彼方にしか・・
ないと思っていた。出来るなら、このままリュリュと二人でどこかへ消えてしまいたい。・・・
「リュリュ…」・・・
リュリュの手に更に力が入る。キリコへの恨みとは別なる何かへ、リュリュは怒りをぶつけている。・・
キリコの束の間の幸せが、徐々に遠くなる。・・・
「リュリュ…」・・・
キリコは閉じた目を開けた。リュリュの視線は、キリコに向いていなかった。魔女は、五感のすべ・・
てを洞穴の外へ集中させていた。・・・
「リュリュ…」・・・
悪魔だった。リュリュの意識の先に、リュリュの従う悪魔がいる。魔女が動く。・・・
「そうじゃ、わしを恨め…」・・・
首を絞めたまま、リュリュはキリコを洞窟の奥へと運び入れる。リュリュに灯る光が、キリコの光・・
と闇の洞窟に溶け合っていく。・・・
「かーさん…」・・・
リュリュの意識が、瞬間キリコに向いた。リュリュの中で激しく渦巻いているものが、その一瞬、・・
キリコにはっきりと見えた。・・・
脅えを、リュリュが乗り越えていこうとしているのだ。縛られ続けた運命という時の悪戯からの脱・・
却の術を、リュリュが探り始めているのだ。・・・
「かーさん…」・・・
リュリュの光と、キリコの光がひとつになる。キリコは、リュリュへ限りない勇気を送った。己を・・
信じろ、そして、母はここにいる…。娘へ、真っ直ぐな思いを伝えた。・・・
「殺せ! リュリュ、わしを殺せ!」・・・
リュリュが、光の中でキリコに小さく微笑んだ。リュリュの手の力が、キリコの首からゆるりと抜・・
けた。・・・
「殺せ! リュリュ、わしを殺せ!」・・・
リュリュが目を閉じた。その瞬間、リュリュの意識が、キリコの前からするりと消えた。・・・
「かーさん、そのまま、わたしに首を絞め続けられていて…」・・・
その意味が、キリコに一瞬の理解となった。悪魔…。それなら、リュリュ一人では心許ない。・・・
「殺せ! リュリュ、わしを殺せ!」・・・
悪魔の気配は、洞窟の外にまで迫っていた。リュリュは、悪魔をここへ誘ったのだ。・・・
「まだだ、リュリュ。もっと引き付けろ…」・・・
念をリュリュにだけ飛ばし、悪魔には演技を続ける。・・・
「わしを盾にしろ…」・・・
それは、リュリュに届いたのか、悪魔の影が洞窟へ入った。・・・
「リュリュ、ワシを絞め殺せ!」・・・
そうじゃ、悪魔よ、もっとワシに近付け…。さあ、来い、悪魔…。・・・
キリコは、リュリュを奪った悪魔への激しい怒りを、意識の奥へと静かに仕舞った。・・・
「わしを殺せ! 魔女、リュリュよ!」・・・
・・・
・・・
涙がこぼれないのを、この時ほど、忌ま忌ましく思ったことはなかった。魔女の性を、これほど恨・・
んだことはなかった。リュリュは激しく泣いていた。・・・
「かーさん…」・・・
先程、母とひとつの光になった。母の自分への激しい思いに、自らのすべてが母へ弾き飛んだ。激・・
しく激しく母を抱きたかった。激しく激しく母に抱かれたかった。しかし、悪魔が、リュリュには付・・
いていた。・・・
だから、悪魔への演技を続けた。母の首を絞め、悪魔を洞窟へ呼び寄せ、自分は悪魔の油断の隙に・・
意識を洞窟の外へ出す。そして、そこから母の意識だけを呼ぶ。悪魔を洞窟に取り残す、咄嗟に浮か・・
んだ作戦だった。・・・
しかし、母は、リュリュの思いの上をいっていたのだ。母の激しい思いは、リュリュのそれよりも・・
数段熱かったのだ。・・・
「だめ、かーさん。それは危険よ!」・・・
悪魔への母の演技は危険すぎる。魔女の仕事のすごさを、母は母なりの演技で悪魔に見せているの・・
だ。自らの苦痛の激しさに、魔女の悪魔への従順さを示しているのだ。・・・
「だめ! かーさん だめよ!」・・・
その念は母には届かない。届いてしまうと、悪魔への母の演技が見破られてしまう。母は、意識を・・
鉄のように硬く閉じている。・・・
「かーさん…」・・・
悪魔がキリコに手を掛け、狂気の老婆にまたがった。・・・
「今だ! リュリュ!」・・・
鉄に閉ざした母の意識が、一瞬にリュリュへ開いた。・・・
「今だ! リュリュ!」・・・
悪魔の背がまったく無防備である。リュリュは意識の涙を収め、母への思いと共に悪魔へ真っ直ぐ・・
に向かった。・・・
「ウオー!」・・・
悪魔の黒い笛に、リュリュは思い切り飛びついた。驚いた笛吹きが一歩退き、闇の中でリュリュと・・
悪魔が向き合う形となった。・・・
「リュリュ、貴様!」・・・
魔女の裏切りに、笛吹きの憎悪が瞬時に沸騰していく。・・・
「リュリュ! このままですむと思っているのか!」・・・
間髪入れずに、リュリュは笛吹きの股間を蹴上げ、腕を噛んだ。悪魔の手から、悪魔の笛が滑り落・・
ちた。・・・
「このやろー!」・・・
リュリュが跳ぶ。素早く、笛を奪い、笛吹きの蹴りを巧みに交わす。・・・
「おじさん…。この人を逃がしてあげて…。それだったら、この笛、返してあげる」・・・
笛吹きは、リュリュの言葉など聞いていない。魔女への怒りの目が赤く燃えている。・・・
「この魔女が!」・・・
リュリュが、今度は後ろへ飛んだ。動きは、リュリュの方が数段に速かった。・・・
・・・
・・・
リュリュが飛ぶ瞬間、キリコは悪魔の側に従うオオカミたちへ念を送った。それは、森のオオカミ・・
たちを惑わすいつもの術だった。・・・
「獲物はあっち…」・・・
オオカミたちの目の色が変わり、悪魔へ憎悪を向けていく。・・・
それで、悪魔がどうなるものかは思っていない。ただ、少しの時間稼ぎだ。キリコはリュリュに抱・・
えられたまま、洞窟を出た。母と娘は風になった。・・・
「かーさん…」・・・
風の中で、娘は母に抱かれた。母は娘に抱かれた。・・・
「リュリュ…」・・・
意識のまま抱き合い、お互いの愛を分かち合い、過去の遥かな時を溶かし合う。二人の間には、今、・・
何もなかった。母と娘の魂は、優しく融合しひとつになっていく。母は娘を許し、娘は母を許した。・・
何の言葉もいらなかった。二人を結ぶのは、まったくの透明の愛だけだった。・・・
「かーさん…」・・・
二人の涙が光に浮かび、美しい言葉がそれから漏れる。・・・
「リュリュ、もっと抱かしてくれ…」・・・
光がひとつになり、それぞれの愛が、汚れなく無垢に同じ揺れを見せていく。・・・
「リュリュ、もっと抱いてくれ…」・・・
光がこぼれ、二人の愛が四方に散る。美しい光が、黒い山の頂を越え天へ伸びていく。・・・
「かーさん、もっと、抱かして…」・・・
魔界の風が光に弾かれ、魔界の闇が光に色を変えていく。光が輝きを増し、透明に、純白に、どこ・・
までも煌めきを大きくする。・・・
「かーさん、もっと、抱いて。もっと、もっと、かーさん…」・・・
お互いに、昔の思いが破裂していた。幼さと母性がぶつかり合う。・・・
「リュリュ、もっと抱かしてくれ…。もっと抱いてくれ…」・・・
二人の愛が、それぞれにはっきりと見えていた。愛の光が、二人に確実に見える。・・・
「かーさん、もっと抱いて…。もっともっと抱かして…」・・・
二人は、光となって進んだ。純白に美しく輝き、闇を突き抜け輝いた。・・・
・・・
・・・
「見て、あの光!」・・・
チェナは、いつものように頂き近くの洞穴へと向かっていた。カッペとジーニョが下を向き、チェ・・
ナに続く。・・・
「ねえ、見て、あの光!」・・・
その光は、山の頂で何かの意志があるように光を凝縮して揺れていた。この山にはない色で、輝き・・
を誇り天へ向かっていた。・・・
「綺麗…」・・・
子供たちは、それぞれ顔を見合わせた。光に何かが見える。・・・
「なんだろう、あの光…」・・・
子供たちは、依然変化の渦の中にいた。何かが、この山に起きようとしている。変化の渦に、それ・・
がはっきりと感じられていた。・・・
「行ってみよう…」・・・
よく見ると、光には二つの異なる揺れがあった。魔界の風に、その二つの色が交わっている。・・・
「リュリュねーさんだ…」・・・
交わる色の攪拌が激しくなり、光の揺れも大きくなる。・・・
「リュリュねーさんに、何かが起きている…」・・・
子供たちは、月光から影になる岩に身を隠した。それぞれが、光の変化する様を、今の自分たちに・・
重ねていた。・・・
「リュリュねーさん…」・・・
・・・
・・・
怒りを通り越して、笛吹きは愉快にすら感じていた。意識の中の双頭の竜が、銀の光に拡がってい・・
く。笛吹きの怒りがひとつひとつ弾ける度、竜の光がそれに反応し、鋭い光を、笛吹きの意識の隅に・・
まで放った。・・・
「魔女が!」・・・
リュリュへ油断したわけではない。自らの怒りが、次々と弾けるのが心地よかった。洞穴からリュ・・
リュとあの老婆が逃れても、どうという事ない。自分から、逃げられる者などいない。・・・
「ハハハハ! 魔女めが!」・・・
自分には、双頭の竜が付いている。今までにない力が、腹の底からじわっと沸き上がっている。・・・
「バカが!」・・・
魔女や老婆など、自分にはものの数ではない。血に飢えたオオカミを後に従えて、笛吹きはゆっく・・
りと洞穴を出る。・・・
「魔界の闇に落ちて行け!」・・・
リュリュと老婆の揺れる光へ、笛吹きは激しい思念を送った。その光は、笛吹きから見ても美しく、・・
それへの嫉妬が笛吹きの怒りを更に大きくしていた。・・・
「二人とも、魔界の藻屑と消えて行け!」・・・
笛吹きから紫の炎が揺れ、その炎が魔界の風に激しく靡く。笛吹きは、光へ怒りの叫びを向けた。・・・
「炎に燃えてしまえ!」・・・
笛吹きが、自らが放った炎と一体化する。紫の炎が、笛吹きの全身に拡がる。・・・
「燃えろ! 魔界の煤になれ!」・・・
怒りが破裂し、嫉妬という新たな怒りの対象までを自らの炎に引き込む。・・・
「燃やしてやる! ハハハハ! 光よ燃えろ! 美しいものよ灰になれ!」・・・
笛吹きの炎が、キリコとリュリュの光に入った。紫の炎が、突然、光の中で大きく燃え上がった。・・・
・・・
・・・
光の触れ合いは長く続かなかった。母と娘の前に、悪魔が素早く立ちはだかった。キリコの放った・・
オオカミへの念は、悪魔には通用しなく、時を稼ぐことは出来なかった。母と娘の光は、燃えさかる・・
紫の炎の中に一瞬にして隠れた。・・・
「ウオー!」・・・
キリコの全身が燃えていく。激しい苦痛が身体中を駆け巡る。狂気の炎が、瞼を焼き、耳を焼き、・・
そして、鼻を焼く。・・・
「ウオー!」・・・
肉体もないのに肉体が焼かれている。それは、キリコには幻覚だと分かっていた。しかし、どうす・・
ることもできない。熱さ、痛みは、現実以上なのだ。・・・
キリコは、ないはずの両拳を強く握りしめた。その拳にも、紫の炎が絡み付き皮膚を焦がしていく。・・
血の色をした油が、小指からたらたらと滴り落ち、焼けただれた両足が身体から離れていく。・・・
「ウオー!」・・・
気を失うことすらできないキリコは、まさに発狂の手前にあった。・・・
「リュリュ!」・・・
娘の名を呼んだ。それしか、この苦痛から逃れる術がなかった。娘リュリュの姿を、遠ざかりそう・・
な意識に強く繋ぎ続けた。・・・
「リュリュ!」・・・
キリコは、我が娘の名を叫び続けた。発狂しそうな意識を、その叫びに辛うじて乗せた。それが、・・
悪魔への唯一の抵抗であり、リュリュへの思いだけが、狂気のキリコを支えていた。・・・
「リュリュ!」・・・
キリコは、意識の続く限りその名を叫んだ。紫の炎は、激しさを増していくばかりだった。・・・
・・・
・・・
入っていった光に、リュリュはいなかった。意外だった。寸前に光から出たのか。・・・
「まあいい。ハハハハ! 燃えろ、ばばあ!」・・・
紫の炎は、小うさぎを焼くように、ゆっくりと老婆の全身を舐め回し楽しんでいた。悪魔と呼ばれ・・
る者にとって、どうしようもない愉快な一瞬なのだ。・・・
「燃えろ! 燃えろ! ばばあ!」・・・
美しい光に見えたのは、この老婆の魂だった。それは、生まれたての赤ん坊のように、汚れのない・・
純白で無防備なものであった。無防備なればこそ、あのように美しく輝いていた。愛という輝きの光・・
が、闇に一瞬だけ煌めいていたのだった。・・・
「ハハハハ! 燃えろ! 燃えろ!」・・・
愛だと…。その嫌な響きには反吐が出る。笛吹きは、炎の中でそう思っていた。それへの怒りも炎・・
になっていく。・・・
「燃えろ! ハハハハ!」・・・
無防備になった魂は美しい。意識の表面を、概念・通念・常識という分厚い襞で覆われてはいない。・・
その者の本質のみ、存在のみが浮かび上がっているのだ。・・・
「燃えろ! ハハハハ!」・・・
それは脆く力無い。存在そのものが、何の防御もなしに光を闇に見せている。・・・
「ばばあ! 燃えろ!」・・・
それを責めることほど、楽しいことはないのだ。純白な魂が紫に燃えていき、汚れのない光が魔界・・
の炎に歪んでいく。純白なる光が黒く染まり、愛の色を闇に塗りつぶしていく。・・・
「燃えろ! 燃えろ! ばばあ!」・・・
炎は光をいたぶり続け、狂気を流し続けた。笛吹きは、時が止まるのを望んでいた。・・・
「燃えろ! 燃えろ! ハハハハハ!」・・・
炎の中で、笛吹きが何度も叫ぶ。悪魔は愉快でたまらなかった。・・・
・・・
・・・
「かーさん!」・・・
笛吹きの炎が二人の光に入った瞬間、母が自分の前に出た。笛吹きの炎を、母一人で受けとめたの・・
だ。リュリュは、一瞬に光より弾き飛ばされていた。・・・
「かーさん!」・・・
しかし、母が悪魔の炎に燃えている。自分の名を叫び続けている。・・・
「かーさん!」・・・
リュリュは飛んだ。それが、リュリュという魔女の、悪魔との決別の瞬間だった。・・・
・・・
・・・
「ハハハハ、バカめが! ハハハハ!」・・・
笛吹きはリュリュを誘った。婆の悲鳴は、必ずリュリュに届く。あの魔女は、一人で逃げるような・・
玉じゃない。少し油断を見せてやったら、文字通り、飛んで火に入るなんとかだ…。・・・
「ハハハハ! リュリュ、戻ったか!」・・・
なるほど、二人は母娘だったのか…。楽しみが増えたな…。笛吹きの笑みが、炎の中に乱れ舞う。・・・
「燃えろ、魔女! 母も娘も燃えろ! ハハハハ!」・・・
母娘か…。ようやく理解できた。あの愛の光は、母娘の光だったのだ。・・・
「リュリュよ、楽しみはこれからだ。ハハハハハ!」・・・
笛吹きは、二人に最も相応しい苦痛を思いついた。炎に焼かれるよりも数段辛い苦痛だ。笛吹きは、・・
紫の炎を一旦収め、狂気の笑みを自慢の髭の上に戻した。・・・
・・・
・・・
キリコは、意識が遠くなっていくのを感じながら、笛吹きの高笑いを聞いていた。リュリュが戻っ・・
てきたのは知っていた。バカ者! なぜ逃げない! そう怒鳴ったことも覚えている。・・・
しかし、それは夢のような思いだった。夢なら覚めてくれ。ただ、そう念じていたように思う。・・・
それは、苦痛が去った時、紫の炎が、嘘のように一瞬に消えた時だった。・・・
あるはずのない目が、無理矢理に開かれた。キリコには何も見えなかった。そして、すぐにその目・・
が、また無理矢理に閉じられた。ただそれだけだった。そのまま意識が遠くなっていった。・・・
「……」・・・
気がついたのは、どこかの小屋の中だった。自分の小屋に似ていた。・・・
「……」・・・
小屋の奥から、どこかで聞いたことある声が聞こえていた。キリコは、その声へふらりと歩いた。・・・
「……」・・・
しかし、キリコは疲れ切っていた。声を無視し、眠ろうとベッドを探した。・・・
「かーさん…」・・・
ベッドの上にリュリュがいた。リュリュは泣いていた。あの日のように美しかった。キリコは、・・
ベッドに腰を下ろした。小屋の中は、あの日のように暑かった。・・・
「リュリュ…」・・・
突然、キリコにリュリュへの愛しさが破裂した。誰にも奪わせない…。誰にも触れさせない…。誰・・
にも惑わさせない…。・・・
「リュリュ…」・・・
泣き続けるリュリュへ、キリコはゆっくりと手を伸ばした。しかし、リュリュの瞳は潤んでいな・・
かった。頬に伝わるはずの熱い雫は流れていなかった。それは、あの日と同じではなかった。・・・
「リュリュ…」・・・
髪をとかしてやった。頬を撫でてやった。そして、あの日のように首を締めた。・・・
「リュリュ…」・・・
リュリュの泣き声が止んだ。微かに、その面は笑っているように見えた。・・・
「リュリュ…」・・・
娘は美しかった。あの日のように、涙が出るほど美しかった。・・・
・・・
・・・
リュリュにも全身を責め続けていた炎が消え、一瞬に苦痛が去った。そして、ゆるりと目を開けた・・
時、リュリュの意識が闇へ跳んだ。・・・
「かーさん…」・・・
闇を抜けると、目の前に母がいた。母は、老いていた。泣いていた。・・・
「かーさん…」・・・
母の手が、自分の首をすごい力で絞めていた。母に、悪魔が乗り移っていた。・・・
「かーさん!」・・・
起き上がれなかった。あまりの苦しさに、リュリュは母を蹴った。それでも、母は自分の上から降・・
りない。・・・
「かーさん!」・・・
リュリュは懸命に足を上げ、狂気の母へ腕を伸ばした。・・・
「ハハハハ!」・・・
母の顔の皺が、醜い笑みに引きずられてどこまでも伸びていく。首に、腕に、胸に、背に、延々と・・
皺が伸びていく。・・・
「ウワー!」・・・
母の皺が、自分にも押し寄せてきた。首に、頬に、額に、腕に走る。リュリュは気が狂うほどその・・
場でもがき、叫んだ。・・・
「ウオー!」・・・
母の力は衰えない。自らの目が飛び出し、首が折れそうになる。・・・
「ウオー!」・・・
もう一度、伸ばした腕が、母の細い首に届いた。リュリュは力を入れた。自分でも凄い力だと思っ・・
た。母の首に、一瞬にしてすべての指がめり込んでいく。・・・
「かーさん、さよなら…」・・・
リュリュは、渾身の力を入れた。母の首が、少しずつ少しずつ延びていった。・・・
・・・
・・・
「リュリュねーさん…」・・・
魔女リュリュの戦いを、子供たちが岩影から見ていた。リュリュの激しさが、子供たちに伝わって・・
くる。・・・
「リュリュねーさん…」・・・
誰かの首を、リュリュが懸命に絞めている。悪魔の術が、リュリュを激しく責めているのだ。・・・
「おっさんのばかやろー!」・・・
チェナが、そんなリュリュを見て叫ぶ。慌てて、カッペとジーニョが、チェナを抑える。・・・
「ばか、おっさんに聞こえる…」・・・
チェナの目には、涙が今にもこぼれそうなくらいに溜まっていた。激しい変化の渦に、チェナは戸・・
惑っていた。自らの悲しみが、チェナをどうしようも出来ない苛立ちに誘っていた。・・・
「おっさんのばかやろー!」・・・
チェナが、カッペとジーニョの制止を振りきり隠れていた岩影を出る。何かがチェナの中で破裂し、・・
それが抑えられなくなっていく。・・・
「リュリュねーさん!」・・・
チェナは走り、その後ろに、カッペとジーニョも続く。二人にも抑えられない思いが爆発している。・・・
「リュリュねーさん!」・・・
その時、子供たちに鋭い魔界の風が一瞬吹いた。紫の炎が、その風の中に燃えさかっている。・・・
「ウワー!」・・・
子供たちの足が止まり、再び、近くの岩影へ転がり込む。・・・
「リュリュねーさん…」・・・
爆発したものが、急速に萎んでいく。悲しみだけが、遠ざかる紫の炎を追いかけていく。チェナの・・
涙が堰を切り、小さく嗚咽が岩影から漏れた。・・・
「だれか、助けて…」・・・
その時、月の光に夢に見たあの男の姿が見えた。男の背に、先程見たリュリュの光と同じような光・・
が揺れていた。・・・
「助けて…」・・・
チェナには、その男が救いの神のように見えた。男の光が、どういう訳か自分たちの未来の光のよ・・
うに思えた。・・・
・・・
・・・
ミルダは洞窟へ戻った。激しい邪気と不安が、ミルダの意識を急かした。・・・
「おばば…」・・・
ミルダの視界のすべてを、洞窟の闇が覆った。キリコを探したが、その気配はない。・・・
「おばば…」・・・
魔女も消えていた。魔界の邪気だけが、その場に濃く揺れているだけだった。・・・
仕方なく、洞窟を出ようとした時、ミルダの足下に、何か黒く光る物が見えた。・・・
「……」・・・
手探りで、それを手に取ってみた。細い筒のようなものが、ひやりとミルダの指先に冷たさを走ら・・
せた。・・・
黒い縦笛だった。ミルダはそれを握りしめた。身の震えるような妖気がそれから伝わり、ミルダの・・
背も冷たくなった。魔界の気が、その笛に満々と満ちている。・・・
「悪魔の笛…」・・・
洞窟を出、月光に笛をよく見た。笛に、悪魔の姿が見えてきそうだ。・・・
「悪魔…」・・・
思いもよらぬ衝動が、突然ミルダの意識に昇った。笛を唇に当てた。悪魔の笛の音が、ミルダの目・・
の前に揺れる。・・・
「プイー…。プイー…」・・・
意外なほど、乾いた音色だった。ミルダは目を閉じた。この笛の音を、どこかで聞いたことがある。・・・
「プイー…。プイー…」・・・
ミルダの意識に、キリコの森に着いた時、あの石像から聞こえてきた子供たちの声が蘇る。お願い・・
助けて…。魔界から連れ出して、助けて…。幼い子供たちは、自分たちの悲しみを、ミルダに精一杯・・
訴えていた。・・・
「プイー…。プイー…」・・・
その時に、この笛の音が子供たちの悲しみの後ろに流れていた。やはり、あの子たちはこの山に彷・・
徨っている。・・・
「プイー…。プイー…」・・・
ミルダは、笛を吹き続けながら、近くの気配に思いを集中させた。だれか、助けて…。そんな声が、・・
どこからか、小さく聞こえてくる。・・・
あの子供たちが近くにいる。ミルダはそう思った。ミルダは笛を吹きながら、近くの気配に念を・・
送った。・・・
「あの森へ行くんだ。この山のふもと、君たちが死んだ場所だ…」・・・
気配が益々近くなり、その揺れが、大きくなっていく。・・・
「あの森に、君たちの石像がある。そこに行けば、君たちの未来がある。必ずある」・・・
あの石像は、この魔界と確実に繋がっていた。あの時感じた子供たちの悲しみは、今、近くの気配・・
の悲しみとまったく同じものだ。ミルダは懸命に思念を送った。悲しみの子供たちに、未来への勇気・・
を与えたい。・・・
「大丈夫だよ。悪魔は、自分たちが退治してやる。だから、君たちは、あの森へ行くんだ。あの森へ・・
行って、君たちの石像を見付けるんだ。そうすれば、必ず未来への光が見える」・・・
ミルダには、その光景が見えてくる。キリコの拵えた石像だ。子供たちの未来も、その中に深く彫・・
り込んでいることだろう。石像は、子供たちの魂を何も言わずに受け入れる。魔界の悲しみも苦しみ・・
も、すべて石が飲み込んでくれるのだ。・・・
そして、彷徨う魂の目覚めは、その者に光が揺れた時なのだ。激しさの中、何かに立ち向かい自ら・・
が未来を感じ始める。その時に、魂はその者の光を大きく揺らすのだ。・・・
「未来への光を見付けるんだ」・・・
気配の子供たちの光を、ミルダは感じることが出来る。子供たちに、目覚めの時が訪れている。悲・・
しみの者たちは、今、激しさの変化の中にいる。・・・
「悪魔を怖がらず、君たちは、あの森へ行くんだ…」・・・
子供たちの気配が、ミルダに頷いたように感じられた。ミルダは悪魔の笛を吹きながら、未来への・・
勇気を悲しみの子供たちに送り続けた。・・・
「プイー…。プイー…」・・・
ミルダの演奏が、魔界の闇にしばらく続いた。悪魔の音色が、温い風にゆらゆら揺れた。・・・
・・・
・・・
母と娘は、お互いに首を強く絞め合い、狂気の演技を続けた。笛吹きが流した思念だ。笛吹きは、・・
母と娘を、狂気の渦の中へ押し込んだのだ。・・・
それは、あの双頭の竜による力であるように、笛吹きは思っていた。銀色の竜は、笛吹きの怒りを・・
更なる力へと変えていく。怒りの思念が、怒りの対象へ真っ直ぐに弾けていく。・・・
「ハハハハ! そうだ、そうだ。もっと力を入れるのだ」・・・
笛吹きは、母と娘のもがきを愉快この上ないという笑みで見ていた。銀に光る竜の姿が、笛吹きの・・
意識の真ん中に揺れている。・・・
「リュリュ! そうだ、婆を絞め殺せ! 締めろ締めろ! 婆も、魔女を絞め殺せ!」・・・
笛吹きは、ゆっくりと仕上げを楽しんだ。美しい光を持つ者たちの、もがき苦しむ姿がたまらない。・・
母と娘は、美しい光を胸に抱きながら朽ちていく。魔界の闇に、どこまでも落ちていく。・・・
「ハハハハ! ハハハハ!」・・・
その時だった。笛吹きの脳裏に信じられない音が入り込んできた。笛吹きは己の耳を疑った。・・・
「プイー…。プイー…」・・・
一瞬に訳の分からない恐怖を覚えた。笛吹きの激しい怒りがそれへ向く。・・・
「プイー…。プイー…」・・・
それは、まさしく自分の笛だった。聞き間違えるはずがない。・・・
許せない…。これだけは、どうしても許せない…。笛吹きは、急ぎ笛の音の方へ飛んだ。・・・
「どういうことだ…」・・・
戸惑いと苛立ちが、笛吹きを責めた。笛吹きは、母と娘の意識から離れた。その前に、それらへの・・
仕上げの思念を送り込むのは忘れなかった。・・・
・・・
・・・
ミルダから、子供たちの気配が一瞬に消えた。別の気配が、ミルダに素早く忍び込む。ミルダは、・・
魔の闇に身を硬くした。・・・
「悪魔か…」・・・
ミルダの前に、真っ黒な狩人の姿の悪魔が立った。悪魔は、笛吹きの道化師だった。幼い頃、祖父・・
と歩いた大きな街いた道化師に似ている。ミルダは、笛を吹いたまま悪魔に向き合った。・・・
「プィー、フィー…」・・・
悪魔は、幻想の姿を月明かりに受け、ミルダの吹く縦笛を睨み付ける。先の曲がった黒い髭が、魔・・
界の風に靡いている。・・・
「プィー、フィー…」・・・
悪魔の目が、怒りに燃え紫に変化していく。激しい怒りを、ミルダにぶつけてくる。・・・
「何者だ…」・・・
悪魔の声が、なぜか遠いところから聞こえる。声に混じる殺気が、鋭利にミルダに突き刺さる。・・・
「悪魔か…」・・・
悪魔の視線を逸らすことなく、ミルダは正面から道化師を睨み返した。恐怖を押さえ込み、ミルダ・・
は悪魔へ一歩寄った。・・・
「笛を返せ」・・・
悪魔も、ミルダに一歩近づく。悪魔の瞳から、小さな炎が浮かび上がる。・・・
「死ね!」・・・
悪魔が姿を炎に変え、ミルダにいきなり飛びかかった。・・・
「地獄へ墜ちろ!」・・・
炎が跳んだ。炎がミルダを包んだ。猛烈な熱さが、素早くミルダの全身を駆け巡る。・・・
「ウワー!」・・・
ミルダに激しい恐怖が流れた。紫の炎がミルダの中に暴れまくっていく。双頭の竜が、ミルダの全・・
身を炎の舌で舐め回していく。・・・
「ウオー!」・・・
ミルダには、それは幻想だと分かっていた。しかし、苦痛は現実以上だった。ミルダのすべてが炎・・
に包まれ、激しく燃え上がる紫の炎がミルダを責める。双頭の竜が、ミルダを鷲掴みにする。・・・
逃れることなど出来ない。ミルダの悲鳴が闇を貫き、悪魔の嘲笑がそれに混じる。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
狂気が、ミルダの意識のすべてを占領していき、不協和な金属音が、ミルダの中にどこまでも響き・・
渡る。暴れる炎に、両の腕がはがれ落ち足がもがれていく。全身に、血の油が滴り落ちていく。・・・
「ウワー!」・・・
縦笛が、ミルダの腕から滑る。悪魔がそれへ手を伸ばす。・・・
「悪魔!」・・・
しかし、その笛は地に落ちなかった。ミルダの指の先でその笛は重力を失った。・・・
「ミルダ!」・・・
キリコだった。キリコの光が、笛吹きの片方の目に体当たりした。・・・
「ミルダ、逃げろ!」・・・
悪魔が、一瞬たじろいだ。同時に、ミルダの苦痛が嘘のように去った。・・・
「おばば!」・・・
ミルダは、悪魔の術から解放された。キリコの笑みが、ミルダには頼もしく見えた。・・・
・・・
・・・
リュリュの首を絞めながらも、キリコは朽ちることなく反撃の機会を伺っていた。悪魔の炎に身を・・
置きながら、リュリュを側に吹く風に放り出した。そして、自らは笛吹きに狂気の芝居を見せながら、・・
悪魔の隙を逃さないようにしていたのだ。・・・
それは、笛吹きが知るはずのないことだった。娘の首を絞めるのは、キリコには二度目だった。キ・・
リコは、その過去を自らの中で再現しながら、徐々に悪魔の術から逃れていった。二度も過ちを起こ・・
すバカはいないのだ。・・・
ミルダが悪魔を誘うとは思いもよらなかっが、そのタイミングはなかなかのものだった。キリコは・・
素早く飛んだ。ミルダの手から、悪魔の笛が滑り落ちるところだった。・・・
「今だ!」・・・
素早く、ミルダが悪魔から身を放した。キリコは叫んだ。悪魔の笛が、ミルダの手に残っている。・・・
「今だ! その笛で悪魔を突け!」・・・
ミルダが頷き、笛吹きの胸に身体ごと力の限りに飛び込んだ。・・・
「ウオー!」・・・
その時、ミルダにもうひとつの力が加わった。・・・
「悪魔よ、死ね!」・・・
風に眠っているはずのリュリュだった。一瞬に、キリコの表に安堵の色が拡がる。・・・
「かーさん、ありがとう…」・・・
ミルダとリュリュの力がひとつになった。笛吹きの炎に、二人の激しさが炸裂した。・・・
「ウワーー!」・・・
笛吹きが狂ったように悶えた。紫の炎が一瞬に風にかき消され、悪魔の姿が月光に蘇る。・・・
「ウオー!」・・・
黒い縦笛が、その所有者の胸に深々と突き刺さった。怒りの笛吹きが、リュリュの首に手を伸ばす。・・・
「リュリュ! その笛を奪え! 早くしろ! そいつは消える!」・・・
その声に、リュリュが笛吹きの胸に刺さる笛に飛びついた。・・・
「悪魔が消えていく! 早くしろ!」・・・
しかし、それは遅かった。リュリュより一瞬早く、笛吹きがその場から消えた。リュリュの手には、・・
笛吹きの笛だけが残った。・・・
「バカモノ! ぐずぐすしておるからじゃ。バカモノ!」・・・
キリコの光が消えようとしていた。リュリュが無事だった安堵で、キリコの張りつめた糸が急に萎・・
んでいく。・・・
「バカモノ…」・・・
キリコにはそれが限界だった。戦いは終わったのだろうか…。キリコは、あの洞穴に残していった・・
自らの肉体へとふらふらと戻っていく。・・・
「リュリュ…」・・・
薄れていくキリコの意識に、娘のリュリュが浮かんだ。リュリュは、一人でも魔界から逃れること・・
ができる。リュリュは、自らの力で悪魔に立ち向かった。もう、何をも恐れたりしないだろう…。・・・
リュリュを捜したが、キリコの側には娘はいなかった。それでも、キリコは満足だった。・・・
「リュリュ…」・・・
娘との再会は、キリコに忘れ去っていた喜びをもたらした。しかし、もう少し時間が欲しかった。・・
できるものなら、あの世とやらへ二人して行きたかった。・・・
キリコは娘を愛した。リュリュが居なくなってからも、その愛は変わらなかった。何のための人生・・
だったのか…。何を求めた生涯たったのか…。キリコにはどうでもよかった。ただ、娘を愛し、娘と・・
二人して、ひとつの光となることができた…。たとえ短い時間でも、二人して輝けることができた…。・・
それだけで、キリコにとっては十分すぎるものだった。・・・
「そう、リュリュと光になった…」・・・
人を愛し、人に愛される。そして、光となる。たったそれだけのことだ。それだけのことを、人間・・
は、使命として与えられている…。薄れていく意識に、キリコはそう思った。キリコは、静かに目を・・
閉じた。瞼の裏にも、娘リュリュを捜した。・・・
「リュリュ…」・・・
愛を知り、愛こそ光だと知り、神にも優る美しい光を知った。それだけで十分だ。キリコは洞穴へ・・
と入った。ミルダが、キリコのすぐ側に続いていた。・・・
「ミルダ…」・・・
ミルダは、分かってくれている。言葉はもういらない。キリコは、ミルダに軽く手を挙げた。・・・
「また、会うさ…。おばばよ…」・・・
ミルダの声が聞こえた。また会うさ…。そうであって欲しいと思った。キリコの光は静かに自らの・・
肉体へと、そして、死の先の未知の闇へと戻っていった。・・・
・・・
・・・
リュリュは、笛吹きから奪った笛を片手に強く握り締め、魔界の風に紛れた悪魔を追った。・・・
笛吹きは、一度山の頂へ飛んで、急に方向を変え地に潜った。リュリュを誘っているのかも知れな・・
い。あの程度で、笛吹きが自分を逃すはずがない。・・・
しばらく、そこで笛吹きの出方を待った。しかし、待てども笛吹きの気配は遠くなったままだった。・・・
再び、笛吹きを追おうとした時、リュリュの目に思わぬものが飛び込んできた。・・・
「ウッ…」・・・
笛吹きの過ぎた風の先に、その場面は繰り広げられていた。リュリュは、笛吹きの追求を諦めた。・・・
オオカミが、長い舌を垂らし倒れている男の目を覗き込んでいた。極限に飢えた野獣は、抑えが効・・
かなくなっていた。・・・
「ウー…」・・・
倒れている男の目は、光をまったく失っていた。オオカミは、その目を前足の爪で抉り出し、男の・・
抵抗がないのをしばらく確認する。そして、廻りを一瞥してから、鋭い牙を男の顔面に突き刺した。・・・
「ウー…」・・・
男はやはり動かない。オオカミの長い舌が、みるみる赤く黒く染まっていく。低い唸りをあげなが・・
ら、野獣は、一心に男を喰らい始めた。・・・
「ウー…」・・・
リュリュは風を逆に戻った。オオカミの狂気がリュリュに鋭かった。・・・
「早く、戻るのよ!」・・・
洞穴に戻り、リュリュは男に大きく叫んだ。その男は、母の側で何か独り言を呟いていた。・・・
「早く、戻るのよ!」・・・
母は、安らかな顔で眠っていた。リュリュは母の側へ寄り、まだ暖かい両の手を握り締めた。・・・
「早く、自分の肉体へ戻るのよ!」・・・
男へ再度叫んだ時、リュリュの頬に大粒の涙が一粒散った。魔女の涙が、キリコの上に落ちた。・・・
「早く戻るのよ!」・・・
リュリュの涙が、激しく堰を切った。・・・
「早く、自分の肉体へ戻るのよ!」・・・
男は、リュリュの言葉の意味を理解したのか、洞穴を何も言わず出ていった。リュリュは、キリコ・・
の亡骸に顔を埋めた。悲しみの姿を、なぜかあの男に見られたくなかった。・・・
・・・
・・・
そこには、信じられない光景があった。声にならない叫びを、ミルダは何度も上げた。・・・
「やめろー! それは、おれの身体だ!」・・・
オオカミが、一心不乱に自分の肉体を喰っている。既に、目玉が二つとも喰われている。頬の肉が・・
無惨にめくれあがり、中の骨がミルダに見える。・・・
「ウオー!」・・・
獣は狂気に包まれていた。ミルダの内臓を、次々に取り出しにかかっている。・・・
「やめてくれー!」・・・
キリコの小屋にいたノアだ。あのオオカミ犬は、ミルダに軽くあしらわれたのを覚えていたのだろ・・
うか…。それとも、主人を奪われた憎き相手へ怒りなのか…。・・・
「やめてくれ!」・・・
ノアは、ミルダの肉体を楽しみながら、ゆっくりと味わい喰っていた。口の廻りに血が滴り、それ・・
を何度も舌なめずりしている。・・・
「おれの血だ!」・・・
激しい目眩がミルダを襲う。ミルダは、何度も何度もノアに体当たりした。しかし、何の手応えも・・
ない。・・・
「このまま喰われたら、おれはどうなるんだ…」・・・
ミルダは、呆然とその光景を前に揺れた。どうすることもできないのか…。ミルダは、オオカミか・・
ら目を逸らし、声にならない叫びを上げ続けた。・・・
これが魔界なのだろうか、今、目の前にしている獣に喰われていく自分が、徐々に自分でないよう・・
な思いに揺れる。それは、魔界ならばこその出来事であり、魔の空間に自分の幻影が浮かんでいるだ・・
けなのだ。これは、悪魔の仕業であり、何かの術の幻影なのだ。・・・
いや、そうではない。自分はこの山で肉体の死を経験した。肉体という物質を脱ぎ捨てた。そして、・・
肉体を出、光を抱いた幻想の姿のまま山を進み、ここまで辿り着いたのだ。魔界への恐怖に打ち勝っ・・
たはずなのだ。自らの光のへの道が、見えそうになってきているのだ。・・・
しかし、この地は魔界なのである。目の前の恐怖がミルダを激しく責めたて、ミルダの意識に魔の・・
世界が再び大きく拡がっていく。自分は、魔界と死の闇の狭間に落ち込み、現実の自らの歩みがどこ・・
かへ消えていく。そして、悪魔に弾き飛ばされ、魔界の塵となり闇を彷徨うことになる。・・・
あの魔女が言った。肉体に戻れ…。そうすれば、魔界の恐怖から逃れられるのだろうか、いや、そ・・
んなことをしたら、オオカミの牙の激痛が待っているだけだ。自らの肉体がずたずたにされていくの・・
を、ただ耐えるしかないのだ。あの姿で抵抗など及ばない。・・・
しかし、この場を逃れたら、今までの旅が意味のないものになってしまう。自分は光を目指し、何・・
をも跳ね返してきた。この山で死を受け入れ、その先の未来へと向かい始めたばかりではないのか。・・
悪魔とも相対し、その魔界の風を跳ね返したではないか。・・・
「ミルダ君、戻るのです…。自分の身体へと戻るのです…」・・・
その時、声がした。声は天から聞こえ、ミルダの中に大きく響き渡った。・・・
「しっかりと、死を見つめるのです…」・・・
ミルダは声に頷いた。その意味が、ミルダには瞬時の理解となった。・・・
「死を見つめるのです…」・・・
そうなのだ、死というものを見つめるのだ。そのために、あらゆる苦難に耐え鋼鉄の精神にと鍛え・・
続けてきたのである。ミルダの光への道はまだ続いているのだ。ミルダはオオカミに視線を戻した。・・
ノアの狂気が益々高ぶっていく。・・・
「死を見つめるのです…」・・・
ミルダの意識に、どこからか果てしない程の力が流れ込む。自らの生命の底から、果てしないパ・・
ワーがミルダへ沸き上がってくる。・・・
「ウオー!」・・・
これが、自らの存在の尊さなのだ。ミルダは自らの力を信じ、今までの、そして、これからの旅が・・
間違いでないことを信じた。・・・
「これが、光への道なのだ!」・・・
ミルダは天の声に従い、自らのずたずたの肉体へ戻った。・・・
「ウワーー!」・・・
そこには、予想以上の痛みがミルダを待っていた。一瞬に、現実の激痛がミルダの全身を責めた。・・・
「ウオー!」・・・
立ち上がろうとしたが、力がどこにも入らない。自らの悲鳴すら聞こえない。目は見えない。・・・
「ウオー!」・・・
ガラスの破片が至るところに刺さっていく。ナイフの刃がどこまでも縦横に駆ける。腸が引きずり・・
出されているのか、ぴくぴくと全身が跳ねる。・・・
「ウオー! これが、光りの道だ!」・・・
しかし、ミルダはその苦痛を受け入れる。自らの存在の奥深さに正面から向き合う。ミルダは意識・・
の中で歯を食いしばった。・・・
「生きている…。まだ、生きている…」・・・
意識が薄れていき、意識が激痛の肉体より離れようとしている。ミルダは、それを魂にしかと意識・・
した。このことは修練に経験がある。精神と肉体を切り離し、自らを向上させる。精神に至高なる歩・・
みを促す。幾度となく試みたことだ。・・・
「死を見つめるのです…」・・・
天の声が意識に木霊する。肉体から揺れる光が、死と向き合うミルダの激痛の彼方に朧気に浮かぶ。・・・
「それでも、生きている…。まだ、生きている…」・・・
壮絶なミルダの戦いだった。死というものから、ミルダは逃げも隠れもしなかった。真っ正面から・・
それへ挑んでいた。・・・
死とは…。天の声にミルダは立ち向かう。遠ざかる意識を、強く強く自らの魂に感じ続けた。・・・
「それでも、生きている…。まだ、生きている…」・・・
血の流れが止まっていくのが分かる。心臓が働きを放棄しているのが分かる。・・・
「それでも、生きている…。まだ、生きている…。死とは、何なのだ…」・・・
時が止まった。ミルダは、自らの存在を激しく感じた。生を持っていることに、震えるほどの意味・・
を感じた。光への道がミルダに見えてくる。・・・
「おれは、今、死んでいく。しかし、まだ、生きている。存在している…」・・・
死を見よう…。自らの最期を、自らの存在のすべてで確認しよう。それは、光に向かい、ひたすら・・
闘ったミルダの激しさだった。・・・
「死とは、一体どういうものなのか。すべてが、消えてしまうのか。光まで、消えてしまうのか…」・・・
自らの光がはっきり見え始めた。己の存在の中に、それが激しく揺れている。・・・
「赤く光る。白く光る。激しく光っている。燃えている。見える。おれには見える。眩しいほど燃え・・
ている。赤い。白い。燃えている。燃えている。あれは、おれの光だ!」・・・
その光は、ミルダの傷ついた肉体から離れようとしていた。オオカミ犬の側を、ゆるりと過ぎよう・・
としていた。・・・
「おれは光となる!」・・・
ミルダは、その赤く白く燃える光に入った。霞む意識を、光が支えていた。・・・
「おれは光となる!」・・・
ミルダは自らの限界まで闘った。己の存在の理解への飽くなき執念だった。・・・
「おれは光だ!」・・・
ミルダの思いが果たされようとしていた。長い旅の終着地、黒く尖った山でミルダは光になる。ミ・・
ルダは叫んだ。自らの光が、更に大きく激しく揺れた。・・・
「おれは光になる!」・・・
意識がミルダから消えた。ミルダは光となり、果てしない未知の世界へと消えた。その側で、ノア・・
が、血に染まった狂気をいつまでも演じていた。・・・

第二章・・・
・・・
(1)・・・
・・・
未来への光を見付けるんだ…。悪魔を怖がらず、君たちはあの森へ行くんだ…。若い男はそう言っ・・
た。そして、男は光への道への戦いを全うした。オオカミに喰われながらも、男は大きく叫んでいた。・・
その戦いは、子供たちにも確実に伝わる熱いものがあった。男は全身から美しく透明な光を放ってい・・
た。そして、男は光に抱かれたまま黒い山の頂を越えていった。・・・
「あの人の言ったことを信じよう…」・・・
それは、誰からともなく言った。男の戦いの凄まじさに、子供たちの魂が激しく揺さぶられた。山・・
の彼方へ消えていった男の光の残像を、子供たちはしばらく眺め、今までとは違う思いでその場に立・・
ち上がった。・・・
「あの人の言った森へ行こう…」・・・
子供たちは、山のふもとの森にまで一気に駆け下りた。笛吹きへの恐怖が少しずつ薄れていき、自・・
らの歩みが力強いものに感じ始めていた。男より与えられた勇気が自分たちを支え、後押ししてくれ・・
ている実感があり、自分たちの変化の先が、男の言った未来であることの確信が胸に拡がっていた。・・・
「あの山から出られた…」・・・
それは、森に着いて木々の間に休息を求めた時だった。・・・
「本当だ、山から出られた…」・・・
それを、心の底から望んでいたのか、と言えば、今まではそうではなかった。笛吹きへの恐怖に、・・
思いだけの願いであり、それが実現するものなどと考えもしなかった。子供たちは負の感情に雁字搦・・
めになり、自分たちの運命を呪うことしかしなかった。・・・
「山から出られた…」・・・
しかし、子供たちは男の壮絶な最期に心が震えた。それぞれの変化の中に、その激しい震えは劇的・・
な津波となった。呪うことしかとなかった自分たちの運命を自らで切り開く、それを男の光に子供た・・
ちは重ねた。そして、力強く立ち上がり、悪魔への恐怖に立ち向かう決心をした。・・・
心の中の恐れを遠ざけ、自分たちの未来へ歩む。あの街を出て以来、そんな思いになったことはな・・
い。子供たちの変化の激流は、自らの未来へと流れていたのだった。・・・
「ハハハ、あの山から出られた…」・・・
子供たちはお互いの顔を見合わせて笑った。変化の激流の中に芽生えた勇気が、それぞれに誇らし・・
げに揺れていた。・・・
森は呪いの黒森と同じく薄暗かったが、木々の間をすり抜ける風が爽やかだ。子供たちは大樹の下・・
に腰を下ろした。悪魔への恐怖は消え去ってはいないが、少なくとも、それにただ屈するだけとの思・・
いは子供たちよりなくなっていた。・・・
そして、そんな子供たちにもう一つ意外なことが起こった。それは、大樹の根に寄り添うように立・・
ててある小さな石像からの呼びかけだった。声ではなく、子供たちの意識に直接流れ込むものだった。・・
「やっぱり、来てくれたんだ…」・・・
最初、声はチェナを呼んだ。チェナの側の石像が仄かに光った。・・・
「ここで待ってれば、友達が来てくれる。そう、パパとママが言ったの…」・・・
パジーだった。パジーの幼い微笑みが、小さな石像の目に灯る光の向こう側に揺れていた。・・・
「パジー…」・・・
チェナが石像を覗き込み、揺れる光を両手に包み込む。・・・
「パジー…」・・・
カッペもジーニョもそれへ寄り、同じように光に触れる。・・・
あれほど探したのに見つからなかったパジーは、もう一度死んだりなんかしていなかった。今、自・・
らの足で歩き始めた子供たちがそうであるように、石像の向こうのパジーの瞳にも、希望という今ま・・
で心の底に知らずの内に隠していた輝きがはっきりと見える。子供たちはお互いに顔を見合わせた。・・
パジーの瞳の輝きの意味を、それぞれが自分たちに置き換えている。・・・
「あの日の朝、あの大きな木のフクロウの巣を眺めていたの…」・・・
パジーが、子供たちにあの森から出たときのことを話し始める。パジーにとって、それはこの子た・・
ちにどうしても聞いて欲しいことなのだろう、いつもは口数の少ないパジーが、随分と早口になって・・
いる。・・・
「そうしたら、巣の中のフクロウ雛の卵がごろごろと動き始めたの…」・・・
光の中に浮かぶパジーは、チェナ、カッペ、ジーニョを交互に見、いつもとは違うしっかりとした・・
口調で話す。パジーの成長が、子供たちにもはっきりと見える。・・・
「産まれるよ…と、親鳥を探したけど、いなかったの。だから、わたし、ずっとその卵を見ていたの。・・
チェナねーさんを呼ぼうと思ったけど、大きな声を出したらだめだと思って…」・・・
パジーの後ろにはどこからか風が吹いていた。それは魔界の風ではない。風にあの森のような黒い・・
影が子供たちには見えない。・・・
「だから、迷子になっちゃったの…」・・・
パジーの語りに、子供たちが引き込まれていく。パジーがどうして森を出た。話の中にそれが浮か・・
び上がってくる。・・・
「廻りは暗くなっていくし、わたし怖かった。でも、産まれてこようとしている雛を置いてけぼりに・・
は出来なかったの…」・・・
子供たちの触れたパジーの光が色を消し、透明に揺れ始める。子供たちを今度は光が包み込むよう・・
に、徐々に廻りが明るくなる。暖かさが子供たちに伝わり、パジーのいる空間が子供たちにも感じら・・
れるようになってくる。・・・
「その時、見たことのないオオカミが巣を狙ってこちらへ寄ってきたの。わたし、びっくりして、・・
チェナねーさんも、リュリュねーさんもいないし、どうしたいいか分からなかった…」・・・
パジーの笑みが光より徐々に遠ざかっていく。後ろに吹く風にパジーが誘われている。・・・
「でも、わたしがいなくなったら、あの雛はオオカミに食べられてしまうし…。だから、わたし、必・・
死だった。今まで、そんなことしたことなかった。怖くて怖くて。足が震えたの…」・・・
パジーも何かに立ち向かったのだ。その思いが、パジーに勇気を与えたのだ。・・・
「一生懸命、自分の背より高い木を振り回したのよ。必死で、必死で、振り回したの」・・・
パジーが風に紛れていく。風の先に、パジーのパパとママがいるんだ。子供たちにはそれがなぜか・・
分かっていた。・・・
「いつの間にか、オオカミがいなくなっていた。巣に戻ったら、親鳥が戻っていた。雛は元気に産ま・・
れていたよ」・・・
パジーは、オオカミへの恐怖に打ち勝ったのだ。自分たちがそうであったように、パジーは魔界の・・
風を逆らい、自らの中に未来への歩みを創り出したのだ。子供たちは順にパジーを抱いた。光の中で・・
の抱擁は、驚くほど暖かいものだった。・・・
「わたしがあの雛を守ってあげたと思ったら、もの凄く嬉しくなった。そして、不思議と、夜の森が・・
怖くなくなっていたの。その時、パパとママの声が聞こえたの。いつもとは全然違う爽やかな風が吹・・
いた方から声がしたの」・・・
子供たちは泣いていた。あの街を出てから始めての、悲しみ以外のの涙だった。・・・
「おいで…。声は風の中にあった。わたし、風に飛びついた。そして、気付いたら、ここにいたの。・・
パパとママが、ここにいたら友達が来るよって言った…」・・・
パジーの光が、子供たちのそれぞれの腕の中から消えていく。パパとママと同じ温もりの風がパ・・
ジーを包み込んでいく。・・・
「パパとママには、少しだけ待ってねと言ってあるの…」・・・
チェナが離れていくパジーの光を、もう一度強く抱きしめた。えらいね、パジー…。・・・
「ありがとう、チェナねーさん。カッペのおにいちゃん、ジーニョのおにいちゃん…」・・・
カッペもジーニョも、もう一度パジーを抱いた。故郷の街の平穏な時の思いが、子供たちの中に大・・
きく揺れる。悪魔にねじ曲げられた自分たちの運命が、何か遠い昔のことのように思える。・・・
「ありがとう、チェナねーさん。カッペのおにいちゃん、ジーニョのおにいちゃん…」・・・
パジーが幼い笑みが、子供たちに新たな勇気を与える。パジーはパパとママのいるところへ行く。・・
そして、自分たちもそれぞれの未来を歩み始める。子供たちの笑みも一斉にパジーに弾ける。・・・
「幸せにね…。パジー…」・・・
パジーの笑みから、涙が一粒こぼれた。それは、パジーの光と共に美しい煌めきとなって子供たち・・
の前より消えた。・・・
「パジー、幸せにね…」・・・
子供たちの涙も消えたパジーへと煌めいた。笑みからこぼれた涙は、勢いよく森の風に散った。・・・
・・・
・・・
自分の中にあるあらゆるものが、リュリュの意識に次々と意味のあるものとして蘇っていく。今ま・・
で、それらはリュリュの奥深くで眠っていたものたちであり、魔女に生きるリュリュが無意識に意識・・
の裏側へ隠していたものたちだった。・・・
しかし、リュリュは 母の亡骸の前で泣くだけ泣き魔女を捨てた。意識の大半を占領していた魔の・・
部分が、リュリュの涙と共にとろとろ溶け、月の光へとゆるりと消えていった。耳の奥にいつも微か・・
に消えていた笛吹きのあの笛の音も、どこかの彼方へ遠ざかっていた。・・・
母の光が、黒い山の頂を越えていったのをリュリュは見ていた。母との再会は光の中である。遠い・・
先のことではない。今までなら、そんなこと思わなかったが、母の一途な強さにリュリュが変わった。・・
心の隅に渦巻いていた未来への希望が、魔女を捨てたリュリュに、様々な色を見せていた。・・・
母との別れをすませ、リュリュは山を下りた。母とはまたすぐに再会できる。リュリュにはやらな・・
ければならないことがあったのだ。・・・
子供たちがパジーとの別れを済ませ、それぞれの石像に跪き、自らとの対話を進めている。子供た・・
ちにもう涙は見えない。昔、母と暮らした森の小屋へリュリュは目を向けた。小屋に寄り添って自分・・
の石像も見える。・・・
山を下りた子供たちを笛吹きから守るために、リュリュもこの森へと入った。しかし、子供たちは・・
それも必要のないほどの強さを手に入れていた。自らの力強い歩みが、子供たちを更に未来へと果て・・
しない成長へと誘っていた。・・・
魔界の風もそんな子供たちに味方したのか、悪魔の姿はリュリュから見えなかった。リュリュは小・・
屋に寄り添う自らの石像の前に膝を折った。ここには、いつも母のお気に入りの酒樽が幾つか並べて・・
おかれていたものだ。母は月が帰る朝方に、この樽のひとつに腰掛けて小さく歌を歌っていた。・・・
・・・
-娘は隣村に嫁に行った…。生まれたてのロバを連れて…。・・・
孫娘はその隣の村に嫁に行った…。仲良し子馬のチビ連れて…。・・・
・・・
完全に忘れ去ったと思っていたものが、不思議とリュリュの意識に自然と流れ込む。母はこの歌を・・
歌ってよく昔を思い出していた。樽の酒で時折の度を潤し、小屋の中へ子守歌のように歌っていた。・・・
・・・
-隣村から嫁が来た…。ロバも子馬もいなかった…。・・・
けれど、その娘は綺麗だった…。ロバも子馬もいらなかった…。・・・
・・・
あの当時のことが、リュリュの脳裏に次々と素早く渦巻いていく。母との二人の暮らしは、リュ・・
リュにとっては何事にも変えられない楽しく輝いた日々であった。母と二人狩りをし、畑を耕し、自・・
然の中の自分たちの位置をしかと認識する。この星に生まれた喜びを朝に夕に感じ、存在の意味を森・・
の中に発見する。・・・
・・・
-嫁が隣村から帰ってきた…。大きくなったロバ連れて…。・・・
孫娘も次の日に帰ってきた…。子馬のチビは年老いていた…。・・・
・・・
そんな暮らしがリュリュは好きで好きでたまらなかった。幼き頃の思い出が、リュリュの中に溢れ・・
ていき、母への思いが再び大きく拡がる。今まで心の抽斗に鍵を掛けていた訳が、そんな思いに見え・・
てくる。・・・
怖かった…。幼き頃の日々を思い出すのが、魔女リュリュには怖かったのだ。・・・
・・・
-隣村から嫁が来た…。ロバも子馬もいなかった…。・・・
けれど、その娘は綺麗だった…。綺麗なままで帰っていった…。・・・
・・・
母の歌が目の前の石像から、当時のままの声で、そして、音の時折外れる調子もそのままで、聞こ・・
えてきそうだった。・・・
リュリュはそのまま石像にもたれ掛かり浅い眠りに落ちていく。今から、子供たちと未来への新た・・
な旅が始まるのだ。リュリュの頬はゆるりと綻んでいた。若かりし母の姿が、リュリュの瞼の裏に幾・・
重にも場面場面のその時の姿で重なっていた。・・・
・・・
・・・
「この石は、おれたちだ…」・・・
子供たちの未来への思いがそれを掴んだ。石像の目に光が浮かび上がる。・・・
「この石の中に未来への道がある」・・・
カッペが言うと、ジーニョが大きく頷く。・・・
「この石像にわたしたちが眠っていた…」・・・
チェナも力強く叫んだ。未来への扉が子供たちに開かれていく。・・・
「この石は、あたしたちの代わりにここに眠っていたのよ。いいや、この石が本当のあたしたちだわ。・・
魔界で過ごしたあたしたちは、あたしたちじゃないの。この石が、あたしたちなの…」・・・
チェナの言葉が、カッペにもジーニョにも胸に真っ直ぐ流れ込む。・・・
「そうだ、チェナの言うとおりだ…」・・・
子供たちが石との対話を始める。それぞれが、それぞれの過去と向かい合う。過去を知ることに・・
よって未来は見えてくる。そのことを子供たちが理解していく。・・・
「夢だったんだ。おれはこの石だったんだ…。今までは眠っていたんだね…」・・・
誰も泣いたりしていない。今までの悲しみが、石像の光にひとつずつ溶けていく。・・・
「さあ、お出で。その光に入ってお出で…」・・・
リュリュが光の向こうで誘っている。石像の光が益々色を濃くしていく。・・・
「リュリュねーさん…」・・・
子供たちが光へ突進し、リュリュが子供たちを両手で抱いた。互いが光になった。暖かさの中に、・・
涼しげな風が心地よく吹いていく。今まで感じたことのない嬉しい風が、光を過ぎていく。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
未来への叫びが大きくなった。それぞれの光が精一杯に、それぞれの光を抱いていた。・・・
「さあ、旅立ちよ。パパもママもきっと待ってくれているよ…」・・・
リュリュも叫んだ。光の先に、母のあの歌が微かに聞こえたような気がしていた。・・・
・・・
・・・
星が流れ海に落ち海中に白く泡が散る。勢いのまま星は海底に衝突粉々に砕け散る。轟音が響き波・・
がうねり、海底の闇を鋭く切り裂いていく。闇が渦巻き、砕けた星の欠片から漏れた光が四方に弾け・・
ていく。・・・
砕けた星の光は熱を帯びていた。輝きを自らの内へと引き込むように、光は徐々に照度を増してい・・
き、闇の深さを攪拌し溶かしていく。光の熱が海底にひとつの流れを創り、その流れに一度は散った・・
星の光のすべてが戻り来る。・・・
光が大きくなり、自らの輝きを誇り、その流れに寄り添い舞う。海底のうねりも、光の流れに鈍り・・
遠ざかっていく。・・・
光の舞いが激しくなり、海中の闇が色を落としていく。光の波動が高速になり、流れの勢いが増し・・
ていく。光が帯状に伸び角度を変える。その先に、別なる光が空間に蠢いている。・・・
「あの光だ…」・・・
光に微睡みが押し寄せていた。光の未来が自らに見え始めていた。・・・
「あの光へ…」・・・
存在という形が光の微睡みのなかに揺れ、その意味の理解が先の光に浮かび上がってくる。・・・
「存在している…」・・・
そのことが、光には驚くほど新鮮に感じ、自らの揺れに大きく喜びとして拡がる。・・・
「生きている…」・・・
光の暖かさが流れをはみ出していく。それは、光の記憶のどこかに埋もれている暖かさだった。光・・
は舞を納め、微睡みに揺れる温もりに意識を向けた。・・・
森に眠っていた思い、せせらぎに微睡んでいた時、白い風を追いかけていた頃、母に抱かれた思い、・・
いや、母の体液に包まれていた時、いや、それより更に遥かな過去、光だった頃、そう、すべて光に・・
包まれていた…。・・・
「そう、すべてが光だった…」・・・
暖かさにそれらが入り交じっていく。遥か宇宙からの風を光が感じ、すべてが光だった頃、その時・・
の匂い、熱さ、波動、生命の揺れなどが、光に津波となり押し寄せる。・・・
「ウオー!」・・・
光が空間にどこまでも煌めいていく。存在の意味と光の姿の理解が、光を激しさに包み込む。・・・
「ウオー!」・・・
光は叫んだ。光の理解の激しさをその叫びに乗せる。自らの存在が叫びの中に浮かび上がる。・・・
「目覚めよ…」・・・
光は自らの煌めきへ進んだ。生命の輝きを強く己の奥深くに感じ、魂の波動をしっかりと光の揺れ・・
に掴む。生命の槌音がどこまでも自らの中に響き渡り、その熱さが光の存在を力強く支えている。・・・
「目覚めよ…」・・・
光が微睡みを抜けた。光の中に、生命が炎となって燃え上がる。赤く白く燃え上がる。・・・
「おれは、存在している!」・・・
ミルダだった。ミルダの叫びが空に向かった。ミルダの光が海を越え、闇を過ぎ、天を駆けていく。・・・
「おれは、生きている!」・・・
ミルダの叫びが、汚れのない光の空間に拡がる。・・・
「おれは存在している!」・・・
その叫びは、光の空間の隅々にまで拡がった。ミルダは風を越えた。そして、自らの叫びをも越え・・
ていった。・・・
「おれは存在している!」・・・
・・・
・・・
ミルダの再度の目覚めは森だった。生まれ育った故郷の森のような気がした。・・・
「おれは存在している…」・・・
ミルダの中を果てしない力が渦巻いていた。目覚めに異常な程、自らの存在を感じていた。ミルダ・・
は幼子のように森を駆け回った。木々を飛び跳ね土を蹴りその上を転げた。そうしないと、自らの熱・・
さを抑えられなかった。自らの存在の果てしなさが、ミルダの中で大きな喜びとなって今にも破裂し・・
そうだった。・・・
「存在している…」・・・
森は静寂の午後にあった。木漏れ日がミルダを包み、その光が幼さに揺れるミルダには少し眩しい。・・・
「生きている…」・・・
ミルダは森を遊び自らの確認を続けた。存在を喜びに受け入れるという嬉しい作業を黙々と続けた。・・
オオカミに喰われた時のことを思った。自分は死を越えた…。そんな思いがミルダに確信となる。自・・
らの身体を触れてみた。幻想の肉体がミルダを包み込み、衣が白くその肉体を更に隠している。その・・
ことが、存在の理解を早めた。肉体は幻だ。自らの光は幻を抱いている…。自らの記憶にある姿を光・・
に浮かび上がらせている…。・・・
「生きている。いや、存在している…」・・・
存在に揺れながら、ミルダはやはり故郷の森を思い浮かべた。祖父が木陰から顔を出すかも、知ら・・
ぬ間にミルダは祖父を探していた。・・・
-ミルダ、とうとうここまで来たか…。・・・
祖父の声がしてきそうだった。笑みが自然と拡がる。ミルダの足は速くなっていた。・・・
しばらく進むと、前方の視界が拡がった。澄みきった空がどこまでも続いていた。瞼が洗われ、そ・・
の眩しさを身体一杯に受けた。ミルダは森を抜けた。風が薫り、黄色い海が見えた。所狭しと、太陽・・
と同じ色をした花が咲いていた。・・・
「すべてに抱かれたい…。すべてを抱きたい…」・・・
無限のひまわりだった。すべてに抱かれたい…。すべてを抱きたい…。ひまわりの群生にミルダは・・
瞬時そう思った。見事な花のハーモニーだった。・・・
「すべてに抱かれたい…。すべてを抱きたい…」・・・
生命の無限の集団だった。それぞれが、少しでも日の光を受けようと精一杯背を伸ばしている。無・・
限の息吹が風に揺れている。ミルダは強く引き込まれた。存在の尊さがミルダの意識の隅々にまで隙・・
間なく大きくなっていく。ひまわりたちの小さな生命を素晴らしいと思った。ミルダはひまわりたち・・
に敬意を払い、それと同時に、それに触れている自らをも誇った。・・・
「すべてに抱かれたい…。すべてを抱きたい…」・・・
ミルダはひまわりの中へ入った。自らをその美しき秩序ある調和の中に置いた。ミルダはゆっくり・・
とその中を進み、ひまわりたちの息吹に触れ、香りを戴き、風を受けた。心が洗われていき、意識の・・
安定が心地よくミルダに揺れる。・・・
「すべてに抱かれたい…。すべてを抱きたい…」・・・
自分の中で何かが溶けていく。この風に自分は変わっていく…。この香りが未来を見せてくれてい・・
る…。もう、今までの自分ではない。この生命の輝きは忘れない…。自分も、今、同じに輝いている・・
のだ…。ひまわりたちは自分を拒んだりはしていない…。存在を受け入れてくれているのだ…。・・・
「すべてに抱かれたい…。すべてを抱きたい…」・・・
行けども行けどもひまわりの海は続いた。一歩進むごとに、ミルダは変化を感じ、成長を思い、自・・
らの浄化を感じた。自らの存在への果てしない理解へと、少しずつ歩き続けた。・・・
「生きている。我々の存在は素晴らしい。おれは生きている!」・・・
・・・
・・・
ひまわりの花が途切れた。それを抜けると小さな丘が見えた。丘の向こうに街が拡がっていた。・・・
街には白い屋根が多く見えた。屋根に日の光が跳ね返り、丘のミルダにまで煌めきが届く。石造り・・
の建物が整然と並び、その中央に多くの人が行き交っている大きな道が見える。それは、思い出せな・・
いが、どこか昔に見たような景色だった。・・・
ミルダは丘を降りた。少し心が急いていた。ミルダ自身、意外なことだった。・・・
幼い頃から、ミルダは街が苦手で、どうしても他の人のように馴染めなかった。祖父との買い出し・・
も楽しいものではなかった。教会への道へ歩きながら、祖父の背中に隠れていたものだった。・・・
そんな思いに苦笑が昇った。あれほど馴染めなかった街へと自らが向かっている。それも、少々心・・
が浮かれ足が急いている。・・・
風が追い風なのだ。そんな理由を一人こじつけた。前へと向かう意思に風が後押ししてくれている・・
のだ。自分は風につられ風に従っているだけだ。・・・
そんなことにも、自らの変化と成長を思った。生命は果てしない。どこまでも輝きを持っている。・・
だから、自分の生命に数多くの糧を与えてやりたい。自らの存在がそれを切に望んでいるのだ。だか・・
ら、街を目指す。・・・
風が涼しく草の臭いが香る。新たなる自分を生きていく。ミルダの歩みに熱いもの絡み歩が大きく・・
なる。・・・
今まで肩肘を突っ張って生きてきた。精神を緊張の中へ無理矢理に押し込み生きてきた。そんな、・・
余分な力が消えていく。風がそんなミルダを優しく誘っている。自由という言葉がミルダの脳裏に木・・
霊する。その意味が見えてくる。・・・
美しい街だった。淡い彩りの石がすべての道に敷かれていた。通り行く人から笑顔がこぼれる。・・・
ミルダは一番の大通りを歩いた。その道が街を真っ直ぐに縦断していた。両脇にポプラやイチョウ・・
の木が植えられ、木々が、青く爽やかな風が通り過ぎるのを楽しんでいる。どこかで鳥のさえずりが・・
聞こえ、人々の笑い声がそれに混じり合っていた。・・・
それぞれの建物は、丘から見たものよりも小さかった。白いとんがり屋根が何かルールでもあるか・・
のように整然と並んでいた。調和の美しさが安定の安らぎのミルダにも届く。・・・
空き地に草花が咲き誇り、風にその香りを乗せている。背の高いひまわりも見える。それらのすべ・・
てが生きているのがミルダに見えた。存在の喜びに揺れているのが見えた。・・・
ミルダはその街を歩き、行き交う人たちと笑顔を交わした。どの人も安らぎの表情で安定の面もち・・
だった。それぞれがいい笑顔をしていた。・・・
しばらく行くと、ミルダの視界に一際大きな建物が入った。鐘付堂が見える。教会のようだ。幼い・・
頃、祖父に連れられた故郷の教会によく似ていた。白い壁に映える日の光が金色に輝き、煌めきが黄・・
金に揺れる。ミルダはそれへ歩いた。何かの出会いを、意識のどこかで期待していた。・・・
イチョウの木を抜け、教会の垣根に出た。垣根越しに何人かの人がベンチに腰掛けている。そこか・・
ら笑い声が漏れている。どの顔の笑顔もミルダに優しかった。だから、突然、ミルダは人恋しくなっ・・
た。自分でも、あの人たちに受け入れられる…。そんな思いがミルダを大胆にした。ミルダは人の輪・・
の中へと入った。自らの中に芽生えた変化が、ミルダを強く後押しした。・・・
「こんにちは…」・・・
その挨拶が、この場で妥当かどうなのか分からなかった。しかし、その人たちはミルダを認めると、・・
ベンチをひとつ開けてくれた。どうぞ…。手招きがどうしようもなく優しかった。ミルダは笑みを浮・・
かべベンチに座った。・・・
「ぼくは、今、ここへ着いたところなのです。よろしく…」・・・
人たちの笑みが拡がった。笑顔が日溜まりに溶けていき、輪の温もりがミルダに届く。・・・
「ようこそ…、グリーンアイランドへ…」・・・
一人が言った。他の人は笑みを続けていた。ミルダは笑みのまま頷いた。巧く笑みが作れてたよう・・
な気がした。・・・
「グリーンアイランド…」・・・
街の名を、この時始めて知った。ミルダの笑顔が素早く無限に拡がった。・・・
・・・
・・・
ひまわりの群生の中で、三組の母子が仲睦まじく語り合っていた。チェナ、ジーニョ、そしてカッ・・
ペ。魔界を出た子供たちは、それぞれに熱い涙をこぼし続けていた。子供たちは会いたい人たちと再・・
会した。愛する人たちは子供たちを待っていた。グリーンアイランドに母は子供たちを待っていた。・・・
涙の後に笑顔が昇っていた。何十年ぶりの幼さの笑顔をひまわりの香りが優しく包んでいく。母は・・
我が息子、我が娘を誇らしげに見る。母子にとって、遠い時の隔たりは自分たちが思ったほど離れて・・
いなかった。母子は分かり合おうとしていた。父ももうすぐ来る。・・・
「ママ…」・・・
日が西に傾き、風が黄昏を誘っていた。ひまわりたちが低くなっていく太陽に、一日の締めくくり・・
の大きな揺れを見せる。母子の時は歩みを遅くしていた。再会の時の風は、母子にこれ以上ない優し・・
いものだった。・・・
「ママ…」・・・
チェナは母の胸にもたれ掛かり、静かな時を楽しんでいた。幼さが全身に蘇り、無邪気さがどこか・・
へ駆けていく。母は少しも変わっていなかった。あの頃のように若かった。美しかった。そして、優・・
しかった。・・・
二人はいろいろな話をした。幼い日の思い出だ。話題は尽きなかった。涙を流し、手を握り合い、・・
大きな声で笑った。・・・
「ねえ、ママ…」・・・
しかし、楽しいことばかりではない。そう、あの日…。あの日のことがある。二人の話は、どうし・・
てもあの日に行き着いてしまう。それを避けようとすればするほど、あの日の思いが二人に昇る。そ・・
の後の母は辛い人生を歩んだようだ。あの日以降のことを多く語らない。・・・
「あの日のこと覚えている」・・・
あの日…。逃れようとしても逃れられるものでない…。チャナは思い切って切り出した。話が途切・・
れるのが嫌だった。・・・
「覚えているわよ。忘れるものですか…」・・・
母の声が一瞬にうわずっていく。感情の高ぶりが一気に母へ押し寄せていく。・・・
「許して、チェナ…」・・・
チェナには意外な母の言葉だった。チェナを抱く母の腕に力が入っていく。チェナは振り返った。・・
母が泣いている。・・・
「あの日、そうあの日…。あなたが、連れていかれたのは…。ああー、ああー、許してチェナ…」・・・
母の肩が落ち、長い髪がチェナの頬を滑る。むかしと同じ石鹸の匂いがした。・・・
「どうしたの、ママ? あたし、何も責めているんじゃないわ。ママ。本当よ、傷つけるつもりは・・
ちょっともないから…」・・・
チェナが母の手を握る。触れた手に熱い一粒が落ちる。・・・
「いいよ、ママ…。いいよ、辛かったら話さなくたって…」・・・
ほんの少し風を冷たく感じた。その時に、母が顔を上げた。濡れた目で遠くを見やった。横顔に険・・
しさが走りだしている。・・・
「あの日、あなたたちは、ネズミ捕り男に連れていかれた…。笛吹きのおじさんに…」・・・
笛吹きのことを、チェナは優しいおじさんだと母に偽って話していた。そうしなければ、自分が惨・・
めでやり切れなかった。母に不必要な心の負担を掛けたくなかった。・・・
「私たちが、ネズミ退治の報酬を支払わなかったからなのよ…。なんてバカだったのでしょう。約束・・
を違えたのは、私たちよ…」・・・
もう済んだこと…。チェナはそう言いたかった。しかし、素早い母の言葉がそれを遮った。母の言・・
葉が早くなり、涙が乾いていく。・・・
「私のせいなの…。そうよ、私のせいなの。私が、街の人に言ったのよ…。ネズミなんて、またすぐ・・
に出てくるわ。いちいち、お金なんか払っていたんじゃ…、馬鹿らしいわ…。あの薄汚いネズミ捕り・・
男には、石でもぶつけておけばいい。汚らしい旅芸人には、食べ残しのパンで十分だわ…。この街か・・
ら、早く追い出しちゃおう…。チェナ、私が、そう言ったの…」・・・
嘘よ…。信じられない…。そんなこと、ママが言うはずない…。チェナは驚きで母を見た。母の目・・
がチェナに真っ直ぐ刺さる。・・・
「チェナ…。これは事実なの…。私が、そう言ったの。そして、街の人たちは全員賛成したの…。そ・・
の結果が…。あー、何と言うこと…。私が、始めに言ったのよ…。私が、最初に…」・・・
チェナの思い出の母は優しくて若く綺麗だった。幼い自分の大きな自慢だった。控えめで上品な母・・
だった。そんなこと、ママが言うはずない…。チェナは母の目に真実を懸命に探した。・・・
「チェナ…。本当のことよ。今更、許してなんて言えないわね…。もう、どうしようもないことね…。・・
チェナ、私には、そのことが今でも心の凝りになっているの…。長く長く、その心の痛みを持ち続け・・
てきたの…。ごめんなさい、チェナ。今、あなたに包み隠さず話したら、少しは、楽になったわ…」・・・
母が無理に笑顔を作る。涙の跡があまりにも悲しい。・・・
「バカ! ママのバカ!」・・・
チェナが叫んだ。母を哀れに感じた。なんてバカなんだ…。いつまで、そんなこと思っていたんだ。・・
チェナは母の胸に思い切り飛び込んだ。バカヤロー…。もう済んだことだ…。・・・
「バカ! ママのバカ!」・・・
胸を拳で叩いた。強く強く叩いた。それは、幼い日の再現だった。わがままを言った時の仕種だ。・・
懐かしいあの頃の母の香りに包まれていく。ママ、もう済んだことよ…。チェナは幼心で暴れた。・・・
「バカ! ママのバカ!」・・・
大げさに甘えた。母の腕の中は楽しかった。母が戸惑っているだろうと、チェナは愉快だった。バ・・
カなことを思っていたママを思いきり困られてやりたかった。そして、そんなこと早く忘れて欲し・・
かった。・・・
「チェナ…」・・・
そんなチェナの思いが母に徐々に伝わっていく。グリーンアイランドの風がそれを優しく運ぶ。母・・
は娘を再度抱いた。涙はなかった。・・・
「バカバカって、チェナ。コノヤロー、親に向かって…」・・・
母娘は分かち合った。もう済んだこと…。チェナの思いが母に確実に届いた。・・・
「ハハハハ!」・・・
母が突然チェナを振りほどいた。悲しみが母から去っている。・・・
「チェナ、あの頃のように走ろう…」・・・
母の髪が風に靡く。母がターンしてひまわりの中を逃げる。・・・
「チェナ、あなた立派になったね…。ほんと、立派になったね」・・・
ひまわりの遥か向こうに綺麗な夕日が燃えていた。消えていく夕日がひまわりを赤く染める。親娘・・
の鬼ごっこを赤く染める。・・・
「待てー。ママー!」・・・
夕日の空にチェナの弾んだ声が響きわたった。カッペの声も、ジーニョも声も、それに絡んできた。・・
子供たちがひまわりを走った。夕日が、その分だけ余計に長く燃え続けた。・・・
・・・
・・・
無限のひまわりはひとつに輝き、ひとつに溶け合っていた。見事な調和だった。キリコはひまわり・・
の息吹に触れ、リュリュを抱いていた。キリコの面には、皺だらけの笑みがだらしなくこぼれている。・・・
キリコの存在は闇を越えた。黒く尖った山から闇に落ちたキリコは、深い意識の中に光を見た。魔・・
界の風が遠くになった時だった。それは、微かな煌めきを揺らせていた。キリコの無意識の層がそれ・・
を掴んだ。深い意識の奥のキリコの存在そのものがその光へ向かったのだ。娘に叫んでいたように思・・
う。リュリュと抱きあった時の光と同じ色だったように思う。キリコは闘い続けていた。存在の理解・・
への光へと向かい続けていた。・・・
闇が去ったのは、光がキリコを包んだ瞬間だった。リュリュが見えた。リュリュはこちらの光を覗・・
いていた。キリコに理解がなった。死…。死を越えた…。キリコはリュリュに思いを送った。鋭い光・・
がリュリュへ向かい、あの石像に母の光が届いた。・・・
それから、リュリュと抱き合いひとつになった。山で輝いた時と同じ光を抱いた。二人して、遥か・・
なる光へと昇った。いや、あの子供たちも一緒だった。リュリュがあの子たちを誘っていた。自らの・・
愛が、心の奥の光の波動と重なっていき、キリコは再び無意識へと落ちた。・・・
そして、その目覚めに森を歩いた。リュリュと語り合い子供たちを励ました。キリコに涙はなかっ・・
たが、それに似たような熱いものが心に留まった。・・・
死を越えた…。そして、存在の理解へ進む…。キリコは前に向いていた。羽織る幻想の肉体に、自・・
らの存在の果てしなさを思っていた。生命の奇跡を感じていた。・・・
「いい風じゃ…」・・・
リュリュにも変化が見える。リュリュはリュリュの中にある魔女を消していく。それが、キリコに・・
はこの上ないほどの喜びだった。激しい変化にリュリュは成長していく。ミルダや自分のように光を・・
求め、この風に悪魔の影を流していく。・・・
「わしらは、死を越えた。お前は、少し遠回りしただけじゃ。気にするな…」・・・
キリコはリュリュを抱いた。同じ思いがリュリュに見える。・・・
「可愛い子には旅をさせろ。まあ、そんなところじゃ…」・・・
リュリュを何度も抱き、リュリュに何度も抱かれた。ひまわりに二人して埋もれた。リュリュは喜・・
びに泣いていた。キリコはその涙を優しく拭いてやった。ひまわりに流れる時が緩くなっていた。キ・・
リコに未来への思いが大きくなっていく。子供たちも、それぞれに会いたい人たちが待っていた。・・・
「花の歌が聞こえるわい…」・・・
風にそれは聞こえていた。ひまわりの美しいハーモニーだった。キリコの意識をひまわりの風の音・・
が刺激する。・・・
「いい歌じゃ…」・・・
自分たち人間も、いつぞやは、このような調和の時代があったではないか…。遥かなる太古、いや、・・
それ以前…。なぜか、ひまわりのような調和の時代はあったと思った。キリコはリュリュの手を引き、・・
ひまわりの歌の中を進む。・・・
「いい歌じゃ…」・・・
この調和は、わしらにはもうない…。いや、未来にはそれがあるのか…。できるならば、今すぐ・・
リュリュと二人してひまわりになってしまいたい…。・・・
「いい風じゃ…」・・・
親子は抱き合いながらひまわりを歩いた。緩んだ時はしばらく元へ戻ることをしなかった。・・・
「いい風じゃ…」・・・
キリコはふとミルダのことを思った。そのうちに会えるじゃろう…。そう思った。・・・
「リュリュ、いい風じゃ…」・・・
・・・
・・・
「おい、リュリュ。街へ出てみないか」・・・
ひまわりが途切れた。丘の下の白いとんがり屋根が、日の光を一杯に受けている。魔界の日差しと・・
はまったく違う優しさが揺れている。金色の光の跳ね返りが緩やかだった。リュリュは母の声に頷き、・・
今度は母の手を取ってリュリュが前に出た。・・・
街は美しかった。リュリュは心軽く大通りを進んだ。風が違い、なぜか懐かしささえ感じた。吹く・・
風が故郷を偲ばせたのかも知れない。・・・
「いい街ね…」・・・
魔女だったリュリュの心が洗われていく。揺りかごに揺られていた幼い日が思いに浮かび、背中に・・
羽根が生えているように全身が軽くなる。両の足の軽いリズムリュリュを更にウキウキさせ、胸の中・・
に魔界よりの解放という思いが思いきり拡がる。・・・
「こんにちは…」・・・
「いい天気ね…」・・・
すれ違う人が、それぞれ声を掛けてくれる。街は見知らぬ者にも優しい街だった。リュリュも、そ・・
れにとびきりの笑顔で返した。・・・
「こんにちは…」・・・
人々の笑顔が眩しく人々の声が優しかった。・・・
「よいところですよ、グリーンアイランドは…」・・・
日傘の婦人がリュリュに言った。その婦人には、リュリュたちがこの街に着いたところなのが分・・
かっているようだった。リュリュのキョロキョロの瞳がそう見えたのかも知れない。・・・
「グリーンアイランド…」・・・
リュリュはこの街の知った。街の名に相応しい風だった。どこからか緑が薫り、リュリュを安らぎ・・
へと誘い心のウキウキがリュリュをはみ出していく。あの歌をリュリュが口ずさむ。・・・
・・・
-娘は隣村に嫁に行った…。生まれたてのロバを連れて…。・・・
孫娘はその隣の村に嫁に行った…。仲良し子馬のチビ連れて…。・・・
・・・
風に聖なるエネルギーを感じた。魔界にない透き通った風だった。グリーンアイランド…。緑の風・・
が白い街を駆け抜けていく。・・・
・・・
-隣村から嫁が来た…。ロバも子馬もいなかった…。・・・
けれど、その娘は綺麗だった…。ロバも子馬もいらなかった…。・・・
・・・
リュリュの歌声が高くり、キリコの濁声と重なっていく。・・・
・・・
-嫁が隣村から帰ってきた…。大きくなったロバ連れて…。・・・
孫娘も次の日に帰ってきた…。子馬のチビは年老いていた…。・・・
・・・
リュリュにとって、この歌を覚えていることが驚きであり、果てしないほどの喜びであった。リュ・・
リュは風に歌った。風に歌うにはもってこいのとぼけた歌だった。・・・
・・・
-隣村から嫁が来た…。ロバも子馬もいなかった…。・・・
けれど、その娘は綺麗だった…。綺麗なままで帰っていった…。・・・
・・・
リュリュは胸一杯風を吸った。風に意識がどこまでも膨らんでいく。できるなら、緑の風船になり・・
たい…。リュリュの頬が徐々に緩んでいった。・・・
・・・
・・・
教会の前でミルダは立ち止まった。ベンチで談笑していた人たちが、それをミルダに勧めてくれた。・・
グリーンアイランドへ着いたばかりの人が立ち寄るに最も相応しい場所のひとつ…。神父の話を聞か・・
れればよいでしょう…。ミルダはその言葉に従った。・・・
教会に、更なる変化が待ち受けているように思い、ミルダは中に入るのを少し躊躇した。ミルダは・・
その場で建物を仰いだ。白壁に大きな木製の窓が幾つか並んでいる。日の光が窓に流れ込んでいき、・・
とんがり屋根がその光のせいでやや遠くに見える。教会は光にすっぽりと包まれていた。・・・
「いい街だ…」・・・
更に、ミルダは思いに沈んだ。通り過ぎてきた街を意識に浮かべた。通りには図書館のようなもの・・
もあり、大通りには道化師や芸人がいた。広場には物売りや手品師の姿も見られ、所々に、地上の名・・
残りがあった。食堂もありパン屋もあった。不思議なことに宿もあった。旅人たちがそれへ立ち寄る・・
のだろうか。その宿の前で、靴磨きが路上で笑顔を振りまいていた。婦人たちの日傘が靴磨きの側を・・
行き過ぎる。それぞれの日傘が色とりどりに美しかった。ベンチには昼寝の紳士も多くいた。・・・
「いい街だ…」・・・
思いを今に戻し、ミルダは教会のドアに触れた。ドアは軽く音もなく開いた。・・・
その中には光が溢れ、明るすぎるほどだった。大きな天窓から光が洪水のように落ちていた。ミル・・
ダは、二歩三歩と中へ進んだ。視界のほとんどが光に埋もれた。・・・
光以外、これといって何もないといいほどだった。幼い頃、よく行った教会とは趣が違った。光の・・
先に無造作に並べられた長椅子が見える。人の姿は見えない。ミルダは更にその先の祭壇らしきもの・・
へ向かった。溢れる光がそれへと集まっていく。・・・
祭壇には何も置かれていない。ただ、光が大きく揺れており、時折の鋭い煌めきがミルダに届く。・・
神は光なのか…。光が、煌めきが、それへと意志を持っているかのように集まっていく。ミルダは大・・
きく目を見開いた。祭壇の側にドアがゆっくりと開こうとしていた。・・・
「……」・・・
ドアから出てくる者へ、ミルダは適切な言葉を探した。しかし、それはすぐには出てこなく、ミル・・
ダはその場を一歩退いた。光の中から神が現れるような錯覚がミルダを過ぎる。・・・
「……」・・・
ドアが開き、光がそれへと漏れていく。ひとつの影が光の海を泳ぐように音もなくミルダに近づく。・・
影が光に溶けていき、光にシルエットが揺れる。・・・
「ようこそ、ミルダ君…」・・・
光の中からそう聞こえた。低く太い、そして、どこかで聞いた声だった。自分の名を呼ばれたこと・・
より、その声に反応したことの方がミルダにとって不思議な思いだった。・・・
「ようこそ、グリーンアイランドへ…」・・・
少し光に慣れたようだった。ミルダは一歩声の方へ寄った。声の姿がはっきりと輪郭を描きだす。・・
背が高くほっそりとした体つきの男だ。真っ白な衣を着ているのだろうか、その者が祭壇に集まる光・・
と同化していく。肩まである金髪が少し風に靡く。・・・
「……」・・・
言葉を探すことをミルダは放棄した。ミルダの中に不思議が重なっていく。その影がミルダに優し・・
く、なぜか、影からの暖かさを感じる。・・・
影が光を抜けた。ミルダの目に男の姿がはっきりと見えた。・・・
「私は、ムーと言います。この教会の神父をしています。ようこそ、ミルダ君…」・・・
低い声が、広々とした教会の天井まで響き渡る。よく通る声だった。ムーと名乗った男はそのまま・・
ミルダに寄った。ミルダに暖かさが増していく。・・・
「グリーンアイランドの風には、慣れましたか?」・・・
静かな男だ…。ミルダの印象だった。グリーンアイランドの神父は静けさが似合っていた。・・・
「慣れたかどうかは分かりませんが、気分はとってもいいです」・・・
心軽く答えていた。男の端正な顔立ちをミルダは間近に認めた。ブルーの透き通った瞳がミルダを・・
強く射る。ミルダはその目に素早く引き込まれた。青く遥かな海とその色が重なり、大洋の煌めきが・・
ミルダの意識を一瞬掠めた。・・・
「いい街ですね…」・・・
どこかで会った男だろうか…。祖父と行った教会に掛けられていた絵の人物か…。それとも、夢に・・
出会った太古の戦士か…。ミルダはムーをまじまじと見た。額の中央に大きめの黒いほくろが、もう・・
ひとつの目のように見える。面長の顎が少し尖っているのが、口元をきりりと引き締め、仄かに赤く・・
艶を放つ唇を浮かび上がらせていた。・・・
「そう、グリーンアイランドはいい街です…」・・・
ミルダより少し若いのだろうか、全体に若さの張りがある。大きな存在感が、ミルダの全身を優し・・
く包んでいく。男の静けさがミルダにも届く。・・・
「あなたは、なぜわたしの名を…」・・・
グリーンアイランドの風のせいだろうか、それとも、ムーという男の大きさなのか、人との接し方・・
が不得意だったミルダが自然と心を開いていた。ミルダに不快でない戸惑いが少し揺れる。なぜか、・・
自らの変化が心地よい。・・・
「失礼。私は、あなたのことを知っています。お気に障ったらお許しを…」・・・
ムーが事も無げに、あまりにも軽い口調で言った。やはり、不快ではない。・・・
「どうぞ、こちらへ…」・・・
ムーが長椅子を勧めた。椅子が床に擦れ、微かにこの場には似つかわしくない不協和な音がした。・・
それは、地上での音と同じだった。それが不思議と新鮮に思え、なミルダはムーに隠して笑みをこぼ・・
した。・・・
「どうぞ…」・・・
二人は長椅子に少し離れて腰掛けた。再び同じ音がした。・・・
「ミルダ君、ひまわりの群生を通ってきたことでしょう。どうでした…」・・・
安心感、心地よさが、ミルダの全身に拡がった。目の前の男にミルダはどんどん引き込まれていく。・・
低い声が何の抵抗なく胸に滑り込んでくる。・・・
「驚きでした。わたしは、あれ程の生命を一度に見たことはありません。今から思うと、凄いエネル・・
ギーを吸収したような気がします。感動に、心がとろけそうだったことを、思い出します」・・・
男への警戒心というものが、ミルダからどこかへ消えてしまっていた。ミルダは素直な思いで心を・・
開いていた。それが、ミルダに嬉しく思えた。自らの変化の渦がミルダに優しく流れ込む。・・・
「ブルーアイランド、失礼、地上のことです。あなたが今まで生きてこられた地上です。ここグリー・・
ンアイランドの大気には、ブルーアイランドにはないエネルギーが多分に含まれているのです。お分・・
かりになられたでしょう…」・・・
ミルダは頷き、ムーの横顔を眺め続けた。青い瞳が光を集め、透明度が増していく。・・・
「したがって、ここの空気に触れているかぎり、精神的にも肉体的にも疲れることはありません。本・・
当は、食事も睡眠も必要ないのですが、ほとんどの者がブルーアイランドの慣習、名残り、習性など・・
て取っているようです…」・・・
既に、ムーからグリーンアイランドの話が始まっていた。ミルダは素早くその話に没頭していった。・・
ムーの低い声が相変わらず心地よい。・・・
「あなたは、もう、自分の存在を再確認されたようですね」・・・
ムーは前を見たままだった。ミルダは黙ってムーの青い瞳を見続けた。・・・
「ブルーアイランド…。つまり、地上での死は、ある意味で、我々の出発なのです。自らの存在の意・・
味を、どこまでも探究する旅立ちの時なのです。あなたは、その旅立ちの時を過ごしました。この旅・・
に終わりがあるのか、それとも、永遠に続くのか私には分かりません…。しかし、それは大変有意義・・
な旅なのです…。我々の光への道なのです」・・・
ムーの話が理解できていた。それが、ミルダには不思議ではない。・・・
「グリーンアイランドは、簡単に言うと幻想の世界です。地上で羽織っていたあなたの肉体は、新し・・
い幻想の肉体となって、あなたの意識を隠しています」・・・
ミルダはそのことを肌で感じていた。物質での地上の生活とはまったく異なることを感じ取ってい・・
た。なぜならば、ミルダの肉体が今までのように物質であれば、それは存在の再確認など無駄なこと・・
となってしまう。人々は死んで奇跡が起こり、別の空間に生まれ変わった。いや、別な世界へ舞い込・・
んだと思うだけになってしまう。・・・
「ここでの肉体は幻です。そのことは後にお話しします」・・・
言葉を挿むことをしなかった。ミルダに語るムーの横顔は美しかった。光がムーの瞳を素早く駆け・・
抜けていく。・・・
「あなたは、非常に珍しい方です。普通であれば、死の直後は、ブルーアイランドのことを強烈に引・・
きずっています。耐えきれないほどの精神的ショックから立ち直れない者たちばかりです。だから、・・
私はいつもなら、その者たちの爆発しそうなショックをゆっくりと溶かしていくことから始めます。・・
その深い傷を慌てずに癒していくことに専念します。まあ、なかには、老人の方で、覚悟を決めてい・・
たと言う人もいますが…。あなたのような人は大変に珍しい。非常に稀です。あなたは、既に自分の・・
存在の再確認を済ましている。たいしたものです。少々、驚いています」・・・
ムーの青い目がミルダに向いた。美しく透き通った瞳だ。・・・
「そのようなショックからは、あなたは抜け出されています。しかし、心の奥深くに残った微かな傷・・
はまだ癒えてはいません…」・・・
ミルダがムーの視線を外した。ムーの言葉が途切れる。・・・
「先を、続けましょうか…」・・・
ムーがミルダの反応を見ていた。ミルダは頷いた。先を続けて欲しかった。・・・
「我々の意識は、おおよそ、三層に分かれています。表面意識、深層意識、そして無意識の層です。・・
表面の意識は、常々我々が感じたり思ったりしていることです。あなたは、その層での心の傷は癒え・・
たようです。上辺の傷は治癒したようですね。ミルダ君…」・・・
ムーの目が更にミルダに近づく。深い海の色がミルダを包んでいく。・・・
「問題は、それからです。表層意識の次は、深層意識です。この深層意識は我々の心の奥の深いとこ・・
ろにある意識の層です」・・・
ミルダは目を閉じた。ムーの話に深く意識を向ける。・・・
「表層の意識は外部からの刺激や情報によって本質が変わっていくことがあります。その者の精神状・・
態によって非常に影響を受けます。精神が疲れているときは人の考えに感化されやすい。また、反対・・
の時はつい攻撃的になったり無理をしがちです。それらは、外部からの刺激や情報によって引き起こ・・
る現象です。そして、それが積み重なるとその者の本質まで変えてしまうこともあるのです。つまり、・・
表層の表面意識はころころと変わりやすく、揺れ動いている風のような意識です。しかし、我々は常・・
にこの意識を頼りに行動しているわけです」・・・
ムーの言葉が早くなっていた。ミルダの集中が増す。・・・
「深層意識とは、そのまだまだ奥にあります。この意識は深く奥にあるので、外部からの影響は受け・・
ません。この意識こそ、我々が持って生まれた何にも影響されていない本来の意識なのです。その者・・
の性格や考え方、行動の原点になる源です。我々は、この意識の層を使いこなすことがなかなか旨く・・
いきません。それは、この層の意識によって生まれた考えなどは必ず表面意識に昇るからです。表面・・
意識を、何もなく通りすぎることはできません。そして、その表面意識に流れ込む外部情報の物凄い・・
攻撃を受けるのです。せっかく、本来のその者の純粋な意識から生まれた考えも、この凄い攻撃で衰・・
退してしまうのです。つまり、そこで形を変えてしまってその者の外へ出てしまうのです。外部情報・・
の影響を強く受けた考えに変わってしまっているのです。そのことは追々に分かっていくでしょうが、・・
ミルダ君、あなたの深層意識の傷はまだ癒えていないのです。死というものをしっかりと理解しなけ・・
ればなりません」・・・
ミルダは大きく頷きムーを促した。あらゆることをムーから聞きたかった。ミルダは目を閉じたま・・
ま意識のすべてをムーの話へと向け続けた。・・・
「人間は、肉体の死をもってすべてが終わるものではありません。肉体が朽ち果て土に帰っても、そ・・
の精神、思考、性格、そしてその者の個性は、その後も生き続けます。長い長い時の中を、果てしな・・
い宇宙の中を、更に生き続けます。・・・
死は誰にも訪れる。絶対に避けて通れない道です。残していった者たちに、断ち切れない思いや悔・・
いを持って旅立つ者もいれば、それを待っていたかのように静かに流されて行く者もあります。しか・・
し、それですべて終わるわけではありません。・・・
人間の肉体は、母親が赤ん坊に着せる産着のようなものであり、様々な外敵から人間本来の至高な・・
る精神を守るガード役なのです。ガード役は、その機能を地上に於いて、その者の個性の一部となり・・
その者に尽くします。そして、その役目を全うするとその者から離れ土に帰っていくのです。・・・
肉体を離れた個性は、その個性の、思考、感情、意志などが支配します。思考、感情、意志そのも・・
のが個性となるのです。そして、未知の世界へ流れていくのです。・・・
しかし、それならば、今まで肉体と頭脳で行ってきた仕事を、いきなり素っ裸になった個性が、そ・・
の個性のすべてで引き継ぐことになり、非常なる困難と戸惑いを覚えることになってしまいます。今・・
まで長年、慣れ親しんだ肉体が消えてしまったその個性は、いったいどうしていいか分からなくなっ・・
てしまいます。・・・
そこで、このすべての世界の創造主は、その困難と戸惑いを解消するためにひとつの世界を造った・・
のです。それらの者の光の波動に合うような、ひとつの島を造ったのです。グリーンアイランドはそ・・
のような世界なのです。・・・
地球、この美しく輝く青い島、ブルーアイランド。そのブルーアイランドでの一生を終えたものは・・
グリーンアイランドへと旅立ちます」・・・
ムーの話は、一度ゆっくりと咀嚼したものを手のひらに乗せ優しく手渡すような話しぶりだった。・・
そのようにして、ミルダの理解を促している。・・・
「ブルーアイランドは物質で成り立っています。すべてのものが原子や分子で構成された物質です。・・
山も川も、海の水も雨の雫も、空の雲も野に咲く花も、鳥や蝶、そして人間も、みんな物質です。物・・
質の波長を持つものでないと存在をなさない世界です。ブルーアイランドは物質の世界です。・・・
しかし、グリーンアイランドはそれとは異なります。慣れ親しんだブルーアイランドでの物質的な・・
世界の、言わば模擬版であり、次のステップのための学習の場なのです。・・・
そこは、幻想で成り立っている世界です。山も海も、川のせせらぎも月の光りも、大地に根付く草・・
木も流れる風も、魚や虫たちも、みんな幻想です。・・・
グリーンアイランドに辿り着いた個々の個性は、まず幻想の肉体を授かります。そして、グリーン・・
アイランドの一員としての生活をスタートします。もう、ブルーアイランドでの産着、すなわち物質・・
の肉体は必要なく、新しい幻の衣、幻想の肉体を纏うことになります。・・・
勿論、幻想の肉体はブルーアイランドでの姿形と同一のものです。まだまだ肉体はその者の個性の・・
重要な一側面なのですから…。・・・
グリーンアイランドでは幻想の肉体でもって日々を過ごします。それは、ブルーアイランドの生活・・
とほとんど変わりはありません。・・・
そして、徐々に幻の衣を脱いでいくのです。グリーンアイランドの人たちは、そのためにいろいろ・・
学んでいるのです。・・・
グリーンアイランドはブルーアイランドのすぐ側にあります。ブルーアイランドの廻りをゆらゆら・・
と漂っているのです。そして、その二つの世界は、時として一部分が重なったり溶け合ったりしてい・・
ます。二つの世界は、不思議で奇妙なバランスを保っているのです…」・・・
ムーの話に付いていくことができていた。深い感動がミルダの中で音を立てて駆けめぐる。・・・
「グリーンアイランドは幻想です。この街も幻想です。しかし、実体を持っているのです。それは、・・
人々の意思や思念によってなのです。この街は、ここに住む者たちの意思や思念によって造り上げら・・
れてきたのです。いや、今も尚、その作業は、引き続き行われています。グリーンアイランドは、長・・
い歴史の中で、人々のひたむきな努力と忍耐、そして、美しい団結によって完成されつつある世界な・・
のです…」・・・
ミルダは目を開けた。ムーの視線が前方に戻っていくところだった。ムーは何も置かれてない祭壇・・
をじっと見据えた。・・・
「建築物を作るには、まず設計をします。物質の世界でも同じですね。しかし、ここでの設計は、線・・
を引いたり図を書いたりするのではなく、建設に携わる人たちの頭の中で行います。そう、思念です。・・
建物の大きさにも因りますが、かなりの人数の頭の中へ、これから造りだす建築物の設計図を叩き込・・
むのです。その者たちの思念の統一をするのです。この思念の統一が、少しでも乱れたり異なってい・・
たりすると、その建築物は日の目を見ません。・・・
思念の統一は大変なことです。建築物の細部に至るまで及びます。角度によっても違ってきます。・・
前から見た姿の担当者、後ろから見た形の担当者、横から、縦から、斜めから、内側から、上から、・・
下から…。つまり四方八方、上下内外からの、それぞれの担当者が見た姿を、いや、これから見る姿・・
を、ひとつに統一するのです。それは、凄く時間のかかる、忍耐と努力が必要な作業なのです。・・・
思念の統一が完全なものになると、次に、統一した思念を、建設地に飛ばします。設計の段階と同・・
じように、建設地を取り囲むようにして、それぞれが飛ばします。それは、何日も何日も途切れるこ・・
となく続きます。その中の一人でも脱落すると、すべてが終わってしまいます。・・・
何日、何十日すると、ぼわーと、思念が形を持って現れてきます。そうなると、もう少しです。設・・
計の通りの建物が姿を現すのです。そして、彼らの思念が完全にひとつになった時、立派な設計通り・・
の建築物が完成します。思念の形が、実際にこの地へ根付くのです。それが、幻想の建築物なのです。・・
このグリーンアイランドの建築物の多くは、そうしてできているのです…。この教会も、ここの者た・・
ちの努力の結果です。どうです、いい教会でしょう。私は非常に気に入っています」・・・
ムーが微笑んだ。子供のような笑顔だった。言葉が、少し早くなっていた。・・・
「グリーンアイランドの人たちの肉体も幻想です。しかし、それは、今言った建築物などとは違いま・・
す。肉体は生きています。しっかりと意識を持って行動しています。・・・
光の波動なのです。美しく鼓動する、我々そのものの波動なのです。生あるものすべて光です。そ・・
の光は、それぞれに生命の輝きを持っています。生命の限り、美しく鼓動しています。光の波動は、・・
生命の輝きを魂に訴えているのです。我々の魂は、その光り輝く光の波動に見守られているのです。・・
いや、その光の波動と共に揺れているのです。我々は光なのです。そして、その光が鼓動する姿が、・・
我々の魂なのです。・・・
これは、地上でも同じです。しかし、光の波動の在り方が、グリーンアイランドとブルーアイラン・・
ドでは少々異なります。ブルーアイランドでは、その光が見えないのです。・・・
魂という我々の本来の輝きが、ブルーアイランドではないがしろにされているのです。物質という・・
大きな足枷に、輝きを見失っているのです。物質である肉体に、魂の輝きが昇ってこないのです。魂・・
は光を抱えたまま、意識の深くで、密かな鼓動を続けているだけなのです。・・・
しかし、グリーンアイランドでは、光の波動が見えます。幻想の肉体に脈打つ光の血流が見えるの・・
です。我々の本来の姿である光が、徐々に表面へと昇ってくるのです。ブルーアイランドとグリーン・・
アイランドは、この点で、根本的に異なるのです。我々の生命の輝きである光の波動の本質が違うの・・
です。・・・
その光を、覆い隠すためのものが肉体です。光のままでは、グリーンアイランドでも生活すること・・
はできません。幼子の産着です。我々は、まだ幼子です。肉体という産気を着ているのです。・・・
光だけを面に出すには、我々はまだ未熟なのです。魂の揺れは、我々の中にだけ揺れているものな・・
のです。光の波動は、我々の内に秘めたものなのです。だから、肉体を羽織ります。ブルーアイラン・・
ドでは物質の肉体を…。そして、グリーンアイランドは幻想の肉体を…。・・・
更に、光の姿だけでは、存在という意味の理解がうまく行きません。我々は、肉体を持ってブルー・・
アイランドに生まれます。そして、死を越えグリーンアイランドに辿り着きます。そこでも、肉体は・・
持っています。いや、自らが創り出していきます。地上の名残です。未練です。肉体は、人々の存在・・
の最重要なものなのです。生の最初に慣れ親しんだ肉体です。物質的な作用をすべて司ってきた肉体・・
です。その肉体がなくなると、自らの存在を疑ってしまいます。つまり、肉体がないと存在していな・・
いように思えるのです。・・・
グリーンアイランドは、我々を、本当の姿である光へ導く州なのです。幻想の肉体を羽織り、心の・・
奥に鼓動を続ける光を育てていきます。幻想の肉体と光の波動を結びつけ、魂という我々の本質を浄・・
化していくのです。そして、我々はグリーンアイランドを越え、光の姿となって別なる世界へ旅立ち・・
ます…」・・・
ムーが少し間を置いた。青い目が、どこか遠くを見ているようだった。・・・
「ミルダ君。夢を見たことがあるでしょう。当然ですね、失礼…。ここグリーンアイランドでも夢は・・
見ます。夢の中で、自分が行動していることは多くあるはずです。その時の自分の肉体は、物質です・・
か…。いや違います。それは幻です。夢では、幻想の肉体を羽織っているのです。夢で他人に触った・・
ことがあるでしょう。夢で誰かに触られたことがあるでしょう。それでお分かりですね…」・・・
理解できていた。思わず、自分の腕をミルダは触っていた。手応えは地上でと同じだった。ミルダ・・
にとって、そのことがなぜか愉快だった。二度三度と腕をつねった。・・・
「光の波動によってもたらされる現象なのです。我々の本来の姿である、光の波動によって…。・・・
我々は、元々物質である肉体を持っていた。そして、物質の肉体を脱ぎ捨ててしまう。肉体という・・
方舟から下りるのです。物質の肉体は、我々を離れブルーアイランドの土へと帰っていくのです。・・・
しかし、肉体の奥で鼓動し続けていた光の波動が、肉体が離れていっても、その物質的な作用を覚・・
えているのです。言い換えれば、光の波動が、肉体を離そうとしないのです。我々の肉体は、光の波・・
動を通じての肉体なのです。肉体は、我々の魂の表現に欠かせないものとなっているのです。だから、・・
創造します。幻想の肉体を、我々は創造するのです。・・・
草や木だってそうです。あのひまわりたちだって。ここの植物や動物たちは、すべて幻想の姿です。・・
あなたと同じように、ひとつひとつ生命を持っています。光の波動を揺らせています。我々と同じ光・・
の波動を持っているのです…」・・・
ムーが再び間を置いた。今度は、少し長い間だった。短い沈黙が二人をゆるりと過ぎた。・・・
「ミルダ君、失礼になったら謝ります…」・・・
沈黙をムーが破った。静けさも、そして、それを破るのもムーには似合っていた。・・・
「私は、あなたが大変に気に入りました。グリーンアイランドに慣れるまで、当分ここで暮らしては・・
どうですか? 何も、ありませんが…」・・・
ムーが微笑みながら立ち上がった。室内の光が揺れた。微かにムーの長い金髪も揺れた。・・・
「グリーンアイランドには、着いて間なしの人たちのために、いろいろな宿泊施設や案内所などあり・・
ますが…」・・・
ムーは強引だった。ミルダの目を正面から見る。青いの光がミルダの目の前をさらりと流れていく。・・・
「この教会は、多種多様の信仰に対応できるように、祭壇には何も祭ったりしていません。祭壇は、・・
各自が各自の胸に仕舞ってもらっています。ミルダ君、あなたの信仰の妨げにはならないと思います・・
が…」・・・
有無を言わさない口調が、別に不快でもない。ミルダは自然と頷いていた。その申し出はミルダに・・
とっても有り難いことだった。・・・
「お願いします…。ラ・ムー」・・・
ラ・ムー…。なぜか、皇帝の名を呼んだ。そう呼ばずにはいられなかった。・・・
「ハハハハ…、ミルダ君。私は、ますますあなたが気に入りました。ハハハハ…」・・・
ムーの脳裏に太古の時代が横切っているのだろう…。ミルダはそう思った。ラ・ムーの瞳が更に遠・・
くへと靡いているようだった。・・・
(2)・・・
・・・
呪いの黒森は日暮れの闇に包まれ、静けさの中に魔の風が闇に身を隠していた。・・・
その森に、一人の女が笛吹きの帰りを待っていた。女の背は高く、異常なほど頭が大きい。肩が山・・
のように盛り上がり、巨大な尻を太い足が支えている。黒い布を器用に肩から羽織り、赤い紐で腰を・・
締めつけている。腰だけがなぜか不釣り合いなほど細い。鋼鉄のコルセットでもしているのかも知れ・・
ない。短い黒髪が艶っぽく風に光る。・・・
瞳は小さく薄いグリーン。そばかすがその周りに無造作に散らばっている。そして、目、鼻、口と・・
極端に中央に寄っており、女に幼さが見え隠れしている。女は巨大な体型とは似つかわしくない少女・・
のような顔をしていた。・・・
いかにも、バイタリティーの塊のような女だった。肩をいからせ腰をくねらす。腕を伸ばし足を蹴・・
上げる。首を左右に曲げ顎を上下さす。常に、女は身体の一部分を忙しげに動かしていた。彼女独特・・
のリズムなのであろう。それは、まったく無意識に行っているようだ。更に、時折、勢いよくフゥン、・・
フゥン、と鼻を鳴らす。体内で処理しきれない勢いを外へ出しているのだ。これも、彼女のひとつの・・
リズムのようだ。・・・
女は廻りへの警戒の様子などなく森を歩いていた。襲いかかるものに対する身の処理を心得ている・・
という表情だ。女は堂々と歩を進めていた。・・・
「誰だ…」・・・
女の思ったとおりだった。女の威武ぶりがこの森の主の目に留まっのだ。・・・
「この森に、何のようだ…」・・・
この森の主のことは調べが付いている。お前はしがない笛吹きだ。女は素早く笛吹きの後ろへ飛び、・・
そのまま笛吹きを羽交い締めにした。・・・
「待っていたわ…」・・・
笛吹きに驚く間すら与えない。笛吹きの腰が砕けていく。・・・
「ハハハハ…」・・・
女は高笑いを続けた。笛吹きを絞める腕に力が入っていく。・・・
「放せ!」・・・
森の主が情けない悲鳴をあげる。女は少し力を緩めた。やはり、この男、大したことない…。女の・・
面に安堵と物足りなさが交互に揺れる。・・・
「放せ!」・・・
笛吹きの足がばたつく。それにしても、異常なほど痩せた男だ。女の腕の中で笛吹きの骨が軋む音・・
がする。・・・
「だめ! 放すとあなたは消えちゃうの。土へと潜っちゃうでしょ…」・・・
女は優しく言った。それは、素晴らしく透き通ったソプラノだった。女は天使の声を持っていた。・・・
「私たちは、同じ波長の持ち主よ。魔界の黒い波長…。それぐらい分かっちゃうわ。ハハハハ…」・・・
澄んだ声が呪いの黒森に轟く。笛吹きの苦痛の表情が愉快でたまらない。・・・
「笛吹きのおじさん…。私はヴィゴルー。占い師よ。よろしくね…」・・・
女はさらりと言った。そして、更に力を弱め笛吹きの呼吸を促した。・・・
「私はヴィゴルー。いい名前でしょう…」・・・
笛吹きの荒い呼吸がヴィゴルーの頬に掛かる。すえた匂いがヴィゴルーに不快感を与えた。・・・
「しらけた奴…」・・・
ヴィゴルーはひとつ漏らした。もう少し骨のある奴かと思ったが…。ヴィゴルーは笑いを収めた。・・・
「しらけた奴…」・・・
ヴィゴルーは黒魔術の使い手だった。地上での一生は何人の人間を死に追いやったのか分からない・・
ほど狂気で暴れまくった。その巨大な体に物を言わせて、次々に人々の生命を奪った。破壊という狂・・
気を自らで操った。ヴィゴルーの表向きは占い師であったが、その実は、魔女であり、妖術師であり、・・
怪力の持ち主であり、更に、毒薬の扱いのプロであり、狂気の殺人者であった。・・・
相手など選ばなかった。金になれば誰だってやった。宮廷、貴族にうまく取り入り、上層の人々か・・
ら下層の者たちまで好き放題に殺しまくった。誰にもそれは止められなかった。地上でのヴィゴルー・・
は暴れ狂う猛女だった。・・・
「これはあんたのでしょう…」・・・
ヴィゴルーは笛吹きを放し、黒い笛を笛吹きに向かって軽く投げつける。笛が宙に舞い、折れた笛・・
が笛吹きの足下に落ちる。・・・
「汚い笛ね…」・・・
笛吹きの面に怒りが浮かぶ。それを見て、ヴィゴルーが再び微笑む。・・・
「おじさん、あなたの笛を拾ってあげたのよ。礼くらい言ったら…」・・・
笛吹きが地面に転がる笛を手に取る。それを素早く口に運ぶ。・・・
「無駄よ。私にあなたの術は通じないわ…」・・・
笛吹きが笛を吹く。しかし、それは笛が震えるだけだった。音が笛から外へ漏れない。・・・
「無駄だって言ってるでしょう…」・・・
笛吹きの笛が震え続けた。ヴィゴルーの笑みが微かに大きくなる。・・・
「それより、おじさん。魔界は今とっても大変なの。魔界へ流れ込む者たちが増えすぎて、溢れんぐ・・
らいの賑やかさなの。それだけ、悲しみ、欲望、怒りなどを抱き続ける者たちが、増えていると言う・・
ことなのね…」・・・
笛吹きに恐怖の色が浮かぶ。ヴィゴルーはそれに構わず先を続ける。・・・
「そう、魔界は狭くなっているの。どんどんと無知なる者たちが流れ込んでくる。私たちの魔界は暮・・
らしにくくなってちゃったの…。分かる、おじさん…」・・・
笛吹きが一歩後ろへ飛んだ。ヴィゴルーの表情が一変し、今までの微笑みが素早く歪む。・・・
「こんないい森を独り占めにしてはいけないのよ!」・・・
それは、笛吹きより数段素早かった。ヴィゴルーは一瞬のうちに笛吹きを再び掴んだ。・・・
「無駄だって言ってるでしょう。何度同じことを言わせるの…」・・・
笛吹きの恐怖の表情が深くなる。蒼白な面を、ただヴィゴルーに向ける。・・・
「おじさん、私はおじさんより強いわよ…。分かる…」・・・
ヴィゴルーは笛吹きの正面に廻った。再びすえた匂いが鼻孔を過ぎる。・・・
「分かった。分かったら。そうね、明日、明日の夜でいいわ。この森の者たちをすべてここに集めな・・
さい…。いいこと…、おじさん…」・・・
今度は鯖折りだ。笛吹きの眼球が徐々に表へ飛び出していく。・・・
「ハハハハ…。しらけた奴…」・・・
笛吹きが気絶した。ヴィゴルーは笛吹きをその場に放り投げた。・・・
「簡単な仕事だった。ロキ様も喜んでくれるでしょう…」・・・
ヴィゴルーは笛吹きから背を向けた。ヴィゴルーの脳裏から笛吹きが瞬時に消え去り、一人の男の・・
姿が鮮やかに美しく浮かんだ。・・・
「ロキ様…」・・・
ヴィゴルーはどこへ行っても歓迎されない厄介者だった。死後は、当然のように魔界へと流れ込ん・・
だ。しかし、そんなヴィゴルーでも一人だけ可愛がってくれる男がいた。男はヴィゴルーより大柄で・・
引き締まった若い肉体を持っていた。瞳はブルー。長い髪は金色。アールガルズという街の主だった。・・
その男だけはヴィゴルーの悪行を褒めてくれ、狂気を讃えてくれた。・・・
「ロキ様…」・・・
男とは悪魔と魔女の契約はしていない。それでも、ヴィゴルーは金髪の魔界の主に縛られていた。・・
恋心だ。誰にも相手にされないヴィゴルーでも乙女の思いは持ち続けていた。ヴィゴルーはその男の・・
ために動き、尽くしている。すべて、男の思いへと向かっている。ヴィゴルーにとって心弾ずむ仕事・・
なのだ。・・・
「ロキ様…」・・・
ヴィゴルーは恋い焦がれる男の元へと急いだ。魔界の風がヴィゴルーにだけ強く吹いた。・・・
・・・
・・・
鬼神ロキ…。・・・
ゲルマンの神話伝説に登場する神々の中でも、特に際立った存在の神、ロキ…。・・・
ラナグレル(神々の黄昏)と呼ばれる終末の滅亡の時、魔軍の中で神々と戦ったとされる。性悪の・・
鬼神、ロキ…。・・・
神話伝説によると…。・・・
鬼神ロキの非常に容貌は美しかった。しかし、その性格は性悪で奸知に長けていたと言う。アール・・
ガルズ(神々の砦)では数々の悪行の限りを尽くし神々から追放されたとされている。・・・
しかし、その悪行があまり酷かったので神々の怒りはそれでも収まらず、アールガルズから消えた・・
ロキに追跡の手が伸びた。・・・
ロキは神々の怒りの復讐から逃れるために、ある山の上で小屋を建てて隠れ住んだ。しばらくはほ・・
とぼりが冷めるまで静かに暮らすつもりだった。そして、いつの日が神々を見返してやろうと考えて・・
いた。ロキは魚を獲って過ごした。暇を持て余し、魚取りの網を作ったりした。・・・
その隠れ小屋を、神々の王オージンに発見され、神々の軍にその小屋のまわりを囲まれてしまった。・・・
ロキは慌てて魚取り用の網を燃やし、小屋に火を放ち、姿をカエルに変えて、付近にあった滝壺に・・
飛び込む。その深い底に身を沈めた。・・・
神々の王オージンは、燃え盛る小屋に残った魚取りの網の焼けた灰を見つけた。そして、それを参・・
考に蛸壺のロキを捕らえる網を作った。ロキに油断があった。まさかオージンにそんな知恵があると・・
は思ってもみなかった。ロキはオージンに捕らえられた。・・・
捕らえられたロキは神々に容赦のない攻め苦を受けた。神々は、まず、ロキを暗い洞穴に閉じ込め・・
た。そして、ロキの三人の息子のうち二人を連れ、ロキの目の前で、兄の姿をオオカミに変え、弟を・・
八つ裂きにして殺させた。それから、弟の腸を死体から引き出し、その腸で、三つの岩に横たえたロ・・
キの肩と腰と膝を縛りつけた。ロキの頭上に毒蛇を一匹吊るして…。・・・
しばらくすると、その毒蛇は口から毒液を滴らす。ロキの口もとへ垂れ落ちてくる。しかし、かた・・
わらにいた貞節なロキの妻、女神ギシュンが、ロキの顔の上に桶をかざし毒蛇の毒液を受け続けた。・・
だが桶がいっぱいになると、それを妻が流しにいくので、そのあいだは毒はロキの顔にかかる。その・・
時は、さすがのロキも猛烈に苦しんで身を震わした。このロキのもがく震えが、地上の地震の原因と・・
されたという。・・・
しかし、ロキの運命はここで死ぬことにはなっていなかった。彼は終焉の時そこを逃れた。そして、・・
恐ろしい魔物たちの軍勢に加わって神々と壮絶な殺し合いを演じた。世界の破滅に一役買うことに・・
なったのだ。ロキは狂気の末に神々の世界から消えていった。神々の怒りもロキには通じなかったと・・
いう。そう、ゲルマン神話は伝えている。・・・
・・・
・・・
この物語のロキも、神話の鬼神と同じように美しい容姿と性悪な奸知を併せ持っていた。そして、・・
神々の砦という意味を持つ街に君臨していた。魔界のカリスマな存在だった。・・・
そのロキが、ヴィゴルーの帰りを待っていた。ロキは、金髪を魔界の昼下がりの風に流し、青い目・・
で遠くを見やっていた。眉間にやや皺を寄せ、一人物思いに耽っていた。・・・
「……」・・・
溜息がロキから何度も漏れていた。手に持つ酒をゆっつくりと干す。・・・
「……」・・・
ロキは、自分が支配する魔界を創り上げてきた。気の遠くなるほどの時を掛け、それを築いてきた。・・
しかし、魔界の都市は自分の思った以上に問題が山積みにあった。自らの理想とは、あまりにもかけ・・
離れてしまった。ロキの苛立ちは最近日に日に増していた。・・・
-アールガルズ…。・・・
ロキは街をそう名付けた。神々の砦という意だ。神々への当てつけだ。いや、神など存在しない。・・・
-アールガルズ…。・・・
その名は気に入っていた。・・・
アールガルズは、静かな流れの大きな川と、石積みの市壁で囲まれた街だった。どの屋根も黒く尖・・
り、天に牙を向けている。行き交う道は狭く、迷路のようにくねくねと曲る。風は黒く吹きさらし、・・
ゴミがその風と戯れる。無秩序に何もかもが入り乱れ、太陽の光さえ混沌の渦の中に靄っている。暗・・
黒の雲が低く垂れ、建物の影が闇を深くしていた。・・・
当然、そんな街に暮らす者たちの光も霞んでいた。人々は光を見失っていた。・・・
この街も、グリーンアイランド同様、幻想で形取られた街だ。魔界に暮らす者の思念によって築か・・
れていった街だ。思念が構築する幻の中での暮らしなのだ。しかし、この街の者たちはそれをまった・・
く理解していない。いや、理解しようとすらしなく、物質のみの考えをいつまでも胸に深く抱き続け・・
ている。・・・
更に、アールガルズの者たちは、地上での悲しさ、苦しさ、恐れ、欲望、エゴなどを、捨てきれず・・
に満々と持ち続けていた。どろどろとした醜い汚れに、もがき苦しみ、悲しさ、辛さの日々を過ごし・・
ていた。人々は闇に生きていた。・・・
それは、それで、ロキによっては都合の良いことだった。いや、ロキ自身がそのようにアールガル・・
ズを創ってきた。街には無知が溢れている。人たちの醜さが蔓延している。ロキのお気に入りの光景・・
なのだが…。・・・
しかし…。・・・
ロキは意識を近くへと戻し、遠い目を眼下の地上へと移す。ロキの牙城である庁舎の周りにたむろ・・
する無数の物乞いの姿がロキの視覚を埋めた。・・・
「ああ、神よ…。我々をどうか救い賜え…」・・・
「神よ…。いや、ロキ様よ…」・・・
「ロキ様、我らを救い賜え!」・・・
街の住人だちだ。いつものように、無知なる者たちの祈りが始まっていた。ロキの立つ階上のベラ・・
ンダへ向かって、それぞれが大きく叫ぶ。醜さが津波のようになってロキに押し寄せる。・・・
「ああ、神よ…。ロキ様よ…」・・・
「我々を、どうぞ、我々に光を…」・・・
「どうか、ロキ様、一粒の糧を…」・・・
「一夜の安らぎを…。お願いします、ロキ様…」・・・
いつもの光景なのだ。毎度のことなのだ。しかし、ロキの苛立ちが膨れ上がっていく。無知なる醜・・
さがロキを無秩序に責める。・・・
「ロキ様、ああ、我が神よ…」・・・
「我が偉大なるロキ様よ…」・・・
「我らを救い賜え…」・・・
「ロキ様、我らを救い賜え!」・・・
生命が多すぎるのだ…。醜すぎる…。ロキの苛立ちの原因だ。ロキはベランダを離れた。愛用の剣・・
を手に取る。身の丈ほどある長い剣を、自らの部屋でひとつ振る。・・・
「ああ、神よ…」・・・
「ロキ様、ああ、ロキ様…」・・・
「ああ、神よ…。ロキ様よ…」・・・
生命が多すぎる…。醜すぎる…。苛立ちがロキの中で怒りに素早く変わる。ロキの意識に黒い炎が・・
燃えていく。・・・
「ロキ様、ああ、ロキ様…」・・・
「ああ、神よ…。ロキ様よ…」・・・
草や木、花や実、そして、人間ども…。魔界でも、地上と同じようにそれらは生命を持っている。・・
それぞれが光の波動を備え生きている。幻想の花が咲き、幻想の草が生育する。老木は枯れ、若葉が・・
芽ばえる。魔界での生命の歌がある。・・・
「ああ、神よ…」・・・
「ロキ様、ああ、ロキ様…」・・・
草や木はいい。自由にすればよい。そして、それらは無知ではない。・・・
「ああ、神よ…。ロキ様よ…」・・・
「我が偉大なるロキ様よ…」・・・
しかし、人間たちはあの様に限りなく無知だ。無知が所狭しとはびこっている。・・・
「ロキ様、我らを救い賜え!」・・・
「ああ、神よ…。ロキ様よ…」・・・
生命が多すぎるのだ。醜さを醸し出すのは、人間たちの限りない無知の成せる技だ。そう、人間た・・
ちが多すぎるのだ…。・・・
「救い賜え…。ロキ様…」・・・
「我に光を…。いや、我に糧を…」・・・
魔界に生命が溢れんばかりにどんどん増える。ブルーアイランドより魔界へ流れ来る者たちが、・・
まったくとして後を絶たない。無知なる者たちが、同じく無知なる波長に引き込まれて来る。アール・・
ガルズの黒い風に、無知なる者たちが醜さを乗せて紛れ込んでくる。・・・
「ロキ様…。我に糧を…」・・・
「我にパンを…」・・・
歯止めなどない。それらの者は自らの意志を持たない。ただ、風に運ばれてくる。・・・
「我にパンを…」・・・
「我に救いを。ロキ様…」・・・
人々は意味のない存在を続けている。いや、存在の意味など、その者たちにとっては何の意味もな・・
い。抜け殻だ。光の存在より遥か彼方へ去っていった者たちだ。一欠片の価値もない者どもなのだ。・・・
「我に光を…。いや、我に糧を…」・・・
「救い賜え…。ロキ様…」・・・
ロキの怒りが破裂する。愛用の剣がロキによって光を帯びる。ロキは再びベランダに出た。怒りの・・
表情が物乞いたちに向く。・・・
「ハハハハ! 皆の者苦しめ! もっと苦しめ。ハハハハ!」・・・
ロキは叫び、剣を肩に担ぎベランダを飛んだ。突然の行動は、ロキの得意とするところだ。・・・
「皆の者! もっと、苦しめ! もっと、泣き叫べ! もっと、もっと、もがけ!」・・・
ロキが地上に立つ。物乞いたちがロキに寄ってくる。虚ろな目で神に救いを求めてくる。・・・
「もっと、苦しめ! もっと、悲しめ! それが、お前たちの宿命だ!」・・・
ロキは、物乞いに向かって剣を一振りする。剣がしなり風を切る。刃に血を欲しがっている。剣の・・
殺気が周りに迸り、ロキの怒りが物乞いに向かう。・・・
「死ね! 死んでしまえ!」・・・
手当たり次第に斬り付けた。ロキが手にすると、その剣は魔剣となり、うねりを上げて物乞いたち・・
の血を吸っていく。物乞いたちが次々と倒れていく。悲鳴すら上げずに一刀に両断されていく。・・・
「苦しめ! 泣き叫べ! もがけ!」・・・
ロキは暴れまくった。ロキの狂気がアールガルズの風を引き裂いた。男の頭を落とし、女の胴を斬・・
る。子供を袈裟に断ち、老女の腹を裂く。まさしく鬼神だ。ロキの青い瞳が赤く色づく。・・・
「ロキ様! わたしめも斬ってくだされ!」・・・
「おいらも、斬ってくだされ!」・・・
「おー神よ! ロキ様よ!」・・・
物乞いたちは、ロキの姿に神を見ていた。ロキの荒々しい振る舞いが、神の乱舞に映っている。・・・
「ウオー! 神よ!」・・・
「ロキ様! 我らを救い賜え!」・・・
「ロキ様、わたしめを斬ってくれ!」・・・
我先にと、物乞いたちがロキへ近づく。ロキへと向かう物乞いの波ができる。屍が重なり、異臭が・・
物乞いたちを狂気へと落とし込む。・・・
「苦しめ! 泣き叫べ! もがけ! そして、死ね!」・・・
ロキの大柄な身体が、野獣のように踊る。金髪を振り乱し、剣を次々と下ろしていく。血飛沫の中、・・
ロキは走った。魔剣が光を増す。・・・
「苦しめ! 泣き叫べ! 死ね!」・・・
無数の物乞いが重なり倒れていく。自ら進んでロキに斬られていく。まさしく地獄絵図だ。・・・
「神よ! ロキ様! 我らを救い賜え!」・・・
「ロキ様! 我らを救い賜え!」・・・
「ロキ様、わたしめを斬ってくれ!」・・・
ロキの頬に笑みが浮かんだ。怒りが徐々に引いていく。狂気が次第に失せていく。・・・
「無知なる者たちよ…。醜すぎる…」・・・
ロキが剣を収めた。その時、ロキの中に小さな空洞ができた。虚しさが一瞬にロキを包んだ。・・・
・・・
・・・
狂気の沙汰だった。しかし、それは、アールガルズでは日常茶飯事のことであり、いつもの風景・・
だった。ロキの魔剣によって斬られた者は、数えきれなくなっていた。いつからだろうか…。ロキが・・
アールガルズを築いた頃はこんなことはなかった。人々は、悲しみ、怒り、欲望、苦しみなどを抱え・・
たまま静かに暮らしていた。・・・
ところが、ある日、一人の男がパンを盗んだとして袋叩きにあった。日頃の溜まっていた人々の鬱・・
憤が、その期に爆発したのだ。矛先はパン泥棒に集中した。長時間のリンチで、泥棒は死んでしまっ・・
た。加害者たちは死んだ男を置き去りにしてその場を去った。それで、その事件は、けりが付いたか・・
と思われた。・・・
しかし、パン泥棒は生き返った。加害者たちが忘れかけた頃に再び街に現れた。・・・
魔界では当然のことなのだ。既に地上で死を経験した者たちだ。二度死ぬことはない。魔界での肉・・
体は幻想だ。死も幻想、幻影だ、幻覚だ。泥棒は、死の疑似体験をしたに過ぎない。幻想の肉体はど・・
んなにバラバラになっても、一定の期間で元に戻る。その者の奥深くにある生きることへの名残りが、・・
幻の肉体を蘇生させる。陽炎のような生命を隠す幻想の肉体を…。・・・
蘇ったパン泥棒は、懲りずに泥棒を続けた。そして、再びリンチにあい死んでしまった。しかし、・・
泥棒はもう一度生き返った。人々は驚いた。泥棒の話を聞いた。・・・
「死んでいた時の方が幸せだった。その間は、悲しみも、憎しみも、恨みも、苦しみも、忘れること・・
ができた。永遠に消えることのないものだと思っていた辛さが嘘のようになくなっていた。あー、本・・
当に幸せな時間だった…。できるものならば、もう一度、いや、何度でも死にたい。いや、ずっと、・・
死んでいたい…」・・・
人々は男を信じた。二度も生き返った男の言ったことだ。多くがその言葉を信じた。いや、信じた・・
く、何かに縋りたかったのだろう。アールガルズには、希望という風が吹いたりしたことがなかった。・・・
「死んでいた時の方が幸せだった…」・・・
泥棒のその言葉に、アールガルズの人々は感化されていった。街に殺しあいが絶え間なく続くよう・・
になった。死んでも蘇れる。死んでいる時は、静けさの幸せに浸ることができる。死にたくない者な・・
どいなくなった。魔界アールガルズが、本当の魔界、地獄、狂気の世界へと変わっていった。・・・
「死んでいた時の方が幸せだ…」・・・
人々はそう叫んだ。悲しみが人々の間に渦巻いた。・・・
ロキは、その機を逃さなかった。哀れな者たちを殺しまくった。最強の剣で斬って斬って斬りま・・
くった。ロキに斬られた者は特別な幸せに浸れる…。運が良ければ蘇らなくってもよい…。神の啓示・・
の如くの噂も広めた。・・・
ロキは勿論知っていた。魔界の仕組みを、そして、魔界の者たちの感情も、心の傷も、痛みも、と・・
んでもない無知さも…。・・・
ロキは神になった。無知な者たちのカリスマになった。ロキは、法を作って人殺しを牢へ放り込ん・・
だ。そして、宣誓した。・・・
「我が手に掛かって死せるものは、必ず幸せの時がやって来るであろう。この世は地獄だ。我は、堪・・
える涙を振り切り、汝たちを死へ導くために力を注ごう。それによって、我はどんな償い、どんな苦・・
しみも、我一人が受けようとも…」・・・
魔界の神は、人々の無知ゆえの勇気を与えた。人々の死への願望は、すべてロキへ集中した。神ロ・・
キの手に掛かって誰もが死にたがった。鬼神ロキが、遥かなるラナグレルより蘇った。・・・
人々は何もせず怠けるようになっていった。日々ぶらぶらと過ごした。死を恐れなくなると、努力・・
や苦労をしなくなった。多くが汗を流したりしなくなった。当然のことだった。死への願望が人々を・・
雁字搦めにした。怠慢な生活が当たり前になり、死ぬことばかりを考えるようになった。人々は好ん・・
で物乞いになった。・・・
死への願望が叶えられない者、すなわち、ロキに近づくことのできない者、あるいは、死への恐怖・・
から抜けきれない者たちは、仕方なく普通の生活を続けた。今まで通りの仕事を行い、苦しく辛い・・
日々を続けた。・・・
アールガルズに、二通りの生き方ができ上がった。物乞いになる者。今までのように仕事を続ける・・
者。その隔たりは徐々に開いていった。・・・
ロキは、仕事を続ける者を優遇した。身分を物乞いよりも高く置き、街の運営に参加・協力させ自・・
尊心を煽った。そうしないと、アールガルズの都市機構はまったく用をなさなくなった。物乞いたち・・
を死への誘惑で縛り、少し理知のある者を啓発と誇りで繋ぎ止めた。ロキの思いの形がこうして整っ・・
ていった。・・・
しかし…。・・・
人々の醜さが、ロキの予想を遥かに上回っていた。人々の無知さが、ロキに苛立ちを募らせていっ・・
たのだ。ロキに数多くの問題が上積みされていった。・・・
・・・
・・・
ロキは部屋に戻り、再び眉間を寄せる。息など乱れてはいない。・・・
「ヴィゴルー。どうだった?」・・・
ドアの側のヴィゴルーに声を掛けた。ヴィゴルーがもじもじと巨体を揺すっている。・・・
「はい、ロキ様…」・・・
ヴィゴルーの声が上擦る。いつものことだ。ヴィゴルーが極度の緊張にある。・・・
「あの森は、良さそうだ…」・・・
煩わしいが、ロキは仕方なく少し笑みをヴィゴルーへ向けた。狂気の女に気を使っている自分がお・・
かしい。・・・
「ヴィゴルー。お前はいい子だ…」・・・
優しく微笑む。青い目をヴィゴルーに向けてやる。ヴィゴルーが赤らんでいる。・・・
「さぁ、いい子だから、報告をしておくれ…」・・・
ヴィゴルーの鼻がくんくんと動きだす。いつものことだ…。そして、その後、それは破裂する。い・・
つものことだ…。ロキは笑いを堪えた。不快感がどういう訳かいつもより薄い。・・・
「ハッークシュンー!」・・・
予想に違わず、大音響がロキの部屋に轟いた。ヴィゴルーの中に溜まったバイタリティーと恥じら・・
いの嵐が、一気に爆発した。・・・
「いいんだヴィゴルー。いい子だから落ちついておくれ…」・・・
物乞いたちのように、ヴィゴルーをずたずたにしてみたい思いを隠した。ロキはヴィゴルーより背・・
を向けた。・・・
「あの森は呪いの黒森と呼ばれ、一人の名もない道化師が支配しています。その道化師は笛吹きです。・・
どうやら、ネズミ捕り男のようです」・・・
少し落ちついたようだ。ヴィゴルーのソプラノが、ロキの背に心地よい。・・・
「笛吹きの他には子供しかいません…。三十人程の幼い子供たちです」・・・
ヴィゴルーの鼻が小刻みに動く。もう一度、恥じらいの破裂なのか…。ロキは慌てて振り返った。・・
驚きのヴィゴルーがロキの視線を外す。・・・
「よし! ご苦労だった」・・・
もう聞きたくない。あのくしゃみは耳をつんざく。・・・
「もういい、引き続きその森で沙汰を待つように…」・・・
ヴィゴルーが大きく頷き、巨体を丸め部屋から出た。ロキにひとつため息が漏れる。・・・
「ハッークシュンー!」・・・
ドアの外で、もう一度大音響が響いた。ロキの二つ目のため息は、その残響にかき消された。・・・
・・・
・・・
ロキにはひとつの考えがあった…。それは、ここ最近、ロキの意識に徐々に膨れ上がっていた。・・・
この世は、なぜ、こんなにも醜いのか…。なぜ、こんなに汚れきっているのか…。・・・
ロキは、勿論グリーンアイランドも知っている。性に合わなく直ぐに出てきた。グリーンアイラン・・
ドの見せかけだけの幸福感に、ロキは我慢ができなかった。薄っぺらい安堵や落ちつきに反吐が出る・・
ほどの拒絶感を覚えた。・・・
グリーンアイランドも、ロキにとっては醜く映った。まだ、アールガルズの方がきれいに見えた。・・
無知を無知とも思わない物乞いたちの方が素直に見えた。・・・
原因は分かっている。すべての元凶だ。ロキはそれを思った。・・・
とにかく、生命が多すぎるのだ…。ひとつひとつの小さな生命が途轍もなく多すぎる。所構わずに・・
無秩序に氾濫している。今にも溢れださんばかりなのだ。神は、なぜ、このように多すぎる生命を世・・
に芽生えさすことを許したのか。何の制限もなしに…。悪影響を考えなかったのか…。醜さが見えな・・
かったのか…。・・・
人々は、快楽によって新しい生命を芽生えさす。男と女は、肉欲だけで聖なる生命を創る。いや、・・
創ってしまう。ただ、肉欲のためのみで…。・・・
そして、苦痛によってその生命を野に放つ。それはいい。恐れも知らない肉欲の行為の代償だ。苦・・
痛が伴って当然だ。しかし、その原因を辿れは快楽だ。肉欲だ。その行為こそ、激しい苦痛が伴って・・
当然なのだ。死ぬほどの苦しみ、もがき狂う程の痛み、のたうち廻る苦悩、なぜ、それらの激しさが・・
ないのだ。その行為に苦しみや痛みを伴わない。だから、人々は、何も考えずに次々に新しい生命を・・
生み出してしまう。快楽だ。肉欲だ。悦楽の大罪だ。・・・
ブルーアイランドもしかり、グリーンアイランドもしかり。そして、魔界もしたり。とにかく生命・・
が多すぎる。限界だ。これ以上殖え続けると、醜さがすべてを包み込んでしまう。・・・
生命を減らす…。美しさを取り戻すにはそれしかない。ロキの思いはそれへと向いていた。・・・
アールガルズの街は息子たちに譲る。ロキには神話の通り三人の子があった。どれも、残忍な性格・・
の持ち主だ。代わりは十分に三人でこなせる。そして、自らは新たな街を築く。新しい別の魔界の設・・
立だ。あの呪いの黒森と呼ばれる森へ…。・・・
アールガルズに生命が増えすぎた。どこを見ても生命が溢れ、隙間なく無知な者たちが埋め尽くし・・
ている。途轍もなく醜く汚らし者たちの欲望、エゴ、憎しみ、恐れなどが、何重にも積み重なってい・・
る。好き勝手に醜さを晒し合っている。斬って斬って間引いていっても同じことだ。いや、無知な者・・
を間引くことはできなく、再び、魔界へ蘇ってくる。未来へと消えていく者などいない。魔界に未来・・
などない。・・・
更に、魔界へ流れ着く者が後を絶たない。ブルーアイランドから、次々と後を絶たず流されて来る。・・
存在することすらないがしろにしている者たちだ。屍のような日々を魔界に続ける。物乞いたちに素・・
早く同化してしまう者たちだ。何の価値もないゴミだ。ゴミは魔界にはもういらない。無知が幾重に・・
も重なるだけだ。・・・
ブルーアイランドで悪行の限りを行っていた者は、対応が早く扱いやすい。ここの風にすぐに染ま・・
るからだ。そういった者は役人などに登用してきた。その者にとっては過ごしやすいだろう。・・・
しかし、ブルーアイランドで悲しみや苦しさを長く背負っていた者たちは、そうはいかない。汚れ・・
たどろどろの気を撒き散らす。悲しみや苦しさを乗り越えることができなかった者たちは、存在する・・
ことすらないがしろに屍のような日々を過ごす。あの物乞いたちがそうだ。何の価値もないゴミに・・
なってしまう。ただ、死を望んでいるような…。・・・
そのようなゴミは魔界にはもういらない。しかし、どんどんその数は増えていく。それほどブルー・・
アイランドは汚れきっているのか…。地上には悲しみや苦しさが蔓延しているのか…。・・・
その理由が、ロキには判るような気がした。ここへ来る者たちの表情には精気がなさ過ぎる。希望・・
も明かりも何も感じない。ただ、流れのままに揺れる雨雲のようだ。ブルーアイランドは確実に病ん・・
でいる。それも、手当てをこうじることもできない大病に…。・・・
人々の争いによってだ。一部の権力のぶつかり合いによってだ。むかしも今も同じだ。権力、エゴ、・・
欲望。人々は争い殺し合う。ブルーアイランドは汚れきっているのだ。地上には、悲しみや、苦しさ・・
が、蔓延しているのだ。・・・
神が行った罪深きことだ。そして、神による罪の償いだ。神は、争いや戦争によって増えすぎた生・・
命の間引きを図っているのだ。それ故、権力者は、神をも恐れない戦争を繰り返す。人々は、神の罪・・
の尻拭いに殺し合いを続け、人口の間引きを行う。更に、一方では争いから目を背けるように、快楽・・
を求める。再び生命が氾濫する。・・・
物乞いたちの目は、多すぎる生命に押しつぶされたものだ。果てしなく澱んでいる。争いと快楽、・・
エゴと諦め、それらの渦に巻き込まれ存在の本質を見誤った目だ。黒い幕の掛かった腐った目だ。・・・
結局、神すら、人間たちの間引きを行いきれないのだ。しかし、ロキはそれに挑む。ロキの思いは・・
固まっていた。鬼神は、既にラナグレルから蘇っているのだ。・・・
死…。それは、地上の者にとって恐れの対象に過ぎなかった。死…。それは即ち、恐怖への道を示・・
す道標だった。それを、変化させるのだ。死というもの観念を変化させるのだ。・・・
ブルーアイランド、つまり地上の者たちに、死を恐れるだけでなく、死を受け入れる勇気を与えて・・
やるのだ。新たなる希望を見せてやるのだ。死に立ち向かう勇気と、未来への希望を与えてやるのだ。・・
死後の世界は美しい…。そういう偽りの未来を人々に見せてやる。人々を死に誘い、死への道を拡げ、・・
死というものを、ブルーアイランドの者たちに受け入れやすくしてやるのだ。・・・
どんなに歪んだ希望でも、勇気でも、それを信じれば、その者の中でそれは美しく輝く。そして、・・
その輝きは同じ輝きを引きつけていく。死へ旅立つ者が、同じ未来への思いで寄り添っていく。偽り・・
の蜃気楼の未来だ。無知故の幻の未来だ。人々は手を繋ぐ。歪んだ希望に、勇気に、人々は結びつい・・
ていく。・・・
そこには希望がある。希望…。それは魔界にはない波長だ。偽りの未来でも希望に輝くが、輝きは・・
魔界にない。従って、その者たちは魔界へは入れない。希望という波長が、魔界の闇の風に弾き飛ば・・
されるだけだ。人々は、ブルーアイランドと魔界に架かる橋のたもとで漂うようになる。後にも先に・・
も進めない闇の空間で、彷徨うこととなる。・・・
死の旅の途中で、無知なる者たちを留めておく。魔界への橋のたもと…。闇の空間…。それへ、閉・・
じ込めてしまうのだ。後は、時がゴミたちを闇の彼方へ運んでいく。・・・
それが、神に対するロキの答えだった。ロキは、その思いを実行に移そうとしていた。・・・
・・・
・・・
「笛吹きのおじさーん!」・・・
ヴィゴルーは、呪いの黒森へとって返した。何度かソプラノで叫び、笛吹きを探した。・・・
「おじさーん!」・・・
忙しげに鼻を鳴らし、所々の木を巨体をぶつけ揺らす。しらけた奴の間抜け面を思い、ヴィゴルー・・
は薄笑いを浮かべていた。・・・
「何かおかしい、ヴィゴルー…」・・・
こちらはバリトンだった。ロキが、音も立てずヴィゴルーの後ろに立った。とにかく、ロキの行動・・
は素早い。・・・
「ロキ様…」・・・
一瞬に、ヴィゴルーが固まった。緊張にヴィゴルーが慌てた。・・・
「この森は、ブルーアイランドとの接点があります…。それから、えーと、笛吹きはしらけた男です。・・
間抜け面をしています…」・・・
一気にそれだけ言った。その間に、ヴィゴルーは心の動揺を収める。・・・
「間抜け面の笛吹きは、いつも、オオカミを側に侍らせております…。一緒に生活している子供たち・・
は普段何もしていません…」・・・
ロキがヴィゴルーに迫る。ヴィゴルーの大きく幼い顔が赤くなっていく。・・・
「建物はありません。いくら調べても、笛吹きと子供の他には誰もいません…」・・・
少し落ち着いてきた。ロキの青い瞳に焦点が合う。いつ見ても、惚れ惚れする美しさだ。ヴィゴ・・
ルーの乙女心が大きく揺れる。・・・
「満月の夜には、悪魔の夜宴らしきものが開かれているようです」・・・
ヴィゴルーの心は弾んでいた。ロキと接するのは、いつもはあの庁舎だけだ。このように、森を二・・
人で歩いたことなどない。揺れる乙女心に火が点いていく。ロキ様の胸に飛び込んでしまいたい…。・・
あー、ロキ様…。ヴィゴルーは揺れていた。。・・・
「笛吹きとは、どんな男だ…」・・・
少しの間が空いたのだろう。ロキが、ヴィゴルーに質問を発していた。ヴィゴルーが、素早く我に・・
帰る。ロキの瞳が、ヴィゴルーに大きく映える。・・・
「はい、大したことありません…」・・・
ロキが頷く。微かに、ロキの頬に笑みが見える。・・・
「笛吹きはしらけた奴です…」・・・
ヴィゴルーは続けた。ロキに自らの献身振りと、力の強さを報告する。・・・
「笛吹きは私に術を仕掛けてきました。しかし、私はそれを素早く交わし、笛吹きを羽交い締めにし・・
ました。ロキ様に言われていたことを実践しました。スピードです。技はスピード…」・・・
ロキが目を閉じる。青い目が、ヴィゴルーの視界から消える。・・・
「それから…」・・・
その方がが話しやすい。あの美しすぎる瞳は眩しすぎる。・・・
「笛吹きは、私の羽交い締めと鯖折りに泣いていました。私の怪力にかかっては、この森の支配者も・・
形無しです。森の悪魔。そう呼ばれていた者は、私の力にイチコロでした。しらけた奴は、あまりに・・
も拍子抜けでした…」・・・
ロキが目を閉じたまま、森を進む。ヴィゴルーはその背を追う。・・・
「子供たちはどれほどの数だ…」・・・
ロキの背から次の質問が聞こえる。ロキの足が速くなる。・・・
「はい、子供たちは三十人ほど…。男のこと女の子は半々くらいです」・・・
森の静けさが、ヴィゴルーの乙女の思いに相応しい。とにかく、ロキと二人森を歩いているのだ。・・
ヴィゴルーの浮かれ気分が膨らんでいく。・・・
「えーと、子供たちは五歳から十歳くらいまでの子です。普段は何もしていません。何人かが交代で、・・
笛吹きの世話を焼いているようです…」・・・
ヴィゴルーの身体がリズムよく動く。肩が揺れ腕が上がる。腰を振り尻を左右さす。体内の勢いが・・
外へと躍動していく。・・・
「魔界の領域は…」・・・
ロキの質問がヴィゴルーに心地よい。ヴィゴルーは、少しロキとの距離を詰めた。・・・
「森の背後の黒く尖った山も魔界も領域と思われます。山から吹く風に黒い気が感じられます。森の・・
風よりも強くそれを感じます…」・・・
ロキが立ち止まり、金髪が微かに風に靡く。その匂いが、ヴィゴルーに届き、甘い思いに乙女が気・・
絶しそうになる。・・・
「もういい…」・・・
ロキが微笑んだ。短い時間によく調べた…。そんな言葉が聞こえ、ヴィゴルーが再び固まった。・・・
「笛吹きとやらをここへ…」・・・
ロキの優しさが、ヴィゴルーへ続いていた。ヴィゴルーが揺れた。ロキに枝垂れ掛かりたいのを懸・・
命に堪えた。・・・
「はい。ロキ様…」・・・
ヴィゴルーは固まったまま飛んだ。風に鼻の鳴る音がかき消された。・・・
「ハックショーン!」・・・
その風に、例の爆発をひとつ残し、ヴィゴルーは風になった。・・・
・・・
・・・
「プィー、プィー…」・・・
闇の揺れが、風に跳んだヴィゴルーへ笛を吹く笛吹きを包む。色の変化が笛吹きに押し寄せる。闇・・
の中に二つの目が浮き上がる。・・・
「止めてくれ!」・・・
笛吹きは、ヴィゴルーへの攻撃を収めた。闇の揺れが、笛吹きに激しい恐怖となって押し寄せる。・・・
「止めてくれ!」・・・
笛吹きの意識に、青い闇と同じ色の二つの目が流れ込む。揺れる闇が更に深くなり、恐怖が津波と・・
なって押し寄せる。・・・
「止めてくれ!」・・・
どこからかネズミが現れる。ネズミが笛吹きをかじり始める。・・・
「許してくれ。オレはネズミ取り男なんかじゃない。何かの間違いだ」・・・
いつもの同じ夢か、それとも…。笛吹きの意識が混乱を来す。恐怖と狂気が入り交じっていく。・・・
「止めてくれ! 許してくれ!」・・・
ネズミの責めは止まらない。無数の青い光が、笛吹きの全身を蝕んでいく。笛吹きに、ネズミの狂・・
気が見えてくる。・・・
「オレはネズミ捕り男じゃない! 止めてくれ! 許してくれ!」・・・
笛吹きは走った。揺れる闇に川が横切り、ネズミがそれへと笛吹きを追い立てる。・・・
「ウオー!」・・・
すべて青と黒に包まれた。笛吹きが流れに飲まれていく。流れの中にまで、ネズミたちの歯ぎしり・・
が追いかけてくる。狂気に笛吹きが落ちていく。恐怖が流れを更に激しくする。・・・
「ウオー!」・・・
狂気の叫びは誰にも届かない。笛吹きの意識が遠くなる。呼吸が困難になり何度も水を飲む。ネズ・・
ミたちの光が笛吹きの意識の中を激しく暴れる。・・・
「ウオー!」・・・
その時、声が聞こえた。あの双頭の竜の声だ。・・・
「哀れなる者よ…」・・・
笛吹きはその声に跪いた。笛吹きの廻りの闇が急に晴れていく。・・・
「笛を吹け…」・・・
青い光が形を変える。双頭の竜が青い空間に浮かび上がる。笛吹きは笛を吹いた。いつもの曲だ。・・
ネズミ捕りの歌だ。・・・
「プィー、プィー…」・・・
笛吹きは懸命に笛を吹いた。恐怖が少しずつ薄れていった。・・・
・・・
・・・
「ヴィゴルー、戻れ。向こうからこちらへ来た…」・・・
ロキは、ヴィゴルーへ何らかの術を飛ばした笛を吹く道化師の意識を、素早く掴んだ。道化師に、・・
恐怖を流し狂気を見せた。たわいないものだった。ロキは、一瞬にして道化師の心を掴んだ。・・・
「お前か、この森の主は…」・・・
道化師がロキの前に出る。目が虚ろに焦点が揺れている。・・・
「道化師、名を何という…」・・・
ヴィゴルーが戻り、いきなり笛吹きを足蹴にする。ヴィゴルーに恥じらいの色は消えていた。・・・
「名などない…」・・・
ようやく聞き取れるほどの小さな声だった。ロキは道化師を一瞥した。笛吹きの髭がぴくりと上下・・
する。・・・
「では、道化師。我に付いてこい…」・・・
掴んだ道化師の意識を放し、ロキはそのまま森を進んだ。・・・
「はい、ロキ様…」・・・
笛吹きがゆっくりと立ち上がり、笛を口にロキに続く。・・・
「待って下さい。ロキ様…」・・・
ヴィゴルーが、そんなロキを慌てて追った。ロキの微笑みが、少しだけ歪み拡がっていた。・・・

(3)・・・
・・・
ミルダは軽い食事を取った。ラ・ムーは別に取らなくてもいいと言ったが、ミルダはどうしても食・・
べたかった。味は地上のより少し薄かった。・・・
教会にはラ・ムーの他、一人の賄い婦、メアリーがいた。世話好きそうなよく喋る女性だ。・・・
「ミルダさん、少しお昼寝でもされたらいかがですか。お疲れのことでしょうから…。ベットの用意・・
はできておりますよ…」・・・
ミルダがフォークを皿に置いた途端に、メアリーの明るい声がミルダを直撃した。・・・
「グリーンアイランドに慣れるまでは、少し疲れるかも知れません。とにかく、よく寝ることですよ。・・
昨夜はよく眠れましたか? もう、三日目ですね。いや、四日目かしら…」・・・
メアリーはそう言うと、まるまると太った身体を軽快に動かし、ミルダの行動を見透かしたように・・
二階への階段を昇る。階段がみしみしと悲鳴を上げる。ミルダの部屋の前で、メアリーがドアを開け・・
てくれる。とにかく、メアリーは気の利く親切な女性なのだ。・・・
「殿方の方が、私たち女性より慣れるのが少々遅いようですわ。このグリーンアイランドへ…。どう・・
してなのかしら、きっと、殿方は難しく事を考えすぎるのではないかな…。私たちのように風の流れ・・
にすべて身を任せることよ…。いい風よ。ここの風は…。まあ、とにかく、いつでも、御用があれば・・
言いつけて下さい。では…」・・・
笑顔のまま、メアリーがミルダの隣を身体をすぼめすり抜ける。・・・
「メアリーさん」・・・
何か、まだ喋り足りないようなメアリーに、ミルダは申し訳ないという気持ちが動き、思わず声を・・
掛けていた。・・・
「はい、何でしょうか…。ミルダさん」・・・
待ってました…。いつでもどうぞ、私は喋りたくて仕方ないの…。メアリーの瞳が輝く。・・・
「ここグリーンアイランドの生活は楽しそうですね。メアリーさんは、ここに来られてどれくらい経・・
つのですか…」・・・
ドアを背にミルダはメアリーに向いた。メアリーの目の輝きが美しい。・・・
「ここの時間で一年ほどでしょうか。それほど長くないですわ。でも、それはそれは、大変楽しく暮・・
らしております。ブルーアイランドでは非常に苦労しましたが、その苦労が今になって報われている・・
と思っています。ここには、悲しみや苦しみ、恐れや哀れなどの、マイナスの感情を溶かしていく風・・
が吹いているのです。感じるでしょ…。素晴らしい爽やかな緑の風を。風は毎日毎日この街に吹きま・・
す。本当に、素晴らしいですよ。私は、ここの風が大好きです。あなたも、一杯にその風を受けてみ・・
て下さい。先程言ったように、風にすべて身を任せてしまうの…。きっと、清々しい気分と、心地よ・・
い安らぎが訪れてくることでしょう。いいところですよ。グリーンアイランドは…。他に、何か質問・・
ありますか」・・・
一気にそれだけ言い、ミルダに、回答の間髪すら与えずにメアリーは続ける。・・・
「そうそう、お仕事をお望みでしたら、斡旋所へ紹介して差し上げますが…。裏通りにある斡旋所は、・・
私の友達のリーが勤めてますの。とても綺麗な女性で、殿方の人気者ですのよ。リーだったら、親切・・
に仕事の相談に乗ってくれますわ。私も、リーにここを紹介してもらったの。とても感謝してるわ。・・
よかったら、一緒に付いていってあげもいいことよ…。どうです、ミルダさん…」・・・
話が止まらなくなっていく。メアリーの勢いがミルダを制す。・・・
「ここには、いろんな仕事がありますのよ。ブルーアイランドでコックさんだった人は、その自慢の・・
腕が振るえないと寂しいじゃないですか。そうでしょう。歌手やダンサー、それからマジシャンや道・・
化師、それらの人たちは、そのパフォーマンスを見せる場がないと辛いんじゃない。そう思うでしょ・・
う…。それに、大工さんやお百姓さんなんかはは暇を持て余しちゃうわよね…。ブルーアイランドで・・
は仕事が趣味だった人って結構多いのよ…。私の旦那もそうだった。私の旦那は庭職人だったの。い・・
ろんな草や木、それに綺麗な色とりどりの花を、庭一杯に飾り付けるの。今も私の旦那はその仕事を・・
続けているの。ここの庭も私の旦那の仕事よ。手入れが行き届いているでしょう…」・・・
そういえば、ここには美しい庭があり、小さな池を囲んで草花が風に心地よさそうに揺らいでいた。・・
ラ・ムーやここへ来る人たちが、よくそこに佇んでいた。・・・
「季節の花が一同に咲くの。そんなものブルーアイランドでは見られないわ…。うちの旦那、ああ見・・
えても、いや、ミルダさんはまだうちの旦那様を見たことないわね。ジムは、ああ、旦那はジムとい・・
うんだけど…。ジムのセンスはとっても女性的なの。何というか、非常に繊細なの。微かな色の違い・・
で微妙なアクセントを付けるの。センチメンタルっていうか、心優しい人なのよね…。花は色の変化・・
で仲間の花たちや草たちと話をするんだって。毎日毎日、その色は劇的に変化しているんだって…。・・
私には分からないけど、その話をするときのジムの顔がとっても素敵なの。ブルーアイランドではあ・・
まり見たことのない顔。ごつごつした顔よ。顔中髭だらけ。見かけに寄らないというのはそのことな・・
の。うちの旦那、牛にみたいに顔が大きいの。へへへ…。怒られるかな…。気はノミのように小さい・・
んだけど…」・・・
話がどこまで続くのか…。ミルダに付け入る隙を、メアリーの身振り手振りが与えない。・・・
「一度、旦那に会って欲しいわ。ジムも私と同じ、ブルーアイランドは辛い一生を送ってきたの。好・・
きな花を触ることができずに、争いの中に巻き込まれていったの。戦争よ。私たちの村にまで、バカ・・
な権力者の争いが飛び火してきたの。私はジムの帰りを待ち続けたわ。でも、ジムは帰ってこなかっ・・
た。まだ、私たち結婚して一年も経っていなかった。子供も授からないまま…。そう、ジムは帰って・・
こなかった。私は戦争が憎い。権力者たちを恨んだわ…」・・・
ミルダは無理に笑みをメアリーに向けた。その笑みに、メアリーから暗い影が瞬時に失せる。・・・
「ごめんなさい。話が暗くなっちゃって…」・・・
メアリーの微笑みが、とてもそのような暗い過去がある女性とは思えない。グリーンアイランドの・・
風はマイナスの感情を溶かしていく…。メアリーを見ていて、その言葉に嘘はないと思った。・・・
「私もブルーアイランドでは給仕をしていたのよ。ご主人様には恵まれなかったわ…。私たちを人間・・
として見てくれなかったの…。奴隷扱いよ。まあ、私の友だちのアニタっていう黒人女性の場合より・・
ましだったようだけど。彼女なんか、毎日死ぬことばかり考えていたんだって…。ああ、また、話が・・
暗くなっちゃう。ごめんなさい…。・・・
でも、私、ここに来てから他の仕事も考えたけど…。ご主人様に、また恵まれなかったらなんて…。・・
でも、私、これしかできないから…。それに、ここグリーンアイランドは優しい人ばかり。ここでも・・
給仕になってよかったと思っているわ。本当にそう思うわ。だって、ラ・ムーのようないいご主人様・・
と巡り会えて…。私、今とっても幸せよ。ジムとも仲良くやっているし。お友達も優しい人ばかり。・・
信じられないくらい。今の幸せがあるのは、ブルーアイランドで、辛くても精一杯生きてきたから・・
だって思っているの。ジムもそう言っていたわ」・・・
メアリーの心は、このグリーンアイランドの風に清水の如くに浄化していったのだろうと、ミルダ・・
は感じた。辛くてもブルーアイランドでは精一杯生きてきた…。メアリーのその言葉がミルダに強い・・
印象となった。・・・
「あっ、ごめんなさい。私のことはこれぐらいにして…。ミルダさんは…。ブルーアイランドでは、・・
どんな仕事をしていたんですか」・・・
返答に困る。仕事などしたことない。ミルダは言葉を濁そうとしたが、メアリーの方が素早かった。・・・
「是非、リーのところへ行かれた方がいいわ。リーなら、あなたに合った仕事を見つけてくれるわ。・・
請けあいよ。どう、今からでも行く。先程もいったけど、リーは綺麗な娘よ。ミルダさんもきっと気・・
に入ると思うわ…。行きましょう、ミルダさん…。私、この後ゆっくりと時間はありますわ…」・・・
メアリーは、身体に似合わず行動は敏捷だ。ミルダの手を今にも引かんばかりに、かなりの迫力で・・
迫る。・・・
「あ、いやいや…」・・・
ミルダは思わず一歩引き下がった。メアリーの差し出した腕がミルダの側を過ぎた。・・・
「そうね、今からっていうのはね…。ごめんなさいミルダさん…。私って、こう見えてもせっかちな・・
の…。よく、ご主人様に叱られたわ…。いや、ラ・ムーのことじゃないのよ…。前のご主人様…。そ・・
のご主人様、奥様を何回もとっ替えられたのよ。次々と若い女の人に…。ケチだったわ。私たちには・・
何もしてくれなかった。ああ、ごめんなさい…。また、私のこと…。私のことは、もういいわよね…。・・
ごめんなさい…」・・・
メアリーが大きなお腹を揺すった。少しメアリーの話が途切れた。・・・
「また後で…。少し休むことにします」・・・
その間をミルダは逃さなかった。メアリーの微笑みが大きくなる。・・・
「ごめんなさい。私、話し好きで…。喋りだすと止まらなくなっちゃうの…。ホホホ…。じぁ、ご・・
ゆっくり…」・・・
いい笑顔だった。メアリーが階段を下りていく。再び、階段が小さな悲鳴を上げていた。・・・
・・・
・・・
キリコの目覚めは非常に爽やかだった。したたか飲んだ昨日の酒は目覚めまでよくしてくれた。キ・・
リコは勢いよくベッドを飛び出した。・・・
あれから、キリコとリュリュは大通りの突き当たりの大きな白い建物に入った。その建物は、再会・・
のロビー、結び付きのロッジ、触れ合いの館、グリーンオアシス…、それぞれが、いろんな呼び名で・・
その建物のことを呼んでいた。そこは、別れていった者との再会を果たすところだった。先立った者・・
が残していった者を待っていた。そこは、生まれ変わっていく新しい生命が結びついていくところ・・
だった。着いて間なしの者の笑顔が数多くあった。そこは、笑顔と笑顔が触れ合っていくところだっ・・
た。すべての笑顔が輝いていた。そして、そこは、新しい生活に馴染むまでの浄化の施設でもあった。・・
死という衝撃を乗り越えるために、新しく歩んでいくために、未来へと足を向けていくために、多く・・
の人たちが、新しい人たちを親切に向かい入れていた。・・・
リュリュとキリコはその建物を巡り歩いた。思い思いに人々が笑顔を拡げ合っていた。離れてし・・
まった人との再会を果たした者、新たな友との触れあいに心弾ませている者、戸惑いながら人々の話・・
の輪に入っていく者、みんな、明るいいい笑顔だった。自分たちも、この様な笑顔を見せている…。・・
そう思うと、キリコもリュリュも、自然と頬が綻んでいった。・・・
「何だか恐い、かーさん…。こんなに幸せっていいんだろうか…」・・・
リュリュはもう魔女の笑顔ではなかった。幼さがリュリュの中を所狭しと跳ねていた。・・・
「何を言う…。難しいことは考えるな。それより酒が欲しいノー…」・・・
その時、親切な若者がキリコにグラスひとつを手渡した。・・・
「最高級のワインでございます。グリーンアイランドが、自信をもってお勧めする逸品でございます。・・
どうぞ…」・・・
それはそれは、舌がとろけるほどキリコにとって旨い酒だった。キリコはその若者に酒蔵を案内さ・・
せた。そして、リュリュと、その髭面の若者と三人で、その夜は少し飲み過ぎた。・・・
この部屋は、髭面の若者が手配してくれた部屋だった。キリコとリュリュは、その日からこの部屋・・
に過ごした。もう、五日目になる。・・・
「リュリュ…」・・・
ひとつ呼ぶが返事がない。キリコはバスルームに向かった。・・・
「極楽じゃ…。極楽…」・・・
キリコは服を脱ぎ、鏡に自分の全身を映す。・・・
「いいおなごじゃ…」・・・
鏡に映る自らの姿が眩しいほどだった。キリコはナルシストになった。・・・
「いいおなごじゃ…」・・・
キリコは、驚くほどの短期間で若さを取り戻していた。顔の皺はほとんどなくなり、頬はほんのり・・
と赤みが掛かり、怪しいくらいの艶さえ浮かんでいる。腰はくびれだし若い女の形を描いている。も・・
ちろん、垂れていた胸も尻も妙な張りを持ち出していた。・・・
「ハハハハ…。いい女じゃ…」・・・
キリコはグリーンアイランドのことを大体理解したのだ。ブルーアイランドから突然流れ着いた者・・
にしては、驚異的なことだった。超自然力を持ったキリコのことだ。それぐらいは、朝飯前なのかも・・
知れない。・・・
「よいしょ…。あー、極楽じゃ…」・・・
キリコは湯船に若返った身体を浸けた。爽やかな目覚めに、更なる幸せがキリコの全身を走る。・・・
・・・
-娘は隣村に嫁に行った…。・・・
・・・
鼻歌がひとつ出る。ひまわりの群生を抜け、街に入ったときに歌った歌だ。なぜかこの歌がこの街・・
に似合う。誰に教わったのか忘れてしまった歌だったが、キリコが唯一知っている歌だ。唯一、娘に・・
聞かせてやることのできた歌だ。・・・
鼻歌を歌いながら、キリコはグリーンアイランドのことを思った。・・・
グリーンアイランドには老いも若きも、子供たちもいる。それが、キリコには最初不思議なこと・・
だった。グリーンアイランドは地上から流れ着くのであれば、その姿は圧倒的に年老いたものが多い・・
はずではないか…。地上ので死を越えてくるのは老いた者が圧倒的なはずだ。・・・
しかし、ここグリーンアイランドでは、それらか何かの秩序のある如く、均等に釣り合っている。・・
老いた者ばかりではない。若き者ばかりではない。それは、地上と変わらない。・・・
キリコは思った。それならば、自分も若返れるのではないか…。ここに暮らす者の姿は、地上で慣・・
れ親しんだ姿のものだ。その者の意識の中に長く形取られたものだ。地上での肉体をここへまで運ん・・
できたわけではない。物質の肉体は地上の土に朽ちたのだ。・・・
ここでの姿は幻想であり、幻である。あの山での自らの姿を重ね合わせ、キリコはそれを理解し、・・
自らに暗示をかけた。若き日の姿…。どうせ、ここでの姿は幻の肉体だ。それは、己の意識の中から・・
浮かび上がってくるものなのだ。そう、若き日の姿…。何も、わざわざ年老いている必要はないのだ。・・・
キリコは若返った。自分でも惚れ惚れするくらいいい女になった。・・・
・・・
-娘は隣村に嫁に行った…。・・・
・・・
次に、キリコはグリーンアイランドの風を思った。ここの風は地上とはまったく違っていた。それ・・
は、ここに着いてすぐに肌で感じたことだったが、キリコはその風に交わりたいと思った。風の先に・・
何かが見えてくると思った。・・・
風を思い切り、身体一杯に脹れるほど、目眩がして倒れるほど吸った。ここの風は、ただの空気の・・
流れではなくエネルギーの流れだった。この風は、ここグリーンアイランドの人たちに、その幻の身・・
体に必要なものがすべて含まれている生命の泉からの風だった。存在への糧だった。心の浄化への源・・
だった。・・・
更にキリコは、なぜ、このようなグリーンアイランドがあるのかを考えた。そして、キリコなりに・・
答えを出した。・・・
ここは地上での生活の流れの延長線にある。我々の存在の形は、地上では物質の姿が、ここでは幻・・
に包まれる。いや、幻をそれぞれが無意識のうちに抱き、己の中の存在の形を幻想に現す。・・・
物質、そして、幻…。我々の存在の形はそれらを過ぎていき、更なる未来へと続く。それが、すべ・・
ての存在の意味への理解へ続く。我々の旅はまだまだ続くのだ。・・・
だから、グリーンアイランドは、地上から更に未来へ向かうための学習の場なのだ。死を越えた人・・
たちは、ここで心の傷を癒し、今までの旅について自らとの会話を続ける。それにより魂の浄化が進・・
み、同じ道を歩む仲間たちとの触れ合いに、自らの更なる未来が見えてくる。自らをグリーンアイラ・・
ンドの風に浄化させ、魂の揺れが、更なる未来へ向かうための勇気を育くむ。・・・
「とにかく、グリーンアイランドでは好きなことをすればよいのじゃ…。それが、心の浄化の一番の・・
近道だ…」・・・
キリコの納得はそのことだった。だから、キリコは毎日酒ばかり飲んでいた。・・・
・・・
-娘は隣村に嫁に行った…。・・・
・・・
「あー、極楽じゃ…」・・・
キリコは湯船の極楽に沈んだ。外からリュリュが呼んでいるも聞こえなかった。・・・
・・・
・・・
朝の散歩から帰ると、母の鼻歌がバスルームから聞こえた。時折音の外れる鼻歌に、リュリュの頬・・
が自然と緩む。・・・
母を呼んだが返事がなかった。きっと、極楽の連発で一人悦に浸っているのだろうと、リュリュは・・
微笑みながら部屋を出た。・・・
リュリュの浄化は、キリコ同様、素早い速度で進んでいた。魔女であった部分をグリーンアイラン・・
ドの風で洗い流していく。魔界の生活で心に染み込んでしまった暗い影が、リュリュの面から消え・・
去っている。・・・
リュリュにも、ここグリーンアイランドについてのひとつの理解があった。グリーンアイランドは・・
地上、即ち、ブルーアイランドの名残りや、それへの未練や悔いを、少しずつ薄めていく学習の場で・・
ある。自分たちの存在は心にこそあり、その心を覆う肉体の形は、ブルーアイランドでは物質であり、・・
グリーンアイランドでは魔界と同じ幻想の肉体なのだ。ブルーアイランドで学んだことをグリーンア・・
イランドでも同じように学ぶ。物質から幻想へと姿は変われど、それぞれが持つ心は不変である。自・・
らの存在の意味を、その流れの中で見出していく。・・・
そして、我々は更なる成長を続け、グリーンアイランド、そして、次のステップへの過程へと思い・・
を馳せていく。その思いが強く芽吹いていくのが、このグリーンアイランドなのだ。・・・
もっともっと深く自分を愛することなのだ。死を越え、魔界を越え、リュリュはグリーンアイラン・・
ドへ流れた。そこで、己の存在ということの再確認をした。自分自身という意識を自らの中へ高め、・・
自らの再確認という作業を通じて、自分を深く知る。そして、そのことが、自分をもっと深く愛する・・
ことの最なる出発点である。・・・
グリーンアイランドはブルーアイランドとは違い、ある意味では自己中心の世界だ。人からの干渉・・
を自然と気にしなくなる。つまり、自らへの意識が強くなるのだ。ただ、自分と正面から向き合い、・・
己の深い部分と会話する。それが、浄化への近道ということを、ここの人たちは知っている。・・・
グリーンアイランドは誰しも一人で生きていける。それは、ブルーアイランドとの視点が異なるか・・
らだ。ブルーアイランドでの個は、どうしても集団の一部となりうる。しかし、グリーンアイランド・・
では、その個こそが視点の中心となり、個こそが、それぞれ柱となり核になる。言いかえれば、個が・・
それぞれ自らを大切にし、その存在の至高さの理解が高いのだ。・・・
集団とは何かの共通性がある。その中では個の個性の輝きが薄れる。逆に思えば、個の優れた部分・・
が集団の中で忘れ去られてしまっている。それぞれの個が、集団という殻の中に閉じこもり、自らを・・
愛するという美しい煌めきが、その色を抑えてしまっているのだ。・・・
更に、集団があるから争いが起こり、いがみ合いが起こり、集団同士がぶつかり合う。個が集団の・・
中に埋もれ、輝きが失せ、色褪せていく。自らを愛することがお座なりになっていく。・・・
自分を愛すること。その思いに最も相応しい風が吹くのがグリーンアイランドなのだ。人々は過去・・
と未来をグリーンアイランドの風に鑑みる。そこには必ず自らの存在への理解の糸口がある。存在へ・・
の愛しさが、それぞれを優しくしていく。・・・
グリーンアイランドの個は、このようにして、本来の真っ白な姿に戻っていく。それを、グリーン・・
アイランドの爽やかな風が、力強くその後押しする。未来へと、風が、個の思いが向かうのだ。・・・
リュリュのそんなグリーンアイランドの理解は、魔女だった頃の思いを確実に遥かな未来へと向け・・
ていた。リュリュの中の魔女の部分が、魂の浄化に伴って日々薄れていた。・・・
リュリュは足早に大通りへ向かった。今日は、ジャンがいいところへ案内してくれるという。ジャ・・
ンとは、キリコとリュリュにあの部屋を手配してくれた白い建物に働く髭面の若者だ。・・・
大通りの広場では、手品師やジャグラーが思い思いにパフォーマンスを繰り広げていた。朝早くか・・
らかなりの賑わいだった。どこからか、パンの焼き上がった匂いがした。リュリュは、その人混みに・・
立ち止まり、昨夜のひまわりの中でのジャンとの会話を思い出した。・・・
・・・
「ジャン、あたし魔女だったの…」・・・
リュリュはジャンの腕に絡みついていた。ジャンの優しさの瞳が、リュリュの揺れる心を激しく揺・・
さぶる。リュリュにとって始めての経験だった。・・・
「魔女よ…」・・・
リュリュは、心の湖に溜まっているものを一気にジャンへ流した。母に殺され魔女になったこと…。・・
魔界で笛吹きの悪魔に縛られていたこと…。魔女の生活…。魔女の思い…。魔女の醜さ…。悪魔の醜・・
さ…。悪魔の仕業…。悪魔の夜宴…。呪いの森…。・・・
「悪魔の手下…」・・・
ジャンは、その話を瞳を反らさずに真剣にじっと聞いてくれた。髭面の暑苦しい顔には涙さえ浮か・・
んでいた。・・・
話し終えた頃には星はすべて帰ってしまっていた。リュリュは、ゆっくりとジャンの胸に顔を埋め・・
た。自分の中に残っていそうな魔女の血を、ジャンに洗ってほしかった。・・・
「いいかい、リュリュ…。このグリーンアイランドは、今までの過去のことを清算するところでもあ・・
るんだ。清算と言っても、罪の償いや、善悪の行為の埋め合わせをするのではなく、自分自身の中で、・・
今までの人生を捨てていくんだ。ブルーアイランドの生活で染みついた色を、また新たに、真っ白に・・
洗い落としていくんだ」・・・
ジャンがリュリュを強く抱きしめてくれた。ひまわりから吹く風がリュリュの涙を誘った。・・・
「過去は過去さ。過ぎ去ったものさ…」・・・
ジャンも、ブルーアイランドでは辛く悲しい思い出を持っていた。ジャンはまったく売れない絵描・・
きだった。売れなくても、好きな絵は死ぬまで書き続けた。そのために家族はなく、ブルーアイラン・・
ドではずっとひとりだったと言った。・・・
「思い出さ…。それを、受け入れるのだよ。目を瞑ることなく、自らの心に溶かしてしまうのさ…。・・
ぼくたちの心は、それを許してくれる。どんなことが過去にあっても、ぼくたちの心は、それを優し・・
さの光で包んでくれるのさ…」・・・
リュリュの頬に涙が一粒伝わった。それが、ジャンの厚い胸へと落ちた。・・・
「リュリュ、君は魔女だった。しかし、今は魔女じゃない…」・・・
ジャンの最後の言葉が、リュリュの心に深く残った。リュリュは涙のままジャンの胸で眠った。・・
ジャンの温もりが、リュリュには信じられないほど暖かかった。・・・
・・・
「リュリュ、おはよう…」・・・
道化師の後ろから、ジャンがリュリュに大きく手を振る。・・・
「おはよう、ジャン…」・・・
頬が少し上気する。昨夜のジャンの暖かさが、リュリュの意識に蘇る。・・・
「面白いところへ案内するよ、リュリュ…」・・・
足早のジャンに、道化師仲間のジャグラーが小さなボールを投げて寄越す。・・・
「よっ、マイク。調子はどうだ?」・・・
ジャンが受け取ったボールをそのまま投げ返す。ジャグラーがそれを起用に足で受け微笑む。・・・
「調子はいいさ。最高さ…」・・・
ジャグラーが微笑みのままジャンを遠ざかる。ジャンがリュリュの手を取り先を進む。・・・
「語りの部屋というところだ。面白いぜ…」・・・
ジャンの足が更に速くなる。喧噪の大通り公園を二人は小走りに過ぎる。・・・
「図書館みたいなものと思っていればいいよ。そこは、グリーンアイランドの知識の宝庫なんだ…。・・
別に、本が並んでいるわけじゃないけど。思考そのものを、この地を旅立った者が残していってくれ・・
るんだ…。それを、語り手たちが客に紹介する。その語り手の語りが素晴らしいんだ。まあ、説明よ・・
り実際に見てみた方が早いね。とにかく、いろんな人の体験が感じとれるんだよ…。グリーンアイラ・・
ンドが誇る自慢の施設だよ…」・・・
その建物は公園を過ぎてすぐにあった。教会を思わせるように大きな窓が幾つも見えた。・・・
「さあ、ここだ…」・・・
ジャンの後に続いてリュリュもその建物に入った。微笑みの夫人がそこから出てくるところだった。・・
窓からの明かりがリュリュに眩しいほどだった。・・・
「ここには、十人ほどの語り手がいるんだ。みんな、ベテラン揃いだよ」・・・
訳の分からないまま、リュリュはジャンの後に続く。建物はガランとしており、奥に幾つかの白い・・
扉が見える。・・・
「その中でも、一番面白い人を予約しておいたから…」・・・
未知への世界へリュリュの心が弾む。足取りも軽く奥の扉へと進む。・・・
「その人はベテランさ…。ブルーアイランドは子供の頃に旅立った。年を取ることの面白さを、グ・・
リーンアイランドに来てから知ったそうだ。年を取ることは、知識を蓄積することだって…。だから、・・
その人はここの語り手になった。最初は子供の姿だったけど、今のような老人の姿になるまで語り手・・
を続けている。面白い人だよ…」・・・
リュリュもブルーアイランドを旅立ったのは子供の頃だった。しかし、リュリュには年を取ること・・
の面白さなど分からなし、そんなこと考えたこともない。いや、母のことを考えると、それは、案外・・
面白いことかも知れない…。リュリュの心は浮かれていく。・・・
「さあ、リュリュ…」・・・
ジャンがリュリュの手を引いた。白い扉を軽く開ける。・・・
「ぼくはここで待っているから」・・・
リュリュは小さく頷いてジャンの手を解いた。手が放れる瞬間、ジャンの髭の中の優しい笑みが・・
リュリュを勇気づけた。・・・
「ありがとう、ジャン…」・・・
扉を開けると、一人の老人が椅子に腰掛けていた。ジャンが話した老人だろう、子供のままブルー・・
アイランドを旅立って、ここで年を取った老人だ。・・・
「こんにちは…」・・・
リュリュは明るく言うと、老人が軽く微笑んだ。幼さが深い皺に隠れて見える。・・・
「あなたは魔女だった…」・・・
老人の語りがいきなり始まる。挨拶はなしだ。・・・
「魔女だった…」・・・
リュリュの意識にそれが直接届く。リュリュは目を閉じた。・・・
「聞くがよい。魔女の話を…」・・・
リュリュは自分が無になっていくような思いに突然落ちた。老人の意識がフワフワと雲のように・・
リュリュの中で揺れ、それへとリュリュが引き込まれていく。・・・
「少女は旅だった。母の元を飛び立った…」・・・
しばらくすると、リュリュは鳥になって空を飛んでいた。空を飛びながら、夢を見ていた。ジャン・・
の言ったことが理解できた。図書館のようなもの…。リュリュの意識にひとつの本がページを開いた。・・
いや、老人がそれをリュリュに届けた。・・・
「少女は鳥になりたかった。しかし、悪魔がそれを阻止した」・・・
それは、魔女の物語だった。少女が悪魔に浚われる。悪魔の手下として、少女は魔女になる。・・・
「森は暗い森だ。陽の光さえ入らない…」・・・
もう、老人声は聞こえない。リュリュの意識の中にその物語が進んでいく。・・・
「悲しみに包まれた。悲しみが悪魔の笛に聞こえる…」・・・
それは、リュリュ自身の物語だったのか、それとも、過去にこのグリーンアイランドを過ぎていっ・・
た者の残していった物語なのか、リュリュには分からなかった。しかし、リュリュの意識の中には、・・
自らの旅ともう一人の別なる旅とが、渾然一体となってリアルに浮かび上がっていた。・・・
「魔女は悪魔に挑んだ…」・・・
リュリュはその物語を楽しんだ。もう一人の自分が冷静に自らの過去を振り返った。リュリュには・・
素晴らしい体験だった。過去を受け入れる…。ジャンの言葉が時折浮かんだ。・・・
それは、長い時間だったのだが、リュリュにはほんの一時のように思えた。リュリュにいい知れな・・
い安らぎが訪れた。物語が終わってもリュリュは目を閉じたままだった。老人がゆっくりとドアを出・・
ていくのが分かった。・・・
「リュリュ、どうだった…」・・・
ジャンが老人に代わって部屋に入った。リュリュは目を開けた。その瞬間に、リュリュの中の何か・・
が破裂し、リュリュは突然ジャンの胸に飛び込んだ。・・・
「過去を受け入れる…。ジャンはそう言ったわね…。あたし、それができたように思う…」・・・
あらゆるものを受け入れなければ、その者の未来など見えては来ない。すべての自分を、余すこと・・
なくすべて知らないと、本当にすべての自分を愛することなど出来ない。受け入れることが、自らの・・
浄化の更なる過程なのだ。・・・
リュリュの胸が高鳴り、魔女だった部分が、リュリュの意識に別な色を見せ揺れ動く。・・・
「ありがとう、ジャン…」・・・
リュリュの魔女の部分が何かに溶けていくのを、リュリュは感じていた。激しい何かが、リュリュ・・
の中を突き上げていた。・・・
・・・
・・・
ミルダとラ・ムーは歩き続けていた。公園の向こうに小高い丘が見える。二人はゆっくりとひまわ・・
りの丘へと向かっていた。・・・
「丘に腰掛けて、ゆっくりと話をしましょう…」・・・
二人は丘を登った。風が心地よく透き通り胸に染みる。風の先にグリーンアイランドの街が見える。・・
ラ・ムーが微笑みのまま草に腰を下ろた。・・・
「いい眺めでしょう…」・・・
始めてここに立った時のことを、ミルダは思い出した。あの時は、ひまわりに心打たれ、緑の風に・・
心洗われていた。それは、昨日のことのように思える。・・・
「ラ・ムー…。私から、ひとつ質問があるのですが…」・・・
ミルダも草に腰を下ろし、ラ・ムーの目を見つめた。・・・
「ホワイトアイランド…、それは、一体どのようなところなのでしょうか?」・・・
知らなければ、それでいい…。ミルダの意識に、あの黒く尖った山で出会った光が微かに揺れた。・・・
「ミルダ君、どこでそれを…」・・・
ラ・ムーから笑みが消える。少し鋭い表情が、ラ・ムーの面に浮かび上がる。・・・
「私が地上にいた頃、ある山で、ホワイトアイランドと言う言葉を耳にしました。その声は、光は愛・・
だ…。そして、我々は光だ…。そう私に告げました…」・・・
ラ・ムーが驚きを抑えているのが、ミルダに見える。ラ・ムーの青い瞳に別なる光が影を掠める。・・・
「そうですか…」・・・
ラ・ムーが自らに沈み、静けさに沈んだ。沈黙が皇帝ラ・ムーに似合っている。・・・
「私は、そのホワイトアイランドという所から、このグリーンアイランドへ来ています。ある重要な・・
任務を持って、ホワイトアイランドから派遣されているのです…」・・・
ラ・ムーの沈黙が破れ、その青い目が大きく開いた。・・・
「私は、ホワイトアイランドの者です」・・・
ラ・ムーがきっぱりと言った。誇った様子ではないものの、その口調はまさしく皇帝に相応しい。・・・
「ミルダ君、ホワイトアイランドは光の世界です。素晴らしいところです…」・・・
光に抱かれる…。ミルダに果てしない思いが駆けめぐる。遠い目を遥かな空へと向ける。・・・
「しかし、ホワイトアイランドはグリーンアイランドとはまったく違う光の波動の中にあります。光・・
を浄化していくのです。その果てにホワイトアイランドは存在します…」・・・
遠い目をラ・ムーに戻した。ラ・ムーの話にミルダが引き込まれていく。・・・
「ミルダ君、ホワイトアイランドは、あなたの考える以上に素晴らしいところです。グリーンアイラ・・
ンドの人たちは、ある意味では、ホワイトアイランドへ向かうための学びを行っているのです。自分・・
の存在の意味を深く知り、地上の名残りを消し去り、悲しみやエゴを捨てていくのです。それが、ホ・・
ワイトアイランドへの道なのです…」・・・
そこへ行ってみたい…。ミルダの思いが大きくなっていく。もう一度、ミルダは空を見上げた。・・・
「ホワイトアイランドへは、いつかきっと行くことができます。それは、我々すべてに与えられた権・・
利です。創造主は、我々すべてに平等です」・・・
何となく、分かるような気がした。ホワイトアイランドという所へ行くには、自分たちはまだまだ・・
未熟なのだ。グリーンアイランドで色々なことを学び、光への道へ…。旅は始まったばかりなのだ。・・・
「それじゃ、私の方も、質問をしてよろしいか?」・・・
ミルダは目で答えた。ラ・ムーに笑顔が戻り、青い瞳に陽の光が映えた。・・・
「ミルダ君、あなた、メアリーさんと仕事の話をしていましたね…。いや、聞くつもりはなかったの・・
ですが、その、どうも、私は耳が良すぎるようなのです…」・・・
ラ・ムーの笑みが少し拡がる。微かな幼さが瞳の奥に揺れる。・・・
「ミルダ君。単刀直入に言いましょう…」・・・
ラ・ムーの瞳がミルダに熱かった。ミルダの中で何かがそれに反応する。・・・
「ミルダ君、私の仕事をあなたに手伝ってほしいのです。パートナーを探していたところなのです。・・
そろそろ、任務に着手しなければなりません。どうですか?」・・・
ホワイトアイランド…。光の世界の任務…。パートナー…。ミルダにどこからか見えない力が強く・・
押し寄せる。ラ・ムーの有無を言わさぬ調子が、ミルダをそんな思いに引き入れていく。・・・
「どうですか?」・・・
ミルダに断ることなどできない。ミルダは既にそれへ熱くなっていた。・・・
「この仕事は、大変責任の重い仕事です…」・・・
ミルダは大きく頷いた。風が先程よりも強く感じた。ホワイトアイランド…。光の世界…。自分の・・
求めていたものだ…。ミルダの思いが拡がっていく。・・・
「ありがとう、ラ・ムー」・・・
二人は立ち上がり、ゆっくりと公園への道を戻った。午後の日射しがミルダにはとても優しく感じ・・
られた。・・・
・・・
・・・
キリコはひまわりの丘を越えた森にいた。白い空間を抜け出た時に着いた美しい森だ。そのむかし、・・
修行に明け暮れた森に似ている。・・・
閉じていた目を、キリコがゆっくりと開ける。昼下がりの木漏れ日が幾筋ものシャワーとなって、・・
若返ったキリコの周りに落ちる。・・・
「ふー…」・・・
キリコは小さな日溜まりに寝そべった。心地よい睡魔が意識に流れ込む。乾いた風が艶を取り戻し・・
たキリコの髪と頬を過ぎ、葉擦れの音が耳に優しい。・・・
「ふー、少し休もう…」・・・
キリコはこの森で、地上で暮らしたあの木こり小屋と同じ小屋を作っていた。それは、これからの・・
自分の住処の確保と、グリーンアイランドという地の自分なりの理解の確認でもあった。・・・
「少し寝るか…」・・・
自分は、やはり人里離れひっそりと森で暮らすのが似合っているし、一番自分らしい…。そして、・・
その方がずっと気楽だ…。街の生活はどことなくしっくりこなく、なぜか、どうしようもなく退屈に・・
なった。どうせ、リュリュは成長し自分から離れていく。楽しいことは長く続かない。・・・
木こり小屋は、キリコの思念で構築する積もりだった。グリーンアイランドの建物はすべて幻想だ。・・
そこに暮らす者たちの思いが形になったに過ぎない。グリーンアイランドの人々の思念で、それらは・・
創り上げられているのだ。・・・
それは理解していたが、いざ、それを実行してみるとどうも巧くいかない。完成しても、それはた・・
だの幻に過ぎなく、すぐに消えていってしまう。思念が足りないのか、それとも自分が未熟なのか…。・・・
森に入ってから、もう五日ほど経っていた。その間、キリコは木こり小屋の作業を続けていた。し・・
かし、一向にその完成が見られない。どうしても幻に終わってしまう。さすがのキリコも少々めげて・・
きた頃だった。・・・
「いや、もう一度…」・・・
睡魔を意識から追い出し、キリコはもう一度それへ挑んだ。草の上に座り目をゆるりと閉じる。意・・
識の中に刻み込まれているあの木こり小屋の形を思い浮かべる。自分が築き長年住んだ小屋は、前か・・
らでも後ろからでも寸分の狂いもなく再現できる。そして、それを自らの強い思念に乗せて建設地に・・
送る。・・・
「ウッ…」・・・
しばらくすると、薄くその姿が現れる。蜃気楼のように揺れながら、小屋が形取っていく。ここま・・
でが、キリコの理解の中に根を下ろした部分だ。そこまでは良い。・・・
「ウッ…」・・・
しかし、その先が分からない。幻が消えないための工夫が分からない。幻想をこの地に根付かせる・・
方法が分からない。キリコは目を閉じたまま思念を送り続けた。・・・
「ハハハハ…」・・・
その時、幻に浮かぶ小屋の向こうからしわがれた笑い声がした。どこかで聞いた声だった。キリコ・・
の集中が途切れる。・・・
「ハハハハ…。それじゃダメだ…。ハハハハ…」・・・
やはり、どこかで聞いた声だった。キリコは目を開けた。現れたばかりの幻想の小屋がゆっくりと・・
色と形を隠していく。・・・
「誰じゃ…」・・・
キリコは立ち上がった。自分の作業を邪魔する声に腹が立った。木漏れ日に、蜃気楼の小屋が揺れ・・
ながら完全に消えた。・・・
「キリコ…」・・・
声が木漏れ日を滑った。木から一人、小柄な老人がキリコの側へ降り立った。・・・
「久しぶりじゃのうー。キリコ…」・・・
それは、白い幽霊のように見えた。キリコの若返った頬が緩んでいく。若さ故の恥じらいらしきも・・
のまで、キリコに素早く浮かぶ。・・・
「わしじゃ…。キリコ。忘れたか…」・・・
キリコが声に寄った。むかしのままの姿がそこにあった。・・・
「ご老人!」・・・
白髪に長い白眉の老人が、キリコの肩を軽く抱いた。白い衣がよれよれに汚れている。・・・
「ハハハハ…。久しいのう、キリコ…」・・・
愉快この上ないという表情で、老人が高笑いする。歯のない口からキノコの匂いがした。それも、・・
むかしとまったく同じだった。キリコにとって忘れることのできない懐かしい香りだった。・・・
「ご老人!」・・・
キリコの師だ。魔女狩りに逃れ、重い十字架を背負って旅を続けていた頃に出会った。死のうと・・
思っていたキリコは、この老人の暖かさに救われた。もう一度、人生を歩みだした。仙人のような老・・
人の深い深い懐に、それまでの人生の涙を溶かしたのだ。何物にも代え難い師なのだ。・・・
ご老人と、ここで逢えるとは…。キリコの脳裏に若き修行の思い出が洪水のように溢れた。懐かし・・
さがキリコの意識で破裂する。・・・
「お久しぶりで、ご老人…」・・・
二人は再会を喜び合った。老人は元気だった。若返ったりはしていなのが、キリコには訳もなく嬉・・
しかった。腰は曲がったままだし、白髪は乱れ汚れたままだった。窪んだ目にうっすらと涙が貯まっ・・
ているのも、あの頃とまったく同じだった。・・・
「ところでキリコ。お前、いま何をしておったんじゃ…」・・・
老人はキリコに聞いた。むかしのままの口調に、思わずキリコの涙腺が柔らかく緩んでいく。・・・
「ハハハ、小屋を作ってみようかと…」・・・
笑いで涙をごまかした。キリコは視線を老人の足下に落とした。老人の履いている靴が小さく破け・・
ていた。それが、何だかおかしかった。・・・
「ハハハハ…。それじゃ無理じゃ…。ハハハハ…」・・・
老人が遠慮なく笑う。靴のほころびを直してやろうと思ったが、それは止めにした。・・・
「そんなに笑うことなかろう…」・・・
キリコの機嫌が裏返る。何十年ぶりにあったというのに、この死に損ない…。キリコは眉を寄せ老・・
人を睨み付けた。・・・
「相変わらずじゃなぁー、キリコ…。すぐ怒るところは、むかしと変わっておらんわい…。それに、・・
死に損ないは、お互い様じゃ…。ハハハハ…」・・・
死に損ないはお互い様だ…。その通りだった。再び、キリコの頬に笑みが浮かんだ。・・・
「キリコよ…。まぁ、それはいいとして…」・・・
むかし話だ。キノコの口臭が懐かしさと共に老人の周りを揺れる。キリコは向き直り、笑顔で老人・・
を見つめた。・・・
「あの頃は、楽しかったの…」・・・
若返って綺麗になったキリコと、よれよれの老人との不釣り合いな二人が、木漏れ日の午後に笑顔・・
を惜しみなく零し合った。頭上で、カラスが何度も旋回を繰り返していた。・・・
・・・
・・・
ジャンの部屋にリュリュはいた。部屋には至るところに絵があった。どれもこれも、見たことのな・・
い素晴らしい色彩と力強い筆遣いの秀作ばかりだった。絵のことは分からないリュリュでも、その絵・・
の素晴らしさは伝わってきた。・・・
「絵は、ぼくにとって生命の表現だった。生きている証なんだった…。だから描いてきた。来る日も・・
来る日もキャンパスに向かったよ。どれだけのエネルギーが、その作品の中に注入できるか、それが・・
戦いだった。自分との戦いだった」・・・
ジャンが熱くリュリュに語る。その腕は、リュリュの背中を優しく抱いている。・・・
「ぼくは、ブルーアイランドで変人扱いをされたんた。気の狂った売れない絵描き。変態画家などと・・
呼ばれたりした。しかし、それは合っていたかも知れない。ぼくは、キャンパスの中で狂気を演じて・・
いたんた」・・・
リュリュの目に魔女の色はもう見えない。リュリュはジャンの肩に頬を乗せ軽く微笑んでいた。・・・
「ぼくには、絵を描くことしかできなかった。全エネルギーを集中して、まさに狂ったように描き続・・
けた。その作品が売れようと、売れまいと、そんなことどうでもよかった。それしか、ぼくの生きる・・
道はなかったんだ」・・・
ジャンは早口にまくし立てる。思いを吐き出している。・・・
「絵は、ぼくにとって生命そのものだった。しかし…、どういう訳だか、ここ最近、その絵が描けな・・
くなってしまったんだ。いや、描けないと言うよりも、描かなくなってしまったんだ。なぜだろう…。・・
どうしてなんだろう…」・・・
ジャンが静かに立ち上がる。遠くを見る目で窓の外を見る。・・・
「ぼくは、グリーンアイランドに着いてからも絵を描き続けた。それはそれは、驚いたよ。物凄く出・・
来がいいんだ。信じられないぐらい思いどおりの表現で描け、どれもこれも素晴らしい出来ばえだっ・・
たんだ。有頂天になって描き続けたよ…。人にも喜んで見せた。自分から進んで見てもらった。素晴・・
らしい体験だった。人々は、ぼくの絵を絶賛してくれた。誰も彼もぼくに握手を求めたさ…」・・・
リュリュも立ち上がり、ジャンの側で窓を開ける。爽やかな風が、狭い部屋に勢いよく流れ込む。・・・
「リュリュ。しかし、それは、ぼく自身の欲求の形にすぎなかったんだ。人から認めてもらいたいと・・
いうぼくの心の中での思いが、この幻想の世界のグリーンアイランドで形になって現れたのにすぎな・・
かったんだ。ただ、ぼくの思いが幻になって、ぼくの前を通り過ぎていっただけなんだ。誰も、ぼく・・
の絵に拍手したんではない。ぼくの、その浮ついた思いに手を叩いてくれたんだ…」・・・
リュリュは言葉を挟まずに静かに聞いた。それが、今のジャンにできる唯一のことのように思えた。・・・
「恥ずかしかったよ。そのことに気付いたときは…。見え見えだったのさ。ぼくが人の目を異常に気・・
にしていたことが…。このグリーンアイランドの人たちは、それを知りながらぼくの絵を絶賛したん・・
だよ…」・・・
ジャンの目が寂しくなる。リュリュはジャンの胸に顔を埋めた。・・・
「それでもぼくは描いたよ。それしかできなかったから…。そして、そのうちに分かって来たんだ。・・
あの時、ぼくに拍手をしてくれた人たちは、ぼくにそのことを教えてくれたんだって…。ぼくが、そ・・
れでも絵を描き続けることを知っていて、ぼくにそのことを理解させようと…」・・・
ジャンが少し落ち着いていく。それがジャンの胸にいるリュリュには分かる。・・・
「それから、ぼくは人の目を意識するのは止めた。そうすれば、ぼくの絵が変わっていった。どうい・・
うのかな、優しくなったんだ。画を描くと言うことは戦いなんかじゃない。それは、自分との会話な・・
のさ。自分とゆっくりと向き合うことなんだ。それが、よく分かったよ。ぼくは、あの人たちにとっ・・
ても感謝している。絵というものの本当のあり方を教わったんだから…」・・・
なぜか涙がこぼれた。ジャンの愛の光がリュリュに見えてくる。・・・
「でも、君にはどうしても見てほしかった。ぼくの絵を…」・・・
ジャンの腕に力が入る。リュリュの涙が堰を切った。・・・
「ジャン…」・・・
窓からの風がジャンの髭に絡まり、リュリュの涙を優しく過ぎていった。・・・
・・・
・・・
「キリコ…。この森で小屋を作るには、ここの自然と話し合う必要がある。闇雲に頑張っても、森に・・
跳ね返されるだけじゃ。ここの木や草、そして、あらゆる生物に受け入れられて始めて、それは可能・・
となる。森は、お前の思うよりも、もっともっと奥が深い。どうじゃ、分かるか…」・・・
キリコの目から鱗が落ちた。風が瞬間に緑に見えた。・・・
「そうじゃったのか!」・・・
キリコが叫ぶ。思いに掛かった霧が消えた。つかえていたものが音を立ててどこかへ流れた。・・・
「そうじゃったのか! そうじゃったのか!」・・・
老人がキリコの肩を抱く。むかしと同じ、師の顔になっている。・・・
「グリーンアイランドでは、あらゆるすべてものが存在の意味を探究しておる。森の木、草に花、川・・
の水に流れる雫に恵み。風に戯れる風を創る気。地中にもそれは流れる。土が意志を持つ。この大地・・
でさえ意思に目覚めを迎えていく。キリコよ学ぶのじゃ。グリーンアイランド自体が、優れた師じゃ。・・
この地の自然そのものに学ぶのじゃ、キリコ…」・・・
老人の厳しい表情が消え、窪んだ目が笑っている。・・・
「分かったかキリコ…」・・・
老人の身体から、仄かな光が蒸発し姿が霞んでいく。ねぐらへ帰るのか…。・・・
「また会おう、キリコ…」・・・
それは、むかしと一緒だった。老人は唐突に消える。・・・
「待ってくれ。ご老人、あなたはどこに…」・・・
老人だけが、自分の居所を言わないのは不公平である。キリコはそういうことが嫌いだった。・・・
「わしか、わしは、今、アールガルズというところにいる。たいそう面白いところじゃ。わしも、ま・・
だまだ学ぶことはあるわい…。ハハハハ、また来る…」・・・
老人が消えた。いや、消えたと思ったらまた姿を現した。言い忘れたことがあるようだ。・・・
「小屋の作り方を教えてやったから、でき上がったら、わしもその小屋へ住まわしてくれ…」・・・
それだけ言って、老人は本当に消えていった。・・・
「バカ…」・・・
キリコがひとつ毒付いた。それも、むかしと一緒だった。キリコは森の中に老人のキノコの香りを・・
探した。それはすぐに見付かった。あの頃と同じ、それはそこらじゅうに漂っていた。・・・
・・・
・・・
「魔女の絵よ…」・・・
リュリュはキャンパスに向かっていた。ジャンが後ろから覗き込んでいる。魔女リュリュの欠片が、・・
キャンパスに激しく迸っている恐ろしい絵だ。・・・
「リュリュ、君も絵を描いてごらん。絵の中に、今までのことのすべてを捨てるんだ。そうして、過・・
去を受け入れていくんだ。ぼくもそうした。辛いことをすべて絵に捨てた。だから、過去だけじゃな・・
く、未来も見えるようになったんだ…」・・・
ジャンのその言葉がリュリュの浄化に拍車をかけた。リュリュはジャンの言う通りに筆を持った。・・
ジャンの暖かい優しさが、リュリュには信じられないほど嬉しいものだった。・・・
「魔女の絵よ…」・・・
黒い球状のものが中央にどろどろと渦を巻いている。その中を、細い真っ赤な筋が幾本も走る。血・・
の色が血管に脈打っている。赤い筋に無数の襞が見え、その襞から紫の炎が仄かに立ち昇る。更に、・・
その黒い球には一本の人骨が深々と突き刺さり、回りに血管から吹き出た汚れた血の色が流れていく。・・
飛び散る血が真っ白な人骨にまで達している。・・・
「凄い絵だ…」・・・
ジャンがその迫力に身を震わせていた。リュリュの背に置いた手に震えが伝わる。・・・
「凄い絵だ…」・・・
リュリュは取り憑かれたように、そんな絵を何枚も何枚も描き続けた。食事も休息も取らずに一心・・
に描いた。・・・
「魔女の絵よ…」・・・
描きながら、何度もその言葉を吐いた。リュリュは自分の中の魔女の血を、幾枚かの絵の中に叩き・・
つけた。自らの意識・感情・意志の中に巣喰う魔の部分を剥ぎ取り、キャンパスへと塗った。紫の蝋・・
燭には害心を…。土緑の十字架には恐怖を…。輝く緋色の月には怒りを…。灰色の人の横顔には憂鬱・・
を…。そして、人骨に悲しみを…。魔のすべてを、真っ白いキャンパスへ激しくぶつけていった。・・・
魂の絵だった。リュリュは魔女の血をキャンパスに埋め込んだ。ジャンの優しさにリュリュは生ま・・
れ変わった。リュリュに熱い涙が流れ続けていた。・・・
「ありがとう、ジャン…」・・・
最後の絵が完成した。リュリュはジャンのベッドに倒れ込んだ。そして、静かに目を閉じた。頬に・・
うっすらと小さな笑みが浮かんでいた。・・・
・・・
・・・
木こり小屋がとうとう姿を表した。キリコがその周りを何度も回る。・・・
「ハハハ…。できたわい! 完成じゃ…」・・・
静けさの森に相応しくないキリコの大きな声が響く。カラスがお祝いにか、何十羽と小屋の屋根に・・
舞い降りる。・・・
「完成じゃ! 完成じゃ! ハハハハ!」・・・
キリコ入魂の作だった。苦心の作だった。・・・
あれから、キリコは老人の言葉通り自然と話し合った。森をくまなく回り、木々や草、根に葉、花・・
に苔、森に大地、流れる風、揺れる気、ひとつひとつに言葉を掛けていった。いや、心で触れ合って・・
いった。自らを無にして幻想の肉体を脱ぎ捨てた。自らの揺れだけを感じ、自然と、森と、風と、相・・
対した。森は静寂の時だった。心が和んだ。安定と調和で、キリコはいつまでも森を漂い森の風と・・
なった。・・・
夜明け近くに、キリコの深い意識の層に木々たちの意識が流れ込んできた。風がキリコを認め、森・・
がキリコに触れ合ったのだ。老人の言った通り、木々や草たちは思いを持っていた。存在の理解を漂・・
わせていた。それは、紛れもない生命の息吹であり、生命の泉だった。キリコは、その意識たちと溶・・
け合った。キリコの深い意識の層だけが、森の自然たちと深く心を交わし合った。・・・
森はキリコを拒んだりしなかった。そこには、時が止まっていた。永遠とも思えるほどの時を、キ・・
リコの目覚めた深い意識が森の息吹と揺れた。森を、もっともっと抱きたかった…。森に、もっと・・
もっと抱かれたかった…。その思いで、キリコは揺れ続けた。・・・
森はキリコを優しく抱いてくれた。キリコも森を抱いた。木を抱いた。草に抱かれた。苔を抱いた。・・
生命の息吹を抱いた。生命の息吹に抱かれた。・・・
永遠とも思えた時は、夜が白みだすと急速に動きだした。木々や草の生命が帰っていく。自分たち・・
の時間に戻っていく。いつまでも、キリコに構ってはいられないのだろうか。キリコから離れていっ・・
た。その時に、森の恵みがキリコに呟いた。・・・
「またおいで…」・・・
キリコにはそう聞こえた。それが、キリコの目覚めだった。・・・
「いい出来映えじゃ! これじゃ、あのご老人も、文句は付けられんじゃろう…」・・・
キリコは小屋に入った。小屋が森に受け入れられたのだ。カラスが何度も屋根をつつく。突然の小・・
屋の出現に驚いている。・・・
「カラスが、びっくりしておるわい…」・・・
風が窓から爽やかに流れ込んでいた。キリコの髪の毛がそれに靡く。・・・
「またおいで…」・・・
風の中に、森の恵みが再びキリコに聞こえて来そうだった。キリコは周りを見渡した。静かな午後・・
だった。あの老人がどこからか現れてくるように思った。キノコの微かな匂いがどこからかしたよう・・
に思った。・・・
「ハハハハ。ハハハハ…」・・・
キリコはベッドに寝そべった。睡魔が素早くキリコの脳裏に白い闇を見せ始めていた。・・・
・・・
・・・
「ミルダ君、あなた魔界というものを知っているでしょう…」・・・
ラ・ムーが唐突に言い、ミルダは背中が冷たくなるのを感じた。魔界…。それは、遥か遠い過去の・・
気がする。・・・
「この仕事は、その魔界に大変関わりが深いのです」・・・
いよいよ、ラ・ムーが動き始めた。ミルダに期待と不安が入り交じっていく。・・・
「魔界と関わりが深い?」・・・
昨日まで、ミルダはグリーンアイランドを見て回った。それが、ラ・ムーからの指示だった。早く・・
グリーンアイランドに馴染む。それが、ミルダの仕事の第一歩だった。ほとんど散歩して過ごした。・・
街の端から端まで歩いた。退屈などしなかった。グリーンアイランドには、人種、民族、宗教、考え、・・
言葉などを、遥かに超越した調和のとれた世界だった。秩序正しく、笑みを深く、そして、優しさに・・
包まれて人々は暮らしていた。・・・
ミルダもそれに馴れ始めた。数多くの人に声を掛け、数多くの人から声を掛けられた。ミルダに・・
とって優しすぎるほどの街だった。ミルダは日に日に軽くなり、瞬時瞬時の自らの成長を感じ取って・・
いた。・・・
そして、ラ・ムーから声が掛かった。仕事を始めます…。・・・
「あなたは、魔界を見てきましたね…」・・・
歩きながら話を…。ラ・ムーとミルダはひまわりの丘へと歩を進めた。・・・
「私は、あなたが、あのオオカミに喰われているのを見ていました…」・・・
ラ・ムーが微笑みのまま続けた。ミルダには意外な言葉だった。・・・
「見ていたというと…」・・・
自分が死んだところを、この男は見ていたという。普段なら、その言葉に驚きや恐れを抱いて当然・・
なのだが、ミルダは冷静だった。皇帝の姿に、そんなものさえ超越するような気高さがあった。・・・
「どうすることもできなかった。しかし、あなたは闘った。自らを最期まで奮い立たせた…」・・・
その時、ミルダの脳裏にひとつの閃きが光となって駆けた。あの時の声…。しっかりと、死を見つ・・
めるのです…。あの時、光はそう告げ、自分はそれを受け入れた。そして、自らの死を見つめ、死に・・
真っ正面から向かった。ラ・ムーの声があの時の光と重なる。・・・
「ミルダ君。既にお話した通り、私はホワイトアイランドから来ました。ホワイトアイランドは独特・・
の光の波動の場です。私はその独特な光の波動を身に付けています。ゆったりとして、かつ、高速な・・
光の波動です。ここグリーンアイランドの光の波動とも、まったく違います」・・・
大通りに出ると、畑で年老いた男が土を耕していた。陽に焼けた皺だらけの顔が二人に微笑む。・・・
「光の波動が異なると、存在することすら危うくなります。私は常に光の波動を調整しています。私・・
はホワイトアイランドの光の波動を経験しました。安定の波動です。しかし、その波動のままでは、・・
ここグリーンアイランドでは存在することが叶いません。だから、自らの光の波動を調節しています。・・
自らで落としているのです。そうしないと、幻想の肉体を維持することができないのです。光のあり・・
方が少々異なるのです…」・・・
ラ・ムーは遠くを見る目付で、ミルダの少し先を大股で歩いていく。ラ・ムーの低い声が、ミルダ・・
の耳元で吹く風と同じリズムでゆるりと舞う。・・・
「しかし、それも限界があります。私はブルーアイランドへは行けないのです。地上の世界へは、幻・・
想の肉体を捨てないと行けないのです。意識のみしか届かないのです…」・・・
波動の違いは空間の歪みだ。そこに存在するには、光としての確固たる意識の確立が必要だ。幻想・・
の肉体を脱ぎ、そして、光となって時と空間を越える…。光の波動を越えていく。なぜか、ミルダに・・
理解できていた。・・・
「あなたは、あの山でオオカミ犬に喰われました。私はその様子を見ることしかできなかった…。手・・
出しをすることは叶わなかったのです…」・・・
やはり、あの時の光を再び感じた。だから、ラ・ムーの話が理解できた。光は、時をも空間をも越・・
える…。ミルダにあの時の光が蘇っていく。時と空間を越えた光のラ・ムーと、ミルダは既に出会っ・・
ていたのだ。・・・
「私は、あなたに偶然に遭遇しました。呪いの黒森を探っていたのです。魔界との接点を…」・・・
ラ・ムーは足を止めミルダを振り返った。ラ・ムーの笑みが真っ直ぐにミルダに届く。・・・
「それが私の任務です。ホワイトアイランドからの重要な任務なのです」・・・
ラ・ムーの手がミルダの肩に乗る。熱い思いがラ・ムーの瞳に見える。・・・
「魔界とは、ブルーアイランドでの一生のうちで、悪行を尽くした者、悪魔的な生き方をした者、無・・
知ゆえに一生を無駄にし、悲しみや苦しさなど否定的な感情にすべて支配されてしまった者、あるい・・
は、自らで望む者もいますが…。そういった負の感情を抱き続けて死を迎えた者が、死の直後に、魔・・
界の強い磁気に引き込まれていくのです。死という衝撃に自分を見失っている時に、強烈で否定的な・・
負の波長が死の者を襲うのです…」・・・
ひまわりの丘が近くに見えた。ラ・ムーの足が少し速くなる。午後の日射しが強くなる。・・・
「ここ何十年、何百年と、魔界へ引き込まれていく人たちが増え続けています。ブルーアイランドの・・
人口増加も原因のひとつですが、それ以上に、ブルーアイランドでの人類の争いに元凶はあると思わ・・
れます。ブルーアイランドは、厄病に侵されているのかも知れません…。欲望の渦が人々を狂気に落・・
とし込んでいるのかも知れません…」・・・
ミルダが言葉を挿むことを、ラ・ムーは拒否しているようだった。ラ・ムーの口調が早くなり、瞳・・
の光が大きく拡がる。・・・
「私の任務は、魔界の具体的な調査です。さらに、魔界へ流れていった者を救うことです。魔界から、・・
グリーンアイランドへの道を切り開くことなのです…」・・・
小さなせせらぎを二人は横切った。せせらぎは森から流れていた。ひまわりの群生を過ぎた流れだ。・・・
「ブルーアイランドでの人生は非常に短く、物質に縛られた大変辛い一生です。しかし、果てしない・・
我々のアイランドに生を受けた限り、それを乗り越えて進まなければなりません」・・・
二人は川沿いを進む。緩やかな流れを遡る。・・・
「それは、長い長い旅です。私ぐらいになると、地上での人生は過去のほんの一瞬のことのように思・・
えます。ブルーアイランドの一生より、その後の方が遙かに長い存在です…。地上での記憶はかなり・・
薄れています」・・・
遡った流れはひまわりの群生へ二人を誘っていた。風にその香りを濃く感じる。・・・
「但し、非常に短いブルーアイランドでの人生が、その者の精神を形成していきます。個性がある程・・
度でき上がるのです。その者の、後の歩みに大きな影響を与えるのです。とても短い時ですが、ブ・・
ルーアイランドでの一生は、大変に重要で貴重な時間なのです。分かりますよね…」・・・
ラ・ムーが言葉を切り少しの静寂がミルダに流れる。陽射しがそんな静寂の中に集まり、ラ・ムー・・
の姿がゆっくりとひまわりに同化していく。・・・
「分かりますよね、ミルダ君。あなたは、ブルーアイランドで素晴らしい経験をした」・・・
ラ・ムーの言葉は静寂を破ることはなかった。ミルダの思いは静寂の中、故郷へと舞っていた。故・・
郷の森が心地よく脳裏に揺れていた。・・・
「この枯れ葉と同じです…」・・・
ラ・ムーがせせらぎから一葉を拾い言葉を続けた。・・・
「この葉は、もう枯れてしまっています。死んでいます。蘇ることも浄化することもありません。し・・
かし、葉は木の一部です。脈々と息づく一本の木の一部です。木は枯れた葉を捨てていきます。その・・
他への影響を考え、それが拡がらないように捨てていくのです…。それが変化です…。それが成長で・・
す。そして、それが浄化なのです…」・・・
拾い上げた葉を、ラ・ムーはそれが当然のようにせせらぎに返す。故郷へ揺れるミルダの静寂がせ・・
せらぎへ戻る。・・・
「魔界では、そうはいきません。魔界では、葉が枯れ、枝が枯れ、そして、幹が枯れ、根が枯れる。・・
魔界にもその流れはあります。しかし、魔界ではそれに手当をこうじることなどありません。葉が枯・・
れ、根が枯れても、そのままの状態です。すべてが枯れていくままに放置されてしまいます。グリー・・
ンアイランドのようにその一部を捨てていくことなどありません…」・・・
ラ・ムーから微笑みが消えていた。せせらぎに揺れる一葉を見つめる瞳が鋭くなっている。・・・
「魔界には、浄化という波長が欠片もないのです。あの枯れ葉のように流れのままなのです。魔界は・・
生きる屍ばかりになってしまいます。本当の地獄になってしまいます」・・・
ラ・ムーの声に怒りが刺々しく含まれていく。その激しさがミルダに届く。・・・
「だから、魔界に、グリーンアイランドへの扉を築かなければならないのです。それが、私の任務な・・
のです…」・・・
ラ・ムーが遠くを見た。ミルダもそれに習った。まっ白い雲が勢いよく遥かな空へと流れていく。・・・
「あの雲の先に、ホワイトアイランドがあります。魔界にグリーンアイランドの扉を…。ホワイトア・・
イランドは切にそれを望んでいます…」・・・
ラ・ムーの言葉が途切れ、再びの静寂が二人を包み込む。・・・
「私は、もうブルーアイランドへは意識体でしか行けません。だからこそ、ミルダ君、あなたに私の・・
代わりを努めてもらいたいのです…」・・・
やはり、ラ・ムーは何もかも知っていた。ラ・ムーは、ミルダを目覚めの位置へと誘っていたの・・
だった。ミルダのいま立ったている位置は、黒く尖った山を越え、ミルダが再びの存在を確認した森・・
だった。木漏れ日に包まれた新しい旅への出発点だった。幼子のように駆け回り、木々を跳び、土に・・
転げた目覚めの森だった。・・・
「まず、呪いの黒森へ行きましょう…。私に付いてきて下さい…」・・・
ラ・ムーを包む木漏れ日が揺れ、ラ・ムーの姿が木漏れ日から消えた。・・・
「ラ・ムー…」・・・
風が消えたラ・ムーの方へ吹いた。ミルダはその風に乗った。その瞬間、ミルダは光になっていた。・・・
(4)・・・
・・・
呪いの黒森の子供たちに、明らかに動揺の影が浮かんでいた。自分たちの唯一の頼りである笛吹き・・
が、金髪の男に呆気なく連れていかれてから姿を見せなく連絡さえ寄越さない。子供たちの心が急速・・
に笛吹きから離れ始めていた。・・・
「おっさん、もう帰ってこないぜ…」・・・
誰かがそう呟いた。子供たちのそれぞれの思いが揺れる。・・・
「そうかも知れないね…」・・・
笛吹きが連れて行かれたのを子供たち全員が見ていた。笛吹きは何の抵抗もなく金髪の男に跪いて・・
いた。子供たちはそれを醒めた目で見ていた。自分たちの主はあまりにも弱かったのだ。子供たちに・・
はまったくの意外な出来事だった。頼りにしていたもののふがいなさに、当然と笛吹きへの思いがぐ・・
らついていた。・・・
「頼りないおっさんだ…」・・・
笛吹きはまったく抵抗すらしなかった。更に、巨大な女にまで足蹴にされたままだったのだ。・・・
「情けない…」・・・
そんな思いが笛吹きへと向き、子供たちがそれぞれの変化へと傾いていた。・・・
「笛吹きおっさんは、自分たちを捨てた」・・・
子供たちの呟きが拡がり、笛吹きへの怒りが徐々に膨れていく。・・・
「あんな弱いおっさんが、自分たちにだけ偉そうに…」・・・
笛吹きへの恐怖すらが子供たちの中で色褪せていく。そして、その思いの奥から、今までのことを・・
少しずつ振り返ることに子供たちが目覚めていく。・・・
「おっさんと暮らして、何かいいことあった?」・・・
今まで思わなかったことが揺れた。不思議に思わなかったことが、今の子供たちに色を変え形を変・・
えていく。不思議という思いが子供たちに急速に拡がっていく。・・・
「いいこと? あったかな…」・・・
子供たちは普段これといって何もしていない。ただ、遊んだり喋ったりして一日を過ごす。呪いの・・
黒森へ来てから、それはずっと変わらない。満月の夜宴以外、特に仕事もなく二・三人が代わる代わ・・
る笛吹きの身の回りのことをこなすだけの変化のない毎日だ。・・・
「なかった。そう、いいことなんかなかった…」・・・
そんなこと、考えたことのない子供たちだった。今まで気づかなかったのだ。変化のない毎日が辛・・
いこと…。何の目的も、生き甲斐もなく、ただ、流れのままに過ぎていく日々を、当然だと思ってい・・
た。そして、それを、変えようとはしなかった。いや、そんなこと考えもしなかった…。・・・
「いいことなんかなかった!」・・・
パジーが消えても何も思わなかった。チェナ、カッペ、ジーニョが森から去っても深く考えなかっ・・
た。魔女リュリュが消えても何も感じなかった。・・・
「そうだ、いいことなんか、少しもなかった!」・・・
しかし、笛吹きが余りにも弱かったのだ。それは、子供たちの思いを動かすのに十分すぎるほどの・・
出来事となった。信じていたものへの信頼が、風船が破裂するように急速に萎えた。・・・
「おれたちは、どうなるんだよ!」・・・
叫びが大きくなり森に大きく轟く。子供たちが声を高くすることなど、今までないことだった。・・・
「そうだ、おれたちはどうなるんだよ!」・・・
子供たちの変化という導火線に、自らの大きな叫びが火が点けてしまった。変化の渦に子供たちの・・
目覚めが巻き込まれていく。・・・
「おっさんのバカ! わたしたちを、ほっていくなんて…。許せない!」・・・
不満不平がグツグツと沸き出し、それぞれの胸に溜まった黒い塊が叫びと共に外へ吐き出されてい・・
く。それは、もう止まらない。笛吹きに対する怒りが、堰を切って燃え上がっていく。・・・
「おっさんのバカヤロー!」・・・
そんな激しい怒りが、笛吹きへの恐れをどんどん遠ざける。子供たちが同じ思いに揺れていく。・・・
「バカヤロー!」・・・
今夜も笛吹きが帰ってくる気配はなかった。月の明かりが子供たちを仄かに照らし、星が微かな瞬・・
きを子供たちに見せる。・・・
「笛吹きのバカヤロー!」・・・
笛吹きは帰ってこない…。子供たちはそれを当然のことのように思い始めていた。これからどうす・・
る…。その思いが子供たちを月の下に集めていたのだ。・・・
「これからどうする…」・・・
同じ言葉がそれぞれから漏れる。一番年長のゲタンを中心に子供たちがひとつの輪になる。・・・
「笛吹きのおっさん、もう帰ってこないぜ!」・・・
ゲタンが吐き捨てた。笛吹きがいなくなってから、何とか子供たちをまとめている兄貴格の大柄な・・
少年だった。ゲタンは地面の枯れ葉を蹴飛ばした。枯れ葉が激しく風に舞った。・・・
「あんな弱いおっさん、情けねーや。バカヤロー!」・・・
ゲタンは自らの気持ちが高ぶっていくのを感じていた。みんなに対する責任感がゲタンに芽生えて・・
いた。こんな気持ちはいつ以来か分からない…。胸の中が熱くたぎっていく。・・・
「明日の満月の夜も、いつものように宴はあるのかなぁ…」・・・
おかっぱの女の子が小さく呟いた。おっとりとした少女だ。ゲタンの高ぶりがその子には届いてい・・
ないのか、無邪気な瞳が月明かりに揺れている。・・・
「そんなもの、あるわけないよ。ミラ…」・・・
ゲタンには確信に近いものだった。みんなにも当然聞こえているはずだ。しかし、ゲタンはもう一・・
度言った。・・・
「夜宴なんてないよ! おっさんが帰ってきても、おれ、もう二度と夜宴になんか出ないぜ!」・・・
ゲタンの胸の内に激しさが破裂した。胸から熱い炎が沸き上がっていく。・・・
「森を出よう!」・・・
ゲタンの生命の叫びだった。ゲタンの怒りが闇を漂った。・・・
「パジーや、チェナ、カッペ、ジーニョ、そして、リュリュねーさんのように!」・・・
森を出よう…。ゲタンの思いが固まっていく。どうして、それを今まで思わなかったのか…。森を・・
出よう…。簡単なことではないか…。・・・
「森を出よう!」・・・
そう、これからは自分たちで歩いていく。笛吹きがいないのならそうするしか仕方ない。いや、そ・・
うじゃない…。自分たちは自分たちの道を探すのだ…。・・・
「森を出るんだよ!」・・・
今までにない風を子供たちが感じ始める。怒りが変化を誘い、子供たちの風の受け方が変わったの・・
だ。流れのままの日々から脱出…。その思いに子供たちが寄り添い火の点いた導火線が勢いを増す。・・・
「森を出よう!」・・・
ゲタンの叫び続く。激しい思いがみんなに届く。・・・
「どうしよう…」・・・
誰かが、みんなの気持ちを代弁した。どうしよう…。それすら、子供たちは考えたことがない。・・・
「パジーだって、この森から出ていったんだ!」・・・
どうしよう…。その思いが大きくなり、子供たちのすべてがそれへ正面へ向かう。・・・
「そうだ、パジーは森を出た!」・・・
そう、おれたちだって森を出られる…。そうなのだ、何も怖がることはない…。子供たちのもうひ・・
とつの導火線が本流へ勢いを向ける。・・・
「そう、あのカッペだって…」・・・
勢いは止まらない。笛吹きへの怒り、変化のない日々、そして、自分たちの未来への思い。それが、・・
それぞれに絡み合っていく。・・・
「森を出よう!」・・・
思いがひとつになっていく。子供たちに吹く風が激しさを増していく。・・・
「そうだ! あんな弱いおっさんに、縛られ続けているなんでバカバカしいぜ!」・・・
自らで考える力が子供たちの永い眠りを破ったのだ。子供たちは自分たちの意思を探し始め、存在・・
の理由を探し始めたのだ。・・・
「バカヤロー! おっさんのバカヤロー!」・・・
子供たちは泣いた。しかし、そけは今までの涙ではなかった。森を出よう…。この森を出よう…。・・
子供たちの変化は未来へと向かっていた。・・・
「森を出よう! おれたちは生きているんだ!」・・・
子供たちはゆっくりと立ち上がる。月明かりの先を一歩ずつ歩き始める。・・・
「そうだ、森を出よう!」・・・
「おれたちだけで生きていこう!」・・・
叫びが続いた。子供たちの未来が呪いの黒森に大きく揺れ始めていた。・・・
・・・
・・・
笛吹きは久しぶりに戻る呪いの黒森に心軽かった。子供たちの嬉しそうな顔が浮かぶ。・・・
「プイー、プィー…」・・・
笛の音も少々弾み響きがいい。笛吹きの頬に笑みが浮かぶ。・・・
「プイー、プィー…」・・・
ロキとヴィゴルーにいろいろな話を聞いた。知らないことばっかりだった。特に、ヴィゴルーから・・
は意味深いことを聞いた。呪いの黒森に新しい街を築くというロキの思いを聞いた。身体の震える話・・
だった。自分にもとうとう運が巡ってきたように思った。ロキは恐ろしかったが、その指示通りに動・・
いていればきっと運が開ける。笛吹きはそう思っていた。・・・
「プイー、プィー…」・・・
ロキは笛吹きの相手ではなかった。呪いの森の悪魔は考えを変え狡猾にロキへ取り入ったのだ。・・・
「プイー、プィー…」・・・
それにしても、久しぶりの呪いの黒森だ。森を出たのはあの日から始めてのことだった。笛吹きは・・
言い訳を考えていた。子供たちに黙って森を空けたことに対する旨い理由を考えていた。・・・
土産話がある…。ロキやヴィゴルーの話を聞かせてやったら、子供たちも喜ぶだろう…。笛吹きの・・
頬が更に緩む。子供たち一人一人の顔が浮かぶ。・・・
「プイー、プィー…」・・・
森に入った。笛吹きは、今夜、特別に夜宴を開こうと思っていた。子供たちへの償いだ。子供たち・・
には優しくしてやろうと思っていた。・・・
「プイー、プィー…」・・・
どんどんと森を進んだ。笛の音が滑らかに森に溶けていく。しかし、子供たちの姿は見えない。あ・・
あ、そうか…。みんな怒っているんだな、迎えに出てこない…。可愛いもんだ、拗ねているんだな…。・・
笛吹きの笑みが大きく拡がった。・・・
「プイー、プィー…」・・・
笛吹きは久しぶりにいい気分だった。笛の音がいつもより軽かった。・・・
・・・
・・・
「みんな、思い出すのよ! あたしたちは生きているのよ!」・・・
クラーラという少女だった。ゲタンと同じ年長だ。みんなから、やはり頼りにされている。・・・
「あたしたちは生きているのよ!」・・・
クラーラの怒りの目が天に向いていた。クラーラは何度も叫んだ。・・・
「あたしたちは生きているのよ!」・・・
黒く尖った山の頂に子供たちは立っていた。この山を越えると森がある。呪いの黒森とは逆方向・・
だった。それを、思い出したのはクラーラだった。その森に自分たちは朽ちたのだ。笛吹きの笛の音・・
に騙されたあの遠い日…。そう、クラーラははっきりと思い出していた。だから、子供たちはその森・・
を目指した。パジーやカッペたちもあの森に向かったはずた。・・・
「あの森に、眠っているのよ! あたしたちは、あの森に眠っているのよ!」・・・
子供たちが、クラーラの叫びの意味をそれぞれが理解しようとしている。みんなが目にいっぱい涙・・
を溜めてクラーラを食い入るように見つめる。それは、まさしく眠りから覚めた子供たちだった。激・・
しい激流が子供たちに押し寄せている。・・・
「そうだ! おれたちは眠ったままだ! あの日から、あの森に眠ったままなんだ!」・・・
ゲタンが続いた。子供たちがあの日を思い出していく。そして、生命というものを思い出し、生命・・
が燃え上がっていく。・・・
「ウオー! おれたちは生きているんだ!」・・・
思いが爆発した。生きている! 闇がその叫びに切り裂かれていく。・・・
「どうして、涙が出る! どうして、心が熱い! どうして、森を出ようと思う。どうして、怒りが・・
抑えられない!」・・・
ゲタンが叫ぶ。子供たちへ生命の問いを投げかける。・・・
「それは、生きているからだ! おれたちは、生きているんだ!」・・・
ゲタンの叫びが止まらない。それが、子供たちに拡がり、すべてがゲタンに続く。・・・
「そうだ、おれたちは、生きているんだ!」・・・
子供たちにあの日のことが蘇る。あの森だ…。あの森に死んだのだ…。いや、死んではいない。こ・・
うして生きている…。・・・
「おれたちは生きている!」・・・
「そうよ、生きているのよ!」・・・
子供たちが蘇っていく。鳥籠から羽根を大きく羽ばたかせていく。生命を思い出した者たちの翼が・・
一瞬にして大きく拡がる。心の中にしまい込んでいた、悲しみ、憎しみ、怒りなどが、その翼と共に・・
大空へと放たれていく。子供たちは叫んだ。蘇った生命で声の限りに叫んだ。・・・
「ウオー! 生きているわ!」・・・
「そうだよ、おれたち、生きているんだ!」・・・
子供たちがそんな思いに破裂し、それぞれの背に透明の光が灯っていく。・・・
「おれたちだけで生きていこう!」・・・
光が光を誘い月明かりに紛れていく。子供たちの光がそれぞれを抱いていく。・・・
「生きていこう! それは、なぜだ!」・・・
ゲタンが再びみんなに問うた。子供たちの思いがひとつになっていく。・・・
「それは、生きているからだ!」・・・
みんなの叫びが、ゲタンのその問いに帰ってきた。ゲタンは拳を高く天に突き上げた。・・・
「出よう! この森を出よう! なぜって?」・・・
クラーラも問うた。ゲタンのように片手を大きく天にかざした。子供たちの光が明るく大きくなっ・・
ていく。・・・
「それは、生きているからだ!」・・・
声が揃う。叫びが歓声となっていく。ゲタンとクラーラがその中心にいる。・・・
「生きていくんだ! なぜだ?」・・・
ゲタンが叫んだ。クラーラがもう一度天高く手を伸ばした。・・・
「それは、生きているからだ!」・・・
「さあ、進め! みんな、あの森へ進め!」・・・
・・・
・・・
笛吹きが山の頂に着いたのは、子供たちが山を下り始めてしばらく時が流れた後だった。・・・
ヴィゴルーも笛吹きに追い付いていた。笛吹きとヴィゴルーには、微かに仲間意識のようなものが・・
芽生えようとしていた。笛吹きはヴィゴルーの怪力を利用した。ヴィゴルーはなぜか頼りない笛吹き・・
を憎めなかった。・・・
「おじさん、子供たちはどうしたの…」・・・
二人は頂に並んで立った。笛吹きは焦っていた。子供たちがいないのだ。・・・
「子供たちは逃げたの?」・・・
ヴィゴルーの言葉に笛吹きの不安が大きくなっていく。子供たちが逃げた…。ロキに何と言えばい・・
いのか…。頭の中が混乱していく。・・・
「たぶん、あの森に行っているだろう。わしが、あまりに帰らないので探しに行ったのだろう…。・・
きっと、そうだ…」・・・
あまり自信はなかったが、ヴィゴルーにはそう言うしか他になかった。・・・
「逃げたのよ…」 ・・・
何度も、ヴィゴルーはそう言った。笛吹きの不安がはっきりと形となっていく。・・・
「逃げたのよ…」・・・
笛吹きの苛立ちがヴィゴルーに向く。笛吹きは闇にひとつ叫んだ。・・・
「うるさい!」・・・
笛吹きの足蹴りをヴィゴルーが軽く交わした。笛吹きはそのまま頂から森を見下ろした。・・・
「誰かいる…」・・・
山の麓に何やら光ものが見えた。それは、仄かな人影を形取っている。・・・
「子供たちだ!」・・・
笛吹きは飛んだ。黒い縦笛を握りしめ幻想の肉体のまま飛んだ。ヴィゴルーが煩わしそうにその後・・
に続いた。・・・
・・・
・・・
キリコは嫌な予感にベットから飛び起きた。勘の鋭いキリコだ。自分の予感は信じるに値する。・・・
「あの森じゃ…。わしの木こり小屋じゃ」・・・
キリコは自らの思念で構築した木こり小屋にいた。しかし、以前の住まいだった木こり小屋が気に・・
なった。・・・
「何かが起きている。あの日のように…。そう、あの日のように…」・・・
嫌な予感は、自分の胸に確信となって迫った。キリコは小屋の外へ出た。・・・
「もしや、あの日の子供たち…」・・・
キリコは意識を飛ばした。そして、リュリュを呼んだ。・・・
・・・
・・・
ロキはいつものように物乞いの声を聞きながら愛用の剣の手入れをしていた。闇の中に魔剣の妖し・・
い光が鋭く跳ねる。・・・
-ロキ様…。・・・
ヴィゴルーがロキへ意識を飛ばしてきた。子供たちが見つかったのだ…。・・・
-黒い山を越えた森です…。・・・
子供たちは少々働いてもらう積もりだった。子供は都合よい。死の姿が大人よりもよりリアルに見・・
える。・・・
-ヴィゴルー、そこで待て…。・・・
ロキは静かに立ち上り、そのまま一瞬に部屋から消えた。鋭い魔剣の残像だけが、しばらくその場・・
に一条の光となって残った。・・・
・・・
・・・
子供たちは山を下りた。叫びは続いていた。森を進め!・・・
呪いの黒森と違い少々明るい森が拡がる。月の明かりが木々の間から多く漏れている。それぞれの・・
顔に少しの安堵感が見えている。・・・
「おれがいる。こんなところにおれがいる…」・・・
森に多くの石像が置かれていた。そのひとつに、ハンスという少年が魅せられるように膝を落とし・・
た。子供たちが叫びを止めハンスの言うことに耳を傾ける。・・・
「おれだよ、この石、おれだよ!」・・・
狂ったようにハンスが叫んだ。ハンスの目から瞬間に大粒の涙が落ちた。・・・
「みんな、探せ!」・・・
「石だ。おれたちは石に眠っている!」・・・
その意味は、子供たち全員が既に知っていた。眠りから目覚める…。森のどこかで、自分たちは・・
眠っている…。あの日の思いが、子供たちを急き立てる。・・・
「石だ…」・・・
「石に眠っていたのだ…」・・・
叫びが拡がる。それぞれがそれぞれの石を捜す。・・・
「あたしだ、この石はあたしだ!」・・・
「こっちはおれだ! おれが石の中にいる!」・・・
子供たちが自分の石像を認めていく。子供たちには石像の中の自分たちが見えていた。・・・
「石に眠っていたの!」・・・
クラーラも自分の石に膝を付いていた。そうなんだ。この石はあたしたちなんだ…。・・・
「この石に眠っていたのね!」・・・
クラーラは石像を抱いた。石は冷たく心まで凍りそうだった。・・・
「起きろ! 起きて、生きるのよ!」・・・
クラーラの叫びが、最もこの場に相応しかった。起きろ! そうよ、起きて生きるのよ!・・・
「起きろ! 起きろ! 起きろ! このヤロウ!」・・・
ミラがクラーラを真似た。まだ幼いミラにも、石像に自分の影のようなものが見えているのだ。ミ・・
ラが希望の面が明るく笑っている。。・・・
「呼んでいるぞ! 石が呼んでいるぞ!」・・・
ゲタンの叫びにクラーラが引き込まれる。・・・
「呼んでいる。あたしを呼んでいる…」・・・
石が光ったような気がした。石の目が開いたような気がした。クラーラが続けた。・・・
「耳を澄ますのよ! 石があたしたちを呼んでいる!」・・・
やはり、石が光っている。石の目が開かれていく。・・・
「石に光が見えるじゃろう! それへ進むのじゃ! それが未来じゃ!」・・・
その時、声がした。天からか、石からか。それは、分からない。しかし、声がした。子供たちは声・・
に集中する。嗄れた声にすべての意識を向ける。・・・
「石はお前たちじゃ…。それへ、お前たちが眠っておる…」・・・
それは、全員に届いた。子供たちの叫びが収まっていく。子供たちの意識が声をしっかりと掴む。・・・
「光へ進め…。見えるじゃろう、石の目じゃ!」・・・
クラーラは目を閉じた。心の目を大きく見開いていく。・・・
「その光へ入れ!」・・・
風が荒れ森に雷鳴が響く。雷光に石像の光が弾ける。稲妻が天に炸裂する。・・・
「光に入れ! 石の目に入るのじゃ!」・・・
声が雷光からする。石像の目が大きく光り風の悲鳴が子供たちを過ぎる。・・・
「そうじゃ! 石の目はお前たちの目じゃ! 目の中に、お前たちの未来がある!」・・・
雷光が駆け森に鋭く光が裂ける。風が更に荒れる。・・・
「光に入るのよ! ゲタン、クラーラ! あなたたちの未来の光よ!」・・・
雷光が石像の目に吸い込まれていく。石に光が弾け闇が歪んでいく。・・・
「ハンスもミラも光に入るのよ! みんな、頑張れ! それが、あなたたちの未来の光よ!」・・・
子供たちが石像と溶け合っていく。森の嵐が少しずつ遠くなっていく。・・・
・・・
・・・
「光に入れ! 石の目の入るのじゃ!」・・・
キリコが真っ白な空間で叫び続け、リュリュがそれを引き継いた。・・・
「光に入るのよ! ゲタン、クラーラ! あなたたちの未来の光よ!」・・・
キリコの激しい思いだった。天国で会おう…。あの日、そう言った。むかしむかしの約束だ。それ・・
が、今、果たされようとしている。・・・
「光へ入るのよ! それが未来なのよ!」・・・
リュリュの思いも同じだった。稲妻を次々に森へと投げつけている。意識のエネルギーを光に変え、・・
森へその光を送り続けている。・・・
「光に入るのよ! あなたたちの未来の光よ!」・・・
キリコには見えた。あの日のあの子供たちが、今、時を越え蘇っていくのを…。石像の中に眠り続・・
けていたもう一人の自分と、光となって溶け合おうとしているのを…。・・・
「光に入れ! 石の目の入るのじゃ! それが、お前たちの未来じゃ!」・・・
キリコは自らの輝きのすべてで叫んだ。森に激しい光を次々に投げつけた。・・・
・・・
・・・
ミルダは笛吹きの前に立った。子供たちの姿にミルダは胸を熱くしていた。子供たちが魔界から出・・
ようとしている。未来へ向かおうとしているのだ。笛吹きにそれを邪魔はさせてはならない。・・・
「子供たちを、行かしてやれ!」・・・
森は嵐だった。光が闇を切り裂いていく。稲妻が風と荒れ狂っている。・・・
「手出しはするな!」・・・
笛吹きへの恐怖はない。ミルダも魔界を理解している。ミルダは嵐の中、笛吹きの前に立ちはだ・・
かった。・・・
「お前は、あの時の…。お前には関係ない!」・・・
驚きと怒りが笛吹きの顔を赤くた。あの時の笛吹きの殺気がミルダに蘇る。・・・
「そこを退け!」・・・
笛吹きがミルダを押し退けた。その瞬間、ミルダの背に激痛が走った。・・・
「ヴィゴルー、あとは頼む!」・・・
動けなかった。もがくこともできない、凄い力だった。意識を沈め消えることすら叶わなく、ミル・・
ダに恐怖が高速に駆けた。・・・
「おじさん、待って。この坊や、消えようとしているよ…」・・・
笛吹きがお構いなしに荒れる稲妻の光へと向う。ミルダの意識が遠くなる。・・・
「しらけた奴!」・・・
ミルダがその場に持ち上げられ、そのまま両足首を持たれ振り回される。・・・
「私が悪いんじゃないよ。みんな、あのおじさんが悪いのよ!」・・・
その言葉は、最後までミルダに届かなかった。ミルダは地面に叩き突けられた。顔面が黒い岩に砕・・
けて割った。・・・
・・・
・・・
子供たちはびくとも動かなくなった。魔界を出る時が来たのだ。石像の目の光が子供たちを包んで・・
いく。嵐が小康し闇が遠くなっていく。・・・
ゲタンは夢のような心地だった。安らかで落ち着いていた。消えゆく嵐も意識に流れてこない。こ・・
んないい気分は始めてだった。ゲタンは光を進んだ。光の暖かさが心を溶かしていた。・・・
「ゲタンね…」・・・
誰かが呼んでいる。クラーラだ。クラーラも自分と同じ光を進んでいる。・・・
「クラーラよ、ミラも側にいるわ…」・・・
姿は見えないが確かに側にいる。光に影が揺れている。・・・
「みんなも、いるようだな…」・・・
ゲタンの揺れる意識に安堵が浮かんだ。魔界を出たんだ…。生きているんだ…。ゲタンはクラーラ・・
の光に寄った。透き通った笑顔が見えたように思った。・・・
「静かね…。とってもいい気分…」・・・
ミラがクラーラの背に乗っている。二つの光がひとつに溶けていく。・・・
「リュリュねーさんが、呼んでいるよ…」・・・
クラーラがそうゲタンに告げた。やっばり透明な笑顔が見えた。・・・
「リュリュねーさん、はやく、こっちへおいでって…」・・・
子供たちは光を進んだ。リュリュのいる空間まであと少しだった。・・・
・・・
・・・
笛吹きはその光景に目を見張った。何ということだ…。子供たちにまったくの動きがなく、それぞ・・
れに白い光を抱いている。・・・
「魔界を抜け出していく…。そんなこと…。バカヤロー! 何を思ってやがる! そんなこと、この・・
おれが許さん!」・・・
笛吹きが一人の少女に飛び付き、その顔面を鷲掴みにした。幼いミラだ。ミラのおかっぱの短い髪・・
の毛を引き千切り、小さな頬を何度も叩く。・・・
「おい、起きろ…。おい!」・・・
肩を揺するがびくともしない。ミラは静かに目を閉じたままだ。眠っているのか…。いや、既に光・・
へと飛び立ったのか…。・・・
「起きろ! 起きるんだ!」・・・
その時、笛吹きの眉間に軽いショックが襲った。針が刺さったような軽い痛みだった。・・・
・・・
・・・
「ウッ!」・・・
笛吹きの手が力なく垂れた。同時に雷鳴が響き、笛吹きの身体がゆっくりと崩れ落ちた。・・・
「呪いの黒森の悪魔か…」・・・
倒れた笛吹きを白く透明な光が見下ろしていた。笛吹きを倒した光だ。・・・
「何をする!」・・・
ヴィゴルーが白い光へ巨体を飛ばした。光が素早く引いた。ヴィゴルーの足蹴がむなしく空を切る。・・・
「ウッ!」・・・
ヴィゴルーは短く叫んだ。何が何だか分からなかった。ヴィゴルーも膝を折った。光がヴィゴルー・・
から去っていく。・・・
「どういうこと…」・・・
ヴィゴルーはゆっくりと地に伏した。驚きの目が、一瞬、宙に揺れた。・・・
・・・
・・・
ロキがその一部始終をゆっくりと見ていた。金髪が嵐に乱れている。ロキはゆっくりと立った。・・
ヴィゴルーから去っていく白い光へ向かった。・・・
「ラ・ムー」・・・
再び、嵐が激しくなった。木々の悲鳴が大きくなり、うねりを上げて風が狂い出す。・・・
「風よ、荒れろ…」・・・
弱り行く嵐をロキが蘇らせる。別なる雷光が森に走り、稲妻が無秩序に空を駆ける。・・・
「ラ・ムー」・・・
ロキの頬に薄笑いが浮かんた。ロキは剣を振りかざした。狂う嵐に舞う一葉が犠牲になった。・・・
「ムー…」・・・
ロキはそのまま進んだ。頬の薄笑いは消えていた。・・・
・・・
・・・
落ち葉の犠牲だけて済んだのは幸いだった。あの剣に掛かったたら、意識体だけでも吹っ飛んでし・・
まう。ラ・ムーは一息入れた。ラ・ムーの油断だった。・・・
「まさか、ロキが…」・・・
ラ・ムーはミルダを回復させながら思った。・・・
「まさか、ロキが…」・・・
ミルダを光に戻した。しばらく寝かせておこう…。ラ・ムーはミルダを木の陰に置いた。そして、・・
立ち上がりロキの消えた方へ進んだ。・・・
「ロキ…」・・・
いにしえの時代がラ・ムーの脳裏に揺れた。太陽の帝国ムーの風が意識を素早く過ぎた。・・・
「ロキ…」・・・
ロキが自分の前に現れた。ロキはアールガルスにいるはずではなかったのか…。ラ・ムーは嫌な予・・
感に身を硬くした。ラ・ムーはロキを追った。・・・
・・・
・・・
リュリュねーさんが手を振っている。おれたちを呼んでいる…。ゲタンは弾む心を抑えることがで・・
きなかった。リュリュに向かって大きく叫んだ。・・・
「リュリュねーさん!」・・・
このまま、どこまでも走りたい。どこでもいいから転げ回りたい。手を振るリュリュは美しかった。・・
信じられないほど輝いていた。魔女だったリュリュが聖母に見えた。ゲタンは進んだ。リュリュはも・・
う手の届くところにいた。・・・
「リュリュねーさん!」・・・
聖母リュリュから光が漏れ、その光が、真っ直ぐにこちらへ流れている。ゲタンはそれ手を伸ばし、・・
リュリュの息吹を感じた。・・・
「キャー!」・・・
ゲタンがリュリュの光を掴んだ時だった。ひとつ、光の中に悲鳴が上がった。・・・
「キャー!」・・・
悲鳴が続いた。ミラの悲鳴が空間を裂けるように駆けた。・・・
「キャー!」・・・
ミラが空間を落ちていく。リュリュを掴んだゲタンの手が放れ、同時に子供たちの動きが止まる。・・・
「どうしたの! 早く!」・・・
リュリュが必死に叫んでいる。しかし、ゲタンは動けなかった。ミラの叫びにゲタンの意識に素早・・
く恐怖が拡がった。・・・
「もう一歩なのよ! どうしたのよ! その光に掴まりなさい!・・・
ゲタンは精一杯もがき、側のクラーラを見た。クラーラの光が薄く遠ざかって行くところだった。・・・
・・・
・・・
ロキだった。子供たちの光に悲鳴を起こしたのはロキだった。・・・
まず、一人の子を斬った。おかっぱの少女を袈裟掛けに両断した。その子の石像の目の輝きが消え・・
た。その時、光の壁に悲鳴が上がった。嵐が激しさを増した。・・・
少女は一瞬にして幻の肉体へ戻った。光にひとつ悲鳴を残し魔界へ舞い戻った。肉を斬られる猛烈・・
な痛みが、殻になった少女の幻想の肉体を通じ光を進む少女の意識に届いたのだ。その痛みが、少女・・
の恐怖のスイッチを押した。恐怖が少女を魔界へと引きずり戻したのだ。・・・
「ハハハハ…」・・・
嵐は最高潮を迎えていた。森の悲鳴は絶叫へと変わり、木が次々と倒れていく。雷鳴が地鳴りに似・・
た響きを遥かなる空から落とす。・・・
「ハハハハ!」・・・
嵐の中、ロキの笑いが高々に木霊する。荒れ狂う風に乗って叫びが何重にも重なり合う。・・・
「ハハハハ!」・・・
ロキは次々と子供たちを斬った。すべて、真っ二つに斬った。全員を斬るのにそれほどの時間はか・・
からなかった。最強の魔剣は刃こぼれひとつ起こさなかった。・・・
「ハハハハ!」・・・
ロキは剣を高く雷光にかざした。稲妻がその剣に弾き飛ばされる。・・・
「ハハハハ!」・・・
狂気の鬼神ロキの叫びがしばらく続いた。その間、森から嵐が去ることはなかった。・・・
・・・

第三章・・・
・・・
(1)・・・
・・・
晴れた日には、黒く尖った山が遠くに見える山間の農村に、その夜は、異様な緊張が走っていた。・・・
村の一際古い農家に、村の大人のほとんどが集まっているのだ。どの顔にも、不安と期待の入り交・・
じった複雑な表情で広間の天井を見上げていた。言葉を発する者などはいなく、これから起こるであ・・
ろう何事かを皆静かに待っていた。・・・
春にはまだ少し遠い時期だが、窓はすべて閉じられており、人たちの熱気で広間は蒸せ返っていた。・・
重苦しい静けさだけが、その場を完全に支配し、それに抵抗する者はいない。・・・
農家の主人が、一段高い壇の中央で仁王立ちになり髭面を上に向けている。横にその娘だろうか、・・
中年の女が、その場で一人だけ目を閉じ下を向いている。・・・
「来た…」・・・
中年の女の手がゆるりと主人の肩を叩く。主人の目が女に落ち髭面が少し震え始める。・・・
「来たか…」・・・
主人が声を押し殺し、集まった村人たちを見回す。両手を高く、皆の衆に事の始まりを告げる。・・・
「来た…」・・・
それを合図に、村人たちに更なる緊張が走る。曲がっていた背が伸び、それぞれの目は中年の女に・・
集中していく。・・・
「コツン…」・・・
天井から乾いた音が静寂と熱気の中へ静かにひとつ落ちる。・・・
「コン…」・・・
それに合わせ、女が床を叩く。湿った音が天井に昇る。・・・
「コツン…。コツン…」・・・
天井から今度は二つ落ちる。先程よりも少し大きな音だ。・・・
「コン、コン…」・・・
女も再びそれに合わせる。ひとつのリズムが部屋の隅にまで流れていく。・・・
「コツン…。コツン…。コツン…」・・・
今度は三つ。リズムが早くなる。・・・
「コン、コン、コン…」・・・
女も合わす。女を照らしていた蝋燭の炎が静かに消える。・・・
「……」・・・
しばらく、女の廻りに沈黙が走った。重い静寂が再び部屋に充満する。・・・
「フー…」・・・
しばらく広間の時が止まった。何人も静寂の時に逆らえない。・・・
「……」・・・
女が目を開け、音のする天井に向かって低く言った。・・・
「どうぞ…」・・・
女の瞳に涙が浮かぶ。女が静かに立ち上がる。・・・
「さあ、どうぞ…」・・・
女はそのまま夢でも見ているように村人の中をふらふらと揺れた。後ろに無造作に束ねられた黒髪・・
がその部屋に微かな風を起こした。・・・
「導きは、尊いことです…」・・・
女は歌うように言った。この女の声ではなく、高く艶のある透き通った声だった。・・・
「導きは、尊いことです。わたしは、あなたたちの心の導きを促すためにこうしてここにいます…」・・・
女の目が薄く紫に妖しく光り、夢心地の女の踊りが続く。・・・
「それはあなたたちの心の問題です。わたしは、ただ真実のみを語ります。しかし、わたしの言って・・
いることが真実かそうでないかは、あなたたちが判断することなのです。ただ、わたしは、あなたた・・
ちの、考え、思い、祈り、などに、少しでも参考になればと、少しでも役に立てればと…、そう思っ・・
ています…」・・・
美しいソプラノが広間の隅にまで大きく響く。村人たちは一心不乱にその言葉に耳を傾けている。・・・
「わたしがあなたたちを導いて行くことはできません。あなたたち自身が、自らの意志で道を開いて・・
いくのです。わたしは、それを望みます。そして、あなたたちはそのことを知っています。そのこと・・
を立派にできるのです…」 ・・・
女の踊りは美しかった。悲しい調べが娘を包み、透き通った詩が娘から流れ続けた。村人たちは我・・
が目、我が耳を疑った。涙すら浮かべ娘の歌に引き込まれていく。・・・
「あなたたちは、死を恐れる。なぜなのでしょう…。死という観念が、あなたたちの中で歪んで定着・・
してしまっているのかも知れません。しかし、死というものは、誰にだって訪れます。言い換えれば、・・
あなたたちは死を迎えるために生を受けたのです。あなたたちの生命は、死を学ぶためのものであっ・・
て、死を恐れるためのものではないのです。死とは、非常に美しいものなのです。決して、暗黒の闇・・
ではありません…」・・・
女の踊りが激しくなり束ねた髪が解け乱れ揺れる。それに合わせるように、天井から悲しげな笛の・・
音が降りてくる。・・・
「よく考えてみて下さい…。わたしが言っていることを、あなたたち自身で判断して下さい…。わた・・
しは、強引にあなたたちの考えを変えてしまおうとは、思っていません。ただ、お手伝いをしたいだ・・
けなのです…」・・・
村人たちも女に合わせて踊り出す。それぞれが女の言葉の後を追うように我先へと舞う。部屋の中・・
に狂気が渦巻き、どの顔にも、歪んだ恍惚の表情が浮かぶ。・・・
「それでは、死とは一体、どういうものなのでしょうか…。わたしは、その経験があります…」・・・
村人は乱れ狂喜に乱舞した。額から大粒の汗を流し涎を散らし歌う。誰もが、目を虚ろに女を追い・・
女の歌に続く。・・・
「死後の世界は、素晴らしく、楽しく、嬉しく、充実した日々です。地上での辛いこと。自分を呪っ・・
たり、侮辱したり、悔いたりしたこと。それらの悲しみは、わたしの中から気付かないうちに消え・・
去っていました。どうぞ、みなさん死を恐れないでください。そうすれば、明るい未来は必ず開けて・・
きます。必ず…」・・・
狂気の舞いは疲れを知らない幼子のように長く長く続いた。村人たちの悲しみ、苦しみ、そして、・・
やり場のない憤りが、所狭しと弾けていく。・・・
「恐れてはなりません…。恐れるものなど、本当は何もないのです…」・・・
村人たちの意識に、その詩が濃く色を染めていく。そうだ、恐れるものなど何もないんだ…。・・・
「さあ、森へ向かうのです…。森は、あなたたちを解放へと導きます…。心の解放へと…」・・・
森へ…。解放へ…。村人たちは歌った。恐れるものなどない…。それぞれに思いを、あの黒く尖っ・・
た山の麓の森へと向けていく。そうなのだ、あの森に我々の未来がある…。・・・
「森へ向かいましょう…。あなたたちの解放です…」・・・
そうだ、解放だ…。そうだ、森へ…。村人たちのやるせなさが、その詩によって少しずつ溶けてい・・
き、少しずつ歪んでいった。・・・
「死を越えてこそ、私たちの解放があるのです…。死を恐れてはいけません!」・・・
詩の調子が少し変わった。女の美しい声が低くなり、長い詩が終わろうとしていく。・・・
「さあ、森へ向かうのです…」・・・
女の目が閉じられる。天井から落ち続けていた笛の調べが徐々に遠ざかっていく。・・・
「さあ、森へ向かうのです…」・・・
女が窓を開けた。女の目に宿っていた妖しい光が、開かれた窓から素早く消えていく。・・・
「さあ、鳥たちよ! 篭から放たれよ!」・・・
女の最後の叫びだった。それは、美しいソプラノではなく普段の女のだみ声だった。・・・
「さあ、鳥たちよ! 篭から放たれよ!」・・・
そんなこと、誰も気づかない。村人は続けた。女の最後の叫びを繰り返した。・・・
「さあ、鳥たちよ! 篭から放たれよ!」・・・
・・・
・・・
「なかなか、いい出来だった…」・・・
ロキが優しく言った。ヴィゴルーが俯き照れている。・・・
「ありがとうございます。ロキ様…」・・・
農家の女に降りたのは、ロキの指示によるヴィゴルーだった。ロキの計画の序章だった。ロキは目・・
的のため動き出していた。・・・
「笛も、なかなかいいものだ…」・・・
笛吹きの笛は余分だったが、ロキは好きにやらせた。ロキが聞いても、あの場の悲しみに限りなく・・
似合う調べだった。・・・
「その調子でいい…」・・・
それは、既にあらゆるところで行われていた。ヴィゴルーのソプラノは村人たちの心を次々に打っ・・
ていった。悲しき詩は人々の思いを森へと誘った。すべて、ロキの思案通りだった。・・・
ブルーアイランドは完全に疫病に犯されていた。人々の悲しみが一縷の希望を激しく求めており、・・
人々の憤りが別なる光を何かに探っていた。人々は現実から逃れる術を必死になって追い求めていた・・
のだった。・・・
「更に、村々を回ってもらおう…。ヴィゴルー。天使の声で、聖母のような光を…」・・・
微笑みをロキは優しくヴィゴルーに届けた。ヴィゴルーの顔が上気する。・・・
「はい。ロキ様…。天使の声で歌い、聖母の光となり、村人たちを森へと導いてまいります…」・・・
大女は満足そうだった。ロキの言った天使という響きにまったく我を忘れてしまっている。ロキの・・
笑みが大きくなる。・・・
「道化師…。お前も一緒に行け…」・・・
ロキはソファーに沈んた。出ていけ…。軽く指を立てた。ヴィゴルーが部屋を出た。・・・
「はい、ロキ様…」・・・
笛吹きもヴィゴルーの後を追った。あの笛も使えそうだ…。笛吹きの髭がぴくりと上を向いたよう・・
に見えた。ドアの外にヴィゴルーの巨体に軋む廊下の音がした。・・・
「酒を持て…」・・・
ロキは目を閉じた。これまでは、思い通りだ…。給仕からグラスを奪い一息に干して目を開け、そ・・
のまま窓際へ歩いた。給仕が慌てて部屋を出る。・・・
窓の外には今日も物乞いたちがたむろしている。ロキはその一人一人の表情を遠めに見、考えを巡・・
らた。ロキの眉間が険しくなっていく。・・・
ロキの最終目的は魔界の再編成だった。アールガルズは自分の息子たちに譲って、自分は新たな魔・・
界を創り上げる。その場所はあの呪いの森と既に決めてある。あの森はブルーアイランドとグリーン・・
アイランドとの境目が数多くあり、ロキの考える新しい魔の都市の構築にうってつけの場所だった。・・
そして、人々に呪いの黒森と恐れられている森だ。地上の無知な人間がやたら近づいたりしない。・・・
新たな魔界は、アールガルズのように生命が溢れてしまっては困る。自分の砦だ…。余計な者には・・
住み着いてほしくない。・・・
魔界へはブルーアイランドの者たちが来る。ブルーアイランドの一生を、悲しみや苦しさ、あるい・・
は、欲望にエゴ、そういった負の感情を引きずっている者がやって来る。どれもこれも、自分には必・・
要のない者たちだ。・・・
それらの者はアールガルズの都市へ流してしまう。いや、それではすべての解決にはならない。・・
アールガルズには生命が溢れているのだ。これ以上の無知なる者たちの流入は防がなければならない。・・
定員はとうに越えているのだ。・・・
とにかく、その流入を防ぐのが今回の計画の重要なポイントだ。つまり、ブルーアイランドからの・・
死の旅路を歪めてしまうのだ。それらの哀れな者たちを闇の世界へ迷い込ませるのだ。・・・
魔界からは直接手出しはできない。鬼神ロキといえど、ブルーアイランドには物質という壁がある。・・
自らの剣で血の雨を降らすことは不可能だろう。いや、たとえそれが可能であっても結果は同じだ。・・
ブルーアイランドはその歴史を繰り返してきたのだ。死にゆく人々の死の旅路はそれによって変わり・・
はしない。・・・
人々の死の旅路はそのむかしから数知れずあった。彼らの言う黄泉の世界は無限にあった。しかし・・
人々は争い神に背き殺戮を繰り返した。未来への旅路は長い時を超え歪んでいった。哀れなる者は行・・
き場を失い未来への旅に取り残されていった。更に、ブルーアイランドは治癒することなく蝕まれて・・
いった。未来への迷い子は増え続け、迷える哀れな者たちが同じ波動で寄り集まった。それが魔界だ。・・・
その迷える旅人に道を示してやるのだ。未来へ進むことの叶わない哀れなる者たちに、輝く未来を・・
投げかけてやるのだ。・・・
迷える者たちは減りはしない。魔界はそれらの者をすべてを受け入れることはできない。・・・
未来だ。光だ。輝きだ。それらの者たちに希望を見せてやるのだ。それが、いくら歪んでいても構・・
わない。いくら汚れていようと構わない。哀れなる者は一筋の光に縋り付いていく。・・・
そうなのだ…。哀れなる者たちは自らの意志で死の旅路を選ぶ。そして、歪んだ未来へ縋り付いて・・
いくのだ。・・・
それらの者は歪んだ希望を抱きながら死んでいく。はかない希望を未来に託して死んでいく。どん・・
なに歪んだ希望でも、その望みを持ったものは見えざる未来へ向かい一筋の光へ進む。それは、自ら・・
の意志でそれへと進んでいく。・・・
希望は人々を動かし、人々は希望へと向かう。進むこと自体が希望だ。そのような者たちは魔界へ・・
はこない。魔界には希望という波長はない。・・・
そうすれば、魔界へ流れ込む数も少ななる。無知なる者たちは魔界の橋のたもとで、ただ彷徨うだ・・
けになる。・・・
そのシナリオに騙された者たちは喜んで死んでいく。ヴィゴルーの霊はそれの小手調べだ。あの農・・
家の者たちは森へと向かう。それは、現実からの逃避でなく未来への希望なのだ。彼らは自ら死を選・・
ぶ…。そこには、次の世への期待がはち切れんばかりに膨れ上がっている。・・・
「そう、小手調べだ」・・・
ロキが再びファーに沈んだ。側の剣を取りひとつ振る。風が両断される。・・・
「そろそろ、次の段階だな…。ロキ…」・・・
ロキの両断した風の中から、仄かな影が浮かび上がる。ロキの背に緊張が走る。・・・
「ロキよ…。狂気を降らせ…」・・・
影が色を伴わずにロキに近づく。ロキはその影にソファーを譲ると、影がそれへ静かに沈んだ。・・・
「あなたのような影…。そう、哀れな者たちに希望という影を見せてやります…。あなたのような影・・
を…」・・・
影が微笑んだのがロキには見える。・・・
「狂気を降らせ…。ロキ」・・・
影が揺れ、微かな青い光が影から漏れる。・・・
「ブルーアイランドを、お前の狂気の波長で包み込め…」・・・
影の揺れが大きくなり、青い光が深い闇を抱いていく。ロキは手にした最強の剣に力を入れた。影・・
をアールガルズの物乞いたちのように両断したい思いをそれに隠した。・・・
「遥かなる影よ…」・・・
ロキは再び風を斬ると、影は跡形もなく消えた。・・・
「遥かなる影よ…」・・・
影とは対照的な鋭い光が、ロキの魔剣から幾筋も弾き飛ばされていた。・・・
・・・
・・・
農家にようやく正常な時が動きだした。倒れた女を村人たちが覗き込んでいる。・・・
「まさしく天使の声だ…。聖母の姿だ…」・・・
女は目を閉じたまま起きあがろうともしない。その側で、女の父親が感激に身を震わしている。目・・
に涙を溜め女の肩を抱いている。・・・
「わしの娘に、神が降りたんじゃ…。神は、わしらを見捨てたりしない…」・・・
夜の帳はすっかり下りていた。部屋の隅に焚かれた油がちろちろと村人たちを赤く照らす。村人た・・
ちの表情にそれぞれの思いが浮かび上がっている。・・・
「その通りじゃ…。わしゃ、あの天使の言葉に、もう、死んでもいいと思ったぞ…」・・・
疲れた男の表情だった。涙が頬を伝わるのもそのままに、倒れた女の手を握りしめている。・・・
「そうだ! こんな、辛い世の中、死んだ方が幸せだろうよ…」・・・
その男も、疲れた表情で女の側で、やり場のない悲しみを天井に向けている。・・・
「森へ行こうよ…。森は、おれたちを解放してくれるんだってさ…」・・・
男たちが頷く。森へ行こう…。口々に言葉を漏らしていく。・・・
「森へ行こう。あの黒い山の麓へ…」・・・
「そうだ、森へ行くんだ…」・・・
すべて疲れた男の悲しみに包まれた表情だった。男たちは涙を隠さず思い思いの呟きを次々に垂れ・・
ていく。・・・
「死んだら、この世から解放されるのさ…」・・・
「そうだ、もう辛いことなんかなくなる…」・・・
「天使がそう言ってた。あの美しい声で、そう言っていた…」・・・
声が次第に大きくなる。農家に再び別なる時が動き始め、広間に新たな風が吹く。・・・
「おれは、あの天使を信じるぞ…」・・・
「おれもだ…。あの声はまさしく聖母だ。信じるに値する…」・・・
男たちが立ち上がる。女の父親を中心に小さな輪ができ上がっていく。・・・
「バカか、あんたたち!」・・・
そんな男たちに女の母親が叫んだ。怒りの表情が男たちを射る。・・・
「本当にバカだね、あんたたち!」・・・
「そうよ、あんな、言葉に騙されてどうするのよ…」・・・
「本当だわ、みんな、いい年こいで…。バカヤロー!」・・・
女たちの方が現実的だった。女たちは既に我に帰っていた。うつつを抜かす男たちに覚めた目を・・
送っている。・・・
「気の触れた娘のことなんか、信じるバカがいるもんか! このアホ!」・・・
女の一人が自分の亭主の頭を思い切り叩いている。女たちは強かった。明日からまた現実が繰り返・・
されるのだ。悲しみにいつまでも暮れている暇などなかった。・・・
「なにー、このやろー! うちの娘が、気が触れただと。もういっぺん言って見ろ!」・・・
農家の主人が怒った。目がつり上がっている。・・・
「ああ、何度でも言ってやる。気が触れた娘の戯言など聞いてられるか。ばかばかしい!」・・・
「そうだよ、あたしたちゃ忙しいんだ。明日喰うために働くんだ!」・・・
「バカの言ったことを信じるバカはいないやい!」・・・
娘の父親が立ち上がる。怒りに顔が歪んでいる。・・・
「このやロー! ぶっ殺してやる!」・・・
女も負けていない。二三人が娘の父親を囲んだ。・・・
「ああ、殺しておくれよ! そうしたら、あたいがあの天使様とやらに会ってきてやるさ!」・・・
「そうさ、さあ、殺しておくれよ!」・・・
「さあ、さあ、さあ…」・・・
止める者などいない。娘の父親が女の一人に手を挙げた。・・・
「バカヤロー! 女に手を出すとは!」・・・
「そうだ! 娘も娘なら、親も親だ!」・・・
女たちが娘の父親に飛びかかる。禿げた頭に平手を放つ。・・・
「親も親だと! どういう意味じゃ、コノヤロー!」・・・
男たちが間に入り女たちがそれを囲む。・・・
「死にたい奴は、みんな死んでしまえ!」・・・
「そうだ、そうすれば食い扶持が減るわい!」・・・
「そうだ、死んでしまえ! 死んでしまえ!」・・・
農家はやるせない混乱にどこまでも落ちていった。やり場のない憤りが村人たちの中に激しく激し・・
く渦巻いていった。・・・
・・・
・・・
子供たちは虚ろな瞳をそれぞれが浮かべ、呪いの黒森にいた。・・・
「プイー、プイー…」・・・
その音で子供たちが集まる。みんな肩を落としている。・・・
「プイー、プイー…」・・・
笛吹きが笑いながら側へ来るが、子供たちはこの笛の音にさえも何も感じなくなっている。ただ、・・
笛吹きの元へものも言わずに集まる。・・・
「プイー、プイー…」・・・
結局、この子たちはあの壁を越えられなかった。ロキに魔界へと引き戻され幻の肉体へ舞い戻って・・
しまったのだ。壁の手前に取り残されてしまった。・・・
彼らの目は前にも増して澱んでしまい、その裏側の恐怖の層がまた一層厚くなっている。ロキに斬・・
られた瞬間の、あの凍るような恐怖に神経の一部分が切れてしまったのだ。子供たちは、もう何の希・・
望も沸いてこない抜殻の表情をしていた。・・・
「よく聞け、みんな、ロキ様に会わしてやる。支度をしろ…」・・・
子供たちに支度など何もない。先を行く笛吹きの跡に黙って続く。笛吹きに逆らう意識など跡形も・・
ない。・・・
「さあ…」・・・
あの時、笛吹きは倒れいて、この子たちがどうして戻ってきたのか知らない。ヴィゴルーに聞いた・・
が同じく知らなかった。ただ、気がついたときにロキが目の前にいた。そして、子供たちは真っ二つ・・
に斬られ血の海の中で倒れていた。・・・
子供たちは自分から逃げようとした。それは、当然のことかも知れない。白い石の都市より、子供・・
たちをあまりにも長く縛りつけてきた。・・・
-自分は間違っていたのかも…。・・・
しかし、そんな思いは笛吹きの中で一瞬に消えた。脳裏にロキの顔が素早く浮かんだ。・・・
「行くぞ…」・・・
脳裏のロキは魔剣を握っていた。笛吹きの意識がそれに凍り、背に氷のような冷たさが一気に掛け・・
昇った。・・・
・・・
・・・
アールガルズの物乞いたちを見ても、子供たちは何の反応も見せなかった。まして、目の前に立つ・・
金髪の男のことなど、子供たちにはどうでもいいことのようだ。笛吹きの笛の音に意識を持たれ掛け・・
させたまま、虚ろな目で地面を見ている。・・・
「私を見ても何も思い出さないようだ…」・・・
そんな子供たちにロキの頬が少し緩んでいく。・・・
「哀れな者たちよ…」・・・
ロキの思いの中には、既に、この子供たちの役割が決まっていた。ロキにすれば格好の演技者だっ・・
た。子供たちの幼さが、死というものを余計に美しく見せるのだ。自らが策したシナリオには欠かせ・・
ない要員だ。・・・
「その時には、美しい死を…。ハハハハ…」・・・
子供たちがロキを見る。言葉の意味も分かっていないのに何人かが軽く頷いた。・・・
「ハハハハ…。哀れなものよ…」・・・
笛吹きが笛を納めた。ロキの指が一本立っている。用は済んだ…。ロキは短期だ。・・・
「道化師。子供たちをしばらくこの街で預かる。どこかに住まいを見つけてやるんだな…」・・・
そう言うと、ロキはヴィゴルーを連れて素早く飛んだ。側にたむろする多くの物乞いたちの目が、・・
ロキには不快極まりないものだった。ロキの機嫌は一瞬に裏返っていた。・・・
・・・
・・・
キリコも子供たちを追って、あの老人と一緒にアールガルズにいた。二人は物乞いの中に紛れ込ん・・
でいた。・・・
「すごいところじゃ…」・・・
魔界とグリーンアイランドとの行き来は、キリコのことだ、既に自由に行えるようになっていた。・・
自らの意識の波長を少し調整すれば済むことだった。超自然力を幼いころから持ったキリコは、別の・・
世界でも見えない力を素早く会得していた。・・・
「本当に、すごいところじゃ…」・・・
キリコは驚きにあった。アールガルズ…。老人が今住んでいるというところは闇の世界だった。・・
人々の負の思いが重く風に紛れている。日の光が、その影に光を遮られ人々を暗闇に落とし込んでい・・
る。風さえ黒く見えてきそうな街だった。・・・
「キリコ、あれがロキの住む砦じゃ…」・・・
老人の声に、キリコはゆっくりと振り返った。高い塀の向こうにやたらと大きな建物が見える。こ・・
の街は、あの建物のためにあるという印象だ。あれが悪魔の砦なのか…。・・・
「鬼神ロキか…」・・・
先程、その鬼神の横顔だけはちらっと見た。ほれぼれするほどいい男だった。キリコはロキに近づ・・
こうしたのだが、物乞いたちに阻まれていた。・・・
「ご老人、ここの人たちは、いったい何を考えているのじゃ…」・・・
物乞いが信じられないほど多くいた。時折キリコの袖を引っ張り虚ろな目で何かを求める。若返っ・・
たキリコの尻を撫でる。・・・
「何も、考えておらん…」・・・
老人が鬱陶しいように言い肩を軽くすぼめる。老人にも物乞いのたかりの列ができている。馴れて・・
いるのか、老人はそれを意にかさない。・・・
「ふーん、いい気なもんだ…」・・・
一人の物乞いがキリコの側を通り抜ける。キリコは目を閉じその者の意識を覗いた。・・・
「本当じゃ。何も、考えておらん…」・・・
すべて、自分が確かめたことだけを信じろ…。老人の教えだった。キリコはその教えを守った。そ・・
れでも驚きだった。・・・
「ご老人…、凄いところじゃ…。このアールガルズと言う街は…」・・・
退屈そうに老人が笑っている。キノコの匂いがキリコに届き、艶のない白髪が風に靡き先を進んで・・
いく。・・・
「キリコ、ロキじゃ…」・・・
ロキが砦の窓から顔を出した。金髪が魔界の風に靡いている。・・・
「ロキ様…。我に糧を…」・・・
「神よ、我々に死を…」・・・
「ロキ様、我々を救い賜え…」・・・
ロキの出現に、物乞いたちの祈りの合唱が始まる。物乞いたちが、我先にとロキが現れた窓の下へ・・
と向かう。・・・
「我が偉大なるロキ様よ…」・・・
「我らを救い賜え!」・・・
「ロキ様…。私たちに一夜の安らぎを…」・・・
キリコは再び物乞いの意識を覗く。そこには、死への願望がロキへと真っ直ぐに向かっていた。・・・
「ロキ様…。我にあの最強の剣を…」・・・
「私たちに死を…。ロキ様…」・・・
驚きで声も出なかった。キリコは目を丸くしたままその光景を眺め続けた。いつの間にか老人は消・・
えていた。キリコはその後を追おうとしたが思い直した。窓にいたロキが静かに消えていくところ・・
だった。・・・
「ロキ様。お顔を見せて下され…」・・・
「神よ、ロキ様よ…」・・・
・・・
・・・
老人はロキを追った。魔界の鬼神が動き出したのだ。ロキは何の前触れもなく、砦の窓から一気に・・
呪いの黒森へと飛んだ。・・・
哀れで凶暴な恋する女ヴィゴルーも一緒だった。老人はロキに少し遅れて森に入った。ヴィゴルー・・
の芋と酒との口臭が森に漂っていた。・・・
呪いの黒森をロキが大股で歩く。恋する性悪女が後ろに続く。ロキは何かを企んでいる。キリコが・・
言っていたこの森の悪魔も、既にロキへ降っているか…。老人に形のない不安が芽生えていく。ロキ・・
が動くのだ。事は小さな事ではない。・・・
老人は風となった。ロキの企みを嗅ぎだしてくれる…。ヴィゴルーに向かった。ヴィゴルーの意識・・
に風として流れる。ヴィゴルーの内側へ潜り込み、ヴィゴルーの思いを垣間見るのだ。・・・
-ロキ様…。・・・
ヴィゴルーの意識には、物乞いたちの噂通りにロキへの思いが溢れんばかりに渦巻いていた。ヴィ・・
ゴルーは恋する女だった。真っ赤に燃える炎が、老人には眩しすぎる。・・・
-ロキ様…。・・・
乙女心をヴィゴルーは抱き続けていた。ヴィゴルーはロキの思いのすべてを理解しようとしている・・
のだ。ヴィゴルーの乙女の中にロキの影が見える。・・・
-森は、あなたたちを解放へと導きます…。心の解放へと…。・・・
その時、老人の風が揺れた。ヴィゴルーの意識の揺れが大きくなる。ロキへの思いのその先に、老・・
人には読みとれない狂気が見える。乙女は歪んでおり軋んでいた。・・・
-さあ、鳥たちよ! 篭から放たれよ!・・・
複雑怪奇に何かが激しく蠢く。ヴィゴルーの意識は破壊寸前なのか…。老人には掴めない。この女・・
の意識は特異すぎており、常人のようにある程度の整然さの欠片もない。・・・
-天使の声です。ロキ様…。聖母の光です。ロキ様…。・・・
ヴィゴルーの狂気が鋭く老人の風に流れる。天使だと…。聖母だと…。バカな…。ヴィゴルーの狂・・
気の中に天使が微笑む。狂気の中に聖母が手招く。・・・
-死を越えてこそ、私たちの解放があるのです…。死を恐れてはいけません!・・・
そうですねロキ様…。死後の世界は素晴らしく美しい世界です…。・・・
さあ、そこへわたしが導いてあげましょう…。・・・
天使になって、聖母になって…。・・・
どういうことだ…。老人は揺れ続けた。解放だと…。死を恐れてはいけないだと…。老人はその先・・
を追った。その先にロキの思いが見えてきそうだった。・・・
-バカな人間どもよ、ロキ様の言うとおりよ…。・・・
なぜ人間たちは、人間を増やすのかしら…。ロキ様は言っていた、それは悪いことなの…。・・・
ロキ様は、醜い人間たちを救ってあげようとしているの…。・・・
わたしが天使になって、聖母になって、みんなを死の世界へ導いてあげるのよ…。・・・
そうですよね、ロキ様…。・・・
これはいったい…。夢なのか…。天使の姿がヴィゴルーの狂気に跳ねている。・・・
-さあ、鳥たちよ! 篭から放たれよ!・・・
解放です…。さあ、鳥たちよ…。・・・
そうですよね、ロキ様…。ロキ様…。ロキ様…。・・・
老人の意識に強い風が吹いた。更に老人はヴィゴルーを沈む。少し深追いかも知れないが、そこま・・
でしないと、この女の本当の思いが見えてこない。複雑な思考回路が幾重にも絡まっているヴィゴ・・
ルーの狂気を先に進む。狂った何かが、老人に今まで感じたことのない異質な恐怖が浮かぶ。・・・
-ロキ様…。わたしは天使になります…。わたしは聖母になります…。・・・
そして、哀れな鳥たちを小さな籠から羽ばたかせてやります…。・・・
そうですよね…。天使ですよね…。聖母ですよね…。・・・
ああ、ロキ様…。ロキ様…。・・・
ヴィゴルーの狂気が老人を包んだ。その影にロキの存在が微かに揺れていた。・・・
・・・
・・・
「ヴィゴルー…」・・・
その時、ロキがヴィゴルーに優しく近づいた。・・・
「ヴィゴルー。いいからじっとしてるんだ。そして、静かに目を閉じるんだ」・・・
ロキの手がヴィゴルーの肩を強く握る。老人に闇の風が吹く。・・・
「しまった!」・・・
迂闊だった。ロキの存在を軽んじていたことを悔いた。老人はヴィゴルーの意識を一気に駆け上が・・
る。ロキの狂気が津波となって上から降ってくる。・・・
「ウワー!」・・・
雷光が弾け、稲妻が老人の風を引き裂く。黒い炎が激しく揺れ、老人が激しく飛ばされる。先程感・・
じた異質な恐怖が、完全に老人の意識にその姿を現していく。闇より深い恐怖が老人のすべてを覆っ・・
ていく。・・・
「ウワー!」・・・
老人のエネルギーが突風に散っていく。ロキが老人に鋭く斬りかかる。狂気が老人の中にも渦巻い・・
ていく。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
老人はのたうち回った。意識が凝縮され、ロキへの鈍い恐怖の渦に押しつぶされていく。・・・
-ロキ様…。ロキ様…。ロキ様…。・・・
薄れていく老人の意識に、ヴィゴルーの思いが呪文のように聞こえた。・・・
-ロキ様…。ロキ様…。ロキ様…。・・・
ロキの手に力が入っていく。ヴィゴルーの肩にロキの指がめり込んでいく。ロキが老人に迫り、恋・・
する乙女が目を閉じた。・・・
「ウワー!」・・・
限界だった。老人は闇の彼方の地獄を見ていた。ロキへの恐れが破裂していく。・・・
-抱かれたい! このまま強く抱かれたい! ロキ様!・・・
その時、闇の中、稲妻が別な色で煌めいた。老人はそれへ一瞬に飛んだ。老人はヴィゴルーの激し・・
い恋にすべてを賭けた。・・・
「ロキ様!」・・・
ヴィゴルーが思い切りロキの胸に飛び込んだ。ロキが微かによろけた。老人はその隙を逃さなかっ・・
た。・・・
「バカ者!」・・・
ロキが叫んだ。老人はヴィゴルーを出、再び森の風となった。・・・
「バカ者が…」・・・
ロキも森の風となった。老人は意識を沈めた。ロキの風を僅かのところで過ごした。・・・
・・・
・・・
「そこのお方、何をしているの…」・・・
どこかで見た顔だか、思い出せない。ミルダは後ろから声を掛けられたまだ若き婦人に微笑んだ。・・
婦人の笑みが清々しい。・・・
「旅のお方。あら、わたしを忘れなさったのか…」・・・
婦人が笑いを懸命に堪えている。ミルダは自らの記憶を辿った。見覚えがある顔ながら、自分のこ・・
れまでの経験でこのような女性と知り合ったことなどない。言葉を交わしたことすらない。・・・
「すみません。どこかでお会いしたでしょうか…」・・・
仕方なくミルダはそう切り出した。婦人の笑みが弾ける。微かな酒の匂いが婦人から漂う。・・・
「旅のお方…。名を何という…」・・・
婦人がミルダの肩を叩く。酒の匂いが増していく。・・・
「わたしに何のご用でしょうか…」・・・
ミルダは婦人の手を振り解いた。素早く後ろ向きに婦人から逃れる。・・・
「旅のお方。旅のお方…」・・・
グリーンアイランドにも変わった者はいるのだ…。ミルダに妙な納得が浮かび、振り返り婦人にも・・
う一度微笑んだ。・・・
「おばば?」・・・
ミルダは自分の目を疑った。やはり、婦人の顔はどこかで見た顔だった。ミルダは何度も瞬きした。・・・
「ハハハ…。こんなに若い女性をつかまえて、おばばはないでしょう…。ホホホ…」・・・
キリコが淑女のように手を軽く口に当てて笑う。その仕草がどことなく似合わない。・・・
「ミルダ。いい女じゃろう…。ほれ、乳だって上を向いておるぞ…」・・・
キリコがミルダに迫る。自慢げに若くなった身体をミルダに擦り付ける。ミルダの顔が赤くなり、・・
キリコの笑いが高くなる。・・・
「ほれ、尻だって、こんなに張っておるぞ…。ほれ、ほれ、ほれ…」・・・
酒の匂いにミルダがむせた。キリコはそんなこと気にしない。・・・
「間違いでも起こすか、旅のお方…」・・・
キリコがミルダを離れる。微笑みが眩しい。・・・
「おばば…。元気だったのか…」・・・
ミルダも吹き出した。キリコが衣をたくし上げ細い足をミルダに見せる。それを、アールガルズの・・
物乞いたちが遠目に見ている。・・・
「おばば、止めろ。みんなが見ているじゃないか…」・・・
ミルダがキリコから離れる。キリコが最後のターンをひとつ切る。・・・
「驚いた…。若返ったか、おばば…」・・・
あの魔女に似ていた。リュリュ…。キリコにリュリュが重なっていく。・・・
「おばば、こんなところで何をしている…」・・・
キリコが少しだけ笑みを抑える。少し背を曲げミルダに低く呟く。・・・
「わしは、あの子たちを追ってきた…」・・・
あの子たちとは、あの森でロキに斬られた子供たちのことだ。キリコの小屋の廻りに置かれている・・
石像の主たちだ。キリコの表情にあの時と同じ色が見える。二人してキリコの小屋に過ごした日々の・・
顔だ。・・・
「ミルダ、お前こそ何をしておる…」・・・
二人は歩いた。アールガルズの街外れへ向かった。風がそちらから吹いていた。・・・
「おれは、笛吹きだ。笛吹きがロキに降った…」・・・
同じ道を歩んでいるのだ。目的は違えども、ミルダとキリコはアールガルズにいる。ミルダはキリ・・
コとの運命的なものを感じた。若返ったキリコにミルダは精一杯の笑みを送った。・・・
「娘は?」・・・
キリコが振り返る。艶のある瞳が更に輝く。・・・
「リュリュは、グリーンアイランドにいる。奴は魔女を捨てた。いや、魔女であったことを潔く胸に・・
受け入れた」・・・
グリーンアイランドにいるならば心配などいらない。ミルダはキリコの瞳の輝きの理由を知った。・・
キリコは娘と二人グリーンアイランドに暮らしているのだ。楽しい日々を送っているのだ。・・・
「おばばは、なぜそんなに若くなったのだ…」・・・
ミルダの思いが軽くなる。キリコのようにあらゆるものを自らに受け入れてしまう。そんな生き方・・
が自分にもできそうな気になっていた。・・・
「ハハハハ…。わしも、こう見えても女じゃ…」・・・
ミルダは思い切り吹き出してしまった。唾が勢いよくキリコの顔へと飛び散った。・・・
「ハハハハ…。そうだったな、おばばも女だったんだ!」・・・
・・・
・・・
グリーンアイランドの郊外に出た。大きな川が、今は耕されなくなった畑を横切っている。二人は・・
その川沿いを歩いた。・・・
「おれは、今、ラ・ムーという人に付いている。何だか、それが運命だったように、自然とその人に・・
従うことになった…。ラ・ムーは、魔界の人たちを救おうとしている…」・・・
ミルダはキリコに熱く話した。このような話を聞いてくれるのはキリコだけだ。二人して魔界にぶ・・
ち当り、魔界の恐ろしさを知っている。・・・
「おばば、ラ・ムーは素晴らしい人物だ。おばばも会ってみないか…。ラ・ムーに…」・・・
おばばなら必ずラ・ムーの役に立つ。ミルダはひとりそう思った。・・・
「どうだ、おばば。一度会ってみるか…」・・・
何かを堪えているようなキリコだった。キリコの面から笑みが消えていく。・・・
「どうだ、おばば…」・・・
キリコが立ち止まる。怒ったような顔でミルダに振り返る。・・・
「ミルダ、わしゃ、お前を見損なったわい…」・・・
怒りの顔を向けたままキリコが言った。キリコの眉間に鋭い皺が入っている。・・・
「ミルダ、お前は光の道を歩んでいるのではなかったのか。光の道に進むのに指導者がいるのか…。・・
お前はずっと一人でそれへ向かってきたんではなかったのか…」・・・
キリコの眉間の皺の意味がミルダに瞬時の理解となる。キリコほどミルダのことを理解してくれて・・
いる者はいない。ミルダはキリコの苦言に耳を傾ける。・・・
「ラムーかラムネか知らんが、光の道には師などいらない。お前はずっと一人だったのじゃ。師はす・・
べての自然じゃ。それが分からないのか…」・・・
言い訳は止めにした。キリコの言っていることが正しいのだ。ミルダはキリコにラ・ムーのことを・・
話したことを悔いていた。よく考えれば、キリコがラ・ムーになど会うはずがない。我が儘なキリコ・・
は孤独が似合っているのだ。・・・
「いいか、ミルダ。誰でも間違いはある。よくよく考える事じゃ…。繰り返すが、師は自然の中にこ・・
そある。師などいらない。もっともっと、己を信じることじゃ…。深く果てしなく自らを愛するの・・
じゃ…。それが、お前の言う光への道なのじゃ…」・・・
キリコが首を捻る。うなじがちらっと白く見える。キリコの話す内容とその色がまったく似合わな・・
い。ミルダは軽い苦笑を抑えた。・・・
「まあ、そんなこと、お前さんはしっかりと理解しているじゃろう…。何とかという人に付いている・・
のも、何かの考えがあってのことなんじゃろう…。分かっているわい。まあ、若い美しい女の老婆心・・
じゃ。聞き流しておけ…」・・・
キリコへの信頼がミルダの中に膨れ上がる。さすが、森に長年暮らした仙女だった。ミルダの思い・・
を正確にキリコは述べたのだった。・・・
「とにかく、ミルダ…。お前は自分の信じたことをするがいい…。それが、お前には一番いいこと・・
じゃ…。お前なら何だってできるわい…」・・・
アールガルズの風が二人の間を強く過ぎる。グリーンアイランドの風とは少し湿っていた。風に重・・
さを感じる。・・・
「ミルダよ…。わしは、ここグリーンアイランドが気に入った。非常にいいところじゃ…。しかし、・・
わしは地上も好きじゃった…。こんな幻想の肉体を身に付けて、寝なくても喰わなくてもどうという・・
ことはないグリーンアイランドもいいが、わしは、汗水垂らして働いて苦労して食べるあのメシの味・・
が忘れられん…」・・・
世捨て人だった森の仙女に変化が見える。キリコは変わった。グリーンアイランドに何かの思いが・・
弾けているのだ。・・・
「あのメシの味。それがここにはない。グリーンアイランドにはない」・・・
苦労しなくてもいいグリーンアイランド。キリコはそれを皮肉っているのだ。キリコらしい思いで・・
あり、それはミルダなどには思いも付かないことなのだ。・・・
「わしは、元からわがままな女じゃった。それは今でも直らん…。わしは、わしの思い通りする。し・・
かし、お前は別じゃ…。ミルダ、お前は光になるのじゃ…。それに向かうのじゃ…。その姿に、グ・・
リーンアイランドの風が惜しみなく力を与えてくれるじゃろう。ミルダ、光になれ…。わしはそれを・・
祈っている…」・・・
キリコがミルダの肩を叩く。ミルダがその手を握り返す。・・・
「おばば、ありがとう…」・・・
遠くから見れば、それは恋人が寄り添うような姿だった。二人は構わずに抱き合った。風が二人の・・
背を激しく叩き、暮れていく空に素早く消えていった。魔界の一日が、二人に構わず素早い終わりを・・
迎えていた。・・・
・・・
・・・
老人の震えは止まらなかった。身体全体が小さく縮んでしまったような恐怖に包まれて、意識の奥・・
にロキの雷光の残像がこびり付いて離れない。吐き気と頭痛が続き、ヴィゴルーの意識の声が脳裏に・・
木霊していた。・・・
「危ないところだった…」・・・
思い出す度に激しい恐怖を思い出す。あれほどの恐怖はこの老人にしても始めてのことだった。・・・
「ロキ…」・・・
老人は、自分を身も凍る恐怖へ落とした相手を思った。老人の意識に伝説の鬼神の名が何度も何度・・
も蘇り渦巻いた。・・・
「ロキ…」・・・
キリコの小屋だった。老人はキリコの小屋で身を癒していた。キリコにスープでも作ってもらうつ・・
もりだったが、小屋の主は留守だった。・・・
思い直して老人は立ち上がった。スープは諦め小屋を出る。意識を遥かなるいにしえの皇帝へ向け・・
た。・・・
「ラ・ムー…」・・・
次の瞬間、老人は別の空間に風と舞った。恐怖を心に巣喰わせたまま、老人は気を失った。思いだ・・
けがいにしえの皇帝のところへと急いでいた。・・・
(2)・・・
・・・
-今夜は、亡霊との宴…。・・・
蒼白きスピカを越えて…。・・・
燃えるシリウスへ…。・・・
この酒は、生命の味…。・・・
この酒は、血の酒…。・・・
乙女のように、猟犬になって…。・・・
目覚めれば別世界…。・・・
・・・
-今夜は、別世界への宴…。・・・
遙かなレグルスに乗ろう…。・・・
輝くベガまで…。・・・
この酒は、生命の味…。・・・
この酒は、血の酒…。・・・
百獣の王に、アポロンと…。・・・
目覚めれば別世界…。・・・
・・・
-今夜は、妖しく揺れる宴…。・・・
アンタレスの激しき想い、・・・
カシオペアに届け…。・・・
この酒は、生命の味…。・・・
この酒は、血の酒…。・・・
蠍の毒こそ、我等の願い…。・・・
目覚めれば別世界…。・・・
・・・
呪いの黒森に美しいソプラノが木霊する。不気味な森に似つかわしくない美しい声だ。空からは満・・
月の光が木々の間より落ちてくる。今夜は特に明るい夜だ。・・・
久しぶりに、呪いの黒森は夜宴を前に一際賑やかだった。美しいソプラノに人々の歓声が響き渡る。・・
森の深くに大勢の者たちが集まっている。夜宴の始まりを今か今かと待っているのだ。・・・
ロキは満月の光を金髪に浴び薄笑いを浮かべていた。風がロキの頬をを優しく過ぎる。・・・
ロキは夜宴の中心にいた。中央の奥、一段高い位置の大きな切り株に黒い獣の革のじゅうたんを敷・・
き、オオカミや野犬をはびらかせていた。真っ黒な法衣を身にまとい山羊の角の付いた黒い帽子をか・・
ぶり、愛用の剣は小わきに抱えていた。・・・
この宴の主催者はロキであった。この森で君臨していた笛吹きは、そのロキの側でオオカミたちの・・
世話をしている。少し無念そうな瞳を恨めしげに森の中に投げつけていた。・・・
今夜の宴は、いつもの笛吹きが行う夜宴とは少々趣が異なっていた。・・・
参加する者は子供たちだけではなかった。アールガルズの役人たち。アールガルズの物乞いたち。・・
そして、地上からの招待客。ヴィゴルーが誘った農村の人々たちだ。ブルーアイランドからの特別な・・
招待客たちだ。・・・
今夜の夜宴は、そのブルーアイランドの招待客のために開かれてるのだ。ヴィゴルーの天使の歌声・・
に農民たちは競ってこの森へやってきた。偽りの未来に目が眩んだ哀れなる者たちなのだ。・・・
それは、かなりの人数にのぼっていた。ヴィゴルーは手当たり次第に近隣の農村を廻った。天使の・・
声で聖母の教えを振りまいた結果が、この夜宴なのだ。勿論、すべてロキのシナリオの一部である。・・・
ブルーアイランドより招待客は、勝手が分からずまわりをしきりに伺っている。宴の始まりを待ち・・
きれない様子だ。そして、森の異様な雰囲気に少なからずそれぞれが興奮している。目が異常なほど・・
輝きを持ち、不安げな面が落ちつきなく左右に揺れる。しきりに身体を動かせ額に汗を浮かべる。招・・
待客たちは未知なる出来事に胸を高鳴らせていた。・・・
アールガルズの役人たちが宴の手伝いに来ていた。勝手知っているのか、その準備にてきぱきと素・・
早く動き回っている。彼らにとっても満月の宴は懐かしいものなのかも知れない。幾人かの者には笑・・
顔さえ見える。・・・
一方、アールガルズの物乞いたちは、ロキの姿を遠目に囲むようにひとかたまりになっていた。期・・
待と不安の入り交じった表情で、何やらひそひそと話を続けている。虚ろな瞳を宙に浮かせ、時折薄・・
笑いをこぼす。アールガルズにいるときよりは少し瞳に力がある。彼らも宴の始まりが待ちきれない・・
様子だ。それでも、みんな、おとなしくこれからのなり行きを静かに見守っていた。・・・
そして、子供たちも夜宴に参加していた。子供たちもアールガルズの男や女と同じ真っ黒の衣に身・・
を包み、物乞いたちの側で一固まりになって成りゆきを見守っていた。その側を、アールガルズの役・・
人や女たちがてきぱきと動き回っていく。子供たちは何をすればよいか分からず首を精一杯伸ばし廻・・
りを見渡していた。表情に覇気がない。抜け殻の瞳が行き場を探している。・・・
宴は始まろうとしていた。料理ができ上がる。それは、アールガルズの女たちの手作りだ。羊にカ・・
エル、ネズミ、ヘビ、コウモリなどの肉が次々と大きなテーブルに盛られていく。白い湯気が森の闇・・
に溶けていく。むせた匂いが今夜の客たちの鼻孔を強く刺激する。呪いの黒森にそれらの妖気が充満・・
していく。風は木の葉を撫ぜる程度にしか吹かない。不気味な熱気だけが宴を静かに流れていく。・・・
招待客のテーブルにも料理が運ばれていく。農民が、その匂い、その妖気に次々と覚醒していく。・・
目の光が増し、妖しい影を伴い始める。不気味さを、その者たち自らが発し、それぞれの動きが激し・・
くなる。招待客が、次第に森の宴の客としての相応しさを身に付けていく。・・・
・・・
-今夜は、亡霊との宴…。・・・
蒼白きスピカを越えて…。・・・
燃えるシリウスへ…。・・・
この酒は、生命の味…。・・・
この酒は、血の酒…。・・・
乙女のように、猟犬になって…。・・・
目覚めれば別世界…。・・・
・・・
「皆の者、今宵は心ゆくまで楽しもう…。この歌のように、目覚めれば別世界がある…」・・・
ロキが舞台のヴィゴルーへ大きく手を回す。歌姫に喝采を…。・・・
「目覚めれば別世界だ…」・・・
森に人々の歓声が轟き、ヴィゴルーが大袈裟に礼をする。舞台にと置かれている大椅子が軋み音を・・
立てる。・・・
「さあ、皆の者。飲めよ…。騒げよ…」・・・
ロキが宴の開催を宣言し、そのままその場を消えた。側にいたオオカミが主を失い驚きの表情を浮・・
かべるが、素早く笛吹きがそれらを懸命になだめた。・・・
「さあ、飲めよ、歌えよ…」・・・
「そう、飲んで下され…。歌って下され…」・・・
アールガルズの女たちが囃子手を入れる。そのリズムに宴の参加者たちが笑みを浮かべていく。・・・
「ほーれ、ほれ、今宵は、飲めよ、歌えよ…」・・・
「ほーおほー、ほーおほー。飲んで下されや…。歌って下されや…」・・・
いよいよ、食事が始まる。給仕はアールガルズの女たちが勤めた。鍋を煮ていた女たちが素早くブ・・
ルーアイランドからの招待客たちにグラスを回す。そして、妖しいバラ色をした液体を次々に注いで・・
回る。紫に泡立った濃厚な葡萄酒だ。・・・
「乾杯さー。乾杯サー」・・・
「カンペーよー、カンペーよー」・・・
お囃子が村人たちの間を駆け抜けていく。村人たちの笑みが大きくなる。・・・
「乾杯さー。乾杯サー」・・・
「カンペーよー、カンペーよー」・・・
その音頭に、今夜の主役の招待客たちが待ちくたびれたように慌ててその酒に口を付ける。・・・
「乾杯さー。乾杯サー」・・・
「カンペーよー、カンペーよー」・・・
葡萄酒を村人たちは一気に煽った。バラ色の液体に一瞬に農民たちとろけていく。芳醇な香りに包・・
まれていく。・・・
「うめえ…」・・・
「こりゃ、うまい…」・・・
恍惚の面が例外なく村人に浮かび上がる。それが、狂気の芽生えとは知らずに村人たちは次々と葡・・
萄酒を煽る。・・・
「うまい! いい酒だ…」・・・
「おいしい、お酒よ…。おいしいわ…」・・・
グラスがみるみる空になっていく。アールガルズの女たちが、素早くそれを注ぎ足しに廻る。それ・・
が、追い付かなくなっていく。・・・
「ほーれ、ほれ、今宵は、飲めよ、歌えよ…」・・・
「ほーおほー、ほーおほー。飲んで下されや…。歌って下されや…」・・・
村人は葡萄酒を次々と空けていく。先程のソプラノが再び森に木霊した。・・・
・・・
-今夜は、別世界への宴…。・・・
遙かなレグルスに乗ろう…。・・・
輝くベガまで…。・・・
この酒は、生命の味…。・・・
この酒は、血の酒…。・・・
百獣の王に、アポロンと…。・・・
目覚めれば別世界…。・・・
・・・
ヴィゴルーの歌声は今夜の客の胸を打った。村人たちは遙かなる宇宙を想い、自らの存在の侘しさ・・
を感じながら、紫に泡立つ葡萄酒を次々と口元へ運んだ。村人たち誰もが妖しく赤く染まっていく。・・
そして、それに絡む天使の歌は、この場の村人たちにとって限りなく悲しくて切ない調べだった。・・・
「今夜は、飲もう…。騒ごう…。そして、目覚めれば別世界…」・・・
村人たちの思いを誰かがひとつの言葉に出した。目覚めれば別世界…。村人たちの悲しさが森に所・・
狭しと渦巻いていく。・・・
「そうだ、目覚めれば別世界…。もう働くことなどしなくていいんだ!」・・・
村人たちの言葉は堰を切っていく。森の中にそれぞれの思いが言葉となって風に消えていく。・・・
「そうだ、そうだ! 目覚めれば別世界…」・・・
「おれたちは、この酒に未来へといざなわれるのだ!」・・・
村人は叫んだ。そうして、自らの中に固まった黒い部分を剥ぎ取っていく。・・・
「飲もうぜ! 飲んで、すべてを忘れるんだ!」・・・
「そうだ、どうせ、おれたちに明日はない! 飲めや、飲めや!」・・・
山のような料理もその山が崩れていく。葡萄酒の樽も次々と空いては倒れていく。村人たちは大い・・
に酔い、誰もが明日を忘れた。・・・
「やれ、歌え! やれ、踊れ!」・・・
「明日には、あたいたちは別世界! 光の溢れている世界!」・・・
男も女も踊り歌い、そして乱れていった。理性も知性もどこかへ吹っ飛ぶ。醜く歪んだ表情が森を・・
埋め尽くしていく。・・・
「目覚めれば、別世界…。そうよ、そうなのよ!」・・・
「歌え! 騒げ! そうすれば、別の世界へ旅立てる!」・・・
みんな、それを望んでいた。別世界…。哀れなる者たちにとって、その歌は果てしなく新鮮な響き・・
だった。誰もが我を忘れていった。別世界…。その思いへ未来を重ねていった。別世界…。その言葉・・
が大きくなっていく。・・・
「今夜は、最後の夜だ…。明日は別世界!」・・・
「明日からは、もう悩み事などはなくなっているさ。さあ、飲めや歌え!」・・・
それぞれの思いが歌になる。歌が重なりリズムが早くなっていく。・・・
「そうだ…。もう、この世になんか未練はない。別世界だ。別世界!」・・・
「こんな世の中、いいことは何ひとつなかったわ…。あたいは、別世界へと行くんだ!」・・・
希望と未来を胸に思い浮かべていた。それは、若い頃の春であったかも知れない…。それは、乙女・・
の恋だったかも知れない…。それは、青い旅立ちだったのかも知れない…。人々は、幻の希望と偽り・・
の未来を歌った。・・・
「新しい旅立ちだ! 今夜は、歌え踊れ!」・・・
「そうよ、みんな一緒に行くのよ…。怖くなんかないわ…。みんなと一緒だもの」・・・
「そうよ、今夜は飲んで歌って狂っちゃえ!」・・・
葡萄酒を飲むほどに、煽るほどに、その思いは強く心の奥に蓄積されていく。村人たちがひとつに・・
寄り添っていく。同じ思いが強く結びあっていく。・・・
「そうだ、歌え! 未来の歌だ!」・・・
「おれたちの未来は、輝いた煌めきの中にあるのだ!」・・・
「そうだ、別世界だ!」・・・
叫びというより、それはもう獣の遠吠えだった。狂気の吠えが止まらなくなっていく。・・・
「死ぬことなんて怖くないさ。どうせ生きていたって、どうなるものでもない!」・・・
「あの天使の声を信じようぜ! 別世界だ!」・・・
「おれたちだって、幸せになろうじゃないか! 飲もう、踊ろう、騒ごう! そして、一気に死んで・・
しまおう!」・・・
死という言葉に村人たちが激しく反応する。死の先にこそ未来がある。別世界は死の向こう側にあ・・
る。・・・
「そうよ、死のうよ! みんなで死のうよ!」・・・
「みんなと一緒なら、怖くないわ!」・・・
「そうよ、死のう! 別世界へ行こう」・・・
「目覚めれば、もう辛いことはないのよ! そう、みんなで死のう!」・・・
村人たちは歪んだ未来へ思いを向けていった。死への恐怖を無知故の希望に乗せていった。誰一人、・・
それを信じない者などいない。・・・
「死のう! みんなで死のう!」・・・
「別世界は、死の向こうにある!」・・・
「死のう。そして、目覚めれば、別世界!」・・・
村人の思いがひとつになった。ヴィゴルーの歌声に誰もがその後へと続いた。・・・
・・・
-今夜は、妖しく揺れる宴…。・・・
アンタレスの激しき想い、・・・
カシオペアに届け…。・・・
この酒は、生命の味…。・・・
この酒は、血の酒…。・・・
蠍の毒こそ、我等の願い…。・・・
目覚めれば別世界…。・・・
・・・
・・・
一部始終を、ロキは森の別の空間から冷めた目で見下ろしていた。一匹のオオカミが膝に絡まって・・
いる。ロキに料理のおこぼれをせがんでいる。・・・
そのオオカミがピクリと耳を立てた。尾を尻に巻きロキを離れていく。・・・
「大丈夫なのか…」・・・
あの影だ。影がロキの意識に低く尋ねた。既に、ロキは影に切り株の席を譲っていた。・・・
「大丈夫です。すべて私のシナリオです」・・・
影がロキの譲った場へ動く。ロキの背にヒヤリと冷たいものが走る。・・・
「あの者たちは、今夜中に闇の彼方へ旅立ちます。ご覧なさい、彼らの目を…」・・・
影の気配が更に動く。場の空気が濃くなり黒く色づいていく。・・・
「彼らの目は、今、輝いています。悲しみの中に、一筋の光明を見い出した目です…。あの目は魔界・・
へは向かない。彼らは、葡萄酒の毒に、ただ闇に落ちていくだけなのです…」・・・
影が仄かに揺れた。影が形を持ち出す。ロキの横顔に緊張が走る。青い目がその影に引き付けられ・・
ていく。・・・
「ロキ…。どうして、あの者たちは、あのような複雑な目をしているのだ…」・・・
影の姿が現れた。人影に青く映える。・・・
「歪んだ希望の光が宿っているのです。あの者たちへの、私からの最後の贈り物です。ハハハハ…」・・・
ロキはやわらかく影に微笑んでみせた。影も微笑んだように見えた。・・・
「道化師…」・・・
ロキは笛吹きを呼び寄せた。影が帰ろうとしている。・・・
「そろそろ仕上げにかかれ…」・・・
影が静かに闇へと消えていく。ロキはそれを振り返らなかった。双頭を天に向けた巨大な竜の光が、・・
ロキの背にははっきりと見えていた。・・・
・・・
・・・
人々は葡萄酒に酔い、彼らだけの希望の歌を叫び続けていた。叫びに未来の夢を乗せて、狂気の渦・・
の中へ歩みだしていた。そして、再び紫の葡萄酒を口に運ぶ。・・・
狂った笑みだった。余りにも哀れな笑みだった。生きていくことことを放棄した者たちは、涙すら・・
忘れてしまったのか、表情がどこまでも歪んでいた。葛藤という輝きを遥か遠くへと見失った目をし・・
ていた。・・・
恐怖や怒り、あるいは、苦しみ悲しみなどは、己の存在の中にある葛藤という美しい輝きで、自ら・・
の心に光を注がなければならない。己の存在の奥にある無数の心の襞を、その光の層で包み込むのだ。・・
葛藤という我々だけに許された輝きで、本来あるべき己の姿を持ち続けなければならない。そうして・・
道を歩いていく。壁を乗り越えていく。・・・
生きていくことを放棄した者に、その輝きは見い出せない。彼らの希望の歌は幻への讃歌だ。未来・・
の夢ははかない蜃気楼だ。葡萄酒に酔った人々は、そのことに気が付いていない。狂気に侵され輝き・・
が消え去り、その跡形すら残っていない。哀れなる者たちは道を踏み違えたのだ。本当の光を見失っ・・
てしまったのだ。・・・
「目覚めれば、別世界…」・・・
その歌は、狂気の中、幻の希望、幻想の未来を追う者たちを魅了した。人々は己の存在にある意識・・
の無数の襞を、呪いの黒森の月明かりの下に晒け出していた。葛藤の光で隠すこともなく、無防備の・・
まま闇に浮かび上がらせていた。・・・
ロキにはその襞が見えた。無抵抗、無防備の無数の暗い襞だ。それは、もう息絶えようとしている。・・
萎えた草のように葉を垂らしている。・・・
「道化師…」・・・
ロキはゆっくりと仕上げに掛かった。笛吹きが側に寄る。・・・
「笛を吹け…」・・・
「プィー…。プィー…。プィー、プィー」・・・
笛吹きが静かに始める。切なさと悲しさが狂気の渦の中に柔らかく溶けていく。森の妖艶な風が行・・
き場のない村人たちの思いを流していく。そして、更なる悲しみが、光を失った者たちの萎えた襞に・・
ゆっくりと揺れながら静かに静かに染み込んでいく。・・・
「プィー、プィー」・・・
無防備に晒された村人たちの心は渇いた綿そのものだ。笛吹きの悲しみの調べが、彼らの心に水の・・
如くに染み込んでいく。それは、ロキでさえ遙かむかしを偲ばせるほど切なくて悲しい調べだ。村人・・
たちは瞬間に悲しみを蘇らせていく。・・・
「プィー、プィー」・・・
笛吹きの奏でる笛がロキの後ろ姿へ流れる。温い風が金髪を撫でるようにロキの耳元へと届く。ロ・・
キはひとつ微笑んだ。・・・
「プィー、プィー」・・・
ロキは村人たちの前に立った。呪いの黒森に静寂が一瞬にして訪れる。・・・
「皆の者…」・・・
希望の歌の合唱が止む。未来への夢の踊りが収まる。しかし、狂気だけは消え失せはしない。・・・
「道化師…。そのまま続けろ」・・・
ロキは人々の戸惑いの表情を笑みを浮かべて覗いた。縋りつくようなトロンとした目が、ロキの意・・
識の片隅をくすぐる。ヴィゴルーの歌に心を抜き取られたのか、笛吹きの笛に魂を吸い取られたのか、・・
その目は霧がかかったように紫色に深く染まっている。・・・
「哀れなる者たちよ…。この手に、掴まりなさい…」・・・
一人の女にロキは手を差し延べた。女の瞳が宙に浮く。・・・
「手に、掴まりなさい…」・・・
ロキはそれを声に出さずに意識に直接話しかけた。女の膝が折れる。両手を胸に合わせる。女がロ・・
キに神を見ている。・・・
「さあ…」・・・
月明かりはロキの姿を美しく照らした。ロキは女の手を優しく握り締めた。・・・
「哀れなる者たちよ…」・・・
女に、戸惑いの中の一縷の安堵感が揺れる。ロキの暖かい手に女の不安な気持ちが溶けていく。ロ・・
キの青い瞳に女が安らぎを取り戻していく。・・・
「皆の者…」・・・
人々が次々にその手に触れる。そして、ロキの青い瞳の輝きに照らされる。・・・
「おー、神よ…」・・・
最初の女がそう叫んだ。その言葉が次々に廻りへと拡がっていく。・・・
「神よ…。我々を救い賜え…」・・・
「おー、神よ…」・・・
「偉大なる神よ…」・・・
・・・
・・・
笛吹きの曲が変わった。更に悲しい調べとなる。・・・
給仕役のアールガルズの女たちが倒れていく。そして、男たちはそれを見届けて膝を折る。・・・
ロキのシナリオの一部だった。今夜の招待客たちに見せる重要な一幕だ。今夜の客に静かな死を目・・
の前で見せるのだ。・・・
催眠状態に至ることにより、意識の中に、前もってロキがインプットした死が目覚める。笛吹きの・・
悲しい調べにそれが面へ出る。その瞬間に、アールガルズから来た者たちは生への波長を放棄する。・・
生への波長を放棄した者たちはその場に倒れていく。幻想の肉体の中に流れる物質の波動が停止する。・・
つまり、ただの幻となる。幻想の波動の存在となる。その者の意識と幻想の肉体が切り離れるのだ。・・
すべて、ロキが仕組んだ死だ。アールガルズ者たちが次々と幻想の死を迎える。・・・
「おー、神よ…」・・・
「偉大なる神よ…」・・・
ロキに神を見、安らぎを取り戻した村人たちは、その様子を食い入るように見つめていた。目の前・・
で死んでいく者たちを瞬きもせずに見つめていた。そして、ロキに振り返る。神を見る。・・・
「おー、神よ…」・・・
「偉大なる神よ…」・・・
月の明かりが雫のように細くなる。夜明けが近いようだ。大鍋の火もいつの間にか絶え、強烈な匂・・
いも消えていく。呪いの黒森は、何事もなかったかのように、いつもの顔を取り戻しつつあった。・・・
「おじさん、ぼくを見て…」・・・
そんな、村人たちの祈りにゲタンが紛れた。いよいよ、子供たちの出番だった。美しく死んで見せ・・
ろ…。ロキはただそう言った。ゲタンにはその意味は分からなかった。しかし、死ぬことくらいは簡・・
単にできると思っていた。・・・
「おばさん、ぼくを見て…」・・・
ゲタンに何人かが振り返る。村人たちにはゲタンたちが神の使いのように見えているようだ。それ・・
ぞれに、涙をゲタンに届ける。熱い思いをゲタンへ流す。ゲタンは思った。自分たちの今夜の黒い衣・・
装は、きっとこのためのものだったんだ…。みんなには、おれたちが別の世界の者たちに見えるのだ・・
ろう…。・・・
「みんな、ぼくを見て…」・・・
そんなこと、どうでもよかった。ゲタンには仕事がある。美しく死ぬ…。ただそれだけだ。やり方・・
は分かっている。・・・
「ぼく、綺麗に死ぬよ…」・・・
ゲタンは膝を折った。両手を胸の前に結び目を軽く閉じた。笛吹きから聞いた死に方だ。何度も繰・・
り返し練習した。・・・
「どう、綺麗に死ねた?」・・・
笛吹きの曲が変わった。子供たちの意識の一部を消し去っていく。幻を死に導く曲だ。叱られた時・・
によく聞いた歌だ。笛吹きの子守歌なのだ。・・・
「どう、綺麗に死ねたかな?」・・・
ゲタンの意識は消えた。眠るように、ゲタンはゲタンの死へと向かった。・・・
・・・
・・・
「目覚めれば、別世界…」・・・
ヴィゴルーが乗り移った農家の女だ。女の瞼が下りる。旅立ちの歌が女から消える。揺れる瞳を霞・・
む意識が優しく包んでいく。女はそのまま夢に入った。・・・
「……」・・・
雲ひとつない青空だった。日が燦々と注ぎ、暖かい風が頬を過ぎていく。周りに大勢の人が微笑ん・・
でいる。笑顔がやけに煌めいている。眩しいほどに輝いている。・・・
「……」・・・
誰かが自分の名前を呼んでいた。声に聞き覚えがある。・・・
「……」・・・
人々の中央に純白の帆を張った舟が見えた。女は舟に進んだ。旅立ちの舟だ。みんなの歓声が聞こ・・
える。舟の後ろには真っ赤な炎が燃え盛っている。大きく銅鑼が鳴り響く。・・・
「出発だ…」・・・
女は急いだ。希望の輝きが人々の笑顔に見える。それぞれの瞳に遥かなる未来への明かりが映って・・
いる。女は舟に乗った。心軽くなった。舟が風を受け揺れた。・・・
「さあ、行こう…」・・・
誰かが言った。知っている人だ。友人たちだったのかも知れない…。いや、家族だったのかも知れ・・
ない…。懐かしい顔だ。・・・
「さあ、行こう…」・・・
その人も知っている。みんな、みんな、知っている。・・・
「さあ、行こう…」・・・
女も言った。希望に小さな胸が張り裂けそうだった。嬉しさに踊りたくなる。未来の輝きがちらっ・・
と目の前に過ぎたような気がした。光が見えた。確かに見えた。・・・
「さあ、行こう…」・・・
旅立ちの舟が帆を更に高く上げた。いよいよ、旅立ちだ…。舟はそのまま空へと舞い上がった。果・・
てしない未来へと飛び立った。・・・
「ヤー!」・・・
女の叫びが、その瞬間に呪いの黒森に轟いた。・・・
・・・
・・・
「ヤー!」・・・
森に激しい叫びが突き抜けた。黒い衣装の子供たちが次々に死んでいった。美しく死んでいった。・・
村人たちは叫んだ。子供たちの美しい死へ叫んだ。・・・
「ウオー!」・・・
村人たちは自分たちの歓声の中に次々と崩れていった。旅立ちの舟に乗った女のように、瞼の裏に・・
希望を見ていた。未来の輝きを追っていた。・・・
「神よ…。我に死を与え賜え…」・・・
誰かがぽつりと言った。それが、死に行く村人たちに流れていった。その時、呪いの黒森に遅い夜・・
明けが訪れた。どこかで、カラスが鳴き始めた。・・・
・・・
・・・
「神よ…。我に死を与え賜え…」・・・
今夜の宴は、その言葉を、村人の心の底から吐かせるための夜宴だった。我に死を…。ロキは満足・・
そうに微笑んでいた。・・・
「神よ…。我に死を与え賜え…」・・・
死に行く男の表情には幻の希望への輝きがあった。死に行く女の瞳には偽りの未来が映っていた。・・
ロキにはそれがはっきりと見えた。・・・
「神よ…。我に死を与え賜え…」・・・
「神よ…。我々を、新しい世界へ…」・・・
それは、村人たちがそれぞれに死を承諾した言葉だった。自らの意志でもって新しい世界への旅立・・
ちを受け入れた言葉だった。ロキは死に行く人々の輪の中に入る。遠い明かりがロキにだけ降り注ぐ。・・・
「みなの者…、聞くがよい!」・・・
ロキの低い声が夜明けの森に響いた。カラスたちが一斉にその声に喜び囀りを始める。・・・
「我と共に来るがよい! 今こそ、旅立ちの時なのだ!」・・・
右手を高だかにロキは叫んだ。風が起き、朝の気を運んでくる。呪いの黒森が、ロキのその叫びで・・
目覚める。朝露が一粒ポツリとロキの頬に掛かる。・・・
「ウオー!」・・・
狂気の叫びに人々が死んでいく。鳥がそれに恐れ木々を飛び立っていった。・・・
「神よ…。我に死を与え賜え…」・・・
「神よ…。我々を、新しい世界へ…」・・・
悲しみの叫びがしばらく森に続いた。ロキはその叫びを背に聞き森を出た。紛れた風に、村人たち・・
の未来への賛歌が微かに聞こえたような気がした。・・・

(3)・・・
・・・
老人はラ・ムーのところへ向かった。いい知れない不安が老人を激しく急き立てていた。そして、・・
ロキへの震えはまだ完全に収まってはいなかった。意識が萎縮してしまったのか、見えない脅えが老・・
人の心の奥深くに巣作りをしていた。・・・
ロキが剣を振るうはアールガルズで何度も見ている。狂った権力者がその力を誇示しているのだと・・
思っていた。単なる、人々に恐怖と脅えを植え付けるための行動と見ていた。しかし、それは少し・・
違っていた。ロキにかかれば権力など戯れ事に過ぎない。簡単に手中に乗る。あの鬼神には何人も適・・
わないだろう。・・・
ロキのあの行動には理由がある。老人はそう思った。そして、ロキに恋するヴィゴルーの異常なる・・
意識。ロキ様は醜い人間たちを救ってあげようとしているの…。ヴィゴルーの思いの中にロキの企て・・
が見て取れる。ロキが動く。ロキが動けば事は大きい。・・・
老人は教会の前に立った。軽くドアに手を掛けた。そのまま自らの意識を沈めた。ラ・ムーに不様・・
な姿は見られたくない。・・・
ドアは何の抵抗もなく開いた。降り注ぐ光の中にラ・ムーの姿が見える。・・・
「ご老人…」・・・
ラ・ムーは老人を待っていた。青い瞳をやや暗く光の教会で静かに椅子に腰掛けていた。・・・
「ああ、ラ・ムーよ。久しいの…」・・・
ラ・ムーが椅子を立ち老人に寄る。軽い笑みが老人に懐かしい。・・・
「ご無沙汰しております…」・・・
ラ・ムーの低い声が教会に流れた。それも、老人にとっては懐かしい響きだった。グリーンアイラ・・
ンドを出て幾年過ぎたのか…、老人には、それが遥かむかしのような気がした。・・・
「ラ・ムーよ、変わらずに…」・・・
皇帝は変わらず静けさが似合っていた。翳りのある眉がむかしと変わっていない。老人は、ラ・・・
ムーによって用意された椅子に座った。ラ・ムーの椅子より一回り大きいものだった。・・・
久々の挨拶など二人の間にはなかった。ラ・ムーがいきなり老人に話す。老人の意識を汲み取って・・
いるのか、ラ・ムーのそれは的を得ていた。・・・
「ロキですな…」・・・
老人は軽く頷いた。ラ・ムーの笑みが消える。・・・
「その通り…」・・・
教会に朝の明かりが濃くなっていた。ラ・ムーの姿がそれに溶けていく。・・・
「ロキが、何かを企ている…」・・・
ロキの名をする時、老人にあの戦慄が微かに蘇った。・・・
「あの森の笛吹きもロキに降った…」・・・
老人はすべてを話した。このことを理解できるのは、老人が知る限りグリーンアイランドにはラ・・・
ムーしかいなかった。・・・
・・・
・・・
ラ・ムーは、あの時ロキに完全に一本取られた形だった。まさか、ロキがあのような狂気に出ると・・
は思わなかった。迂闊だった。ロキは目的のためならば手段など選ばない男だ…。そのことを、一番・・
知っているのはラ・ムー自身のはずではなかったか…。・・・
ロキが最初の女の子を斬り付けた瞬間、ラ・ムーは子供たちの光へ飛んだ。空間の向こうから誰か・・
が子供たちを呼んでいた。その呼ぶ声に目掛けて幾人かの子供の意識を投げ付けた。しかし、次の瞬・・
間、それはロキの剣によって引き戻されてしまった。一瞬のことだった。時の流れはラ・ムーにもロ・・
キにも同じ早さで巡っていた。ラ・ムーにはあれが精一杯だった。ロキの素早い動きにそれだけのこ・・
としかできなかった。・・・
ラ・ムーはロキを追った。子供たちの幻想の死体の中、ロキに迫った。ロキは狂っていた。ロキ自・・
身が鋭い狂気と化していた。・・・
ロキに攻撃を入れた。拳をロキの額へ突いた。手応えはなかった。・・・
接触はそれだけだった。結局、ロキはラ・ムーの前から消えた。ラ・ムーとの争いは、今、避ける・・
べきと判断したようだった。光より速くロキは消えた。・・・
それから、ラ・ムーは森に戻り倒れている子供たちの間を回った。子供たちの意識を探した。しか・・
し遅かった。一人としてそこには誰もいなかった。すべて、鋭く袈裟にその精神ともに鋭く両断され・・
ていた。・・・
「危険だ…」・・・
老人の話にラ・ムーは改めてそう思った。ロキの欲望は、魔界であるアールガルズだけに止まらな・・
くなっている。ロキはブルーアイランドへ何かを企んでいるのだ。老人の話にラ・ムーは身を固くし・・
た。ロキへの怒りがラ・ムーの中に燃えていく。・・・
「ロキよ…」・・・
狂気のロキを思った。どうやら、ロキとは今後もぶつかることになるだろう。ラ・ムーの心は果て・・
しなく重くなっていった。・・・
「ロキよ…」・・・
ロキとは争いたくない。ラ・ムーの偽らざらずの思いだった。しかし、それは避けられそうにない。・・
ロキと互角に合い対すことのできるのは自分だけだろう。ラ・ムーの思いは複雑に絡んでいた。・・・
「ロキは既に動きを始めている…」・・・
老人の話は長く続いた。ラ・ムーの思いも激しく揺れ続いた。・・・
・・・
・・・
ミルダは夜明けを待って呪いの黒森に入った。ラ・ムーの忠告だった。闇の森は危険すぎる…。ミ・・
ルダはそれを守った。・・・
「……」・・・
何かの気配を感じた。ミルダの頬に温い風が運ばれてくる。ミルダはその風を受けた。風の中に覚・・
えのあるものが混ざっている。それが、ミルダの鼻孔を刺激する。・・・
「死の匂いだ…」・・・
ミルダの不安が形になる。風にあの時の毒の臭いが混じる。魔界の臭いだ。芳しき甘い香りが風に・・
流れていく。・・・
「悪魔か…」・・・
ミルダは一人呟いた。死の臭いを風に遡った。森に朝の日射しが多く落ち始めていた。木漏れ日が・・
ミルダに眩しいほどだった。・・・
「……」・・・
ミルダは自らの気配を落とした。背に警戒の思いが強くなる。ミルダはゆっくりと風を遡る。光が・・
それへと重なっていく。・・・
「やはり、悪魔か…」・・・
ミルダの前方に視界が拡がった。妖しげに色が揺れている。それが、ミルダには魔界の色に見える。・・
悪魔の姿がそれに隠れているように見える。ミルダは身を低くそれへ進んだ。薄く微かな煙をミルダ・・
は前方に捕らえた。・・・
「悪魔の夜宴…」・・・
ミルダは思った。紫の煙が木々たちに覆われて行き場を失っている。ミルダは煙に寄った。花の香・・
りが強くする。すべてを溶かしてしまいそうな甘い香りだ。あの山での香りとは少し違った。ミルダ・・
の意識が煙に徐々にかすれていく。・・・
「悪魔の夜宴…」・・・
不思議だった。ミルダの中から、不安が嘘のように去っていく。なぜか、安らぎすらミルダの意識・・
に上る。眠ってしまいたい。静けさがミルダを優しく撫ぜる。・・・
「助けてくれ…」・・・
その時、誰かの呼びかけが聞こえた。遠くの声に思えた。どこからか、掠れた声がミルダの意識に・・
軽く絡み付いた。・・・
「助けてくれ…」・・・
それでも、ミルダの不安は静けさを出ようとしなかった。ミルダに微睡みが訪れる。睡魔がそれに・・
心地よさを運んでくる。ミルダの警戒の意識を邪魔する。ミルダの意識を更に軽くしていく。見えな・・
い沼にミルダが引きずられていく。・・・
「助けて下さい…」・・・
ミルダは微睡みに入った。悪魔の夜宴へと…。なぜか、心が急いていた。・・・
「神よ…。私を助けて下さい…」・・・
呼びかけの声が、まだ続いていたように思った。しかし、ミルダにはどうすることもできなかった。・・
微睡みがミルダを離したりしなかった。・・・
「神よ…。私を助けて下さい…」・・・
・・・
・・・
ロキは血に染まった己の両の手のひらを見つめた。両手を胸の前にまでかざし、愛しい光でも抱く・・
ように優しく包む。血だ…。熱くたぎっていた血…。・・・
それは、夜宴の思わぬ手土産となったものだった。血は、既に、乾き黒く変色していた。しかし、・・
その血は、ロキの思いを、遥か彼方のムーの時代へと運ぶのに十分すぎるものだった。ロキの瞳が妖・・
しく揺れる。青い光が彩りの影を見せる。・・・
地上の人間の実際の血なのだ。物乞いたちのものではない。昨夜の夜宴に招いた客の熱くたぎって・・
いた実際の血なのだ。それは、魔界のまやかしの血などではない。幻などではない、赤い血潮の一滴・・
なのだ。・・・
ロキは、その血を見つめたまま静かに微笑んだ。思いが更にムーへ向く。太陽の帝国…。それは争・・
いの歴史だった。ムーはいつも闘いの渦の中だった。人々は争った。あらゆる人間の鮮血が飛び散っ・・
ていた。幾度、その熱い液体を自らに浴びたことだろう。激しい時代だった。自らが最も輝いていた・・
時かも知れない。ロキの思いが熱くなっていく。ロキはその血を見つめ続けた。笑みをこぼし続けた。・・・
「遥かなるムー」・・・
ロキが揺れ続けた。手のひらの血に遥かなる時代を感じ続けた。・・・
夜明け前、ロキは一人の男を見た。その男は生きていた。夜宴の客だった。ロキは男に近づいた。・・
自らのシナリオには誰一人として生き残るような者はいない。男に怒りを覚えた。ロキは最強の剣を・・
抜いた。男は何かを叫んでいた。・・・
「神よ…。神よ…。あー、神よ…」・・・
男は狂っていた。叫びは意味不明だった。ロキは男に斬りつけた。しかし、それは、空を切るだけ・・
だった。男は魔界の外側にいた。ロキは幻を斬ったに過ぎなかった。・・・
「神よ…。神よ…。あー、神よ…」・・・
男はロキを逃げなかった。男にはロキが見えていなかった。・・・
「あー、神よ…。ハハハハ…」・・・
魔界の者が幻となって地上へ降りるのと、まったく逆の現象だった。男は狂気のあまり元の世界へ・・
戻ってしまったようだった。男は物質の波長で、魔界と地上の狭間で叫び続けていたのだ。・・・
「男よ。哀れなる者よ…」・・・
ロキは男の意識に直接接触した。男がロキを振り返った。男に素早く恐怖の影が浮かんだ。・・・
「お前を助けてやる…」・・・
ロキは男の意識を掴んだ。男はロキに神を見ていた。・・・
「我に跪け…」・・・
ロキは思った。アールガルズの物乞いたちを斬るたびに積み重なっていった願望の叶えられる瞬間・・
がとうとうやって来たと思った。ロキは男に優しく続けた。・・・
「男よ。祈れ…。我に祈れ…」・・・
この男の実際の熱い血を浴びる事ができる。最強の剣に、地上の人間の赤い血を吸わせてやる時が・・
来た。幻ではない真っ赤にたぎった鮮血だ。・・・
「我に祈れ…」・・・
ロキは自らの波動を調整した。自らの波動を、その男の波動に合わせていった。ブルーアイランド・・
の波動だ。物質の波動だ。それは、ロキの中では遙か彼方の過去でしかなかった。意識が覚えている・・
のか疑わしかった。・・・
「我に祈れ…」・・・
しかし、男がロキに神を見ていた。男のすべてがロキの方へと向いていたのだ。・・・
「神よ…。神よ…。あー、神よ…」・・・
男の波動がロキに伝わった。それをロキが探った。・・・
「神よ…。神よ…。あー、神よ…」・・・
男の狂った叫びにロキは意識を沈めた。ロキは男の揺れに交わった。そして、同時に自らの中を流・・
れた。物質の波動…。ロキはそれに向かった。己の暗闇の中を、深く深く潜った。深層意識から無意・・
識の層まで手当たり次第にめくっていった。・・・
「男よ、もっと祈れ…」・・・
男に涙が垂れた。その瞬間に、ロキは自らの中に物質の波動を掴んだ。・・・
「男よ、汝を救ってやる…」・・・
ロキにとって遥かなるブルーアイランドの波動は、ロキの中、意識の沼の底に永久の眠り続けてい・・
た。ロキの無意識の層に永遠の時を刻んでいた。ロキはその波動に掴んだ。その波動に自らを押し入・・
れた。・・・
「男よ、叫べ…。恐怖に叫べ…」・・・
ロキは男の肩に手を掛けた。それは、空を切らなかった。・・・
「男よ、叫べ…」・・・
実際に熱い血がたぎっていくようだった。それは、幻想の肉体ではなく地上での物質の波動を持っ・・
た肉体だった。ロキにムーの時代が懐かしく流れ込んだ。・・・
「男よ、叫べ!」・・・
ロキが魔界から地上へ蘇った一瞬だった。アールガルズから鬼神がブルーアイランドへ土足で進入・・
した。・・・
「ウオー!」・・・
狂った男がロキの狂気を認めた。男は逃げた。弱々しい足どりで森を走った。・・・
「助けてくれ…」・・・
夜が明けていた。日溜まりが幾つか見えた。魔界の森には相応しくない光だった。アールガルズに・・
はない光だった。ロキは自らがブルーアイランドへと押し入ったことを知った。・・・
「助けて下さい…」・・・
男の言葉はロキの狂気を十二分に満足させるものだった。ロキは男の前に立った。物質の波動で男・・
を見下ろした。・・・
「神よ…。私を助けて下さい…」・・・
ロキは剣を下ろした。重い手応えがあった。言い知れぬ快感がロキの腕に電流のように流れた。男・・
が二つに倒れた。・・・
「ウオー!」・・・
断末魔の響きがロキに果てしなく爽快だった。男の鮮血がロキの頬にまで降りかかった。ロキの願・・
望のひとつが叶えられた瞬間だった。・・・
手のひらの血はその時のものだった。狂った男の血だ。ロキが地上の波動に乗り地上で実際に流し・・
た熱い血だった。・・・
「……」・・・
低い溜息をひとつ残し、ロキは黒くなった血を水に洗った。その流れを見つめながら丁寧に水に流・・
した。そして、微笑みを浮かべたまま剣を手にした。・・・
実際の血を吸った剣は眩いほどの煌めきな艶っぽく光っていく。剣に新しい狂気が芽生えていく。・・
最強の剣はその主人の腕の中で別な輝きを見せていた。・・・
ロキは庁舎を出た。新たな狂気を含んだ剣が、ロキの腕によってひとつしなった。風の音が真っ二・・
つに切れた。・・・
・・・
・・・
森は静かな午後を迎えていた。木漏れ日が濃く木々の真上から落ちている。広葉が懸命にそれを遮・・
り、光の筋が幾筋も窮屈そうに身を細めていた。・・・
「静かだ…」・・・
ミルダと老人が小さな日溜まりを横切る。二人に言葉は少なかった。激しい怒りだけが二人の間に・・
あった。・・・
「こんな静かな森に…」・・・
それは、二人にはまったく信じられない光景だった。おびただしいほどに転がる死体だった。すべ・・
てが地に臥していた。地獄そのものだった。・・・
「なぜだ…。なぜだ…」・・・
二人はそのまましばらく歩いた。静けさの中に思いを沈めるようにゆっくりと歩いた。・・・
「若者よ…」・・・
一際広い日溜まりを過ぎた時、老人がミルダに声を掛けた。ミルダの肩は怒りに少し震えていた。・・
老人がその肩を軽く叩いた。・・・
「ミルダよ…」・・・
ミルダは老人の声に目覚めたのだった。老人がミルダを魔界の波動へ引き寄せたのだ。眠るミルダ・・
には地上の波動が揺れていた。あのままでは、この場に伏している者たちと道を共にすることとなっ・・
てしまっていたかも知れない…。ミルダは魔界の恐ろしさを改めて思い直していた。・・・
「魔界はすべての者を飲み込んでしまう。気をつけることじゃ…」・・・
それは、既に理解していた。この老人がいなければ自分は魔界の闇に落ちていた。ミルダは老人を・・
見た。深い皺に小さな笑みが見え隠れしている。・・・
「助けてもらった…」・・・
ミルダは礼を言った。老人の風のような意識がミルダに優しく流れる。落ち葉のような静けさがミ・・
ルダに届く。・・・
「礼などいらん…」・・・
老人が先を歩く。ミルダの意識に老人の優しさが染み込んでいく。ラ・ムーとは違った強さが老人・・
の背に揺れる。・・・
「ご老人、なぜ、おれの名を…」・・・
老人に対する警戒はミルダになかった。老人の姿は飄々としていた。掴みどころのない背だった。・・
どこか、キリコに似ていた。・・・
「キリコに聞いた」・・・
老人とキリコがミルダの中で一瞬に重なった。ミルダは老人に笑みを向けた。・・・
「そして、ラ・ムーにも」・・・
老人の足が速くなる。何かを感じ取ったのだ。老人はおびたたしい死体を縫うように進んだ。・・・
「これを見てみろ…」・・・
ミルダが老人に追い付く。老人の指差したものがミルダの視界に入る。・・・
「ひどいものじゃ…」・・・
それは、数多くの死体とは異なったものだった。おびたたしい死の中に、ひとつだけ死の形が異形・・
だった。・・・
「ロキじゃ…」・・・
その者は袈裟に斬られていた。見事な斬り口だった。肩から斜めに両断されている。多量に血が飛・・
び散っている。頭の部分が足に絡み驚いたような表情で自らの膝を眺めている。無情で残酷な死の姿・・
だった。・・・
「ロキの剣じゃ…」・・・
ミルダは血に染まる男を抱き抱えた。男の頭を元に位置に戻してやる積もりだった。・・・
「なぜ、このような…」・・・
ミルダは、ふと、オオカミに喰われた時の自分を思いだした。男の苦しさの表情はまだ救いを求め・・
ているようだった。・・・
「ミルダ…。帰るぞ…。ラ・ムーが待っている…」・・・
男の頭を元の位置に戻してやった。両の手を胸の前で合わせてやった。ミルダは老人に続いた。ミ・・
ルダの中に怒りの激しさが破裂していく。・・・
「鬼神ロキ…」・・・
呪いの黒森は短い午後を楽しんでいた。風がゆるりとミルダの残した言葉の後を過ぎていった。ミ・・
ルダと老人はその風に紛れた。・・・
・・・
・・・
ヴィゴルーの天使の声は村から村へと飛び火した。ヴィゴルーも村から村を回った。人々はヴィゴ・・
ルーの言葉を信じた。そして、呪いの黒森へ次々に向かった。・・・
世紀末だ…。誰もがそう思った。呪いの黒森への道は人が絶えないようになっていった。哀れなる・・
者たちはヴィゴルーの声に救世主を期待した。・・・
更に、村々に別なる恐ろしい出来事が起こり始めていた。辛く苦しいだけの日々に新たなる恐怖が・・
加わっていったのだ。剣を持つ悪魔だった。悪魔が村々に暴れ出したのだ。何かの祟りだろうか、村・・
人が次々と意味もなく死んでいった。鋭い刃で袈裟に斬られて死んでいった。真っ二つに斬られて死・・
んでいった。村人は恐怖に震えた。訳の分からない暴漢に恐れおののいていった。・・・
ロキだった。ロキは次々と人間を斬っていった。実際の熱い血がロキの狂気の炎を燃え上がらせた・・
のだ。蘇る鬼神だった。狂った鬼神は憑かれたように村を回った。吸血の剣で人々を袈裟にかけた。・・
その手応えは、震えが止まらないほどの爽快感でロキを覆った。・・・
人々は生を放棄していった。次々に、死んでいく者に神の怒りを感じていった。そして、ヴィゴ・・
ルーの天使の声に、歪んだ希望を乗せていった。哀れな者たちは、もう誰も後ろを振り返ったりしな・・
かった。・・・
「森へ! 急ぐのだ!」・・・
「そう、森よ。森へ向かうのよ!」・・・
悲しみ、怒り、そして歪んだ希望が、次々と呪いの黒森へ向かっていった。人々の悲しみが、それ・・
への道にやるせなく漂った。・・・
「森へ! 急ぐのだ!」・・・
「そう、森よ。森へ向かうのよ!」・・・
・・・
(4)・・・
・・・
子供たちはアールガルズにいた。呪いの黒森から生活の場がアールガルズに移った。呪いの黒森に・・
比べれば少しは明るかったが、それがどうということはなかった。ただ、退屈はしなくなっていた。・・
彼らなりの仕事が多くあった。笛吹きだけが彼らの指導者ではなくなっていた。アールガルズの役人・・
たち、怖い怖いヴィゴルー、鬼神ロキ。子供たちは前にも増して卑屈な殻に閉じこもりがちになって・・
いた。・・・
そして、前より忙しくなっていた。子供たちは呪いの黒森へ度々出掛け夜宴に参加する。夜宴はむ・・
かしのように楽しいものではなく、誰もが遅く流れる時をただ待つだけだった。夜が明ける頃に笛吹・・
きに習った死に方で、笛吹きの笛に合わせて森に死ぬ。あるいは、ヴィゴルーの歌声に地に朽ちる。・・
そして、気が付けばアールガルズで朝を迎えている。更に、午後には、その夜宴の後片付けに再び森・・
へ戻る。手分けして宴の後の残骸を始末する。次の夜宴の下準備をする。子供たちには嫌な仕事ばか・・
りだった。それの繰り返しだった。・・・
「あーあ、くたびれた…」・・・
誰かが背を伸ばす。子供たちは森の仕事から帰ってきたところだった。一晩中かかって夜宴の後始・・
末を終えたところだった。・・・
「疲れたよ…」・・・
子供たちのそれぞれに死臭が身体中に染み込んでしまっている。蒸せ返るような悪臭が鼻から消え・・
ていかない。胃液が喉の奥まで上がりぶくぶくと泡を立てていく。・・・
「ウエー、気持ちわりーや…」・・・
運命を呪っていた。境遇を恨んでいた。しかし、その思いはすぐに消えてしまう。ヴィゴルーやロ・・
キを見ると、そんな思いも嘘のように消えてしまう。恐怖に身が竦み背が激しく震えた。子供たちは・・
呪うことも恨むこと自由には行えなくなっていた。・・・
「あーあ、同じ事の繰り返しだ…」・・・
子供たちの束の間の休息だ。くたくたに疲れた身体を、それぞれに河原に投げ出し、動きの鈍い雲・・
を見上げている。・・・
「もう、嫌よ…。こんなこと…」・・・
クラーラが愚痴った。ここにはアールガルズの役人はいない。街より少し離れている。少々のこと・・
を言っても大丈夫だ。クラーラの声は少し大きくなっていた。・・・
「でも、仕方ないや…」・・・
ノッボのハンスが気弱に言う。周りに、同調の頷きが起こる。・・・
「そうね、仕方ないか…」・・・
風が止まっていた。クラーラが立ち上がる。とにかく、臭いがたまらなかった。・・・
「風がないなら、身体を洗おう…。臭くて死にそう…」・・・
ゲタンも立った。リーダーらしく大きく言った。・・・
「みんな。川に浸かろうぜ。気晴らしに川で泳ごうぜ!」・・・
ゲタンが河原を下りる。他の子たちも一斉に腰を上げる。・・・
「よーし、泳ごう…」・・・
「そうね、泳ぐとしましょうか…」・・・
子供たちは自分たちの世界からはみ出すことことが最大の恐れとなっている。泳ぎたいという思い・・
ではなく、みんなと同じ事をする。その思いが、みんなを川へ向かわせていた。・・・
「泳ごう。身体が臭いや…」・・・
「川に浸かったら、この匂いとれるかしら…」・・・
日は真上にあった。アールガルズには珍しくいい日和だ。しかし、川には誰もいない。アールガル・・
ズの人たちには川になど用事がない。川の流れなど忘れている。水の恵みはパンに値しないのだ。川・・
は緩やかに流れているだけだった。・・・
「ヒャー、冷たいやー!」・・・
衣を脱いでゲタンが川に入った。幻想の肉体を水の流れに癒した。・・・
「みんなも、入れよ! 気持ちいいぜ」・・・
クラーラも衣を脱ぐ。彼らの中には男女の意識はない。みんな家族だ。・・・
「あー、気持ちいい…。嫌な臭いが消えていくわ…」・・・
長い黒髪を透明な流れに浮かべ、クラーラは久しぶりにほんの少しだけ心が晴れていくのを感じて・・
いた。水の心地よさが身体に染み込んでくる。・・・
「あー、気持ちいい…」・・・
「冷たいや…。いい気持ちだ…」・・・
次々に子供たちが川に跳び込んだ。あちこちで水飛沫が上がる。その姿は無邪気にはしゃぐ幸せな・・
子供の姿だった。何もかも忘れて無心に水と戯れる純粋な幼さだった。・・・
「ひゃー、冷たい!」・・・
「気持ちいい! 嫌な匂いが消えていく…」・・・
嫌なことをその瞬間だけ忘れていた。子供たちは思い思いに水と戯れた。・・・
「ひやーい、冷たい、冷たい…」・・・
「うっひょー、気持ちいい…」・・・
子供たちに幼い頃の思いがちらっと浮かぶ。こうして川に遊んだ。その思い出が微かに意識に揺れ・・
る。・・・
「よく、遊んだね。子供の頃…」・・・
「そうだった、遥かむかしのことだ…」・・・
水の冷たさに悲しみが流れ込む。川で遊んだ…。いつの頃か…。子供たちの目が遠くなっていく。・・
それぞれに遠い雲を追いかけていく。・・・
「何という川だったかなあ、あのきれいな川…」・・・
「そう、きれいな川だったわね…」・・・
誰かが言った。子供たちの間に同じ思いが拡がっていく。遥かむかしの自分たちの暮らしが胸に仄・・
かに蘇っていく。・・・
「そうだ、そうだ…。えーと、何ていったかなぁ、あの川…」・・・
「きれいな川だった…」・・・
そう、あれは白い石の都市…。そう、あれは幸せだった頃…。遠い目が更に遥かへ向かう。そう、・・
幸せだった頃…。いや、幸せなんかあったのかな…。・・・
「何という、川だったかしら…。この川のように緩やかな流れの川…」・・・
「そうだよ、よく泳いだよね…。白い石の都市を横切っていた川…」・・・
思い出す者がいない。子供たちに悲しみの表情が濃くなる。それぞれが互いの顔を見合わす。それ・・
でも思い出す者はいない。みんなが首を捻る。眉間に皺を寄せる。・・・
「あー、何という川だったかな…。何という…」・・・
「名前を忘れちゃった…」・・・
子供たちが悲しみを受け入れていく。悲しみが子供たちに拡がっていく。故郷の川の名前…。どう・・
しても、それが浮かばない。あの頃、いつもいつもみんなで遊んだ川…。どうしても、どうしても、・・
その川の名前が思い出せない。・・・
「アー! どうして、どうして、誰も思い出せないの!」・・・
クラーラが大きく叫んだ。悲しみが破裂した。クラーラは泣いた。小さく膨らんだ乳房をあらわに、・・
空に向かって泣いた。・・・
「どうしてなの! 川の名前よ…。あの川の名前よ!」・・・
一気に、悲しみが子供たちの間を駆け巡った。涙が水の流れに消えていく。・・・
「そうだよ、たかが川の名前だぜ! 思い出せよ! 誰か思い出せよ!」・・・
ゲタンも叫んだ。ゲタンの目にも光るものが見える。・・・
「バカヤロー! 誰でもいいから、思い出しておくれよ!」・・・
ゲタンがクラーラの肩を抱いた。二人の涙が同時に流れに沈んでいった。・・・
「バカヤロー! たかが川の名前だぜ!」・・・
「おれたちは、川の名前すら忘れちまった!」・・・
「おれたちはバカだ! バカヤロー!」・・・
子供たちの周りに水飛沫は上がらなくなっていた。重い風が流れの音と共に子供たちの側を通り過・・
ぎていった。・・・
「バカヤロー!」・・・
「バカヤロー!」・・・
・・・
・・・
キリコは鍬を手に持ち一心に土を耕していた。額に汗が光り頬は泥に染まっている。・・・
「よっこらしょっと…。よっこらしょっと…」・・・
掛け声が威勢いい。キリコは鍬を持つ手を休めずに少しずつ後ろへ下がる。・・・
「よっこらしょっと…。よっこらしょっと…」・・・
アールガルズの土がキリコによって新たな息吹を始めていく。日の光を浴び土が別な色に微かに輝・・
き始めている。・・・
「よっこらしょっと…。よっこらしょっと…」・・・
それにしても、乾ききった土だった。アールガルズの土に生命の芽生えはなかった。・・・
「よっこらしょっと…。よっこらしょっと…」・・・
そんなことキリコは気にしない。乾いた土でも水を撒けば潤う。土が潤えば必ず生命がそこに芽生・・
える。魔界だろうが、アールガルズだろうが、それには変わりないはずだ。・・・
「よっこらしょっと…。よっこらしょっと…」・・・
汗が次々と土へ落ちる。腰が痛くなる。・・・
「フー…」・・・
キリコは一息ついた。腕を額へ回し黒髪を後ろへ大きく掻き上げる。風に靡く若い黒髪が心地よさ・・
そうに日光の光を跳ね返す。瞳に乙女のような活気が見える。幼さすら微かに浮かび上がる。キリコ・・
はまた少し若くなっていた。・・・
「疲れたわい…」・・・
今のアールガルズに土を耕す者などいない。畑で働く者などいない。額に汗などかく者などいない。・・
通りかがりの人たちがキリコを横目で見て過ぎる。アールガルズの人々にはキリコの姿は狂った女に・・
しか映らない。・・・
「それっ!」・・・
再び、キリコが鍬を振る。もう随分と耕せた。キリコの横顔に小さな満足の思いが見える。桑を握・・
る手に力が入る。・・・
「それっ!」・・・
雨が欲しいとこだった。近くに流れる川から水を汲んでいるのだけれど、それでは、なかなか追い・・
つかない。・・・
「よっこらしょっと…。よっこらしょっと…」・・・
土が乾ききっている。むかしのアールガルズを知っている者は、この辺りは畑ばかりだったと言っ・・
ていたのだか…。芋やカボチャなどが、よく育ったそうなのだか…。・・・
「よっこらしょっと…。よっこらしょっと…」・・・
キリコの思いの場所まで来た。次は後戻り。耕した土に種を蒔く。・・・
「そーらよっと、そーらよっと…」・・・
掛け声が変わる。キリコの手から小さな生命の源が土に落ちる。キリコはそれをひとつずつ丁寧に・・
土に埋めていく。・・・
「ちゃんと、育つんだぞ…」・・・
微笑みながら土を戻す。キリコの瞳は始めて生き物の仕組みを知った子供のように煌めいている。・・
ひとつひとつに声を掛ける。・・・
「そーらよっと、大きく育て…。そーらよっと、大きく育て…」・・・
キリコのリズムが早くなる。声が少し大きくなる。・・・
「そーらよっと、大きく育て…。そーらよっと、大きく育て…」・・・
次々に種を蒔く。キリコの脳裏にはそれが立派に育ったときの姿が浮かんでいる。それを、掘って・・
焼いて喰う。その味まで感じられている。・・・
「そーらよっと、大きく育て…。そーらよっと、立派に育て…」・・・
キリコはちらっとリュリュのことを思った。リュリュがまだ小さい頃、こうして二人畑をした。そ・・
の時の思いがキリコのリズムに絡んでいく。・・・
「そーらよっと、大きく育て…。そーらよっと、立派に育て…」・・・
キリコの歌が空へ流れていく。キリコのリズムが畑を駆けていく。キリコは微笑んだ。思ったより・・
その作業は順調だった。しっかりと水をやれば、この種もちゃんと育つだろう…。キリコの微笑みは・・
無邪気なままだった。・・・
「お姉さん…」・・・
そんなキリコに、不思議そうな顔をしたまだ幼い少女がよろり近づいてきた。少女はキリコの笑み・・
と同じ無邪気だった。・・・
「お姉さん…。何してるの?」・・・
キリコにその声が届く。お姉さん…。いい響きだ。・・・
「種を植えてるのよ…」・・・
キリコは悪びれず答えた。笑顔が少女に確実に届いていく。キリコは少しだけ救われたような気に・・
なった。少女の幼さがなぜか新鮮に嬉しかった。・・・
「何の種?」・・・
少女の幼さがキリコに向く。いい笑顔だった。・・・
「カボチャ、それに、芋…」・・・
キリコに少女が近づく。不思議そうにキリコの蒔く種を見つめる。・・・
「お嬢ちゃんもやってみるかい…」・・・
キリコが少女を誘う。少女の好奇心が破裂していく。笑顔が膨らむ。・・・
「わーい、おもしろそう…。あたしにもやらせて!」・・・
少女が飛び跳ねた。小さな手のひらをキリコに向ける。・・・
「わーい、わーい!」・・・
キリコが種をひとつ差し出す。少女の目一杯に開かれた手のひらにそれを乗せようとした。・・・
「これが、かぼちゃ…」・・・
しかし、その種は少女の手には乗らなかった。少女の後ろから突然激しい罵声が跳んだ。・・・
「これ! 止めなさい!」・・・
少女の母親だった。母親が恐ろしい顔で少女に叫ぶ。・・・
「止めなさい! あんな人と口をきいたらいけません!」・・・
母親が少女を窘める。よくあることだった。キリコはもう慣れていた。・・・
「ダメよ! あの人は頭がおかしいのよ!」・・・
罵声が続く。キリコは気にすることなく作業を続けた。遠ざかる少女が恐る恐るこちらを振り返っ・・
たのが見えた。そこには、先程の幼さがすっかり消え去っていた。・・・
「二度とあんな人と話をしてはいけませんよ!」・・・
母親が少女に念を押していた。キリコは先程とは異なる笑みを浮かべた。それは、少女のように幼・・
さがすっかり消えた笑みだった。・・・
「そーらよっと、大きく育て…。そーらよっと、立派に育て…」・・・
キリコは種まきを続けた。再び、キリコにそのリズムが素早く戻った。・・・
「そーらよっと、そーらよっと…」・・・
・・・
・・・
「かあさん…」・・・
川で水を汲み川原に上がるとリュリュが立っていた。リュリュは自分を待っていたようだ。驚くほ・・
ど美しく成長した我が娘に、キリコは眩しさに目眩がしそうになった。・・・
「やっぱりここだった。探したのよ、かーさん!」・・・
リュリュには言っておいた。あの子供たちのために何かをする…。リュリュにその思いが届いたの・・
だろう。リュリュも鍬を持っていた。・・・
「汗をかくのもいいもんじゃ…。リュリュ…」・・・
キリコがそのままリュリュを通りすぎる。久しぶりの挨拶などない。キリコは少し照れていた。桶・・
を畑に置き腰を思いきり伸ばした。・・・
「随分とがんばったのね、かーさん!」・・・
リュリュが驚いていた。大きく目を見開きキリコの耕した畑を眺めている。・・・
「桶、貸して…」・・・
リュリュの幼なかった日々が、再びキリコの脳裏をよぎった。あの頃はリュリュにも随分と手伝わ・・
せたものだった。・・・
「かーさん、少し休んで…。あたしがやるわ、むかしのように…」・・・
桶をリュリュが取り上げた。・・・
「よっこらしょっと…。よっこらしょっと…」・・・
リュリュがリズムよく水を撒く。掛け声がキリコと同じだ。・・・
「よっこらしょっと…。よっこらしょっと…」・・・
そろそろと日が暮れようとしていた。二人の背にアールガルズの夕日が長く延びていく。・・・
「よっこらしょっと…。よっこらしょっと…」・・・
みるみる土に潤いが染みていく。リュリュは何度も川と畑を往復した。リュリュのリズムがキリコ・・
にいい響きだった。・・・
「かーさん、あたし心配していたのよ…」・・・
一通り水撒きが終わる。リュリュのリズムが変わる。・・・
「急にいなくなっちゃって…。本当に心配していたのよ…」・・・
リュリュがキリコを覗き込む。少し怒った目をキリコに向けている。・・・
「嘘をつけ…。お前は、ジャンと一緒に楽しくやって、わしのことなど頭になかったくせに…」・・・
キリコは笑った。リュリュをからかった。リュリュも笑った。・・・
「あたし、魔女を完全に捨てたの…。ジャンのお陰よ。ジャンが、あたしに絵を描かせてくれたの…。・・
絵の中に、あたしの魔女の部分をぶちまけたの…」・・・
突然、キリコに熱いものが昇る。自分でも驚きだった。キリコはリュリュの視線を外した。そして、・・
リュリュの言葉を聞いていない振りをした。・・・
「そうして、過去を受け入れたの…」・・・
キリコは後ろ向きに腰を屈めた。鍬を手に帰り支度を始める。・・・
「ジャンは旅に出たわ…。また絵を描くんだって…」・・・
リュリュが最後の一杯と、再び桶を持ち河原を滑った。その姿には、魔女の欠片も見えなかった。・・
キリコはそっと涙を隠した。・・・
「どうじゃ、リュリュ。今夜は、一緒にめしでも食わんか…」・・・
リュリュが戻った。桶を重そうに地に置いた。・・・
「大賛成。かあさん、何か作ってくれる…」・・・
日がすっかり隠れてしまうには、もう少し時間があった。二人の笑顔がしばらく夕日と揺れた。キ・・
リコの涙腺はリュリュの姿に緩みっぱなしだった。・・・
「よく、がんばったなリュリュ…」・・・
その言葉を何度もキリコは押しとどめた。それを言った途端に、自分の中の熱いものが面へと溢れ・・
出てしまうように思った。キリコは胸で嬉しい涙にくれていた。・・・
・・・
・・・
白い空間を一条の鋭い光が真っ直ぐに進んでいた。時折、光から風が吹く。光は風を創っていた。・・
自らの想像した風を光は切っていく。千切れた風が光に弾け空間に微かな揺れを残していく。光は意・・
志を持っていた。果てしない光へと思いは向いていた。・・・
ラ・ムーだった。ラ・ムーは光に姿を変え、ラ・ムーの思いのホワイトアイランドへと向かってい・・
た。・・・
それは、空間の彼方にあった。仄かな光が見える。水に浮かぶ月のようだった。ラ・ムーは光の速・・
度を上げた。空間の揺れが大きくなる。彼方の光が徐々にラ・ムーに近くなる。仄かな光に色が見え・・
る。太陽の色だった。ラ・ムーが熱くなる。ホワイトアイランド…。いつ以来だろうか…。自分はあ・・
の光に神を見ている…。・・・
光が形を変える。大きくその空間に鎌首を上げていく。ひとつ、二つと空間の光が天に伸びていく。・・・
「双頭の竜…」・・・
ラ・ムーが身を震わせた。双頭の竜…。自分は再びあの光に抱かれる…。喜びがラ・ムーの光を濃・・
くしていく。・・・
「ラ・ムーよ…」・・・
竜の光から声が届いた。ラ・ムーはその声に祈りを捧げた。ムーの時代と同じ祈りを。・・・
「どうぞ、我を救い賜え…」・・・
竜が形を整える。血の色をした目が空間のラ・ムーを射る。強い光がラ・ムーへと漏れる。空間の・・
すべてが赤く染まっていく。・・・
「我を救い賜え…」・・・
そのまま、ラ・ムーはしばらく揺れた。双頭の竜がラ・ムーの光を受け入れた。空間に風が止む。・・
竜が長い尾を畳む。光の漏れが消えていく。ラ・ムーの光を吸収していく。赤い目がゆっくりと閉じ・・
られていく。・・・
ラ・ムーがその中へ引かれていく。ラ・ムーの時が止まる。空間から光が消えていく。いや、双頭・・
の竜が光をすべて抱きかかえた。ラ・ムーが竜の中へと滑った。・・・
「ホワイトアイランド…」・・・
光の中は暖かかった。ラ・ムーは母の温もりを感じていた。ラ・ムーの神はラ・ムーを優しく迎え・・
入れた。ラ・ムーを優しく抱いた。・・・
「ホワイトアイランド…」・・・
それは、多数の意識の集合体だった。多数の光の意識がラ・ムーに暖かさを届けていた。光が暖か・・
さに溶け合っていく。クリスタルの無限の彩りがラ・ムーには見えた。美しい煌めきがラ・ムーのす・・
べてを覆っていく。ラ・ムーは恍惚に揺れた。神の腕の中で、ラ・ムーは長い時を揺れ続けた。・・・
・・・
・・・
目覚めの時、ラ・ムーに光たちからの質問が来た。ラ・ムーは我に返った。光たちの中央にラ・・・
ムーは進んだ。光の中の風がラ・ムーにだけ吹いた。・・・
ロキのことを話した。悪魔に対する怒りを、ラ・ムーは光たちにぶつけていった。・・・
「神よ、哀れなる者たちを救い賜え…」・・・
ラ・ムーは何度も訴えた。それは、長い話となった。呪いの黒森での夜宴…。死んでいく罪のない・・
人々…。斬られ死んだ哀れな者…。そのままにラ・ムーは伝えた。ラ・ムーの怒りが確実に光へと届・・
いていった。・・・
更に、ラ・ムーはロキに対する自らの思いも語った。太古の時を意識に揺らせながら光たちに風を・・
送った。光たちは黙っていた。ラ・ムーに言葉を挟む者はいなかった。・・・
ロキが地上へ舞い降り人を斬った。それは、ブルーアイランドでの波動、つまり物質による波動が・・
ロキの意識の奥に残像として残っていたからであろう。ラ・ムーにはそれが消えている。ミルダがあ・・
の山で死んでいくのをラ・ムーは見ているだけで手助けができなかった。ラ・ムーの中には物質とい・・
う遙か過去の行動の元になった波動は跡形さえも残さずに浄化されている。・・・
ロキとラ・ムーは同時代を生きた。ムー帝国の最期の時に…。ロキだけにブルーアイランドの物質・・
的な波動が残っていたするならば、それは激しすぎる執念とでもいう欲望の欠片なのであろう。何に・・
すら消すことの叶わない岩のように固い欲望の化石だったのであろう。・・・
ロキが地上へ蘇った。それは、神に対するロキの挑戦なのだ。ロキは何かを企てようとしている。・・
ムーの時代には見られなかったロキの狂気が、今、時を経てロキに渦巻いているのだ。激しく堰を・・
切っていくのだ。・・・
そのような話を、ラ・ムーは懸命に光の中でした。ラ・ムーは光に抱かれたままだった。話しなが・・
ら夢見る心地に落ちていた。自らの熱さに大きく悶えた。ラ・ムーは溶け合った。無数の光たちと影・・
を持たずに結ばれた。深い恍惚の思いへ誘われた。・・・
ラ・ムーの話が途切れた。もう、光に言葉は必要なかった。光たちとの結びつきにラ・ムーの怒り・・
が遠くなりロキへの思いさえ消えていった。ラ・ムーは揺れ続けた。・・・
恍惚の後は、ラ・ムーが話を聞く側にまわった。先程よりも暖かい心地がラ・ムーを大きくくるん・・
だ。歓喜に叫びたかった。喜びが何度も何度もラ・ムーの中で破裂していった。・・・
そうして、ロキに対する結論は出た。ラ・ムーは頷いた。ラ・ムーにその意味を求めることは許さ・・
れていなかった。・・・
ラ・ムーは光たちに別れを惜しんだ。そして、静かに光から離れた。・・・
・・・
・・・
結局、川の名前は思い出せなかった。しかし、子供たちは今日も川原にいた。子供たちの顔に重た・・
い疲れの影が見える。思い思いに寝そべり空を見上げている。・・・
「アーア…」・・・
誰かが大きなため息をひとつ零す。それが、子供たちに流れていく。子供たちのため息が幾重にも・・
重なっていく。・・・
「アーア…」・・・
子供たちは疲れていた。連日のように呪いの黒森で開かれる宴…。更に、それの後片づけ…。誰も・・
がへとへとになっていた。黒森の狂気…。毒の匂い…。悲しいヴィゴルーの歌…。死の演技…。そし・・
て、群がる死体…。森に漂う死臭…。役人たちの罵声…。ロキへの恐怖…。子供たちはそれぞれに自・・
分を呪っていた。・・・
「何か、いいことないかな…」・・・
「ある訳ねーよなー…」・・・
「そうだな、いいことなんかねーよな…」・・・
そんな会話が聞かれる。思えば、いいことなどアールガルズに移ってから何ひとつとしてなかった。・・
楽しみなどない。喜びなどない。あるのは、呪いの黒森の宴に出る心の負担だけだった。・・・
「わたしたち、死ねないの…」・・・
「そうだね、おれたち、死ねないのかな…」・・・
当然、そんな思いに引き込まれていく。しかし、子供たちは死というものの理解を見失ってしまっ・・
ていた。ロキに斬られたショックで、その理解を遥か彼方へ捨て去ってしまっていた。更に、夜宴で・・
の奇妙な死の演技に、その意味すら忘却へと投げ飛ばしてしまっていた。・・・
「そんなこと、どうでもいいや…」・・・
「そうよ、そんなこと何になるの…」・・・
何に対しても投げやりになっていく。子供たちに、それぞれの思いなどどうでもよくなっていく。・・
ただ、時の流れに身を任せる。それだけだった。・・・
「泳がない…」・・・
クラーラが言った。ゲタンと共に立ち上がる。この二人は比較的元気だった。みんながバラバラに・・
ならないように必死の努力をしていた。・・・
「みんな、川に入ろう…」・・・
「おいでよ、気持ちいいぜ…」・・・
クラーラとゲタンが川に入る。水飛沫が日差しに照り返る。しかし、誰も立ち上がるものはいない。・・
雲の多い空を誰もが無表情で見上げているだけだ。・・・
「さあ泳ごう…」・・・
「さあ、みんな…」・・・
クラーラとゲタンの言葉を水の流れが素早くかき消した。クラーラが上げる水飛沫だけがゲタンに・・
は見えていた。・・・
・・・
・・・
「クラーラ…?」・・・
リュリュが水を汲みに川原へ下りた時だった。小さな乳房をあらわにした少女を見た。クラーラ・・
だった。リュリュは慌ててクラーラに寄った。・・・
「クラーラじゃないの…。ねっ、クラーラよね…」・・・
クラーラがリュリュを見ても何の反応の示さない。力ない目がリュリュを素通りしていく。・・・
「クラーラ…」・・・
リュリュはクラーラの側にまで近付いた。少し離れた岸辺で子供たちが寝そべっているのが見える。・・
みんな、そろっているんだ…。リュリュは笑顔を作る。しかし、それがうまく作れない。リュリュは・・
戸惑いに揺れた。悲しみが子供たちへ向いた。・・・
「どうしたのクラーラ…。こんなところで」・・・
クラーラはリュリュにそれほど驚いた様子もない。精気のない瞳が微かに揺れている。リュリュは・・
そんなクラーラの肩を抱いた。クラーラは痩せていた。・・・
「みんなもいるの…」・・・
何も言わずに、クラーラが寝そべっている仲間を指さした。どことなく態度がよそよそしい。ク・・
ラーラの揺れる瞳がリュリュを徐々に避けていく。・・・
「元気なの…。笛吹きのおっさんから、逃れられたの…」・・・
クラーラを哀れに思った。リュリュはクラーラの肩の手に力を入れた。異臭がクラーラから漏れる。・・
リュリュにはその匂いが分かる。魔界の匂いだ。・・・
「元気なわけないでしょう…」・・・
リュリュの手をクラーラが拒んだ。怒りの目がリュリュに向く。・・・
「元気なわけなんて、あるはずないないだろう…」・・・
川上で泳いでいたゲタンが戻ってきた。ゲタンもクラーラと同じ目をしている。それでもリュリュ・・
は、むかしのように笑顔で手を振ってみせた。笑顔がうまく作れないけど仕方なかった。・・・
「ゲタン…。久しぶり…」・・・
ゲタンはリュリュを見て見ぬ振りをした。怒りの目が空に向いていく。リュリュの胸が締め付けら・・
れた。クラーラとゲタンの目は間違いなくリュリュを責めていた。・・・
「リュリュねーさんは、いいよな…。おれたちと違って、どこへだって行けるから…」・・・
ゲタンが皮肉る。ゲタンはそんな子じゃなかった…。もっと明るい子だった…。リュリュは悲しく・・
なった。あの時、救ってやれなかった自分が辛い。自分が憎い。・・・
「そうよ、わたしたちを放って、さっさとあの森から消えてしまうんだもの…」・・・
泣きそうな顔でクラーラが続いた。リュリュは二人の心が既に自分より離れてしまっているのを・・
知った。無理な笑顔を止めた。自分が惨めだった。・・・
「クラーラ…。ゲタンも…。どうしたの…。いったい、どうしたの…」・・・
二人は以前よりも増して卑屈になっていた。呪いの黒森にいる頃より猜疑心が脹れていた。何が、・・
この子たちにあったのか…。あの頃よりも、辛い日々を過ごしているのだろうか…。リュリュは自分・・
に向いたクラーラやゲタンの怒りをしっかりと受け止めた。・・・
「クラーラ…」・・・
何があったのよ…。リュリュは、一瞬にクラーラの内側に入った。魔女の頃を思い出し妖しくク・・
ラーラの意識の中に潜った。・・・
「クラーラ…。今、幸せ?」・・・
直接、意識に流す。ううん…、ぜんぜん…。幸せって何? クラーラの悲しみが痛いほど見える。・・
意識の影が濃くなっている。・・・
「わたし、死にたい…」・・・
クラーラが声に出していた。それが、リュリュへの答えだった。・・・
「クラーラ…。あたしに付いておいで…。ゲタン…。待ってて、すぐ帰るから…」・・・
リュリュはクラーラを出た。そして、強引にクラーラを引っ張った。クラーラは抵抗しなかった。・・
あらわになっていた小さな胸を水に濡れた服で隠している。・・・
「早く戻ってこいよ…。今夜も仕事だぞ…」・・・
ゲタンの声が後ろに聞こえた。クラーラは振り返らなかった。リュリュの引く手におとなしく従っ・・
ていた。・・・
・・・
「かーさん…。カボチャ焼けた!」・・・
リュリュが大声で叫んだ。クラーラが戸惑いの瞳をリュリュに向けた。クラーラが少しずつ自分に・・
反応していく。それが、リュリュには分かる。・・・
「かーさん…。カボチャ焼けた!」・・・
クラーラを連れて畑に戻った。カボチャの焼ける香ばしい臭いがリュリュとクラーラの間を過ぎて・・
いく。その側でキリコが大きく笑っている。・・・
「クラーラ、食べる…」・・・
どちらでもいい…。そんな顔でクラーラがリュリュを見る。・・・
「食べろ。うまいぞ…」・・・
キリコが焼けたてのカボチャをひとつクラーラに渡した。白い湯気が勢いよく立ち上っている。・・・
「うまいぞ…」・・・
さあ、お食べ…。早く…。リュリュはもう一度クラーラの中に入った。そして、クラーラを急かし・・
た。クラーラにカボチャを食べて欲しかった。そのために、母と畑をしてるのだ。カボチャおいしい・・
よ…。おいしいよ…。おいしいよ…。・・・
「……」・・・
何も言わずに、クラーラがカボチャを手にした。珍しいものでも見るように、白い湯気が空へ昇る・・
のを見ている。・・・
「さあ、食べるのよ。おいしいから…」・・・
カボチャおいしいよ…。おいしいよ…。おいしいよ…。リュリュの矢のような催促に、クラーラが・・
それをゆっくりと口にする。・・・
「熱い…」・・・
微かに、小さな笑顔がクラーラに浮かんだ。フーフー…、ハフハフ…、クラーラの口からも白い湯・・
気が上がる。・・・
「熱い…」・・・
クラーラの横顔に笑顔が拡がっていく。それは、作った笑顔ではない。クラーラの心からの笑みだ。・・
リュリュにはそれが分かる。リュリュはゆっくりとクラーラを出た。・・・
「おいしい、わ…」・・・
カボチャは熱かった。しかし、クラーラはそれを頬張った。リュリュに小さな安堵が浮かぶ。ク・・
ラーラの口の動きを追う。・・・
「おいしい…」・・・
クラーラは食べる楽しみなど忘れてしまっているのだ。食べなくてもいいから何も食べない。ただ、・・
それだけなのだ。・・・
「おいしい…」・・・
だから、このカボチャはこの上なくクラーラには美味しいはずだ。食べることへの欲望をこのカボ・・
チャがクラーラに蘇らせていくのだ。・・・
「おいしいでしょう…」・・・
クラーラにとって、それは信じられないほど美味しいカボチャになるはずだ。リュリュはそう思っ・・
た。そう思いたかった。・・・
「どう、あたしの作ったカボチャ…。とびっきり美味しいでしょう…。ハハハハ…」・・・
リュリュに自然な笑みが戻る。クラーラに幼さが見える。・・・
「そうじゃ、腹一杯食え…」・・・
キリコも嬉しそうに笑う。キリコの持つ篭の中には、焼き立てのカボチャが山のように積まれてい・・
る。キリコがそれをクラーラに見せる。・・・
「どんどん、喰え、喰え…。ハハハハ…」・・・
クラーラが二つ目のカボチャを手にした。クラーラの笑顔が少しずつリュリュの方へ向いていった。・・
カボチャの白い湯気がそれを少しだけ邪魔していた。・・・
・・・
・・・
ラ・ムーが教会に戻った。ミルダは老人と共にラ・ムーを迎えた。・・・
「光の世界では、どのような…」・・・
ミルダがラ・ムーに性急に問うた。午後の日差しが強くラ・ムーに注ぐ。眠気を誘うような静かな・・
午後だ。・・・
「ホワイトアイランドでは、どのような…」・・・
ミルダはラ・ムーの横顔に疲れのような影を見た。心なしかその青い目も淀んでいるように思えた。・・
ラ・ムーに憔悴を感じる。・・・
「ご老人…。そして、ミルダ君…」・・・
老人は目を閉じて眠っているようだった。仕方なく、ラ・ムーの瞳がミルダに向く。・・・
「今回の呪いの黒森での出来事は、我々には信じられないほどの狂気が介入しています。激しい狂気・・
です」・・・
ラ・ムーが静かに始める。口調がどことなく重い。・・・
「その狂気は、歯車が狂っています。いや、もうその歯止めさえを外しています。このまま放置する・・
と、その狂気はとこへ行ってしまうか分かりません。狂気がどこまでも拡がってしまいます。私は不・・
安でなりません…。恐怖さえ感じます…」・・・
ラ・ムーのこめかみが微かに震えていた。ミルダはそれを見逃さなかった。ラ・ムーはやはり疲れ・・
切っている。・・・
「ロキです。その狂気の元はロキです。いや、アールガルズの鬼神ロキこそが、狂気そのものなので・・
す…」・・・
ロキ…。それはミルダも知っていた。アールガルズの街に遠目に見た。・・・
「ロキは私と同じ時代を生きました。あの、遙かなるムーの時代です…」・・・
ラ・ムーの表情に更なる重さが浮かぶ。眉間の皺が深くなっていく。そこには、ラ・ムーしか分か・・
らない時代を越えた何かがあるのだろうか…。ミルダはそう思った。・・・
「ミルダ君…。私は、この件についてホワイトアイランドへ戻りました。光の世界のの仲間たちに、・・
この状況を説明し対策を考えるために…」・・・
ラ・ムーは努めて冷静になるよう努力していた。声を必要以上に落としている。ラ・ムーは静かに・・
続けた。老人の軽い寝息が二人の間に過ぎる。・・・
「まず、ホワイトアイランドのことを、お話しましょう…」・・・
何かを言い淀んでいた。ミルダはキリコの言葉を思い出した。お前に師などいらない。己をもっと・・
信じることじゃ…。その言葉がミルダに揺れる。ラ・ムーへ対する何かがミルダの中に静かに芽生え・・
ていく。・・・
「ホワイトアイランドは、素晴らしい世界です。そう、光の世界です…」・・・
ミルダは不思議な気持ちのまま聞き耳を立てた。なぜか、ラ・ムーはミルダの思いを離れているよ・・
うな気がした。ラ・ムーの言うホワイトアイランドは、ミルダにとってまだまだ遠い彼方のものに思・・
えた。・・・
「ホワイトアイランドとは無限の知の集まりです…」・・・
それでも、ミルダはラ・ムーの話に引き込まれていった。午後の眠気はミルダには襲いかからな・・
かった。・・・
「地球の誕生と同じ時期に、それはでき上がったと言われています。人類といった、知的生物が生ま・・
れる前に…」・・・
ラ・ムーの瞳が遠くを向く。ミルダを更に遠ざかる。・・・
「そこに行くと、私たちは無限の安らぎと心の安定を得ることができます。それは、その無限の知の・・
お陰なのです…」・・・
やはり、ラ・ムーとの隔たりを思った。キリコの言葉が再びミルダの意識に浮かぶ。己をもっと信・・
じろ…。ミルダの思いもそれへ傾く。・・・
「我々は、元々、蒸気のようなものでした。それが、いつからか、意識を持ち自我を手に入れました。・・
そして、その存在を学ぶための旅に出たのです。その旅の出発点になるのがブルーアイランドです」・・・
ラ・ムーの声が更に低くなる。ミルダは目を閉じた。隣の老人にならった。・・・
「我々の世界の構造は何層にもなっています。物質の世界であり表面的な世界であるブルーアイラン・・
ド。そのまわりを、包むように揺れる幻想のグリーンアイランド。あるいは魔界と呼ばれる世界。そ・・
して、それらの深い奥にあるのがホワイトアイランドです。それらは、すべて我々の世界の一部なの・・
です。果てしない時の流れの中、永遠とも思われる時を越え、築き上がった素晴らしい我々のアイラ・・
ンドです。ブルーアイランドとグリーンアイランドのことは、ここではお話する必要はないでしょう。・・
ミルダ君、あなたはもうそれを知っています」・・・
ラ・ムーはここで一息つく。ミルダの不思議な心地が募っていく。瞼の裏に幾通りもの光が入り交・・
じっていく。・・・
「ミルダ君。何度も言いますが、ホワイトアイランドは光の世界です。ブルーアイランドを旅してグ・・
リーンアイランドを過ぎた者の個性が光となって輝いているのです。言い換えれば、その個々が放つ・・
光によってホワイトアイランドは形どられているのです…。無限の知とはその光たちの知です。遙か・・
なる太古から積み重なっていった個々たちの無限の叡知です。・・・
それは、面白いほどに個性に富んでいます。バラテティ豊かです。ホワイトアイランドの個々は、・・
その個性を十二分に発揮し自分の存在を余すことなく表現しています…」・・・
いつものラ・ムーとは少し違っていた。ラ・ムーはミルダや老人にではなく自らの中へ話しかけて・・
いるようだった。ミルダの理解への補足がない。・・・
「ホワイトアイランドの者は、ブルーアイランドやグリーンアイランドのように肉体を持ちません。・・
蒸気に覆われた光のような姿をしています。球状のような者もいれば、棒のように長い者もいます。・・
みんな好き勝手な姿をしています。その日によって形を変える者もいます…。ホワイトアイランドで・・
は、個々の意識がガラス越しに見えているようなものです。それぞれの個性は自分の存在を光の中に・・
常に晒け出しています。隠す必要がないからです。誰だって、無防備に…。おおっぴらに…」・・・
ミルダには理解できそうになかった。そんな話を、急に信じることなどできなかった。瞳の裏の光・・
がそれぞれに色を落とし遠ざかっていく。・・・
「その個性たちはひとつになって戯れます。個性が個性と溶け合うのです。多数の個性がひとつに融・・
合します。すべてがひとつになるといった素晴らしい経験をします…」・・・
ミルダは祖父の話を思い出した。ひとつになる…。それは、ラ・ムーの今の話とは少し異なる。理・・
解を超えた愛…。光は愛でひとつに結びつく…。ラ・ムーの話にその愛が見えてこない。・・・
「私は、その個性たちと数多く融合しました。そして、長く戯れました。ホワイトアイランドは知っ・・
ています。我々すべてのアイランドの、向かう未来を…」・・・
ラ・ムーの感情が少し高ぶっていくようだ。ミルダに届く声が微かに高くなる。・・・
「それは成長です。我々の果てしない成長です。未来は、その成長の向こうにあるのです。そうなの・・
です、我々はその成長へ向かっているのです…。輝ける未来へ歩んでいるのです。美しく力強く進ん・・
でいるのです。そして、その歩みは誰にも止めることなどできません。・・・
短い沈黙があった。ラ・ムーが高ぶった心を落ち着かせている。ミルダは目を開けた。沈黙を破っ・・
た後のラ・ムーの言葉に集中した。・・・
「ロキの行うことは、その聖なる道から外れてしまっていることでしょう。しかし、それが我々のア・・
イランドの未来への歩みであるならば、ロキの行っていることも正しい道となりうることでしょう…。・・
たとえ、それによってどんな犠牲が出ようとも…」・・・
心のどこかでそれをミルダは予想していたのかも知れない。ロキの道も正しい道となる…。やはり、・・
キリコの言ったことは正しかった。光の道に師などいらない…。師はすべての自然じゃ…。キリコの・・
顔が目に浮かぶ。ラ・ムーへの落胆がミルダを掠める。・・・
「私にできるのは、ロキという悪魔を、そのロキの個性から取り除くことです。ロキからその悪魔を・・
追い払うことです。そうすれば、これ以上不幸になる人たちは減っていくでしょう。私にできるのは、・・
そのことです。それが私の使命なのです…」・・・
つまり、ホワイトアイランドは何もしないのだ。何も手助けはしないのだ。ミルダはラ・ムーを正・・
面に見た。ラ・ムーの言葉が言い訳のように聞こえたのだ。・・・
「ブルーアイランドで人々が争い傷つけ合うのも、魔界で人々が苦しみ、のたうちまわるのも、すべ・・
て我々のアイランドの独特なる流れの一部なのです。創造主が与えた試練なのです。私はそう思いま・・
す。そして、我々はそれを乗り越え強くなる。美しく強い歩みを手に入れるのです…」・・・
ラ・ムーの青い瞳がミルダの視線を跳ね返す。ラ・ムーの気高さがミルダを押しつぶしていく。・・・
「悲しさを知らないと、本当の喜びは分からない。苦しさを知らないと、本当の安らぎは感じられな・・
い。ミルダ君…。今のブルーアイランドや魔界での出来事は意味を持っているのです…」・・・
ラ・ムーへの不信感が大きくなる。ラ・ムーの言うホワイトアイランドが彼方へ霞んでいく。ミル・・
ダは言葉を挟んだ。ラ・ムーの瞳に遠くの影が走る。・・・
「それは違う。ラ・ムー…」・・・
ラ・ムーが言葉を収める。ミルダを射る視線が鋭くなる。・・・
「喜びを知らなくても、本当の悲しみを知っている者はいます。安らぎを感じたことのない者が、本・・
当の苦しさを味わっています。わたしは、あなたの言っていることが分からない…」・・・
ミルダが熱くなっていく。胸の中に渦巻いている激しさが真っ直ぐにラ・ムーに向かう。それを・・・
ミルダは抑えることができない。・・・
「ラ・ムー。あなたは、人々の苦しみや悲しみが分かっていない。本当の苦しみや悲しみは創造主な・・
どとはまったく無関係なことだ。人々はそんなことで苦しんでいるのではない。悲しみを抱き続けて・・
いるのではない。そんなものは、ただの言い訳に過ぎない。試練だと…。それは苦しみを知らない者・・
の言葉だ。悲しみを持たない者の思いだ。それでは、何も変わらないじゃないか。ラ・ムー、あなた・・
の仕事はそれらを変えていくことではないのですか…。ホワイトアイランドとは、ただ遠くから高見・・
の見物をするところなのですか…」・・・
ミルダの興奮が弾けた。ミルダはラ・ムーへ突っかかった。憤怒がミルダを飛び出していく。・・・
「そうじゃないんだミルダ君…。苦しさや悲しみは大変重要な学びなのだ。それを乗り越えてこそ、・・
我々は存在するのです。私は、何も人々の苦しみや悲しみを黙って見ていろとは言っていない。我々・・
の仕事は、それを乗り越える手助けをすることにある。もがいている者たちに、救いの手を差し延べ・・
ることにある。苦しみや悲しみそのものを、ブルーアイランドや魔界からすべて無くすことではない・・
のです…」・・・
ラ・ムーの声も高くなる。ミルダがそれに返す。二人の緊張がぶつかり合う。・・・
「いや違う…。それらの悲しみや苦しみは乗り越えるためのものではない。それは現実なのだ。日々・・
の生活のすべてなのだ。人々は、その苦しみを乗り越えるために頑張っているのではない。それ日々・・
の生活なのだ…。決して学びじゃない…」・・・
ミルダの勢いがラ・ムーを上回っていく。ミルダは続けた。熱い思いをラ・ムーに迸らせた。・・・
「なぜ、あなたたちはその者たちを救ってやらないのだ。ホワイトアイランド…。それは無限の知の・・
集まりではないのか!・・・
なぜだ…。あなたたちホワイトアイランドの無限の知識をもってすればできないことないはずだ。・・
我々の世界に巣喰う狂気を一掃することができるはずだ。いや、少なくともそれに向かって立ち上が・・
るべきだ。・・・
なぜだ、なぜ、あなたたちは立ち上がらない。あなたたちは、そのホワイトアイランドでの無限の・・
知識を自分たちだけの楽しみのために蓄積しているだけなのか…。その素晴らしい知識は、知識を得・・
ることだけに使われるのか…。なぜ、もっと有効に使わない…。使おうとしないのだ…。それによっ・・
て、この世に争いがなくなり、人々の苦しみや悲しみが薄れていくかも知れない…」・・・
ミルダの頬から涙が零れる。その涙は、あの呪いの黒森で死んでいった村人たちへの涙であったの・・
かも知れない。魔界から抜けられない無数の物乞いを思ってのものだったのかも知れない。大粒の涙・・
が次々とミルダの頬をつたう。・・・
「ラ・ムー。わたしに少し時間を下さい。よく、考えてみます…」・・・
ミルダは涙をぬぐおうともせずラ・ムーの側を通りすぎた。震える足を引きずり高鳴る胸の疼きを・・
懸命に堪えて…。・・・
「それがいいでしょう…」・・・
ラ・ムーが低く呟いた。ラ・ムーの瞳からも大粒のものがひとつ垂れそうになっていた。・・・
・・・
・・・
ミルダは森へ向かった。老人がミルダの後を追ってきた。森にキリコの小屋があるという…。キリ・・
コが思念で構築したものらしい。ミルダと老人はその小屋へ飛んだ。・・・
「例えば、この世の中に、悲しみや苦しみがなくなったとしよう…。そうすればどうなる。すべての・・
ものが、幸せになれるだろうか…。争いもなくなり、人々は日々平和になれるだろうか…。そうじゃ・・
ない、そうじゃない…」・・・
キリコの小屋はあの森の小屋と同じ作りだった。老人がミルダに語りを始めた。ミルダはひとつし・・
かない椅子に座った。老人はキリコのベットに腰掛けた。・・・
「わしはそうは思わん…」・・・
小屋に風の音が聞こえてこなかった。森に夕凪が訪れているようだ。小屋は静かだった。葉擦れの・・
音すら小屋に入ってこない。・・・
「悲しみや苦しみが消え去っても、また、それに変わるものが現れる。そして、今度はそれが消えて・・
も次のものが現れる。そうして、我々はそういった感情から逃れることはない。言い換えれば、そう・・
いった感情を作ってしまうのじゃ…」・・・
老人の静かな口調に断固とした強い意思が感じられた。揺るぎない自信のようなものがミルダを圧・・
倒していく。ミルダは目を閉じた。老人の言葉と自分の思いを集中していく。・・・
「ミルダ。お前の言う通り、悲しみや苦しみは学びではない。わしもそう思う。それを乗り越えるこ・・
とが、喜びや幸せに繋がるとは限らんからのー。しかし、我々はそれを乗り越えていく。なぜじゃ…。・・
それは、悲しみの中に喜びがあり、苦しさの中に幸せがあるからなのじゃ…」・・・
分からない。ミルダは目を開けた。老人と目が合った。優しい目だった。・・・
「神は…。いや、神は訂正する…。我々の創造主は、すべて平等に我々を創った…」・・・
まだ分からない。老人の瞳の奥にその意味を探したがミルダには見えてはこない。・・・
「悲しみの中に、喜びがある…。苦しみの中に、幸せがある…」・・・
同じ言葉を、老人が二度言った。ミルダは首を捻った。老人が優しく微笑んだ。・・・
「闇の中では光がはっきりと見える。しかし、光の中に入ってしまえば、小さな光は見過ごしてしま・・
う。それが、どんなに意味深い光でも。それが、どんなに美しく輝いた光でも…」・・・
老人がミルダから目を逸らした。そして、そのまま窓際へ立った。・・・
「我々は光だ。しかし、その光は我々には見えない。我々の本当の核の部分じゃ。その光は見えない。・・
言い換えれば、我々の魂の光は深層意識の底の底に隠れているのじゃ。いや、我々が隠しているの・・
じゃ…。だから、光が見えてこない。光を見るには、その深層意識を刺激してやらなければならない・・
のじゃ…。つまり、我々の奥底にある魂の光に、その光に合う輝きの糧を与えてやるのじゃ…。そう・・
しないと、我々の中に光が灯らない…」・・・
窓の外が暗くなり始めていた。ミルダは老人の背を見つめた。あの頃を思い出す。キリコの術に、・・
小屋に寝泊まりしていた頃を…。老人の背がキリコのそれに似ている。・・・
「長い冬を越えてこそ、暖かい春がある。そんなことない。厳しい冬を知るから、春が輝く。それも・・
違う。そんなこと言う積もりはない…。ラ・ムーのようにそれが学びだと思わない。学びなど、喉元・・
過ぎれば何とやらじゃ…。そんなもの、遥かなる時の中でいつかは煙と消えていく…」・・・
少し間が空いた。風の音が微かに聞こえた。森の凪が終わったらしい。・・・
「春には芽が出る。嬉しい季節じゃ…。しかし、その芽の元の力となるのが根じゃ。目に見える根だ・・
けが根じゃない。その者の生命の根じゃ。根は冬に生まれる。そして、根は冬に育つのじゃ…。これ・・
こそ、我々にとって最も嬉しい季節なのじゃ…」・・・
老人が振り向いた。笑っていた。皺に顔を埋めているようだった。ミルダを優しい目で見る。・・・
「悲しみの中にこそ、その光を灯す火種がある。苦しみの中にこそ、その光に輝きを与える火元があ・・
る。悲しみの中に火が灯る。苦しみに火が燃え始める。冬に我々の生命の根が生まれるのじゃ…。闇・・
にしか見えない光じゃ…。闇の中にこそ見えてくる光じゃ…。それが、我々の最も重要なる光なの・・
じゃ…」・・・
少し分かり始めていた。老人の言葉を自らと重ねていった。闇の中に見た光…。黒く尖った山をミ・・
ルダは思った。・・・
「闇の中にしか見えない光じゃ。闇を知ることなく、光を浴びた幸福な者たちには見えない光じゃ…。・・
自然の摂理。創造主の偉大なる創造じゃ…。そうは思わんか…。創造主はすべて平等にと、我々を・・
創ったのじゃ…」・・・
老人がゆっくりとミルダの前を過ぎていく。キリコの小屋を出ようとしている。・・・
「その光は、成長の火じゃ…。変化の火じゃ…。希望の光じゃ…。激しく激しく燃え盛っていく光・・
じゃ…。。闇の中に貴重な輝きを果てしなく大きくしていく。我々の本当の光なのじゃ…。我々の本・・
当の姿なのじゃ…。魂がその光を抱いていく。その光が我々の深層意識に見え始める。闇を越えてい・・
く限りない力を、その光が我々に授けてくれる。これを、喜びと言わずに何と言う。これこそが、・・
我々の未来への第一歩じゃ…。わしはそう思う。いや、そう思って生きてきた…」・・・
ドアに手を掛けた老人をミルダが制した。ひとつだけ老人に質問があった。・・・
「ホワイトアイランドの光は、闇を知っているのですか…」・・・
老人はミルダを微笑みでゆるりと振り返った。やはり、いい笑顔だった。・・・
「ホワイトアイランドへの光も闇から灯っているはずじゃ…。なぜならば、闇のないところに光は絶・・
対に生まれない…」・・・
老人は小屋を出た。風が小屋に流れ込んだ。ミルダも外へ出た。風に誘われた。・・・
「ヒュー!」・・・
その時だった。森がミルダを呼んだ。来い…。そんな風の呼びかけだった。ミルダは風になった。・・
どこからかキノコの匂いがした。・・・
(5)・・・
・・・
空は雨なのだろうか、地に一滴二滴と水滴が落ちる。森は深かった。雨さえ容易に受け入れない。・・
すべてのものの侵入を森は拒んでいる。日はとうに暮れていた。闇の森に静けさがどこまでも不気味・・
に漂っていた。・・・
一人の男が雨粒の音を聞いていた。それは、リズムよく男の耳に届く。男はガルボという若い農夫・・
だった。ガルボは苦悩に満ちた表情を歪め悲しそうに笑っていた。森の重い空気がガルボの全身を覆・・
い、深い闇がガルボを狂気へと誘う。・・・
ガルボは既に歩く気力さえ失っていた。周りには誰一人いない。雨音以外に何の気配すら感じない。・・
風すらもガルボを遠く過ぎていく。気が狂いそうだった。森の闇が、ガルボを更に深い闇へと引き込・・
もうとしていた。・・・
尻の下の湿った苔が、冷たさをガルボの胸にまで運んでくる。ガルボに黒い恐怖が増していく。背・・
に冷たい震えが起こる。・・・
「ここはどこなんだ…」・・・
思考を時折働かすが、それはすぐにガルボから消えていった。ガルボは地の苔を一掴み手のひらへ・・
乗せた。ヒヤリとした手応えがそれに乗る。・・・
「ウワー!」・・・
一気に、恐怖がガルボの中を駆けた。手のひらの苔が蠢いたのだ。土色に溶けた濃い緑がどろどろ・・
と手のひらを這い出していく。・・・
「助けてくれー!」・・・
ガルボは叫んだ。手のひらの苔を懸命に払う。しかし、苔が手に根を生やしていく。苔の冷たさが・・
ガルボの皮膚を過ぎ、骨にまで届く。ガルボは何度も何度もそれを払った。苔が手にこびり付きどう・・
しても剥がれない。・・・
「誰か、助けてくれー! おれの脳味噌が流れ出している!」・・・
そのうちに、苔がゆっくりと手のひらから流れ出した。ガルボの手のひらを、濃い緑色をした苔が・・
舐めるように滑る。地面へと粘りのある液体と共に落ちていく。それが、ガルボには自らの脳味噌に・・
思えた。脳味噌は緑色をしている…。むかしむかし、そう母に聞いたことがある。・・・
「脳味噌が流れていくー! 助けてくれー!」・・・
ガルボはそのまま気を失った。ガルボの額に雨粒が次々に落ちた。・・・
・・・
・・・
木の影から女がガルボを見ていた。女は知っていた。男が気を失うことを…。・・・
「誰だって、ここに来ると狂ってしまうのよ。フフフ…」・・・
女は笑った。真っ白い歯が闇とまったく似合っていない。女は男に近づいた。男の顔は恐怖でひき・・
つっていた。・・・
「ここは、呪われた者たちが最後に行き着くところ…」・・・
女の笑いは続いた。低く女の声が森に木霊する。・・・
「そうよ、ここは狂気の森よ。そうなのよ、みんな、みんな、狂っていく…。そう、誰だって狂って・・
いくの…」・・・
女は男の頬を撫でた。女の笑みは醜い笑いだった。頬が歪み口元がだらしなく緩む。女は男を離れ・・
た。それは、自分の求めるものではなかった。・・・
「それより、あの子を返して。私のあの子を返して…」・・・
女は歩いた。歪んだ笑みをそのままに静けさの森を歩いた。・・・
・・・
・・・
ガルボが気が付いた。雨の冷たさがガルボを揺り起こした。幾分、恐怖が遠ざかっているようだっ・・
た。手のひらを見たが、緑の苔は消え去っていた。ガルボに少しの冷静さが戻る。・・・
「ここは、どこだ…」・・・
ガルボは立ち上がった。重い足を引きずる。やはり、風はなかった。葉擦れの音すら聞こえない。・・
森は依然静寂の中にある。・・・
「誰かいないのか…」・・・
ガルボは動くものを探した。生きているものを探した。ここには、必ず誰かいるはずだ。おれ一人・・
のはずがない…。ガルボは、沸き上がる孤独を無理に自らの懐へ押し込め、深い森を歩き回った。重・・
い身体が恨めしい。・・・
「誰かいないのか…」・・・
そんなガルボに一人の女が近づいた。ガルボがこの森で始めて出会った動くものだった。女は笑っ・・
ていた。薄汚れた髪が女の頬にへばりついている。小柄で痩せこけた女だ。歯だけが嫌に白い。女が・・
ガルボによる。何か一人呟いている。・・・
「あの子を返して…。私のあの子を返して…」・・・
女がガルボの肘を掴んだ。凄い力だった。ガルボがぐいぐいと引っ張られた。女は狂っていた。ガ・・
ルボにその狂気が届く。・・・
「あの子を返して…。私のあの子を返して…」・・・
女が同じ言葉を繰り返した。目に光が見えない。よく見ると、まだ若い女だ。醜く笑った頬に小さ・・
なえくぼが見える。・・・
「あの子を返して…。私のあの子を返して…」・・・
ガルボは女を振りきった。自分まで再び狂いそうだった。・・・
「ガルボ、ここにいたのか…」・・・
振り向いたガルボに自分たちの村の連中がこちらへ歩いてくるのが見えた。ガルボはそれへと全力・・
で走った。・・・
女の呟きがガルボの背に聞こえ続けていた。・・・
「あの子を返して…。私のあの子を返して…」・・・
・・・
・・・
女は戸惑っていた。ここ最近、どんどんこの森へ人々が流れてくる。それも、おびただしいほどの・・
数が…。どの顔も悲しみの表情だった。女にはその訳が分からなかった。女の戸惑いは日に日に大き・・
くなっていた。・・・
「フフフフ…」・・・
薄笑いを続いていたが、それは女の日常の姿だった。女はこのようにして長くこの森に暮らしてき・・
た。森がまだ少しは明るかった頃からだ。女にその頃のことが浮かぶ。そう、この森もむかしはもう・・
少しは明るかったのよ…。女は森へ流れてくる人たちへ歩いた。・・・
「あの子を返して…。私のあの子を返して…」・・・
女の唯一の思い出だった。女はなくした娘を探し求めていた。今は、名前すら覚えていない。顔も・・
思い浮かばない。・・・
「あの子を返して…」・・・
女はずっとただ一人で過ごしてきた。言葉も失い思考力も衰退していった。この森には今まで誰一・・
人として寄りつかなかったのだ。女の生活に支障を来すことなどなかった。・・・
「フフフフ…」・・・
しかし、最近になってどんどん人が来る。もしや、その中にあの娘もいるかも…。女は探した。大・・
勢の人の中になくしたものを懸命に探した。・・・
「あの子を返して…。私のあの子を返して…」・・・
女に微かな期待が芽生えていた。あの娘がいるかも…。女は次々と新たに森へ来る者へ近づいた。・・
女の生活に変化が生まれていた。・・・
「あの子を返して…。私のあの子を返して…」・・・
・・・
・・・
「目覚めれば、別世界…」・・・
その言葉に騙された新しい世界への旅人たちは、目覚めた別世界を、地獄の森と名付けていた。あ・・
の狂った女の住む森だ。ガルボが村の連中と再会した森だ。それは、誰からともなく言い出した名・・
だった。・・・
地獄の森は、一日中暗く太陽の光は落ちてこない。自らの位置を争う木々の葉から微かに漏れる薄・・
明かりだけが頼りだった。ここへ到着した人々の気力は徐々に失せていき、気怠い脱力感だけが森に・・
漂うこととなっていった。・・・
そんな時、一人の男が変なことを言いだした。・・・
「おれ、地上へ戻ってきた。残してきた娘に会ってきた…」・・・
男の言ったことは地獄の森の者たちに一瞬にして広まった。ここに来たすべての者が元の暮らしに・・
戻りたがっていた。辛くても村へ帰りたがっていた。猛烈に地上への未練を持っていた。・・・
その男は、更に言った。みんな男の言葉を聞いた。・・・
「娘には、すぐに会いにいけた。強く、強く、娘のことを思っていたら、身体が軽くなり、宙に浮い・・
たようになった。そして、気がついたら自分の家に戻っていた。夢かと思ったが、地獄の森の自分と・・
どちらが夢か分からないので、その考えは止めた。しかし、娘の声はすぐ側で聞けた。その息遣いも・・
肌に感じた。娘に声を掛けようと近づいた。娘の名を呼んだ。聞こえないのか、もう一度呼んだ。そ・・
れでも届かない。おれは何度も呼んだ。悲しくなった。そうしたら、娘は、どういう訳か泣きだした。・・
おれの名を呼び急に泣きだしたんだ。おれは、悲しくてやり切れなくなった。その場にいられなくな・・
り逃げだしてきた。娘の泣き声を背中に聞き、何も考えず必死で逃げてきた。涙が止まらなかった。・・
悲しくて、悲しくて…」・・・
その話は、地獄の森の者たちの未練に火を付けた。悲しくてもいい、辛くてもいい…。もう一度、・・
残してきた者たちに会いたい。・・・
「おれも行く…」・・・
「私も戻る…」・・・
人々は男が言ったように残した者への思いを燃え上がらせた。未練を激しく弾かせた。・・・
「娘に会いたい…」・・・
「あの人に会いたい…」・・・
人々は、入れかわり、立ちかわり地上へと戻っていった。男のように、残した者のことを強く強く・・
心に思い浮かべた。それぞれに身体を軽くしていった。・・・
残していった者は幸せではなかった。今まで通り、辛く苦しい日々を過ごしていた。その上に、愛・・
する者を失った深い悲しみまで背中に背負ってしまっていた。地獄の森の者たちは一人残らず悔恨の・・
涙に暮れた。・・・
「なんてバカだったんだ…」・・・
「わたしたちは騙されたのよ…」・・・
毎日を呪う日々が人々に始まった。自分たちを呪う日々が地獄の森に渦巻いた。ほとんどの者が涙・・
との日々を暮らすこととなっていた。・・・
「バカだったんだ…」・・・
「どうしようもない、バカだったのよ…」・・・
ガルボも地上に降り立った。やはり、男の話に心が動いた。ガルボには残していった者はいなかっ・・
たが、大切な畑があった。それが心配だった。・・・
自分が暮らした村のはずれにガルボは立った。久しぶりに触れる地上の風に思い切り身を晒そうと・・
した。しかし、無情にも、その風はガルボの意識を音も立てずに通りすぎた。ガルボの幻を音もなく・・
すり抜けていった。・・・
おれは、風にも相手にされないのか…。悲しかった。地上への未練が激しくガルボを襲った。己を・・
呪うことの意味が深く理解できた。ガルボは村の方へと進んだ。・・・
「おれは本当にバカだった…」・・・
村のはずれの林が見えた。それは、自分のいた頃とまったく変わりはなかった。ガルボは少し安心・・
した。しかし、もう、どうでもいいことだった。・・・
「森へ進め…」・・・
「森がおれたちを解放してくれる…」・・・
その林から、葉擦れの騒ついた音に混じって低くこもったような人の声が漏れてきた。草の上から・・
地を踏む音がガルボの方へと迫ってきた。・・・
「そうさ、森へ進むのだ…」・・・
「森にあの天使が待っている…」・・・
それは、自分たちが歌った歌と同じだった。ガルボは近くの木に登った。木々の間から遠くの枝が・・
不規則に動くのが見えた。真っ黒なカラスが何羽も何羽も茂みから飛び去っていく。・・・
「森へ向かえ…」・・・
「森は別世界への入口だ…」・・・
地を踏む音が幾重にも重なっていた。かなりの人数だった。喧騒が林を揺さぶる。・・・
「森へ進め…」・・・
「森に天使が待っている…」・・・
ガルボの脳裏に、あの時の光景が浮かび上がる。みんなで村を出た…。この人たちも、あの呪いの・・
黒森に行く…。ガルボが我に帰った。木から飛び降りた。・・・
「やめろー!」・・・
ガルボは叫んだ。これ以上、騙される者があってはならない。ガルボは必死で叫んだ。・・・
「騙されているんだ! お前たちは、騙されているんだ!」・・・
ガルボの叫びは届かなかった。行列が林を抜けていく。ガルボの意識に狂気が流れてくる。森へ向・・
かう人たちの狂った息づかいが聞こえてくる。自分たちと同じだった。林を抜けた先があの呪いの黒・・
森なのだ。・・・
「行くな! あの森へは行くな! 行くんじゃない! あそこは地獄だ!」・・・
行進はガルボをまったく無視して進んだ。ガルボの叫びに気がつく者などいなかった。諦めがガル・・
ボに浮かび始めていた。・・・
「行くな! あの森へは行くな!」・・・
ガルボは叫び続けた。誰でもいい、叫びを受け止めて欲しかった。これ以上騙される者があってな・・
らない。ガルボの偽らざる思いだった。・・・
・・・
・・・
「おじさん…」・・・
諦めがガルボに大きくなっていた時だった。それが小さくガルボに聞こえた。・・・
「おじさん、いったいどうしたの?」・・・
ガルボをを認める者が一人だけいたのだ。ガルボはその声に向いた。笑顔を無理に作った。・・・
「おじさんも、あの森へ行くの?」・・・
それは、まだ幼い子供だった。その男の子は行進の最後尾を歩いていた。無邪気な顔が日射しに信・・
じられないほど輝いていた。その子は笑っていた。ガルボのような無理な笑みではなかった。・・・
「君は、おじさんが見えるの?」・・・
ガルボは聞いてみた。知りたいことだった。一人でもいい。自分の姿を認めて欲しい。・・・
「見えない…。でも、そこにいるのは分かるよ…」・・・
やはり…。少し落胆した。無理に作った笑顔を引っ込めた。・・・
「おじさん…。死んだの?」・・・
この時、ガルボは始めて自分は死んだんだと実感した。ガルボに苦笑が自然と昇った。無理な笑み・・
ではなかった。・・・
「そうだよ…。おじさんは、死んだんだよ」・・・
不思議と、悲しみも虚しさもなかった。自分は死んだんだ。ただ、それだけだった。・・・
「おじさん…、名前は…」・・・
悪びれずに、その子は、その子には見えないはずのガルボに尋ねた。ガルボ…。そう答えた。忘れ・・
そうになっていた自分の名だった。・・・
「ぼくは、エズラ…。やっぱ、見えない…。おじさんが、見えないや…」・・・
エズラは何やら楽しそうだった。どこか遠くへピクニックでも行くかのように足取りがやけに軽や・・
かだった。・・・
「みんな、どこへ行くの…」・・・
分かってはいたが、ガルボはそれを聞かずにいられなかった。・・・
「森へ行くんだよ…。天使がみんなを誘ったんだって…。その森にはいいことがあるんだって…。も・・
う辛いことからおさらばだって…」・・・
エズラの笑みが更に輝いた。幼さが真っ直ぐに前方の森へ向かっていた。・・・
・・・
・・・
「とうちゃん…。ちょっと待って」・・・
エズラが前を進む父親を呼んだ。エズラの父親が振り返る。自然と弛んでいく表情を無理に硬く重・・
くしているような複雑な面だ。・・・
「ぼくに、霊が降りてきたの…」・・・
父親は目に怒りを一瞬に見せた。どうでもいいことなのだ。今更エズラに霊が降りようと、自分は・・
あの森へ行くのだ…。そんな表情がエズラを向く。・・・
「ねえ、ぼくに霊が降りたんだ…」・・・
一緒に行くのを拒んだ母親に似たのだろう…。我が子ながら鬱陶しい…。そんな思いがエズラの父・・
親に見えた。父親の意識の呟きがガルボには聞こえた。・・・
「とうちゃんてば…。聞いてくれよ…。あの森へ行ってはいけないないんだよ…」・・・
エズラは父親に訴えた。エズラの言葉で精一杯訴えた。それは、ガルボがエズラに頼みこんだこと・・
だった。・・・
「バカなことを言うな…。お前は嫌だったら、母さんのところへ帰るがいい…」・・・
やっぱり、家に置いてくればよかった…。後悔が、父親の脳裏を過ぎていく。・・・
「本当だよ! 村長の娘に降りた霊を信じて、このぼくに、降りてきた霊を信じないのかよー! ね・・
え、とうちゃんてば!」・・・
父親はもう聞いていなかった。怒って先に進んでいく。エズラの叫びがむなしく響く。・・・
「待ってください…」・・・
仕方なかった。ガルボはエズラの中に入った。エズラの肉体を借りることにしたのだ。ガルボはエ・・
ズラの手でエズラの父親の肩を叩いた。・・・
「あの森へ、行ってはいけません…。あの透き通った声の主は、天使なんかじゃない、魔女なんだ…。・・
あなたたちは、騙されているんです…」・・・
ガルボはエズラの肉体から大きく叫んだ。その声に行列が止まった。・・・
「だめだ! あの森へ行ってはいけない!」・・・
エズラが野太い声で唸っている…。村長の娘に起こったことと同じだ…。そんな呟きと共に、エズ・・
ラの周りに輪ができる。・・・
「あの森は、地獄の入口です。そう、地獄への旅立ちの場所です。そして、あの森は、狂気の森です。・・
呪われた森なのです。あなたたちは騙されている…。目覚めてください!」・・・
ガルボは続けた。言葉を切らずに一心に訴えた。エズラの身体にガルボの興奮も乗り移っていた。・・
エズラが手を上げ、肩を怒らせ頭を振る。それは、子供の仕種としては滑稽なくらい緊迫した動き・・
だった。・・・
「おれたちの村の者は、あの森で死んだ。宴の中、狂ったように騒いだ後に死んだ。今、思うと、夢・・
のような気がする。しかし、おれたちは死んだんだ…。そして、今、地獄にいるんだ。今も、暗い森・・
に住んでいます。そこは、何もありません…。ただ、悲しみと悔恨の情だけが漂っています。それは・・
地獄そのものです。目を覚ましてください! 生きていくことの素晴らしさを、思い起こしてくださ・・
い! 辛くたって、苦しくたって、生きていくのです! ・・・
おれは騙されて、今、地獄にいます。後悔しています。なぜ、あんなに大切な生命を捨ててしまっ・・
たのか。なぜ、日々の苦しさ辛さに、もっと、もっと、勇気を持って立ち向かわなかったのか…。あ・・
れは、天使なんかじゃありません。魔女です。あの魔女は言ったでしょう。死を恐れてはいけません・・
と…。それは、その通りかも知れません。しかし、死を望んではいけないのです。それは、神に逆ら・・
うことなのです! 自らを裏切ることなのです!・・・
だから、おれは地獄にいるのです。恐ろしいところです地獄は。真っ暗な闇に包まれた、呪われた・・
世界です。あなたたちは目覚めるのです! 死を望まないで、精一杯生きてください! そう、精一・・
杯生きて下さい!」・・・
そこまでだった。エズラの身体が痙攣を起こした。ガルボはエズラから離れた。エズラはしばらく・・
震えていたが、震えが止まるとしっかりと目を開けた。・・・
「何があったの…」・・・
夢から覚めたような涼しげなエズラの顔を村の人たちが一人残らず覗き込んでいた。その時、ガル・・
ボの意識が遠くなっていった。・・・
「何かあったの…」・・・
エズラの惚けた顔がガルボに見えた。ガルボはそのまま軽くなった。地獄の森への風がガルボを強・・
引に誘っていた。・・・
・・・
・・・
遠くなった意識が何かに無理矢理引きずられた。ガルボは我に返った。エズラもあの人々たちも見・・
えない。ガルボは周りを見渡した。・・・
「地獄の森とやらに案内してもらおう…」・・・
再び意識が乱れた。真っ黒い恐怖がじわじわとガルボに昇る。・・・
「さあ…」・・・
金髪が靡いていた。不思議だった。自分は風にすら相手されないのに目の前の男は自分を受けてい・・
る。男の青い瞳が美しい。どこまでも透き通っていくようだ。・・・
「はい…」・・・
ガルボは男に跪いていた。今の自分を救ってくれるのは、この男かも知れない…。ガルボは男に神・・
を見ていた。・・・
「立て…」・・・
言われた通りにした。男に逆らうことなど思いも寄らなかった。ガルボは男の後に従った。・・・
「神よ、我を救い賜え…」・・・
ガルボに風が吹いた。それは、金髪の男が創った風だった。ガルボに涙が溢れた。このまま神に抱・・
かれる。ガルボはそう思っていた。・・・
「あー、神よ、我を救い賜え…」・・・
ガルボは気を失った。風がいつもより激しく感じた。・・・
・・・
・・・
「勝手にしろ…」・・・
結局、残ったのは半分もいなかった。呪いの黒森への行列は二つに割れてしまっていた。・・・
「おれたちだけで、行こう…」・・・
エズラは父親の膝の上にいた。父親に優しい目が戻っている。・・・
「エズラ、お前は村へ帰れ。いいな、村へ帰れ。そして、母さんを大切にするんだよ…。わかったね・・
エズラ…」・・・
悲しみがエズラを襲った。霊なんかが降りてこなければよかったのに…。エズラは父との別れに涙・・
を堪えた。・・・
「エズラ…。村へお帰り…。母さんを大事に…」・・・
残りの行列が進み出す。エズラ一人を残して遠くに見える黒く尖った山を目指していく。・・・
「とうちゃんのバカヤロー!」・・・
エズラの悲しい叫びが行列の最後尾にまで届いていった。・・・
「とうちゃんのバカヤロー!」・・・
エズラは走った。来た道をひたすら村へと走った。その走りの早さに、あの霊が再び降りてくるこ・・
となどなかった。・・・
「バカヤロー!」・・・
(6)・・・
・・・
「ウォー! 神よ…。ロキ様!」・・・
「我等を、救いたまえ…」・・・
「ロキ様…。我々に最強の剣を…」・・・
物乞いたちが声を限りに叫ぶ。混乱と狂気がアールガルズに木霊する。人々の悲鳴が魔界の風にど・・
こまでも運ばれていく。・・・
「ロキ様…。こちらへも…」・・・
「神よ…。我々に救いを…」・・・
「最強の剣を、こちらへも…」・・・
物乞いたちは神の姿を探す。鬼神ロキの姿を懸命に探す。我先にと、魔界への死へと向かう。ロキ・・
の剣を追う。・・・
「死ね! 死んでしまえ!」・・・
ロキは物乞いたちを斬りまくっていた。自らの中にたぎる熱きものがロキを急き立てていた。ロキ・・
は最強の剣を降り続けた。血に飢えているロキの剣が幻想の血に少しだけ思いを遂げていく。・・・
「死ね! 我の手にかかれ死ね!」・・・
ロキは地獄の森を見てきた。ガルボという農夫の案内に闇を飛んだ。すべて、満足いくものだった。・・
夜宴で自ら死を求めた者たちは、偽りの希望と見せかけの未来をしっかりと掴んでいた。魔界にない・・
波長を持ち闇の森に揺れ続けていた。ロキの思いの魔界と地上に掛かる橋のたもとで、哀れなる者た・・
ちはその存在の醜さに身を悶えさせていた。・・・
「死ね! 我の手にかかれ死ね!」・・・
新しい空間ができ上がっていったのだ。無知なる者たちの闇の意識が、彼らの地獄の森を創造して・・
いったのだ。彼らの歪んだ思念がひとつに結びつき闇に形を整えていったのだ。ロキはその森でも哀・・
れなる者たちを斬った。地獄の森に落ちた者たちに、更なる恐怖と狂気をばらまいた。・・・
地獄の森は闇に相応しい森だった。いずれ、あの森へアールガルズの物乞いたちも落としてやる。・・
そんな思いつきにもロキは満足だった。・・・
「ウオー! 死ねー!」・・・
ロキの剣がしなる。物乞いたちの胴を斬り裂き頭を落としていく。・・・
今も、地獄の森へたどり着く者は後を絶たない。形ができたのだ。道ができたのだ。当然のことだ。・・
自らのシナリオだ。間違いはない。・・・
それは、新しい肥溜めだ。はき溜めだ。汚れ醜い者たちが、無知なる者をどんどんと引き付けてい・・
く。希望という偽りの光に寄り添っていく。これで、魔界へ流れ込む者たちも減っていく。旅立ちの・・
彼らは希望を胸に抱いている。・・・
死を越えた無知なる人間どもの堅固なる道だ。地獄の森は闇だ。闇の重さにそれらの者たちは沈ん・・
でいく。そして、偽りの希望さえも捨てていく。それぞれの存在を闇の底へと落としていく。地獄の・・
森が本当の地獄となる。・・・
「ウォー! 神よ…。ロキ様!」・・・
「我等を、救い賜え…」・・・
「最強の剣で、救い賜え…」・・・
物乞いが後を絶たない。そうだ、救ってやる…。そのうちにお前たちも地獄の森へと誘ってやる…。・・
ロキはいつもにも増して物乞いたちを斬りまくった。最強の剣が暴れまくった。・・・
「ウォー! 神よ…。ロキ様!」・・・
「我等を、救いたまえ…」・・・
「ロキ様…。我々に最強の剣を…」・・・
・・・
・・・
醜い老婆を袈裟に落とした時だった。ロキの意識に何かが流れ込んだ。物乞いたちではない。気配・・
に鋭さを感じる。・・・
「待て!」・・・
皮膚を直接突き刺すような殺気だった。ロキに小さな緊張が走る。ロキは物乞いたちを素早く離れ・・
た。気配の方へ跳んだ。・・・
「誰だ…」・・・
ロキは気配に迫った。やはり、激しい殺気を感じる。物乞いたちの血を吸った最強の剣をじわりと・・
上げる。殺気が更に近くなる。・・・
「鬼神ロキ…」・・・
それは、風の中から聞こえた。殺気は風に紛れていた。・・・
「狂気を収めろ」・・・
風のような意識だった。一瞬に、今までの殺気が消え去り、鋭さがどこかへ失せていく。騒ぐ物乞・・
いの中に気配が風と共に揺れていく。・・・
「何か用か…」・・・
ロキが振り返った。風が吹いた。いや、風に乗る男がロキに見えた。・・・
「ラ・ムーの手の者か…」・・・
風に返答はなかった。ロキは飛んだ。風を瞬時に掴んだ。・・・
・・・
・・・
「ウッ!」・・・
ミルダは必死だった。風を創り、意識をその風に隠した。ロキに対して考え抜いた奇策だった。ミ・・
ルダは自らの意識を二つに切り離していた。揺れる意識でロキを惑わし、無の意識でロキに攻め入る。・・
いや、ロキの内側へ滑る。ミルダは何とかしてロキの内側へ入り込もうとしていた。・・・
それは、森と戯れてから知ったことだった。老人の話の後、ミルダは風になった。何もかも忘れて・・
自然の一部に溶け合った。その時、もう一人の自分に出会った。もう一人の自分が無意識に風になっ・・
た自分の姿を見ていた。ミルダは感じた。風になった自分は幼子だった。そして、風を見る自分はそ・・
のまた更なる幼子だった。・・・
そして、森がその答えをくれた。それは、森が風と戯れるのと同じだった。森は風を創る。風は・・
木々の思いを森に流す。そこには、時も空間も隔たりない。森と木々の触れ合いだけがある。木は幾・・
つもの思いを森に流す。風が森のその思いを受け取っていく。それらはゆっくりと溶け合っていく。・・
それぞれの思いが風に舞うのだ。・・・
人も、風と遊び、木々の思いと戯れろ…。人々が自らの中の幼子と戯れるのと同じだ…。森は風の・・
親だ…。そして、風は木々たちの子だ…。森と溶け合ったミルダはそのことを風に聞いた。風のミル・・
ダの思いは、森の思いからそう遠くなかった。・・・
ミルダは、ロキを相手に森での思いを再現していたのだ。風を創り意識を風に隠す。幼子の揺れで・・
ロキを誘い、そして、更なる幼さの白さでロキの中に入る。ミルダは風の思いに自らを乗せてロキに・・
向かっていたのだ。ミルダの魂の戦いだった。・・・
「ウッ!」・・・
そんな時に、ロキが飛んだ。まさか…。ミルダは焦った。ロキは風に隠した無の意識の方へと飛ん・・
だ。恐ろしいほど冷静なロキだった。ミルダはロキに掴まれた。・・・
「ウワー!」・・・
恐怖が瞬時に迫る。滝がそれへと流れ落ちるようにミルダの風に降りかかる。ミルダの意識が混乱・・
する。ミルダの風が渦を巻いていく。ロキに狂気が見える。意識がそれに引き込まれていく。・・・
「ラ・ムーの手の者か…」・・・
風がミルダより遠くなる。ロキがミルダを思うままに破壊していく。薄れる意識にミルダは闇を見・・
た。深く青いい闇だ。・・・
「ウオー! 悪魔よ!」・・・
闇がミルダを包み込む。ロキの狂気がミルダに突き刺さる。全身が鋭く切り刻まれていく。・・・
「ウオー!」・・・
激痛にミルダは闇にもがくだけだった。ロキへの恐れがミルダを激しく貫いていく。・・・
「ハハハハ…。ラ・ムーもやきが回ったか、この様な者を、このロキに…」・・・
風が消えていく。ロキの攻めにミルダが消えていく。ロキへの抵抗が思い付かない。何もできない。・・
ミルダの風が形を変える。ミルダの中に風が鋭く駆け抜けていく。切り刻まれていくミルダの意識に、・・
風が嵐となって激しく吹き荒ぶ。・・・
「ウオー!」・・・
ミルダはもがいた。鬼神の狂気がミルダを掴んで離さない。・・・
「ウオー!」・・・
ロキの責めが続く。ミルダの意識を土足でロキが覗く。ロキにとって、それは何のこともない。子・・
供をあやすようなものだ。ミルダに狂気が流れ込む。ミルダの意識が遠くなる。・・・
「ロキ様!」・・・
その時、一人の物乞いがロキにぶち当たった。ミルダにロキの影が瞬時遠くなる。・・・
「ロキ様、わたしめを斬って下され!」・・・
ロキがその物乞いを両断する。最強の剣がしなる。ミルダへ別な風を起こす。・・・
「今だ!」・・・
その瞬間を逃さなかった。ミルダは剣が創った風を見た。それは、ロキの狂気の一部だった。狂気・・
が闇さえも引き裂いていた。・・・
「ウッ!」・・・
ミルダは跳んだ。裂けた闇に意識を飛ばした。・・・
「ロキ様…。我々を斬って下され!」・・・
物乞いたちが斬られた者の後に続く。ロキの剣に狂ったように群がる。・・・
「ロキ様…。ああー、神よ!」・・・
闇の裂け目がロキの狂気の入口だった。ミルダは風を入れ替えた。幼さの風をロキの狂気の中に残・・
した。そして、風に隠した意識をロキに晒した。・・・
「ロキ様…。我れを斬って下され!」・・・
再度、ロキが剣を振るう。物乞いがもう一人鋭く両断される。・・・
「ロキよ…。悪魔よ…」・・・
ミルダのひとつの風がロキの前に立った。ロキがそれを掴む。再び、ミルダに狂気の責めを続ける。・・
「何者だ…。小賢しい…」・・・
ロキが風を握りつぶす。狂気の刃がミルダの風を素早く寸断した。・・・
・・・
・・・
ミルダの思いは何よりも激しかった。ミルダは風に晒したもう一人自分を盾に、幼さの風をロキの・・
深くに潜り込ませた。ロキがミルダのひとつの風を両断した。その瞬間に、ミルダは消えた。分離さ・・
せた意識がロキの中で再びひとつになる。・・・
ミルダは遠くなっていく自分を感じていた。しかし、ミルダはそれへ激しい思いを向け続けた。自・・
らの光を信じ続けた。・・・
光は見えていた。魂の揺れだ。ミルダはロキの中で深い自分と合い対する。存在の根底へ向き合う。・・
ロキの狂気の闇の中でミルダの光が輝きを増していく。ミルダの戦いがロキの中で繰り広げられてい・・
く。ミルダの揺れが激しくなる。・・・
果てしない程の力の波動だった。ミルダの光は、ミルダの意識に永遠なる力を送り続けた。遠ざか・・
るミルダを意識がしっかりと掴む。ミルダに新たなる目覚めが押し寄せる。自らの存在の奥深さに、・・
ミルダの思いが遥かなる宇宙の拡がりを魂に呼び込んでいく。ミルダは光となっていた。ロキの闇の・・
中を、ミルダは自らの存在の根本の姿のまま揺れた。・・・
それでも、ロキとの戦いは続く。ミルダは、光のままいつまでも揺れているわけにはいかなかった。・・
ミルダは新たなる目覚めの瞬間に立ち上がった。ロキの闇を更に深くへと進んだ。ロキの狂気の色が・・
彼方へと進んだ。・・・
ロキにはミルダが見えていない。しかし、ミルダに余裕などない。自らの存在のすべてを駆けた闘・・
いなのだ。誰の助けもない。たった一人の闘いなのだ。ミルダは進んだ。彼方に異形の光が見えた。・・
水に浮かぶ月のような光だ。青い闇をその光は同じ色で照らしている。・・・
異形の光がミルダを認めた。ロキの深い部分がミルダによって目覚める。光が形を大きくしていく。・・
青い闇が光から消えていく。・・・
異形の光から目が光る。ミルダの光を四つの目が鋭く射る。ミルダは光に寄った。青い目が色を濃・・
くしていく。闇が完全に失せる。光の姿がミルダに浮かび上がる。・・・
それは、竜だった。竜はロキの意識の中で身をくねらせていた。・・・
「何者だ…」・・・
竜がミルダに問う。大きく鎌首をミルダに振る。双頭の竜だった。二つの鎌首がそれぞれに弧を描・・
きミルダに近づく。・・・
「なぜ、ここにいる…」・・・
ロキの意識はこの光に傾いていたのだ。いや、双頭の竜にロキの意識が飲み込まれていた。ミルダ・・
は竜に迫った。ロキの狂気の元になる何かが、そこにあるように思った。・・・
「名はミルダ。狂気を叩きに来た」・・・
双頭の竜が振り返る。ミルダなど眼中にないのか、再び竜は身を丸くしていく。双頭をゆっくりと・・
胸にしまい始める。・・・
ミルダに記憶がめくれていく。双頭の竜…。その姿は一度見ている。そう、あの黒く尖った山の頂・・
だ。ミルダが追い続けた迦楼羅の光。その光と触れ合ったときの事だ。双頭の竜が迦楼羅に抱かれる・・
ミルダの意識に接触した。そう、あの時の姿だ。竜には一度出会っている。・・・
「何者だ…」・・・
同じ問いがミルダに届く。ミルダはその問いが来た方へ振り返った。・・・
「何者だ…」・・・
その瞬間、闇がミルダを包んだ。ロキだった。ロキの意識が再びミルダを掴んだ。・・・
「しまった…」・・・
ロキの姿が青い闇に浮かび上がる。ミルダに恐怖が津波となって押し寄せる。自らの輝きがそれへ・・
薄れていく。・・・
「ハハハハ、ハハハハ! このおれを誰だと思っている!」・・・
ロキの狂気が見えた。狂気の後ろに先程の双頭の竜の青い目が光っていた。・・・
「ハハハハ! ハハハハ!」・・・
竜の目に炎が揺れた。青く透明にミルダに迫る。鬼神の笑いが続く。ミルダの意識が恐怖に凍って・・
いく。先程感じた存在の根底からの果てしない力が失せていく。ロキの狂気に身をすくめていく。・・・
「ウオー!」・・・
いきなり、目玉が抉られた。オオカミだ。オオカミがミルダの腸を引き出していく。激痛が走る。・・
ミルダの意識をナイフが深く突き刺さっていく。・・・
「ウオー!」・・・
あの山での再現だった。ミルダの恐怖をロキが思いのまま弄んでいく。・・・
「ウワー!」・・・
ロキの恐ろしさが改めてミルダの全身を激しく責めた。オオカミが姿を大きくしていく。巨大な山・・
になっていく。ミルダは喰われた。何度も、何度も、獣に喰われた。意思が遠くなった。恐怖が真っ・・
黒にミルダを染めた。・・・
「ラ・ムーの手のものか…」・・・
苦痛はそこまでだった。ロキの怒りがミルダから消えていく。恐怖がミルダをつるりと剥がれる。・・
狂気がミルダを足早に離れていく。・・・
「おれから出ろ…」・・・
ロキの影がミルダから遠ざかった。ミルダはロキを出た。アールガルズの午後の淡い日がミルダに・・
微睡みを素早く押し付けた。・・・
「ラ・ムーのところへ案内してもらおう…」・・・
ミルダに眠気が揺れる。覚えのない母の温もりを懸命に探す。・・・
「早くしろ…」・・・
ミルダはグリーンアイランドの教会を思い浮かべた。その時、ミルダの意識が散った。いや、ミル・・
ダが三度風になった。・・・
「早くしろ…」・・・
ミルダは眠った。もう一度、ロキの中に落ちていきながら眠った。眠りのミルダの風は、ロキにも・・
まったく気付かない小さな風だった。・・・
・・・
・・・
結局、クラーラはカボチャを四つも食べた。無心に頬張った。リュリュはクラーラの横顔を見てい・・
た。少し微笑んでいる。嬉しかった。母と自分の作ったカボチャにクラーラは心和ませている。少し・・
ずつでもリュリュに心を開いているように見える。・・・
「今夜も、その夜宴があるの…」・・・
クラーラがゆっくりとリュリュに話し始めていた。光を逆戻りした時からのことを、途切れ途切れ・・
にリュリュに話していた。クラーラの小さな笑みが消えていく。思いに沈んでいく。・・・
「ああ、おれたちは死んでいく役さ…。ばかばかしい…」・・・
ゲタンも側にいた。ゲタンはカボチャを六つ食べた。クラーラ同様にリュリュに心を少しずつ向け・・
ている。・・・
「ばかばかしい…」・・・
ゲタンの感情が揺れだしていた。キリコがそんな中に無理矢理に入った。四人が輪になる。・・・
「行きたくないんじゃな…」・・・
キリコは老女の姿に戻っていた。リュリュがそれを頼み込んだ。その方が、やはり母に似合ってい・・
る。皺だらけの方がリュリュにはしっくりとくる。・・・
「どうなんじゃ…」・・・
キリコの眉間が曇る。キリコがクラーラを見る。ゲタンを見る。二人ともキリコの問いに答えよう・・
としない。キリコの苛立ちがリュリュにも見える。・・・
「行きたくないんじゃな…」・・・
クラーラの目に涙が溜まっていく。微かな光が浮き上がっていく。リュリュはもう一度クラーラの・・
内側へ滑った。クラーラの意識に直接接触した。・・・
-行きたくない…。でも、この言葉は、言ってはならない。心の底にしまっておくの…。・・・
「可哀想に…」・・・
リュリュはクラーラを出た。そして、立ち上がった。クラーラとゲタンの肩に手を置いた。・・・
「行きたくないのなら、行くことないよ!」・・・
怒ったように叫んだ。リュリュは二人の肩に置いた手に力を入れた。自らの激しい思いをその手か・・
ら二人にそっと流した。・・・
「行くことなんかないよ!」・・・
リュリュは二人の怒りが見たかった。一度は光に挑んだ。あの時の熱い思いが二人の中に残ってい・・
るはずなのだ。・・・
「行くことないよ!」・・・
今、カボチャを食べた。食べるという欲望が二人を揺り起こしているかも知れない。闇の中に小さ・・
な灯火が灯り始めているかも知れない。光を越えていくのは自分たちの力だ。自らの強い思いだ。光・・
へ向かうという固い意思だ。そうでないと明かりなどは見えてこない。どうすれば、その明かりをこ・・
の子たちに見せてやることができるのだろうか…。・・・
「とにかく、みんなを呼んでおいで…。カボチャは、まだまだあるよ…」・・・
食べるという喜び…。リュリュはそれに賭けた。ゲタンが微笑んでリュリュにひとつ頷いた。・・・
・・・
・・・
「あー、喰った喰った…」・・・
「おいしかったわ。リュリュねーさん、ごちそうさま…」・・・
「ばーさん、おいしかっぜ…。ありがとう…」・・・
食べ終わった子供たちがその場に寝そべる。空を見上げ大きく息を吐いている。・・・
「フー…。腹一杯だ…」・・・
「おいしかった、満腹満腹…」・・・
いつ以来だろう、この子たちの小さな欲望は満たされた。食べる喜びを久々に味わった。・・・
「ものを喰うことって、こんなに楽しかったんだ。あー、喰った喰った…」・・・
「カボチャおいしかった…。これみんな、リュリュねーさんと、そこのばあさんが育てたの…」・・・
子供たちは満足そうだ。食べ終わった後の心地よさに揺れている。・・・
「おれ、眠たくなってきた…」・・・
「やだなー、今夜の仕事…。でも仕方ないや、それまで寝ようか…」・・・
欲望が満たされた後、その時の思いが重要なのだ。この子たちに光を取り戻させてやる。キリコの・・
思いが熱くなっていく。・・・
最初にしては上出来だった。とにかく、この子たちはカボチャを食った。欲望というものが自分た・・
ちの中にまだまだ残っていることを知っただろう…。ここまではいい…。・・・
しかし、欲望とは満たされると形が変わってしまう。色褪せてしまう。次のものが再び浮かび上・・
がってくるまで完全に消え去ってしまうのだ。既に、この子たちに睡魔が襲っている。・・・
本当の喜びとはそんなものじゃない。簡単に消えていくものではない。満たされた瞬間だけのもの・・
ではない。・・・
喜びは心に灯を灯す。欲望が満たされるのは炎に燃える一瞬だけだ。満たされた後のすきま風にす・・
ぐに消えてしまう。しかし、本当の喜びは消えない。炎になった後でも、その火は消えずに心の隅々・・
までを照らし続ける。・・・
この子たちに本当の喜びを…。それが、この畑の理由なのだ。キリコは忘れていなかった。天国で・・
会おう…。むかしむかしの約束を忘れていなかった。キリコは待った。子供たちに微かでも光が灯る・・
のを待った。・・・
「仕事まで寝よう…」・・・
「腹が膨れたから、動くのが億劫だ…」・・・
ひとつ、二つ、雲が流れた。午後の時はゆっくりと過ぎる。キリコは少し苛立った。いつまでも子・・
供たちがだらしなく畑に寝そべっている。食後の休息の時としては長すぎる。・・・
三つ、四つ、雲が増える。子供たちは立ち上がろうとしない。動こうとしない。それぞれ、思い思・・
いの格好で眠りに入っている。・・・
五つ、雲が揺れる。リュリュが鍬を持って畑に戻っていった。・・・
子供たちは薄っぺらい幸せの中にどっぷりと浸かっている。リュリュがそれを見てみない振りをし・・
ている。リュリュはこの子たちをそっとしておいてやりたいのだろう。キリコにはそれが痛いほど分・・
かる。・・・
六つ、雲が過ぎていく。七つ、八つ…。とうとう、雲は太陽を隠してしまった。・・・
「さあ、起きるのじゃ…。立ち上がれ…」・・・
ずかずかと、キリコは寝ころんでいる子供たちを踏みつけた。キリコの我慢が限界を過ぎた。バカ・・
モノが…。キリコに遠慮などない。・・・
「いつまで、寝そべっているのじゃ!」・・・
尻を蹴り足を弾く。構わず次々と踏みつける。・・・
「リュリュ! 水を持ってこい…」・・・
それを言う前に、リュリュが子供たちに水を撒いていた。キリコに微笑んでいた。・・・
「起きなさい! 起きて、畑を耕すのよ! あんたたちの食べたカボチャの分、きっちりと働いても・・
らうからね!」・・・
寝そべる子供たちがリュリュの撒く水で濡れていく。冷たいよ…。一人、二人と、ゆっくりと立ち・・
上がっていく。・・・
「そうじゃ! 喰った分働いてもらうぞ!」・・・
さすが我が娘だった。リュリュもすべて理解している。キリコも微笑んだ。リュリュの笑みと重・・
なった。・・・
「働け、働け!」・・・
「そうよ、働きなさい! だから、今夜の夜宴行けないね!」・・・
子供たち全員が立ち上がった。リュリュとキリコを見て呆気にとられている。・・・
「今夜の夜宴は行けないね! たっぷりと働いてもらいますからね!」・・・
リュリュがキリコに寄った。二人だけに分かる笑顔が子供たち中に大きく揺れた。・・・
・・・
・・・
「兄よ…。久しいの…」・・・
鬼神ロキが皇帝ラ・ムーの前に立った。グリーンアイランドの森で二人は相対した。・・・
「弟よ…。ロキよ…」・・・
二人に笑みは見られない。時を越えた兄弟の再会にも二人の思いは互いに複雑であった。・・・
「ラ・ムーよ、邪魔をするな…」・・・
互いに、むかしのままだった。ムーの時代の皇帝、そして、最強の将軍のままだった。同じ色の瞳・・
がそれぞれの今の色に輝く。・・・
「皇帝様まで、敵に回したくない…」・・・
いにしえの日々がロキを掠めた。皇帝ラ・ムー…。ムー帝国の最高の神官…。ロキはラ・ムーにそ・・
の頃の面影を探した。ロキがラ・ムーに寄る。・・・
「たかが、魔界ので小さな出来事だ…」・・・
ロキは剣を上げた。ラ・ムーの瞳が険しくなる。青い影がラ・ムーの瞳に落ちる。・・・
「いいかよく聞け。ブルーアイランドは病んでいる。ムーの時代と同じだ。いや、それ以上かも知れ・・
ん。これ以上、ブルーアイランドのバカどもを魔界では預かりきれんのだ。おれは、ブルーアイラン・・
ドに狂気を降らす。ブルーアイランドの者たちを遥かなる闇の彼方へと誘ってやる…」・・・
ロキはゆっくりと剣が降ろした。ラ・ムーが一歩退く。・・・
「もう一度言う。邪魔をするな…」・・・
ラ・ムーの光がロキへ気配を強くした。ロキにラ・ムーの怒りがはっきりと見える。・・・
「そうはいかない…」・・・
ラ・ムーが返した。そして、素早くラ・ムーが飛んだ。ロキの後ろへ回った。・・・
「ロキよ。お前のその狂気はいったい…」・・・
ロキも飛んだ。剣を降ろした。風が歪む。風が軋む。・・・
「皇帝様よ…。あの時も、おれの後ろへ回ったな…。後ろから…。ハハハハ…。むかしと同じだ」・・・
再び、ラ・ムーが飛んだ。ロキの眉間へ指を突く。・・・
「それ以上、ブルーアイランドに係わってはならん…」・・・
ロキは軽く交わした。攻撃とはいえない軽いものだ。ラ・ムーはむかしと変わっていない。優しさ・・
が仇なのだ。・・・
「ムーよ…。兄貴ぶった説教は止めてもらおう。いつまでも、おれは貴方の弟ではない。バカな…」・・・
ラ・ムーの二の手が来た。先程より力強い。・・・
「分かった、忘れよう…。しかし、お前は狂っている。目を覚ませ、ロキ!」・・・
ロキはラ・ムーに微笑みを向けた。遊びはお終いだ…。・・・
「忠告に来ただけだ…。今は、皇帝様と闘う気はない…。ハハハハ…。狂っているか…。貴方らしい・・
言葉だ…。ハハハハ…。ハハハハ!」・・・
ロキはラ・ムーに背を向けた。背に、ラ・ムーの視線が熱かった。・・・
「ハハハハ…。また会おう…。ムーよ…。ハハハハ!」・・・
遥かなる時を隔てた再会は、ムーの時代の兄弟にとって呆気ないものだった。それでも、ロキは満・・
足だった。ムーの皇帝への忠告…。ロキにとって、兄との再会はただそれだけのことだった。・・・
・・・
・・・
ラ・ムーはグリーンアイランドへと戻った。落ちつきを取り戻す…。ラ・ムーは一人瞑想の中にい・・
た。なぜ、ロキはあのように狂ったのか…。なぜ、あのような狂気を…。ラ・ムーは考え続けていた。・・
ムーの時代の弟へと思いを向け続けていた。・・・
ロキの狂気がはっきりと見えた。しかし、その根源となる核は見いだせなかった。ロキの意識には・・
青い紗が掛かっていた。頑なに心を閉じていた。そして、この私を激しく恨んでいた…。どうしたこ・・
となのだ…。ラ・ムーは自らに深く沈んでいく。・・・
弟に意見をするのはムーの時代と変わっていなかった。ラ・ムーは意識に苦笑を浮かばせた。遥か・・
なる時を意識に昇らせる。・・・
ロキは有能な将軍だった。恐れを知らない勇猛な戦士だった。知力、軍略にも長けた最高の将軍・・
だった。ならばこそムー帝国の安泰もあった。・・・
しかし…。弟は激しすぎるのだ。ロキは目的のためなら手段など選ばない。どんなことをしても欲・・
したものは手に入れる。手に入れてきた。鋭すぎるのだ。触れるだけで、誰もがその鋭さにひれ伏し・・
ていく。・・・
そうなのだ…。欲するものはすべて手に入れる…。そのためには、障害になるようなものを見過ご・・
すような男ではない。ロキは既に動き出している。今の弟には兄の存在さえ気に入らないのだ。兄が・・
障害のひとつなのだ。ロキのあの時の怒りがラ・ムーの深い意識に突き刺さる。・・・
何かの歯車が狂ってしまったのだ。ムーの時代には、ロキのあのような狂気は見えなかった。いっ・・
たいどうしたのだ…。ロキに何があったのだ…。ラ・ムーは考え続けた。思いが、自然とムーの時代・・
へと遡っていく。ラ・ムーに太古の風が吹く。・・・
・・・
勝鬨が近くに聞こえていた。ムーの兵たちが歓喜に叫んでいた。そして、ムーの戦いが終わろうと・・
していた。・・・
「ロキ! 止めるんだ! 敵国は既に落ちた!」・・・
しかし、目の前はまだ戦いの最中だった。敵も味方も必死だ。ロキが敵を斬りまくっている。鮮血・・
がロキを赤く染めている。・・・
「もういいんだ。ムー帝国は勝利した!」・・・
声がロキに届かない。ロキは最強の剣を次々と敵に降ろし続ける。・・・
「ロキ! 止めるんだ! 敵国は既に落ちたのだ!」・・・
声の限り叫んだ。それでもロキは動きを止めない。ロキが狂ったように見えた。異常な姿だった。・・
悪魔のようなロキの背だった。・・・
「何を言う! 恨みが残る! 皆殺しだ!」・・・
一度だけ、ロキが振り返った。目が狂気に血走っている。・・・
「恨みを残してはならん! すべて息絶えさすのだ!」・・・
「止めろロキ!」・・・
ロキへ走った。止めさせたかった。ロキが狂っている。もういいんだ。敵は落ちたんだ…。・・・
その時、敵兵がロキの後ろに立ち上がった。ロキよりも遥かに大きい男だった。影のような男だっ・・
た。ロキに近づいたのがラ・ムーにもまったく見えなかった。・・・
「止めろ、ロキ!」・・・
ロキに隙があった。敵は落ちたんだ…。その思いが、ロキにようやく届き始めていた。・・・
「ウオー!」・・・
大男が剣を振るった。さすがのロキも避けきれなかった。ロキが膝を付いた。・・・
「皇帝!」・・・
敵国の将の首が目の前に置かれた。ムーは闘いに勝利した。・・・
・・・
あれから、ロキとは出会っていない。ロキは消えた。ムー帝国より消えた。・・・
ロキはあの時の狂気を持ち続けてしまったのか…。ラ・ムーは、更に深く沈んだ。・・・
・・・
叶うことのない祈りを透明なる神殿で一心に唱えていた。蝉の声がしない。スズメたちが囀らない。・・
一人の神官が透明なる神殿にまで異常を告げに来た。櫓に上った。津波が押し寄せていた。・・・
「ラ・ムーよ…」・・・
その時、声を聞いた。重く低い地鳴りのような響きだ。・・・
「ラ・ムーよ、よく聞け…。この国は滅ぶ。輝ける未来のための序曲だ…」・・・
それは、双頭の竜だった。影を持たぬ仄かな光だった。双頭の竜が滅びゆくムー帝国の最期を見届・・
けていたのだ。・・・
「いいか、ラ・ムー…。滅びこそ自然の摂理だ。未来への因果律なのだ」・・・
大津波に引き込まれながら、その言葉を理解した。ムーは滅びた。未来の輝きのために…。・・・
「未来は光の先にある…。光を越えていくのだ…」・・・
双頭の竜に乗った。赤い目に惹かれた。・・・
あれから、竜の光を信じ続けた。ホワイトアイランド…。風にその光の名を聞いた。・・・
・・・
「……」・・・
吐息がラ・ムーから漏れた。ラ・ムーの瞑想は長く続いた。・・・
・・・
・・・
「ほら、顔を出したぞ…」・・・
「ほんとだ…。ヤッホー!」・・・
「いいぞ、ヤッホー!」・・・
子供たちの弾んだ声がキリコの畑を流れていく。自分たちの植えた種が小さな芽を出したのだ。・・
喰った分は働け…。リュリュとキリコは子供たちに畑仕事をさせた。黒森の夜宴へは行かさなかった。・・・
「こっちもこっちも…」・・・
「あっ、こっちもよ…」・・・
「ここもだよ、ここもそうだよ…」・・・
子供たちの顔に少しずつ明るさが戻っていく。時折笑みも見える。・・・
「ウホー! 種を植えれば芽が出たぞ…。信じられないや!」・・・
「そりゃそうよ、わたしたち、一生懸命、世話をしたのよ…」・・・
「やればできるんだ、おれたちだって…」・・・
あれから十日経つ。その間、夜宴への誘いはなかった。宴は開かれていないのか、ロキからの呼び・・
出しはなかった。・・・
子供たちは恐れていた。しかし、リュリュとキリコを信じる思いが芽生えていた。それでも、子供・・
たちに、ロキの影は時折ちらついた。ヴィゴルーの姿を夢に見た。風の音に笛吹きを思い出していた。・・
子供たちの恐れは消えていかなかった。・・・
その都度、リュリュとキリコが子供たちを諌めた。喰った分だけは働け…。そうよ働くのよ…。二・・
人は強欲な親子を演じ続けた。・・・
「もう少しよ…。もう少しで、自分たちで作ったカボチャを食べられるわ…」・・・
カボチャの芽が重たい土を押し退けて地上へ出ている。それは、後に大きな実を成らすだろう。こ・・
の子たちも、このカボチャのように重い土を押し退けるのだ…。その強い気持も持つのだ…。もう少・・
しなのだ…。リュリュの頬も自然と緩んでいた。・・・
「もう少し、がんばろう…」・・・
アールガルズの日が西に傾いていった。カラスが何羽と空へ帰っていく。・・・
「もう少しよ…」・・・
・・・
・・・
呪いの黒森の夜宴は毎夜開かれた。人々は次々と森へ急いだ。狂気の渦巻く夜宴へと赴いた。・・・
・・・
-今夜は、亡霊との宴…。・・・
蒼白きスピカを越えて…。燃えるシリウスへ…。・・・
・・・
今夜もヴィゴルーのソプラノが森に響きわたる。人々が次々に葡萄酒を干している。・・・
・・・
-この酒は、生命の酒…。・・・
この酒は、血の酒…。・・・
・・・
しかし、ロキの姿が見えなかった。ロキの代わりをヴィゴルーが勤めている。・・・
・・・
-乙女のように、猟犬になって…。・・・
目覚めれば別世界…。・・・
・・・
ヴィゴルーの代役は完璧だった。ヴィゴルーはロキの思いを一番理解している部下だった。・・・
・・・
-今夜は、妖しく揺れる宴…。・・・
アンタレスの激しき思い、カシオペアに届け…。・・・
・・・
人々は狂った。我先に呪いの黒森を旅立っていく。闇の彼方へと飛び立っていく。・・・
・・・
-この酒は、生命の酒…。・・・
この酒は、血の酒…。・・・
・・・
ヴィゴルーはロキとは少し違っていた。宴では人々を派手に死なせた。踊り狂わせ意識を破壊した。・・
幻への未来へと意識を破裂させていった。・・・
・・・
-蠍の毒こそ、我らの願い…。・・・
目覚めれば別世界…。・・・
・・・
だから、子供たちはいらなかった。子供たちたちの存在などヴィゴルーは忘れ去っていた。人々は・・
自分の歌で死んでいく。天使の声に未来を乗せ聖母の歌に落ちていく。・・・
・・・
-蠍の毒こそ、我らの願い…。・・・
目覚めれば別世界…。・・・
・・・
ヴィゴルーは絶頂にあった。狂気のソプラノがいつまでも森に流れた。・・・

・・・

第四章・・・
・・・
(1)・・・
・・・
水に浮かぶ月のような仄かな光だった。巨大な竜が空間にその姿を流していく。双頭の竜だ。四つ・・
の目は閉じられているのか、それからの光の漏れはない。空間は風の揺れもなく、まったく静寂に包・・
まれていた。・・・
その間、竜は光を自らに抱き込んでいった。光の漏れを防ぐように、竜は己の中へ思いを集中させ・・
ていた。竜は空間に停止した。仄かな光が透明に消えていく。竜の眠りなのか、空間の静寂が重く・・
なっていく。闇が竜をゆるりと抱き、その場の静寂は長く続いた。・・・
静寂が破れたのは、竜に小さな風がそよいだ瞬間だった。竜が動いた。双頭の角度を変え空間を移・・
動する。闇が竜を遠ざかる。・・・
双頭が弧を描き風が起こす。双頭の四つの目に光が青く帯びる。竜は長い尾を器用に畳んだ。光が・・
凝縮されていき、空間に果てしない輝きを見せ始めていく。そして、竜は回転を始め空間の時が動く。・・・
-あの男は、大丈夫か…。・・・
光の中でひとつの意識が呟く。それが、光の回転の中をこぼれる。・・・
-あの男で、大丈夫なのか…。・・・
それは、周りを気遣うような静かな問いだった。光の中の、意識の微かな漏れだった。・・・
-少し、手ぬるいんではないか…。・・・
別の意識が素早くそれへ割り込んだ。光の回転が少し不規則になり、竜からこぼれる光が多くなっ・・
ていく。・・・
-あの男なりに、よくやっている。既に、道ができ上がっているのではないか…。・・・
-そうだ、道は堅固になりつつある…。・・・
更に、別なる意識が目覚める。光の中に幾つかの彩りが浮かび上がっていく。空間に風が強くなり・・
竜の回転が速くなる。・・・
-それは、評価に値することだ…。・・・
-あ奴の狂気もなかなかのものだ…。・・・
それぞれが目覚めていく。光の回転がどんどん速くなり、光の意識が幾重にも重なっていく。光の・・
所々で各々の呟きが揺れる。・・・
-その通り、あれだけの数がブルーアイランドより消えたのだ。道はできた…。・・・
-そうだ、今までとは異なる道だ…。・・・
呟きが光の中央へと集まり、仄かな光が徐々に色を濃くしていく。それぞれの呟きが続き、光の中・・
が騒がしくなっていく。・・・
-すべて、結果だ。あの男が、どれだけの働きをしようと、すべて結果なのだ。・・・
-その通り、我々は、我々の目的に近づけばよいのだ…。・・・
意識の集合体だった。双頭の竜は多数の個性の光が融合した姿だった。光たちの議論が続く。光の・・
回転が続く。・・・
-ブルーアイランドは我々の世界と繋がっている。いや、重なり合っているといった方が正しいかも・・
知れない…。・・・
-その通り、我々とブルーアイランドは密接な関係にある…。・・・
-しかし、しかしだ…。・・・
-ブルーアイランドの者たちは、そのことをまったく知らない。理解しようとしない。事実から目を・・
背けている。・・・
もう呟きではなかった。それぞれの思いが光の中に次々にぶつかり、双頭の竜が微かな熱を帯びて・・
いく。・・・
-ブルーアイランドは、我々のすべての世界の一部にすぎない。果てしない流れのひとときにすぎな・・
いのだ…。・・・
-その通り。そのことをブルーアイランドの人間たちはまったく知らない。ブルーアイランドでの生・・
をすべてだと思い込んでいる。・・・
-考えられないことだ…。・・・
-そう、無知すぎる…。あまりにも無知だ…。・・・
光の揺れが大きくなり、回転がその揺れを引き込んでいく。光が歪み軋む。・・・
-しかし、あの男のようにブルーアイランドに働きかければそれを信じる者はいたではないか…。・・・
-そうだ。ロキはよくやっている…。・・・
-狂気をブルーアイランドは受け入れた。遥かいにしえの時のように…。・・・
空間の風が強くなった。竜は双頭を天に向けた。静かに尾を空間に伸ばし、漏れる光が尾の先に一・・
条の光となる。・・・
-そうだ。ブルーアイランドの者たちは別世界を信じたではないか…。・・・
-偽りの希望を信じたではないか…。・・・
-その通り、彼らの未来を信じたではないか…。・・・
意識の個性の色が空間にまで漏れていく。光の個性たちが思い思いの色を弾かせていく。竜の中に・・
それぞれの煌めきを見せていく。・・・
-それは、ブルーアイランドの中にも、果てしない流れを理解しようとする者たちが確実に増えてい・・
るということだ…。・・・
-いや、それは理解などではない。無知だ。無知故の思いだ…。・・・
-それでもよいではないか…。無知でいい。彼らは未来を信じた…。・・・
双頭のそれぞれの両目が大きく開かれた。青い光の雫が空間に拡がっていく。竜が空間を更に移動・・
する。風が創られていく。・・・
-バカな霊たちが、どんどん地上へ降りていっているおかげだ…。・・・
-いや、ブルーアイランドが病んでいるのだ。ブルーアイランドに未来が見えないのだ…。・・・
-それでよい。とにかく彼らは進んだ。そこに道ができた…。・・・
空間が青く染まり、光の回転が安定していく。それぞれの思いがひとつになっていく。竜が空間に・・
速度を上げる。・・・
-それほどブルーアイランドは病んでいるのか…。・・・
-そうだ、希望は人々の間を疾風のように駆ける。人々は偽りの希望に縋り付く…。・・・
-しかし、それが、全ブルーアイランド的な規模に膨れ上がるのを、ただ待っているのか…。・・・
-そのような悠長な事を言っている場合なのか…。・・・
光は進んだ。回転を続けながら天へ昇る。青い光の雫を空間に残し、竜は果てしない天を目指す。・・
双頭を未来へ向ける。・・・
-そうだ、我々は未来を目指す。無駄な時を過ごしたくない…。・・・
-いや、無駄ではない。我々はブルーアイランドと繋がっている。我々だけでは進めない…。・・・
-なぜだ、ブルーアイランドなど放っておけばいい。ロキに任せればよい…。・・・
-いや、無理だ。ロキに我々の意図を理解することはできない…。・・・
光の議論が熱さを増していく。光が激しくぶつかり合う。・・・
-いや、そうじゃない…。・・・
そんな中へ、ひとつの意識が光に交わる。光の中に素早く緊張が走る。・・・
-そうじゃないんだ…。・・・
竜の回転が一瞬止まった。別なる青い光が竜の中に新たなる動きを始める。それは、一際重い意識・・
だった。光がそれへ青く押しつぶされている。・・・
-今回の試みは、あの男の力によって我々とブルーアイランドの距離を縮めることにある。つまり・・
我々が、ブルーアイランドへ影響を与えることのできる道を設けることなのだ…。・・・
光たちの議論を打ち砕くような激しく強い意志が、その光に見える。その光が光の個性たちのリー・・
ダーなのだろう。光は続けた。光の揺れがそれへ集まっていく。・・・
-あの男の力によって道ができた。ロキだ。それは、ブルーアイランドから消えていった者たちが・・
通った道だ。大量に通った道だ。既に、それは、堅固なものとなっているだろう。そう、我々をも、・・
辿れるような堅固な道が…。・・・
光の中央へ一際青い光が進む。他の光が、それへの道を空ける。・・・
-ブルーアイランド。我々は、その星の者たちとは別なる道を歩んできた。彼らとは異なり我々は光・・
の姿のままである。したがって、我々がブルーアイランドへ降り立つことはかなりの困難を要する。・・
光の存在そのものが消えてしまう恐れがある。・・・
しかし、我々は、あえてそれを目指す。目的のため、いよいよ困難を乗り越えなければならない時・・
期を迎えているのだ…。・・・
青い光が他の光を包んでいく。光が更に凝縮され、竜が身を畳んでいく。・・・
-我々の目的は、我々自身の至高なる成長に他ならない。自らの意識の果てしない向上だ。無限へ向・・
かい、我々すべての創造主に近づくことなのだ…。・・・
光の揺れが止まる。すべての光が青い光へ押し寄せていく。・・・
-そうだ。今こそ、その時だ…。・・・
-無限へと向かうのだ…。・・・
同じ思いが弾けた。光の中に小さな雷光が走る。・・・
-そうだ、無限へと進むのだ…。・・・
-今こそ、その時なのだ…。・・・
それぞれの雷光を青い光が、ひとつひとつ受け止めていく。青い光が、光の思いを更にひとつにし・・
ていく。竜の回転が再開される。激しさが竜に渦巻いていく。・・・
-しかし、我々の全世界はある意味でひとつだ。ブルーアイランドだけ切り離すことはできない。・・
我々だけで昇ってはいけないのだ。それが、我々のアイランドなのだ…。・・・
青い光の輝きが竜の全体にまで拡がっていく。竜の青い目がぎらぎらと爆ぜていく。・・・
-我々の本来の姿は光だ…。そのことを、ブルーアイランドで暮らす者たちは知らない。いや、知ろ・・
うともしない。そして、信じようともしない。肉体は、光である我々を乗せて浮かぶ舟にすぎないの・・
だ。地球という惑星を進む我々の小さな舟にすぎないのだ。重力という大海を歩む小さな方舟にすぎ・・
ないのだ…。・・・
空間の風が光の中にまで吹き荒れる。光がその風に更に揺れる。・・・
-そのような舟は必要ないのだ。我々が、既にそれを証明している。我々は、すべて光たる存在なの・・
である…。・・・
空間の先に別なる光が見える。ちらっと、光の個性たちがそれへ意識を向ける。・・・
-なぜ、そのことを理解しようとしないのだ。ブルーアイランドの者たちは、小さな方舟にしがみつ・・
いている。自らの個性のすべてのように…。無知だ…。限りない無知が成せることだ…。・・・
ここで、青い光が少しの間を置いた。光の揺れが微かに緩やかになる。・・・
-したがって、我々は、ブルーアイランドを我々の意図通りに成長させなければならない。我々の手・・
で、ブルーアイランドをより高く持ち上げてやらなければならないのだ。そのことが、望む望まない・・
に関わらず、我々の成長に欠かせないことなのだ…。・・・
光の波動が高速になっていく。安定の波動に熱い思いが重なっていく。・・・
-我々の本当の姿である光を見せてやるのだ。小さな方舟など必要ないことを、我々の光で理解させ・・
てやるのだ。ブルーアイランドに我々は道を築く。我々の成長は、誰にも止めることなどできない。・・
我々は、遥かなる未来に向かっているのだ…。・・・
光の回転が止まる。凝縮した光が色を消し、揺れが引き潮のように退いていく。・・・
-あの男が、地上と魔界に道を創った。我々は、その道を通る。光の姿のままブルーアイランドへ進・・
入する。我々の光を見せてやるのだ。我々の道を果てしなく拡げるのだ。そうすれば、ブルーアイラ・・
ンドの者たちも、方舟から下りるだろう。光を理解していくだろう。物質の肉体に光を隠したりしな・・
くなっていくだろう。我々の方へ、少しでも近づこうとするだろう…。・・・
光の先に見えた別な光が近くなる。竜は青い目を閉じた。・・・
-成長へと進むのだ…。我々は、無知なるブルーアイランドを抱えたまま、我々の無限への成長へと・・
向かうのだ。・・・
熱い語りが一息ついた。竜がひとつ軽く身震いした。・・・
-その道は、魔界だけでいいのか…。・・・
唐突に質問が浮いた。再び、竜は閉じた目を開く。青い光が空間に揺れる。・・・
-いや、グリーンアイランドもだ…。グリーンアイランドへは魔界から進入する。既に、手は打って・・
ある…。・・・
議論を打ち切るような響きだった。青い光が竜の青い目に消えていく。竜の目の光が増す。空間の・・
別なる光がそれへ引き込まれていく。・・・
-ロキだ…。しばらく待たせておけ…。・・・
竜の光は熱さを消した。揺れることを完全に止めた。空間に再び静寂が漂った。・・・
・・・
・・・
風が止み空間に静けさが戻る。ロキは双頭の竜へ進んだ。青い輝きがロキの意識に眩しい。双頭に・・
光る青い瞳がロキを鋭く射る。・・・
双頭の瞳の誘いにロキは光に入った。光の中も静寂が続いていた。光は揺れていなかった。ロキは・・
その中を漂った。・・・
少し動いた風に、ロキは遥かいにしえを思った。そして、そのまま光からの呼び出しを待った。思・・
いが徐々にムーの時代へと向いていく。・・・
ロキは長い時を待った。仄かな光に自らの影だけを感じ続けていた。ロキの苛立ちが大きくなって・・
いた。ロキは何度も光を見渡すが、アールガルズのあの影の姿は見えなかった。あの影から呼び出し・・
を受けたのだ。いつまで待たせる…。・・・
竜の光に入ったのは始めてだった。竜の光がロキを必要とする時はあの影が現れた。ロキが竜の光・・
へ向かう機会は影が創らなかった。・・・
しかし、事が動いている。影からの呼び出しがロキにあったのだ。ロキは影と共にアールガルズを・・
後にした。影の後に空間を続いた。双頭の竜はロキの思いの通りに遥かなる空間を浮かんでいた。・・・
そして、影がロキを残し竜へ消えた。竜の中の光が濃くなった。竜がロキを認めロキは竜に入った。・・・
それなのに、竜からの声がかからないのだ。ロキはいつまでも竜の青い光の中に揺られた。ロキの・・
苛立ちは増していた。・・・
「いつまで待たせる…」・・・
ロキの思いがやはりムーへ向く。あの影とはムーに出会ったのだ。ロキはその思いに集中した。遥・・
かなるムーの時代。そこは戦場だった。あらゆる狂気が渦巻いていた。・・・
・・・
どこかで勝ち鬨が聞こる。ロキはそれを無視した。恨みが残る。皆殺しにしなければ…。・・・
「斬れ! 殺せ! 皆殺しだ!」・・・
剣を振り下ろした。血飛沫が風に散り、最強の剣が唸りを上げる。・・・
「殺せ殺せ! 皆、殺せ!」・・・
勝ち鬨は、ロキの思いより近くから聞こえていた。しかし、ロキは敵を斬った。最強の剣を鞘に収・・
めたりしなかった。・・・
「皆殺しだ! ムーへ恨みを残してはならんのだ!」・・・
自らの中の熱いものをロキは抑えることができなかった。ムーへの恨みよりも、ロキの思いは自ら・・
の狂気へと傾いていた。激しさから出ることを、ロキは狂気の包まれたまま拒否し続けた。・・・
「やめろ! ロキ!」・・・
誰かが後ろから叫んでいた。それは、聞き慣れた声だった。・・・
「だめだ! 殺さないと恨みを残す!」・・・
ロキは声を振り切った。敵に向かった。剣を次々と降ろした。・・・
「ウワー!」・・・
敵の一人を斬った時だった。背中に激痛が走った。後ろからの鋭い攻撃だった。たまらずにロキは・・
その場にひれ伏した。・・・
「しまった!」・・・
勝ち鬨に油断があったのか…。それとも、あの聞き慣れた声に…。ロキの意識が遠くなった。傷の・・
深いことは分かっていた。・・・
-来い…。・・・
その時、薄れるロキの意識に青い影が寄った。ロキの意識がそれへ倒れ込む。・・・
-ムーの勇者、ロキよ…。・・・
影に果てしない迫力を感じた。闇の遥かさを影に見た。ロキは影を掴んだ。青い闇がロキを包む。・・・
-ロキよ、付いてこい…。・・・
影が誘った。薄れる意識が覚めていく。影へとロキがまっすくに向かう。ロキは叫んだ。戦場の悲・・
鳴はもう聞こえなかった。・・・
「待ってくれ! 待ってくれ!」・・・
影が美しかったのだ。あまりにも気高く、あまりにも高貴な姿だったのだ。ロキは我を忘れて影に・・
続いた。斬られた痛みは瞬間に消えていた。全身が蘇生していく。・・・
-ロキ…。この国は、滅びていく…。・・・
影はそう言った。ロキもそう思った。影に頷いていた。・・・
-世界を征するのはただひとつ。狂気だ。狂気こそ、世界最強のものだ…。・・・
もう一度頷いた。その意味がロキに理解できた。・・・
「その通り、狂気が世界を制す…」・・・
ムーは滅びる。ムーの皇帝は狂気など持ち合わせていないのだ。・・・
-ロキ…。狂気を育め…。・・・
影の先に双頭の竜が青い闇を抱いていた。果てしなく空間にその姿を浮かび上がらせていた。・・・
-また会おう、ロキ…。・・・
影は去った。双頭の竜へと影が消えていった。空間に風だけが残った。・・・
「双頭の竜…」・・・
ロキは竜を追い風を越えた。しかし、竜は届かなかった。青い残像がロキにしばらく降り注いだ。・・・
その時の出会いはそれだけだった。ロキは旅に出た。ムー帝国を離れた。・・・
再び、影と巡り会ったのは魔界だった。影はロキの狂気の現れた。ロキは信じていた。影の言った・・
狂気をロキは持ち続けた。・・・
狂気を育め…。ロキは魔界でそれを演じた。ロキが狂気を見せる度に、影が音もなくロキに忍び・・
寄ってきた。・・・
更なる力を手に入れろ…。影はそう言った。ロキは影の言葉に従った。人々を斬りまくった。影と・・
の触れあいがロキにとって至高なる時となっていった。狂気の剣が血を吸えば、影がロキの肩を叩い・・
た。ロキの狂気が暴れると、影がロキに笑った。・・・
-ロキ…。狂気こそ世界を制する…。・・・
ロキと影の新しい関係が生まれた。影の後ろには、いつも双頭の竜が青い鎌首をロキの方へと向け・・
ていた。・・・
・・・
「ロキ…。こちらへ…」・・・
ロキの思いが覚めた。影が姿を見せた。ロキの意識に双頭の竜の姿が素早く流れ込んだ。四つの青・・
い目がロキを鋭く凝視していた。・・・
「待たせた、ロキ…」・・・
影が笑ったように思った。苛立ちのロキにはそれが自らへの嘲笑に映った。・・・
・・・
・・・
ミルダは目覚めた。ロキが双頭の竜に吸収された瞬間に目覚めた。双頭の竜はロキの意識の中にあ・・
るものと同じ色をしていた。・・・
ミルダの目覚めは重苦しいものだった。意識に鉛が絡みついているようだった。ミルダはそのまま・・
微睡みに揺れた。双頭かミルダを認めたように思った。・・・
しばらく空白の時が流れた。ミルダはロキの光の中で無を貪り続けた。竜の光とロキが相対してい・・
るようだった。ロキが揺れていた。・・・
ミルダの微睡みが薄くなっていく。ロキの揺れが激しくなった。ミルダはそれへ思いを傾けた。双・・
頭の竜がロキを飲み込んでいく。多くの光がロキを囲む。ロキに怒りが浮かんでいく。竜の光へロキ・・
が怒りをぶつけていく。・・・
ロキが跳んだ。竜の光の中をロキが弾けた。その時、ミルダに風が吹いた。ロキの激しい思いがミ・・
ルダにも届いた。・・・
「ウオー!」・・・
叫びと共にロキの最強の剣がしなる。稲妻がそれに跳ね返される。竜の光がそれを交わす。ロキが・・
光の中を駆ける。怒りに身を震わせ最強の剣を次々と下ろす。・・・
「ウオー!」・・・
ミルダへの風が激しくなる。ロキは竜の目に向かっていく。青い輝きがロキの中のミルダにも見え・・
る。そこには、鋭い狂気が渦巻き、闇の色を濃くしている。・・・
ロキが青い目に一撃を喰らわせた。青い光が四方へ散る。ミルダには竜が一瞬たじろいだように見・・
えた。しかし、それは違っていた。竜もロキへ素早く反撃を加えていた。双頭の双眼からの光をすべ・・
てロキへ向ける。・・・
-ロキよ…。・・・
竜がロキを掴む。双頭を起用にくねらせロキを青い光に掴む。・・・
-お前と我々との未来は異なるのだ…。・・・
-そうだ、お前はアールガルズに戻るがいい…。・・・
竜がロキを絞めていく。光が凝縮しロキに恐怖を植え付けていく。・・・
-お前を傷つけるのは我々の本意ではない…。・・・
-そう、お前はよくやってくれた。ご苦労だった…。・・・
ロキに力が抜けていく。竜の光に鬼神が頭を垂れていく。・・・
-お前の役目は終わったのだ…。・・・
-後は、お前の魔界で自由に暮らすがよい…。・・・
竜の光がロキから離れていく。ロキへ向けた双頭双眼の光を徐々に納めていく。・・・
-ご苦労だった、ロキよ…。・・・
ロキの腕から最強の剣が落ちる。空間の闇にそれが流れていく。・・・
-ロキよ、さらばじゃ…。・・・
竜の光が静かに色を落としていく。ロキから光が消える。ロキが闇に浮かぶ。・・・
「……」・・・
その時、ロキは思いを消していた。それがミルダには見えた。ロキの怒りは収まってはいなかった。・・
竜の光への激しさはロキの中で失せたりはしていない。竜の光へ頭を垂れたのはロキの芝居だった。・・・
「ふー…」・・・
ロキが気配を闇に揺らす。ロキが闇に蘇る。最強の剣が闇を裂く。・・・
「ウオー!」・・・
ロキが叫んだ。竜の光が振り返る。・・・
「ウオー!」・・・
ロキの剣が竜を裂く。光が最強の剣に両断される。・・・
-ハハハハ、ハハハハ…。ロキよ、その狂気だ…。・・・
-そうだ、狂気こそが世界を制するのだ…。ハハハハ…。・・・
それは、両断した光より遥か彼方から聞こえた。竜は既にロキの距離にはいなかった。ロキが斬っ・・
たのは竜の光の残像だった。・・・
-ロキよ。達者で暮らせ…。・・・
ロキは闇に立った。怒りがロキの光をはみ出していく。ミルダはその瞬間にロキを出た。それをロ・・
キは気づかない。竜に向いた怒りが、風に紛れたミルダにはまったく向いてこなかった。・・・
・・・
・・・
闇に光が交差する。幾本もの光線が走り、あらゆる色が光に入り乱れ、太く力強く交わる。細くし・・
なやかにカーブする。美しい。駆ける光のすべてが震える生命を持っている。それは、縦横無尽に天・・
を駆けていく。光であることを楽しんでいる。自由であることを楽しんでいる。・・・
光が増えていく。次々に、思い思いの光を追っていく。闇が空間から弾き出されていく。天を舞台・・
に光たちが踊る。自由へのカーニバルだ。無数の輝きたちが自己の遥かなる存在を誇っている。存在・・
の意味に打ち震えている。激しいほどだ。生命の息吹を感じる。猛りを感じる。喜びを感じる。光は・・
踊った。歌った。交わり、絡み合った。生命の表現が天の彼方にまで拡がっていく。・・・
光が星となる。ひとつ、二つ、三つ、流星のように輝きを胸に抱く。所狭しと天を駆ける。どこま・・
でも輝く。十、二十、三十、色とりどりに光の美しさを魅せる。それぞれに自らを誇る。星が躍る。・・
星が歌う。星が爆ぜる。激しく自らを表していく。・・・
ある光は夕日に茜色に輝く。ある光は青い月の光を見せる。それぞれの自由の舞が天の隅々にまで・・
拡がっていく。ある星はひまわりの輝きを見せる。ある星は広葉の緑を見せる。・・・
光は風を創った。少女の髪を撫で少年の胸を叩く。大海の恵みが水晶に煌めく。風は光たちの銀河・・
を越えていく。星が風に運ばれる。風が光たちの走馬燈を大きく揺らす。色が無数にクロスし虹の雫・・
をまき散らしていく。星の爆ぜる音が風を弾く。・・・
光は自由だった。微笑みの駱駝が走る。大樹が駱駝に話しかける。鳩が幾羽も大樹から飛び立つ。・・
自由の表現だ。生命の果てしない躍動だ。幼子が老人と走る。蝉が老人の背に鳴く。それぞれの形が・・
あった。思い思いの演出が楽しい。光たちが歓喜に駆ける。喜びの歌が風に聞こえる。・・・
光の星たちが無数の光線を受けとめていく。母親のように駆ける光を熱く強く抱き寄せていく。生・・
きている。みんな生きている。限りない愛を感じる。星が光を抱きしめる瞬間に鋭く閃光が散る。星・・
が膨れ上がっていく。輝きが輝きと溶け合っていく。生命が燃えていく。激しく燃えていく。その瞬・・
間に愛が見える。・・・
「素晴らしい…。これが我々の存在の形だ…」・・・
ミルダだった。ミルダは光にどこまでも引き込まれていた。全身が熱く震えた。意識が恍惚に揺れ・・
ていく。自らの生命をはっきりと意識する。・・・
『この輝きは愛です。生命を謳歌する光たちの愛です…』・・・
耳元に聞こえた。ミルダはそれに頷いた。その通りだと思った。ミルダの震えが大きくなる。存在・・
するということの喜びが果てしなく新鮮なものに感じる。ふと、祖父を思った。祖父もこのカーニバ・・
ルに参加している…。そう思った。嬉しさに喜びが抑えられなくなる。・・・
『光のショーは続きます。観客は、あなただけです…』・・・
無数の星が互いに光の光線を抱いたままリズムを変えた。オーケストラの奏でる曲が変わったのだ・・
ろうか、星たちの踊りが徐々に緩やかになっていく。エネルギーを内へ内へと秘めていく。それぞれ・・
の光を凝縮していく。星の照度が増していく。・・・
『さあ…』・・・
星のリズムがミルダに届く。ミルダもそれに合わした。軽やかなリズムにミルダの幼さが破裂して・・
いた。ミルダは飛んだ。ターンを切った。タップを踏んだ。軽いステップで光に飛んだ。・・・
『もっと、こっちへ…』・・・
天から微笑みがこぼれていた。星と光が幾重にも頬を寄せ合っていてく。手を握り合い口づけを交・・
わし合っていく。光たちの抱擁が天に更なる色を染めていく。光の口づけの度、薄紅の少女が閃光と・・
なった。叩き合う肩に澄んだ空色が若さを見せる。瞳が重なる瞬間に純白なる風が起きる。喜びが弾・・
ける毎に光の中に果てしないオーロラが舞う。・・・
『さあ…』・・・
ミルダは目が眩んだ。これほどの光を一度に見たことはない。ミルダの幼さの破裂が止まない。何・・
度も、何度も、光に飛んだ。若さの青空がそれを誘った。薄紅の少女に触れたい…。純白な風を掴み・・
たい…。果てしないオーロラに包まれたい…。・・・
『もっと、近くへ…』・・・
星が結ばれていく。限りない光がひとつに溶けていく。愛を感じる。もっと抱きたい…。もっと抱・・
かれたい…。光からそんな思いが漏れてくる。すべての星と光が緩やかに融合していく。輝きが増す。・・
愛が揺れる。結びつきの力だ。愛が天を駆ける。ミルダにもその雫が振り注ぐ。・・・
『もっと、もっと…』・・・
光たちは天の中央へと向かった。夜空の光を神が手のひらでかき集めていくようだ。いや、神など・・
ではない。すべて光たちの意図だ。光は創造主へ近づこうとしている。創造主が我々を創造した瞬間・・
だ。光たちの誕生の瞬間だ。ミルダにそんな思いがよぎった。光たちが夢見心地でふらふらと天の中・・
央へ集まっていく。・・・
『さあ、もっと…』・・・
全体を静寂が包んだ。オーケストラの演奏が止んだのだ。光はひとつになった。天の頂にすべての・・
輝きが寄り添った。・・・
『ひとつとになるのです…』・・・
光が動きを止めた。静寂が続いた。時が目を閉じた。・・・
『さあ…』・・・
ミルダは泣いた。飽くなき自らの存在の追求の旅をミルダは思い浮かべていた。自らの旅は間違っ・・
ていなかった。光への道は自らに正しい未来を導いてくれたのだ。・・・
『ひとつになるのです…』・・・
迦楼羅の姿だった。神の時代の大鳥・迦楼羅…。ミルダに、とうとう自らの思いの光へ抱かれる時・・
が来たのだ。天の舞台に迦楼羅がミルダを誘っているのだ。ミルダの涙は止まらなくなっていた。・・・
『さあ、クライマックスです…』・・・
静寂に変化が現れた。光が徐々に縮んだ。ひとつの光の中で、光たちがお互いを強く抱きしめてい・・
く。愛が凝縮されていく。光が燃え盛っていく。生命の躍動が光たちの静寂を破っていく。・・・
『よく見ておいてください。あの輝く光を…。すべてをひとつに燃える炎を…』・・・
迦楼羅が目覚める。天に翼を大きく拡げていく。・・・
『あの輝きは、あなたです。愛に限りなく光る…。あの光こそが、あなたなのです…』・・・
迦楼羅がミルダを抱いた。果てしない愛がミルダのすべてを優しく包んだ。・・・
『ようこそ、ホワイトアイランドへ…』・・・
迦楼羅がミルダを抱いたまま光を飛んだ。その瞬間、凝縮した光が破裂した。天に無数の光が一瞬・・
に駆ける。純白な光がミルダを包む。ミルダは愛の光となった。・・・
『ようこそ、ホワイトアイランドへ…』・・・
・・・
・・・
ミルダはホワイトアイランドの光を受け取った。そして、その光を自らの内面に強く強く照らした。・・
重力が必要以上に強い星が光さえも吸収してしまうように、ミルダの光は凝縮していった。ミルダに・・
遙かなる思いが蘇った。我々は光だった…。・・・
「ウオー!」・・・
ミルダは叫んだ。震えるような恍惚だった。ミルダの思考は至高な光と溶け合っていく。ホワイト・・
アイランドの強い輝きと融合していく。そこには何の妨げはなかった。色が水に染まる。その水が綿・・
に染み込んでいく。ミルダはホワイトアイランドの色となった。・・・
「ウオー!」・・・
生命の光は美しかった。無数の色彩が秩序正しく溶け合い素晴らしい調和を保っていた。決して滲・・
みなど発生しない。美しいハーモニーだ。それぞれのパートパートを、それぞれが完璧にこなしてい・・
る。それが本来の形だ。我々の光の形だ。パートを意識しているのではない。自由を表現しているに・・
過ぎない。それが、究極の美しさのハーモニーを醸し出す。・・・
「ウオー!」・・・
ミルダの叫びは止まなかった。叫ぶ度、ミルダの光が四方に散った。それが光たちに受け入れられ・・
ていった。・・・
「ウオー!」・・・
ホワイトアイランドの光は内に内に照っていった。その照りをそれぞれが受け止め跳ね返す。そし・・
て、更に深く内へ照らし輝きを光へ戻す。そうして光が拡がっていく。・・・
それがミルダには見えた。その光をミルダは全身に浴びていた。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
愛だった。内へ照らす光は自らへの果てしない愛…。そして、それを跳ね返す光が力となって光を・・
結びつけている。ホワイトアイランドの存在の形だ。もっと抱きたい…。もっと抱かれたい…。愛の・・
力だ。透明に純白な光だった。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
愛の光が空間を優しく漂う。力強く自らへの愛を誇る。存在の果てしなさがミルダに理解の風を送・・
る。もっと、自らを知りたい…。もっと、自らを知ってもらいたい…。ミルダはホワイトアイランド・・
の光の中を歩いた。無限の力を感じた。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
自らの素晴らしい成長だった。止まるところを知らない激しい変化だった。ミルダの歩みは力強い・・
ものだった。ホワイトアイランドの光によりミルダは美しく輝いていた。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
我々は光だった…。このように美しく輝いていたのだ…。すべてがそうだ。生命あるものすべて光・・
だった…。輝きのないものに生命は芽生えない…。光こそ我々の姿だ…。ミルダの理解が増していく。・・
ミルダの周りに生命が跳ねていた。所狭しと駆け回っていく。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
光は自由だった。あらゆる生命の形をミルダに見せてくれていた。光の空間に果てしなく幼さが拡・・
がる。光たちの無邪気さがミルダに届く。自由の舞がホワイトアイランドの隅々にまで見える。すべ・・
ての笑みがミルダに感じられる。ミルダへの暖かさがミルダを更に熱くしていく。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
ホワイトアイランド…。ミルダの生命が芽生えたところだった。ミルダの魂の母体だった。光たち・・
の愛が揺れている。ミルダはそれへ微笑みと感涙を交互に送った。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
ミルダの存在はホワイトアイランドに受け入れられたのだ。ホワイトアイランドはミルダの生命を・・
優しく迎え入れたのだ。ミルダの輝きが無限に拡がっていく。ミルダの叫びがホワイトアイランドの・・
中をどこまでも轟いていく。これが愛なのだ…。愛はどんなものでも受け入れる。何をも光で照らす。・・
そして結びついていく。どこまでもひとつに溶け合っていく。それが愛なのだ。すべての光はひとつ・・
だった…。祖父の言葉を思った。今にして、それがはっきりと分かる。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
ミルダは光の中へと進んだ。進む度に次々と光を受け取った。もっと結ばれたい…。もっと近づき・・
たい…。ミルダも光を返す。それが、ミルダ自身の愛の光であることをミルダは知っていた。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
ホワイトアイランドは愛と光の世界だった。この美しい世界こそがミルダの故郷であった。ミルダ・・
の存在が芽生えた地であった。ミルダは恍惚にしばらく気を失った。光の暖かさがミルダに心地よ・・
かった。・・・
・・・
・・・
『我々は、元々、ひとつだったのです。すべての生命あるものは、ひとつだったのです…』・・・
ホワイトアイランドの光の意識だった。ホワイトアイランドのすべての光がミルダに語りを始めて・・
いた。・・・
『そして、それは愛です。生命こそが愛なのです…』・・・
ミルダは目覚めた。光の中での目覚めだった。経験したことのない爽やかさがミルダを優しくくる・・
んでいた。・・・
『我々は、すべてひとつなのです…』・・・
ホワイトアイランドはミルダを理解の中心へと誘っていた。存在の根本なる神秘な世界だ。ミルダ・・
が激しく追い求めたものだ。・・・
『我々は光でした。ひとつの輝ける光でした。愛の力で結びついた美しい光でした…』・・・
ミルダは頷いた。その理解は既にミルダの中で形となっている。ミルダはそれを追い求めてきたの・・
だ。・・・
『ひとつの光の中で、それぞれの光たちが眩しいほどの個性を楽しんでいました。結びついた光たち・・
が互いの個性を輝かせ至高なる喜びに包まれていました。果てしない宇宙に漂う純白なる透明なる愛・・
の光でした…』・・・
語りは静かだった。静けさの中に大きな力を感じた。光たちの笑みの暖かさを感じた。ミルダは心・・
を精一杯開いた。自らの光が透明になっていく。・・・
『我々は、光のまま、長い時を過ごしました。自由で平和な時でした。毎瞬、毎瞬、素晴らしい輝き・・
を放っていたのです。争いなど起こりません。すれ違いさえありません。我々は、輝きの時を過ごし・・
ていました…』・・・
光たちがミルダの廻りを走り回っている。ホワイトアイランドの数多くの光の個性たちが、幼子の・・
ように光を駆け巡っている。鮮やかな光に思い思いの形が光に舞っている。それぞれの個性を楽しん・・
でいるのだ。ホワイトアイランドの自由を喜んでいるのだ。ミルダの笑みが大きくなる。・・・
『我々の生命の踊りです。自由の舞いです。ホワイトアイランドは喜びの世界です。光たちは、あの・・
ように生命の喜びを表現します。ホワイトアイランドの隅々まで、あの踊りは駆け巡ります…。自由・・
の舞は美しい輝きをホワイトアイランドに揺らします…』・・・
駆け巡る光たちは軽やかだった。次々とミルダの光を掠めていく。光が過ぎる度に風が吹いた。そ・・
の風に、ミルダは故郷の風を思った。祖父の顔を思い浮かべた。・・・
『美しい時でした…』・・・
ホワイトアイランドが続ける。ミルダは意識を語りへ戻した。自らの理解へミルダは集中を高めて・・
いった。・・・
『我々はひとつの目的を持ちました。未来へ向かって心を開いたのです…。成長です。向上です。未・・
来への激しい思いです。それが、我々を変えていきました。そのことが、我々に変化を与えたのです。・・
遙かなるいにしえのことです…』・・・
ホワイトアイランドの語りは、光たちが入れ替わりミルダの意識に流れ込む形だった。思考の連続・・
がホワイトアイランドの無数の光たちによってミルダに届いた。それぞれの個性がミルダに次々に感・・
じられるのだ。・・・
『我々は、成長へのプログラムを作りました。未来に向かっていく思いを形にしていきました。輝け・・
る未来へと進み出したのです…』・・・
『我々は議論を尽くしました。自らへの問い掛けを続けました…』・・・
『無数の光たちの意識が己自身と話し合うことによって、我々の成長へのプログラムを作成していっ・・
たのです。それは、震える喜びの時でした。我々にとって素晴らしき時でした…』・・・
語りの連続性のリズムをミルダは受け入れた。心地よさがミルダに大きく揺れる。光たちの思いが・・
それぞれに優しすぎる。・・・
『覚えていますね、ミルダさん。あなたもその中の一人です…』・・・
そう、自分もその光だった。ミルダの過去が爆ぜていく。ホワイトアイランドは遥かなるいにしえ・・
に未来を目指した。そう、自分もその光だった。・・・
『我々の目的は、我々ホワイトアイランドを、より高次の世界へと誘うことでした。無限の成長へ進・・
むのです…』・・・
『それには、我々の個々の意識の向上なくしては叶えられません。すべての光たちの、それぞれ個々・・
の成長です…』・・・
『ホワイトアイランドはひとつの光です。無数の個々の光が、愛の力によって結びついた世界です。・・
光たちの意識が、ひとつ残らずお互いの光を理解し合った光です…』・・・
『しかし、ホワイトアイランドはその形を変えようとしました。個々の成長のため、ホワイトアイラ・・
ンドの未来のため、我々は光の形を変えざるを得ませんでした…』・・・
『ひとつひとつの光が、それぞれ個々に戻っていく必要があったのです。個々の未来への思いが、ホ・・
ワイトアイランドの更なる未来を創造していくのです…』・・・
連続の語りがここで少し間を取った。ミルダには有り難い間だった。自らの弾けていく過去をミル・・
ダはその間に見つめ直した。・・・
『それは、美しいひとつの時代の終焉でした…』・・・
そう、時代の終焉だ…。美しい時の終わりの時だ…。ミルダの過去が語りに追いつく。ホワイトア・・
イランドが続けた。ミルダが語りに追いつくのを待っているようだった。・・・
『まず、我々は、我々から遠くない空間にひとつの島を創りました…』・・・
『ホワイトアイランドから見える、緑色のオーロラに揺れていた空間です。個々の成長のための中州・・
です。緑の中州です…』・・・
『後に、グリーンアイランドと呼ばれるようになります。ご存じですね、ミルダさん…』・・・
ミルダは頷いた。微笑みが光のあちらこちらからこぼれる。・・・
『グリーンアイランドは、我々の思念によって築きました…』・・・
『我々の思いをひとつにして、緑に囲まれた空間へその思いを流しました…』・・・
『思い出すでしょう、その作業は長く続きました。楽しい作業でした。我々の結びつきの美しさを感・・
じ続けました…』・・・
『緑の雲が、空間に創造されていきました。我々の思念が、形取られていったのです…』・・・
『山や海、川や丘がグリーンアイランドに現れたのは、それからもっと後のことです。ブルーアイラ・・
ンドと巡り会ってからのことです。それは、後でお話しします…』・・・
『それは、幻想の島でした。幻の空間でした。我々の遙かなる記憶に、微かに埋もれていた夢の世界・・
でした。我々も、元は幻だったのかも知れません…。夢だったのかも知れません…』・・・
『幻想の世界に、夢と揺れる空間ができ上がったのです。光の波動ではない、幻想の波動、夢の波動・・
の島です。グリーンアイランド…』・・・
『幻と夢の空間が、我々の側に漂うことになりました。我々は、グリーンアイランドに我々の成長の・・
理想郷を思い描きました…』・・・
『光である我々に、経験という新たなる叡知を加えようとしたのです。幻の世界、夢の国での経験で・・
す。我々には、素晴らしく魅力のあることでした…』・・・
『その頃、我々に欠けていたものは個々の個性でした。永年の光の暮らしによって、我々全体の世界・・
は極限の幸福でしたが、その一方で、個々の目的を失い始めていたのです…』・・・
『個々の力で何かへ向かっていくという意欲が、徐々に欠けようとしていたのです。全体の果てしな・・
い輝きに、個々であることの素晴らしさを少し見失っていたのです…』・・・
『それ故、我々は、光の形を変えていきました。グリーンアイランドは幻想の世界です。夢の世界で・・
す。幻想へ向かうには、夢に向かうには、光を脱ぎ去らなければなりません』・・・
『光の形のままでは、異なる波動に存在することが叶わなかったのです…』・・・
『光でいることを放棄するのです。光が、幻へと変化するのです。そして、再び光へ…』・・・
『その思いが、我々の成長を促すと考えたのです。それが、成長の道と考えたのです…』・・・
『個々の個性の意欲を回復させることによって、素晴らしい経験を積むのです。そして、その経験を、・・
それぞれがホワイトアイランドへ持ち帰り、我々の貴重な財産に加えるのです…』・・・
『光を脱ぎ捨てるというのは、大変に勇気のいることでした。しかし、数多くの個々の光たちが、そ・・
の勇気をもってグリーンアイランドへ旅立って行きました…』・・・
『遙かなる遙かなる過去のことです…』・・・
連続の語りが途切れた。ホワイトアイランドが少しの沈黙を見せた。光たちが過去に揺れている。・・
ミルダを過ぎる風にそれを感じた。光の弾ける微かな音が聞こえる。ミルダもホワイトアイランドと・・
共に遥かなる遥かなる過去に揺れた。・・・
『始めのうちは、問題はありませんでした…』・・・
『そう、光たちは無事にホワイトアイランドへ戻ってきました…』・・・
『素晴らしい経験を土産に持って、再び、ホワイトアイランドの光にそれぞれの個性を同化させてい・・
きました…』・・・
『それは、幻想という貴重な経験です。夢の経験です。我々は確信しました。我々は、成長に真っ直・・
ぐに向かって進んでいると…。未来へ大きく羽ばたいていると…』・・・
『そして、次々と、光たちがグリーンアイランドへ旅立っていきました。光を脱いでいったのです。・・
おびただしいほど光たちが…』・・・
『しかし…』・・・
再び、語りが途切れる。少し長い間だった。ミルダの周りの光たちの笑みが消えていく。光たちが・・
過去に悲しみを見ている。気のせいか輝きが少し失せていく。・・・
『しかし…』・・・
ミルダは待った。ホワイトアイランドの語りを待った。どうしたのだ…。ミルダに、その過去は見・・
えない。どうしたのだ…。光たちに何があったのだ。ホワイトアイランドの沈黙が続いた。・・・
『ホワイトアイランドへ戻ってこない個々が増えてきたのです…』・・・
『そうです、光たちがホワイトアイランドへ戻ってこれなくなってしまったのです…』・・・
『悲しいことでした。自らを、再び光に戻すことができなくなったのです…』・・・
長い沈黙の後、語りが辛そうになっていた。ミルダは過去に揺れ続けていた。しかし、語りの辛さ・・
の意味はやはり見えてこなかった。・・・
『我々は焦りました。そして、再び議論となりました…』・・・
短い間が空く。ホワイトアイランドが言葉を選んでいる。ミルダにはそんな気がした。・・・
『原因は、ブルーアイランドという青く美しい惑星でした…』・・・
『地球です…』・・・
『ホワイトアイランドが、青く美しい地球と遭遇したのはそのころなのです…』・・・
『青い星は、ホワイトアイランドに影を落としました。偉大なる大宇宙の贈り物でした。大宇宙は、・・
我々の成長への旅に困難という影、いや、新しい光を授けたのです…』・・・
『ブルーアイランドが、我々に近づいたことによって、いや、我々が、ブルーアイランドへ寄って・・
いったことによって、ホワイトアイランドとグリーンアイランドの光の波動が徐々に異なり出したの・・
です…』・・・
『そうなのです。我々も気づかないうちに、ホワイトアイランドは確実に大宇宙の介在を許していた・・
のです…』・・・
『ブルーアイランドは、無限と思われるほどの重力を持っていました…』・・・
『その無限なる重力で、ブルーアイランドは、グリーンアイランドやホワイトアイランドを徐々に引・・
きつけていったのです…』・・・
『ブルーアイランドの波動は、ホワイトアイランドやグリーンアイランドの波動とはまったく異なっ・・
ていました…』・・・
『その影響です。ホワイトアイランドと、グリーンアイランドの光の波動が交わらなくなってしまい・・
ました…』・・・
『つまり、我々の周辺に、三つの異なった世界ができ上がることとなってしまったのです。ブルーア・・
イランドは、グリーンアイランド、ホワイトアイランドを、引きつけるだけ引きつけておいて交わっ・・
てしまうことはしませんでした』・・・
語りに、リズムが戻っていた。ミルダは自らの過去よりそれへ振り返った。・・・
『しかし、ブルーアイランドは余りにも美しすぎる星でした…』・・・
『青く輝くブルーアイランドに、我々は計り知れないほどの魅力を感じました…』・・・
『そうなのです。我々すべてを、激しく激しく魅了してしまったのです…』・・・
『結局、我々は成長への旅を続けることにしました。美しすぎるブルーアイランドへの魅力を捨て去・・
ることは、我々にはどうしてもできませんでした…』・・・
『長くに及んだ議論の結果、我々は、ブルーアイランドも我々の成長の旅へと加えることにしたので・・
す。我々はすべて、美しい青い星へと降り立つことを夢見てしまっていたのです…』・・・
『美しすぎました…。ブルーアイランドは、我々の想像を超えた美しさだったのです…』・・・
『こうして、我々の成長へのアイランドはでき上がったのです…』・・・
やはり、その時の記憶が蘇ってこない。青い星の美しさが自らに思い浮かべられない。ミルダは少・・
し焦った。ホワイトアイランドの語りに自らを深く沈めていった。語りは続いた。・・・
『ブルーアイランドは物質でした。光のまま、幻のままでは、物質と交わることは不可能でした…』・・・
『実際に、星の地には立てなかったのです。光の波動が異なりすぎていました…』・・・
『しかし、光たちは幻想の姿のまま、ブルーアイランドとグリーンアイランドを往復しました…』・・・
『ブルーアイランドの美しさを、幻に隠した光に感じようとしたのです…』・・・
『その思いが、グリーンアイランドに、幻想の山や川を創造することとなりました。光たちの思念で・・
す。光たちが、グリーンアイランドにブルーアイランドの形を取り入れていったのです…』・・・
『それでも、我々は、更なる成長を望みました…』・・・
『我々は、どこまでも貪欲でした。ブルーアイランドに実際に物質として立つ…。ブルーアイランド・・
と深く交わりたい…。そんな思いが、光たちを駆け抜けました…』・・・
『しかし、幻想はあくまでも幻想でしかありません。ブルーアイランドのような、完全なる物質の波・・
動を持ち合わせてはおりません…』・・・
『そう、グリーンアイランドは、あくまでもブルーアイランドの模擬でしかななかったのです…』・・・
『しかし、我々は、諦めたりしませんでした…』・・・
『我々の成長は、我々の喜びそのものです。喜びを、何もせずに手放したりしませんでした。何度も・・
言いますが、ブルーアイランドという惑星は、余りにも美しすぎたのです…』・・・
『激しい議論になりました。長い長い議論になりました…』・・・
『先に旅立った光たちを、できる限り呼び戻しました。すべての意見を、取り入れなければなりませ・・
ん。光に戻れなくなってしまった者も、幻想の姿で議論に参加しました…』・・・
『成長への過程で、我々は再びひとつに結びついたのです…』・・・
語りが少し弾みだした。そんなホワイトアイランドの幼さがミルダには嬉しかった。・・・
『我々は、ブルーアイランドを目指しました。旅支度は、非常に楽しいものでした…』・・・
『ブルーアイランドをくまなく調べました。我々のすべてでもって、研究しました…』・・・
『それは、美しく楽しい日々でした。喜びが、我々に溢れました…』・・・
『その時に、未知なるあらゆるものと遭遇しました。ブルーアイランドは奥が深い星でした。我々は、・・
その旅支度に、乙女のような恋心を抱きました。青年の蒼さが揺れました。幼さが、どこまでも駆け・・
ていきました』・・・
ホワイトアイランドの幼さの意味がミルダに分かった。ミルダの嬉しさが膨れる。・・・
『いよいよ、旅立ちの時が来ました…』・・・
『我々は希望と勇気に燃えていました。未来が輝いていました。素晴らしく純白に、どこまでも煌め・・
いていました…』・・・
『そう、希望と勇気に燃えていました…。しかし…』・・・
『そう、しかしです…』・・・
そのまでで、ホワイトアイランドが語りを止めた。幼さが素早く消えていく。光たちの旅立ちに何・・
があったのだ…。再び、長い沈黙がミルダに押し寄せる。ホワイトアイランドはどこか遠くを見てい・・
る。そんな風にミルダには思えた。・・・
・・・
・・・
笛吹きは地獄の森にいた。呪いの黒森より旅立った者を追ってのことだった。ロキが忽然と消えて・・
からヴィゴルーが一人夜宴を取り仕切ってしまっていた。笛吹きの出番がなくなった。・・・
ヴィゴルーは笛吹きの笛の音より自らのソプラノを多用した。ヴィゴルーの歌は笛吹きが聞いても・・
あまりにも悲しい調べだった。その歌に笛吹きの自らの過去がめくれていった。思いもよらぬこと・・
だった。忘れ去ったはずの日々が笛吹きの意識に浮かび上がった。・・・
笛吹きにも村人たちに似た悲しみが押し寄せた。だから、笛吹きは死んでいった者の後を追った。・・
辿り着いたのが地獄の森だった。・・・
笛吹きは自らに深く沈んでいた。地獄の森は思いに沈むのに相応しい場所だった。笛吹きは森を歩・・
き回った。めくれ来る自らの過去に少しずつ正面を向いていった。・・・
更に、笛吹きに悲しみへの理解がゆらゆらと揺れるようになっていった。ヴィゴルーの歌に夢まで・・
見るようになってしまっていたのだ。驚きだった。夢など笛吹きは忘れていた。戸惑った。悲しさを・・
投げかけたヴィゴルーを恨んだ。・・・
夢は笛吹きを別なる世界へと誘った。そこには自らの幼さの影が揺れていた。母がいた。ものすご・・
く老いていた。哀れだった。笛吹きは夢の中で母と過ごした。夢の中では幼さを思いのままうまく演・・
じることができた。・・・
「人様に迷惑だけはかけるんじゃないよ、カルム…」・・・
夢の中で母はそう言った。それが、母の生き方だった。・・・
母は目立たぬようにだけ生きていた。笛吹きは何度も頷いた。分かっているよ、かーさん…。カル・・
ムは大丈夫だよ…。・・・
-カルム…。・・・
それは、凪という意味だった。風など吹かない道を進んで欲しい…。母の願いのこもった息子への・・
名だった。それが、笛吹きの名だった。・・・
「カルム…」・・・
笛吹きは、忘れ去っていた母への憐憫の情を燃え上がらせた。夢の度、母の細い肩を叩いた。曲・・
がった背を優しく撫でた。老いた手を強く握りしめた。そして、夢から覚める度、母を思った。悲し・・
みを感じた。幼い日を懸命に胸にたぐり寄せた。・・・
「カルム…」・・・
地獄の森にひとつ呟いた。今まで符号としか思っていなかった名が、笛吹きの中で新しい意味を持・・
ち始めていた。笛吹きの変化だった。名を思い出したのだ。自分の名がなぜか果てしなく新鮮に思え・・
る。・・・
「カルム…」・・・
もう一度呟く。風に呟きが消えていく。・・・
名を思い出したことによって、自らも生を歩いていることに気づいたのかも知れない…。なぜか、・・
自分自身を身近に感じた。他の者から見ても自分の生命が見えている…。当たり前のことが笛吹きの・・
中に拡がっていた。生きているということの実感が笛吹きの胸に不思議なほど膨れていく。・・・
「おれはカルムだ…」・・・
笛吹きは森を歩き続けた。歩きながら、意識の底に母を捜していた。故郷を思っていた。笛吹きは・・
過去にどっぷりと漬かってしまっていた。心が痛かった。胸が軋んだ。・・・
「おれはカルムだ…」・・・
笛吹きは天を仰いだ。森は闇を迎えようとしていた。・・・
「フフフフ…」・・・
そんな笛吹きの背に人の気配が寄った。笛吹きがそれに振り返る。・・・
「フフフフ…」・・・
女の笑い声が低く笛吹きに届く。森の風にそれが運ばれてくる。・・・
「お役人様…。フフフフ…」・・・
自分を呼んでいる。笛吹きは過去への揺れを遠ざけた。妙に優しい声だった。夢に現れる母の声に・・
似ていた。・・・
「お役人…。ハハハ…」・・・
母ではなかった。まだ若い女だった。女は髪を振り乱し薄い笑いを浮かべている。この森に相応し・・
い女だ。女は疲れていた。・・・
「役人ではない…」・・・
名を呼んで欲しかった。誰でもよかった。おれには名がある…。・・・
「おれの名は、カルムだ…」・・・
堂々と名乗った。女へではなく自らへ名乗った。名を言った瞬間に笛吹きが軽くなった。なぜか、・・
激しく自ら存在を意識した。・・・
「おれの名は、カルムだ!」・・・
道化師からとぼけた影が消えていた。媚びた斜めの視線が失せていた。・・・
・・・
・・・
女は狂ってはいなかった。あの狂気は、地獄で生きていくための女の知恵だった。お役人…。女は・・
男に寄った。笛を持つこの男を、以前どこかで見たような気がしていた。・・・
「あの子を返して…」・・・
狂気の演技を続けた。男は名を名乗った。名を名乗る者などこの森にいない。男は違っていた。森・・
へ次々と流れ着く者たちとははっきりと違っていた。狂気の質が違うのだ。どこか覚めている。そん・・
な気がした。・・・
だから女は男に賭けた。この森を出るためだ。あの子はこの森にいない…。女は男に縋った。・・・
「カルム…。あの子を返して…」・・・
男の袖を引いた。森から出しておくれ…。男へ思いを送った。あの子はこの森にはいない…。・・・
「カルム…。お願いカルム…」・・・
男が女の目を見た。女に焦りが浮かぶ。男は見抜いている…。・・・
「女、おれに演技をするな…。お前の狂気は醜すぎる。隠さなくてもよい…」・・・
思った通りだった。やはり見抜かれていた。女は笑みを作った。狂気の作り笑顔以外の笑みを見せ・・
た。久しぶりだった。いいものだった。・・・
「女、名を何という…」・・・
答えられなかった。浮かんだ笑みを女は瞬間に消した。名…。女にはそんなことどうでもよかった。・・・
「名を何という!」・・・
それでも、女は懸命に自らの過去に馳せた。名を何という…。男の気迫に女はどうでもいい自らの・・
名を探した。・・・
・・・
・・・
笛吹きはしばらく女と歩いた。女の思いは故郷へ飛んでいるようだった。虚ろな目をいつまでも宙・・
に浮かせていた。・・・
笛吹きも過去へ舞っていた。思いにネズミが溺れ死んでいく。あの都市だ。白い石の都市…。笛吹・・
きは自らの地獄への第一歩となった恨みの都市を思い浮かべていた。・・・
人様に迷惑を掛けるんじゃない…。母の願いを破ったことを笛吹きは悔いていた。白い石の都市…。・・
母を夢見るようになってから笛吹きの思いはその時代へと頻繁に傾くようになっていた。笛吹きの変・・
化だった。・・・
「カルム…、思い出した」・・・
女が笛吹きに視線を戻した。微かな光が瞳に見える。・・・
「思い出したの…。故郷の川の名よ…。私の名じゃなくて、川の名…」・・・
女の表情からはすっかり狂気が消えていた。狂気の演技が不必要なことを悟ったのだろう。表情が・・
変化している。笛吹きの方へ安堵らしき色すら浮かんでいる。・・・
「思い出した。思い出した…」・・・
女が嬉しそうに笛吹きの肘にに絡む。少女に戻っていくのか、女の笑顔が笛吹きの前で無邪気に・・
なっていく。・・・
「エーゼル…。そう、エーゼル川…。美しい川だったわよ、私の故郷の川の名よ…」・・・
笛吹きは女の笑顔から目を背けた。変化の中にある笛吹きにはその輝きが少し眩しすぎた。・・・
「エーゼル川。美しい流れだったわよ。エーゼル…。私、その川で育ったの…。そう、エーゼルよ」・・・
エーゼルだと…。笛吹きの意識が固まる。それは、笛吹きの意識に深く刻み込まれている名だ。今・・
も、思いの中でその川の畔をふらふらと歩いていた。・・・
「春には、川の畔に花が咲くの。何という花だったかしら…」・・・
女が続けている。笛吹きはそれを無視した。エーゼル…。その響きが笛吹きの中を木霊していく。・・
なぜか、それに母の顔が揺れる。・・・
「何ということだ…。ハハハハ…」・・・
笛吹きは大きく笑った。思いに揺れる母の顔を振り払った。・・・
「ハハハハハ…。ハハハハハハ!」・・・
女の思いと自分の思いがこの地獄の森に重なっていたのだ。何ということなのだ。笛吹きは笑い続・・
けた。頬が醜く歪んでいくのが分かる。・・・
「自分の名前は思い出せないのに、故郷の川の名前だけ思い出した。不思議よね、カルム…」・・・
それへの怒りは不思議となかった。笛吹きは運命の悪戯を笑い飛ばした。それしか女への思いの処・・
理を思いつかなかった。・・・
「女、おれを見ろ…」・・・
笛吹きは笑いを収めた。直視した女の瞳の奥にネズミたちが溺れていた。エーゼル川に道化師が・・
笑っていた。・・・
笛吹きは女との出会いに恐ろしさすら感じた。自らの運命まで激しい変化の渦に巻き込まれていく・・
よう思った。女の瞳に子供が泣いている。道化師が子供を浚っていく。鳥たちが笛吹きの笛に歌って・・
いる。・・・
「おれを見ろ…」・・・
女はあの時石礫を投げた女だった。ネズミ捕りの報酬を拒んだうちの一人だった。・・・
「エーゼル川…。本当に、美しい流れだったわ…」・・・
女が思いを笛吹きへ解放していた。恐怖も警戒も見えない。笛吹きは女から視線を外した。あの子・・
を返して…。女は重い苦しみを背負っていたのだ。その苦しみは自分がもたらしたものだ。・・・
「よーく、おれを見ろ…。分からないか…」・・・
笛吹きに変化の激流がとうとう押し寄せた。女とは、同じ時、同じ都市に生きていた。その思いが・・
激しい風となって笛吹きの意識を叩いた。女を哀れに感じた。女がよく見えた。女の思いが手に取る・・
ように見えた。・・・
女は自分自身の殻を破ろうとしている。故郷の川の名を思い出そうとしたことが、女を何かへ導い・・
ているのだ。自らの思いを解放し、女はしっかりと過去に向かい合おうとしている。自らの底へ捨て・・
てしまった自我を、懸命に取り戻そうともがいている。捨て去った自我がくるまれている意識の襞を、・・
女は変化という嘴でつついているのだ。・・・
自分と同じなのだ。名を思い出したことによって、自分は激しい変化に襲われたのだ。笛吹きは女・・
と自らを重ねていた。そこには似たもの同士の暗い影があった。笛吹きは女の手を強く掴んだ。抑え・・
られなかった。変化の激流に笛吹きももがいていた。・・・
「おれは、ネズミ捕り男だ!」・・・
笛吹きは叫んだ。なぜか意味もなく焦っていた。胸の中にどろどろとした痛み流れる。女が笛吹き・・
を微笑みで見ている。なぜ、おれに気づかない…。お前の子を奪ったのは、このおれだ…。・・・
「おれは、道化師のネズミ捕り男だ!」・・・
なぜ、おれを罵らない…。笛吹きの感情が爆発していく。目に熱いものが昇る。目の前を透明に揺・・
れる風が過ぎる。女の微笑みが霞む。涙が風に一粒散った。・・・
「思い出すんだ! 女! おれは、ネズミ捕り男だ!」・・・
笛吹きの変化は最高潮にあった。感情の噴火が変化の激流の渦と交わっていく。逆らうことはでき・・
ない。笛吹きは泣いた。声を高く泣いた。・・・
「女…。来い!」・・・
女の手を強く引いた。激しい力が笛吹きに沸き上がっていく。・・・
「お前の子供に会わしてやる!」・・・
笛吹きは女を引きづりアールガルズへ向かった。女の笑みはそれでも消えようとはしなかった。・・・
・・・
・・・
リュリュは河原へ降りた。アールガルズの空はくすんだ夕日で燃えている。リュリュは足早に水辺・・
まで降りた。自分たちが育てているカボチャや芋が順調に成長しているのだ。もう少しなのだ。もう・・
少しで実が成る。そして、子供たちにも元気が戻ってきている。リュリュに嬉しいことが続いていた。・・
リュリュは勢いよく水に足を付けた。・・・
水を桶に汲んだ時だった。声が聞こえた。女の弾んだ声だった。リュリュは声の方へ振り返った。・・
子供たちやキリコ以外に人の姿を見るのは久しかった。女が男に寄り添うように歩いていた。・・・
「きれい…」・・・
女の横顔にアールガルズの消え行く夕日が跳ね返っている。・・・
「きれい…。故郷の川に似ている…」・・・
女が小走りに水辺へと降りてくる。リュリュの側を過ぎ足早に浅瀬へ足を入れる。男がその後を・・
追っていく。男と女はそのまま水際に腰を下ろした。・・・
「笛吹き?」・・・
思わず声に出た。人違いかと思った。笛吹きは痩せていた。・・・
「おっちゃん…」・・・
怒りではなく、懐かしさがリュリュに昇った。笛吹きがあまりにもみすぼらしく見えた。その姿は、・・
既に怒りの対象ではなくなっていた。あの頃の悪魔の影がまったく消えている。・・・
「笛吹きのおっちゃん…」・・・
リュリュの成長だった。懐かしさにリュリュは笛吹きに近づいた。やはり、憎む気持ちは沸き上・・
がってこない。リュリュはグリーンアイランドの風に憎しみの感情を浄化させていた。そして、過去・・
の思いはジャンの言った通りにキャンパスへ捨てていた。・・・
「どうしたの、おっちゃん…」・・・
笛吹きの顔に悲しみが見える。リュリュは驚いた。あんな笛吹きの見たことがない。笛吹きは側の・・
女は微笑んでいる。リュリュには優しい笑みに思えた。・・・
笛吹きの変化だ。それが、リュリュにははっきりと見えた。自分も経験した変化だ。笛吹きの中に・・
何かが激しく渦巻いている。・・・
リュリュは呪いの黒森を思い浮かべた。魔女だった自分が、あの子供たちに激しく心動いたのだ。・・
あの時の変化だ。今の笛吹きの変化と、それは大きな違いはないだろう。リュリュには分かる。同じ・・
暗黒に暮らした者だ。リュリュには見える。笛吹きは激しい変化の激流の渦にある。・・・
-悪魔だなんて、おっちゃんには無理だったのね…。・・・
リュリュは今の笛吹きを受け入れていく。リュリュは微笑んだ。情けない姿の元悪魔を思い切り笑・・
い飛ばしてやりたい気持ちだった。・・・
-どうしたの、おっちゃん…。元気がないのね…。・・・
リュリュは意識を飛ばした。笛吹きの懐へ入った。おっちゃん、元気をお出しよ…。むかしのよう・・
に語りかけた。優しさが笛吹きに届いたと思う。・・・
「ああ、リュリュか…」・・・
感情のない声だった。笛吹きはリュリュを見ても動くことをしない。二人は流れの前に並んで腰掛・・
けた。女が水と戯れていた。水飛沫が夕日に煌めいている。・・・
「久しぶりね、おっちゃん…」・・・
同じ痛みを知る者同士だった。そして、同じ変化を持つ者同士だった。笛吹きに笑みが微かに浮か・・
んだ。あの頃の笑みとは違う間の抜けた不自然な笑みだった。・・・
「おっちゃんは、あの悪魔から逃げてきたの…」・・・
そんな気がした。笛吹きの中にあの時の自分と同じ色が見える。・・・
「そうだ。おれは、ロキから逃れてきた。これからは、別の生き方をしてみたい…」・・・
涙の跡が見えた。どうしようもなく締まりのない顔だった。リュリュは笑いを堪えた。そうよ、泣・・
いて、泣いて、泣いたらいいわ…。そう、笛吹き伝えた。・・・
河原に闇が降りた。夕日が素早く消えていく。仄かな月が遠くに顔を出す。・・・
「女、行くぞ…」・・・
笛吹きが立ち上がった。リュリュに何も言わない。肩が落ちている。笛吹きに道化師の欠片さえ見・・
られない。笛吹きは女の手を引いた。・・・
リュリュも何も言わず笛吹きを見送った。何やら寂しさだけが残った。遠くからの月の雫が、リュ・・
リュの頬に落ちてきていた。・・・
「ウワーー!」・・・
その時、河原に罵声が上がった。子供たちがこちらを見ていた。笛吹きを怒りの表情で見ていた。・・・
(2)・・・
・・・
『それは、悲劇の始まりでした』・・・
ホワイトアイランドの幼さがまったく隠れてしまった。ミルダはどこからか微かなすきま風を感じ・・
た。ホワイトアイランドが語りを続けた。・・・
『憧れのブルーアイランドは、我々の世界とはまったく異なっていました…』・・・
『そうなのです。我々の十二分の研究でも、捉えきれない不思議なものが数知れずあったのです…』・・・
『悲劇の始まりでした…』・・・
少しの間、ミルダは思考を止めた。語りの中に見えてくるホワイトアイランドの辛さが、自らの思・・
考にまで届いてくるようだった。悲劇の始まり…。その意味がミルダにも朧気ながら見えてきそう・・
だった。ホワイトアイランドは続けた。連続性を途切れさすことはなくなっていた。・・・
『ブルーアイランドへ物質として立つということは、光が、物質を抱かなければなりません…』・・・
『その場での存在の形、それが、ブルーアイランドでは肉体でした…』・・・
『我々は、物質の肉体を持ちません。光としての存在です。ブルーアイランドで生きていくための肉・・
体は、我々の光の中にはありません…』・・・
『しかし、我々は肉体というものを、我々光たちの乗る舟と考えました…』・・・
『ブルーアイランドで生きていくための、成長への方舟です…』・・・
『光はブルーアイランドで生きていく期間、つまり成長の波の中、その波を超えていくために方舟に・・
乗ることにしたのです…』・・・
『そして、我々は、その舟をブルーアイランドの生物の進化の中に見い出しました。その進化の中へ、・・
我々が入っていったのです…』・・・
『そのことが、知らず知らずのうちに、大宇宙の自然の流れに背いてしまったのかも知れません…。・・
果てしない大宇宙の風に、逆らってしまったのかも知れません…』・・・
『ある動物の進化の中に、我々の光は降り立っていきました。その動物の新たなる生命に、光たちが・・
溶け込んでいったのです…』・・・
『そのことによる罪の意識は、我々にはありません…』・・・
『我々の光たちは、その動物たちとうまく調和していきました。我々は、我々なりの進化の道を辿り・・
ました』・・・
『動物の交尾の時にだけ、その動物に我々と同じ波動の光が揺れました…』・・・
『我々は、その光へ紛れ込んでいったのです。美しい光でした。生命の根源の光です。どこまでも輝・・
いていました。その動物の、永遠の愛の煌めきでした…』・・・
『その動物は、複数の子孫を一度に産み落としていました…』・・・
『それに、我々の光が紛れていったことによって、その光がひとつ多く生まれることとなりました』・・・
『しかし、我々と、その動物は求めるものが異なっていました。動物は、地に子孫を残すことを至上・・
なる喜びにしていました。我々とは違いました…』・・・
『我々は、愛を求めました。光の結びつきのように、その動物たちと愛の結びつきを求めたのです』・・・
『その隔たりは大きすぎました。結局、その動物たちとは、その後に枝分かれしていきました…』・・・
『我々に、光が見えなかったのです。交尾、つまり、愛の行為の中でしか、我々と同じ波動の光は見・・
いだせなかったのです…』・・・
『それが、物質と光の違いです…』・・・
『物質は、光を、その者の奥深くに隠してしまっていました。我々の思った方舟と違いました。それ・・
が、美しい青い星ブルーアイランドに暮らす者の本当の姿だったのです。本当の形だったのです』・・・
『我々は、光を求めました。我々の未来を、我々で創っていこうとしました…』・・・
『それが、人類です…』・・・
『光だった我々のブルーアイランドでの姿です…』・・・
太古のブルーアイランド…。ミルダの脳裏に透き通った青い星が澄み切った宇宙に浮かんでいく。・・
ミルダの思いはその青い星の上を飛んだ。・・・
『人類は、歪んだ未来を目指したようでした。まさしく悲劇の始まりでした…』・・・
少し見え始めてきた。光たちの歩んだ道に、何かが困難の影を落としたのだ。光の未来は、今の人・・
間たちのように争いの日々ではなかったはずだ。・・・
『ブルーアイランドへ降りた光たちは、まず、物質として存在するためのエネルギーを摂取しなけれ・・
ばなりませんでした…』・・・
『我々光は、ホワイトアイランドでは光の愛をエネルギーとします。それは、いつどこでも摂取する・・
ことができます。無限の資源です…』・・・
『そう、それは、我々が創り出します…』・・・
『そして、グリーンアイランドでは空間より直接吸収します…』・・・
『風です。ホワイトアイランドからグリーンアイランドへ愛の風を送っているのです…』・・・
『しかし、ブルーアイランドでは、物質よりそれを求めなければなりませんでした。飲食という作業・・
によって、それは始めて可能になることでした』・・・
『それは、分かっていたことでした。我々は研究しました。当然、分かっていたことでした…』・・・
『しかし、本当のことは知らなかったのです…』・・・
『そう、我々は何も分かっていなかったのです…』・・・
ホワイトアイランドが大きく揺れた。ミルダも揺れた。ミルダにその揺れの理由が見えてくる。そ・・
う、光たちがブルーアイランドで降り立った。そして、ものを喰った。草や実を食った。その生命を・・
傷つけた。・・・
『ブルーアイランドで、光たちは飲食を繰り返しました。そうしないと、ブルーアイランドでは生き・・
ていけません…』・・・
『光が、その場に存在するということのためだけに、ブルーアイランドの大自然の一部である植物を・・
次々ともぎ取っていったのです…』・・・
そうなのだ…。生命を傷つけていった。植物たちの生命を…。ミルダの揺れも大きくなる。・・・
『知らなかったのです…。我々は、知らなかったのです…』・・・
『何も分かっていなかったのです…』・・・
そう、知らなかったのだ。十分な調査でもそのことは理解できなかったのだ。光たちはまだまだ未・・
熟だったのだ。ミルダにいにしえが仄かに浮かび上がる。・・・
『生命が宿っていたんです…』・・・
『植物は、それぞれが輝ける生命を持っていました。透明なる生命の息吹が、小さな草や茎に脈打っ・・
ていたのです…』・・・
『そのひとつひとつが、生命を精一杯生きていたのです…』・・・
ミルダに痛みが押し寄せる。植物が精一杯生きていた…。その言葉にミルダの光が熱くなっていた。・・
悲しみを感じた。自分たちのエゴが真っ黒に見える。・・・
『悲劇でした…』・・・
『そう、我々は、大宇宙から授かったブルーアイランドを、我々の成長のためだけに蝕んでいったの・・
です…』・・・
『誰が責められよう…』・・・
『誰も責めることなどできません…』・・・
『彼らは、ただ生きるためにそうしました。そうしなければ、生きてはいけなかったのです…』・・・
『彼らは、光を物質の奥深くに消し去っていました。他の生命を奪ったという意識などなかったはず・・
です。悲劇の始まりを感じることすらなかったはずです…』・・・
『誰が責められよう…』・・・
そう、誰も責められない…。ミルダは泣いていた。悲劇の始まりの理解がミルダにも激しく押し寄・・
せていた。ホワイトアイランドの揺れが更に大きくなっていく。・・・
『しかし、しかしです…』・・・
風がミルダを過ぎる。光が素早くミルダを過ぎる。それは太古からの風と光だった。ミルダの思い・・
がホワイトアイランドへ大きく揺れていく。・・・
『しかし、そう、しかしです…』・・・
『ブルーアイランドの植物は、何度も、何度も、再生を繰り返したのです。めくるめく果てしない生・・
命の、力強い舞いでした…』・・・
『植物たちは、幾度も蘇りました。植物の小さな生命の、偉大なる生きる力でした…』・・・
『激しく強い思いでした。そして、素晴らしい叡知でした…』・・・
『極端に短い生命を、時代に絶やさぬための彼らの知恵だったのです…』・・・
『植物たちは、同じ惑星に生きる動物たちと協力し合って生きていたのです…』・・・
『そうなのです。小さな生命を、未来へと、その種を残していく手段だったのです。植物たちの未来・・
は、ある意味では我々よりも輝いていたのです…』・・・
『熟れた実を早く採ってしまわないと、種は腐ってしまいます…』・・・
『美しい実は、それだけでは未来へは進んでいきません…』・・・
『だから、植物は動物に熟れた実を与えるのです。空を飛ぶ鳥や蝶に花の密を与えるのです…』・・・
『動物が、運んでくれます。鳥や蝶が、運んでくれます…』・・・
『そして、風が、それを後押しします…』・・・
『それが、彼らの形です…』・・・
『彼らは、星に暮らす者たちと助け合いながら、彼らの未来へと歩んでいたのです…』・・・
『それは、我々が想像することすらできない永遠の時の中、植物たちが、ブルーアイランドで育んで・・
いった彼らの美しい未来への形だったのです…』・・・
助け合い未来へ向かう…。植物たちも未来を目指している…。木や草、そして、名もない花たち。・・
ミルダの揺れが少し収まる。感じた風が消えていく。・・・
『そんな植物の形を、星へ降り立った光たちに理解することができませんでした…』・・・
『旅立った光たちは、光だった頃を徐々に忘れ去っていったのです…』・・・
『そうなのです。悲劇は続きました…』・・・
悲劇は続いた。そうなのだ…。ミルダにそれは見えた。過ぎた風にそれが見えた。・・・
『植物たちの未来への形…。光たちは、その中へ入っていくことはできませんでした…』・・・
『仕方ないことでした。光たちは、既に光を見失っていました』・・・
『争いです。奪い合いです…』・・・
『光たちは、お互いを傷つけ合っていったのです。エネルギー補充の食べ物のために…』・・・
『恐ろしいことです…』・・・
『我々は、愛の光です。愛の光は、お互いをいたわり合う。お互いを引きつけ合う。お互いを結びつ・・
ける。愛の光こそ、我々のすべてでした…』・・・
『しかし、彼らは、愛を失っていったのです。奪い合う度に、光の輝きを置き去りにしてしまったの・・
です…』・・・
『その結果、欲望という恐ろしい意識が彼らに芽生えました…』・・・
『奪い合い傷つけ合った結果でした…』・・・
『悲劇は、確実に彼らの中で進んでいったのです…』・・・
愛を失った光たち…。ミルダには分かる。今のブルーアイランドだ。青い星は、今、完全に病んで・・
いる。・・・
『そのようにして育った欲望は、黒いエゴとなり、醜い力となり、次第に形を変えていきました…』・・・
『植物や小動物の生命を奪っていくことに慣れた彼らは、その欲望を糧に、とうとう狂気という悪魔・・
の剣を育ててしまったのです…』・・・
『狂気という狂った果実を、彼らの光の中に育んでいったのです…』・・・
『愛の光を失っていった代償は、計り知れないほど大きいものとなってしまったのです…』・・・
『狂気は、狂気を集めます。ぶつかりあいます。そこには、必ず争いが起こります…』・・・
『ついに彼らの狂気は、その鋭い牙を剥きました…』・・・
『光たちは争いました。血が流れました…』・・・
『同じ光だった彼らが、同じ光だった彼らの生命を奪い始めました。殺し合いです…』・・・
『狂気が狂気と激しくぶつかり合ったのです…。悲しいことです…』・・・
『これを、悲劇と言わずに、何を悲劇と言うのでしょう…』・・・
『ぶつかりあった狂気は、無限に拡がっていきました。野を越え、山を越え、彼らの世界を埋め尽く・・
してしまったのです…』・・・
『どうすることも、できなかったのです…』・・・
『そう、我々には、どうすることも、できなかったのです…』・・・
ミルダも呟いていた。どうすることも、できなかった…。どうすることも、できなかった…。・・・
『今も、その悲劇は続いています。人々は殺し合い、奪い合い、傷つけ合う…』・・・
『我々の愛の光は、遥か彼方へ押しやられ、狂気の風がブルーアイランドに所狭しと吹き荒れていま・・
す…』・・・
『我々の成長への旅は、その風に、闇の彼方へ置き去りにされようとしているのです…』・・・
『どうすることも、できなかったのです…』・・・
『そう、我々には、どうすることも、できなかったのです…』・・・
ホワイトアイランドが語りの間を置いた。沈黙が長く続いた。ホワイトアイランドが揺れを収める。・・
ミルダは心の目を閉じた。・・・
『悲劇は、永遠に続いています…』・・・
再び、ホワイトアイランドが小さく揺れた。・・・
『しかし…』・・・
ホワイトアイランドの口調が変化していく。語りが、再び力強くなる。・・・
『しかし…』・・・
『我々は、指をくわえているだけではいかなくなりました…』・・・
『そうなのです。いつまでも、どうすることもできなかったでは、我々の未来は、永劫に闇に閉ざさ・・
れてしまいます…』・・・
ホワイトアイランドがリズムを取り戻す。語りの中にホワイトアイランドの未来が見えてくる。・・・
『ブルーアイランドは、完全に病んでしまいました。人々の争いに、ブルーアイランドは根から蝕ま・・
れてしまいました…』・・・
『しかし、まだまだそれを癒すことは可能です…』・・・
『そうです。それは可能なのです。我々は、それを話し合いました…』・・・
『そして、我々は、立ち上がりました…』・・・
『我々の本当の目的ために、もう一度、新たに動き始めました…』・・・
『光を脱いでいった者たちに、愛の光を呼び覚ますのです。そして、再びひとつになるのです…』・・・
『そうです。ホワイトアイランドは、動き出したのです…』・・・
その瞬間、ミルダに激しい震えが襲った。熱い思いがミルダの魂にまで突き上げた。・・・
「そうだ、我々ホワイトアイランドは立ち上がったのだ!」・・・
ミルダは叫んだ。ホワイトアイランドの光からの風のすべてが、叫ぶミルダへと注がれる。ミルダ・・
の光がホワイトアイランドの中を膨れ上がっていく。・・・
『そうなのです…。あなたこそ、我々の選んだ勇者なのです…』・・・
我々の選んだ勇者…。ホワイトアイランドのその言葉に、過去が完全にミルダに蘇った。そうなの・・
だ。ホワイトアイランドが立ち上がった。我々の光を取り戻そう…。そう、ホワイトアイランドが立・・
ち上がったのだ。そして、その先陣が、このおれなのだ!・・・
ミルダは叫んだ。激しく雄叫びを上げた。・・・
「我々ホワイトアイランドは、未来のために立ち上がったのだ!」・・・
ミルダは閉じていた心の目を開けた。目の前にあの迦楼羅の光が炎に燃え上がっていた。・・・
・・・
・・・
『あの双頭の竜の光も、元々我々の一部でした…』・・・
『いや、我々のひとつの光でした。ブルーアイランドに遭遇するまでは…』・・・
ホワイトアイランドの語りが変わっていく。ホワイトアイランドが双頭の竜へと意識を向けた。・・・
『我々の成長の旅立ちの幼年期に、未来へ向かった勇気ある光たちです』・・・
ミルダの意識にも双頭の竜の姿が揺れる。それは、三度出会っている。黒く尖った山の頂。ロキの・・
意識の中。そして、ロキと共にその光に入った。ミルダはそれをホワイトアイランドへ伝えた。・・・
『我々は、あの光をペリポラーと呼んでいます…』・・・
『公転という意味です。あの光は、我々の周りを定期的に回っています…』・・・
『ペリポラーに罪などありません…。ペリポラーは、大宇宙の介入によってホワイトアイランドへ・・
戻ってこられなくなった哀れな光たちなのです…』・・・
ホワイトアイランドにペリポラーへの悲しみが見える。それが、ミルダの中にも浮かび上がる。・・・
『その時、彼らの旅は、終わろうとしていたのです。グリーンアイランドから、ホワイトアイランド・・
への帰路の途中だったのです…』・・・
『帰路の途中に、ブルーアイランドが彼らを横切っていったのです…』・・・
『青い星は、彼らにとって計り知れないほどの魅力あるものだったに違いありません…』・・・
『当然です。彼らは、我々より近い距離でブルーアイランドとの遭遇を果たしたのです。我々より、・・
ブルーアイランドを身近に感じたのです…』・・・
『宇宙空間を横切るブルーアイランドの重力は、それは強力なものでしたでしょう…』・・・
ミルダは言葉を挟むことをしなかった。ホワイトアイランドのペリポラーヘの思いやりが感じられ・・
る。ペリポラーも元々はホワイトアイランドの光だったのだ。ミルダはホワイトアイランドの語りに・・
沈んだ。・・・
『ペリポラーは、そのまま青い星へ向かったのです…』・・・
『透き通るような青い輝きに、彼らは魅せられたのです…』・・・
『当然です。我々同様、あの輝きに、背を向けることなどできません…』・・・
双頭の竜がミルダの意識の中に青い輝きを拡げる。青い星と同じ色で輝いていく。・・・
『しかし、そのことは叶いませんでした…』・・・
『地球の重力が、彼らを果てしなく突き放してしまったのです…』・・・
『磁力が反作用を起こすように、ペリポラーの光たちを、ブルーアイランドが遥か彼方へ飛ばしてし・・
まったのです…』・・・
『彼らに、その準備がまったくなかったのです…』・・・
『彼らは、瞬間に我々のアイランドから忽然と消えてしまったのです…』・・・
『その後のことは、我々にも分かりません…』・・・
『方々手を尽くし、彼らを探したのですが、その行方は掴めませんでした…』・・・
『彼らにどんな苦難な時があったのかは、我々には、想像することすらできませんでした。ペリポ・・
ラーは、我々から消えてしまいました…』・・・
宇宙の果ての闇がペリポラーの青い輝きを消していく。ミルダの脳裏にその光景が揺れる。ペリポ・・
ラーの悲しみがミルダに押し寄せる。・・・
『再び、ペリポラーの光が我々の前に現れたのは、初期のムーの時代でした…』・・・
『彼らの光は、色褪せていました。傷ついていました。そして、歪んでいました…』・・・
『それからです。ペリポラーは、我々の周りを定期的に漂うようになりました…』・・・
『そして、戻った彼らの光に、我々の理解することのできない異形の意識が見らました…』・・・
『それは、狂気の光でした。光たちが、光たちを殺しあった狂気と同じ色の光でした…。悲しいこと・・
でした…』・・・
ミルダに流れ来る悲しみが大きくなる。ひとつだった光。ペリポラー。双頭の竜への思いがミルダ・・
の中に激しくなっていく。・・・
『我々は、何度となくペリポラーにコンタクトを取ろうとしました…』・・・
『しかし、それは不可能でした…』・・・
『なぜならば、彼らの表面には、ホワイトアイランドの光の波動は見いだせなかったのです…』・・・
『ペリポラーの狂気は、我々のアイランドとは別の世界のものに違いない…。我々は、その不要な土・・
産を、彼らの光から取り除いてやりたかったのです…』・・・
『しかし、それは叶いませんでした。我々の呼びかけに、ペリポラーは一度として応じようとはしま・・
せんでした…』・・・
双頭の竜が迦楼羅に牙を剥く。狂気の光が迦楼羅を射る。ミルダにそれへの脅えが揺れる。意識に・・
冷たいものが走る。・・・
『更に、悲劇が続きました…』・・・
『そのうちに、ペリポラーの狂気がブルーアイランドの極一部の者と接触を持ち始めまたのです…』・・・
『それは、狂気のみが反応する、余りにも危険な接触です…』・・・
『それが、太古のブルーアイランドを、徐々に蝕んでいったのです…』・・・
『人々は、激しく争いました。光を忘れ殺し合いを続けました…』・・・
『悲劇の歴史は、繰り返されました…』・・・
『ペリポラーの狂気は、人々の狂気を激しく煽動したのです…』・・・
ロキだ…。ミルダは言葉を挟んだ。ペリポラーの狂気がロキを今でも煽動している…。双頭の竜…。・・
ミルダの意識にロキとペリポラーが重なっていく。・・・
『ペリポラーは、今、ブルーアイランドとグリーンアイランドへの通行権を手に入れようとしていま・・
す。いや、既に手に入れたかも知れません…』・・・
『ペリポラーは、間違った未来へブルーアイランドを誘おうとしているのです…』・・・
『彼らにとって、ブルーアイランドはお荷物なのです…』・・・
『我々は、すべてで成長していきます。ひとつの光だったのですから当然のことです…』・・・
『しかし、ペリポラーには、そのことの理解が少し歪んでいるのです…』・・・
『彼らは、ブルーアイランドを更なる狂気に陥れようとしています。ブルーアイランドの人々に物質・・
を脱がそうとしているのです…』・・・
『死へと、向かわそうとしているのです…』・・・
『そうすることによって、物質の波動を持つブルーアイランドが、我々やペリポラーから離れていく・・
と信じているのです…』・・・
『つまり、ペリポラーは、ブルーアイランドを彼らの成長から引き離そうとしているのです。ブルー・・
アイランドの人々を、死の闇に放り出そうとしているのです…』・・・
『そして、彼らは彼らの未来を目指す…』・・・
『そのためには、ブルーアイランドを死の星にする必要があるのです。ロキが創った死への道を、ペ・・
リポラーは、更に大きく拡げようとしているのです…』・・・
『そうして、ブルーアイランドから、我々の存在を根絶やしにするつもりなのです。我々の成長の思・・
いとは、まったく異なったペリポラーの思いなのです…』・・・
『狂気です。狂気に、激しく歪んでいるのです…』・・・
ミルダの脳裏を双頭の竜が風を切って駆け出た。その先に、美しい青い星が見える。青い狂気がそ・・
れへと向かっていく。・・・
「双頭の竜が、ブルーアイランドへ向かっていく!」・・・
ミルダは叫んだ。ブルーアイランドに狂気が振る…。ミルダの意識に緊張が走る。・・・
『危険です! 非情に危険です!』・・・
『ペリポラーの狂気は、鋭く尖っています!』・・・
『抑えが効かなくなっています!』・・・
ミルダは飛んだ。ホワイトアイランドを後にした。ホワイトアイランドは立ち上がったのだ。その・・
先陣が自分なのだ…。ミルダの激しい思いが弾けた。・・・
『我々は、いつでもあなたに付いています…』・・・
『そうです。あなたの闘いは、我々の闘いなのです…』・・・
『我々はすべてあなたの側にいます。あなたに風を送り続けます…』・・・
その時、ミルダにホワイトアイランドのすべての光がはっきりと見えた。すべての光がミルダに果・・
てしない力を投げつけていた。・・・
・・・
・・・
拳ぐらいの石だった。笛吹きは地に倒れた。額から鮮血が流れた。・・・
「悪魔だ! 笛吹きの悪魔だ!」・・・
子供たちだった。石礫が次々と笛吹きを襲う。笛吹きが流れる血をそのままに流れに立つ。・・・
「バカヤロー!」・・・
「笛吹きのバカヤロー!」・・・
「おっさんなんか死んじまえ!」・・・
闇に揺れる笛吹きの姿が、子供たちから見ても余りにも弱々しく映ったのだろう…。悪魔の面影が、・・
笛吹きからまったく見えなくなっていたのだろう…。子供たちの怒りがまっすくに笛吹きに向かって・・
いく。・・・
「バカヤロー! 死んでしまえ!」・・・
「笛吹きのバカヤロー!」・・・
子供たちにさえ、笛吹きは恐れの思いを見せることができなくなっていた。笛吹きが流れの中に呆・・
然と立ちすくむ。・・・
「弱虫のおっさん! バカヤロー!」・・・
「そうだ、弱虫だ!」・・・
更に、子供たちにはキリコとリュリュがついている…。笛吹きの一人ぐらいなら二人が救ってくれ・・
る…。その思いに、子供たちの笛吹きへの恨みが爆発していく。・・・
「ゲタン! 止めるのよ! みんなも止めるのよ!」・・・
リュリュにはそんな子供たちの思いが見えていた。子供たちの怒りが笛吹きへ石礫となって空から・・
振ってくる。礫は止まない。・・・
「止めるのよ! みんな、止めるのよ!」・・・
リュリュは叫んだ。子供たちの気持ちは分かったが、リュリュは笛吹きの痛みも思った。・・・
「どうしてだよ、リュリュねーさん!」・・・
「そうだ、そいつだぜ。そいつが、おれたちを騙していたんだ!」・・・
子供たちの怒りがリュリュにまで向く。子供たちは石礫を続けた。リュリュを避け、石が水面へ幾・・
つも飛ぶ。・・・
「バカヤロー! 死んでしまえ!」・・・
「笛吹きのバカヤロー!」・・・
そして、そのひとつが笛吹きの連れの女に当った。・・・
「キャー!」・・・
鋭い悲鳴と共に、水と戯れていた女が流れに崩れ落ちた。誰かの投げた石が女の眉間に命中したの・・
だ。・・・
「止めなさい! みんな、止めるのよ!」・・・
リュリュが堤を上がる。遅れてやってきたキリコが子供たちをどうにか止めていた。リュリュは安・・
堵した。水辺を振り返った。・・・
「女、来い!」・・・
礫を受けた女を笛吹きが引きずっていた。笛吹きは子供たちを見ていない。じっと、何かに耐えて・・
いる。・・・
「来るんだ! これがおれたちの定めだ…。日陰者の報いだ!」・・・
笛吹きの叫びがリュリュにも届く。激しい何かが笛吹きの中で暴れている。女の額からも血が流れ・・
ていく。真っ赤な血が女の顔面を染めていく。それを、お構いなしに笛吹きが引く。・・・
女が笛吹きを見た。女の表情が硬くなっていく。笛吹きの手を振り解く。目に光が帯びていく。・・・
「投げなさい! その石をわたしに投げるのよ!」・・・
女が堤の方へ踵を返した。血走った目がリュリュたちを射る。・・・
「そうよ、投げるのよ! あの日のように。私がしたように、大きな石を投げるのよ!」・・・
女が続けた。叫びながら女は泣いていた。髪を振り乱し狂ったように叫ぶ。・・・
「そうよ、あの日のように! 私が、ネズミ捕り男へ石を投げたように! さあ、投げなさい!」・・・
女の異常さに子供たちが驚きの面を揺らす。リュリュとキリコに女への警戒が浮かぶ。・・・
「私よ、私が言ったのよ。あんな汚いネズミ捕り男なんか、石でも投げてしまおうって!」・・・
女は気丈に身構えた。次々と女の涙が頬に伝う。涙が月の光に反射する。・・・
「さあ、どんどん投げるのよ! 遠慮なんかいらないから!」・・・
その時、堤を一人の女の子が凄い勢いで駆け降りた。クラーラだった。クラーラが狂ったように叫・・
んだ。リュリュが止める隙すらなかった。・・・
「ママー!」・・・
クラーラが女の方へ全速力で駆けた。草に絡まり何度も転んだ。・・・
「ママー! ママー! ママー!」・・・
女もそんなクラーラを認めた。転げ落ちてくる小さな生命を凝視した。・・・
「クラーラ…」・・・
月がクラーラだけを照らした。川原に浮かんだその光は何度も何度も転げている。・・・
「クラーラ!」・・・
女も走った。女も小さな生命の叫びの意味が分かったのだ。・・・
「クラーラ! クラーラ! クラーラ!」・・・
女がクラーラを抱いた。二人の涙が風に散っていく。・・・
「ママー!」・・・
「クラーラ!」・・・
思いがけない親娘の再会だった。リュリュには信じられない思いだった。・・・
「ママー!」・・・
「クラーラ!」・・・
それは、リュリュが見ても美しい姿だった。月の雫がしっかりと二人だけに落ちていた。リュリュ・・
は笛吹きに飛んだ。笛吹きに涙が見えた。・・・
「おっちゃんが、連れてきてくれたのね…」・・・
瞬時に、リュリュの涙腺が破裂した。クラーラの涙の叫びにリュリュは喜びに泣いた。・・・
「おっちゃん、ありがとう…」・・・
リュリュの涙が堰を切った。よかったね、クラーラ…。よかったね、クラーラ…。リュリュは何度・・
も意識にそう呟いた。・・・
「よかった。よかったね、クラーラ…」・・・
・・・
・・・
呪いの黒森は闇に包まれていた。その闇の中に老人が身を潜めていた。木の上だった。風が強く、・・
葉擦れの音が老人には悲鳴に聞こえていた。・・・
深い瞑想に入ることができなかった。どうしても、自らの思いが意識に昇る。老人の心は揺れてい・・
た。何かが老人の胸の中で激しく燃え上がっていく。ミルダの激しさが老人にも乗り移ったのか、老・・
人の胸は高鳴っていた。・・・
風が強さを増していた。木々が荒れ狂っていく。風の悲鳴が鋭くなる。老人は木を下りた。風を受・・
けた。風に歩いた。風になった。・・・
-ウー…。ウー…。・・・
悲鳴に聞こえた。それは、木の叫びだった。低く地鳴りのように聞こえる。・・・
-ウー…。ウー…。・・・
呻いている。木々が悶え苦しんでいる…。老人は訳もなく焦った。・・・
-ウー…。ウー…。・・・
森に、この様な声を聞いたことなどない。木々の苦悩が老人の意識を強く叩く。木々が助けを求め・・
ている。呻き声にそれを感じる。・・・
-ウー…。ウー…。・・・
救いの手を待っている。悲しさすら聞こえてくる。低い呻きが老人を掴んで放さない。木々は老人・・
に訴えていた。・・・
-助けてくれ…。・・・
-我々は、無限の月日を過ぎてきた…。・・・
-そう、苦しみや、悲しさを、乗り越えてきた…。・・・
老人の風が木々たちの創った風と交わった。風の中に木々たちの意識が揺れていた。老人は意識を・・
沈めた。風と向かい合った。木々たちの呻きに何かの意味が見えてくる。・・・
-しかし、いくらその苦しみや悲しみを越えても苦悩は去らなかった…。・・・
-助けてくれ…。・・・
-我々の苦悩は永遠に去らなかった…。・・・
木々の訴えを老人がしかと受け止めた。木々は悲しみを風に見せていた。風に流していた。痛みに・・
もがいていた。・・・
-この森は、魔界との接点である。それは、魔界が形成されてから変わっていない…。・・・
-魔界にいる者の苦悩が、無限に森に流れ込むのだ…。・・・
-吹く風に、黒い霧となって押し寄せるのだ…。・・・
-魔界の闇のどろどろとした怨念が、私たちを徐々に蝕んでいくのだ…。・・・
魔界の者の苦悩…。それがこの森に押し寄せる…。分かるような気がした。老人は木々たちの話を・・
聞いた。木々の呟きが四方から連続して老人に届く。・・・
-長い長い歴史の中、それは、少しも変わらなかった…。・・・
-いや、魔界だけではない。地上に住む者たちも、世の中の悲しみや苦しさを風に残していく。そし・・
て、その風が、この森に吹く…。・・・
-哀れな者が、後を断たない。私たちは、それらを、私たちの過去へ流すことはできないでいた…。・・・
-悲しみや苦しみを、希望の未来へと、ちぎって捨てることはできなかった…。・・・
-どうしようも、できないことだった…。・・・
-長い長い歳月の中、私たちには、どうしようも、できないことだった…。・・・
風が更に増した。木々たちの言うように、その風は悲しみの風なのか、老人には深い闇からの風に・・
思えた。・・・
-風が、この森に止まってしまうのだ。・・・
-風が、私たちを離れていかないのだ…。・・・
-悲しみ、苦しみ、そして、痛み、それらを永遠に風がこの森へ運んでくるのだ…。・・・
-助けてくれ…。・・・
-この森に、それらの思いが果てしなく蓄積された…。・・・
-我々の思いにも、それが積み重なっていった…。・・・
木々の思いは鈍く重かった。老人はその重さに押しつぶされそうになっていた。果てしない闇の重・・
さが老人の意識に蓄積されていく。底無しの沼に老人が落ちていく。・・・
-助けてくれ…。・・・
-私たちは、何十年、いや、何百年と苦しんだ。悲しんだ…。・・・
-助けてくれ…。この風を遠くへ…。・・・
木々が老人を引き込んでいく。悲しみ、苦しみの理解を、激しく老人に求めている。・・・
-風を遠くへ…。・・・
-助けてくれ…。風を遠くへ…。・・・
-そう、風を遠くへ…。風を遠くへ…。・・・
限界だった。老人は風を出た。・・・
「ウオー!」・・・
老人は叫んだ。木々の悲しさに老人まで包まれていた。木々の苦しさを老人はしっかりと理解して・・
いた。・・・
「ウオー!」・・・
風は止んでいた。森が静けさを無理に創っていた。あの呻き声ももう聞こえない。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
老人の意識に青い若さが沸き上がる。幻想の肉体に生命の力が満ちていく。何かを始めなければ…。・・
自分にもできることはある…。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
老人の枯れた意識に栄養の力の水がどんどん染み込んでいく。老人は吠えた。獣のように木々へ激・・
しく吠えた。・・・
「ウオー!」・・・
叫びに風が戻った。闇の風が再び森を揺らす。・・・
「ウオー!」・・・
老人はその風に乗った。熱い思いが老人のすべてを包み込んでいた。・・・

(3)・・・
・・・
小さな光が無の空間を横切っていく。空間には何もない。光が風を切る音すら無の彼方へと消えて・・
いく。その中を、闇に一点、光が直線に残像を残して突き進む。光は意識を持っていた。激しい思い・・
を抱いていた。・・・
遠い彼方に星粒のような鈍い輝きが見える。そこだけ闇が微かに綻ぶ。闇を揺らすように不規則な・・
光が蠢いている。光は進んだ。光は風を背に受けていた。ホワイトアイランドの風だ。ミルダの光は・・
双頭の竜へと向かっていた。・・・
遠い星が形を見せ始めた。双頭の竜。ミルダはそれを認める。青い仄かな光だ。水に浮かぶ月のよ・・
うな雫だ。ペリポラー。ホワイトアイランドを太古に旅立った光たち。竜は双頭を闇へ伸ばしていた。・・
青い目を遠くへ向けていた。・・・
ミルダの光がペリポラーを前に空間に停止する。空間に微かな歪みが起こる。ミルダに緊張が走る。・・
双頭とは別なる気配がミルダの背に迫ってくる。・・・
「ミルダ君! その光に寄ってはならない!」・・・
別なる光がミルダの前に立ちはだかった。闇に赤い光が浮かぶ。・・・
「ミルダ君。下がるんだ!」・・・
双頭の竜がミルダたちの光を認める。双頭双眼がミルダの前に揺れる。・・・
「ミルダ君! 下がるんだ!」・・・
別なる光はラ・ムーだった。ミルダの前にラ・ムーが飛んだ。・・・
「ミルダ君。あの光には行ってはいけない! あの光は、我々の創造主の使いだ。我々の世界を見・・
守っている高貴な光だ。君の出る幕じゃない!」・・・
ラ・ムーが厳しくミルダに忠告する。鋭い思いが激しさと共にミルダに届く。ラ・ムーは慌ててい・・
た。皇帝に似つかわしくない態度だ。・・・
「ミルダ君! 下がるんだ!」・・・
双頭の竜がミルダたちの光に近づく。双頭を遥かなる空間へ向けたまま風をミルダへ創っていく。・・・
「ラ・ムー。そこを退いて下さい…。私はあの光へ行く…」・・・
ミルダはラ・ムーに言った。ラ・ムーの阻止をミルダは理解できないでいた。あの光が我々の創造・・
主の使いだという…。どういうことなのだ…。・・・
「あの竜の光は、私の言っていたホワイトアイランドです!」・・・
ラ・ムーも叫んだ。竜の光がホワイトアイランド…。ミルダに瞬時の理解が浮かんだ。ペリポラー・・
はラ・ムーに偽りの光を見せていたのだ。ペリポラーはホワイトアイランドではない。ラ・ムーはペ・・
リポラーに操られていたのだ。・・・
「あの光が、ホワイトアイランドなのです!」・・・
魔界の鬼神に狂気を、そして、グリーンアイランドの皇帝に秩序を…。ペリポラーは二人を踊らせ・・
たのだ。そして、道を築いたのだ。ペリポラーの光の道を…。・・・
「ミルダ君、下がるんだ。君の出る幕じゃない!」・・・
ペリポラーはグリーンアイランドをも狂気に落とし込もうとしているのか…。ホワイトアイランド・・
の危惧が現実となっていく。・・・
「ホワイトアイランドです。あの光は、我々の指導者です。そして、神の息吹です。輝きです」・・・
ミルダはラ・ムーを過ぎようとした。ラ・ムーの歪んだ理解をこの場で正している時間はない。ミ・・
ルダはラ・ムーの光をかいくぐった。・・・
「ミルダ君! 戻るんだ!」・・・
ラ・ムーがミルダを激しく掴んだ。怒りがラ・ムーに見える。ミルダには始めて見る光だ。・・・
「これ以上、近づいてはいけない!」・・・
ペリポラーの光が更に近くなる。双頭がミルダをゆるりと覗き込む。・・・
「何を恐れているのだ。ラ・ムー…」・・・
ラ・ムーの怒りへミルダが直に問うた。怒りがラ・ムーに大きくなっていく。・・・
「恐れてなどいない。何を言う!」・・・
ラ・ムーが鋭い光でミルダに斬り付けた。ミルダは交わした。風が揺れた。ミルダはその風に瞬間・・
紛れた。・・・
「ミルダ君。出てくるんだ!」・・・
ラ・ムーの焦りがミルダの風を過ぎる。・・・
「ミルダ君! 出で来るんだ!」・・・
ミルダはラ・ムーの光を過ぎた。風の先にペリポラーが微かに揺れていた。・・・
・・・
・・・
巨大な双頭の竜は空間で光を踊らせていた。光を自らの内側へ内側へとくねらせていた。・・・
-何者かが来る…。・・・
-グリーンアイランドの皇帝じゃないのか…。・・・
空間に小さな光がこちらへ向かってくるのをペリポラーは認めていた。ペリポラーの光の個性たち・・
がそのことに集中する。光のくねりが徐々に緩やかになっていく。・・・
-ラ・ムーではない…。・・・
-それじゃ…。ロキか…。・・・
光たちが密度を凝縮していく。微かな警戒がペリポラーの光の中を走る。・・・
-ロキは、もうここへはこない…。・・・
-そう、鬼神は魔界へ舞い戻ったことだろう…。・・・
ペリポラーが揺れる。双頭を器用に光に畳み込んでいく。・・・
-それならば、誰が…。・・・
-あの光は、間違いなくこちらへ向かっている…。・・・
ペリポラーの警戒が大きくなる。光の色を落としその回転を沈めていく。・・・
ミルダは飛んだ。ミルダの後ろにはホワイトアイランドの風が吹いていた。ミルダはその風に身を・・
任せた。・・・
-誰だ…。・・・
ミルダはペリポラーに押し入った。ペリポラーの光の熱さがミルダを一瞬に包んだ。・・・
-誰だ…。・・・
-誰も呼んだ覚えはない…。・・・
ミルダはそれを無視した。光の中へと進んだ。ミルダの光だけがペリポラーの中を異質に輝く。青・・
い仄かな光をミルダの透明な光が切り裂いていく。・・・
-何者だ…。・・・
-無礼にもほどかある…。・・・
ペリポラーの光たちが戸惑っている。呼びもしないものが光の中へ進入してきた…。そんなこと今・・
までなかったことだ…。何かの間違いか…。そんな呟きがミルダに聞こえる。・・・
-蹴散らしてくれよう…。・・・
-そうだ、誰も呼んだ覚えなどない…。・・・
重い響きがミルダに届く。ミルダの意識にペリポラーの怒りが流れ込む。ミルダの光を強く締め付・・
けていく。・・・
「わたしはミルダという…。ホワイトアイランドから来た…」・・・
光がざわついた。ペリポラーの光の意識のすべてがミルダに集まった。それぞれがミルダの意識を・・
嗅ぎ回っている。・・・
-何の用だ…。・・・
一瞬、ペリポラーに閃光が走った。一際赤い光がミルダを掠めた。・・・
-ラ・ムーの使いか…。・・・
赤い光がミルダを鋭く射る。ミルダを光が貫いていく。・・・
「あなたたちを止めにきた…。あなたたちの、ブルーアイランドへの介入を止めにきた…」・・・
ミルダは赤い光に向かった。光たちがミルダの言葉に更にざわついた。ミルダに対する敵意が光の・・
中を一瞬に揺れる。ペリポラーがミルダの意識を更に重く圧迫する。・・・
-我々を、止めにきただと…。・・・
赤い光が鋭くなる。ペリポラーの中央に座る。他の光を圧倒していく。・・・
-バカな…。・・・
赤い光も徐々に戦闘的になろうとしている。他の光と思いを寄せ合っていく。しかし、構わずにミ・・
ルダは続けた。背に吹くホワイトアイランドの風を信じ続けた。・・・
「我々は、再びひとつになるのです…」・・・
赤い光が激しく揺れた。ミルダは後ずさった。周りの光がミルダに波を創っていく。鋭い殺気をミ・・
ルダへ投げつける。・・・
-世迷い事を、聞いている暇はない…。早く消えろ…。・・・
ミルダに次々と衝撃が押し寄せた。光たちの怒りがミルダに幾重にも突き刺さる。・・・
「話を、聞いてくれ! 世迷い事ではない…」・・・
-消えろと、言ったはずだ…。・・・
ミルダの前で光が大きく弾けた。ミルダが弾き飛ばされる。落雷がミルダの光に落ちる。・・・
「ウワー!」・・・
光の波に引き込まれた。波の中は激しくうねっている。落雷が次々にミルダを襲う。・・・
「ウオー!」・・・
激流に巻かれた。ミルダの光は回った。狂った独楽だった。うねりに弄ばれる小舟だった。意識の・・
焦点がミルダから外れていく。抵抗の術がない。次々とペリポラーの殺気にミルダは斬られた。・・・
「ウワー!」・・・
気が遠くなる。ミルダに黒い恐怖が見えた。自らの光がパンのように引きちぎられていく。泡が弾・・
けるように色を落としていく。・・・
「止めろ! 話を聞いてくれ!」・・・
ミルダの回転が速くなる。意識の欠片が遠心力で遠くに散っていく。光がミルダより四方へ散って・・
いく。ミルダに底なしの闇が見えてくる。・・・
「話を聞いてくれ!」・・・
ミルダは激しく回転しながらその場を落ちていった。その先には、やはり深い闇が見えていた。狂・・
気が激しく揺れていた。・・・
・・・
・・・
「狂っている…。何ということだ…。完全に狂っている…」・・・
ラ・ムーは怒りに身を震わせた。空間の先に揺れる双頭の竜を凝視していた。・・・
「狂っている…」・・・
空間に恐怖すら感じていた。ラ・ムーはその怒りを抑える術を持ち合わせていなかった。双頭の竜・・
に狂気が見えるのだ。あの光は自分を利用していた…。・・・
「狂っている。竜の光は何を求めているのだ。完全に狂っている…」・・・
竜の光がいつもとは明らかに違う色なのだ。狂気が光の中に渦巻いているのだ。それは、ロキと同・・
じ光だった。鋭すぎる狂気の揺れだった。・・・
「完全に狂っている…」・・・
狂気の波動が影を伴ってラ・ムーに届く。高速な波動に真っ黒い欠片が散っていく。それは、まさ・・
しく狂気だった。尖った狂気だった。・・・
「あの竜は、私の神ではなかったのか…」・・・
あの光には何度も入ったことがある。その時は、その色を消していたのだ…。あのような狂気を隠・・
していたのだ…。ラ・ムーの怒りが破裂する。空間に激しい猛りが飛び散っていく。・・・
「私は騙されていた…」・・・
一瞬の理解だった。ラ・ムーにとってあの光は神だった。何よりも信じていたものだった。・・・
「ホワイトアイランドではなかった…」・・・
神があのような狂気を抱いているはずがない。ロキと同じ色を持っているはずがない。私は利用さ・・
れたのだ…。竜はホワイトアイランドなどではなかったのだ。・・・
「狂っている…」・・・
双頭の竜が空間に色を濃くしていく。青い目が狂気と共に天に鋭さを向けていく。・・・
「ロキを操り、そして、この私までも…」・・・
信じていた。神だった。光に命じられたことはグリーンアイランドに秩序を構築することだった。・・
死の壁を越えてきた人間たちに新しい生き方を示してやることだった。ラ・ムーは、そのやりがいの・・
ある仕事を長い長い時の流れの中で進めてきた。ラ・ムーにとって美しい日々だった。・・・
「何ということだ…」・・・
グリーンアイランドは元々秩序正しい世界だった。それは、人々が死を理解していた時代のことで・・
あり太古の時に逆上らなければならない。ひとつだった光が新しい未来に向かって旅立った希望の時・・
代である。・・・
しかし、ブルーアイランドに争いが起こり人々はお互いを殺し合った。権力という魔物に狂気が棲・・
み付いてしまったのだ。人々の思いは歪んでいった。人々は死を理解しようとしなくなった。ひとつ・・
の光だったことを徐々に忘れていった。醜い争いがグリーンアイランドでも展開されるようになった。・・
グリーンアイランドにも争いで明け暮れた人間たちが流れ着くようになっていったのだ。・・・
その頃にラ・ムーはグリーンアイランドへ着いた。太陽の帝国ムーの滅亡を見届けた後、双頭の竜・・
がラ・ムーをグリーンアイランドへ誘った。その時から、ラ・ムーに竜の光への献身の日々が始まっ・・
た。ラ・ムーにとっての美しい日々が始まった。・・・
ムー帝国では勇猛な戦士であり皇帝であったラ・ムーは、当然争いに巻き込まれていった。ラ・・・
ムーはグリーンアイランドでも徐々に力を付けそこに暮らす者たちの長に収まった。・・・
「狂っている…。何ということだ…」・・・
一心に従えた。自分は神に選ばれたものだ…。自らの幸運に身を震わせた。ラ・ムーは指示通りグ・・
リーンアイランドを手中に収めた。・・・
その結果、グリーンアイランドはブルーアイランドから離れていくことになった。グリーンアイラ・・
ンドの秩序ある光の波動と、戦いに明け暮れるブルーアイランドの波動とが大きく異なるものとなっ・・
ていったのだ。ブルーアイランドとグリーンアイランドの距離が果てしなく離れてしまう結果となっ・・
たのだ。グリーンアイランドは死を越えた者がたやすく行ける場所ではなくなってしまっていったの・・
だった。・・・
それが、魔界が築かれるひとつの重要な過程であった。地上よりグリーンアイランドが遠くなる間・・
に別な世界ができ上がっていったのだ。魔界は醜い欲望を抱えた人間たちの成れの果ての空間だった。・・
愛を失っていった者たちの暗がりの世界だった。・・・
「そうだったのか…。私は騙されていた…」・・・
ラ・ムーの理解が進んだ。魔界の構築に自分が一役買っていた…。そんなこと露知らなかった。た・・
だ、ラ・ムーは竜の光に神の声を感じていただけのことだった。・・・
「何ということだ…」・・・
そんなことが、怒りのラ・ムーに次々と浮かんだ。今まで知らなかった竜の別なる光にラ・ムーの・・
落胆は大きすぎるものとなっていった。・・・
「狂っている…。何もかも狂っている…」・・・
ラ・ムーの落胆が空間をどこまでも落ちていく。ラ・ムーは自らに深く沈んでった。双頭の竜がラ・・
・ムーの視界から消えた。・・・
「何もかも狂っている…」・・・
・・・
・・・
風がペリポラーに強く吹いた。ミルダは踊っていた。歌っていた。回っていた。・・・
ミルダは蘇った。ペリポラーをどこまでも落ちていかなかった。ミルダは跳ねた。大きく跳ねた。・・
リズムが聞こえる。ホワイトアイランドのリズムだ。ホワイトアイランドに見たすべての光たちの自・・
由の踊りのリズムだ。ミルダは踊った。ホワイトアイランドの自由の舞だ。・・・
果てしないパワーを背中に感じる。新たなるエネルギーが、次々とミルダの中に力強く沸き上がっ・・
てくる。ホワイトアイランドの風だ。ホワイトアイランドがミルダに風を送ってくれているのだ。信・・
じられないほどの力と勇気がミルダを支えている。・・・
「ウワー!」・・・
ミルダは舞った。激しさが増す。ホワイトアイランドのリズムが早くなる。ホワイトアイランドか・・
らの風が大きくなる。ミルダは舞った。踊った。歌った。そして、駆け回った。・・・
「ウオー!」・・・
ミルダの自由の舞が、ミルダをペリポラーのコントロールから外していく。ペリポラーの狂気から・・
ミルダの舞が離れていく。風が更に大きくなる。ペリポラーに風が吹きまくっていく。ミルダの自由・・
の舞に光が果てしなく拡がっていく。・・・
「分かってくれ! 話を聞いてくれ!」・・・
踊りながらミルダはペリポラーに訴えた。ペリポラーの光の個性たちひとつひとつに、自由の踊り・・
をミルダは誘った。・・・
「さあ、踊るのです…。そして、話を聞くのです!」・・・
ペリポラーに、ミルダを止められるものはいなかった。ホワイトアイランドの限りない力が、ミル・・
ダを純白なる光で包み込んでいる。・・・
「我々はひとつなのです…。ひとつの光なのです…」・・・
ミルダを包むパワーは、あの時に見た光だ。ホワイトアイランドを出る時、ミルダはホワイトアイ・・
ランドすべての光を見た。光たちがそれぞれにミルダに力を投げつけていた。あの風なのだ。・・・
「分かってくれ! 分かってくれ!」・・・
ミルダは風の意味を知っていた。風はホワイトアイランドすべての光の力なのだ。ホワイトアイラ・・
ンドも自分と共に闘っているのだ…。すべての光の力を自分の背へ流してくれている…。ミルダは熱・・
くなっていた。ペリポラーへの訴えに熱がこもっていく。・・・
「我々はひとつなのです…。ひとつの光なのです!」・・・
今、ミルダに恐れるものなど何もなかった。ミルダは次々とペリポラーの光を踊りへ誘った。さあ、・・
踊るのだ。そうすれば思い出す。そうなのだ、我々はひとつの光だった…。・・・
「そう、ひとつの光なのです…」・・・
ミルダは光の個性たちに微笑みを投げ続けた。幾度も幾度も光の前にターンを切った。前に後ろに・・
ステップを踏んだ。・・・
「ひとつの光?」・・・
光の意識のひとつがミルダの誘いに腰を浮かせた。・・・
「ひとつの光…」・・・
問いが光から漏れる。小さな漏れだった。しかし、ミルダはその光を力の限り引いた。強引にホワ・・
イトアイランドの風に乗せた。・・・
「そう、我々は元々ひとつの光でした。それが、我々のより高度な意識の確立のために、我々は分離・・
したのです。光は、無数の個々に分かれました。そうなのです…。あなたたちも、その光の一員だっ・・
たのです。いや、その光なのです!」・・・
ひとつ二つと、ペリポラーの光がミルダに寄る。少しずつ、ホワイトアイランドの風に光が引き込・・
まれていく。・・・
「ひとつの光だった?」・・・
ペリポラーの中にミルダの自由の舞いが拡がっていく。ミルダを中心に光の輪ができ上がっていく。・・
次々に、ペリポラーの光がホワイトアイランドの風に乗った。光が踊る。光が跳ねる。そして、光が・・
光を受け止めていく。・・・
「ペリポラーの光たちよ…。遥かなる過去へ、それぞれの意識を飛ばしてみよ…。見えるはずだ…。・・
ひとつだった光が…。ホワイトアイランドの光が!」・・・
溢れる程のパワーをミルダはその思いに乗せた。ペリポラーの光たちが遠くを見つめ始める。遥か・・
なる光の思いへと意識を飛ばせていく。・・・
「踊れよ、ペリポラーよ! ホワイトアイランドの風に舞え!」・・・
ミルダは大きく叫んだ。ホワイトアイランドの思いをペリポラーの光に響かせた。・・・
「自由の舞いだ。ホワイトアイランドの舞いだ!」・・・
叫びがペリポラーをどこまでも駆けた。光たちはその叫びに自らを振り返っていた。遥かなる思い・・
へ光を弾ませていた。・・・
・・・
・・・
青い闇に月の光が忍び落ちる。月が再会を遂げた母と娘を優しく照らした。二人は長く抱き合った。・・
流れの側で二人だけの静かな時を過ごした。・・・
「ママー…」・・・
「クラーラ…」・・・
二人の声が青い闇に聞こえてくる。二人の姿だけが月の雫にぽっかりと浮かぶ。風はない。流れの・・
音が二人の側に静かに揺れている。・・・
「リュリュ…。おれを許すのか…」・・・
笛吹きがリュリュに小さく言った。肩が落ちていた。笛吹きの涙の後が、青い闇にリュリュに見え・・
た。・・・
「もういいって言ったでしょ…。クラーラのママを連れてきてくれたんだから…」・・・
リュリュは微笑んだ。笛吹きの変化がひとつ終わろうとしている。笛吹きの中にある黒いものが溶・・
けていく。月に浮かぶ二人を見る笛吹きの目に暗い影がまったく消えている。リュリュは笛吹きの思・・
いを理解していた。・・・
「これから辛いよおっちゃん。生まれ変わるのは、簡単じゃないよ…」・・・
自分もそうだった。これから、笛吹きは悔いの涙に明け暮れることとなる。簡単じゃないよ…。・・
リュリュはもう一度微笑んだ。・・・
「リュリュ…。すまん…」・・・
子供たちも周りにいた。堤に腰掛けクラーラ親子の姿を見ている。・・・
「おっちゃん…。元気だしなって…」・・・
ゲタンが笛吹きに言った。子供たちも笛吹きを許した。是非はともかく、長年一緒に暮らしたもの・・
同士だ。笛吹きの変化が子供たちにも見えたのだ。あの頃の笛吹きとは別人に見えたのだ。・・・
「リュリュ…。母と娘がグリーンアイランドへ向かっておる…」・・・
リュリュの肩をキリコが軽く叩いた。流れに浮かぶ二人が光を強く帯びていく。月の光をしっかり・・
と抱き留めていく。抱き合ったまま二人が光に溶けていく。・・・
「光に溶けていく…」・・・
母と娘が透明に揺れ始めた。月の雫と同じ色に染まっていく。二人にだけ時が止まっているのだ。・・
母と娘はまったく動かない。・・・
「クラーラ…。幸せに…」・・・
リュリュは感動に胸が詰まった。意識のあらゆる襞が小刻みに震えた。これほどにも、我々の生命・・
とは尊くて美しいものなのか…。リュリュの涙か止まらなくなっていた。リュリュは肩に乗った母の・・
手を強く握り返した。・・・
「クラーラ…。幸せに…」・・・
美しい光だった。あの時のことをリュリュは自然と思い浮かべた。笛吹きとの戦いの中、リュリュ・・
は母と二人光となった。光の中で母に抱かれた。母を抱いた。・・・
そう、愛の光よ…。クラーラも愛の光の中、母を抱きしめているんだ…。母に抱かれているんだ…。・・
リュリュは流れる涙を拭おうともしなかった。・・・
「そうじゃ、リュリュ…。わしらは、光じゃ。愛の光じゃ…」・・・
キリコも震えている。キリコにリュリュの思いが届く。リュリュの手を強く握り返してくる。・・・
「リュリュ。いいもんじゃ。わしらの生命は…。ハハハハ…」・・・
母と娘は、透明の光に抱かれたまま流れの中へと入っていく。溢れんばかりの光が流れの水面を掻・・
き分けていく。静けさの流れに限りない煌めきが浮かぶ。・・・
「クラーラ。さよなら…。幸せに…」・・・
ゲタンが呟いた。ゲタンにも涙が見える。流れに軽く手を振っている。・・・
「クラーラ…。また逢いましょう。グリーンアイランドで」・・・
リュリュがゲタンに続いた。ゲタンの肩を抱いた。光が流れに浮き上がる。月の光へと母と娘が・・
昇っていく。・・・
「そうだ、おれたちも行くから、待っててくれ…」・・・
ゲタンが立ち上がった。二人のシルエットが流れの光に映える。光が流れにこぼれていく。・・・
「また逢おう…。グリーンアイランドで」・・・
子供たち全員立ち上がる。それぞれに手を繋ぐ。クラーラの旅立ちを祝うのだ…。子供たちの涙も・・
美しかった。みんな知っていた。自分たちもあのように進んでいく…。クラーラのように光へと向・・
かっていく…。子供たちに未来が見え始めていた。勇気の輝きが揺れていた。・・・
「クラーラ。またね、グリーンアイランドで…」・・・
光が月に抱かれていく。ゆっくりと回転しながら天高く上がっていく。母と娘は光をこぼし続けて・・
いた。流れの水面が煌めきを大きくしていく。星を散りばめたように光の欠片が揺れていく。・・・
「リュリュ…。いいもんじゃ…」・・・
クラーラ母娘の光は真っ直ぐに天に昇っていった。無数の光の粒を水面に落として遠くの月へ消え・・
ていった。・・・
「リュリュ…。いいもんじゃ…」・・・
キリコの目から大粒の涙がひとつ落ちた。笛吹きがそれを見て再び涙した。・・・
・・・
・・・
老人の手には鋭い斧が握られていた。老人の若さは激しくたぎっていた。熱い血潮が老人の胸を幾・・
重にも渦巻いていた。・・・
「エーイ!」・・・
手を伸ばし枝を折る。若返った老人の腕は逞しく力強い。・・・
「ヤー!」・・・
老人は次々に枝を折り切り落とした。森に入り込む風が勢いを増していく。・・・
「ウッ!」・・・
風をもろともせずに老人は木々に挑んだ。幻の肉体を叩く魔界の風に真っ向から立ち向かっていた。・・
凄まじかった。老人の熱い思いが風を吹き飛ばしていく。・・・
「ウワー!」・・・
狂った獣だった。老人が鬼と化していた。老人の目が赤く血走っていく。涙がその目から風に散る。・・
腕の斧がうねりを上げる。・・・
「エーイ!」・・・
森の木が裸にされようとしていた。老人は木を移った。森のすべての枝を落とすつもりだった。老・・
人の斧が鋭く枝を襲う。若さが迸る。青い思いが老人から四方に飛び散っていく。風が枝を遠くへ飛・・
ばす。森に木々の悲鳴が轟く。・・・
「ヤッ!」・・・
老人の涙も次々と散った。一枝落とす度に、その枝と共に散った。激しく燃える生命が森とぶつ・・
かっていく。風が益々荒れる。嵐に吹き荒れる。・・・
「ウオー!」・・・
老人の戦いだった。老人は魔界に挑んでいた。風の流れを変えようと思っていた。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
呪いの黒森に風が行き場を失っている。風は遥かな歩みを持っているのだ。堰き止めることなどで・・
きない。しかし、この森は風を浚ってしまう。魔界の黒い波動に風を懐へ引き込んでしまう。・・・
風は未来に吹く。風の向かうところはに光がなければならない。いや、風は光へと進む。風は止ま・・
らない。歩みを止めてはいけない。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
老人の激しい猛りは時を越えた。空が白むまで老人の闘いは続いた。老人は自らの限界まで斧を・・
振っていた。限りない枝をいつまでも切り落とした。風よ、この森を越えて行け…。老人の一途な思・・
いだった。・・・
切り落とされた無数の枝が木の根に寄るように積まれている。風がその枝を激しく揺らす。葉擦れ・・
の音は、もう老人には悲鳴とは聞こえない。風が突き抜けていく。・・・
「エーイ!」・・・
夜明けが老人の側に訪れようとしていた。嵐が引いていく。風が枝に絡まなくなっていく。小枝を・・
空へと運んでいく。解き放たれた鳥のようだった。風が森を過ぎていく。風が自らの思いで空へと向・・
かっていく。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
老人の闘いが終わろうとしていた。森が形を変えた。森は姿を変えた。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
森がまったく違う表情を見せていく。呪いの黒森に新しい夜明けが訪れる。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
老人は夜明けの空を見上げた。何かが白く舞っていた。きらきらと煌めきが森へ落ちてくる。純白・・
な舞いが老人に振ってくる。・・・
「まさか…」・・・
老人は目を疑った。我に帰る。激しいものが老人から急速に失せていく。・・・
「まさか…」・・・
それは白い雪だった。大粒な純白の雪だった。老人は自らの闘いが終わったことを悟った。雪がこ・・
の森に降り注いでいるのだ。風が森を過ぎたのだ。風がこの森を越えていくのだ。老人に涙が再び溢・・
れた。・・・
「雪だ…」・・・
美しかった。老人はその美しさに再び我を忘れた。純白な雪が老人の肩に落ちては積もっていく。・・
白い輝きが森に果てしなく舞う。風がそれに優しく絡む。雪が揺れた。風が空へ吹いた。・・・
・・・
・・・
「時が来たのです。我々が、再びひとつになる時が…。それが、我々の未来なのです。すべての光が、・・
元の姿へと戻るのです…」・・・
光の自由の舞いは続いていた。ペリポラーの光たちもミルダと共に舞った。ペリポラーの光が徐々・・
にミルダの光へ心を開いていく。・・・
-ホワイトアイランド…。遥かなるいにしえの時だ…。・・・
自由の舞いから、ペリポラーの語りがミルダに届き始めた。ペリポラーは続けた。・・・
-ホワイトアイランド…。そう、それが我々の故郷だ…。・・・
ペリポラーが過去を振り返っている。ミルダは少々の驚きを感じた。自らの思いがペリポラーに伝・・
わり始めたことを知った。・・・
-過去は、我々に必要のないことだった…。・・・
-しかし、今、ホワイトアイランドの風に、我々は我を見つめた…。・・・
-お前の自由の舞いに、遥かなるいにしえのホワイトアイランドの光が蘇ってきた…。・・・
ペリポラーの個々の意識がミルダに流れ込む。意識が途切れることなく自由の舞いの中、ミルダの・・
光と交わっていく。・・・
-我々は、青い星に遭遇した。美しい星だった…。・・・
-我々は、星に魅せられた…。・・・
-そう、グリーンアイランドから、ホワイトアイランドへの帰路の途中のことだ…。・・・
それぞれが訥々とした意識だった。それがミルダには心地よい。・・・
-我々は星へ向かった。引き込まれるように、青い星へ帆を向けた…。・・・
-しかし、それは叶わなかった。我々の光と、青い星は、光の波動が異なりすぎていた…。・・・
-我々は飛ばされた。一瞬に、闇の彼方へと飛ばされたのだ…。・・・
-そう、闇の彼方。そこには闇しかなかった…。・・・
ペリポラー全体が微かに揺れる。踊るペリポラーの光たちもリズムが早くなっていく。・・・
-我々は、闇の彼方に狂気という光を手に入れた…。・・・
-そして、その力によって再び青い星へ戻った。その頃には、青い星に、ホワイトアイランドの光た・・
ちが無数に降り立っていた。光が物質となっていた…。・・・
-我々は驚いた。ブルーアイランドの者たちの余りの無知さに驚きを越えて呆れ返った。我々が魅せ・・
られた星がまったく色褪せて見えた…。・・・
ミルダは舞いを続けた。背に感じるホワイトアイランドの力をペリポラーに送り続けた。・・・
-ブルーアイランドに、我々が手に入れたものと同じ狂気が見えた…。・・・
-我々は、その狂気と接触した。ブルーアイランドは争いに明け暮れていた…。・・・
-ブルーアイランドを、我々も、肌で感じてみたかったのだ…。・・・
-我々は、狂気を地上へ流した…。・・・
-我々は、いや、すべてのものは、強くなければ生きていけない…。そのことを、地上の無知なる者・・
たちに教えてやったのだ…。・・・
ミルダのリズムも早くなる。徐々にミルダがペリポラーのコントロールの中に戻っていく。ペリポ・・
ラーの光がミルダをしかと受け止めていく。・・・
-狂気という光は、果てしなく強い力だ。そのことを、我々は闇に学んだ…。・・・
-そう、大宇宙の彼方で学んだ…。・・・
-そして、人間たちは争った。強さを求めていった。互いに傷つけ合い、奪い合い、殺し合った。狂・・
気を正当なる光としていった。狂気というものが、愛の光よりも強いことを学んでいった…。・・・
ペリポラーがミルダを掴んだ。光がミルダを覆っていく。闇の彼方で手に入れたという狂気の光で・・
ミルダを包み込む。・・・
-我々は、成長へと向かっている。しかし、ブルーアイランドの物質の波動がある限り、未来への壁・・
を越えられない…。・・・
-そうなのだ。そして、しかもやっかいなことに、我々の世界はブルーアイランドまでをも含んでし・・
まっている。我々だけでは、進むことが叶わないのだ…。・・・
-お前の言ったとおり、我々はひとつの光だったからなのだろう…。・・・
ミルダは舞いを止めた。ペリポラーの光たちが狂気を呼び戻していく。・・・
-それでも、我々は進む…。・・・
-今、魔界に道ができた。ブルーアイランドの者たちが容易く通れる道が…。・・・
-それは、物質という足枷から逃れる道だ…。その道には、歪んだ希望と闇の未来がばらまかれてい・・
る。死に行く人々は未来を見る…。・・・
-我々の成長への後押しだ。人々の未来への思いが、我々すべてのアイランドの成長を促す。未来へ・・
の思いは、我々すべてのアイランドの成長の糧なのだ…。・・・
-その糧を我々が利用する。そして、我々は、未来への壁を越えていくのだ…。・・・
ペリポラーの狂気が再び激しくミルダを責めた。ミルダに震えが昇った。光が歪んでいく。音を立・・
てて軋んでいく。・・・
-我々は、人間たちを物質という低い波動の世界から解放してやろうとしているのだ…。・・・
-その通り、人間たちは自由なのだ。愚かにもほどがある…。・・・
-人間たちも、物質という重すぎる世界から開放され、我々のように自由な光の姿になるのだ…。・・・
そんな馬鹿な! ミルダは叫んだ。ペリポラーの光にその叫びが響き渡る。・・・
-いいか、我々は我々の道を行く。それは、誰も止めることはできない…。・・・
-そう、我々を止めることは、神もできないことだ…。・・・
ペリポラーが言葉を打ち切った。狂気がミルダを引き裂く。光がちぎられる。鋭い光が何度もミル・・
ダを切りつける。ミルダに中に風が吹き荒れる。光が破壊されていく。・・・
「ウッ! 止めろ、止めるんだ!」・・・
今度は狂気の舞いだった。ペリポラーの光たちがミルダの中で舞った。恐怖がミルダに跳ねた。ミ・・
ルダの意識に幾重にもペリポラーの鋭い剣が振り下ろされる。・・・
「ウオー!」・・・
しかし、ミルダにはホワイトアイランドの風が吹き続けている。ミルダは思いをホワイトアイラン・・
ドへ向けた。狂気を交わすのだ…。風をもう一度創るのだ…。・・・
「ペリポラーよ! 狂気を捨てろ!」・・・
風が起こった。ホワイトアイランドの風がペリポラーに戻る。その風が空間を歪めていく。・・・
「狂気を捨てろ! 我々の光に必要ない!」・・・
ホワイトアイランドの全勢力がミルダに届く。すべての光の力がミルダにひとつになる。・・・
「話を聞いてくれ! あなたたちを苦しめるつもりはない!」・・・
ペリポラーの狂気はホワイトアイランドの風にも消えていかない。仕方なかった。ミルダはペリポ・・
ラーを責めた。風に思いを乗せた。・・・
-我々を止めることは誰にもできない…。・・・
-そうだ、我々を止めることなど…。・・・
ペリポラーの光たちが激しく身悶える。光が大きくくねる。ミルダの思いの稲妻がペリポラーの光・・
たちに走る、雷光が空間を白く染める。ペリポラーが歪んでいく。双頭の竜が双頭を畳んでいく。光・・
の形が変形していく。・・・
「我々は同じ光だ! ひとつの光だ! なぜ分からない!」・・・
ミルダの叫びは悲鳴へと変わっていた。分かってくれ…。あなたたちを、責めたくはない…。・・・
「我々は同じ光だ! ひとつの光だ!」・・・
ホワイトアイランドの風がペリポラーをも過ぎていく。激しいホワイトアイランドの思いが、ミル・・
ダを通じて空間をどこまでも駆けていく。・・・
「分かってくれ!」・・・
ホワイトアイランドの風は魔界にまで飛んだ。黒く尖った山を越え呪いの黒森にまで飛んだ。・・・
「分かってくれ! ペリポラーよ!」・・・
・・・
・・・
森に吹く風は、昨夜の激しさを忘れ去ったかのように緩やかに木々のあいだをすり抜けていた。枝・・
を落とされた森の木々たちが痛んだ身体をその風に任していた。・・・
「許してくれ…」・・・
老人は木々たちに呟いた。若き血潮を燃えたぎらせて切り落としていった木の枝を、老人がまとめ・・
幾つかに地に積んだ。・・・
「風が抜けていく…」・・・
森に風がすり抜けていく。今まで吹かなかった風だ。呪いの黒森は姿を変えた。表情を変えた。老・・
人は満足だった。激しい猛りはこのことを望んでいたものだった。・・・
「許してくれ…」・・・
木々に許してもらえるとは思っていない。しかし、自分の行いは、いつか木々たちに受け入れられ・・
ると思った。自らの猛りの意味を、木々たちがいつか考えてくれるだろうと思った。・・・
「許してくれ…」・・・
老人は枝を切り落とした木に登った。雪はまだ降っている。老人は目の前に優しく落ちた一粒の雪・・
を手のひらに乗せた。それは、溶けずに老人の手の上で輝き続けた。・・・
「ホワイトアイランド…」・・・
手のひらに輝くものは雪ではなかったのだ。透明に純白な光だった。・・・
「ホワイトアイランドの光か…」・・・
老人の胸が熱くなった。ホワイトアイランド…。一度、その光とは接触したことがある。意識の揺・・
れにホワイトアイランドが呟いたことがある。黒く尖った山の頂だ。ミルダも同じようなことを言っ・・
ていた。・・・
その時の思いが、今、老人に蘇っていく。手のひらに輝く純白な光が、老人にその思いを強く促し・・
ていく。・・・
『光は、再びひとつになる…』・・・
あの時、ホワイトアイランドはそう呟いた。その時の光が同じ色に手のひらに見える。老人は光を・・
握った。手の甲を透かし光が外へ漏れた。・・・
「ホワイトアイランド…」・・・
やはり…。ホワイトアイランドの風だ…。自らの行いが決して間違いではなかったことを老人は・・
知った。森に抜ける風はホワイトアイランドからの風なのだ…。透明に純白の風が、この森を吹き抜・・
けていくのだ。枝をなくした木々たちにホワイトアイランドが力強い光を届けてくれているのだ。老・・
人はそう思った。そう思いたかった。・・・
森は太古の明るさを取り戻していくことだろう。老人の背が伸びる。空を見る目に涙が浮かぶ。手・・
のひらの光を投げた。光は朝日に煌めいた。輝きが、一瞬、果てしなく大きく拡がった。・・・
「森に春が…」・・・
どこかで小鳥が啼いていた。小川のせせらぎに混じって風の音もする。老人は風に乗った。・・・
「この森に春が…」・・・
老人は風となった。老人の意識にホワイトアイランドの光が暖かく流れ込んでいた。なぜか、無性・・
にミルダに会いたかった。・・・
・・・
・・・
クラーラ親子の落としていった光の粒が、リュリュたちの頭上にはらはらと舞った。それは、粉雪・・
のように、ゆっくりと揺れながら風を楽しんでいる。・・・
リュリュの感動の震えは収まらない。側にいる子供たちも手を繋ぎあったまま何も言わない。舞う・・
光は川面にも揺れ煌めきを残してせせらぎに隠れていく。川原は光の粉雪で包まれていった。宝石を・・
散りばめた万華鏡の中の世界だった。緩やかな風が吹き、空間の時を止めようとしている。川原に光・・
が積もっていく。青い草に雪化粧が施されていく。岸の小石が鏡のように光り、朝の日を強く跳ね返・・
していく。その上にも粉雪が美しく舞った。・・・
リュリュは子供たちを見た。子供たちの瞳に粉雪と同じ光が見えた。子供たちはクラーラの後を歩・・
こうとしている。母と娘が光の未来へ向かった方角へと、純白な帆を上げようとしている。リュリュ・・
の胸は張り裂けそうになっていた。子供たちに言葉を掛けることすらはばかられた。子供たちの瞳は・・
未来に向かって美しく輝いていた。・・・
時が止まったようだ。川の流れが止む。静寂へと止まった時が案内する。風と粉雪だけがはらはら・・
と戯れる。川原の空間はアールガルズとは別世界となった。・・・
「かーさん…」・・・
リュリュはキリコに寄り添った。キリコは涙を隠していた。母の熱い思いが伝わってくる。天国で・・
会いましょう…。若かりし時の母の約束が果たされようとしている。リュリュは嬉しかった。キリコ・・
を後ろから強く抱いた。・・・
言葉はなかった。二人共、光に包まれてようとしている子供たちを静かに見つめるだけだった。未・・
来への光が涙で霞んでしまいそうになっていた。・・・
・・・
・・・
光の粉雪が止んだ。優しい風が川原を静かに過ぎていく。それは、今までは吹いたことのない風・・
だった。暖かさの香った風だった。未来から吹く風に思った。・・・
子供たちはその風に誘われた。肩に光煌めく雪を乗せて心強く風に進んだ。子供たちに言葉はな・・
かった。未来への希望が子供たちの胸を熱く叩いていた。・・・
風は黒く尖った山の彼方から吹いていた。呪いの黒森をその風は抜けてきたのだ。風を遮り続けた・・
魔界の森をこの風は越えてきたのだ。子供たちにそれが感じられた。温かい風だった。風は子供たち・・
を黒く尖った山へと誘っていた。・・・
子供たちは知っていた。自分たちの進む道を…。そして、風のその意味を…。・・・
子供たちは変わった。キリコやリュリュの努力によって激しく変化した。額に汗をし、手を泥で汚・・
し、素足で土を踏みしめた。小さな芽を蒔き、作物の生命を見た。自然の恵みを、抑えつけられ続け・・
た意識の中に直接に流し込んだ。畑の作物は、子供たちに果てしない生命の豊かさを教えた。子供た・・
ちは大きく成長していった。変化が成長を促した。魔界での暮らしの中に美しい浄化が起こったのだ。・・
子供たちは未来へ思いを馳せた。・・・
子供たちの足どりは、軽く、そして、力強かった。希望に光る瞳は遥かなる青い空に飛んでいく。・・
それぞれが胸をいっぱいに張り上げ喜びを抑えようとはしていない。だから、風が子供たちに吹き続・・
けた。光が子供たちを包み続けた。・・・
思いはひとつだった。やり残したことがある…。未来はその向こう側にある…。子供たちは歩いた。・・
アールガルズの街を横切った。市庁舎を足早に過ぎた。ロキはいないようだった。そんなこと、もう・・
どうでもよかった。ロキへの恐怖など子供たちから失せていた。子供たちは前しか見ていなかった。・・
未来への思いが溢れていた。・・・
市庁舎を過ぎると丘が見えた。風はその丘を経由していた。子供たちは丘に昇った。・・・
・・・
・・・
キリコとリュリュも子供たちに続いた。後を追わずにはいられなかった。日が随分と高くなってい・・
る。二人とも子供たちが向かう先を知っている。風に誘われる子供たちの歩みの先を…。・・・
子供たちの姿が丘の上に見えた。二人は嬉しそうにそれを見上げる。・・・
「あの時、あの子らは石像に入った。そして、光の壁へ向かった…。もう少しじゃった…」・・・
キリコがリュリュへ振り返る。微笑みがリュリュに眩しい。・・・
「今度は、大丈夫だわ…」・・・
リュリュも微笑みを母に返した。胸に溢れる思いが瞳からこぼれてしまいそうだ。・・・
「そうじゃ…。大丈夫じゃ…」・・・
丘へはなだらかな細い道が続いている。キリコとリュリュはそれを歩いた。子供たちの姿が丘の上・・
に見え隠れしていく。・・・
「先回りして、あの小屋であの子たちを待っているとするか…」・・・
キリコが足早になる。心が焦るのだろう、それがキリコの笑みに浮かび上がる。・・・
「そうね、かーさん…」・・・
二人とも喜びがどうしても抑えきれない。喜びに心が躍る。・・・
「おまえも来るか…」・・・
「当たり前でしょ…」・・・
二人の微笑みが重なった。次の瞬間、二人は消えた。暖かい風に紛れた。・・・
・・・
・・・
呪いの黒森の表情が変わっていた。明るさがまったく違っていた。・・・
子供たちは驚きで森に入った。森の木々が爽やかに風を受けている。風が空へと抜けていく。風を・・
遮り続けた森の顔はどこかへ消えていた。枝を落とされた木々たちがやけに涼しげだ。・・・
更に、子供たちに驚きがもうひとつ重なった。森にも粉雪は舞っていたのだ。クラーラの母娘の落・・
としていった光と同じ光だ。森は粉雪の輝きと爽やかな朝日で眩しいほどだった。・・・
「きれい…」・・・
「すげー、きれいだ…」・・・
「すてき…」・・・
森に降る粉雪が子供たちを優しく迎え入れる。しかし、子供たちは森への思いを押さえ込んだ。も・・
う過ぎたことなのだ。子供たちは進んだ。風に向かった。・・・
(4)・・・
・・・
「我々は同じ光だ! ひとつの光だ!」・・・
ペリポラーが益々歪んでいく。光が入り乱れ、姿を変えていく。双頭の竜が悶える。・・・
「あなたたちも、ホワイトアイランドの光だ!」・・・
ミルダはペリポラーを攻めた。激しい思念を飛ばし、ペリポラーの内側へ攻撃を加えた・・・
「そして、光は、再びひとつになるのです!」・・・
ホワイトアイランドの無限の力だった。ホワイトアイランドの力がミルダに張り裂けるほど漲って・・
いた。嵐のように激しく、空のように果てしなく、そして、海のように大きな勇気と力だった。・・・
「分かってくれ! ペリポラーよ!」・・・
神の大鳥・迦楼羅が双頭の竜を飲み込んでいく。遥かなる神話の世界がミルダの目の前で繰り拡げ・・
られていく。竜が悶える。迦楼羅がそれを喰らう。ペリポラーは、ミルダの底知れぬパワーに驚きを・・
隠そうともしなかった。ミルダの攻めに思いを沈めじっと耐えているだけだった。・・・
「まだ、分かってくれないか!」・・・
何とかして分かって欲しかった。何とかして気づいて欲しかった。ミルダは思いを飛ばし続けた。・・
攻撃が本意ではないのだ…。・・・
「分かってくれ!」・・・
我々は、ひとつの目的のために光を離れていったのではないか…。我々すべての成長のために、力・・
を合わせてきたのではないか…。・・・
「分かってくれ!」・・・
思いが伝わらない…。歯がゆさがミルダをどこまでも責める。悲しみがそれに交わる。・・・
「まだ分からないのか…。分かってくれ! 我々は、ひとつの光ではなかったのか!」・・・
ミルダの叫びはペリポラーをも越えていった。激しさが双頭の竜を突き抜けていった。・・・
・・・
・・・
空間を揺れながらゆっくりとロキが進んでいた。その姿は糸が切れた凧に似ていた。吹く風に、そ・・
の身を任せたままだった。魔界の鬼神に相応しくない姿だった。・・・
「馬鹿な…」・・・
ロキは双頭の竜に迎え入れられると思っていた。鬼神ロキは本当の神の一員になるものだと思って・・
いた。双頭の竜の一人として勇者の名を永遠に残すものだと思っていた。・・・
「馬鹿な…」・・・
何度も、何度も、その言葉を呟いた。ロキはあてもなく揺れ続けていた。・・・
「馬鹿な…」・・・
そんな空間に一筋の風が起こった。今までとは別な風だった。ロキはその風に舞った。・・・
「我々は、ひとつの光だったのだ!」・・・
何者かの思念が届く。果てしないパワーにロキの意識が瞬間に縮まっていく。風の後ろへ引きずら・・
れていく。風が強くなる。ロキは身を立て直した。・・・
「ウワー!」・・・
凄まじい風だった。ロキは動けなかった。風に逆らうことはできなかった。・・・
「我々は同じ光だ! ひとつの光だ!」・・・
竜巻に巻かれていく。激流に飲み込まれていく。力の源に平伏していく。どうすることもできない。・・
ロキは焦った。風を見た。・・・
「分かってくれ!」・・・
ロキに恐怖が芽生えた。ムーの時代より一瞬として感じたことのない黒い影が見えた。ロキは恐れ・・
た。自らが砕け散っていく思いに苛まれた。恐怖がロキの中で膨れていく。・・・
「ウワー! ウワー!」・・・
叫べど恐怖は去らない。信じられない力だった。何をも砕く猛烈なパワーだった。ロキに抵抗の術・・
がなかった。意識が何かに切り裂かれていく。・・・
「なぜ、分からない! 分かってくれないのだ!」・・・
風の思念は何かを訴えていた。その訴えが微かにロキの意識に達した。・・・
「我々は、ひとつの光だった!」・・・
これが、神の力なのか…。ロキは凄まじい風に神を見ていた。神に対して鬼神も成す術がない。恐・・
怖が止まるところを知らない。ロキは永遠の死を覚悟した。・・・
「ひとつの愛の光だったんだ!」・・・
膨れ上がったロキの恐怖に激しい痙攣が起こった。恐怖が一瞬に炎となって燃え上がる。ロキは炎・・
に包まれた。・・・
「ウワー! ウワー! ウワー!」・・・
悲鳴すら自らに恐怖となって跳ね返ってくる。自らの狂気に黒い恐怖が激しく襲い掛かる。・・・
「あなたたちは、ホワイトアイランドの光だ! そして、その光は再びひとつになるのです!」・・・
ロキは落ちた。無の空間へ落ちていった。・・・
「神よ…。我を救いたまえ…」・・・
落ちていくロキはその思いを空間に微かに残した。しかし、風がそれを瞬時にかき消した。・・・
・・・
・・・
脱力感がラ・ムーを包んでいた。ラ・ムーも糸の切れた凧だった。風に揺れていた。ロキと同じ空・・
間をただ漂っていた。・・・
「なぜ、分からない! 分かってくれないのだ!」・・・
その時だった。ラ・ムーにも思念が届いた。ロキが受け取った思念と同じ風だ。・・・
「我々は同じ光だ! ひとつの光だった!」・・・
ラ・ムーは一瞬に我を忘れた。吹く風が神だと思った。神の声だと思った。・・・
「あなたたちは、ホワイトアイランドの光だ! そして、その光は再びひとつになるのです!」・・・
届く風の思念がラ・ムーの心を動かしていく。熱い風がラ・ムーの胸に鋭くを過ぎる。ラ・ムーに・・
は懐かしさの混じった風だ。・・・
「我々は同じ光だ! ひとつの光だった!」・・・
理解できた。ラ・ムーはそのことを知っていた。・・・
「我々は、光だった!」・・・
そうだ、暖かい光だった…。ひとつに溶け合っていた…。美しい時代だった…。・・・
「あなたたちは、ホワイトアイランドの光だ!」・・・
ラ・ムーの理解が大きくなる。そうだ、我々はひとつだった…。美しい光だった…。・・・
「光は、再びひとつになるのです!」・・・
そうだ、ひとつになるのだ…。ホワイトアイランド…。美しい日々だった…。・・・
「分かってくれ!」・・・
光の世界…。暖かい光…。そして、すべてが愛だった…。そう、分かっている。知っている。すべ・・
てが愛だった…。・・・
「ひとつになる。光はひとつになる。それが、ホワイトアイランドの光だ!」・・・
ラ・ムーはホワイトアイランドと再び繋がった。ラ・ムーは風の中、恍惚に気を失った。透明な光・・
がラ・ムーのすべてを包んでいた。・・・
・・・
・・・
ペリポラーが色を変えた。竜の光が縮小した。そして、光が回転を始めた。・・・
-どういうことだ…。・・・
ペリポラーは自らの変化に戸惑っていた。無意識に光の回転が速くなっていく。すべての光が同じ・・
方向へと走りだす。同じ弧を描きだす。ペリポラーは焦った。・・・
-どういうことだ…。・・・
激しい変化だった。ペリポラーの中に遥かなる過去が駆けていく。大宇宙に弾き飛ばされた時のこ・・
とが光の中に蘇っていく。・・・
-あのときも、そうだったのだ…。・・・
-そうだ、あの闇の中で…。・・・
ペリポラーの回転はもう止まらなくなっていた。嵐がペリポラーを無尽に暴れた。・・・
-ブルーアイランドへ向かった。しかし、叶わなかった…。・・・
-そう、闇へ飛ばされた。真っ暗な闇だった…。・・・
回転の軸が一本の光の柱となっていく。その柱を中心に光たちが回転の速度を上げていく。すべて・・
のペリポラーに存在する光がその回転に巻き込まれていく。・・・
-闇だ。どこまでも闇だった…。・・・
-果てしない闇だった…。・・・
双頭の竜はもう原型を留めようともしていない。空間に浮かぶ竜巻だった。空間に嵐を巻き起こす。・・
激しいほどの猛る姿だった。・・・
-我々は、別なる世界へ向かった…。・・・
-いや、それは我々の意図するところではなかった…。・・・
-そうだ、大宇宙の無限の力に我々が放り投げられたのだ…。・・・
激しい回転の中央から絞り出すような意識が漏れる。ペリポラーはミルダへ訴えていた。ホワイト・・
アイランドへ訴えていた。・・・
-闇しかなかった。闇しかなかったのだ…。・・・
-我々の光でも、晴れることのない闇しかなかったのだ…。・・・
-我々は耐えた。耐えるしかなかった…。・・・
回転の速度に光が四方に散っていく。竜巻の中に光が破裂していく。雷光が走り空間を突き抜ける。・・・
-長い時だった…。・・・
-我々には永遠の時と思われた…。・・・
光の破裂は続いた。ペリポラーの怒りなのか、雷光がさらに鋭くなっていく。稲妻が縦横に走る。・・
雷鳴が狂い轟く。・・・
-しかし、我々は闇を切り裂いた…。・・・
-そう、我々はひとつとなった。そして、果てしない闇を突き抜けた…。・・・
-そうなのだ…。我々は、永遠の闇を越えたのだ…。・・・
ペリポラーの興奮が電光より鋭く空間を裂く。雷鳴がそれを追う。激しさを競うように嵐の中に狂・・
気を見せる。・・・
-その時の姿だ…。・・・
-我々の、今の、この光こそ、その時の姿だ…。・・・
誇るようにペリポラーが叫んだ。その姿は球状に膨れ上がっていた。光の回転は終わることを知ら・・
ない。荒れ狂う星が宇宙に自らの存在を激しく知らしめている。・・・
-今、我々にいにしえの過去が蘇った。・・・
-そうだ、この光だ…。この激しくたぎる光だ…。・・・
-我々はこの姿で闇を越えたのだ…。・・・
ペリポラーの興奮は最高潮にあった。それは、ホワイトアイランドの風を持ってしても止められな・・
いものだった。・・・
-我々が、あの闇を切り裂いて、光ある未来へ越えていった時の姿だ…。・・・
-そうだ、この光だ…。この光こそ、我々がひとつになった時の光だ…。・・・
ペリポラーの激しい興奮に、ミルダはその場で意識を失った。嵐がミルダの意識を切り裂いたのだ。・・
-この光だ…。この光に我々は闇を越えた…。・・・
-いにしえの時が、我々に蘇った…。・・・
ミルダはペリポラーの光の中を落ちた。熱く燃えるものがミルダの光に鋭く降り注いだ。ミルダは・・
眠った。ペリポラーの熱さにミルダは夢に揺れた。・・・
・・・
・・・
子供たちは黒く尖った山を超えた。あの日と同じ道を辿っていく。笛吹きと共に歪んだ未来へ向・・
かった時と…。そして、それから逃れようとした時と…。・・・
森の中の石像へ向かった。子供たちにはその意味がはっきりと見えている。それぞれに、自らの石・・
を探し当てる。そして、その前に跪き石と会話を始める。・・・
子供たちは知っていた。石像の中にもう一人の自分が眠っている…。一度は触れ合った。あの時は・・
もう少しだった。しかし、今は違う…。子供たちにはそれぞれの未来が見えていた。・・・
石像の目に光が漏れる。子供たちが立ち上がる。子供たちもうっすらと光を抱いていく。その光が・・
石像の光と溶け合っていく。お互いを引き付けていく。・・・
解放の時だ。子供たちが光になる時だ。言葉はなかった。美しい時が子供たちの中を静かに過ぎて・・
いくだけだった。・・・
「かーさん…」・・・
リュリュがキリコの手を握る。美しい静寂にその声が微かに流れる。・・・
「子供たちが光へ…」・・・
子供たちの光が石像の目に吸い込まれていく。光が無数の煌めきを見せる。透明にどこまでも透き・・
通っていく。・・・
「かーさん…。あの子たち、光へ向かったよ…」・・・
そんな光を、リュリュは涙で見ていた。呪いの黒森で仲間だった子供たちが、今、幸せに向かって・・
いく。不幸を背負った子供たち…。悪魔に浚われ自分たちの人生を奪い取られた子供たち…。闇の生・・
活で幼さを失い闇に呪われた子供たち…。子供たちのあの頃の顔が、リュリュの脳裏から光にぼやけ・・
ていく。子供たちの幼さにまったく影すら見えない。・・・
「あの子たちに幸せが訪れるのね…。ようやく、ようやく、幸せが…」・・・
リュリュには見えた。光となった子供たちの表情が、今、一瞬だけ見えた。・・・
「幸せになるんだね…」・・・
ゲタンがいた。喜びの表情がはっきりと見て取れる。泣き虫だったスーもいる。涙は見えない。い・・
い笑顔だ。おしゃべりのシーナ。無口のヤード。おかっぱの幼いミラ。大食いのハンス。ノッポの・・
チャックに小太りデイブ。おしゃまアンもいた。みんな、喜びの希望と未来への思いが明るい表情に・・
見える。本来の幼い無邪気な顔に戻っている。・・・
「よかった。本当によかった…」・・・
光が凝縮していく。子供たちがそれぞれに手を取り合っていく。光が輪になる。子供たちの思いが・・
ひとつなる。美しい光の輪が森に揺れる。光の輪が少しずつ森を上昇していく。・・・
「かーさん…。あの子たち、グリーンアイランドに付いたら会いたい人に会えるのね…。パパやママ・・
が待っているのね…」・・・
リュリュのその言葉にキリコが小さく微笑んだ。・・・
「そうじゃ、あの再会のロビーで再会するじゃろう…」・・・
リュリュは母を強く抱いた。そうしなければ、リュリュの感動は破裂しそうだった。・・・
「あの子たちにも、ようやく未来への扉が開かれたのじゃ…。輝ける未来じゃ…」・・・
光の輪が丸く大きく膨れていく。真っ直ぐに天へ昇っていく。太陽のように輝きをリュリュに送っ・・
てくる。強く激しく、そして、美しく輝いている。無数の色をこぼしていく。・・・
「かーさん…、きれい…。とってもきれいね…」・・・
こぼれた光がアーチを描いた。森の上に美しい光の虹が掛かった。何色にも透き通った子供たちの・・
光が森の上を渡った。・・・
「いこう、かーさん!」・・・
リュリュとキリコはその虹を目指した。子供たちが残していった虹だ。子供たちの光が虹を遠ざ・・
かっていく。リュリュは虹を昇った。そして、光に遠ざかる子供たちに言った。・・・
「グリーンアイランドで待ってるね…」・・・
虹からも無数の光の雫がこぼれた。それが、日の光にクロスして光を無限に見せていた。・・・
・・・
・・・
笛吹きは川原に一人佇んだ。誰もいない。一人空を見上げていた。女とクラーラが消えていった空・・
をずっと眺め続けていた。・・・
虹が遠くに見えてきた。遥か彼方の空にそれは見えた。笛吹きは立ち上がった。虹があまりにも美・・
しかった。虹に掴まりたい衝動が笛吹きを一瞬に包んでしまった。笛吹きは走った。虹へ向かった。・・
虹を追いかけた。・・・
「ウオー!」・・・
アールガルズを超えた。森を抜けた。黒く尖った山を飛んだ。しかし、虹には近づけない。・・・
「ウオー!」・・・
再び、森に立った。何度も叫んだ。風がどういう訳か笛吹きにも心地よかった。始めてだった。こ・・
んなにも爽やかな風を感じたことはなかった。笛吹きは風に向かった。心が軽く胸が熱くなっていた。・・・
「ウオー!」・・・
風は虹の方角から吹いていた。笛吹きは走った。風に向かった。虹に向かった。・・・
「ウオー!」・・・
何度も叫んだ。何度も躓いた。何度も転んだ。しかし、その都度、笛吹きはすぐに立ち上がった。・・
懸命に走った。虹へ向かった。なぜか、心に喜びが溢れていた。風が自分にも心地よく吹いたことに・・
感動したのかも知れない…。虹へ走る自分が転んでも立ち上がったことに喜びを感じたのかも知れな・・
い…。とにかく、笛吹きは風に走った。転んでも起きあがった。・・・
「ウオー!」・・・
虹に、追いつけなくてもいいと思っていた。いや、追いつけるはずがないと思っていた。届かぬ虹・・
でいい…。見果てぬ夢でいい…。笛吹きは走った。・・・
「ウオー!」・・・
アールガルズを過ぎた。虹がどんどん近くなった。もしかしたら…。虹を本当に掴めるかも知れな・・
い…。そんな思いが笛吹きに昇った。何度転んでも起きあがった。今まで、そんなことはなかった。・・
転べばそのままだった。立ち上がったりしなかった。・・・
「ウオー! ウオー!」・・・
嬉しかった。躓き転んだ自分が、何度も、何度も、立ち上がった。心が震えた。虹がますます近く・・
になる。手を伸ばせば届きそうになる。・・・
「おっちゃん…」・・・
虹から聞こえた。とうとう笛吹きは虹に追いついた。今までなら届かぬ夢だったろう…。しかし、・・
笛吹きは虹に辿り着いた。・・・
「リュリュ…。おれも、その上に昇ってもいいか…」・・・
虹に手をかけようとした。しかし、笛吹きはリュリュの返事を待った。・・・
「おっちゃん…。上っておいでよ…」・・・
笛吹きは、虹だけではなく何か大切なものを掴んだ気がした。信じられなかった。今までどうして・・
も手が届かなかった何かを、今、この手で掴んだ気がした。・・・
「ウオー!」・・・
喜びが重なった。笛吹きは舞い上がった。我を忘れた。・・・
「リュリュ…。ありがとう…」・・・
虹をゆっくり昇った。そして、リュリュの側に静かに座った。・・・
「子供たちは未来へ旅立ったよ…。とっても明るい未来へ…」・・・
笛吹きの瞳に涙が昇る。虹の上は暖かかった。・・・
「あの子たちに、ようやく幸せが来るんだ…。あたし、嬉しくって、嬉しくって…」・・・
リュリュが空に光る遠くの光を指さした。あの子たちの光だった。光は空の果てに消えようとして・・
いた。・・・
「すまん…。リュリュ…」・・・
心が痛かった。真実の痛みだった。笛吹きはリュリュに詫びた。涙が頬を滑った。・・・
「いいのよ、おっちゃん…。おっちゃんに悪魔は無理だったのよね…」・・・
子供たちの光が空に消えた。虹の上に風が止まった。・・・
「グリーンアイランドで待ってるね…」・・・
時がゆっくりと流れる。あまりにも緩く流れる。・・・
「畑をあんたにやる。カボチャや芋の生命を愛してやってくれ…」・・・
キリコが虹を滑った。リュリュが立ち上がった。・・・
「さよなら、おっちゃん。カボチャたちをお願い…」・・・
リュリュも虹を滑った。虹の上に風が戻ってきた。笛吹きはその風を見た。白い透明な風だった。・・・
・・・
・・・
空間を落ちながらロキは幻覚を見ていた。いや、過去を見ていた。暖かい光に覆われてロキはムー・・
にいた。静かなる落ち着きがロキの意識を暖かく包んでいた。・・・
ムー大陸は美しく暖かい大陸だった。神の庇護を受け続けた太陽の都市だった。ロキは幼い頃の・・
日々へと自然に流されていた。・・・
-ロキよ。神様は、海の向こうにいるのだそうだ。そして、あの太陽の彼方にもいるのだそうだ。こ・・
の大陸は、神に守られた国なんだそうだよ…。・・・
兄の声が優しく耳元に聞こえていた。暖かい昼下がりだった。・・・
-兄さん。神様は、いつまででもぼくたちを守っていてくれるのかなあ…。・・・
ロキは兄に聞いた。ロキにとって気になることだった。・・・
-そうだ、いつまででも守ってくれる。皇帝は、その神様の遣いなんだ…。・・・
仲のいい兄弟だった。そして、ムーは平和だった。・・・
-兄さんは、この大陸の皇帝になるんだ。そして、ぼくは、兄さんに逆らう奴らを倒してやる。いつ・・
までも、ぼくが兄さんを守ってあげるから…。・・・
兄は好きだった。優しかった。・・・
-ありがとう…。ロキ…。・・・
幼い思い出がロキに鮮明に蘇っていく。ロキの意識に、次々と走馬灯のように浮かび上がっていく。・・
ロキは沈んだ。自らの思いに深く沈んだ。・・・
-海に行こう。ロキ…。・・・
-うん、兄さん…。・・・
すっかり忘れていた、透明な時だ。ロキは落ちていく空間に透明な時を探し続けた。・・・
-母さん…。父さん…。おやすみなさい…。・・・
いつも、先に母さんがキスをしてくれた。父さんの髭が痛かった。・・・
-父さんは、いつ帰ってくるの…。・・・
-また、戦いが起こったの…。いつか帰ってくるかは分からない。無事を祈りましょう…。・・・
母さんはよく泣いていた。父さんが戦いから帰ってきたら泣いていた。・・・
-父さんが、殺された…。・・・
-……。・・・
平和なムーに幾度目かの戦いが戻った。兄が皇帝になった。・・・
-殺せ! 皆殺しだ!・・・
-やめろ! ロキ!・・・
敵を斬った。ムーを守る一心だった。・・・
-恨みを残す! 殺せ、殺せ。すべて、切りまくれ!・・・
-やめるんだ! ロキ!・・・
背中に激しい痛みが走った。振り返った。その時、双頭の竜がいた。青い闇を抱いていた。・・・
-ロキ、この国は滅ぶ…。我に続け…。・・・
竜の光を追った。馬鹿な…。ロキは目覚めた。アールガルズへ風を起こした。・・・
・・・
・・・
ペリポラーの嵐が去った。空間に光の残骸が遠くにまで散らばっている。・・・
-ミルダとやら、お前のお陰で、我々のいにしえの過去が我々に蘇った…。・・・
-ひとつになって闇を越えた時のことが、我々の脳裏に鮮明に蘇った…。・・・
-礼を言わねばならん…。・・・
ミルダは眠りにあった。眠りのままペリポラーの語りに耳を傾けていた。・・・
-我々は闇に闘った。光へと戻るための戦いだった…。・・・
ペリポラーのそれは呟きに近かった。引き続き吹くホワイトアイランドからの風に呟きをゆるりと・・
流しているようだった。・・・
-戦いの連続だった。瞬時瞬時が争いだった…。・・・
-大宇宙は、我々に厳しかった。そして、非情だった…。・・・
語りが少し早くなる。呟きが大きくなる。ペリポラーが揺れる。・・・
-大宇宙の片隅の空間には、我々のような光が数多くいた。まったく波動の異なる光たちだった…。・・・
-我々は、そんな光たちと闘った。闘う毎に、傷ついていった…。・・・
-我々は、その戦いを理解していなかった。その頃の我々には、攻撃的な本能は持ち合わせていな・・
かったのだ。つまり、我々は、非常に弱かった…。・・・
ペリポラーの揺れが眠りのミルダにまで届く。ミルダは微睡みに向かった。ペリポラーの語りがな・・
ぜか心地よい。・・・
-他の光たちは、狂気の固まりだった…。・・・
-そう、今のブルーアイランドのようだった…。・・・
-我々は、ずたずたに傷ついていった。光が蝕まれていった。光が歪んでいった。光が軋んでいった。・・
光が色褪せていった…。・・・
ミルダの微睡みに、ペリポラーの光が見えた。双頭の竜が四つの目でミルダを覗き込んでいる。・・・
-そのうちに、我々も、その狂気を身につけていった…。・・・
-当然のことだった。そうしなければ、空間で生き延びることすらできなかった。光として、存在す・・
ることすら叶わなかった…。・・・
-我々は、狂気を手に入れた。狂気で、強く強く結びつき合った。我々は、ひとつなった…。・・・
ペリポラーがミルダを大きく揺らした。ミルダは微睡みを素早く抜けた。・・・
-我々は、厳しい戦いの中でも未来を信じ続けていた。未来への希望を持ち続けていた…。・・・
-そうなのだ…。我々の光は、我々の魂の葛藤の中から生まれたものなのだ…。・・・
ペリポラーが熱くなっていく。ミルダの目覚めに熱いものが降り注ぐ。・・・
-我々は成長へと向かう。宇宙の闇すら超えてきた我々だ。どんな困難、試練があっても、それは乗・・
り越えてみせる…。・・・
-成長こそ喜びなのだ。至高の輝きなのだ…。・・・
ホワイトアイランドのからの風が更に緩やかになる。ミルダは風に揺れた。ペリポラーに揺れた。・・・
-見よ、この姿を…。我々の光を…。・・・
-我々は蘇ったのだ…。・・・
語りに果てしない力を感じる。ペリポラーの力が光の中に漲っていく。・・・
-ミルダとやら。ホワイトアイランドへ伝えて欲しい…。・・・
-我々は、再びひとつとなった。ホワイトアイランドの風に、我々の心が熱くなった…。・・・
-素晴らしいエネルギーだった。遥かなるパワーを感じた。ホワイトアイランド…。そして、懐かし・・
風だった。いい風だった。礼を言ってくれ…。・・・
語りがますます早くなる。ミルダは言葉を挟むことができなかった。・・・
-ホワイトアイランドの思いはよく分かった…。・・・
-愛の光を見失うな…。それは、よく分かった…。・・・
-しかし、我々の光には、闇に培った狂気という光がある…。・・・
-我々が、我々の正当の光としている輝きだ。ホワイトアイランドが愛でひとつになった光ならば、・・
我々は狂気という最強の光で結ばれているのだ…。・・・
-我々の光の中に、愛の光が存在しているかは分からない。しかし、我々も、ホワイトアイランドの・・
ひとつの光だったことは、理解することができた…。・・・
-更に、我々も、君たちの光と共に成長への道を進んでいったも分かった。ホワイトアイランドの風・・
に、はっきりとその過去に気づいた…。・・・
-我々も、すべてのアイランドの一部だ。いつかは、ひとつの光になる日も来るかも知れない…。・・・
-しかし、我々には、狂気という輝きがある。我々の成長の過程で手に入れた光だ。我々を去ること・・
はないだろう…。・・・
-そう、繰り返すが、我々は、狂気という輝きを正当な輝きとして持っているのだ。ホワイトアイラ・・
ンドの愛の光のように…。・・・
ここで、少し間が空いた。ペリポラーの揺れが収まっていく。・・・
-我々に、愛の光が残っているならば、いつかは狂気さえ愛の光が包んでくれることだろう…。・・・
-また、我々に、愛の光が跡形もなく消え去っていたならば、狂気こそ、我々の未来への正当な光と・・
なっていつまでも輝き続けていくことだろう…。大宇宙の片隅で出会った、あの数多くの光たちがそ・・
うだったように…。・・・
-ブルーアイランドは病んでいる。彼らに、正しい道を示してやるのだ…。・・・
-無知故に、物質という低速な波動にしがみついているだけなのだ。彼らを、光へと誘うのだ。狂気・・
の光へ…。あるいは、愛の光へと…。・・・
-ブルーアイランドへ、未来を投げかけてやらなければならない…。・・・
-このままだと、ブルーアイランドは、破滅へと向かって行く。我々の成長へ、ますます影を暗く落・・
としていくのだ…。・・・
-我々も、目的は違えど、ホワイトアイランドのようにブルーアイランドの成長を願っている。ブ・・
ルーアイランドの成長なしには、我々は前に進めない。我々の成長のために、ブルーアイランドは見・・
捨てることはできないのだ…。・・・
-その道は我々が築いた。物質からの解放の道だ…。死を越えていく道だ…。それは、狂気の光でも・・
よい。愛の光でもよい。とにかく、ブルーアイランドを物質の波動から解放するのだ…。・・・
また、間が空いた。ミルダはホワイトアイランドの風に乗った。ペリポラーの思いもその風に乗っ・・
ていると思った。・・・
-されど、されどだ…。・・・
-我々は、再びひとつの光に結びついた…。・・・
-思いがけないことだった。我々の太古の時代の扉が開かれたのだ。ブルーアイランドと我々とが遭・・
遇した時代だ。あの頃、我々の光が蘇ったのだ…。・・・
-そこに、愛が見えたような気がした。我々は踊った。ホワイトアイランドの風に舞った…。・・・
-そして、我々はひとつになった。そこには、愛があったのか…。・・・
-我々の光が、揺らぎ始めている。長い時を正当に思っていた光…。そして、今、再び結びついた時・・
の光…。それぞれの光の意味を、知る必要が我々に生じたのだ…。・・・
-我々の本当の光の色を確かめなければならなくなったのだ…。・・・
-言い換えれば、狂気の光が、ホワイトアイランドの風にぐらつき始めたのだ。ホワイトアイランド・・
の風に、愛を感じたのかも知れないのだ…。・・・
-そのために、我々は旅に出る。光の確認だ…。我々に最も重要なことだ。光の意味を知らずに、未・・
来への成長などあり得ない。・・・
-ホワイトアイランドよ、もう一度礼を言おう…。我々に、新しい疑問を投げかけてくれた…。我々・・
の成長に欠かせないことだ…。・・・
-我々は、もう一度、大宇宙の果てしない闇の中へ身を晒してみる。宇宙の闇の中で、我々の本当の・・
光を確認する。本当の光を見い出すのだ…。・・・
-ホワイトアイランドは、成長へと向かった。旅先に、どんな苦難の道も覚悟の上だったはずだ。そ・・
うなのだ、我々も、ホワイトアイランドのように成長への道を進むだけなのだ…。・・・
-我々の光に愛の光が残っているならば、大宇宙の闇を、今度は愛の光でひとつになって越えること・・
ができるだろう…。我々は、このアイランドに狂気を落とした。それは、成長の過程なのか…。それ・・
とも、成長の結果なのか…。分からない。我々には分からない…。・・・
-そのために旅に出る。宇宙の果てへと…。成長の旅へと…。いや、光の確認の旅へと…。・・・
-ミルダとやら、また会おう…。会えるであろう…。・・・
ペリポラーが再び回転を始めた。嵐を呼び戻していく・・・
-ホワイトアイランドよ、また会おう…。会えるであろう…。・・・
瞬時に嵐が起こった。激しい風に双頭の竜が天に蘇った。ペリポラーがミルダより去った。・・・
「……」・・・
ミルダに吐息が漏れた。ミルダはペリポラーを追うことはできなかった。ホワイトアイランドの風・・
も、ペリポラーの熱い思いを止めることはできなかった。双頭の竜は宇宙の果てへと向かった。自ら・・
の嵐を越えホワイトアイランドの風をも越えていった。・・・
「……」・・・
ミルダは吐息と共に空間に立ち尽くした。ペリポラーの去った跡には何も残っていなかった。・・・
・・・
(5)・・・
・・・
ロキの中から何かが消えていった。双頭の竜の行き先は知らない。もう、どうでもいいことだった。・・
関わりのなくなったものであった。・・・
「ロキ…」・・・
そんなロキに懐かしい響きが流れ込んだ。ロキは声のした方へ振り返った。・・・
「兄よ…」・・・
双頭の竜は消えた…。そんな思いが二人の間にしばらく揺れた。・・・
「ロキよ。弟よ…。あの時、お前を斬ったのは竜の光だった。私は、それを知った。竜の光との別れ・・
に、それを知った。あの時の大男に、竜の狂気の色が揺れていた…」・・・
それは、既にロキにも蘇っていた。あの時の青い影はおれを利用した。皇帝への恨みをあの光が生・・
んだのだ。・・・
「双頭の竜は、私には狂気の色を見せなかった。私の記憶が、鮮明に蘇った…。あの時、お前を後ろ・・
から斬った大男と、竜の光はまったく同じ色だった。狂気の色だった…」・・・
懐かしすぎる。兄の優しさだった。ロキは言葉に詰まった。不覚にも心が微かに揺れていた。遥か・・
いにしえのムーの皇帝がロキにくっきりと蘇っていく。・・・
「兄よ。皇帝ラ・ムーよ…」・・・
ムーの時代の兄と弟は静の空間で相対した。黒く尖った山での一瞬のすれ違い以来だ。二人は少し・・
ずつ近づいた。・・・
「ロキ、私は旅に出る…」・・・
ラ・ムーが言った。互いの思いは見えていた。双頭の竜は消えた。それだけだった。・・・
「自らを、見つめ直す時が必要のようだ…」・・・
ロキは兄に背を向けた。これ以上、話すことはなかった。ロキは振り返らなかった。・・・
「さらば、皇帝ラ・ムーよ…。いつかまた会おう…」・・・
兄に弟は別れを告げた。兄の微笑みが少しだけ弟の意識に残った。・・・
・・・
・・・
虹から降りた笛吹きは夢見心地だった。心軽くアールガルズの街へ向かった。・・・
「命を愛してやってくれ…」・・・
笛吹きの脳裏に、キリコが言った言葉が何度も繰り返されていた。そんな言葉を聞くのは始めて・・
だった。美しい言葉に思えた。その意味を考え続けていた。・・・
「命を愛してやってくれ…」・・・
久しぶりに笛を吹きたくなった。今までのパートナーだ。自分の変化にパートナーも気づいてくれ・・
るかも知れない。・・・
笛吹きは縦笛を手にした。愛しい手触りだ。数々の過去が黒い縦笛に浮かび上がっていく。縦笛が・・
何かを語りかけてくる。・・・
友達だった。家族だった。そして、自分の分身であった。笛吹きは歩を止めた。静かに目を閉じた。・・
心を静めた。・・・
「プイー、プイー…」・・・
いい音色だ。今日は音が澄んでいる。笛吹きは歩みを戻した。目を開けた。沈めた心が自らの音色・・
に揺れる。・・・
「プイー、プイー…」・・・
アールガルズの街に入る。笛の音は変わらずに軽く爽やかだった。パートナーは笛吹きの変化を・・
しっかりと掴んでいた。音が風の中へ自然と交わっていく。笛吹きはアールガルズを歩いた。ネズミ・・
たちがいつの間にか寄ってきている。小さな声が笛吹きの後ろに続く。笛吹きは続けた。ネズミたち・・
を音色に誘った。・・・
「プイー、プイー…」・・・
楽しいことだった。こんなにも、笛を吹くことが楽しいものだ思ったの始めてだった。生きている・・
という喜びとはこのようなことなんだろうか…。笛吹きの胸が熱くなっていく。笛も喜んでくれてい・・
る。気持ち良さそうに音を空へと流していく。笛吹きは小さな幸せを感じていた。胸に爽やかな風が・・
流れ込む。・・・
「プイー、プイー」・・・
奏でる曲を変えた。道化師の曲だ。懐かしいネズミ捕りの歌だ。一からやり直したかった。できる・・
ものならば、あの白い石の都市へ戻ってみたかった。・・・
「プイー、プイー」・・・
いい演奏だった。自分でもそう思った。音が澄んでいた。胸の軽さが音にリズムを乗せていた。ネ・・
ズミたちも楽しんでいるだろう…。・・・
「プイー、プイー」・・・
そのまま、川原に出た。笛吹きはむかしを思い出していた。あの頃、水の中に入るはどうしても好・・
きになれなかった…。あの頃の川の水はやけに冷たかったような記憶がある。だから、笛吹きは振り・・
返った。笛に付いてくるネズミたちに言った。・・・
「今日は、川へは入らないよ。川へ入ったら死んじゃうからね…。ハハハハ…」・・・
振り返ったところに、信じられないことが起きていた。笛吹きは驚きに目を大きく開いた。笛の音・・
が止まる。・・・
「ホ、ホ、ホ…」・・・
奇妙な声が笛吹きから漏れた。笛の音に付いて来ていたのはネズミたちだけではなかったのだ。大・・
勢の小鳥たちも一緒だった。・・・
笛吹きの目から大粒の涙が溢れ出た。小鳥たちが笛吹きの周りを飛び跳ねる。小鳥たちが思い思い・・
の歌を歌い出す。・・・
「そうか、お前たちも、この笛に付いてきてくれたんだな…。ありがとう…」・・・
小鳥たちの歌が大きくなる。笛吹きも笛を合わした。ひょこひょこと小鳥たちが踊り出す。・・・
「そうか、踊ってくれるか…。歌ってくれるのか…。ありがとう…」・・・
小鳥たちは素直だった。笛吹きを囲んで楽しそうに嬉しそうに踊る。・・・
「プイー…。プイー」・・・
その日の笛の音は、笛吹きにとって生涯一番の音色だった。笛吹きも踊った。小鳥たちと一緒に・・
ひょこひょこと踊った。・・・
「プイー…。プイー」・・・
その歌は長く長く続いた。笛吹きの涙はいつの間にか乾いていた。・・・
・・・
・・・
木漏れ日が降り注ぐ。優しい風が光に絡む。葉擦れの音が心地よい。小鳥たちだろうか、どこか遠・・
くで歌っている。・・・
「暖かいや…」・・・
明るい森の午後だ。木々たちの静かな息づかいが森に漂っている。多すぎるほどの木漏れの光が、・・
琥珀に輝き地面へと消えていく。地面にその跡が黄金に残り、次の光を待っている。青い草がその恩・・
恵を全身で受け止めている。・・・
「暖かいや…」・・・
枝に落ちてくる光の姿が目まぐるしく変わっていった。ゆらりと光が森の中を駆け巡る。いくつか・・
の小さな淡い光だった。光は陽炎のように、細かく細かく揺れながら草に絡まっていく。優しく草を・・
撫ぜ、静かにその周りに踊る。花から花へ移っていく蝶のようだ。・・・
「暖かいや…。そして、静かだ…。ここは、いったいどこだろう…」・・・
ひとつの淡い光が目覚めようとしていた。少し色が濃くなっていく。森の時が光に寄った。光の時・・
が動き始める。・・・
「身体が軽いや…。空を飛んでいるのかな。心地よい風だよ。このまま、風になっていたいな…」・・・
淡い光は風に乗った。森を心地よく流れた。・・・
「いい心地だ…。いつ以来だろう、こんないい気持ちは…。それにしても静かだな。ここは、どこな・・
んだろう…」・・・
光は揺れた。細かく細かく揺れた。風が光をくすぐっていた。・・・
「揺れている。どうしてなんだろう…。なぜ、揺れているんだろう…。楽しい気分だよ。踊っている・・
んだ、きっと…。楽しいや。ハハハハ。踊っているんだ…」・・・
遠くの小鳥の声が、近くに流れる小さな瀬音と重なった。その音が故郷の歌のように聞こえる。い・・
つか聴いた歌に聞こえる。・・・
「すげー、光が上から降ってるや…。物凄い数の光だよ。暖かいや…。気持ちいいや。光の洪水だ。・・
ハハハハ…」・・・
光の揺れが止まった。光に目覚めの時が来た。・・・
「生きている。おれは、生きている! 楽しいや!」・・・
・・・
・・・
「生きているぞ!」・・・
ゲタンの叫びが静かな森の中に響いた。その声に小鳥が驚いて飛び立った。微かな羽音が静けさか・・
ら遠ざかった。・・・
「みんな、いるか」・・・
ゲタンは完全に目覚めた。全身に溢れるほどの力が漲っている。拳を握り強く振った。風を切る手・・
応えを拳に感じたかった。・・・
「ゲタン!」・・・
ミラがいた。幼いミラが手を振っている。こぼれる笑顔で両手を振り回している。・・・
「ミラ! よかったな!」・・・
子供たちがグリーンアイランドの森に着いた。光の空間を飛び越え、淡い光となって森へ着いた。・・
白い石の都市から余りにも遠すぎる道のりだった。・・・
「みんないる! あたしシーナ!」・・・
「あたしはアンよ! みんな一緒ね!」・・・
次々に子供たちが目覚めていく。喜びの歓声が上がっていく。・・・
「スーだ! ヤードと一緒だ!」・・・
「オー! こっちはチャックにデイブ!」・・・
「おれはハンス。ここにいるぜ!」・・・
所々から威勢のいい目覚め声が上がる。どうやら全員無事のようだ。・・・
「生きているぞ!」・・・
「ヤッホー!」・・・
「魔界を、出たんだ!」・・・
「ヤッホー!」・・・
子供たちは嬉しさを全身で表していた。森を跳ねた。土を蹴った。木に登った。それぞれが、じっ・・
としていられないようだった。・・・
「生きているんだ! なぜって?」・・・
ゲタンがみんなに言った。あの時のかけ声だ。始めてあの黒森を出ようと思った時の叫びだ。みん・・
ながそれを忘れているはずがない。・・・
「それは!」・・・
子供たちの声が揃っていく。ひとつの笑顔が幾つもの笑顔にぶつかっていく。・・・
「それは!」・・・
みんなが手を繋いだ。子供たちが丸くひとつの円になる。・・・
「それは! 生きているからだ!」・・・
子供たちが飛んだ。輪のままで、何度も、何度も、その場で飛び跳ねた。・・・
「ヤッホー!」・・・
・・・
・・・
自分たちはホワイトアイランドの光だったのだ。ひとつの輝く光だったのだ。ホワイトアイランド・・
の光の中は愛で満ち溢れていた。ミルダはそんな自分たちを美しいと思った。・・・
我々は愛の光だった。ひとつの光だった。ミルダはホワイトアイランドでそのことをはっきりと理・・
解した。過去の美しい時がミルダの光に蘇った。ミルダの心には、その遥かなる過去の震える興奮が・・
今でも残っている。・・・
しかし、再び、自分たちにそのような時が来るのだろうか…。無数の光たちがひとつの方向へと向・・
かう時が来るのだろうか…。ミルダはひまわりの群生へ続く丘でそれを考えていた。ひまわりの香り・・
を含んだ風がミルダの頬に優しい。・・・
ミルダはホワイトアイランドと溶け合った。そして、自らの成長をホワイトアイランドに残した。・・
その成長、その経験は、今後ホワイトアイランドが共有していく。ホワイトアイランドの光たちがそ・・
れぞれの未来の糧にしていくのだ。・・・
それを残して、ミルダは再びホワイトアイランドを発った。それは、ミルダ自身が望んだことだっ・・
た。ホワイトアイランドとの別れは辛くなかった。ひとつの光…。その意味の理解がミルダに確立さ・・
れていた。・・・
ミルダは丘を登りきった。視界にひまわりの色が拡がる。ミルダの頬に笑みが浮かぶ。キリコや・・
リュリュの顔が浮かぶ。あの老人の顔も浮かぶ。ミルダはゆっくり丘を降りる。思いが再び自分たち・・
の光に向く。・・・
自分たちのアイランドを変えていくのは大変なことだろう…。魔界やブルーアイランドから欲望や・・
狂気をぬぐい去るのは容易なことではない…。・・・
しかし、たったひとつの光にもできることはあるのだ。ミルダはそれをホワイトアイランドで学ん・・
だ。ホワイトアイランドの風にそれを知った。・・・
人々に光を取り戻させることだ。苦しみの人たちや、悲しみの人たちに、愛の光を取り戻させるこ・・
とだ。我々はひとつの愛の光だった。どんな人たちにもその光は消えていないはずだ。愛の光は微か・・
でも、いにしえの時の残り香を燃やし続けているに違いないのだ。・・・
ひとつだったころの自分たちにあったものは愛の光だけだった。愛の光が自分たちの存在であり、・・
その姿であり、エネルギーそのものだった。・・・
愛は理解によって生まれる。お互いを理解しようという時に生まれる。それは、小さな小さな輝き・・
にすぎない。しかし、その小さな輝きが自分たちを支えてきた力なのだ。存在の源なのだ。魂の波動・・
なのだ。光のあり方なのだ。理解のないところに愛は生まれない。そして、愛のないところに光は輝・・
かない。・・・
ホワイトアイランドの光たちは、その無数のひとつひとつの光を果てしなく理解していた。お互い・・
にひとつひとつ無限の繋がり合いで輝いていた。それは、理解を超えた美しい輝きだった。すべてを・・
超えた愛の輝きだった。ホワイトアイランドの光たちは、それぞれの愛を共有し吸収し大きく成長し・・
ていった。・・・
理解を超えた愛は、共有することのできる輝きとなる。お互い、誰もが自由に感じ、受けとめ、発・・
することができる光となる。そして、そのことは更に光に強い結びつきを生じさせる。そうして、光・・
は大きくなる。美しくなる。・・・
そうなのだ。愛を取り戻すことだ。自らをもっと深く理解することだ。そうすれば、自分の中の愛・・
が見える。光が見える。そして、他の者へもその愛が揺れていく。理解を始める思いが生まれていく。・・
その思いだ。その思いを人々に蘇らせる。それが、自分たちの未来に繋がっていく。光への道へ誘っ・・
ていく。・・・
ミルダは丘を降りた。その時、ひまわりに埋もれているキリコが見えた。キリコは再び老婆に戻っ・・
ていた。ミルダの頬が更に緩んだ。ミルダの足が速くなった。・・・
・・・
・・・
「やっぱり、ここにいた…」・・・
ミルダはキリコの肩を叩いた。ひまわりの香りが濃く揺れている。・・・
「おばば…」・・・
キリコがミルダに振り返った。キリコの笑顔が弾けた。皺が一度に倍になったように見えた。やは・・
り、おばばは老婆が似合っている。・・・
「おー、旅のお方じゃ…。ハハハハ…」・・・
キリコがミルダに抱きついた。キリコの臭いが懐かしい。・・・
「来てくれたのか、ミルダ! ありがとう! ありがとう!」・・・
キリコの喜びようが異常なほどだった。ミルダの顔を舐めんかの勢いだ。・・・
「あの子たちが、もうすぐひまわりに入ってくるのじゃ…。子供たちが魔界を出たのじゃ…。わしゃ、・・
嬉しくてたまらんのじゃ…」・・・
キリコの嬉しさがミルダにも真っ直ぐ伝わった。互いに魔界を闘った者同士だ。キリコの嬉しさが・・
ミルダにも嬉しい。・・・
「ありがとう、みんな来てくれたのね! 本当にありがとう!」・・・
リュリュの声だった。それは、ミルダだけへの声ではなかった。よく見ると、ぞろぞろと幾人かが・・
ひまわりに埋もれている。・・・
「ありがとう、みんな来てくれたのね! 本当にありがとう!」・・・
リュリュの声が大きく弾んでいた。その声がミルダにとってまた嬉しい響きだった。・・・
・・・
・・・
「ありがとう、みんな来てくれたのね! 本当にありがとう!」・・・
リュリュは何度も何度も繰り返した。リュリュは嬉しかった。みんなが来てくれた…。たまらなく・・
嬉しかった。・・・
「嬉しくって、じっとしていられないの。嬉しくって嬉しくって!」・・・
パジーがいた。パパとママに寄り添っていた。リュリュはパジーを抱いた。パジーは少し大人っぽ・・
くなっていた。・・・
「リュリュねーさん。わたし少し大きくなったよ…」・・・
パジーがリュリュに微笑む。少し背伸びしている。・・・
「あたし、ママのお料理を、いっぱい食べたの…」・・・
パジーを抱いた力に思わず力が入った。ほんと、大きくなったね…。・・・
「おれも、少し大きくなったぜ…」・・・
パジーの後ろにカッペもいた。リュリュはカッペも抱いた。カッペの頬にキスした。カッペも大き・・
くなっていた。男らしく成長している。・・・
「みんな、来てくれたのね…。ありがとう…」・・・
カッペの側にジーニョがいる。ジーニョも背が高くなっている。笑顔の幼さが光に輝いている。・・・
「ジーニョ、元気だった…」・・・
ジーニョがその場で飛び上がる。元気なところをリュリュに見せている。・・・
「当たり前だよ。おれは元気だぜ…」・・・
ジーニョがリュリュの手を握る。力強くなった腕をリュリュに誇る。・・・
「みんなが魔界を越えてきたんだ…。おれたちの仲間だぜ! 仲間が、グリーンアイランドに来るん・・
だ。おれ、じっとしていられなかったんだ…」・・・
ジーニョの言葉が終わらぬうちに、チェナがリュリュの背に飛び乗った。小さな胸の膨らみがリュ・・
リュの背を刺激した。・・・
「そうよ、わたし、みんなに会ったら一人一人にキスしてあげるの…。わたしの魅力に、みんなタジ・・
タジになっちゃうわ…」・・・
チャナが戯けてみせる。チャナの喜びがリュリュに届く。・・・
「よく言うよ…」・・・
リュリュはジーニョも抱いた。チェナも抱いた。喜びが爆発していく。・・・
「みんな、ありがとう…」・・・
それぞれの笑顔が、ひまわりにどこまでも煌めいていく。その中にクラーラもいた。クラーラの母・・
もいた。親娘は手を繋いでいた。・・・
「クラーラも来てくれたの! ありがとう…。よく来てくれたね!」・・・
クラーラの瞳が潤んでいた。手にカボチャを入れた篭を持っている。・・・
「ママと一緒に作ったカボチャよ…。みんなに食べさせて上げるの…」・・・
クラーラがリュリュに抱きついた。カボチャの香ばしい臭いが、とうとう、リュリュの涙を誘って・・
しまった。・・・
「ありがとう、みんな、本当にありがとう!」・・・
涙でひまわりが霞んでいく。リュリュはそれを拭った。子供たちの姿が涙に霞んでしまってはいけ・・
ない。リュリュは無理に大きく目を開いた。その時、声が聞こえた。・・・
「それは、生きているからだ!」・・・
ひまわりの向こうの森から聞こえた。リュリュは何度もひまわりを飛び上がった。・・・
「それは、生きているからだ!」・・・
生命の叫びにリュリュの涙が堰を切った。・・・
「声が、聞こえるよ! ねえ、みんな、耳を澄ましてごらん!」・・・
涙なんか隠していられなかった。リュリュは言葉を続けた。リュリュの胸は、今にも張り裂ける寸・・
前だった。・・・
「もうすぐよ! あの子たちが来るよ! もうすぐよ! もうすぐよ! もうすぐよ!」・・・
・・・
・・・
「ミルダ…」・・・
老人がミルダの肩を叩いた。ミルダはこの老人が好きだった。なぜか祖父に重なる。キリコといい、・・
この老人といい、ミルダは変わった御仁と縁が深いようだ。・・・
「ミルダ。ホワイトアイランドはどうだった…」・・・
側のキリコが気になるのか、老人が盛んに意識を揺らしている。・・・
「ご存じだったのですか、ホワイトアイランドを…」・・・
老人はキリコをからかっているようだった。老人の微笑みにそれが見える。・・・
「ハハハハ…。お前より、長く生きている。それくらいのことは、知っておる」・・・
「これは、失礼。ハハハハ…」・・・
老人の笑みが揺れる。キリコが老人に何かを言っている。・・・
「ご老人…」・・・
キリコが二人の間に入った。・・・
「ご老人、見て下されリュリュを…。あれが、ご老人が一度だけ情けをかけてくれた結果じゃ…」・・・
ミルダは再び驚いた。キリコと老人…。よく考えれば似合っていた。ただし、リュリュは二人に・・
まったく似ていない。ミルダは楽しくなった。そうだったのか…。キリコと老人が…。ミルダの心が・・
ウキウキと軽くなる。・・・
「わしにも、ホワイトアイランドからお呼びが掛かっているようじゃ…」・・・
老人もキリコをうまくかわしていた。柳のように落ち葉のようにゆらゆらとしている。・・・
「ホワイトアイランドは、いいところです…」・・・
老人が風になった。キリコが老人の腕を掴もうとしている。・・・
「ミルダ。それ以上言うな、わしの楽しみを奪わないでくれ…」・・・
キリコがその声に飛んだ。キリコも風になった。・・・
「ミルダ。また会おう。しわしわのご婦人が、うるさくてかなわんわい。ハハハハ…」・・・
「そのようですね…。ハハハハ…」・・・
ミルダは声に出して笑った。風にキノコの匂いが微かにした。・・・
・・・
・・・
老人をキリコが無理矢理に捕まえた。風から老人をひまわりへ引き戻した。・・・
「キリコ。お前は、どうやら、親子の対面というものを、わしにさせたいようだが。どうも、それは・・
困る…。許してくれ…」・・・
蚊の泣くような声だった。老人が泣きそうになっている。・・・
「照れる柄でもないじゃろう…」・・・
「いや、照れる。そういうのは苦手じゃ。許してくれ…」・・・
キリコに老人が謝っている。何度も頭を下げている。・・・
「ハハハハ…。まあ、いいわい。ご老人が、頭を下げているのに…。まあ、諦めるか…」・・・
「すまぬ…。すまぬ…。本当にすまぬ…」・・・
キリコにその時隙ができた。老人はそれを逃さず再び風になった。・・・
「キリコよ、許せ…」・・・
「ご老人には、適わんわい…。で、どちらへ?」・・・
「ホワイトアイランドかも…」・・・
老人が離れていく。ひまわりに風を創って揺れていく。・・・
「さらばじゃ…」・・・
「ふん、好きにしろ…」・・・
「ハハハハ…」・・・
「ハハハ…。また、逢えますね。ご老人…」・・・
「ああ、逢えるさ…」・・・
老人は消えていった。キリコにだけ涼しい風を残して…。・・・
「又……、逢えますね…………。バカヤロー!」・・・
・・・
・・・
子供たちの叫び声がこちらへと近づく。思いが弾けている。・・・
「自由だ!」・・・
「それは! それは! それは!」・・・
「生きているからだ!」・・・
子供たちの叫びがミルダの心を強く打った。純白に澄んだ汚れのない叫びだった。叫びが子供たち・・
を美しく浄化していく。・・・
「自由だ!」・・・
「それは! それは! それは!」・・・
「生きているからだ!」・・・
声がどんどん近づく。白い蝶が驚いたのかミルダの肩にはらりと降りた。・・・
「それは!」・・・
ミルダも叫んだ。喜びに堪えきれなかった。・・・
「それは!」・・・
リュリュも叫んでいた。これ以上ない笑顔がミルダを振り返る。リュリュが片目を軽く閉じた。・・
リュリュの肩にも白い蝶が乗っていた。・・・
「それは!」・・・
キリコも叫んだ。リュリュのように片目を瞑ってみせた。・・・
「ハハハハ…。おばば、似合わんよ」・・・
残念ながらキリコの肩に蝶はいなかった。ひまわりの揺れが肩越しに見えるだけだった。・・・
「それは…」・・・
叫びがしばらく止む。子供たちが思いをひとつにしていく。・・・
「生きているからだ! ヤッホー!」・・・
声が幾重にも幾重にも重なった。歓喜の叫びがひまわりを駆けていく。・・・
「それは…」・・・
「それは…」・・・
「生きているからだ!」・・・
グリーンアイランドは、その日の午後いっぱい静かな凪が続いた。風が、子供たちの思いをひまわ・・
りから飛ばすことはなかった。・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
(完)・・・
エピローグ(1)・・・
・・・
グリーンアイランドは今日もいい天気だった。青空が目に眩しい。道を行く人々の笑顔が日射しを・・
跳ね返していく。この街は人を優しくする。リュリュとゲタンも笑顔で教会の前を過ぎた。・・・
「おはよう…。リュリュ、ゲタン…」・・・
メアリーの大きな声が聞こえた。教会の二階の窓から二人を見下ろしている。・・・
「メアリーさん。おはよう」・・・
教会には、もうラ・ムーはいない。メアリーが身寄りのない人たちと一緒に暮らしていた。ラ・・・
ムーがそう言ったそうだ。メアリーは、それでも朝一番にラ・ムーの部屋を掃除する。メアリーが顔・・
を出している窓は、ラ・ムーがよくグリーンアイランドを眺めていた窓だ。メアリーは首を長くして・・
ご主人様の帰りを待っていた。・・・
「メアリーさん、後で寄るわ…」・・・
リュリュはメアリーに手を振った。窓の中でメアリーの大きな体が揺れていた。二人の笑顔はよく・・
似た笑顔だった。・・・
教会を過ぎると大通りに出た。人々がそれぞれに今日の朝を楽しんでいる。チェロやオルガンを演・・
奏している者。パントマイムで周りの人を笑わしている者。黒い山高帽子の手品師。とんがり帽子の・・
ピエロ。曲芸の親子。ジャグラーの神業。大通り公園は大道芸人たちの仕事場になっていた。・・・
歓声や拍手が賑やかだ。グリーンアイランドの朝にいい響きを流していく。リュリュは思わず笛吹・・
きを探した。しかし、笛を持った道化師の姿は見えなかった。・・・
「リュリュねーさん、見てごらん。あのピエロをいい顔しているよ。手品師だっていい顔だ。ジョー・・
カーに、バイオリン弾き。みんな、いい顔しているよ…」・・・
ゲタンは何かを感じ始めていた。ゲタンだけじゃない、子供たち全員がグリーンアイランドでの生・・
活に何かを掴もうとしていた。・・・
「そうね、みんな輝いているわ。すてきな表情ね…」・・・
リュリュの心配はまったく無用なことだった。子供たちに思ったより早い浄化が訪れていた。日々・・
の成長が著しかった。・・・
二人は公園のベンチに腰掛けた。木づくりのベンチは座り心地が非常によかった。周りに大きな四・・
つ葉のクローバーが幾つも風に揺れている。リュリュは胸一杯に朝の空気を吸った。心が洗われてい・・
く。清々しさがリュリュを包む。・・・
「おれ、何か始めようと思うんだ」・・・
近くのバイオリンの音がゲタンの言葉に被さった。リュリュはゲタンの肩を抱いた。・・・
「何か、やってみたいんだ…。そうだろう、リュリュねーさん。おれたち、考えてみると、今までし・・
たいことがなかったんだ。うまく言えないけど…。あのピエロのように、自分の生きる意味、と言う・・
か…。そのー。何かなんだ…」・・・
リュリュには、ゲタンの言おうとすることの意味がよく分かった。自分にも思い当たることがある。・・
子供たちは、リュリュが考えているよりずっと成長している。・・・
「そのー、つまり…。生きていることの、証だ…。そう、証…」・・・
ゲタンの言葉がリュリュに素直に流れ来る。ゲタンの思いがそのままリュリュに伝わる。・・・
「自分の生きる道は、自分で決めるんだ。今までのように、流れのままではいけないような気がする。・・
自分の道なんだ。自分で決めないと…」・・・
ゲタンが少し熱くなっていた。リュリュへ思いを吐き出していく。・・・
「みんなとも話したんだけど。これからはひとりで生きていかなくっちゃ。そして、自分の進みたい・・
道を探さなければいけないと思うんだ。間違っていないよな、リュリュねーさん…」・・・
ゲタンの肩を抱いた手に思わず力が入る。リュリュの瞳が潤んでいく。・・・
「その通りよ…。ゲタン」・・・
ゲタンが立ち上がる。軽くターンを切りピエロの真似をする。・・・
「リュリュねーさん、パン食べる…」・・・
そういえば、焼き立てのパンの香ばしい臭いが、リュリュの鼻孔を先程からくすぐっていた。大通・・
り公園名物のクロワッサンだ。リュリュは頷いた。ゲタンが勢いよく走りだす。・・・
リュリュはパンの臭いを楽しみながら午後の予定を考えた。子供たちはもう心配ない。自分がとや・・
かく言うこともなくなった。午後からはジャンのところへ行ってみようかな…。帰っているかもしれ・・
ない…。リュリュは久しぶりジャンの髭を思い出していた。・・・
「はーい、リュリュねーさん…」・・・
ゲタンが駆け足で戻ってきた。焼き立てのパンが手に二つ乗っている。・・・
「おれんち、パン屋だったんだ。このパンと同じぐらいうまかったぜ…」・・・
ゲタンがパンにかぶりついた。目が遠くを見ている。何かを言おうとしている。・・・
「おれ、あのパン屋のおじさんに話してみる。弟子にしてくれって…」・・・
ゲタンがリュリュを真っ直ぐに見た。口の周りにパンの欠片が散らばっていた。・・・
「いいだろう、リュリュねーさん」・・・
悪いはずがない…。悪いはずがない…。リュリュは何か言葉を探したが見つからなかった。・・・
「ゲタン…」・・・
涙を隠したリュリュの視線の先にピエロが何かを演じていた。リュリュはゲタンに微笑んだ。瞳に・・
大きな雫がゆらりと揺れた。・・・
「ゲタン…」・・・
涙でピエロもゲタンも一瞬にして霞んでしまっていた。リュリュは仕方なく空を見上げた。・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
エピローグ(2)・・・
・・・
ミルダとキリコは森の木こり小屋にいた。二人はむかしを思い出しながら、キリコの造った酒を飲・・
んでいた。森の夜は深くなっていた。・・・
「この酒じゃ…。あの時に飲ましてやったのは…」・・・
「うまい酒だ…」・・・
子供たちの石像を二人して土にすべて埋めた。もう、この森に必要ないものとなった。再び悲劇の・・
起こらないようにと、ミルダとキリコの思いが一致したのだった。・・・
「今日は、疲れたわい…」・・・
二人の間には何もなかった。互いに光を理解し合った同士だった。隔てるものは何もなかった。・・・
「あのご老人は、ホワイトアイランドへ行ったのかな…」・・・
「あの老いぼれは、呪いの黒森と呼ばれていた森の木を、ほとんど裸にしてしまったのじゃ…。大馬・・
鹿者じゃ…。ホワイトアイランドとやらは、そんな大馬鹿者も受け入れるのか…」・・・
「ハハハハ…。そうかも知れん」・・・
酒が空になっていた。キリコがミルダに腕を突き出し椀を揺らす。ミルダに注げと言っている。・・・
「リュリュはどうした…」・・・
キリコに酒を注いでやった。そして、自分にも注いだ。・・・
「男の元へ行ったわい…。あれももう年頃じゃ…」・・・
そうか…。ミルダは美しいリュリュを思った。男に微かな嫉妬を覚えた。・・・
「親子の対面は、済んだのかな…」・・・
キリコが嫌な顔をした。首をひとつだけ振った。・・・
「笛吹きに畑を任した。奴さん、老いたばあさんと、楽しそうに土を耕しておったぞ。カルム、カル・・
ムって、ばあさん泣いておったわ…。おふくろさんのようじゃ。あ奴も、変わりよった…」・・・
ミルダは大いに酔っていた。心地よい揺れだった。キリコも揺れている。揺れのリズムをお互いが・・
合わしていた。・・・
「子供たちは、それぞれに何かを始めたようじゃ…。パン職人。大工の見習い。絵の勉強。街の清掃。・・
薬屋の丁稚。酒造りの手伝い。それから、親孝行…。いろいろじゃ…。さすがに、ネズミ捕りの笛吹・・
きになる奴はおらんかった。ハハハハ…」・・・
「そりゃそうだ…。ハハハハ…」・・・
ミルダは表へ出た。酔いが夜風を求めていた。静かな夜だった。・・・
「ノアじゃ…」・・・
小屋から少し離れた位置にオオカミ犬が眠っていた。死がオオカミに見える。ノアは死を迎えよう・・
としていた。ミルダにはそれが分かった。・・・
ミルダはノアに近づいた。不思議な思いだった。生命の巡り合わせの脅威を感じていた。・・・
「ノアは、この小屋で待っておった。随分と、わしを探しておったようじゃ。やつれておった…」・・・
キリコも酒の瓶を持ってノアへ寄ってきた。ミルダに酒を注いだ。・・・
「死んだのは、三日前じゃ…」・・・
そうか、既に、ノアは幻となっているのか…。ノアは物質の肉体の中でキリコとの別れを惜しんで・・
いるのか…。だから、ミルダには死が見えたのだ。ノアはぼちぼち去ろうとしているのだ。・・・
「こ奴、死ぬ前に、わしに訴えおった。わしの腕の中で、静かに語りよった…」・・・
キリコのことだ、オオカミの言葉ぐらい理解できるのかも知れない…。ミルダは黙って聞いた。・・・
「男を喰ったのは、ただの欲望や憎悪ではない。まして、主人を奪われた嫉妬でもない。生命が見え・・
なかっただけだ…。こ奴、死ぬ前に、わしに言い訳しくさった。ハハハハ…」・・・
もう一度、ミルダは首を捻った。酒の廻りが速度を上げていく。・・・
「男の中に魂が見えなかった。ただ肉の塊だった。だから喰った。当然だ。獣の本能だ。うまい言い・・
訳じゃ…」・・・
何となく分かった。おれはあの時、肉体にいなかった…。ノアにすれば預かり知らぬことだ…。・・・
「ノアは、更に付け加えよった…。獣は肉体の死の前に、自らの魂を素早くあの世へと旅立たせる。・・
獣は、自らの肉体の死期を知っている。肉体というものは、この地に暮らすためだけの毛皮だ。人間・・
より獣は死というものを知っている。だから、闇に暮らせる…。そして、死ぬと光になる。無数の仲・・
間が、光の姿で待っている。そんなことを言っておった。ミルダ…。お前さんの戯れ事と、よく似て・・
おったわ…」・・・
酔いが廻るミルダの頭に鋭い電光が走った。強い衝撃がミルダの脳天を駆け抜けた。・・・
「光になる…。おばば! 素晴らしいことだ! 生命は奇跡だ! おばば、酒をくれ!」・・・
二人は小屋へ戻った。その時、ノアが静かに立ち上がった。静かに森へと消えていった。・・・
・・・
・・・
二人はそれからもしたたか飲んだ。ミルダの酔いは意識を故郷へ誘った。キリコは眠そうな目を少・・
女の頃に飛ばしていた。風のない静かな夜が二人には続いていた。・・・
夜もかなり深くなった頃、小屋を誰かが叩いた。風か…。音がしばらく続いた。・・・
「誰じゃ…。こんな夜中に…」・・・
キリコが重い腰を上げた。ノアが戻ってきたのか…。それとも、リュリュか…。・・・
ドアの外に影が立っていた。背の高い白髪の老紳士だった。・・・
「ミルダ…」・・・
影が呟く。紫の光が開いたドアから小屋に流れ込む。影が小屋に入った。・・・
「おばば、リュリュか?」・・・
ミルダは故郷を舞っていた。故郷には祖父の懐かしい声が流れていた。・・・
「ミルダ…」・・・
故郷の声と、それがミルダに重なった。老いた影の目が、紫に小屋の中を舐めた。・・・
「じいちゃん…」・・・
小屋の中に、紫の光が大きくなっていった。ゆっくりとミルダを優しく包んでいった。・・・
・・・
・・


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